第0822日目1/2 〈詩編第120篇:〈苦難の中から主を呼ぶと〉&お汁粉が好きなさんさんかは、ほぼ筋金入りのビートルズ嫌いであったのだが……?〉 [詩編]

 詩編第120篇です。

 詩120:1-7〈苦難の中から主を呼ぶと〉
 題詞は「都に上る歌。」

 偽りと欺きを語る衆がいる。メシェクとケダル、主により与えられた平和を乱さんとする衆。そのそばでわれらは暮らす。どうか主よ、わたしの魂を、われらの魂を、あなたにより与えられた平和を脅かす衆から救い出してください。
 詩120はだいたい以上の内容の詩で、題詞が示すように一種の巡礼歌というてよかろう。この上洛の歌集(詩120-134。〈都上りの歌〉〔ハーレイ〕、〈宮詣で詩集〉〔岩波〕、〈巡礼の歌〉〔ヘルマン〕とも)は小高い丘の頂にあるエルサレムへの坂を登る際、もしくは神殿の庭にて歌われた、というが、一篇一篇が短いのは背景にそんな事情があるからか。それがために、〈なにを歌うか?〉━━テーマは普遍的なものとなり、〈どう歌うか?〉━━表現や技法はシンプルなものとなってゆくのだ。読みやすく、歌いやすく、わかりやすいのはそうした理由あってのことだ。
 では、久々の補註である。
 ○メシェク;小アジア北東部の山岳地帯に住まう民族。「エゼキエル書」32:26他。
 ○ケダル;塩の海(死海)南東部に暮らす遊牧民。「イザヤ書」21:16-17他。
 いずれもイスラエル-レバノン-シリアの南北にフィールドを持つ部族で、詩120が作られた/詠まれた当時、〈平和を脅かす強大な異民族〉として認識されていたのか。なお、「小アジア」は現:トルコ共和国の過半を成す、黒海と地中海に挟まれた半島を指し、首都アンカラを擁すアナトリア高原が半島の2/3強を占める。

 「主はお前に何を与え/お前に何を加えられるであろうか/欺いて語る舌よ」(詩120:3)



 お汁粉を食べ過ぎて、ちょっともたれ気味なさんさんかです。いや、でもお汁粉って美味しいですよね。何杯でも食べられちゃう。
 白玉団子を切らせていたので、亡父の月命日で作った団子を指でちょっと潰して……というハプニングもあったが、数ヶ月ぶりに子供の頃から馴染んだ〈家の味〉がするお汁粉を食べることが出来ました。お汁粉だいすき。栗の甘露煮を入れたお汁粉、食べたいね。
 遂にフシを曲げてビートルズの『赤盤』と『青盤』を聴こうと思い立ち、近所のレンタル店で借りてきました。恒例の半額日だったのでね、ビーチ・ボーイズとAKB48のCDも一緒に借りた(「I love you~,Ineed you~」で始まる歌、なんてタイトルなの?)。
 これまでビートルズには今一つのめり込めなくて、『1』というアルバムで事足りていたのだが、最近どういうわけかビートルズの話題が周囲で頻出するので、なにかの巡り合わせか、と思い、借りてみたわけである。さて、ほぼ筋金入りのビートルズ嫌いは『赤盤』と『青盤』を聴いてなにを思うか? 「詩編」が終わったあとでご報告しよう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0821日目 〈詩編第119篇:〈いかに幸いなことでしょう〉withビル・クロウ・カルテット『さよならバードランド』を買いました。んー、「解説・村上春樹」?〉 [詩編]

 詩編第119篇です。
 題詞は「(アルファベットによる詩)」
 ヘブライ(ヘブル)語のアルファベット順に各連が書き起こされている。かのアルファベットは全部で22あり、各連は8節で構成されるため、22×8=176,という最長を誇る詩篇となった。

 詩119:1-176〈いかに幸いなことでしょう〉
 これは「詩編」のどの詩よりも、否、聖書すべての章に於いても長いものであるから、読む際には息切れしないようにするのが肝心だ。それには最初からゆっくり読むのでなく、二、三回は一気に、途切れることなく読んでしまった方がよい。そうしてから一連ずつ、これまでと同様に言葉の一つ一つを噛みしめながら読み返せばよいのだ。長いゆえにのみでなく、様々な面からもこの詩篇は精読を求められ、精読した分だけ応えてくれる作品である。どうかそういう風にして繰り返し味わってみていただきたい。
 最長を誇りながらも内容は至ってシンプルである。神の律法を讃美し、律法が示す道に従う意思の表明を芯として、それへ肉附けしてゆくみたいに作者は自らの信仰を告白してゆく。作者;彼/彼女は斯く告白する。━━わたしは神の律法を愛し、その教えと戒めに従って道を歩み、主の目に悪と映ることを遠ざけ、それに惑わされません。そうしてわたしを苦しめ、迫害する者に屈さず、いつどんなときでもあなたの御言葉を信じ、それに救いと癒しを求めます。……。
 全176節はいま述べた如きを基調音として、技巧を凝らし、芸術性を損なうことなく編みあげられた、いわば変奏曲である。バッハの《平均率》を〈旧約聖書〉と呼び、ベートーヴェンの32のピアノ・ソナタを〈新約聖書〉と称したE.フィッシャーの言を意識にのぼせていえば、この詩119は《ゴルドベルク》や《ディアベリ》に比肩する、文学的意味合いでの変奏曲の金字塔と捉えてよいだろう。
 さあ、では、わたくしからは以上としよう。本ブログが「詩編」に入って以来、何度か、是非本文にあたっていただきたい、とお願いしてきたが、その希望を今日程激しく、強く、痛烈に思うたことはない。頼む、読者諸兄よ、どうか一時(いつとき)の煩を厭わずに━━。

 「主よ、御救いをわたしは望みます。/あなたの律法はわたしの楽しみです。/わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。/あなたの裁きがわたしを助けますように。/わたしが小羊のように失われ、迷うとき/どうかあなたの僕を探してください。/あなたの戒めをわたしは決して忘れません。」(詩119:174-176)



 T/Rにてビル・クロウ・カルテット『さよならバードランド』を購入、決め手は帯にあった「解説・村上春樹」の文字。が、村上氏はアーティスト紹介の短文を書いた、というのが正解です。でも、演奏は抜群に良いですよ。①タイトル曲や⑦〈ジャスト・フレンズ〉はいいな。しばらくはCDトレイへ載っていることになるであろう、今年最初の<大当たりCD>であるのは間違いなし。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0820日目 〈詩編第118篇:〈恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。〉&ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースのベスト盤を聴いています。〉 [詩編]

 詩編第118篇です。

 詩118:1-29〈恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。〉
 題詞なし。
 《ハレルヤ詩集》の一。

 幾多の困難に襲われてなお挫けず、主を頼み、避けどころとし続けたゆえに助けられ、苦難から解き放たれた者による主への感謝の祈り。「死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。/主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。」(詩118:17-18)
 この詩は前半(第1-21節)よりも後半(第22-29節)の方が、格段に良い。というよりも、後半を欠いていたら詩118は著しく精彩を失くした作物となっていたに違いない。どうもこの後半部分は会衆による合唱を念頭に置かれて書かれたと覚しいが、実際はどうなのだろう。礼拝の〆括りにはなんとも相応しく、締まりの良さを感じさせる部分(パート)だ。
 殊に、「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。」(詩118:22)なんて詩句には溜まらず、ぐっ、とさせられる。これは要するに、取るに足りないものと思われ扱われてきたものが、やがて最も重要な役回りを担うようになった、ということですが、生きている以上は斯くありたい、と思いますね。うん。
 いや、それにしてもこの詩118は読んでいると、余りの凄さに胸が圧され、思わず動悸を激しくさせられます。そんな威力を秘めた詩篇でありました。━━指揮者にとっての《トリスタンとイゾルデ》みたいな感じ、といえばよいでしょうか?

 「御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。」(詩118:15)

 「祝福あれ、主の御名によって来る人に。/わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」(詩118:26)



 詩119のノートを書き終えて、まずは、ほっ、と一ト息安堵しているさんさんかです。みな様、この今宵を如何にお過ごしでしょう。連休も最終日になってしまいましたね、明日からまたお仕事の方も多いのでないでしょうか。憂鬱? まぁまぁ、そんなこと仰らずにここはお一つ、このブログでも読んで心のなかの憂さを一時なりとも追い払ってくださいネ。
 ……色々あって頭ン中ぐっちゃぐっちゃで整理がつかないため、思い立ってFMのDJ風に始めてみました。うーん、自分で書いておいてなんだが、本ブログを読んで“憂さ”を払える人なんて、果たしているのか? いてくれちゃうのか?
 さて。FMといえば、2006年にリリースされたヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースのベスト盤を聴いているのですが、さんさんかの耳にはやはりこんな音楽がいちばん耳に馴染みます。そういえば最近は如何にもアメリカンな爽快なロックが聴けなくなりましたね。淋しいものです。
 HLNの久々の新譜もスタックス系ソウルのカヴァー集というあたり、なんだかな、と溜め息つきたくなってしまう。やっぱりオリジナル・アルバムが━━シーンの最前線で活躍するにはちょっと無理があるけれど、<ロックの良心>ともいえるHLN本来の魅力が存分に詰まったベイエリアの雰囲気を孕んだオリジナル・アルバムが、やっぱり聴きたいよね。再たT.O.P.ホーン・セクションと組み、クリスをリード・ギターに迎えたアルバムとか、是非。ん、無理か? え、やっぱり?
 でも、彼らの曲にはハズレもカスもないんですよね。それが或る意味、いちばん凄いことかもしれません。だから、何度でも聴きたくなる。繰り返し聴けること━━それが少なくとも、良い音楽の条件ではありますまいか、ジャンルに関係なく。ぼくにとってHLNとは青春時代の音楽であると同時に洋楽のおもしろさに開眼させてくれたアーティストであり、まさしく繰り返し聴けることのできる数少ない洋楽のアーティストでもあります。時代遅れとかいわれても気にしない。時代と寝るのは義務じゃない。
 HLNのアルバムについてはいずれ音楽専門のブログの方で、まとめて書いてみるつもりでおります。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0819日目 〈詩編第117篇:〈すべての国よ、主を賛美せよ。〉&思い出が甦る。〉 [詩編]

 詩編第117篇です。

 詩117:1-2〈すべての国よ、主を賛美せよ。〉
 題詞なし。
 《ハレルヤ詩集》の一。

 「詩編」最短の篇で、全地に住まう民はみな主を讃えよ、と促す詩。同じ主旨の文言は若干の詩句を変えて、「ローマの信徒への手紙」15:11に見られる。
 詩編、というよりも聖書の本質が凝縮された見逃せぬ詩篇。
 「主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。」(詩117:2)
 さて、約束を果たそう。なぜ詩113-118が《ハレルヤ詩集》と呼ばれるか、については各詩が「ハレルヤ」という詩句を伴う、或いは讃美する内容になっているからであるけれど、岩波版『詩篇』で《エジプトのハレル》と括られるのは、詩113が「ハレルヤ」の詩句で始まり、詩114:1が出エジプトを話題に扱っているからである由(同書 P442)。
 また、これら《ハレルヤ詩集》は過越祭の日に歌われた詩篇が集められている。詩113-114は食事の前に、詩115-118は食事の後に歌われた、もしくは唱えられた。「マタイによる福音書」26:30,「マルコによる福音書」14:26にて過越の食事を終えたあとにイエスとその弟子たちが「賛美の歌をうたった」というのは、詩115-118であったろう、とされる。特に詩118なんてその場の状況に相応しい詩篇であるように思います。



 SMAPとTOKIOが登場し、それにAKB48が花を添えたなんとも奇っ怪かつ滑稽な夢を見たのでそれについて報告しようと思うたのですが、それを吹き飛ばす出来事に遭遇したので予定変更とさせていただくこととした。
 思い立って夕方ちょっと前からM-ZとN-Yに出掛け、そのままI-Mallに出てBOへ寄ると、運良く単行本と文庫、雑誌が20%オフのセールに遭遇。以前から悩んでいた村松友視『武蔵野倶楽部』(文藝春秋)を買うことにして、その後は雑誌売り場をぶらついていると、あんまり現在(いま)となっては見たくない一冊を棚に発見。それが、一昨年2009年のLFJAJの公式ガイドであった。なんと、売った人は本当にTKFで公演を聴いていたらしく、当該ホールで無料頒布されているパンフレットが2枚、挟みこまれていた。らっき~。
 あまり見たくない、といった理由については一昨年GW前後のブログを一読願うが、絶望的なまでの救いのなさゆえにも封じ込めた気持ちを再び一気に噴出させるに足る一冊であったからだ。公演内容や参加アーティスト、作曲家にまつわる諸々なんて記事よりもはるか以前に、この一冊は未だ傷だらけでささくれ立っている想いの傷に塩を塗りたくるような一冊なのだ。ぷん。思い出が甦るのはひとえに残酷である。
 ムッソリーニ同様にわたくしもヴェルディを利用させていただく。つまり、「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」(歌劇《ナブッコ》より)である。むろん、われながらひねくれた引用であるとは承知している。good grief.◆

共通テーマ:日記・雑感

第0818日目 〈詩編第116篇:〈わたしは主を愛する。〉&2011年の目標っぽいもの。〉 [詩編]

 詩編第116篇です。

 詩116:1-19〈わたしは主を愛する。〉
 題詞なし。
 《ハレルヤ詩集》の一。

 私は満身創痍になって闇の奥底を彷徨っているが、<恐怖>はなおも襲いかからんとし、<死>は執拗にあとを追いかけてくる。私は主の御名を叫んだ。すると、主は私に報いて助け出してくださった。「哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる」(詩116:6)からだ。……私は主の民の見守る前で、主の家の庭で、エルサレムの只中で、救いの杯を掲げ、主の御名を呼んで主に感謝をささげ、満願の献げ物をささげよう。「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。」(詩116:9)
 ━━「詩編」中最も感動的な作物で、わたくしなどもいっぺん読んで思わず涙腺をゆるませたクチなのだけれでも、正直なところ、上のような要約じみたことでは本詩のエッセンスは伝えきれていないだろう。なので、これまで自分に課してきた法則(ルール)を破って今日は詩116の全文を(思い悩んだ末に)以下へ引くこととした。
 揶揄したければ、せよ。わたくしはただ、テクスト自らに語らしめたいだけである。
 そんなわたくしがこの詩に関して述べたいのは一つだけ。この詩は暗闇のなかに灯された篝火(かがりび)である。暗闇に迷うて道を見失った人を正しい方向へ導くほのかな光である。それは弱々しくも確かで消えることがない。この私見、よしやあしや。

 「わたしは主を愛する。/主は嘆き祈る声を聞き/わたしに耳を傾けてくださる。/生涯、わたしは主を呼ぼう。
 死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして/主の御名をわたしは呼ぶ。/『どうか主よ、わたしの魂をお救いください。』
 主は憐れみ深く、正義を行われる。/わたしたちの神は情け深い。/哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。/わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。
 あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。/命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。/わたしは信じる。/『激しい苦しみに襲われている』と言うときも/不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
 主はわたしに報いてくださった。/わたしはどのように答えようか。/救いの杯を上げて主の御名を呼び/満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。
 主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。/どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。/わたしはあなたの僕。/わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。/あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び/主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で/主の家の庭で、エルサレムのただ中で。/ハレルヤ。」(詩116:1-19)



 ノートをさくさく終わらせたあと、聖書の目次を眺めていて、今年はどこまで読めるかなぁ、と考えておりました。「詩編」は最後のコーナーを廻って現在佳境に入っている、概ねペースは守れている、ということだ。ならば、今年の大晦日は「イザヤ書」を終えて「エレミヤ書」の途中を読んでいるあたりか。
 そういえば昨年は一作も小説を完成させられなかった。<完成>とは長編であれ短編であれ第一稿を仕上げることを、この場合は意味する。昨日報告した年賀状用の掌編はまた別のカウントである。そうだ、昨年の後半についてはなにかと身辺慌ただしく、「読む」ことはできても「書く」ことへは気持ちを集中させられなかった。これはもう敗北だね。自重しなければ、な。
 というわけで、今年の執筆予定は立てないことにしたのである。例の樹海を舞台にした作品はちょっと本腰を入れて取り組まなくてはこちらがその存在感に負けそうなので、体力と想像力をたゆまず鍛錬、維持して息長く付き合ってゆこうと考えております。なんだか恋愛みたいだね。
 ドストエフスキーも年内に『白痴』を読了させることは出来なかった。残念である。無念である。でも、毎晩ちょっとずつ読んではいるのだ。遅い時間に床に入るときは流石にご遠慮願うが、30分ぐらいは寝床の読書に割けそうなときは、カバーの折り目が薄くなって端っこが折れたこの文庫を携えて、ベッドに潜る。そうして欠伸を連発して目蓋が重くなってきたら、閉じて、電気を消す。たぶん今月には読み終えられるだろうけれど(なんたる消極的な発言!)、終わったら『悪霊』の再読書に取り掛かりますよ。5大長編はなんとしても生きている内に読んでおきたいです。
 と、いうわけで、トルストイとかプルーストとかその他諸々は、もうちょっと先のお話になりそうです、はい。いまのところ、<読書>という行為の最優先対象は、どうしても聖書になってしまうからなぁ……。まぁ、仕方ないね。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0817日目 〈詩編第115篇:〈わたしたちではなく、主よ〉&たまには思い切りずっこけた小説を。〉 [詩編]

 詩編第115篇です。

 詩115:1-18〈わたしたちではなく、主よ〉
 題詞なし。
 《ハレルヤ詩集》の一。

 われらが主こそ神、主に依り頼む者は主を畏れ、主の教えを正しく守る。われらが主は偶像ではない。主は天と地の造り主。
 ━━ここでいうのは、主に依り頼む者は主に似る者となり、偶像に依り頼む者はそれに似る者となる、ということだ。明快な論理である。これは既に、モーセ五書や「士師記」-「列王記」/「歴代誌」へ至る諸巻にて、われらが読んできたことであった。ソロモン王の堕落も(一時的とは雖も)偶像崇拝によろめいた結果だ。
 詩115についてはG.A.F.ナイト著『詩篇 Ⅱ』の解説が有益である(P366-71,特にP366-7 尾崎安・訳 デイリー・スタディー・バイブル14 新教出版社 1997・4)。図書館で見かけることあれば手にしてみるとよい。

 「主よ、わたしたちを御心に留め/祝福してください。/イスラエルの家を祝福し/アロンの家を祝福してください。/主を畏れる人を祝福し/大きな人も小さな人も祝福してください。」(詩115:12-13)

 「主を賛美するのは死者ではない。/沈黙の国へ去った人々ではない。/わたしたちこそ、主をたたえよう/今も、そしてとこしえに。/ハレルヤ。」(詩115:17-18)

 姿は凛とし、内は慈しみにあふれている。愛誦に値する良い詩だ。



 過去のブログをちょこちょこ改訂していますので、時々でいいから、開設間もない時分のものとか見てみてね、と前置きしたあとで、まったく関係ないお話をしようと思います。
 これを書きながら伊福部昭《SF交響ファンタジー第一番》を流しているのですが、これを聴くたび、ゴジラの小説が書きたくなるのですね。全編が伊福部サウンドに塗りつぶされたような怪獣小説を、間違ってもそれは映画『怪獣総進撃』や『ファイナル・ウォーズ』のようなオールスターズ作品でなく。他に書きたい小説があるか、と問われれば、ある、と答えた上で、くまのプーさんを迎えた推理小説を、と補足しよう。
 なんだか他人の褌で相撲を取るような格好だが、他人のキャラクターで小説を書くことがないからこそ、ときどきこんな夢想を弄ぶ。もっとも、きっかけさえあれば筆を執るのであろうな、と予想はしているのですが……。
 今年は喪中のため年賀状用小説を書くことはしなかったが(候補作として2編の第一稿を仕上げたと雖も)、偶には奇を衒って思い切りずっこけた小説を送り付けるのも一興かもしれない、と企んでいる。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0816日目 〈詩編第114篇:〈イスラエルはエジプトを〉&ちょっとセンチに喫茶店の話。〉 [詩編]

 詩編第114篇です。

 詩114:1-8〈イスラエルはエジプトを〉
 題詞なし。
 《ハレルヤ詩集》の一。

 歴史回顧の詩であり、歴史賛美の詩である。
 イスラエルの民はエジプトを脱出して、“約束の地”カナンを目指した。神は彼らを庇護して聖なるものとし、彼らを統べて治めた。囚われの地を去って進む彼らに海も地も鳴動して身を震わせた。どうしてか、と訊ねる作者に確たる答えはもたらされない。ただ、民と共に在る神の臨在がその理由である、とほのめかすだけ。
 「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に/ヤコブの神の御前に/岩を水のみなぎるところとし/硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。」(詩114:7-8)
 ━━出エジプトとカナン入植、そこへ至るまでの荒れ野での40年の彷徨があるからこその歴史であり、培われて育まれた信仰である。その過程に於いて神は様々な御業を揮い、ヤコブの家を“乳と蜜の流れる地”カナンへまで導いてゆく。歴史と信仰のターニング・ポイントとして、いついつまでもその意義を噛みしめ、讃えようではないか━━この詩にこめられたメッセージはそういうものだろう、と考える。礼拝に欠くべからざる詩である。



 “喫茶店初体験”を思い出そうとしていちばん古い記憶にあるのは、神保町の「さぼうる」だが、本当にそこが初めての喫茶店であったか定かではない。いずれにせよ、初体験は地の利を生かしたそれであった。まぁ、初体験だけにビクビク、ワクワクし、鼻の穴が広がり、終わってみればスッキリした気分を味わった。筆おろしなんてそんなものです。
 でも、かといってそれから喫茶店に入り浸るわけではなかったのね。バブルがはじけて社会が不況のどん底にいる時代に、のんびりコーヒー啜ってる暇なんてありません。内定が直前中の直前に取り消され、窮余の策でもう少し学生を続けることになって2,3年後かな、再び喫茶店の扉をくぐるようになったのは。椅子へ体を沈めて運ばれてきたコーヒーの香りを嗅いだとき、えもいわれぬ感慨を抱いたっけ。
 その前後にスタバ1号店がオープンし、シアトル系カフェが巷に跋扈するようになるとそんな店のあることが、そこでテイクアウトしたコーヒーカップを持って歩く光景が、当たり前の日常風景になった。むろんその恩恵を自分も最大限に被っている立場だから、そんな現状を歓迎し、今後もこれまで同様ヘビー・ユーザーであり続けることに異存はない。
 が、所謂<喫茶店>に憩う時間も代え難い喜びなのだ。窓際の席に陣取って外をぼんやり眺めたり、静かな音量で店内に流れるジャズに聴き入ったり、いつの間にやら運ばれてきた、一杯一杯ドリップしたストレート・コーヒーを口へ運ぶたび、まるでたゆたうような、何物でもない時間を愉しむ気持ちを持てることは、しあわせなことではないのかな?
 行きつけの喫茶店がまさしくそうなんだよね。ここだけは、いつまでも変わらないでほしいな。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0815日目 〈詩編第113篇:〈ハレルヤ。〉&ヒルティの言葉(その5)〉 [詩編]

 詩編第113篇です。

 詩113:1-9〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。
 《(大)ハレルヤ詩集》の一。

 ジークフリート・ヘルマンによればこの詩篇は、「礼拝の前後や最中に朗読され、あるいは歌われる賛美」の詩の一つである、と規定される(『聖書ハンドブック』P108 教文館)。
 それを踏まえての言でもあるけれど、この所謂《ハレルヤ詩集》は特定の流れに則って配列されているようだ。興味本位で出席した幾度かの礼拝しか知らないが、礼拝の始まりに詩113が朗読され、詩114-117は区切りのよいときに歌われて、終いの詩118は礼拝の最後に朗読される━━そんな配列がされている、と思うのだ。少なくとも素人目にはそう映る、という話なので、一々目くじらを立てられるぬように願う。まあ、読んでいって発言を修正する必要があれば、都度そうしてゆく。
 なお、《ハレルヤ詩集》とは厳密には詩113-118の詩編のまとまりを指すが、敢えて冒頭に「(大)」としたように、広義には既に読んだ詩111-112をも含めてそう呼ぶそうである。いま手許にないが岩波版『詩篇』解説では確か、詩119を含めて《エジプトのハレル》としていたのでなかったか。「ハレル」は「賛美する」の意である。この《ハレルヤ詩集》の名称の由来は詩117にて行う。
 詩113を要約すれば、━━主は天より高い場所に据えた御座から低く下って天と地を見、弱いものを助け起こし、また、女には子を持つ母の喜びを与え、教えてくれる。斯様な歓びが他にあろうか? ━━本詩中、第1-3節は会衆への呼びかけであり、ざわついた気持ちを鎮め、心を礼拝に集中させる効果があったのであろう。

 「(主は)弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ/自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。」(詩113:7-8)



 <ヒルティの言葉(その5)>
 「ひとは過ぎ去ったことをもはやかれこれ考えず、また同じように将来のためにあまり取り越し苦労しない習慣を一旦養ったならば、時間の点でも、心のやすらぎの点でも、実にうるところが多いであろう。」
(『眠られぬ夜のために』第二部・五月十四日 岩波文庫 P112 草間平作・大和邦太郎訳)
 人間とは過去に囚われる生き物であり、<過去>とは人間に執念く取り憑いて離れぬゴーストだ。
 この言葉を前に、ぼくらはどうしたらいいんだろう? 取り越し苦労ばかりの時代に生きて、習慣を養うことさえままならぬ時代に翻弄されるぼくたちは? 実際、組織社会のなかで働く人間に、それは意外と養い難い習慣である。が、彼は単に「あまり」というだけなのだ。この「あまり」という箇所こそ重視すべきだ。
 「起きてしまったことは起きてしまったこと。あんまりクヨクヨ悩んだりしないで自分の明日を真っ暗にすることなんてないさ。君だけじゃないんだから、気楽に行こうよ?」とは、おいら(註:さんさんか)から贈る言葉である。すべては大過なく、である。ポジティヴ・シンキングで明日を思い悩むな!
 ただ、今日のように秩序と正義が顧みられぬ時代にこそ、明日を思い煩うな(マタ6:34)、という言葉を玩味して心を律さねばならない、とは思う。
 世界をポジティヴ・シンキングで生き抜くために、われわれに出来ること━━、
 1;みんなで手をつなごう、恥ずかしがらなくていい。肌と肌を触れ合わせよう。
 2;君とぼくとで話をしよう、膝つき合わせて、互いの目を見て。
 3;互いの間にある壁を一つ一つ崩していって、君とぼく、まず友だちになることから始めよう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0814日目 〈詩編第112篇:〈ハレルヤ。〉&『ハッピー・アニバーサリー・チャーリー・ブラウン』〉 [詩編]

 詩編第112篇です。

 詩112:1-10〈ハレルヤ。〉
 題詞は「(アルファベットによる詩)」

 神と、神を畏れその戒めを深く愛する人の間に結ばれた絆について語る。
 前詩と同じく一本調子な点が目につくが、<信じる>ことの正しさを唱えるには却ってシンプルなスタイルの方が相応しいのかもしれない。朝な夕な読んでいて、じん、とちょっぴり胸をあたたかくさせられた詩であった。
 これ以上の妄言は慎み、詩112を静かに味わおう。

 「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。」(詩112:4)

 「彼は悪評を立てられても恐れない。/その心は、固く主に信頼している。」(詩112:7)



 以前、ジャズ再入門のエッセイをお披露目しましたが、御茶ノ水の学校に通っていた当時、秋葉原の大型電気店で買った初めてのジャズのオムニバス・アルバムに触れて、「あ、ジャズって良いな」と感じるようになり、それ以後、神保町の中古レコード店でジャズの中古LPを、安い価格で見附けてきては一枚一枚針を落としてゆくようになったのでした。
 初めて買ったジャズのCDは『ハッピー・アニバーサリー・チャーリー・ブラウン』(VDPY-28508)、原作コミックの連載40周年を記念したオムニバス・アルバムです。本当に、摩りきれるまで聴き耽りました。原作コミックが昔から好きだったことから興味本位で手を出したのですが、クラシックともロックとも違う大人の魅力、心地よさが、そこにはあった。20代初めの男の子の心を鷲摑みするにじゅうぶんなパンチが詰まった一枚でした。
 収録曲はいずれも(タイトルからお察しできるように)アニメ版『ピーナツ』で使用された楽曲を現役アーティストが録音した豪華な一枚。リー・リトナー(g)とドン・グルーシン(kb)による「レッド・バロン」、デイヴ・ブルーベック(p)とボブ・ミリテロ(fl)による「ベンジャミン」にまずは心捕らわれたが、それ以上に惹かれたのはブルースの大御所、B.B.キングが歌う「ジョー・クール」、パティ・オースティンが歌う「クリスマス・タイム・イズ・ヒア」であった。ジャズ・ヴォーカルが好きになって今日に至るまで不即不離で聴き続けてこられているのは、この一枚と幸福な出会いをしたからかもしれない。
 ジャズのCDもちょっとずつ増えてきたけれど、原点中の原点というべきはこの一枚。いろいろ聴いて、その都度、「ワオ!」なんて叫んでみても、慣れ親しんだ港へ帰りたいな、と思うたときはこのアルバムの出番である。「ただいま」、「お帰り」なんて挨拶したあとは、くたっ、としてひたすら心地よい時間の流れに身も心も任せるのだ。これって、なかなかよいことじゃない?◆

共通テーマ:日記・雑感

第0813日目 〈詩編第111篇:〈ハレルヤ。〉&『のだめカンタービレ』第25巻を読み終えて。〉 [詩編]

 詩編第111篇です。

 詩111:1-10〈ハレルヤ。〉
 題詞は「(アルファベットによる詩)」

 主の恵みの御業を手放しで讃える頌歌。第1節から推察すれば、会衆が集会の席で歌った作物か。
 正直なところをいえば、モーセ五書や続く史書、文学書(に分類される諸書)を一読すれば、この程度の詩は出来上がるように思う。いずれも既に他で見てきた覚えのある表現で、少し編集能力に長けた人ならこの程度のものは織りあげられよう。言い過ぎかもしれぬがかつて三文詩人であったさんさんかはそんな風に思うのであります。
 むろん、この詩の価値を貶めるつもりは毛頭ない。如何に高名な詩人とて箸にも棒にも引っかからぬ詩を物すことはあるし、どれだけ名作といわれる作品にも瑕疵はあるからだ。仮にこれがダビデやソロモンの新作であってもこうした程度の詩編が出て来ることに、わたくしは一向驚いたりはしませんな。
 でもこのようにコンパクトに、主の御業の恵み深さや憐れみ、裁きの公正さを綴った詩は口の端にのぼせて楽の調べに乗せて共に歌うことで、本来の味と輝きを放ち始めるのも事実だろう。

 「御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実/世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。/主はご自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。」(詩111:7-9)



 『のだめカンタービレ』の、本当の最終巻をクリスマス・イヴに買って今日まで読み耽ってきたのですが……あっさりした終幕でしたね。《魔笛》上演にこぎ着けるまでの過程を消化するのに必死で、千秋にとって(市民オペラと雖も)念願のオペラ指揮デヴューであり、のだめにとっては日本デヴューを飾る巻であり、“古武士”黒木氏にはターニャを連れての凱旋(?)帰国の顛末が語られる節目の巻であるだけに、それらがひどくあっさりと片附けられてしまい、却ってモヤモヤした気分に襲われているのだ。
 本編で物語内の時間制限もあって語りきれなかったエピソード群であっただけに、今回の肩透かし感は容易に拭いきれぬものがある。画竜点睛を欠く、とはこのことか。これならいっそ、本編だけで完全に終わらせて今回のオペラ編はない方がよかった。少なくとも、オペラ編のお話が単行本2巻で片付く容量ではない、と覚悟を決めて、全3-5巻程度にまでなる中期的な視野がほしかった、と残念に思うておる。連載中から楽しんで読んできた作品だけに、このように消化不足な完結を迎えたことが残念でならない。
 が、人気作品には必ず負の声があがるものだ。これもその一つと取っていただいて、別に構わない。でも、好きでなかったらこんな風に<敵>を作るようなこと、いわないよ?◆

共通テーマ:日記・雑感

第0812日目 〈詩編第110篇:〈わが主に賜った主の御言葉。〉&磯山雅『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』〉 [詩編]

 詩編第110篇です。

 詩110:1-7〈わが主に賜った主の御言葉。〉
 題詞は「ダビデの詩。賛歌。」

 主は自らの言葉で王を選び、嗣業の民の上に立たせる。彼は主にとり「とこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)」(詩110:4)である。
 ━━この詩はダビデから未来の王に宛てたメッセージ、とわたくしは読む。将来、統一王国は北と南に分裂するが、メッセージの受け取り手はもちろんダビデ王朝として存続した南王国ユダの歴代の王であり、遠くはメシアたるイエスにまで敷衍できよう。
 これは主により保証、約束された王権と王位が継承されてゆく正統を、強力に補強する詩である。政治と宗教が一体であった時代ならではの産物、といえようか。

 「主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。/敵のただ中で支配せよ。/あなたの民は進んであなたを迎える。/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。」(詩110:2-3)

 「主はあなたの右に立ち/怒りの日に諸王を撃たれる。/主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち/広大な地をしかばねで覆われる。」(詩110:5-6)



 いちおう、喪中のために送り洩らした相手への年賀状を焦って書く必要もなく、初詣に自宅前の神社へ出掛けるわけにも行かず、のんびりと元日を過ごしていたさんさんかです。みな様、どんな愛ある元日をお過ごしでいらっしゃりますでしょうかね? やさぐれている、って? まぁ、気にすんなよ!
 必要あって磯山雅『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』(東京書籍)を読んでいました。ぼくのバッハ理解の根本を作り、その後も地均しと拡大の基本を作った磯山氏の最初の出版物で、今日に至るまでこれ以上のバッハ伝は日本語で読めていないのではないか、とさえ思う程の一冊です。
 作品の成立背景や作曲経緯について知識を得られるのはもちろん、バッハ理解には絶対に欠かせないキリスト教(この場合はプロテスタント)の教義やバッハ当時の音楽様式に関しても余り拘泥せず、でも、しっかりとポイントを外さぬ説明が平易で明解な文章で綴られている。うれしいのは、作者自身がバッハ理解に信仰は必ずしも必要でなく、教義は一つの道筋に過ぎぬだろう、と語っている件りである(P114)。ぼくはこの言葉に支えられて、バッハを聴いてきた、というても過言でない。
 演奏会、或いはCDやLP、DVDなどでバッハの音楽に親しむわれらにとって、補章「二十世紀におけるバッハ演奏の四段階」と巻末に添えられたディスコグラフィー附き「バッハ作品総覧」は、非常に読み応えある部分であろう。バッハを聴く際にお奨めの一冊。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0811日目 〈詩編第109篇:〈わたしの賛美する神よ〉&カラヤン=PO;バラキレフを聴く。〉 [詩編]

 詩編第109篇です。

 詩109:1-31〈わたしの賛美する神よ〉
 題詞は「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。」

 私が讃美する神なる主よ、あなたに逆らう者があなたに従う私を欺き、偽り、そうして、憎む。敵にあなたの呪いが降り、私にあなたは慈しんでくれますように。「彼は呪うことを好んだのだから/呪いは彼自身に返るように。/祝福することを望まなかったのだから/祝福は彼を遠ざかるように。」(詩109:17)
「わたしの神、主よ、わたしを助けてください。/慈しみによってお救いください。/それが御手によることを、御計らいであることを/主よ、人々は知るでしょう。」(詩109:26-27)
 これまで読んできたなかにも本詩同様<呪いの詩篇>と称すものはあったが、殊に表現や執念さについて詩109は過去のそれらの上を行く、というてよい。神に逆らい私を憎む者、即ち<敵>がこんな風に呪われ、全地の諸国の民から斯様に辱められ、貶まれますように、という例は余りに微に入り細を穿っていて、その激しさには思わず引いてしまいそうになる。第14-15節を読んでいると特にそう思うのだ。
 ……まぁ、敢えて一言申し添えるなら、元日にはちょっと相応しからぬ詩篇ですよね。

 「愛しても敵意を返し/わたしが祈りをささげても/その善意に対して悪意を返します。/愛しても、憎みます。」(詩109:4-5)

 「わたしは貧しく乏しいのです。/胸の奥で心は貫かれています。/(中略)/わたしは人間の恥。/彼らはわたしを見て頭を振ります。」(詩109:22,25)



 それにしても今回の紅白で大トリを務めたのはいいけれど、なんだか釈然としないものを見終わったあとに感じましたね。「THIS IS LOVE '10メドレー」といいつつ、結局何年か前の紅白で歌った「Triangle」の感動よ、もう一度、じゃないか。おいら、間違ってる?
 カラヤンがフィルハーモニア管と1950年に録音したバラキレフの交響曲第1番とルーセルの交響曲第4番は、わたくしにとって永く手に入れられぬ<幻>の音盤であった。同オケの出資者であったインドのマハラジャの希望により録音された2曲で、後年のカラヤンならどれだけ請われてもまず手を出さなかったであろう、と思われる。
 お察しの向きもあるかもしれぬが、さんさんかは先日、偶然にも開店して間もない中古レコード店でこれらをカップリングしたCDを入手したのである(EMI 7243 5 66595 2 0 「KARAJAN EDITION」の一枚)。ルーセルはともかく、バラキレフはたぶん他の指揮者でも聴いた記憶がないので、差し引きゼロの感覚でトレイに盤を乗っけた……、
 ……おそらくはカラヤンの若さ、オケの優秀さにも起因するのだろうが、バラキレフのこの曲(Sym Nr.1)ってかっこいいな! うねるような、畳みかけるような迫力と音の塊、恥ずかしくなっちゃうようなメロディ、耳あたりのよい旋律。エンターテインメントに徹した(作曲家にその意志があったのかは知りませんよ?)、まさしく「ザ・ベスト・オブ・楽しんで聴けちゃう交響曲」(の一つ)です。演奏はカラヤン美学満載、カラヤンならではの聴いていて心地よい、ノーブルでエレガント、かつ贅沢(ゴージヤス)な音楽の時間が堪能できます。うーん、メシアンを諦めてこちらを買ってよかった!
 閑話休題。
 このバラキレフの交響曲ね、演奏会でやったらオケも聴衆もノリノリで盛りあがって、終演後の拍手と歓声は凄まじいものになるだろうね(むろん、それに値する演奏がされたらのお話です)。(聴きながら)こんなこと書いていたら、なんだか無性に本当にコンサート・ホールで聴きたくなってきたぞ。みなとみらいコンサート・シリーズでカンブルランと読響のコンビで演奏してくれないかな、そうしたら絶対聴きに行くのに……!。
 本盤、執念と根気で探した一枚であるがために感動や思い入れは一入なのですが、偶然とは雖も新年一発目のクラシック音楽には悪くないチョイスであったな、と<偶然の神様>に「♪あ~りがとう~っ! ×2」と大声で、気分よく歌いたい気分なのであります。でも、EMIが再発してしまったら複雑な気分ですね。出来ればあと5年ぐらいは、輸入盤であれ国内盤であれ現役盤の復活はなしにしてほしい(←マニア根性丸出し)。
 いや、それにしてもバラキレフっていいな! 今度、タワーレコードで他のバラキレフのCDを探してこよう、っと。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0810日目 〈詩編第108篇:〈神よ、わたしの心は確かです。〉withフォイアマン=ハイフェッツ=プリムローズ=ルービンシュタイン;弦楽三重奏・ピアノ三重奏を聴きました。〉 [詩編]

 詩編第108篇です。

 詩108:1-14〈神よ、わたしの心は確かです。〉
 題詞は「歌。賛歌。ダビデの詩。」

 ダビデ時代、イスラエルを見舞った大きな災厄といえば、人口調査に端を発した疫病の流行ぐらいしか思い浮かばぬが、一々既述するほどではないレヴェルで諸国との衝突はあったのかもしれない。
 詩108をダビデ作とした場合、どんな状況で詠まれたものか定かにし難いけれど、上述のような<書かれなかった出来事>の存在を「サムエル記」や「歴代誌」の外に感じてしまう。個人的に思うこととしてダビデ詩篇、或いは《ダビデ詩集》には摑み所のない作物が多いのだけれど、今回の詩108は自分にとってまさしくそんな詩だ。
 とはいえ、救いと希望を求める真摯な気持ちは、読み手の胸奥の深いところまで届いてくる。こうしたカンドコのはっきりしている点がダビデ詩篇の愛誦・愛読される所以であり、シュッツを始めとする作曲家たちが好んで触手を伸ばす理由であるのかもしれない、と倩思うのである。

 「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。/神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。
 どうか我らを助け、敵からお救いください。/人間の与える救いはむなしいものです。/神と共に我らは力を振るいます。/神が敵を踏みにじってくださいます。」(詩108:12-14)



 今日買った室内楽のCDを鑑賞中。【オーパス蔵】というレーベルから発売されている、E.フォイアマン(Vc)とJ.ハイフェッツ(Vn)のコンビにプリムローズ(Vl)とルービンシュタイン(P)を加えた弦楽三重奏・ピアノ三重奏のCDです(OPK2062/3)。序にいえば収録曲の一つ、ベートーヴェンの《大公》トリオは、村上春樹『海辺のカフカ』に登場した録音である由。
 帯には「数ヶ月遅れていたら実現不能だった」とありますが、実現したことに感謝すると共に、5人の名演奏家が1941年当時アメリカにいてくれたことを随喜したい程、心を揺さぶられる一期一会の名演奏です。もっとも、彼らがあの時代、アメリカにいたことについては単純に喜べない事情もあるのですが、それはライナー・ノーツをご参照ください。
 1941年の録音に加えてSPからの復刻のため、初めてこの種のCDを聴く人には若干辛い部分があるかもしれませんが、でも、すぐに馴れてしまいますよ。針音の向こうから雄弁な演奏が聞こえてきたとき、きっと音楽のすばらしさをもう一度味わい、往年の録音が持っていた<熱情>と<雄渾> を追体験いただけるものと信じております。
 わたくしは最初に出会ったトスカニーニのベートーヴェンとメンゲルベルクのバッハでそれに囚われ、今日までヒストリカル物を長く、浅く聴いてきた者であります。みなさんにも、古い、というだけの理由で敬遠されたりせず、これらの録音に目を留めていただきたい、と思います。
 ━━「またいつか、どこかで会おうね」とは、体よくふられたってこと? いやだなぁ、あの人のこと、本気で想っていたのに……。ぐしゅん。“殆ど情熱的とも言ってよいような、生き生きとした恋情”(ヒルティ)こそ! せっかく過去の恋を断ち切ったと思えば、すぐにこれか。人生とは、なにもかも報われぬようにできているものであります。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0809日目 〈詩編第107篇:〈「恵み深い主に感謝せよ〉〉 [詩編]

 詩編第107篇です。

 詩107:1-43〈「恵み深い主に感謝せよ〉
 題詞なし。

 遂に第五巻の開巻である。これより「詩編」は最後の一篇へと、約二ヶ月をかけて歩を進めてゆくことになる。なお、この第五巻は最長を誇る詩119を擁する巻でもある。
 ━━これは、神の定めた営みに(結果的に)背き、或いは道を踏み外したがために災難に見舞われた人々が、主へ助けを求めて呼び叫ぶと主は人々を苛む苦しみから彼らを救った、という構図を持った詩だ。
 因果応報とそれからの救済が本詩の骨子、というてよいだろうか。詩107:17-22なんかは全編の真骨頂、クライマックスを形成し、全編のエッセンスが抽出された箇所に思われてならない。
 神なる主は背く者、己の目に悪と映ることを行う者にはことごとく怒りを降し、その大地をも荒れ地にし、塩ばかりの地へ変えた。ソドムとゴモラを見よ、メリバの水を思い出せ、なによりもイスラエル/ユダの崩壊こそがその証し。翻って、主は従う者、己の道を正しく歩む者にはことごとく祝福と恵みを与え、その大地を肥えさせ、水も実りも豊かな地とした。大洪水後のノアを見よ、敬虔なるルツを思い出せ、なによりもダビデとソロモン治世下のイスラエルの繁栄こそがその証し。
 「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。」(詩107:19)どれだけ<絶望>という名の奈落の底にあって光を見出せない状況にあろうとも、こんな風にいってもらえたら、なんだか門外漢のわたくしもうれしくなってしまう。そうか、どんな境遇に陥ろうともまだ希望は残されているんだ、と。ああ、心が軽くなる思いだな……。
 苦しみと痛みは人間を鍛え、強くする。それは即ち、逞しき<心のあり方>の問題だ。どんなときでも大地に両の脚ですっくと立ち、眼差しを前に向けて歩き出せる勇気を持ち続けられる人こそが、真に強い人間である。この詩を読んでいて、そんなことを思うのでありますよ。

 「不毛、災厄、嘆きによって/彼らは減って行き、屈み込んだ。/主は貴族らの上に辱めを浴びせ/道もない混沌に迷い込ませられたが/乏しい人はその貧苦から高く上げ/羊の群れのような大家族とされた。
 正しい人はこれを見て喜び祝い/不正を行う者は口を閉ざす。/知恵ある人は皆、これらのことを心に納め、主の慈しみに目を注ぐがよい。」(詩107:39-43)



 仕事納め。彼らと出会えたことがいちばんの喜び。みんながいなければ、あのメンバーでなければ、とっくに辞めていたかもしれない。あなた方の存在に感謝。ありがとう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0805日目 〈詩編第106篇:〈ハレルヤ。〉〉 [詩編]

 詩編第106篇です。

 詩106:1-48〈ハレルヤ。〉
 題詞なし。

 詩105同様、歴史回顧の作であるが、その調子はやや異なるように感じる。前の詩が<喜び>に彩られていたのに対し、詩106では<神の裁き>が全体を整える調子となっている。そのなかからなお神の救い、或いは恵みを得んとする作者の痛ましいまでの祈りが聞こえてくる。
 「彼らはたちまち御業を忘れ去り/神の計らいを待たず/荒れ野で欲望を燃やし/砂漠で神を試みた。」(詩106:13-14)
 この果てにあるのがたびたび話題にのぼったメリバの水の一件であり、カナンの先住民の偶像崇拝への迎合である。それでも作者は、「わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い/諸国の中からわたしたちを集めてください。/聖なる御名に感謝をささげ/あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。」(詩106:47)と、自身のためでなくイスラエルのために祈るのだ。
 これまでの歴史から学んで反省し、より良き存在となろう、という、「詩編」第四巻を〆括るのにこれ以上はない意義深い作物。読者諸兄も全文を読まれるのをお奨めする。詩105と詩106については(特に前者)機を見て稿を新たにし、ずっと良きものとしよう。



 12月24日、今年最後の巣鴨の大祭に出掛けました。王子で玉子焼きを買い、都電に乗って庚申塚にて下車、巣鴨へ行く、という最近のパターン。このときはまだ凶報がもたらされていなかったんだよなぁ……嗚呼、無垢なる時代の最後の瞬間よ!
 そのあと、秋葉原に立ち寄ってブックオフで重松清『ステップ』を105円で購入後、タワーレコードへ(本命はこちら)。椎名へきるの新譜とハイドンのCDを2枚、手にしてぶらぶら洋楽コーナーを歩いていると、ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの新譜を発見! すぐ黄カゴに入れてレジに並びました。いや、それにしても混んでいたね。
 昔のように大々的に広告がされることもないから相当地味な存在となっているHLNだが、サウンドは以前よりもずっと深みを増している。鉄壁の6人グループもオリジナル・メンバーが2人バンドを去り、それに伴ってサウンドも変化したことは事実だが、それでも安心して彼らのアルバムに手を伸ばせるのは、決して彼らが変わらないからだ。この安心感をいみじくも“黄金のワンパターン”と称した人がいたが、ファンがHLNの音楽に求めるのはまさしくこの“黄金のワンパターン”と称される安心感でもあるのだ。変わらずにあり続けること、それはいちばん難しいことなんですよね……。
 昨夜、最悪の連絡に消沈し打ちのめされながらも聖書のノートを書いていたとき、傍らで流していたのは中学時代からずっとファンを続け、学校をサボって来日公演にまで出掛けたHLNの、この新作でした。ちょっと、ぼく、立ち直ったよ。でも、仲間が……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0804日目 〈詩編第105篇:〈主に感謝をささげて御名を呼べ。〉〉 [詩編]

 詩編第105篇です。

 詩105:1-45〈主に感謝をささげて御名を呼べ。〉
 題詞なし。

 岩波やハーレイの言を俟つまでもなく、次の詩106と共に、イスラエルが主の導きにより歩んできた歴史を回顧した作。正直なところ、この詩に対して如何に言の葉を紡げ、というのか。創世記と出エジプト記を併読し、本詩の読みを深めれば、それでじゅうぶんである。
 ━━このわずか四行を書くのも1時間近くを必要とした。どうか、わが心痛を察して容赦いただきたい。



 人生最悪のクリスマス・イヴ。色恋沙汰ではむろんないが、予定も希望も根本から崩壊してしまった。この災厄、どうにか良き方向へ転がってくれぬものであろうか?◆

共通テーマ:日記・雑感

第0803日目 〈詩編第104篇:〈わたしの魂よ、主をたたえよ。〉〉 [詩編]

 詩編第104篇です。

 詩104:1-35〈わたしの魂よ、主をたたえよ。〉
 題詞なし。

 自然の営みと創造主の恵みに感謝する詩である。
 わたくしはこれを読んでハイドンのオラトリオ《四季》を想うた。それも詩104と同様、自然の営為を讃え、神の恵みを受ける生きとし生ける者の喜びを謳う内容であった。
 自然━━世界を創造した主に、「わたし」は命ある限りほめ歌をうたって、その歌が主の御心にかなうようにしよう、と誓う詩でもある。それは見通してはならないポイントであろう。
 ……いまは心が曇ってすべてがネガティヴな方向へ傾いている俺だけど、いつかもう一度、この詩の作者のように自分を取り巻く自然の恵みに感謝し、生まれてきた奇跡に感謝できるようになるのかな……。

 「(太陽が輝き昇ると)人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。」(詩104:23)



 天皇誕生日の夜、新宿バルト9でダニエル・バレンボイム=BPOの2010年ヨーロッパ・コンサートの映画を観てきました。演目はエルガーのチェロ協奏曲、ブラームスの交響曲第1番など。感想は粗書きながら既にあり。これも他と同様に推敲してから、「詩編」終了後にお披露目します。
 久しぶりに夜中の新宿の街中を歩いたな……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0802日目 〈詩編第103篇:〈わたしの魂よ、主をたたえよ。〉2/2〉 [詩編]

 詩編第103篇(2/2)です。

 詩103:1-22〈わたしの魂よ、主をたたえよ。〉
 題詞は「ダビデの詩。」

 この詩を指してハーレイは「哀れみの詩篇」といい、「ダビデに対する神の取扱いを概観する」と述べる(『聖書ハンドブック』P341)。が、わたくしには、ダビデ個人がどうこうというのでなく、「主の目に悪と映ることを行わない限り、主は、あらゆる国、すべての民に平等である」と教える詩として読める。
 元来、━━聖書に即していえば、人間は神なる主が創造し給ふたものであった(アダムとエバ)。そうしてそこから━━表現はふさわしくないかもしれぬが、ネズミ講式に人の数は地にあふれ、イスラエルやエドムのみならぬ人間が統べる個々の共同体(諸国)を形成するに至った。
 そんな諸国の民、なかには〈国〉というものに属さず生きる者もいたかもしれぬが、そんな人々さえ神なる主が創り給ふたアダムとエバの末裔であることに違いはないのだ。ゆえに主は彼らを慈しみ、公正であらんとする。ならばなぜ主はイスラエルばかりを高く上げるのか━━いうまでもなく、彼らが自分と契約を交わした唯一の民であるからだ。
 ━━斯様な次第でわたくしには詩103がダビデ個人を扱うばかりでなく、地上のあらゆる民を対象としている風に読めるのだ。むろん、題詞に即してこれをハーレイがいうが如くダビデ個人にまつわる詩、と読むことになんら異存はない、とだけいうておく。

 「主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。」(詩103:10)
 そうして、━━
 「主の慈しみは世々とこしえに/主を畏れる人の上にあり/恵みの御業は子らの子らに/主の契約を守る人/命令を心に留めて行う人に及ぶ。」(詩103:17-18)
 ━━のである。

 わたくしは昨日のブログで、この詩に対する感動の大きさを語った。これが、心に染みわたってくる、とも書いた。これがダビデ詩篇であるなら尚更だ、と。
 一日(実際には“一日”どころではないが)経ってもう少し落ち着いた心でこれを読み直してみると、自分がいちばん惹かれたのは、この詩の底辺に流れる恵み深さであったろうか、と思う。
 たとえば第3-5節だが、ここを読んで奇妙な充足を覚えたのを、いまでもはっきり覚えている。それはきっとわたくしが罪を犯しかけたせいかもしれない。救われたような気がした━━リセット、という言葉は好きでないが、まだ先に横たわってしばらく続く人生に、ほのかな光明を与えられたような気分がしたのを、あれから数年経ったいまでもわたくしは覚えている。ふしぎな力のある詩が、ここには2篇並んでいることになりますね。
 ご参考までに件の詩句を、下へ引いておくとしよう、曰く、━━

 「主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し/命を墓から贖い出してくださる。/慈しみと憐れみの冠を授け/長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。」(詩103:3-5)

 ……前回の詩102と今回の詩103に出会え、こうまで付き合うことが出来たのが、聖書を読んで得ることの出来た収穫━━大きな収穫の一つであった、と思うておるところである。



 今日は柚子湯か……日本って美しい国ですね。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0801日目 〈詩編第103篇:〈わたしの魂よ、主をたたえよ。〉1/2〉 [詩編]

 詩編第103篇(1/2)です。

 詩103:1-22〈わたしの魂よ、主をたたえよ。〉
 題詞は「ダビデの詩。」

 ……と雖も、このノートを今日はまだまとめていない。面倒臭くなったのではなく、幾度となく試みて納得できる稿を作成し得なかったのである。
 これまで「詩編」各詩を読んで時々に心奪われる詩篇と出会っては来ても、さんさんかはそれでもすぐ冷静になってその詩と取り組むことが出来た。これの前にやった詩102に於いてすらそうであったのだ。が、この詩103は稀少ともいえる例外となった。あまりに感動が大きすぎ、心に染みわたってくるのである。それがダビデ詩篇であるならば、尚更に稀少としか言い得ぬのだ。
 申し訳ないが、詩103のノートを今日はお休みさせていただく。無理してヘンチクリンな文章を書いて却って恥をさらすばかりであるなら、いっそのこと一日おいてきちんとブログ原稿を認めてここに公開する方が、よほど責任ある行為というものであろう。
 とはいえ、それだけで終わらせるのはさすがにどうかと思うので、いつものように詩句を引用して、今日を静かに終わらせよう。読者諸兄よ、お約束する、明日はいつものようなノートに戻り、詩103を取り挙げる、と。
 いうなれば、今日はあまりに大きな存在感を示す詩103を読むにあたっての前哨戦、露払いである。

 「主はわたしたちを/どのように造るべきか知っておられた。/わたしたちが塵にすぎないことを/御心に留めておかれる。/人の生涯は草のよう。/野の花のように咲く。/風がその上に吹けば、消え失せ/生えていた所を知る者もなくなる。」(詩103:14-16)

 うーん、なんて良い詩句なんだ!◆

共通テーマ:日記・雑感

第0800日目 〈詩編第102篇:〈主よ、わたしの祈りを聞いてください。〉〉 [詩編]

 詩編第102篇です。

 詩102:1-29〈主よ、わたしの祈りを聞いてください。〉
 題詞は「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。」

 これは、と思う、統一王国イスラエルもしくは南王国ユダが敵により蹂躙されエルサレムが汚された後、荒廃した大地に立ってその光景に悲しむ作者が再びの神なる主の慈しみと来臨を切に願っている詩なのであろうかと。一方でこの詩ははるか未来に誕生し、シオンに現れるであろうメシアを期待する━━メシア詩篇の一つでもあろうか、と。
 何度もいうようにわたくしはキリスト者でないから、彼らのなかでこの詩がどう教えられているかは知らない。でも、それでもうっすらと分かるのは、この詩102が他の詩篇以上に深い内容を持ち、重層的なメッセージを含んでいる、ということだ。別のいい方をすれば、読み手次第で如何様にも解釈でき、捉えられることでもあろう。
 そんな理由でかは忘れたが、きちんと聖書を読み出した2008年9月9日以前にわたくしはこの詩を(偶々)読んで感銘を受けたようで、詩番の頭に二重丸を付けている。爾来この詩はわが心の潤いにも拠り所にもなっている。「詩編」全150編の内、わたくしがいちばん愛してやまぬのは、実はこの詩102なのである。

 「恵みのとき、定められたときが来ました。/あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み/塵をすら、どれほど慕うことでしょう。/(中略)/主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。」(詩102:14-15,18)



 滑りこみセーフ? 年の瀬も迫った今日(昨日かもしれない)ようやく、みなとみらい美術館で開催中の「ドガ展」を観てきました。やはり目玉はチラシやCMにも使われた〈エトワール(星)〉であるらしく、人が屯(たむろ)していた。正直、もう少し大きな絵だと思っていたので少々肩すかしの感は否めないが、却って絵の端々に目を届かせることが出来た。
 自分のなかで「〈エトワール〉=ドガ」という公式があったため、今回の展覧会は目を開かれる思いがしたものである。踊り子や湯浴みする女性の絵はさすがに画集などで見てきたから、その実物を実際目にすることにそれなりの喜びはあったけれど、逆にいえばそれ以外の新鮮な感銘は少なかった、とまでいうて良いだろう。
 今回の展覧会で自分が〈エトワール〉以上に、ほう、と息を呑んだのは、〈バレエの練習〉やニューオリンズに取材した〈綿花取引所の人々〉などである。ドガの本領発揮、という感のある前者は待ち時間を思い思いに潰す踊り子たちの仕種が非常にチャーミングに描かれていて微笑ましく思うたし、後者についてはこれが〈エトワール〉と同じ作者による作品であるか、と疑う程明るくて生き生きとした描写に惚れこんでしまった。他、初期作品にも後期の抽象的な作風の絵にも、みなそれぞれなりに良いものを感じたのである。
 もうすぐ終わるドガ展だが、機会あればもう一度、と思う後悔と執念相半ばする気持ちの忘年会帰りの夜であった。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0799日目 〈詩編第101篇:〈慈しみと裁きをわたしは歌い〉〉 [詩編]

 詩編第101篇です。

 詩101:1-8〈慈しみと裁きをわたしは歌い〉
 題詞は「ダビデの詩。賛歌。」

 ほぼ二週間ぶりのダビデ詩篇で、詩86〈主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。〉以来である。
 詩101は主の来臨を期待する気持ちと、主の目に悪と映ることを行う人々を憎み、退け、裁く、という誓いが、それぞれ吐露された詩だ。殊、「隠れて友をそしる者を滅ぼし/傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません」という第5節の詩句には深く共感し、首肯させられるところがある。
 いま手許に参考書の類がない状態でこれを書いているので、理解が行き届かなく、読解も浅くてたいへん恐縮なのだが、詩101:6-8はなにを語っているのだろう。あるがままに解釈して━━イスラエル(後には分裂した南北両王国を含んでの謂であろう)の王位を継いで玉座に坐る者は、みな、人品正しく卑しからず、かつ偽りなき者である。そうでない者は何人たりとも断たれる。━━そういうことなのであろうか。仮に違っているとしても筆者さんさんかはこの3節から成る詩句が、結構好きである。

 「わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め/わたしと共に座に着かせ/完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。/わたしの家においては/人を欺く者をわたしの目の前に立たせません。/朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし/悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」(詩101:6-8)



 JR各社のICカードが統一されるらしい。新聞の第一面でそんな記事を読んだ。東海地方の或る港町を第二の故郷とするさんさんかにはまさしく朗報だ。
 かつて覚えた憤りとはもうサヨナラだ。これからはSuicaで第二の故郷へ行くことが出来る。そこは子供時代を過ごした場所。成人してからはときどき訪れて記憶が正確無比なのにわれながら驚嘆し、最近はその記憶に助けられて小説の主要舞台の一つとなった。
 防波堤で飽きず観察した海の表情が千変万化する様はいまも胸のいちばん奥にしまってある、なににも代え難い思い出。夕陽が水平線に沈みゆくその瞬間から完全に没するに至るまでを子供ながら息を詰めて眺めたり、時化で荒れまくる海の神々しさと荒々しさを肌で体験したことは、大切な財産だ。その舞台となったもう一つの故郷へこれからはICカード一枚で訪れることが出来る。素晴らしいではないか?
 小さな旅にはSuicaとドスエフスキー、もしくはフィッツジェラルドを携えてゆこう。そうね、クリスマスが終わった翌日あたりに?◆

共通テーマ:日記・雑感

第0798日目 〈詩編第100篇:〈全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。〉〉 [詩編]

 詩編第100篇です。

 詩100:1-5〈全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。〉
 題詞は「賛歌。感謝のために。」

 喜びて歌い、讃えよ、主を。主は我らの創り主、主は我らの養い主。「感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。」(詩100:4)━━「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」(詩84:11)
 神なる主の慈しみと恵みは永遠(とこしえ)にわれらの上に続く。そう詠う詩である。虚飾なき<ほめたたえ>の詩である。
 いまはただ━━余計なことを付け加えることなくいまはただ、簡素で豊かなこの詩を唇にのぼせて、いにしえの民の感謝の歌をしみじみ味わっていよう。

 「主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」(詩100:5)



 一日の仕事を終えて帰宅したとき、そこに誰かがいて待ってくれているのは、なんと良いことだろう。家族を除けばかつて自分にそういう経験はないし、いま以てないのだけれど、想像するまでもなくそれがどれだけ幸福にあふれた出来事であるかを知っている。そんなわびしさと淋しさがわたくしに或る家族の年代記を書かせているのだが、やはり実感がないため、どうしても絵空事めいてお伽噺の域を出ない部分もあることを否定できない。
 自分がどれだけ生き永らえたとしても、この小説群が完成する日が訪れることはないのかもしれない。でも、と思うのである。いつかそんな日がやって来てくれればいい、と。そんな僥倖をわたくしにもたらしてくれる人が、現れてくれればよい、と。それがあの人であればそれに優る幸い事はないけれど、忌憚なくいって、本来あるはずであった人生を、わたくしは返してほしいのだ。なんだかセンチになっているように思われるかもしれぬが、否、これは紛うことなき呪詛であり、持て余して行き場を知らぬ想念である。情念である。
 おぐゆーさんという心に住まう生きた存在があるにもかかわらずこんなことを思うのは、寝しなのわずかの一瞬間に亡き婚約者の姿が目蓋の裏に浮かぶことが近頃よくあるからだ。これはわが命の尽きんとしていることを予告しているのか? まさか! さんさんかはよくこんな迷信めいたことを真剣に弄ぶことがある。それはさておき、目蓋の裏に浮かぶ亡き婚約者は小さな、欧米の古い邸宅にあるような祈祷所で祈っている。読者諸兄にいったことがあるか覚えていないが、彼女は敬虔なプロテスタントであった。わたくしが聖書を読むようになったのもそんな謂(いわれ)からだが、彼女の祈り終わってこちらに歩いてくるときの晴れ晴れとした笑顔を、わたくしは彼女が生きていたときに見たことがあったであろうか? そうして彼女と子供たちで過ごす昼下がりの一刻。わたくしは、おぐゆーさんという想い人がありながら、亡き女性と築かれるはずだった家庭に恋い焦がれるのだ。
 でも、信じてほしい、いま生きている人こそ大事、息をしてどこかで生きているあなたこそが大切な人なのだ、と。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0797日目 〈詩編第099篇:〈主こそ王〉〉 [詩編]

 詩編第99篇です。

 詩99:1-9〈主こそ王〉
 題詞なし。

 正義の裁き手たる主を讃える詩。
 シオン(エルサレム/神殿)に在って民の上に高く坐す主。厳格にして公平なる主を、われらは崇め、その御力と御業へひれ伏せ。なんとなれば、主は聖なる方だから。
 モーセとアロン、サムエル、ケルビムなど、過去に見た単語が出るが、もはやそれらについて改めて必要は要さない、と思う。一つだけケルビムについて記憶をよみがえらせるために、簡単に注せば、これは契約の箱の上に置かれた一対の像であった。ここから神は「ケルビムの上に座す存在」とされる。
 すなおに鑑賞してありのままに受け取ればよい。

 「主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。/神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。/我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。/あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。/我らの神、主をあがめよ。/その聖なる山に向かってひれ伏せ。/我らの神、主は聖なる方。」(詩99:6-9)



 アパートの外階段を掃除しました。陰になる蹴上の部分は苔とこびりついた土で汚れが溜まり、この数ヶ月ずっと頭の片隅で「なんとかしなくっちゃな」と思っていたのです。それを今日、ようやく腰をあげたわけですが、これがやってみると意外に大変で、1階分を綺麗にするのでやっとでした。まぁ、いちばん手間のかかる階を片附けたのですから、残りはもう少し短い時間と手間で終わらせられそう。もっとも、階段を綺麗にする、とはいうても、高水圧で行うので汚れが手摺りや脇壁の部分にも跳ねあがるので、これの掃除もけっこう大変といえば大変なのですけれどね。
 申し遅れた、この掃除に使用したのは、ジャパネットたかたで購入したケルヒャー社の家庭用高圧洗浄機(JTK25)。途轍もない水圧に最初はびっくり! でも、笑っちゃうぐらい見事に、苔や泥が剥がれ落ちてゆくんだ。10分もやればもう病みつきになりますよ。ただ、木村拓哉氏もと或る番組で発言していたが、「威力はハンパないが、水道代がベラボウにかかる」のでそれだけ覚悟しておいてください。でも、オススメお掃除グッズです。
 難をいえば、水道ホースが3mというのは短すぎるな。せめてオプション、或いは別売りという形で、10m程度の水道ホースを用意してほしい。これが、ジャパネット・ユーザーのさんさんかからのケルヒャー製品に関する要望であります。こんな良い商品なのだから、ジャパネットさん、お願いしますねっ! でも、安くしてねっ! で、余談だが……、
 昨夜の金曜ロードショー『オペラ座の怪人』、劇団四季による吹き替えは見事でしたね。お陰でじっくり楽しめました。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0796日目 〈詩編第098篇:〈新しい歌を主に向かって歌え。〉〉 [詩編]

 詩編第98篇です。

 詩98:1-9〈新しい歌を主に向かって歌え。〉
 題詞は「賛歌。」

 賛歌━━この詩はまさしく主の栄光を讃える民の歓声である。主の来臨を期待する内奥の喜びの吐露である。
 自ら創造した者へ果たした御業を讃える馴染みの表現も、本詩のなかに組みこまれると非常に坐りがよく感じられ、ようやく安住の場を見出して腰を落ち着けた━━本来あるべき位置に落ち着いた、との思いを抱くのだ。
 下には引かぬ箇所へもみな様には是非あたっていただきたい。

 「地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。」(詩98:3)

 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。/歓声をあげ、喜び祝い、ほめ歌え。/琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせて、楽の音に合わせて。/ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。」(詩98:4-6)



 聴き馴染んでくると、個性的な演奏が逆に、自分のなかでスタンダードになったりする。ブラームスのピアノ曲についていえば、アファナシエフの演奏がそれにあたる。結局、シューベルトもムソルグスキーも未だ買わずにいるが、ブラームスの演奏だけでこの人については満足できているのだ。透明感のある響き、くすんだなかに時折きらめく曙光のプリズムが、心を惹きつけてやまないのである。
 ほぼ同じ曲目を残しているグールドのCD、こちらもそれ程頻度は高くないが聴いている。けれども、ふしぎとグールドの演奏が最初持っていた魅力、というか、心に訴えかけてくる力や吸引力が、聴くごとに衰えてゆくのを感じているのも否定は出来ないのだ。
 アファナシエフとグールドの演奏を、自分のなかで分けているものがあるのは明らからしいが、それがなんなのかは自分でもよくわかっていない。いつかそのうち、一時期よく聴き耽ったオピッツの全集などを元にしてつらつら考えてみて、このアファナシエフとグールドのブラームスを自分のなかで分けているものについて考えをまとめたい、と思う。
 一時期よく耽った、といえば、ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』やラム『エリア随筆』を枕頭の書としていた時期があって、いまも再た枕頭に侍らせているが、或る晩ふと、自分がこれまで生きてきた証しの一つとして、エッセイ集を編もう、と思い至った。既にブログやSNSで発表済みの作品も含めてのエッセイ集/ノートで、これは自分の死後に遺すことを企んでいるため、内容や文章について最後まで自分自身が責任を持つことを請け負った作物だけが掲載の栄誉に与ることとなる。そこには、もしかすると前記のアファナシエフとグールドのブラームスについての考察が書かれているかもしれない。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0795日目 〈詩編第097篇:〈主こそ王〉〉 [詩編]

 詩編第97篇です。

 詩97:1-12〈主こそ王〉
 題詞なし。

 前の詩96は諸国の神々をすべてむなしいものとし、その民に主の御名を唱えよ、と、いわば改宗を暗に促す内容であったが、この詩97も同じ傾向の作物である。ここで諸国の民は偶像に仕える者とされ、更に「むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける」(詩97:7)とまで断言される。だから、われらが神、われらが主の信仰へ改宗せよ、と。
 信仰を同じにするならば出自は問われたりしない、なぜならば主の前にみなが平等だからである。━━これは、なんと行き届いた配慮であろう。身分も財産も言葉も肌の色も主義主張さえも、主を信じ、主を敬い、その道を正しく歩くならば、特に問題とはされない。この平等さが根本にしっかり据えられていたことが、キリスト教が世界第一の宗教になり得た一因かもしれない。が、<信仰>云々はともかくとして、<なにか>の前に万人は平等って、救われる気持ちになりますよね。でも一方では要らぬ混乱も招きそうで……はあ、やれやれ、ってところですか。

 (嗣業の民であろうと諸国の民であろうと)
 「主を愛する人は悪を憎む。/主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。/神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。/神に従う人よ、主にあって喜び祝え。/聖なる御名に感謝をささげよ。」(詩97:10-12)



 ラム『シェイクスピア物語』を読了し、ようやく昨日からドストエフスキー『白痴』再読を開始したのだが、今回は意外と内容やらなにやらをしっかりと覚えていて、うれしい限りである。もっと驚いたことに、物語の新鮮さは失われず、まるでブランクがまったくないかのような再びの開幕であったのだ。嗚呼、読者諸兄よ、果たしておわかりいただけるだろうか、この感覚を? ただちょっとだけ肩すかしを喰らったのは、下巻のまだ1/3にも至っていなかった、ということ。もう少し先まで読んでいたような気がしたのだがなぁ……。それだけ内容が濃かった、ということか。……まぁ、そういうことにしておこう。
 ━━ところで昨日の帰り、ふと途中下車した隣り駅のサンマルクカフェで聖書のノートを記した帰り、これまたふとした思いつきで反対側の古書店へ行ったのだが、なんと! 旺文社文庫から刊行されていた『シェイクスピア物語』上下巻(大場建治訳)を310円で発見、購入したのだ! こればかりは迷わず買って帰りました。いや、帰り道の国道脇の歩道を歩くのは寒かったよ。初版本の挿絵が掲載されているのが特徴だが、訳文は松本訳より平易で親しみやすい。でも、やっぱり「ですます」調に馴れた身には、「である」調の大場訳に若干の違和感を覚えるのは否定できません。充実した解説は読み応えあり。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0794日目 〈詩編第096篇:〈新しい歌を主に向かって歌え。〉〉 [詩編]

 詩編第96篇です。

 詩96:1-13〈新しい歌を主に向かって歌え。〉
 題詞なし。

 支配者としての主を頌する詩。
 諸国の神はすべてむなしく、他を顧みない。が、王なる主はイスラエルのみならず諸国の民を公平に裁く。主はすべての創造主なればこそ、諸国民はわれらと共に主の御名を唱えて栄光に帰せよ。「供え物を携えて神の庭に入り/聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」(詩96:8-9)
 主はイスラエルとユダを懲らしめ、同時に嗣業の民へ危難が迫ると敵を討ち滅ぼした。ダビデに代表される為政者、或いは詩篇の作者の多くは敵の殲滅を主に願い、それは概ね果たされた。が、視点を変えれば、嗣業の民が懲らしめられたことも敵が倒されたことも、なべて主がすべての生きとし生けるものを公正に扱っている証左である。この詩はそれを━━当たり前すぎて、ゆえにときとして見過ごしがちな<視点の転換>を読者に要求する作物といえないか。

 「主は来られる、地を裁くために来られる。/主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。」(詩96:13)



 インフルエンザの予防接種を受けてきました。雨の降るなか、傘を差してとぼとぼと。内科の待ち時間は10分に満たなかった(ラムの『シェイクスピア物語』読了!)。問診のあと、また少し待って女医さんに注射を打たれる。今年、ワクチンはじゅうぶんに行き渡っているらしい。でも、予防接種したからもう安全、大丈夫、というわけではない。なおさら、<自己を律せよ>の精神が大切だ。用心しよう。帰途、道の向こうのリサイクル本屋にて、ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》のCDを買いました(EMI ドミンゴ=シュテンメ他、パッパーノ=コヴェント・ガーデン国立歌劇場管弦楽団他)。
 帰宅しての夕食後、『ジュリー&ジュリア』を観ました(2009 米)が、感想は「詩編」終了後に回すとします。後日のネタは仕込んでおくに越したことはありませんから。
 残りのスペースで先程ちょっと出したラムの『シェイクスピア物語』のお話をします。最後に読んだ「オセロ」は待ち時間などを使って途切れがちに読んだためか、実は印象が散漫です。作者の評価はこれが最上の部類に入り世評も同様らしいが、途切れ途切れに読んだことも手伝ってわたくしはどうにも首肯しかねる。原作は1回しか読んでいないからねぇ、ヴェルディの同名オペラは好きで好きでたまらないのだが……。でも、これだけの紙数でこの心理劇をここまで見事にまとめられるんですね。凄いや。ラムの才能に感嘆です。原作が優れていても……というパターンはよくありますから。いつかこれを原文で読みたい。新潮文庫は一部を省くので、明日、昼休みに全訳の岩波文庫を買おうかな。◆(2010年12月14日 00時49分)

共通テーマ:日記・雑感

第0793日目 〈詩編第095篇:〈主に向かって喜び歌おう。〉〉 [詩編]

 詩編第95篇です。

 詩95:1-11〈主に向かって喜び歌おう。〉
 題詞なし。

 楽の音に合わせてわれらが主を讃えよう、われらは主の前にひれ伏して拝む嗣業の民、われらは今日こそ主の声に聞き従わなくてはならない。そうして主は語る、メリバヤマサで自分を試した民に怒り、荒れ野での彷徨える40年とカナン入植を拒んだことを。
 「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。」(詩95:7)
 後半に、出エジプト後のイスラエルがモーセを通して紙を試し(マサ/出17:7)、争った(メリバ/出17:7、民20:13)不信仰の原点ともいえる事件について、敢えて主の言葉という形で持ち出したのは、この詩が民族反省、信仰回復を促すものであることを暗に示していようか。そうすると、先に引いた「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民」という詩句も、見掛け以上の重いものを含んでいるように思えてならないのである。



 今年観た映画のベスト5とか、考える映画好きは結構多くいると思うのだが、どうだろうか。ご多分に洩れずさんさんかもこれに挑戦してみる。が、観た作品を忘れているケースがあって我ながら唖然としてしまいました。購入したパンフレットやブログ原稿、或いは友人知人への手紙・メールを片っ端から引っ張り出して記憶を補強した上でこのベストを選出したことを、ここにお断りしておきます。
 枕はここまでとして、では、ちょっと挙げてみましょうか。あくまで今年劇場にて封切られ、鑑賞したものであることをご了承ください。
 邦画では、『SPACE BATTLE SHIP ヤマト』、『恋の正しい方法は本にも設計図にも出ていない』、『オカンの嫁入り』、『ソラニン』、『RAILWAY』、洋画では『月に囚われた男』、『シャッターアイランド』、『セラフィーヌの庭』、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』、『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』の、以上10作が今年のベスト作品。
 順位をつけるのは身を切られる思いなのだが、「えいやっ」とばかりにランク付けすると、うーん……、邦画の第1位は『オカンの嫁入り』、洋画では『月に囚われた男』かな。2位は『RAILWAY』と『シャッターアイランド』です。これだけはもう当初から決めていた順位なのだ。3位以下は、邦画では順番に『恋の正しい方法は本にも設計図にも出ていない』と『SPACE BATTLE SHIP ヤマト』が同率4位、そうして『ソラニン』。洋画では『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』、『セラフィーヌの庭』、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』となります。ハリポタはPART2公開後に判断すべきでは、と迷いましたが、やはりここに入れておくとします。特別枠として、『シネ響 マエストロ6』シリーズとLivespireシリーズ、METのオペラ映画シリーズを挙げておきます。
 それにしても、こんな暇潰しをしていると一年の暮れつつあるのを実感しますね。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0792日目 〈詩編第094篇:〈主よ、報復の神として〉〉 [詩編]

 詩編第94篇です。

 詩94:1-23〈主よ、報復の神として〉
 題詞なし。

 おなじみということは主要な、と言い替えてよいのでもあろう。この詩94のテーマのことだ。神に逆らう者が神に従う人を攻撃する、どうか主よ、彼らに報復して彼らを滅ぼし尽くしてください。「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。」(詩94:1-2)
 ふと思うたのだが、なにか、或いは誰かを<信じる>というのは、恋にも等しい感情なのだろうか。思慕と信頼が底にある限りは、あんがい両者はとても近しいものであるのかもしれない。この詩句、即ち、━━
 「わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました。」(詩94:19)
━━を読んで、読み返していると、そんなことを思うのだ。あなたはどうだろうか? ここで訳された「楽しみ」は「支え」もしくは「潤い」という意味合いで取れば良かろうと思う。

 「(主に諭され教えられた)その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。」(詩94:13)
 そうしてやがて、
 「正しい裁きは再び確立し/心の真っ直ぐな人は皆、それに従うでしょう。」(詩94:15)



 「道未だ遠し」の感がある。「詩編」は既に半分以上を消化、あと60篇弱を残すばかりとなって先がようやく見えてきた気もする。が、旧約聖書の未読部分にはまだ「箴言」や「雅歌」、「イザヤ書」などの他、「エゼキエル書」や「ダニエル書」といった預言書が全巻残されている。旧約聖書の最後のページにたどり着くのは、果たしていつのことだろう。旅は始まってだいぶ経つが、目的地ははるか先の場所にある。旧約聖書が終わるまでにあと1年強、旧約聖書続編と新約聖書についてはそれぞれ約18ヶ月程度は必要となろう。
 それまでむろん、このブログは続けるが(それだけは唯一確かな約束として、諸君と交わそう)その折節のわたくしがどうなっているかはまったくわからない。人生とは有為転変するものだ。道の先にいる自分がどこにいてなにをしているのかなんて、皆目見当が付かない。この年齢になると、人生とはままならぬものだ、と知り、人の裏切りや誹謗中傷に遭うことも諦め半分に受け容れられるようになる。人生をありのままに受け容れられるのはよいことなのかもしれないが、それに慣らされてしまってはよくないと思う。
 人生のなかばの時期、ほぼ毎日聖書を読んでそれについて考えていると、ああ、これはわかるな、と感じる部分も多々出て来る。本を読むにはそれにふさわしい時期がある、と、わたくしはいま聖書をゆっくり読みながら、噛みしめて思うところ多々なのである。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0791日目 〈詩編第093篇:〈主こそ王〉〉 [詩編]

 詩編第93篇です。

 詩93:1-5〈主こそ王〉
 題詞なし。

 短いながら厳かな調べに満たされた詩である。
 神の御座はゆめ揺らぐことがない、それは永久(とこしえ)に据えられるからだ。主の御力は「大水のとどろく声よりも力強く」(詩93:4)てあり続ける。

 「主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。/日の続く限り。」(詩93:5)



 アボガドをマヨネーズとマスタードで和えてピクルス少量を加えると、アボガドが苦手な人でもちゃんと食べられるようになります。今夜(昨夜ですか)は鶏のムネ肉を焼いてメインのおかずにしたのですが、付け合わせは、ブナシメジとブロッコリーをさっと炒めたものと件のアボガドを和えたもの。あとは、サラダです。やっぱりアボガドとマスタード、或いはマヨネーズの組み合わせって最強ですね。
 さて。スカパー!のチューナーをHDに変更したので、現在は、未契約のchもいろいろ視聴できているのですが、なかでもやっぱりつい観てしまうのはWOWOWです。スカパー!にはもともとナショナル・ジオグラフィック・チャンネルを観たいがために加入したようなものですから、いまWOWOWで昼間に再放送中の『BBC EARTH 2010』にはすっかりはまっているのも無理からぬところではありましょう。
 まだシリーズ第1作目<グレートネイチャーズ>と第2作<イエローストーン>しか視聴していませんが、いずれも単なる自然ドキュメンタリーには留まらないハイ・クオリティです。画面から聞こえてくる些細な音、画面いっぱいに広がる映像の端々にまで五感を集中させてしまう番組なんて、そうそうあるものではない。HV映像で家庭で楽しめるのはしあわせだけれど、これは是非音響効果の整った映画館でも体験したいものだ、と思うのであります。それだけ、HVの画質の良さと丁寧に作られた映像にただただ圧倒された、ということです。
 WOWOWのHPに拠れば、来春には新シリーズ『BBC EARTH 2011』がスタートする由。第1作はアフリカの大地溝帯の生態を扱った<グレートリフト アフリカの鼓動>。これも楽しみです。そういえば、来週からは『CSI:NY』のシーズン5の再放送、来年はシーズン6の日本初放送があるんだよな……。うーむ、HDDは足りるのか? 帰宅した晩や休みの日などに、必要なものはせっせとDVDに落としましょう。
 でも、なぜクラシカ・ジャパンはHDに切り替わらないのだろう。或る意味、いちばん望まれているchと思うのだが……ああ、そうか、視聴料金がいま以上に高くなると加入者激減の危機に見舞われるからかっ!? まぁ、頑張っていただくしかないですね。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0790日目 〈詩編第092篇:〈いかに楽しいことでしょう〉〉 [詩編]

 詩編第92篇です。

 詩92:1-16〈いかに楽しいことでしょう〉
 題詞は「賛歌。歌。安息日に。」

 安息日の所以を覚えていらっしゃるか。それはこうである、創2:2-3に曰く、「(天地万物が完成した翌る)第七日の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」
 これを踏まえて出20:8でも、安息日を守れ、この日を聖別せよ、いかなる仕事であろうと手を休めよ、と十戒の一つに定められる。これは後にも折に触れて語られた。
 詩92はこの安息日に人々によって歌われたのだろう。神の創造の御業を讃え、神の御手の業を喜び祝う。仮に敵が迫ろうとも神なる主はこれを散らす。神を敬う素直な感情に彩られた詩で、好もしい読後感を持ったのだけれども、でも、今一つ心に訴えかけてくるものを感じないのは、もしかすると仕方のないことなのだろうか? たとえば、古典和歌にある古雅今情に、現代人や外国人がピンと来ないのと同じように━━?

 「神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。/主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。/白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし/述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。」(詩92:13-16)◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。