第0872日目 〈箴言第1章:〈序〉、〈父の諭し(一)〉&〈知恵の勧め(一)〉with「SMAPのポジティブダンス」って歌さぁ、〉    [箴言]

 箴言第1章です。

 箴1:1-7〈序〉
 これはダビデの子にしてイスラエルの王、ソロモンがわれらへ残した箴言の集である。人が人としてして正しくあるため折に触れ語られた言葉、若者にも賢人にも聡明な者にも益となるであろう言葉を集成した書物である。
 「主を畏れることは知恵の初め。/無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(箴1:7)

 箴1:8-19〈父の諭し(一)〉
 わが子よ、と呼ばわる声。わが子よ、父と母の言葉を軽んじ、蔑ろにしてはならない。それは頭上に戴く冠、首許を飾る装いの品。彼らの経験から生まれた重みある言葉。
 ならず者、浮浪者(ふらもの)と徒党を組むな。奴らの甘言は必ずお前を滅ぼす。油断してはならぬ、誘いの言葉に耳を傾けるな。
 「待ち伏せて流すのは自分の血。/隠れて待っても、落とすのは自分の命。/これが不当な利益を求める者の末路。/奪われるのは自分の命。」(箴1:16-19)

 箴1:20-33〈知恵の勧め(一)〉
 知恵は巷にあふれ、誰しもそれに触れて糧とすることができる。だのに、なぜ浅薄な者、愚か者らは一人としてこの知恵の在処(ありか)を求めないのか。奴らは知恵を拒み続ける、自分たちの偏狭な価値観に従って。
 まあ、いい。奴らが恐怖に襲われて知恵を求めても、奴らは知恵を見出すことはできないのだから。「浅はかな者は座して死に至り/愚か者は無為の内に滅びる。/わたしに聞き従う人は確かな住まいを得/災難を恐れることなく平穏に暮らす。」(箴1:32-33)
 「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら/見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。」(箴1:23)

 ○第1章というのも手伝って、この「箴言」が如何なるために残されたのか、ここからなにを、どう学べばよいか、が〈序〉にて語られます。21世紀を生きるわれらもこの書物の言葉へ虚心に耳を傾け、ここからなにかを学び、感じ取らねばらないように感じます。
 〈前夜〉にてこれを「世俗的」と説明しましたが、それは主を思う生活がベースにあってこその意味合いであります。それが早くも第1章で提示されているわけですが、こんな風にしてそこかしこに、主を想え、という類の文言は出てくる。こうした点に、昨日もお話ししたこの「箴言」が聖書のなかにある本来の理由が求められるように、わたくしは思うております。



 心配されることがはた迷惑というのも事実であろうけれど、それでも心配なのです。
 ところで。「SMAPのポジティブダンス」って歌、アルバム『We are SMAP』でも最強の歌、一、二を争う名曲ではありませんか?◆

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第0871日目 〈「箴言」前夜withエッセイ、改稿か差し替えか?〉 [箴言]

 明日から聖書読書ノートを再開、20番目の書物「箴言」に入る。旧約聖書の折り返し点ともなる書物だ。
 「箴言」は別称“ソロモン王の格言集”。
 かつて読んだ「列王記・上」第5章〈ソロモンの統治とその繁栄〉にこんな一節があった。曰く、「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった」(王上5:9)と。続けて、その豊かな知恵と洞察力によって生み出されて「語った格言は三千」(王上5:12)ある、と。
 これの前に読んだ「詩編」所収詩篇の過半が作者をダビデ王になぞらえた如く、その次に控える今回の「箴言」へ収められる箴言、格言の多くは作者がソロモン王になぞらえられる。個人的にこの構成、配置は面白い、と思うています。
 むろん、なぞらえられる、という以上、すべてがソロモンに帰されるのではない。編纂の過程で作者をソロモンへ仮託された格言が混入した可能性も否定できぬ。いまあきらかに王以外の人の格言とわかるのは第30章と第31章で、それぞれヤケの子アグルとマサの王レムエルの母による託宣、諭しの言葉だ。
 いままで読んできたなかで「箴言」は或る意味、雰囲気を異にする書物である。なにより面喰らう(かもしれない)のは、主への信仰や讃美などというたものが前面に押し出されていない、否、それそのものが影を潜めている点であるまいか。それだけにここで語られる格言は大抵が世俗的である。
 が、「世俗的」という面に拘泥しない方がよい。すべての箴言は「主を畏れることは知恵の初め」(箴1:7)、「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め」(箴9:10)、という言葉の下に集約される、とはジークフリート・ヘルマンの指摘である(『聖書ガイドブック』P110 教文館)。ソロモン王の格言集という世俗的、日常に根差した教えの書物と雖も、「箴言」とて聖書のなかに然るべき理由があって配置された書物なのだ。主への畏れと敬いによって育まれた生活のなかで自ずと芽生えた日常の知恵、人生の哲学であるなら、けっして「世俗的」という一言を以てのみ括ることができないことにも納得できよう。
 「箴言」は全部で31章。ちょうど一ト月後には読み終わる分量でもある。今回のノートを通じて興味を抱かれたらば、是非、実際にご自身でお読みいただけるとうれしい限りです。



 顧みれば前回の「日々の思い・独り言」へ収めた作物には不十分なものが幾つかある。一連の小林多喜二絡みのエッセイとスウェーデン音楽にまつわるエッセイ二作のことだ。
 これらについては機を見て改稿の大鉈を揮うか、他の、もっと自分でも満足できる━━自分の名に於いて公開することに自負と責任を持てる作品と差し替えるか、いずれかの選択を結構本気で検討しているところである。実際の行動に移したときはご報告します。
 先日、と或るブックオフで村上春樹の初期短編集『回転木馬のデッド・ヒート』の単行本を200円で購入しました。既に文庫本で読んでいたけれど、なんかね、単行本でも欲しくなってさ……初版・帯附きだったしね。◆

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