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第0943日目 〈コヘレトの言葉第12章:〈青春の日々にこそ、お前の造物主に心を留めよ。〉&祝! ウッドハウス文庫化!!〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第12章です。

 コヘ12:1-14〈青春の日々にこそ、お前の造物主に心を留めよ。〉
 年輪を重ねて人生訓めいたことを口走らぬ青春の日々に、われらを造り給ふた神を想い、いつでも、いつまでも心に留めるようにしなさい。生命(いのち)が終焉する日は必ず来る。一歳でも、一日でも若いうちから、あなたはあなたの神を想い、心へ留めておくように。
 生きていれば必ず死ぬ、男も女も。否、人間ばかりではない、生きとし生けるものはみな━━。われらは永遠の家へと去り行く、そうして、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(コヘ12:7)のです。それを、あなたは忘れないようにしてください。
 空しい、とコヘレトはいいました。なんと空しかったか、と。
 ……。
 伝道者コヘレトは深めた知識を用いて民を導き、かつ多くの格言を吟味・研究して編み、「これぞ」と思われる語句を求めて真理の言葉を探求しました。
 が、この世の道理、真実は、どれだけ学んでもきりがなく、たとえ書物に著してみたところでその一端すら明らかにはなりません。根を詰めればしんどくなるだけ。「勉強ばかりで遊べない、ジャックはいまに気が狂う」というではありませんか。
 そんなコヘレトが耳を傾け、思索した結論は、「神を畏れ、その戒めを守れ」(コヘ12:13)という至極尤もで、単純なことでありました。これが、すべてなのです。
 「神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。」(コヘ12:14)

 極端なお話をします。「コヘレトの言葉」はこの第12章だけじっくりと、再読を繰り返せば、他は忘れていい。この章こそが肝心な部分であり、胆となる箇所なのです。みなさん自身で聖書の当該頁を繙いて音読・黙読、精読していただければ幸いです。
 今回の文体について一言。いざノートを取ろうとした段になって、これまでのような文体ではこの章の内容やメッセージを伝えるにふさわしくない、と判断。語りかけるような文体が似つかわしい、ならば「ですます」調で著すよりない━━その結果が、何度も消しゴムをかけて成ったこの文体、この文章です。浮いているでしょうか?
 コヘ12:5にアビヨナという固有名詞が登場します(「アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い/アビヨナは実をつける」)。これは、ケーパーを指すとされ、そのつぼみは酢漬けにして食べられるが、一方で強壮剤ともなり催淫薬に用いられもする由。
 ━━本日を以て「コヘレトの言葉」を終了、次回からは伝ソロモン作の恋愛歌「雅歌」を読みます。



 慶賀である。遂にP.G.ウッドハウスが文庫で読める。単行本の傑作選から、まずジーヴス&ウースターがお目見えだ(文春文庫)。われらは文庫をジーンズの尻ポケットへ突っこんで身軽に動き、いつでもどこでも、春風駘蕩、悠々閑々の世界に心遊ばせ、この世の憂さを一時なりとも紛らわそう!◆

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第0942日目 〈コヘレトの言葉第11章:〈あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。〉&メモ帳が欲しい。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第11章です。

 コヘ11:1-10〈あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。〉
 水に浮かべて流しておいたパンを月日が経った後に見出すだろう。そのパンを、あなたは何人とでも分けよ。パン、それは即ち<福>。福を惜しまず、福を分けよ。これから先、国にどんな災いが起こるかわからないのだから。そのときに備えて、見出したパンを皆で分けるよう心構えをしておけ。
 「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。/実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。/光は快く、太陽を見るのは楽しい。/長生きし、喜びに満ちているときにも/暗い日々が多くあろうことを忘れないように。/何が来ようとすべて空しい。」(コヘ11:6-8)
 本章は以下の2節で結ばれる。
 「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。/青年時代を楽しく過ごせ。/心にかなう道を、目に映るところに従って行け。/知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。/心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。/若さも青春も空しい。」(コヘ11:9-10)

 第11章はこれまでのようなダイジェスト━━圧縮がむずかしい。悩んだがこれが最善の方法だろう。
 今日は感想でなく、補足を試みよう。本章を読んで19世紀アメリカの詩人H.W.ロングフェローの『人生讃歌』という詩を思い出した。その一節を以下に引く。曰く、━━
 「未来を頼むな、いかに心地よくとも!
   死にたる過去にはその死にたる者を葬らしめよ!
  活動せよ━━生きた現在に活動せよ!
   内に勇気、頭上に神をいただいて!」
  Trust no Future,howe'er pleasant!
   Let the dead past bury its dead!
  Act,--act in the living Present!
   Heart within,and God o'erhead!
 毀誉褒貶もあるようだが、心根のすなおな詩であると思う。直接的に感情へ訴えかけてくるあたりは、プロテスト・ソングの原型である。「ピューリタン精神を世俗化し、ごく日常的なやさしい言葉を用い、強弱4歩格、隔行押韻の4行連で整然と表現」した、「アメリカの人生詩の記念碑的作品である」(P37-8)と、『アメリカ名詩選』(岩波文庫 ※第0939日目参照)の脚注は指摘する。ウッドハウスもこの詩の一節を小説で使っていた。
 ……引用ばっかり。



 手帳を贈られても殆ど使い道がない。私的な予定は新聞折込みに入る毎月のカレンダーでじゅうぶん。むしろ、欲しいのはメモ帳。無地かドット罫で、年度が替わっても使えるメモ帳だ。ヘミングウェイみたくモルスキンのだったらうれしいな?◆

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第0941日目 〈コヘレトの言葉第10章:〈死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。〉&シンプル・ライフを希求して。→蔵書整理から!〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第10章です。

 コヘ10:1-20〈死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。〉
 「僅かな愚行は知恵や名誉よりも高くつく。/賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。」(コヘ10:1-2)愚者は道を行くだけで己が愚かであることをふれて廻る。
 行動する前に備えと用心があれば、わが身へ災いが降りかかることはない。賢者の言葉は恵み、愚者の言葉は自分自身への罠。愚者は口数が多く、戯言を以て口を開き、譫言を以て口を閉ざす。
 他人を呪う言葉を吐くな。空の鳥がそれを伝え、翼あるものがそれを運ぶ。善かれ悪しかれ、感情や陰口は必ず相手も知るのだから。
 太陽の下で行われるなかで殊に愚かしいのは、王が召使いの如く扱われ、役人が王侯の如く振る舞うことだ。逆に幸いであるのは、王と役人がそれぞれの職分を果たして力に満ちている国だ。

 「主人の気持ちがあなたに対してたかぶっても/その場を離れるな。/落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。」(コヘ10:4)

 「食事をするのは笑うため。/酒は人生を楽しむため。/銀はすべてにこたえてくれる。」(コヘ10:19)

 ここでは賢者或いは賢さの、愚者或いは愚かさの有り様が、直接間接に語られます。
 知恵の備えと事前の用心ができていれば、災難を回避することはできる。なぜなら、災難に直面したときの準備と心構えが、その人にはあるからです。
 例はずっと卑近になりますが、わたくしが仕事や私用で外出するとき、鞄のなかにノートと筆記用具と簡単な辞書字引の類を必ず入れておくのも<備えと用心>のため。<備えと用心>を欠いたときに限って、それができていないことから慌てるケースが勃発する。まさしく、「必要なのにないよりも、あるのに必要ない方がいい」“It's better to have and don't need/Than need and don't have.”というわけであります。
 因みにこの文言は、ドン・コヴェイが1974年に放ったヒット曲の一節であります。いまはヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの『バック・トゥ・ザ・ルーツ~グレート・アメリカン・ソングス・トリビュート』“FOUR CHORDS AND SEVERAL YEARS AGO”(WPCR-30)に彼らのカヴァーで収められ、聴くことができます。



 そろそろ本気で蔵書(という程でもないが)の整理をしなくてはならない。やけにこれらが鬱陶しく感じるときが、あるのだ。書類やらチラシやら、明細書なんかもあったりして作業に着手するのも気が重いのだけれど。
 極めて物が少ない生活を真剣に希求するおいら。身軽に生きたいな。嗚呼、物を潔く処分できる性格になりたい。◆

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第0940日目 〈コヘレトの言葉第9章:〈わたしは心を尽くして次のようなことを……〉&ドストエフスキー『悪霊』、「スタヴローギンの告白」を読み終えて。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第9章です。

 コヘ9:1-18〈わたしは心を尽くして次のようなことを……〉
 万人は神の前に平等である。誰の身にも同じことが起こり得る。職業や身分、人間の貴賤に関係なく。良いことも悪いことも、同じように誰の身にも臨むのだ。その上、生きている人間の心は悪に満ち、思いは狂い、死を待つだけと来ている。が、それでも生きてさえいればまだマシか。死者はなに一つ感じない、なに一つ知らないのだから。この世の営みになんの関わりも持たないのだから。生者のように突然不幸に見舞われたり罠にかかったりもしないのだから。
 だから、あなたは喜んであなたのパンを食べ、あなたの酒を飲むがいい。神はそんなあなたの業を受け入れてくれる。
 「太陽の下、与えられた人生の空しい日々/愛する妻と友に楽しく生きるがよい。/それが、太陽の下で労苦するあなたへの/人生の労苦の報いなのだ。」(コヘ9:9)
 (その計らいに、その言葉に感謝!;さんさんか独白)
 ……知恵は力に勝るが貧しい人のそれは侮られ、その言葉は顧みられない。それでも、「支配者が愚か者の中で叫ぶよりは/賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。/知恵は武器にまさる。/一度の過ちは多くの善をそこなう」(コヘ9:17-18)とわたしコヘレトはいおう。

 良いなぁ……というのが、初読から今日に至るまで変わらぬ感想であり、印象であります。
 人間誰だって不幸に見舞われたり幸福に授かることもあるけれど、それが万人は神の前に平等なのだ、ということである。良い人、神の目に正しいと映ることをしている人だけが幸福で、悪い人、即ち神の目に悪と映る行いをする人だけが最終的に不幸に遭う、というのは、神の側にしてみれば到底あり得ぬ理屈なのでしょう。
 万人が平等というのは決して<博愛>ではない。誰の身にも不幸なことも幸福なことも臨みますよ、とは或る意味に於いて、神から民への、仮借なき仕打ちでもあるのです。楽しみも苦しみも、歓びも悲しみも、等しく誰にでも降りかかる、ということなのです。わたくしはそう思います。
 愛も憎しみも人間は知らず(コヘ9:1)、「時と機会はだれにも臨むが/人間がその時を知らないだけ」(コヘ9:11-12)なのです。



 ドストエフスキーでしたね、覚えていますよ。『悪霊』で「スタヴローギンの告白」を含めて第2部を読了した、というお話でした。本来の流れの通り、「イワン皇子」のあとに「告白」を読み「ステパン氏差押え」に戻りました。
 就中「スタヴローギンの告白」にはページを繰る手が震えてきました。息を吐くのも忘れるぐらいに没入し、その畳みかけてくるような迫力に圧倒されて、時間の経過にさえ無頓着になりました。あの時代によくここまで書いたなぁ。なにかを語ろう、話そうとすると途端に濡れたティッシュペーパーのようにぼろぼろになって、指の隙間からこぼれ落ちてゆく━━それぐらい、「スタヴローギンの告白」は衝撃的で強烈な印象を持つ章なのです。でも、押収されたままという告白文の2枚目は気になりますね、やっぱり。
 『悪霊』をドストエフスキー作品のなかで特に好むという人がどれだけいるかわかりませんが、少なくとも5大長編のなかでも頂点に屹立する作品であるとわたくしは信じて疑わない者であります(『罪と罰』よりも好きです)。
 いよいよこの作品は最後の大きなクライマックスへ至らんとしている。祭の始まりだ。カタストロフ……。◆

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第0939日目 〈コヘレトの言葉第8章:〈「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」〉&ヘンデル《メサイア》のCDを買いました。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第8章です。

 コヘ8:1-17〈「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」〉
 組織内で上手くやってゆくには、上に立つ者の言葉を守り、不快にさせないようにすることだ。上に立つ者、即ち王は気まぐれ。その言葉は絶対。不快なことに固執するな、命令に従うがよい、そうすれば不快な目に遭うことはない。
 神を畏れる人はそれゆえにこそ幸福になり、悪人は畏れぬゆえに幸福にはなれない。が、この道理が必ずしも正しく働くわけではない。神の畏れる人が不幸な目に遭い、神を畏れぬ人が幸福を味わうことがある。空しいことではないか。
 だから、とわたしコヘレトはいおう、だからわたしは快楽を讃えるのだ、と。神を畏れようと畏れまいと、人間にとって飲み食いして楽しむ以上の幸福はない。これが日々の労苦に添えられた、一時(いつとき)の愉悦。
 「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟っていない。」(コヘ8:16-17)

 生きていればやり切れなくなることもありますよね。なんでアイツが……とか、やってらんねーよな、とか、まぁ、そんな理不尽なことが、あれやこれやと。空しいよね。そんなことを、本章の前半では語っています。正直、勤め人の身には、応えるものが若干ありますけれど。
 だから、というのですね、だから生きている間は(身を持ち崩さぬ程度に)飲み食いして快楽を経験して楽しみましょうよ、と。限りある人生、少しでもバラ色に近づけようじゃん? 「日々の労苦に添えられた、一時(いつとき)の愉悦」がなかったら潰れちゃいますよね。
 今も昔も人の生きる時代はなべて「人間が人間を支配して苦しみをもたらすような」(コヘ8:9)時代なのです。



 本日05月09日はアイスクリームの日。アメリカの詩人ウォーレス・スティーヴンズの詩、即ち「アイスクリームの皇帝」“The Emperor of Ice-Cream” を思い出します。全文を知りたい方は亀井俊介・川本皓嗣編『アメリカ名詩選』(P140-43 対訳 岩波文庫)を、部分的でも構わなくて序に20世紀の吸血鬼小説の傑作を堪能したい向きにはスティーヴン・キングの『呪われた町』(集英社文庫)をお奨めします。
 今日(昨日ですか)タワーレコードで棚をあちこち見ていたら、ヘンデルのオラトリオ《メサイア》のCDがありました━━しかも、懐かしい演奏で! 既に何年か前に或るシリーズの一枚として出ていたその音盤が、更に今回1,000円を切るバジェット・プライスでお目見え。アンドルー・デイヴィス=トロント響=トロント・メンデルスゾーン合唱団、キャスリーン・バトルやサミュエル・レイミーらが独唱を担当する1986年録音のEMI盤がそれです。バトルやレイミーの声を聴いたのは、この《メサイア》が初めてだったなぁ。
 これを書きながら聴いているのですが、ああそうだ高校生の頃に聴いてこれをきっかけにクラシック音楽就中声楽に嵌ったんだ、と……最初に聴いた演奏の感覚って、何十年経っていてもしっかり覚えているものなんですね。あの時代の自分を取り巻いていた空気や当時の様々な気持ちが、こうして耳を傾け音楽がスピーカーから流れ出た途端によみがえってきました。
 わたくしにとって《メサイア》のスタンダードはこのA.デイヴィス盤であり、これをようやく押さえた以上は安心して他の演奏家の《メサイア》をあちこち聴き耽ることができます。記憶や印象という漠然としたものではなく、いつでも最初の感動的な出逢いを果たしてこれが自分にとっていちばん良い演奏だと断言できる基準が、こうしていつまでも手許に置いて確認することができるようになったのですから。何人がどうこういおうとも、この録音はわたくしにとって永遠のマスターピースに他なりません。
 ドストエフスキーの『悪霊』は……、いや、これは明日の話題に取っておきましょう。
 母の日を今日月曜日と勘違いしていたさんさんかがお送りしました。◆

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第0938日目 〈コヘレトの言葉第7章:〈名声は香油にまさる。〉&いつかその内、ラヴクラフト『文学における超自然の恐怖』(学研)を書こう、お披露目しよう、とつぶやいてみる。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第7章です。

 コヘ7:1-29〈名声は香油にまさる。〉
 死ぬ日は生まれた日に優り、弔いの家に行くのは酒宴の家へ行くのに優る。━━これはどういうことだろう。生きている間は気附くことのなかった真実、深い哀しみの底にある静かな歓喜を経験するからだ、ということである。
 賢者も完全な人間ではない。虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失うだろう(※)。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(マタ6:13)
 コヘレトはいう、曰く━━
 「この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。/善人がその善ゆえに滅びることもあり/悪人がその悪ゆえに長らえることもある。/善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。/悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。」(コヘ7:15-17)
 また、━━
 「善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。/人の言うことを一々気にするな。/そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる。/あなた自身も何度となく他人を呪ったことを/あなたの心はよく知っているはずだ。」(コヘ7:20-22)
 コヘレトは賢者であろうとしたが、実際はそれと縁遠い者であった。悪が愚行であり、愚行が狂気であることを悟ろうとしたが、なにも見出せなかった。死よりも罠よりも苦い女がある、と知っただけだった(ex;箴7,9:18)。1,000人に1人として良い女は存在しなかった。
 「ただし見よ、見いだしたことがある。/神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということだ。」(コヘ7:29)

 引用が多くなりましたが、ここは「コヘレトの言葉」でもいちばん好きな章であります。言い訳めきますが読者諸兄には、混じりけのない聖書の言葉を味わっていただきたい、と思います。
 きっと自分の身に覚えのある箇所に引っ掛かりを覚えるはずであります。わたくしにとってそれは、引用もしたコヘ7:15-17であり同20-22なのです。ここを読んだとき、思わず、嗚呼、という感嘆とも慨嘆ともつかぬ声を知らずあげてしまったことでありました。

 ※ロバート・デヴィドソンが『伝道の書・雅歌』でこの箇所について説明を試みている。「他人が悪いことをしているのを見て、『私は決してあんなことはしない。私はああいった種類の人間ではない』と言うのはたやすいことだ。けれども私たち人間は破壊点とでもいえるものがあって、或る状況に至ったとき自分がそうなるかそうならないかは自分にも分からないのである。古いユダヤの諺に、『死ぬまで自分を信用するな』というのがある。だからこそ、私たちは祈るのであり、祈る必要があるのだ。」(P91 牧野留美子・訳 「デイリー・スタディ・バイブル」 新教出版社 1996)
 デヴィドソンの著書は「コヘレトの言葉(伝道の書)」について書かれた内では、その主張や考えがとてもわかりやすい書物である、と思います。図書館などで探して読んでみてください。



 「コヘレトの言葉」に入る前、リン・カーターの著作について書きました。異様に閲覧者数が多く人気もあるようで、ちょっと戸惑い気味なのですが、ありがたい限りです。
 実はそれを書いているときから気になる一冊がありました。トールキン論ではありません。それ以前にリン・カーターの著作でもない。その一冊は、ラヴクラフト『文学における超自然の恐怖』(学研)であります。
 大瀧啓裕の訳で単行本が出たときに買ったのですが、これの感想を書こう書こうとしている内にどんどん日数が経ってしまいました。「雅歌」が終わったあとで……とは思うておるのですけれど、如何せん結構行き当たりばったりなブログなので、保証の限りではありません。が、遅かれ早かれお披露目する予定なので、気長にお待ちいただければ幸いです。◆

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第0937日目 〈コヘレトの言葉第6章:〈太陽の下に、次のような不幸があって、……〉&有川浩『レインツリーの国』を読みました。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第6章です。

 コヘ6:1-12〈太陽の下に、次のような不幸があって、……〉
 神により富も名誉も与えられた男がいる。しかし神は、彼自身がそれを享受するのを許さず、富も名誉も没収し、他の者へ与えた。空しく、不幸なことである。
 子宝に恵まれ、長寿を全うした者がいる。しかし与えられた財産に満足せず、死後に葬儀もしてもらえず、長寿の人生をもう一度送れたとしても、空しいだけではないか。それならば、太陽を仰ぐこともなく闇のなかに去った流産の子の方が幸せだ。
 人の労苦はすべて口のため、生活のため。言葉が過ぎたり多かったりすれば、それだけ空しさも苦痛も増す。それが果たして何になるというのか。
 「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」(コヘ6:12)

 漠然と思うことはあってもそれに形を与えて考えることはない。「コヘレトの言葉」を読んでいると、そんな漠然とした思いに言葉が与えられる瞬間を、幾度も経験します。本章についても例外ではありません。
 人生プラスマイナス0で終わればいちばんしあわせです。子宝に恵まれ財産を築いた人であっても子供から敬意を払われなかったら、おそらく子供は遺産の相続ばかりに関心が向き、ろくに親の葬儀も執り行わない結果になるのではありませんか。そんな現場を目にするのは、なんともやりきれぬものであります。
 結局、<すべてのものは一つのところに行く>のです。それを忘れず、短く空しい人生の日々を精一杯生きればよいと思います。



 ああ、自分はこの物語を探していたんだな。有川浩『レインツリーの国』(新潮文庫)を読んでまず心に去来したのは、そんな感慨である。
 本書は、有川浩の代表作<図書館>シリーズの第2巻『図書館内乱』収載エピソードとリンクする作品で、聴覚障害の女の子と健聴者の男の子の恋物語である。何気なく手にした薄い文庫本で大して買う気もなかったのに、ぱらぱらページを繰ってたちまち読まずにいられなくなったのは、おそらくぼくも聴覚に障害がある人間の一人だからだろう(さほど深刻なレヴェルではないが)。貪り読んで、胸が圧し潰されるようだった。ああ、この国の片隅にこんな小さくて強い恋が生きている。この物語にもっと早く出会いたかった……。
 ふだん、ぼくらはあまり障害を持つ方と、個人的交際のレヴェルで接することがない。恋愛関係に陥るなんて考えたこともない。でも、もしそうなったら……どこまで真摯に相手の心と向き合えますか? この小説の2人のように、分かり合う努力と変わる努力を惜しまず、ゆっくりでも前へ進もうと手を取り合えますか? が、『レインツリーの国』を読んだあなたなら、もしそんな事態にぶつかっても相手に寄り添うことができるだろう。できる、と、ぼくはあなた方を信じる。
 ガラス細工の如く繊細でヴェリー・スウィートな小説をお探しの方、あなた好みの小説はここにあります。◆

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第0936日目 〈コヘレトの言葉第5章:〈焦って口を開き、心せいて〉&NHK-FMでLFJAJを特集。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第5章です。

 コヘ5:1-19〈焦って口を開き、心せいて〉
 言葉を慎め、言葉を惜しめ。神の前で軽々しく口を開くな。だがしかし、神の前で言葉を発し、願を掛けて誓いを立てたなら、それを果たすのを遅らせてはならない。果たせぬなら願を掛けるな。神は怒り、あなたの手の業を滅ぼすだろうから。
 この天の下に暴虐が蔓延(はびこ)り、不正が横行し、正義が機能していないことに驚いてはならない。高位高官にある者程互いを庇い、部下を庇うのだから。正義が機能しなくなれば、横行する不正を裁くのは不可能事だ。
 富める者は蓄財に精を出し、これでじゅうぶんだ、と満足したりしない。もっともっと、と増やすことばかり熱心になる。彼らは心地よい眠りを知ることがない。「働く者の眠りは快い/満腹していても、飢えていても。/金持ちは食べ飽きていて眠れない。」(コヘ5:11)
 どれだけ財を貯え、腹一杯の食事を楽しんだとしても、労苦の結果を死して後まで持ってゆけるわけではない。人は母の胎から出たときと同じ姿で去るのだ。この世の栄華を謳歌しても、結果は持ってゆけない。空しいことではないか。
 「その人の一生の間、食べることさえ闇の中。/悩み、患い、怒りは尽きない。」(コヘ5:16)

 「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。
 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。」(コヘ5:17-19)

 饒舌は疎んじられるばかりでなく、身の破滅を招くこともあるようです。その一言が……という類ですね。わたくしにも覚えがあります。20代の頃です。逆に、寡黙が自分の知らないところで誤解を生み、気附けば袋小路に追い詰められている、ということもあります。これも覚えがあります。集団生活は気苦労が多い。仮面を被る他ないのですよね。漱石ではありませんが、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みづらい」というところでしょうか。
 コヘ5:11(「働く者の眠りは快い」云々)もそうですが、コヘ5:17-19はわたくしがときに好きな文言で、この書物を初めて読んだときから一目惚れに近い想いを、この箇所には抱いています。読む度毎に深く首肯すること頻りなのであります。



 一昨日NHK-FMではLFJAJ特集を9時間に渡って放送した。概ね聴いていましたが、生中継されたブラームスのダブル・コンチェルトには深く頭を垂れて感じ入りました。無理をしてでも出掛ければよかったかなぁ。でも、あの女性(ひと)に逢っちゃったら……? ところでNHK-FMのスタッフ・案内役は知っているのかな、催事を円滑に運ぶため陰でどれだけのスタッフが尽力しているかを?◆

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第0935日目 〈コヘレトの言葉第4章:〈わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。〉&ドストエフスキー『悪霊』上巻を読了、下巻に入りました。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第4章です。

 コヘ4:1-17〈わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。〉
 この天の下、大地の上には虐げられる人々がおり、彼らを虐げる者らもいる。双方を慰める者はいない。虐げられる人々の目に浮かぶ涙、虐げる者らの手にある力━━それらを留めたり、軽減させられる者はいない。既に死んだ人は虐げられることがないから幸せだ。いや、もっと幸せなのは太陽の下で行われるあらゆる悪い業を見ることのない、この世に生まれてこなかった命だ。残酷だが、それが真実である。
 人は、仲間に対する競争心から利己的になり、もっと稼ごう、もっと金を蓄えよう、名を挙げよう、と貪欲になる。際限はない。或る男がいて、富を増やしてゆくことに飽くことがなく、「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのか」(コヘ4:8)と疑問を抱くこともない。━━なんと空しく、不幸なことではないか。
 「ひとりよりもふたりが良い。/共に労苦すれば、その報いは良い。/倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。/倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。/更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。/ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。/三よりの糸は切れにくい。」(コヘ4:9-11)
 ━━卑しい身分のなかにも立派な人がいる。崇敬すべき立場や身分であっても愚かで白痴な者もいる。が、前者が民を指導する地位に就いて、民がこれを歓迎して支持したとしても、その代限りでしかない。民の代は限りなく続いてゆく。先立つ代にも後の代にもこれを喜び祝う者はいない。
 また、自覚なき悪人は神殿に通うのを慎み、供え物などせず聞き従う方がよい。

 特定の人物に対する讃美はその時代限りの現象であり、それ以前の時代にもそれ以後の時代にも通用するものではない、との指摘は覚えておいてよい。余りに当たり前すぎて、誰もその事実に思いを巡らせようとしないようです。自然と時間の前に人間は無力である。これを忘れてはなりません。「コヘレトの言葉」を読んでいると、否応なく突きつけられることでもあるのですが……。
 引用したコヘ4:9-11ですが、これについては言葉も必要ないでしょう。その通り、であります。ひとりよりもふたり。励まし、助け起こしてくれる友のあることがどれだけ良いか。自分一人で人生を過ごすよりも伴侶となる異性が傍らにいて、一緒に歩いてくれた方がどれだけしあわせか。嗚呼!



 『悪霊』上巻を読了、間を置くのがいやでそのまま、下巻━━第2部第6章の始めの部分だけだが、読んだ。心が震える思いを味わいながら、いまも少しずつ読み進めている。ロシア文学を読んでこんな感情を抱いたのは、ドストエフスキーが初めてだ。その感情とは、即ち、面白い、という単純明快なそれである。
 ページを繰る手が止まらない。時間さえ許せばまさしくいつまでも読み耽っていることであろう。息をつく間もない、とは過ぎた表現かもしれぬが、一旦読書のペースが軌道に乗ったらなかなか巻を閉じる勇気が奮えないのは事実だ。でも、まだ下巻は始まったばかり。これから約2,3ヶ月の長旅が続く。楽しいことだ。
 光文社古典新訳文庫から『悪霊』が第2部まで出ているが、これは古本屋に流れたら買うことを検討している。亀山郁夫の訳文にはどうにも馴染めぬものを感じるのだ。新潮文庫の方が訳文の日本語は自然で、流れがよい。版を重ねてゆくなかで修正が加えられた結果かもしれない。いずれにせよ、これからドストエフスキーを読みたい、と個人的に相談を受けたら、いま自分が読書に使っている、そうしてその背表紙に馴染んできた新潮文庫を推薦する。
 ダザイを切り上げてドストエフスキーに戻った際、『白痴』と『悪霊』への再挑戦を決意、実行して、本当に良かった。こんなにすばらしく鬱々とした、でも奇妙に明るい傑作へもう一度向き合えたのだから。◆

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第0934日目 〈コヘレトの言葉第3章:〈何事にも時があり〉&メモリアル・イヤーを迎えたマーラーですが、……〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第3章です。

 コヘ3:1-22〈何事にも時があり〉
 森羅万象には<時>というものがある。人の一生についても、然るべき<時>がある。それを時宜というてもよい。笑う時と嘆く時、求める時と失う時、愛する時と憎む時、戦乱の時と平和の時。
 人生に<時>があるならば、労苦してみたところで何になろう。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」(コヘ3:11)神の業は永遠にして不変、足すことも引くことも許されず、またそれがために人は神を畏れ敬うように定められている。
 すべては塵から生まれて塵に返る。人間が他の動物に優るところなどありはしない。人間も他の動物と変わるところなど一つもない。神はそれを教えるために人を試す。所詮は人間、有限の時間を与えられてそのなかで生きるしかない存在。儚く、空しい。わたしコヘレトは思うのだ、━━
 「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。/死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」(コヘ3:22)
 だから、<時>を惜しまず<いま>を生きよ。

 この章を読むと世阿弥を思い出します。『風姿花伝』の「人生には自ずと<時>というものが存在する」なる一文。翻刻本が手許にないのですが、概ね間違っていないと思います。
 「コヘレトの言葉」と『風姿花伝』は、部分的に似通ったところがあります。「コヘレトの言葉」を語る聖書学者、或いは教会の人々が『平家物語』や『方丈記』ばかりを持ち出すのに小首を傾げること度々でした。それらよりも、世阿弥の『風姿花伝』の方がはるかに魂の色が似ている、もしくは二卵性双生児というてもふしぎでないのではないか、と。
 彼らはこの書物を知らないのか、それとも読んだことがないのか。いみじくも彼らとて日本人である以上、この本がどういう内容なのか、どんな思想を内包しているのか、ぐらいは高校生向けの古典文学案内の類で押さえておいてほしいものであります。
閑話休題。さりながらわたくしは「コヘレトの言葉」を或るスターバックスで通読した際、本章に至って初めて、本当の意味で「コヘレトの言葉」という書物を「わかった!」と実感できたような気がします。そうなると、この書物で語られる様々な事柄に首肯したり、理解、或いは納得できる部分が生まれてくるのですね。
 諦観のみでなく肯定。人生は空しい、人間なんてどうということない存在。でもそのなかで与えられた時間のなかで後悔しないように生きようじゃないか。Carpe Diem.



 今月17日に没後100年を迎えるマーラーの音楽を狂的に愛でていた時期が、わたくしにもありました。でも、或るときに、ふっ、と、その熱が冷めて一部の曲を除いて他は聴かなくなった。なぜそうなったのか、理由を端的に述べれば「マーラーの音楽に対峙する熱意を失ったからだ」というよりありません。
 個人的な経験ですが、マーラーは青春期の音楽と思うことが多い。むろん、交響曲第9番のように人生を重ねてこそその地味と儚さをわが身に引きそえてわかるようになる曲もある。だけれど、第1番とか第5番とか、わたくしはもう余程のことがない限り、これを積極的に聴くことはあるまい。思い出したように手を伸ばしたり演奏会に足を向けたりすることはあるだろうけれど。なんていうか、恥ずかしい。
 交響曲の全集としていま手許にあるのはショルティ=シカゴ響(LP)、アバド=BPO/VPO/シカゴ響とテンシュテット=ロンドン・フィル(CD)だけ。他にあったインバル、クーベリックなどは処分した。バーンスタインもあるにはあったが概ね処分して、未だ架蔵するのは、好きな曲である交響曲第3,4,6,7,9番のみ。他は、必要ない。マーラーの粘っこさや手に届かぬ至高の存在を求め倦ねて苦悩する様、自然に対する崇敬と憧れと親近は、おそらく前述の5曲に集約されていると思うに至ってがゆえ。従って散漫な所蔵ディスクのなかでもこれらの曲ばかりが、幾人かの指揮者の録音で並んでいるのだ(朝比奈とか小澤とかシェルヘンとかブーレーズとか……)。━━全集のCDでアバドとテンシュテットを残した理由? さあね。ただ、全面的に好きな指揮者であったから、とお茶を濁しましょう。
 正直なところ、今年がマーラーのメモリアル・イヤーであることをすっかり忘れていた。この点を以てしても如何にマーラーという作曲家に殆ど興味を失っているか、お察しいただけよう。書店の平台にマーラーの文庫が並び、音楽書のコーナーでマーラーが目立つようになって、ああそうだったな、と思い出したという為体(ていたらく)だ。音楽については斯様に興味を失い、数多の作曲家と十把一絡げの扱いをしているマーラーだが、その為人(ひととなり)についての興味は持続している。
 興味というてもミーハーなことこの上なく、かつて或るクラシック雑誌に掲載されたマーラーの好物(だったかな)「パプリカヘンドル」を、興味本位で作ってみたら結構美味くて、いつの間にやらわたくしの定番となったりもした。パプリカにも辛さの度合いってあるんですネ! 作曲は歌劇場の仕事が休みのときに別荘の敷地の片隅に建てた作曲小屋で行ったとか、んー、もう理想的だよね(この作曲小屋が昨年の賀状小説で触れた主人公の仕事部屋であるのは申すまでもありません)。
 繰り返すけれど、その交響曲すべてを聴く気は、もうない。が、好きな曲については(歌曲も含めて)もう少し頻繁に耳を傾けてみるのもいいかな、そうすれば20代前半の頃とはまた違った発見や楽しみもできるかもしれない。グスタフ・マーラーが逝った100年前の今月をあれこれ想像しながら、そんな風にちょっぴり期待も含めて考えている。
 それでもやっぱり、マーラーよりはブルックナーの方が好きかなぁ、おいらは。◆

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第0933日目 〈コヘレトの言葉第2章:〈わたしはこうつぶやいた。〉&今年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンについて、一言だけ。〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第2章です。

 コヘ2:1-26〈わたしはこうつぶやいた。〉
 そこでわたしコヘレトは、快楽に身を浸してみよう、と考えた。この世の愉悦にわが身を浸らせてみよう、と。それすら空しかった。
 多くの偉大なこと、讃仰されることを計画し、実行した。屋敷を構え、果樹園を開き、池を掘り、林に水を引いた。かつて王都エルサレムに住まった誰彼よりも富む者となった。
 どのような労苦にも厭わず取り組み、どのような快楽にも躊躇せず試してみた。わたしの心はどれも楽しんだ。が、なに一つとして益にはならなかった。いずれも空しく、風を追うに等しかった。
 ━━わたしの心は何事も知恵に拠ろうとするが、いまなお知恵はわたしのもとに留まっている。そこで今度はその知恵を、その狂気と愚かさを見極めてみよう、と考えた。が、なにもかもがわたしを苦しめ、すべてを空しく思わせた。
 賢者は愚者に優るが、時と場合によっては愚者が賢者に優る。「賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。/しかしわたしは知っている/両者に同じことが起こるのだということを。」(コヘ2:14)……ならば、より賢くなろうとしても徒労ではあるまいか?
 賢者であれ愚者であれ永遠に記憶されることなどない。やがてすべて消え去る。誰であろうと、身分の貴賤に関係なく、やがて誰もが消え去り、誰もが死に果てる。
 ━━太陽の下で得る徒労は楽しんだが、その結果は厭うばかりであった。労苦の結果、得たものを管理するのは、労苦に身を粉にしたわたしではない。汗水垂らして稼いで得たものを使うのはわたしではなく、それと何らの関わりも持たなかったわたしの跡を継ぐ者であるのだ。跡継ぎの側からすれば、大いなる遺産、といえようか。
 「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は安まらない。これまた、実に空しいことだ。」(コヘ2:22-23)

どんな快楽、それこそ酒池肉林の快楽に耽って欲望を果たしても、心は満たされない。逆に無益と虚無を覚えるばかり。これを知る人がどれだけいるでしょう。では、無益と虚無をそれと気付かず繰り返してゆき、あたら時間と精神を浪費し続けるばかりの人は?
 とてもやりたかったことなのに、いざそれが達成されてみると、不思議と心のなかにポッカリと穴が開いて、満たされないものを感じる。そうして、正体不明の<満たされない欲求>を抱えて彷徨う。職業に関係なく、そんな思いを抱いている人の実際なんと沢山いることでしょう。まるで砂漠の真ん中で泉を求める放浪者のように。みんな、さすらい人なのかもしれないですね。
 なお、ここで「労苦」とは、「労働」や「仕事」などの意味合いで用いました。



 今日の朝から開催されるLFJは規模を縮小、ホールCや読売会館など幾つかの会場でのみプログラムを消化する由。先日の新聞で告知されていました。日本が斯様な事態にあるなかで、開催中止にならなかっただけ奇跡というべきか。行く予定も特にないけれど、かつてLFJのスタッフであっただけにこの事態をちょっと深刻に受け止めています。幾ら規模が縮小されたからとて、登録スタッフだけで賄える規模でもないしね。
 でも、こうした逼塞した空気がこの国に垂れこめているからこそ、このイヴェントが例年以上の盛りあがって復興支援の一助となりますように。なによりも事件や事故など起こりませんように。そうして、すてきな恋が会場の片隅で生まれますように。ぼくは駄目でしたけれどね。でも、出逢えてよかったなぁ……。
 昔があるから現在がある。過去があるから未来がある。
 想い人たるあなたはまだ胸のなかで静かに留まり、鮮やかに生きている。それが真実。本当の気持ち。◆

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第0932日目 〈コヘレトの言葉第1章:〈エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。〉&アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』〉 [コヘレトの言葉]

 コヘレトの言葉第1章です。

 コヘ1:1-18〈エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。〉
 なんと空しいのか、すべてが空しい。彼はそう呟く。かつて主に知恵と知識を望み、授けられ(代下1:10,12)、それを用いて国を治め、諸国を従え、イスラエルも民もコヘレト自身も栄えた。
 そのコヘレトが慨嘆するのだ━━なべてこの世は空の空、一切が空である、と。彼は「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった」(コヘ1:13-14)と悟るのだ。知るは悩みの始め、知識は狂気。あたら知識があるために思い煩うことが多い(ex;コヘ1:17-18)。しかし、それゆえに人間は正しくも悪くもなれるのだ(ex;「箴言」)。
 「太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。」(コヘ1:3)日は昇って降りて、また昇り、風は南に向かって北へ巡り、川の流れは絶えることなく海へ水を運ぶが、海は決して水で満ちることがない。森羅万象の営みは永遠に続く。
 同様に、どれだけ人間の営みの様々を目で見、耳で聞いても、飽きたり満足することはない。現在(いま)起こっていることは過去にもあり、現在(いま)起こっていることは未来にもある。過去の出来事へ誰が心を留めようか、近未来に起こることをそれより先の未来に生きる人がどうして心に留めたりするだろう。
 コヘレトは慨嘆する、「なんという空しさ、すべては空しい」(コヘ1:2)と。どれもみな空しく、風を追うようなことだった、と。

 永遠に続くサイクルが完結することはない。そのなかで生きる人の営みなど果たして何程のものか。新しいことなどなにもない、すべては過去に起きており、未来にも起こることなのだ。サイクルは完結しない。いまこの瞬間の出来事はたちまち過去となり、塵に返る。コヘレトはその事実を突きつけられ、すべては空しい、と慨嘆するのであります。
 まだ始まったばかりだから、あまり感想をずらずら並べ立てるのは止そうと思います。ただ読者諸兄には、コヘレトが洩らす言葉を一つ一つ掘り起こすようにして、腰を据えて読んでいっていただきたい、と希望します。
 なお、本章の第5節「日は昇り、日は沈み/あえぎ戻り、また昇る」は、ヘミングウェイ最初の長編『日はまた昇る』のタイトルの由来となった箇所であります。



 一旦筆を握れば飽くことなき情熱に駆られて感情のすべてを叩きこんだ小説を不乱に書き続けるド氏が好きだ。極めて俗物ながら真に偉大な小説家の姿を、斯くも万全に活写した伝記がアンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』(中公文庫)。ド氏の生涯を詳しく知りたいとなれば、最初に手を出すべき一冊だ。これはド氏の生涯を詳しく語り、作品の誕生と内容と評判を簡潔に、勘所は外さず語り尽くした稀有のドストエフスキー伝である。古書店で発見したらちょっと無理してでも購うべし。◆

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第0931日目 〈「コヘレトの言葉」前夜〉 [コヘレトの言葉]

 ソロモン王に仮託される伝道者、即ちコヘレトは、人間が人間を支配して苦しみをもたらす時代を生きた。彼は天の下に起こる諸々の出来事について、知恵と知識を得ようと努めた。そうして人の営みをあまねく見聞して自らも経験しようと努めた。しかし、その結果は、一切が<空>であった。……。
 新改訳では「伝道者の書」と訳される「コヘレトの言葉」は、冒頭部分が際立って有名である。
  コヘレトは言う。
  なんという空しさ
  なんという空しさ、すべては空しい。(コヘ1:2)
  (空(くう)の空(くう)。伝道者は言う。空(くう)の空(くう)。すべては空(くう)。;新改訳聖書)
 全編を支配する調子(トーン)がややもすると厭世的であるため、旧約聖書のなかでは「箴言」と並んで日本人の好みに合う書物とされてきた。さりながらここで肝に銘じるべきは、厭世的と雖も『平家物語』や『方丈記』に漂うそれと「コヘレトの言葉」が孕むそれは、安易に直結し得るものではない、ということだ。
 すべては滅び、空しうなる。この点で「コヘレトの言葉」とわが国の中世文学は結びつく。が、「コヘレトの言葉」はそれで完結しない。だから━━というのである、だから喜びを以てパンを食べ気持ちよく酒を飲み、愛する人と共に暮らし、あなたが幸福と思える人生を送りなさい、というのだ。それが太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報い(コヘ9:9)である、と。
 誰にでも運命は━━<死>は等しく訪れる。生きている間にどれだけ栄華を極め、如何にその名をあまねく知られた人であろうとも、生きている間にどれだけ慈善を施し、如何に社会へ貢献して讃えられた人であろうとも、亡者となってしまえばやがては生ある人々の記憶から薄れてゆき、ましてや代が替わればかの人の名も行いも忘れ去られる。賢者の前にも愚者の前にも光と闇は等しく存在し、いつでも互いに相手を凌駕し得る。永遠のもの、永続するものなど人間の世界にはない。
 「コヘレトの言葉」は再三に渡ってそれを説く。本書は諦念の書物である。と同時に人生論でもある……限りある人生を、神を畏れその戒めを守るなかでどう充実させて生きてゆくか、という。苦しみも喜びもやがて空しうなる、いずれも風を追うようなことだから。
 本書は全12章で構成される。ブログと同様一日一章ずつ読むのもよいが、まずは通読してみてほしい。そうすれば、この短い書物はあなたに様々なことを語りかけてくるだろう。殊にコヘ11:6-12:8は本書の要ともクライマックスともなる部分である。
 最後に。“コヘレト”は個人を特定する名前ではない。その意味は「集会を召集する者」或いは「集会の中で語る者」(新共同訳付録・用語解説 P9)、転じて「伝道者」と訳されてきた。いろいろ考えたが「ありのままに読んでゆく」という決まりの下、本ブログではコヘ1:1の詞書に拠りイスラエルの王、ソロモンを指すとして進めてゆく(多くの聖書学者はコヘレトをソロモンより何世紀も後の人物である、としている)。ソロモンは若かりし頃に「雅歌」を書き、老いて後に「コヘレトの言葉」を書いた、という。「箴言」はソロモンの言葉を周囲の人々が集めて編んだ書物である、と。
 明日から「コヘレトの言葉」を、では一緒に読んでゆきましょう。◆

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