第0956日目 〈雅歌第8章:〈あなたが、わたしの母の乳房を吸った〉&ドストエフスキー『悪霊』、再開しました。〉 [雅歌]

 雅歌第8章です。

 雅8:1-14〈あなたが、わたしの母の乳房を吸った〉
 本章は「雅歌」の最終章になります。わたくしは「雅歌」という書物は内容としても詞章としても本章第7節で完結している、と考えています。あとの部分は、付け足し、とは非道いいい方ですが、余滴という風にしか捉えられません。
 佐藤全弘という人はソロモン王のぶどう畑云々が歌われる第11節以降は、至純のおとめを生涯ただ一人の花嫁とした若者による、ソロモン後宮を皮肉った歌、と考えています。これも一つの見識であり、また、わたくしの「雅歌」への取り組む姿勢と一致する部分があるために、大いにこの意見に首肯するのであります。
 これまで「雅歌」各章を一週間教に渡って読んできましたが、本章程<愛の強さ>を訴えた部分はなかったように思えます。それは第7節に殊に顕著に表れるもので、こここそが本章の胆であり、また、「雅歌」という性を肯定的に語る書物のメッセージであります。そこでは、なんと語られていたでしょうか、曰く、━━
 「愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。/火花を散らして燃える炎。/大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。/愛を支配しようと/財宝などを差し出す人があれば/その人は必ずさげすまされる。」(雅8:6-7)
 ……これを純粋無垢な愛の讃美、至高の想いの崇拝といわずして、なんというべきでしょうか。斯くも読む人を深く頷かせる詩句が、「雅歌」にもあったのです。
 内容的に、思想的に、「雅歌」は教会などで教える機会の著しく少ない書物であるそうですが、聖書の教えは━━即ち旧約聖書の神や後のキリストの教えは、性を悪と見なすことはしていなかったように記憶する。聖書が忌むべきと見なすのはあくまで邪な愛であり、欲望に駆られて衝動的に、夫婦や婚約者以外の男女によって行われる、堕ちた性行為であった。創世記とレビ記を読み直そう。いまでも結婚式や披露宴の際に読まれたりしても良い書物である、と、聖書の一読者でしかないわたくしは思うのであります。
 ━━冒頭で述べましたように、これで「雅歌」は終わります。「箴言」と並んで頭を悩まされた書物ですが、終わってしまえば良き思い出になりましょう。いやぁ、しかし、……しばらくは読みたくない!
 なお、これまでと違った形式でノートを記録、公開したために億劫になったりしてしまった方々もおられるようですが、次の「イザヤ書」からは元通りのスタイルで進めていきますので、再び読者になっていただければ幸甚です。



 ちょっと中断していたドストエフスキー『悪霊』ですが、今日用事があって渋谷に行くのに託けて読書を再開しました。
 さすがに忘れていたりする部分もあろうかと行きの電車は殆ど下巻、第二部からぱらぱら、と目を通すことに終始し、センター街の喫茶店や帰りの電車で実に久しぶりにスタヴローギンやステパン氏、ピョートルやユリア夫人たちと再会しました。
 ドストエフスキーの後期作品、所謂5大長編はまだ『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』が未読ですけれど、それを考慮しても『悪霊』はドストエフスキー作品のなかで『白痴』と並んで個人的に、また、5大長編を形成する他の長編小説のみならずいま文庫で読めるさまざまなドストエフスキー作品の内でも、好きな作品であり他を圧する力と存在感を持つ作品である、と思うております。
 数日の中断ゆえにまだ1/3を越えた程度しか進んでいませんが、まだ今月中の読了は夢ではないですね。◆

 ○本文は後日にお披露目します。

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第0955日目 〈雅歌第7章:〈もう一度出ておいで、シュラムのおとめ〉&『夜のガスパール』;ベルトラン→ラヴェル〉 [雅歌]

 雅歌第7章です。

 雅7:1-14〈もう一度出ておいで、シュラムのおとめ〉
   合唱
 1:もう一度出ておいで、シュラムのおとめ
  もう一度出ておいで、姿を見せておくれ。

  マナハイムの踊りをおどるシュラムのおとめに
  なぜ、それほど見とれるのか。

   若者の歌
 2:気高いおとめよ
  サンダルをはいたあなたの足は美しい。
  ふっくらとしたももは
    たくみの手に磨かれた彫り物。
 3:秘められたところは丸い杯
    かぐわしい酒に満ちている。
  腹はゆりに囲まれた小麦の山。
 4:乳房は二匹の子鹿、双子のかもしか。
 5:首は象牙の塔。
  目はバト・ラビムの門の傍らにある
    ヘシュボンの二つの池。
  鼻はレバノンの塔、ダマスコを見はるかす。
 6:高く起こした頭はカルメルの山。
  長い紫の髪、王はその房のとりこになった。
 7:喜びに満ちた愛よ
  あなたはなんと美しく楽しいおとめか。
 8:あなたの立ち姿はなつめやし、乳房はその実の房。
 9:なつめやしの木に登り
    甘い実の房をつかんでみたい。
  わたしの願いは
    ぶどうの房のようなあなたの乳房
  りんごの香りのようなあなたの息
 10:うまいぶどう酒のようなあなたの口。

   おとめの歌
  それはわたしの恋しい人へ滑らかに流れ
  眠っているあの人の唇に滴ります。

 11:わたしは恋しい人のもの
  あの人はわたしを求めている。
 12:恋しい人よ、来てください。
  野に出ましょう
  コフェルの花房のもとで夜を過ごしましょう。
 13:朝になったらぶどう畑に急ぎ
  見ましょう、ぶどうの花は咲いたか、花盛りか。
  ざくろのつぼみも開いたか。
  それから、あなたにわたしの愛を捧げます。
 14:恋なすは香り
  そのみごとな実が戸口に並んでいます。
  新しい実も、古い実も
  恋しい人よ、あなたのために取っておきました。

 アミナティブの車に乗せられて姿を隠した(?)シュラムの乙女に、なぜそこまで惚れこむのだい? そんな問いかけに若者が臆面もなくその理由、即ち処女子のすばらしさを滔々と歌いあげています。おとめの歌はそれに対する返歌であります。
 読んでいただければおわかりのように、本章で交わされる歌は、交歓と合一、法悦と歓喜の歌です。なにか述べ足す必要があるでしょうか。わたくしなぞは単純に、諦念しつつも憧憬を、否応なく抱かされる者であります。「わたしの願いは/ぶどうの房のようなあなたの乳房/りんごの香りのようなあなたの息/うまいぶどう酒のようなあなたの口」……。



 詩集がどうたらこうたら、という話を昨日しましたが、そうして買い直した本のなかにアロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(岩波文庫)があります。散文詩というジャンルを開拓した記念碑的な詩集です。これを先日読んでいたら、不意に、これに材を取ったラヴェルのピアノ曲が聴きたくなった。選んだのはNAXOSからリリースされていたクラーラ・ケルメンディによるCD。ラヴェルのピアノ曲は勿論、《夜のガスパール》を初めて聴いた音盤でもあります。いうなれば、わたくしにとっての名盤でもあります。
 耳がはっきりとこれに馴染んでいるせいでか、その後ラヴェルのピアノ曲を求める際はこれが判断基準になってしまい、ゆえに久しぶりにこうして聴いても安堵すること頻りなのですが、例の《夜のガスパール》については疑問が残りました。演奏について云々するとか、違うピアニストの演奏の方が良いとか、そういうことではありません。
 文学から受けるイメージはそれぞれ異なるはず。文学作品を典拠にして作曲された音楽の場合、作曲家の想像力やそれを音符に移し替える技能が露骨に試されているように思うのです。言葉を一つ一つ掘り起こすようにして音楽を付けてゆくのと、全体から受ける印象に基づいて音楽を付けてゆくのとでは、まったく異なってくるのではないでしょうか。《夜のガスパール》についていえば、わたくしには後者であります。詩と曲のイメージが合致しない、という甚だ主観的な理由からです。でも、印象に基づいて自在に想像力を飛躍させるのですから、結果的に原作から離れたところで音楽が成立する、というのは逆説的ながら真実の一端を突いている、と感じるのも、また事実。
 この《夜のガスパール》だけでなく、ドビュッシー《牧神の午後のための前奏曲》(マラルメ)やチャイコフスキー《テンペスト》(シェイクスピア)、シェーンベルク《浄められた夜》(デーメル)など、文学に基づいて作曲された音楽は有象無象に存在します。これらを原作と一緒に鑑賞しながら如何にして音楽へと発展していったか、を考えるのは、なかなか愉しい作業であるように思います。文学と音楽を愛する方には是非お奨めしたいホビーであります。◆

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第0954日目 〈雅歌第6章:〈あなたの恋人はどこに行ってしまったの。〉&夜の雨音のみをBGMにしながら、詩を読む。〉 [雅歌]

 雅歌第6章です。

 雅6:1-12〈あなたの恋人はどこに行ってしまったの。〉
   おとめたちの歌
 1:あなたの恋人はどこに行ってしまったの。
    だれにもまして美しいおとめよ
  あなたの恋人はどこに行ってしまったの。
    一緒に探してあげましょう。

   おとめの歌
 2:わたしの恋しい人は園に
  香り草の花床に下りて行きました。
  園で群れを飼い、ゆりの花を手折っています。

 3:恋しいあの人はわたしのもの
  わたしは恋しいあの人のもの
  ゆりの中で群れを飼っているあの人のもの。

   若者の歌
 4:恋人よ、あなたはティルツァのように美しく
  エルサレムのように麗しく
  旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。
 5:わたしを混乱させるその目を
    わたしからそらせておくれ。
  あなたの髪はギレアドを駆け下る山羊の群れ。
 6:歯は雌羊の群れ。毛を刈られ
  洗い場から上ってくる雌羊の群れ。
  対になってそろい、連れあいを失ったものはない。
 7:ベールの陰のこめかみはざくろの花。

 8:王妃が六十人、側女が八十人
  若い娘の数は知れないが
 9:わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。
  その母のただひとりの娘
  産みの親のかけがえのない娘。
  彼女を見ておとめたちは祝福し
  王妃も側女も彼女をたたえる。

   合唱
 10:曙のように姿を現すおとめは誰か。
  満月のように美しく、太陽のように輝き
  旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。

   おとめの歌
 11:わたしはくるみの園に下りて行きました。
  流れのほとりの緑の茂みに
  ぶどうの花は咲いたか
  ざくろのつぼみは咲いたか、見ようとして。
 12:知らぬ間にわたしは
  アミナティブの車に乗せられていました。

 「アミナティブ」とはなんぞや? それは「アミナタブ」から派生した語でありましょうか。アミナタブは人名として既に出6:23(モーセの兄アロンの義父として)やルツ4:19-20(ダビデの系図の内の一人として)、代上15:11(神の箱を迎えに行くメンバーの一人として)などにあった。しかし、雅6:12では個人を指すのではなく「アミナダブ」の語義、即ち「わたしの親族は寛大/高貴である」が転じて「アミナティブ」となり、それは「高貴な人の車」という意味になったか、と推測されます。
 「乗せられた」という以上、自分の意志に基づく行為ではないでしょう。では具体的にどういうことなのか。その様子は「連れ去られた」ようでもあります。G.ロイド・カーという人は、処女子がそのとき車へ「乗せられた」ように感じたのだ、としています。これまでの彼女の歌が相当にロマンティックかつファナティックなものであったことを考えると、そんな説明も納得できることであります。
 また、「ティルツァ」はヨシュ12:24で名のみ登場。ヨシュア率いるイスラエルの民によって征服された、ヨルダン川西岸の町を治めていた王の一人がティルツァです。彼が治めていた町は美しいと評判だったらしく、それが「ティルツァのように」と若者をして恋人の美しさを形容させたのであろうか、と考えます。
 ━━恋人の所在は知れた、あの人は香り草の花床のなかで、ゆりの花を手折って羊の群れの番をしている、と、処女子は歌う。彼の許へ赴こうとした、すると、アミナティブの車に乗せられてしまった、とも。恋の成就には或る程度までの障害はあった方がよい、とでもいうのか。こんなに小さな恋愛詩篇でもなかなかにドラマティックであるのに、今更ながら感心してしまいます。
 「雅歌」は全体の輪郭を摑みにくく、どのようにも受け取れることができるが為に、読む人によってさまざまな解釈の立ち位置があるようですが、古代オリエントに現れた類い稀なる恋愛詩篇であり、艶めかしく熱情に満ちた相聞として鍾愛し続けてゆきたいと思います。



 台風2号が近附いているとのことで、今週末から天気は本格的に崩れる様子です。と書いているいまも、昼間に降り始めた雨がやむことなく篠突き、冷え冷えとして来ています。ちょうど薄着になってくる時分でもあるので、体調管理には気を付けよう。
 こんな寒い夜は誰かと一緒にいたいですよね。
 申すまでもなく、わたくしには誰もいないので、先日古本屋で手に入れた堀口大學の訳詩集『月下の一群』(新潮文庫)を、独りさびしく読んでいます。なんかね、「詩編」が終わった途端に詩が読みたくて読みたくてたまらなくなって、部屋のあちこちに分散して置いてあった(放置されていた)詩集を久々に繙いたり、古本屋や新刊書店でむかし読んだ詩集、或いは読みたいと望みながら手が出せなかった詩集を購ったりしているのです。
 夜の雨音のみをBGMにしながら読む詩は格別です。みなさんも試してみることをお奨めします(平井呈一シンパなら絶対この決まり文句を使いたくなるよね!)。外国の詩でも日本の詩でも構いませんが、わたくしの場合、やはりフランス詩がしっくりと馴染みます。もし手許にそれがなかったら、岩波文庫の『唐詩選』や『中国名詩選』、『風葉和歌集』を読みます。◆

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第0953日目 〈雅歌第5章:〈わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。〉&斯くして万事は復調の兆しを見せる。〉 [雅歌]

 雅歌第5章です。

雅5:1-16〈わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。〉
   若者の歌
 1:わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。
  香り草やミルラを摘み
  蜜の滴るわたしの蜂を吸い
  わたしのぶどう酒と乳を飲もう。

  友よ食べよ、友よ飲め
  愛する人よ、愛に酔え。

   おとめの歌
 2:眠っていても
    わたしの心は目覚めていました。
  恋しい人の声がする、戸をたたいています。
  「わたしの妹、恋人よ、開けておくれ。
  わたしの鳩、清らかなおとめよ。
  わたしの頭は露に
  髪は夜の露にぬれてしまった。

 3:衣を脱いでしまったのに
    どうしてまた着られましょう。
  足を洗ってしまったのに
    どうしてまた汚せましょう。
 4:恋しい人は透き間から手を差し伸べ
  わたしの胸は高鳴りました。
 5:恋しい人に戸を開こうと起き上がりました。
  わたしの両手はミルラを滴らせ
  ミルラの滴は指から取っ手にこぼれ落ちました。

 6:戸を開いたときには、恋しい人は去った後でした。
  恋しい人の言葉を追って
    わたしの魂は出て行きます。
  求めても、あの人は見つかりません。
  呼び求めても、答えてくれません。
 7:街をめぐる夜警にわたしは見つかり
  打たれて傷を負いました。
  城壁の見張りは、わたしの衣をはぎ取りました。

 8:エルサレムのおとめたちよ、誓ってください
  もしわたしの恋しい人を見かけたら
  わたしが恋の病にかかっていることを
    その人に伝えると。

   おとめたちの歌
 9:あなたの恋人はどんなにいいひと
  だれにもまして美しいおとめよ。
  あなたの恋人はどんなにいいひと
  こんな誓いをさせるとは。

   おとめの歌
 10:わたしの恋しい人は
    赤銅色に輝き、ひときわ目立つ。
 11:頭は金、純金で
  髪はふさふさと、烏の羽のように黒い。
 12:目は水のほとりの鳩
    乳で身を洗い、形よく座っている。
 13:頬は香り草の花床(はなどこ)、かぐわしく茂っている。
  唇はゆりの花、ミルラのしずくを滴らせる。
 14:手はタルシシュの珠玉をはめた金の円筒
  胸はサファイアをちりばめた象牙の板
 15:脚は純金の台に据えられた大理石の柱。
  姿はレバノンの山、レバノン杉のような若者。
 16:その口は甘美、なにもかもわたしを魅惑する。
  エルサレムのおとめたちよ
  これがわたしの恋する人、これがわたしの慕う人。

 「雅歌」3度目の通読を、お気に入りのキリンシティで、カウンター席に座を占めてスタウトを7,8杯飲みながら、しました。特にこの第5章は、たびたび目が留まり手が止まり、鼻の下を伸ばして矯(た)めつ眇(すが)めつ、溜め息混じりに読んだ章でした。全体に感じ入るところがあったのですが、特に熱い溜め息を吐かせられたのは「友よ食べよ、友よ飲め/愛する人よ、愛に酔え。」(雅5:1)、そうして続く「眠っていても/わたしの心は目覚めていました。」(雅5:2)という詩句でした。いやぁ、青春ですね! こそばゆいぜ!!
 が、その一方でダークな想念をも弄んだ章でありました。即ち、━━
 恋人の言葉に導かれて、処女子は夜の街へ出て、遠近を彷徨う。いつの時代でも女の一人歩きは人の目に咎めるようだ。彼女はやがて夜警に出喰わし尋問を受け、見張り番には衣服を剥がれる。それでもなお、彼女は愛しい若者を尋ね求めるのです、わたしは「恋の病にかかっているのだ」と。
 が、一歩間違えば狂女の世界、夢か現かその境界は非常に朧ろである。あともう少しでシェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》や能『隅田川』の世界だ。「眠っていても/わたしの心は目覚めていました」とはロマンティックだが、立ち位置を間違えると、危ういものになるのかもしれないな、と感じることであります。
 さりながら処女子の純粋無垢な想いがどれだけ強いものであるかを十全に示す章と思うと同時に、処女子と若者の若々しく情熱的な相聞に羨望と憧憬と一種の苦々しさを覚えるのも事実なのであります。あ、それがやっぱりさっきも書いた「青春」ということか……なるほど!
 ところで、疑問が一つ。処女子が彷徨った夜の街、これはおそらく第3章で恋人を求めて遠近を歩き回り夜警に見附かったのと同じ町なのであろうか。というのも、第3章と本章とでは〈まち〉に宛てられた漢字が異なるからだ。前者では<町>、本章では<街>なのだ。ここは厳密に用法を別にしての使い分けと信じたいが、本当のところはどうなのだろうか。因みに第3章でいう町は行政単位であり、人家が集まって大きな区画を成している土地を指して<町>という。一方で本章の街は、同業の店子が集まって形成されて一区画を構成している土地を、斯くいうのだ。そう、わたくしは認識している。さて、ではいったい真相は如何に? 新共同訳聖書の発行元である日本聖書協会に問い合わせるべきでしょうか?



 細切れの時間を見附けては蔵書のスリム化に勤しんでいます。どうしても処分できないけれど、場所塞ぎになるだけだな、と思うものは段ボール箱へ別に詰めて物置行きにすることにした(或いはトランク会社か)。いまのところその対象になっている最大の作家は三浦しをん、最大のジャンルは古典文学の研究書類である。上田秋成の全集(最終巻はいつまで待たされるんだ!?)も悩みますね。
 韻文学と歴史書を中心に揃えた新日本古典文学大系とかも、できればいつでも手に取れるようにしておきたいのだけれど、なかなかどうしてこれまた難しい。わが家の一室が書庫として自由に使えればいいのだけれど……そうすると、余計に本が増殖するばかりなのか。困っちゃうなぁ……。
 「雅歌」が終わって「イザヤ書」へ入るまでの間に幾つかのライトノベルの感想もお披露目したく準備もせねばならぬので、ライトノベル関係の本もいまは処分することも仕舞いこむこともできない。むろん、これはあくまで予定である。予定は未定であり、決定ではないことをご理解いただきたく思う。ライトノベルでなにを書くかといえばこれはだいたい決まっていて、ただ5種類にするか7種類にするかで悩んでいる。
 これは自分が中学生時分から読んできたメインストリームの小説から離れた、かつてはジュニア小説と呼ばれもした時代の産物も含むから、新しい小説よりも古い小説の方がリストには多く上がってきている。このあたりの是正を如何にするかで思い出したように頭を悩ませているが、まぁ、角川スニーカー文庫や電撃文庫(いま机の脇に転がっている作品の出版社がたまたまこの2社であった)などよりはどちらかというとコバルト文庫やソノラマ文庫など老舗レーベルの作品の方が多くなるであろうことは致し方ないのかもしれない━━それらを呼吸するように読んできたのだから!
 忘れてはいないですよ、livespaireで観た《ばらの騎士》の感想をお披露目する、と約束したことは。勿論、そのあとで観た《白鳥の湖》もね。バレエの方は推敲が控えているけれど概ね出来上がっている、というて過言ではない。問題は愛情あふれて却って書けなくなってしまっている《ばらの騎士》なのだ!! もう4回書き改めたが、納得がいっていないのは勿論、どうにも大切ななにかが零れ落ちてしまっているような気がしてならぬのだ。平井呈一は推敲を最低3度は行った、といい、生田耕作先生もそれに共鳴してか、新たに版が出るたびに訳書の推敲を己に課した。それに較べればこの程度のエッセイ、というか感想もどきがいったいどれだけの苦労というのか。嗚呼。もう少し気分が落ち着いたら再挑戦しようか。
 この数日、ドストエフスキーを読めていない。ユリア夫人主催の祭りの直後の場面から、牛歩どころではなくまさしくお休み状態だ。このところパソコンの調子がおかしく、読書それ自体に時間を割くことができなかったのだ。言い訳めくが事実であるからそれは仕方ない。でも、昨夜を以て事態は解決の方向へ動き出し、いまはパソコンも順調に動いてくれている。ハレルヤ! そんな喜びも手伝ってつい長々と書いてしまったが、この一事を以てわが喜びの如何程かをご推察いただきたく思うている。
 斯くして万事は復調の兆しを見せ、明日から仕切り直しと相成ろう。ご期待あれ……って、え?◆

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第0952日目 〈雅歌第4章:〈恋人よ、あなたは美しい。〉&夕べ、飲み過ぎて帰る途次、……〉 [雅歌]

 雅歌第4章です。

 雅4:1-16〈恋人よ、あなたは美しい。〉
   若者の歌
 1:恋人よ、あなたは美しい。
  あなたは美しく、その目は鳩のよう
  ベールの奥にひそんでいる。
  髪はギレアドの山を駆け下る山羊の群れ。
 2:歯は雌羊の群れ。毛を駆られ
  洗い場から上ってくる雌羊の群れ。
  対になってそろい、連れあいを失ったものはない。
 3:唇は紅の糸。
  言葉がこぼれるときにはとりわけ愛らしい。
  ベールの陰のこめかみはざくろの花。
 4:首はみごとに積み上げられたダビデの塔。
  千の盾、勇士の小盾が掛けられている。
 5:乳房は二匹の小鹿。
  ゆりに囲まれ草をはむ双子のかもしか。

 6:夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に
  ミルラの山に登ろう、乳香の丘にわたしは登ろう。

 7:恋人よ、あなたはなにもかも美しく
  傷はひとつもない。

 8:花嫁よ、レバノンから出ておいで
  おいで、レバノンから出ておいで。
  アマナの頂から、セニル、ヘルモンの頂から
  獅子の隠れが、豹の住む山から下りておいで。

 9:わたしの妹、花嫁よ
  あなたはわたしの心をときめかす。
  あなたのひと目も、首飾りの一つの玉も
  それだけで、わたしの心をときめかす。
 10:わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく
  ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。
  あなたの香油は
    どんな香り草よりもかぐわしい。
 11:花嫁よ、あなたの唇は蜜を滴らせ
  舌には蜂蜜と乳がひそむ。
  あなたの衣はレバノンの香り。

 12:わたしの妹、花嫁は、閉ざされた園。
  閉ざされた園、封じられた泉。
 13:ほとりには、みごとな実を結ぶざくろの森
  ナルドやコフェルの花房
 14:ナルドやサフラン、菖蒲やシナモン
  乳香の木、ミルラやアロエ
  さまざまな、すばらしい香り草。
 15:園の泉は命の水を汲むところ
  レバノンの山から流れてくる水を。

   おとめの歌
 16:北風よ、目覚めよ。
  南風よ、吹け。
  わたしの園を吹き抜けて
  香りを振りまいておくれ。
  恋しい人がこの園をわがものとして
  このみごとな実を食べてくださるように。

 これがどういう歌かといえば、一読瞭然(こんな言葉ないけれど)、男女が床入りを前に経験する甘美な性的衝動、もうなにものにも抑えられぬ法悦へと身を投げ出す衝動に駆られての歌です。「夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に/ミルラの山に登ろう、乳香の丘にわたしは登ろう。」(雅4:6)はわたくしの殊に気に入っている詩句であります。
 簡単に註釈めいたことを記しておきます。雅4:8「アマナの頂から、セニル、ヘルモンの頂」とあります。いずれも同じヘルモン山ですが、ヘルモン山には3つの峰があり、アマナもセニルもその内の一つ。
 ヘルモンの頂は「アンティ・レバノン山脈の南端にある海抜2,800メートルを越える最高峰」であり、北端の頂がアマナ、中央がセニルと呼ばれる。「北東のダマスコ、西のレバノン、南西のナザレ、また南東のハウランのどの方向から眺めても、畏怖の念を抱かせる姿でそびえ立ち、山頂は年間を通して雪に覆われている。雪解けの水は豊富で、西側の斜面にはヨルダン川の源流が見られる。」(『新エッセンシャル聖書辞典』P895)
 こうした理解が先にあると、「花嫁よ、レバノンから出ておいで」や「獅子の隠れが、豹の住む山から下りておいで」という若者の呼びかけも、なるほど、とわかると思います。


 世界よ、お前に慈悲があるならば、望みをかなえてほしい。ゆるぎなき想いに根差した望みを。――夕べ、飲み過ぎて帰る途次、いつもの飲み場に腰をおろし、葉を茂らせた桜の木と、その向こうに静かに浮かぶ月影を仰ぎ、願ったのです。思い出はますます鮮やかになってゆく。◆

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第0951日目 〈雅歌第3章:〈夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても〉&『涼宮ハルヒ』を読み直しました。〉 [雅歌]

 雅歌第3章です。

 雅3:1-11〈夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても〉
   (おとめの歌)
 1:夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても
  求めても、見つかりません。
 2:起き出して町をめぐり
  通りや広場をめぐって
  恋い慕う人を求めよう。

  求めても、あの人は見つかりません。
 3:わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。
  「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」

 4:彼らに別れるとすぐに
    恋い慕う人が見つかりました。
  つかまえました、もう離しません。
  母の家に
    わたしを産んだ母の部屋にお連れします。

 5:エルサレムのおとめたちよ
  野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください。
  愛がそれを望むまでは
    愛を呼びさまさないと。

   合唱 一
 6:荒れ野から上ってくるおとめは誰か。
  煙の柱が近づいて来るかのよう。
  それは隊商のもたらすさまざまな香料
    ミルラや乳香をたく煙。

   合唱 二
 7:見よ、ソロモンの輿を。
  輿をになう六十人の勇士、イスラエルの精鋭。
 8:すべて、剣に秀でた戦士。
  夜襲に備えて、腰に剣。

9-10:ソロモン王は天蓋を作らせた。
  レバノン杉を柱とし、銀の台座に金の玉座。
  エルサレムのおとめたちが愛をこめて
    紫の布を張りめぐらした。

 11:いでよ、シオンのおとめたちよ
  ソロモン王を仰ぎ見よ。
  その冠を見よ
  王の婚礼の日に、喜びの日に
    母君がいただかせた冠を。

 ついに処女子は恋い慕う若者を求めて夜の街を彷徨う。そうして当然のことながら夜警に出喰わす……が、彼らも若者の所在は知らない。意気消沈していたところへ、当の若者が夜闇のなかから姿を現し、処女子は歓喜する。処女子の想いの強さを、まずは素直に現した章といえましょう。第2章にも出てきましたけれど、「愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさない」でほしい、とは美しい言葉ですね。
 <合唱 一>に「荒れ野から上ってくるおとめは誰か。/煙の柱が近づいて来るかのよう。」とあります。これは、出13:21でモーセ率いるイスラエルを約束の地へ連れてゆくにあたって、主なる神が、昼は雲の柱、夜は火の柱となって先導した、という描写を思い出させます。これを念頭に置いた表現でしょうか。ただ、それを連想させるにじゅうぶんである、と、わたくしは思います。
 初めて読んだときから<合唱 二>はなにを歌おうとしているのだろう、と疑問でした。が、「雅歌」が恋しあって結ばれた男女の結婚を寿ぐ作品であるならば、ソロモン王の行幸を歌うこの部分は、彼らの結婚式を祝う人々の行列を指すのではないか。――そんな風に思われてなりません。



 GWに観たなかでは、WOWOWで連続放送された『涼宮ハルヒ』が、やっぱりいちばん面白かった。こうして全作を改めて通しで放送されると、第2シーズン(「エンドレスエイト」)はまったく観ていなかったことが判明。どこまで続くのか、いつまで続くのか……とこちらもだんだんエンドレス状態になってきた頃にやっとケリがつく。原作にはなかったしつこさでした。
 全作連続放送を機会に、3年ぶりに原作を読み直した。来週には最終巻も発売される(予約済み)、そのための復習を兼ねた作業であるのは断るまでもない。どの巻も甲乙つけがたく、そんなのは徒労でしかないような気もするが、敢えていうなら――『暴走』に書き下ろしで収録された「雪山症候群」か。……いや、それとも……うぅむ、長編から『陰謀』と『憤慨』かなぁ。悩んだ末に、すべての巻がお気に入り、という答えは如何だろうか?
 でも、コメディとしてもSFとしても良くできた作品であり、あれだけのブーム(?)を起こしたのも納得の作品であるのは事実です。さて、最終巻の発売が待ち遠しいな。◆

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第0950日目 〈雅歌第2章:〈わたしはシャロンのバラ、野のゆり。〉&シンプル・ライフへの第1歩→書架の整理をした。〉 [雅歌]

 雅歌第2章です。

 雅2:1-〈わたしはシャロンのバラ、野のゆり。〉
   (おとめの歌
 1:わたしはシャロンのバラ、野のゆり。

   若者の歌
 2:おとめたちの中にいるわたしの恋人は
  茨の中に咲きいでたゆりの花。

   おとめの歌
 3:若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
  森の中に立つりんごの木。
  わたしはその木陰を慕って座り
  甘い実を口にふくみました。
 4:その人はわたしを宴の家に伴い
  わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。

 5:ぶどうのお菓子でわたしを養い
  りんごで力づけてください。
  わたしは恋に病んでいますから。

 6:あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ
  右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。

 7:エルサレムのおとめたちよ
  野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
  愛がそれを望むまでは
    愛を呼びさまさないと。
 
  恋しい人の声が聞こえます。
  山を越え、丘を飛んでやって来ます。
  恋しい人はかもしかのよう
  若い雄鹿のようです。
  ごらんなさい、もう家の外に立って
  窓からうかがい
  格子の外からのぞいています。

 10:恋しい人は言います。
  「恋人よ、美しいひとよ
     さあ、立って出ておいで。
  ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。
  花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
  この里にも山鳩の声が聞こえる。
  いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
  恋人よ、美しいひとよ、
    さあ、立って出ておいで。

 14:岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
  姿を見せ、声を聞かせておくれ。
  お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」

 15:狐たちをつかまえてください
  ぶどう畑を荒らす子狐を。
  わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。

 16:恋しいあの人はわたしのもの
  わたしはあの人のもの
  ゆりの中で群れを飼っている人のもの。

 17:夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に
  恋しい人よ、どうか
  かもしかのように、若い雄鹿のように
    深い山へ帰って来てください。

 「雅歌」は、若者よりも処女子の歌の方にメインが置かれている、とわたくしは感じます。心情吐露に関しては彼女の方が語彙も表現も豊かで、夢想の中身も相当に桃色……。でも、なんだか大らかで、おまけに可愛らしいですね。この処女子には初恋なのかな。なんというか、妄想が炸裂しています。
 雅2:2(若者)、3(処女子)の台詞には、共感できる部分があるでしょう。野や森のなかに数多、花や樹があろうとわたしの恋人はその内でも最も目立つ存在、わたしはそれを見間違えようはずがない、という箇所など、特に。学校でも職場でも、恋しているとその相手だけがクローズアップされて、他はソフトフォーカスされた映像のように映りますよね。否、ソフトフォーカスというのはまだマシな方か?
 なお、山鳩は神への供物(ex;レビ1:14)であると共に、ここでは春の訪れを告げる鳥としての役割を担っています。春告げ鳥……日本でいう鶯のような存在か(山本健吉『基本季語五〇〇選』P49 講談社学術文庫)。
 大らかといえば、これを読んでいて、ふと、神武天皇とイスケヨリ姫が夫婦となる挿話や、崇神天皇の御代にあったイクタマヨリ姫の神聖受胎(三輪山伝説)を思い出したことであります。興味のある方は、『古事記』の現代語訳や注釈書をご覧ください。わたくしが日常的に繙くのは専ら角川文庫と講談社学術文庫、岩波書店の日本古典文学大系であります。また、若者と台詞にはワーグナーの楽劇《ヴァルキューレ》第一幕、ジークムントとジークリンデの台詞さえ思い出させるものがありますね。
 



 よんどころない事情が発生し、部屋の(一部)大掃除を実行した。火の粉は散って他へ飛び火し、ついに書架へ収まる本の入れ替えに発展。序に処分する本もピックアップしたが、100冊にも満たなかった。
 が、これはまだ第1次に過ぎない。今週末、時間を作って更なる選別、浄化に努めよう。三浦しをんの文庫と丸山健二の著作を殆どすべて処分できたのが、今回の成果であります。この調子でよりいっそうの削減を図ろう! どっかの企業みたいだな……。
 目標;村上春樹と太宰治とドストエフスキーとコナン・ドイルを一箇所にまとめる! まとめたい……。◆

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第0949日目 〈雅歌第1章:〈ソロモンの雅歌。〉&『ラブ・コン』を(久しぶりに)観ました。〉 [雅歌]

 雅歌第1章です。

 雅1:1-17〈ソロモンの雅歌。〉
 1:ソロモンの雅歌。
 2:どうかあの方が、その口のくちづけをもって
    わたしにくちづけしてくださるように。

   おとめの歌
  ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く
 3:あなたの香油、流れるその香油のように
    あなたの香油はかぐわしい。
  おとめたちはあなたを慕っています。
 4:お誘いください、わたしを。
  急ぎましょう、王様。
  わたしをお部屋に伴ってください。   

   おとめたちの歌
  わたしたちもあなたと共に喜び祝います。
  ぶどう酒にもまさるあなたの愛をたたえます。
  人は皆、ひたすらあなたをお慕いします。

   おとめの歌
 5:エルサレムのおとめたちよ
  わたしは黒いけれど愛らしい。
  ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように。
 6:どうぞ、そんなに見ないでください。
    日焼けして黒くなったわたしを。
  兄弟たちに叱られてぶどう畑の見張りをさせられたのです。
  自分の畑は見張りもできないで。

 7:教えてください、わたしの恋い慕う人
  あなたはどこで群れを飼い
  真昼には、どこで群れを憩わせるのでしょう。
  牧童たちが飼う群れのそばで
    顔を覆って待たなくてもすむように。

   おとめたちの歌
 8:だれにもまして美しいおとめよ
  どこかわからないのなら
  群れの足跡をたどって羊飼いの小屋に行き
  そこであなたの子山羊に草をはませていなさい。

   若者の歌
 9:恋人よ、あなたをたとえよう
    ファラオの車を引く馬に。
 10:房飾りのゆれる頬も
  玉飾りをかけた首も愛らしい。
 11:あなたに作ってあげよう
    銀を散らした金の飾りを。

   おとめの歌
 12:王様を宴の座に誘うほど
    わたしのナルド(※1)は香りました。
 13:恋しい方はミルラ(※2)の匂い袋
  わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。
 14:恋しい方は香り高いコフェルの花房(※3)
  エン・ゲディのぶどう畑に咲いています。

   若者の歌
 15:恋人よ、あなたは美しい。
  あなたは美しく、その目は鳩のよう。

   おとめの歌
 16:恋しい人、美しいのはあなた
  わたしの喜び
  わたしたちの寝床は緑の茂み。
 17:レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。

 雅1:1-2は「雅歌」の作者と創作動機が記されています。シュラムの処女子(をとめご)が恋い慕う羊飼いの若者の居場所を尋ねるのが、本章の内容です。
 「雅歌」はソロモンに作者を仮託した、祝言を寿ぐ劇であろう、本ブログはそれに則って進めてゆく旨、昨日記しました。既に処女子と若者は夜の褥を共にする間柄だから、ならば、ここで馴れ初めから結ばれるまでを時系列で語る必要はない、そうわたくしは考えます。処女子の語りが初心ながら妙に艶めかしい理由の一端はその辺にありそうです。
 見方を換えれば、折角の新婚初夜になかなか帰ってこない亭主を待ち侘びる新妻の、愚痴のようにも聞こえてきませんか?

 ※1「ナルド」、※2「ミルラ」、※3「コフェルの花房」はいずれも香料であります。恋人の情欲を誘い、同時に自分の感情を高める小道具の一つが香料であるのは、今も昔も代わるものではありません。
 ナルドはヒマラヤ産の植物から製造される香料の一種。ミルラは麝香に似た甘みと苦みのあるのが特徴の香料、精神を高揚させると共に呼吸器系の治癒にも使用される由(死体防腐にも利用され、ミイラの語源とも)。コフェルは「ヘンナ樹」、死海一帯、殊に西岸のエン・ゲディやヨルダン川西岸のエリコ周辺で繁茂する灌木である。
 わたくしはかの地へ旅行したことがないので仄聞するだけですが、ヘンナ樹の繁茂するエン・ゲディ周辺のオアシスには旅行者が繁く訪れ滞在するそうです。



 『ラブ・コン』を久しぶりに観ました。以前、CSで放送されたのを録画、DVD-Rに落としていたらしい。すっかり忘れていたぜ。少女漫画コレクターである友人の社長秘書に連絡して、原作を全巻借りてきて読み耽ったことがあったっけなぁ。ああ、長閑な日々よ!
 何度観ても保証される笑いと涙で悶絶しそうな約100分。丁寧に作られている証拠だ。原作のニュアンスを損なう演出はないし、映画ならではの面白さも加えられていて、数ある原作付き映画/ドラマのなかで最も安心してみられる作品でありましょう。
 藤澤恵麻と小池徹平がかわいい、かわいすぎるよ。なんだろう、この二人が醸し出す底抜けの明るさと健全さは。なお、ウェンツ瑛士がバスケ試合の場面で、ワン・カットのみドゲザ出演(ドゲザって……)。◆

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第0948日目 〈「雅歌」前夜&児玉清さん逝去。〉 [雅歌]

 明日から聖書読書ノートを再開、「雅歌」を読んでゆきます。
 「箴言」や「コヘレトの言葉」同様、「雅歌」もソロモン王が作者に仮託されています。「(王の作った)歌は千五百首に達した」(王上5:12)が典拠であり、数多あるソロモン詩篇のうちでも最上の作品とされます。最上というのは、「雅歌」が“song of songs”と形容されることを承けての謂であります。
 むろん、いまではソロモンの真作と信じる人は余りいないようです。わたくしにはよくわかりませんが、『聖書ハンドブック』(教文社)の著者の一人、ジークフリート・ヘルマンによれば、ソロモン王の御代には日常語でなかったアラム語が「雅歌」のヘブル語原典には使われている由、為に「雅歌」は後代の著述になる書物である云々(P116)。
 本ブログでは、「雅歌」はソロモンに作者を仮託した、祝言を寿ぐ一種の劇であろう、と捉え、その解釈に則って進めてゆこうと思うております。2人の主人公、即ちおとめ/処女子はガリラヤ出身の少女、若者は同じガリラヤの羊飼いの青年であろう、とわたくしは考える者であります。
 旧約聖書にあっては非常に珍しい、相聞歌であり、古典劇仕立ての書物。艶めかしくて官能的、瑞々しく青春の息吹にあふれた一巻、とわたくしは思います。官能的というてもエロティックなそれを指すのでは勿論なく、むしろ、敬虔な意味合いで受け取るのが正しいでしょう。ただ、男女の交歓が描かれているだけにそれを匂わす表現は、微妙な言葉が用いられています。このあたりは幾らでも卑しく読める箇所でもありますから、みなさんには本文へ直接当たって真摯な姿勢で対峙していただきたいと思います。
 <諸書>に分類されるなかで「雅歌」は「詩編」と並んで、多くの作曲家が好んで曲を付けてきました。たとえばパレストリーナ、《ソロモンの雅歌》という全29曲の連作モテットを作曲しています。
 正直なことを申しますと、この「雅歌」はノートを取るのに厄介な書物で、旧約聖書(続編含む)と新約聖書、両方の内で3本指に入る、というても過言ではない(あくまで個人の感想です)。「雅歌」が具体的視野に入ってきたときから様々考えてきましたが、最終的にこれまでとは異なる方法を採ることにしました。
 即ち、各章全文を引き写し、そのあとに感想と簡単な註釈を加える、という方法です。「雅歌」のエッセンスやアロマ、微妙なニュアンスなどを瑕疵なく掬いあげて読者諸兄の前へ供すにはこの手段しかない、と思い至ったのです。手抜きのように映るかもしれませんが、散々悩んだ末の判断であることをご了解いただければ、甚だ幸いであります。



 児玉清さんが逝去されました。享年77。数日前の新聞に番組収録を延期した旨記事が掲載されましたが、よもや斯くも早く白玉楼中の人となられようとは……。
 俳優として、司会者としてのみならず書評家としても好きな方でした。その内に機会を見附けて児玉さんの書評本の感想を追悼代わりに認めて、ここに公開しようと思います。
 ありがとうございました。ゆっくりお休みください。◆

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