第1021日目 〈イザヤ書第39章:〈バビロンからの見舞客〉withS.キング「彼らが残したもの」を読みました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第39章です。

 イザ39:1-8〈バビロンからの見舞客〉
 ヒゼキヤ王の病が回復したと聞いて、バビロニアから見舞いの品が使節によって届けられた。王は有頂天になり、使節に宮殿をくまなく案内した。
 イザヤは見舞客のあったことを知ると、王の許へ出掛け、なにを話し、なにを見せたのか、と訊ねた。王はすべてを見せた、財宝もすべて見せた。と告白した。
 預言者は王を詰った。「万軍の主の言葉を聞きなさい。王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある。」(イザ39:5-7)
 王はイザヤの言葉をありがたく思った。かれは自分が王位に在るうちは国が平和に保たれ、安定が続くと思うていた。

 平和と安定が保たれる━━それはヒゼキヤ王の確信であったか、希望であったか。或いは、「そうであればいいな」という程度のものであったのか。それは定かでないけれど、列王記と歴代誌の記事を見る限りでは、結果的にその希望は現実となったわけです……。
 王下20:12-19の併読を願いたく存じます。なお、本章を以て第一イザヤが終わります。



 昨日読み終えたばかりなスティーヴン・キングの短編「彼らが残したもの」は、もし自分がなる一冊を編む機会あれば、是が非でも収録したい作品。初出は『十の罪業BLACK』、エド・マクベイン編の分厚いアンソロジーでした(創元推理文庫)。  本作は、解説で風間賢二の指摘するようにいまやアメリカのトラウマとなった“9.11”を題材にした短編です。あの事件以後、なにをどう語るか、あらゆる意味合いで技芸が求められるようになった感がありますが、キングのこの短編もその例に洩れない一編。  <声>に従ってあの日の惨事を免れた主人公の部屋に、同僚の遺品が出現するようになった。それは棄てても、戻ってくる。そのうちの一品を譲ったマンションの知り合いが<泣きを見た>ことで、かれは自分が為すべきことを始める。━━というのが大まかな粗筋ですが、いや本当にわたくしはこうした作業が不得手ですね。  ちょっと不気味だけれど、とても感動的。終始漂う物静かな雰囲気も魅力ですが、やはりこの短編を支配する調子は、生き延びたことへの罪悪感と孤独感ではないか。それだけに、ほのかに光差す幕切れと、その直前の、死んだ同僚の未亡人と交わす淡々とした会話に安堵させられるのです。が、鮮やかな印象を残すその部分は、ぐさりと心の奥に突き刺さってくる部分でもあります。  “9.11”後の世界をどう語るか、あの事件をどう扱うか。あれから10年が経つ現在でもなかなか道筋の見えてこない状況ですが、本作はそれに対する一つの解答であり、里程標といえるのではないか。そう思うことであります。◆

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第1020日目 〈イザヤ書第38章:〈ヒゼキヤの病気〉withS.キング『夕暮れをすぎて』を読了しました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第38章です。

 イザ38:1-22〈ヒゼキヤの病気〉
 ユダの王ヒゼキヤは死病を患った。イザヤを通じて主から死の宣告をされ、家族に遺言するよう奨められたヒゼキヤは、壁に向かってしとどに涙した。そうして、自分が主の前に善き者であったことを思い出してほしい、と訴えた。
 すると、主の言葉がイザヤに臨み、ヒゼキヤの寿命を15年延ばす、と告げた。「ここに主によって与えられたしるしがあります。それによって、主は約束なさったことを実現されることがわかります。/『見よ、わたしは日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を、十度後戻りさせる。』」(イザ38:7-8)
 病癒えた王が主にささげた感謝の歌(ミクタム)がある。内容は、━━わが命は人生の途中で途絶えるという、残る齢は陰府へゆだねなくてはならないのか。徐々に弱まり昼も夜もわが息の根を主は止めようとする。責め苛まされる自分の保証人となってください、主よ。……ああ、あなたは私に思いを寄せ、滅びの穴へ陥らないようにしてくださった。われらはこの世に生きる限りあなたの神殿で、あなたへささげる音楽を共に奏でることでしょう。

 「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。/わたしの霊も絶えず生かしてください。/わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。」(イザ38:16)

 「命ある者、命ある者のみが/今日の、わたしのようにあなたに感謝し/父は子にあなたのまことを知らせるのです。」(イザ38:19)

 並行箇所は王下20:1-11ですが、そちらにミクタブは記載さていません。
 第21-22節に干しイチジクの挿話があります。本章では最後に位置していますが、これはどう考えてみてもおかしな配置です。並行箇所ではどうなっているか、と申しますと、本章でいえば第6節と第7節の間に位置している。これが本来でしょう。ちなみに件の箇所はこんな風になっております、━━
 死病を患った王のためにイザヤが干しイチジクを患部に付けると、王の病は回復した。
 ヒゼキヤ王は預言者に訊ねました、私が主の神殿に上がれるしるしはなにか、と。
 イザヤはそれを承け、王よあなたが神殿に上がれるというしるしはこれです、と応えた。
云々。なぜ本章ではこんな配置がされたのか疑問ですが、編集ミスでありましょうか。
 ミクタブというのがどんな意味なのか不明ですが、これのあるなしでヒゼキヤ王の信心や王に対する印象なども少しながら変わってくるように思います。ミクタブは前半が嘆き、後半が希望と調子が転じますが、それをつなぐ役割を果たしているのが引用した第16節であります。



 スティーヴン・キングの短編集『夕暮れをすぎて』は順調に本日読了しました。どれもひいき目なしに良かったのですが、「ウィラ」と「ハーヴィーの夢」、「かれらが残したもの」が個人的にはベストであったかな。
 「ウィラ」は懐かしき《ミステリー・ゾーン》の一編と称しても疑いない程ですし、「ハーヴィーの夢」は足許が不安定な大地に立って万華鏡を覗いているみたいな気分にさせられる。レイ・カーヴァーの作風にも通じる作品ですが、こちらの方が不安感もおぞましさも空虚さも、そうして作品の密度もはるかに優っています。
 「かれらが残したもの」については……ちょっと語りたい気分でもあるので、明日にお話しさせていただこう、と思います。宜しいですね? (ネタは保存食にもなる!)◆

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第1019日目 〈イザヤ書第37章:〈センナケリブの攻撃〉2/2with朦朧としたなかで見た夢は、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第37章です。

 イザ37:1-38〈センナケリブの攻撃〉2/2
 ラブ・シャケの言葉はエルヤキムらを介してヒゼキヤ王へ伝えられた。王は衣を裂き、主の神殿に登った。そうして宮廷長たちをイザヤの許へ遣わした。かれらは預言者に王の言葉を伝えた。━━アッシリア王の使者ラブ・シャケの台詞を主も聞いたことだろう、主はそれを咎めるだろうがここに残る者たちのために祈ってほしい。
 それに応えて預言者イザヤのいうらく、━━王よ、アッシリアの言葉に耳を傾けて恐れてはならない。主はアッシリア王のなかへ霊を送りこみ、自分の国で剣に倒れるようにする。
 さて。その頃ラブ・シャケはエルサレム郊外を発ち、リブナを攻撃中のセンナケリブ王と合流した。時同じうして、クシュが反アッシリアに蜂起したという報せがもたらされた。センナケリブはユダに、アッシリアに服従して降伏せよ、と迫った。ヒゼキヤ王はその旨書かれた手紙を主の前に広げ、主に祈った。曰く、━━
 「わたしたちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください。」(イザ37:20)
 それに応える主の言葉があった。預言者イザヤはヒゼキヤ王に人を遣わしてこういった。
娘(をとめ)シオンはお前を辱め、嘲り、娘(むすめ)エルサレムはお前に背を向け、頭を振る。アッシリアよ、お前はだれを罵り、侮辱したのかわかっているのか。そうして曰く、━━「お前がわたしに向かって怒りに震え/その驕りがわたしの耳にまで昇ってきたために/わたしはお前の鼻に鉤をかけ/口にくつわをはめ/お前が来た道を通って帰って行くようにする」(イザ37:29)と。
 ……折も折、主の御使いが現れて、アッシリアの陣営で185,000人を撃って死体とした。センナケリブは帝都ニネベに戻り、神殿で自分たちの神に祈っているところを剣を持った息子2人に殺された。

 「エルサレムから残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。/万軍の主の熱情がこれを成就される。」(イザ37:32)

 並行箇所は王下19であります。多少段落分けなど異なる部分もありますが、ほぼ同文の内容です。特に感想など加える必要もないでしょう。聖書の並行箇所のみでなく、本ブログの当該箇所も併読いただければさいわいであります。



 遂に今日は会社を休む羽目に陥りました。口惜しいなぁ。同期に水を空けられてしまうではないか。でも、いまは体調を戻すことが最優先事項。仕方ない。
 朝も早いうちから再び病院へ行って、更に非道くなった部位を示してより強い薬を処方してもらい、2種の血液検査を済ませてきました。眠気でしばらく朦朧とした。そのさなかに見た夢は、短いながらもとても甘美なものでした。◆

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第1018日目 〈イザヤ書第36章:〈センナケリブの攻撃〉1/2withヒルティの言葉・番外編〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第36章です。

 イザ36:1-22〈センナケリブの攻撃〉1/2
 いまや唯一のイスラエルとなった南王国ユダが、主の目にことごとく正しいと映ることを行ったヒゼキヤ王の御代となって第14年目のことである。アッシリアの軍勢が、将軍ラブ・シャケを頭としてユダの砦の街を片っ端から占領してゆき、王都エルサレムへ迫ってきた。この10年前、同じアッシリアによって北の都サマリアは陥落し、北王国イスラエルは滅亡していた。当時のアッシリア王はシャルマナサル5世、いまはセンナケリブであった。
 さて。アッシリア軍は上の貯水池から来る水路の傍らに留まった。王都からは宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、補佐官ヨアが、ラブ・シャケの前に遣いとして出ていった。城壁の上では民が鈴なりになって様子を見守っていた。
 ラブ・シャケはユダの言葉で降伏を迫った。折れかかったエジプトを頼りとするな、私センナケリブはお前たちの主が「行ってこれを滅ぼせ」と命じたから来たのだ、と。エルヤキムらはせめてアラム語で話すよう懇願したが無駄であった。ラブ・シャケはいっそう大きな声で、ユダの言葉でこういった。曰く、ヒゼキヤ王にだまされるな、かれは民も国も救うことはできないのだから、と。
 将軍ラブ・シャケはアッシリア王センナケリブの言葉を伝えた。━━私と講話し降伏せよ。そうすればお前たちは自分たちの実りを食べ、水を飲むことができる。やがて私はここに来て、お前たちをことごとくここと同じような土地へ連れてゆく。センナケリブの言葉は次の問いで結ばれた。曰く、━━
 「ヒゼキヤが、『主は我々を救い出してくださる』と言っても、惑わされるな。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか。(中略)サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。(中略)それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」(イザ36:18-20)
 エルヤキム、シェブナ、ヨアの3人は主君に命じられていた通り、押し黙ったままこれを聞き、悲しみに衣を裂き、王の許へ戻ってラブ・シャケの言葉を伝えたのである。

 本文は王下18:13-37とほぼ同文です。ゆえにノートも同じにしてしまって少しでも先を稼ごうかと思うたのですが、さすがにそれは良心が許さなかった。双方のノートを読み比べてわずかなりとも成長の跡が見出せればよいのですが……。
 しかし、センナケリブの言葉は皮肉です。同じ神を信じるユダに、サマリアの神が果たしてサマリアを救ったであろうか、と問えば、ユダは内心「否」と頭を振るより他ないでしょう。それもよりによってサマリアを滅ぼしたのと同じアッシリアに迫られたとあってはッ!
 イザ36:10「わたしは今、主とかかわりなくこの地を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになっったのだ。」を読むと、イザヤの預言に添って周辺諸国も動いているのがわかります。



 まだ非道い、峠はどうやら今日(今夜)のようだ。皮膚に浮かんだ赤い斑点、つまり発疹も、これまでと比較にならないぐらい多く、かゆみも他に例を見ない程のレヴェルだ。でも、かゆみは我慢しなくてはならない。悪化の要因に等しいからだ。
 この蕁麻疹に伴い、毎日書いている聖書ノート(本ブログの原稿)はこの数日というもの、顧みることができないでいる。無念だ。さいわいと貯金があったから良いものの、これがなかったらブログ休業もやむなきところである。いまはこの貯金を食いつぶして更新を続けている。
 帰宅してからヒルティの『心の病を癒す生活術』(金森誠也・訳 PHP)を読んでいたら、こんな一節にぶつかりました。曰く、━━
 「病気はただいっそう高度な生命の段階への通路にすぎない。実はこうした段階には精神的な動揺、いやそればかりかしばしば深刻な屈辱なくしては到達できないのだ。」(P136)
 これへおんぶに抱っこするわけではないけれど、よくわかるのであります。◆

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第1017日目 〈イザヤ書第35章:〈栄光の回復〉with厄介なことだ。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第35章です。

 イザ35:1-10〈栄光の回復〉
 イスラエルはいま苦悩と悲しみのなかにあり、その栄光は輝きを失っている。が、喜べ、栄光の回復する日が来る。諸国の民はわれらの主の栄光を見、われらの神の輝きを見るだろう。
 さあ、その弱った手に力をこめ、いまにも屈せんばかりの膝に力をこめよ。そうして、なお心おののかせる人々にいうがよい、雄々しくあれ、恐れるな、と。悪に報いる神が来て救ってくれる、と。
 「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。/口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザ35:5-6)
 ……栄光が回復するとき、荒れ野には水が湧き、川が流れるようになる。砂漠は湖となって、水の湧き出でる場所となる。そこは葦やパピルスが茂る場所となる。
 「そこに大路が敷かれる。/その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。/主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。/そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。
 解き放たれた人々がそこを進み/主に贖われた人々は帰ってくる。/とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。/喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。」(イザ35:8-10)

 なんと感動的な章でしょうか! いまの自分には胸の底にまで染みこんでくる、一種の救いともいえる章であります。もとより本章は、聖書全体を通じて最も偉大な章の一つとされる由。第32章から続いたゆるやかなブロックは本章を以て一つの区切りとする。それはメシア預言である以上に、黙示録後に現れる第二のエルサレム、その後の祝福に満ちた世界の訪れを謳っているようにさえ思うのでありました(ex;黙21:1-2,22:3-4)。
 でも、そういう話を抜きにしても、心おだやかにしてくれ、心高鳴らせる希望が、本章にはある。そんな、喜びの感情にあふれた章といえますまいか。わたくしは本章が大好きです。正直なところを申せば、全文を引いてそれで良しとし、感想も付けずにいようか、とまで考えた程なのであります。



 病院で肌の具合を診てもらったところ、またしても原因不明の蕁麻疹と判断されました。以前もそうだったな……、この原因不明というのがいちばん厄介である。なにに気を付ければいいのか、食事も含めての話だが、わからないものね。ともあれ、近くの調剤局で塗り薬と飲み薬を処方してもらい(まだ保険証ができる前だから10割負担になっちゃったよ!)、てくてくと下を向いて溜め息をつきながら帰宅。ちょっと休んでから所用あって、付き添ってもらい区役所へ。
 役所近くのスーパーで買い物をしていても、なにを買っていいのかちょっと迷う。鯨のベーコンは諦めた。代わりに「かずべ」を買って煮付けにした。けっこう美味。煮たりするとやわらかくなって、骨も食べられて取っても良い味。他は野菜中心のメニューになったけれど、これがいちばん健康的な食事内容なのかもしれないね。野菜、大好き。
 ……この原稿を仕上げながら山田一雄が東京吹奏楽団を指揮した吹奏楽のためのオリジナル曲を集めたCDを聞いています。先日ようやっと購入したのですが、目当ては勿論、ジールマンの《チェルシー組曲》。が、その前に、ワルターズの《ジャマイカ民謡組曲》って面白いですね。「バナナ・ボート」の旋律が!◆

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第1016日目 〈イザヤ書第34章:〈エドムの審判〉with彼はひとり、その肉の痛みに耐え、……。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第34章です。

 イザ34:1-17〈エドムの審判〉
 森羅万象と全地全民は聞け、主の審判が臨み、主の怒りが降る。主は全地全民を絶滅させると定め、諸国民は屠られるために主へ渡された。諸国民は倒れて打ち棄てられ、全軍はその力を失う。
 エドムの町ボツラで主の剣は揮われて、いけにえを屠り、主はエドムの地で大いなる殺戮を敢行する。そのため、主の剣には血が塗られ、滴らされる。かれらは絶滅に定められた民である。
 エドムの涸れ谷は樹脂となり、その土は硫黄となり、その土地は炎上する。夜も昼も燃えさかり、煙が絶えることは永久になく、そこは廃墟となり、住む者も通う者もいない。野の獣や猛禽類が代わって塒(ねぐら)とする。かれらは主の口が命じて、主の霊が集めた。主の御手が測り縄を使って土地を分け、代々にわたってかれらの所有とした。人間に代わり、かれらがとこしえにそこへ住む。
 「まことに、主は報復の日を定められる/シオンに関わる争いを正すための年を。」(イザ34:8)

 ボツラは幾つかの箇所で触れられる町名ですが、本章ではエドムにある町として触れられます。「エレミヤ書」第49章第13節や同章第22節でも、同じくエドムの町として名が挙がります。
 第4節「天の全軍は衰え/天は巻物のように巻き上げられる」はイザ13:9-10を踏まえた表現でありましょう。ちなみに、そのイザ13:9-10はこういうものです、━━「見よ、主の全軍が来る/残忍な、怒りと憤りの日が。/大地を荒廃させ/そこから罪人を断つために。/天の諸々の星とその星座は光を放たず/太陽は昇っても闇に閉ざされ/月も光を輝かさない。」



 トレーニング期間が終わる今日から本格的な独り立ちが始まった。迷いやブレは多少あっても、これまでのことをなんとか思い出しながらやってきた。1時間の平均ピッキング数が65件とは少々少なく、先輩諸氏はこの倍になんなんとするというからまだまだなのだが、新人としては良い成績であるなんていうトレーナー氏の言葉をいまは鵜呑みにして、明日の休みをやすらかにすごそうと思う━━のだが!
 昨日(『コクリコ坂から』を鑑賞して帰宅した後)から、今年二度目の皮膚荒れが起こってしまった。これまでと違うな、と思うのは、一箇所ずつ、一箇所ずつ出てきて、数時間が経ってから体全体に広がった、というパターンであること。出勤を控えた昨夜は殆ど眠られず、一時間に一度はかゆみと痛みと熱で起こされる始末。さすがに(真夜中。午前3時半頃)両手へ広がってドラえもんの手のようになったときは、もう自分もこれまでか、と思いましたね。大袈裟ですが、実際そのときはそう思うたのだから仕方ない。これがトレーニング期間でなければ、当日休みを申請していたところだ。
 いま? まだ非道い、相当非道い。熱がこもっていないだけマシかもしれないが、腫れあがった無様な肉体を見るにつけ絶望と孤独を感じることはない。明日は朝から病院へ行って来る予定だ。どうか明後日の出勤までには完治してくれますように。祖先や祖父母、父の霊前でひたすらそれを祈ったことでありますよ。……。
 嗚呼、しかしなぜわたくしなのだ? 「ヨブ記」へ特に親近を示しているせいか? 「恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。/静けさも、やすらぎも失い/憩うこともできず、わたしはわななく。」(ヨブ3:25-26)
 「彼はひとり、その肉の痛みに耐え/魂の嘆きを忍ぶだけだ。」(ヨブ14:22)◆

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第1015日目 〈イザヤ書第33章:〈救いを求める祈り〉、〈正しい者を守られる神〉&〈主は我らの王〉with映画『コクリコ坂から』を観てきました、という報告。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第33章です。

 イザ33:1-6〈救いを求める祈り〉
 略奪されもしないのに略奪する者は略奪し終えたときに略奪され、欺かれもしないのに欺く者は欺き終えたときに欺かれる。
 主よわれらを憐れんでください、主よわれらを救ってください、われらが苦難のなかにあるときは。われらはあなたを待ち望みます。
 「主ははるかに高い天に住まわれ/シオンに正義と恵みの業を満たされる。/主はあなたの時を堅く支えられる。」(イザ33:5-6)

 イザ33:7-16〈正しい者を守られる神〉
 かつて主の栄光が臨んだ地には嘆きが満ちる。かつて主の栄光が臨んだ地は辱められ、衰える。
 が、主はいまや自らの身を起こし、自らを高くする。そうして諸国民は、火の如き霊によってなめ尽くされ、焼かれ燃やされてゆく。
 主はいう、遠くの地に住まう者はわたしが成し遂げたことを知り、近くの地に住まう者はわたしの力強い業を見るがいい。シオンにて悪の道を歩んだ者はみな捕らえられた。わたしが守るのは、━━
 「正義に歩み、正しいことを語り/虐げによる利益を退け/手を振って、賄賂を拒み/耳をふさいで、流血の謀を聞かず/目を閉じて、悪を見ようとしない者」(イザ33:15)である。「このような人は、高い所に住む。/その高い塔は堅固な砦。/彼の糧は備えられ、水は絶えることがない。」(イザ33:16)

 イザ33:17-24〈主は我らの王〉
 もうあなたはわれらを攻めた民を見ない。声に耳を傾けることもない。
 あなたの目はわれらの祝福の都シオンを見る。そこはあなたのやすらかな住居であり、移されることなき天幕、その杭は永遠に抜かれず、一本の綱も断たれない。乾燥したパレスチナには幾つもの川が流れ、しかもその川が敵に使われることもない。
 「まことに、主はわれらを正しく裁かれる方。/主はわれらに法を与えられる方。/主は我らの王となって、我らを救われる。」(イザ33:22)
 「都に住む者はだれも病を訴えることはない。/都に住む者は罪を赦される。」(イザ33:24)

 これはアッシリアの恐怖が迫った時代の預言、といわれます。でも、ここにある希望はすごく心清らかにされる希望であります。



 映画『コクリコ坂から』を観てきました。胸がいっぱいになりました。涙もほろりと出ました。生きていてよかったな、と思いました。
 却って感想を認めようとしても、記憶も感情もこんがらかった毛糸玉のようになっており、なにを書いていいのかわからない。かつて他の映画でそうしたように、少し時間を置いて書いてみて、それがお披露目できるようなものであったら本ブログでお目に掛けたく存じます。
 同じような時代を舞台にした『ALLWAYS~三丁目の夕日』よりもはるかに親近感と懐かしさを感じたのは、ひとえに『コクリコ坂から』がまったく作為的でない点にあったのかもしれない。それだけ、いまは書いておきます。
 最後にこんな映画と出逢えたら、この世に言い残すことなんてありませんよ。◆

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第1014日目 〈イザヤ書第32章:〈正しい王の支配〉、〈憂いなき女たち〉&〈神の霊の働き〉withザ・プロミス~The Lost Story.〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第32章です。

 イザ32:1-8〈正しい王の支配〉
 一人の王が正義によって国を統治し、高官たちが公平を以て国を支配する。かれらは弱き者、貧しき者にとって、避け所となり逃れ場となる。「見る者の目は曇らされず/聞く者の耳は良く聞き分ける。/軽率な心も知ることを学び/どもる舌も速やかに語る。」(イザ32:3-4)
 もう人品が偽られることもない。愚か者は決して貴人ではなく愚か者のままだし、ならず者は決して貴人ではなくならず者のままである。かれらは心のなかで良からぬことを企み、正義を偽るが、真に貴い人は貴いことを考え、貴いことを擁護する。

 イザ32:9-14〈憂いなき女たち〉
 日々を憂いなく、安んじて生きる女たちよ、この日々も一年後には変転する。粗布をまとって荒れ果てたぶどう畑を嘆け。
 「美しい畑、実り豊かであったぶどうの木のために/茨やいらくさに覆われたわが民の畑のために/喜びの家、陽気な町のために。」(イザ32:12-13)
 やがて都から人の気配はなくなり、代わって家畜が安んじて草を食(は)むようになるだろう。

 イザ32:15-20〈神の霊の働き〉
 ━━が、遂にわれらの上に神の霊がいと高い所から働きかけるときが来る。荒れ野は園となり、園は森となる。そこには公平が宿り、正義が宿る。
 「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。」(イザ32:17)
 他の地がどのような天災人災に見舞われたとしても、主の民は心を安らかにしたまま休息の場所に住まう。すべての水のそばで作物を育て、家畜を放つ主の民の、なんとしあわせなことだろうか。

 主なる神の正義とはなにか? それは平和と信頼である。補足すれば<わたし>と<あなた>のギヴ・アンド・テイクの関係でもある。言い換えれば、われらキリスト者ではない日本人にも有名な言葉、即ち「求めよ、さらば与えられん」という表現に結びつく。
 むろん、<正義>とは立ち位置を変えれば如何様にも変化しますから突っこんだ話はなしにしますが、少なくとも旧約聖書の神にとっての<正義>とは、神と民の間に結ばれて実現する平和と信頼に他ならない。この場合、根本には<契約>という行為があるのは言わずもがなでありましょう。
 いずれにせよ、本章は流し読みするだけでなく、立ち止まってじっくりと考えながら読んでみるのがいちばん良い方法であると思います。
 あと2週間足らずで第一イザヤは終わりますが、第二イザヤへ入る前に1日だけ、本ブログはお休みします。「ウォーキング・トーク、シッティング・トーク」という形で前言撤回する可能性は否定できませんが……。



 ちょこちょこといろいろ書いていますが、今年中に、かつてここで(発作的に)連載(!)した短編『人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)』に手を加え、きちんとした意味で完成させることを誓います。
 遅ればせながらブルース・スプリングスティーンの「新作」アルバム、『ザ・プロミス~The Lost Sessions』(SICP2977-8)を聴きながら、不肖さんさんかが斯く申しあげる次第であります。◆

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第1013日目 〈イザヤ書第31章:〈エジプトに頼るな〉withいまの会社へ来て10日、凹むこともあるけれど……、〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第31章です。

 イザ31:1-9〈エジプトに頼るな〉
 エジプトに頼るユダを、主は災いと呼ぶ。軍備ばかりでイスラエルの聖なる方を仰ぐことも尋ね求めようとする心を特に持たない。だからといって、主はユダに災いをもたらし、御言葉を無に帰すようなことはしない。代わりに、主はエジプトを叩く。エジプトは悪を行う者に味方する国だからであり、斯様に主が御手を伸ばしてエジプトを叩けば、助けられているユダも倒れていっしょに滅びるからだ。
 獲物を捕らえた獅子は集まってきた羊飼いの歓声によって、自惚れたり自らを過信することはない。主も同じだ。大きく翼を広げた鳥のごとく、万軍の主はエルサレムの上にあって戦う。ダビデの町と、そこへ住む自分にのみ依り頼み民を守り、かばい、戦う。
 「イスラエルの人々は、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ。」(イザ31:6)
 ……アッシリアは人間のものではない剣によって足並みを乱し、彼方此方へ逃げ、若き者らは労役に服す。「主はシオンに火を/エルサレムに炉を持っておられる。」(イザ31:9)

 主の声が聞こえなくなったユダ、その代わりにかれらが聞くのはエジプトの声。ユダはエジプトに、かつて自分たちの父祖を労役に服させて虐げたエジプトの国に、自分たちの保護を求めてかれらを頼む。と、普通ならここでユダが責められることであったでしょう。が、主は敢えてエジプトを討つ。そうして、双方を共倒れさせようと計る。
 ユダを助けるエジプトを討つ、というのは既に託宣として出てきていましたが、本章は主の、エジプトに対する最終的な通達であります。そう、最後通牒が突きつけられたわけであります。
 で、その言い廻しがすごい。「しかし、主は知恵に富む方。/災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。/立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる」(イザ31:2)ゆえに、「助けを与える者はつまずき/助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」(イザ31:3)のである、というのです。思わず寒気を覚える聖句ではありませんか。わずかばかりの情も見当たらない。それだけ主の、ユダへの感情は回復できぬところまで失墜している。一度定めた滅びの計画を成就させるためにユダのみならず、ユダを援助する国━━ここではたとえばエジプトですが━━をも共倒れさせようとする主の計画。それが本気であることを教えてくれるのが、この第31章に他なりません。



 新しい会社へ来て早いもので10日が経ってしまった。いよいよ明日でトレーニング期間も終了。
 いろいろ覚えなくてはならないこともあってちょっと大変。教えていただいたことを瞬間的に忘れたり、棚を間違えてそこにない商品を探していたり、梱包がうまくいかなくて悄気(しよげ)たりすることも、また他の面で凹むこともあるけれど、ここが踏ん張りどころと思うていまはバカになってひたすらインプットに徹し、迷ったらマニュアルに戻ったり他の先輩諸氏に教えを請うて、一通りの、当たり前の作業ができるようになろう。
 でも……人には恵まれたのではないか、と思う。少なくとも、同期(1人しかいないけれど!)とトレーナーの先輩社員、そしてチームの人々には。同期以外とは誰と、なにを、どこまで話していいのか、皆目見当が付かず、一種の疎外感(孤独感、だな、むしろ)さえ覚えながら休憩室ではぽつねんとしていることが多いのだが、これもおそらく時間が解決してくれるだろう。
 なによりも大事なのは、周囲との<和>を固持すること、積極的になること、ごまかさないこと、もう一度訊くことを恐れずにわからなくなったらすぐに相談すること。まぁ、あいさつを欠かさないこと、きちんと話すことは、人間として当然だよね!?
 さて、明日も早い。今日の原稿を予約投稿したら、すぐに寝ます。おやすみなさい。
 せめて夢のなかでだけでも、おぐゆーさんに逢って仲良くしたいなぁ……。◆

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第1012日目 〈イザヤ書第30章:〈エジプトとの同盟〉、〈背信の記録〉&〈救いのとき〉他with吹奏楽へハマる日々が再び訪れるか?〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第30章です。

 イザ30:1-7〈エジプトとの同盟〉
 背く子ら即ちユダは災いである、と、主はいった。かれらの計画、盟約はわたしの意によるものではない。罪に罪を重ねるかれらは、わたしの託宣へ耳を貸すこともなく、ひたすらエジプトへ下り、ファラオの砦に身を隠す。が、それはユダよ、お前たちにとって恥辱でしかない。その国が助けとなることはない。
 ネゲブの山道を、ろばやらくだの背に荷を載せて、お前たちは行く。獅子が吼え、蛇や蝮が潜む、悩みと苦しみの道を、お前たちは行く。エジプトへ逃れ、定住したからとて助かるわけではないのに。助けとならぬエジプト。わたしはこれを“つながれたラハブ”と呼ぼう。

 イザ30:8-17〈背信の記録〉
 ユダの、この背信をかれらの前で、石に刻んで記録せよ。かれらは先見者に<幻>を見るな、といい、預言者には真実を預言するな、惑わすことを預言せよ、という。イスラエルの聖なる方について、われらに語るな、と。
 だから、わたしはいう。お前たちが抑圧と不正を支えとして重ねる罪。その崩壊は突然やって来る。
 静かにしていれば救われる。やすらかに信頼していることにこそ力がある。わたしの信仰に立ち帰れ。主はそういった。が、ユダよ、お前たちはそうしなかった。
 「今、行って、このことを彼らの前で/板に書き、書に記せ。/それを後の日のため、永遠の証しとせよ。/まことに、彼らは反逆の民であり/偽りの子ら、主の言葉を聞こうとしない子らだ。」(イザ30:8-9)

 イザ30:18-26〈救いのとき〉
 わずかに残った心正しきユダの民、エルサレムの住民のため、主は恵みを与えようとして立ちあがり、憐れみを与えようとして待ち構える。
 もう泣き、哀しむことはない。主はあなたの声に耳を傾け、それに応えてくれる。あなたが地に蒔く種に雨をもたらし、実り豊かなものとしてくれる。高い山や丘の上に水路が開かれれば、絶えず水を流してくれる。あなたの家畜にはじゅうぶんな量の牧草、地を耕す馬やろばには栄養たっぷりな餌が与えられる。もはや泣くことはない、主は正義の神だから。
 「あなたを導かれる方/もはや隠れておられることなく/あなたの目は常に/導かれる方を見る。」(イザ30:20)
 「主が民の傷を包み/重い打ち傷をいやされる日/月の光は太陽の光になり/太陽の光は七倍になり/七つの光となる。」(イザ30:26)

 イザ30:27-33〈アッシリアに対する審判〉
 「見よ、主の御名は遠くから来る/怒りに燃え、立ち昇る濃い煙を伴って。」(イザ30:27)
 主の霊はアッシリアのみならず諸国にまで臨み、主の嗣業の民を歓喜させてかれらの神に見(まみ)えさせる。主の威厳ある声が御腕の業といっしょにこの地へ導き、主の嗣業の民を攻める国々と戦う。
 「焼き場は既に用意され/王のために深く広く造られ/燃やすための木が積まれ/多くの薪が置かれ/主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように/そこに臨む。」(イザ30:33)

 ユダの背信、それは許され難き罪。が、その背信の未来の先にメシアの到来があり、黙示録後の千年王国の建設が約束される。主によってあらかじめ構想された歴史の実現とは、そういうことであります。特に第1-26節を読めば明らかとなることでもあります。希望に満たされた本章が、わたくしはけっこう好きです。
 ネゲブはこれまで何度か出て来た地域ですが、ここではいわゆる<ネゲブ地方>というよりも、ユダからエジプトへ至る、王都エルサレムを擁すユダの山地から見て南方のエリアを指す、と考えた方が無難であるように思います。
 なお、エジプトを形容したラハブとは「ヨブ記」にも出てきた海の怪獣、即ちレビヤタン(ヨブ9:13,26:12)。『新エッセンシャル聖書辞典』の説明に拠れば、セム人の神話に登場する宇宙に於ける神の秩序の破壊者ティアマトと関係しているのだろう、とあります。



 先日の休みに出掛けたCDショップでストラヴィンスキーといっしょに買ったのが、いま聴いている『ブルーインパルス』というCD(COCO-73020)です。演奏団体は航空自衛隊中央音楽隊。
 わたくしは熱心な吹奏楽ファンではありませんが、幾つかの邂逅をきっかけにこの分野を聴くようになりました。いまさらながら吹奏楽の水先案内人を失った痛手を予想以上に大きく感じていますが、その人が口にしてこの分野へのめり込む契機をなったジールマンの《チェルシー組曲》など1年前までは音源として手に入れることも難しかったのに、現在ではなんと2種の現役盤がある。しかも復刻ではなくいずれも新録音なのがたまげてしまう。世界は変転したのだ、悪い方にも、良い方にも。
 で、航空自衛隊の演奏はわたくしのような吹奏楽素人が聴いてもブッたまげてしまう精度の高さと勢いのよさに啞然としてしまいます。何年か前に浜松の航空ショーで雨のなか聴いたバンドの演奏も良かったけれど(あれはどこの、なんという団体だったのかな)、航空自衛隊中央音楽隊の演奏はやはり別格なのかもしれません。
 再び吹奏楽ばかり聴く日がその内に到来しそうだな……、とぼやく。再びハマるに『ブルーインパルス』がこれ以上ない盤であることは疑いないでしょう。言わずもがなのことだけれど、熱くてカッコイイよね、吹奏楽のオリジナル作品って!◆

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第1011日目 〈イザヤ書第29章:〈エルサレムの攻城と救い〉、〈酔いしれる指導者〉&〈イスラエルの回復〉withストラヴィンスキー《独奏ヴィオラのための悲歌》を聴きました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第29章です。

 イザ29:1-8〈エルサレムの攻城と救い〉
 アリエル(エルサレム)は平和ボケしている。神殿の祭儀は無意味に数を増す。わたしはもうアリエルを顧みない。わたしはエルサレムを苦しめる。アリエルには嘆きと苦しみが臨む。わたしはダビデの町を包囲して城壁を築く。
 アリエルよ、お前は倒れて地の下から語りかけるが、その言葉は塵にくぐもってよく聞こえない。とはいえ、お前に群がる敵は、瞬時に駆逐される。なぜならば、わたしが再びお前を顧みるからだ。敵にとってエルサレム攻撃は、夜、寝ている間に見た夢のようなもの。

 イザ29:9-16〈酔いしれる指導者〉
 もはや救済の途は絶たれた。かたくなになるばかりの国の王よ、民よ、ためらい、立ちすくみ、目をふさぎ、見えなくなれ。「主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ/お前たちの目である預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。/それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。」(イザ29:10-11)
 主は知っている、ユダの民が主に寄せる信頼と敬愛は偽りである、と。主から遠く離れた心のなかで謀り事をしていることも。なぜかというと、人間が主なる神を敬うのは既にして一つのポーズにすぎないからだ。
 斯くして主は、こういう。曰く、━━
 「それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。/賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」(イザ29:14)

 イザ29:17-24〈イスラエルの回復〉
 が、しばらくの時間(とき)が流れれば、荒廃したレバノンは再び緑の園となり人はふさがれていた目と耳が開かれ、苦しみと貧しさから救われて、聖なる主のゆえに喜び祝い、そうして、躍る。悪の道を歩んで民を虐げ、災いを与えた者らはことごとく滅びる。
 「それゆえ、アブラハムを贖われた主は/ヤコブの家に向かって、こう言われる。/『もはや、ヤコブは恥を受けることはない。/もはや顔が青ざめることもない。』/彼はその子らと共に/民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする。/彼らはヤコブの聖なる者を聖とし/イスラエルの神を畏るべきものとする。/心の迷ったものも知ることを得/つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。」(イザ29:22-24)

 アリエルは「神の祭壇の香炉」という意味で、ここではエルサレムを指すイザヤ独特の表現であります。おそらく、エルサレムにある焼き尽くす献げ物を燃やすための炉が、巡り巡って王都を指す表現となったのでありましょう。
 これまでユダを救済しようとして来たイザヤでしたが、既にイザ6:9-10で預言されていたようにユダはひたすらかたくなになって、救いの言葉に耳を傾けることも、救いの手段を真面目に検討することもありませんでした。ただ頑迷預言だけが現実になったことを憤り、幻滅と無力に打ちひしがれたイザヤの言葉が、イザ29:9-16〈酔いしれる指導者〉の全文です(ここではキモとなる部分だけを引用しました)。
 が、それだけに救済が顧みられて実現したときの喜びは、まるではじけそうな勢いに満ちています。「喜び」や「讃歌」といったこれまで比較的容易に使ってきた言葉では、肝心な所が抜け落ちてしまいそうな気がしてなりません。



 ストラヴィンスキーの《独奏ヴィオラのための悲歌》は魂を抉られるような作品ですね。正直、この作曲家の作品に、斯くも痛ましい作品があったのか、と驚いています……。わたくしが聴いたのは、NAXOSの「ロバート・クラフト・コレクション/ストラヴィンスキー作品集第12集」(8.557532)であります。独奏はリチャード・オニール。これは絶品だな。◆

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第1010日目 〈イザヤ書第28章2/2:〈シオンの隅の石〉&〈農夫の知恵〉with今日の読書。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第28章2/2です。

 イザ28:14-22〈シオンの隅の石〉
 欺きを避け所とし、偽りを隠れ処とし、死と契約を結んで陰府と協定し、洪水の被害からまぬがれられる、と豪語する、異教の習慣に従ったエルサレムの住民、それを治める者よ、聞け、主の言葉を。
 主はいう、━━
 「わたしは一つの石をシオンに据える。/これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。/信ずる者は慌てることはない。」(イザ28:16)
 主は正義を測り縄とし、恵みの業を分銅とする。避け所も隠れ処も消失し、死と結ばれた契約は履行されない。洪水は朝な夕なにあふれてお前たちを滅ぼす。
 主は御業を果たすために立ちあがり、憤る。「今、嘲ることをやめなければ/お前たちの縄目は厳しくなる。/わたし(イザヤ)は定められた滅びについて聞いた。/それは万軍の主なる神から出て国全体に及ぶ。」(イザ28:22)

 イザ28:23-29〈農夫の知恵〉
 私イザヤの声が聞こえるか、聞こえていれば、耳を傾けよ。神は物事にふさわしい仕方をかれに教える、それは驚くべき主の計らいである。
 土を掘り起こして大地を耕し、畝を作りさえすれば、作物の収穫が得られるだろうか。否、そうではない。イノンドやクミンの種、小麦大麦そうして裸麦は、耕した場所でさえあれば、適当に蒔いてよいのだろうか。否、そうではない。実りを収穫するにあたっては作物に適した収穫の時期や方法、精製の仕方があるのではないか。そう、その通りだ。
 いずれにも然るべき方法がある。いずれにもふさわしい方法がある。
 「これもまた万軍の主から出たことである。/主の計らいは驚くべきもので/大いなることを成し遂げられる。」(イザ28:29)

 イノンドはセリ科の一年生草木で香辛料の一種、クミンもセリ科の植物で香辛料として使用された由。共に、「マタイの福音書」第23章第23節では、タルムード(ユダヤ教のラビの口伝律法)の十分の一の献げ物と指定されています。この既述は『新エッセンシャル聖書辞典』(いのちのことば社)の解説にすべて拠りました。
 シオンの隅の石とはなにか? 諸説あるそうです。が、それが正義の測り縄であり、それを信ずる者にとって礎となる石であることは、否定できないでしょう。シオンの隅の石は正義と欺きを区別する一つの基準なのではないか、とわたくしは考えております。……最初読んだときはわからなくて困惑しましたが、何度も読んでいるうち斯く思うようになった次第であります。



 キングと聖書を除けば、今日は三浦綾子の『新しい鍵 結婚について考える』を読んでいます。予定はありませんが、なんとなく……。清らかで深い一冊です。◆

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第1009日目 〈イザヤ書第28章1/2:〈サマリアの陥落〉&〈酒に酔った祭司と預言者〉with村上春樹氏かく呟きけり〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第28章1/2です。

 イザ28:1-6〈サマリアの陥落〉
 肥沃な谷にある丘を飾る麗しい輝きは、いつしか衰えてゆき、しぼんだ花のようになる。それが北の都サマリアの運命。主は雹、大風、洪水のごとくサマリアを嬲り、御足で踏みにじる。斯様にして、エフライムの酔いどれが誇る冠はこの地上から消えてなくなる。
 「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって/麗しい冠、輝く花輪となられる。/裁きの座に着く者には、裁きの霊となり/敵の攻撃を城門で押し返す者には/雄々しい力となられる。」(イザ28:5-6)

 イザ28:7-13〈酒に酔った祭司と預言者〉
 ユダの民はこんな風に揶揄する━━祭司も預言者も濃い酒をしこたま飲んで酔っ払っている。主からの<幻>を見るときは朦朧としていて、裁判で判決を下すときは蒙昧である。
 ユダの民はこんな風にイザヤについて陰口する━━いったいあの預言者は誰に主からの<お告げ>を説き、伝えようとしているのだろうな、と。乳飲み子か? ようやくハイハイするようになった幼な子にか? あの預言者の言葉は、おれたちにはこんな風にしか聞こえない。つまり、「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ(命令に命令、命令に命令)」としか。「カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ(規則に規則、規則に規則)」としか。「しばらくはここ、しばらくはあそこ」としか。
 ━━確かに、と私イザヤは思う。確かに、主はどもる唇を以て異国の言葉を用い、この民即ちユダに語りかける。が、実際はこうだ、主はこう語っておられる。曰く、━━
 「これこそが安息である。/疲れた者に安息を与えよ。/これこそ憩いの場だ。」(イザ28:12)
 これが、かれらには、「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ。カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ。しばらくはここ、しばらくはあそこ」としか聞こえないのだ。私イザヤはユダにこう告げよう。「彼らは歩むとき、つまずいて倒れ/打ち砕かれ、罠にかかって、捕らえられる」(イザ28:13)と。

 〈サマリアの陥落〉に於いて、「その日」とは、サマリアが陥落する日であり、民の残りの者、とは、アッシリアの攻撃を逃れ捕囚をまぬがれ、主の信仰へ立ち帰る者を指すのでしょう(ex;イザ17・感想/第0998日目)。
 ここで見るべきはやはり、イザ28:7-13〈酒に酔った祭司と預言者〉であります。身内(同胞ユダ)へのイザヤの慨嘆がこれまでなかった強く、深い調子で描かれています。ここはそのイザヤの慨嘆と情愛が聞こえてくるとして、記憶に留まる内容であります。



 村上春樹氏が最新のエッセイ集で呟いているが、氏はスタバに行くとドリップコーヒー、つまり<本日のコーヒー>以外を頼んだことがないそうな。それ以外のドリンクになかなか手が出せないという意味ではわたくしも同類。きっとこんな人、他にも沢山いるはずだ。◆

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第1008日目 〈イザヤ書第27章:〈主のぶどう畑〉、〈都の破滅〉&〈イスラエルの回復〉withSMAPメドレー再放送希望!〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第27章です。

 イザ27:2-9〈主のぶどう畑〉
 その日、主が手ずから丹精して見張り番もした、りっぱなぶどう畑の歌をうたおう。主はいう、わたしはもはや憤っていない。が、わたしに戦いを挑む者があれば、迎え撃とう。そうではなく、主を砦と思い、主と和解したくばそうするがよい。「時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす。」(イザ27:6)
 疑問に思う、果たして主は、イスラエルを撃った者を撃ったように、イスラエルを殺した者を殺したように、イスラエルをも撃ち、殺したであろうか。否、主がしたのはイスラエルを激しい風で以て吹き払ったことである。斯様にしてヤコブの罪は贖われて除かれる。異教は排除され、異神を崇めるための祭具や偶像はどこにも立てられない。

 イザ27:10-11〈都の破滅〉
 されど王都エルサレムは孤立し、包囲され、攻められて廃墟となり、見棄てられて荒れ野となる。その界隈に住まうようになった家畜はかつての都の跡で草を食み、その界隈に住まうようになった人々はかつての都の跡で小枝を集める。主はそんな連衆を顧みない。そんな連衆の神もかれらに恵みを与えることがない。

 イザ27:12-13〈イスラエルの回復〉
 その日が来たら、主はユーフラテスの流れからエジプトの河(ナイル川)に至る地域、即ちアッシリア/バビロニアからエジプトに至る地域までを、穂を打つように打つ。が、イスラエルは再び角笛に導かれてこの地に集い、聖なる山シオン、エルサレムで主にひれ伏すようになる。アッシリアに捕囚として連行された者も、エジプトへ追いやられたり避難して逃れた者も者も、聖なる山シオン、エルサレムで主にひれ伏すようになる。

 聖書を読むには困難が伴う。それもそうだ、日常的に接する書物ではないし、この国の国教ではないのだから。加えて、幼少の時分から親しんできた者は、この国にはわずかなパーセンテージしかいない。そうした意味ではわが亡き婚約者も含めてキリスト者は宗教的マイノリティと申せよう。むろん、在日外国人をここに数えることはしない。
 聖書やキリスト教が自分の拠って立つ、然るべきアイデンティティでない点では、わたくし即ちさんさんかも勿論例外ではない。ここでもたびたび嘆いているように、嗚呼妻となるはずであった女性が生きてくれていれば……、と思うことは頻りにあるのだが、なにがいいたいのかというと、「イザ27:2-9〈主のぶどう畑〉」は独りで読んでも理解することはやや困難であったことを告白したかったのである。では、どうやってそこに書かれたことを理解するか。それは勿論、何度でも腰を据えて読む、それ以外に道があろうか?



 FNSで放送された「音楽の日」。SMAPのメドレーから偶然観られました。惜しむらくは録画できなかったこと。願うは、この部分だけでも後日再放送されてほしいこと。無理かなぁ……。ええ、そうなんです、昔からSMAPが好きなんです、『BANG! BANG! BANG!』の頃からかな。Fine,Peace!◆

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第1007日目 〈イザヤ書第26章:〈勝利の歌〉、〈復活を求める祈り〉&〈主の審判〉withド氏の夏休み。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第26章です。

 イザ26:1-6〈勝利の歌〉
 その日、われらはユダの地で、この勝利の歌をうたおう。堅固な都の砦を開け、神に従い信仰を守る民がやって来て、入れるように。「堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。/どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。」(イザ26:3-4)

 イザ26:7-19〈復活を求める祈り〉
 あなたの裁きによって定められた、神に従う者のためのまっすぐな道を、われらは歩いてゆきます。そうして、あなたを待ち望みます。あなたの御名を唱えることは、われらの喜びです。あなたの裁きが全地に行われるとき、あなたへ従わない人らはあなたのゆえに恥を受けるでしょう。
 「わたしの魂は夜あなたを捜し/わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。」(イザ26:9)
 主よ、われらに平和を。われらを支配する者を除き、あなたの御名を唱えるわれらに、平和を授けてください。
 「あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。/塵の中に住まう者(死者)よ、目を覚ませ、喜び歌え。/あなたの送られる露は光の露。/あなたは死霊の地にそれを降らせます。」(イザ26:19)

 イザ26:20-27:1〈主の審判〉
 ヤコブよ、ユダよ、部屋に隠れていよ。主がその御座から立ちあがる。全地の者らの罪を問う。大地は流れた血も倒れた者も露わにしたままで隠そうともしない。主は剣を以て逃げるレビヤタンを罰し、海の竜を殺める。

 滅びのあとに希望が訪れる。神を信じ、敬い、畏れ、跡を慕うことがなによりの喜び。━━そんな、一種の法悦に等しい感情が隅々まで染み渡った章です。それは特にイザ26:7-19〈復活を求める祈り〉で顕著です。ここでは異教に染まった民が回心し、信仰を回復し、それによる主の祝福を受けられる、という構図になっています(ex;イザ26:14-15)。
 後に読むことになる第32-36章同様、わたくしはこの前後の章群を第一イザヤ書の真の中核と考え、かつ、第二イザヤ書への橋渡し役も担っている、という風に考えるのであります。



 以前、今年の夏は浮気することなくドストエフスキーを読み続けられるかな、と書きました。覚えていらっしゃいますか? こんなことをいいだしたのには理由があります。
 縁あって現在の会社に入れてからはたったの30ページ弱しか進んでおらず、昨日久しぶりに読もうとしたらすっかりわからなくなっていた。それまでは数日空いてもすぐに物語の世界へ入ってゆける程早々に思い出すこともできたのに、今回はそれさえ無理であった。
 仕方ないのでド氏にはしばし夏休みを取っていただくことにして、わが神スティーヴン・キングの短編集を明日からは携えて出勤することにしました。いやぁ、やっぱりアヴァンチュールを楽しむ夏になってしまいましたねぇ……太宰? 知らん、だ、誰だ、それは!?◆

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第1006日目 〈イザヤ書第25章:〈神の驚くべき御業〉&〈モアブの滅亡〉with……遅れを取り戻すために、いまのわたくしができること。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第25章です。

 イザ25:1-10(1/2)〈神の驚くべき御業〉
 主よ、あなたは遠い昔からあたためてきた計画を実行し、成就された。私はあなたをあがめ、御名に感謝します。都は廃れて瓦礫の山となり、異民の館もそこにはもうない。ユダ以外の民もあなたをあがめ、恐れるようになる。
 主よ、あなたは弱い者の砦となる方。逃れ場であり避け所でもある。あなたは異邦人の騒ぎを鎮め、暴れ虐げる者の声を低くする。
 主よ、あなたはシオンの山で祝宴を開かれる。主よ、あなたはこのシオンの山で、「すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。」(イザ25:7-8)
 主よ、あなたはわれらが待ち望んだ方、と、その日、人はいうだろう。われらを救ってくださる方、わたしたちが待ち望んでいた主、と。その救いを祝おう、喜び躍ろう、主の御手はこのシオンに留まるのだから、と。

 イザ25:10(2/2)-12〈モアブの滅亡〉
 モアブを代表とするユダの敵国は、主により踏みにじられる。どれだけ四肢を広げて、もがいても、巧みな手の業を重ねても、主は容赦しない。かれらの誇りを打ち倒し、城壁、砦、塔を打ち砕き、地の塵に伏させる。

 ここでいうモアブはユダに敵対する諸国の総称であり、その代名詞としてモアブが当てられているのであります。
 第1-10(1/2)節は昨日の第24章を内容的に承けていますが、ここもまた同様に感謝と礼賛に満ちていることをおわかりいただける、と思います。わたくしはここを読んでいて、昨日の章と同じく身震いするのを覚えました。
 引用した「すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。」もすてきな文言ですが、それ以上にわたくしが感動して思わず赤の下線を引いてしまった程、思わず跪いて感涙に咽び、この醜い顔をあげて両手を広げて感謝をささげたくなるような文言が、この直後に存在する。それに曰く、━━
 「主なる神は、すべての顔から涙を拭い/ご自分の民の恥を/地上から拭い去ってくださる。」(イザ25:8)
と。
 わたくしはむろん、キリスト者ではありませんが、こんな風に約束してくれるのであれば、なかなかいいかもしれないな、と思うのであります。



 最近ノートを取る時間が割けず、徐々に遅れが蓄積してゆく。会社の最寄り駅徒歩1分にの場所に良さそうな喫茶店があり、足を伸ばすもまったく使い物にならない。まさに愚の骨頂。いつものスタバへ直行するしかないかな……。◆

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第1005日目 〈イザヤ書第24章:〈神の世界審判〉with〈ワールドクラシック@シネマ2011〉⑤;ボリショイ・バレエ〈クラスコンサート〉&《ジゼル》を観たのですが……、〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第24章です。

 イザ24:1-23〈神の世界審判〉
 私イザヤに主が見せた幻をみなへ告げる。見よ、われらが住む大地を主は裸にする。大地は乾き、荒れて衰え、地震によって歪(ゆが)む。ユダの民は職業や身分の貴賤にかかわりなく世界中へ離散する。このように大地が汚されるのには、勿論理由がある。私はいう、「地はそこに住む者のゆえに汚された。/彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ」(イザ24:5)と。「それゆえ、呪いが地を食い尽くし/そこに住む者は罪を負わねばならなかった」(イザ24:6)と。
 ユダの地から実りは消える。ユダの民から喜びは消える。ユダの町は蛮民に破壊され、辛うじて難を免れた者は命からがら逃げてゆく。が、かれらが悲しみに暮れる暇はない。ユダを襲う諸国の軍勢が四散したユダの民を追うからだ、掃討せんとして。遠近(をちこち)へ散ったユダは、それでも主を求めて祈り、主を讃美して歌い、東の国でも西の群島でも主の御名を尊ぶ。耳をすませば地の果てから聞こえてこよう、<主に従う人に誉れあれ>と歌う声が。
 「しかし、わたしは思った。/『わたしは衰える、わたしは衰える/わたしは災いだ。欺く者が欺き/欺く者の欺きが欺く。』」(イザ24:16)
 離散するユダを追う諸国よ、告げる、お前たちには恐怖と穴と罠が臨む。恐怖をまぬがれても穴に落ち、穴を脱出しても罠に捕らえられる。やがて天の水門が押し開けられ、地の基は激しく震え動く。世界は造り直される。主の罰が臨み、諸国の王はかれらのあがめる神をその軍勢もろとも粛正される。
 万軍の主なる神がシオンの丘、聖都エルサレムの王となり、その栄光を長老たちに示し現すとき、太陽と月は己を恥じて主の栄光のなかへ姿を隠す。

 世界(ユダ)が崩壊し、離散したユダは異郷に在っても主の御名を唱える。
 やがて示されるであろう栄光が、彼らの上に臨んで、祝福される。
 ━━何度も読み返し、繰り返し読むことをわれらへ迫る本章は、いわゆるユダヤの離散(ディアスポラ)を扱った章です。やがて実現する、あらかじめ構想された歴史。が、実はとても喜びにあふれた希望と救いが底辺に流れる章でもあります。
 雑念を払い腰を据えて臨む必要があるかもしれない。それだけに終いの一行まで十全に理解し把握し得たときの達成感は非常に大きい。いうなれば、「詩編」各篇に匹敵する充実と質を備えた章である、と申せましょう。すばらしき一章。



 昨日は初めての休日、横浜ブルク13へ〈ワールドクラシック@シネマ2011〉を観てきました。上映作品は、ボリショイ・バレエの〈「クラスコンサート」/《ジゼル》〉でした。CDで聴いてその物語と音楽に惹かれるものがあったので楽しみにしていたのですが、なんだかちょっと肩すかしを喰らわされた。これは《ジゼル》の話です。なんというかな、カメラワークが単調で劇場の後ろの方の席からオペラグラスなしで公演を<眺めている>気分。でも逆に、期待していなかった分だけ、「クラスコンサート」に接し得た感動は大きかった。上映後にいつものスタバで認めた感想は(推敲した後)、「イザヤ書」が終わった暁にご覧いただけるものと思います。◆

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第1004日目 〈イザヤ書第23章:〈ティルスの審判〉with小説再開、『ウルトラQ 』受信障害?〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第23章です。

 イザ23:1-18〈ティルスの審判〉
 フェニキアの港町であったティルスは地中海貿易の中心を務めた。町は時の趨勢に従ってアッシリアの支配下に置かれたが重税に苦しむを潔しとせず、フェニキア人と連合してこれに抗った。が、数世紀を経て東方から襲い来たったバビロニアの前に、繁栄を謳歌したティルスはついに敗れたのである。イザ23はその崩壊の幻を語るものである。

 ━━主はティルスについても託宣をくだした。
 キティム(キプロス島)からティルスへ帰りつつあるタルシシュの船団よ、泣き叫べ、もはやティルスの町も港も破壊され、灰燼に帰したのだ。フェニキアの民よ、シドンの貿易商よ、嘆け、シホルの穀物、ナイルの収穫を荷揚げして捌くティルスの港は失われ、これより先は交易も衰退してゆく一方となる。
 斯様な事態は誰によってもたらされたか。美しい都を汚し、繁栄と重用を地に貶めたのは、果たして誰であるか。━━わたしだ、あらかじめ構想していた歴史を実現させる一環として、わたしがティルスを斯くあらしめた。
 「主は御手を海に伸ばして国々を震わせ/カナンに命じて、その砦を破壊される。」(イザ23:11)
 が、再びティルスは顧みられる。人間の一生涯に等しい70年の後に。その頃の遊女の歌にうたわれているようになる。
 「七十年が終わると、主はティルスを顧みられる。そのとき、彼女は再び遊女の報酬を取り、地上にある世界のすべての国々を姦淫する。しかし彼女の利益と報酬は、主の聖なるものとなり、積み上げられも、蓄えられもしない。主の御前に住む者たちの利益となり、彼らは飽きるほど食べ、華やかに装う。」(イザ23:17-18)

 眠れぬ6月最後の日の朝にノートしたイザ23ですが、ここだけはどうしても簡単な解説が必要と判断し、ティルスについて書きました。仕方ありません、本章ではこれまで旧約聖書で語られることの殆どなかった地域についての<幻>に、一章が割かれているのですから。
 が、もう少し補足を加えようと思います。タルシシュはソロモン王の御代を語った王上10:22と代上9:21に既出、スペイン南部の港町であります。ここから出た船団がティルスの港で荷揚げしてイスラエルと交易していました。ゆえにティルスは「娘タルシシュ(新改訳では「タルシシュの娘」)」と呼ばれる。引用したなかにある「カナン」ですが、ここではフェニキアと同義であります。「シホル」はかつてのナイル川支流の一つとされますが、はっきりしません。



 今日覚えたことを明後日ちゃんとやれるかなぁ、と不安なさんさんかです。がんばってステップアップして給料を上げてゆかなければなぁ……。
 明日は休み。思い切っていつものスタバまで足を伸ばし、昨年書いて途中で放棄した小説を新たに書き始めました。3時間近く居坐ってしまい、ごめんなさい。第一稿を完成させることを目的に仕事帰りにちょこちょこ書き進められればいいな、と思うています。
 なお、『ウルトラQ』が今日終わりましたが、最終話のラスト10分で映像がブラックアウト、受信障害かと思うたが特になんのメッセージも無し。どうなっているんだ? ミニ・ドラマの結末がわからなかったではないか。一日も早いリピート放送を望みます。◆

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第1003日目 〈イザヤ書第22章:〈いやし難いエルサレムの罪〉&〈シェブナの罷免〉with07月11日への頌歌〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第22章です。

 イザ22:1-14〈いやし難いエルサレムの罪〉
 (これは王都に降伏を迫ったアッシリアの王センナケリブの軍を、助けを求めて叫んだヒゼキヤ王らに応えた主が一夜のうちに撃破した後、<幻の谷>即ちユダとエルサレムへ告げた言葉である。ex;王下18:13-19:37,代下32:1-22)
 浮かれ騒ぐな、ユダよ、エルサレムよ、アッシリアは戦って倒れたのではない。わたしの定めた滅びの日が、ほんの少し先延ばしにされたにすぎぬ。アッシリアが倒れても、まだエラムやモアブが控えてユダの防備を剥ぎ取ろうとしている。
 センナケリブの攻撃に備えて、お前たちは都の防壁を修繕し、飲み水を確保した。が、お前たちは遠い昔にこの都を造ったわたしを見ようとしなかった。センナケリブの軍が倒れたあともお前たちは浮かれ騒いでいる。挙げ句に、飲めや歌えやどうせ明日は死ぬ身だから、とは、いったい何事か。
 わたしはイザヤにこう伝える━━「お前たちが死ぬまで/この罪は決して赦されることがない」(イザ22:14)と。

 イザ22:15-25〈シェブナの罷免〉
 主はイザヤを、書記官シェブナの許に行かせ、斯くいわせた。シェブナはヒゼキヤ朝の宮廷を実質的に支配していた者である。
 ━━この場所に、自分のための墓を造るとは何事か。自惚れるな。王に恥をかかせたお前から職務を取りあげ、広大な地へ追放してそこで死なせる。
 シェブナの後任はヒルキヤ(ヨシヤ朝の祭司ヒルキヤとは別人)の子エルヤキムをあてる。かれはエルサレムの住民とユダの家の父となる。かれは鍵、かれは要、確かなところへ打ちこまれる。「彼は父の家にとって栄光の座に着く。/彼の父の家の栄光はすべて、彼の上に掛けられる。」(イザ22:23-24)
 だが、と主はいう。だがその日には、「確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ち、それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれる。」(イザ22:25)

 自惚れるな、なる主の言葉はノートにも小さな影響を残したようです。なるべく簡潔に、渇いた調子で。どれだけ意図に添った表現ができたか、読者諸兄のご判断にゆだねたい。
 「癒し難いエルサレムの罪」、それは「決して赦されない」。この一言に、これまでユダが主に対して犯し続けてきた背反が、どれだけ根深く許されがたいものであったか、が集約されている。そう、滅びの日は単に先延ばしにされたにすぎないのです……。
 この章を読むに際して、()内に記した箇所をあらかじめ読んでおくと通り一遍でない理解が得られると思います。
 なお、シェブナはラブ・シャケ率いるアッシリアの軍がエルサレムへ迫ったとき、エルヤキムといっしょに和平交渉を計ろうとした人物。シェブナが自分の墓を造ろうとした(或いは、造った)場所は、高貴なユダヤ人しか墓を造るのを許されていなかった「高い所」、「岩をえぐるような場所」(イザ22:16)であった。これはシェブナが外国人であったことを示す根拠ともなっております。
 〈シェブナの罷免〉は同時に<エルヤキム礼賛>ともなっているが、それに終わらず最後はしっかりと(ユダ滅亡という)楔が打ちこまれているあたり、さすが、と呟いてしましました。



 昨日は父の命日でした。時間の過ぎるのが異様に早く感じます。まだあれはつい先週のことのようなのです……。あの夜からいったいわたくしは、何度あの夜の夢を見てうなされて悲鳴をあげただろう。現在(いま)の自分のいる場所が現実と思えぬことさえ、ときどきあるのです。果たしてなにが、わたくしにとって現実であるのか……?
 そんな昨日から、わたくしは新しい職場で働き始めました。某外資系物流企業で殺されかけたトラウマが、時折頭をもたげてわたくしを苛(さいな)みますが、ここはどうやらちゃんとした会社のようだ。周囲の人々も良い。どうかこの印象が最後まで裏切られたりしませんように、どうか幻想であったりしませんように。……わたくしを見守ってください、そうして、導いてください。◆

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第1002日目 〈イザヤ書第21章:〈バビロンの陥落〉&〈エドムについての預言〉with高校野球・地方大会開幕に寄せて。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第21章です。

 イザ21:1-10〈バビロンの陥落〉
 ……主が視(み)せる幻に私は呆然とした。その間、見ることも聞くこともできず、体は砕けるが如く、心は千々に乱れて打ちのめされた。まわりの世界から色が消えたようだった。主が私に視せた幻、それはバビロニア帝国の滅亡、帝都バビロンの陥落であった……。
 バビロニアの東方からつむじ風のようにやって来るものがある、エラムとメディア、かれらがかの帝国を討ち、滅びの日を到来させる。なんとなれば、呻きを終わらせて主がその計画を実現させるため。
 わが主がいう、見張りを立ててエラムとメディアの軍勢が襲来する様を報告させよ、と。油断するな、目をそばだてていよ、とも。━━或る日、見張りは叫び、報告するだろう、「倒れた、倒れた、バビロンが。/神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた」(イザ21:9)と。
 「打たれ、踏みにじられたわたしの民よ/わたしは、あなたたちに告げた/イスラエルの神、万軍の主から/わたしが聞いたことを。」(イザ21:10)

 イザ21:11-17〈エドムについての預言〉
 主は、ドマ、即ちエドムについても預言した。セイルの山岳地帯から見張りに呼ばわる声がする、夜はまだ明けないか、と。見張りは答える、まだ夜だ、しかし夜明けの刻は近い、と。夜明けがあとどれぐらいかはわからない、知りたくばまた尋ね来よ、とも。
 ━━続けて主は、荒れ地、即ちエドムに接するアラビアの民にも託宣した。エドムを襲った戦災から逃れてきた人々を援助せよ、と。渇いた者には水を、腹を空かせた者にはパンを。
 が、荒れ地で生活するアラビアの遊牧民ケダルの栄光は、一年も経てばすべて尽きる。ケダルの勇士の弓も少なくなってゆく。
 ……イスラエルの神、わが主は、私イザヤに斯く語りき。

 戦慄させられる章、といえないでしょうか。少なくともわたくしは読むたびごとに、そら恐ろしい感情を覚え、怖気だつのを感じます。或る意味に於いて本章は第一イザヤの白眉というてよいのではないか、とさえ思うのであります。前半で引用した「打たれ、踏みにじられたわたしの民よ」云々はバビロン捕囚を念頭に置いた言葉でありましょうか。
 エドムは旧約聖書の始めの方から現れてきた国ですが、そのエドムについても主は託宣する。でも、これを読んで頗る安堵したのであります。よかった、旧約聖書の神にまだ慈悲(優しさ)はあった、と。預言書という性質上、主は厳しい言葉、毅然たる行動でわれらの前に現れますが、それだからこそ、ここで示したような保護の命令に場違いな安心を覚えてしまうのです。震災を経験したいま、その思いはなお強く胸のなかにあります。
 補註を加えれば、「ケダル」はアラビア地方の交易路を実質支配していた遊牧民で、やがてペルシア帝国の前に倒れる運命にある。「エラム」と「メディア」はペルシア湾とカスピ海の間、つまり今日のイラン回教共和国にあった国家で、バビロニアを打ち倒して後は紆余曲折を経て最終的にペルシア帝国へ吸収されます。



 高校野球神奈川大会が今日から開幕しました。わが家の上空をヘリコプターが何度も飛んでいったり戻ってきたり、を繰り返していたのは、そのためなのかな。でもこの夏は東北の代表校が甲子園で暴れまくって優勝旗を持ち帰るようになってほしいですな。◆

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第1001日目 〈イザヤ書第20章:〈アシュドドの占領〉with歴史の本を読もう(つぶやき・なう)〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第20章です。

 イザ20:1-6〈アシュドドの占領〉
 前711年、時のアッシリア王サルゴンがアシュドドを襲ったのであるが、その年、主の命令がイザヤに臨んでいた。
 主はいった、腰から粗布を取り去り、足からは履物を脱いで歩け、と。イザヤはその通りにした。裸身に裸足で3年間、イザヤは過ごした。主はいった、イザヤが過ごした身なりと同じ格好で、アッシリアはエジプトとクシュから捕囚を引いてゆく、捕囚となった者らは自分たちが望みをかけて誇りとしたクシュとエジプトのゆえに恥辱を受ける、と。
 その日、ペリシテの人々はいうだろう、「アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか」(イザ20:6)と。

 アシュドドは地中海沿岸のペリシテの町。エルサレムのほぼ真西、ガザの北北東に位置する。ヨシュ13:3で、5人のペリシテ人の治める町の一つとして、ガザ他と並んで名が挙げられていました。後にユダ族の嗣業の土地となります(ex;ヨシュ15:46)。
 アシュドドは<神の箱>のエピソードに登場していた。━━イスラエルは預言者サムエルを戴いていた時代、対ペリシテ戦を争って敗北を喫したことがありました。そのときイスラエルの長老たちが提案しました、状況打破のためシロから<主の契約の箱(神の箱)>を運んでこよう、と。それは直ちに実行されました。それが却ってまずかった。ペリシテ軍はなおも強力で、イスラエルの陣地に雪崩れこんでこれを奪っていったのでした(サム上4)。が、ペリシテの手に落ちた<神の箱>はペリシテに災いをもたらす。アシュドドは<神の箱>が最初に置かれた町でしたが、そこの住民の体を腫れさせ、災害を起こさせた。これではいけない、と他の町(ガト、エクロン)へ移すも結果は同じ。そこで談義した結果、<神の箱>はイスラエルへ返された、というのであります(サム上5)。
 ━━どうやらイザヤはクシュとの共闘によるアッシリア排斥を望んでいたようですが、サルゴンによるアシュドド攻略を目の当たりにして、そのプランを放棄したようです。3年間裸身裸足で過ごせ、それが捕囚となるクシュとエジプトの未来である、と主はいう。おそらく民はこれを見てさんざん嘲笑したでありましょうが、その結果どうなったか、といえば、アッシリアによるアシュドド占領をきっかけに、パレスチナ地方がアッシリアの支配下に置かれる未来が現実味を帯びてきた。むろん、バビロンの台頭はまだ先の話です。
 短い章ゆえに精読を要求される、というよき見本でもある本章は、さんさんかの能力の限界を露呈した章でもあるような気がしてなりません。どうか、そう思われませんように。
 嘆くペリシテの民は、クシュやエジプトを頼りとした。これだけ強大な国家が斯くもあっさりと屈するならば、われらの国が東方からの影の前に膝を折るのもわけないことだ。それがペリシテ人の抱いた、率直な感想だったでしょう。諦念というも憚られる台詞です。



 みなさん、歴史の本を読んでください。過去を知ろう。◆

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第1000日目 〈イザヤ書第19章:〈エジプトの勝利〉&〈終わりの日の和解〉with横浜八景島シーパラダイスへ行ってきました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第19章です。

 イザ19:1-15〈エジプトの勝利〉
 ━━主は、エジプトについても託宣した。
 御前にエジプトはよろめき、内輪で争うようになり、人心は乱れる。主によりエジプトは苛酷な支配者の手に渡される。そうして厳しい時代が始まる。
 ナイルの水は細くなり、乾いて、涸れる。魚は消え、草は枯れる。民の生活は日一日と逼迫してゆく。
 自称・賢者は愚かである。この衆がメンフィスの司たちを混乱させ、エジプトをよろめかせる。もはやエジプトでは誰も、なにも、成し得なくなる。

 イザ19:16-25〈終わりの日の和解〉
 主によりエジプトが苛酷な支配者の手に渡される。万軍の主なる神が振りかざす御手に、みなはおののく。ユダはエジプトを混乱させる、主がエジプトに対して事を謀るからだ。
 その日、エジプトには新たに5つの町ができる。カナンの言葉、即ちユダの言葉が公用語となる町だ。エジプトの中心には主のための祭壇が築かれ、エジプトとアッシリアを結ぶ交易路が整えられ、双方の民が互いを往き来するようになる。そうして共に、主へ礼拝する。その日、イスラエルはエジプト、アッシリアと並んで世界を祝福する第三の存在となる。
 「万軍の主は彼らを祝福して言われる。/『祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル』と。」(イザ19:25)

 「もし彼ら(エジプト)が、抑圧する者のゆえに、主に叫ぶならば、主は彼らのために救助者を送り、彼らを救われる。(中略)主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。」(イザ19:20,22)

 ちょっとわかりにくい、という声があったので補足します。第1-15節はアッシリア襲来とそれに伴うエジプト国内の混乱を予見し、第16-25節は<その日>、アッシリアに代わってユダがエジプトの支配者となることが予見されているのであります。
 メンフィスは後にアレキサンドリアが建設されて首都機能が確立するまで、エジプトの首都の役割を果たした行政の中心地でありました。行政の中心であることは、宗教儀礼の中心でもあったことを意味します。
 ━━今日は本ブログにとって第1000日目。読書ノートの内容を振り返ると、「本当にこの解釈で正しいのかな、まったく見当違いのことを書いているのではないか?」と疑心暗鬼に駆られるときがある。困惑しても、まわりに質問できる人がいるわけでなく、テキストを読んで時には参考書を繙くのが精々。この状況はたぶん、新約聖書の最後の章節に至るまで変わらないでしょうが、これはこれで仕方ない、と諦めるしかないですね。
 GO AHEAD.



 八景島シーパラダイスに行ってきました。曇天、されど紫外線は容赦なく注ぐ。弱い肌は赤く焼けている。でも、今日で良かった。人は少ない金曜日、アクア・ミュージアムもふれあいラグーンも、ドルフィン・ファンタジーも、ゆっくり見物できた。なんと、走りまわる魚クンにも会った。ただ一つだけ痛感したのは、長編小説に幾許かの訂正を施さねばならなくなったこと、か。
 ホッキョクグマはメスばかりが泳いでオスは岩の上を行ったり来たりするばかり。イワシの回遊ショーではあまりの迫力に声を失い、息を呑んだ。シロイルカは餌をガンガンねだり、オタリアのたてがみはごわごわしていて肌は滑らか、アブラ質だった。フラミンゴの目玉は意外と恐い。ドルフィン・ファンタジーで見たイルカの母子に子供のような歓声をあげたわたくし。マンボウって意外と大きな体をしている、<大洋の冒険者>と呼ばれる風体のぬーぼーとしたかれらの生態を詳しく知りたい。……うーん、あれやこれや書きたいことはあるけれど、ありすぎるがゆえにこのような断章となってしまう。許されよ、読者諸兄。でも、もう一度、ここを舞台にした小説を書きたいな。
 しかしながら、今日程ここへ来て楽しんだ日はなかった。大切にしたい思い出がまた一つ、増えました。━━「ありがとう」
 わたくしは近日中にまた行きますよ、シーパラへ。己に課したミッションを果たすため。そうは言いつつ、いったい何度目だ、シーパラは? 八景島シーパラダイス、そこは"ネズミの王国"より楽しめる魔法の場所だ。脳内宣言;打倒、東京湾の反対側。
 デジカメで撮影した写真をPCに取りこみながらこれを書いていますが、つくづく本ブログが画像ありのブログであったらな、と残念に思います。が、それはしないのです。なんだろう、物書きのプライドか。━━これから夏休み、非常に混むでしょうが、ぜひみなさんもこの海に囲まれた、癒しと驚きと出会いと<知>が詰まった八景島シーパラダイスへ出掛けてきてください。◆

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第0999日目 〈イザヤ書第18章:〈クシュとの陰謀〉with第0999日目を迎えて、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第18章です。

 イザ18:1-7〈クシュとの陰謀〉
 (これは同盟国クシュ〔エチオピア〕から来た使節団への言葉である)
 幾筋もの川で区切られた国から海を渡ってきた使節たちよ、さあ行け、帰還せよ、自分たちの故国へ。
 世界中の人々よ、山に合図の旗が立ち、角笛が鳴り響く。そのとき、主は、花房に結んだ実が熟す前にそれらをすべて切り落とし、野の獣へ分け与える。われらを覆う力からの解放だ。
 「わたしは黙して/わたしの住む所から、目を注ごう」(イザ18:4)と主はいう。
 その日、万軍の主の名が置かれるシオンの山へ、あなた方の国から貢ぎ物が贈られてくる。

 クシュとは即ちエチオピアであります。クシュ出身のシャバカという人物が前716年、エジプト全土を統一して新しい王朝、即ち第25王朝を建てたことに由来します。
 シャバカはパレスチナ地方で拡大していた反アッシリア運動を支持しました。なぜならば、パレスチナがアッシリアの手に落ちた場合、アッシリアとクシュの間には障壁となるものがなくなり、たやすく侵攻を許す結果となるから。反アッシリア運動を支持するのは自国防衛が大きな根拠なのです。また、この反アッシリア運動には、後にヒゼキヤ王統治下の南王国ユダが参加したことも、ここで申し添えておきます。
 エジプトは主を信仰する国ではない、だからかれらを頼りとするな、とは明日読む第19章,或いは明後日にノートする予定の第30章などで語られるイザヤの忠告ですが、それを考えるとイザ18冒頭でクシュ人へ帰還を促すイザヤの言葉は強制送還に等しい、といえないでしょうか。
 聖書には<ぶどう>の比喩が頻出します。本章も例外ではありません。ここで<ぶどう>はユダを指す。本章ではこんな風に表現されます。曰く、━━「刈り入れ時の前に、花が終わり/花の房が実となり、熟し始めると/主は枝を刃物で切り落とし/つるを折り、取り去られる。/それはすべて、山の猛禽と野の獣に与えられる。/猛禽は、それを餌として夏を過ごし/野獣もすべて、それを餌として冬を過ごす。」(イザ18:5-6)━━希望的観測も含んだ預言ですが、ユダが成熟して実を結ぼうとする、まさにそのとき、アッシリアは滅びる、というのです。いちど読んだだけではわかりにくい部分もありますが、世界に屹立するユダの繁栄を願うものとして、これはなかなかすばらしい表現、技法である、と、わたくしなどは思うてしまうのであります。

 本ブログが始まって第0999日目を迎えました。いつもお読みいただいている読者諸兄よ、あなた方なくして本ブログはこの節目の日を迎えることはできなかった。ありがとうございます。
 とはいえ、この日を迎え得たことを「感慨深い」の一言で片附けてよいものか、迷います。正直なところ、<感慨>という程のものがないのです。未だ道は全体の2/3を残し、「イザヤ書」については1/4を消化したに過ぎません。気を引き締めて、ときどき襲いかかる怠惰と無気力を退け、まずは来年今頃に予定されている旧約聖書の読了を目指します(「創世記」と「出エジプト記」前半部分は除く)。
 その日まで、世界が健やかでありますように。わたくしも、みな様も。
 ━━では、ちゃお!◆

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第0998日目 〈イザヤ書第17章:〈ダマスコとエフライムの運命〉&〈諸国民のどよめき〉with晴れた水曜日の夜は、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第17章です。

 イザ17:1-11〈ダマスコとエフライムの運命〉
 主はいう、ダマスコは廃墟となり都の面影を失う、と。かつてモアブから奪って占領したアロエルの町々も打ち捨てられる、とも。あとには家畜が安穏として暮らす。長くダマスコを治めた王権は絶える。ダマスコに残ったわずかな者はユダへ流れ、かの地に根附く(イザ17:3)。それゆえ━━と主はいう━━その日が来たらヤコブの家、即ちユダは衰えて、立ち枯れた穂のようになり、実りの多くは大地へ落ちる。
 主はいう、その日、エフライムの砦の町々は捨てられて廃墟となり、都は陥落する。というのもお前たちは「救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない」(イザ17:10)からだ。が、それでもわずかな希望がある。その日が来ればエフライムの民から主の信仰へ立ち帰る者も現れる、彼らは自分たちが作った偶像と祭壇を顧みることはもはやない。
 「その日、人は造り主を仰ぎ、その日をイスラエルの聖なる方に注ぐ。」(イザ17:7)

 イザ17:12-14〈諸国民のどよめき〉
 この災いに多くの民がどよめき、諸国がどよめく。が、主が叱咤するとかれらは遠くへ逃げ去る。
 「夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。/これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。」(イザ17:14)

 シリア(ダマスコ)と北王国の運命が主の口から語られます。シリアはともかく、北王国については主にはまだわずかなりとも慈悲があるようだ。そのなかから主の信仰に立ち帰る者が現れる━━「列王記」や「歴代誌」にはそうした者らが現れたことを明記こそしていないけれど、代下34:9ヨシヤ王の御代の記事に北王国の改心者が神殿再建の寄付金を献じた旨、あります。おそらく北王国が瓦解する時代(まさにイザヤの時代!)でしょうが、捕囚を逃れた北王国の大量の難民が南を目指して到着するまでの間に、かれらはかつての主の信仰へ立ち帰ったのでしょう。



 晴れた水曜日の朝は港の倉庫へ出掛けて、日雇い労働者となって額に汗して労働する。倉庫を始めとする物流業界との付き合いもそこそこ長い。いまさら足を洗うことなぞできないな(年齢と経験を加味したら、ここがいちばんふさわしいのかもしれない)……。
 大きな欠伸を連発する。そろそろ休もう。その前に、昨日録画した『ウルトラQ』を観なくっちゃな。AXNでの『CSI:NY』S5#02/#94、放射能を扱った事件だから放送自粛・放送日未定って、そりゃちょっと臆病になり過ぎじゃない? WOWOWも然り(『クリミナル・マインド』)。ねえ、いったいどうしちゃったのさ?
 それはともかく。おやすみなさい。良い夢を。◆

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第0997日目 〈イザヤ書第16章:〈モアブの破滅〉2/2withロシア文学ファンと酒の席で会い、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第16章です。

 イザ16:1-13〈モアブの破滅〉2/2
 モアブ、かの地を治める汝よ、破滅をまぬがれたくばシオンの山へ使者を送れ、貢ぎ物の羊を携えさせて。かの者は斯く訴え、斯く願う、追われるモアブをかくまい、追う者から逃れさせてほしい、と。すると主は、すみやかに正義をくだし、踏みにじる者を絶やす。
 なのに、モアブは再び驕り、傲慢になった。主の裁きによって追う者から救い出されたというのに、感謝を忘れて再び増長したのである。さあ、モアブのすべての者は泣き叫べ、キル・ハレセト即ちモアブのあるじのゆえに民は打ちのめされて嘆き、呻くがいい。
 モアブもわたしの果樹園であった、かれらの祖先ゆえに、イスラエルとのつながりゆえに。汝ら、モアブよ、わが涙に浸って溺れろ。もはやシオンに詣でる必要はない。「わたしは果樹園から喜びも楽しみも奪う。/ぶどう園で喜びの叫びをあげる者も/酒ぶねでぶどうを踏む者もいなくなり/わたしは喜びの声を終わらせる。」(イザ16:10)
 モアブにわが嘆きは満つ。そう主はいった。
 ━━「これは昔、主がモアブについて語られた言葉である。更に今、主は言われる。/『雇い人の年期のように三年経てば、多くの民を持つモアブの栄光は必ず終わり、わずかな者だけが残され、力は失せる。』」(イザ16:13)

 せっかく助けてもらったのにそれを忘れて(棚にあげて?)愚を繰り返す、とはよくある話ですが、ユダやイスラエルばかりでなく、モアブまでがその愚を犯した。うぅん、ユダやイスラエルがするならモアブがその轍を踏んでも、心のどこかで「ああ、やっぱりな……」と納得できてしまう。が、万軍の主にはそれが納得できない。悔い改めて正しい道に戻ったらば、そこから外れたりしないように自らを律して生きよ、それができぬならもう仕方ない次は赦すこともなければ情けをかけることもない、というところでしょうか。……主は寛大である、が、裏切りには容赦なく牙を剥いてそれに報いるのであります。
 ところで、引用したイザ16:13は、後代の書き添えでしょうか。つまりモアブが衰退して歴史の表舞台から姿を消したあとの? このあたりの判断は歴史家にでも任せましょうか。
 本章でもモアブの地名が幾つも出てきますが、「キル・ハレセト」は現代のエル・ケラクと考えられており(塩の海/死海の東約13キロ)、イザヤ当時のモアブの首都でありました。
 前章で七転八倒しながらモーセ五書やヨシュア記を読み直した恩恵か、本章のノートはさほど労なく仕上がったように記憶します。文意を損なわないよう聖書本文から若干離れた地点で成立した文章もありますが、それはけっして<超訳>ではなく、記事に対して忠実忠誠を守った結果である、と、ご理解いただければさいわいです。



 月曜夜、○井物産と三○不動産の人と会食(飲み会)。ロシア文学ファンが同席しており意気投合、現代ロシア文学についていろいろ教えてもらいました。充実の3時間であったことよ! ドの『未成年』を集中した読みたい!!◆

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第0996日目 〈イザヤ書第15章:〈モアブの破滅〉2/2withヒルティ『心の病を癒す生活術』を読みました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第15章です。

 イザ15:1-9〈モアブの破滅〉2/2
 衰退したモアブは一夜のうちに滅びる。その日、モアブに助けが訪れることはない。民は地のあちこちで泣き叫び、嘆いて崩折れる。悲しみの叫びは遠くの地まで轟き、それを聞いた戦士たちはおののき、心を挫けさせる。
 「わが心はモアブのために叫ぶ。」(イザ15:5)
 泣きながら、彼らは荒廃した国土を行き、逃れようと試みる。絶望の叫びは途切れることなく、あがり続ける。かれらの行く手、ディモン(伝、現キルベト・ディムネ)の水は赤く染まる。「わたしが、ディモンに災いを加え/モアブの難民とアダマの生き残りの者に/獅子を送るからだ。」(イザ15:9)

 モアブの地名と地理ゆえに難渋させられた章でした。
 モアブは塩の海(死海)東岸、アルモン川の南に広がる地で、兄弟イスラエルとは実に微妙な関係にあった国家です。時には味方、時には敵、「イザヤ書」では概ねイスラエル(ユダ)に敵対した国をして扱われます。
 イザヤの時代、モアブは北王国オムリ王の代からその占領下にあり、前8世紀に国力を回復するも一時的で、すぐに衰退を始めた。南王国エホヤキム王がバビロンに反旗を翻すと、モアブは宗主国バビロンの命令でユダを攻め、それが結果的にユダの瓦解・エルサレムの陥落を招いたのでありました。「エズラ記」や「ネヘミヤ記」でモアブが蔑視される所以であります。
 さっきイスラエルの兄弟というのはモアブ人の祖が、「創世記」に登場してソドムの惨事を逃れた、アブラム(アブラハム)の親類であるロトの長女の子供だからです(ex;創13,19。殊に創19:30-38〈ロトの娘たち〉)。ちなみにロトの次女はアンモン人の祖となる子供を産みました。つまり、創世記に於いてイスラエルとモアブ、アンモンは、エドムともども血縁の関係にあるわけであります。
 モアブはモーセ率いるイスラエルの民がカナン入植に際して通過したルートにありました。“乳と蜜の流れる地”カナンへ進むモーセ以下のイスラエルを、モアブ人の王バラクは呪術師バラムの告げる主の託宣に従って通過させます(ex;民22-24)。モーセはヨルダン川西岸を望んだあと、身罷って、モアブの地にある谷へ葬られた由(申34。34:6に、その場所は誰も知らない、とあります)。
 本章に登場する地名は最近読んだなかでは多い方で、引用した「ディモン」を含めて17の地名が挙げられています。ノートへは反映させませんでしたが、「モアブ全土」という意味合いで取ればよい、と思います。わたくしもだいたいの位置を把握するために辞書や地図を見てメモしていたのですが、申し訳ありません、途中で挫折しました。読者諸兄は挑戦してみてください。



 ヒルティ『心の病を癒す生活術』(金森誠也・訳 PHP)読。原題“Kranke Seelen”(1907).神経症の娘を持つ母親に宛てた書簡体の<処方箋>で、食事や信仰、健康と労働の実践を説く一方、「現代社会はノイローゼ化している」という21世紀になってますます深刻化した問題を、人格者ヒルティならではの論拠で指摘する。内容的には優れて良い本だが、時流にそぐわぬ部分あるのは致し方ない。他のヒルティの著作同様、これは大切に読もうと思うた。また、白水社や岩波文庫で馴染んだせいか、彼の著作の場合、原注は本文に組みこむ方が親切かつ本来であることを実感。訳文は、まぁ、悪くはない。なお、白水社『ヒルティ著作集』に既訳有り、訳者にその断りなし。小さなところで杜撰な作業が目立つのが残念。◆

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第0995日目 〈イザヤ書第14章:〈イスラエルの回復〉、〈バビロンの滅亡〉&〈アッシリアの軛〉他withショパンの夜想曲を数年ぶりに聴き直しました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第14章です。

 イザ14:1-2〈イスラエルの回復〉
 主はヤコブを憐れみ、イスラエルの土地を再び与える。ヤコブの家に結びついたヤコブの民もそこへ加わる。かつて彼らを捕囚とした者、虐げた者が却って彼らの捕虜となり虐げられる存在となる。彼らを奴隷とした者が却って彼らの奴隷と成り下がる。

 イザ14:3-23〈バビロンの滅亡〉
 主がヤコブを解放する日が、その上に課された苦しみと労役から解放する日が、来る。「虐げる者は滅び/その抑圧は終わった」(イザ14:4)のだ。その日にヤコブよ、高らかに、自分たちを苦しめた者への嘲りの歌をうたえ。
 驕れるバビロンを主は打つ。かつてバビロンは破竹の勢いで諸国を統べた。が、いまや征服者の影は除かれ、諸国民は歓喜の声を轟かす。陰府をさまよう亡霊も、それを知れば途端に騒ぎ始めよう。就中バビロンの剣に討たれて倒れた諸国の王は、陰府にいる自分たちの前にやって来たバビロンを嘲笑する。
 神よりも高きへ昇らんとしたバビロン。いまやその栄華は天から堕ち、墓穴の底にいる。バビロン、お前を知る者は、お前をまじまじと見、呆れたようにいうだろう、これが昔は栄華を誇り世界を荒れ野とし、連れ来たった捕囚を解放することもなかったバビロンか、と。
 滅ぶバビロンの王が敬われて埋葬されることはない。「お前は、自分の国を滅ぼし/自分の民を殺したので/彼ら(※)と共には葬られない。/悪を行う者たちの末は/永遠に、その名を呼ばれることはない。/彼らの先祖の咎のゆえに/その子孫のために、屠り場を備えよ。/再び、彼らが立ち上がって、世界を奪い/地の面を町々で満たすことがないように。/
 『わたしは、彼らに立ち向かう』と/万軍の主は言われる。/『バビロンから、その名も、名残も/子孫も末裔も、すべて断ち滅ぼす』と/主は言われる。/また、『都を山あらしの住みか、沼地とし/滅びの箒で、掃き清める』と/万軍の主は言われる。」(イザ14:20-23)
 【さんさんか註:「彼ら」とは、礼を尽くして葬られた諸国の王(イザ14:18)を指す。】

 イザ14:24-27〈アッシリアの軛〉
 主はいう、やがてアッシリアは、わたしの領土で、衰えて滅びる。アッシリアの軛がわが民から除かれ、肩から重荷が除かれる、とも。
 万軍の主が定めたことは誰も妨げることができず、伸ばされた御手を引き戻すことも誰にもできない。「これこそ、全世界に対して定められた計画/すべての国に伸ばされた御手の業である。」(イザ14:26)

 イザ14:28-32〈ペリシテに対する警告〉
 ━━ユダ王アハズ崩御の年にされた託宣。
 ユダの属州ペリシテの民よ、アハズの死をいたずらに喜ぶな。心に留めておけ、北から砂煙をあげて迫る者がいることを。

 前章から始まった諸国への託宣を一渡り読み終えたいま、この章を顧みて思うのは、主の預言、託宣は殊バビロンに関してその凄惨さ、怒りの強さが極まっているように感じます。北王国を滅ぼすアッシリアよりも、やはり御座が置かれ、神殿が築かれたエルサレムを擁す南王国へ寄せる慈しみは深い、ゆえにそれを滅ぼすバビロンへの託宣が自ずと激しさを増す、ということか。そうだろう、と思う。むしろ主の信仰に立ち帰るのはユダの方であった。主の信仰に従い主の目に良いと映ることを実践し、国を守った王も、ユダの方にずっと多くいた。そう考えると、かれらの神にとって北王国とはいったい如何程の存在だったのだろう、と悩んでしまうのですね……。
 正直、諸国への託宣を読んでいると、なんのこっちゃいな、と字句を睨んで黙りこくってしまうことが多かった。本章の場合、バビロンの部分はまだしも、アッシリアとペリシテについてはクウェスチョン・マークが頭のなかで乱舞したことでありますよ。「バビロンのあとに、なぜアッシリア? 順番が逆じゃないか?」と、そんな初歩的な躓きを経験したのです。が、そんな疑問はしばらく経って、解決した。非常に単純な解答であった。━━<時間の錯綜>。それを念頭に置けば、解決する類の疑問だったのだ。託宣はわれらの知る時系列に従ってされているわけではない。「イザヤ書」はおそらく、この預言者が見たままを敢えて整理することもしないで、馬鹿正直に記録したのだろう。いわゆるトリップ状態に近い状態で見る託宣/幻に整然たる順序があるわけではないのだ。もっとも、そういう意味では、主もけっこう自由気ままでありますね。
 ただ一点、よくわからなかったのは、ペリシテの箇所。要するに、ぬか喜びはするなよ、ということである。が、第30節なんて悩まされること頻りである、第32節も然りだけれど(以下に当該箇所を引用する)。ノートの性質上、加えて自分の性格上、こんなあたりに誠実に向き合おうとしているのです。正直に申して、溜め息が尽きることはありません。嗚呼!

 イザ14:30「乏しい者も、糧を得/貧しい者も、安らかに伏す。/『わたしは、餓えによってお前の根を断ち/お前の残りの者を殺す。』」
 イザ14:32「異国の使者たちに、何と答えるべきか。/『シオンの基を据えられたのは主である。/苦しむ民は、そこに身を寄せる』と答えよ。」
 ……まぁ、近頃ここを読み返して、なんとなくそういうことかなぁ……と倩思うこと度々なのですがね。



 ずっと前にショパンのCDを一枚ずつ大切に買っていた時代のことを告白し、少し前に書架の整理を企て実行したことをお伝えしました。今日の章をパソコンに打ち直しながら聴いていたのは、昔一枚ずつ買って殆ど覚えるぐらいに聴き倒したイディル・ビレットのアルバムで、夜想曲全集第1巻(NAXOS 8.550356)です。片附けていたら奥から出てきたので、棚の前面に並べ直して改めて聴き直しているのです。
 ショパンのCDというとルービンシュタインやらアシュケナージやらフランソワやらを推す人が多く、実際自分もお目にかかってきましたが、わたくしには貧しかった時代になにかを託すような想いで聴き耽ったビレットのショパンがいちばん馴染み、安心し、名演と思い、いつまでも手許に置いておきたいショパンであるのだ。
 彼女の弾くショパンには落ち着きと煌めきと温もりと愛おしさがある。そうして、一点の揺らぎのない、自信と誇りに満ちた演奏である。こんなショパンを最初に聴いたら、どれだけ名奏者の者を聴いたとして一時的な感動は得られても、いつまでも色褪せることのない想いを与えてくれるものではない。否、与えられはしないだろう、と勝手に信じている。
 これが、わたくしの推すショパン、永遠のスタンダードにして無二のショパンであります。◆

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第0994日目 〈イザヤ書第13章:〈バビロンの審判〉with『ウルトラQ 』鑑賞中! [イザヤ書]

 イザヤ書第13章です。

 イザ13:1-22〈バビロンの審判〉
 (預言者イザヤが幻に見た、バビロンについての託宣)
 その怒りの道具として、主は軍勢を召集する。地平線の彼方から押し寄せる軍勢はアッシリアを討つ。名はバビロン、全能者が送った破壊者。天地は鳴動し、人はおののき、為す術を持たぬ。昼も夜も世界は闇に閉ざされる。
 見よ、主の日が来る、残忍なる怒りと憤りの日が訪れる。「わたしは、世界をその悪のゆえに/逆らう者をその罪のゆえに罰する。/(中略)/わたしは天を震わせる。/大地はその基から揺れる。/万軍の主の怒りのゆえに/その憤りの日に。」(イザ13:11,13)
 バビロンに対してわたしはメディア人を起用する。財宝に目をくらませることもなく、憐憫に心動かされることもないメディア人を。美しく麗しいカルデア人の帝国は誇りと栄光の象徴であった。が、バビロンもソドムとゴモラと同じ運命をたどる。
 廃墟には代々に渡って住む者はなく、隊商が天幕を張ることも、羊飼いが羊の群れを休ませることもなくなる。代わってそこを塒(ねぐら)とするのは、ミミズク、ジャッカル、ハイエナ、山羊の魔神。
 ━━「今や、都に終わりの時が迫る。/その日が遅れることは決してない。」(イザ13:22)

 本章からしばらく諸国への審判、託宣となります。
 北王国を瓦解させ南王国をも壊滅させようと企むアッシリアを倒すものが東方からやって来る。それがバビロン。無敵の帝国はアッシリアを蹂躙し、ユダを瓦解させる。王都エルサレムその他のユダの町から捕囚を連れ、帝国各地に分散させる。が、栄華は続かない、やがて世界の覇者となるペルシアがバビロンを倒す。そうして捕囚の時代は終わり、エルサレムへ帰還する。これは次の章でも語られる内容ですが、バビロン崩壊とペルシア帝国の勃興、捕囚解放は密接にリンクする事柄なので、敢えてここでも申しあげる次第です。
 ……われらはユダやバビロンを含めて、聖書に登場した国々、人々がどのような命運をたどるのか、知っています。しかし当然のことながら、聖書の時代を生きた人々はそんな未来を知る由もない。主がイザヤに見せた幻━━与えた預言を当のイザヤはどんな思いでそれを受けとめたのか。また、ユダの民はどんな思いでそれを聞いたのか。具体的な描写こそありませんが、端的にそれを述べた箇所ならあります。前者についてはイザ24:16、後者についてはイザ8:19-20が、わたくしの考える当該箇所であります。
 「メディア人」はペルシア帝国、「カルデア人」は新バビロニア帝国を、それぞれ指す。バビロニアをカルデア人の帝国というのは、この新帝国を建設したのがカルデア人出身のナボポラッサルだからであります。



 WOWOWで放送中の『ウルトラQ』(HVリマスター版)を観ている。半世紀も前の番組とは思えぬ新しさが魅力。この伝説的な番組をHV画質で鑑賞できるなんてね……! これまで観たなかでは、「宇宙からの贈りもの」と「クモ男爵」が良かったかな。各回のオープニングが、新たなる『ウルトラQ』の話(エピソード)へどう集約するのか? 楽しみだ。別チャンネルの『怪奇大作戦』ともども要チェックの番組。◆

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第0993日目 〈イザヤ書第12章:〈救いの感謝〉withメガネが割れた。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第12章です。

 イザ12:1-6〈救いの感謝〉
 その日、救われた者は主へ、感謝の言葉をささげる。━━主よ、あなたはわれら嗣業の民に怒りを示された、が、後にはそれを翻してわれらを慰めてくれたのだから、と。われらはあなたを信頼して、他のなにものも恐れない。「主こそわたしの力、わたしの歌。」(イザ12:2)
 その日、救われた者たちは主に感謝し、御名を叫ぶ。━━諸国民に告げ知らせよ、主の御業を、告げ知らせよ。主の誉め歌をうたい、諸国へその御業を喧伝せよ、と。
 「シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。/イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」(イザ12:6)

 全文を引くか否かですこし迷った章。なるべくアロマもエッセンスも失うことないよう意を尽くしたつもりなのですが、顧みてそれは成功していると言い難い。が、推敲・改稿を試みてこれ以上の作物ができあがらないのも、哀しいなるかな、事実である。告白すれば、いま読者諸兄がお読みになったノートさえ、実は3度ほど書き改めているのである。もはや、これに不満を覚えたら良いチャンスでもあるので、ぜひ本文を読んでみてください、とお願いするより他にない。
 ユダとユダを脅かす国々への幻と託宣は、本章で一旦終わる。次の章からは諸国への直接的な、万軍の主からイザヤにもたらされた審判の言葉が並びます。



 懐かしさと忌々しさを覚える地域で、倉庫内作業の日雇い仕事をした。恵まれていたのは、単調ながら慎重さを求められる仕事にありつけた喜び。と同時に、いっしょに組んだ人々のあたたかさと目配り、段取りのよさと臨機応変さ(これを欠いた倉庫の如何に多いか!)、辛抱強さ。感謝している。サンキー・サイ。
 が、一つだけショッキングな出来事も。人生初の「メガネのレンズが割れる」なる不幸に出喰わしたのだ。検品のための開梱作業中、角っこを補強するボール製の角材が上から落下してき、右のレンズが割れた……本能的に、接触の直前に目蓋を閉じたので、目はどうやら無事だったが(念のため、明日は駅前の眼科医に行こう、と考えている)、レンズにはヒビが斜めに走り、よく見ると、レンズの、鼻当てに近い部分が床に落ちて飛散していた。その後はリーダーの配慮もあって単純作業に従事し、裸眼で終業まで作業していたが、このアクシデントはわたくしに自信を与えた。
 こうした仕事なら、突然裸眼になっても、或る程度までなんとかなる。少なくとも、あの程度の作業であればメガネ無しでやり遂げることができる。こんな経験をしたことがないので最初は不安であった。が、或る程度まではなんとかなってしなうのだ、という納得と、或る程度までの仕事内容であれば裸眼でも出来る、という自信がついた。が、一定のレヴェルを越えたらもう使い物にならない。それをよく知った日である、今日という日は。
 これはあくまで偶然の所産に過ぎない。成功は一度きり、と思い知れ。現場に恵まれたからこそ可能であった成功。それをゆめ忘れてはならぬ。これは戒めの言葉である。でも、こんな経験もよいものだ。
 度が合ったスペアのメガネを持っているので日常生活には支障がない。けれども、ふだん掛け馴れたメガネを今回失ってしまったので、早々に新しいレンズを作らねばならない。わが右目に適したレンズ。これを作るのに何万円かかるのだろう。困ったことに、通い慣れたメガネドラッグとメガネの1・2・3はもうないのだ。過去のデータを引っ張ってそれを参考にすればいい店舗が、眼鏡市場とかメガネスーパーなんていう怪しげな同業他社に変わってしまっているのである。憂慮すべき事態の到来だ。嗚呼、困った……。
 ━━読書もままならぬ今日、いろいろ考えた。汗をびっしょり吸ったシャツを着て、考えた。いろいろなことを。行く末……あの女性(おぐゆーさん)といっしょになれればいいな、生涯に一冊でも自分名義の本物の単行本を出せればいいな、仕事と家庭に恵まれた後半生を過ごせればいいな、生活の不安が殆どない人生をあの女性とあの女性との間に生まれる子供たちと暮らせればいいな、そんな願望を、いろいろ考えた。一つとはいわぬ、すべてが叶えばいい。これまで散々あったのだもの、後半生はしあわせなことばかりが起こってほしい。お願いします。◆

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第0992日目 〈イザヤ書第11章:〈平和の王〉&〈帰還と救い〉with眠れぬまま、まばゆい夏の朝を迎える。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第11章です。

 イザ11:1-10〈平和の王〉
 エッサイの株、即ちダビデの家系は何世代も永らえて、或る日、そこから一つの命が誕生する。その命には主の霊が留まり、その人は主を畏れ敬う霊に満たされる。弱き者、貧しき人と交わり、逆らう者を唇によって死へ至らしめる。正義を腰の帯とし、真実をその身に纏っている。
 「(大地が主を知る知識で満たされる)その日が来れば/エッサイの根は/すべての民を旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」(イザ11:10)

 イザ11:11-16〈帰還と救い〉
 エッサイの株から萌えでた命が旗印となって立つ日、主はその御手を再び伸ばして自分の民の残りの者を買い戻す。主は、諸国諸地に離散した自分の民を集める。彼らは<その場所>へ帰還して、過去の確執を水に流して和合する。
 「主は諸国の民に向かって旗印を掲げ/地の四方の果てから/イスラエルの追放されていた者を引き寄せ/ユダの散らされていた民を集められる。」(イザ11:12)

 万軍の主はダビデの家系からメシアが出る、とほのめかし、自分の定めたメシアが旗印を掲げて立つとき、世界中に散っていたユダを<その地>へ帰還させる、というのが本旨。━━どこかで聞いたような話ではないでしょうか。これまで読んできた聖書のなかではなく、学校やメディアを通して知った或る出来事。さよう、19世紀半ばから湧き起こった郷土復帰運動(シオニスム)を承けて、離散していたユダが第二次大戦後に<その地>へ帰還して建国・独立を宣言して、未だ中東問題の中心にあるイスラエル王国であります。
 むろん、ここで主は20世紀半ばのイスラエル王国建国をいうているのではなく、もっと普遍的意味合いでの、帰還したユダによるメシア主導の共同体建設をいうているのだ、と、わたくしは思うております。



 昨夜は一睡もできぬまま朝を迎えた。魅惑的な女性と終夜睦んだ、とか色っぽい話ならよいのだが、むろん、そんなわけはないのである。単に、眠れなかった、というだけの話。安心されよ。
 一念発起して4時半頃に床を離れて机の前へ陣取り約120分にわたり、聖書を開いてうんうん唸り、呻吟しつつ、歴史を俯瞰し、ノートを作成しました(第23章〈ティルスの審判〉)。これまでと肌合いの異なる章でもあったので、いずれにせよこれだけの時間は費やすことになっていたろうが、頗る満足できるノートとなった。このまま眠れないのだろうな、と諦めていたら、9時から11時までなんとか眠れたよ。
 その過程で得た実感なのですが、まばゆい夏の朝を迎える時刻に流す音楽は、シューマンのオーボエとピアノのための作品が似合う。〈3つのロマンス〉Op.94と〈アダージョとアレグロ〉Op.70が殊に良いと思います。◆

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