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第1168日目 〈エレミヤ書第52章2/2:〈ヨヤキン王の名誉回復〉with読者諸兄への報告━━「エレミヤ書」読了にあたって。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第52章2/2です。

 エレ52:31-34〈ヨヤキン王の名誉回復〉
 所謂バビロン捕囚は前後四回にわたって行われた。その第一次捕囚として連行された人々のなかに、当時のユダ王ヨヤキンがいる。かれは八歳で即位して、三ヶ月という短期間のみ王位に在った。バビロニアが覇権を築かんとエルサレム遠征を敢行し、王都エルサレムを(最初に)占領したのは、ヨヤキン王の御代のことである。このとき、神殿に安置されていた祭具や宝物がことごとく奪い去られ、また、エルサレムの殆どすべての人々(身分や貴賤の別なく)約一万人強がバビロンへ捕囚として連れて行かれた。第一次バビロン捕囚がこれであり、時の王ヨヤキンもそのなかにいた。かれは御年未だ八歳であった。
 それから三十七年という歳月が流れた。その間、世界は様々に変転した。
 さて。その年の12月25日(お?)、滅びしユダの元王ヨヤキンは牢獄から出されて自由の身となった。というのも同年、バビロニアは新王エビル・メロダクを頂点に戴いたからである。ヨヤキン出獄は新王即位の恩赦であった。
 この新しい王は、子供であったと雖もかつては一国の君主として王座に在ったかれを手厚く待遇し、かれ同様バビロンで捕囚となっていた王たちのなかでは、考えられる限りの位を与えた。幸いなるかな(ハレルヤ!)、ヨヤキンの名誉は回復された。
 ヨヤキンは獄舎で着ていた衣を脱ぎ、代わってとても仕立ての良い、上質の衣を身に纏った。そうして、かれはエビル・メロダクと同じテーブルで食事をするのを許された。存命の間、ヨヤキン元ユダ国王は毎日の生活の糧、必需品をバビロニア王から供与されて、困ることがなかった。

 ヨヤキンが出獄した際、バビロニアにはかれやゼデキヤの他にも他国の王たちが(或いはそれに準ずる地位の者たちが)、帝都の牢屋に繋がれて呻吟していた、とわかります。そのなかにあってヨヤキンの出獄・名誉回復がどれだけ異例のことであり、またかれが新王エビル・メロダクの寵を蒙って後半生を過ごしたか、想像するに余りあります。
 ゼデキヤとの対比で考える際、ゼデキヤ王がどれだけ悲惨の生涯を敵国の首都で送ることを余儀なくされたか、つくづく人の命禄というものに思いを馳せざるを得ません。なんたる相違、と叫ぶと同時に、以前エレミヤが伝えたゼデキヤの最期についての預言との落差に愕然とすることもあるのであります。もしかすると、エレミヤの預言のなかに登場した王はゼデキヤではなくヨヤキンではなかったのかな、エレミヤがゼデキヤに対して斯くいったのは、遅かれ早かれ王へ迫る運命の残酷さ、惨(むご)たらしさに耐えきれず、その悲惨を伝えるに忍びなく思わず口から洩れた精一杯の優しさ、苦痛の軽減であったのかもしれません(エレ34:4-5)。そんなように思うのであります。
 並行箇所は王下24:8-17,代下36:9-10です。



 一年遅れで読了しました。おかしいな、本来ならば唸りながら旧約聖書続編を一生懸命読んでいる予定なのですが……。
 中断以前から読んでいてくださっていた読者諸兄には多大なるご迷惑をお掛けしたことを、「エレミヤ書」大尾の日を迎えたいま、改めてここに深謝する次第です。
 一週間後あたりから「哀歌」を読み始められれば良いな、と考えています。◆

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第1167日目 〈エレミヤ書第52章1/2〈エルサレムの陥落〉withブラームス「合唱と管弦楽のための作品集」を聴きながら、……〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第52章1/2です。

 エレ52:1-30〈エルサレムの陥落〉
 ゼデキヤ王は即位して9年目、憂い悩んだ末、官僚の意見に圧されて遂に反バビロニアの狼煙をあげた。それは王国滅亡を決定的とする行為であった。
 ネブカドネツァル王が自ら全軍を率いて遠征して来、到着後ただちにエルサレムを囲むように陣が敷かれ、防塁が築かれた。外部との接触を断たれたエルサレムは次第に困窮していった。敵の兵糧攻めに二年間持ちこたえたエルサレムであったが、その間にも都の防御は弱まってゆく一方だった。そうして第11年4月9日、運命の刻は訪れた。城壁の一角が破れて、敵軍が市中へ雪崩れこんできたのである。
 人々は逃げ惑い、王都を脱出する者が続出した。他ならぬゼデキヤ王もその一人であった。かれは僅かの兵を連れて都をあとにしたが、その逃亡劇も長くは続かなかった。バビロニアの追跡隊がゼデキヤ王を、エリコ近郊の荒れ野で拘束したのである。ゼデキヤ王はネブカドネツァル王の前に引き出された。ネブカドネツァル王はゼデキヤの息子二人をかれの眼前で処刑し、ゼデキヤの両眼を潰し、その後バビロンへ連行した。かれは敵国の首都の牢屋に繋がれて一生をそこで過ごした。
 同年5月10日、バビロニアの親衛隊隊長ネブザルアダンは勅令を承け、エルサレム市街の建物を焼き払った。家屋のみならず、王宮や、ソロモン王が建立した神殿さえも。例外はなかった。前回の(最初の)占領時は神殿へ残された祭具なども、このとき一切合財がバビロンへ持ち去られた。
 また、ネブザルアダンは勅令によって、捕囚とはなり得ぬ無産の貧困層をユダの地に残した。かれらには耕地とぶどう畑が与えられた。かれらの監督役にはユダ王宮の役人であったゲダルヤが任命されるが、かれにまつわる諸々は既に別の章で述べた。
 斯くしてエルサレムは陥落し、ユダ王国は滅亡した。

 並行箇所になく「エレミヤ書」にはある記述に、バビロン捕囚の人数がある。以下に書き留める。
 ・ネブカドネツァル第7年:3,023人(前598年。但し、第17/前588年節有り。岩波Ⅷ『エレミヤ書』P320注2など参照)
 ・同第18年:832人(前587年。エルサレム陥落/第三次バビロン捕囚)
 ・同第23年:754人(前582年。第四次バビロン捕囚)
━━総人数、4,600人云々。
 これ以前にもヨヤキン王の御代にネブカドネツァルはエルサレムを占領、役人や兵士、職人たちなど約一万数千人を捕囚として連行していた。これが、第一次バビロン捕囚である(ex;王下24:14-16)。

 「エレミヤ書」にとって第52章は補遺という以上に、かれが何度となく伝えてきた主の言葉が歴史的事実としてここに実現した、と報告する役割を持っている。ゆえにノートにも些かの力が入ってしまい、「列王記」やオリエント史などを改めて学ぶことができた。
 ネブカドネツァル王側の年記について、幾つかの研究書や注釈書で微妙に異なるため、ここでは岩波版「エレミヤ書」脚注に従ったことを、記してお断りしておきます。
 明日のエレミヤ書第52章2/2を以て「エレミヤ書」は終わります。



 NAXOSからリリースされているブラームスの「合唱と管弦楽のための作品集」を流しながら、PCでの清書作業を行っていたのですが、これが第52章にぴったりと合う。特に2曲目、〈埋葬の歌〉Op.13と3曲目、〈アルト・ラプソディ〉Op.53。胸を抉るような切々とした訴えの声が、まるで旧約聖書の乾いた大地に染みこむようなのです。
 前から欲しいな、と思っていたこのCD。退職してしばらく蟄居する身には、あまりに切ない響きに満ちていて、正直なところ、聴き通せるかどうか不安でたまりません。それを克服するために、荒療治としてレヴューの一つでも書いて本ブログか別名義のブログかでお披露目すれば、すこしは気持ちも安らかになるのかもしれない……。
 しかしながら、本盤は頗る付きで普段クラシック音楽に馴染みのない方にもオススメ。歌詞の意味なんてわからなくて構わない。西洋文化の基盤などについて無知であっても全然OK。ただひたすらこの美しくて、透明で、素朴で、しかし魂を慰撫して暖かく包みこんでくれるような、そんな優しさと温もりがたくさん詰まった一枚です。
 エヴァ・ヴォラク(A/Op.53)=ワルシャワ・フィルハーモニー合唱団・管弦楽団=アントニ・ヴィト(指揮) NAXOS 8.572694◆

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第1166日目 〈エレミヤ書第51章2/2:〈バビロンの滅亡の巻物〉with I'm Proud of You.〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第52章2/2です。

 エレ52:59-64〈バビロン滅亡の巻物〉 
 ユダ最後の王ゼデキヤが即位して四年目。王と共にバビロンへ、ネリヤの子セラヤが宿営の長として随伴することになった。その際、エレミヤはかれを呼んで、主の言葉を書き記した巻物一巻を渡して命じた。曰く、━━
 これにはバビロニアにまつわる事柄が書いてある。あなたはバビロンへ到着したら捕囚となった同胞(はらから)の前で、注意深くこの巻物を朗読しなさい。そうして、こういいなさい。主はこの場所を滅ぼして人も獣も住まない永久の廃墟とする、と仰った、と。
 そのあと、巻物を直して石を結わえ、ユーフラテス川へ投げこみなさい。そうして、こういいなさい。このようにしてバビロニアは沈んで再び現れることがない、わたし主が降した災いゆえに、と仰った、と。

 ……以上が、主により召命されて、ユダ王国滅亡/エルサレム陥落とユダヤ人の離散、捕囚となる様子を目撃し、残存した同胞のエジプト亡命に巻きこまれてかの地にて寄留を余儀なくされた、〈哀しみの預言者〉エレミヤが語った言葉である。

 「エレミヤ書」事実上の終わりであります。
 セラヤの父はネリヤ。即ちセラヤは、巻物を書き記したバルクと兄弟であります。兄弟であるかれがバイロンへ行くことも奇なら、巻物を朗読・沈める役を任せたのも奇といえましょう。セラヤ・バルクの父ネリヤ、かれらの祖父マフセヤは共に、兄弟の紹介の折に名が登場するに留まります。ちなみに、バルクの系図が旧約聖書続編(外典)の一、「バルク書」1:1に出ております。こちらも年経て後の日に読む機会が出てくるでしょう。
 エレミヤがセラヤに渡した巻物は、バルクに二度目に書き留めさせた巻物と同じでしょうか。件の巻物については誰彼が破損させた、とか、そんな記述はないので、同じだと考えてよろしいかと思います。

 預言者エレミヤの読み物はここに終わります。中断を挟んだので実感はなかなか得られませんが、旧約聖書でも特に読み応えがあり、胸深く響くものを持つ一巻であります。「創世記」や「出エジプト記」、「ルツ記」、「ヨブ記」、「詩編」などと共に何度も繰り返して読んでとても感銘を受けること大で、その度に違った発見がある奥の深い一冊であります。
 旧約聖書を全部読み終えた後、再びこの書物に戻ってくるのもいいかもしれないな、と見果てぬ夢に似た思いを抱いているさんさんかでありました。
なお、エレミヤはエジプトにそのまま寄留して、最後は原住民によって鋸で挽かれて殺害された、との伝承があります。諸説あるようですが、いずれにせよ、エレミヤの晩年や最後についてははっきりわからない、というのが本当のところであるようです。



 あなたが健康で、しあわせでいてくれると良いな。この道を守らば君を守るらむ……、か。あなたを愛したことがわたくしの誇りです。◆

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第1165日目 〈エレミヤ書第51章1/2:〈諸国民に対する預言〉6/6withバイブル・アトラスが欲しい、のだけれど……。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第51章1/2です。

 エレ51:1-58〈諸国民に対する預言〉6/6
 (承前)

 わたし主は滅びの風を吹かせる、バビロニアへ向けて、カルデア人に向かって。災いの日が訪れる。かれらは四方からバビロニアへ迫る。
 バビロニアを滅ぼし尽くさんとする者の手から逃れよ、イスラエルとユダは。わたしはお前たちにいう、「イスラエルとユダは/その神、万軍の主に見捨てられてはいない。/カルデア人の国には罪が満ちている/イスラエルの聖なる方に背いた罪が。/お前たちはバビロンの中から逃げ/おのおの自分の命を救え。/バビロンの悪のゆえに滅びるな。/今こそ、主は復讐されるとき/主はバビロンに仇を返される」(エレ51:5-6)と。
 イスラエルとユダはシオンに帰り、わたしの正しさと御業を語り継げ。
 わたしはメディアの王たちの霊を奮い起こし、アララトやミンニ、アシュケナズへ号令を掛ける。かれらはそれぞれ指揮官を立て、軍隊を率いて、命脈尽きようとしているバビロニアへ迫る。そうして町という町を攻め、砦を落とす。渡し場を奪い、沼地の葦を焼き払う。駆逐するその勢いは衰えず、バビロニアの兵という兵は戦き、怯える。かつてエルサレムを見舞った暴虐が、今度はバビロニアを襲う。
 やがて、帝都バビロンは占領されて廃墟となる。世界の覇者と思われていた国がここに滅ぶ(「混沌の海がバビロンに襲いかかり/バビロンは高波のとどろきに覆われた。」〔エレ51:42〕)。諸国はバビロニアを嘲り、辱める。諸国はイスラエルの神の言葉の真実なることと怒りの激しさを目の当たりにして、恐怖する。そうして、畏怖すらも覚えよう。
 わが民、わが民、剣を逃れた者たちよ。行け、ゆめ立ち止まるな。遠くからわたしを思い、エルサレムを心に留めよ。
 わたしはかならず仇を返す神。どれだけバビロニアが守りを固めても、わたしはかれらを滅ぼす者を遣わす。わたしはかならず報復する。

 「今や、多くの民の労苦はむなしく消え/諸国民の辛苦は火中に帰し、人々は力尽きる。」(エレ51:58)  

 他の民族はなんらかの形で破滅することになるけれど、イスラエルはそうならない。そこに、神の意思があり、嗣業の民への救済が存在している。神はまだイスラエルを見捨てていない。一連の、諸国への預言の端々に、そんなメッセージを見出すことができましょう。
 アララトやメディアはそれぞれ、チグリス川西岸地域に覇権を築いた国家。それらが同盟を結んでバビロニアを滅ぼす、という内容の預言ですが、実際に新バビロニア帝国を滅亡させたのはキュロス王を戴くペルシア帝国であったこと、既に読んだ通りであります。
 ところで、バビロニアに「イスラエルの聖なる方に背いた罪」なんてありましたっけ?



 聖書を読むにあたって地図の必要性を感じるときがあります。「ヨシュア記」や「列王記」、「歴代誌」に於いて殊にそれは顕著でしたが、この「エレミヤ書」でも、ブログを再開した後半に至ってますます痛感するように。
 そこで先日(不毛なるクリスマス・イヴ!!)、用事あって東京へ出た序に山手線内の大型書店やキリスト教専門書店の何軒かに足を運んだけれど、捜索は徒労に終わった。意外とないものなのですね。落胆しました。
 なる程、聞き耳を立てていれば、キリスト者は聖書の地理的な記述にはさしたる関心がないらしい。それがどこにあろうとお構いなしで、単に事実として亡国は亡国を攻め、某町が亡国に占領された、という字面だけの記述で満足できてしまうようだ。
 まぁ、案外そんなものかもね。わたくしのようなものが寧ろ少数派か。
 ここは一つ、上田秋成に倣って「往々笑解」、と嘯(うぞぶ)いてみよう。呵々。◆

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第1164日目 〈エレミヤ書第50章:〈諸国民に対する預言〉5/6with H.シュッツ《クリスマス・オラトリオ》を聴いています。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第50章です。

 エレ50:1-46〈諸国民に対する預言〉5/6
 バビロニアに、カルデア人の国に向かって。

 預言者エレミヤよ、諸国民に告げ知らせよ。バビロンは陥落し、かれらの神ベルは辱められた。マルドゥクの偶像は砕かれた、と。
 いま、一つの国が興って北から迫りつつある。それはバビロニアの町という町を落とし、帝都バビロンへ至る。かれらはバビロンに対して陣を敷く。強力な武器で都を攻め、壊し、奪い、火を放つ。そこには人も家畜も住まない。廃都の名はバビロン。
 侵略者よ、北から来た軍隊よ、上げろ、バビロンにて鬨の声を。
 わが民よ、迷える羊の群れよ、逃げろ、捕囚の地バビロンから。
 イスラエルは獅子に追われて散り散りになって羊。かつてアッシリアを罰したように、わたしはユダの骨を砕いたバビロニアを罰する。そのために大いなる国を奮い起こし、北からバビロニア目指して進撃させる。戦災の犠牲になるのを免れたイスラエルがいる。わたしはかれらを緑に牧場へ連れ戻す。その日、その時には、「イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。」(エレ50:20)
 バビロニアの倒れるときが来た。かつて全世界に名を轟かせ、全世界を砕いた槌が、粉微塵になるときが来た。バビロニアは恐怖と恥辱の的となる。よろめき倒れる傲慢な者に手を差し伸べて、助け起こそうとする者はない。焼き払われた都バビロンに住民は絶え、野獣だけがそこを徘徊する。かつて災厄に見舞われたソドムとゴモラの如く、そこに住む者は永遠になく、宿る者もまた同様に。
 主がバビロニアに、バビロンに対して練った計画、カルデア人の地に対して定めた企てを聞け。「バビロンが占拠される物音で大地は揺れ動き/叫びの声は諸国民の間に聞こえる。」(エレ50:46)

 「その日、その時には、と主は言われる。/イスラエルの人々が来る/ユダの人々も共に。/彼らは泣きながら来て/彼らの神、主を尋ね求める。/彼らはシオンへの道を尋ね/顔をそちらに向けて言う。『さあ、行こう』と。/彼らは主に結びつき/永遠の契約が忘れられることはない。」(エレ50:4-5)

 ベル=マルドゥク/メロダク。バビロニアの最高神です。
 「エレミヤ書」で再三に渡って語られてきた、バビロニア滅亡の預言とイスラエル民族存続の訴えが、第50,51章にまたがって再現されます。
 この預言書を閉じるにあたってバビロニアへの預言が最後に持ってこられた点に、「エレミヤ書」編纂者の意図が見え隠れしているように思います。それがなにかというと、主への信頼と希望だと思うのです。
 無限に続くかのような絶望と哀しみのなかにあっても、主の言葉の正しさが現実となるのを目の当たりにすることができれば、そのあとに待ち受ける酷な運命も主の言葉通りにいつか終わるときが来て、故郷の大地へ帰還することが叶う。これは決して〈終わり〉ではない、再生が約束された試練である。或いは、より輝かしい未来への第一歩である、という風に、わたくしは読んできて、思うのであります。
 終わりは始まりである。それを如実に知らしめるエピソードのように、思えてならぬのであります。
 引用したなかに登場する台詞、「さあ、行こう」━━とても良いと思いませんか?



 ハインリヒ・シュッツ《クリスマス・オラトリオ》(《イエス・キリストの生誕の物語》SWV435,435a)を聴いています。
 明るくて伸びやかで、聴いていて実に穏やかになれる。暖かいですよ、この合唱団の声というものは。バッハの同名曲のような堂々たる作品ではないけれど、こうした方が心にしみじみと感じられ、後々まで清らかな印象が残るのではないでしょうか。
 実演に於いてはコンサート・ホールでよりも、教会で演奏されるのがいちばん相応しいように思う。また、個人で鑑賞するにあたっては、深閑とした夜寒の時刻、無為無想の最中にイヤフォンなりヘッドフォンで、外の音が聞こえるかどうかというぐらいの音量で聴くのが理想。じんわりとしてくると思いますよ。、気附けば枕を濡らしていたりね。
 クリスマス絡みの曲(CD)がi-podに入っているけれど、それらは2013年を迎える頃に消すであろうものが殆ど。が、このシュッツの作品だけは間違って削除しない限り、少なくとも自分の意志で消すことはない。それ程に握玩の音楽なのです。

 シュトゥットガルト室内合唱団=ムジカ・フィアタ・ケルン&シュトゥットガルト・バロック・オーケストラ=フリーダー・ベルニウス(指揮)、独唱はクリストフ・プレガルディエン(T)、モニカ・フリンマー(S)他。
 1991年3月、ソニー・クラシカル/VIVARTEからリリースされた一枚。CSCR83835。◆

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第1163日目 〈エレミヤ書第49章:〈諸国民に対する預言〉4/6withわれながら恥ずかしい話。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第49章です。

 エレ49:1-39〈諸国民に対する預言〉4/6
 アンモンへ。
 なぜガド(族)へ与えた土地にミルコム(モルク)が坐すのか。なぜその土地にミルコムを信じる者が住んでいるのか。
 わたしはアンモンのラバに鬨の声を響かせる。ラバの町は廃墟となり、その他の町々も同様に。民は四散して、それを追う者はない。
 しかし、わたしはアンモンの人々の繁栄を回復する。

 エラムへ。(ゼデキヤ王の御代、エレミヤに臨んだ主の言葉)
 わたしイスラエルの神なる主はエラムから武器を奪い、四方から恐怖の風を吹かせる。そのせいでエラムからの難民が周辺国にあふれる。
 わたしはかれらに災いを臨ませ、かれらの背後に剣を送る。エラムの王侯貴族は絶たれて、そのあとにわたしは自分の王座を据える。
 しかし、わたしは終わりの日に、エラムの人々の繁栄を回復する。

 ケダルとハツォルの諸国へ。
 バビロニアの王ネブカドレツァルの魔手が迫る。住民は彼方此方へ、何処なりとも逃げ行け。ケダルは滅び、ハツォルは永久の廃墟となる。

 ダマスコへ。
 周辺諸国からもたらされる悪い知らせに、ハマトとアルバドは不安を露わにし、恐れ戦いている。激しい痛みがダマスコを捕らえる。ダマスコは力を失い、身を翻して遁走する。
 わたしイスラエルの神なる主はダマスコの城壁に火を放つ。その火はベン・ハダドの城壁を焼き尽くす。

 エドムへ。
 逃げよ、避けよ、隠れよ。わたしがエサウに災いを降し、かれらを罰するときが来る。かれらが所有するものは根こそぎ浚いとられる。わたしはかれを身ぐるみ剥がして隠れ場所を暴く。エサウの子孫は滅びた。
 エドムを攻め落とせ、というわたしの命令により、諸国が軍馬の蹄、兵士の鬨を轟かせて、地平線の向こうから上ってくる。エドムが倒れる。その倒れる音は大地を揺り動かし、叫び声は葦の海(紅海)にまで聞こえる。羊の幼きまでが引き連れられてゆく。
 「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まなければならない。わたしは自分自身にかけて誓う、と主は言われる。ボツラは、廃墟となり、恐怖、恥辱、ののしりの的となる。その町々は皆、とこしえの廃墟となる。」(エレ49:12-13)
 「見よ、獅子がヨルダンの森から/緑の牧場に躍り出るように/わたしはエドムを襲い/一瞬のうちにかれらを追い散らし/わたしが選んだ者に、そこを守らせる。/誰か、わたしのような者がいるだろうか。/誰が、わたしを召喚するだろうか。/羊飼いのうち誰が、わたしに挑むだろうか。」(エレ49:19)

 エドムへの預言が中心になった章。エドムに対して行を費やし末路が細描され、しかも回復の約束がされないのは、やはり、その昔、エサウがヤコブに対して犯した罪ゆえか。エサウはエドム人の先祖。イサクの子でヤコブの双子の兄。ex;創25-36,殊に同36:8。
 敢えて順番を変えたことをお断りしておきます。繁栄の回復から徹底した廃絶へ。そうした方が据わりがいいかな、と思うたまでの話です。本来は、アンモン(1-6)→エドム(7-22)→ダマスコ(23-27)→ゲダル/ハツォル(28-33)→エラム(34-39)、となります。
 いよいよ「エレミヤ書」も最後のコーナーを廻り、ゴールが視界に入ってきました。



 最近、独自のやり方であったタイピングを基本からやり直そうとして、まさかのホームポジションから勉強し直している、という、われながらお恥ずかしい話。これまでがこれまでだけに鈍(のろ)くていらいらしてきて、ブログの更新自体匙を投げようか、と誘惑されることしばしばな数日です。
 そのせいでこれだけの文章をノートから打ち直すのに、普段の倍近くはかかっている。しばらく更新時間が遅れることが予想されますが、ちゃんと毎日新しい原稿を公開してゆくので、長い目でお待ちいただけるとうれしいです。
 文章が段々と自分のものではなくなってゆくような気がする……。◆

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第1162日目 〈エレミヤ書第48章:〈諸国民に対する預言〉3/6with見えない壁の向こうに、いったい誰が待っているっていうのさ?〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第48章です。

 エレ48:1-47〈諸国民に対する預言〉3/6
 モアブに。
 かの国はかつて栄えたが、衰退する。その後はアッシリア、バビロニアの支配下に置かれた。

 モアブの栄誉は失われた。敵の剣が後ろから迫る。国のあちこちから悲鳴があがる。略奪者たちが襲いかかり、誰も逃れられない。一つの町の叫び声は遠くの町々へまで響き渡る。谷は滅び、野は荒らされる。モアブの町は廃墟となり、モアブの国土は荒廃する。
 モアブは恥を受けて滅びる。その傲慢、その慢心ゆえに。諸国民はあまねくそれを聞く。モアブの民は町を捨てて富を失い、岩山に住み処を作る。かれらは尾羽打ち枯らして粗布を身に纏う。

 「主に向かって高ぶったモアブを、酔いしれたままにしておけ。モアブはへどのなかに倒れて、笑いものになる。」(エレ48:26)
 「なんという破滅か。嘆くがよい。ああ、モアブは恥じて背を向ける。モアブは周囲の国々の笑いの種となり、驚きとなる。」(エレ48:39)
 「しかし、終わりの日に/わたしはモアブの反映を回復すると/主は言われる。」(エレ48:47)

 モアブとイスラエル/ユダの因縁が浮き彫りになる一章、といえましょうか。
 士師の時代頃までは、イスラエルとモアブの関係は良好であった、といいます。サムエル-サウルによるイスラエル王国樹立以後、双方は敵対し、モアブは国土の一部がイスラエルに占領されるようにもなった。時はずっと流れて南王国ユダが滅亡し、捕囚を免れたユダヤ人が多くモアブへ流入。それをモアブ人は、意趣返しもあったろうか、嘲ったり罵ったりした。それゆえ、ペルシア王キュロスによる捕囚解放が宣言されてユダヤ人が帰還すると、かれらはかつて自分たちを嘲笑したモアブ人を、逆に蔑み、敵意に満ちた目で見、決して快くは思わなかっのです。
 そんな事例を頭に入れて読むと、間もなく到来する未来を視野に入れての預言のように思えてしまうのは、果たしてわたくしの気のせいでしょうか。斯様なことあったがために、モアブ人とは「罪人」、「邪な者」と同義となった由。



 トナカイを酷使して世界を回るサンタさんの日、みな様いかがお過ごしでしょうか。今年もフィンランドのヒゲ面お爺ちゃんからプレゼントをもらえなかったさんさんかです。
 東方神起「Share The World」(『ONE PIECE』!!!)を聴きながら溜め息MAXでキーボードを叩いている今。見えない壁の向こうには誰も待っていないのさ、と、独りごちながらね。なにもする気が起こらず、なにを思う/想う気もなくなる、魂を吸い取る夜ですよ。独り者には肩身の狭い日々が、これからしばらく続きますな。
 本当はクリスマス音楽のエッセイでも、と考えていたのですが、とてもじゃないがそんな気分には馴れないので、愚痴めいた、これからの人生をたった一人で生きることにした者の心情吐露となったことをお詫び申し上げます。
 手を伸ばして届く場所に、信じられる一つの明日なんて、ないんだよ……。◆

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第1161日目 〈エレミヤ書第47章:〈諸国民に対する預言〉2/6withこれの原稿を書いていて口惜しいな、って思うこと。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第47章です。

 エレ47:1-7〈諸国民に対する預言〉2/6
 ペリシテ人に。
 ファラオがガザを攻撃する前に。

 ペリシテ人よ、お前たちの上に大きな災いが降りかかる。北から、大河の奔流の如くなって押し寄せるものがある。その勢いに呑まれて、男たちは叫び、住民たちは皆悲鳴をあげ、父親は力を失ってわが子を顧みることもできない。
 ティルスとシドンは最後の攻撃の援軍を断たれる。ガザは落ち、アシュケロンは破滅する。ペリシテ人は滅びる、カフトルの島にいる残りの者まで。かれらは主によって滅びる。━━平野に残る者よ、いつまでわが身を傷つけるのか。
 「災いだ、主が剣を取られた。/いつまで、お前は静かにならないのか。/鞘に退き、鎮まって沈黙せよ。/どうして、静かにできようか/主が剣に命じて/アシュケロンと海辺の地に向けて/遣わされたからには。」(エレ47:6-7)

 以前の繰り返しになりますが、もう一度、自分自身のためにも註釈を付けます。
 ティルスはカナン入植後、ヨシュアによってアシェル族に分配された土地にある、大海即ち地中海沿岸の町。城壁のある町としてヨシュ19:29で紹介されます。ティルスは、ダビデの王宮建設に際して杉材や石工、木工を提供し(サム下5:11)、エルサレムの神殿の備品作りで必要な青銅鋳造に必要な技術を教えました(王上7:13)。その後、アッシリアの侵攻はどうにか食いとめたものの、バビロニアの前には為す術もなく倒れることを余儀なくされ、ティルスの経済力・交易力は衰えてゆき、やがて地図からその町の名前は消えるのでありました。
 シドンはやはり地中海に面する漁業の栄えた町。ヨシュアによるアシェル族への土地分配にシドンも含まれていましたが、シドンから先住のフェニキア人を駆逐することはかなわず、その後、殊に北王国イスラエルとの宗教的交配が進み、アハブ王に至ってはシドン人の王女を妃に迎えるところまで堕ちた(王上16:31)。また、時の預言者エリヤは主の言葉に従い、シドンのサレプタに身を隠した(王上17:9-10 本ブログに於いては「第0384日目 〈列王記上第17章:〈預言者エリヤ、干ばつを預言する〉〉」をお読みいただければ幸いです。)。ティルスと並んでシドンは「富強を誇り、進んだ文化を誇るところがあったようで、イスラエルの預言者たちから非難されてい」た由(『新エッセンシャル聖書辞典』P457 いのちのことば社)。
 カフトルの島とは即ち今日のクレタ島。ペリシテ人とカフトル人は同一と見る意見もあるそうです。



 註釈を加えるに際して、100%自分の言葉で語ることができないのは口惜しい。対応する箇所をすぐに思い出したりできないこと、聖書辞典や注釈書、読み物などの力を借りないと難しかったりするのが口惜しい。
 日常的に聖書を繙いている人たちって、こういうことがすんなりできるのだろうか。わたくしは精々、「あ、これはどこかで読んだ/出てきたな/記憶にあるな」と思うが関の山ですからね……。◆

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第1160日目 〈エレミヤ書第46章:〈諸国民に対する預言〉1/6withカラヤン指揮ヴェルディ《椿姫》のCDを買いました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第46章です。

 エレ46:1-28〈諸国民に対する預言〉1/6
 エジプトに。
 ユーフラテス川の畔、カルケミシュの町の近郊に陣を張るファラオ、ネコの軍隊へ向けて。

 エジプトよ、戦いに備えよ。騎馬して隊列を組み、陣形を作って進め。眼前の敵バビロニア軍を蹴散らすために。━━なのになぜ、お前たちは慌てふためき、這々の体で逃げ出すのか。四方からお前たちへ迫る恐怖に、どれだけ素早い者も勇ましき者も、一人として逃れ得ない。恐怖、その名はバビロン。
 「その日は、主なる万軍の神の日/主が敵に報いられる報復の日。/剣は肉を食らって飽き、血を滴らす。/それは、主なる万軍の神のいけにえとなる/北の地、ユーフラテスの岸辺で。/おとめである娘エジプトよ/ギレアドに上り、乳香を手に入れよ。/いくら手当をしても無駄だ/傷がいやされることはない。/諸国民はお前が辱められるのを聞いた。/お前の悲鳴は地を満たす。/勇士は勇士と共によろめき、もろともに倒れる。」(エレ46:10-12)
 エレミヤよ聞け、行って告げよ。そう主がいった。エジプトで告げ、ミグドルで告げ、タフパンヘスとメンフィスで告げよ。バビロニア軍が遠征してエジプト攻撃を実行することについて。
 エジプトは敵を迎え撃つ準備をせよ。が、お前たちに勝利の気運はない。アピスは逃げたのではなく、わたしが追い払ったのだ。エジプトの旗を背負って戦った兵たちはいう、バビロニアの剣から逃れてわれわれを待つ民のところへ、生まれた国へ帰ろう、と。かれらはファラオを指して、騒ぎ立てるばかりで好機を逸する奴だ、と罵る。
 敵は厳然とそこにいて、迫り来たる。さあ、エジプトよ、捕囚となる準備を始めよ。バビロニアが破竹の勢いで上エジプトへ侵攻する。エジプトは雪崩を打って敗走して、かれらの命を求める者の手に渡される。斯様にして、「娘エジプトは恥を受け/彼らは北からの民の手に渡された」(エレ46:24)。わたしイスラエルの神なる主は、テーベの神アモン(※1)を罰し、エジプトの神々とファラオ、それに依り頼む者を罰し(※2)、かれらをバビロニアの王ネブカドネツァルとその軍隊、家来たちの手に渡す。その後、エジプトは再び民草の住まう国となる。
 さて。ヤコブよ、イスラエルよ、恐れるな。わたしはあなたたちを必ず捕囚の地から救い出す。帰ってきて、安らかに住む。何人もあなたを脅かさない。恐れるな、わたしが共にいる。 
 「お前を追いやった国々をわたしは滅ぼし尽くす。/お前を滅ぼし尽くすことはない。/わたしはお前を正しく懲らしめる。/罰せずにおくことは決してない。」(エレ46:28)

 ※1→アモンはテーベの主神で豊饒を司る。後に太陽神ラーと融合、アモン・ラーとして崇められた。
 ※2→ファラオや国民はともかく、かれらの崇める神々まで浚いとる、とは! エジプト人の崇める神々の偶像まで根こそぎ罰することで、万軍の主は自らの力を誇示し、かつ自分に背く者、それに関わった者、敵対する者はすべからくこうなる、と見せしめたか。
 それにしても、イスラエルの神も結構〈天上天下唯我独尊〉なところがありますね。根本で一致する部分があるからこそ、立川市で共同生活も送れるのか━━とは、むろん、冗談であります。

 エジプトとバビロニア、双方の軍隊がカルケミシュの郊外でぶつかりました。エジプトは敗れて、版図は大きく西へ後退します。それは前605年の出来事、エレミヤが人生の中葉で経験した戦争でした。
 エレ46:13-26こそ、まさにバビロニア軍によるエジプト侵攻を預言したものであり、これが前605年に実現した、というわけであります。なお、「イザヤ書」第18-20章と、(これから読む)「エゼキエル書」第29-32章でも、やはり同様の預言がされております。
 『新実用聖書注解』(いのちのことば社 2008)で「エレミヤ書」を執筆した中居啓介はこのカルケミシュの戦いを指して、「史上最大の決戦の一つ」(P1064)と記しています。



 まだ聴けていないのが残念なのですが、今日(昨日ですか)、ブックオフでずっと聴きたくてならなかったオペラのCDを購入しました。何週間、悩んだだろう……?
 それは、カラヤンがミラノ・スカラ座にて上演したヴェルディ《ラ・トラヴィアータ》、所謂《椿姫》。リチャード・オズボーン著す伝記『ヘルベルト・フォン・カラヤン』(白水社)では「歴史に残る壮絶な失敗に終わった」(下巻 P167)と記される、1964年12月、ミラノ・スカラ座での《ラ・トラヴィアータ》です;GL 100.506。
 12月17日の公演初日に大ブーイングを浴びて降板したミレルラ・フレーニに代わって、アンナ・モッフォが登板した二日目、22日のライヴ録音がこれですが(今日じゃん!! 48年前だけど。……48?)、わたくしは、ちょっとしたカラヤン伝であれば大抵出てくるこの挿話に引っ掛かりを感じて、爾来、なんとかして聴いてみたいものだ、と願っておったのですが、それがようやく手に入れられたわけであります。
 オズボーンは当時の録音について、歌手の声を殺してはいないもののオーケストラは冷淡である旨、書いておりますが、果たしてわたくしの耳にはどう聞こえるのかな。カラヤンとこのオペラの相性が単に悪いだけのようにも思うし、種々の記録に残るようなスキャンダルに見舞われたらその後は振る気も失せるのかもしれないな、とも思うし……。どちらにせよ、カラヤンもこのオペラも両方好きなわたくしとしては、単純に聴くのが楽しみでならない一組であるのであります。
 さて。ちゃんと聴く前に録画機のHDDの容量を増やさないとな。オペラとドラマはDVD-Rに焼いて、と……。◆

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第1159日目 〈エレミヤ書第45章:〈バルクへの言葉〉with2013年のクラシカ・ジャパンは生誕200年を迎えるヴェルディ特集!!〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第45章です。

 エレ45:1-5〈バルクへの言葉〉
 時は少々遡る。ヨヤキム王第四年にバビロニア軍が、北上するエジプトの軍勢を破った。同じ年、獄中のエレミヤはバルクを呼び、主が語った言葉のすべてを巻物に書き記させた。そのとき、バルクに宛てた主の言葉が預言者に臨んだ。曰く、━━
 あなたバルクは以前、自分の人生について、労苦ばかりで安らぎはなく、主はわが人生に悲しみを加えた、と嘆いた。このように、あなたはいま、悲しみと苦しみのなかに自分はいる、と思いこんでいる。が、そうではない。やがてユダはわたしによって抜かれるが、わたしはどこへ行ってもあなたの命を守り、幸いを与える。
 ━━主はバルクに宛てて、そう語った。

 「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。」(エレ45:5)
 本文に反映させることはできませんでしたが、実に、実に良い言葉ではありませんか。分相応の希望を持って、それを大事にして生きよ。そんな風にいわれているような気がしてなりません。
 これは決して諦念を奨める言葉ではない。寧ろ、欲をかかず自分の足許を確かにして、身の丈に合ったしあわせを求めよ、という建設的な提案とわたくしには読めます。皆さんはどう感じますか?

 ヨヤキム王第四年は即ち前605年であり、本章はエレ36につながる挿話であります。



 来る2013年のクラシカ・ジャパンでは開局15周年を記念して、生誕200年を記念するヴェルディ特集「TUTTO VERDI ~史上初! ヴェルディ・オペラ大全集」が、一年にわたってプログラムされているそうです(http://www.classica-jp.com/tuttoverdi/)。━━ワーグナーも同じ生誕200年ですが、あまりフィーチャーされていない。来月の放送予定は2008年リセウ歌劇場の《タンホイザー》のみ……。
 作曲家の命日でもある一月は、ヴェルディ作品の根源を辿る特別番組『受け継がれるヴェルディの魂 ~ヴェルディのふるさとを訪ねて~』に始まり、処女作《オベルト》、《一日だけの王様》、《ナブッコ》という初期の三作品が放送。これを嚆矢に、ヴェルディ・オペラ全26作と《レクイエム》を、主に生地パルマで上演された際の映像を中心に放送してゆく、とのこと。楽しみです。
 これまでもクラシカ・ジャパンでヴェルディ・オペラはたびたび放送されてきましたが(というよりも、放送されない月の方が珍しい?)、ここまで集中的に、計画的に全作品を網羅しようなんて企ては、他の作曲家に於いてもなかったように記憶します。
 それもたぶん、ヴェルディがオペラばっかり書いた作曲家だから出来る企画でもありましょう。ヴィヴァルディやベートーヴェンの作品を順番に放送してゆくなんて企画、仮に全作品の映像が存在していたとしても、それを最初の作品から最後の作品まで放送するなんて、実際問題として成立するとは思えません。個人的には観たいですけれどね、勿論。
 久しぶりにわたくしは先程まで、書架の奥から永竹由幸『ヴェルディのオペラ 全作品の魅力を探る』(音楽之友社)や『ヴェルディ全オペラ解説』既刊分二冊、ジュゼッペ・タロッツィ『評伝ヴェルディ』全二巻(小畑恒夫・訳 草思社)を引っ張り出してきて読み耽り、来年になるのを心待ちにしている者であります。独りを託つ身なのだから、このぐらいの些事を望外のしあわせと感じたって、良いよね?
 各作品が放送されるその都度その都度、本ブログにて観た感想などお披露目できればいいな、とささやかな希望を抱いております。かつての《マエストロ6》や《ライヴ・ヴューイング》のように、です。◆

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第1158日目 〈エレミヤ書第44章:〈エジプトにおける預言〉2/2withわたくしが鏡花の花柳界ものを好む理由。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第44章です。

 エレ44:1-30〈エジプトにおける預言〉2/2
 タフパンヘスやメンフィス、上エジプト地方の町々へ寄宿したユダヤ人に宛てた主の言葉に曰く、━━
 お前たちは自分たちの犯した罪、父祖たちの犯した罪によって、わたしの怒りを燃えあがらせ、家も国家も、同胞(はらから)も家畜も失う羽目になった。わたしの言葉に聞き従わなければこうなる、と身に染みてわかっているのに、なぜいま再(ま)たわが言葉に従わず、かつての奴隷の地エジプトに戻って寄留し、異教の神々の偶像を作ってそれに香を焚いたりするのか。なぜそのようなことをしてわたしを怒らせ、自分を滅ぼし、世界のあらゆる国々の蔑みと恥辱の的に自らを貶めるのか。
 「ユダの国とエルサレムの巷で行われたお前たちの父祖の悪、ユダの王と王妃たちの悪、また、お前たち自身と妻たちの悪を忘れたのか。今日に至るまで、だれひとり悔いて、神を畏れようとはせず、またわたしがお前たちと父祖たちに授けた律法と掟に従って歩もうとはしなかった。」(エレ44:9-10)
 それゆえにわたしはお前たちに災いを降し、エジプトに寄留するユダをことごとく滅ぼす。エジプトに寄留しようとやって来るユダを取り除く。かれらはみな、エジプトで滅びる。かれらは皆、剣と飢饉で死に絶え、呪いと恐怖、蔑みと恥辱の的になる。ユダの国とエルサレムの都がそうやって滅びたように。エジプトに寄留するユダの人々が難を免れて故地へ帰ることはない。少数の、難を逃れて生き残った一部の人々を除いては。
 ━━と、主はいった。
 が、タフパンヘスやメンフィス、上エジプト地方の町々に寄留するユダヤ人たちはこれに憤り、口々にエレミヤを非難した。━━あなたが主の名前を借りて伝えたその言葉に聞き従う者は、われらのなかには一人もいない。われわれはこれまで通り、天の女王に香を焚き、ぶどう酒をささげる。ユダを治めていた王様や王妃様だってしていたことだ。王様たちがこぞって天の女王に香を焚き、ぶどう酒をささげていた頃、国は安泰だった。しかしそれをやめたら、国は揺らぎ、やがて滅びた。それに男たちが献げ物をささげている間、その妻たちも天の女王にパンを供え、ぶどう酒をささげてきたのではなかったか。
 ……かれらに向かってエレミヤは、お前たちが天の女王にしたことを主が知らず、心に留めていないなどと思うな。お前たちが行ってきた悪行や忌み嫌われるべき行為ゆえに、今日のような災いが臨んだのだ。お前たちはこれまで通り、天の女王に香を焚き、ぶどう酒をささげる、と誓い、その誓いを実行する、といった。そうするがよい、誓いを果たすが良かろう。
 聞け、主はこういっている、主はその大いなる御名にかけてこう誓う。「エジプト全土のユダの人々の中に、『神である主は生きておられる』と言って、わたしの名を口に唱えて誓う人はひとりもいなくなる。見よ、わたしは彼らに災いをくだそうとして見張っている。幸いを与えるためではない。エジプトにいるユダの人々は、ひとり残らず剣と飢饉に襲われて滅びる。剣を逃れてエジプトに地からユダの国へ帰還する者の数はまことにわずかである。そのとき、エジプトへ移って寄留したユダの残留者はすべて、わたしの言葉か、彼らの言葉か、どちらが本当であったかを悟るであろう。このことこそ、わたしがこの場所でお前たちを罰したことのしるしとなるであろう、と主は言われる。そしてお前たちに災いを告げたわたしの言葉が実現したことを知るようになる。」(エレ44:26-29)
 ユダの最後の王ゼデキヤをバビロニア王ネブカドネツァルの手に渡したように、わたしはファラオ・ホフラを、その命を求める者の手に渡す。

 ナイルデルタ東端のタフパンヘスからエジプト北境の町ミグドル、或いはナイル川流域の町メンフィス(カイロ南部約20キロ)と上エジプト地方というエリアに散在して寄留するユダヤ人たちに告げた、イスラエルの神の滅びの預言。これが約18年後に実現してエジプトもバビロニアの支配圏となったのは昨日、端的に述べた通りであります。これは王下24:7,エレ46:2に記録されたことでもあります。
 ファラオ・ホフラ(エレ44:30)はエジプト第26王朝第4代の王。在位は前589-570年。ファラオ・ネコの次の次の王であります。エレ37:5にてエルサレム包囲中のバビロニアを撤退させたエジプト軍の指揮をしていたのはかれである、といわれています。その後、ホフラは親族である将軍アマシスに王位を簒奪、殺害されました。



 泉鏡花の作物は怪談ばかりが持て囃されております。理由の一端は、怪談作家・鏡花を推進する側が、鏡花が好んだ花柳界を、その世界の女性たちを知ることのできない人たちだからでもありましょう。
 お茶屋遊びも知らぬ、芸者に酌をさせたこともないいっぱしの近代文学研究者、民俗学研究者が多すぎますよ。荷風や鏡花を語るに花柳界を知らないって、致命傷ではありますまいか。そんな致命傷持ちたちが自分たちの一知半解ぶりを棚にあげて、徒党を組んで幅を効かせて文学をいじくり廻すけったいな時代の、その最大級の犠牲者が鏡花である、とは、わたくしの言い過ぎかもしれません。
 かつて大学生でさえ読んでいた花柳界ものが、今日の“怪談作家”鏡花を愛でる人たちに受け入れられよう筈もありませんが、わたくしはそれゆえもあり却ってこのジャンルを偏愛する、時代錯誤を承知している一人であります。
 無論、わたくしとて幻想と怪異の作品をきっかけに鏡花へ惚れこんだ者でありますから、それらを低く見るつもりは一切ない。
 が、それでもわたくしが花柳界ものを愛でるのは、やはりその世界━━インターネットと携帯電話が生活の隅々まで浸透した、と錯覚する21世紀の日本の片隅に確固として息附く、いまや〈粋〉とか〈雅〉とか〈伝統美〉なんて言葉で懐古趣味の握玩物みたく扱われている世界を若いときに知り、そこでの遊びに身をやつした経験があるためか。
 為、鏡花を読むといえば一部の幻想と怪異の作品を除くと、花柳界に材を取った作品を専らチョイスしてしまうのもやむなきことであり、もはや骨まで染みついて終生治る様子もない軟派のせいかもしれない。
 今夜、かつて花魁をしていた友どちと久しぶりに会い、小料理屋で食事をしながらそんな話になり、斯く思うたことを、今日のエッセイみたいな感じで書いてみました。◆

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第1157日目 〈エレミヤ書第43章:〈エジプトへの逃亡〉&〈エジプトにおける預言〉1/2with運命を免れたあの朝の夢。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第43章です。

 エレ43:1-7〈エジプトへの逃亡〉
 エレミヤが預かった主の言葉を高慢不遜なるヨハナンたちは否定した。曰く、━━
 われわれの神はそんなことをいっていない、あなたのいっていることは偽りだ。バルクがあなたを唆したのだ、われわれを仲間割れさせてカルデア人の手にかかって殺されるか、或いはバビロンへ捕囚となって連行されるように。
 主の言葉を求めたかれらは、自分たちの思惑と反対の台詞(ユダに留まれ、安泰だから。エジプトに行くな、滅びるだけだ)をエレミヤの口から聞かされたので、こぞってこれを否定して、憤慨した。
 ヨハナンたちは避難先から戻ってきていたユダヤ人も連れて、エジプトへ出発した。そのなかには主の言葉の正しさを信じるエレミヤとバルクの姿があった。主の言葉を信じぬヨハナンたちに率いられて一行は、やがてエジプト国境にある町タフパンヘスへ到着した。

 エレ43:8-13〈エジプトにおける預言〉1/2
 タフパンヘスにて。エレミヤに主の言葉が臨んだ。曰く、━━
 ユダの人々全員が見る前で、ファラオの宮殿の石畳の下に大きな石を埋めよ。そうして、いえ。わたしは、わが僕にしてバビロニアの王ネブカドネツァルをここへ遣わして、この石の上にかれの王座を置き、天蓋を張らせる。エジプトへ身を寄せた人々はあらかじめ定められた災いによって、かれの前に倒れてゆく。
 バビロニアの王はエジプトを撃つ。太陽の神殿のオベリスクを破壊し、火を放って焼き払う。かれはエジプトから神々を奪い去る。ユダの国やエルサレムの都同様にエジプトの国土を打ち払ったかれは、安らかに、意気揚々と自分の国へ還る。
 ━━以上、タフパンヘスにて、主の言葉。

 タフパンヘスはエジプト国境にあった要塞都市で、シリアとエジプトを結ぶ街道にあった。ハーレイの著書に拠れば、それはスエズ運河西方16キロにある場所と同定される由。
 19世紀後半に発掘された宮殿跡に、エレミヤが大きな石を隠した場所であろう、とされる石畳があった。この宮殿/ファラオの宮殿は“パロの宮殿”とされ、離宮とか御用邸のような施設であった、と考えればよいと思います。タフパンヘスは本章のみでなく、このあともしばらくの間名前の登場する町なので、ハーレイの著書や聖書関連の考古学書、或いはエジプト史など、この機会に繙いてご覧になってみては如何か。吉村作治さんの本とかツタンカーメン発掘の話とかね。面白いよね。そういえば、SKE48の矢方美紀が吉村先生と対面して感極まって号泣していたっけ。
 オベリスク(エレ43:13)はこの時代のエジプト(新王国時代)で特に製作された記念碑で、材質は花崗岩、形は変形四角錐。ナポレオンがエジプト遠征の折に持ち帰ったオベリスクがパリのコンコルド広場に、どん、と鎮座坐しているのをわたくしも見たことがありますが、これがおそらく世界一有名なオベリスクでないか、とはフランス在住の知人の言。実際、そうであるらしいですけれどね。
 で、エジプトに到着したヨハナンたちは、結局どうなったのだろうか。この預言から18年後とされるバビロニアによるエジプト侵攻の際に命を散らしたのだろうか。それ以前に死者の仲間入りをしたのか、或いは、どうにかこうにか生き延びちゃった……? ショスタコーヴィチの《マクベス夫人》のように、主人公格が突然姿を消しちゃったりその顛末が語られなかったりすると、なんだか寝覚めの悪い夢を見たような気分になる。どうにかしてくれよ、って感じですよね。
 〈エジプトにおける預言〉を読んでいて、わたくしは唐突に『LOST』を思い出しました。運命を免れたとしてもそれはすぐに軌道修正してその者に襲いかかる。デズモンドがチャーリーに諭した言葉、それが実現してチャーリーは命を落とすのですが。まぁ、そんな話はともかくとして。これを「エレミヤ書」的にいえば、こうなります。〈わたしのいうことを聞かなかったから、他の国にも迷惑かけることになるんだよ〉、と主がいった。ヨハナンたちが逃げこまなければ、エジプトも主の怒りの対象にはならなかったかもしれない。ユダの歴代の王たちが回心して代々に渡ってイスラエルの主なる神の信仰に立ち帰っていたならば、滅亡は免れたかもしれない。少なくとも、それは少し先に延ばされたかもしれない。そんな、歴史の「if」のお話しであります。まこと、運命はどこまでも追いかけてくる。軌道が変えられても、すぐに修正されるのであります。



 夢を見ました。運命を免れたあの朝の夢。
 2001年9月11日。あの朝、わたくしは私用でNYにいて、まさにWTCの下の広場で、そこで働く友人と待ち合わせをしていた。しかし、先方の都合で約束はキャンセルとなり、その朝は一人NYの街を散策する予定だった。そうして頭上を黒い影がかすめてゆき、耳を聾するような轟音が後頭部のずっと上の方から聞こえてきた。数日後の夜、わたくしはテレヴィであのテロ攻撃についてニュースで見て、知った。
 夢のなかでわたくしは友人と会い、別れて、WTCを背にして歩き出していた。頭の上から轟音、足の下から大地が揺れる音。振り返れば北塔から白煙が立ちのぼり、火の手が広がってゆき、次々と黒い影が落下してくる。影は次第に大きくなってゆき、友人の顔になった。こちらを見て、……顔が崩れた。
 あの日、あの朝の、予定されて免れた運命を、今朝、夢に見た。運命を免れたとしてもそれはすぐに軌道修正してその者に襲いかかる。ならばわたくしにも、それはいつの日か襲いかかるのか? 人は死ぬ、必ず。が、その方法はわからない。◆

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第1156日目 〈エレミヤ書第42章:〈エジプト行きに対する警告〉with i-Pod touchに取りこまれた音楽たち。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第42章です。

 エレ42:1-22〈エジプト行きに対する警告〉
 ヨハナンたちがエレミヤのところに来た。そうして、あなたの神である主に祈ってください、われわれの歩むべき道を、為すべきことを示してほしいのです、と頼んだ。「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最前なのですから。」(エレ42:6)
 十日後、主の言葉がエレミヤに臨んだ。かれはヨハナンたちを集めて告げた。曰く、━━
 もしあなたたちがこの地(ユダ)に留まるならば、わたしはあなたたちを絶やしたりしない。カルデア人の王を恐れる必要もない。わたしがあなたたちに憐れみを示す。バビロニアの王もあなたたちに憐れみを示し、あなたたちがこの地に住むのを許す。
 「わたしはあなたたちに降した災いを悔いている。」(エレ42:10)
 もしあなたたちがわたしの警告に従わず、この地を離れてエジプトへ向かうなら、あなたたちはかの地で剣に倒れ、飢えと疫病に倒れる。わたしの怒りと憤りがエジプトの地であなたたちに襲いかかり、恥辱と呪い、恐怖と罵りの的となる。
 あなたたちはいま、致命的な過ちを犯そうとしている。わたしの言葉を求め、わたしの声に聞き従うと決めたのは、あなたたち自身なのに。なぜ、聞き入れようとしないのか。あなたたちはエジプトの地で死ぬ。その死に方は悲惨だ。あなたたちはそのことをいま、はっきりと知らなくてはならない。

 ヨハナンという人物は相当に都合の良い輩であります。「舌の根も乾かぬ内から」という形容が似合うかれに率いられたことこそ、残留したユダの悲劇なのではあるまいか、とわたくしは思うのであります。
 良くも悪くもわたしたちは預言者の語る神の言葉に従います。━━かれは自分の台詞に嘘をつき、思う様に振る舞うことを由とし、それを改めることなんて考えない。或る意味に於いて、聖書に登場する人物の一類型と申せましょうか。



 i-Pod touch(64G)を購入して最初に取りこんだのは、スピッツとブルース・スプリングスティーン、テンシュテットのマーラー、カラヤンのベートーヴェンであった。そのあとでワーグナーのオペラをすべて取りこみ、ワーグナーの管弦楽曲、歌曲、ピアノ曲を。
 びっくりしたのはワーグナーを全部取りこんでも、なお容量がたっぷり余っていることである。これには驚嘆したね。勢いづいてリヒャルト・シュトラウスやプッチーニ、ヴェルディのオペラも……と企んだけれど、さすがにやめておいた。オペラばっかり入っていてもな、とげんなりしたのが正直なところである。
 ゆえにいま、わがi-Pod touchは雑多なヴァリエーションを誇る結果となっている。ワーグナーの大半を削除し、文字通り〈大バッハからAKB48まで〉という状態だ。
 ジャンル的にいえば、クラシックに次いで一大勢力を築いているのがジャズである。これから取りこむ予定なのは、ジェリー・マリガンの『ナイト・ライツ』。G.マリガンのピアノがフューチャーされた表題曲は、エヴァンスのピアノよりも心蕩けさせられる瞬間が、何回もある。これに留まらず、〈プレリュード ホ短調〉など素敵な曲だらけで、村上春樹が「マリガンのレコードはどれを聴いても外れがない」なる意味のことを曰うたのも宜なるかな、というところである(『ポートレート・イン・ジャズ』P130 新潮文庫)。
 もしi-Pod touchを購入することがなかったら、わたくしがジャズを毎日聴くような事態にはならなかったろう。そう考えると、この魔法の箱も人の音楽の好みをずいぶんと変容させ得るアイテムなのかもしれないな、と倩思うのである。◆

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第1155日目 〈エレミヤ書第40章2/2 & 第41章:〈ゲダルヤの暗殺〉with“朗読”、それは愉悦である。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第40章2/2と第41章です。

 エレ40:13-41:18〈ゲダルヤの暗殺〉
 カレアの子ヨハナンは二回に渡ってゲダルヤへ進言した。ネタンヤの子イシュマエルはアンモン王の手先で、あなたを暗殺するためここへ送りこまれた者です。ようやくミツパへ集まってきたユダの残留民を再び離散・滅亡させないためにも、わたしが行ってイシュマエルを殺してきます。
 が、ゲダルヤはこれを退けた。ヨハナンの勘繰りである、と、かれの進言を退けたのである。イシュマエルをゆめ殺すなかれ。
 七月になった。十人の部下を伴ってミツパを訪れたイシュマエルは、ゲダルヤとの会食中にかれを殺した。続けて、街にいたカルデア人とかれらと一緒にいたユダヤ人のすべても同様に。そればかりか、献げ物を持って旧北王国の町々から偶々やって来ていた人々も、一部を除いてイシュマエルたちの凶行の犠牲となって倒れた。その後、イシュマエルたちは殺戮を免れたユダヤ人全員を捕虜にして、アンモンへ向かった。
 ゲダルヤ暗殺を知らされたヨハナンは直ちに兵力を集め、イシュマエル追撃にかかった。かれらはギブオンにある大池の畔で、逃げるイシュマエルたちの背中を捉えた。追従させられる捕虜たちが背後からやって来るヨハナンたちを見て、歓呼の声をあげた。そのなかをヨハナンたちは進み、イシュマエルたちと剣を交えてこれを散らした。イシュマエルは八人の部下を連れてアンモンへ逃走していった。
 ヨハナンは苦慮の末に決断した。かれはイシュマエルから救い出した捕虜全員を連れて、上古(そのむかし)に父祖が奴隷として暮らしたかの地、即ちエジプトへ逃れる計画を立て、これを実行したのである。そのなかにはエレミヤとバルクの姿もあった。

 アンモン王バアリスの思惑が裏にあったと雖も、バビロニア側からすれば総督ゲダルヤを暗殺したのは自分たちの同胞。バビロニアの怒りを買って更なる迫害、更なる逆鱗を蒙るのは必至、と、ヨハナンは恐れた。それゆえにかれはベツレヘム近郊の街キムハムの宿場に留まり、そこでエジプト脱出計画を立てたのである。
 ━━これがユダ滅亡後にユダヤ人が犯した(記録に残る)最初の罪、主への背反行為の最たるものである、というてよいと思います。このあと、万軍の主はエレミヤに警告を与えてエジプト行きを思い留まらせようとしますが、それはまた明日のお話しです。



 学生時分、図書館で朗読テープを借りて聴き耽ったことがあります。主に聴いていたのは泉鏡花の作品。他に近松秋江や与謝野晶子、国木田独歩など近代文学の朗読があった。
 当時聴いた近代文学の朗読をもう一度。近頃とみにそう願い、今日(昨日ですか)県立図書館に出掛けて泉鏡花『高野聖』と永井荷風『墨東綺譚』を借りました。果たしてかつてテープで聴いたのと同じであろうか。
 鏡花は「なにか違うような気がする」と、小首を傾げる。こんな息荒い、逼迫したような朗読であったろうか。進むにつれて変な違和感は薄れていったけれど、それは単にこちらの耳が馴染んだだけの話。正直なところ、『高野聖』よりは『夜行巡査』と『眉かくしの霊』の方がはっきりと耳に残っているので、同じか否かはっきりと判断できるのだが……。山奥の女性の台詞も同じ男性の朗読ながら、もっと艶やかで色香漂うものであったと思うのだ。
 しかしながら、これを流しながら久しぶりに文庫を取り出して、一頁一頁繰りながら鏡花の技巧を凝らした言葉の魔術に酔うのも、格別の楽しみがある。これを〈法悦〉といわずしてなんというのか。逆にこんな経験を通して、これまでうっかり読み落としていた微妙な言葉の陰影を発見して堪能するのも、一興と申せるであろう。
 一部で朗読は再び活況を呈し始めているようだ。川崎のミューザで朗読劇を聴き、コミックでも朗読をテーマに据えた作品がある。i-Tunesを覗けばオーディオ・ドラマに混じって、内外の文学を中心に多くの朗読作品が群雄割拠している。わたくしもそこでやはり鏡花や荷風や秋江なんて購入して折節愉しんでいるが、声質の自分に合うものに出会うと既に知った作品でも、その人の朗読したものをもっと、もっと、と求めてしまう。それが止むことないのは、そこで買うことのできる朗読が日々増えていっているからであろう。
 わたくしが文学(小説)の朗読に初めて触れ、私有したのはスティーヴン・キングの『GUNSRINGER』であった。これをイギリス行きの飛行機の行き帰り、果ては滞在中もベリンダ・カーライルのテープと一緒に擦り切れる程聴いて、当初はわからぬながらも没頭したものだが、朗読とは一般的な読書とはまた別格の愉悦をもたらしてくれる、文学へのアプローチの一手法である。
 いま聴いている『高野聖』が学生のときに聴いたのと同じかどうかはわからないけれど、こんな風にPCで原稿を書きながら耳を傾けたり、電車のなかで本を開くに難儀するようなときに心平らかにしてその世界へ没入するには、これ以外に最適かつ周囲に迷惑をかけることのないツールを思い付くことはできませんね。
 図書館にあった朗読のCDで他に借りたいものは幾つもある。それが終わったら、i-Tunesの朗読コーナー(?)で『嵐が丘』や『シャーロック・ホームズ』のそれでも購入しようかしら。高いけれどね。
 ━━いつか自分でも朗読に耐えるような小説を書いてみたいですね。◆

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第1154日目 〈エレミヤ書第40章1/2:〈エレミヤの釈放〉&〈ゲダルヤの働き〉with12月15日の日記〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第40章1/2です。

 エレ40:1-6〈エレミヤの釈放〉
 捕囚になったユダとエルサレムの住民は、ネブザルアダンによってバビロンへ移送された。その中にエレミヤもいた。エルサレムを出発した一行は途中、ラマの地で止まった。ネブザルアダンはラマにてエレミヤを釈放した。経緯は講である。即ち、━━
 ラマに到着してネブザルアダンはエレミヤを呼んだ。預言者を前にバビロニアの親衛隊隊長はいった。あなたの神はあらかじめ告げていたことを実現した。あなたたちのゆえにである。さあ、エレミヤよ、あなたの望む方を選びなさい。われらと共にバビロンへ行くか、それとも、ここで別れてミツパにいるあなたの同胞にして総督としてユダの管理を任されたゲダルヤへ身を寄せるか。
 バビロンではなくミツパへ。エレミヤが望んで選んだのはそちらであった。分け与えられた食糧を携えてエレミヤは、一路、ユダの残留民とゲダルヤのいるミツパへ向かった。
 「目の前に広がっているこのすべての土地を見て、あなたが良しと思い、正しいとするところへ行くがよい。(中略。バビロンへ行くもミツパへゆくも良し)さもなければ、あなたが正しいとするところへ行くがよい。」(エレ40:4-5 ネブザルアダン)

 エレ40:7-12〈ゲダルヤの働き〉
 野に四散していたユダの軍の長たち(※)が集まって、ミツパのゲダルヤを訪れた。バビロニア王の辞令によりユダの民でありシャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤがこの地の総督に任ぜられたこと、王によって残留が認められたユダの民が纏められてゲダルヤに委ねられたこと、そのゲダルヤがミツパにいること、それらを知ったからである。
 戦々恐々の訪問者たちにゲダルヤはいった。曰く、━━
 あなた方はいま不安のなかにある。しかし、大丈夫、安心してバビロニア王に仕えなさい。わたしがミツパに留まって、訪れるカルデア人との折衝役となろう。だからあなた方は安心して自分たちの町へ戻り、憂うことなく、ぶどう酒や夏の果物、油などを集めて貯蔵しなさい。
 ━━モアブやアンモン、エドム、その他の国々へ離散、避難していたユダヤ人たちにも、バビロニア王が示した処遇と総督ゲダルヤの言葉は広まっていった。かれらは避難先からユダの地目指して歩き、ゲダルヤがいるミツパに来た。かれらもぶどう酒や夏の果物、油などを多く集めた。

 ※ネタンヤの子イシュマエル、カレアの子ヨハナンとヨナタン、タンフメントの子セラヤ、ネトファ人エファイの一族、マアカ人エザンヤ。並びにその部下たち。(エレ40:8)

 ネタンヤの子イシュマエル、カレアの子ヨハナンの二人は次章にも登場して、エルサレム陥落後、バビロニアの属州として機能するユダに残ったユダヤ人たちの運命を変える役割を担うことになります。
 ゲダルヤとミツパについては明日のお話しとさせていただきます。



 ネタがないわけではないけれど、今日は趣向を変えて、日記みたいなのを書いてみます。
 休みの早朝(土曜日)、ブラームスの弦楽五重奏曲Op.88&111で目を覚まし、SKE48の「1! 2! 3! 4! ヨロシク!」で布団から跳ね起きる。そうして起きたはよいものの特にすることもない。というか、予定はあったけれど取りやめた。だってこんな雨降りの土曜日なんですもの。ねえ?
 寒いからさ、図書館にCDを返しに行くのをやめて、部屋に寝転び本を読んでぐうたらぐうたら過ごしました。先日ブックオフで買ってきた、チェロ奏者スティーヴン・イッサリース『もし大作曲家と友だちになれたら…』(板倉克子・訳 音楽之友社)を昼過ぎまで読み耽り、ロナルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生れた家』(小林司/島弘之・訳 河出文庫)を午後から夜にかけてじっくり、ばっちり読みました。これらについて感想をいつの日か認められたらいいな、と思います。
 も、勿論、発売されたばっかりの『ONE PIECE』20LOGだって合間を見て、ちょっとずつちょっとずつ読んでいましたよ。なぜ斯くもこの漫画はおいらの涙腺を遠慮会釈なしに刺激してくるのだろう……!?
 今日の夕飯作りは母。感謝して箸で摘みながら美味しいものを食べる。TSUTAYAで借りてきた『うさぎ日和』を観る。
 いまこの原稿をPCで打ちながら、久しぶりに聴いているのはNHK-FMの「ラジオ深夜便」。面白いですね、たまに聴くとすごく新鮮。これの前にも、ジャズ番組やドラマ、クラシック(シベリウス!)を聴いていました。これだけ長時間ラジオに耳を傾けていたのは昨年の震災以来だ。深閑としたこの時間帯に、小さなスピーカーから流れてくる人の声って、温もりがありますね。やっぱりラジオって良いなぁ。
 しかし、今夜のゲストはけたたましい。寝ながら聴いていなくて正解。
 秋葉原での人身事故により山手線が停まっていたそうですが、先程運転再開した由。終電近いですが、利用している皆さん、大丈夫でしたか? 寒いから風邪引いたりなさらないで。客同士のトラブルなんて起こさないで。
 明日、というか今日は、衆議院選挙と最高裁判事の投票日(都民は都知事選もか)。政権交代を実現させよう! 民主党を与党の座から引きずり下ろし、第三極の躍進を阻め!◆

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第1153日目2/2 〈エレミヤ書第39章2/2:〈エベド・メレクへの約束〉with解き放たれた哀れな魂を遊ばせる:ヒルティとパパ・ハイドン〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第39章2/2です。

 エレ39:15-18〈エベド・メレクへの約束〉
 エルサレム陥落以前。エレミヤに主の言葉が臨んだ。
 宦官エベド・メレクに。やがてユダは滅びて多くの人が死ぬ。しかし、あなたは生き残る。敵の剣があなたの血を吸うことはない。命だけは助かる。わたしがあなたを必ず救う、あなたがわたしを信頼したからだ。

 今日、エレ45〈バルクへの言葉〉を清書していたのですが、その流れで一言。
 エレミヤを助け、敬い、礼を尽くした人は、主から幸いを与えられる。件のバルク然り、本章に於けるエベド・メレク然り、であります。それはエレミヤを召命した主が、僕として無私の奉仕を預言者へ行ったことへの、謂わば、ご褒美であったかもしれない。
 上手くいえないのだけれど、自分が召命した者へ見返りを求めることなく奉仕する(場合によっては命の危険さえあったろうに。特にバルクの場合)その姿が、主の目に好ましく映り、斯様な計らいをかれらにもたらしたのかもしれない。――そんな風に思いながら、先の章の清書を行い、顧みて本章との不思議な合致に溜め息した者であります。
 お忘れではないかもしれませんが、いちおう申し上げておくと、エベド・メレクは監視の庭にある水溜へ投げこまれたエレミヤを救うようゼデキヤ王に懇願、それを許されて水溜からの引き上げを実行したクシュ人の宮廷人であります(エレ38:7-13)。



 久しくヒルティの本を読んでいない。枕許には常に、かれの著作集第6巻(「愛と希望」白水社)、未だ訳文に馴れることのできぬ『心の病を治す生活術』(PHP)、アルフレート・シュトゥッキ『ヒルティ伝』(白水社)の三冊があり、いつでも読める状態なのに。
 ひょんなことからシフトの変更を余儀なくされて生まれた休みの日々、いよいよグランド・ファイナルに向かって動き出した黄金の日々が、わたくしの前に茫漠とだけれど広がっている。これらの日々を使って、高校生の時分より愛読していまなお忘れ難き印象を残し、最後のときまで傍らに置き続けるのであろうヒルティの著作と伝記を、たとえ切れ切れの時間を用いることになろうとも、ゆっくりと読んでいきたい、と願う。
 有為転変と感情の齟齬によって生まれた、〈解き放たれた哀れなる魂〉を遊ばせる、限りなき希望と奇跡に満ちた「時」を愉しもう。

 パパ・ハイドンの交響曲を聴きながら、このブログ原稿を書いている。いまBOSEのスピーカーから流れてくるのは、交響曲第98番変ロ長調。演奏はアンタル・ドラティ=フィルハーモニア・フンガリカ(LONDON)。わたくしはハイドンの良きリスナーではないけれど、この演奏はアタリであった。幸福感と高揚感を覚える、実に典雅な演奏だ。
 ショップで購入するのは重複曲目のオンパレードになってしまうので、現在は図書館で借りてくるのが専ら。架蔵の弦楽四重奏曲や器楽曲を含めて、しばらくはハイドン・ルネッサンスが自分のなかで湧き起こり、文字通りの〈シュトゥルム・ウント・ドランク〉(疾風怒濤期)を迎えそうである。◆

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第1152日目 〈エレミヤ書第39章1/2:〈エルサレムの陥落〉with国民の義務を果たしてきたよ。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第39章1/2です。

 エレ39:1-14〈エルサレムの陥落〉
 ゼデキヤ王の御代第九年、バビロニア軍がエルサレムを包囲した。やがて都の食糧は尽き、民は飢えた。攻防は二年に渡り、第十一年、遂にエルサレムは破られた。城壁の一角が崩れてバビロニアの兵士たちが突入し、中央の門に戦闘指揮所が置かれた。ここにバビロニア軍の将軍全員が揃い踏みした。指揮官ネレガル・サル・エツェルや侍従長サル・セキムなどである。他に親衛隊隊長ネブザルアダンもいた。
 王都は破壊されてゆき、住民は捕縛されてゆく。それを横目に、ゼデキヤ王とユダの戦士たちは逃げた。王はアラバに向かった。が、その途中でカルデア人たちに捕らえられた。エリコの荒れ地にて王は、追ってきたカルデア人たちの手に落ちたのである。その頃にはもう王のまわりに戦うユダの戦士はいなかった。
 ゼデキヤ王はネブカドレツァルの前に出された。バビロニアの王ネブカドレツァルは捕虜となったユダの王の眼前でかれの息子たちを殺し、かれの両眼を潰し、手首足首に青銅の枷を嵌め、王都バビロンへ連行させた。主の預言通りになった、主の謀(はかりごと)は実現した。
 エルサレム陥落、ユダ滅亡。それはゼデキヤ王第十一年、西暦にすれば紀元前五八六年の出来事である。北王国が滅びてなお命脈を保った南の王国ユダは、ここに滅びて地図から消えた。
 ――さて。
 辛うじて生き延びることのできたエルサレムの住民は、親衛隊隊長ネブザルアダンによってまとめられ、かれらの国へ連行されていった。無産の貧しい民はユダの地に残され、ぶどう畑と耕地を与えられた。かれら残留組の管理は、属州ユダの総督に任ぜられたゲダルヤへ委ねられた。
 バビロニア王は預言者エレミヤについて、ネブザルアダンに命じた。曰く、監視の庭に行ってかれを解放せよ、と。如何なる害も加えず、望みはすべて叶えてやるように。ネブザルアダンは指揮官ネレガル・サル・エツェル他、高官数人を派遣して、監視の庭に留め置かれていたエレミヤを解放した。かれの身柄は総督ゲダルヤに預けられた。
 エレミヤはユダの地に残って、いまや廃墟と化したエルサレム、荒れ果てたユダの大地を見た。かれは嘆き、哀しんだ。かれは慟哭した。その悲しみゆえ、「哀歌」はかれの名を冠して伝わった。

 並行箇所は王下25:1-21、代下36:17-20です。
 39:15-18〈エベド・メレクへの約束〉は明日に廻します。敢えて悲しみの余韻を壊す必要もないでしょう。
 興味のある方はトーマス・タリス「エレミヤの哀歌」を始め、パレストリーナやラッススのエレミヤ絡みの音楽を聴いてみると良いと思います。そういえば、ストラヴィンスキーも書いていますね……。



 一昨日、期日前投票に出掛けました。これ以上、ぶっ壊れた日本を見たくない。
 NHKの出口調査を、今回初めて受けました。◆

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第1151日目 〈エレミヤ書第38章:〈水溜めに投げこまれる〉&〈ゼデキヤ王との最後の会見〉withパブで本を読んだ記憶〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第38章です。

 エレ38:1-13〈水溜めに投げこまれる〉
 エルサレムに留まり続ける者は、迫る北からの敵(バビロニア兵)のかざす剣の下に倒れる。剣に罹(かか)らない者は飢えと疫病によって倒れる。免れて助かりたいなら、投降する以外の道はない。王都はやがてかれらの手で破壊され、炎上して廃墟となる。
 ――エルサレムの住民たちの間で斯く遊説するエレミヤ。これを聞き咎めた四人の役人たち(※1)はゼデキヤ王に報告、預言者の逮捕を要求した。王は諦めたように頭を振って、エレミヤ逮捕を許可した(※2)。役人たちは監視の庭にある水溜に、捕らえたエレミヤを投げこんだ。その時期、水溜にあるのは水ではなく、堆積した泥であった。
 エレミヤ逮捕、監視の庭にて拘留中。その報を耳にしたクシュ人の宦官エベド・メレクは、ベニヤミン門の広場で坐していた王の前に出て、訴えた。このままではエレミヤは飢死してしまいます、最早都には一個のパンも残っていないのです。かれを泥だらけの水溜から助けてください。
 ゼデキヤ王はこれを許可した。宦官エベド・メレクは三〇人の部下を連れて監視の庭へ行き、水溜からエレミヤを引き揚げた。預言者は以後、監視の庭の一角に留め置かれた。

 エレ38:14-28〈ゼデキヤ王との最後の会見〉
 ゼデキヤ王は、王の権限を以てエレミヤを一時出所させ、宮殿に召した。なんでも隠すことなく話してほしい、と王はいった。エレミヤは拒んだ、進言しても聞き入れたりなさらないでしょう、と。王は、否、聞く、と答えて、かれの安全をも保証した。
 エレミヤは主の言葉をゼデキヤ王に伝えた。エルサレムはバビロニア軍によって滅び、かれらの手からは何人たりとも逃れられない。降伏すれば命は助かり、都が炎上することはない。が、降伏しないなら、ユダは敵の手に落ちる。
 それを聞いてゼデキヤは懸念を示した。既にカルデア人たちの許へ脱走したユダの人々からわたしは嬲られるのではないだろうか。エレミヤははっきりと、否、と答えた。いいえ、ユダの脱走者たちの手に王が渡されることはありません、あなたは生き永らえます。しかしもし、とエレミヤは続けた。降伏しなければ、王妃や王子のみならず王御自身もバビロニア軍の、カルデア人の手に引き渡されます。そうして都は破壊され、炎上するでしょう。
 ――この会見の終わりに、王はエレミヤにいった。あとで役人たちがあなたに訊くだろう、お前は王となにを話していたのか、と。あなたはこう答えなさい、憐れみを乞うていました、ヨナタンの家に連れ戻さないでください、あすこにいては死んでしまいますから、と。今日のこの会見の内容はわれら二人だけの秘密にしよう、そうすればあなたがこれ以上咎められたり、或いは殺されたりすることはないから。
 果たして役人たちはやって来て、エレミヤを取り囲んだ。かれは王にいわれた通りにしたので、役人たちはそのまま戻っていった。エレミヤはエルサレム陥落の日まで監視の庭に拘留され、エルサレムが占領されたときもそこにいた。

 ※1→マタンの子シェファトヤ、パシュフルの子ゲダルヤ、シェレムヤの子ユカル(エレ37:3と同一人)、マルキヤの子パシュフル。
 ……ユカルはエレミヤになにか恨みでもあったのか? 偶々そういう立場にあった、或いは、そうした場に居合わせてしまっただけ?

 ※2→ゼデキヤの台詞;「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」(エレ38:5)


 時間が行ったり来たりしているのが「エレミヤ書」の一つの特徴ですが、ここでは前の章の記述に挿入されるべき挿話が語られます。
 逮捕されたあとを承けているにもかかわらず、再び逮捕前の様子や逮捕の経緯が語られたりすると混乱しちゃいますよね。困ったものです、この据わりの悪さには。まぁ、エレミヤ逮捕にまつわる一連の流れがこれで摑めるようになる、といえば聞こえはいいかもしれませんけれど。
 どちらにせよ。
 ゼデキヤ王は最後までエレミヤに依り頼み、深く信頼していた、とわかります。帰依をしていた、というて良いかもしれない。しかし王という立場が、次いで時勢がそれを許さなかった。板挟みになって苦しんだ悲しみの王――そう称して構わないようにも思えます。



 昨日の補足になりますが、パブで読む本の話。
 ラヒリの短編集を読んだのは昨日のことだが、過去、同様にパブで黒ビールを飲みながら読んだ数ある本の内、最も濃密な読書経験をしたのはやはり一巻、まるごと読み切ってしまったものであろう。つまり、青山南『短編小説のアメリカ52講』(平凡社ライブラリー)と千野栄一『ビールと古本のプラハ』(白水uブックス)である。
 グラスを重ねること数杯。されど酩酊して記憶が惑乱することなく、意識が刹那と雖も遠退くなんてこともなく、むしろ普段以上に印象に残り、記憶に定着したように思う。勿論、内容についての話だ。読書した環境、飲食の味の記憶が浮かぶのは、その次である。
 描かれた情景が絵になって浮かび、一種の歴史劇を目撃するかの如く手に汗が浮かぶのを禁じ得ない――そんな経験はそれまでにしたことがなく、今後どれだけそうした幸運に出会せるか、まるで見当が付かない。それだけにこの二冊への愛着は一入で、折節手にして読み返すのである。
 酒場の読書、なかなか侮れぬ。誠、読書とは罰せられぬ悪癖であるな。◆

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第1150日目 〈エレミヤ書第37章:〈エレミヤの逮捕〉with酒飲み読書;ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第37章です。

 エレ37:1-21〈エレミヤの逮捕〉
 バビロニア王ネブカドネツァルの命令により、ゼデキヤがユダ国の新しい王となった。王都の外に在っては、ファラオの軍勢が進撃してきたのを承けて、バビロニア軍はエルサレムの包囲を(一時的にも)解いて撤退していた。その内に在っては、預言者エレミヤはまだ自由の身であった。かれは都のあちこちで遊説してユダの滅びを告げ、バビロニアへ服することを訴えたが、かれの言葉を真に受け、かつ従う者は国のどこにもなかった。
 そんななか、ゼデキヤ王はまだ辛うじてエレミヤを頼りとする者であった。王はシュレムヤの子ユカルとレビ人ツェファンヤを、預言者の許へ派遣した。かれらは王の頼み(われわれのため、われわれの神に祈ってほしい)を伝えた。……エレミヤに主の言葉が臨んだ。それを携えて、ユカルとツェファンヤは都へ、王宮へ戻った。主の言葉に曰く、――
 ファラオの軍勢の進撃によってバビロニア軍は撤退した。が、危難は去ったのではない、かれらの撤退はいまだけだ。かれらは再び砂塵の向こうから姿を現し、この都を囲いこむ。仮にお前たちが攻め上ってくるファラオの軍勢を破っても、そのあとには新たな軍勢、即ちバビロニアの軍隊が控えて、お前たちを討とうと構えている。バビロニアはエルサレムを破壊し、火を放つ、と。
 ――その後、エレミヤは土地を相続するため故郷アナトトへ行こうとしていた。かれが都の北側にあるベニヤミンの門から出ようとすると、シェレムヤの子イルイヤがこれを呼び止めた。イルイヤがエレミヤにいった、お前はバビロニアに投稿する気だな、と。エレミヤは否定したが相手は聞き入れず、かれを捕らえて役人の前に突き出した。役人たちは激怒した。エレミヤは書記官ヨナタンの家に監禁された。エレミヤは丸天井のある地下牢へ投獄され、そこで長い期間を過ごした。
 エレミヤ拘禁。それを知ったゼデキヤは、王の権限を以てかれを一時出所させ、宮殿に召して密かに訊いた。なにか、主から言葉があったのか。ゼデキヤが訊ねた。エレミヤは、はい、ありました、と首肯した。王よ、あなたは直にバビロニアの王の手に渡されます。続けて、わたしはいま謂われなき理由で地下牢へ入れられています、なぜですか、わたしが、この国や民に対してなにか非道い振る舞いをしたのでしょうか、と訊いた。バビロニアという脅威が迫っているにもかかわらずユダは安泰である、と請け合っていた他の預言者たちはどこへ行ってしまったのですか、とも。
 「『どうか、わたしの願いを受け入れ、書記官ヨナタンの家に送り返さないでください。わたしがそこで殺されないように。』/ゼデキヤ王は、エレミヤを監視の庭に拘留しておくよう命じ、パン屋街から毎日パンを一つ届けさせた。これは都にパンがなくなるまで続いた。エレミヤは監視の庭に留めて置かれた。」(エレ37:20-21)

 ……パン屋街! パン焼き職人の店が集まっている地域と想像されますが、同時に、イタリアのクレモナやドイツのニュルンベルクをも連想します。無論、弦楽器就中ヴァイオリン職人(クレモナ)や職匠たちが歌合戦を繰り広げる様子(ニュルンベルク)を思い描いての謂であります。
 ちなみに「パンがなくなりました」とゼデキヤ王が報告を受けるのは次のエレ38:9です。これはバビロニア軍が再び王都を包囲、兵糧攻めの憂き目にあったがゆえのことでありました。ところで、エレミヤは一日一食、パン一個だったの? 飲み物とか、なし?
 他の預言者たちはどこに行ったのか。――世情に応じて掌返すように自分の主張を返るのが、今も昔も変わらぬ世渡りの常套。どこへ行ったのか、とムキになられても、返す言葉などある筈もありません。ただ、世が本当に安泰であったなら、かれらは出てきて逆にエレミヤへ、自分たちに帰せられるべき非難の矛先を向けるであろう、という気も致します。あと数歩で太宰治「駈け込み訴え」の世界であります。



 喫茶店に寄る前に本屋で読むものを探す、というパターンはよく聞く話。が、わたくしの場合はパブへ行く前に本を物色するパターンが多い。
 今日(昨日ですか)もジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(新潮文庫)を読みながら、黒ビールを飲み、茹で上げブロッコリを食す。ほくほく顔で短編一編を読了、外へ出たら冷たい風にビールの酔いは一掃された気配。でも、ラヒリの小説が醸造する技巧の冴え、ドラマの妙に中(あ)てられた酔い心地はそう簡単に醒める様子がない。
 この酔いの種類を敢えて表現するなら、こうなるか。即ち〈イイ小説ヲ読ンダナー!〉である。◆

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第1149日目 〈エレミヤ書第36章:〈預言の巻物〉with村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』を読みました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第36章です。

 エレ36:1-32〈預言の巻物〉
 時代は少々遡って、ユダ王国がその頂点にヨヤキム王を戴いて四年目を迎えた年。まだエレミヤは捕縛されておらず、自由の身であった。この年、次のような主の言葉がエレミヤに臨んだ。バルクを呼んで巻物を与えよ、わたしがヨシア王の時代から今日に至るまで伝えた言葉をバルク相手に口述し、かれにそれを書き留めさせよ、と主はいった。エレミヤはそうした。
 エルサレムの住民とユダの町々からエルサレムへ上ってきた民に向けて、主の前で断食を行う旨、王より布告された。ヨヤキム王の御代第五年九月のことである。その月、バルクはエレミヤに命じられて主の神殿へ赴き、その前庭で件の巻物を朗読した。あたりに動揺が広がった。
 バルクの行為はすぐに書記官たちの知るところとなった。かれらは朗読されたという主の言葉を聞くや、使いを遣わしてバルクを呼び寄せ、その巻物を自分たちにも読んで聞かせてほしい、と頼んだ。再びの朗読が済むと、かれらはみな一様に戦き、互いに顔を見合わせた、或る者がいった、これは王にも伝えなくてはならない、と。或る者が訊ねた、どのようにして主の言葉を書き留めたのか、と。バルクは包み隠さず話した。或る者が忠告した、あなたバルクと預言者エレミヤは急いで身を隠しなさい、誰にも居場所を教えてはならない、と。バルクはそうした。
 書記官たちは王のいる冬の離宮へ向かった。時は九月。既に冬の寒さが迫り、暖炉には赤々と火が燃えていた。かれらは自分たちが聞いた主の言葉を、ヨヤキム王に伝えた。王は件の巻物を取って来させ、自分たちの前でそれを読ませた。書記官たちの場合と異なり、王も側近も一人として、主の言葉に感じるところがなかった。却って王は巻物が数欄読まれる毎にそれをナイフで切り出させ、紙片一葉をその度暖炉の火に投じさせた。書記官エルナタン、デラヤ、ゲマルヤがこれをやめるよう懇願しても、王は耳を傾けることがなかった。それどころか、王子とその側近たちに、バルクとエレミヤの捜索と逮捕を命じた。しかし主が二人を隠したので、誰もバルクとエレミヤを発見できなかった。
 王が巻物を燃やした後、主の言葉がエレミヤに臨んだ。改めて別の巻物を取り、再び口述してバルクに書き留めさせよ。然る後、ヨヤキムにいえ、王は巻物を切って燃やした。王はこう反駁するであろう、どうしてお前エレミヤはやがてバビロニアが攻めて来ると告げるのか、かれらがこの国を滅ぼして人も獣も姿を消すと告げるのか、と。
 エレミヤよ、王にわたしの言葉を伝えよ。曰く、――
 お前ヨヤキムの子孫がダビデの王座に就くことはない。お前の死体は埋葬されることなく外へ放り出され、昼は炎熱に曝され、夜は霜に曝される。「わたしは、王とその子孫と家来たちをその咎のゆえに罰する。かれらとエルサレムの住民及びユダの人々に災いをくだす。この災いは、すべて既に繰り返し告げたものであるが、彼らは聞こうとしなかった。」(エレ36:31)

 「(巻物にわが言葉を残らず書き記せ。)ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」(エレ36:3)

 「このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。」(エレ36:24)

 エレ36:4で執筆を指示される預言の巻物、これは「エレミヤ書」の失われた初稿でしょうか。エレ36:32で再度の執筆を指示されたものは、今日われらが読む「エレミヤ書」のオリジナル、もしくは失われた初稿を基にした改訂稿、といえるでしょうか。
 版本の遍歴や原稿のヴァージョン違いにまつわる話が好きなさんさんかは、特にこのあたりに(やや過剰に)反応してしまうのであります。学術的にどうか、聖書学的にどうか、なんてことは知りませんが、この記述に拠っていろいろ妄想していると、様々な物語が生まれてきます。



 書き忘れていましたが、数日前、やっと村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社)を読み終えました。いまは次の長編小説、『国境の南、太陽の西』(同)を読んでいます。
 忌憚なくいって、わたくしはこれを好みません。これまでの村上長編・連続読書プロジェクトにて読み得たなかで、時間の徒労、という言葉を斯くも強烈に味わった作品はありませんでした。いちばん嫌悪する一冊。それでも足を停めることなく最後まで読んだのは、覚悟あってのことです。全部読む、そういう覚悟。でなければこんな水増し一辺倒の小説、最後まで読みませんよ。くだらなすぎる。
 これを傑作と呼ぶ人が多く存在するのは知っている。四部作の掉尾を飾る〆括りの作であり、新しい地平に向けての第一歩を示す重要な位置を占める作である、とも聞く。序にいうておけば、〈感想は人それぞれ〉なんてオタメゴカシを口にする気もない。
 しかしながらわたくしは、『ダンス・ダンス・ダンス』という小説の位置を読むのではない。〈村上春樹〉という稀有の傑作を読みたいと願って、新しい小説、次の本に手を伸ばすのです。パースペクティヴは開けても、『ダンス・ダンス・ダンス』という小説の占める位置は見えたとしても、それがいったいなにになるというのか。◆

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第1148日目 〈エレミヤ書第35章:〈レカブ人の忠誠〉withR.チャンドラー著/村上春樹訳『大いなる眠り』が刊行されました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第35章です。

 エレ35:1-19〈レカブ人の忠誠〉
 当時、ユダはエジプトの支配を受けていた。時の王、ヨアハズが崩御したことを承けて、ファラオは、ユダの先王ヨシヤの子にして前王ヨアハズの兄弟エホヤキムをヨヤキムと改名させた。新しいユダの国王はそうした所以により、かの名前で即位した。その御代は十一年であった。ヨヤキムは主の目に悪と映ることをたびたび行った。
 その御代の或る日、主の言葉がエレミヤに臨んだ。主の神殿の一室にレカブ人の一族を招き、葡萄酒を供してかれらをもてなせ。主はそういった。エレミヤはその通りにした。
 が、レカブ人たちは皆、葡萄酒を口にするのを拒んだ。なぜ、というエレミヤの問いに、かれらはこう答えた。曰く、――わたしたちが葡萄酒を飲まないのは、父祖レカブの子ヨナダブの戒めに拠るのです。わたしたちはヨナダブの戒めを固く守り、家を持たず、畑もぶどう園も持たず、ずっと天幕に住んできました。父祖の残した戒めに従って、それを破ることなく今日まで生きてきました。いまはバビロニアが攻めてきたので、都に避難してきているのです。
 そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、――
 エルサレムとユダの住人すべてに告げよ。人々よ、かれらレカブ人は先祖の遺した戒めを末の世の今日に至るまで、破ることも抗うことも、蔑ろにすることもなく従って生きてきた。翻ってお前たちはどうか。預言者によって再三に渡り告げられたわたしの言葉を無視してきたな。ゆえにわたしは、ユダとエルサレムの全住民に、あらゆる災いを送る。わたしの呼び掛けに応えなかったからである。
 続けてエレミヤに、レカブ人に対する主の言葉が臨んだ。あなたたちレカブ人の一族は父祖ヨナダブの命令に聞き従い、それを今日までちゃんと守ってきた。それがゆえに、レカブ人の子ヨナダブの一族は、いつまでも、絶えることなく、わたしの前に立つ。――主はレカブ人を祝福して、そういった。

 わたしの言葉に聞き従う者には恵みを与える、かれらがわたしの前から抜かれることはない。エルサレムとユダには規定通りの災厄が降りかかる。が、父祖の戒めを忠実に守ってきたレカブ人には祝福を与える、かれらは災厄を免れる。――主の言葉に従えば幸いが与えられ、かれらが主の前から抜かれることは決してない。明暗がくっきりと分かれた章といえましょう。
 レカブの子ヨナダブは王下10:15に登場します。主の命を承けて血の粛清を行ったイエフ、後の北王国イスラエル第10代王に請われて王都サマリアへ赴き、バアル神の徹底排除に力を貸したのが、ヨナダブでありました。イエフについては王下9:1-10:36を、また本ブログに於いては「第0413日目〈列王記下第9章:〈イエフの謀反〉1/2」と「第0414日目〈列王記下第10章:〈イエフの謀反〉2/2〉」をご閲読いただければ幸いです。



 R.チャンドラー著/村上春樹訳『大いなる眠り』が遂に刊行されましたね。店頭でぱらぱら目繰ってみたけれど、ちょっとやわらかい印象の訳文、というのが第一印象です。実際のところは買って読んでみないとわからないでしょうが……。
 ようやく刊行されたマーロウ物の第一作、これがチャンドラー初体験であったわたくしには、正直、読むのがちょっと怖い一冊であります。双葉十三郎のチャンドラーに馴染んだ者には、村上訳って少し骨が細いように感じるんですよね。わたくし一人の意見かも知れませんが、そう思うのであります。
 もうすぐ給料日なので、スタバで小説書いて聖書のノート執ったあとで本屋に寄り、三浦しをんの新刊と一緒に買って翌日からの三連休に備えるのもいいかもしれません。
 ところで。いつになったらフィッツジェラルドの後期短編傑作選は出るんだ?◆

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第1147日目 〈エレミヤ書第34章:〈ゼデキヤ王への警告〉&〈奴隷の解放〉with数日前のブログを修正しました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第34章です。〈エレミヤ書第34章:〈ゼデキヤ王への警告〉&〈奴隷の解放〉with12月7日(金)17時18分、大きな地震がありました。〉

 エレ34:1-7〈ゼデキヤ王への警告〉
 バビロニア軍が属国の軍隊と連合して、エルサレムとその周辺の町々を攻撃していた頃、主の言葉がエレミヤに臨んだ。それはユダ王ゼデキヤへの戒めの言葉、救いの言葉であった。
 主はいう、――ゼデキヤよ、お前は捕らわれてバビロン王ネブカドネツァルの前に引き出される。尋問されて、かれの国へ引いてゆかれる。しかしお前は安らかに死ねる。剣にかかって死ぬのではない。平和の裡に死ぬことが出来る。崩御の際は民は嘆き、歴代の王のとき同様、手厚く送られるであろう。
 預言者が王にこれを告げたとき、バビロニアの連合軍は王都エルサレムと、まだ砦が健在でそれに守られているユダの町々即ちラキシュとアゼカを攻撃していた。

 エレ34:8-22〈奴隷の解放〉
 主戦派に屈して敢然とバビロニアへ戦いを挑んだゼデキヤ王だが、かつてはかれもエレミヤの告げる主の言葉に耳を傾ける者であり、国政と外交の指針としていた時代があった。
 そんな時分のこと。王はエルサレムの民と契約を結び、奴隷の解放を宣言した。この契約にかかわって実行した貴族と民だったが、その後態度を一転させ、自由の身になっていた男女を捜して捉え、再び奴隷とした。
 そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、――
 昔、わたしはエジプトからお前たちの先祖を脱出させた際、数々の定め事をシナイにて、専らモーセに授け、そのなかで奴隷についても仔細を説き、契約した(「あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。」出21:2)。お前たちの先祖はそれを守らなかった。ゼデキヤよ、一旦はそれを守り、実行したお前たちなのに、自由にした者たちを再び奴隷とするとは何事か。
 「それゆえ、主はこう言われる。お前たちが同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする。」(エレ34:17)わたしは王と貴族たちをバビロン王に引き渡す。かれの軍隊はこの都を攻撃し、占領し、火を放つ。わたしはユダの町々を住む者の影なき廃墟とする。
 ――イスラエルの主なる神はエレミヤに、上のように語った。

 勿論、ゼデキヤ王が斯様な最期を遂げることはありませんでした。王下25:6-7,エレ52:11に見る通り、かれは敗走の途次バビロニアの兵に捕らわれて息子を目の前で殺され、自身は両眼を潰されて青銅の足枷をはめられバビロンに連行、死ぬまで牢獄にありました。
 果たしてなにゆえに主は斯くも残酷な預言をゼデキヤに与えたのか。もしかすると、これはバビロニアに降伏させるための方便であったかもしれません。
 ラキシュはエルサレム西南西約50キロのあたりにあってペリシテとの国境の少し内側にある町、アゼカはエルサレム南西約30キロの位置にある町で、いずれもユダの要衝でありました。ラキシュ文書というものがあって、これはエレ34当時、ラキシュの前線基地からラキシュの指揮官に当てて戦況を報告した手紙で、21通が1935年に発見された由。



 レイアウト崩れしていた以下の3日分を修正、改めて公開しました。
 ・第1128日目 〈アバド=BPO;ムソルグスキー管弦楽曲集を聴きました。1/2〉
 ・第1136日目 〈如何にしてわたくしはSKE48を愛するに至ったか?〉
 ・第1142日目 〈エレミヤ書第30章:〈回復の約束〉&〈ヤコブの災いと救い〉with AKBよりはSKE48の方が――〉
 少しは読みやすくなったと思いますので、閲読いただければ幸甚です。◆

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第1145日目 〈エレミヤ書第32章2/2:〈エレミヤの祈り〉with12月7日(金)17時18分、大きな地震がありました。〉〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第32章2/2です。

 エレ32:16-44〈エレミヤの祈り〉
 土地の購入証書をバルクに託したエレミヤは、主へ祈りをささげた。その祈りとはこういうものである、――
 主よ、あなたは天地を創造し、天の下、地の上にあなたの力が及ばないことは一つとしてないようにされた。千代に八千代に渡ってわれら人間に恵みを与え、父祖の犯した罪は必ず子孫が報いるようにされた。あなたの御業は力強く、あなたの謀は偉大だ。その昔、あなたは大いなる腕を伸ばしてわれらの父祖をエジプトから逃がし、神の子モーセを、次いでヨシュアを頭に立てて、“乳と蜜の流れる地”へ――〈カナン〉と呼ばれたこの嗣業の地へ導いてくれました。
 にもかかわらず、人々はあなたの声に、律法に背いた。カナン入植後はイスラエルという国を興し、ソロモン没後は北と南に分裂して後も悪事に耽り、あなたの声に聞き従うことも、あなたの律法を守って進むこともしなかった。ゆえにあなたはわれらに一つの災いを降された。北のカルデア人を用いてユダを打ち、滅亡はいまや目前となったのです。嗚呼、あなたの言葉が実現し、完成しようとしている。敵の手に都は落ちんとし、民には倒れるか捕まるかのいずれしか選択肢はない。
 そのようにして国が滅びようとしているこの時期(とき)に、主よ、あなたは希望をくれた。銀を量って畑を買い、証人を立てよ、と仰った。おお、それは再生の希望です。

 「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、一つでもあるだろうか。」(エレ32:27)
 主はいった、わたしはカルデア人の王の手にエルサレムを渡す、と。かれらはこの都を攻撃し、侵攻し、占領し、かつてわたしに背いてバアルに香を焚いた家屋を焼き払うだろう。
 「この都は、建てられた日から今日に至るまで、わたしを怒らせ憤らせてきたので、これをわたしの前から取り除く。イスラエルの人々、ユダの人々が犯して、わたしを怒らせたそのすべての悪事のゆえである。王、高官、祭司、預言者、ユダの人々、エルサレムの住民、皆同罪である。彼らはわたしに背を向け、顔を向けようとしなかった。わたしは繰り返し教え諭したが、聞こうとせず、戒めを受け入れようとはしなかった。彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し、ベン・ヒノムの谷にバアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクに捧げた。しかし、わたしはこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった。」(エレ32:31-45)
 続けて主は、エルサレムについて語った。曰く、――
 「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に返らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いをこめて確かに彼らをこの地に植える。まことに主はこう言われる。
 かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束した通り、あらゆる恵みを与える。この国で、人々はまた畑を買うようになる。それは今、カルデア人の手に渡って人も獣も住まない荒れ地になる、とお前たちが言っているこの国においてである。人々は銀を支払い、証書を作成して封印をし、証人を立てて、ベニヤミン族の所領やエルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々で畑を買うようになる。わたしが彼らの繁栄を回復するからである、と主は言われる。」(エレ32:37-44)

 たぶん、「エレミヤ書」のなかでも最も知られた章であると思います。わたくしはこの章を読んでいて、ノートを執っていて、そうしてPCに打ちこんでいる最中も、涙腺がゆるんで仕方なかった。翻訳されているとはいえ、ここに籠められた意思、希望、感謝が損なわれているわけではない。
 多くは付言せず、無心に、そのままに読んでほしい、と切に願わずにいられない一章。



 12月7日(金)17時18分、大きな地震がありました。震源は三陸沖、深さ10km、M7.3。揺れが静かに、長く続いただけに、「もしや……」と昨年の春に画面越しに観た映像が思い出されました。
 一斉に報道の始まった放送局も津波からの避難を呼び掛けました。その声の切羽詰まった感じ、緊張と震えを孕みながらも辛うじて押し留める声、「東日本大震災を思い出してください、避難してください、一刻も早く津波の届かない場所へ逃げてください」とあらん限りの声を絞り出すキャスター。映し出される、夜の東北沿岸の港、港、そうして、町。
 あれらがかつて途轍もなく強大な力で無惨に押し流されていった。さんさんかが住む町の上を、ヘリコプターや軍用機が飛ぶ音が聞こえて、東京湾の方向へ消えてゆきました。昨年のような事態にはなんとかならずに済みましたが、でも、油断はしてはならない。
 われらは世界に名だたる地震大国、世界最大級の火山を要する国に住んでいる。と同時に、未曾有の災害にあっても立ち直る/立ち直った国に住んでいる。それを忘れてはなりません。
 メメント・モリ、汝死を忘れるなかれ。しかし、日本人はそれに立ち向かう。◆




 ブログ原稿の投稿ミスにより、更新の順番を間違えました。申し訳ありませんでした。
 しかし、今日のような日に〈祈り〉の章とは……偶然にしても、なんだか後ろめたい。□

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第1146日目 〈エレミヤ書第33章:〈エルサレムの復興〉with中田永一『吉祥寺の朝比奈くん』を読みました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第33章です。

 エレ33:1-26〈エルサレムの復興〉
 「もし、わたしが昼と夜と結んだ契約が存在せず、また、わたしが天と地の定めを確立しなかったのなら、わたしはヤコブとその僕ダビデの子孫を退け、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶことをやめるであろう。しかしわたしは、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ。」(エレ33:25-26)

 獄中のエレミヤに再び主の言葉が臨む。敵に包囲されたエルサレムの未来、ユダの未来について。主の曰く、――
 カルデア人はこの都に攻め入り、建物に火を放ち、神殿を破壊し、兵と住民を薙ぎ倒し、地面にかれらの死体を横たわらせる。これはユダが自ら招いた災い。かれらの神、主によりもたらされた災厄である。が、エルサレムはこれで終わるわけではない。
 わたしはこの都に癒しと治癒と回復を約束する、イスラエルとユダが再びわたしの道を正しく歩めるように。かれらが犯したあらゆる悪、あらゆる罪を、わたしは赦す。諸国民はあまねくこれを知り、恐れて戦くだろう。
 廃墟と化して荒涼たる景色になったエルサレム。戦禍を免れて生き永らえた人々は、都の無惨な姿を目の当たりにして嘆く。住民も動物も、いない。命あるものの影が、どこにもない。壊れ、崩れ、荒れ果てた都の跡が、かれらの前に広がっている。
 しかし、これがエルサレムの終焉ではない。やがてわたしの定める〈時〉が来たら、都は再興され、街の通りは人々の声でさんざめき、神殿からは感謝の歌と喜びの楽の音が響くようになる。町々の郊外の牧場では、再び羊飼いが羊の群れを放牧し、憩わせるようになる。
 わたしはわが僕ダビデのために正義の若枝を生やす。わたしがイスラエルとユダの家に恵みの約束を果たす日に。ダビデは正義と公平を以てこの国を繁栄させる。その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。ダビデのためイスラエルの家の王位に就く者、決められた献げ物をささげる者が絶えることはない。わたしがダビデと結んだ契約を破棄し、レビ人である祭司と交わした契約が破棄されることはない。
 民がわたしを軽んじる声が聞こえる。お前には聞こえないか? それでもわたしはわが民を見捨てることなく、いつでも、いつまでも、かれらを憐れむ。

 「エレミヤ書」の核となる章の一つであります。〈ダビデの家〉という永遠の王家の長の座に在って、主へ反目した者は多かった。が、主はそれを叱責するに終わらない。都の復興に伴い、〈ダビデの家〉のために若枝を生やして茂らせる、と約束する。ここでは、一人の王の誕生が予告されています。メシア預言の一つとされる所以であります。



 TSUTAYAでDVDを借りるのを諦めた代わり、その映画の原作である中田永一『吉祥寺の朝比奈くん』(祥伝社)を読みました。
 表題作がいちばん印象深い。読み終えて巻を閉じたあと、じわり、と涙が滲みました。切なくて、苦しい気持ちにさせられる短編だけれど、透明感のある文章と淡々とした描写が相俟って、心の底にすとん、と落ちる快さがあります。ちょっとした秘密が裏にあって、すべてが一つの計画のために企てられた、或る意味で後味の苦いものであるにもかかわらず、それでも清らかな空気を保ったまま一編が終わるところに、作者の腕の良さを感じました。
 わたくしはこの人の本を読んだのは初めてなのですが、明日明後日にでも仕事の帰りに本屋さんへ立ち寄って、デヴュー作『百瀬、こっちを向いて』を探してこようかな、と考えています。◆

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第1144日目 〈エレミヤ書第32章1/2:〈エレミヤの拘留〉&〈アナトトの畑を買う〉withゲルギエフ=サンクトペテルブルク・キーロフ管弦楽団/プロコフィエフ;バレエ音楽《ロミオとジュリエット》を聴いています。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第32章1/2です。

 エレ32:1-5〈エレミヤの拘留〉
 ユダの王ゼデキヤの御代第十年、バビロンの王ネブカドネツァルの治世第十八年のことである。当時、王都エルサレムはバビロニア軍に包囲されて、敗北の時を目前にしていた。その頃、預言者エレミヤは王宮の獄舎に拘留されていた。主の言葉を告げるかれは危険視されていたのだ。
 エレミヤが拘留される原因となった主なる神の言葉はこうである。即ち、――
 王都エルサレムはバビロン王の軍隊によって陥落し、ゼデキヤ王はカルデア人の手から逃れることは出来ない。王は敵の手に渡され、尋問され、連行される。主がゼデキヤを顧みない限り、かれはカルデア人の国で一生を捕虜として過ごすだろう。
 「お前たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない。」(エレ32:5)

 エレ32:6-15〈アナトトの畑を買う〉
 獄舎のエレミヤに主の言葉が臨んだ。曰く、やがてあなたの許を近親者が訪れて、こういうだろう、故郷アナトトにある畑を買ってほしい、あなたにはその権利があるのだから、と。
 エレミヤの伯父シャルムの子ハナムエルが獄舎に来た。そうしてエレミヤに、一族の故郷アナトトにある畑を買ってほしい、あなたには近親者としてその土地を買い取る権利があるのですから、といった。勿論、エレミヤは既にそれを主から臨んだ言葉で知っていた。だから、畑を購入することにした。
 エレミヤはアナトトにある畑を銀十七シェケルで購入した。慣習通りに証書を作成して自分と証人たちが署名後にそれを封印、また写しを作ってそちらは封印しなかった。そうしてその二通を、マナセの孫にしてネリヤの子バルクへ手渡した。それはいとこのハナムエルと獄舎にいたユダの人々全員が見ている前で行われた。続けてエレミヤはバルクにこういった、――
 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう畑を再び買い取るときが来る』と言われるからだ。」(エレ32:14-15)

 滅びて連れ去られても、かならずわたしはあなたたちをこの国へ、この土地へ連れ戻す。再三に渡って主はそう伝えてきました。アナトトの畑が購入され証書が保存される、というのは、その具体的なアクションというてよいでしょう。ここに一縷の希望を見るのは、わたくしだけではないはずです。ここにあるのは、帰還と再生の約束です。
 ユダは滅亡し、エルサレムは陥落した。辛うじて生き残った民は捕囚となって連行された。「こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。」(代下36:21)



 ゲルギエフ=サンクトペテルブルク・キーロフ管弦楽団によるプロコフィエフのバレエ音楽《ロミオとジュリエット》(PHILIPS)を聴いています。懐かしいな、二年ぶりぐらいか。いまでも吉田都たちが踊る英国ロイヤルバレエ団の映像が、さすがに切れがちだけれど記憶の片隅で綺麗に残っている。あの映画を観るにあたって予習用に買いこんで、何度ゲルギエフたちの演奏に耳を傾けたんだっけかな。
 かれらの演奏がどの程度のものなのか、同曲異演のなかでどれだけの評価を得ているものなのか、販売とレヴューの第一線から疾うに退いたわたくしにはわかりませんが、余計な装飾を加えず、過剰な演出も悪辣な作為もなしに自然体で奏でられた、とても好ましい演奏と感じ、これはずっと持っていよう、と心に決め、今日に至るまでCDの大処分から逃れさせてきた代物であります。
 これをきっかけにして本格的にバレエ音楽の面白さに開眼し、また、ゲルギエフをもうちょっときちんと聴いてみようか、という気にさせられ、留めにプロコフィエフの作品を交響曲とオペラ以外も様々聴いてみようかな、と思うに至らせた一枚としても、本CDはわたくしにとって大切な音盤であります。いつの日か、別名義で持っている音盤専門のブログにこれを取り挙げられればいいな、と考えて(企んで?)います。◆

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第1143日目 〈エレミヤ書第31章:〈新しい契約〉with思い出に残るコーヒーとは、……。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第31章です。

 エレ31:1-40〈新しい契約〉
 遠い北の地へ連行されてゆくイスラエル。しかしかれらはやがて、いずれ時が満ち来たりなば安住の地、即ち故郷の大地へ帰還を果たす。そのとき、主はイスラエルのすべての部族の神となり、イスラエルの民は主なる神の民となる、と主はいった。そうしてわたしは久遠の愛を、永劫の慈しみを、わが民に注ぐようになる、と。そのとき人々は歓びの声をあげ、喜びの楽を奏でる。躍る。主に背き続けて滅びの道を歩んだエフライムからも主を讃える声があがり、シオンへ上ろうと呼びかける声があがる。
 「主はこう言われる。/ラマで声が聞こえる。/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。/ラケルが息子たちのゆえに泣いている。/彼女は慰めを拒む。/息子たちはもういないのだから。/主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰ってくる。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国に帰ってくる。」(エレ31:15-19)
 たとえわが目に悪と映る行いを繰り返し、道を踏み外すことがあったと雖も、エフライムはわたしの子である。そう主はいった。エフライムは欠け替えのないわが子であり、喜びを与えてくれる子である、とも。「彼を避けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。/彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられない」(エレ31:20)と、主はエフライムについて語った。
 森羅万象の法則が乱れて途絶えることがあろうとも、永遠にイスラエルは主なる神の民である。されど、かれらが己の分を弁えず、己が領域を踏み越えようとするならば、わたしはかれらを拒むこともあり得よう。
 遠い北の地より帰還したイスラエルはやがてこの荒れ果てた都を再建し、拡張し、発展させるだろう(ex;エズラ記、ネヘミヤ記)。「(再建された王都の)全域は主のもとして聖別され、もはやとこしえに、抜かれることも破壊されることもない。」(エレ31:40)

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
 しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルと結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしに律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さいものも大きいものもわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレ31:31-34)
 ――これが、預言者エレミヤに臨んだ主の、新しい契約の言葉である。

 感銘を新たにさせられる章です。
 たとえ自分に背いた者であっても、悔い改めて再び自分を仰ぎ、主の道に立ち帰るならば、自分はかつてかれらが犯した罪に心を留めず、自分の民として受け入れて、愛し、慈しもう。
 ――大きな怒りの反動、といえばそれまでだが、わたくしもイスラエルの神なる主の如きでありたい。そうして、みんなが自分以外の誰彼に対して、すべからく寛容であってほしい、と、願うのであります。偽善と後ろ指を指されそうですが、色々いじめられたり理不尽なハラスメントに遭い、体に爆弾めいたものを抱え、いつまでも孤独に身を託つことを余儀なくされた者としては、本心からそう願うのであります。
 実を申せばブログの中断を余儀なくしたのは、本章のノートがどうしても書けなかったからです。当時のわたくしには、斯くも希望とあたたかさに裏打ちされた主の言葉を読むのが、とても辛かった。一行読んでは溜め息を吐き、一行読んでは絶望に打ちひしがれる、といった具合に。――いまも状況は変わりません。諦念の境地に達してしまった感もあります。
 ブログ再開か否かを逡巡した末に重い腰をあげて、ノートを再開、どうにかこうにか書きあげることのできた本章。筆を執っている間、幾度となく〈孤独に、されど自由に〉なるブラームスの言葉が胸に浮かんで消えず、想う人を諦めなくてはならない悔しさに、かのハンス・ザックスの胸のうちを想像し……。諦念を隠した微笑み!



 いちばんお気に入りの喫茶店、いちばん美味いコーヒーを飲ませてくれた喫茶店、というのは、もしかしたら、既に閉店してこの世になくなった喫茶店かも知れません。南蛮屋cafe(南蛮茶房)の入っていた建物の前を通るたび、そんな風に思います。
 ミロンガも但馬屋も、勿論スターバックスも良いけれど、わたくしにとってのヴェリー・ベスト・オブ・コーヒーは南蛮屋の各種コーヒー。ああ、もう一度、かの人の淹れてくれたコーヒーが飲みたいよ。単なるノスタルジーでしかないのは重々承知。◆

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第1142日目 〈エレミヤ書第30章:〈回復の約束〉&〈ヤコブの災いと救い〉with AKBよりはSKE48の方が――〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第30章です。

 エレ30:1-3〈回復の約束〉
 預言者エレミヤに、主の約束の言葉が臨んだ。曰く、巻物を取ってわが言葉を記せ、と。また、イスラエル/ユダの繁栄は将来回復し、ここから遠くへ去った民は帰還する、とも。

 エレ30:4-24〈ヤコブの災いと救い〉
 主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、――
 荒れて崩れつつある国の彼方此方より、民の震え戦(おのの)く声が聞こえる。最早この地から平和は去り、代わって恐怖が訪れた。恐怖の帳の下にイスラエルとユダは在って、恐れと哀しみの声をあげる。男は皆、腰に手を当てて膝から崩れ落ち、地面に横たわり、顔色を失い、そうして苦しんでいる。
 それは災いの日、苦しみの日。他に例を見ぬ怒りの日。
 さりながらイスラエル/ユダ、即ちヤコブをわたしは救う、と主。
 「(その日、わたしは)お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕えるようになる。」(エレ30:8-9)
 わが僕よ、苦難の事態に直面したからとて、震え、戦き、恐れて嘆くことはない。やがてお前たちは捕らわれて遠く敵の地バビロンへ連行されてゆく。だが、わたしはお前たちを、お前の子孫たちを、かの捕囚の地より救い出してこの父祖の地へ帰還させる。お前たちは、お前の子孫たちは、再びこの地に於いて生活を営むようになる。安らかに、何人に脅かされることもなく。わたしはバビロンを滅ぼし、イスラエルを滅ぼさない。「わたしはお前を正しく懲らしめる。/罰せずにおくことは決してない。」(エレ30:11)
 イスラエルよ、ユダよ、お前たちは自身に受けた傷の痛みを訴え、苦しみに叫ぶ。お前たちの傷は癒えることがない。お前を顧みるかつての盟友もいない。わたしへの信仰をお前たちが蔑ろにし、或いは忘れたが故に。お前たちが自身に受けた傷は代償である。叫ぶな、喚くな、泣くな。自業自得だ。
 イスラエルよ、ユダよ、わたしに立ち帰れ。お前たちがどれだけ周囲から詰られ、迫害されて白眼視され、中傷されようとも、わたしがお前たちの傷を治し、癒そう。
 「わたしがお前と共にいて救うと/主は言われる。」(エレ30:11)
 続けて慰めと希望の言葉が、預言者エレミヤに臨んだ。曰く、――
 わたしはヤコブの繁栄を約束する。王都は廃墟の丘の上に再び興され、神殿は新たに築かれる。そこからは感謝の歌と楽器の合奏が聞こえる。わたしはヤコブを増やし、かれらに栄光を与える。「ヤコブの子らは、昔のようになり/その集いは、わたしの前に固く立てられる。/彼らを苦しめるものにわたしは報いる。」(エレ30:20)
 やがて、一人の指導者がヤコブのなかから現れて、立ち、それを治める。その者は命を賭けて私に近附いてくる。かれ程の覚悟を持つ者は、かれ以外にない。斯くしてあなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。

 「見よ、主の怒りの嵐が吹く。/嵐は荒れ狂い/神に逆らう者の頭上に吹き荒れる。/主の激しい怒りは/思い定められたことを成し遂げるまではやまない。/終わりの日に、あなたたちはこのことを悟る。」(エレ30:23-24) 

 まず。30:2――「わたしがあなたに語った言葉を一つ残らず巻物に書き記しなさい」――ですが、これは後日に読む第36章と併せて取りあげたいので、こちらはネグレクト。
 これまで預言者へ臨んだ主の言葉に従って生きて、主の目に悪と映る行為をきっぱり断つのだ。悪事に耽ってなお見捨てることなく、イスラエルの神なる主(その名は万軍の主)の信仰に立ち帰れ。主なる神の言葉に従って誤った未来を選択するな。
 ――昔からそう警告されてきたにもかかわらず、預言者の言葉に耳を傾け、主の言葉に従わなかったイスラエルが、他の神を信仰の対象とする異民族によって滅ぼされるのは自然の摂理だ、とでもいわんばかりの厳しい、容赦なき言葉が見られるのが本章であります。
 が、これこそ逆説的な意味での〈立ち帰る〉手段である、とわたくしは思います。斯様に厳しく叱責された民が、主の言葉/エレミヤの予言が現実となるのを目の当たりにすることで今更ながら自分たちに与えられて蔑ろにしてきた言葉の正しさを知る。捕囚として連行されたかの地、即ちバビロンでヤコブの神への信仰を取り戻し、揺るぎなき信心を己の内に育み、自分たちを強く律して正す。そうすることで本当の意味で、自分たちの神を敬い、崇め、讃え、信じる心が作られる――バビロン捕囚はイスラエル/ユダの歴史に於いて悲劇をもたらしましたが、それは人々が神を愛し畏れる心を揺らぎなきものとするための、最も有効な手段であったのではあるまいか。そんな風に考える者であります。
 それだけに、30:18-22が捕囚解放/エルサレム帰還から福音書の時代の訪れを俯瞰しているところに、あたたかな希望を感じます。とても心強く、清々しい文言。メシア預言に連なる部分でもあります。
 30:23-24について申せば、それがエルサレム陥落を指すのか、或いは黙示録に通じる終末を指すのか、何度読んでも確かなところを摑めません。どちらにも受け取れますよね。キリスト者たちはどう読んでいるのかな?
 個人的な印象を述べさせていただければ、〈ヤコブの災いと救い〉を読んでノートを執っているとき、なぜかAKB48の「風は強く吹いている」が頭のなかでヘヴィー・ローテーション。困ったものです(〈DANCE! DANCE! DANCE! Version〉以外のPVってあるの?)。



 とはいえ――AKBよりはSKE48の方が好きなんだ。遥かに、断トツで、他を圧して、問答無用で、好きなんだ。先刻ご承知ですよね?
 観ても聴いても、いつだって♪気分・爽快・だよ~♪と感じるのは、彼女たちのノリが<微妙にラテン、しっとり和風>ゆえか? そういえば「1! 2! 3! 4! ヨロシク!」からしてそんな雰囲気だったような。「オキドキ」に至っては最早言葉を費やすまい。
 それにしても、「1! 2! 3! 4! ヨロシク!」で披露されるあの名台詞、「恋をするとね、朝、早起きになるんだって。理由? 知らな~い」には参っちゃいました。ま、茉夏……。◆

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第1141日目 〈「エレミヤ書」再開前夜with聴力がまったく失われるその日まで、……〉 [エレミヤ書]

 明日から「エレミヤ書」を再開します。
 それに先立って、過去に書いたノートを読み直していました。この預言書がいったいどういう性格の書物であったか、自分はこれをどう捉えていたのか、など、確認したかったからです。なんとか<勘>は取り戻して、新たな気持ちでノートを、ブログを、再開できそうな予感がしています。
 自分に臨んだ主の言葉/預言へ耳を傾けず、なお主の目に悪と映る行いを続けてこれを自己正当化する民に苦しめられてきたエレミヤ。再開後は具体的な形でかれが民から迫害に遭う様が描かれ、そうした絶望と失望のなかにあっても主の言葉を微塵も疑わず、主から啓示されたユダ国とエルサレムの未来を民に伝えます。そうしてバビロンに屈して民族絶滅を免れよ、失意のうちに腐ったりせず、侮辱と哀しみに耐えていつの日か訪れる救済のときを待て、と訴えます。
 いよいよクライマックス、という感の濃い「エレミヤ書」の後半を、明日から読んでゆきます。もしお手空きであったりするならば、「第1087日目 〈「エレミヤ書」前夜〉」など読み直していただけるとうれしいです。
 「エレミヤ書」は今年中に終わる予定でおります。クリスマス頃かな……さんさんかにはなんの予定も縁もないイヴェントですが。もうそんな季節かぁ……、ふん。

 聴力がまったく失われるその日まで、愛した音楽をたくさん聴き倒そう、と思います。それを、何人たりとも侵せぬ神聖なる思い出にして、いつまで続くかわからない残りの人生を独りぼっちで過ごそう、と思います。
 いま聴いているのは、アバド=BPOのチャイコフスキー交響曲第5番(SONY)。締まった感じが良いですね。ストイックさとロマンティックさは共存し得るのですね。◆

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第1120日目 〈エレミヤ書第29章:〈エレミヤの手紙〉withあらかじめ想定された未来;休みの日はなにを読もうかな、……〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第29章です。

 エレ29:1-23〈エレミヤの手紙〉
 バビロンにいるヨヤキン王以下、ユダの捕囚のすべてに宛ててエレミヤが書いた手紙。それはユダからの使節に託された。そのエレミヤの手紙に曰く、主はこういった、と。続けて、━━
 あなたたちは捕囚の地バビロンに家を建てて新たな生活を営み、そこで配偶者を得て子供をもうけ、家庭を築きなさい。その町の平安を求め、祈りなさい。町の平安は即ちあなたたちの平安である。
 あなたたちはバビロンにいてわたしの名を騙る預言者にだまされてはならない。わたしがバビロンの地にも預言者を立てた、とあなたたちはいうが、わたしはかれらを召して遣わしたことはない。偽りの預言者たちを、わたしはネブカドネツァルに渡す。かれらは王の剣によって、人々の前で撃たれる。かれらの名は以後、呪いの的となる。
 やがてバビロンの地に70年の歳月が流れる。そうしてわたしはあなたたちを顧みる。わたしはあなたたちに対して或る一つの計画━━災いの計画ではなく、恵みの計画を持っている。それは未来と希望を与える計画である。あなたたちがわたしを尋ねて求めるならば、わたしは聞く。あなたたちが心を尽くしてわたしを求めるならば、あなたたちはわたしに出会うだろう。
 「わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す」(エレ29:14)、と、主はいった。

 エレ29:24-32〈シェマヤに対する審判〉
 ネヘラミ人の預言者シェマヤ。かれは偽りの預言者であった。かれは、捕囚を是とする手紙をバビロンへ書き送ったエレミヤを取り締まるべし、という手紙をエルサレムに住むすべての民と時の祭司ツェフェンヤに送った。ツェフェンヤはエレミヤを呼び、シェマヤの手紙を見せた。
 そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、わたしの名を騙って偽りの預言をしたシェマヤとその子孫たちをわたしは罰する。かれの子孫は誰一人として、この民のなかに住むことも、主の恵みの業に与ることもない。シェマヤがわたしの名を騙って偽りの預言をし、わたしに逆らったからである。

 昨日のブログと構造の似た章と感じました。エレミヤを糾弾する偽りの預言者が登場し、エレミヤ或いは主によってかれに裁きが降される、という構造は、エレミヤの預言を正当化する一方で、主により選ばれた預言者のステータスが如何ばかりであったかを証明するものでもあるように思います。



 明日(今日ですか)行けば2連休。特にすることもないので(……)現在放送中の和久井映見さん主演(※)ドラマ『ビターシュガー』の原作(大島真寿美 小学館文庫)でも読もうかな、と考えている。
 が、けっきょくいつも通りキングの短編「十時の人々」を読んで過ごすんだろうな。これを読み終えるのは週末になるかも。読み甲斐のある短編なのだ。まあ、ふだんから読んでいるものを消化する、というのは、安全な策でもある。わかっているさ、そんなこと。あらかじめ想定された未来だ。
 あらかじめ想定された未来といえば、あのすばらくて誰よりも大切に想う女性(ひと)が、今月なかばにあるお食事会への参加が実現してくれますように。まずはそこから。そうして新たなステージへ━━そう希望する。◆

 ※「主演」というわけでもないのだが、さんさんか的には主演者はこの女性以外のどこにいるのか、とふしぎでならぬのだ。そういえば、正真正銘主演作であったドラマ『四十九日のレシピ』の原作も先日、文庫化されましたね。□

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第1119日目 〈エレミヤ書第28章:〈ハナンヤとの対決〉with好きな相手が考えていることがわかれば、……&わたくしは、ボスの「ワーキング・オン・ア・ドリーム」を歌う。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第28章です。

 エレ28:1-17〈ハナンヤとの対決〉
 前章の〈軛の預言〉がされた同じ年、つまり、ゼデキヤ王第4年の5月のことである。ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、主の神殿にてユダの民すべてとエレミヤに向かって、こういった。曰く、━━
 わたしハナンヤはバビロン王の軛を打ち砕く。わたしハナンヤは、バビロンに奪われた神殿の祭具すべてを、今後2年のうちにこの場所へ持ち帰らせる。わたしハナンヤはヨヤキン王と、王といっしょに連れてゆかれたすべてのユダの民を、捕囚の地からこの場所へ帰らせる。わたしがバビロンの軛を打ち砕くからだ。
 エレミヤは、やれやれ、と首を横に振って(かどうかは知らないが)、ハナンヤにいった。どうか主が君の言葉を実現してくれるよう祈るんだな、と。そうして、ハナンヤとユダのすべての民にいった。曰く、「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる」(エレ28:9)と。
 それを聞いてハナンヤは、エレミヤの首にあった軛をはずして砕いた。そうして民に、わたしはこのようにしてバビロンの軛を打ち砕く、と叫んだ。エレミヤはその場を立ち去った。
 主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、
 行ってハナンヤにいえ。お前は木の軛を砕いたが、代わりに鉄の軛を作って諸国の首にはめた。これにより、諸国はバビロンの王ネブカドネツァルに仕え、その奴隷となる。
 エレミヤはハナンヤに主の言葉を伝え、さらに言い足した。曰く、お前は主により遣わされた預言者ではない、と。主はお前を地の面から追い払う、といった。主に逆らい、主を騙ったお前は今年中に死ぬ。エレミヤはそういった。果たしてその年の7月に、アズルの子ハナンヤは死んだ。

 ハナンヤは新改訳ではハナヌヤ。偽りの預言者がバビロンの支配を短命なものと考え、周囲のユダの民に吹聴していたことは、おそらく多々あったと思います。エレミヤの預言が周囲から拒まれて、あまつさえ本人までが疎んじられて忌み嫌われる者となっていた状況を考えれば、ハナンヤのような人物が現れたとしてもふしぎではないでしょう。
 が、斯くも堂々と登場し、エレミヤと対決(対立)するハナンヤはそうした意味で、エレミヤの預言━━ユダはバビロンに屈して70年を捕囚として過ごし、バビロンの崩壊に併せてふたたびユダの地に帰還する━━が正しかったことを立証する役割を与えられた存在として、稀有というべき人物であります。
 とはいえ、わたくしはこの章を読んでいてハナンヤの野暮ったさ、地団駄を踏む様、軽率な行動ゆえに事態を悪化させる薄ら馬鹿ぶりに、なんともいえぬ愛着を感じていることを、失言を承知で申しあげておきたく思うのであります。



 好きな相手が考えていることがわかれば、苦しむこともないのにね、という極めてプライヴェートでかつ普遍的な悩みから発展する今日のお話です。
 「終わりよければすべて良し」、とは日常的に使う言葉であり、シェイクスピアの戯曲のタイトルでもある諺だが、うーん、それって本当なのかなぁ、と考えさせられることがしばしばある。
 たとえば仕事が終わって退社する直前に「終わりよければすべて良し」といえる状況が生まれれば万事オール・ライトなのだろうけれど、その殻を突き破ってそれ以前に巣喰っていた負の感情が噴出したりすることってないのかな。
 送迎バスのいちばん後ろの席に坐って、すっかり闇に閉ざされた外の世界を見せる窓に映りこんだ己の顔を見ながら、ふと、そんなことを考えた。今日一日のあれこれを思い出しながら、心のなかで七転八倒し。うれしかったけれど、辛かったなあ。最後にちょっとだけ話せたことが気持ちを上向きにさせたものの、相手がわからないだけにどんな小さな事柄さえ、ふだんなら気にも留めないような事柄もすべて彼女に結び付けて、疑心暗鬼に陥ってしまう自分がいる。大嫌いだ、こんなわたくしは。
 でも、希望を捨て切れていないのがせめてもの救い。あの人が寄せてくれる愛情がどんなに小さくても、それだけがあればきっとなんとか生きていけるだろう。
 いまは過去の人物となり果せた感のあるチャーミー・I氏の如く、ポジティヴであり続けることができれば救いといえようけれど、残念ながらそんな離れ業のできる人間など錚々いるわけではない。だからこそ、いつ如何なるときでもポジティヴであり続けられるよう、われらは自らを律して下を向いたりしないようにするのだが、ふとした拍子にすべてを疑い、表情や言葉の裏を探ろうと足掻いてしまう。まったく人間とは小さな生き物だ━━それとも、わたくしだけがマイノリティというべき存在なのだろうか?
 好きな相手が考えていることがわかれば、苦しむこともないのにね、という極めてプライヴェートでかつ普遍的な悩みから発展した今日のお話でした。

 わたくしは、ボスの「ワーキング・オン・ア・ドリーム」を歌う。なぜ? いまは遠いと思える<夢>のために力を尽くし、それを実現させようと諦めていないからだ。◆

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