第1118日目 〈エレミヤ書第27章:〈軛の預言〉with雨のなか、缶ビールを飲みながら、……〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第27章です。

 エレ27:1-22〈軛の預言〉
 ゼデキヤ王の御代に立ってそれ程経っていない時分である。主の言葉が、エレミヤに臨んだ。かれはそれを、主の指定した相手にそれぞれ告げた。
 主の言葉。エルサレムに派遣されてきたエドム、モアブ、ティルス、アンモン人の王の使者たちに。曰く、━━
 帰って告げよ、汝らの主君に。わたしが創造した大地とそこに住む人間、動物を、わたしはわたしの目に正しいと映る者の手にゆだねる。それはバビロンの王ネブカドネツァルである。諸国民はかれと彼の子孫に仕えるが、バビロンに終焉のときが来れば、諸国はかれらを自分の奴隷とするだろう。バビロンに従わぬ国は剣、飢饉、疫病によって罰せられ、その後バビロンの手で滅ぼされる。あなた方は、バビロンに従うな、と奨める預言者、占い師、夢占い、卜者(ぼくしや)、魔法使いの言葉を信じてはならない。かれらの言葉を鵜呑みにすれば、あなた方はわたしに追い散らされて遠くの地に住むことになる。しかしバビロンの軛を負い、バビロンに従うならば、あなた方はいまの土地に残り、耕作をして住むことができるようになる。
 主の言葉。ユダの王ゼデキヤに。曰く、━━
 さあ、首を差し出してバビロンの軛を負い、バビロン王とその民に仕えよ。そうすれば命を失うことはない。どうしてあなたとあなたの民が、剣や飢饉、疫病によって滅びてよいわけがあろうか。エドムやモアブの王に、その使者たちを通して警告したように、バビロンに従うな、と奨める預言者たちの言葉を信じてはならない。わたしはかれらを預言者として召してはいない。かれらはわたしの名の下に預言するが、それらはすべて偽りだ。もしユダとあなたがこれらの預言者に従うならば、あなたたちを追い散らし、件の預言者たちを滅ぼす。
 主の言葉。祭司と、すべての民に。曰く、━━
 バビロン軍がエルサレムから撤収する際に運び去った、神殿の祭具の数々。これらがもうじきここに戻されてくる、という預言者を信じてはならない。かれらの預言は偽りの預言である。かれらの言葉に聞き従うことなく、バビロンの軛を負ってそれに従え。そうすれば生き永らえることができる。どうしてこの都が廃墟となってよいわけがあろうか。もしかれらが本物の預言者であるならば、いま都に残るすべての祭具がバビロンへ持ち去られぬよう、精々祈るがよい。
 主の言葉。エルサレムに残されたすべての祭具について。曰く、━━
 青銅の台、「海」、台、その他、この都に残されている祭具。これらはネブカドネツァル率いる帝国軍による(第一次)エルサレム占領と(同)バビロン捕囚がされた際、運び出されていかなかった物である。が、これらの祭具もやがてバビロンに運ばれて、然るべき時代になるまでそこに留め置かれる。が、わたしはこれらの祭具をふたたびこの場所━━エルサレムにあってわたしの名が置かれた神殿に持ち帰らせる。

 偽りの預言に従うな、バビロン(新バビロニア帝国)の捕囚となり、かの地で70年を過ごせ、そうして生き延びよ、という主のメッセージであります。<捕囚のすすめ>、とでも呼べばよいでしょうか。これまでも同じような表現で捕囚を是とするエレミヤの預言はありましたが、ここでは、もう少し掘り下げた形で述べられている点に目を引かれます。
 祭具について語られますが、エズ1:7-14にペルシアを出発する帰還団へ返還された、神殿から持ち出された祭具の記事があります。また、エズラ帰還時も、祭具の数々が携えられてエルサレムにもたらされた。エズ8:25,28-30,33-34に参考となる記事があります。特に記述はないのですが、第二神殿完成時にこれら祭具は然るべき所に安置されたことでありましょう。ところで……この時代、<契約の箱>即ち聖櫃はどこに……?
 「海」については王上7:23を、他の青銅で作られた祭具については王上7:41-46或いは代下4:1-7を繙いてみてください。



 散髪したら脳みそまで溶けて出ていったような気がしているさんさんかです。特にこれといった話題もないのですが、さすがに今日/今夜は缶ビールを1本で止めておきました。休肝日? 否、雨降りだったからだ。……ちぇっ!!
 ちなみに飲んだ缶ビールは雨のなか、傘を差して、未来をあれこれ妄想しながら、グビグビやっておりました。口ずさんでいたのはSMAPの「STAY」と土井美加の「傘の中」(♪寂しさまぎらせバラ色の夢を見ている、脇目もふらずにすれ違う独りぼっちの傘の中♪)。
 それにしても、あれが好き避けなのか嫌い避けなのかよくわからない。ビールを飲みながらつらつらあの人の言動を回顧する。思い返せば思い返す程、行動に一貫性がなさ過ぎるような気がしてならない……。嗚呼、翻弄されている自分がなんとも(以下、自粛)。◆

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第1117日目 〈エレミヤ書第26章:〈神殿におけるエレミヤの説教〉&〈預言者ウリヤの死〉with年賀状用小説のラフ・スケッチを描く。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第26章です。

 エレ26:1-19〈神殿におけるエレミヤの説教〉
 ヨヤキム王の御代になってそれ程経っていない時分である。主がエレミヤに、神殿の庭に立って王や高官、すべての民にわたしの言葉を、端折ることなく語れ、といった。かれらがそれを聞いて悔い改めれば、わたしは降そうと考えていた災いについて思い直そう。が、もし悔い改めることなく、正しい道に立ち帰ることがないならば、私はこの都をシロのようにして、すべての国々の呪いの的にする。
 神殿の庭に集まって聞いていた人々━━祭司と預言者たちとすべての民は、エレミヤが語り終えるや一斉につめ寄り、激しくなじった。お前はなぜ主の名によって預言し、王都の未来を偽るのか、と。そこへ高官たちが来て、裁きの座に着いた。祭司と預言者たちは、エレミヤが万死に値する、と陳述した。エルサレムに敵対する預言を行ったのだから、と。
 それでもなおエレミヤは、こういうて憚らなかった。曰く、━━
 「主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の言葉に聞き従わなければならない。主はこのように告げられた災いを思い知らされるかもしれない。わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」(エレ26:12-15)
 高官たちはそれを聞いて、エレミヤに罪なし、与えるべき罰もなし、と判断、かれをなじるすべての人々に宣言した。なんとなればかれは真実、主の名によって預言したのだから。かれらはかつてヒゼキヤ王の御代に生きた預言者ミカの訴えと、それに王と民がことごとく従ったので、主が災いを降すのを思い直したことを引き合いに出した。そうしてこういった、「我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている」(エレ26:19)と。
 斯くしてエレミヤは死をまぬがれた。シャファンの子アヒカムによって保護され、民の手に落ちて謀殺されぬよう目配りされたからだ。

 エレ26:20-24〈預言者ウリヤの死〉
 エレミヤと同じ時代、キルヤト・エアリムにウリヤという預言者がいた。かれはエレミヤとまったく同様な預言を、ユダとエルサレムに対して行った。ヨヤキム王はウリヤ捕縛に人を派遣した。ウリヤはいち早く危険を察してエジプトへ逃れた。が、そこにも追っ手が迫り、遂にかれは捕らえられた。ウリヤはヨヤキム王の前に引き出され、剣で撃たれた。遺体は共同墓地に捨てられた。
 同じ時代を生きた二人の預言者。ウリヤは命を落とし、エレミヤは生き延びた。これを天道というなら、果たして是か非か。

 ウリヤという預言者について聖書はここでのみ語り、如何なる人物であったのか、如何なる事績を残したのか、定かに記さない。が、エレミヤと同じ時代に生きて同じ内容の預言をし、しかしその運命はまさに対照的であった。自分はここを読んだとき、無常だな、と感じました。が、ウリヤがエレミヤ程の強い信念を持って預言したのでないならば、かれの神を信じる心の強さに問題があったのかもしれない。それらを踏まえて、斯く本文を作成しました。
 神殿の説教は既にエレ7で語られましたが、本章はそれを補完する章といえます。両方を読めば、もうちょっと立体的に、当時の状況がわかるでしょう。なお、エレミヤを庇護した高官たちがいうミカの名が冠せられる預言書が「ミカ書」であります。かれについては「ミカ書」で改めて触れる予定です。



 オープン時から行っているスターバックスでコーヒーを飲みながら、年賀状用小説のラフ・スケッチを描く。だんだん見えてきた。それと同時に、これを1,300字前後の文字数に落とさなくてはならない作業を思うて暗澹となる。なにを信じて生きてゆくべきか? とどのつまり、伝えたいことはここにある、か……。◆

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第1116日目 〈エレミヤ書第25章:〈神の僕ネブカドレツァル〉with年賀状用の小説&あの人のいない職場で考えた。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第25章です。

 エレ25:1-38〈神の僕ネブカドレツァル〉
 前606年、即ちヨヤキム王第4年、バビロニアではネブカドレツァル第1年のこと。ユダの民すべてに対する主の言葉がエレミヤに臨んだ。かれはそれを、ユダのすべての国民、エルサレムのすべての住民に語った。曰く、━━
 私はヨシヤ王第13年から今日に至るまでの23年間、自分に臨んだ主の言葉をあなた方へ語り聞かせてきた。私エレミヤだけではない、他の預言者たちもそうだった。われわれは、主の道に立ち帰って悪を捨てよ、主以外の神に依り頼みそれに従うな、といってきた。しかしあなた方は、主の言葉にも、われわれの言葉にも、耳を傾けず、従わなかった。あなた方は偶像を作ってこれをあがめ、それゆえにこそ主を怒らせた。主の災いがあなた方に降る。
 主はこう仰る。わたしはバビロニアの王ネブカドレツァルをわが僕として召し、北の諸民族を動員させて南進させ、ユダとこの王都を滅亡させる。そこはまったき廃墟となり、そこを通りかかった者たちを呆然とさせる。生き残ったユダの民はバビロニアの捕虜となり、かの地に連れてゆかれる。捕囚民となったユダはそこで70年を過ごす。そうしてその70年目にこそ、バニロニアの王とその民、カルデア人の地をその罪ゆえに罰する。そこは永久(とこしえ)の荒れ野となる。
 「わたしはこの地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。彼らもまた、多くの国々と強大な王たちに仕えるようになる。わたしは、彼らの行いとその手の業に応じて彼らに報いる。」(エレ25:13-14)
 主は怒りの酒の杯を用意し、私に渡した。主が私を遣わすすべての国々にそれを飲ませるように、と。私はその杯を取り、遣わされるすべての国々に飲ませた。即ち、エジプト、ウツの地、ペリシテ人の地━━アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドドの王とその民のすべてに。また、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの王とその地のすべての人々に。また、海の向こうの島々の王たちに。また、デダン、ブズ、テマ、もみあげの毛を切っているすべての人々に。また、荒れ野に住むアラビアのすべての王と混血の民の王、ジムリ、エラム、メディア、北方諸国のすべての王に。そうして最後にバビロンの王に。私は主の怒りの酒を飲ませる。
 主はこう仰る、「飲んで酔い、おう吐し、倒れて起きあがるな、わたしがお前たちの中に送る剣のゆえに。彼らがあなたの手から杯を受けず、飲むことを拒むなら、あなたは彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。お前たちは必ず飲むことになる。」(エレ25:27-28)
 主はこう仰った。主の激しい怒りの言葉を、ユダのすべての国民、エルサレムのすべての住民に告げよ、と(エレ25:30-38)。

 バビロン捕囚と70年後の捕囚解放を予告した章。「列王記」と「歴代誌」の当該箇所、「エズラ記」冒頭を併せて読んでいただきたいと願うこと、いつもと変わりはありません。
 引用したなかにある「この巻物」とはエレ36:2にある、エレミヤがバルクに後述した巻物をいうのでしょうか。となれば、この巻物が<原エレミヤ書>となりますよね。
 なお、一人称が混在するので、これまでと同様ですが、主については「わたし」、エレミヤについては「私」と区別しています。



 想う/思うこと、願うことがいっぱいあって、ドキドキしている。これまでたくさん踏みつけられてきたのだもの、せめて生涯あの人と添い遂げさせてください。
 そのために自分がしなくてはならないことは幾らでもある。まずはキャリア・パスをしてあの人に安心してもらえるようにすること。
 そのためにも━━がんばるためにも、へこたれず前に進んでゆくためにも、あの人が寄せてくれる情愛が欲しい。
 いつもの飲み場でだけでなく、あの人のいない職場でそんなことを考えた。
年賀状用の小説をそろそろ書かないと。いろいろ考えて、……“あの日”の出来事を素描する掌編にした。モティーフとなるのは「上を向いて歩こう」。でも、1,300字メドでまとまってくれるのかな?◆

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第1115日目 〈エレミヤ書第24章:〈良いいちじくと悪いいちじく〉withいっしょにいてうれしい人と、……〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第24章です。

 エレ24:1-10〈良いいちじくと悪いいちじく〉
 新バビロニア帝国による第一次エルサレム占領と、それに伴う第一次バビロン捕囚がされた後のこと、即ちユダ王国がその王位に最後の王ゼデキヤを戴いていた時分である。
 主の神殿の前に、いちじくの実が盛られた籠が二つ、置いてあった。一つの籠には初生りのようによく熟れた、非常に良いいちじくが。一つの籠には食べることもできないような、非常に良くないいちじくが。エレミヤはその前に立った。主の言葉が聞こえた。
 主の曰く、━━
 既に捕囚として連れて行かれた前王ヨヤキンを始め、ユダの高官たち、工匠や鍛冶職人、兵士たちを、わたしは一つの籠に盛られた良いいちじくのように見做して、恵みを与える。わたしはかれらに目を留め、恵みを与え、この地へ連れ戻そう。そうしてかれらに、わたしが主、神であることを知る心を与える。かれらはわたしの民になり、わたしはかれらの神になる。「彼らは真心をもってわたしのもとへ帰ってくる。」(エレ24:7)
 一方で、未だこのエルサレムへ残る者、即ちゼデキヤ王とその近臣、或いはエジプトに移り住んだ者らを、わたしは一つの籠に盛られた悪いいちじくのように見做して、かれらを、あらゆる国にとって恐怖と嫌悪の対象となるようにする。かれらはわたしが追いやったあらゆる国で、辱めと物笑いの種になり、嘲りと呪いの的となる。「わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。」(エレ24:10)

 本章に目を通した後で、並行箇所となる王下24:8-17〈ユダの王ヨヤキン〉(第0432日目)をもお読みいただけると幸いです。ここに捕囚として連れられていった人々の詳細が書かれています(第14-16節)。この第一次エルサレム占領/第一次バビロン捕囚は、ヨヤキン王第8年の出来事であり、われらにもう少しわかりやすくいうと、前598年のことでありました。
 イチジクは聖書の舞台に程近いアラビア南部が原産とされ、不老長寿の果物とされていたこともある果実。クワ科イチジク属の落葉高木或いは果実であり、わが国では「無花果」とも「映日果」とも書く。そういえば以前、知る人からなにかのお祝いで、東京は井の頭公園の近くにあるイチジク料理専門店(だったかな)でご馳走になったことがありました。味や雰囲気など、とうに記憶から抜け落ちていて、きょう本ブログの原稿を書いていて突然この店の存在を思い出したのですが、このお店はいまでも営業しているのでしょうか。それ以前に、この店がわたくしの妄想の産物ではないことを祈りたいです。



 きょう、なけなしの勇気を振り絞った。どうか来てくれますように。フリーランスでありますように。これをきっかけに交際が始まりますように。……いっしょにいてうれしい人と、鼓動がやむその瞬間(とき)までいっしょにいられますように。
 キング「かわいい子馬」は最初から読み直しです。◆

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第1114日目 〈エレミヤ書第23章:〈ユダの回復〉&〈預言者に対する言葉〉withS.キング短編集『いかしたバンドのいる街で』を読了しました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第23章です。

 エレ23:1-8〈ユダの回復〉
 主は、自分の民を牧する牧者について、こういった。曰く、━━
 わたしの羊の群れを散らして追い払い、顧みなかった、滅ぼすだけしか能のない牧者たちを、わたしは罰する。かれらに代わって、わたしの思いに添う牧者を新たに立てる。
 かつて散らされた諸国から、羊の群れが帰ってくる。かれらは子供を作り、育て、増やす。やがてかれらを牧する牧者をわたしは立てる。その牧者によって羊の群れは恐れることも怯えることも、迷い出ることもなく暮らす。
 「見よ、このような日が来る、と主は言われる。/わたしはダビデのために正しい牧者を起こす。/王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。/彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。/彼の名は、『主はわれらの救い』と呼ばれる。」(エレ23:5-6)
 むかし人々はいった、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と。が、いまは違う。人々はこういって誓うようになる。即ち、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」(エレ23:7-8)と。

 エレ23:9-40〈預言者に対する言葉〉
 わたしの言葉を伝えるべき預言者たちは堕落した。サマリアの預言者たちは他の神々によって預言し、エルサレムの預言者たちは姦淫と偽りを旨とする。かれらは主の口の言葉を語るのではなく、自分たちの心のなかの幻を、<託宣>と称して語る。かれらは主の会議に立って主の言葉を聞いたこともない。もしかれらが主の会議に立って主の口の言葉を聞いていたら、国をも民をも正しい方向へ導くことができていただろう。
 主の言葉を偽って人々を惑わせた預言者たちよ、わたしはこういう。曰く、━━
 「わたしはお前たちを全く退け、お前たちの父祖たちに与えたこの都と共に、お前たちをわたしの前から捨て去る。そしてお前たちに、けっして忘れえない永久の恥と永久の辱めを与える。」(エレ23:39-40)

 〈ユダの回復〉で語られるのは、メシア預言であります。字面だけ追って読み流せば、捕囚からの解放とエルサレムへの帰還となりましょうが、もうちょっとだけ慎重に読むと、明瞭なるメシア預言であることに気附く。
 ここで思い出すのは、イザ7:14で触れたインマヌエルの誕生を預言するイザヤの言葉。これを踏まえたものが、マタ1:23にありました。インマヌエルは「神はわれらと共にいる」という意味ですが、引用したなかで触れられる「主はわれらの救い」まではほんの一歩の距離です。ちなみに、マタ1:21ではイエスの命名後、「この子は自分の民を罪から救う」と、主の天使がマリアに告げています。
 とは申しても、単純に捕囚解放後、エルサレム帰還団のリーダーシップを担った、と解釈するなら、捕囚としてバビロニアに連れ去られたヨヤキム王の孫ゼルベバブ(エズ2:2)となりましょうけれどね。
 〈預言者に対する言葉〉は〈ユダの回復〉が予想していたよりも長くなってしまった関係もあって、なるべく簡潔に、明快に、と心掛けました。本文も全31節と、「エレミヤ書」ではやや長めのものになりますが、主の怒りの言葉をなんとか要約して上記のようになったことをお知らせしておきます。
 それにしても、スタバのテラス席って快適ですね。



 キングの短編集『いかしたバンドのいる街で』は「自宅出産」と「雨期来たる」の2編を以て読了した。
 「雨期来たる」はたしか『マリ・クレール』誌に「レイニー・シーズン」として掲載され、その後に知ったところではキングが深刻なライターズ・ブロックから脱出するきっかけとなった短編であった。このゲテモノ怪作ぶりがキングの短編の真骨頂といえようが、どこからどう見てもキング印が刻印されていて、かつこの直前まで断筆まで考えられる程に深刻だったライターズ・ブロックの痕跡が残っていない点で、まさに奇跡的な一作と呼べる短編でもある。でも、こんな作品が復活のきっかけとなった、というのも、キングらしくていいですよね。
 「自宅出産」はかつて「ホーム・デリヴァリー」という、原題そのまんまのタイトルで読むことができた。訳文に手が加えられているように思うのだが、どうなのだろうか。いまちょっと『死霊の宴』上巻が手許にないので比較検討できないが、誰かつぶさに照らし合わせてみては如何か。
 今日から『メイプル・ストリートの家』を携えて出掛けているが、通勤の行き帰りや休日の喫茶店などでたっぷり楽しませてもらうつもりです。◆

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第1113日目 〈エレミヤ書第22章:〈ユダの王に対する主の言葉〉with朝から聴くラテン・クラシックもなかなか良い。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第22章です。

 エレ22:1-30〈ユダの王に対する主の言葉〉
 ユダ王国は黄昏の時代にあった。時の王シャルム即ちヨヤキムは主の目に悪と映ることをことごとく行い、国を正しい方向へ導こうとしなかった。主の、王に対する言葉がエレミヤに臨み、かれは王宮に行ってそれを語った。主の曰く、━━
 王よ、自分が任された民のために、正義と恵みの業を行え。孤児や寡婦、都に寄留する外国人を苦しめたり、虐げてはならない。この地で無実の者の血を流してはならない。搾取されている者を虐げる者の手から救え。これらのことを実行するならば、国も都も平和を謳歌するだろう。が、これらのことを実行しないならば、わたしは自分に誓ってこの都を滅ぼす。わたしは滅ぼす者を聖別する。お前たちがその神、主との契約を捨てて他の神々、カナンの神々を拝み従った行為の結果を、この地を訪れた旅人は、荒廃したかつての王都の無惨な光景を見て知る。
 民よ、既に崩御した王のために泣くのではなく、ユダを攻めて都を占拠した敵によって引いて行かれる王のためにこそ泣け。なんとなれば、かれは二度とこの地を生きて見ることがないのだから。王は捕囚の地で、捕囚のまま死ぬ。
 王よ、お前の父は偉大だった。卑賤の者の声を聞き、正義と恵みの業を行おうと力を尽くした。が、お前はどうだったか。その目も心も不幸な利益を追い求め、無実の者の血を流し、虐げと圧政を行うばかりではないか。お前の死を嘆く者は一人もいない。
 ヨヤキムよ、わたしはお前をバビロニアの王ネブカドネツァルとカルデア人の手に渡す。お前とお前の母親は捕囚の地で死に、この地を二度と見ることがない。お前の跡を継ぐ王たちをわたしは放る。お前の子孫からは一人として、栄えてダビデの王座に就いてユダを治める者は出ない。

 ex;王下23:36-24:7,代下36:5-8、ヨヤキム王の記事。

 ヨヤキムというのがその王の名前。新改訳ではエホヤキム、本章ではシャルム。まったく、混乱しちゃいますよね。まあ、古代の書物ですし、諦めましょう。
 かれの時代はエジプトによって重税を課されていたため、増税をやむなくされて民の生活を圧迫させるのを余儀なくされていた時代でもありました。主の言葉にある「虐げと圧政」は、それを指すと考えてよいでしょう。しかしながらこのあとの歴史が示すように、既に時代の趨勢はエジプトから新バビロニア帝国に移っており、エジプトを宗国としていたユダも、ヨヤキム王の時代に帝国の属国となったのでありました。
 このヨヤキムは本章や並行箇所にあるように新バビロニア帝国の捕囚となって、かの地へ連行されます。主の言葉通り、かれが生きてユダの地を再び見ることはありませんでした。が、王下25:7にある如く、かれは捕囚となって37年目に解放され、バビロニアの賓客として遇されました。高齢となっていたであろうことから一種の恩赦だったのでありましょう。



 朝からドゥダメル=SJVSBのラテン・アメリカ音楽集を朝から聴いています。朝っぱらからこんなにアドレナリンを分泌させてどうするんでしょうね。いや、でも朝に聴くラテン・クラシックってけっこう爽快、かつワイルドですよ!! 昨夜の悩みが嘘みたいな気分です……。
 出勤中のみな様、行ってらっしゃい! おいらは今日は休みです。たいせつな想いに耽りながら、これからスターバックスへ出掛けるのだ!!!◆

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第1112日目 〈エレミヤ書第21章:〈命の道と死の道〉withこの7日間の缶ビールの消費量が、……。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第21章です。

 エレ21:1-14〈命の道と死の道〉
 ユダ王国がその王位に最後の君主、即ちゼデキヤを戴いていた時分。王の命令によって、二人の男がエレミヤの許へ遣わされてきた。男たちは、バビロニアの接近を告げ、主の御業に救いを求めた。主の言葉がエレミヤに臨み、かれはそれを王の使者へ伝えた。主の曰く、━━
 わたしは、いまは城壁の外へ向けられている剣の矛先を、今度は都の中心に集める。そうしてエルサレムの住民を、家畜や獣まで含めて打つ。かれらは強力な疫病によって倒れて、死ぬ。戦や疫病、或いは飢饉を生き延びた者たちはみな、バビロニアの手に渡り、撃たれる。バビロニアの王はためらわず、惜しまず、憐れまない。
 「見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。わたしは、顔をこの都に向けて災いをくだし、幸いを与えない、と主は言われる。この都はバビロンの王の手に渡され、火で焼き払われる。」(エレ21:8-10)
 また、以下はユダの王家に対しての主の言葉である。曰く、━━
 ダビデの家よ、お前たちの犯した悪事のゆえに、わたしの怒りの炎は燃えあがる。お前たちは自分が安泰だと思うているかもしれぬ。自分たちの身に災いが、わたしの怒りが降ることなどあるのだろうか、と。わたしはお前たちの悪事に報いる。怒りの火は周囲に放たれ、その火はすべてを焼き尽くす。

 読んでそのまま、素直に受け取ればよい章なのですが、あれ、と思う点が一つだけ。
 本文には反映させませんでしたけれど、聖書にはバビロニア王として固有名詞が挙げられています。その名は「ネブカドレツァル」。これまでわれらが読んで知っていたバビロニア王は「ネブカドネツァル」でした。些細な相違なのですが、これはもしかすると、バビロニアとユダで文字の表記方法が異なっていたことに起因するのかもしれません。このあたりは聖書学者に納得ゆくまで教えていただきたいものであります。
 なお、「列王記」と「歴代誌」のゼデキヤ王の記述のなかに、祭司たちがエレミヤの許を訪れた、という記事はありませんが、かれの許に王からの使者が派遣されてきたのはどうやら事実であったらしい。こうした小さな、断片的な記述を再構成して、王国時代末期の歴史が綴られています。



 いつもの飲み場が占拠され、仕方なく第二の飲み場へ。マンションに遮られて南の空を望めぬのが難といえば難だが、それはともかく。
 この7日間の缶ビールの消費量が大変なことになっている。20本以上! すべて“絹の贅沢”だ。2ダースをわずか1時間半で飲んだのは別として、そうするだけの物想いの材料がわたくしにはあるのだ。避けられているのは……。◆

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第1111日目 〈エレミヤ書第20章2/2:〈エレミヤの告白〉withカラヤン=BPO;ベートーヴェン交響曲第4番を聴いています。(短文)〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第20章2/2です。

 エレ20:7-18〈エレミヤの告白〉
 パシュフルによって投獄されていた夜のことか。

 主により、わたしは惑わされ、わたしは捕らえられた。主よ、あなたの勝ちです。あなたの目論見通り、わたしは周囲から孤絶し、御言葉ゆえに恥と誹りを受ける。
 「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃えあがります。/押さえつけられておこうとして/わたしは疲れ果てました。/わたしの負けです。」(エレ20:9 ※)
 多くの人の非難する声が聞こえる。味方と思うた人もそうでなく、わたしが失敗するのを待ち構えている。かれらは復讐しようとしている。が、わたしには主が共にいる。それゆえかれらは復讐しようとして却って辱められる。それはとこしえの恥辱である。主よ、わたしにその光景を見させてください。わたしはあなたに訴え、打ち明け、お任せします。
 わたしが生まれた日は呪われてしまえ。母の胎から誕生したその日を祝うてはならぬ。わが父にわたしの誕生を知らせた人は呪われよ。その人は憐れみを知らず、主によって滅ぼされる町のように、朝には助けを求める声を聞き、昼には侵略者たちの鬨の声を聞くだろう。
 「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」(エレ20:18)

 ※ex;エレ6:11「主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。」

 これまでに読んだなかで登場したエレミヤの嘆き、或いは告白となんら変わることのない内容ではありますが、わたくしはここに却って純化されたエレミヤの心の内が表現されているように感じます。読者諸兄は如何でしょうか。殊、第7節と第9節(上にダイジェストし、引用した箇所です)には胸を締めつけられるような苦しさがあります。
 しかしながら、自分の出生を呪うまではともかく、誕生を父親に知らせた人まで呪うとは、正直タマッたものではない……と、思うたのだけれど、ここに至ってふと考えを改めた。ここでいう「父」とは、生物学的意味での父親ではなく、むしろ主なる神を指すのだろうか、と。そうであってもおかしくはないのかもしれない。
 こんな風に、PCで清書している段になって、あ、と思い当たることがよくあります。



 カラヤン最後の来日公演に於けるベートーヴェン交響曲第4番を聴いています。こんなに軽やかで優雅なステップを踏むかのような曲だったかな。演奏の極上ぶりはどうだろう。
 仕事から帰って明日も仕事だ、というとき、ベートーヴェンを聴こうという気にはなれない。が、第4番であれば却って活力を充填してくれそうな気がしますね。そう思う。◆

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第1110日目 〈エレミヤ書第19章&第20章1/2:〈砕かれた壺〉withS.キング「いかしたバンドのいる街で」を読了しました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第19章と第20章1/2です。

 エレ29:1-20:6〈砕かれた壺〉
 主がいった、━━
 エレミヤよ、まず陶器師のところに行って壺を買え。それから民の長老と長老格の妻子を連れて、陶片の門を出たそばにあるベン・ヒノムの谷に行け。そこでかれらに、わたしの言葉を告げよ。
 わたしエレミヤはその通りにした。するとベン・ヒノムの谷で主の言葉がわたしに臨んだ。主の曰く、━━
 この場所にわたしは災いをもたらす。それを聞く者は耳鳴りを覚えるだろう。災いが降るのは、民がわたし以外の神に香を焚き、献げ物をささげたためだ。そのようなことをしなさい、と、教えたことも命じたこともない。
 斯様な行為のゆえに、いまはベン・ヒノムの谷と呼ばれるこの場所は、やがて殺戮の谷と呼ばれるようになる。わたしはユダとエルサレムの策略を、この場所で打ち砕く。「わたしはこの都を恐怖の的とし、嘲られるものとする。通りかかる者は皆、恐怖を抱き、その打撃を見て嘲る。彼らの敵の命を奪おうとする者が彼らを悩ますとき、その悩みと苦しみの中で、わたしは彼らに自分の息子や娘の肉を食らい、また互いの肉を食らうに至らせる。」(エレ19:8-9)
 エレミヤよ、買ったその壺をみなの前で砕き、こういえ。この壊れた壺はもう元には戻らない。ユダの民とエルサレムの家もまた然り。死者となった民は誰一人としてきちんと埋葬されない。その骸はこの場所ベン・ヒノムの谷、即ちトフェトに投げ捨てられる。わたしはエルサレムも同じようにする。エルサレムの家々、ユダの王の家はすべてトフェトのようになる。
 ━━これがベン・ヒノムの谷でエレミヤに臨んだ主の言葉である。
 預言者は都に帰り、神殿の庭で、集まった民を前にして、これらの主の言葉を語った。その際、件の壺は砕かれたのであろう。以上、第19章。
 その様子を、神殿の総監督である祭司、イメルの子パシュフルが見聞きしていた。かれはエレミヤを打ち、投獄した。翌日解放された預言者はパシュフルに向かって、主はお前を“<恐怖>が四方から迫る”と呼ぶ、といった。
 続けてエレミヤはいった、━━
 お前は主によって<恐怖>に渡される。お前の親しい者はみな、<恐怖>の剣によって倒れる。お前はそれを目撃しなくてはならない。<恐怖>の真の名はバビロン。わたしは国の富、人の富をいずれもかれらの手に渡し、生き残った者みなを捕囚としてバビロンの手に渡す。パシュフルよ、お前も一族の者と共に捕らえられ、バビロンへ行く。そうしてその地でお前は死ぬ。以上第20章第1-6節。

 「エレミヤ書」には幾つかの印象的な章や場面、有名な挿話があります。本章での<壺を砕く>、というのもその一つである由。噂に違わず、一読鮮やかな印象を残すところであります。
 エレミヤはバビロニアの台頭と襲来を主の意思と考え、その王ネブカドネツァルを主の意思を体現する存在と捉えてきました。その考えの一端が明瞭に述べられたのが本章であります。
 一つだけ余計な註釈を加えておくと、ベン・ヒノムの谷はユダとベニヤミンの領境に横たわり、ここでかつてアハズ王とマナセ王が自分の子供を焼き殺したことがあります。また、ヨシュアたちによるカナン入植前には先住民がここにモレク神を崇める祭壇を設けていました。斯様な来歴のある場所ゆえに、ベン・ヒノムの谷即ちトフェトを背景として、今日読んだようなお話がされたのであります。



 S.キングの短編「いかしたバンドのいる街で」を読了。正直、あまり楽しめなかった。ここに登場するロック・スターの名前と顔が一致しないこともあるけれど(顔が思い浮かぶ人自体が殆どいない!)、それ以上に致命的だったのは、この作品に関していえば、既に観た『8つの悪夢』で映像化されたドラマの印象が鮮烈で、どうしても読んでいる最中はそちらのイメージに引きずられてしまっていたからだ。そう、自覚はしている。ロックンロール・ヘヴンに迷いこむまでの描写がチトくどいように感じたのも一因か。ごめん、この短編にはまったくといっていい程のめり込めなかったよ。◆

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第1109日目 〈エレミヤ書第18章:〈陶工の手中にある粘土〉&〈エレミヤに対する計略〉with近々重大ニュースを発表予定&明け方まで、S.キング『IT』を読み耽りました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第18章です。

 エレ18:1-17〈陶工の手中にある粘土〉
 主がわたしに、陶工の家に行き、そこでわたしの言葉を待て、と命じた。行ってみると、一人の陶工がろくろを回し、粘土で器を作っていた。が、出来が気に喰わぬと見えて、それを床に放って壊したところだった。そこへ、主の言葉が臨んだ。曰く、━━
 粘土が陶工の手中にあるように、イスラエルの家もわたしの手のなかにある。<その時>が来たら、わたしは一つの民族、一つの国を断罪してこれを滅ぼす。但し、民が悔い改めるならば、わたしはその計画を思い留まる。或いはわたしが一つの王国を建て、一つの民を育てようとしているのに、かれらがわたしの目に悪と映ることを行うようなら、わたしはかれらに幸いを与えようとしていたことを思い留まる。
 あなたはかれらにこういいなさい。主なる神はユダとエルサレムに災いを計画し、準備している。だからあなたたちは悪の道から離れて主の定める正しい道へ立ち帰りなさい、と。しかし、かれらはそれを拒む。かれらはあなたの言葉に「否(ノン)」を叩きつける。
 主がこういった、━━
 「東風のように、わたしは彼らを敵の前に散らす。/災いの日に/わたしは彼らに背を向け、顔を向けない。」(エレ18:17)

 エレ18:18-23〈エレミヤに対する計略〉
 主の道へ立ち帰るのを拒んだ人々が集まって、預言者エレミヤの言葉に耳を傾けるのをやめよう、と決めた。
 それを知ってエレミヤは主に訴えた、悪を以て善に報いてもよいのか。天道是か非か、と。かれは願った、これまでのわたしの善行を心に留めてわたしを助けてください、あなたに背いてわたしの言葉を聞こうとしない連衆を罰してください。
 「主よ、あなたはご存知です/わたしを殺そうとする彼らの策略を。/どうか彼らの悪を赦さず/罪を御前から消し去らないでください。/彼らが御前に倒されるよう/御怒りのときに彼らをあしらってください。」(エレ18:23)

 民のために尽力しながらも、それが受け入れらることはなく、却って怨まれ、ゆえに民を呪わずにいられないエレミヤの、板挟みになった苦悩に、まずは想像をめぐらせて身に添う理解をするのがよい章であります。エレミヤが担った宿命というのは、このあたりに凝縮されているような感があります。



 近日中にとっても大切なことをみな様へご報告いたします。もう、自分のなかでは決定事項なんだ……。
 それはさておき。
 昨夜は久しぶりに明け方まで読書しました。確かめたい一節があって、それを探しているうちに腰を据えての読書と相成った。S.キングの『IT』、単行本上下2巻をスズメが夜明けを告げる<その時>まで、ページを繰る手も止まることを知らず読み耽った……なんと幸福な時間であったろう! こんな小説を書ければいいのだけれどねぇ。
 関係ないことを申せば、「早く寝なよ」と色っぽい声が隣から聞こえてくればもっと、別の意味で幸福なのだろうけれど……。或る意味、降伏?◆

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第1108日目 〈エレミヤ書第17章:〈ユダの罪と罰〉、〈主に信頼する人〉&〈安息日の順守〉他with三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』第2作を購入しました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第17章です。

 エレ17:1-4〈ユダの罪と罰〉
 ユダが犯した罪の数々は、おのおのの心の板に、あちらこちらの祭壇に祀られる角(つの)に、鉄のペンで刻みこまれる。かれらの罪は緑茂る木々の下、丘の上、野山の上に明らかだ。ユダが犯した罪に対する罰は、お前たちの富が敵の手に渡ることで実現し、敵の奴隷となることで成就される。
 わたしが継がせた嗣業をお前たちは失う。いちど火が点いた怒りの炎はとこしえに燃え続ける。

 エレ17:5-8〈主に信頼する人〉
 人間に信頼を置く者は呪われよ、その心が主から離れ去った者は呪われよ。
 主に信頼を置く人は祝福されよ、主がその心の拠り所となってくれるから。

 エレ17:9-13〈人間の心を知り尽くす神〉
 主がいった、「人間の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。/誰がそれを知りえようか。/心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。」(エレ17:9-10)
 エレミヤがいった、「イスラエルの希望である主よ。/あなたを捨てる者は皆辱めを受ける。/あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。/生ける水の源である主を捨てたからだ。」(エレ17:13)

 エレ17:14-18〈エレミヤの嘆き〉
 エレミヤはいった、━━
 主よ、わたしはあなたに、災いや痛手の日を望んだことはありません。わたしまで滅ぼそうとしないでください。わたしを迫害する者を辱め、かれらを打ち砕いてください。

 エレ17:19-27〈安息日の順守〉
 主がいった、━━
 エルサレムのすべての門を出入りする民にあなたは告げよ、主が定めた安息日を守れ、と。わたしはかつて、あなたたちの先祖に安息日を聖別して、この日には如何なる労働をしてもさせてもならない、と命じた。が、それは守られなかった。いまも同じだ。
 もしあなたたちが悔い改めて安息日を順守するなら、とこしえにこの地に住まう。もしあなたたちが悔い改めず安息日を順守しないなら、わたしはエルサレムの門という門に火を放つ。その火は都の城壁を焼き尽くして、なおとこしえに燃え続けるだろう。

 既に読んできたメッセージの数々がここで繰り返されます。逆にいえば、ここで語られるメッセージこそが真に心に留めておかねばならない箇所である。そう考えると、短い記事の集合でありながら容易に読み過ごすこと能わぬ章である、と申せましょうか。



 夏になる前に三上延『ビブリア古書堂の事件手帖~栞子さんと奇妙な客人たち~』の感想を本ブログでお披露目しました(第0978日目)。殆ど途切れることなく今日までお読みいただけている数少ない記事で、ありがたい限りです。
 その『ビブリア古書堂の事件手帖』の第2作が同じメディアワークス文庫から今月の新刊として、書店の棚に並びました。さっそく一本を購って帰宅。終章だけ、さっ、と目を通しましたが、クオリティという面でいえばそう衰えてはないように思いました。安堵しました。キングと聖書の合間を縫って時間を作り、早いうちに読んでみたいものです。
 今日は、そんなご報告でした。◆

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第1107日目 〈エレミヤ書第16章2/2:〈新しい出エジプト〉withまた寝ちまったぜ、いやぁまいったね。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第16章2/2です。

 エレ16:14-21〈新しい出エジプト〉
 かつて人々は主についてこういった、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と。
 やがて人々は主についてこういうだろう、「イスラエルの子らを、北の国、かれらが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と。
 主はイスラエルの子らを、かれらの先祖に与えた土地へ帰還させる、という。
 主は民が犯し、重ねた罪と悪を倍にして民へ報いる、という。
 国々が地の果てからあなたの御許へ来てこういうであろう、と、わたしはいう。われらの先祖が自分のものとしたのは、むなしく、無益で、偽りのものであった。いったい人間に<神>が造れようか、そんなものが<神>であろうか。
 それゆえに、わたしエレミヤは、今度こそ民に告げよう、わたしの手、力強いわたしの業を。民は、わたしの名が主であることを知るようになる。

 主の言葉、━━
 「わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。」(エレ16:17)

 まずはこの数日、一章を分割してお届けしていることにお詫び申しあげる。単純に原稿のストックの状況によって、斯様な調整がされているのだ。あとは、ノートを作る時間がどれだけあるか、どれだけの時間を割くことができるか、にかかってくるのだが、それは読者諸兄にとってはどうでもよい類の話であろう。本当をいえば昨日と本日の分は一日で済ますはずだったのだが、以上のような理由によりこうなっている次第。
 さて。
 〈新しい出エジプト〉、これは勿論、未来の預言である。バビロニアに捕囚として連行されていった民は、かつてかれらの先祖が主(とモーセ)に導かれてエジプトを脱出して“乳と蜜の流れる土地”カナンを目指した如く、捕囚として連れられていったバビロニアの地から民は再び主の導きによってかつてのカナン即ちユダを、いまは廃墟となっているかつての王都エルサレムを目指す、というので〈新しい出エジプト〉なわけだ。後半が偶像の存在理由について疑義を投げているのも、新しい出エジプトの預言をくっきりと浮きあがらせる効果を持つ。それにしても、<いったい人間に<神>が造れようか、そんなものが<神>であろうか。>とは、じつに考えさせられる訴えである。
 ここは、あざやかであたたかな、希望の曙光に彩られた一編である。激烈な調子の言葉が続いたあとということもあって、一息つける部分であるのは間違いないだろう。



 上記を書いてここに至るまで約30分が経過。その間、椅子に座って天井を見あげながら寝てしまっていました。疲れているのかな。
 明日は休み、でも、スタバまで歩いて本を読んで(キング「いかしたバンドのいる街で」!)、聖書のノートを取る、というまったくさえない、かつまったく変わらない休みを過ごすのだ。
 誰か、このサイクルを脅かしてくれ。◆

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第1106日目 〈エレミヤ書第16章1/2:〈預言者の孤独〉withいつもの場所で〈絹の贅沢〉を2本飲みながら、……〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第16章1/2です。

 エレ16:1-13〈預言者の孤独〉
 主がいった、━━
 エレミヤよ、この地で妻を娶り子供をもうけるな、と。この地で家庭を持ち、家族を得た者はみな、剣と飢饉によって倒れ伏し、死体は獣や鳥の食餌となる。かれらの死を嘆き哀しむ者はない。また、あなたは葬式をしている家に行って弔意を示してはいけない。わたしはこの民、かつてのわが嗣業の民から平和も慈しみも憐れみも取り上げる。いうまでもなく、かれらがわたしに背いて罪を犯したからだ。だからわたしによって召命されたあなたはかれらの家に入り、交わってはならない。
 お前たちが生きている限り、お前たちの目の前で喜びや祝いの声、花嫁と花婿の声が響くことはない。エレミヤよ、あなたがわたしのいったことをすべてかれらへ告げたら、きっとかれらはこういうだろう。なぜわれわれがそんな目に遭うのか、われわれがいったいなにをしたというのか、と。わたしはありのままを答える。お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ、と。お前たちの先祖はわたしから離れ、律法を守らなかった。しかしかれらよりもお前たちの方が、はるかに罪は重い。さらに重い悪を行ったからだ。お前たちは各々そのかたくなな心に従って悪を行い、他の神々に礼拝して依り頼んだ、それゆえにこそ、━━
 「わたしは、お前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する。お前たちは、そのところで昼も夜も他の神々に仕えるがよい。もはやわたしはお前たちに恩恵をほどこさない。」(エレ16:13)

 昨日の第15章〈エレミヤの孤独と神の支え〉をいっしょに読むと、エレミヤの置かれている状況━━単純に四面楚歌といってよいのか、正直悩むところではありますが━━がどれだけくっきりと浮き彫りになるように思います。既に捕囚が予告されているところもチェックすべき一点でありましょう。



 この数日、いつもの場所で<絹の贅沢>を2本飲みながら、夜空を見あげて、はあっ、と溜め息をつき、ぼうっ、と行く末をあれこれ弄んでみたりする。優しさと愛があればだいじょうぶ、とSMAPはうたうけれど、否、そんなことはないだろう。それでだいじょうぶなら、疾うの昔にわたくしは心より愛する女性といっしょになって、生活を営んでいるはずだ。むろん、J-POPの歌詞にささくれ立ってみても仕方ないが、いちいち反応してしまう時分なのである。許されよ。
 昨日今日はなんだかやけに親しげなときがあったけれど(まわりに誰もいないときだったのが、いやはやなんともだが)、それがこれからずっと、どんなときでも続けばいい。相手がいるならいるでかまわない。もとからミステリアスな人で、あまり周囲と親しげに話すこともない人だから(一部を除く)、プライヴェートなことがわからないのは仕方ないではないか。……楽しくって、辛い。あ、埋まった。◆

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第1105日目 〈エレミヤ書第15章2/2:〈エレミヤの苦しみと神の支え〉with玉砕だったのかもしれない。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第15章2/2です。

 エレ15:10-21〈エレミヤの苦しみと神の支え〉
 なにをしたでもするでもないのに、エレミヤはユダ中の人々から憎まれ、呪われる者となった。なぜなのですか主よ、とかれは問う。わたしはかれらのためにも幸いを願い、災いや苦しみがかれらを襲ったとき、あなたに執り成しをしたではありませんか。
 主がいった、わたしはユダの富と宝をあらゆる罪の報いとして敵の手に渡し、見知らぬ敵の国へ連れてゆかせる。勿論、奴隷としてだ。わが怒りはユダに対して燃え続ける。
 エレミヤはいった、わたしを迫害する者に怒りを降してください、わたしが取り除かれることのないようにしてください、と。「わたしがあなたのゆえに/辱めに耐えているのを知ってください。」(エレ15:15)主よ、わたしはあなたの名を以て呼ばれている者です。
 続けてエレミヤはいった。あなたはわたしを憤りで満たした。なぜ、わたしの痛みは引かず、傷は重くて癒えないのですか。あなたはわたしを裏切って、行くあてのない流れのようにした……。
 それに対して、主がいった、━━
 「あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。/もしあなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語るなら/わたしはあなたを、わたしの口とする。/あなたが彼らのところに帰るのではない。/彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
 この民に対して/わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。/彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。/わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。/わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」(エレ15:19-21)

 苦しみに遭っているとき、嘆きの淵にいるとき、哀しみに沈んでいるとき、支えとなる存在があるのはうれしいものです。それだけで心を強く保ち、律していられようというものだ。
 エレミヤもユダの人々から迫害されているとき、主なる神の支えがあってどれだけ暗鬱とした気持ちが軽減されたことでしょうね。おこがましい発言ではあるけれど、ちょっとわかるな、その時の心のなかは。
 嗚呼……!!



 んん、玉砕? そうなのか? それとも、思わせぶりな態度、って奴か……?
 毎度SMAPの歌詞で申し訳ないが、いまの気持ちはこんな感じだ。♪何度も諦めそうになって その度また繋いだ夢/(中略)/苦しみ悩み続けてた 何度も諦めようとした/それでも歩いてきたこの道は たったひとつの僕の夢さ♪(「この瞬間、きっと夢じゃない」より)
 ふしぎと諦められないし、なんだかまだ先があるような予感がある。毎日顔を合わせるんだから、そう思っていないとやっていられない、というのが正直なところだ。概ね、ピリオドは打たれたのだ、と考えるべきなのだろうけれど。ぼくは一生独りなのかな?
 でも、まだ「オレンジ」なんて歌わないぞ! 歌いたいのは、「STAY」だ!!◆

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第1104日目 〈エレミヤ書第14-15章1/2:〈干ばつの災い〉with2012年用の年賀状小説。いつまでも、……〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第14-15章1/2です。

 エレ14:1-15:9〈干ばつの災い〉
 ユダは干ばつに襲われた。主の言葉がエレミヤに臨んだ。雨は降らず、貯水池の水は干上がり、草木は枯れ、生きとし生けるものはすべて食糧危機に見舞われる。そうして、大地はひび割れて。
 主よ、御名にふさわしく行動してください、とエレミヤがいった。われらは御名によって呼ばれる者、どうかわれらを見捨てないでください。が、主はそれを拒んだ。いまや主は、ユダの罪に御心を留め、咎を罰しようとしている。エレミヤよ、と主がいった。この民のために祈るな、わたしは剣と飢饉と疫病によってかれらを滅ぼす。
 わたし以外の預言者は、とエレミヤがいった。われらは剣によっても飢饉によっても疫病によっても滅びることはない、といい、われらには確かな平和が与えられる、と民にいっていますが? 主は否定した。かれら預言者を遣わした覚えはない。その預言は偽りだ。かれらは剣と飢饉によって滅び、かれらの言葉を聞いていた民もそのあとを追って、葬られることもない。わたしはかれらの上に、かれらの悪を注ぐ。
 それを承けてエレミヤの曰く、われらはわれらの犯した罪を知っています、過ちを犯したことも知っています、どうかわれらを見捨てないでください、と。「我々はあなたを待ち望みます。/あなたこそ、すべてを成し遂げられる方です。」(エレ14:22)
 しかし、主はその訴えを退けた。たとえモーセとサムエルがわたしを執り成すと雖も、わたしはこの民を顧みない。かれらは四種類の手段で罰せられて、この乾燥しきった地の上に倒れる。即ち、疫病によって、剣によって、飢えによって、捕囚によって、である。「わたしは地上のすべての国が、彼らを見て恐怖を抱くようにする。それはヒゼキヤの子ユダの王マナセがエルサレムでしたことのためである。」(エレ15:4)
 主は重ねていった、エルサレムよ、誰がお前のことを憐れもう? 誰がお前のことを嘆こうか? 誰がお前の安否を心配しようか? いまや終わりの時は来たれり。
 「わたしは手を伸ばしてお前を滅ぼす。/お前を憐れむことに疲れた。」(エレ15:6)

 ユダを見舞った干ばつはヨシヤ王が宗教改革に着手して間もない頃にあった、といわれます。王が主導する改革━━主なる神への信仰に立ち帰るための宗教改革が断行されていた裏で、主とエレミヤの間にはこのような対話があった。遠からずバビロニアが襲来して国を滅ぼすことも勿論ですが、ヨシヤ王によるせっかくの宗教改革が水泡に帰すことを、エレミヤは知っていたわけであります。
 そう考えると、ここで見る主の言葉にはこれまでにも増して激しさが宿り、説得も反駁も許されぬものがあるように感じます。もはやこれは宣告です。なんの? 崩壊を実行する、という主の決意が述べられた、宣告。



 そろそろ2012年用の年賀状小説に着手しなくてはならない。去年は喪に服していたから出せなかったけれど、いずれにせよ今年の分から新しいツィクルスに突入する。
 このツィクルスのテーマは、<いつも、いつまでも、いっしょに>。
 ちっぽけだけれど、これがすべて。
 これまでは、こんなささやかな願いすらこの現実世界ではかなえられないんだ、“Not Alone”なんて嘘だよ、って思ってきたけれど、もしかしたら違うのかもしれない。あんがいすぐそこに幸せってあるのかもしれない。必要なのは、勇気と腹を括ること。そうして、相手を想い、裏切らず、哀しませないこと。その想いって、<女神>がくれた最高の贈り物なんだ(SMAPだ!)。まあ、どうなるかわからないけれどさ。
 だから……もういいよね? Always!◆

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第1103日目 〈エレミヤ書第13章2/2:〈王と大后〉&〈罪の深さ〉with映画『探偵はBARにいる』を観てきました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第13章2/2です。

 エレ13:18-22〈王と大后〉
 主がいった。エレミヤを通して、王と大后へ与えた言葉、━━
 いまやお前たちの頭から王冠は転がり落ちた。身を低くして泣いていよ。ネゲブの町々はすべて閉じられて開ける者はなく、ユダの民はすべて捕囚として連れ去られた。いったいあなたたちへゆだねられた輝かしい羊の群れはどこにいるのか。指導者として育てた人々が失われたいま、あなたたちはそれについてなんと弁明するつもりか。
 王よ、あなたは自らの心に問うであろう、なぜこんなことがわたしの身に? と。他でもない、あなたの罪の重さのゆえに。

 エレ13:23-27〈罪の深さ〉
 主がいった、━━
 クシュ人や豹がその肌の色、その皮膚の模様を変えられるなら、悪に馴らされたお前たちも正しい者となり得るだろう。が、そんなことはあり得ない。わたしは不義を重ねたお前たちを散らす。これがお前たちの運命だ。わたしを忘れて、むなしい偶像に依り頼んだお前たちの運命だ。
 「災いだ、エルサレムよ。/お前は清いものとされえない。/いつまでそれが続くのか。」(エレ13:27)

 ここは珍しく主の言葉の底に、諦念と慟哭が潜んでいるような印象があります。敢えていうなら、戒めの言葉でありながら一種の告別の歌とさえ感じられる部分。言を多く費やすのは無用、とさえ思うところであります。



 明日から第24回東京国際映画祭が始まる、という今日(昨日ですか)、遅蒔きながら映画『探偵はBARにいる』を観てきました。正直なところ、核心に至るまでがやや間延びしているかな、と感じたけれど、語られる物語には語る物語にふさわしいペースがある。きっとこれはこれで正しいペースだったのだ、と、いまは思うことであります。本作に較べて前回の『神様のカルテ』はちょっと浮き足立っていたようです。
 『探偵はBARにいる』についていえば、丁寧な演出と練り込まれた脚本、出演者の、端役に至るまでの存在感と配役のセンスが光った作品、とわたくしは感じました。賛否両論あるようですが、大泉洋の探偵役はこれ以上にないハマリ役である、と感じましたよ。これらの条件が揃った今年の日本映画のベスト4に選んでも良い作品に、第2作が準備されているとの報告はまことにうれしい限りです。しかし松田龍平のすっとぼけぶりはじつに小気味よくて安心できますね。
 ……と、久しぶりに映画の感想を書いてお披露目するのに不安ですが、また折に触れて、観た映画について書いてみたいものです。それにしても、東京国際映画祭ではどの作品を観に行こうかな。時間、ないかなぁ……。◆

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第1102日目 〈エレミヤ書第13章1/2:〈麻の帯とぶどう酒のかめ〉with生田耕作訳A.ブルトン『超現実主義宣言』再読計画〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第13章1/2です。

 エレ13:1-17〈麻の帯とぶどう酒のかめ〉
 主がエレミヤにいった。麻の帯を買ってきて、洗わないでそのまま腰に締めよ、と。そうしてユーフラテスへ行って、その帯を岩の裂け目に隠しておけ、とも。預言者はその通りにした。多くの歳月が流れて、再び主が、ユーフラテスへ行ってあのときの帯を取り出せ、と命じた。帯はもうぼろぼろに崩れていた。
 主がいった、━━
 これがユダとエルサレムの罪である。このようにしてわたしはかれらを罰する。かれらがわたしの声に聞き従わなかったからだ。
 続けて、主がいった、━━
 甕(かめ)にぶどう酒を満たせ。民が諾おうと逆らおうと知ったことではない。わたしは甕に満たされたぶどう酒を以て、ユダとエルサレムの人々を誰彼の区別なく酔わせて、かれらを滅ぼす。惜しまず、躊躇わず、憐れまず、かれらを打ち砕く。
 エレミヤが民に語りかける、耳を傾けよ、━━
 「わたしたちが聞かなければ/わたしの魂は隠れたところでその傲慢に泣く。/涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。/主の群れが捕らえられて行くからだ。」(エレ13:17)

 ユーフラテスはあまりに遠い。エルサレムから、或いはアナトトからも。場所によって異なるけれど、地図を開いて計ってみても、だいたい800から1,000キロぐらいは離れている。ここでいう「ユーフラテス」の原語は「ペラート」Perath、ヘブライ語である。
 エルサレム、乃至はアナトトからペラートまでの距離を、エレミヤは都合2回往復した、と「エレミヤ書」は伝える。ユーフラテスが正しいというならば、エレミヤはその距離を往復したことになる━━単純に倍した距離を。
 が、腰に帯を締めてそれを岩の裂け目に隠せ、とは、一種の象徴行為である、とさまざまな注釈書は説く。象徴行為とは、この場合、該当するユダの人々の前で行ってこそ効力を発揮するもの。つまり、もしユーフラテス川とエルサレム/アナトトをエレミヤが往復した、というならば、ユダの民もかれといっしょになって移動していなければまったく意味を持たないものであるわけだ。
 ということは、ペラートをそのままユーフラテスと解釈するのには、無理が生じることになる。聖書学者の一部はこの点を以てユーフラテス説を退け、ペラートとは即ちワディ・ファーラーである、と考える。ワディ・ファーラーはアナトトの北東約5キロの場所にある町。この距離であれば、もし民がいっしょになって移動していても差し支えない位置にある、といえそうだ。
 腰帯について、ティンデル『エレミヤ書・哀歌』を執筆したR.K.ハリソンはこういう、「腐った腰帯は高ぶったユダが偶像崇拝のゆえに謙虚にされ、罰せられることを示している」と(P106 富井悠夫・訳 いのちのことば社 2005)。



 ブックオフ・オンラインにて生田先生の訳書を数点入手。この機会に、ブルトン『超現実主義宣言』(中公文庫)を読み直そう、と考えている。もうあれから20年近くが経つんだな……。◆

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第1101日目 〈エレミヤ書第12章:〈正しいのは、主よ、あなたです。〉&〈主の嗣業〉with<王>の御許へ帰る。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第12章です。

 エレ12:1-6〈正しいのは、主よ、あなたです。〉
 エレミヤはいう、━━
 主よ、正しいのはあなたです。が、それでもわたしはあなたに問い質したい。なぜあなたに背く者の道は栄え、あなたを欺く者は安穏として暮らしているのかを。かれらの根を植えたのは、主よ、あなただ。あなたがかれらを植えたから、かれらは根を張り、この地にたくましく蔓延(はびこ)っている。かれらの口はあなたに近いが、かれらの腹のなかはあなたからはるかに遠い。
 主よ、あなたはわたしの心を究められたはずだ。どれだけかれらと違うかも、よくご存知だろう。だから、わたしをかれらから切り離し、かれらを殺戮の日のために分け置いてください。この地が乾き、野の青草がすべて枯れ、鳥も獣もいなくなった原因は、かれらだ。かれらはあなたを疎んじ、かつ軽んじています。
 主はこう仰る。徒歩で行く者と競っても疲れるのなら、どうして馬を駆る者たちと争えようか。エレミヤよ、自分の兄弟、家の人々さえあなたを欺こうと画策している。好意を示されても鵜呑みにするな。

 エレ12:7-17〈主の嗣業〉
 主がいった、━━
 いまやわたしの嗣業は災いを降すことになった。わが嗣業の民はいつしか森に潜む獅子となり、わたしに向かって唸り声をあげるようになった。わたしはわたしの家を、わが嗣業を棄て、愛するものはすべて敵の手に渡した。
 多くの牧者がわたしの与えた土地を踏みにじり、悪いものに変えた。そこは荒れ野となり、打ち棄てられて嘆く地となった。そこを心にかける者はいない。裸となった荒れ野の山の向こうから略奪者たちが襲い来たれば、あなたたちすべて肉なる者に平和はない。
 わたしはイスラエルに与えた嗣業へ触れる近隣の悪い民を、すべてかれらの地から抜き棄てる。が、わが名によって誓うことを学ぶなら、かれらはわが民の間に立つことができる。誓いも学びもしないなら、わたしはかれらを滅ぼす。
 わたしはまた、「ユダの家を彼らの間から抜き取る。わたしは彼らを抜き取った後、再び彼らを憐れみ、そのひとりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる。」(エレ12:14-15)

 前半エレ12:1-6は昨日の第11章とつながる部分でもあるため、本来なら同じに扱うつもりでしたが、都合があって斯くなったことをお断りしておきます。
 ここは既に読んだ「ヨブ記」とも通じ合うテーマが塗りこめられている。本文でいえば、第1-2節がそれに該当します。なぜ神に従う者が迫害されて、そうでない者がいたずらに栄えるのか。これはずっと時代が下ってもユダヤ人離散(ディアスポラ)・殺戮(ホロコースト)を想起させるものがあり、キリスト教社会のみならず世界中のさまざまな国、社会が経験し、またこれからも繰り返してゆくであろう人間の宿命のように感じます。
 そんな流れで第12章の後半を読むと、ここで語られ主なる神、万軍の主による、嗣業の民ことイスラエル/ユダへの最後通牒の普遍性に思わず空恐ろしくなるのであります。



 うーん、大問題が発生した。これを<大>と称すあたり、けっこうなお気楽人だな、と思うのだが、まあ、要するにこういうことです。つまり、『田舎教師』を読了したらドストエフスキーに戻るんだ、『未成年』を最初から読み直して『カラマーゾフの兄弟』へ至って『虐げられた人々』をはじめとする未読作品を消化してしまうんだ、それを以てドストエフスキー読書を完了させるんだ、と宣言までしていたのですが、ここにそれを無効とすることを小声でそっと告白しなければならなくなったのだ。
 昨日出掛ける際に読むものがなくて困ったさんさんかは、床に積まれた本の山のなかに、この夏読みかけてそのままになっていた一冊の文庫を発見した。即ちスティーヴン・キングの短編集『いかしたバンドのいる街で』(文春文庫)である。これの巻頭に入っている「献辞」を読んでいる途中で他に移ってしまったんだよな。なぜわたくしは<王>へ背を向けることをしたのだろう? 件の作品は本邦初訳であった『スニーカー』(ハヤカワ文庫)で既にいちど読み、今世紀初頭(いまもそうなのかもしれないけれど)に小説を再び書き始めた際、再び読み返した思い出の一編だ。それをこうもあっさりと抛ったとは……。
 紆余曲折もあったようだが、わたくしは<王>の御許へ戻り、再びかの短編集を昨日から読み返す次第と相成った。当分は全4冊の『ナイトメア・アンド・ドリームスケープス』に読み耽ることになるだろう。それはおそらく来月末ぐらいまで続きそうな予感だ。なによりも、神様としか言い様のない作家に、こんなことをいってもらえるなんて、しあわせだ。曰く、「この世はおおむね、見た目よりもずっといい、ことに、頭が良すぎて優しくなれない人たちの目に映るよりもいいものなんだ」(「献辞」P75)と。帰りの電車のなかでこの「献辞」は読了、明日は「動く指」を読む予定。じきに感想も書きたいね!
 どうでもいいことだけれど、そんなことを、未来の自分のためも兼ねて報告しておきます。◆

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第1100日目 〈エレミヤ書第11章2/2:〈エレミヤの訴え〉with爆睡の時間のなかで見た夢は、……〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第11章2/2です。

 エレ11:18-23〈エレミヤの訴え〉
 エレミヤは主に教えられて、故郷アナトトの人々が自分を暗殺しよう、と企んでいるのを知った。原因は預言者の態度にあった。かれは時のユダ国の王ヨシヤが断行する宗教改革を支持した。国内から異教の神の存在を、偶像も含めて排除すると共に、地方の町々にあった聖所を廃して中央に一極化する、というのが宗教改革の二つの柱であった。
 エレミヤはアナトトの町にある地方聖所に仕える祭司の子でありながら、自分の家や町の家々に職業的経済的打撃を与えるヨシヤ王の宗教改革に賛成した。アナトトの人々はそんなエレミヤを疎ましく感じ、遂には徒党を組んで暗殺計画を立てるに至ったのだ。エレミヤはこの暗殺計画を、主から教えられたのである。かれはそれまでなにも知らなかった。
 アナトトの人々がいった、「木をその実の盛りに滅ぼし/生ける者の地から絶とう。/彼の名が再び口にされることはない。」(エレ11:19)また、「主の名によって預言するな/我々の手にかかって死にたくなければ」(エレ11:21)とも。
 エレミヤはわがために主へ訴え、故郷の人々が主によって復讐される見させてほしい、といった。それに応えて主がいった、━━ 
 「見よ、わたしは彼らに罰を下す。/若者らは剣の餌食になり/息子、娘らは飢えて死ぬ。/ひとりも生き残る者はない。/わたしはアナトトの人々に災いをくだす。/それは報復の年だ。」(エレ11:22-23)

 「前夜」でも触れたエレミヤ暗殺の当該章です。念のため、背景を描いておきました。
 新共同訳聖書の付録に、新旧各巻の大雑把な紹介があるのですが、「エレミヤ書」を挙げて記された一節を引きます。曰く、「「エレミヤは民を愛しているが、破局の近いことを告げる孤独の人であり、しばしば迫害される」(付2)と。わたくしを最初に聖書に導いた薄い一冊、内田和彦『「聖書は初めて」という人のための本』(いのちのことば社)の「エレミヤ書」紹介にもだいたい同じような意味合いのことが書かれています。今日読んだ部分がエレミヤの孤独と迫害を端的に記した箇所であることを、読者諸兄にはおわかりいただけると思います。
 取り立てて今日のノートに言い足すことはありません。列王記や歴代誌でヨシヤ王の宗教改革の場面を併せて読めば、もうそれだけで充分だと思います。



 爆睡すること約10時間。向かいの家で外壁塗り替えのための足場が組まれていたことも気附かずにいた。
 そんな爆睡の時間のなかで見た夢は、ずいぶんと切なく、胸苦しくなり、それでも最後にはハッピーエンドに終わる、終始一貫した流れを持つ恋物語であった。夢の物語を細かいところまで反芻しつつ延滞すること頻りの本を図書館へ返却する道の途次、自分がどれだけあの人を深くまで想うてしまっているのかを実感。
 これはわが願望か。それとも構想されて確定した未来なのか。さて?◆

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第1099日目 〈エレミヤ書第11章1/2:〈破られた約束〉with田山花袋『田舎教師』読了の報告〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第11章1/2です。

 エレ11:1-17〈破られた約束〉
 主がエレミヤにいった、━━
 この契約の言葉をユダの人、エルサレムの住民に告げよ。この契約の言葉は、あなたたちの先祖がエジプトを発って、いまあなたたちが暮らす約束の地(カナン)へ着くまでの間に、わたしがあなたたちの先祖に与えたものである。その際、わたしはこう告げた。わたしの声に聞き従い、わたしの命令にすべて応えるなら、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしは出エジプトのいにしえから今日に至るまで、繰り返し厳しく戒め、わたしの声に聞き従え、といってきた。が、あなたたちは━━あなたたちの先祖がそうだったようにわたしの声に聞き従うことなく、かたくななまでに、悪い心のままに歩んできた。「今、わたしは、この契約の言葉をことごとく彼らの上に臨ませる。それを行うことを命じたが、彼らが行わなかったからだ。」(エレ11:8)
 (「アーメン、主よ」とエレミヤはいった。)
 再び主がエレミヤにいった、━━
 ユダの人とエルサレムの住民が共謀しているのが見える。かれらは先祖が犯した罪に戻り、他の神々に従ってそれに礼拝している。かれらはわたしの言葉を拒んだ結果として、かれらの先祖とわたしの間に結ばれたあの契約を破った。ゆえにわたしはかれらへ災いをくだす。かれらが災いから逃れることはできず、わたしに助けを求めても願いはかなえられない。かれらが神としてあがめる偶像はかれらを助けることができない。エレミヤよ、この民のために祈るなかれ。かれらがために、嘆きと祈りの声をあげるなかれ。かれらが声をあげてわたしを呼び求めても、わたしはけっして聞き入れない。
 「あなたに災いが降りかかるとき、むしろ喜べ。/主はあなたを、美しい実の豊かになる/緑のオリーブと呼ばれた。/大いなる騒乱の物音がするとき/火がそれを包み、その枝を損なう。/あなたを植えられた万軍の主は、あなたについて災いを宣言される。それは、イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに香をたいてわたしを怒らせたからだ。」(エレ11:15-17)

 「イスラエルの家とユダの家」は北と南の王国をそれぞれいいます。バアル、ひいては異教の神々全般を節操なくあがめ、礼拝し、献げ物をささげた行為に対して、主はそれを裏切りと見なした、ゆえにわたしは怒り、災いを━━審判を降す、というのであります。
 このノートの前半でいう、かつて結ばれた契約、が、十戒を指しているのは、ここまで読んできてくださった読者諸兄には瞭然かもしれません。本ブログで十戒が出るのは久しぶりですから、該当箇所を挙げておきます。十戒は出20:2-17にあり、本章で特に指摘されるのは第2-7節です。
 就中、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」という第5-6節の言葉はそのままエレミヤ書の背景を成し、ダビデ-ソロモンによる統一王国と南北両王国の歴史の縮図である、といえるでしょう。



 田山花袋の『田舎教師』を帰りに電車のなかで読み、帰宅後に残り10ページ弱を読んで読了しました。これはやっぱり他人事とは思えない、自分の姿が投影されている小説のように感じました。大志に見切りを付けて平凡でささやかな生活を希求した途端に訪れる不幸……とてもではありませんが、他人事ではありません。ちゃんとした感想はいずれまた、━━。5連勤・5残業を終えたあとなので、もうね、眠いんだ……。◆

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第1098日目 〈エレミヤ書第10章:〈偶像とまことの神〉withドラマ『南極大陸』第一回を観ました。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第10章です。

 エレ10:1-25〈偶像とまことの神〉
 主がいった、━━
 異国の民の道をいっしょになって歩こうとするな。異国の民が畏れるのは、名も実もないむなしい存在だ。それは森から切り出された材木の一片を、木工が鑿(のみ)を振るって削りだして拵えた物。それは口を開いて民を導くことも、祝福することも災いを与えることもできない。
 エレミヤは応えた、━━
 主よ、あなたに肩を並べられる存在などありません。その御名には大いなる力が宿っている。諸国の民、諸国の賢者はすべからく無知で、木片でしかない偶像をあがめ、戒めとする者です。
 主がいった、━━
 わたしは真理の神にして命の神、永遠を支配する王である。その怒りに大地は震え、その憤りに諸国の民は耐えられない。エレミヤよ、諸国民に告げよ、天地を創造したこともない神々はやがて地の上、天の下から滅びる、と。
 エレミヤは応えた、━━
 天地を創造した主は、御声を発して天の大水をどよめかせる。地の果てから雨雲を湧きあがらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出す。斯くして裁きの<時>は訪れて諸国民は滅びてしまう。
 主がいった、━━
 敵に包囲されて孤立無援となったエルサレムよ、覚悟せよ。今度こそわたしはこの地の住民を投げ出して苦しめる。かれらを思い知らせるために、わが身にそれは傷となって残り、耐えねばならぬ病となる。わが天幕は略奪に遭い、荒れ果ててしまった。
 群れの養い手(王)は主を尋ね求めなかったばかりに、自分の群れを散らせてしまった。北の方から地響きがする、進軍が始まったのだ。それはやがてユダを荒廃させるだろう。
 エレミヤは願った、━━
 主よ、あなたの憤りを、あなたの御名を知らず、ユダを荒廃させる諸国の民の上に注いでください。
 「主よ、わたしは知っています。/人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることもできません。主よ、わたしを懲らしめてください/しかし、正しい裁きによって。/怒りによらず/わたしが無に帰することのないように。」(エレ10:23-24)

 綺麗な形で主と民の問答形式になっている点に着目して、本日は上記のようなスタイルを採用してみました。正確なところはわかりませんが、ずいぶんと久しぶりだと思います。
 聖書は何度か読んでわかってくる類の本ですが、と同時に、引用した箇所であってもこうしてブログ原稿用に打ちこんでやっとその本意がわかるようになった、という場合もあります。
 だから、最初はわからなくとも、雲をつかむような思いであっても、覚悟を決めて頭から飛びこんでしまうと、存外すぐに胸襟を開いてくれる稀な書物である、と、わたくしは、自身の経験を踏まえて申しあげさせていただきました。



 いや、ちょっと今後に期待できますね。なにがって、木村拓哉の『南極大陸』ですよ。ぼくは子供の時分、映画『南極物語』が好きだった。ドラマの方は、それに優るとも劣らない具合であります。風連のクマは良い面構えをしていましたね。宗谷に乗ってかの未知の大陸へ挑んだ人たちは、どんな思いでこの新番組を観たでしょうね?◆

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第1097日目 〈エレミヤ書第9章:〈ユダの堕落〉with有休を取ったあとの企みごと。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第9章です。

 エレ9:1-25〈ユダの堕落〉
 主はいった、━━
 ユダの民は著しく堕ち、姦淫する者、裏切る者の集まりと化した。かれらは真実を語らず、偽りを語って悪事を重ねる舌を持つ。いまや人は隣人を警戒しなくてはならない。欺くなかれ、という十戒の一つを破り、かれらの舌は専ら偽証に使われるようになったからだ(エレ9:4←→出20:16)。
 こんなかれらをわたしは、火のなかに放りこんで溶かして、試そうと思う。舌は欺きを語って偽り、心は偽りを以て悪を企む。わたしはそれを許さない。わたしはかならずかれらの悪に報いる。人よ、焼き払われて荒廃した牧草地に立ち、哀しみつつ嘆きつつ哀歌をうたえ。瓦礫の山となったかつての王都と国のそこいら中にあった町々、そこで暮らす者はもういない。理由は、知恵ある者には自ずとあきらかだろう(ex;エレ9:11-15)。
 ユダの民が目から涙をしとどに流し、目蓋には水を滴らせている。捨て去られたシオンの町の、どこからともなく嘆きの声が聞こえてくる━━荒し尽くされ、甚だしく恥を受けたことを嘆く声が。上手な泣き女を迎えにやって、ここで嘆きの歌をうたわせよ。然るに女たちはわたしの言葉を聞き、受け入れるがよい。仲間に嘆きの歌を教え、そうして互いに哀歌を学べ。
 ━━わたしは<その時>が来たら、包皮に割礼を受けた者、心に割礼のない者、即ちイスラエルの家をことごとく罰する。

 「主はこう言われる。/知恵ある者よ、その知恵を誇るな。/力ある者は、その力を誇るな。/富ある者は、その富を誇るな。/むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。/目覚めてわたしを知ることを。/わたしこそ主。/この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレ9:22-23)

 舞台裏をお話しすれば、読んでわかるまでに時間を要した章でした。ノートを書くにも難儀しました。一旦書きあげてなお至らず、放棄して翌る日に筆を執ったのでありました。
 難儀したのは引用した箇所でした。時間をかけてじっくり読み、うんと考え、ようやっと、成る程そういう事か、とわかったのでした。うれしかったけれど、それ以上に、自分の鈍さにほとほと嫌になりましたよ。
 この引用した箇所は変奏した形で、新約聖書の「コリント人への手紙 一」(1:31)と「同 二」(10:31)に出てまいります。なお、「誇るな」とは「頼るな」という意味合いであり、「捨てろ」というのではありません。



 吾輩は倉庫内軽労働者である。有休はまだない。一つの企みごとは、まとまって休みが取れたら、是非〈ゴシック名訳集成〉全3巻をじっくり、腰を据えて耽読すること。ここに戦後しばらくまで息づいていた近代日本語、最良極上の成果がまとまっているように思う。特に平井呈一による擬古文訳、ホレス・ウォルポール『オトラント城奇譚』と矢野目源一による単独訳版、ウィリアム・ベックフォード『ヴァテック』と皆川正禧による奇異にして壮麗な訳、ジョージ・メレディス『シャグパットの毛剃』は万人必読、とまでいっておきたいものであります。◆

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第1096日目 〈エレミヤ書第8章2/2:〈民の背信〉&〈敵の攻撃〉with望むこと。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第8章2/2です。

 エレ8:4-13〈民の背信〉
 主がいった、━━
 倒れれば起きあがる、離れれば立ち帰る。なのになぜ、エルサレムは背き続けるのか。かれらの言い分に耳を傾けても、けっして本心を語らない。自分の犯した罪や悪行を後悔したりもしない。なお耳を傾けようとすると、去ってゆく。わが民は主の定めを知らない━━。
 たとえ賢者と雖も主の言葉、主の律法を侮る輩に知恵などあろうか。かれらは本当に忌むべきことをしでかして、なおそれと気附かずに悪を重ねている。それをなんら恥と思わず、また、他から嘲られていると知らず……。「それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/彼らが罰せられるとき、彼らはつまずく。」(エレ8:12)
 主はいう、かれらを集めようとしても既にその実はなかった、と。

 エレ8:14-23〈敵の攻撃〉
 ダンの方角から敵が軍馬を駆って進んでくる音が聞こえる。主が遣わした敵の軍勢は、やがて大地とそこに満ちるもの、都とそこに住む者を喰い尽くす。主に対してわれらが罪を犯し、更に罪を重ねるためだ。━━もはや平和を望んでも与えられず、平和を望む言葉に実はない。癒しを求めても、与えられるのは恐怖だけだ。
 遠い地から同胞の叫びが聞こえる。シオンに主はいないのか、とかれらはいう。ユダはカナンの先住民があがめる異教の神に依り頼み、自分たちが本来信じ、あがめ、畏れるべき主を蔑(ないがし)ろにして、顧みなかった。預言者エレミヤは嘆いた、━━
 「刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。/しかし、我々は救われなかった。/娘なるわが民の破滅のゆえに/わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。」(エレ8:20-21)また、「わたしの頭が大水の源となり/わたしの目が涙の源となればよいのに。/そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう/娘なるわが民の倒れた者のために。」(エレ8:23)

 主なる神とユダの民の間にはさまれて懊悩するエレミヤの嘆きを感じてください。そうして、それに想いをやってください。これが、「エレミヤ書」の真骨頂です。



 望むのは、━━
 ・いつまでもあの会社で働くことができること。
 ・給料が上がり、タイトルが上がること。
 ・<輪>と<和>を乱さず、協調してやってゆくこと。
 ・裏切られないこと、裏切らないこと。
 ・あの女性と想いが通じ合ってお付き合いできるようになること。できれば家庭を……。
 ・聖書の読書ノートが、即ち本ブログが、一日も早く、恙(つつが)なき完結の日を迎えること。
 ・小説が売れること。◆

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第1095日目 〈エレミヤ書第7章&第8章1/2〈神殿での預言〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第7章と第8章1/2です。

 エレ7:1-8:3〈神殿での預言〉
 主の目に悪と映ることをことごとく行った王、ヨアハズの御代であったろうか。預言者エレミヤは神殿の門の上に立ってそこを行く人々へ呼びかけた。主を礼拝するために神殿の門をくぐる者らよ、主の言葉を聞け。そうエレミヤは呼びかけて、かれらに主の言葉を伝えた。主はこういった、━━
 ユダの民よ、行いをあらためてわが道へ戻れ。悔い改めて再びわたしを信じ、思うならば、あなたたちは永久にこの地、かつてわたしがあなたたちの先祖に与えた〈約束の地〉カナンに住まうことができる。が、いまのあなたたちはむなしい言葉にばかり依り頼んでいる。むなしい言葉にあなたたちを救う力はない。あなたたちは戒めを破り、わたしの名を汚し、異教の神々に献げ物をささげている━━それなのになお、あなたたちはわたしの名が置かれる神殿に礼拝することを考え付くのか。わたしはかつて契約の箱が置かれていたシロの地と同じように、この都エルサレムとこの神殿に対して怒りを降し、あなたたちをわたしの前から投げ捨てる。なぜなら、わたしが先に繰り返し語ったのにあなたたちはそれに従わず、呼びかけたのに答えなかったからだ。
 ━━これが、エレミヤに降って民に伝えられた主なる神の言葉である。
 主はエレミヤに忠告した。ユダのために祈るな、と。どれだけ預言者が民の嘆きと祈りを伝えようとも、わたしはそれに耳を傾けない、とも。ユダの町々、そこに暮らす人々のことを知っているか、と主はいった。かれらはわたしを怒らせている、というよりも、自らの恥のゆえに自らを怒らせているのではないか?
 主の曰く、━━
 「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。』
 しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえってうなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。
 あなたが彼らにこれらすべてを語っても、彼らはあなたに聞き従わず、呼びかけても答えないであろう。それゆえあなたは彼らに言うがよい。『これは、その神、主の声に聞き従わず、懲らしめを受け入れず、その口から真実が失われ、断たれている民だ。』」(エレ7:22-28)
 かれらユダの民は(と、主がいった)、わたしの前に於いてことごとく悪を行った。かれらはわたしの名が置かれる神殿に不純なものを置いてこれを汚した。これらのゆえに、ユダの町々とエルサレムから喜びの声、祝いの声、花婿と花嫁の声を絶ち、この地を廃墟とする。この地に埋もれた民の骨は、かつての身分にかかわりなく吹き荒れる風に吹かれるがままとなり、大地の肥やしとなる。「わたしが他のさまざまな場所に追いやった、この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものとなる、と万軍の主は言われる。」(エレ8:3)

 「エレミヤ書」のなかでも有名な章です。
 ユダが自ら犯してきた罪、悪のゆえに主はかれらを顧みない。だからエレミヤよ、あなたはかれらのために祈ってはならない(エレ7:16)。これは本書のなかで何度も目に触れる主の言葉であります。第7章だけでなく、たとえば近いところでは昨日の第6章(第30節)、もうすぐ読むところでは第11章(第14節)でも出て来る言葉です。
 あなたはユダのために祈ってはならない。なぜか? 主が自らの意志を実現させる手段として、北からの敵━━新バビロニア帝国の登場を準備しており、エレミヤがユダのために祈って救済を求めれば、それを妨げる行為となるからです。……なら、なぜエレミヤは遣わされたのか。ユダを回心させてはならないからです。それゆえに祈るな、というのです。しかし、勿論そんな簡単なことで片附くはずもなく、もっと奥深く根深い理由がありそうです。それについては、わたくしももうちょっと考えてみたいと思います。
 「エレミヤ書」は主の再三にわたる悔い改めの言葉を無視した民がどんな運命に直面したか、を語った書物でありました。これに対して、国が滅びることを知って民が一斉に悔い改めた結果、救われてしまったことに預言者がむくれて主に抗議する、という愉快な場面を持つのが、同じ預言書の一つ、「ヨナ書」であります。まるで正反対な性格を持つこの二書を較べて読んでみるのも面白いと思います。◆

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第1094日目 〈エレミヤ書第6章:〈エルサレムの攻城〉with去来する苦い昨日を(短歌風に。)〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第6章です。

 エレ6:1-30〈エルサレムの攻城〉
 ベニヤミンの人々はエルサレムから避難して、テコアの町で角笛を吹き鳴らせ。そうして、ベト・ケレムの丘で狼煙をあげよ。北からの災いと破壊が迫っていることを国中へ伝えるために。主はいった、わたしは爛れた行いに耽った娘シオンを滅ぼす、北からの敵はお前を包囲して昼夜の別なく攻撃を仕掛けてくる、と。
 万軍の主はかれらを支持し、自分の民を懲らしめようとする。主は、エルサレムは罰せられるべき都だ、という。都からは悪が尽きることなく湧き出し、不法と暴力の叫び声が絶え間なく聞こえてくる。エルサレムを見舞う病と傷はいつだって主なる神の前にある。主はこうもいった、「エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。/さもないと、わたしはお前を見捨て/荒れ果てて人の住まない地とする」(エレ6:8)と。
 「万軍の主はこう言われる。/『ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。/ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。』」(エレ6:9)
 嗚呼、誰がこの警告を聞き入れられようか。かれらはみな聖別された主の民なのに、主の言葉に耳を傾けることができないとは……。それというのもかれらが主の言葉を侮って考えているからだ。わたしエレミヤはもう耐えられない。わたしに臨む主の怒りはあまりに激しく、それを受け止めるわたしはもう疲れてしまった。主はいう、それをすべて吐き出してしまえば、ユダの民は老若男女、身分の貴賤にかかわりなく、みな捕らえられる。人のみならず田も畑も、家も町も、この大地の上にあるものはいずれもすべて。
 さまざまな道に立って四囲を眺めよ。むかしからの道に問いかけよ。どれが幸いに至る道か、よく見極めてそこに魂のやすらぎを求めよ。そうわたしエレミヤは民に訴えた。しかしかれらは拒絶した。自分たちのために見張りを立てて、敵が来たら角笛を吹き鳴らせ。そうわたしはエレミヤはいった。しかしかれらは拒絶した。
 かれらの企みが実を結び、主はあらかじめ構想していた未来を実現させるため、この地に災いをもたらす、と宣言した。自分たちの犯し続けてきた悪が身を結んだ結果がこれである、と見せしめるために。もはや如何なる悔い改めも通用しない。
 斯くして主はシオンの滅びを告げた。民は呆然とし、嘆いた。が、もはや万軍の主の意思は翻せない。主がかれらを見捨てられたからだ。……。

 「北からの敵」がスクテア人たちなのか、新バビロニア帝国なのか、判然としません。が、主が来たる終末に向けてシオンを、ユダを、北から迫る敵の手にゆだねることにしていたのは前後の章から明らかであります。ここでの主の言葉が現実のものとなったとき、人々はどんな面持ちでそれを見、どんな心境で自分たちの過去の所行を悔いたでしょうか。そうして、主とエレミヤの言葉を、どんな気持ちで思い出したのでしょうか……。


 去来する苦い昨日を哀しんで、さらぬ面影をひたぶるに追う。◆

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第1093日目 〈エレミヤ書第5章:〈エルサレムの陥落〉with三浦しをん『ふむふむ 教えて、お仕事!』(新潮社)を買ったんだけれど、〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第5章です。

 エレ5:1-31〈エルサレムの陥落〉
 預言者エレミヤはいった、エルサレムの住民に一人でも真実を求め、正義を行う人がいるのなら、わたしはエルサレムを赦したい。が、そんな人は一人もいなかった。かれらの誓いは偽りだったのだ。主がどれだけ打とうとも、かれらはかたくななままだ。主に立ち帰る様子もない。
 かれらは無知ゆえに主の道、主の掟を知らなかったのだ、とエレミヤは考えた。却って身分の高い人たちならば、主の道、主の掟を知るだろう。━━が、実際はそうではなかった。いまや民はみな軛を折り、綱を断ち切り、主に対して背きに背きを重ねている。身分の貴賤にかかわりなく、だ。そんなかれらをどうして赦せよう。嗚呼、主はかれらの悪にかならず報いるだろう。
 かれらは、自分たちに災いが臨むはずがない、という。しかし、見よ、主は遠くから一つの国をユダの上に、エルサレムの上に襲いかからせる。ユダの砦の町々はかの国の勇者たちに破壊されてゆく。それでも主は自分の民を全滅させたりはしない。その代わり、かつて異教の神々に仕えた如く、民は他国民に仕えるようになる。
 ヤコブの家よ、ユダの民よ、主はこういう━━とエレミヤがいった。背き続けるお前たちの罪がわたしを畏れ敬う気持ちを退け、更なる罪へ、更なる悪へと走らせる。その行為にかならずわたしは報いる。
 「恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。/預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。/その果てに、お前たちはどうするつもりか」(エレ5:30-31)と主がいった。

 ちょっと長い章です。途中で混乱するかもしれませんが、だいじょうぶ、要は、━━
 エレミヤはいう、「もしエルサレムに一人でも正しい者がいれば、わたしはエルサレムを赦す」でもそんなのは一人もいなかった。エルサレムの人々は自分たちの上に主の怒りが臨むはずはない、と高を括っている。でもそんなはずはない、みながみな、身分や職業にかかわりなく堕落しているからだ。だから主は、遠くから一つの国を派遣してユダを蹂躙させ、異郷の民の下にひれ伏すようにさせるのだ。主がかならず民の悪に報いる、というのはこういうことである。
 ……なんでしょうね、この簡潔にして明快な要約は。本編(上)でもこうやれ、っていう話ですよね。善処します。
わたくしは最初にこの章を読んだとき、「前夜」でも触れたミケランジェロ描くエレミヤ像を想起しました。坐りこんで憂愁に沈むかれの姿が、本章の言葉の裏に透かし見えてくるのです。あなたはどうですか?



 ようやく三浦しをん『ふむふむ 教えて、お仕事!』(新潮社)を買ったんだけれど、『yom yom』連載中にあった写真が幾つか削られているよね。それがちょっと残念、でも、仕方ないか。個人的にはヘルメットを被った三浦しをんの写真がけっこうツボだったのだが……。あと、掲載誌が手許にないので記憶頼みでいうのだけれど、単行本の方は連載時と順番が入れ替わっているよね? そんなどうでもいい話でした。新作小説『舟を編む』(光文社)を読むのはもう少し先かなぁ。◆

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第1092日目 〈エレミヤ書第4章2/2〈北からの敵〉wthAKB48〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第4章2/2です。

 エレ4:5-31〈北からの敵〉
 北の地からユダに、エルサレムに向かって進む敵がいる。エレミヤよ、と主がいう、国中へこの危難を告げて廻れ、と。みな、荷物をまとめて町を捨て、旗を掲げて王都エレサレムへ逃げこめ。敵は刻一刻とユダに接近している。かれらはユダを荒廃させ、町々を滅ぼすために南下している。
 主はいう、わたしは北から大いなる破壊をもたらす、と。ユダに迫る敵は主の裁きの手段、その激しい怒りはわれらを去ることがない。その日、ユダの高官も祭司も預言者も為す術を知らず、怯み、挫けるであろう。かれらは主なる神に許しを乞うだろう、しかし、わたしがそれに心動かされることはない。民に吹きつける風は篩(ふる)い分ける風でも清める風でもない、それらを上回る激しい風であり、それこそわが裁きである、と主はいった。
 敵が迫る、「エルサレムよ/あなたの心の悪を洗い去って救われよ。/いつまであなたはその胸に/よこしまな思いを宿しているのか。」(エレ4:14)
 ダンの方角からやって来た敵が都を包囲し、戦いの喚声をあげる。これこそわたしに背いたことへの代償である。あなたの道、あなたの悪がもたらしたことへの代償である。あなたたちの悪は非常に苦く、心臓にまで達する。あなたたちを見舞った災厄にわたしは黙っていられない、瞬くうちにわたしの天幕(神殿)が焼け落ち、都の城壁の内側にある幕という幕が荒し尽くされてゆく。嗚呼、わたしはいつまでわが民が洩らす阿鼻叫喚を聞かねばならぬのだろうか。まことにわが嗣業の民は愚かだ、かれらは悪を行うに敏く善を行うに疎い存在だ。北からの敵はシオンを蹂躙し、住民はそこを逃げ出して悲痛な声をあげるだろう。
 「わたし(エレミヤ)は見た。/見よ、大地は混沌とし/空には光がなかった。/わたしは見た。/見よ、山は揺れ動き/すべての丘は震えていた。/わたしは見た。/見よ、人はうせ/空の鳥はことごとく逃げ去っていた。/わたしは見た。/見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり/町々はことごとく、主の御前に/主の激しい怒りによって打ち倒されていた。/まことに、主はこう言われる。/『大地はすべて荒れ果てる。/しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。/それゆえ、地は喪に服し/上なる天は嘆く。/わたしは定めたことを告げ/決して後悔せず、決してこれを変えない。』」(エレ4:23-28)

 表現の限りを尽くしてエルサレムへ危機を告げる、悲痛かつ激烈な預言。本章に於いて「北からの敵」とは騎馬民族スクテア人やキンメリア人を指すそうですが、けっきょくこれがユダの脅威となることはありませんでした。この預言をしたがために、却ってエレミヤが窮地に立たされた場面もあったことと思います。おそらくそれは、今後の預言者としての活動に幾許かの弊害をもたらしたことだったでしょう。
 わたくしのような怪奇・幻想文学ファンがキンメリア人と聞いて真っ先に連想するのは、R.E.ハワードの創造した英雄コナンに他なりません。が、ハワード描くコナンの属するキンメリア人とはここで触れた北の騎馬民族ではなく、古代ギリシア人が極西にあると考えた常闇の国、加えてプルタルコスが『英雄伝』でキンブリー人をケルト系民族と誤解して件のキンメリア人と結び付けた結果である由。創元推理文庫の「新訂コナン全集」第2巻『魔女誕生』の解説(中村融)にあります。それにしてもこれの最終巻は一体いつ出るんでしょうねぇ。同文庫のドイル短編集も最終巻がまだだったような気が。



 何年も前、当時の同僚に首根っこ摑まれて秋葉原へ連れてゆかれたことがあってさ。メイド喫茶で居心地の悪さと味のよろしからざるコーヒーに閉口したあと、両手両足の指で事足りる数の観客しかいないAKB48を観に行ったんだ。よもやあの子たちがこれ程メジャーになるとは思わなんだ。まぁよかったよね、としか言い様がないのだが、なぜかCDまで持っているとあっては、もはや(われながら)やんぬるかな、としか呻きようがない。
 そんな、お祭りの会場を脇から覗きこんで一歩引いているような立場を死守したいわたくしが好きなAKB48の歌は、順不同で「会いたかった」と「ヘビーローテーション」、「涙サプライズ!」、「軽蔑していた愛情」、「誕生日の夜」です━━暫定的なものですが。なんだろうな、この行き合ったりばったりな選曲は。吉田拓郎を聴きながらこんな文章、書くものではないな、といささか反省(♪この国ときたら、賭けるものなどないさ~。だからこうして漂うだけ~♪;「落陽」より)。VCとしては「涙サプライズ!」、「軽蔑していた愛情」が最高に好きなのです。◆

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第1091日目 〈エレミヤ書第3章2/2&第4章〈悔い改めへの招き〉with言いたいこと。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第3章2/2と第4章です。

 エレ3:19-4:4〈悔い改めへの招き〉
 主はいった、━━
 ずっとむかし、わたしはわが子イスラエルの未来をさまざま想って、たとえばかれらが暮らしてゆくためには、地上にあるうちでも一際麗しい土地を与えて、子々孫々に至るまでその大地を継がせよう、と考えていた。わたしを<父>と呼ぶ子らが、よもや裏切ったり離れてゆくことはあるまい。わたしはそう思っていた。が、イスラエルはわたしを欺き、離れていった。かれらはわたしを裏切った。
 かれらの嘆き、訴える声が裸の山々から聞こえる。というのも、かれらがわたしの定めた正しい道から外れて、かれらの神が誰であるかを忘れたからに他ならない。それでも、かれらは悔い改めようとしている。「我々は恥の中に横たわり/辱めに覆われています。/我々は主なる神に罪を犯しました。/我々も、先祖も/若いときから今日に至るまで/主なる神の御声に聞き従いませんでした」(エレ3:25)といって。イスラエルよ、立ち帰れ、わたしは背いたあなたたちを許す。
 わたしのもとに立ち帰ろうとするイスラエルよ、あなたたちちのなかから呪われた部分を捨て去るがよい。そうすれば、もう迷うことも、正しい道から外れることもない。あなたたちが真実と公平と正義を以て「主は生きておられる」と誓うなら、諸国民もあなたを通してわたしの栄光に触れ、わたしの祝福を受けるようになる。そうして、あなたたちを誇りとするだろう。
 「ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ。/さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに/わたしの怒りは火のように発して燃え広がり/消す者はないであろう。」(エレ4:4)

 親の心子知らず、といいますが、まさに聖書に於ける神と民の関係もそうであったか、と納得させられる一章です。
 ここで主は、いまならまだ間に合う、といいます。いまならだやり直せる、まだわたしの前に正しい者であることができる。悔い改めてわたしの許に立ち帰るなら、滅びはまぬがれる。これが、イスラエル/ユダに対して主が、エレミヤを通じて与えたメッセージであります。それは諸国へもあまねく轟く栄光と祝福をも約束するのでした。以後もこうした救済のメッセージは与えられます。が、もうちょっと限定されたそれとなることで、だんだんとユダが滅びの日に向かって邁進してゆくのがわかるようにもなっています。
 なお、引用したエレ4:4と後日取り掛かるエレ9:24-25は、割礼をキーワードにした対照的な文言となっております。較べて読んでみると面白いと思います。



 喉を痛めた。まったく声が出ない。気道をふさがれたような感じだけれど、空気だけはなんとか肺に取りこめる。わかるかな、この感覚……。
 全地を造り給ふた神は人の世の雑事にとんと関心がないようだ。まったく好い加減だ、最後まで責任を持ってほしいな。
 社会に出たその瞬間から人は、親や兄弟とさっさと縁を切ってもう二度と会わないようにした方がよいと思う。自分たちが親になっても同じこと。そうやって人は新しい家族を作ってゆけ。肉親なんて永遠の敵ですよ。◆

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第1090日目 〈エレミヤ書第3章1/2:〈悔い改めの言葉〉&〈シオンへの帰還〉wthこのブログ、続ける価値があるのかな?〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第3章1/2です。

 エレ3:1-13〈悔い改めの言葉〉
 いま主は、かつての花嫁に悔い改めを呼びかける、━━
 多くの男と淫行に耽って道を踏み外したことを、お前はすこしも恥じる様子がない。わたしの名を呼んでいても、わたしの怒りが降ることを恐れていても、それは本心からではない。
 (ヨシヤ王の御代の或る日、主の言葉がエレミヤに臨んだ。━━お前は北王国イスラエルはわたしの目にことごとく悪と映る行為を、反省することなく繰り返した結果として滅びた。それを見たはずのユダは悔い改めるどころか、ますます悪と映る行為を重ねていった。真心を以てわたしに立ち帰ることもなく……。━━「裏切りの女ユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった」(エレ3:11)と主はエレミヤにいった)
 エレミヤよ、行って民に語りかけよ、主に立ち帰れ、と。主の曰く、━━
 「わたしはお前に怒りの顔を向けない。/わたしの慈しみ深く/とこしえに怒り続ける者ではないと/主は言われる。/ただお前の犯した罪を認めよ。」(エレ3:12-13)

 エレ3:14-18〈シオンへの帰還〉
 主はいった、わたしはあなたたちの町から一人、一つの氏族から二人を選んでシオンへ連れてゆこう、と。わたしはかれらに牧者を与える。かれらの心にかない、巧みに導く牧者を。
 かれらはシオンの地で大いに栄え、もはや主の契約の箱について語らず、神に代わる偶像を造らず、万軍の主以外の存在を求めたりせず、かつてそうした行為に耽ったという記憶を思い起こすこともないようになる。そのときこそエルサレムは主の玉座となり、諸国民は主の御名を求めてエルサレムに集い来たる。もうかれらの心に悪を育む用意はなく、主の目に正しく映らない行為へ耽ることはない。そうしてその日、「ユダの家はイスラエルの家と合流し、わたしがあなたたちの先祖の所有とした国へ、北の国から共に帰ってくる。」(エレ3:18)

 「背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。」(エレ3:14)

 昨日同様、過去に書いたノート本文に手を加えました。まずは暫定決定稿とさせていただきます。
 王位に誰が就こうとけっして変わることのないユダを、主は忍耐強く説得します。立ち帰れ、と。いま立ち帰ってわたしを畏れ敬い信じるようになれば、再びあなたたちは嗣業の民として諸国の尊敬を受ける。が、これだけ告げているのにいっこう悔い改めない様子が続くならば……。でもこの態度はけっこう清々しいですよね。



 このブログって誰が読んでくれているのかな? なんだか今日は特にむなしいんだ。これ、続けてゆく意味のあるブログなのかな……。もうね、時間の捻出も内容の理解も難しくなってきているんだ。そろそろ本気で止めることを考えています。◆

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第1089日目 〈エレミヤ書第2章:〈イスラエルの罪〉with悩んでいること。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第2章です。

 エレ2:1-37〈イスラエルの罪〉
 主の言葉がエレミヤに臨んだ、━━
 わたしはかつて、あなたたちが若いときの真心であり、花嫁のときの愛であった、と。かつて出エジプトを果たして荒れ野を彷徨っていたときは、多少の咎はあったと雖も従順であった、と。かつてイスラエルはわたし主にささげられた聖なる存在で、収穫の初穂であった━━それを食べる者はいずれもみな罰せられて、災いを蒙るものであった、と。
 なのに、あなたたちの先祖は、わたしにどんな落ち度を見出して離れていったのか。あなたたちの先祖は“乳と蜜の流れる地”カナンに入植後、徐々にわたしから離れてゆき、いまやわたしを軽んじて顧みなくなるに至った。あなたたちは訊ねたこともなかった、われらをエジプトから解放してこの地へ導いた主はどこにいるのか、と。祭司たちも同断である。いまやあなたたちイスラエルはバアルによって預言されたことに従い、とうてい助けになるはずのないもののあとを追った。そうして、わたしによって与えられた肥沃な大地を忌まわしいものに変えた。
 「それゆえ、わたしはお前たちを/あらためて告発し/また、お前たちの子孫と争う」(エレ2:9)と、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
 エレミヤに臨んだ主の言葉の続きである、━━
 奴隷となったわけでも、家の僕となったわけでもないのに、なぜあなたたちは捕らわれの身となったのか。アッシリアやエジプトに依存して生き永らえようというのか。それがわたしへの背きである、と、どうして考えが及ばないのか。「あなたの犯した罪が、あなたを懲らしめ/あなたの背信が、あなたを責めている。/あなたが、わたしを畏れず/あなたの神である主を捨てたことが/いかに悪く、苦いことであるかを/味わい知るがよいと/万軍の主なる神は言われる。」(エレ2:19)
 かつてわが嗣業の民として諸国に名を知られていたあなたたちは、いまや遊女となりさがり、誰にでも情欲の目を向けるようになった。どれだけ身を清めて拭っても、一旦染みついた悪はわたしの目に明らかである。火急の段に遭えばふだんは忘れている主に向かって、どうかこの災難から救ってください、と懇願する。わたしは助けない。なぜユダの町々に坐す、自分たちがその手で拵えた偶像にひれ伏して、それらに助けを乞わないのか。
 「なぜ、わたしと争い/わたしに背き続けるのか、と主は言われる。」(エレ2:29)

 心が重なり合っていた蜜月を懐かしみ、それゆえに主は自分を顧みなくなった民を嘆き、立ち帰るよう言葉を重ねて説きます。が、どれだけエレミヤを通じて民に言葉を伝えても、もはや悪徳に染まったユダは傾けるべき耳を持たず、その心のなかに主を敬い畏れる気持ちが再び芽吹く様子は見られなかったようです。そんな悲しみと絶望が、主をしてあらかじめ構想された未来の実現を決意させたのかもしれない。そんな風に思います。



 悩み?
 仕事(通勤時間・ときどきやる残業込み)と読書・執筆(専ら聖書読書ノート、それに基づくブログ原稿の作成と更新)の配分を如何にし、どうやって継続させるか、について未だ決着を見出せずにいること。これってけっこう難題だ。毎日帰りに喫茶店へ寄るお金があればなぁ……(これ、けっこうバカにならない金額だ)。嗚呼!
 そうして、おぐゆーさんのこと。
 いろんなこと、様々なこと。
 うーん、とかくこの世は住みづらい、って本当ですね、漱石先生!!◆

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