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第1230日目 〈エゼキエル書第20章:〈エジプトからの救いと背信〉with光文社文庫版『失われた時を求めて』最新刊、やっと出たよ……。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第20章です。

 エゼ20:1-44〈エジプトからの救いと背信〉
 捕囚の地に来て7年目の5月10日、長老たちが主の御心を問うためにやって来た。そのとき、主の言葉が臨んだ、お前たちが尋ねてもわたしは答えない、と。
 人の子よ、イスラエルの家にこう語りなさい。往古、わたしがイスラエルを選んだ日、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、かれらを奴隷の地エジプトから連れ出し、地上で最も美しい場所、即ち“乳と蜜の流れる土地”カナンへ導く、と約束した。エジプトをあとにしたイスラエルの家は長く続く荒れ野での生活と彷徨に耐えかね、不満を募らせた。その間、わたしはかれらに律法を与え、また、安息日を守るよう約束させた。が、それは遠からずして破られ、かれらはわたしを忘れて偶像崇拝に耽り、かつわたしを汚した。わたしは憤りをかれらの上に注ぎ、滅ぼし尽くそうとした。が、「わが名のために、わたしがイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の前で、わが名を汚すことがないようにした。」(エゼ20:14)しかし、わたしはかれらに、お前たちを約束の地に導き入れはしない、と告げた。わたしの名を汚し、わたしの律法に背いたがために。これは、かれらを憐れみ、滅ぼさなかった代償である。
 わたしは荒れ野でかれらの子供たちに語った。わたしの律法を守り、安息日を聖別し、偶像を崇めてはならない、と。これをわれらの間の印とし、お前たちの神なる主がわたしであることを知れ、と。しかし、かれらもまた親の世代同様にわたしに背き、わが名を汚し安息日を守らず、偶像を崇めた。わたしはかれらの上に憤りを注ぎ、かつ滅ぼそうとしたが、諸国民の前でわが名を汚すことになるので、それは思い留まった。代わりに、「わたしは荒れ野で彼らに誓い、彼らを諸国民の間に散らし、諸国に追いやると告げた。」(エゼ20:23)そうして、「良くない掟と、それによって生きることができない裁きを彼らに与えた。」(エゼ20:25)
 イスラエルの家に告げよ。お前たちの父祖はわたしを裏切り、冒瀆した。お前たちは父祖の歩みに従って自分を汚し、偶像崇拝を行い、姦淫に耽った。そんなことをしているお前たちの求めに、どうしてわたしが答えられようか。わたしはお前たちの求めには、決して応じない。
 お前たちは憤りゆえに諸国民の間に散らされ、諸国に追いやられる。それは実行される。しかし、そこで終わるわけではない。わたしは必ず、強い手と伸ばした腕とあふれる憤りを以て、お前たちを諸国民のなかから連れ出す。わたしはお前たちを諸国民の荒れ野に導き、顔と顔を合わせてお前たちを裁く。かつてお前たちの父祖をエジプトの荒れ野で裁いたように。
 「わたしは、お前たちを牧者の杖の下を通らせて、契約のきずなのもとに導く。わたしはお前たちの中からわたしに逆らい、背く者を分離する。わたしは、彼らを寄留の地から連れ出すが、彼らはイスラエルの土地に入ることはできない。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼ20:37-38)
 「お前たちイスラエルの家よ、主なる神はこう言われる。おのおの自分の偶像のもとに行き、それに仕えよ。その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる。わたしの聖なる山、イスラエルの高い山で、と主なる神は言われる。
 そこにおいてのみ、この地にいるイスラエルの家はすべて、こぞってわたしに仕える。そこでのみ、わたしは彼らを受け入れ、その所で、献げ物と聖なる最上の供え物を求める。
 わたしは、宥めの香りと共に、お前たちを受け入れる。わたしが諸国の民の中から連れ出し、散らされていた国々から集めるとき、わたしは諸国民の前で、お前たちに自分を聖なる者として示す。
 わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。
 お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼ20:39-44)



 なんと充実し、読み応えある章でありましょうか!? 近年稀にみる手応えを感じたことも手伝って、思わずノートにも力が入り、最後の6節にわたる長い引用も思わず手打ちで書き写しちゃいましたよ。……とは、やはり少し大袈裟であったか。
 それはさておき。
 本章の読書中、出エジプト記からヨシュア記に至るまでのカナン入植前史が、ふわぁり、と脳裏に浮かんだ人も多かったのではないでしょうか。メリバ、ミツパ。シナイ、金の仔牛像。モーセの怒り、モーセの悲しみ、モーセの死。そうして、ヨシュアの辛苦。これらが走馬燈のように甦ったのも仕方ありません。なぜなら、旧約聖書中、最もドラマティックかつ誰もが知っている歴史をなぞっているから。その親近感ゆえ、わたくし自身も読み進められた、という気持ちが強いですね。或る意味、ここを楽しんで乗り切ることができたからこそ、いまに至るまで不平も募らせつつ(ん?)、読んでいられるのでありましょう。
 本章は読んでそのままの章です。特に比喩がばんばん使われている内容であるわけでも、主語も視点もはっきりしない語りがされている章であるわけでもない。さんさんか的には「あれ、珍しいな」と思わず拍子抜けしてしまうぐらいのあっさり感が堪らない一章でありました、と告白しておきます。



 ようやく光文社文庫版プルースト『失われた時を求めて』第3巻が刊行。長かった……。
 岩波文庫版の刊行スピードが早いのか、或いは光文社文庫版が単に遅滞しているだけなのか、それについてはなんとも申しあげにくい。
 が、本書の性質から考えて、光文社文庫版の刊行スピードがいちばん相応しいのかな、とも思う。むろん、遅延を讃仰しているのではないから勘違いなさらぬよう。
 さて。そろそろ重い腰をあげてプルーストの世界に浸るとするかな。◆

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第1229日目 〈エゼキエル書第19章:〈君候たちの悲しみの歌〉withラトル、勇退。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第19章です。

 エゼ19:1-14〈君候たちの悲しみの歌〉
 イスラエルの君候たちのための、悲しみの歌;
 お前たちの母を雌獅子に喩えよう。
 彼女は子らのなかから一頭の子獅子を選び、若獅子へと育てあげた。が、その若獅子は力に驕って無差別に獲物を狩り、人々を餌食とした。そのために仕掛けられた罠にかかり、エジプトへ連れてゆかれた。
 諦めて彼女は再び一頭を選んで育てた。が、その若獅子も力に驕り、人々を襲った。加えてかれらの町を荒廃させた。城郭も破壊され、その咆吼に人々は戦慄した。然うして遂に罠にかかった若獅子は、バビロンへ連れてゆかれたのである。咆吼がイスラエルの家に響くことは、もうなかった。
 お前たちの母を水辺の園に植わるぶどうの木に喩えよう。
 木は生育して実を結び、枝は支配者たちの杖とされた。木は雲に届くかと思うぐらいに高くなり、たっぷりと伸びた枝という枝のせいもあって、一際目立ち、栄え、豊かに見えた。
 しかし、主の怒りが轟くと、ぶどうの木は根っこごと引き抜かれて大地へ倒された。枝も実も東風に吹かれ、炎に焼かれた。いまやぶどうの木は荒れ野の乾いた土地に移された。もうこの木の枝が支配者たちの杖となることはない。
 ――この歌は悲しみの歌。悲歌として歌われた。

 東風、とはおそらく東方の肥沃の土地から迫り来たるバビロニアであろうか、と考えます。本章あたりからイスラエルの命運を握る(握った)国家として、エジプトとバビロニア(バビロン)が併記して語られる章が目立ってきます。
 このような詩/章は苦手です。どう捉えてよいのか、まるでわからない。ノートの方法についても然り。平日は仕事帰りにたいがいスターバックスに籠もってこの作業をしているのですが、いざ対峙してみても疲れた頭はまるで動いてくれず、やがて眠気は襲い来たり、それでもどうにかこうにかして一行一行読んでゆくことに隔靴掻痒の感を強く抱き、辛うじて終わった暁には徒労さえ覚えることたびたびなのは、斯様に韻文のスタイルを取った預言やそれを扱った章であることが専らだからであります。
 最近、岩波やティンデルの旧約聖書注釈本を図書館から借り来たる機会もめっきりなくなり(出不精になったわけでは……)、聖書にまつわる本を読むことも少なくなった。実を申せば机上にあるハーレイの本や辞典などにも目を通す時間が減少したことで、自分の聖書離れが知らず進行しているように思えてなりません。こんなことではいけませんね、そんなことだから時折の中断(休載?)を挟んでなお平然としていられる。嗚呼!


 ラトル、BPO首席を2017/18年シーズンを以て勇退。来るべき時が来たか……。残り1シーズンでどんな音楽を聴かせてくれるか、われらは固唾を呑んで見守ろう。◆

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第1227日目 〈エゼキエル書第18章:〈各人の責任〉with 3/12;今日から新しい一日が始まる。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第18章です。

 エゼ18:1-32〈各人の責任〉
 イスラエルに伝わる諺:先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く。主はいう、――
 正義と恵みの業を行う人を正しき人と呼ぼう。わが掟に従って歩み、わが裁きを忠実に守るなら、その人こそが正しき人であり、かれは無為に死ぬことはない。が、その人に生まれた息子が乱暴者で、道理を弁えず、わが目に悪と映ることをことごとく行うなら、その忌まわしい行いの数々に相応しい死に方をして、幸ある生涯を望むことは出来ない。その息子に男児が生まれたとしよう。かれは父の禍々しい生き様を見てきた。かれは父を反面教師として生きる。かれが祖父のように正しく生きるなら、わたしの掟に従いわたしの裁きを行ってゆくなら、かれは父の罪ゆえに死ぬことはない。生きて天寿を全うし、幸多かりし一生を送る。
 人は自分の犯した罪、自分のしでかした悪に足許を掬われて死ぬ。人は自分の積み重ねてきた善行、自分の為してきた正義を誉め称えられて生きる。罪を犯した本人が死ぬのであって、子が父の罪を負うことも、父がこの罪を負うこともない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものだ。他の誰のものでもない。
 即ちこういうことである、と主。
 悪人であっても犯した罪を悔いて償い、過ちから離れて、わが掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、かれは平静に生きる。すべての背きは思い起こされることなく、無為に死ぬようなことはない。わたしは悪人がその道から離れて立ち帰り、生きることを喜ぶ。その逆も然り。正しかった人が道から外れて悪事に耽ることあれば、それまで陰に陽に果たしてきた善行と正義は思い起こされることなく、かれの非道ぶりゆえに死ぬ。
 イスラエルの家は主の道が正しくない、という。が、正しくないのはイスラエルの家の方であろう。「(イスラエルの家よ、)わたしはお前たち一人一人をその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて新しい心と新しい例を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼ18:30-32)以上、主の言葉である。

 ひたすら涙を誘われた章でした。なんというても、「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、すべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」(エゼ18:27-28)はわたくしの心を貫き、救い、潤わせ、頽れて膝折り地へ額を付かせました。わたくしのようにそれなりの罪を抱える者には、救済の光りが与えられたような想いがすることであります。


 あれから2年が経ち、3年目に突入した3月12日です。風邪で休んでしまったけれど、会社ではあの時間に黙祷がされた由。さんさんかも自宅でしばし筆を止めて瞑目しました。
 I want to build me a wall so high nothing can burn it down/Right here on my own piece of dirty ground.(俺はこの小さな俺の土地の上に/決して崩れることのない壁を作りたい)
 ブルース・スプリングスティーン「SOULS OF THE DEPARTED」の一節であります。訳詞は三浦久。アルバム『LUCKY TOWN』所収。◆

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第1226日目 〈エゼキエル書第17章〈二羽の鷲とぶどうの木〉with Remember 3.11〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第17章です。

 エゼ17:1-24〈二羽の鷲とぶどうの木〉
 二羽の鷲が飛び来たった。一羽目の鷲はレバノンにあって杉の梢の頂の若枝を折り、商い人たちの集う町へ置いた。やがてそれは根附いて豊かな実りをもたらすぶどうの木となった。このぶどうの木は二羽目の鷲に向かってその根を伸ばし、若枝を広げた。このぶどうの木は肥沃の地に植えられていた。
 主は問う、このぶどうの木は果たして生長するであろうか、と。このぶどうの木はやがて枯れて根も萎え、枯れてはしまわないか。風に耐えられず地に倒れてしまわないか。
 エゼキエルよ、民に語れ。お前たちはかつてわたしと契約を結んだ。以来、お前たちシオンは紆余曲折はあろうともわが嗣業の民であり続けた。
 なのに、お前たちはわたしを裏切った。バビロニアへ国主を奪われ、有力者たちを連行されたのを目の当たりにして、裏切りの結果を知ったにもかかわらず、お前たちはかつての奴隷の国エジプトへ助けを求めて、これと契約した。が、ファラオはイスラエルの求めに応じようとしなかった。最早エルサレムにいる王はどこへも逃れることが出来ない。ゆえ、わたしはかれをバビロニアの網に絡め取らせて、かの地へ連れてゆく。
 鷲が植えたぶどうの木は豊かに栄えた。その木の下に鳥は宿り、歌う。そのとき、人々は知る。低きが高きとなり、高きが低きとなり、枯れた木は茂り、茂る木は枯れる。
 「主であるわたしがこれを語り、実行する。」(エゼ17:24)

 さんさんかはこの章になにも思えるところがありません。序にいえば、次章に関しても然りで。
 本章に関して申しあげれば、既にわれらは過去のどこかの時点で、主の発する同様な言葉を聞いてきました。しかも何度となく繰り返されてきて。そうしていま、ここにいる。斯様な繰り返しゆえに、わたくしはなにも思えるところがないのであります。
そうですよね、そんなこと仰っていましたね、あなたは。で、ここでもエゼキエルに同じことをいってしまうんだ? ――それが一点の曇りなき、加えて偽りなき述懐であります。
 むろん、こうした言葉も預言者エゼキエルには(ほぼ)初めて聞く比喩であったかもしれない。それは勿論、他の人々やエゼキエル以外の預言者にとっても変わりないことであったでありましょう。が、わたくしのように、ときどきの中断は一種の箸休めめいたものだからその期間は除くとしても、ほぼ毎日なんのプライヴェートの予定もなく、ただ会社(とその周辺のスターバックスとキリン・シティと本屋のあるエリア)と自宅を往復するばかりの野郎の如く殆ど毎日聖書を読む生活を送っている者にしてみれば、ああこれはつい数日前に読んだぞ、とか、以前も同様なたとえ話を用いて同じ出来事を他の人物に語っていたな、などと思うこと折々あるのであります。ゆえに多少なりともげんなりするわけで。
 キリスト者や聖書にもっと深く親炙している人たちにとっては、これも幾度も新鮮な気分で受容できる内容であり、暗唱したり言葉一つ一つを掘り起こすに足る有り難き聖句であり、なのでしょうが、ごめんなさい、さんさんかはそこまでの気持ちは持てません。今更キリシタンになってどうするのか、馬鹿野郎め。それで人生が救われたりするなら、話はちょっと別になるけれど、ね?
 人間の創造した〈神〉が〈神〉であるものか。人間が自分に都合の悪い〈神〉を創造できるものか。
 ……やさぐれているように思われるやもしれません。が、それはきっと読者諸兄の気のせいです。特になんにもないですよ? 再起動させるしかない人生、混沌と孤独のなかを歩いて行く覚悟を決めた男に、怖いものなんてありませんよ、というだけのお話し。



 SMAPに「STAY」という歌がある。シングル曲ではないため、大方の方がご存じないのは仕方ないにしても、わたくしは密かにこれをSMAP随一の名曲として愛聴してきた。なんといっても歌詞の世界が良い。
 いつまでも大切な人と一緒にいよう、なにかに迷ったときはぼくがとなりにいて挙げる、だから君もぼくの隣にいてほしい、そう、心臓の鼓動が止まるその瞬間まで。くーっ、やりきれんな、この世界!
 これは勿論、ラヴ・ソングです。が、一昨年の夏、『SMAP AID』という東日本大震災復興チャリティアルバムの一曲として江湖に知られるようになった。と同時に、この歌は単なるラヴ・ソングではなくなった。
 大切な人;即ち、震災や原発が原因で離れ離れにならざるを得なかった、それまで当たり前のように存在していたかけがえのない人たちの思い出につながる一曲として、以前とは違う側面が見えてきた。あの日を以て「STAY」は普遍的な〈愛〉を謳った、心の歌となったのだろう。
 本日で東日本大震災から2年が経つ。東北も日本も、まだまだ立ちあがれる。われらはこの日を決して忘れない。
 Remember 3.11。◆

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第1224日目 〈エゼキエル書第16章:〈エルサレムの背信〉withだれのためのメッセージ?〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第16章です。

 エゼ16:1-63〈エルサレムの背信〉
 神なる主がエルサレムへ向けた言葉が臨んだ、――
 おとめエルサレムよ、お前はカナン人の土地で、アモリ人を父に、ヘト人を母に生まれた。生まれ落ちてすぐに捨てられて血のなかでもがいているところにわたしが通りかかり、拾いあげて、「生きよ」といった。わたしはお前を美しく栄えさせ、眉目麗しいおとめに育てあげた。年頃になった全裸のお前をわたしは衣で包み、契約を結んだ。おとめエルサレムよ、お前はこのときわたしのものとなった。
 斯様にしてお前に愛情を注ぎ慈しみをかけたいうのに、お前はわたしを裏切った。その美しさを頼みとして報酬を払って、男であれば誰彼構わず誘惑して、嗚呼、姦淫に耽った。わたしから離れたお前は、わたしに背く数々の行為、たとえば祭儀台を設け、広場や四つ辻に高い所を設けたりして、自らの美しさを汚した。おとめエルサレムよ、エジプト人のみならアシェルの人々、カルデアの地とも姦淫を重ねた。売女同然の行いだが、お前が異なるのは相手からではなく自分から報酬を与える点だ。この点に於いてお前たちは逆である。
 「姦淫の女よ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。お前が、愛を求める者と姦淫するために、欲情を注ぎ、裸をさらしたために、また、すべての忌まわしい偶像と、それにささげたお前の息子たちの血のゆえに、わたしは、お前がもてなしたすべての愛人たち、お前の好きだった者も嫌いだった者もすべて集める。わたしは彼らを至るところからお前のもとに集め、お前の裸を彼らにさらす。彼らはお前の裸をくまなく見る。わたしは、お前を淫行と流血のゆえに裁く。また、怒りと熱情をもって、お前の流血に報いる。更にわたしは、お前を彼らの手に渡す。彼らはお前の祭儀台を倒し、高い所を破壊し、お前の着物をはぎ取り、美しい飾りを取り去ってお前を裸にする。彼らは群衆を駆り立ててお前に向かわせ、石を投げさせ、剣で切りつけさせる。彼らは火でお前の家を焼き、多くの女たちの見ている前でお前を裁く。こうして、わたしはお前に姦淫をやめさせる。お前は二度と報酬を支払わない。わたしがお前に対する怒りを静め、わたしの熱情がお前から離れるとき、わたしの心は休まり、もはや怒ることはない。お前が、若い日々のことを思い起こさず、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、わたしもまた、お前の行いを頭上に報いる、と主なる神は言われる。」(エゼ16:35-43)
 おとめエルサレムよ、お前はカナン人の土地で、サマリアを姉に、ソドムを妹に育った。サマリアとその娘たち、ソドムとその娘たちもそれぞれにわたしから離れてわが想いに背く行為に耽り、それなりに罪を重ねた。が、お前程ではない。お前に較べれば、彼女たちはずっと正しい者のように見えたぐらいだ。わたしはサマリアとソドム、その娘たちを帰らせる。お前を自分の不名誉を負わねばならない。
 「お前は誓いを重んじ、契約を破った。だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い出し、お前に対して永遠の契約を立てる。」(エゼ16:59-60)

 おとめエルサレムへの愛憎入り交じった言葉です。主の口から出た、嫉妬に等しい激烈な言葉。こうも厳しいエルサレムへの言葉は、果たしてあったでありましょうか?
 言葉を費やす必要はありません。じっくりと本章を噛みしめて咀嚼するばかりです。
 そうして、心のなかで幾度となく反芻してみたく思います。
 その上で、果たしてエゼキエル書に於いてユダへの、イスラエルへの、シオン/エルサレムへ対する主の言葉/想いが激しくなった理由が奈辺にあるか、考えてみるべきかもしれません。



 ビスケットは古代バビロニアの保存食であったそう。日持ちさせるためにパンを二度焼きしたのが起源だとか。昨日付の読売新聞夕刊に出ていました。
 
 前に進め。お前の前途には限りなき希望はないかもしれないが、すくなくとも仕事と創作がある。それで十分ではないか? それ以上、なにを求めるのか、お前よ? 道は閉ざされた、越えられぬ壁がある。けっして消え去らない思い出がある。しかし、お前は進まなくてはならない。進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない。◆

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第1223日目 〈エゼキエル書第15章:〈役に立たぬぶどうの木〉withすべての原因はどこに、誰にある?〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第15章です。

 エゼ15:1-8〈役に立たぬぶどうの木〉
 エルサレムの住民はぶどうの木である。
 ぶどうの木は他の木よりも特に優れているわけでなく、なにかを作って役立てられるものでもない。火に焼べれば残す芯もなく、失われてしまう。完全なときでさえなにも作れず役立てられないものが、焼かれて焦げてしまっては尚のこと役に立つはずがないではないか。
 ぶどうの木はエルサレムの住民である。
 わたしはエルサレムの住民を業火のなかに投げ入れる。火は、逃れようとするかれらを追って喰い尽くす。わたしの顔はかれらに向く、かれらにわたしの顔が向いたとき、かれらはわたしが主なる神であると知るようになる。わたしは炎を以て大地を荒廃させる、かれらの重ねた不信のゆえに。
 主は、そう語った。

 神から斯くも愛された嗣業の民、その代表格というてよかったエルサレムの住民が姦淫に耽り、他の神を崇め、そうして預言者を通じて語られた主の言葉を蔑ろにし、主の前に悪と映ることをことごとく行ってきたがゆえに、主はバビロニア王ネブカドネツァルとその軍勢をユダへ差し向けて、ユダ王国とエルサレムの崩壊を企てた。
 本章で語られるのは、エルサレム住民がなんの役にも立たぬ存在と主より判じられたことを示すところであります。これまでも幾つかの類例を通じて嗣業の民を見捨てる言葉が語られてきた、と記憶しますが、ここではそれが、これ以上はない程の表現を以て雄弁に語られる一章であります。
 なかなか震えあがらされるものを持った章ともいえましょう。



 同期で隣に坐る女子を好きだと思いこまれているらしく、それにまつわる周囲からの諸々の冷やかしを無視していたら、いつの間にやら自分の首に縄をかけてしまっていたみたいだ。くだらぬ茶番劇は部署が一体となった周到な罠の代名詞であったらしい。
 静かに世界の片隅で、誰にも気にかけられることなく人生を過ごしていきたいだけなのに、どうやら品川の次の駅徒歩2分の場所で働く上司・同期・同僚たちは、そんなわたくしの思いを無視して自分たちの気まぐれと遊戯の対象にわたくしを選び、小突きまわして一時の暇潰しをすることに決めたようだ。やるせない気分だ。
 すべての原因はどこにあるのか? 火を見るよりも明らかだが、書き残して後の世にかれらの醜態を伝えるのが役目ではないので、いまはこれ以上は口をつぐんで差しあげるとしよう。あれだけの大企業に集う人らがこの程度なら、今後どれだけの新規提供サービスが供されようと気に留める必要もないでしょうな。◆

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第1222日目 〈エゼキエル書第14章:〈偶像礼拝と神の審判〉withプリーズ、ワン・モア・チャンス・フォー・ミー〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第14章です。

 エゼ14:1-23〈偶像礼拝と神の審判〉
 長老たちがやって来て、前に坐った。そのとき、主の言葉が臨んだ、――
 かれらは心に偶像を抱き、民をつまずかせる罪を目の前にしている。そんなかれらに対して、わたしがなにを答えられよう? 人の子よ、目の前の人々にこういいなさい、わたしは多くの偶像のゆえに答える、離れ去ったイスラエルの家の心をすべて、わたしは捕らえる、と。
 悔い改めよ、偶像から離れてすべての忌まわしきものから顔を背けよ。それでも姦淫の心に耽るかれらに、人の子よ、あなたはこういいなさい。わたしはその者に顔を向け、かれらを徴として諺として、イスラエルの家から絶つ。そのときかれらはわたしが主であることを知る。
 もし預言者が惑わされて語るようなら、それはわたしがかれを惑わせたからである。そのときわたしは預言者をイスラエルの家から絶つ。かれを尋ね求めた人々も同じように罪を負う。「尋ねる者の罪は、預言者の罪と同じである。」(エゼ14:10)それというのも、もはやイスラエルの家がわたしから迷い出ず、あらゆる背きによってもう二度と自分を汚さないようにするためである。(以上、偶像礼拝)
 別の機会に主の言葉が臨んだ。人の子よ、聞きなさい、――
 或る国がわたしに不信を重ねて罪を汚すなら、わたしはその地に飢饉を送り、人も家畜も根絶やしにする。もしそこにノア、ダニエル、ヨブの子らがいても、かれらの子供たちは生き延びることができない。
 わたしが獣をその国に横行させてその結果住む人が絶えても国土が荒廃したとしても、また、わたしが剣を送りこんで、その結果人も家畜も絶えてしまったとしても、ノア、ダニエル、ヨブの子らはわたしが降した災いから逃れ得ない。ノア、ダニエル、ヨブの3人だけが、自分の心の正しきによって自分自身の命を救うが精々である。
 おお、まこと、主はこういう、――
 「わたしが四つの厳しい裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣、疫病をエルサレムに送り、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすとき、そこにわずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは逃れて救い出され、お前たちの所に出て来る。お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、わたしがエルサレムに降した災い、わたしがそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。お前たちは、彼らの歩みと行いを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる。」(エゼ14:21-23)

 慰めとは希望。
 復興と再生を願う、たった一つの贈り物。

 ノア、ダニエル、ヨブ。即ち、主の言葉と意思の正しきを信じ、主の道をまっすぐに歩んだ人たちであります。

 

 理由あってVBがノートPCから消失。トレンドマイクロにメール相談、指示に従ってインストールをやり直したあと全体スキャンをしていたら、予想外に時間を喰ってしまった。更新できなかった理由は、そんなような理由からです。済みませんでした。
 実は別の、最大の理由もあるのですけれど……。

 嗚呼、もう一度チャンスがあればいいのに。
 結果は変わらずとも、自分の言葉を伝えたい。
 良識ある行動を欠いてごめんなさい、ということと、もう一つ、……。◆

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第1221日目 〈エゼキエル書第13章:〈偽りの預言者〉with安息日のお知らせ&“to be or not to be.”〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第13章です。

 エゼ13:1-23〈偽りの預言者〉
 わが名を騙って預言活動を行うイスラエルの者どもよ、それゆえわたしはお前たちに立ち向かう。そう主の言葉が臨んだ。
 エゼキエルよ、とわたくしに語りかける声がする。かれらはむなしい幻を見、欺きの占いをする。聞けもしないわたしの言葉を民へ伝える。さも己はまこと、神の言葉の伝達者、意思を仲介する者然として。
 「わたしの手は、むなしい幻を見る預言者たちと、欺きを占う占い師たちに向けられる。彼らはわたしの民の集いに加えられず、イスラエルの家の記録にも記されず、イスラエルの土地に入ることもできない。そのとき、お前たちはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(エゼ13:9)
 平和、平和、と口にしても、一欠片程の平和すら訪れない。偽りの言葉は壁に漆喰を上塗りするに等しい。ちょっとした拍子に脆くも崩れ落ちる。それを見たイスラエルは口々に罪のなすり付け合いを始める。わたしはこれに怒りを以て臨む。
 また、呪術を用いるイスラエルの家の娘たちよ、わたしはお前たちに立ち向かう。――そう主はいった。お前たちはわが民の魂を捕らえて、自分たちの仲間の魂を大切にする。死ななくてもよい者が身罷り、死ぬべき者が両手を振って闊歩している。わたしはお前たちに立ち向かい、お前たちがわが民に二度と手を伸ばしたりできないようにする。
 「お前たちは、わたしが苦しめようとしていないのに、神に逆らう者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている。それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」(エゼ13:22-23)

 そういえば、「エレミヤ書」に偽りの預言者がバビロンで預言活動を行っているのを知ったエレミヤが、バビロンにいる捕囚の同胞に手紙を書いてイスラエルの主の信仰にのみ立ち帰って偽りの預言者の言葉に耳を傾けるな、というていたのを思い出します(エレ29:1-23)。ここでいう偽りの預言者と「エレミヤ書」にいう偽りの預言者は、もしかすると同じであったのかもしれませんね。併せてエレ23:25-40も読んでみるとよいと思います。
 自分の名を騙って大事をなせようはずがない。語る者には懲罰を与える。――それが本章の主眼であると同時に、神なる主の本音であります。これは現代にも、また、いつの時代にも通じるものがありますね。……普遍的なる真実は、いつだって時代も場所も人種も宗教も簡単に飛び越えて、似たような言葉で語られている。これはもしかしたら、太古より人類のDNAに組みこまれたものなのかもしれませんね。どうだろうか?



 明日は歓送迎会のため、安息日とさせていただきます。その翌日もまた同様に。今月二度目、三度目の、計画立てては初の安息日。こんな風に予告しておくと、なんだか本当の安息日なんだな、と実感が出てきますね。
 さあ。伝えるべきか伝えぬべきか、それが問題だ。◆

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第1220日目 〈エゼキエル書第12章:〈捕囚のしるし〉with永遠に続く絶望とは。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第12章です。

 エゼ12:1-28〈捕囚のしるし〉
 人の子よ、と主が語りかける。主の言葉が臨んだ。曰く、――
 イスラエルの家のなかにいるあなたは、白昼かれらの目の前で自分の荷物を捕囚の荷物とし、囚われの地へ行きなさい。かれらはその様子に目を留めるかもしれない。また、夕方かれらの目の前で壁に穴を穿ち、荷物を肩に担いで、夕闇迫る外へ出てゆきなさい。かれらを見ぬよう顔を覆って、出てゆきなさい。主はいった、わたしはあなたをイスラエルの家に対するしるしとする、と。
 わたくしは主がいった通りにした。すると、再た主の言葉が臨んだ。曰く、――
 いったいお前はなにをしているのか、と、反逆の家のかれらは訊いたであろう。こう答えなさい、これが未だユダの地、エルサレムの都に残る人々の行く末である、と。かれらはこのようにして捕囚となり、捕囚の地を踏む。かれらの首長も同じく捕囚となるが、かれはここに到着する前に死ぬ。
 わたしは追っ手となり、逃げ惑うイスラエルを抜き身の剣をかざして追う。わたしはかれらを諸国のなかへ散らす。「しかし、わたしは彼らの中から少数の人々を残し、剣と飢えと疫病から守る。彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるためである。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼ12:16)
 エルサレムの住民はかつて自分たちの口を潤していたものを荒れ廃れた土地のなかで失い、かれらの生きている時代にわたしの語る計画、わたしの見せる幻は実行される。
 「わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される、と主なる神は言われる。」(エゼ12:28)

 新たに捕囚が生まれる、という報せです。エルサレムは更なる被害を被り、それゆえに捕囚(難民)が生まれ、遠近に散ることになる、という報せであります。バビロニアの進撃が開始され、エルサレムが陥落することが暗に語られる章であります。
 また。かれら即ちエルサレム住民の首長が云々、とあります。これをユダの王とすることは明らかで、第3次捕囚に於いてゼデキヤ王が捕縛されるので、ほぼかれのことと考えてよいのでしょう。が、ゼデキヤは取り敢えず生きたままバビロンへ来た。「死ぬ」とはあくまで預言であり決定に非ず、というところなのでしょう。



 永遠に続く絶望。
 永遠に続く絶望。
 わたくしはその意味を知っている。◆

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第1219日目 〈エゼキエル書第11章:〈主の栄光が神殿を去る〉2/2with暫くはゾンビとなって過ごそうか?〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第11章です。

 エゼ11:1-25〈主の栄光が神殿を去る〉2/2
 霊に連れられて神殿の東の門に立った。そこにはエルサレム住民の指導者、ヤアザンヤとペラトヤを始めとする25人の男がいて、都は鍋でわれらは肉だ、といっている。主が、預言せよ、と囁いた。曰く、エルサレムで殺された多くの者こそ肉である、わたしはお前たちが恐れる剣を頭上に臨ませ、お前たちに対する裁きをイスラエルの国境で行う、と。
 「そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」(エゼ11:10)
 ――預言の最中、ペラトヤが倒れて、死んだ。わたくしは主に向かって、これ以上イスラエルの民を殺そうというのですか、と叫んだすると、主の言葉が臨んだ、――
 わたしはわたしの民を諸国へ追い散らす、そうしてかれらの聖所となる。時が流れて後、あらゆる憎むべきものとあらゆる悪しきものを一掃したこの大地へ、わたしはかれらを帰還させる。わたしはかれらに一つの心を与える。それは肉の心である。肉の心を与えるのは、かれらがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためだ。「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(エゼ11:20)しかし、憎むべきもの、忌まわしきものへ心を寄せる者には、これまでの行いに相応しい報いがかれらの頭上に降る。
――そう、主はいった。
 「そのとき、ケルビムは翼を広げ、車輪もまた共に行った。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。主の栄光は都の中から昇り、都の東にある山の上にとどまった。霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。こうして、わたしの見た幻は、わたしを離れて上って行った。わたしは、主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせた。」(エゼ11:22-25)

 ヤアザンヤとペラトヤが25人の指導者の内の一人であったこと以外に、聖書はなにも語り伝えません。いわば、端役中の端役というべき存在ですが、こんな存在がときに妙に気になってしまうことがある。そうした人たちがどんなバックグラウンドを持った人物なのか、聖書各編を読んでいると折々そんな風に想像する楽しみがあるのであります。
 さて、肝心の部分。主の栄光が神殿を去る。それがどういうことかと申せば、たしか昨日も触れた記憶がありますけれど、即ち、イスラエルのアイデンティティの喪失であり、この時代の民の心の声を聞くことができるならば、おそらく、都も国も形骸化して依り頼むべき存在を失った、ひび割れた器のようなものでしかなく、風前の灯火同然の状況に立たされた、という旨の嘆きを聞くことができたかもしれません。これはわたくしがそう思う、というだけの話です。
 いずれにせよ、庇護してくれる存在がなくなったことで、イスラエルは心をなくし、いよいよ目の前に迫る終わりの時が始まったのだ、とエルサレムの(一部のまだ信仰篤き)民なら悟ったことでありましょう。



 行け、わが想いよ、漆黒の翼にのって。ヴァルハラへ? ポポヨラへ? その地で、我、<死>を宣告される者なり。
 同期として入社し、同じチームで事業スタートに向けてがんばってきた人が、突然他部署へ異動。心にぽっかり穴が開いて、埋める術が見附からない。暫くはゾンビになろうか。……畜生!◆

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第1218日目 〈エゼキエル書第10章:〈主の栄光が神殿を去る〉1/2with真実。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第10章です。

 エゼ10:1-22〈主の栄光が神殿を去る〉1/2
 戻ってきた亜麻布姿の男に、主が命じた。ケルビムの下で回転するものの間に入り、そこにあって燃える炭火で両手を満たし、エルサレムの上に撒き散らせ、と。男はそうした。また、ケルビムの一人から渡された火を手に、男は出ていった。
 主の栄光がケルビムから立ちあがり、神殿の敷居へ向かった。神殿は雲で満たされた。庭は主の栄光の輝きで満たされた。ケルビムの翼の羽ばたく音が外庭まで聞こえた。その音はまるで全能の神の声のようだった。
 主の栄光は神殿の敷居の上を離れて、ケルビムの上に漂い来たって留まった。ケルビムは出てゆくとき、わたくしの目の前で地から上ってゆき、神殿の東の門の入り口で止まった。

 本文の流れをよくするために半分程割愛して、ダイジェスト/ノートしております。しかしそれはあくまで「流れ」のための割愛であり、内容的に不要とか冗長とか、そうした理由によるものではないこと、ご理解いただければ幸いです。参考までに割愛部分を申しあげておくと、エゼ10:8-17,エゼキエルがかつてケバル河で会ったケルビムと主の栄光の顕現の描写が該当します。お手隙のときなどにご確認ください。
 小見出し通り、それまで神殿にあった主の霊/栄光が神殿を、即ちエルサレムを去る(あとにする)。もはや都はもぬけの殻となった。いまはもうただの変哲もない町でしかなく、迫るバビロニア軍から生き延びる方法はすべて失われた、ということである。戦力で遥かに劣勢を強いられるばかりか、形骸化していたとはいえ精神的支柱までなくしてしまったエルサレム/ユダを守護するものは、もうなにもない。陥落を約束された瞬間を捕らえた一章、と捉えてよろしいでしょう。



 愛するものは浚いとられる。
 想う相手には想われない。
 これこそ真実といわずして、他になにを真実というのか?◆

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第1217日目 〈エゼキエル書第9章:〈エルサレムの堕落〉2/2with振り返れば、ヤツがいる。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第9章です。

 エゼ9:1-11〈エルサレムの堕落〉2/2
 主の呼ばわる声が聞こえる。王都エルサレムを罰する者よ、それぞれ破壊の道具を手にしてここへ集まれ。――すると、北に面する上の門へ通じる道を、6人の男たちが歩いてきた。男たちはそれぞれ突き刺す道具を持っている。その内の一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れをさげていた。男たちは青銅の祭壇のそばに立った。
 ケルビムの上に留まっていた主は亜麻布姿の男にこういった。エルサレム市中を巡り、ここで行われているあらゆる罪悪のために嘆き悲しむ人々を捜して額に印を付けよ、と。他の男たちにはこういった。共に行き、かれが印を付けた人々を除くすべての住民を殺し尽くして来よ、と。さあ、行け。わが神殿から始めよ。
 男たちは出てゆき、命じられたことを実行した。その間、わたくしは顔を伏せていた。かれらの行いがあまりに酷たらしいものであったからだ。それについて嘆くと、主は答えて曰く、――
 「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」(エゼ9:9-10)
――と。
 亜麻布姿の男が戻ってきて、いった。命じられたすべてのことを成し遂げてきました、と。

 聖なる殺戮。聖なる名に於ける正義を掲げた殺戮。そんな言葉が、ふと脳裏にひらめきました。そんなことがあってよいものか、と疑問ですが、殊旧約聖書に限ってはさも当たり前のように繰り返されてきた行為であり、思想であります。
 預言書に入ってからはあまり出喰わしませんが、思い出してみてください、「創世記」からこの方「列王記」と「歴代誌」へ至る歴史に於いて、斯様な行いはさまざまな形を取ってわれらの前に立ち現れたではありませんか。むろん、さんさんかはこれについて言葉も異議もはさまぬ者であります。歴史は知と地と血の上に構築される、と信じるからです。
 とはいえ、エルサレム市民の勝手な言い分には呆れ果てますね。自分たちのことを棚にあげてなんたる言い分か、と、わたくしでさえ思いますよ。出エジプトの頃からの、お馴染みといえばお馴染みの光景ではありますが。何百年にもわたる、主の愛と民の裏切りがせめぎ合うドラマの終盤戦。そのドラマは、本書でも描かれる「主の栄光が神殿を去る/エルサレム陥落、ユダ王国滅亡/バビロン捕囚:さまよえるユダヤ人の誕生」というシノプシスを以て、いわば〈シーズン5〉が終わる。
 ドラマ? 然り、旧約聖書という史上最大規模の神話と歴史のドラマ。
 事のついでにちょっとお話しすると、さんさんかは旧約聖書を全部で6つのシーズンに分かれるドラマのように考えております。シーズン1は「創世記」、シーズン2は「出エジプト記」からヨシュアによるカナン入植まで、シーズン3は「士師記」からサムエル・サウル・ダビデによるイスラエル建国を経てソロモン王の崩御まで、シーズン4は「列王記」と「歴代誌」:即ちイスラエル盛衰記、シーズン5はイザヤ・エレミヤ・エゼキエル・ダニエル(ブリッジ・エピソードとして小預言書群)、の挿話、シーズン6/ファイナル・シーズンが「エズラ記」と「エステル記」、「ネヘミヤ記」であります。その後、新章として「新約聖書」の時代の訪れを待つ。ここに入れられなかった「ルツ記」と「ヨブ記」はいうなれば、スピンオフという感じでしょうか。「詩編」はドラマ全体を貫く通奏低音、各シーズンのバックグランドをなすもの、というところ。……手持ち無沙汰な折にこんなことを考えています。えへ。



 時間を区切って処分する本を箱に詰めました。5箱まで出来たところで時間切れ。前職で蓄積された箱詰めのカンが未だ残っていることに愕然とした。人間って案外いろいろなことを体に覚えこませているものなのですね。しかし、後ろを振り返れば積み重なった段ボールが5箱……。でも、まだ箱詰めの終わっていない(概ね箱に入れるだけの状態になっている)ものがあるんだな、これが。はあ、道は長く、遠い。◆

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第1216日目 〈エゼキエル書第8章:〈エルサレムの堕落〉1/2withExcelのこと、Facebookのこと、iPhone購入のこと、今年の投資についてのこと、とかとか:つぶやき・なう。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第8章です。

 エゼ8:1-18〈エルサレムの堕落〉1/2
 バビロンへ来て6年目の、6月5日。ユダの長老たちと一緒にいると、頭上に主の御手が臨んだ。かつてケバル河畔で会った主の栄光の顕現がわたくしを摑み、遠く離れた王都エルサレムへ運んだ。
 北の門の内側に降ろされたわたくしに、かれが或る一箇所を指さして、いった。門の北側には、入り口に激怒の像を祀った祭壇があった。
 かれはいった、この忌まわしい様を見るがよい。しかし、お前はこれからもっと忌まわしいものを目にすることになる、と。
 かれはわたくしを庭の入り口へ連れてゆき、入らせた。庭を囲む壁の内側には、全地を這うものと獣の憎むべき像、及びイスラエルの家のあらゆる偶像が、一面に彫られている。壁の前にはイスラエルの長老70人がいて、それぞれ香炉を手にし、偶像を崇めていた。
 かれはいった、この忌まわしい様を見るがよい。しかし、お前はこれからもっと忌まわしいものを目にすることになる、と。
 かれはわたくしを主の神殿へ連れていった。そこには、神殿に背を向けて東方より昇る太陽を崇める集団がいた。
 かれはいった、これは果たして許されるべきことであろうか、と。連衆はこの地を不法で満たした。よって、主はもはや奴らに憐れみをかけることも慈しみを注ぐこともない。奴らがどれだけ大きな声で叫んだとしても、主がそれに耳を傾けることはない。

 預言者はユダの民、エルサレムの住民が主の定めた正しい道を歩む者たちでなくなっているのを知った。エゼキエルは思ったかもしれない、これなら既に捕囚としてバビロンへ連れてこられた者たちの方が、よほど主の思いに適う生き方をしているではないか、と。
 しかし、既にバビロンに来た人々も遡ればエルサレムに在って主の目に悪と映る行為に耽ったことのある人々であるのだ。臑に傷持つ者としては開きかけた口もふさがねばならぬが、それでもバビロンに住むユダヤ人たちは悔悛して、或いは悔悛のきっかけを与えられ主の心について再び思いを馳せることができるようになった。まだわれらの方が救いがあるかもしれない、と、エゼキエルは考えなかっただろうか? どうだろう?



 ・やはりExcelで文章を書くのは大変だ。どうも基本的なところでよくわからない点がある。明日の昼過ぎにでも近所の本屋でExcelの本を何冊か、立ち読みしてこよう。
 ・新聞掲載の文藝春秋社の広告を見ていたら、村上春樹の新作長編が4月に発売予定ですって。平日になるだろうから、会社の昼休みに買ってこようかな。いずれにせよ、楽しみです。いまからワクワクしますね。
 ・閉店間際と知らずブックオフで立ち読みしていた。あわてて、棚にあって目星を付けていた本を抜いて、レジへ向かう途中で『もしドラ』を発見、近頃の読書傾向も手伝って一瞬そちらも買おうか、と迷ったけれど、閉店アナウンスと音楽に思考を邪魔され、今回は見送りました。
 ・アカウントだけ取ってその後は長く放置していたFacebook。昨晩、久しぶりに梃子入れし、本ブログと同じハンドルネームで再起動。ときどき更新してゆくつもりなので、よろしければ覗いていただければ幸いです。もっとも、このSNSを使いこなせるかはまったく不明ですが。
 ・今月末か来月頭、iPhoneの購入を決定。じつは今日(昨日ですか)家電量販店とショップでいろいろ見てきました。アンドロイドと迷う部分はあったけれど、利便さや用途、セキュリティ面などいろいろ考えて、iPhoneに決めました。WiMaxのルーターなど、必要といえば必要なのだけれど、こちらはさすがに迷っています。
 ・今年はこれの他にもモバイルPCの購入(時間の短縮化と有効利用になりますよね)も真剣に考えなくてはならないし、ネットも光回線に変更する気になったし、で、いろいろお金が出てゆく一年になりそうです。が、これも現在の会社に来てさまざまな人や知恵とふれあえたお陰。散在? 否、投資です!◆

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第1215日目 〈エゼキエル書第7章:〈主の怒りの日〉with本日のブログ原稿はExcelで作成!〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第7章です。

 エゼ7:1-27〈主の怒りの日〉
 主の言葉が臨んだ、――
 終わりの時が近付く、それは怒りの日、地上は混乱を極め、山々からは喜びの声が途絶える。この地に住む者らよ、順番が来た。終わりの時の訪れだ。
 そは怒りの日、主の怒りは群衆のすべてに注ぐ。外には剣、内には餓えと病、群衆に逃れ場はない。逃げ場も、逃げる手段もない。お前たちは粗布をまとい、やつれた姿で彷徨う。戦慄がお前たちを包む。蔵する貴金属は他国人の手に渡る。わたしは列強諸国をイスラエルへ差し向け、かれらの家を壊させ、かれらの聖所を汚させる。
 平和は去った、災いが訪れる。多くの悪報が舞いこむ。預言者を求めても得られず、律法は祭司から奪われ、助言は長老たちから奪われる。王は嘆き、貴族は恐れ、民は震える。
 「わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。/そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」(エゼ7:27)

 これを読んで、古今の作曲家が書いた《レクイエム》、そのなかの〈怒りの日〉(ディエス・イレ)を想起するのはおそらくわたくしだけではないはず。音楽の方ではこの〈怒りの日〉、むろん旧約聖書就中「エゼキエル書」に起因するものではなく、「ゼファニヤ書」や「マタイによる福音書」などをベースにしてフランシスコ会士チェラノのトマスThomas da Ceranoが書いた詩を基にしているといわれます(高橋正平『レクイエム・ハンドブック』P18 東京音楽社 1991)。
 しかしながらエゼキエルに臨んだ主の言葉を読んでいると、小見出しに惑わされることがなくとも、これも《レクイエム》の〈怒りの日〉を連想させるのは仕方ない程、その雰囲気や趣きに重なる部分があって、思わず胸がふさがれて「嗚呼!」と嘆息するのであります。
 本章は遠く離れた故国の王都エルサレムへ向けられた、餞別の言葉のようなもの。神なる主の心が最早イスラエル/ユダの家から離れて、来たるべき再生の時代へ向けられている様子が滲み出しております。単純ながらとても力強い文言がここに並ぶのは、神の決意の固さに起因する、とわたくしは考えるものであります。
 従って、という言い方は可笑しいかも知れませんが、これがエルサレムとそこに住まう住民に宛てられたものである以上、本章に於いて「預言者」とはエレミヤを指すのだ、と申しあげてよろしいかと思います。如何でしょうか。



 じつは本日のブログ原稿はExcelで作成しております。ちょっと「?」な点もありますが、久しく使っていなかったExcelの操作方法を思い出すことも兼ねて、こんなことをしていました。
 仕事でExcelしか殆ど使わない状態になるし、この前のタイピング・テストであんまりよろしくない結果を出してしまったし、こいつがちゃんと操作できればもう怖いものなしなんだよな、と倩考えての本日のブログ。これから暫くは原稿をこの表計算ソフトで執筆してみることになりそうです。◆

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第1214日目 〈エゼキエル書第6章:〈偶像礼拝の山〉withiPodで太宰治「駈け込み訴え」を聞きました。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第6章です。

 エゼ6:1-14〈偶像礼拝の山〉
 主の曰く、――
 わたしは剣を持ってイスラエルの大地に臨む。わたしはわたし以外の神、即ち偶像を作り崇めた民を倒し、偶像を祀る祭壇の前に倒す。かれらの骨は砕かれて祭壇の周りに撒き散らされる。かれらの住む町はどこも廃墟となり、聖なる高台は破壊され、偶像は砕かれ、香炉台は打ち壊される。こうしてかれらの作ったものは一つの例外もなく、地上から消える。
 「殺された者がお前たちの真ん中に倒れる。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。しかし、お前たちが諸国に散らされるとき、わたしはお前たちのために、剣を逃れた者を諸国民の間に残しておく。お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像に引かれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」(エゼ6:7-10)
 わたしはかれらに対して怒りを注ぐ。近くの者は剣に倒れ、遠くの者は飢えに倒れる。かれらがあまねく地の上で倒れるとき、或いは偶像に宥めの香りを捧げた場所で倒れるとき、かれらはわたしが主であることを知るようになる。かれらが住むすべての地を荒廃させるとき、かれらはわたしが主であることを知るようになる。

 かれらはわたしが主であることを知るようになる。――これは「エゼキエル書」を読んでいると、たびたび出喰わす文言です。キーワードの一つというて良いかもしれません。
 本章では3回登場するこの言葉、推察するにそれだけイスラエルの家が外から見ても堕落しており、神なる主の嗣業の民(イスラエルとユダの家)が他の、異教異国の神の礼拝に勤しんで、自分たちの神を忘れて顧みないことの証しといえるでしょう。それは昨日読んだ分からもおわかりいただけると思います。
 斯くもイスラエルは自分たちのアイデンティティを喪失しかけていることになぜ気附かなかったのだろう、気附いてもどうしてそれを正して律しようとしなかったのか、当時エルサレム市中にあって主の預言を誠実に伝えていたエレミヤの言葉に真摯に耳を傾ける心を持つことができなかったのか、とすこぶる疑問に思うことでありますが、件のキーワードのあることを念頭に置いてみると、成る程、視界が開けて、これまで完全とは言い難かった疑問の解決の糸口が得られたように思うのであります。


 iPodで太宰治の短編「駈け込み訴え」を聞く。ソースは例によって図書館で借りた朗読CD、朗読者は俳優の草野大悟。その抑制と冷笑と高揚がブレンドされた語り口が太宰作品にはぴったりなのだ。特に「駈け込み訴え」のような愛と裏切りの物語には。
 もし機会があったら、聞いてみてください。◆

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第1213日目 〈エゼキエル書第5章:〈エルサレム包囲のしるし〉2/2with映画『ホビット 思いがけない冒険』のカメラ・ワークに興奮!〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第5章です。

 エゼ5:1-17〈エルサレム包囲のしるし〉2/2
 エゼキエルよ、理髪師が剃刀を持つように剣を取り、頭髪と髭をすべて剃り落とせ。包囲の期間が終わったあと、1/3は都のなかで焼き、1/3は都のまわりで裁断し、残りの1/3は風に乗せて彼方此方へ散らせ。わたしはそのあとを、抜き身の剣を構えて追う。あなたはそのなかから少しを取って着物の裾に包み、更にそのなかの少しを火にくべて燃やしなさい。それが、イスラエルのすべての家に降りかかる災いである。
 これがエルサレムの辿る末路。かれらは諸国よりも頑なで、諸国よりも激しくわたしに逆らった。かれらはわたしの裁きを拒んだ。かれらはわたしの掟に従って歩かなかった。
 それゆえに、とわたしは告げる。エルサレムはかつてない程悲惨な目に遭う。疫病に倒れ、飢えに苦しみ、剣に追われて、死ぬ。嘲られて誹りを受けるお前は、諸国の教訓となり、脅威となり、かれらの歩みを正させる。お前は諸国から嘲笑されて、恥辱を受ける。
 「お前たちが周りの国々よりもいっそうかたくなで、わたしの掟に従って歩まず、わたしの裁きを行わず、周りの国々で定められている裁きほどにも従わなかったので、主なる神はこう言われる。わたしもお前に立ち向かい、国々の目の前でお前のなかで裁きを行う。わたしがお前に対して行うことは、わたしが今まで行ったこともなければ、またこれから再び行うこともないようなことである。それはお前が行ったあらゆる忌まわしいことのゆえである。
 それゆえ、お前のなかで親がその子を食べ、子がその親を食べるようなことが起こる。わたしはお前に対して裁きを行い、残っている者をすべてあらゆる方向に散らせてしまう。
 それゆえ――わたしは生きている、と主なる神はいわれる――お前はあらゆる憎むべきものと忌まわしいものをもってわたしの聖所を汚したので、わたしもまた必ずお前をそり落とす。わたしは憐れみの目をかけず、同情もしない。」(エゼ5:7-11)

 「わたしは彼らに向かって怒れるだけ怒り、憤りに身を任せて、恨みを晴らす。そのとき、主であるわたしが憤れるだけ憤り、熱情をもって語ったということを彼らは知るようになる。」(エゼ5:13)

 「主なるわたしがこれを告げる。」(エゼ5:17)繰り返す、「わたしは憐れみの目をかけず、同情もしない。」(エゼ5:11)



 書き残したことは幾つもあるけれど、今日は一点だけ書こう。映画『ホビット』の件。
 PJ監督自身、最先端のデジタルカメラを初めて用いて撮影したという本作に於いて、その映像美は芸術という域すら越えてしまったように思える。前3部作にてわれらを魅了してやまなかった滑るような、あおるような、舐めるようなカメラ・ワークは健在である。
 われらが中つ国の冒険を追体験することができるのは、アンドリュー・レスニー率いる撮影チームによる縦横無尽なカメラ・ワークのお陰でもある。大地を這い、大空を滑空するカメラによって、われらは地上の小動物の視点で物語を仰ぎ見、羽ばたく鳥の視点で物語を俯瞰できる――生きとし生けるものすべての視点を駆使して、映画『ホビット 思いがけない冒険』はシリーズ第1作でありながら最高潮の興奮を、われらに与えてくれるのだ。
 1作目でこれなのだから、続きを楽しみにしない理由なんて、どこにもないですよね?
 さて、それでは原作『ホビット』を読み直すとしますか。◆

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第1211日目 〈エゼキエル書第4章:〈エルサレム包囲のしるし〉1/2withポッドキャストで「日経ヴェリタス 大江麻理子のモヤモヤとーく」を聞いています。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第4章です。

 エゼ4:1-17〈エルサレム包囲のしるし〉1/2
 (続けて、主)
 エゼキエルよ、目の前にあるレンガを一つ置き、それにエルサレムの名を刻め。そのレンガを都と定め、バビロニア軍の陣営、堡塁、破城槌に見立てた石を、周囲に巡らせよ。そうしてエルサレムとあなたの間に鉄板を立てて鉄の壁とし、あなたはそれから目を背けてはならない。あなたが都を包囲するのだ、これはイスラエルの家への見せしめである。
 イスラエルの家がわたしに背いた年数を日数へ置き換える。するとそれは390日となる。あなたは左脇を下にして、イスラエルの罪を背負わねばならない。390日、あなたは左脇を下にして過ごすのだ。そのあと、今度は右脇を下にして、ユダの家の罪を背負わなければならない。右脇を下にして過ごさねばならぬ日数は、40日である。
 「わたしがあなたに縄をかけるので、あなたはその包囲の日が終わるまで、一方の脇から他の脇へと寝返りを打つことができなくなる。」(エゼ4:8)
 あなたはそうして横たわっている390日間、小麦と大麦、空豆、ひら豆、きび、裸麦を捏ねて作ったパンを食べる。捏ねたパンは人糞の上で焼かなくてはならない。あなたはこのパンを食べる。イスラエルの家の人々は離散して辿り着いた先の国々で、このように汚れたパンを食べることになる。あなたが飲める水の量はほんのわずか。しかも、好きなときに好きな量だけ飲めるわけではない。
 エゼキエルよ、あなたはいま、これまで自分の身を汚したことがなく、いけにえの期間を過ぎた献げ物は口にしたことがない、といった。わかった、パンは人糞ではなく、牛糞の上で焼くがよい。
 エルサレムの人々はこれより後、目方を量ったパン、升で量った水を口にすることになる。いずれも量はほんのわずかだ。かれらは疑心暗鬼に陥り、痩せ衰え、恐怖に取り憑かれる。

 エゼキエルがその名に於いてエルサレムを包囲し、イスラエルとユダの家の罪を背負って、酷な罪の責めを負うことになる章です。続く章で主はエルサレム住民を見舞う災いを提示し、そうしてエルサレムの崩壊/陥落の様子を仄めかします。
 このあたりを読んでいると、慈悲と情愛の心深さと残忍非道をなんの矛盾もなく併せ持つ、厳格なる正義の執行者としてのなる旧約聖書の神の御業をつくづく思い知り、また、かつても申し上げた、旧約聖書とはSM小説のことか、と、あらためて想起して嘆息せざるを得ないのであります。



 最近特によく聴いているポッドキャストが「日経ヴェリタス 大江麻理子のモヤモヤとーく」だ。これを、たとえば仕事帰りのスタバで、聖書のノートが終わったあとなどに聞いている。
 経済関連のニュースに関心は抱いていても、自身に関わるところだけ、しかも浅くしか理解していないわたくしのようなものでも聞いていて飽きることがなく、いまでは休みの日に新しいものや以前放送された興味のあるものを何回分かDL、iPodに同期させては次の一週間で時間を作って聞くのが、一つの楽しみになっている。
 一例;白川日銀総裁の後継人事にまつわるニュースがある。件の番組では過去にも何度か、日経ヴェリタス編集部員を招いて日銀関連の回を放送してきたそうだ。やや古いものから新しい回、第187回まで一渡り聞いてみて、正直なところ、これまでよくわかっていなかった日銀とその総裁の役割、日銀新総裁の選出がどれだけ経済政策に深くかかわってくるか、など、この番組を購読したことで初めてきちんと理解できたように思うている。
 新聞や書物だけではなかなか理解することのできなかった問題が、耳から入ってくる大江麻理子テレビ東京アナウンサーと日経ヴェリタス編集部員のわかりやすい、ポイントを的確に示したトークのお陰で、以前は小首を傾げてばかりだった、暗がりのなかに隠れて輪郭もはっきりしなかった問題について首肯できたよ。
 テレヴィや新聞の報道番組だけではどうしてもわからないところが出て来る。それを補う役目としてポッドキャストってなかなか有益なツールだな、と、遅ればせながら実感して、ますますこれに依存してゆきそうな感を抱いているさんさんかが、本日もお届けいたしました。◆

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第1210日目 〈エゼキエル書第3章2/2:〈預言者の務め〉&〈エゼキエルの沈黙〉with「さんさんか、三連休を持て余す」の記。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第3章2/2です。

 エゼ3:16-21〈預言者の務め〉
 七日が経って主の言葉が臨んだ、――
 あなたはわたしに代わり、イスラエルの家に警告しなければならない。
 これまでの正しい生き方を離れて、悪事に耽る者がいたとする。かれの生前の善行は世人の記憶から忘れられて、世間の口の端に上ることのないまま死ぬ。かれに過ちを警告しなかったあなたに、わたしは罪の責任を問う。
 かならず死ぬ、と告げられていた悪人が、その警告通り、悪人のまま死んだとする。悪の道から離れて命を得るようあなたがかれを諭さなかったら、わたしはあなたにその罪の責任を問う。
 が、悪人に対して警告し、過ちを犯して正しき人の道へ戻るよう諭すなら、かりにかれらが自分たちの罪ゆえに死んだとしても、あなたは生きて命を得る。

 エゼ3:22-27〈エゼキエルの沈黙〉
 主の御手が臨み、平野に導いた。そこには主の栄光が留まっていた。かれは主の言葉を告げた。曰く、――
 人の子よ、あなたは自分を家に閉じこめて自縄自縛し、イスラエルの家のなかへ出てゆけないようにせよ。わたしはあなたの舌を上顎に付けて、喋れないようにする。イスラエルの家を責める者としてのあなたの役割は、それで終わる。
――と。
 「しかし、わたしが語りかけるとき、あなたの口を開く。そこであなたは彼らに言わねばならない。主なる神はこう言われる。聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい。彼らは反逆の家だから。」(エゼ3:27)

 テル・アビブのケバル河畔に7日間坐っていたエゼキエルに臨んだ主の言葉。それは召命が済んで最初に臨んだ主よりの言葉でした。いわば預言者としての仕事始めであります。その内容は、預言者として斯くあれかし、イスラエルの家に臨むべき態度はこうである、と教えるものでありました。
 このあたりだけを見ても、かれの預言者としての行動がイザヤやエレミヤとは性質の異なったものである、と思われてなりません。たしかかれらの場合、こうした具体的な指示めいたものはなかったのではないかな。書物の成立年代というものとも絡んでくるのかもしれませんが、エゼキエル書が他の預言書とカラーの異なるものであるのは、預言の舞台となる土地(国)の違いに加えて主の言葉の具体的なる点に、ささやかな理由の一端を求められるように思うのであります。



 三連休ってなにをすればいいんだろう? これまでカレンダー通りに休んだことないから、どう過ごしていいのか今一つよくわからない。
 でも、さいわいと前職の給料が振りこまれていたのでようやく決心できた、それは一種の福音である。どういうことかといえば、取り敢えず中日の今日は映画を観てきます、ということだ。『ホビット』を観てくる、やっと!
 それにしても。
 一人で日曜日の映画館か、淋しいな、俺。
 まぁ、いつものことだけれどね?◆

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第1209日目 〈エゼキエル書第3章1/2:〈エゼキエルの召命〉3/3with昨日はごめんなさい。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第3章1/2です。

 エゼ3:1-15〈エゼキエルの召命〉3/3
 命じられて口を開けると、かれはその巻物を食べさせた。甘い蜜のような味がした。
 主はいった、――
 人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉をかれらへ向けて語れ。あなたは外国語を喋るバビロニアの民のなかへ行くのではない。同じ言葉を話す同胞イスラエルのなかへ行くのだ。
 わたしの言葉に聞き従わせるだけなら、バビロニアの民の方が容易い。それ程までにイスラエルの家は頑なだ。額が硬ければ心も硬い。そこでわたしはあなたの額も心もかれらより硬くする。否、遥かに強度のあるダイヤモンドのようにしよう。
 さあ、かれらを恐れたり、かれらにたじろいだりしてはならない。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」(エゼ3:10-11)
――と。
 そのとき、霊がわたくしを引き上げた。背後で大きく轟く音がした。かの生き物が翼を振るわせ、傍らにあった車輪が轟音をあげて回転しているのだ。「わたしは苦々しく、怒りに燃える心を持って出て行ったが、主の御手がわたしを強く捕らえていた。」(エゼ3:14)
 そのようにしてケバル河畔のテル・アビブに来た。そこには捕囚民が住んでいた。そこで7日間、なにもしないでただ坐り、呆然として暮らした。

 鮮烈なる召命体験の終わりです。
 イザヤやエレミヤの召命体験と決定的に異なるのは、やはりそのドラマティックなる点でしょうか。イザヤの召命はシチュエーション的にエゼキエルのそれとよく似ています。が、エゼキエルのとき程微に入り細に穿って描写されているわけではありません。エレミヤに至ってはその消極的なること、他に例を見ないようなものであります。
 エゼキエルの召命体験がイザヤやエレミヤ、或いは本書のあとで読む預言書と較べてみても、群を抜いて生々しい息遣いを感じるのです。これは、「エゼキエル書」が他の書物と違って、比較的早い時期に現在とほぼ変わらぬ形で成立したらしい、という説の根拠ともなる点といえましょう。
 なお、テル・アビブにエゼキエルは来た。その地は現在のテル・アビブとは勿論異なり、バビロン南東にあった町です。ユーフラテス川から引きこまれた運河、即ちケバル河畔にあったテル・アビブは水利を生かして灌漑に適した土地にあり、捕囚民が生活に適した地をバビロニア政府からあてがわれていたことが推察されることであります。



 昨日は唐突に安息日を設けてしまい、ご迷惑をお掛けしました。考えてみれば安息日って、昨日のようになにも更新しないで済ませることなのですよね。それなのに、安息日のお知らせなんて書いているわたくしは、余程なにかを書かないと気が済まないのだな、とやや反省しています。
 明日からはまた定期的に更新してゆけるように尽力します。◆

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第1208日目 〈エゼキエル書第2章:〈エゼキエルの召命〉2/3with読書傾向について・考え中なう。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第2章です。

 エゼ2:1-10〈エゼキエルの召命〉2/3
 かれ、即ち主の顕現した姿がわたくしの前にいた。霊がなかに入って、ひれ伏したままのわたくしを立たせた。かれは主の言葉を告げた。
 主の曰く、――
 反逆の家イスラエルのなかへあなたを派遣する。かれらにわたしの言葉を告げよ、かれらは知るだろう、捕囚の地にも預言者がいることを。
 かれらはわたしの言葉を、従順な態度で聞き入れるかもしれない。或いは、反逆の家なるがゆえに拒むかもしれない。
 しかし、「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。」(エゼ2:7)
――と。
 主はいった、これを食べよ、と。見るとかれの手に一巻の巻物があった。それの裏にも表にも、哀歌と嘆きと呻きの言葉が縷々綴られていた。

 「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」(エゼ2:5)
 エゼキエルがバビロンへ連行されてきたとき、そこには預言者ダニエルが既にいて、活動していた。ダニエルは前605年の第1次バビロン捕囚で連行されてきた一人。エゼキエルはかれに遅れること8年目にして主より預言者として召命された。
 二人は同じ帝都バビロンにて預言者活動を行いました。ならば捕囚民は、召命されたばかりのエゼキエルはともかく、ダニエルの存在は知っていて然るべきであろう、なのになぜ主は「自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」というのか? 理由は、ダニエルは専らバビロン王宮内にて活動する人物だったから。
 対してエゼキエルはバビロン市中に在って、捕囚民に混じって活動する。ダニエルが市中に存在を知られずにいれば捕囚民がかれのことを知る機会はなく、エゼキエルが召命されて初めて、連行されてきたイスラエルの家はかつてユダにいたときと同様、預言者が自分たちの間にもいたのだ、と知るようになる。それゆえ主は、「自分たちの間に預言者がいたことを知る」というたのだろう、とわたくしは考るのであります。

○バビロン捕囚 
 前605年 第1次バビロン捕囚:ダニエル他
 前593年 第2次バビロン捕囚:ヨヤキン王、エゼキエル他
 前586年 第3次バビロン捕囚:ゼデキヤ王他 エルサレム陥落/ユダ王国滅亡
 前583年 第4次バビロン捕囚:バビロニア軍親衛隊長ネブザルアダンが745人を連行



 最近PDCAについての本や小山龍介『STUDY HACKS!』を読んでいます。コリン・パウエルのリーダー論がその次に控える。つくづく読む本の傾向は変化してきたけれど、こうした本を読むのにまったく抵抗がなくなった。やれやれ。
 でも、『ねじまき鳥クロニクル』の文庫は鞄のなかにいつも入っている。それをゆっくり読み進めていることからもわかるように、読書の主軸は動くことなく存在し、そこに仕事術や自己啓発書の類が新たに参入した、というのが正確なところか。
 一人の人間の読書傾向っていうのは、どれぐらいのスパンで流動してゆくのだろう。残るものはどういう本で、淘汰されるのはどんな本なのであろう。極めて雑食な自分の読書傾向はまったく参考に価しないので、近頃はどこかその辺にいる人の読書傾向、その嗜好、その変化を訊ねてみたく思うている。
 なぜ? 「知りたい」という自分の欲求を充足させたいからである。他に理由は、特にない。たぶん。◆

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第1207日目 〈エゼキエル書第1章:〈エゼキエルの召命〉1/3with首都圏・鉄道狂詩曲〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第1章です。

 エゼ1:1-28〈エゼキエルの召命〉1/3
 前593年の第2次捕囚では、多くの高級官僚や祭司らがユダ/エルサレムからバビロニア/バビロンへ連行された。このなかにはヨヤキン王の他、祭司ブジの子エゼキエルもいた。かれはエレミヤと殆ど同じ時代を生き、預言者としては専らバビロンで活動した。かれが召命されたのは、バビロンへ来てから5年目のことであった、という。
 『エゼキエル書』は召命について斯く語り起こす、――第5年4月5日、エゼキエルはカルデアを流れるケバル川の畔にいた。そのかれの上に主の御手が臨んだ、と。
 かれは見た、北の方で激しい風が吹き起こり、こちらへ近附いてくるのを。その風は「大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いて」(エゼ1:4)きた。そうしてその火のなかには、「琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。」(エゼ1:5)
 4つの生き物はこのような姿をしていた;脚はまっすぐに伸び、足の裏は磨いた青銅が輝くかのように光り、仔牛の足の裏みたいな形状であった。生き物の傍らには1つの車輪があった。生き物の頭上には大空があった。空には王座の形をしたものがあり、人のように見えるものが坐していた。腰から上の輝きは琥珀金の如くで、腰から下はあたりへ雨上がりの空に架かる虹みたく見える光を放っていた。
 「これが主の栄光の有様であった。」(エゼ1:25)
 ひれ伏したエゼキエルに語りかける声があった、――

 これより後はエゼキエルの一人称で稿を進めてゆこう。
 なお、新しい書物を繙くに乗じて、表記を変えてみます。

 これまでにも何度か自分自身の備忘を兼ねて、バビロン捕囚について書いてきたように記憶します。なぜ斯様なことを書くか、といえば、今日もまた同じことを繰り返すことをお許し願いたいからであります。
 カウントの方法は2パターンある。つまり、第1次捕囚をどの段階でカウントするか、というあたりで立場というか意見が分かれるようです。エゼキエルが連行された前593年を第1次捕囚とする意見もある。一方でこれを第2次捕囚と取る向きもある。
 前者に立てば前605年の捕囚は、所謂〈バビロン捕囚〉と受け取らず、敗戦国の捕虜を自国へ連行した意味となりましょう。即ち、エゼキエルやヨヤキン王が連行された前593年の連行が、第1次捕囚として記録に残る。本書のあとに登場する預言者ダニエルを始めとする少数のエルサレム住民が連行されたのが、前605年の捕囚であります。
 が、本ブログはその意見を支持しません。文献に現れた通りをそれぞれの捕囚としてカウントすべきだ、と信じるからであります。エゼキエルが連行された前593年の捕囚は第2次捕囚である。その立ち位置を順守して読書を進めてゆく予定でおります。
 明日、捕囚が発生した年と連行された代表的人物、聖書に記された主な出来事を簡単に列記してみようと思います。



 予想していたような降雪こそなかったものの、先月の大雪を教訓にした人たちが最悪の事態を警戒して、早めに家を出た。わたくしもその一人でありました。
 そんな人たちが一時に集中したこともあって、首都圏を走る鉄道各線は相当遅れた。常磐線も山手線も前夜から稼働率を70%に下げ、京浜東北線や頼みの綱の京浜急行も似たようなものだった。湘南新宿ラインに至ってはやはり前夜から午前中の前便を運休と決定しており。
 みなさん、遅刻したりしなかったですか? 怪我や無用なトラブルに巻きこまれたりしませんでしたか? 受験生の方、もし読者のなかにいられたら、ですが、入試会場へは怪我もなく事故もなく体調を崩したりすることなく、辿り着けましたか? これまでの努力が報われますように。あなたに春は来る。
 わたくし? 小1時間かけて通勤した挙げ句、9時5分に会社へ到着しました。品川駅山手線ホームへの入場規制がなければ、遅刻しないで済んだのだけれどなぁ。◆

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第1206日目 〈「エゼキエル書」前夜〉 [エゼキエル書]

 お待ち遠さま、聖書読書ノートの再開です。
 「哀歌」終了から18日、なかなか腰のあがらぬさんさんかを見咎めたか、聖書を読むそもそものきっかけを作った人が夢枕に現れて、いったい全体いつになったらブログを再開するのか、と叱責した。それに首を竦めたわけではないけれど、どちらにせよそろそろ再開しないとな、とさすがに心配になり、パソコンを立ちあげた次第。

 今回読むのは、「エゼキエル書」という預言書の一つ。イザヤやエレミヤの名を冠した書物同様、イスラエル/ユダの滅亡と回復を語った一書です。そうして、旧約最後のヤマ。
 先の2人と異なるのは、預言者エゼキエルが捕囚地のバビロンを舞台に活躍したことと、召命の段階から非常に劇的な言動に彩られた預言者人生を歩んだことでしょうか。まだ読書が途中なため、この程度しかいえませんが、もっと先を読んでいったらこの発言も多少は修正の必要があるかもしれない。エゼキエルは“哀しみの預言者”エレミヤとほぼ同じ時代に活動した人物です。
 『聖書ガイドブック』(教文館)の旧約聖書の項の著者、ジークフリート・ヘルマンは「エゼキエル書」についてこう書いています。曰く、「多面にわたるエゼキエル書の内容は、エルサレム崩壊以前と以後のイスラエルを動かしていたに違いない問題を正確に再現するのである。罪と咎、挫折と破壊、イスラエルの受けたあらゆる禍い、他方また希望と期待、イスラエルの完成を眺めての大きな計画と良い展望――エゼキエル書はこれらすべてをしばしば感動的な仕方で結びあわせている」(P138)と。
 エゼキエルは大預言者のなかでも言動が激しい人物であるように、さんさんかが読んだ誰だかの本にありました。正直な話、現在読み終えた章から判断する限り、その片鱗はたしかに見受けられます。そのあたりは追々扱ってゆくことにしますが、イザヤやエレミヤのような預言者とはまた一味違った、別のいい方をすれば一癖ある預言者である、とはいえそうであります。
 エゼキエルは妻帯者で、妻の死は途中語られますが、かれの死については他でも語られていないようです。また、エゼキエルは開幕から早々に主の栄光に連れられて、バビロニアに包囲されて陥落の日を待つエルサレムを訪れる幻を見ます。陥落直前の王都に在って預言活動を行っていたのは、勿論、エレミヤであります。もしかするとこのときに、たとえ幻に訪れた都であると雖もどこかでエレミヤとニアミスしていたのかもしれないな、と考えると、ちょっと面白く思えます。
 これは第1章で語られることなので敢えてここで申し上げることはないかもしれませんが、やはり簡単にでも触れておきます。エゼキエルは捕囚地バビロンで活躍した、と前述しました。正確には前593年の第二次捕囚の際に連れてゆかれた祭司のなかにエゼキエルがいて、連行から数年後、主の栄光の顕現に接して預言者として立った、というのが発端。覚えておいでの方もいるやもしれませんが、この第二次バビロン捕囚のなかに時のユダ王ヨヤキンがいたのであります。
 ここまで来ると、歴史と聖書の記述がだんだんとリンクしてきた。楽しいです。
 それでは明日から「エゼキエル書」を、一日一章の原則で読んでゆきましょう。約1ヶ月半の予定です。◆

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