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第1316日目 〈ホセア書第14章2/2:〈エフライムの回復と祝福〉with「SKE48の学校の怪談」を観ました。〉 [ホセア書]

 ホセア書第14章2/2です。

 ホセ14:10〈エフライムの回復と祝福〉
 自分たちの咎のため、いまお前たちは悪のなかにある。いまこそ誓いの言葉を携えて来たれ。バアルを棄ててわたしへ立ち帰るのだ。
 ――すべての悪を取り去って恵みを与えてください。アッシリアはもはや自分たちを救うものではありません。造った偶像をわが神と崇めません。われらはあなたにこそ憐れみを見出します。「この唇をもって誓ったことを果たします。」(ホセ14:3)――それが、お前たちの誓いの言葉。
 背き続けたあなた方を癒し、愛そう。怒りは去った。わたしは神、主である。イスラエル/エフライムよ、レバノン杉の如く繁り、その陰で健やかに暮らせ。あなた方はそこであなたの伴侶と愛し合い、睦み、子作りに励み、生まれた子供を育てよ。そうして血を残し、後の世まで伝えてゆけ。
 お前たちはそれでもまだ立ち帰ろうとしないのか。お前たちを見守るのが誰か、知ろうとしないのか。わたしは命に満ちた糸杉であり、わたしによってお前たちは実を結ぶのに。

 「知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。/わきまえある者はそれを悟れ。/主の道は正しい。/神に従う者はその道に歩み/神に背く者はその道につまずく。」(ホセ14:10)

 期待と諦めが綯い交ぜになった、うら悲しい最後の章であります。これは主にとってイスラエルに悔悛を促す最後の言葉であり、どうせこのまま心を入れ替えることなくいままで通り自分たちのやりたいことを好き勝手にやるんだろうな、という諦め半分の言葉でもある。或る意味で神という立場にある者の本音がこぼれ落ちた言葉でもある、といえましょうか。
 残念ながらこれから(おそらく)それ程時間を置かずしてサマリア陥落/北王国イスラエル滅亡という歴史の幕引きの瞬間が訪れる。それは前723年、乃至は前722年の出来事。この時まだホセアが生きているのか判然としませんが、もし存命であったとしたら、果たしてこの場面をどんな思いで目撃したことでありましょうか。
 つくづく命禄というものについて考えさせられる次第であります。
 主の、北王国への愛は報われなかった。本道へ戻そうとする思いは、かれらにとって馬耳東風にも等しかった。真剣に想われているのを知っていながらその愛を、チョー重苦しい、と曰うて他の男と過ちを犯し続ける軽薄な女子みたいなものか、北王国は?
 ――本日を以て「ホセア書」は終わります。2週間のご愛読ありがとうございました。次の「ヨエル書」読書ノートは明後日より始めることに決めております。その際はよろしくお願い申し上げます。



 「SKE48の学校の怪談」ですよね、忘れちゃいません。
 あれから何度か観直したけれど、やはり一等は木﨑ゆりあ主演の第10話「廃校の撮影」だった。この子は<目>で演技ができる貴重な存在ですね。少人数でのアンサンブルには圧倒的な強みを発揮する人です。クライマックスで登場するクリーチャーには興醒めですが、演出も脚本も文句なしの出来映えでした。
 第10話と同率首位で、小木曽汐莉主演の第2話「踊り場の絵」を選びます。手垢のついた題材であり、終盤の展開があまりに急すぎな感はあるが、地味に、手堅く演出された一品だと思います。これを自分なりにアレンジした掌編小説を、眠れぬ夜など頭のなかで創作していた、ということも小声で告白しておきましょう。
 対して非道すぎたのが秦佐和子主演の第11話「獣」。なんというてもこれのいちばんの敗因は時間の短さと、それに見合う量の脚本になっていなかったところ。山奥の旅籠の一夜を約6分で描けるわけあるまい。泉鏡花『高野聖』の最も低レヴェルな焼き直しとしかわたくしには思えない。この話でいちばん恐ろしいのはどの場面かと訊かれれば、躊躇なく終盤、秦佐和子の絶叫顔である、としか答えようがないのは如何なものだろう?
 他では、まったく意味不明で息抜き回のような第9話「よいしょ」(桑原みずき主演)には頗る付きで笑わせていただいた。先日の総選挙でめでたく初選抜入りした須田亜香里の主演回では第14話「二号館のトイレ」が良かった(大矢真那の衝撃的な登場場面を見逃すな!)。また、高柳明音主演の第3話「市松人形」だが、そんな捨て方したら人形が帰ってきて当たり前だろう、とツッコミ入れた人は何人ぐらいいるのかしら。
 が、なによりも! 向田茉夏主演の第13話「合わせ鏡」では、ベッド上の茉夏の足バタバタ、「くきゅーん」と唸って転がり落ちる場面がなによりも、良い! あまりに可愛らしくて、何度も再生したくなる程の天国的な可愛らしさなのだ! ……若干文章がぶっ壊れていることをお詫びいたします。
 茉夏の可愛さは絶対的正義、これ永久不変の真実。
 永久保存化に向けて、是非DoCoMoには本作を(メイキング付きで)早急に、ブルーレイ・ディスクでの発売をお願いしたいのであります。頼むぜ、DoCoMo! おいらauユーザーだけど!!
 木本花音主演の第7話「お静かに」や木﨑ゆりあ・矢神久美主演の第4話「犯人の背中」など、他のエピソードについてもその内、感想など認めてみましょう。
 参考までに以下へ全15話のキャスト・監督・脚本を挙げておきます。

 第01話;憑いてくる 出演)大矢真那 監督・脚本)三宅隆太
 第02話;踊り場の絵 出演)小木曽汐莉、原望奈美、梅本まどか 監督)三宅隆太 脚本)吉田香織
 第03話;市松人形 出演)高柳明音 監督・脚本)三宅隆太
 第04話;犯人の背中 出演)木﨑ゆりあ、矢神久美、平松可奈子 監督)竹村謙太郎 脚本)加藤淳也
 第05話;人体模型 出演)須田亜香里、古川愛李、松本梨奈 監督)白石晃士 脚本)中村太一朗・三宅隆太
 第06話;別れの曲 出演)矢神久美、向田茉夏、加藤るみ 監督)竹村謙太郎 脚本)松永咲子・三宅隆太
 第07話;お静かに 出演)木本花音 監督・脚本)加藤淳也
 第08話;メリーさん 出演)木﨑ゆりあ 監督・脚本)三宅隆太
 第09話;よいしょ 出演)桑原みずき 監督)竹村謙太郎 脚本)三宅隆太
 第10話;廃校の撮影 出演)木﨑ゆりあ 監督・脚本)白石晃士
 第11話;獣 出演)秦佐和子 監督)白石晃士 脚本)松永咲子
 第12話;赤い部屋 出演)小木曽汐莉、高柳明音 監督)竹村謙太郎 脚本)三宅隆太
 第13話;合わせ鏡 出演)向田茉夏、石田安奈、金子栞、矢方美紀 監督・脚本)加藤淳也
 第14話;二号館のトイレ 出演)須田亜香里、中西優香、大矢真那 監督・脚本)三宅隆太
 第15話;こっくりさん 出演)矢方美紀、金子栞、柴田阿弥 監督・脚本)白石晃士◆

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第1315日目 〈ホセア書第13章&第14章1/2:〈エフライムの終わり〉withどうしてなのだろう?〉 [ホセア書]

 ホセア書第13章と第14章1/2です。

 ホセ13:1-14:1〈エフライムの終わり〉
 「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。/死から彼らを解き放つだろうか。/死よ、、お前の呪いはどこにあるのか。/陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。/憐れみははわたしの目から消え去る。」(ホセ13:14)

 かつては重んじられ、他から一目置かれたイスラエルは、いまや自らの犯した罪のため滅びようとしている。バアル神を崇め、偶像を鋳造して、自分たちの神であるわたしを忘れて棄てた。かれらの生は一瞬間のもの。
 わたしは主である。イスラエルの神である。このわたし以外の神を崇めることなかれ。お前たちが畏れ敬うべきはわたしのみ。お前たちは数えきれぬ程の恩恵をわたしから受けていながら、なにものにも満足することなく他の神を求めて礼拝し、満たされれれば傲り、そうして自分たちの神であるわたしを忘れて棄てた。
 イスラエルよ、破滅の刻が来る。滅びの日、滅びの日を待て。わたしに背いた罪と罰の重さを知れ。お前たちを守るべき王や高官たちはどこにもいない。怒りを以て与えた王たちを、憤りによって奪ったからである。
 種々のエフライムの咎は臨界に達するその瞬間まで蓄積される。兄弟のなかで最も栄えたかれらを、東からの熱風が襲う。不作と旱魃、飢餓と略奪がかれらの末路だ。
 自ら犯し続けた罪によってサマリアは罰せられる。民は剣にかかって倒れる。幼な子は殺され、妊婦は腹を裂かれる。生ある者の声も陰も絶える。王都サマリアは血に染まる……。

 70人訳ではホセ13:4「あなたの神、主。/」に続いて、「天と地を創造した者。この手で天の万軍を創造した。だが、彼らの背後をあなたが歩くため、彼らをあなたには見せなかった。そしてわたしはあなたをエジプトの地から導き上った。という訳文が補われている由。岩波10「十二預言書」P50脚注2にあります。こうすると少しだけ流れが良くなりますね。不思議です。
また、ホセ13:13「生まれるべきときなのに、胎から出てこない」というのは、どこかで見た(読んだ)覚えのある文言なのですが、記憶を探ってみても、聖書を読み返してみても、見落としているためか、該当する部分を挙げられません。ここは日を置いて調べ直してみたいと思います。
 おそらく本章はホセア活動期の最後の頃なのでありましょう。サマリア陥落に初めて触れているあたり、北王国滅亡が間近に迫った時分のものでありましょう。そう推測されるところであります。そんな印象を持って読むせいか、絶望的な雰囲気が垂れこめた章と読むことができます。それだけに続くホセ14:2-10〈イスラエルの回復と祝福〉が映えるのかもしれません。いずれにせよ、ずしり、と重い読後感を残す章であります。



 なぜだろう、朝から雨降りなのに折りたたみ傘を持っている人がいるのは? こんな場合、家を出るときから長い傘じゃぁないの?◆

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第1314日目 〈ホセア書第12章:〈ヤコブの愛〉withまったくもう、犯罪者って奴ぁ……、〉 [ホセア書]

 ホセア書第12章です。

 ホセ12:1-15〈ヤコブの愛〉
 偽りと欺きにまみれたイスラエル/エフライム。かれらは風に彷徨い、欺瞞と暴虐を繰り返し、アッシリアとエジプト双方へ媚びへつらう。かれらは主により罰せられ、その悪行にかなった報いを受ける。
 思い返すとイスラエル即ちヤコブは母リベカの胎より出るとき、双子の兄エサウの踵を摑んで生まれてきた(創25:26)。かれはヤボクの河岸で神の使いと争って勝ち、イスラエルの名を与えられ(同32:23-31)、ベテルで神と語らった(同35:9-15)。
 その末裔たるエフライムは今日、ヤコブ同様に欺き、偽りの言葉を並べ立てる。わたしはいう、愛と正義を保ちあなたの神を待ち望め、と。わたしは再びあなたたちを天幕に住まわせ、預言者に言葉を伝えて本道を説く。
 ギレアドには忌むべき風習が残る。犠牲をささげる祭壇は畑の畝に積まれた唾棄すべき石塚――。
 わたしの許へ立ち帰れ。愛と正義を保って、あなたの主人を待ち望め。あなたを本当に愛し、慈しみ、守るのは、他ならぬわたしであることを、いまこそあなたは知れ。

 「エフライムは主を激しく怒らせた。/主は流血の報いを彼に下し/その恥辱を彼に返される。」(ホセ12:15)

 以前にも書きましたが、ここでも主のイスラエルに対する限りない愛が語られ、その裏返しのようなイスラエルへの怒りが語られる。まさしくルサンチマンと呼ぶに相応しいように思えてきます。まこと、本書のテーマは<愛>と<憎しみ>であります……。
 創世記にまつわる既述が出てきました。そこで原稿を書くにあたって始まりの書物に帰り、ヤコブの挿話を読み返しました。ああ、そうそう、こんな挿話があった、場面があった、台詞や描写があった、この頃自分はなにをしていたんだっけ、と思いながら。
 「創世記」に無駄な部分は一箇所もない。枝葉末節こそ多少はあるが、全50章のすべての節が後の展開に関わってくる。本ブログでは「創世記」を飛ばしていますが、それは単にブログ執筆の理由が、「出エジプト記」や「レビ記」のメモ/備忘録を出発点にしているからです。旧約聖書の読書が「マラキ書」の最後の一節で終わって少し間を置いたあと、「創世記」と「出エジプト記」未掲分へ立ち帰るのは既に予告済みであります。そのときに改めて「創世記」をゆっくりと読みましょう。
 ……そろそろ次の預言書「ヨエル書」前夜のノートを書かなくては。まったく手附かずなのです。やれやれ。



 いましがた、i-Phoneを充電していたら突然音楽が流れ始めた。どうした、i-Phoneにゃぁ音楽、一曲も入れていいぞ?
 おまけに変なアプリが、勝手にインストールされておる。勿論、即効で削除。誰だ、こんなふざけたマネをしたのは。
 まったくもう、犯罪者は自分の行為を犯罪だと承知の上で悪事を働いているのかな?◆

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第1313日目 〈ホセア書第11章:〈神の愛〉with「ソドム」と書いて、有川浩『塩の町』を思い出す。〉 [ホセア書]

 ホセア書第11章です。

 ホセ11:1-11〈神の愛〉
 幼な子イスラエルをわたしは愛し、エジプトからこの地へ導いた。わたしはかれらを愛している。なのにかれらはわたしから去った。去って、バアル神を崇め、香を焚き、献げ物をささげている。わたしがかれらを癒していることを、かれらは知らない。陰から寄せるわたしの愛をかれらは知らない。
 斯様にして立ち帰ることを拒むかれらを、アッシリアの王が征服して捕囚にする。そのときになってイスラエルが叫んでも、わたしは応えない。助け起こされることも、勿論、ない。
 ――嗚呼、わが子イスラエルよ、お前を見捨て、引き渡すことなどできようか。往古、アブラハムやロトの時代にソドムやゴモラ、アドマやツェボイムを、わたしは滅ぼした。イスラエルよ、お前たちをどうして、同じように見捨てることができるだろう。わたしはアブラハムに怒りを以て臨んだり、ましてや滅ぼすなどしたくない。わたしは神であって人間ではなく、お前たちの心の内にある聖なる者である――
 「獅子のようにほえる主に彼らは従う。/主がその声をあげるとき/その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。/彼らは恐れつつ飛んでくる。/小鳥のようにエジプトから/鳩のようにアッシリアから/わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。」(ホセ11:10-11)

 引用箇所をなんとか自分の文章に<翻訳>、<再創造>してみようと試みましたが、断念しました。抽象的な文言を他の文章に置き換えることの難しさを、改めて痛感しました。最後まで諦めたくなかったのですが……力が抜けてゆきます。
 アドマとツェボイム。この2つの町は、創10:19、同14:2&8,申29:22にてソドムとゴモラと併記されて旧約聖書に登場します。4つの町は同じ低地帯(ex;創19:28)に位置し、それぞれさして離れていない場所にあった、と思われます。
 そういえば、有川浩のデヴュー作『塩の町』を読んでいて、ソドムを見舞った災厄を重ねて思ったこともありましたっけ。



 有川浩と『塩の町』つながりで、
 ――今月末に新潮文庫から『キケン』が出る。が、こちらはネグレクト。図書館に予約していた単行本の順番が廻ってきたらからです。文庫化を知るのが遅くてちょっと後悔。
 さて、『塩の町』。これは初刊時の電撃文庫と、その後の単行本、現在容易に入手可能な角川文庫と3種の刊本がある。
 いま読むなら手が加えられてより手練れた感を堪能できる角川文庫版だろうが、電撃文庫版とのいちばんの相違はクライマックス、東京湾上の結晶へ突入してゆく割に心拍数の上昇する場面だが、前者ではばっさりカット。角川文庫版を読んだときは「え?」と面喰らってしまったのをよく覚えています。
 この点を如何に評価するかは読み手次第。最初に読んだ関係もあるが、わたくしは電撃文庫版を推します。作者同様に『エリア88』や『トップガン』の洗礼を受けたものですから、やはりF14を仰ぎ見るあの見開きの挿絵は、10代の時分、網膜に焼きついた“ドラ猫”の勇姿を思い出させて興奮させられるのであります。その内に『塩の町』の感想でも認めてみましょう。
 角川文庫版には後日談にあたる「塩の町、その後」が併載。だから、両方の版を読んでしまうのがいちばんである。◆

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第1312日目 〈ホセア書第10章:〈イスラエルに臨む罰〉withSKE48、躍進!〉 [ホセア書]

 ホセア書第10章です。

 ホセ10:1-15〈イスラエルに臨む罰〉
 イスラエルは主から離れて好き放題に振る舞っている。主から離れるごとにバアル神を礼拝する祭壇が増えてゆく。偽りで塗り固められたかれらの心は主によって罰せられ、祭壇も打ち砕かれるだろう。粉々になった祭壇には茨やあざみが這うようになる。
 サマリアの住民が怯える、ベト・アベンに供えられた金の仔牛像のために。イスラエルの民はそれが原因で嘆き悲しむ、やがてアッシリアが攻め来たってそれを奪ってゆくからだ。かれらは自分たちが偽りの言葉を口にし、偽りの誓いをしたせいで、滅びの罪を受ける。民は逃げ惑うが、かれらを慈しんで隠す者があるだろうか?
 主は懲らしめのために諸国民を動員して、2つの悪ゆえにイスラエルを捕らえる。
 耕作を尊び主を尋ね求める詩篇を唱えても無駄だ。エフライムは悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を口にし、自分の力と兵士の数を頼みとした。そんなお前たちに向かって、主により動員された諸国の軍勢が勇ましい声をあげて迫る。破壊される砦、征服される町、荒廃する大地、……。
 これはベト・アベンのみの話ではない。ベテルも同じ災いから免れない。
 夜が明ける。イスラエルの王は必ず絶たれる。

 ベト・アベン、ベテル。何度か聴いた覚えのある地名です。いずれも北王国に於ける偶像崇拝(バアル信仰)の中心地で、殊にベト・アベンは金の仔牛像を供える高台があるため、礼拝は一際盛んであったと思われます。
 詩篇とした詩句を以下に引いておきます。が、特に説明を加えたりするものではありません。――
 「ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。/恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。/新しい土地を耕せ。/主を求める時が来た。/ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように。」(ホセ10:11-12)



 まずは乾杯。いまは素直に喜びたいので、いつもより1時間早く更新しちゃいます!
 では、乾杯。昨年よりも多い人数がランク・インして、かつW松井が揃って6位、7位を獲得して<神7>を崩したことを、すべてのファンと共に、その世界の端っこで祝いたい。むろん、今夜(昨夜ですか)日産スタジアムで行われたAKB48G総選挙に於けるSKE48の話である。
 選抜メンバーを含めて大量の卒業生が出たことで、グループとしても今回の総選挙は背水の陣で臨んだのだろう。その決意の固さ、深さ、熱さがファンに伝播し、「一緒に頑張ろう」というムードを生み出した。その結果が数字である。
 一昨年か、「数字は愛」なる名言が残されたが、それを今年のSKE48は具現した。数字は愛であり信任である。ファンはあなた方を信じた。「名前を呼ばれたとき、頭に浮かんだのはファンの皆さんの顔でした」(松井玲奈)――われらはその言葉を待っていた!
 圏外に甘んじた人もいたが、あなた方の悔しさをファンは知っている。だから、明日から改めて一緒に次の頂点を目指そう。
 それにしても1位が発表されたときのあの人の表情は尋常ではなかったな……。そういうものなのか。
 茉夏が立候補していたらアンダーガールズは確実だったのかしら。……ん、閑話休題。
 6位;松井珠理奈(SKE代表!)、
 7位;松井玲奈(“れいな”じゃないもん!!!!!!)、
 16位;須田亜香里(初選抜入り!)、
 17位;柴田阿弥(アンダーガールズ、センター!)、
 22位;木﨑ゆりあ(次の総選挙で雪辱しよう!)、
 23位;高柳明音(本当に来年は不出馬ですか!?)、
 24位;松村香織(SKEに必要な最強の広報マン!!)、
 27位;古川愛李(ちびあいりんもぐぐたすたんも一緒!)、
 29位;大矢真那(教祖さま……、その肉声好きです!)、
 31位;木本花音(天国の大切な人へ良い知らせができましたね)、
 39位;梅本まどか(この勢いで来年も行こう!)、
 41位;松本梨奈(ついにここに立ちましたね!)、
 42位;斉藤真木子(斉藤革命の勝利!)、
 47位;小林亜実(おめでとう、ってありきたりな言葉しか思い浮かばない!)、
 58位;磯原杏華(良き友は人生の宝だ!)、
 63位;金子栞、
 64位;中西優香(応援してみました、キャプテン!)、……おめでとう!
 ――矢方美紀、古畑奈和、菅なな子、二村春香、山下ゆかり、加藤るみ、加藤智子、後藤理沙子、出口陽、石田安奈、佐藤美絵子、井口栞里、北川綾巴、東李苑、阿比留李帆、山田澪花、都築里佳高木由麻奈、酒井萌衣、内山命、竹内舞、水埜帆乃香、犬塚あさな、新土居沙也加、江籠裕奈、山田みずほ、熊崎晴香、宮前杏実、岩永亞美、市野成美、青木詩織、折戸愛彩、鎌田菜月、北野瑠華、後藤真由子、佐々木柚香、空美夕日、竹内彩姫、野口由芽、宮脇理子、日高優月、矢野杏月、山田樹奈、山本由香(順不同)……来年はみんなであのステージに立とう。♪駆け出そう明日へ、最後にきっと笑うため♪(デリカテッセン「ADVENTURE WORLD」)
 特にミキティ、力になれず済まなかった! 実はさんさんか、教祖さまへ奉るべき票をあなたへ流用しました。
 はぁ、暑い夏(おい)が終わったぜ?◆

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第1311日目 〈ホセア書第9章2/2:〈預言者への憎しみ〉&〈ペオルとギルガルにおける罪〉〉 [ホセア書]

 ホセア書第9章2/2です。

 ホセ9:7-9〈預言者への憎しみ〉
 イスラエルの犯した不義、不貞は目に余る。かれらが神の家や預言者に抱く敵意は激しい。為に預言者は愚か者と、霊の人は狂っていると罵られる。エフライムは神と共にある預言者を罠にかけ、行く手を邪魔しようとする。往古、ギブアの地でベニヤミン族がしでかした姦淫と犯行の日々のように、イスラエル/エフライムの堕落は根深い。主はかれらの不義、不貞を心に留め、その罪を裁く。裁きの日が来る。決裁の日が来る。

 ホセ9:10-17〈ペオルとギルガルにおける罪〉
 荒れ野でぶどうを見附けたのに似た思いで、わたしはイスラエルを見出した。が、かれらは蕃神(バアル・ベオル)を敬い、依り頼んだ。そうすることで、ますます恥に身も心も溺れさせ、忌むべき者となった。
 ギルガルこそかれらの犯す悪の中心。そこは偶像崇拝の中心(の一)。わたしから心を離したかれらの向かう先。その地でわたしはイスラエルを憎み、わたしの家から追放する。わたしはもうかれらを許しておけない。
 いまやエフライムの栄光は去り、女が子を産んで人口が増えることもない。誰かが子を育てるようなことがあれば、わたしは残らず奪ってゆく。「その胎の実、愛する子をわたしは殺す。」(ホセ9:16)
 かれらは神に聞き従わなかったせいで退けられ、諸国を彷徨う者となる。哀れと思うな、情けをかけるな。すべて自業自得のなせる業。

 ふりがなを振ったバアル・ベオルは「ベオル(地)のバアル神」の意味であります。
 ギブアの地でベニヤミン族がしでかした姦淫と犯行について述べますと、これはまず「士師記」第19章に載る出来事が基になっております(第0243日目)。即ち、
 ――ギブアの地でベニヤミン族のならず者が、滞在中であったレビ人の側女を犯し、そこに住むエフライム出身の男の娘を犯した。レビ人は家に帰ると側女の遺体を12に切断して全部族に送り付けた。「イスラエルの人々がエジプトの地から上ってきた日から今日に至るまで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ。」(士19:30)――
 堕落はこの一事を以ても明らかである。なにやら神はそういいたげです。
 ギルガルは、主がヨルダン川の流れを塞き止めて渡河を助けてくれたことに感謝したイスラエルが12個の石を川のなかに置いた場所でした(ヨシュ4:19、24)。またここは、イスラエル王国初代王サウルがサムエルに油注がれて即位した場所であり(サム上11:14-15)、サウル王が2度にわたって主の命令、サムエルの指示に反した行いをした場所であります(サム上13:1-15、同15)。これはサウルの命運を分ける行為でもありました。
 地名の後ろには必ず歴史があります。億劫がらずに都度、前のページに戻って読み返すと、聖書は面白く読めると思います。これは聖書に限らず、史書や歴史物語などに於いても然りであります。
 反復読書するたび新たな発見がある。これも聖書読書の愉しみの一つだと思います。◆

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第1310日目 〈ホセア書第8章&第9章1/2〈イスラエルへの警告〉withその数字は666である。〉 [ホセア書]

 ホセア書第8章と第9章1/2です。

 ホセ8:1-9:6〈イスラエルへの警告〉
 ――イスラエルがわたしの契約を破り、律法に背く。かれらは造物主を忘れた。
 敵に襲われたとき、かれらがわが名を呼び、助けを求める。だが、わたしは手を差し伸べない。わたしの恵みを退けたからだ。敵に追われればよい。
 かれらが金銀を用いて作った金の仔牛像が理由で、わたしの怒りはかれらへ向かって燃え盛る。それは必ず打ち砕かれるだろう。
 わたしはかれらの不義に心を留め、その罪を裁く。かれらはかつてエジプトの地で祖先がそうだったように、再び奴隷の身分に堕ちて使役されなくてはならない。
 イスラエルは諸国民のように喜んだり、祝ったり、躍ったりするな。お前たちは自分の神から離れ、姦淫の報酬を要求した。主なる神が導いたこの土地を出てゆき、アッシリアやエジプトの世話になれ。礼拝も祝祭もままならぬ異邦の地で過ごせ。
 「見よ、彼らが滅びを逃れても/エジプトが彼らを集め、メンフィスが葬る。」(ホセ9:6)
 ――イスラエルはわたしとの契約を捨て、律法を蔑ろにした。かれらはわたしを忘れた。

 ホセ8:4に、イスラエルは王を立てたが、それはわたし(主)から出たものではない、という一節があります。これについてわたくしは、「北王国の王たちは南のユダと異なり、わたしが選んだダビデの血筋、即ちダビデ王朝の者たちではない」という意味に受け取る一方で、「イスラエルに王が立つのはわたしの意思ではない」という意味にも受け取ります。キリスト者や聖書学者、教会の人々がどう解釈するかわかりませんが、あくまで、さんさんかはそう思う、という程度で捉えていただければ幸いです。
 また、ホセ8:13「彼らはエジプトに帰らねばならない」は出エジプト以前にイスラエルが如何なる状態に置かれていたかを今一度思い返すために、「かれらはかつてエジプトの地で祖先がそうだったように、再び奴隷の身分に堕ちて使役されなくてはならない」という本文に仕上げました。
 同じ章節にある「わたしへの贈り物としていけにえをささげるが/その肉を食べるのは彼らだ」は、ホセ4:8「彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり/民が罪を犯すのを当てにしている」を踏まえた表現でありましょう。ここでいう「彼ら」はいずれも祭司たちのことであります。



 「知恵が必要である。賢い人は数字の意味を考えよ。それは人間である。その数字は666。」(黙示13:18)
 ――欺きがいつまでも続くと思わないでほしい。旧約聖書の神はそういいますが、これはわれらの周囲に於いても然りであります。自分のことか、と胸に思い当たる節のある人がいるはず。ねえ、あなた方は正しいと信じて踏み外した道からここへ戻ることができますか?
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブ11:1)◆

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第1309日目 〈ホセア書第7章2/2:〈イスラエルと諸国民〉withラム『エリア随筆抄』を読みました。〉 [ホセア書]

 ホセア書第7章2/2です。

 ホセ7:8-16〈イスラエルと諸国民〉
 エフライムは遠近へ散らばり、諸国民と混ざり合い、その地の民に骨の髄までしゃぶり尽くされても、また、その地に髪が真っ白になるぐらい長く留まっても、かれらはそれに気附くことはない。
 イスラエルは高慢ゆえに罪に堕ち、罪人となってもわたしを求めようとしない。かれらは力による庇護だけを期待している。だからエジプトアッシリアの間を行ったり来たりしているのだ。が、わたしはエフライムを孤立させる。
 わたしから離れたことを災いと知れ。わたしへの背きがイスラエルを滅ぼす。エフライムはわたしを尋ね求めない。尋ね求めたとしても、それは偽りだ。まやかしだ。荒(すさ)んだ民はバアル神に立ち帰るのだ。
 この国の高官たちは、自分たちが口にした呪いの言葉の実現を知る。他ならぬ自分たちが剣にかかって倒れるその瞬間(とき)に。そのことがエジプトで物笑いの種となる。

 主はイスラエルを愛し、かつ、憎んだ。その一面が容赦なく描かれた章です。民へ寄せる神の愛はあまりに酷く、神へ寄せる民の愛はあまりに軽い。愛憎のデフレ・スパイラルとはこのことか。
 愛は憎しみであり、憎しみは愛である。紙一重というよりも、両者は表裏一体のものと思います。純粋であればある程、愛は憎しみを生み、憎しみは愛を殺意に変える。アンヴィバレンツとはよくいうたものであります。
 神も人間も大差ない。愛の前に思い悩み、憎しみを制御するに必死な存在だ。でもまぁ、心よりの愛や憎しみに出会(でくわ)したら、理性なんて吹っ飛びかねないですからね。
 ……溜め息吐きたくなりますな。



 チャールズ・ラム『エリア随筆』に「幻の子供たち――夢物語」という一編があります。病身(とここではいうておきます)の姉と孤独に暮らすラムが、うたた寝で見た夢の家族の情景を描いた心を打つエッセイですが、初めて読んだ20代の初めからこの方、わたくしにはこれが他人事とは思えないのであります。それは年を経るに従ってますます強くなってゆき。
 当時のわたくしと同じぐらいの年齢の頃、ラムには一人の恋人がありました。互いに想い合う2人だったそうですが、事態はかれらのそれ以上の交際も、ましてや結婚も許しませんでした。かれの姉の症状が悪化の一途を辿るばかりで、ラムには自分が姉の面倒を見るより他なく、そうすれば恋人とは別れざるを得ないことを察していたからであります。
 結局2人は別れることとなり、その後のラムはどんな女性とも結婚することなく姉の面倒を見、介護をしながら生きました。かれら姉弟は『シェイクスピア物語』という、沙翁の戯曲から幾つかを選んで語り直した本を書きました。ラム姉弟が共作した『シェイクスピア物語』は断トツに有名で親しまれた一著でありますが、チャールズ本人単独著としていちばん親しまれて、日本でも早くから翻訳が出て読書人の宝物として読まれてきたのが、『エリア随筆』であります。
 「幻の子供たち」は冒頭で触れたように、ラムがもし恋人とあのまま結婚していたら恵まれていただろう子供たち――2人の兄妹――にせがまれて、曾祖母や叔父さん、亡くなったかれらの美しいお母さん、即ちラム夫人のお話をしてあげる自分を描いた作品であります。それはきっと、あるはずであった未来を思う哀しみの心が生み出した、あまりに儚くて脆い、一篇の美しい詩だったのであります。かれこれ数十年前になるが、わたくしも似たような掌編小説を、まだラムの作物に触れることなかった頃に書いたことがあります。だからラムの夢を淡彩で描いたこのエッセイを読むたび、涙がこぼれて仕方ないのです。
 ――わたくしが読んだ『エリア随筆抄』にはこれ以外にも、お気に入りの古陶器に描かれた模様を振り出しに貧しかったけれど楽しみの多かった時代を回顧する、集中極めつけの一篇「古陶器」や、ラムが対象を殊の外愛した「煙突掃除人の讃」、駆け出しのサラリーマン(といっても当時かれは少年でしたが)の風情が偲ばれる「南海商会」、個人的にお気に入りな「初めての芝居見物」と「婚礼」など、正編続編から精選された16編を収めます。翻訳もこれまで出されたなかで最も親しみやすく、平明な、滋味溢れる訳文となっています。
 古本屋で過去に出されたものを探すよりも、定価であれ古書価であれ、このみすず書房版をお求めいただくのがいちばん良いか、と思います。わたくしもこれまで図書館で何度となく借りた本書を購入したことで、岩波文庫で持っていた翻訳書は書架の奥にご引退願ったところであります。英語に自信のある方は原書に挑戦してみても良いのではないでしょうか。歯応えある英語ですが、きっと楽しい経験になると思います。
 『エリア随筆』や『シェイクスピア物語』はG.ギッシング『ヘンリ・ライクラフトの私記』(平井正穂・訳 岩波文庫)と共に、昔から日本人に愛されてきた英国文学の隠れた金字塔です。沙翁の戯曲、数多の英国詩人の詩集と一緒にいつまでも読まれることを願いたい作品です。なによりも人生を愛する人には是が非でもお読みいただきたい作品です。そうして、生涯の愛読書として座右に侍らせていただきたいのであります。人生の糧というにこれ程相応しい文学は、なかなかあるものではありません。
 なお、『シェイクスピア物語』は岩波文庫や新潮文庫、岩波少年文庫や偕成社文庫などで読むことができます。シェイクスピアの戯曲も新潮文庫や岩波文庫、ちくま文庫や白水uブックスなどに入っております。チャールズ・ラムについては福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』(講談社文芸文庫)があります。◆

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第1308日目 〈ホセア書第6章2/2&第7章1/2:〈イスラエルの罪〉~ペルティ《エレミヤの哀歌》withSMAP新曲「Joy!!」〉 [ホセア書]

 ホセア書第6章2/2と第7章1/2です。

 ホセ6:7-7:7〈イスラエルの罪〉
 アダムの地にて、かれらは背信を働いた。悪党の巣窟となったギレアドには、流血の罪を犯した者の痕跡が残る。祭司たちは徒党を組んで、シケムへ至る谷間の道で強盗・追い剝ぎに精を出す。
 わたしがイスラエルを癒そうとしても、それを上回る勢いでエフライムの不義、サマリアの悪が露呈する。かれらの悪事の一々を心に留めているのに、連衆はまったく意に介そうとしない。「今や彼らは悪に取り囲まれ/その有様はわたしの目の前にある。」(ホセ7:2)
 かれらは王さえ手玉に取り、高官たちを操る。王が催す祝いの夜、高官たちはぶどう酒に酔い潰れ、王は謀略者たちと結んで凶事を企む。朝、謀略者たちの怒りは眠りから覚めて烈火と化し、自分たちの国の王をことごとく焼き尽くす。
 誰一人、主であるわたしを呼び求める者はなかった。

 ――ユダよ、お前にも<刈り入れの時>は迫っている。忘れるな。

 「彼らはアダムで契約を破り/そこでわたしを裏切った」(ホセ6:7)ですが、アダムを地名と解釈しました。
 ヨルダン川東岸の町の一つにアダムがあります(ヨシュ3:16)。ヨルダン渡河に際して主の計らいにより流れが塞き止められたため、イスラエルの民はカナンへ入ることができたのでありました(ヨシュ3:16-17)。このときに民はなんらかの罪を犯したのか。ここがモアブ平原のなかにある町であることも考えれば、バアル信仰とかかわる何事かを行ったのかな、と考えるのであります
 もしこれが「創世記」のアダムであれば、「かつてアダムは背徳、背信の行いをしてわたしを裏切った」という文章も拵えられましょうが……。
 もう一つ、「王たちはことごとく倒れ/ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった」(ホセ7:7)という文言について。当該部分にもう少し正確さを持たせるならば、「北王国末期の5人の王の死が続く。皆、主の目に悪と映ることを行い、主を呼び求めることは一度もなかった」という風になる。5人の王とは、イエフ王朝から王位を簒奪したシャルムとその子メナヘム、それぞれクーデターによって王位を前王から奪ったペカフヤ、ペカ、ホシェアであります(列下15:13-31、列下17)。

 ペルティ作曲《エレミヤの哀歌》と《聖金曜日のための音楽》を聴きながら、ずっと本章のノートを書いていました。今年の初め、まだ誰にも会っていない第1182日目〈「哀歌」前夜〉にちょっとだけ触れた曲です。これをiPodで聴きながら書いていた。
 おだやかで天国的な澄み渡ったイタリア・バロックの合唱曲の隠れた名品を、機会があったら是が非でも聴いてみてください(NAXOS 8.55332)。どこかの合唱団がプログラムに入れたら勇んで聴きに行きたいけれど、なかなかないんですよねぇ。



 SMAPの新曲「Joy!!」を買いました。全5種類のジャケット、異なる収録内容(DVD含む)には悩んだけれど、今月は他に特に欲しいものもないですからね、ええ、買っちゃいましたよ。わが選択に悔いなし。だって全プレのスペシャルDVD欲しいもん(おい)。
 実はこれを聴き呆けている内に午前01時50分近くになっちゃってね。誠に勝手ながら更新を午前3時に変更させていただいた次第です。ごめんなさい。でも久しぶりにSMAPらしい歌を聴いた気がする。今週のスマスマのトークを模倣するわけじゃないけれどさ。
 さて、本稿をお披露目したあとは頑張ってiPodに入れなくっちゃな。……明日起きられるのか、おいら?◆

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第1307日目 〈ホセア書第6章1/2:〈偽りの悔い改め〉with現役引退の椅子に、どんな言葉を掛ければいいのだろう?〉 [ホセア書]

 ホセア書第6章1/2です。

 ホセ6:1-6〈偽りの悔い改め〉
 さあ、われらは主の許へ帰り、主の前に生きよう。主を愛し、畏まろう。主はわれらを裂き、打ったけれど、傷を癒し、包みこんでくれる。3日目になれば立ちあがらせてくれる。われらは主を知ることを追い求めよう……。
 ――わが民イスラエルとエフライムがそういう。わが民ユダがそういう。しかし、わたしはお前たちをどう扱うこともできない。お前たちが口にする<愛>は空虚だ。偽りだ。なにを以てお前たちを信じよというのか。
 それゆえにわたしは預言者を以てお前たちを倒し、わが言葉を持ってお前たちを滅ぼす。わが裁きは光のように素早く、一瞬で下される。覚えておけ、「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセ6:6)ということを。

 前半は<悔い改めの詩篇>です。3日目になれば云々、というのが問題になると思います。ここに処刑されたイエスの復活を見る人もいます。が、そう十把一絡げにメシア預言と考えるのはどうなのか。
 「3日目」とは、――それぐらい経ったらあなたもわが身を省みて、自分の所業を悔い改め、もう一度自分の足で立ちあがろうとするでしょう。ね?――ぐらいの意味で取った方がよいだろう、と、キリスト者でないわたくしは思うのであります。
 お馴染みP.C.クレイギは著書のなかでこれが「本来の意味においては救世主を示すものではない」と前置きした上で、「それはただ、悔い改めた人のただなかに、もし彼が真に神に立ち帰るなら希望が生じ得ることを示しているだけである」と説きます(『十二預言書1』P82 山森みか・訳 いのちのことば社 1989)。
 この悔い改めの詩篇のなかにはとても良い文言があります。ちょっと引用しちゃいましょう。曰く、――
 「我々は主を知ろう。/主を知ることを追い求めよう。/主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」(ホセ6:3)
 なかなか響くところのある文言だと思いませんか。偽言の文脈のなかにあるので見過ごしがちですが、切り離して鑑賞してみれば噛み応えのある詩篇であります。特にいま引用した節は、キリスト者でない者の胸の奥にまで染み渡ってゆく慈雨の如きヒーリングの力を孕んでいる、と思います。
 ここに、<情(こころ)>とか<愛>という心底からの感情を流しこめば、<さあ、立ちあがろう>というメッセージになる。まさしく、“Come on up for the rising.”(B.S"The Rising")である。――牽強付会?
 神は言葉を以て世界を創造し、言葉を以て世界(イスラエル)を滅ぼす。ユダヤ/キリスト教の神は言葉を用いて行動を起こす存在なのだ。



 今日(昨日ですか)IKEAから回転チェアとフロア・プロテクターが届きました。でも日が良くないのでプロテクターを敷いただけ、椅子を組み立てて部屋に運びこむだけの状態にしたところまで。
 いま坐っている椅子は現役引退、近日中に資源ゴミとして市に回収依頼済み。家を建て直してから今年の今月でちょうど9年。――いままでありがとうね。ずっと支えてくれて……。どうやって感謝の言葉を捧げたらいいか、わからないよ。◆

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第1306日目 〈ホセア書第5章:〈イスラエルに対する審判〉&〈戦争の罪と罰〉with金欠になろうとも、破産の憂き目に遭おうとも、……〉 [ホセア書]

 ホセア書第5章です。

 ホセ5:1-7〈イスラエルに対する審判〉
 聞け、イスラエルよ。お前たちに裁きが下る。わたしはお前たちに罰を与える。わたしは主である。主であるわたしがお前たちにそういう。
 わたしは淫行に耽るエフライムを知っている。自らの思うところに従って身を汚すイスラエルがわたしから隠れることはできない。エフライエムであれイスラエルであれ、淫行と売春のゆえに、わたしに立ち帰ることはできない。
 ──エフライムとイスラエルがその不義により躓けば、おお、ユダも共に躓く。かれらがわたしを尋ね求めても、見出すことはできない。わたしは離れたのだから。
 エフライムもイスラエルもわたしを裏切り、異教民の子を産んだ。それゆえ新月の祭りがかれらを、その所有ごと喰い尽くす。

 ホセ5:8-15〈戦争の罪と罰〉
 イスラエルよ、ユダよ、互いに国境の周辺で角笛を吹き、鬨の声をあげよ。ユダ/ベニヤミンよ、向こう側からやって来る敵に注意しろ。やがて時が満ちて懲らしめの日が訪れる。その日、エフライムは廃墟と化そう。
 ──これは確実に起こる。わたしはそれを伝えているのだ。
 ユダの将軍たちは定められた国境を北へ動かそうとしている。これは律法に反した行為だ(申19:14、同27:17)。わたしはかれらの上に憤りを注ぐ。裁きによってエフライムは蹂躙され踏み砕かれる。ユダとエフライムは己を蝕む病に気附き、アッシリアへ助けを求める。が、アッシリア王にかれらを癒す術はない。
 わたしはエフライムに対してもユダに対しても獅子となり、かれらを引き裂き、攫ってゆく。かれらを救い出せる者はどこにもいない。

 イスラエルのみでなくユダにもかかわる預言が「ホセア書」には含まれる、と以前に書きました。本章がまさしくそれにあたります。北王国滅亡後、ホセアの弟子は他の北王国難民同様ユダへ逃れて、かの地へホセアの預言を伝えた。それがユダ王国で(一部の人たちに)知られるに至った。そういうことになりましょうか。
 難民がユダへ流入したことは考古学的に確かなことである、とは聖書考古学の本などに載るところであります。国境付近を中心にユダの人口が当時爆発的に増加し、また多くの新しい居住地が誕生していることからも、裏附けられる由。
 「新月の祭り」は月の始まりを示す特別な日であり、安息日と並んで重要とされるようにこの日、すべての仕事は休まなくてはなりませんでした。民10:10、同28:11-15に新月の日にささげる献げ物のことなどがあります。ここを読めば、「新月の祭りがイスラエルをその所有ごと喰い尽くす」の意味がわかるようになると思います。
 <戦争>とはシリア・エフライム戦争のことです。「かれらを救い出せる者はどこにもいない」という主の言葉が実際以上に救いのない言葉と響きます。……。



 カーペンターズとカーディガンズを混同するなんて信じられなぁい。友どちとの酒の席でそう喚いていたら、「高校生の頃、ブルース・スプリングスティーンとリック・スプリングフィールドを間違えてCDの注文をしたこと、あったよね?」と返り討ちにあい、<人のふり見てわがふり直せ>という諺の正しさを痛く感じた、毎度お馴染みさんさんかです。
 そろそろ荷物を減らしていかないとな。──そんな心境になったのは、物を持たない生活に憧れるだけでなく、緊縮財政を実施中のためだ。財政赤字は慢性の一途を辿り、内需上昇の予測は妄言と一蹴され、いまやクーデター前夜の様相を呈す【オレさま王国】。
 常に破綻の危機に曝され続ける【オレさま銀行】では、いつでも皆さまからの援助をお待ちしています。お金と愛情をたくさん持ったお姫様は随時募集中。
 閑話休題。
 CDはともかくとして、好きな作家の本だけは手許に残そう。
 たとえば、南木佳士。映画『阿弥陀堂だより』の原作者だが、清冽で即物的な魂の消滅と再生の物語がとても好きだ。ふと思い出したときに手を伸ばし、心が騒いで鎮まらぬ眠れない夜の精神安定剤。斯様に巻を繙くことこそ稀なれど、わたくしはこの人の小説とエッセイを欠いた生活を想像することができません。
 新刊が出れば必ず買う日本人作家は、上の南木佳士を除くと実は、些細なことから読み直しすようになり、現在も様々耽読している村上春樹ぐらいしかいません。有川浩も三浦しをんも、丸山健二も村上龍も、新刊が出た端から盲目的にレジへ運ぶような理由はなくなった。そう考えると、気持ちは楽になります。南木佳士も村上春樹も頻繁に新刊が出るような作家ではありませんから……残念といえば残念ですが。
 海外に目を転じれば、更に買う頻度は下がる。精々がスティーヴン・キングぐらい。クライヴ・バーカーの翻訳はさっぱり出なくなってしまった。ブライアン・ラムレイもジョナサン・キャロルも、ロバート・R・マキャモンもすっかり形を潜めてしまった(翻訳されていない、という意味合いであることをご承知いただきたい)。
 が、みんなみんな、わたくしにとってなくてはならない作家である。キングの長編小説の題を流用すれば、誰も彼もが“生活必需品(ニードフル・シングス)”。だから、かれらの本だけは買う。金欠になろうとも、破産の憂き目に遭おうとも、生き延びるために、かれらの本を買い、愛読する。刑務所に放りこまれたって、かれらの本を請求するだろう。
 とはいえ、好みの作家は上述の人々ばかりでは、勿論、ない。紹介されるジャンルは限られてしまうけれど、21世紀になって紹介されたような人でも、すっかり手玉に取られて愛着一入の作品を物してくれた人が幾人もいる。翻訳小説の需要と供給のバランスが取れていないのは昔からのこと。好きな人ができても会うのはなかなか難しいのだ。むしろ、故人となった作家の新訳や復刊本を購入する率の方が多いのは必定。序にいえばギリシアやイギリス、独仏、ロシアなどの古典、近代文学を買って読み耽ることが新作小説を読むより多いのも。……まぁ、仕方ないよね?
 以上、書店のライトノベルの棚を一見していて、『マリア様がみてる』はいつまで続くのだろう、と不思議に思うたさんさんかでした。◆

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第1305日目 〈ホセア書第4章:〈主の告発〉withR.E.ハワード《コナン》シリーズ、ようやく完結!〉 [ホセア書]

 ホセア書第4章です。

 ホセ4:1-19〈主の告発〉
 イスラエルよ、聞け。わたしはこの国の住民を告発し、一掃する。この国には秩序も礼儀もなく、蛮行が蔓延り、流血に流血が重ねられているからだ。
 祭司は神を知ることがなく、知識を退け、律法を忘れた。それゆえにわたしはお前を退け、忘れる。
 わたしへの罪を重ね、贖罪の献げ物を食べ、淫行に耽る。それがためにわたしはレビ族の栄光を恥に変え、妻と目合(まぐわ)っても子供が出来ないようにする。
 淫行の霊に惑わされた祭司たちは、偽りの言葉を託宣と思いこむ。かれらは丘の上のポプラの木陰でバアルのために香を焚く。妻と娘は貞淑を捨てて淫婦となるが、わたしはそれを咎めない。
 どこまでも堕ち行け。悟らぬ民は滅びよ。
 イスラエルよ、お前たちは罪を犯しても、ユダには罪を犯させるな。
 ゆめ、主は生きている、などというな。
 イスラエルは頑なにわたしを拒む。エフライムはバアル神の虜だ。かれらはもう放っておこう。
 「彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね/恥知らずなふるまいに身をゆだねている。/欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み/彼らはいけにえのゆえに恥を受ける。」(ホセ4:18-19)

 民のみならず祭司も断罪の対象となった。イスラエル=エフライムの道徳が崩壊した原因の一つは、祭司たちのモラルが崩壊したからだ、という理由で(ex;ホセ12-13)。
 秩序も正義も礼儀も、なにもかもが崩壊したイスラエルは、主に見捨てられた。もう放っておけ、あとは自滅の時を待つだけだ、といわんばかりに。
 イスラエルの轍をユダに踏ませるな。主はそういいます(ホセ4:15)。ユダはいまなおダビデ王朝であり続けるがゆえ。ユダがたびたびながら危険を回避できたのは、主の道を正しく歩んだ王もいたからです。王の信仰が確かならば、祭司の行う祭儀も偶像崇拝から離れる。そんな由縁もあって、ユダはイスラエルよりも長く存続できたのです。



 何年掛かったのか、創元推理文庫版《コナン》シリーズの完結までは? 最終の第6巻が4年ぶりに発売され、頓挫の悪夢が避けられたことを歓喜したファンは多かったはず。わたくしもその一人だ。
 これまでハワード自筆原稿から離れたところで親炙してきた《コナン》シリーズだが、21世紀になってやっとオリジナル尊重の校訂が施された真《コナン》シリーズが登場し(第1巻、第6巻解説参照)、わずかのときを隔ててわれら極東の島国に住まうヒロイック・ファンタシーを愛す者らへ届けられた贈り物が、完結した。わたくしはこのジャンルの良い読者ではないが、この慎ましやかな饗宴に祝辞を述べるぐらいは許されるだろう。
 完結編である第6巻は、作者R.E.ハワード自身の手になるシリーズ唯一の長編『龍の刻』(“The Hour of the Dragon”)。かつてハヤカワ文庫SFから団精二こと荒俣宏・訳で『征服王コナン』として刊行されていた。父アイザックからH.P.ラヴクラフトとE.ホフマン・プライスに宛てた書簡が資料編として載る。この2通の書簡がまた涙なくしては読めない逸品なのだ。大袈裟かな?
 未読で古本屋の棚にシリーズを見附けた方は躊躇なく買うべし。ここに本能へ訴えかける冒険の歴史が埋まっている。◆

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第1304日目 〈ホセア書第3章:〈神の愛による回復〉~愛は法を超越する。withブラッドベリはもういない。〉 [ホセア書]

 ホセア書第3章です。

 ホセ3:1-5〈神の愛による回復〉
 イスラエルの人々がバアル神へ顔を向けてもなお、主はイスラエルを愛す。
 汝ホセアよ、と主がいった。あなたもかつての妻ゴメルを、わたしがイスラエルを愛すように愛しなさい。
 異論のあろうはずがない。わたしはさっそく行って、銀15シェケルと大麦1ホメル半を支払い、奴隷となっていた彼女を引かせた。
 然る後、わたしは彼女にこういった。わたしはお前の夫でお前はわたしの妻である、ゆめ他の男に肌も体も髪も心も許すな。われらは永く一緒にいる。
 これからしばらく、イスラエルから秩序は失われ、混沌の時代が訪れる。しかし、その時代のあとには、帰ってきたイスラエルの人々は主と王を求める。終わりの日には主とその恵みに、かれらは畏れを以て近附く。

 愛人のあとを追って自分の許を離れ、バアル神に香を焚いて端女となったゴメルを身請けすることで、ホセアは彼女を再び妻に迎えます。それは背信を重ねるイスラエルをなお主が愛するのと同じ行為でありました。主がそれをさせたのです。
 が、申21:4で「夫は離縁した妻を再び娶ることはできない」と定められています。ホセアはこれを破りました。
 神の愛の前に万人は平等であり、神の定めた法の前にも万人は平等である。わたくしは本章を読むと、そんなことを思うのであります。愛は法を超越する、良きにつけ悪しきにつけ。そんな普遍の事実、しかし法ではけっして裁き得ず、定め得ない現実を、このホセ3は語っている。そう思うのであります。果たして、否(ノン)、を唱える方がありましょうか?
 P.C.クレイギはそんな本章を指して、「旧約聖書における愛の福音が語られている」(『十二預言書1』P53 山森みか・訳 新教出版社 1989.6)と述べております。わたくしはこれに深く頷く者であります。
 とはいえ、なんといいましょうか、幾ら主の言葉に後押しされたと雖も、本章に於けるホセアの行動の裏には、純情の名の下に隠された童貞の執着心のようなものも感じます。相性良かったのかもね。或いは、虜になったのか。童貞が手練れた女に出会うとそうなることもあるよな。うん。沢山いますよね。
 ――、
 本章ノートはちょっと苦労した。一旦は仕上がったものをもう一度書き改める羽目になったぐらいに。そんな過程を経たお陰で少しはまともになったと思うのですが、どんなものでしょうか?



 ブラッドベリ『十月の旅人』(新潮文庫)をブックオフで購入しました。懐かしいな、この表紙、この内容、そうして伊藤典夫の翻訳と解説。
 10代後半から20代初めにまとめて読んだなかの1冊だが、或るときまとめて処分してしまった。それなりに夢中になったけれど、今一つのめり込むことが出来なかったっけ。
 人生も折り返し点を過ぎたいま、なぜだか再びブラッドベリが読みたくなって、ぽつぽつ集め始めた矢先に逝去の報。ノスタルジックな肌合いに慰撫されながら、もう決して戻らぬ時代と時間を悔やみながら、1冊1冊と読み進めている。こんな読み方も許容してくれるブラッドベリはもうこの世にいない。それが、心底淋しい。◆

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第1303日目 〈ホセア書第2章:〈イスラエルの回復〉、〈イスラエルの背信〉&〈イスラエルの救いの日〉withIKEAにて悩む。〉 [ホセア書]

 ホセア書第2章です。

 ホセ2:1-3〈イスラエルの回復〉
 憐れみとも赦しとも縁なきイスラエル。それでも民の数は真砂のように増える。
 いつしかロ・アンミと呼ばれた者たちは、生ける神の子たち、と呼ばれるようになり、イズレエルの日は輝く。かれらは互いをアンミ(わが民)、ルハマ(憐れまれる者)、と呼ばれるようになる。
 ユダの人々とイスラエルの人々は集められて指導者を立て、一つ所から上がってくる。

 ホセ2:4-15〈イスラエルの背信〉
 子らよ、お前たちの母を告発するのだ。繰り返される淫行と姦淫をやめさせよ。できないなら、わたしがやる。彼女の衣服を剥いで晒し者にし、乾燥地へ送りこんで渇きゆえに死に至らしめる。
 淫行と姦淫によって生まれた子らを、なぜ憐れもうか。彼女はわたしの目に悪と映ること、恥ずべきことを行った。
 彼女は愛人のあとを追った。わたしは茨と石垣で行く手を妨げる。やがて彼女はなに一つ見出せぬまま、諦めて最初の夫のところへ戻ろうとした。が、それは果たされなかった。楽しみや祝い事はすべて絶たれた。
 彼女はバアル神に香を焚き、端女(はしため)となり、わたしを忘れた。

 ホセ2:16-25〈イスラエルの救いの日〉
 自らの不実ゆえに彼女はわたしを忘れた。わたしは彼女を荒れ野へ導き、その心へ語りかける。新しいぶどう園を与え、アゴル(苦悩)の谷を希望の門として与える。すると、彼女は清純な処女となって、わたしに答える。彼女はわたしをわが夫と呼ぶ。もう彼女の口からバアル(わが主人)の名が出ることはない。
 その日、わたしはイスラエルの野の獣、空の鳥、土を這うものと契約する。武具も戦争も、この地から絶って、全イスラエルが健やかに、やすらかに、暮らし、憩えるようにする。
 わたしはあなたと永遠の契りを結ぶ。この契りは真実である。裏切りとも欺きとも無縁の契りである。
 その日が来ればわたしは応える。

 背徳と背信の者、裏切りの者、そうレッテルを貼られた者を、あなたは愛せ。そんな声をわたくしは本章から聞きます。それが出来る者は少ないし、それを理解する者は尚更で。
 われらを取り巻く21世紀の社会に必要なのは、ホセアに与えられた<試練としての愛>を知ることかもしれません。回復と祝福は、喜び以外の何物でもない。



 昨日IKEAに行きました。椅子を見にね。
 いま使っているのは、座面は革張りでアームレストと背もたれの枠が木製になっている椅子。お気に入りだったのだけれど、ちょっと調子が悪くなってしまい、長い時間坐っていると背中に痛みが宿ってしまうのです。
 仕方ない。そろそろ買い換えないと。体に支障が残ってしまうのは嫌だし。
 幸いなことにIKEAカタログのなかに良さそうな椅子を見附けたので、ちょっと出掛けて見てきたのですが……。本当にこれでいいのかなぁ。買った直後に後悔したりしないかなぁ。安い買い物じゃぁないからな。――そんな風に悩んでしまい、昨日は買わずに帰宅。
 明日、もう一度出掛けて、じっくり吟味してくる予定です。帯に短し襷に長し、一長一短。そんな言葉がぴったりな買い物になりそう。
 それにしてもIKEAのフード・メニューは美味しいですね! ランチ・セットを頼んだのですが、サーモンとミートボール最高!! 日本のIKEAは初めてでしたが、しばらく週一ペースで通い詰めそうだ……。そういえばワード・ロープに掛かっているシャツなどの商品提供はH&Mに拠るのですね。さすが共にスウェーデン企業。◆

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第1302日目 〈ホセア書第1章:〈ホセアの妻と子〉with奇妙だけれども心地よい浮遊感、……〉 [ホセア書]

 ホセア書第1章です。

 ホセ1:1-9〈ホセアの妻と子〉
 於北王国イスラエル、ヤロブアム2世の御代。預言者ホセアに主の言葉が臨む。

 主の言葉に従って、預言者ホセアは姦淫の女と結婚した。ディブライムの娘ゴメルがそれである。
 夫婦の間には3人の子供が生まれた。長男はイズレエル(神が種を蒔く)、長女はロ・アンミ(わが民でない者)、次男はロ・ハルマ(憐れまれない者)、と、主によりそれぞれ名附けられた。
 主の言葉、――
 わたしは、イエフの王朝にイズレエルでの流血の罰を下す。これによってイエフの王朝は滅び、イスラエルの家の支配権を失う。もはやわたしは、イスラエルの家を憐れむことも赦すこともしない。
 が、ユダの家は違う。わたしはかれらを憐れみ、赦す。わたしの力、わたしの業によってかれらを救う。わたしはかれらの神であり、主である。
 繰り返す。イスラエルはわたしの民ではなく、わたしはイスラエルの神ではない。ゆえに憐れむことも赦すこともしない。
――以上、主の言葉。

 イスラエルとユダの対照的な神の思いが、まるで天秤に掛けるような物言いで吐露されます。これまで召命の場面から始まってきた預言書のスタイルを「ホセア書」は取りません。かれの結婚の場面から始まることもそうですが、ユダをも対象とした預言がのっけから開示される点もそうです。そんなことからも、「ホセア書」は15ある預言書のなかで一際ユニークな立ち位置を持った一書といえるかもしれません。イスラエルとユダの比較、それは単純にいえば、双方に対する主の<厳罰>と<寵愛>の思いが根底にある、と申せそうであります。
 それでも、主はイスラエルを愛すのだ。内田和彦『「聖書は初めて」という人のための本』(いのちのことば社)は「ホセア書」についてこういっております。曰く、――「不信のイスラエルに対して愛を示す神と、姦淫を犯した妻をなおも受け入れるホセア自身が重なります」(P33-34)と。
 第2章以後を読んでゆくと、それも、成程、と納得できるようになります。<愛>の本質の一端に迫った書物として、「ホセア書」を挙げるのはあながち間違っていないでしょう。
 長男がイズレエルと命名されたのは、、イエフ王朝がイスラエルの政権を握った事件に起因します。その前に国を支配していたオムリ王朝はヤロブアム2世の父イエフの手によって滅ぼされました。その場所がイズレエル。王下9-10を読むとそのあたりの出来事がわかります。「流血の罰」とはこの一件をいう。歴史は繰り返されるのです。
 イズレエルという命名は迫り来るイスラエルの運命を暗示させる――『十二預言書1』の著者P.C.クレイギの言であります(P30 新教出版社)。それは事件を喚起させる不吉な名前であったのでしょう。

 余談ながら内田の著書はわたくしが聖書を読み始める前に唯一読んだ、そうしていまも机上に置いて、息抜きしたいときや行き詰まったときに開いたりする、小さいけれどよくまとまった入門書です。
 聖書を読み迷う方がいたら、まずこれを読むと良いと思います。とても平易な言葉と文章で書かれていて、聖書という書物の成り立ちや各巻の内容、読み方や学び方などが、すっきりとまとめられています。お奨めです。



 ももクロのコンサートがそばのアリーナであったために、近くのスターバックスはももクロのファンと覚しき人たちで宵時まで席は埋まっていました。ターミナル駅という性格もあってか、その後もざわめきが止むことはなかった。
 だから、というわけではないけれど、久々にiPodを出して、ボブ・マーリィを聴きました。聖書ノートを書く際のBGMに、レゲエ・サウンドはお似合いだ(個人差があります)。すべてがどうでもよくなってくる。病みつきになります。
 LSDやスピード(古いか)なんてドラッグを服用したら、こんな気分に陥るのかな。奇妙だけれども心地よい浮遊感、ジャンキーになること必至の酩酊感。それとも、賑わう海水浴場の浜辺でビーチ・パラソルの下、汗を流しながらP.K.ディックのSF小説を読んでいるような感じ?
 ――さて、ももクロ聴きながら(!?)ディック『空間亀裂』を読みますか。憂い事はたくさんあるが、いまは夜中だ。じたばたしても始まらない。「行くぞぉ、お前らぁ!」と心のなかで叫ぶのは、明日の太陽が昇ってからだ。◆

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第1301日目 〈「ホセア書」前夜with『SKE48の学校の怪談』感想に関して&ブログ改訂情報。〉 [ホセア書]

 旧約聖書、最後の峠を越えましょう。12小預言書の最初に置かれた「ホセア書」を、明日から2週間にわたって読んでゆきます。よろしくお付き合いください。
 先達ても書いたように、預言者ホセアは北王国イスラエルに在って預言活動を行った人物です。繰り返しになるようで申し訳ないけれど、今一度ホセアの置かれた時代を俯瞰してみましょう。
 かれが生きた時代、北王国イスラエルは繁栄を謳歌していましたが、同時に黄昏のときへ移行しつつありました。主の目に悪と映ることを、王も民も飽きることなく繰り返した結果、いよいよ滅亡へのカウントダウンが開始された頃だったのであります。
 当時、北王国の君主であったのはイエフ王朝のヤロブアム2世であり、ゼカルヤでありました。イエフ王朝から王位を簒奪したシャルムであり、かれを打ち殺して王となったメナヘムでありました。また更に謀反によって王位を奪ったペカフヤでありペカであり、最後のイスラエル王ホシェアでありました。並行箇所を挙げれば王下14:23-29、同15:8-31となります。ホセアの活動の終焉がいつだったのか定かでありませんが、王都サマリア陥落の寸前まで活躍したであろう、と『新エッセンシャル聖書辞典』(いのちのことば社)にあります。
 ――一方で、南王国ではヨタム、アハズ、ヒゼキヤが王位に就いておりました。ヨタムは主の目に叶う正しいことをしましたが、偶像崇拝に用いられる高台を除くことはしませんでした(王下15:32-38)。アハズは父王や主の道を歩まず、諸国民の忌むべき慣習に従いました(王下16)。ヒゼキヤは主の教えに従い、その言葉へ耳を傾け、主への礼拝に心を注いだ人でした(王下18-20)。信心の篤い王様だったのです。このヒゼキヤの御代に北王国は滅びました。
 「ホセア書」はユダ国内の動向について触れませんが、時代背景は知っておいてよいと思います。ホセアの預言にはイスラエル/エフライムのみならず、ユダをも対象とした預言があったからです。イスラエル滅亡後ホセアの弟子たちによって、かれの預言は南王国ユダへもたらされ、かれらによって「ホセア書」は書かれた、といいます。
 かれの活動した時代、東にはアッシリアという強大な国が控えてたびたび進軍してきましたが、ヤロブアム2世の時代はアッシリアは衰退の時期にあたっており、そうした意味でイスラエルの政情も経済も安定していた由。泰平の時代といえましょうけれど、宗教的にも道徳的にもそれが却って仇となり、バアル神の信仰が再び表面化して活発になったようです。事実、ホセアの妻はなんらかの事情ゆえに離縁された後、バアル神に仕える奴隷となっていた様子であります。
 不義が蔓延(はびこ)る泰平の時代はヤロブアム2世崩御と共に終わりを告げたようで、その後は勢いを盛り返したアッシリアの前にイスラエルは圧されてゆき、やがて前721年のサマリア陥落/北王国イスラエル滅亡の時を迎えます。ホセアが生きてこれを目撃したかどうか、わかりません。
 それでは、明日から「ホセア書」を読んでゆきましょう。これを含めて、12小預言書は8月第1-2週に読了予定となります。勿論、わたくしがサボったりしなければのお話です。えへ。



 直前の「日々の思い・独り言」にて『SKE48の学校の怪談』の感想をお披露目するつもりでした。しかし、こちらの思いが強すぎてか、却って書けなくなってしまいました。
 が、このまま闇へ葬ることは考えていません。「ホセア書」ノートを続ける途中のどこかで、当初考えていたよりずっと短いヴァージョンでお披露目することができましょう。
 乞うご期待、とはいえません。ただそれだけお伝えしておきますね、というぐらいで受け取っていただければ嬉しいです。

 ブログ改訂情報です。
 第0128日目 〈“天国のような夜が降ってくる”with映画『ハツカネズミと人間』を観ました。〉
 第1116日目 〈エレミヤ書第25章:〈神の僕ネブカドレツァル〉with年賀状用の小説は、たぶん、あの日の出来事を書くことになるだろう。〉
 第1174日目 〈ラジオへのオマージュ〉◆

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