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第1322日目 〈ヨエル書第4章:〈諸国民の裁き〉&〈ユダの救い〉withド氏より上田秋成の方が近いと思う。~「みくらさんさんか、自惚れてみる」〉 [ヨエル書]

 ヨエル書第4章です。

 ヨエ4:1-15〈諸国民の裁き〉
 ユダとエルサレムの繁栄を回復するその日、その時にわたしは、――と、主が宣言する――わたしはヨシャファトの谷に諸国民を集める、それ以前に諸国の民へ動員を掛け、強きも弱きも皆武装させ、武具を鍛え直させ、奮い立たせて、ヨシャファトの谷へ集める。ようよう集まり来たったかれらをわたしは裁く。かれらはわが嗣業イスラエルを諸国に散らせ、残された土地を自分たちのために分割して所有したからだ。
 就中ティルスとシドン、ペリシテへのわが裁きは重い。お前たちがわたしに復讐を企て実行しても、わたしはお前たちの頭上に復讐を返す。神殿から宝物を奪い、金銀を略奪するのみならず、ユダとエルサレムの人々をギリシア人に売り飛ばした。これはけっして許さずにおけぬことだ。わたしは買い手の許からわが嗣業の民を呼び戻す。今度はお前たちが、ユダの人々によってシェバ人に売り飛ばされる番だ。
 群衆が夥しく集まる裁きの谷に、主の日が近附く。その日、その時、その場所では、太陽も月も星も暗くなり、光を失う。

 ヨエ4:16-21〈ユダの救い〉
 ユダとエルサレムの繁栄が回復されるその日、そこは“乳とぶどう酒の滴る地”となり、すべての谷間に川が流れる。主の神殿の泉から一条の細い流れが生まれ、シティムの川を潤す。
 かつてユダを虐げたエジプトは荒廃し、エドムは滅びの荒れ野となる。わたしはかれらへの復讐を果たす、わが民に血を流させたかれらへの復讐を果たす。翻ってユダとエルサレムは久遠に人の住まう場所となる。
 「あなたたちは知るようになる。/わたしがあなたたちの神なる主であり/わが聖なる山シオンに住む者であることを。/エルサレムは聖なる地となり/もはや、異国の民がそこを通ることはない。」(ヨエ4:17)

 「主の裁き」という意味を持つ「ヨシャファト」。南王国ユダの4代目の王がヨシャファトという名前でした。かれの事績は王下22:41-51、代下17:1-21:1にあります。ヨシャファトの谷、というのがどこなのか、定かでないようですが、ギデオンの谷ではあるまいか、とされていた頃もある由。
 シティムはかつて、ヨシュア率いるイスラエルがカナン侵入/ヨルダン渡河の前夜に宿営したモアブ平原にある町(ヨシュ2:1、3:1)。ここは西岸の町エリコのほぼ対岸に位置します。
 「泉が主の神殿から湧き出て/シティムの川を潤す」(ヨエ4:18)の一節を読んだとき、わたくしはなにとはなしにエゼ47〈命の水〉を連想しました。固有名詞が合致したりするわけではありませんが、神殿に源を持つ水が川となり、特定の場所を清め潤すという点に於いて、斯様な連想をしたわけであります。ちょっぴり清冽な印象を持ったことを告白しておきます。

 本日を以て「ヨエル書」は終わります。今日までありがとうございました。短いながらも読み応えある章ではなかったでしょうか。
 文章を推敲したり言葉を吟味したりする余裕があまりなかったり、考えを思うように昇華させられぬことに苛立った日もありましたが、とにかくゴール地点へ立てたことに嬉しさを感じます。
 息切れはしても倒れることなく12小預言書の終わり――「マラキ書」第3章第24節の終わりの一文、「この地を撃つことがないように。」まで走り抜けたいと思います。次の「アモス書」は明後日から始めます。またよろしくお願いいたします。



 或る友の曰く、このエッセイの部分ってドストエフスキーみたいだよな、と。即ち「作家の日記」のようだ、というのである(古本屋で全巻揃いを見附けて矢も楯もたまらず購入、それから幾昼夜読み耽った思い出も、いまは懐かしい一コマ)。わたくしのド氏好きを知って斯様に過分な言葉を贈ってくれたのだろうが、こちらは知らず赤面して俯いてしまうばかりだ。
 まあ、そう思うてくれるのは嬉しいけれど、むしろわたくしとしては上田秋成「胆大小心録」が意識に上るのだけれどな。うん、好き勝手なことを脈絡なく、長短構わず綴っています、って感じで。
 勿論無腸翁の唯一無二、彫心鏤骨の文章には遠く及ばぬが、あんな風に推敲の跡を留めぬ(これ、生田先生の言)文章で、市井の諸々、風俗奇譚、人物評など枠に囚われぬ話題を俎上にあげてゆければいいな、なんて理想とも希望ともつかぬ思いを抱いておる。
 ちなみに「胆大小心禄」は岩波文庫の黄帯にも入っているけれど、品切れもしくは絶版である。古本屋を丹念に探して歩けば、復刊時のものが入手できるかもね。が、これを読むならいまなお同社の日本古典文学大系「上田秋成集」に収められる中村幸彦校注のものが最強。「雨月物語」と「春雨物語」を併収。読むならこちらを、是非。◆

第1321日目 〈ヨエル書第3章:〈神の霊の降臨〉withこんな夢を見た(その5);ハワイで幼馴染みの<女の子>と……。〉 [ヨエル書]

 ヨエル書第3章です。

 ヨエ3:1-5〈神の霊の降臨〉
 終末の後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。老若男女、奴隷の別なくわが霊を注ぐ。
 天と地に、血と火と煙の柱をわが徴として示す。主の日が来る前に――それは大いなる恐れべき日――太陽は闇に、月は血に取って代わる。
 「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。/主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(ヨエ3:5)

 引用したなかにある「残りの者」は、「生き残りの者」という意味なのかな。
 ……これは本当にノートが難しい章でした。全文を引用してしまおうか、何度そう考えたことでしょう。はなはだ抽象的で、しかもそれが黙示にまつわる部分だからなおさら雲を摑むような思いをさせられた。おまけになんだか暑いし……。
 しかしながらここが「ヨエル書」のポイントであります。本章こそがヨエルという預言者の言葉を新約聖書の世界/時代に伝え、かれの名と言葉を普遍的なものとするにいちばん大事な役割を果たしたのです。それは「使徒言行録」のみならず、「マルコの福音書」――(13:24「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず」)――や「ローマの信徒への手紙」――(10:13「「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」のです。」)――にも少なからずヨエルの言葉の痕跡が窺える点から、斯く判断しても可笑しくないと思います。
 ただ、最も「ヨエル書」の表現、言葉を引いたのが「使徒言行録」であるのは疑いもありません。使徒2:16-21〈ペトロの説教〉に於いてペトロはこう語ります、曰く、――
 「そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。/『神は言われる。/終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。/すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。/わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。/すると、彼らは預言する。/上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。/血と火と立ちこめる煙が、それだ。/主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。/主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」と。
 本章を「ヨエル書」のポイントといい、次の時代にまでヨエルの言葉を伝えるに重要な役割を果たしたというのは、つまりそういうことであります。



 今日見た夢は、とんでもなく「……?」なものでした。まぁ、夢ってみんなそういうものだと思うけれど。
 ――それは一種の成長譚。小学生の頃に出会った女の子がいる。高校生になった<ぼく>とその子は校内での大事件に巻きこまれて絆を深めた。
 大人になった<ぼく>は撮影クルーとして、あの『LOST』に参加、ハワイにいた。或る晩、その日の撮影が終了後、数百年に一度の天体ショーをカラウ島の高台で見あげている<ぼく>とその子。M.フォックスもJ.ホロウェイもみんな、そこにいる。
 歳月は流れてその夜空の光景を印刷したマグカップに淹れたコーヒーを、テーブルをはさんで坐るぼくらは飲んでいる、という一代記のような夢のなかの物語。
 そんな夢を見て、まだ陽が昇ってそれ程経っていない時間に飛び起きた。そうしてそれを、寝ぼけ眼でメモった。いつの間にやら頬が涙で濡れている。相手の女の子が誰なのか、どんな容姿をしていたのか。それは、言わずが仏。◆

第1320日目 〈ヨエル書第2章:〈主の怒りの日〉&〈主の慈しみ〉withガンダム・フロント~ノスタルジー?〉 [ヨエル書]

 ヨエル書第2章です。

 ヨエ2:1-11〈主の怒りの日〉
 日の出の陽光が鋭く夜闇を裂き大地を染めるに似た勢いで、獰悪なる一つの民、力強く数でも優る民が襲来する。一つの民の行く手を炎が切り開く。かれらがあとにした土地では炎が広がっている。かれらによって国土はあまねく荒れ果てる。まるで作物を食い尽くし、農夫たちを泣かせたいなごのようだ。
 蹂躙されるこの国からは、エデンの園を思わせる光景がなくなってしまう。かれらはシオンの都の家という家に侵入して、殺戮と強姦と略奪を繰り返す。そうして城壁を壊し、神の宮を汚す。諸国民はその様子にただ震え、おののくばかりだ。これまでも、これからも、これ程のことは起こり得ない。
 主の日が迫る、極めて恐ろしい、大いなる日が――。それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日。そは怒りの日。Dies irae.

 ヨエ2:12-27〈主の慈しみ〉
 主がいう、――立ち帰るはいま。断食して泣き悲しみ、心からわたしに立ち帰れ。あなたは自分の衣ではなく、自身の心を引き裂いて、わたしに依り頼みなさい。
 さあ、角笛を吹け。民よ、シオンへ集え。断食を布告し、聖会を召集しよう。長老も幼な子も、花婿も花嫁も集まり来たれ。主に仕える者は主にいえ、――あなたの嗣業の民を憐れみ、恥に落とさせないでください。わが神、わが神、なぜわれらを諸国民に嘲笑させておくのですか、と。
 すると、主がいう、もう二度とわたしは、あなたたちが恥となるような行いをすることを許さない、と。穀物、ぶどう、オリーブを、飽き足らないぐらいに与えよう。戦争と占領の意図を持って迫る北からの敵を追い払おう。
 ――大地にも野の獣にも恵みが与えられる。シオンの子らよ、喜び躍れ。シオンの子らを救うために主は、秋の雨と春の雨を豊かに降らせてくれる。豊饒の実り、搾りたての油、醸造されたばかりの酒、……。
 主がいう、――いなごによって蒙った幾年もの損害を償おう。あなたたちを再び富める者とした驚くべき業の数々、それを成し遂げたわたしの御名を、あなたたちは忘れることなく絶えることなく、いつまでも誉め讃えるだろう。
 わたしはあなたたちの神であり、主である。イスラエルのうちにわたしはいる。
――と、主がいう。

 この<怒りの日>の描写は凄いな……。震えましたよ。文章をそれに相応しい締まったものにできず、無念が残ります。“Dies irae”はラテン語で「怒りの日」。ここでラテン語を使うのは非難されるだろうけれど、敢えて承知で使うことにした、これでも一応、使うべきか悩んだんだ。
 ――北から来る敵の先陣を東の海に、後陣を西の海に落とす、と主はいった(ヨエ2:20)。これはアッシリアやバビロニアを遥かに優る戦力、規模、戦術、武器を持った敵に思えます。西の海の沿岸を通っている様子から、やはりギリシアやローマかな、と想像する(東の海とは塩の海即ち死海、西の海とは大海即ち地中海をいいます)。
 でも、パレスチナ、イスラエル/ユダを攻めてきた敵はアッシリアもバビロニアも、ギリシアもローマもすべて、エジプトを除けば<北>から侵攻してきたのですよね。ふむ。



 今日(昨日ですか)の昼、ガンダム・フロントにて思うたことを書きました。が、まだ刈り込みと盛り付けの必要があるのを感じた。まだ意に満ちた原稿ではないのです。というわけで、それは「ヨエル書」が終わったあとでお披露目とすることにいたします。
 ダイバーシティへの道すがら、鮎川麻弥のガンダム・アルバムを聴いていたのはノスタルジーか? 「Z・刻をこえて」とか「僕たちの行方」とかね。わたくしのなかでガンダムの主題歌=鮎川麻弥なのだ、と実感。そもこの人はデヴュー前の「エルガイム」イヴェントで知って……、とかいう話は長くなるのでやめておきます。
 ちゃお!◆

第1319日目 〈ヨエル書第1章:〈いなごによる荒廃〉withブログ更新時間について&ガンダム・フロント行き、決定。〉 [ヨエル書]

 ヨエル書第1章です。

 ヨエ1:1-20〈いなごによる荒廃〉
 いずれの御時にか。ペトエルの子、預言者ヨエルに主の言葉が臨む。

 長老たち、並びにこの共同体に属するユダの人々、わたくしヨエルの告げることを聞け。それを末の代まで伝えよ。
 脅威なるいなごの襲来によって、この大地は荒れ果てる。作物は喰い尽くされ、酒は絶たれる。
 主がいう、――獰悪な一つの民が来て、この大地を蹂躙する。かれらはわたしのぶどう園を踏みにじり、神殿にささげるべき献げ物を絶つ。祭司は嘆き、農夫は泣く。あなたたちの拠り所、神の宮に新しく献げ物がささげられることはもうなくなってしまった。
 「断食を布告し、聖会を召集し/長老を始めこの国の民をすべて/あなたたちの神、主の神殿に集め/主に向かって嘆きの叫びをあげよ。」(ヨエ1:14)
――と、主がいう。
 いまやわれらの前に食べ物、飲み物はなく、神の宮からは喜びも踊りもなくなってしまった。いなごの襲来によって穀物は枯れ、倉は荒らされるか壊されるかのどちらかで。
 新しく実りをつけるべき種は割れた大地の上で干からびた。牧草のなくなった地で、家畜は餌を求めて彷徨い、飢えて苦しみ、悲しげに鳴く。
 主よ、わたくしはあなたを呼びます。野の獣もあなたを呼ぶ。それというのも、業火によって大地が焼き尽くされてしまったからです。大地を焼き尽くした業火によって川も泉も涸れてしまったからです。

 「ああ、恐るべき日よ/主の日が近づく。/全能者による破滅の日が来る。」(ヨエ1:15)

 どうしても心のなかでわだかまりのように巣喰うことがあります。
 昨日は「特に時代を特定する気はない」と申し上げました。しかし、全章を複数回にわたって読み、2つの稿を叩き台にしたブログ原稿を仕上げた段階では、建前としては昨日の意見と変わらないが、個人的には或る程度まで時代を特定できるような気がするのです。
 ヨエルが活動したのはエルサレムが陥落して、捕囚がバビロンへ連行されたあとの時代、いうなれば<国土荒廃期>であるまいか。かれが主の言葉を伝える相手は、廃都の近くにあるあまり大きくない共同体の人々なのではないか。
 「ヨエル書」の預言に登場する固有名詞がエルサレムとその周辺にほぼ限定されている点、アッシリアやバビロンの陰は微塵も感じられず、むしろ将来パレスチナへ侵入してくる<敵>の脅威を底に置いている点などから、わたくしはそう推測いたします。
 いなごが<敵>のダブル・イメージであるのは、いうまでもありません。
 でも、もしかしたらまったく見当違いの意見かもしれませんので、キリスト者や聖書学者その他、自称<有識者>には目くじら立てぬようお願いする次第です。



 本ブログは午前2時更新が当たり前となる以前、1時間早い時間に更新していたのをご存知の方はどれぐらいだろう?
 この数日、「現在の原稿のクオリティ(といわせていただきます!)を維持したまま、以前通り午前1時に定期更新することは可能か?」という挑戦を自分に課していました――更新時間が不定期になったのはその影響です――。それでなんとかやっていたのですが、……結論を先に申せば、午前1時の定期更新は諦めました。
 馴れてしまっているせいもありますが、更新は午前2時がやはり理想です。なんというても、原稿を書いたあと、読み直して推敲できる余裕がありますからね。午前1時更新だと帰宅時間が遅かったりするせいもあって、煽られている感じを拭いきれず息苦しかったのですね。
 本日の原稿(聖書にまつわる部分です)はいつものスタバで宵刻に第一稿、第二稿をあげて零時近くに帰宅したあと、急いでノートPCに打ちこんで更新した。そうしたら、ちょうど午前2時00分。――こんな駈けこみ更新は以前にもあった。同じく零時頃に帰宅して取るものも取り敢えず入力して更新した。となると、やはり本ブログの更新は午前2時と定めるのが正解らしい。
 今後は能う限り午前2時更新を心掛けるので、読者諸兄には今後ともよろしくお願い申し上げる次第です。

 明日(今日ですか)はガンダム・フロントだってさ……。なにかがわたくしを躊躇わせる。sigh.◆

第1318日目 〈「ヨエル書」前夜with与太話はともかく;読書生活に於ける今年後半の目標〉 [ヨエル書]

 12小預言書の2番目の書物、「ヨエル書」に入ります。
 ヨエルは他の預言者と異なり、その活動期がいつなのか、わからない人であります。「ヨエル書」にそれを示す根拠が見当たらず、記述内容から推測するより他ないのですね。
 アッシリアによるサマリア陥落の時代やバビロニアによるエルサレム陥落の時代、或いはバビロン捕囚が終わってエルサレムへ帰還したエズラやネヘミヤの時代、など様々あります。が、結局詳らかにはなっていない、というのが実情。かれについてはユダの人、ペトエルの子、という程度しかわかっておりません。
 斯様な次第もあって、本書の成立時期もまちまちにいわれている。エズラ、ネヘミヤが帰還した前400年代とされる一方で、南王国ヨシュア王の御代(前837-800年)に活動したであろうことから、それから程遠くない時代とされもする。「エレミヤ書」や「ゼパニヤ書」との関係から前600年頃とする説もある。
 本ブログでは「いつ」と仮定して進めるつもりはありません。時代特定をしても意味がない書物だからであります。本書を軽視しての発言ではなく、むしろどの時代に於いても通用する内容を持っている、そう思うからであります。
 現実の自然界の脅威;いなごが作物を食い荒らす、という喩えを用いて滅亡が間近い、と強い調子で語る「ヨエル書」。主の日はいつだって目前に迫っている。「それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である」(ヨエ2:2)である、という。
 が、そんな厳しい調子のなかにも、慈しみの思いが寄せられています。甚だ抽象的な章ですが、第3章〈神の霊の降臨〉にそれは顕著であります。この章は(あとで述べますが)新約聖書「使徒言行録」2:16-21、ペトロの説教に取りこまれてもおります。
 全4章の短い書物ですが、明日から「ヨエル書」を読んでゆきましょう。



 近頃まったく本が読めていない。買った本が机の脇に山積みとなっている光景を横目で眺める。――小山清『落ち穂拾い』(ちくま文庫)、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』に始まる<薫くん4部作>(新潮文庫)、新井素子『ひとめあなたに…』(角川文庫)、源氏鶏太『社長秘書になった女』(同)などが、山脈を築く。ああ、こんな事態、久しぶりだ!
 購入してすぐに読んだ本は少ない。最近では『怪樹の腕』(東京創元社)と南條竹則『怪奇三昧』(集英社)、コニー・ウィリス『犬は勘定に入れません』(上下、ハヤカワ文庫SF)ぐらい。他の時間は専ら聖書読書に割り当てられて、空き時間で村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいる。しかも未だ第2部なんだよね、ごめん。
 どうしてかな、と小首を傾げる必要もない。上でもちょっと触れたが、聖書読書とノートに時間を割いているからだ。仕事以外の時間を有効に使うってなかなか難しい。会社帰りに寄るスタバが午前0時ぐらいまで営業してくれていればいいのにな。うむ。
 これでフリーランスになったらもっと読めるようになるか、というと、とんでもない話でむしろ逆になるんだよね、おいらの場合。もっとも、フリーになる気はないけれどね?
 そんな与太話はともかく。
 新しく買うのは控えて、空き時間を効率的に用いて、積ん読本を順次読み倒してゆくことが今年後半の目標である。それが済み次第、おいらは太宰とドストエフスキー、そうしてアガサ・クリスティに戻るぜ!◆
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