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第1692日目 〈知恵の書第19章:〈神に逆らう者たちの滅びと民の救い〉&〈結び〉with“読まざる者、書くべからず。”、「知恵の書」読了のあいさつ〉 [知恵の書]

 知恵の書第19章です。

 知19:1-21〈神に逆らう者たちの滅びと民の救い〉
 あなたは、あなたを信じぬ者があなたの怒りの御業の数々を被ったあとで起こす行動を、あらかじめ把握していた。
 エジプト人はあなたの聖なる民を出国させたあと、途端に考えを変えて軍隊を召集、追跡部隊を編成して、ファラオ自らがこれを率いた。まだ初子の死の嘆きが国中を覆っていたというのに! 連衆は悔いたのだ、貴重な労働力であったイスラエルを、自ら頼んだとはいえ出て行かせてしまったことを。
 「彼らがこの極端な行為に走り、過去を忘れたのは、/当然の成り行きだった。/彼らの罰の欠けている分を、/これらの苦しみで補わせるためであり、/また、民が予期せぬ旅を経験している間、/敵どもは異常な死に出会うためであった。」(知19:4-5)
 被造物という被造物はすべて、それぞれの本性を露わにして、創造主たるあなたの聖なる民の安全を守った。雲は宿営を覆い、海は割れて乾いた道を民の前に現した。驚くべき奇跡を目の当たりにしつつ、民はそこを通って向かいの岸に渡っていった。
 かれらは寄留地エジプトにて主が示した御業の数々を思うた。かれらは空腹でいまにも倒れそうだったとき、飛んできたうずらによりもたらされた珍味なる食物を思うた。

 エジプト人はカナンからやってきたイスラエル人を歓待して迎え入れ、自分たちと同等の権利を与えた。が、エジプト人はイスラエルに、自分たちよりさらに過酷な労役を課して虐待した。
 「罰が罪人たちの上に下った。/激しい雷による警告の後のことである。/彼らはその罪のゆえに当然の苦しみを受けた。/他国人を敵意をもってひどく扱ったからである。」(知19:13)

 知19:22〈結び〉
 主なる神よ、あなたはすべてに於いて自分の民へ栄光を与えた。そうしてかれらを大いなる存在とした。あなたはかれらをゆめ見捨てず、いつでもどこでもかれらのそばにいる。

 一つ怪訝に思うのは、「ソロモン王の知恵の書」てふ異名を持つ本書が、どうしてだか第10章乃至は第15章あたりで趣を異にした点であります。
 それまでは<知恵>というものが神への信仰や人生に於いどのような役割を果たし、作用するか、というところに重点が置かれていました。しかし、第10章にてエジプトの存在が浮上したあたりから雲行きが若干変わり、第15章以後は殆ど「出エジプト記」の注釈書のようであります。少なくともそこで、本書前半にあったような知恵についての諸々が表立って触れられることはない。
 もしかすると、神への揺るぎなき信仰を持つイスラエルと、そうでない民即ちエジプトがどのようにして神の恵みを受け、また神に罰せられたかを述べる上で、<知恵>なるものが両者にどう作用したかを言外に説いているのかもしれません。
 が、かりにそうであったとしても、前半と後半とで趣が異なることに幾許かの戸惑いを感じてしまうのは事実なのであります。もう少し勉強してから本書を再読したら、また違った感想を持つかもしれませんね。



 実質的な読書量と時間の低下は、聖書当該章の内容をまとめる能力と原稿そのもののクオリティの低下を招いたように思います。これを洒落に、猛暑が思考と体力を損なって、という。呵々。
 読書を怠る文章書きは駄目になる。書くなら読め。読まざる者、書くべからず。読んで読んで読みまくれ。書いて書いて書きまくれ。──これはプロであれアマチュアであれ、文章を書くならばまず体に覚えこませねばならない鉄則であります。
 数日前の話の続きのようだが、無理矢理にでも読書する時間を作り、往年の如く<読書の黄金郷>とでも称する精神的愉悦に一刻を、毎日の生活のなかに生み出さねばならないなぁ。超並列読書なんてド阿呆の極みとしかわたくしには思えぬが、通勤電車内での読書と帰宅してからの読書、寝しなの読書など、1日に3冊ぐらいは並行して読むことを続けなければ、読書量については勿論ですが以前のようなレヴェルでの原稿を書くことは出来そうもない。でもそのためにはいろいろ検討し、改めねばならぬ課題が幾つもある。ふぅむ、目的地は遠く、そこへの道は長い……でもない?
 もしこの出来事に教訓めいたものがあるとすれば、自分の愉しみのためにも、物書きとしてのレヴェルを上げるためにも、やっぱり日々の読書を欠かしてはなりませんね、ということになりましょう。

 本日を以て「知恵の書」の読書を終わります。前夜から始まって今日までの3週間、途方もなく長く感じたことであります。自分のなかで若干と雖も迷走したことが、本書の読書ノートに影響を及ぼしたところもないとは言い切れません。
 が、ここまでこれたことは義務である以上に読者諸兄の支えがあったればこそ。ちかごろは1週間に1日の割合で1,000PVを超える日があり、戸惑いと喜びを覚えることもある。これこそが目に見えぬ読者諸兄の支持と応援というべきものでありましょう。どうして今年になってこれだけの閲覧数を稼げるようになったのかわからないけれど、これを一過性の現象ではなく恒常的に続くよう努めてゆきたい、と思うております。
 どうもありがとうございました。どうしてこれからも皆様が本ブログの良き読者であってくださいますように。
 次の書物、「シラ書」は来月半ばあたりから読み始める予定であります。どうぞよろしくお願いします。◆

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第1691日目 〈知恵の書第18章2/2:〈敵の死と民の救い〉&〈民の仲介者〉with今日のブログ原稿の反省。〉 [知恵の書]

 知恵の書第18章2/2です。

 知18:5-19〈敵の死と民の救い〉
 敵、即ちエジプトは、あなたに清められた人々の乳飲み子を殺そうと謀った。しかし、代償は大きい。あなたが御業で敵を襲うあの夜の訪れを、イスラエルは先祖の代から知っていた。為にかれらも安んじてその日の来るのを待ったのだ。「神に従う人々の救いを、敵どもの滅びを、/あなたの民は待っていた。」(知18:7)
 敵への罰の数々はイスラエルにとって光栄となった。
 主がエジプト中の家という家を過ぎ越してゆく際、エジプト人の初子をことごとく打ったため、国中に子供を悼む声が途絶えなかった。
 この事件に先立って預言者モーセの指図により、聖なる民はひそかにいけにえをささげて、神聖なる掟を全員一致で守ることを決めていた。それはつまり、順境にあろうと逆境にあろうとかれら皆、心を一つにして万事に処する覚悟を決意したものであった。
 エジプト人は、上はファラオから下は奴隷まで、あなたによって同じ罰で懲らしめられた。<死>の名の下に星の数程の人が倒れ、却ってそれを埋葬する人の方が足りなくなるぐらいだった。
 「沈黙の静けさがすべてを包み、/夜が速やかな歩みで半ばに達したとき、/あなたの全能の言葉は天の王座から、/情け容赦のないつわもののように、/この滅びの地に下った。/それは、取り消しのきかないあなたの命令を/鋭い剣のように手にして、/すべてを死で満たし、/天に触れながらも、地を踏んで立っていた。」(知18:14-16)
 敵は、夢のなかで恐ろしい幻を見た。奴らは驚いた。思いがけぬ恐怖に震えた。息も絶え絶えになって、ここかしこに倒れた。夢のなかに現れた幻。それは、連衆が苦しみ死んでゆく理由を、あらかじめ奴ら自身に知らせるための幻だった。

 知18:20-25〈民の仲介者〉
 死の試練は敵ばかりでなく、あなたへ従う人にも等しく与えられる。それが証拠に、多くの人々がエジプトを出てカナンへ向かう荒れ野のなかで倒れていった。
 が、あなたの怒りも長くは続かない。一人の人が立ち、自分にゆだねられた祭司の職務を武器に、あなたをなだめたからである。然る後にかれはあなたの怒りの前に身を曝した。先祖と結んだ誓いと契約を思い出してもらい、あなたの災いを終わらせた。そうしてイスラエルはあなたの僕であることが示されたのである。
 「死んだ者は既に重なり合って倒れていた。/そのとき彼は間に立って罰の攻撃を押しとどめ、/それが生きている者に及ぶ道を断ち切った。/彼の足まで届く衣は全宇宙を示しており、/先祖たちの誉れは四列に並ぶ宝石に刻まれ、/あなたの威光は頭上の冠に輝いていた。/滅ぼす者はこれらを前にしてたじろぎ、恐れた。/民は御怒りに触れるだけで十分だったのである。」(知18:23-25)

 「知恵の書」を読んで「出エジプト記」の記述をこう何度も読み返すとは思いませんでした。後半に集中する事象ではありますが、本書とかの書物を行ったり来たりしているとき、夙にそう思うたのであります。それだけエジプトでの奴隷生活がイスラエルの身の上に取り憑いたゴーストの如きであり、カナンへ向かう途中の出来事がイスラエルにとって拭いがたきトラウマとなっていたか、そうして勿論、出エジプトを実現させるために主が降した数々の御業にイスラエルがどれだけ憧憬にも似た思いを抱いていたか、を知らしめる書物(章)というてよいのかもしれません。
 本章で語られる「出エジプト記」との関連は、むろん、過越祭と初子の死である。それがいったいどういうものであったか、同書第12章をお読みいただければ明らかでありましょう。主の過越と初子の死を語る第12章は、エジプト軍の追っ手から逃れるために葦の海が割れたり、ホレブ山で十戒を授かりモーセが山を降りてくる場面と同じぐらいか、或いはそれ以上にクライマックスと呼ぶにふさわしい出来事であります。
 まぁ、十戒はちょっと別になりますが、主と民の関わりという点では、葦の海以上に重要な位置を占めると申しあげたい。あれは映画で有名になったから人々の印象に焼き付いているのであり、劇的ではあってもそこにどれだけの神意といいますか、イスラエル民族の精神史に深く刻みこまれた出来事であるかといえば、とてもそこまでの出来事とは思えません。



 今日の反省。
 実は本書の読書もノートもさっぱりはかどらず、まったく作業に集中できなかった。途中でiPhoneをいじったり、外を歩く人たちをぼんやりと眺めていたり、妄想に耽っていたわけではない。意思を振るえば振るう程、自分のなかから<聖書>というものが消えてゆく。蜘蛛の糸にも似た縁を懸命に握りしめ、自分のなかから消えてしまわないように努める。
 が、そうではあっても、本日のノートの仕上がりに特に不満があるわけではない。MBAで浄書する際、相応に手を加えているから、現時点での決定稿と呼ぶにためらいはない。ただ、第一稿を書いているときに己が集中力の続かなさに悔しい思いをしていたのがまだ脳裏にあるため、斯く自分にお説教をしているところなのである。
 ──序でながらご報告させていただくと、「知恵の書」は明日で読了となります。◆

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第1690日目 〈知恵の書第17章&第18章1/2:〈光と闇〉with暑さゆえにわが灰色の脳細胞は活動を拒絶する。〉 [知恵の書]

 知恵の書第17章と第18章1/2です。 

 知17:1-1-18:4〈光と闇〉
 あなたの言葉、あなたの教えを拒んだ者らは皆、夜の迷いに陥った。かれらはあなたの聖なる民を制圧できると踏んだが、そうはならなかった。その企みゆえにかれらは闇に縛られ、夜に囚われ、不変の摂理から外された。
 かれらは自分たちの罪のなかに隠れることができる、と思うた。が、かれらは恐怖に取り憑かれて、幻覚に怯えるようになった。隠れ処もかれらの守りにはならなかった。
 かれらのまわりではさまざまなことが起こる。いと恐ろしげな音がまわりで鳴り響き、かなしい顔をしたぶきみな亡霊が現れた。幻覚が生んだ光景を現実のものと思い、それに怯えた。目の前の現実の光景にもいっそうの恐怖を抱いた。まわりで起こる取るに足らぬ事象にかれらはおののき、そうして死んでいった。
 「恐れとは、まさに理性の助けを捨てることである。/ 理性の助けに頼る心が弱ければ弱いほど、/苦しみの原因がますます分からなくなる。」(知17:12-13)
 かれらは、深い陰府から出てきたあの夜の間、皆一斉に眠りこみ、奇怪な亡霊に悩まされたり、気力をなくして身動きできなくなるかして、予想だにしていなかった恐怖に取り憑かれた。斯くしてかれらは鉄格子のない牢獄に監禁されたのであった──農夫であれ、牧者であれ、人里離れた場所で苦労して働く人であれ、あなたの言葉、あなたの教えを拒んだ者は皆、夜の迷いに陥ったのである。それは、かれらを見舞った避けられぬ運命だった。
 勿論、世界はそんなときでも輝かしい光に照らされていた。常の通り、妨げるものもなく活動していた。ただかれらの上には闇が重くのしかかっていた。それは前奏だった、やがてかれらを完全に捕縛する夜の訪れの前奏だった。「しかし彼らは闇よりも、/自分自身を重荷に感じていた。」(知17:21)
 ──一方で、あなたの言葉、あなたの教えに従い、あなたに清められる人々の上には、常に変わることなく大いなる光が輝いていた。夜の迷いに陥った者たちは、あなたの聖なる民に感謝し、これまでの不和を詫びた。
 「あなたは、御民には燃える火の柱を与えて、/未知の旅の案内者とし、/栄えある放浪の旅の、/彼らを苦しめることのない太陽とされた。/他方敵どもは、当然なことに光を奪われ、/闇につながれた。/あなたの子らをとりこにしたからである。/あなたの子らこそ律法の不滅の光を/世に伝えるはずであった。」(知18:3-4)

 夜の迷いに陥った者たちが光り輝く世界のなかで闇に囚われ、苦しむ様を説くのが本章であります。若干の改訂さえ施せば、中世に流行った説話物語の一編というても信じてしまえそう。
 理性の助けをなくした者らに襲いかかるのは、実はありふれた事象で、普通なら特になんとも思わぬことなのだが、既に夜の迷いに陥っているがゆえに取るに足らぬことにさえ、恐れを抱き、怯えるのだ。
 敢えて疑心暗鬼に陥るてふ表現を用いる気はないけれど、本章が淡々と説く事柄はだいたいのところで今日を生きるわれらの行いと重なる部分が多々あり、己を顧みてしまうこと頻々なのではないでしょうか。わたくし自身、夜の迷いに陥った者でありますから、本章が語る同類を見舞った恐れや怯えに想いを重ねるところ大なのでありました。今後も折に触れて読み返したく一章であります。



 流れる汗と照りつける暑さに不快感が、早くも沸点を極めんとしているためか、通勤電車内ので読書はまったくというて構わぬ程進んでいない。
 職場にいてはお昼休みは皆とご飯、帰りはスタバ等で原稿を書いたり映画を観たりしたあとは電車に乗っても、ぼう、とするばかりでリュックから文庫の一冊さえ取り出す元気もなくしている。<灰色の脳細胞>を動かす燃料も、帰るときには尽きかけているわけだ。いったい村上春樹『東京奇譚集』(新潮文庫)を読了するのはいつなのであろう。
 では、なけなしの燃料をなにに使うか、といえば、妄想と空想以外にあり得ぬ。そのくせ、自宅近くのマンションの広場で波状攻撃を仕掛けてくる蚊と戦いながらビールを飲む習慣だけは守っているのだから、何をか況んや、というところかもしれぬが。でも、それが自分を取り戻すためには必須な時間でもあるのですよ。それを知ってください、あなた(モナミ)。
 余談ですが、或る晩同じ場所でビールを飲みながらiPodで聴いていたAKB48のアルバム《次の足跡》。これに収められるなかでは〈君のために僕は…〉と〈So long!〉が好きです。◆

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第1689日目 〈知恵の書第16章2/2:〈自然は主に仕える〉withブックオフオンラインで本を購入する理由。〉 [知恵の書]

 知恵の書第16章2/2です。

 知16:24-29〈自然は主に仕える〉
 被造物である自然は、創造主のあなたに仕え、逆らう者を罰し、信頼する人に優しい。
 ゆえに被造物は、あなたの民が荒れ野を彷徨っているとき、あなたの僕となって逆境のかれらの望みに応えた。それは主よ、あなたの民に、人を養うのは食物ではなくあなたの言葉であることを悟らせるためだった。
 かれらの空腹を満たすため降ったマナは、鍋にかけたり煮たりしても形を崩すことはなかったが、太陽の光のなかではすぐに溶けてなくなってしまった。それは主よ、あなたの民に、太陽が昇る前に起き、朝日が射す前に礼拝することを教えるためだった。
 感謝を知らぬ者の希望は冬の霜のように溶けて、無用な水のように何処かへ流れ去ってしまうのだ。

 荒れ野を彷徨うイスラエルの前にマナが降ってきた。「出エジプト記」と「民数記」に載るエピソードである。昨日の本章前半にて触れた。そこにどのような意図が働いていたか、それを説明したのが本日の第16章2/2。短いけれど、なかなか含蓄のある箇所だ。



 同じ書籍をブックオフ店舗とブックオフオンラインのどちらで買うべきか。そう訊かれたら、当然、後者を強くお奨めする。
 販売基準というのが、一応このグループにもありまして。店舗では堂々と販売されているダメ商品がブックオフオンラインの場合、そも倉庫の棚に入庫されることがない。間違って棚に並べられたとしても、出荷担当者がピッキングする際、(それなりに)きちんと検品した上で梱包、発送するからだ。
 ここでスルーして注文者の手元に届けられた場合、万が一苦情等が入ったらすぐさま担当者が割り出されて、スタッフ・リーダーや社員に呼び出されて吊し上げだ。当然それはキャリア・パス制度の減点対象になり、その後の待遇に響く。そうした意味でも、ピッキング商品のチェックは限られた時間で速やかに行われねばならない。
 煙草の匂いが染みついたもの、背ヤケしたもの、破れのあるもの、シワが寄ったもの、切り取りのあるもの、書き込みのあるもの、等々。ブックオフ店舗ではたまにこれらのダメ商品を見掛けることがある。極めて稀に自身購入したもので斯様な商品にぶつかるときもある。そんなときは嗟嘆して、どうしてもその場で入手したいわけではなかったのだから、ブックオフオンラインに在庫があるか調べてからにすれば良かったな、と後悔するのだ。
  同じ書籍をブックオフ店舗とブックオフオンラインのどちらで買うべきか。そう訊かれたら、断然、後者が強くお奨めだ。理由は偏にスタッフ教育とサービス・マインドの正常さである。◆

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第1687日目 〈知恵の書第15章1/2:〈神は不滅を与えてくださる〉&〈偶像崇拝の愚かさ〉withサー・サイモンの功績は?〉 [知恵の書]

 知恵の書第15章1/2です。

 知15:1-6〈神は不滅を与えてくださる〉
 神を信じて正しくあろう。われらは嗣業の民、われらはあなたを信じる。
 「わたしたちは、たとえ罪を犯しても、/あなたのもの。あなたの力を知っている。/でもわたしたちは罪は犯さない。/あなたに属することを知っているから。/あなたを知ることこそ全き義、/あなたの力をわきまえることこそ不滅のもと。」(知15:2-3)
 われらは、悪人の企み事にも職人の造る肖像にも、惑わされることはなかった。不敬虔な愚か者だけがそれらに心動かされ、惹かれて悪の道に陥った。
 悪を愛する者たちにはむなしい希望こそがふさわしい。

 知15:7-13〈偶像崇拝の愚かさ〉
 焼き物師は苦労して粘土をこね、それを用いてさまざまな生活の道具をこしらえる。かれは同じ粘土からむなしい神を、不当な労力を用いてこしらえる。
 粘土の材料は土である。人は土から生まれ、土に戻る。この焼き物師自身も然り。なぜならば、人はこの世での生活が終わったらば、借りていた魂を返済しなくてはならないからだ。
 が、焼き物師はそんなことに一片の興味も抱かない。かれが関心を持っているのは、金銀の細工師と技を競うたり、銅の細工師の技を真似ること。そうしてかれは偽物をこしらえる。かれにとってそれは、実に名誉なことであった。
 「彼の心は灰、その希望は土よりもむなしく、/その命は泥よりも卑しい。/なぜなら、自分を造ってくださった方、/活動する魂を吹き込んでくださった方、/生かす霊を注いでくださった方を、/知るに至らなかったからである。」(知15:10-11)
 かれは、人生を遊びと思い、生活を金儲けできる催事と見做し、金儲けできるなら悪と手を結ぶこともためらわない。それでもかれは、よくわかっているのだ。自分が罪を犯していることを、他の誰よりも。

 読んで一々深く首肯させられるところであります。なにか言い足すことも、読後感など認めることも、いまのわたくしは不要に思うというのが本音。
 それでも感想を強いられれば、以て他山の石とせよ、というに留めましょう。



 ん、カラヤンの映像があるぞ? いつの間に?
 ……ベルリン・フィル・デジタル・コンサート・ホールのHPを久しぶりに見ていたら、そんな発見をした。収められるはブラームスの交響曲全集やドヴォルザークの交響曲第9番《新世界より》、1978年のジルヴェスター・コンサートなど。
 先日、クラシカ・ジャパンでカラヤンのドキュメンタリー番組を観たばかりということもあって、一刻も早く視聴したいのだが、如何せん見出したる場所、そうしていまこの原稿をMBAで書いている場所は、残念ながら、MacBookを全店舗公認PCに認定したという噂もあるスターバックスである。
 それがどのような問題を引き起こすかというと、再生しても音を出せず、出せても環境的に響きを追い求めることは不可能であることに加え、これがいちばん懸念されるべき問題なのかもしれないが、閉店時間が約45分後に迫っている、という避けがたき事実である。というわけで、iPodのイヤフォンを外してMBAにつなげ、トレーラーを鑑賞するに留めた。が、それでもカラヤン・マジックの底力はじゅうぶんに味わうことができる。かれの振るタクトに喰らいついてゆくベルリン・フィルの重量級のサウンドを堪能できる。
 嗚呼、早く帰宅して改めて鑑賞したい!! ならさっさと帰れ、といわれるだろうが、いま外は大雨である。雷である。帰るにちょっと勇気を振り絞らねばならぬぐらいのものだ。だから、もう少しここで原稿書きという大義名分の下、雨をやり過ごす努力をしてみようと思う。呵々。
 閑話休題。
 ラトルの勇退が告げられて1年半が経とうとしている。後任選びは来年以降と聞いた覚えがあるが、誰が選出されてもあまり代わり映えしないような気がするのはわたくし一人だけなのかな。かつての巨匠スタイルはもう今日のオーケストラには馴染まないだろうし、そもそもそれだけの力量を持った指揮者がいったい存在するのか。
 前任者アバドの場合、かれの癌告白以来ベルリン・フィルは生まれ変わったように気迫と生気みなぎる演奏を繰り広げた。
 ラトルの場合はどうかといえば、ちかごろのベルリン・フィルとの演奏を聴いてみても、なんだか消化試合の様相を呈している風に感じられてしまう。
 いったいラトルはベルリン・フィルと過ごした12年、なにを残したのだろう? たしかに、いろいろ変革は行われた。教育プログラムや自主レーベル、デジタル・コンサート・ホールなど、時代風潮と技術革新を背景にベルリン・フィルは新しい事業を立ち上げ、それを軌道に乗せた(ようである)。
 が、それはあくまで音楽に付随するものでしかなく、肝心の音楽面ではどうかというと、小首を傾げざるを得ない状況なのだ。好んで聴いている音盤はあるけれど、ラトルが音楽監督就任後にリリースした数々のCDのなかで、わずかな数に過ぎない。
 とはいえ、まだ任期は4年ある。それまでに、さしてラトルを好まぬ者をも虜にしてくれるような演奏と出会えればいいな、と思う。まずは来シーズンのオープニングに予定されているブラームスとシューマンの交響曲ツィクルス、来年に予定されているシベリウスの交響曲ツィクルスを楽しみに待とう。あと、先日クラシカ・ジャパンで放送されて録画したままな、ルツェルン音楽祭で披露されたモーツァルトの後期3大交響曲もね。
 うぅん、しかしサイモン・ラトル。なぜこれ程までもわたくしの興味を刺激しない指揮者なのだろう?

 ──スタバ閉店まであと12分!◆

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第1686日目 〈知恵の書第14章2/2:〈偶像崇拝の起こり〉&〈偶像崇拝の結果〉with発見はあるだろうか?〉 [知恵の書]

 知恵の書第14章2/2です。

 知14:12-21〈偶像崇拝の起こり〉
 遠くに在って自分たちの支配者を直接見られぬ者は、王の肖像制作を職人に依頼した。職人はその人たちのためというよりも支配者に取り入る手段として、腕を奮って肖像制作に勤しむ。
 偶像は、支配者の栄華盛衰に伴って生まれ、浸透していった。いつしか偶像に対する儀式や犠牲が義務附けられた。
 それと共に「時とともに神を汚すしきたりが力を得、法として守られるようになった。」(知14:16)即ち、イスラエル/ユダヤの神を忘却することでもあったのである。
 斯くして各地に置かれた権力者の肖像は、人々の間に広まる偶像崇拝の中心となった。──が、そうした偶像もやがて忘れられ、壊され、朽ちてゆく。

 知14:22-31〈偶像崇拝の結果〉
 かれらの過ちは、先祖の神を忘れる行いを始めたことだけではない。無知が生んだ主との大きな戦いの渦中にあってなお、自分たちの犯す悪事を「平和」と(愚かにも)呼ぶからだ(※)。
 かれらは快楽に耽り、姦淫を犯し、偽りの預言をし、不正を行い、平然と欺き、嘘をつく。かれらは魂なき偶像に依り頼んだり、不当な誓いをすることを罪と思うていない。
 「二とおりの罪のゆえに神は彼らを裁かれる。/まず、偶像に依存して神のことを悪く考え、/次いで、神の清きをさげすみ、/不当に偽って誓ったからである。」(知14:30)
 が、しかし、悪人の犯すこうした過ちを常に懲らしめるのは、罪人に対して下される神の罰を除いて他にない。

 「実態のない偶像を礼拝することは、/諸悪の始まりと源、そして結末である。」(知14:27)

 (※)を付けた箇所を上では省略しましたが、「知恵の書」本文では以下のように書かれています。曰く、──
 「彼らは幼児殺しの犠牲や密儀、/奇怪なしぐさを伴うみだらな酒宴を行う。/生活も結婚も清くは保たず、/裏切って殺し合い、姦淫を犯しては苦しめ合う。/流血と殺害、盗みと偽りが至るところにあり、/堕落、不信、騒動、偽証、/善人への迫害、恩恵の忘却、/魂の汚染、性の倒錯、/結婚の乱れ、姦淫、好色が至るところにある。」(知14:23-26)
 旧約聖書で偶像崇拝について触れた箇所は多くありましたが、その発生と結果を述べた箇所はなかった、と記憶します。あっても、本章の如く体系的に述べてはいなかったのでは? そんな意味でも、本章は(やや退屈ながら)興味深い記述がされていると思います。
 もっとも、権力者の肖像が造られる理由なんて、古今東西を見廻しても一つしかない。つまり、己の権威を領内に知らしめて民の従属を図るプロパガンダである、ということ。われらの記憶にはまだ新しいのではないか、──1989年12月、ルーマニアに於いてチャウシェスク政権が倒れて独裁政権の象徴であった宮殿が途端に略奪の的になったことを。2003年4月、バグダッドに建立されていたフセイン像が市民の手で引かれて倒される(とされている)その瞬間の場面を。
 ……歴史を繙けば事例はもっと出てくるでしょう。しかし、いずれにせよ、偶像崇拝の結末は洋の東西、今昔を問わず不変であることを痛く感じさせられるところであります。



 朗読のペースに合わせて小説を読む。すると、自分のペースで読んでいるときは気付かなかったことが見えてくるかもしれない。今度、萩原朔太郎の短編「猫町」でそれを試してみる。
 それはそうと、だれか金阜山人/永井荷風「四畳半襖の下張り」を朗読してiTunesにて配信するような度胸と声の持ち主は、嗚呼、いないものかしら?◆

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第1685日目 〈知恵の書第13章&第14書1/2:〈自然崇拝〉&〈偶像崇拝〉withモレスキンの手帳、間もなく1冊終了。〉 [知恵の書]

 知恵の書第13章と第14書1/2です。

 知13:1-9〈自然崇拝〉
 神を知らぬ者は、目に見える良いもの、美しいものを通して、それらの創造主について思いを巡らせることがない。むしろ、森羅万象のあらゆる事象を宇宙の支配者、神である、と思うた。それらに感銘を受けたりしていたならば、天地の創造主について思いを巡らせ、知ろうとするべきだったのだ。
 「とはいえ、この人々の責めは軽い。/神を探し求めて見いだそうと望みながらも、/彼らは迷っているのだ。/造られた世界にかかわりつつ探求を続けるとき、/目に映るものがあまりにも美しいので、/外観に心を奪われてしまうのである。」(知13:6-7)
 むろん、だからというてかれらに非がないわけではない。森羅万象の働きを見極める力がありながら、それらを想像し、支配する主をもっと早く見出すことができなかったのだから。

 知13:10-14:11〈偶像崇拝〉
 魂がこめられていないもの、命を宿していないものに依り頼むは愚か者。それらは人間が生業の片手間にこしらえたものでしかない。然るべき装いを施し、置き場所をしつらえただけのもの。それ自身ではなにもできないことは、作り手がいちばんよく知っている。
 が、世人は命なき偶像に願い、祈る。いったいなにものが、偶像に依り頼む者へ手を差し伸べて、かれらを救うというのだろう。
 人間を導くのは神なる主の摂理である。それゆえ神の目に正しく映ることを行い、神の前に正しく歩む者は、ほんの小さな頼りない木っ端に身をゆだねて、荒れ狂う大海原をぶじ乗り切って後の世の種を残すことができたのだ。
 「神は不信仰な者も、その不信仰な行為をも/同じく憎まれる。/造られた物も造った人も共に罰を受ける。/そのため諸国の民の偶像にも裁きが下る。/偶像は、被造物の中で忌むべきものとなり、人の魂にとっては罪のもと、/愚か者の足にとっては罠となったからである。」(知14:9-11)

 知13:19はわれら日本人には馴染みあるものであり、むしろこちらの方が親しみある考え方というてよいだろう。八百万の神、アミニズム──そんな信仰を持つわれらにとって所詮ユダヤ教、キリスト教は異教でしかない。ゆえに斯様に皮膚感覚での理解をどうしても及ぼせぬ事柄も、聖書を読んでゆく過程で生じてしまう。それは仕方のないことだ。全面的に理解できて共感し、心から頷くことができる人の方が珍しかろう。
 しかし、ユダヤ教徒、キリスト教者にとってはそんなことあり得ぬ話、思いもよらぬ話のようだ。森羅万象あらゆる事物の背後には唯一の神なる主の霊が宿っている、と、本章ではいう。<自然崇拝>という言葉は同じであっても、意味するところはまったく違う。中近東・西洋と東洋では背景となるものが真逆であることが確かめられる、興味深い部分である、と思います。
 それが後半、知13:10-14:11〈偶像崇拝〉に於いて補強されているのであります。



 そろそろモレスキンの手帳が一冊、終わろうとしている。使い始めたのは昨年のクリスマスの頃。いままで使ってきたノートとの勝手の違いに、わずかながらも戸惑いを隠せず、それでも使い心地の良さに惚れるものを感じながら、すべてのページを根気よく、ブルーブラックのペンで文字を認め、しこしこ埋めてきた。
 これはわたくしが外出するときはほぼ間違いなく鞄のなかにあり、行き先々で開いて聖書読書ノートの原稿となる文章を書き、エッセイの題材を列記し、聖書の一書が終われば日々のエッセイの原稿を書いた。白い部分の目立つページがあり、黒々とした文字で埋まったページがある。その殆どすべてが本ブログへ帰結したのは、或る意味至極当然のことといえようか。
 正直なところを告白すれば、モレスキンの手帳を原稿で埋める日が来るとは思わなかった。これ以前に使っていたものは<手帳>としての役目に徹したものであり、小説のあらすじや展開、外出先でのメモ、観た映画や読んだ本、聴いた音楽の感想が脈絡なく書きこまれ、亡き婚約者への決して読まれることも、届けられることもない恋文の素案も綴られている。
 そうして2冊目のモレスキンはラージ・サイズの方眼ノートとなり、これをなにに使おうか、と考えあぐねた挙げ句、時偶々無印良品のノートが終わったこともあり、専らブログ原稿の執筆に使うことを決め、……今日に至る。帰宅すれば、3冊目となるモレスキンが待機している。
 顧みるまでもなく、それは、まさしく日々の営み、ライフ・ログの蓄積。それが刻みこまれている。筆舌に尽くしがたい高揚感と充実感を味わう日も近い。しかし、それは一つの通過点でしかない。道はまだまだ続くのだ。聖書読書ノートとしての本ブログの終焉がそのままモレスキン使いとしてのわたくしの終わりになるのか、定かではないけれど。……HIGH HOPES!◆

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第1684日目 〈知恵の書第11章2/2&第12章:〈神の愛は忍耐によって示される〉、〈神の忍耐は寛容を教える〉他withきのうに寄す〉 [知恵の書]

 知恵の書第11章2/2と第12章です。

 知11:23-12:8〈神の愛は忍耐によって示される〉
 「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、/回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。/あなたは存在するものすべてを愛し、/お造りになったものを何一つ嫌われない。/憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。/あなたがお望みにならないのに存続し、/あなたが呼び出されないのに存在するものが/果たしてあるだろうか。/命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、/あなたはすべてをいとおしまれる。」(知11:23-26)
 生きとし生けるものすべてのなかに、あなたの不滅の霊が宿っている。主よ、あなたは、罪に陥った者たちを少しずつ懲らしめる。あなたはかれらに、自分の犯した罪のきっかけを思い出させて、諭す。
 あなたが、自分の聖なる民のために用意した土地には、さまざまな忌まわしい行いに身をやつす者たちが既に暮らしていた。あなたは、自分の聖なる民がその土地で安んじて生活できるよう、われらの先祖の手で滅ぼそうとした。が、それは根絶やしではない。かの忌むべき先住民も、あなたが造ったのだ。ゆえにあなたは、自分の聖なる民がかれらを撃つ前に、まず熊蜂の群れを送りこんだ。それは一斉の殺戮ではなく、滅びへの段階的な攻撃である。

 知12:9-18〈神の忍耐は回心を促す〉
 あなたは、あなたへの信仰なき者たちを、人の手、獣の爪によって滅ぼすことも不可能ではなかった。しかしあなたは一斉の殺戮ではなく、滅びに向けた段階的な攻撃という手段を用いた。斯様に罰を加えてゆきながら、あなたはかれらに、悔い改めの機会を与えていたのである。かれらが生まれつき呪われた血統であり、とうてい悔い改めなど期待できないにもかかわらず。
 罪に罪を重ねるかれらをあなたが恐れることはなく、また、かれらにあなたがどんな裁きを下そうと否を唱える者はない。ましてや、あなたに抗ってかれらの側に立って弁護する者など。
 わたしはいう、「あなたは正しい方、すべてを正しく治められる。/罰に値しない者を罪に定めることは、/御自分の権能にふさわしくないと考えておられる。/あなたの力は正義の源、/あなたは万物を支配することによって、/すべてをいとおしむ方となられる。/あなたの全き権能を信じない者に/あなたは御力を示され、/知りつつ挑む者の高慢をとがめられる」(知12:15-17)と。

 知12:19-22〈神の忍耐は寛容を教える〉
 神に従う人はなによりも人間への愛を持て。──あなたは罪ある者らに行った数々の業を通して、自分の聖なる民へそれを教えた。かれらにとってそのことは希望となり、罪からの回心を決めるきっかけとなった。
 自分の聖なる民の敵に対して、万死に値する罰を科せられるべき者らに対して、あなたはあれ程の配慮と寛容を示した。そうして回心への促し──悪から離れる頃合いと方法を授けた。とあれば、あなたが自分の聖なる民を裁くにあたっては、どれだけ慎重になったことだろう。
 「わたしたちが裁くとき、あなたの慈しみを思い、/裁かれるとき、憐れみに依り頼むためである。」(知12:22)

 知12:23-27〈神の罰は信仰に導く〉
 あなたは、自分の聖なる民の敵をかれらの偶像で以て懲らしめた。あなたは、忌むべき偶像をあがめて道を踏み外し、道理をわきまえぬ幼な子のようなかれらを、軽くあしらう程度の罰を下すだけだった。
 が、それに懲りず、わが身を省みて悔い改めることもせず、回心しようともしない者らがいた。あなたはそんなかれらに対して、次は容赦なき厳しい罰を下した。かれらは、自分たちの偶像ゆえに自分たちが苦しめられ、悩ませられていることを知り、斯くも厳しく激しい罰が己の身に降りかかっていることを知ったのである。
 「それらを通して罰を受けたのを見たので、/それまで知ろうとしなかった方を/彼らは真の神として認めるようになった。/こうして、最大の罰が彼らに下った。」(知12:27)

 初っ端に恥ずかしいことを告白すれば、わたくしは今日この章を読んでいて、なぜだか涙が止まりませんでした。ありきたりな言葉ですが、とても感動したのです。聖書を読んでいてこれ程に心を打たれたのは久しぶりでした。んんん、ひょっとして「エレミヤ書」以来? それって何年前のこと?
 どうしてそこまで感動したのか。分析するつもりなんてないけれど、読んでいるとき、心に思うところあり、それが琴線を震わせて気持ちがあふれてきてしまったのでしょうね。詳らかに語ることは野暮なので、やめておきますが……。嗚咽を抑えるのに少々意思を振るわせる必要があったことだけ、申しあげておきましょう。
 ──本日読んだ章は、間違いなく「知恵の書」最大の山場であり、肝となる箇所である。他のようなノートではなく、ほぼ全節を語り直す結果となったのはわたくしの力不足もあるが、第11章後半と第12章の持つ<語りの力>、<信仰の力>を損なうことなく移し替えたい、という希望が先走った結果である。ご理解の程を。まぁ悪意ある者には手抜きと誹られるのだろうが、幸いなことにわたくしはその者を相手に本ブログを執筆しているのではない。ゆえに、誹られてもまったく構わぬ。常に<真実は一つ>なのであります。
 それにしても、真実は常に一つ、とは、どこかで聞いた覚えのある台詞でありますな。呵々。



 昨日はとても愉しく、しあわせな時間を過ごすことができた。あなた方のお陰である。
 サンキー・サイ。
 願わくば、斯様な時間をこれからも持つことができますように。◆

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第1682日目 〈知恵の書第11章1/2:〈荒れ野のイスラエルと知恵〉、〈罰と恵み〉&〈神の力は忍耐によって示される〉withアプリについて書く。〉 [知恵の書]

 知恵の書第11章1/2です。

 知11:1-5〈荒れ野のイスラエルと知恵〉
 知恵は、預言者モーセにイスラエルの導き役を任せた。
 かれらは、人の住めない荒れ野を彷徨い、誰も足を踏み入れない地に臨在の幕屋を張った。或るときは敵と戦った。
 かれらは、あなたに喉の渇きを訴えた。そこであなたは岩を打ち、その裂け目から水をほとばしらせた。かれらの渇きは癒やされた。

 知11:6-16〈罰と恵み〉
 かつて迫害者の国を罰するに用いられた水が、このときはイスラエルの苦境を救った。
 あなたはかれらに、思いがけずも豊かな水を与えた。渇きに苦しむかれらに、かつて迫害の国の民が受けた罰の厳しさを示したのである。
 「憐れみによる懲らしめを受けた彼らは/怒りによる裁きを受けた不信仰な者たちの苦しみが/どんなものであったかを知った。/あなたは彼らには戒める父として試練を与え、/あの者たちには、厳しい王として罰を下された。」(知11:9-10)
 迫害の国の民、即ち、エジプト人は、奴隷であったイスラエル人が国にいたときも国を出たあとも、変わることなく苦しめられていた。過去の思い出に苛まされて、二重の苦しみに囚われたのだ。自分たちを見舞った災いの数々が、却ってイスラエルを益したことを知ると、かれらはそこに主の働きのあることを認めざるを得なかった。

 知11:17-22〈神の力は忍耐によって示される〉
 創造主の全能の手がこれまで人間に対して、害なす猛獣を遣わすことができなかったわけではない。或いは、怒り狂う未知の生物、睨視で以て敵を滅ぼせる怪獣を造ることができなかったわけでもない。
 否、そんなものを造らずとも、あなたは息の一吹きでイスラエルを倒すことも、正義によって責め立てることも、滅ぼすこともできる。
 しかしあなたは、すべてに於いて均衡を量れるよう取り計らった。あなたは常に偉大な力を備えている。誰が刃向かえようか。
 「御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、/朝早く地に降りる一滴の露に過ぎない。」(知11:22)

 知恵とは、ここでは神の別称である。イスラエル人が神によって導かれ、かつてエジプト人を苦しめた渇きを自分たちも経験することで、その罰の重さを知った。メリバの一件はイスラエル人の歴史のなかでいちばん軽んじてはならぬ、また忘れることの許されない出来事なのでありました。
 一方で、知11:11にてイスラエルが出エジプトを果たしたあとも、かの国は幾つもの災難が続いていたことが、端的に語られる。聖書中にはそれを示すものはなにもないが、エジプト史など繙いて丹念に調べてゆけばそれを裏付ける記述など、見附けられるのかもしれません。
 神の創造し得る怪獣について触れた箇所があるが、実際創造された(というてよいであろう)殆ど唯一の怪獣は、レビヤタンのみだったのではないか。ここを読んでどうしても、一頭の怪獣を脳裏に思い描く聖書を読む者は、わたくし一人だけでしょうか。その怪獣の名を、そう、ゴジラ、という。
 今日読書した部分も出エジプト記の記述に拠ったところがあります。昨日同様、対応箇所を列記し、メモを添える。
 知11:3は出17:8-16に対応。アマレク人との戦いを指す。
 知11:4は出17:1-7、民20:1-13に対応。メリバの水について触れる。その後のイスラエル/ユダヤの歴史に於いてこれは、ソドムとゴモラの滅亡と並んで、いつまでも汚点として記憶される出来事である。
 知11:15は出7:25-8:28、同10:1-20に対応。エジプトを見舞った災いのうち、蛙、ぶよ、あぶ、いなごの災いについて触れる。



 稀に、極めて稀に、お奨めのアプリってありますか、と脳天気に訊いてくる人がいる。だってMac使っているんですよね、だったらいろいろな珍しいアプリをいっぱい知っているでしょう? そんな風に訊いてくる。Macユーザー=アプリ・マニアなのか、この質問者の頭のなかでは。
 はっきりいおう。わたくしのMac──iMacであれMacBookAirであれ──に珍しいアプリなんて、何一つないですよ。本当のことだ。EvernoteとiBookAuthor、iTextExpress、Dropbox、Google日本語入力ぐらいです。珍しいものなんて、なにもない。ありきたりなものだけだ。しかも、恒常的に使用しているのはEvernoteとDropboxだけ。他は、インストールしたはいいけれど自分には用を殆どなさないと判断し、いつアンインストールしたって構わないアプリだ。Google日本語入力だって結局はATOKに切り替えたことで無用の長物と化したしね。
 ほら、なにも参考にならないでしょう? 淘汰された、というわけでもないのにこの為体は、わたくしがまだMacのある生活を楽しみ切れていない証拠かもしれませんね。
 もっとも、iPhoneにあって重宝しているアプリはある。これもありきたりのものだが、不動産情報(法務関係を含む)の詰まった某アプリと、HUFFPOST(これはアプリというて良いのか?)、あとは朝必ずチェックするものとしてJR東日本の提供しているアプリでしょうか。勤め人なら朝の電車運行情報(と天気予報)は気になるはず。わたくしもそうだ。ゆえに通勤に使うJR各線の運行情報を知らせてくれるアプリがいちばん重要で、かつ第三者へのお奨めアプリともなります。
 ──話は変わるが、明日はブログの更新ができないかもしれません。安息日。皆で焼き肉食べに行くのだ! でも、短いエッセイならお披露目できるかも。いや、それをしている時点で安息日でも更新出来ずでもないのか……いま気が付いたよ!? んんん、いったいどうなるんでしょうね。◆

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第1681日目 〈知恵の書第10章:〈人類の始祖と知恵〉、〈イスラエルの始祖と知恵〉&〈エジプト脱出と知恵〉withみくらさんさんか、古典講読について思う。〉 [知恵の書]

 知恵の書第10章です。

 知10:1-5〈人類の始祖と知恵〉
 知恵は、世の父として最初に現れた人を過ちから救い、万物を治める力を与えた。知恵は、怒りにまかせて弟を殺した者を見捨てた。知恵は、義人を水に覆われた世界から救うために方舟を造らせ、乗せた。

 知10:6-14〈イスラエルの始祖と知恵〉
 或るとき、諸国民が天まで届く塔を造ろうとしたが、神により混乱させられたことがあった。その後のことである。
 知恵は、一人の義人に目を留めた。神の前に正しくあることを守り、わが子を奉献する段にあっても情に流されない力を、知恵はかれに与えた。
 その甥もまた義人同様神の前に正しくある者だったので、神に不敬虔で堕落した者らが住む町を滅ぼす際、知恵はかれを救った。罪深き者らは町と共に焼かれ、或る者たちは不信仰な魂の証拠として塩の柱となった。
 「知恵を見捨てたあの人々は、/罰として善の識別ができなくなったばかりか、/愚かさの証拠までも世に残した。/それで彼らの悪事は隠れもない事実となった。」(知10:8)
 知恵は、兄の怒りから弟を遠い地へ逃れさせた。そこでかれを正しく導き、神の国を示し、聖なる事柄についての知識を授けた。労苦により繁栄をもたらし、手の働きによって豊かさをもたらした。知恵はかれを守った。
 また、知恵は、神とかれを激しく格闘させた。その試みを通して知恵は、神を信じる力こそすべてに優る力であることを悟らせた。
 知恵は、兄弟に裏切られて売られた義人を見捨てなかった。かれは売られた先のエジプトで鎖につながれたが、知恵はかれを救いだし、ファラオの信を得させた。そうして永久の栄光を与えたのである。

 知10:15-21〈エジプト脱出と知恵〉
 知恵は、迫害者から咎なき僕の民を救い出した。
 知恵は、一人の義人を選び、ファラオに対抗させた。ふしぎな業と10の災い、迫害者たちの初子の死を以て。
 知恵は、寄留の清い民族にそれまでの労苦の報いとしてかの義人を頭とし、父祖の地カナンへ導いた。途中、紅海を割って渡らせ追っ手を呑ませ、かれらに神を讃える歌をうたわせた。
 「知恵が、口の利けない者の口を開き、/幼児にもはっきりと語らせたからである。」(知10:21)

 イスラエル人の歴史に知恵がどう介入し、作用したかを語る章であります。創世記、出エジプト記前半の主だった出来事が、縷々綴られます。
 それらの書物と本書の対応箇所、並びにメモを添える、──
 知10:1-2は創3:6に対応。アダムと、かれが禁断の果実を口にしたこと、エデンの園追放に触れる。
 知10:3は創4:3-8に対応。カインによる弟アベル殺害に触れる。余談ながら、ジョン・スタインベック『エデンの東』のモティーフはこれである。
 知10:4は創6:1-8:23に対応。ノアと洪水、方舟の挿話である。
 知10:5は創11:1-9、バベルの塔と、創22:1-18アブラハムのイサク奉献について触れた章節だ。
 知10:6-9は創18:16-19:29に対応。アブラハムの甥ロトと、ソドムとゴモラの滅亡を語る。本章随一の記録と警告を含む。この出来事の重要性、意味深さを改めて認識させられる。
 知10:10-12は創27:43、同32:23-33に対応。エサウへ与えられるはずの祝福を、弟ヤコブが父イサクをだまして奪い、母縁りの知ハランへ逃れる場面と、ベヌエルの地にてヤコブが神と格闘する場面に触れる。
 知10:13-14は創37:23-27、同41:全に対応。兄弟に裏切られてヨセフがエジプトへ売られたこと、その地でヨセフが宰相になり豊む者となったことを語る。
 知10:16は出7:14-11:10と同12:29-30に対応。ファラオとエジプトを見舞った神なる主の業と10の災い、初子の死について触れている。「主の僕」とは勿論モーセである。
 知10:17は出13:21-22に対応。出エジプトを果たしたイスラエルを導く神の霊、即ち、火の柱と雲の柱に触れる。
 知10:18-19は出14:15-31に対応。紅海(葦の海)が割れて露わになった海底をイスラエルは進んでシナイ半島へ脱出し、追ってきたファラオ率いるエジプト勢は元へ戻らんとする海に呑みこまれてしまった。映画や物語で有名なシーンである。
 知10:20は出15:1-21に対応。モーセの姉ミリアムの音頭によりイスラエルの民がうたう<海の歌>、主を讃える歌に触れた箇所である。
 ──このあと、出エジプトを実現させたイスラエルは“乳と密の流れる地”カナン目指して歩み、シナイでの十誡を経て、「荒れ野の40年間」を過ごすこととなる。
 もし時間があれば対応箇所の読書も併せて行っていただけると嬉しく思います。



 学生だった頃、時間割には日本の古典講読のコマがありました。必修でした。一々出欠を取っていたことと、受講が必修だったこともあり、雨の日も風の日も雪の日も、電車遅延の日も休まず学校へ通った。
 その経験を通していまでも「良かった」と思えるのは、古典に取り組む知力と体力を得られたこと。単にテキストを読むのではなく、歴史背景や考古学、書誌学等も視野に入れて、対象となる作品に接すること。
 顧みてカリキュラムには、聖書の講読も一般教養に組みこむべきだと思うみくらさんさんかの弁。◆

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第1680日目 〈知恵の書第9章:〈知恵を求めるソロモンの祈り〉with生田耕作の、あまり知られていないエピソード〉 [知恵の書]

 知恵の書第9章です。

 知9:1-18〈知恵を求めるソロモンの祈り〉
 主よ、わたしは弱く、はかない命の人間です。裁きと律法とをまだよく弁えていない、未熟な者です。しかし完全な者とてあなたに知恵を与えられることなくば、いったいどんな価値がその人にあるでしょう。
 あなたはわたしを、あなたの民の王に選んだ。わたしはあなたの息子、あなたの娘の裁き手となる。あなたのための神殿を建てる。あなたのための祭壇を築く。聖なる幕屋の地縄を張る。
 「知恵はあなたと共にいて御業を知り、/世界をお造りになったとき、そこにいました。/知恵は、あなたの目を喜ばすものは何か、/あなたの掟に適うものは何かを知っています。/どうぞ、聖なる天から知恵を遣わし、/あなたの栄光の座から知恵を送ってください。/知恵がわたしと共にいて働き、/あなたの望まれることが何かを/わたしに悟らせるために。/知恵はすべてを知り、悟っています。/英知をもってわたしの仕事を導き、/その栄光でわたしを守ってくれるでしょう。」(知9:9-11)
 その栄光ゆえにわたしの業をあなたは喜ぶ。そうしてわたしは民を正しく裁き、父の玉座にふさわしい者となる。
 主よ、やがて死にゆく人間は浅薄で、不確かな思いの持ち主です。主よ、やがて朽ちゆく肉体は魂の重荷、地上の幕屋が悩む心を圧し潰します。そうした人間のうち、いったいどれだけの者が神の計画、主の御旨を知り得ましょうか。
 知り得るはあなたから知恵を授けられた者のみです、──「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、/天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、/だれが御旨を知ることができたでしょうか。/こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、/人はあなたの望まれることを学ぶようになり、/知恵によって救われたのです。」(知9:17-18)
 知恵は神と共に在り、それゆえその御業を知る。人は神より知恵を授けられ、その者たちだけが天上のことを知る。──それを伝えるソロモンの祈りが、本章に露わとなっております。
 王として父ダビデのように政務に励み、公正なる裁き手であろうという望みが、神より与えられた知恵を尊ぶ行為に至る。──その願いを吐露したソロモン王の祈りが、本章に刻まれています。
 今日は余計な感想を加えまい。読者諸兄も余計な邪念など持ちこむことなく、第9章の読書に努めていただきたく願うところであります。



 なんと、生田耕作はロイヤル・ホストでフランス文学の原書を読んでいた、という。生田シンパのわたくしとしてはさっそく真似したいところだが、そこで疑問が一つ。先生はいったいそこでなにを注文していたのだろう。
 美酒美食の徒として有名であった生田耕作が、多少は他よりも値段が高いとはいえファミレスに通っていた、というだけでも或る意味びっくり仰天なのに、そこでどんな顔してメニューをにらみ、どんな顔してオーダーし、どんな顔してそれを口に運んでいたのだろう。うぅん、とっても気になる。そうして、とっても知りたい。果たして生田先生はなにを食べ、なにを飲んでいたのか?
 ──この情報は、手持ち無沙汰だった先日、仕事帰りの電車のなかで何の気なしにGoogleで「生田耕作」と検索して、何ページ目だかで見附けたものである。情報源は生田先生の周囲にあった人のようだが、残念なことに作者の名前は覚えていない。ロイヤル・ホストに出入りするのは(人目もあるから)やめた方が、と忠言したそうだけれど、読書や散歩、購書と同じく罰しがたい習慣であったようだ。
 人気まばらな時間帯に、着流しでふらり、と行きつけのロイホに散歩の途中で立ち寄って、窓辺の席を占めてしばしフランス文学の桃源郷に心遊ばせたのであろう。京都大学で教壇に立っていた時分、しばしば授業は教室を脱して近隣の喫茶店に場所を移して行われた、という。
 当時にあっては珍しくない光景だったそうだが、ファミレスにてフランス文学を原書で読む行為は教員時代の名残、当時から続く罰しがたい習慣であったのか。そこで先生は、どんなものを読んでいたのか。専門であったシュルレアリスム関係のものなのか、それとも若い頃に読んでその道を志すこととなったピエール・ルイス『女と人形』か。或いは、最初の単行本出版の際筆を執って選出した「フランス文学ベスト……」のうちの一冊であろうか。もしくは、それとも、でなければ、……。
 正直なところ、最初にその事実を知ったときは意外で「嘘でしょう!?」と胸のうちで叫んだ。が、心を平静にしてみれば、それは実にしっくりとした光景で、有史以前から当たり前のように存在していた景観に思えるのだった。窓辺の席で煙草をくゆらしながらちょっとソファに斜めに座り、背を壁にもたらせて無心に小説の世界へ心を遊ばせる。眼球が疲れてきたら窓外へ目をやり、ふと去来した想いに考えを巡らせる……。そんな生田先生の姿が、簡単に想像されるのだ。
 ──わたくしはいま、毎度おなじみスターバックスにいる。でもこの原稿を書き終えたら、リュックのなかに入っている昨日買ったばかりなウッドハウスの小説を読みに、これからロイヤル・ホストへ行ってくる(徒歩約15分)。窓辺の席を狙うのだ。そうして生田先生のことを心の片隅に宿しながら、ゆっくりじっくりユーモア小説の巨匠の<黄金のワン・パターン>に心を蕩かせてくる。◆

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第1679日目 〈知恵の書第8章2/2:〈知恵に対するソロモンの愛〉withロリン・マゼールは好きではない指揮者であった。〉 [知恵の書]

 知恵の書第8章2/2です。
 
 知8:2-21〈知恵に対するソロモンの愛〉
 わたしは若い頃から知恵を愛し、わが花嫁にせんと努めてきた。
 知恵は、その働きによって人に徳を得させる。徳とは即ち、節制と賢明、正義と勇気である。人生にはこれらに優る徳はない。知恵がそれらの徳の造り手なのだ。
 知恵あればこそ、わたしは若者ながら長老たちの尊敬を得られた。裁き手としてはその鋭さを認められ、権力者たちから驚嘆の眼差しを向けられた。わたしは知恵によって不滅の存在となり、歴史と人の記憶に残る者となった。
 「知恵と縁を結べば死を免れ、/知恵と交わす愛には優れた楽しみがあり、/その手の業には量りがたい富がある」(知8:17-18)と、わたしは思うた。賢明とされるのは、知恵と語り合うこと。名誉とされるのは、知恵と言葉を交わすこと。そうわたしは思うた。
 わたしは善良だった。そうして清い体の持ち主だった。それゆえ知恵はわたしの体に入ったのである。

 「知恵は……世々にわたって清い魂に住み」(知7:27)と、「善良だったので、/わたし(という存在)は清い体に入った」(知8:20)は呼応する節というてよい。知恵はその時代その時代の清い魂の持ち主を宿り木とし、この時代清い魂を持つ体のあるじはソロモンであった、という解釈にでもなりましょうか。……牽強付会と揶揄されれば、まぁその通りですな、と頷くより他ないのですけれど、ね。
 これはソロモンによる知恵の讃歌であります。ソロモン王年代記、ソロモン王言行録のようなものを執筆、編纂するとしたら、一章を割いて知恵に触れ、そこでは本章の讃歌を取り挙げるべき、と思うのであります。



 そうか、マゼールってそんな年齢だったのか。なによりもまずそれを思わせた、先日の新聞に載った指揮者ロリン・マゼールの死亡記事。矍鑠とした振る舞いが脳裏に焼き付いており、齢80を迎えてなお精力的な活動を繰り広げていたことを思えば、そうした想いがいちばん先に浮かぶのは仕方ないところだろう。
 わたくしはマゼールの音楽が嫌いだった。際物にして色物めいたその音楽へ耳を傾けるのが、正直苦痛だった。クセとアクの強さが魅力だったのだろうけれど、まさにそれがわたくしをしてマゼールの音楽を忌避させる要因であったのだ。
 ベートーヴェン、シューベルト。ブルックナー、マーラー。シベリウス、チャイコフスキー。ワーグナー、ヴェルディ。プッチーニ、ビゼー。ウィンナ・ワルツ……。思い出せばきりがない。が、いずれもわたくしを改悛させるに至らなかった演奏である。
 正直なところ、マゼールの演奏で感銘を受けたのは、映画館で観たニューヨーク・フィルとの北朝鮮は平壌公演ぐらいだ。それとて背景に思いを馳せた結果であろう、と思うている。でもその後、マゼールを積極的に聴くことにつながったかというと……結果は、おわかりですね?
 ──カラヤン退任・逝去に伴うベルリン・フィルの後継争いに敗れて後、しばらくはその指揮台に立つことを避けたと雖も、あのとき選ばれたのがアバドではなくマゼールだったら、どうなっていただろう、と想像を逞しうすることはある。事実、そのポストにいちばん近かったのは誰よりもマゼールだったはずなのだから。が、そうはならなかった。マゼールが5代目の常任指揮者に就任していたら、BPOのサウンドやレパートリーはどのようなものになっていただろう。それだけを知りたかった、聴きたかった、というのが本音かな。
 個人的好き嫌いはいまは置いておくとして、今度の連休は少しく時間を割いて、架蔵する数少ないマゼールのCDを聴き、かれの足跡と功績に敬意を表すとしよう。意識の変化と新たな(今更ながらな)発見があるかも知れぬ。◆

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第1678日目 〈知恵の書第7章&第8章1/2:〈ソロモン王の出生は皆と同じ〉、〈知恵の値打ち〉&〈知恵の特質〉with村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』を読みました。〉 [知恵の書]

 知恵の書第7章と第8章1/2です。

 知7:1-6〈ソロモン王の出生は皆と同じ〉
 出自がどうあれ、身分がどうあれ、わたしも他の人々と変わるところはない。父の種が夫婦の営みによって母の胎に入り、10ヶ月の間そのなかにあって形となったのである。
 他の人々同様、苦しみの地にわたしは生まれた。他の人々が吸うのと同じ空気をわたしも吸って育った。生まれたときはわたしも皆と同じように産声をあげ、産着と心遣いに包まれて育った。
 「だれにとっても人生の始まりは同じであり/終わりもまた等しい。」(知7:6)

 知7:7-22 1/2〈知恵の値打ち〉
 祈ると悟りが与えられた。願うと知恵の霊が訪れた。
 わたしは世の中のどんなものよりも知恵の価値は優る、と思うた。金銀財宝、富や地位、名誉や名声、健康や美貌などにも優るのが知恵である、と思うた。
 わたしは光よりも知恵を尊んだ。知恵の輝きはゆめ消えることがないからである。
 「知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。知恵の手の中には量りがたい富がある。」(知7:11)──知恵はすべての善、あらゆる富の、産みの親である。
 わたしはこの世に存在するあらゆる事物のことを、知恵によって学んだ。森羅万象についてのさまざまな知識を、知恵によって得た。
 すなおな心で学んだすべてを、惜しむことなく伝えよう。わたしは知恵の富を隠したりはしない。人間にとって知恵はまさに、汲めども尽きることなき宝である。知恵を手にする者は神の友、かれは知恵がもたらす教訓によって自らを高める。

 「知識に基づいて話す力、/恵みにふさわしく考える力を、/神がわたしに授けてくださるように。」(知7:15)

 知7:22 2/2-8:1〈知恵の特質〉
 知恵に宿るは理知に富む聖なる霊。愛に満ち、堅固で、善を行う霊。すべてを成し遂げ、すべてを見通す。
 「知恵は神の息吹、/全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、/汚れたものは何一つその中に入り込まない。」(知7:25)
 知恵は代々に渡って清い人のなかへ住み処を見附け、神の友と預言者を育てる。知恵はなににもまして美しく、知恵はなににもまして輝かしい。

 本章と次章がソロモン王に仮託された章。知恵者、知恵文学の著者に擬えられるソロモンの躍如たる箇所だ。伝承をそのまま信じてこれらをソロモンの台詞として読めば、ここに居並ぶやや威丈高ながら納得尽くしの文言も、その凜とした調子、経験と見聞によって蓄えられた含蓄ある言葉に首肯させられるところ大なのであります。
 知恵は預言者を育む。預言者たちは皆神なる主の召命によってその役目に就くことを定められた人たちであります。しかしこれを読むと、召命以前よりその備え、心構えというか心の土壌を<知恵>によって用意されていたのだ、と考えられていたようですね。その過程で預言者たちの人格、思想、個性というものが形成されていったのでありましょう。
 ──本稿を仕上げるまで約2時間。ちょっと難渋しました。少しく現実逃避をしたことも小さな声で告白しておきます。改めて斯様な教訓書、知恵文学のノートの難しさを実感しました。それにしても、「箴言」や「コヘレトの言葉」のときって、こんなに考えも筆が行きつ戻りつしたっけっかなぁ……。



 村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)を読み終えました(これで残るオリジナル短編集は2冊!)。みんな、そんな出来事があったことさえもう忘却の彼方に押しやっているかも知れないけれど、20世紀末、日本は大きな震災に見舞われた。平成7(1995)年1月17日未明、神戸を中心として発生した阪神淡路大震災であります。
 村上春樹は同年に発生したオウム真理教に取材したノンフィクションを発表し、小説という形ではまずこの震災をモティーフにした連作短編を続けざまに発表した。このあたりが著者がいちばん社会にコミットする姿勢を見せた時期であり、その所産がオウム真理教に於いては『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』であり、阪神淡路大震災に於いては本書『神の子どもたちはみな踊る』であったのでした。
 ゆえに本書所収の短編では、登場人物がなんらかの形で心のなかに、瑕疵としての震災を爪痕のように残している。むろん、直接的に震災に遭遇した人は一人として出てこない。当たり前だ。それに直接取材した小説を村上春樹は書けないだろう。書けない、というよりも、書かないだろう、という方が正確かも。現実にあった出来事をそれが起こった場所を舞台に据えて、それに見舞われて絶望し、それでも立ちあがって復興を恃む人々の物語を、村上春樹が書くとは思えない。むしろそれは村上龍の仕事だろう。
 収録作は全6編。なかでも有名なのは海外でも世評が高いという「かえるくん、東京を救う」だろうが、わたくしはあまりこの短編を好まない。集中的に読書へ取り組み始めた頃に読んだ「初めての文学」シリーズで、わたくしは初めて本編と出会った。が、著者自選で編まれた「初めての文学」所収の他作品同様、「かえるくん、東京を救う」もそれ程のものとは思えなかったのである。どうしてだろう? 場面場面で、ほお、と思うところはあるのだけれど、どうしてもそこから先に行かない。感銘するところがない。これは致命的だ。今回何年ぶりかで読み返したわけだけれど、その所感はなんら変わるところがなかった。また改めて読めば、感想も変わるかな……。
 ではなにが良かったの? そうだな、心のなかに個々の場面と共に、読んで良かった、という明確な思い出が残っているのは、「アイロンのある風景」と「蜂蜜パイ」だろう。次点で「タイランド」を入れてもいい。もうたまらなく好きなんですよね。自分でも確とした理由を見出せないぐらい、見出そうと努力すると途端に思いも考えも視力も鈍るぐらいに。
 夜の海岸で焚き火する人たちの胸に去来する哀しみ。準仮想家族を演じる人たちが求める人肌のぬくもり。どれも痛切だ。作者は本書に収録された各短編にて、傷を埋め合わせるかのように誰かを求め、誰かとふれあうことを欲する人たちを描いた、と思う。それは回り回って、つまりは読み手である自分がいちばん希求する事柄が、自ずとそれを内包する作品を見附けて喜んだということでもあるのであります。
 顧みれば村上春樹の短編集をまるまる一冊読み返してみよう、という気にさせられることはこれまでなかったように思います。そんな意味で、本書は最初の一冊でありました。かえるくん、好きになれるかな……。
 それにしても文中に紛れこませた、どうしてだろう、って言い方は、如何にも村上春樹的ですね。呵々。◆

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第1677日目 〈知恵の書第6章:〈為政者の責任〉&〈知恵はいかなるものか〉withMacBookAirに依存して、〉 [知恵の書]

 知恵の書第6章です。

 知6:1-11〈為政者の責任〉
 権力の座に在って国を治める者たちよ、わが言葉へ耳を傾けよ。あなたたちの手中にある権力、支配権は、いと高き方即ち神なる主により与えられたものである。主はいつでもあなたたちの業を調べ、腹のうちの計画を探っている。あなたたちは国に仕える身でありながら、正しいことを行わず、神の御旨に添って歩むこともなかった。
 「神は恐るべき姿で直ちにあなたたちに臨まれる。/上に立つ者は厳しく裁かれるのだ。/最も小さな者は憐れみを受けるにふさわしい。/しかし、力ある者は力による取り調べを受ける。」(知6:5-6)
 万物の主は誰の顔色も窺わない。どんなに強大な相手であっても恐れることなく立ち向かう。万物を造った主は、万物を公平に扱うからである。が、権力者たちに対しては殊更厳しく激しい態度で取り調べに臨む。
 権力の座に在り国を治める者たちよ。知恵を学べ。知恵を学び、職務にもとることがないようにせよ。
 「わたしの言葉を熱心に求め、慕うがよい。/そうすれば教訓が身につくだろう。」(知6:11)

 知6:12-25〈知恵はいかなるものか〉
 人よ知れ、熱心に知恵を求め愛することを。それを求め、探し、思う人の前に知恵は姿を現す。知恵もまた自分にふさわしい人を探し求めている。知恵はかれらの前に優しく姿を現し、深い思いやりの心で以てかれらと出会う。
 「教訓を真心から望むことが知恵の始まりであり、/教訓に心を配ることは知恵への愛である。/この愛は知恵の命じる掟を守ることである。/掟を守ることは不滅を保証し、/不滅は人を神に近づける/知恵を熱望することは人を御国へ導く。」(知6:17-20)
 わたし(※)はこれから知恵について知っていることを語ろう。その神秘を隠すことなく、その真理から離れることなく……。
 権力の座に在り国を治める者たちよ。わたしの言葉を教訓とし、あなたたちの治世が長く続くよう、これを役立てよ。

 知6:1-11は一種のリーダー論と読めました。おもねることなく顔色を窺うことなく、誰に対しても公正で、力弱き者を憐れみ力ある者に厳しく臨む……。昨今流行りのその場にしかそぐわないような形骸化した<リーダー論>も吹っ飛ぶ、簡潔にして真理、普遍の教えが凝縮されたところであります。むろん、理想に傾いている部分はなきにしもあらずで、こればかりでは組織が回らぬことも承知しておりますが、この小さな言葉が言外に含めた訓戒は非常に大きなものだと思うのであります。……「知恵を学び、職務にもとることがないように」!(知6:9)
 続く知6:12-25は、第7章以後に展開されるソロモン王に仮託された部分への導入部であります。それゆえ、文中の「わたし」もソロモン王を指す人称代名詞である、とご理解いただければ幸甚と存じます。
 正直なところを告白しますと、ここはノートするのに難儀した部分でもありました(知6:12-25のことです)。簡単なように見えてまとめようとすると文意不詳のものになりかねない。いっそのこと、全文引用してそれにすべてを語らせようか、と、体のいい逃げの一手を打つことも検討しましたが、最終的にそれをしなかったのはプライドゆえ? 「雅歌」でやはり全文引用を行いましたが、いまの「知恵の書」とはまったく別の理由でそれを実行した。詩歌の鑑賞に一部分だけを取り挙げれば却って価値を損ない、鑑賞に支障が生じることがある。またそれを身を以て経験しているがゆえのことでもありました。まぁどちらにせよ、体のいい逃げの一手を打つことなくなんとかまとめ得たのはわれながら喜ばしいところでありました。えへ。



 あのとき思い切ってMacBookAirを購入してなかったら、ブログの原稿を書くことはいまよりもずっと困難になっていただろう。バッテリーの持ちの良さ、機能性の優れたる点、タイピングの快適さ、インストール済みのPagesの使い勝手の良さ。これらの利点がセットで提供されるノートPCがMBAの他にあるだろうか? ──もっとも、これで購入していたのがMacBookProであれば、MBPの他にあるだろうか、などというていたのでしょうけれど。
 このMBAのお陰で本ブログが健常に続いているのは事実だ。仕事帰りのカフェなり図書館なりファミレスなりで原稿を書く。休みの日であっても外出することあれば携え、図書館なりカフェなりファミレスなりで原稿を書く。MBAを導入したと雖も未だモレスキンや無印良品のノートに第一稿を書き、手を加えることは変わるところがないため、一カ所での滞在時間は必然的に長くなってしまっているのが申し訳ないところだが……。閉店時間、閉館時間は厳然と存在するので、心地よい緊張感と迸るがごとき創作欲が相乗効果をもたらし、良き原稿を書けることも多いので相殺されていると考えれば良いかもしれぬ……。
 外にあってはMacBookAirに依存している。が、この依存は実に快適かつ幸福な出来事なのだ。ちかごろはつくづくそれを実感している。◆

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第1676日目 〈知恵の書第5章:〈神に逆らう者の後悔〉with吉田秋生『海街diary』、実写映画化に思う。〉 [知恵の書]

 知恵の書第5章です。

 知5:1-23〈神に逆らう者の後悔〉
 裁きの時、神に逆らう者たちの前に、神を信じ従う人々が立つ。大いなる確信を胸にして、かつて自分たちを虐げ、労苦を蔑んだ不義の者たちの前に。それを見た神に逆らう者たちは恐怖する。そうして自分たちの過ちに気附き、嘆いて、いう、──
 われらはかつて義の人を中傷し、あざ笑った。かれらの生き方を狂気の沙汰と考え、かれらの死を恥辱と見なしていた。が、実際はそうではなかった。われらの生き方こそが狂気の沙汰であり、われらの死こそ恥辱であったのだ。
 「我々はまことの道を踏み外した。/義の光は我々の上に輝かず、/太陽も我々のためには昇らなかった。/我々は不法と滅びの道をひたすら歩み続け、/道なき荒れ野を突き進んだ。/主の道を知ることがなかったのだ。」(知5:6-7)
 むかしのわれらの行いがどれだけのものであったのか。驕りも勢いも、富も名誉も、顧みれば空しいものであった。われらはこの世へ生まれてもなに一つ徳の証しを残さず、自らの悪に身を滅ぼすことばかり行い、死の瞬間を目前に迎える。
 われらの希望ははかなく過ぎ去る、船の竜骨に砕かれる波しぶきのように。が、神に従う人の希望は永遠である。かれらは主なる神から報いを受け、輝かしい王位を授かる。その御手から王冠を戴く。主は自らの手でかれらを守る。主は激しい怒りを剣に変えて叛逆する者たちを裁く。宇宙はそれに味方して愚か者どもへ戦いを挑む。かれらの不法によって全地は荒れ野と化し、かれらの悪行は権力者たちの地位を覆す。

 わたくしは今日この短い章を読んでいて、何度も本書が「知恵の書」であり、旧約聖書でずっと馴染んできた預言書や、或いは「ヨブ記」でないことを確かめねばなりませんでした。それぐらい通じ合うものを感じていたのです。
 信仰の道を選ぶこともできたであろうはずなのに、まわりの環境や自分を取り巻く人々の影響を被って、選ぶと選ばざるとに関わらず、そちら側へ行ってしまい再び戻ることかなわなかった人らを不義の人と呼ぶとしたら、引用箇所でもある嘆きの言葉が真実味を帯びてくると思うのであります。それは預言書や「ヨブ記」に組みこまれていてもなんの不自然を感じさせぬものなのであります。もしよろしければ、それらを併読されてみると良いと思います。



 HUFF POSTで知ったときはなにかの冗談であろう、と読み流していたのですが、やはりそれはどうやら現実だったらしい。吉田秋生の『海街diary』(小学館フラワーコミックス)が実写映画化される。
 ──この一報に触れて『ラヴァーズ・キス』を想起した人は、どれだけいただろう。思い出すというても肯定的な意味合いではなく、徹頭徹尾否定的な形での思い出し。『海街diary』も同じ末路をたどるのか? そんな杞憂をいまも胸の片隅に抱いている。
 優れた原作ゆえに実写化されることの弊害は大きい。その原因が脚本や演出に求められることがある。が、同じぐらいミス・キャストに拠る弊害も見過ごせない。『ビブリア古書堂の事件帖』のTVドラマ化は近年でもその弊害をいちばん被った作品である。
 翻って『海街diary』も実に微妙な配役なのだ。是枝裕和監督は「いま誰をいちばん撮りたいか」を優先させてキャスティングした由。コミックナタリーHPでは、主演4人が顔合わせした際のことが述べられているが、これを何度読んでも、胸のなかのもやもや感、釈然としない気分は拭えない。長女/香田幸;綾瀬はるか、次女/香田佳乃;長澤まさみ、三女/香田千佳;夏帆、という配役に違和感を覚えぬ人が、原作を読んできた人たちのなかに果たしてどれだけいるのか? 殊、綾瀬はるかと夏帆……大丈夫なのか、このキャスティングは!? ──姉妹のなかで文句なしに、その配役に納得できるのは四女・浅野すずを演じる広瀬すずだけ。演技を観てもいない女優であり、容姿と雰囲気だけで納得させられてしまうのも、なんだかなぁ……という感じだが。
 むろん、原作と映画は別物だ。映画がすばらしければ原作も同じぐらいにすばらしいから是非読んでみてよ、と喧伝できるし、映画が駄目なら原作と異なる点を多々挙げて原作原理主義に立ち返ることが可能だ。わたくしはこれを度重なるキング映画への失望と称揚から学んだ。『海街diary』はどうなるだろう。まずはなにを置いても映画館へ足を運ばねばなるまい。すべてはそれからだ。
 公開は来年、2015年初夏(予定)とのこと。◆

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第1675日目 〈知恵の書第4章2/2:〈神に従う人の若死に〉、〈神を信じない者の末路〉withS.キング『グリーン・マイル』(小学館文庫版)を買いました。〉 [知恵の書]

 知恵の書第4章2/2です。

 知4:7-15〈神に従う人の若死に〉
 不義の人の若死にには希望というものがなく、裁きの日が来ても救いは訪れない。では、神を信じ、従う人の若死にの場合はどうか。
 若死にであっても、それが神に従う人なら安らかに憩う。長寿ゆえに誉れがあるのではない。年数によってそれが測られるわけでもない。「人の思慮深さこそ白髪であり、汚れのない生涯こそ長寿である。」(知4:9)
 ──かつて神に愛されていた義の人がいた。かれは罪人たちのなかで育ち、まだじゅうぶん若いうちに天へ召された。まわりの罪人たちの悪がかれの心を染めたり、偽りがかれの魂を惑わさぬうちに、神はかれを天に召したのである。というのも、「悪の魅力は善を曇らせ、/渦巻く欲望は純真な魂をかき乱す」(知4:12)からだ。
 かれの人生は短かった。かれの汚れなき生涯こそ長寿の誉れと称すに値する。かれの魂は主の御心にかなった。主は、罪や悪に蝕まれる前にかれを罪人たちのなかから取り除いたのだ。
 しかし、人々はこれについてなんら思うところも理解するところもなく、この出来事を心へ留めることもしなかった。主に選ばれた人にのみ恵みと憐れみはあり、主に清められた人にのみ主の訪れがあることを、かれらは知らなかった。

 知4:16-20v
 不義の人々は義の人が逝ったのを見ても、なんの考えも抱かない。義の人の主への想いを知らず、よしんばそれを知っていたとしても、どうして主が自分たちのなかからかれを選んで連れて行ったか、その本懐に考えを巡らせることもできない。
 悪人たち、不義の人々にできるのは、義の人の最期を嘲笑するのが精々だ。しかし、かれらは自分たちが、神なる主の嘲笑の的になっていることを知らない。やがて、「彼らは不名誉なしかばねと化し、/死者の中で永遠に恥を受け」(知4:19)、「おののきながら罪の裁きを受け、/不法のゆえにあからさまに断罪される。」(知4:20)
 そうしていつしか、かれらは生きている人々の記憶から消し去られる。

 フランシスコ会訳の傍注に拠れば、知4:10にある、神に喜ばれて早くに天へ召された人物とは、創世記第5章に名の載るエノクである、という。エノクは息子メトシェラを設けたあと300年、神と共に歩んだ。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創5:24)かれは365歳で逝去した。かれはアダムから数えて7代目の子孫。創5を読むと、前後の者たちよりずっと若くして逝っている。父イエレドは962歳まで、息子メトシェラは969歳まで生きた。他も然りで、800歳代か900歳代で世を去っている。
 フランシスコ会訳がいかなる根拠あって斯く傍注したのか未詳だが、真偽はともかくそこにはなんらかの根拠があったはずだ。過去の学説や伝承など、さまざまにあったはずだ。それを簡単でいいから示してほしかった。むろん、エノクのように神の定めた義の道を正しく歩み、神によって早くその命を摘まれた者は、聖書を読んでいてもそうそういるわけでないから、フランシスコ会訳がかの箇所の傍注で、それがエノクであることを指摘するのも宜なるかな、というところであるが。
 なお、新約聖書に収められる「ヘブライ人への手紙」第11章第5節には、エノクを讃える文言があります。エノクはいちばん古い時代にあって神なる主の前に忠実であった人、として紀元後の人々は覚えているのでありましょう(「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」ヘブ11:5)。
 悪は善を蝕む──古今東西、普遍の理であります。人は育てる人、育った環境によって、善にもなり得るし、悪にもなり得る。しかも、後者の方がよほど簡単です。悪に落ちるには考えることをやめればいいだけの話ですから。いったん転落したら歯止めが効きません。そのまま、蟻地獄に落ちてゆく虫のように底まで行き着くのみです。途中で手を差し伸べてくれたり、これまでの自分を律して正す出来事と遭遇できた人は幸いでしょう。
 どんなに正しく、優しい人でも、悪の誘惑に耳を傾けてしまうときがある。悪にはどんなに正しい人をもねじ曲げてしまうだけの魅力がある。悪は甘やかで、強大で、狡猾です。正しい人、素直な人、健全な人が簡単に悪に魅せられ、染まり、転落して帰ってこなかった例を、われらは幾らでも知っている。歴史を繙かずとも、ワイドショーや新聞の社会面などでお馴染みの話題ですからね。映画でいえば、アナキン・スカイウォーカー=ダース・ヴェイダーあたりですかね。
 ──新共同訳聖書の余白に書いたことでもあるのですが、知4:16-20は暗記・暗唱に適した警告と改悛の件であります。以て自省せよ。……とはいえ、人はどこまで本心から敬虔になれるだろう。時代や環境に流されず、自己を持ち続けられる人がどれだけいるだろう。現代に於いては信仰は堅固でなくとも構わぬ、道徳的・法律的に不義さえ働かなければそれで良い、ということになりましょう。しかしそれは、人間として極めて当たり前のことですよね?



 小学館文庫の新刊、S.キングの『グリーン・マイル』上下巻を購う。いつの間にやら新潮文庫万全6巻は品切れになっているのですね。聞けばキング作品の過半が新潮文庫では読めなくなっている、という。世も末だぜ。
 どの程度訳文の改めが行われているのか不明だが、それを教えてもらう意味でも白石朗による訳者あとがきは欲しかった。作家や大学教授、タレントのお喋りはいらない。そんなの他でやってくれ。とは言え今回の冲方丁の解説は、久しぶりに翻訳小説で熱あり骨あるものを味わえた気分でいる。
 『グリーン・マイル』は半年間連続刊行された新潮文庫版も愛蔵版として出た単行本も、両方架蔵し、それぞれじっくりと読書の喜びを堪能させていただいた。来週の連休で家にこもって読む本は決まった。『グリーン・マイル』の小学館文庫版である。日課(?)である聖書読書と原稿執筆はちゃちゃっ、と終わらせて、長い午後はじっくり腰を据えて久々のキング小説を読もう。映画は長いが、原作は長くないのだ(呵々)
 ──もっとも、キング小説でこの3年ほどに刊行されたものは、長編、中編集いずれも未読で箱詰めされているので、『グリーン・マイル』の前にそれらを読め、という声も事実聞こえているのですが、……まぁ、人生いろいろ、事情もいろいろ、都合もいろいろ、言い訳もいろいろ、ということで、ご勘弁ください。えへ。◆

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第1674日目 〈知恵の書第3章&第4章1/2:〈神に従う人の受ける報い〉、〈神を信じない者の受ける罰〉&〈義と不義の報い〉with連休中になにするの?〉 [知恵の書]

 知恵の書第3章と第4章1/2です。

 知3:1-9〈神に従う人の受ける報い〉
 清い生活がもたらす報いとはなにか? 汚れぬ魂が受ける誉れとはなにか?
 ──神に従って生きる人の魂を神の手が守る。久遠に責め苦を受けることはない。神を信じぬ愚か者には、死は終焉としか映らず、この世との別れは災いとしか思えない。
 が、実はそうではない。神に従う人々には不滅への大いなる希望がある。かれらには、わずかな試練の後、豊かな恵みが与えられる──神がかれらを試し、自分の民に相応しいことを判断したからだ。神なる主の訪れのとき、かれらは炎のように輝く。

 知3:10-12〈神を信じない者の受ける罰〉
 その一方で、神を信じぬ者は言行に応じた罰を受ける。神を信じて従う人を心に留めることも、主へ近附くべく心を尽くすこともないからだ。かれらのなすことは、すべて無意味。妻は愚かで子供は馬鹿、子孫は呪われる。

 知3:13-4:6〈義と不義の報い〉
 「子を産めない体でも身を慎み、/不義の関係を持たない女は幸いである。/神の訪れのとき、彼女は豊かな実りを受ける。/子種のない男でも、悪に手を染めず、/主に対して恨みを抱かぬ者は幸いである。/その信仰のゆえに特別な恵みを受け、/主の神殿で栄誉ある役職に就く。」(知3:12-14)
 「善を目指す労苦は見事な実を結び、/思慮深さは丈夫な根を下ろす。」(知3:15)
 が、たとい子供が生まれたとしても、それが姦淫によって生まれた子は生を全うすること能わず、不義から生じた種は絶たれる。長寿に恵まれても敬われず、役立たずの中傷を受けるばかり。況んや若死にをや。
 妻は愚かで子供は無能、神を信じぬ者は罰せられる。そんなかれらは惨めな最期を遂げる。

 もし子を授からずとも、徳があるならそれで良い。徳のある人は忘れられない。徳のある人は模範にされる。その人亡きあとも、世人はかれ/彼女の徳を慕う。そうして神は、その徳の持ち主を認める。
 が、神を信じぬ者にとってそんなのは無意味だ。不義の木は植えても根附かず、ちょっとした風で倒れてしまう。実は熟すことなく、食べられない。「不義の床から生まれた子供は、/裁きの時、親たちの悪事の証人となる。」(知4:6)

 神を敬う人は、子のあるなしにかかわらず、報われる。恵みを授けられる。徳あれば尚のこと。しかし、神を信じず不義の人生を歩み、時に姦淫すら行うような人は、死んだらそれまで。まさにゲーム・オーヴァーである。おまけに家族も同様、一蓮托生とくれば、もはや何をか況んや、である。開いた口がふさがらない。
 でも、よくよく考え、三読、四読してゆけば、なるほど、と合点させられるのだ。われらの周囲を見渡してみても──神でこそないが──信じるもの、守るべきものがある人の生は健やかで、たくましい。それのなき人、怠惰な人、他人の中傷を呟いてネットに吐き散らすことでどうにか犯罪から身を遠ざけられている人の、生、性根は腐っている。哀れと思えど救済の手を伸ばす気にはなれません(博愛主義者にはなれないよ)。自らの行いゆえに自滅してしまえばよい。
 閑話休題。
 引用もしました知3:12-14、ここにいったいなんの注釈や解釈が必要でしょう。ひたすら共感し、わが身に引き添えて考えること多いのです。まぁ、時期的に都議会のヤジ議員の報道が脳裏に浮かぶことは否定できませんけれど。
 ──それにしても、その人の前には不滅への大いなる希望がある(知3:4)、なんて、なんだかヒルティを思わせる文言ですね。ヒルティの言葉については本ブログにて、思い出したようなタイミングで紹介してきました。わたくしにヒルティを連想させた言葉は、第0536日目(『眠られぬ夜のために』第1部・9月1日)にあります。併せて読んでいただければ幸いであります。



 最大級と謳われた台風8号は鹿児島と紀伊半島にそれぞれ上陸して、各地に被害の爪痕を残していった。関東では午前5時前、千葉県に上陸。そのまま北上を続けている。警報地域は刻一刻と北へ移り、南は順次解除されてゆく。
 解除された地域を見舞うは台風一過の晴天の空。暑いなぁ、とぼやき、駅までの道を向かうが早くもへたばりそうになり、近所のドトールコーヒーに避難しました。そこで汗が引くのを待ち、体力回復を確認した後(呵々)、勇躍目的地への進撃を開始した。
 シフトを適度に散らした結果、早くも夏休みモードになりつつあるのですが、事実、今月は3連休、4連休が立て続けに生じている。家で怠惰な時間を過ごしてブログが書けません、なんて事態に陥らぬよう己を律してゆかねばならぬな、といまから自分に言い聞かせています。この連休中は家から出ることなど殆どあるまい──あくまで予測でしかないけれど。
 じゃあ、家にいてなにするの? 録画して溜まっている映画を観よう。梅雨の間に伸びてくれた雑草を刈りまくろう。
 ……ん、それ以外? かねてよりの懸案であった(ずっと頭の片隅に引っ掛かっていたこと、ともいう)ブログ原稿の改訂を行いたい。誤謬を正し、表現を改めることが目的。明らかな間違いがそのまま残っているケースもあるので、まずはそれの撲滅から手を着けよう。
 それは新しい原稿との同時進行で行われる。旧稿改訂が新稿執筆を侵犯しないよう、自律と自制を能くし、脳ミソと思考を分岐させて、両雄鼎立を目指さねばなるまいな、なんて思うたりしている。日々のエッセイ(っぽいもの)も、アウトラインだけでも毎日残してゆかなくてはならないなぁ……。
 ──あ、休み明けに提出する書類書かなくっちゃ。◆

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第1673日目 〈知恵の書第2章:〈神を信じない者の人生観〉with大学生協で初めてMacと出会ったこと。〉 [知恵の書]

 知恵の書第2章です。

 知2:1-24〈神を信じない者の人生観〉
 神なる主を信じようとしない、不敬虔な連衆がいる。かれらはこういう、──
 われらの一生は短く、労苦に満ちている。この世へ生まれるは偶然の出来事、終わりに訪れる死からは逃げられぬ。死ねば体は朽ちて灰になり、魂はふわふわ漂い消えてしまう。それに伴い、「我々の名は時とともに忘れられ、/だれも我々の業を思い出してはくれない。/我々の一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、/霧のように散らされてしまう」(知2:4)のだ。
 人生は瞬く間に過ぎてゆく。なにかをしようにも死が目前に迫ってからでは遅い。だからこそ、<いま>を楽しもう。この世の愉悦を貪り、青春の情熱を傾け、たらふく酒を飲み、香料を体にまぶして、春の花を心ゆくまで愛でて薔薇を摘み、歓楽の跡を刻んで、さあ、<いま>を楽しもう。それがわれらの本領。われらが人生の定め。
 神を信じ、敬う者を虐げよう。その貧しき者らを虐げよう。力こそ義。「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。/我々のすることに反対し、/律法に背くといって我々をとがめ/教訓に反するといって非難する」(知2:12)かれら、神を父と呼ぶ敬虔なるかれらは「我々を偽り者と見なし、/汚れを避けるかのように我々の道を遠ざかる。」(知2:16)
 そんなら、かれらの言葉がどれだけ正しいか試してみよう。かれらの人生の最期を見届けてやろう。奴らが本当に神の子ならば、相応の助けや救いがあるはずだ。かれらに暴力を振るったり、苦しみを与えてみよう。奴らはわれらに対して寛容なはずだ。尋常ならざる忍耐力を発揮して耐えるはずだ。
 「彼を不名誉な死に追いやろう。/彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」(知2:20)
──と。
 が、かれらは間違っている。かれらは神の御旨がいかなるものか、知らないのだ。清い生活がもたらす報いを期待することも、汚れることなき魂の受ける誉れも認められないのだ。かれらがこのことを知ってくれればいいのに。
 「神は人間を不滅な者として創造し、/御自分の本性の似姿として造られた。/悪魔のねたみによって死がこの世に入り、/悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。」(知2:23-24)

 人生を肯定しているだけではないか。それのいったいなにが悪いのか。そんな言葉の聞こえてきてもおかしくない一章であります。
 試しに神を信じる者をイジメてみたりしようぜ。そんな発想の是非はともかくとして、ここで述べられる「神を信じない者の人生観」こそが人間本来の思考じゃないのかな。ただそれは神を信じて敬うこと、或いは、信ずる神の目に正しいと映ることを行い、神の定めた道を外れることなく歩むことと縁薄い者の考え、時代の考えなのかもしれません。
 知2:1-20は不敬虔な人の抱く考え方で、これまで読んできたイスラエル/ユダヤ民族を迫害、征服した諸民族の姿に重なる。詩137<バビロンの流れのほとりに座り>とも通じるところだ。
 これへの反対弁論というべきが、続く知2:21-5:23だ。──生も死もすべて偶然。人生の諸事はすべて空ゆえに、いまを楽しもう。信仰なんてクソ食らえ。律法なんて屁の如し。飲めや歌えや、食えや踊れや。神なるものがなんぼのもんか、試してみよう。……いちいちが真理であるなぁと妙に感心させられ、時折ひょいと「コヘレトの言葉」の文言の端々が脳裏を過ぎってゆくことでありました……。
 個人的に好きな一章。



 顧みればわたくしが初めてAppleのパソコンと遭遇したのは、大学生協でバイトしていた1990年代後半であった、と記憶します。Windows95が発売されてパソコンが一気に普及し、それまでに比べれば低価格なものが市場に現れてきた時分。そうしてWindows98がリリースされると、普及は一気に進んだ。
 大学生協でもパソコンは主力商品となりつつあり、春秋の新学期シーズンを見据えてメーカー各社のパソコンを生協価格で販売するようになった。当時のラインアップを思い出そうとすると、たとえばWindowsでは、一太郎搭載モデルとWord搭載モデルの2種類が揃えられていた。でも、デザイン的にはあまり食指を動かされるものではなかったし、ソフトがなければただの箱、という風にしか思えぬものばっかりで……。
 そんななかにお目見えしたのが、AppleのiMacである。いわゆるボンダイブルーというやつだ。これには目を見張りましたね。明らかに違いますもん。あの優れたデザイン! 丸みを帯びたボディの可愛らしさ! 本体カラーのヴァリエーション! そうしてなによりもその使いやすさ! ……正直、惚れていましたね。これ買っちゃおうかな、と思わなかったといえば嘘になる。
 でも、わたくしの購買欲はiMacを所有することを良しとしなかった。というのも、──やっぱりここで浮上するのが一太郎の存在であった。当時のiMacでは一太郎は使えなかった、と記憶する。Appleのパソコンで一太郎が使えるようになったのはそれから少しく経った頃である。しかも、その目論見は短命に終わった。それがためにわたくしはiMacを(泣く泣く)諦め、Windowsモデルに、富士通のFM-Vを人生初の個人所有パソコンとしたのだった……。
 あれから約15年。本ブログの読者ならご存じのように、わたくしはようやくMacユーザーとなった。しかも2ヶ月程度で2台持ちなんて贅沢をする身分にまでなってしまった。むろん、これはワーグナーのように必要にして切実なる贅沢であるから、特に文句の言われる筋合いもない。
 Macとの初遭遇、それはとても衝撃的で、甘酸っぱいものだった。◆

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第1672日目 〈知恵の書第1章:〈義を愛せよ〉、〈死は罪の結果〉他withバトーの言葉〉 [知恵の書]

 知恵の書第1章です。

 知1:1-5〈義を愛せよ〉
 君主たちよ、神の正しきことを尊び、すこやかな心、まっすぐな心で主を想い、求めよ。けなげに主を慕う人はみな主を見出し、主を信じる人の前に主は自分を示す。
 知恵は神の賜物。不実な魂に知恵は宿らず、罪なることを企む体に知恵は住まない。人を教え導く霊は、偽りや愚行から隔たりを置き、不正を厭う。

 知1:6-11〈神は人の言葉を知り尽くしておられる〉
 知恵は人間の心を慈しみ、神を汚す者を赦さぬ。なぜならば、人が心のなかでなにを、どのように考えているかを正しく把握していて、人間の操るすべての言語を知っているから。
 「不義の言葉を口にする者は/身を隠すことができず、/義の懲罰を逃れることもできない。/神を信じない者のたくらみは暴かれ、/その言葉は主の耳に達し、/その不法は懲らしめられる。」(知1:8-9)
 主の霊は全地に満ち、あらゆる言語を知っている。悪口は慎むことだ。ひそひそ話だって、聞かれたらただでは済まない。偽りを口にすることは、魂を滅ぼすに等しいのだ。

 知1:12-16〈死は罪の結果〉
 義を愛する人たちよ、道を踏み外して死を招き寄せるな。自分の行いゆえに滅びを引き寄せるな。死は神の被造物にあらず。死は神の喜ぶところにあらず。
 神により創造された万物のなかに、滅びをもたらす毒はない。他に代わって黄泉がこの世を支配することもない。
 人よ、知れ。義は不滅である。
 「神を信じない者は言葉と行いで自らに死を招き、/死を仲間と見なして身を滅ぼす。/すなわち、死と契約を結んだのだ。/死の仲間としてふさわしい者だから。」(知1:16)

 義には恵みを、不義には裁きを以て応える。創世記の時代から、悠久の時の流れのなかで途絶えることなく続いた、神なる主の一貫した理念であります。それを語る、始まりの章。



 「思い出をその記憶と分かつものはなにもない。そしてそれがどちらであれ、それが理解されるのは常にあとになってからのことでしかない」
 『攻殻機動隊』シリーズの一編、映画『イノセンス』に於けるバトーの台詞である。
 思い出と記憶は密接な関係にある。ときに両者は互いを侵犯し、持ち主も知らぬ間に改変されている。思い出は記憶をつなぎ止めて再構成し、記憶は思い出を糧にして留まり続ける。
 共通項はただ一つ、どちらも本性は残酷である。いつまでも記憶に残り続ける。思い出は色褪せない。──それがどれだけの苦しみを生むか、世人はご存じか?
 忘れられるものなら忘れてしまえ。いつまでも覚えているより、そちらの方がはるかに幸せだ。思いでも記憶も、この世に魂を縛り続ける鎖だ。それは呪いだ。けれど拭い去ることは到底できない、なによりもそれが家族となるはずだった人の、家族だった人の思い出と記憶であるならば。
 これについて呵々大笑できる人が心底羨ましい。◆

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第1671日目 〈「知恵の書」前夜〉 [知恵の書]

 「知恵の書」は次の「シラ書(集会の書)」と同じく、旧約聖書に於ける「箴言」の系統に属します。13の書物で構成される旧約聖書続編のうち、「知恵の書」は6番目に置かれる(新共同訳)。ほぼ中間に本書と「シラ書」という、いわゆる知恵文学が並び、その前後に広義の文学と預言書に属す書物群があることは、目次を眺めていてちょっと面白いな、と思うたところであります。こうした構成は概ね旧約聖書に倣っているようですね。フランシスコ会訳聖書では、続編に含まれる諸書は旧約聖書の系統を同じうする書物と並んで置かれております。
 覚えていらっしゃるでしょうか、「箴言」はその著者がソロモン王に仮託されていたことを。この、イスラエル統一王国第3代にして最後の王が知恵に恵まれた、聡明なる君主であったことから、斯く擬えられたのでありましょう。明日から読む「知恵の書」についても同じ現象が、実は起こっております。やはりこの書物もソロモン王の著とされ、それゆえに「ソロモン王の知恵の書」とも呼ばれます。
 では、実際のところ、「知恵の書」の著者は誰なのか。いちばん有力視されるのは、エジプトの都市アレキサンドリア在住のユダヤ人であります。本書はだいたい前1世紀頃には成立していたという。プトレマイオス朝エジプトの首都アレキサンドリアは、地中海交易を要に商業と文化の中心地として発展、栄えました。古代に於いて最大・最高を誇ったアレキサンドリア図書館も、この時代はまだ健在だった。そうして、当時のアレキサンドリアは、離散ユダヤ人の一大拠点でもありました。「知恵の書」の著者は、そんな時代のアレキサンドリアに在って、ヘレニズムの思考を吸収した、旧約聖書とユダヤ/イスラエルの伝統や思想を大切にしたユダヤ人である、と思われます。ユダヤの思考や思想に専ら拠って成った「箴言」と、ヘレニズムの影響下に成立した「知恵の書」を子細に検分してゆけば、その違いは自ずと明らかになる──そうですが、無念なことにわたくしはそのあたりについて詳しくわかる者ではないので、これ以上の発言は控えたく思います。
 書名に引きずられると内容を読み誤るケースは多々ありますが、それは本書についても然りであります。本書で語られるのは、神への信仰、その根幹にある教訓と知恵の数々。「箴言」の系統に属するからというて、人生や生活にかかわる知恵や諭しについて述べられるわけではありません。「知恵の書」は、信仰生活を送るに際して心に留めておくべき教訓や知恵について語ります。それらがイスラエル民族の歴史にどう作用したかを、縷々綴っております。それは神への讃歌であり、義の人を尊び、不義の人の愚かなることを伝える書物なのであります。
 本書は、旧約聖書と新約聖書をつなぐ輪のようなものである、と、フランシスコ会訳聖書の解題に記されております。また、ジークフリート・ヘルマンその他の人々が、「知恵の書」の文言の幾つかが新約聖書に引用されている、といいます。或る意味で「知恵の書」は旧約聖書続編のなかでいちばん、新約聖書に親近した書物といえるかもしれません。
 知恵は人間にとって無尽蔵の宝である、と「知恵の書」作者は述べます(7:14)。読者諸兄にどこまでその真なることを訴えてゆけるかわかりませんけれど、できる限り、あるだけの力を尽くそう、と思います。本書は全19章より成る。つつがなく進展すれば、まだカレンダーが7月であるうちに読了することができるでしょう。
 では明日から、1日1章の原則で「知恵の書」を読んでゆきましょう。◆

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