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第1814日目 〈エズラ記(ギリシア語)第8章2/2&第9章:〈不法な行為の発覚〉、〈律法の朗読〉他with今日は衆議院選挙の投票日──「ヴォート・フォー・チェンジ」などあってはならない。〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第8章2/2と第9章です。

 エズ・ギ8:65-69〈不法な行為の発覚〉
 その後。わたしエズラの許へ指導者たちがやって来て、民が犯している罪について話してくれた。かれらの曰く、──
 イスラエルの民は、祭司たち、レビ人たちまでが不浄を厭わず、土地の異民族の娘を妻として暮らしています。聖なる種子が土地の異民族のなかに入りこんでしまいました。これは指導者たちや高官たちも知っていながら見過ごしていることです。
──と。
 わたしは祭服と衣服を引き裂き、頭髪と髭を掻きむしり、嘆きと憤りに満たされてその場へ坐りこんだ。そんなわたしのまわりに、主の言葉に激しく心乱された人たちが来た。が、夕方のいけにえをささげるときまで、わたしはその場に坐りこんだままでいた。

 エズ・ギ8:70-87〈ざんげと嘆願〉
 わたしは引き裂いた祭服と衣服のまま、天に両手を差し伸べて主に祈った。──わたしはあなたの前に深く恥じ入っております。──
 われらは先祖の時代から、あなたに背いて犯した罪のなかにあります。「わたしたちと先祖の罪のために、わたしたちは、兄弟や王、祭司と共に地の諸王に引き渡され、剣と捕囚と略奪にゆだねられ恥辱に満ちて今日に至っております。ところが主よ、今あなたは大きな憐れみをかけてくださり、あなたの聖なる地に一つの根と一つの名をわたしたちのために残してくださいました。
 (中略)また主はわたしたちの神殿に栄光を輝かされ、荒れ果てたシオンを再興し、ユダヤとエルサレムにおける確固たる地位をお与えになりました。これほど恵まれたわたしたちです。主よ、これ以上何を求めることができましょう。」(エズ・ギ8:74-74,78-79)
 はるか昔から預言者たち、就中モーセによって告げられていたあなたの戒めを、われらは破ったのです(お前たちがこれから行って所有する地を子孫たちにまで、代々にわたって残すためにも、その土地の異民族と親しうしたり交配してはならぬ)。
 このたびの不祥事は、われらの邪悪な行いと大きな罪のゆえ。あなたは再びわれらを顧みてくださったのに、われらはまたしても過ちを犯してしまいました。土地の異民族の汚れに染まり、あなたの律法を破ってしまったのです。
 おお、主よ、見てください。あなたの前には律法に背いたわれらがいます。どうしてあなたに顔向けできましょうか──。

 エズ・ギ8:88-9:36〈民の罪の告白と反省〉
 神殿の前にひれ伏して嘆くエズラの許へ、エルサレム中から人々が集い来たった。かれらは皆一様に激しい悲嘆の声をあげている。そのうちの一人、エヒエルの子エコニアがエズラにわたしたちはイスラエルの主に背いて罪を犯し、異民族の娘を妻にしてしまいました、といった。続けて、──
 「しかし今、イスラエルには希望があります。このことについてわたしたちは主に誓いを立てるべきです。『あなたと、主の律法に従順である者との勧告に従って、異民族の女全員をその子供と共に追放する』と。さあ、すぐに実行してください。これはあなたの仕事です。」(エズ・ギ8:89-91)
──と。
 エズラは全イスラエルの祭司とレビ族の氏族の指導者たちに、これを実行することを誓わせた。そうして捕囚から帰った者たち全員をエルサレムへ集めた。一定日数を経過してもこの集会に参加しない者は、飼っている家畜を没収され、元捕囚民の仲間から仲間はずれにされた。
 ──斯くしてユダ族とベニヤミン族出身の者は全員エルサレムに集まり、エズラからこのことを聞いた。かれらはそれに賛同した。しかし季節は冬。外で一度に全員を裁くことはできないので、担当者を決めて、日を決めて、一度に裁かれる人数を決めて、それを行うようにした。
 「祭司エズラは氏族の指導者を一人一人名指して選び、彼らは第十の月の新月に事実調査のために集まった。こうして、異民族の女たちと一緒になっている者たちの問題は、第一の月の新月までに解決を見た。」(エズ・ギ9:16-17)
 ……祭司たちのなかにも、この異民族の娘を娶っていた者たちが多くいた。かれらは妻なる者と子供を自分たちの共同体から追放した。そのなかには、罪を贖うための献げ物として雄羊をささげた者たちもいた(エズ・ギ9:20)。

 エズ・ギ9:37-55〈律法の朗読〉
 そんなことがあって済んだ第7の月の新月の日、イスラエルの共同体に属する者全員が、神殿の東の門の前の広場に集まった。かれらは、大祭司にして律法の朗読者であるエズラに律法の巻物を持ってくるよう促した。エズラはそうした。
 エズラは律法の巻物を持って、皆の前に立った。左右に矜持者としてマティトヤやペダヤらが立ち、レビ人のイエシュアやアニウスらが主の律法の解説者として人々に律法の心を説いて聞かせた。エズラによる律法の朗読は夜明けから正午まで続き、人々は熱心にこれへ耳を傾け、涙を流して聞き入った。
 今日──その日は主にささげられた聖なる日である。悲しみに暮れるべき日ではない。皆、食べたり飲んだりして陽気に過ごした。貧しい者にも脂身や甘いぶどう酒が分けられ、かれらも楽しくその日を過ごした。
 「彼らは語られた言葉に納得したのである。そして彼らは再び集合した。……」(エズ・ギ9:55)

 「エルサレムの集会」と大見出しが付けられたエズ・ギ8:88-9:55は三人称となる。ゆえに昨日始まったエズラの一人称で語られる「エズラの報告(記録)」はエズ・ギ8:87までとなる。なんの説明もされないうちに人称が切り替わったり、語り手が変わることはこれまでもあったことゆえ抵抗はないが、それでもやはり唐突にそれが行われると混乱してしまうのは事実なのである、せめてなんらかの処置や説明は欲しかったところである。
 説明が欲しい、といえば、最後の最後で登場する三点リーダー(「……」)はなんなのか。凡例を見ても説明なく、一読者に過ぎぬこちらとしては困っちまう。
 しばらく並行箇所について触れることがなかったけれど、本章8:88-9:55のそれは「ネヘミヤ記」にある。ネヘ7:72-8:12が該当する箇所だ。
 なお、「エズラ記(ギリシア語)」をどこを見ても、モーセの名は登場しない。わたくしが独断でここに記した。かつて預言者によって語られた土地の異民族との雑婚を禁じる言葉は、既に「レビ記」と「申命記」にて触れられたところである。これらの書物でそれぞれ警告された言葉が編集されたものが、本書に載る。レビ18:24-28,申7:1-3がエズ・ギ8:80-82の基になった箇所。よろしければ、お読みいただくと良い。

 「エズラ記(ギリシア語)」の読書は今日で終わります。年内読了という目標を改めて意識したら、尻に火がついたような勢いで読み進めることになってしまった。読み飛ばしたつもりはないが、ちょっとおざなりになってしまった部分はあるかもしれない。が、いまは多少の瑕疵には目を瞑るつもりだ。
 読者諸兄よ、今日この瞬間を迎えられたことを幸運に思う。ありがとう。
 明日からは黙示文学に属する「エズラ記(ラテン語)」に入る。厄介な書物であるが、一歩一歩進もう。いまのわたくしには、希望がある。



 今日12月14日は衆議院選挙の投票日です──街宣車のスピーカーががなり立てる宣伝文句のようで恐縮だが、これ程告知として完成された文句には、そう滅多に出会えるものでない。
 今回の突然の衆議院選は、慌てふためいた野党の足並みの悪さと政策の準備不足VS与党の余裕綽々ぶりと練りこまれた選挙主眼という、明暗くっきりとした構図が浮きあがった。記憶にある限りでいえば、かつてこれ程までに野党の無策無体ぶりが露呈された選挙も稀なのでは? 参議院選挙まで念頭へ置いて考えてみても、今回以上に野党の浅はかさを痛感させられた選挙もなかったように思う。
 明日の衆院選について、たとえば文化人や一部芸能人、或いはSNS上で現政権の暴走を危惧し、種々の法案、就中集団的自衛権と消費税増税をターゲットにした危惧ともなんともつかぬご意見が横行している。そのお考え自体はたしかに──それなりに──発言者の正義と私見を明瞭にしたもので、内一部については評価もできる。
 が、それだけ危惧を申し立てているにもかかわらず、その人の政治的スタンスは一向に見えてこない。現政権が内包する「怖さ」をやたらと強調するばかりで、ではあなたの真情はどこにあるのか、政治的スタンスはなにか、もっと突き詰めていえばあなたはどの党に、誰に一票を投じるつもりなのか、そこまでの気概も覚悟も、片鱗すら見えて来ない以上、単にネット上のデブリにしか思えぬ。もっと自分の意見をさらけ出せよ!!
 未だ日本は二大政党制が確立していないせいもあって、なかなかアメリカや諸外国のような政権選択肢の存在する選挙ができていない様子だけれども、自民党以外の政党のあまりのお粗末さを伺い見ている限り、間違ってもこの国に斯様な選挙システムは生まれることもないだろう。
 民主党が政権を担ったときは期待した者もあったかもしれぬが、結果は皆様ご存じの通り。勿論、甘い言葉に惑わされてこの連衆にへ票を投じた、或いは周囲のムードに流されたまま投票した有権者にも、幾許かの責任はある。それはともかく、斯くして有史以来日本最悪の時代が誕生し、同盟国の信頼を失い、隣国がわが物顔でのさばることを許した暗黒の時代が到来した。
 第2次安倍政権はその尻拭いをさせられて、見事に鳩山−菅政権の汚点を修繕した。民主党の愚劣な政治を経験してしまった以上、この国に二大政党制なんて夢のまた夢であることがはっきりと分かった。そうして、自民党に代わって政権を担うだけの能力と人材を揃える政党が、実際の所どこを見回してみても存在しないことも、今回の選挙期間を通じて明らかになった。
 一部報道やSNSの個人的意見に惑わされることなく、明日はたとえ最大級の寒気に見舞われたとしても有権者は己の責任を果たしに行け。危険は卑怯者の選択肢だ、そんなことをする奴に政治や未来についてとやかく語る資格はないと知れ。 
 わたくしは自民党に、その候補者に自分の一票を投じる。◆

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第1813日目 〈エズラ記(ギリシア語)第8章1/2:〈エズラの登場〉、〈エルサレムへの帰還〉他withウッドハウス描く超弩級ののどかな世界に助けられている。〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第8章1/2です。

 エズ・ギ8:1-7〈エズラの登場〉
 第二神殿が完成し、奉献も済んだあとのエルサレムにエズラがやって来る。かれはレビ人、ピネハスの一族に連なる。ペルシア王アルタクセルクセス王によって派遣されてきたのだ。エズラはアルタクセルクセス王第7年の第1の月の新月の日、第2次帰還団といっしょにバビロンを発ち、同じ年の第5の月の新月の日にエルサレムへ到着した。
 かれは、律法に精通した書記官としてエルサレムへ上ってきた。「学識豊かなエズラは、主の律法と掟を一項たりともおろそかにせず、全イスラエルに定めと裁きの一切を教えた。」(エズ・ギ8:7)

 エズ・ギ8:8-24〈アルタクセルクセス王の勅令〉
 帝都スサのアルタクセルクセス王からエルサレムのエズラへ勅書が届けられた。その写しに曰く、──
 いま、わが国内にいるユダヤ人のうち希望する者あらば、あなたはかれらをユダヤ/エルサレムへ連れ帰ってよい。その際、ユダヤとエルサレムの現状が律法に書き記されている通りか、調査してみよ。エルサレムの神殿にていけにえや奉献品が律法に従ってささげられているか、調査してみよ。
 わたしは、かつてバビロニア王ネブカドネツァルが略奪した神殿の祭具類をお前たちに返還する。これを神の御前に安置せよ。なお、神殿で使うのに必要なものは、いずれも国庫からの支払いとなる(但し、品によって上限額あり)。
 「神の律法の書に従って行うことはすべて、至高の神のために細心の注意を払って行え。王とその子孫の国の上に神の怒りが臨まないためである。」(エズ・ギ8:21)
 また、以下の者たちからは税を徴収することも、貢ぎ物を受け取ることもしない。対象となるのは、祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿の使用人及び神殿で働く者たち。
 エズラよ、あなたは神の意志に従い、シリアとフェニキア地方の住民から裁判官と判事を任命せよ。あなたの神の律法を心得るすべての者のため、律法に通じた裁判官と判事を任命せよ。

 エズ・ギ8:25-27〈感謝の言葉〉
 主のみこそ幸いなれ。王の心に斯くの如き思いを起こし、多くの人の前でわたしに名誉を与えてくれた。

 エズ・ギ8:28-40〈同行の帰国者〉
 わたしは、父祖の地への帰還を臨む多くの同胞といっしょに、バビロンからエルサレムへ上ったのである。エルサレムへ帰還したその数、1,704人。

 エズ・ギ8:41-48〈神殿奉献者の招集〉
 かれらとわたしは3日間、テラの河畔に宿営した。そこでわたしが気附いたのは、今回の帰国者のなかに祭司族の者もレビ族の者も、1人としていない、という事実だった。
 そこでわたしは指導的地位にあって知恵に優れたる人々、即ちエレアザル、イドエル、マアスマン、エルナタン、シェマヤ、ヨリブ、ナタン、エナタン、ゼカルヤ、メシュラムの許へ使いを出し、かれらが王室財務担当の管理アダイにと接見して、われらの主のため神殿で祭司の職務を果たしてくれる者たちを選んで、宿営中の第2次帰還団に加わらせるよう促した。
 そうして選ばれて合流したのが、レビの子マフリの子孫で特に知恵に優れた者たちであった。その数、284人。

 エズ・ギ8:49-53〈旅の安全の祈願〉
 わたしはテラ河畔でかれら全員に、道中の安全を主へ祈るよう求めた。
 第1次帰還団のときと異なり、今回は護衛の歩兵や騎兵たちの同道を要請するのは憚られた。というのも、わたしは既に、アルタクセルクセス王にこう申しあげていたからだ。曰く、──
 「主の力は、主を求める人と共にあって、常に正しい方へ導かれる。」(エズ・ギ8:52)
──と。
 われらは旅路の安全を主に願い、主の憐れみを得た。

 エズ・ギ8:54-59〈祭具類とその運び手〉
 わたしは返還された祭具類の運び手として、祭司の家系の長たちのなかから12人、シェレブヤとハサミアとその兄弟たちから10人の男子を選んだ。そのあと、祭具類の重さを量り、22人の運び手に向かって、これらの祭具類はエルサレムにいる祭司とレビ族の長、イスラエルの各部族の長に、神殿の祭司質で引き渡す品なので心して運ぶように、と言い含めた。
 「こうして祭司とレビ人は金と銀、および本来エルサレムにあるべき祭具類を主の神殿へ運ぶことになった。」(エズ・ギ8:59)

 エズ・ギ8:60-64〈エルサレムへの帰還〉
 わたしエズラと第2次帰還団は、アルタクセルクセス王第7年第1の月第12日にテラ河畔を出発し、同年第5の月の新月の日にエルサレムへ到着した。主の力強い助けにより、敵に襲撃されることなく無事に都へ入ることができたのだった。
 到着して3日後、金と銀は量り直されてから神殿にて祭司メレモトへ引き渡された。その場にはピネハスの子エルアザル、イエシュアの子ヨサブド、サバンの子モエトが立ち合った。
 第2次帰還団の元捕囚たちは、イスラエルの神なる主のためいけにえをささげた。また、王の勅書を王の財務官とコイレ・シリアの長官、フェニキアの長官へ手渡した。そうして、この民族と主の神殿の栄光を讃えたのである。

 エズ・ギ8:25から明日読むエズ8:87までは、書記官にして祭司、律法の朗読者であるエズラの一人称となる。<エズラの報告>、<エズラの記録>など呼ばれる由。
 ヘブライ語「エズラ記」の並行箇所は第7-8章となる。小見出しの数に惑わされているのかもしれないが、ヘブライ語「エズラ記」の方が流れはずっとスピーディーで、枝葉末節が殆どない。枝葉末節とは相応しくない表現かもしれぬが、その分、ギリシア語「エズラ記」は描写がより生彩かつ詳細、具体的で、しかも豊かさと奥行きが増していて、その分読み応えを感じるところでもある。
 ノートの手間はかかるし、読書中にすこしでも意識がそれると「あれ?」となるときもないではない。それだけ集中を求められると言い換えてもよいが、斯様なことありと雖も個人的には読んでいて楽しいのは、何年も前に読んだヘブライ語よりもこちら、ギリシア語「エズラ記」なのである。おかしいかな?



 ウッドハウスを読み耽っているのは相変わらずのことなれど、超弩級ののどかさがふわふわ漂っているこの人畜無害、底抜けに脳天気、極めつけの春風駘蕩ぶりに、いつの間にやら搦め捕られてしまっていて、最早これなくして汚濁末法のこの世を生き抜くことはできそうもない。
 しかしながら──数日前に書いたことの早くも焼き直しのようで恐縮かつ恥ずかしいのだけれど、だがこの数日というものウッドハウスの小説を読んでいるからこそどうにか精神の平衡を保てているのだ、と感じること頻り。仕事の上でも、私事であっても、本ブログに於いても、それは然りだ。
 読んでいて楽しいとはいえ、目下目の前に迫ったタイムリミットを意識せざるを得ない状況にある本ブログである。明日からは「エズラ記(ラテン語)」という、素手で挑んでゆくより他ない書物の読書が2週間強にわたって開始される。精神的圧力は相当のものである。へこたれそうだ。意思をくじかれて挫折するかもしれない。
 そんなわたくしの気持ちの支えになっているのが、ウッドハウスの小説なのである。これなくして云々とはあながち誇張でもなんでもないことを、読者諸兄にはここで一つご理解いただきたいのだ。つくづくこんなときに読んでいるのが他の小説家の作品でなくて良かった、と思うのである。
 そろそろ終電の時間である。今宵はここで「ちゃお!」としよう。◆

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第1812日目 〈エズラ記(ギリシア語)第7章:〈神殿工事の完成〉&〈神殿の奉献〉withみくらさんさんか、トンカツ屋に思いを馳せる。〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第7章です。

 エズ・ギ7:1-5〈神殿工事の完成〉
 王の勅令に従ってシシネとシェタル・ボゼナイはユダヤ人を助け、工事の監督にあたった。
 工事は、2人の預言者の励ましもあって順調に進んだ。そうしてこの第二神殿はダレイオス王第6年、アダルの月の23日に完成したのである。

 エズ・ギ7:6-15〈神殿の奉献〉
 イスラエルの子ら、即ち祭司もレビ人も帰還民の全員が、モーセの律法の書に従って神殿奉献の手続きを進めた。このための献げ物として、雄牛100頭と雄羊200匹、小羊400匹が用意され、また、全イスラエルの罪の贖いのために12部族の長の数と同じ12匹の雄の子山羊が供えられた。祭服を着た祭司たち、レビ人たちが、モーセの律法の書に従って各部族毎に主のための祭儀を行った。門衛たちもその任に従い、それぞれの門を守った。
 第1の月の14日、イスラエルは過越祭を祝った。
 「捕囚からの帰還者全員が清めを行ったわけではなかった。しかし、レビ人たちは全員が清めを行い、兄弟の祭司たちや自分たちをはじめ、捕囚から帰った者たち全員のために過越のいけにえを屠った。イスラエルの子らの帰還者たちは、だれ一人この地の異民族の偶像に近づくことなく、全員が主を求めて、過越の食事をとった。彼らはまた、主の前で喜びつつ、除酵祭を七日間祝った。」(エズ・ギ7:11-14)
 これらのことができたのも、イスラエルの神がアッシリア王の気持ちを改めさせ、主の家の工事を支援したからである。

 エズ・ギ7:15「アッシリア王」とはなにか。むろん、北王国イスラエルを滅亡させたあのアッシリアではない。ここでいうアッシリアとはメソポタミア地方全域を指す語であり、即ち歴代ペルシア王、本書に於いては就中ダレイオス王をいう。旧約聖書に収められるヘブライ語の「エズラ記」第6章第22節に於いても、「アッシリアの王」てふ表現は出る。
 様々な妨害はあったと雖もエルサレムの第二神殿はここに落成した。かつてソロモン王の時代に築かれてバビロニア軍による王都陥落の時まで、その姿を誇った第一神殿を記憶に焼き付けていた生き残りが完成した第二神殿に接したとき、かれらのうちに湧き起こった喜びは如何ばかりのものであったろう。
 おお、諸君、知れ。これが信仰の復活した瞬間だ。魂の底から途轍もない勢い(パワー)で外へ向かい、と同時に深閑として透き通るような敬虔が感じられる。この様子を一言で言い表すなら、まこと単純ながら<歓喜>としか思い当たらぬ。



 職場近くの和幸でW和幸御飯を食べたらお腹いっぱい、動くのが面倒臭くなり会社に戻るのがかったるくなった経験を持つみくらさんさんかです──眠気が吹き飛ぶぐらいに忙しい日の昼食である──。いや、久しぶりに食べたけれど、やはりここのトンカツは美味いですな。筋の通った味だ。プライドを感じます。
 和幸かさぼてんか、と訊かれたら、わたくしは躊躇なく和幸の味に与する者だ。「理由? 知らなぁい」とはかつてこの世に存在した天使級のアイドル、向田茉夏が残した名台詞であるが、和幸に軍配をあげる理由を訊かれてさすがに「知らない」とは言い逃れられない。
 どうしてか、といえば、さぼてんよりも和幸の方が馴染みあるからです、というのがすこぶる大きな理由なのだけれど、それ以外に理由を考えるとしても、無理矢理頭をフル回転させてみたってそうすぐには思い浮かばないのが正直なところ。
 こんな風にして、これまで殆ど考えたこともない理由について考えているうちに思い至るのは、どれだけ良い肉を使っていても、揚げ具合が文句なしの状態であっても、どれだけ衣がさくっとしていても、ソースに絶妙なコクがあったとしても、やっぱり自分のなかでは和幸って第3位のポジションを占めるに過ぎないのかなぁ、ということ。
 決してナンバー・ワンにはなれないし、それへ迫る位置に昇格できるわけでもない。新しいトンカツ屋を開拓したらその地位は脅かされて降格する可能性も否定はできない店、和幸。知名度は(おそらく)全国区ながらちょっぴり幸薄いのは、有名店で各地に支店を持つがゆえのハンディかも。
 ──でもねぇ、ふとこの店の看板が目に触れたとき、子供の頃からの持病の一つである<トンカツが無性に食べたい病>が即効で発症、そのまま無視しようとすれば強烈な罪悪感と深い後悔に襲われることは必至。こんな感情が湧き起こるのも、比較的あちらこちらにある店だからこその技かもしれぬ。だって、自分にとっての絶対的トンカツ屋センターの某店や東京都内にあって唯一通いたいと思えるトンカツ屋の看板なんて、町中を歩いていてふとした拍子に目に付いた例しはないもの。うぅん、全国展開の店ってやっぱり凄いな。
 ──こんなことを書いていたら、お腹が空いてきた、無性にトンカツが食べたくなってきた。が、いまは21時44分。今日はもう無理か。お楽しみは先に延ばすより他ない時間だ。
 というわけで、また今度行くね、職場近くの和幸!◆

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第1811日目 〈エズラ記(ギリシア語)第6章:〈神殿工事の再開と干渉〉、〈王による調査と返事〉他with『あまちゃん・総集編』後編を観る:ユイちゃんの叶った夢。〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第6章です。

 エズ・ギ6:1-6〈神殿工事の再開と干渉〉
 ダレイオス王第2年。この年、6月と8月に相次いで預言者ハガイとゼカリヤが現れて、神殿再建に精を出すユダヤ人たちに主の言葉を伝えた。「今、お前たちは、この神殿を/廃墟のままにしておきながら/自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。」(ハガ1:4)
 「わたしは、あなたたちと共にいる。」(ハガ1:13)
 これを聞いたシェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアが敢然と立ち、他の人々といっしょに神殿建設の工事に着手した。2人の預言者もこれに参加した。
 ──シリア地方とフェニキア地方の総督、シシネとシェタル・ボゼナイがエルサレムへ来たのはこの頃である。お前たちは誰の命令でこの建物を造っているのか。この建物を造っているのは誰であるのか。
 が、主なる神が帰還民を顧みたのでユダヤ人の長老たちは恵みを得た。地方総督はダレイオスに宛てた報告の返事が届くまで、神殿の再建工事は継続された。

 エズ・ギ6:7-21〈長官たちの報告〉
 帰還したユダヤ人たちの行動が、シシネとシェタル・ボゼナイによって帝都のダレイオス王へ報告された。それに曰く、──
 私たちはユダヤへ行き、エルサレムに入りました。そこで目にしたのは、誰の許可を受けたかもわからないような建物の工事をユダヤ人が行っている光景でした。私たちがこれについてユダヤ人の長老たちに問い質したところ、かれらは自分の神である主のための神殿を建てているのだ、と答えました。
 続けて、いったい誰の命令でこの作業を行っているのか、と問い質すとかれらがいうことには、かつてバビロニア王ネブカドネツァルによって破壊されたこの神殿を、元あった場所に建て直すよう命じたのはわれらペルシアの王キュロス2世である、とのことでした。かれらはこうもいいました。神殿の基礎を据えて以来、今日まで建築作業は続けられているが未だ完成には至っていない、と。
 どうか陛下。バビロンの記録湖に保管される文書を調査して、事実関係をお調べください。そうして、結果を私どもに教えてください。
──と。

 エズ・ギ6:22-33〈王による調査と返事〉
 総督2人からの報告を承け、ダレイオス王はさっそくこの件についての調査を行わせた。すると、キュロス2世時代の記録文書が見附かり、こう記されていた。
 キュロス王第1年。ユダヤ人の捕囚解放を王が宣言し、エルサレムの神殿再建をも命じる。バビロニア王ネブカドネツァルが略奪した神殿の祭具類はすべて、それらが元あった地へ返納する。「そこは絶えることのない火によって、人々がいけにえを献げる場所である。」(エズ・ギ6:23)
 ──ダレイオス2世は、シリアとフェニキアの地方総督シシネとシェタル・ボゼナイに勅令を発した。その場所へ立ち入るべからず。工事が滞りなく進捗するよう配慮せよ。かれらが必要とするいけにえをコイレ・シリアとフェニキアからの貢ぎ物の一部から支給せよ。祭司たちが日々必要とする油や小麦、酒など毎年必要とする分を、お前たちは四の五のいわずに支給せよ。これらの処置はわれらペルシアの王と臣下のためであり、いと高き神にぶどう酒の献げ物がささげられて長寿を祝う祈りがささげられるためでもある。
 これはわたしダレイオス王の勅令である。背く者、無視する者、ユダヤ人に危害を加えたり作業を妨害する者あらば、かの地で御名の唱えられる神なる主により滅ぼされよ。

 預言者ハガイとゼカリヤが出た。預言書の内容として、神殿再建にかかわる言葉を民へ伝えたのはハガイである。作業にあたる人々を発憤させる起爆剤的役割を、(結果として)ハガイは担っていたのかな、と、「ハガイ書」と「ゼカリヤ書」をこの機会に再読したあと「エズラ記(ギリシア語)」を読むと、そんな風に見えてくるのだ。
 ──すこし昔に起こった事件や出来事ですら忘れ去られてしまうことは古今東西変わらぬようである。キュロス2世による捕囚解放、ユダヤ人の帰還とはその時代のエポック・メイキング的出来事、そこそこ話題になったニュースと思うのだが、それでも世代が変わればたちまち忘却の底に沈み、風化してしまう。
 ただ、この捕囚解放と帰還がエポック・メイキング的出来事と考えるのは、それから数千年後の時代を生きるわれらが聖書や歴史書を通じて知るからだ。当時にあってそれはペルシア帝国全127州或いはその周辺地域にあまねく知れ渡るニュースであったろうか。また、津々浦々に知られる程の情報伝達ネットワークが構築されていたか。たとえ<王の道>と呼ばれる国道があり、相応に交通網も整備されていたとしても、帝国領民がそのニュースに触れるのは実際のキュロス王の布告からずっと経った頃であろう。
 そんなことを考え始めると、地方総督シシネとシェタル・ボゼナイやその他の同僚たちがユダヤ人の作業の根拠を知らず、ダレイオス王もわざわざ記録庫を引っ繰り返さねば理由を確かめ得ぬのも宜なるかな、と思うのである。
 わたくしは聖書をずっと読んできた者でもないし、キリスト者でもなく教会に出入りした者でもない。またオリエント史の研究者でもなければ、それを専門で学んだ者でもない。ゆえに勉強の余地は非常に多く残っているし、聖書やオリエント史を知る人からすれば誹られるようなことも書いていよう。だから、いったん聖書読書が「ヨハネの黙示録」で終わったあとは歴史書などを再読して、も少しきちんとした読み方ができるようになりたい、と願っている。



 『あまちゃん・総集編』後編をようやく観る。こうやってダイジェストされると、橋本愛演じるユイちゃんの不運と面倒臭さが際立ってきますね。そんな山あり谷ありの10代を経験する足立ユイを演じられるのは、底知れぬ実力を持つ橋本愛しかいませんでしたな。
 このドラマは、ユイちゃんが挫折を経験して立ち直り、前に一歩を踏み出すことが裏テーマだったのではないか。昨年の紅白歌合戦での真の最終回は、そんなユイちゃんの夢が叶った一世一代の晴れ舞台。震災の夜、アキちゃんに電話しながら夜の線路をとぼとぼ歩く姿が、NHKホールのステージ上の彼女とかぶって見えて、胸が圧し潰されるような思いになるよ。
 うーん、涙腺が崩壊しちゃうじゃないか、もう!◆

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第1810日目 〈エズラ記(ギリシア語)第5章:〈帰還部隊の編成〉、〈キュロス王の時代に帰還した者の名〉他with研究施設よりもApple Storeが先なのでは?〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第5章です。

 エズ・ギ5:1-6〈帰還部隊の編成〉
 7日にわたった祝いが済んで、いよいよエルサレム/ユダへ帰還する準備が本格化した。
 まず部族ごとに家長が選び出され、妻や子供、奴隷、家畜を連れてエルサレムへ上ることになった。この帰還団はダレイオス王が貸与した1,000人の騎兵に守られ、ペルシアの人々に祝福されて、一路エルサレムへと出発した。
 このとき、先導部隊としてエルサレムへ向かった家長は、イエシュア、ペレツの一族、ダビデの血を引くゼルバベルの子ヨアキム。そうしてアロンの子ピネハスの一族である祭司たちだった。

 エズ・ギ5:7-45〈キュロス王の時代に帰還した者の名〉
 以下はキュロス2世の時代にエルサレム/ユダへ帰還した元捕囚の者らである。かれらを率いた氏族の長の名を、ゼルバベル、イエシュア、ネヘムヤ、ザラヤ、レサヤ、エネニ、モルドカイ、ベエルサル、アスファラス、ボロリア、ロイム、バアナという。
 かれらに率いられて、むかしカナンと呼ばれていまはユダと呼ばれる地へ、そうしてかつての王都エルサレムへ帰った民の総数は27,947人となる。
 他に、神殿に携わる者として、祭司4,288人、レビ人74人、詠唱者148人、門衛139人、神殿の使用人とソロモンの使用人の一族が総計372人いた。
 また、バビロン以外の捕囚地からエルサレムへ来たけれども、自分たちの家族や血筋がイスラエルに属するか確かめられなかったり、祭司職を要求しても系図に自分たちの家族や血筋を見出せなかったため祭司の務めを果たすことを拒まれた一族もあった。
 12才以上の者で、男女の使用人を除くイスラエル人は、総計42,360人いた。ちなみに男女の使用人は7,337人、竪琴弾きと歌い手は合わせて245人である。家畜は、らくだ435頭、馬7,036頭、らば245頭、ろば5,525等だった。
 エルサレムへ到着すると、それぞれの住まう所が定められた。祭司とレビ人、民のなかから選ばれた人たちはエルサレムとその郊外に住んだ。詠唱者や門衛、イスラエルのすべての民は自分たちの村に住んだ。

 エズ・ギ5:46-52〈祭壇の建設と献げ物〉
 斯様にして故郷へ腰を落ち着けたイスラエルの子らは、第7の月になると、エルサレムの東にある第一の門の前の広場へ全員集まった。というのも、ヨツァダクの子イエシュアとダビデ王の血に連なるシェアルティエルの子ゼルバベルが、主にいけにえをささげるための祭壇をそこに用意したからだ。これは、モーセの律法の書に従って焼き尽くす献げ物をささげるためである。
 と、そこへその地に住む異邦の民もやって来て祭壇を築いた。ユダヤ人への敵意ゆえの行動だった。
 ユダヤ人は規定に従って朝に夕に焼き尽くす献げ物をささげ、仮庵祭を執り行い、そのために必要ないけにえを毎日ささげた。また、日ごとの焼き尽くす献げ物、安息日、新月、聖なる祝祭日のいけにえを、そこでささげた。
 第7の月の新月の日からかれらはきちんと献げ物をささげ始めたのである。が、神の聖所はまだ建っていない。

 エズ・ギ5:53-62〈神殿建築の準備と聖所の土台〉
 ──やがて神殿の建築工事が始まった。レバノンからは建材であるレバノン杉が運びこまれた。
 かれらがこの地への帰還を果たした2年目の第2の月の新月の日に神の聖所の土台が据えられた。建築職人は主の聖所の建設に専念した。レビ人は楽を奏し、賛美歌をうたった。──主の慈しみと栄光は全イスラエルに永遠に留まる。──
 神殿の棟上げの日が来た。バビロニアによって蹂躙、破壊される前の神殿をその目で見たことのある長老たちは、主の御名を唱え、涙を流し、喜びの叫び声をあげた。──民の泣き声は上棟を祝うラッパの音をかき消す程大きかったが、それでもそのラッパの音は遠くの方まで響いたのである。

 エズ・ギ5:63-68〈近隣の民の申し入れ〉
 大勢の者が吹き鳴らすラッパの音は、ユダとベニヤミンの敵の注意を引くにじゅうぶんだった。あれはなにか? 捕囚から帰ってきたユダヤ人どもが自分たちの神のための神殿を建てているのだ。
 連衆はエルサレムへ行き、ゼルバベルたちに協力を申し出た。われらもあなたたちの神にいけにえをささげているのだ、手伝わぬは道理に背く行いであろう。
 勿論、この申し出をゼルバベルやイエシュア、家長たちは拒んで退けた。なんとなれば、われらはキュロス2世の命令により、自分たちだけでわれらの神のための神殿を建てるのだから、と。

 エズ・ギ5:69-70〈工事の妨害と嫌がらせ〉
 これを聞いた、この地に住む異邦の民はむかっ腹を立てた。そうして様々な手段を用いてユダヤ人の士気を低下させ、工事の進展を妨げた。
 結局、第二神殿の建築はキュロス2世の存命中からダレイオス2世の治世までの2年間、中断されたのだった。

 昨日の<捕囚解放前夜>を承けていよいよ帰還団の出発である。煩雑さを避けて、一族ごとの人数や自分たちがイスラエルの家に連なることを証明できない者たちの名など、諸々省いたことはかつてヘブライ語の「エズラ記」に於いて採用した方法と同じだ。
 本章を読んでいて特に引っ掛かるところがあるとすれば、エズ・ギ5:70「二年間」という箇所である。ない知恵を絞って考えてみたけれど、どうにも説明が付かない。説明が付かない、というか、合理的解釈ができない。
 わが国の古典文学では時折見掛けることだけれど、筆写を重ねてゆくにつれて文章に異同が生じたり、錯簡が発生したり、文章が脱落したり、もっと小さな所で一語の筆写ミスなど、種々のヒューマン・エラーは或る古典が読み継がれてゆく経緯とけっして無縁のものではない。
 聖書に於いてもそれは然りで、となればこのエズ・ギ5:70「二年間」も「二」の前後に特定の数字があってそれが早い段階で脱落してそのまま今日に伝わったであろうか、との推測もできる。
 真実はまったく異なるのかもしれないけれど、いまわたくしが、なぜだろう、と考えて唯一納得できる解釈は、上記のようなものなのだ。──もっともこんな解釈、日本の古典文学の研究にどっぷり浸かっていた時代の産物、思考の賜物というべきなのかもしれないけれど。
 ──今日は久しぶりに長いノートになった。これの原稿を書いているときは、ずいぶんと悩ましい気持ちを玩んだものだ。が、いまとなっては「ああでもない、こうでもない」ともがいたことも良き思い出。過ごした時間はとても充実していた。



 2015(平成27)年早々に、横浜のみなとみらい地区にAppleの研究施設ができるそうです。今夕最大規模のニュースとして(一部Appleユーザーにとって)駆け巡った感のある報道ですが、横浜生まれの横浜育ち、Appleユーザーの1人、MM地区にある職場に通う者としては、なんとも微妙な湯加減のニュースが安倍首相や菅官房長官(MM地区って選挙区だよね?)から発表されたものだなぁ、と思うている。
 加えて、その報道に浮かれている<横浜大好き人たち>の根拠不明な歓迎ムードが、今一つよく理解できない。そこに連なるAppleユーザーたちまでが脳天気に喜んで、嬉々としたコメントをSNSやブログで公開している。
 SamsunやLenovoの施設も存在する横浜に、今度はApple。「……で?」という反応が、それを知ったときの正直なところである。すくなくとも、両手を挙げて「ようこそ!」と口にする気にはなれない。
 研究施設が日本にできることは喜ばしいことだろうし、誘致した側も誘致された側もメリットはあるのだろう。が、個人的には「研究施設よりもApple Storeの建設の方が先だろ!」と叫びたいわけでありますよ。Apple Storeのない地方都市に研究施設が来られてもねぇ。片手落ちの感は否めません。
 もっとも、この研究施設の一部が一般に開放されて、そこにApple Storeが併設される、というなら話は別ですけれど。◆

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第1809日目 〈エズラ記(ギリシア語)第4章2/2:〈若者の本当の願い〉、〈王の布告〉他with間もなくサンタさんの日がやって来る──!〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第4章2/2です。

 エズ・ギ4:42-46〈若者の本当の願い〉
 語り終えたゼルバベルに向かって王がいった。若者よ、お前こそ3人のうちで最も賢い者だ。お前の望むものを与えたい。さあ、本当の望みをいうがよい。
 ゼルバベルはいった。どうか陛下、即位の日にされたわれらの先祖の都エルサレムと破壊された神殿の再建の誓いを思い出してください。かつてバビロニアが奪っていまも倉庫に保管されている祭具類をお返しください。
 続けて、「主にして王であられる陛下、これがわたしの切なる願いであり、陛下の寛大なお取り計らいをいただきたく存じます。どうか、天の王に果たすと御自身の口をもって誓われた誓いを、果たしてくださるようお願いいたします」(エズ・ギ4:46)と。

 エズ・ギ4:47-57〈王の布告〉
 ダレイオス王はこのユダヤ人の若者のため、すべての財務官、地方総督、指揮官、太守たち、またコイレ・シリアとフェニキアに駐在する地方総督全員とレバノンにいる地方総督全員に宛てて、それぞれ親書を認め、指示を出した。
 財務官や指揮官たちには、エルサレム再建の途につくユダヤ人たちの道中の安全を要請した。コイレ・シリアとフェニキアに地方総督には神殿再建に必要なレバノン杉の輸送と、エルサレム並びに神殿の再建に協力するよう指示した。
 また、父祖の地へ帰還するユダヤ人の自由を保障するため、幾つもの指示を文書で与えた。その内容は以下の通りである、──
 ・帝国の官僚は何人であれユダヤ人の住居へ立ち入るな。
 ・現在イマドヤ人が所有するユダヤ人の町はすべてユダヤ人に返還せよ。
 ・今後ユダヤ人が手に入れるすべての土地に税は課されない。
 ・神殿建築の補助金として毎年20タラントンを、完成の年まで支給する。
 ・かれらが規定に従って行う焼き尽くす献げ物のため、毎年10タラントンを支給する。
 ・エルサレム再建のためバビロニアを出てエルサレムに向かうユダヤ人全員へ自由を与える。
──と。
 王はエルサレム再建、神殿再建にかかる諸々についての経済的援助を約束したのである。

 エズ・ギ4:58-60〈若者、主をほめたたえる〉
 ゼルバベルは王の前から退出すると、天を仰いでイスラエルの神なる主を讃えた。
 「勝利と知恵はあなたからのもの、栄光はあなたのもの。」(エズ・ギ4:59)

 エズ・ギ4:61-63〈バビロンの兄弟たちの喜び〉
 ゼルバベルは王からの親書を手にして、バビロンへ赴き、その地の同胞に王の決定と言葉を伝えた。ユダヤ人はこれを喜び、7日にわたって盛大にこの慶事を祝った。

 これはヘブライ語「エズラ記」にはなかった一連の挿話である。いわば<捕囚解放前夜>だ。このことがあって王はユダヤ人をかれらの父祖の地へ送還することを決めた、というが、これはこれでまた疑問の残る箇所である。ダレイオス王の御代(今回のノートでは便宜上「知性」という語を借用している)に捕囚は解放された、としか、浅学非才のわたくしには読めないのだ。外典なるがゆえにそのあたりの整合性は取れなくてもいい、というのであれば、果たして如何なる理由あって斯様な改変が本書では為されているのか。皆目というていい程見当が付かぬ。それとも、もうちょっとちゃんと、参考文献にあたって精読すれば解決する疑問なのかな。
 それにしても、〈王の布告〉に載るダレイオス王の指示はあまりに寛大で、なかば呆れてしまう。これは当時の政策として当然の内容だったのであろうか。それとも、「エズラ記(ギリシア語)」執筆にあたっての著者の誇張か。誇張であってもそれはなんらかの根拠を持つのか、それとも(言い方は乱暴だけれど)事実無根の創作か。この指示内容が概ね事実で、しかもユダヤ人だけが特に寛大な措置をされたならば、やはりそこにどのような意図や目的があったのか、と考えてしまう。ふむぅ。
 なにやら今日の本ブログは、答えのない質問に終始しているようであるが、こうした疑問にぶつかるたび、良き相談相手や導き手のいないことを侘しく思うのである。あらまほしきは先達なり、とはよくいうたものだ。



 えーとですね、間もなくサンタさんの日だそうです。
 職場のまわりにたくさんイルミネーションや絢爛豪華、なかにはなにかをトチ狂ったようなものも混じりますが、クリスマス・ツリーが幾つもそびえて存在を主張してます。それらを写真に撮ってSNSにアップする人もたくさんいます。別にいいんだけれど。
 例によって例の如く、職場から歩いて10分弱のスターバックスの丸テーブルで本とモレスキンを広げ、Mac Book Airを広げて明日の分の原稿と今日お披露目のブログを書いているのですが、どこかから『妖怪ウォッチ』のキャンペーン・アナウンスが流れてきます。「オレの名はジバニャン、(中略)〜〜ゲットだにゃん!」──この部分、かすかにしか聞こえてこないため、記憶で書いておりますこと、ご了承ください。
 閑話休題。窓際の丸テーブルを占領して原稿を書いているわけだが、うむ、いつの間にやら両隣はなんだかしあわせな会話をどんどん展開させてゆく幸福なカップルに挟まれているよ。これって、「両手に花(+引き立て役)」状態かなぁ……いや、違うな。
 同棲する相談とか、クリスマスの予定を話し合う(まだ決めてないのかよ、と半分やっかんでみる)とか、その他諸々含めて、いまのわたくしにはあまりに<毒>な会話のオンパレード。──だって聞こえちゃうんだもん、聞き耳立てているわけじゃあないし〜♪
 まぁ、それはともかくとしてですね。斯様な状況下でこうして原稿を書いている自分って、いったいなんなんだろうね。思わずわが身の存在理由を疑ってしまいますよ。もっとも、そんなことを言い始めたら、この先も独り身を守ってゆくことなんてできないけれどさ?
 でも、ダメを承知で、時既に遅しを覚悟で、サンタさんにお願いしてみる。「愛とお金をください!」と。さて、どれだけ大きな靴下を用意すればいいかなぁ……。◆

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第1808日目 〈エズラ記(ギリシア語)第3章&第4章1/2:〈ダレイオスの宴と3人の護衛のかけ〉、〈第三の若者の説明〉他withギター編曲のチャイコフスキーを聴きました。〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第3章と第4章1/2です。

 エズ・ギ3:1-16 1/2〈ダレイオスの宴と3人の護衛のかけ〉
 或る年の或る日、ダレイオス2世は王族全員と臣下すべて、メディアとペルシアの全高官、ペルシア帝国全127州の太守や指揮官、地方総督全員を招いて、盛大な宴を催した。皆心ゆくまで飲み食いし、楽しんで、散会した。王も寝室へ退き、就寝した。
 その晩、王の身辺警護の任務に就いていた3人の若者が、互いにこんなことを話していた。世の中で最も強いものがなにか、銘々で考えてみよう。それを書き付けて、王様とペルシアの3人の高官たちに判定をゆだねてみようじゃないか。いちばん聡明な答えを出した者に王様は最上の褒美をくださることだろう。王の隣に坐ることも許され、その親族と呼ばれるようにもなるだろう。そうしてかれらは自分の答えを書き付けて、それを王の枕の下に忍ばせたのだった。
 翌る朝、3人の若者が枕の下に入れていった書き付けを、王は発見した。それを読んだ王はメディアとペルシアの高官、太守、指揮官、地方総督、執政官を召集、一同の前でそれを読みあげた。この世で最も強いものについて、1人は酒、1人は王、1人は女、と書いていた。最後の答えを書いた者はそれに続けて、「真理はすべてに優る」と書き添えている。
 ダレイオス王は、昨夜自分の身辺警護にあたっていたこの3人の若者を、この場へ連れてくるよう側の者に命じた。

 エズ・ギ3:16 2/2-23〈第一の若者の説明〉
 1人目の若者がこういった。
 この世でいちばん強いのは酒である、と書いたのは自分です。そうではないでしょうか。
 酒を飲めば気分が良くなり、身分に関係なく対等に話すことができます。その一方で友人や兄弟への気持ちも忘れて突然剣を抜くこともある。しかもその間の記憶は、ない。
 どうでしょうか、これ程のことを人にやってのけさせる酒こそ、この世で最も強いものではないでしょうか。

 エズ・ギ4:1-12〈第二の若者の説明〉
 2人目の若者がこういった。
 この世でいちばん強いのは王である、と書いたのは自分です。そうではないでしょうか。
 人間は自然を支配しています。が、そんな人間の最上位にあるのは王であります。王はすべての主人であり、君臨者です。皆が王の言葉に従います。王が死ね、といえば、その者は死にますし、王が助けてやれ、といえば、その者は助かるのです。
 また王が休んでいる間も臣下は起きていて王を守り、民は作物を収穫すればその一部を王に献上します。
 どうでしょうか、これ程のことを人にやってのけさせる王こそ、この世で最も強いものではないでしょうか。

 エズ・ギ4:13-41〈第三の若者の説明〉
 名をゼルバベルという3人目の若者がこういった。
 この世でいちばん強いのは女である、と書いたのは自分です。そうではないでしょうか。
 たしかに酒も王も強いでしょう。しかし、この世でいちばん強いのは女である、と思います。いったいこの世のどこに女の手を煩わせることなく育った者がいるというのでしょう。女は、ぶどう畑や畑を開墾し耕作する者を養い育てました。男の衣装を調えて、かれに栄光を添えました。忘れてはなりません、たとえ王であろうと誰であろうと、女の胎から生まれて乳と手と情で育てられたことを。
 男なんて単純です。地位や名誉、金銀財宝があっても、容姿端麗かつ才色兼備な女に会えば心奪われ、彼女をわが物にせんと励み、すべてを抛ってその女の足許へひれ伏し、骨抜きにされるのです。もしその女が「昼は淑女で夜は娼婦」の如きであったら、尚更でありましょう。
 加えていえば、「多くの男が、女のために理性を失い、また女のゆえに奴隷となります。多くの男は女が原因で、身を滅ぼし、つまずき、罪を犯しました。」(エズ・ギ4:26-27)
 ここまで極端でないにしても、どれだけ心を尽くして育てても自分の女ができれば、男は父や母を顧みることがなくなります。生んでくれた恩、育ててくれた恩も忘れてしまう。それが自然の理。
 わたしは以前、王と、重臣の娘で王の側室である女性が戯れている場面を目撃しました。その姫は王の頭から冠を外して自分の頭に載せ、王の頬をひっぱたきました。それでも王は惚けた表情で姫を見ていました。姫が笑えば王も笑い、姫が腹を立てれば王は機嫌取りに終始する。
 如何ですか。これ程のことを男にさせる女こそ、酒よりも王よりも強い存在ではないでしょうか。
──と。
 かれの台詞に、王と高官たちは互いに顔を見合わせた。
 次いでゼルバベルは真理について述べた。曰く、──
 たしかに酒も王も女も強い。しかしこの世で絶対的な強さを示すもの、それは真理であります。天地の創造者こそ最も偉大、即ちそれは「真理」に他なりません。真理こそが偉大で、すべてに優って力あるものです。酒も偽り、王も偽り、女も偽り、人間はすべて偽り。が、真理を偽りである、ということはできません。
 「真理は不滅であり、永久に力強く、永遠に生き続けて支配いたします。真理は偏見を持たず、差別もせず、偽りや悪を行う者たちとは違って、正義を行います。そして人は皆、真理の業を喜びます。真理の裁きには、偽りはまったくありません。力と支配、権威と偉大さは永遠に真理のものなのです。」(エズ・ギ4:38-40)
──と。
 これを聞いた王と高官たちは胸を震わせ、口を揃えて、「真理こそ偉大、すべてに優って力あるもの」といった。

 昨日の本ブログにて、ペルシア全127州については明日、即ち今日といいました。それを書きます。
 エズ・ギ3:2に出る「ペルシア127州」は、「エステル記」9:30にも「クセルクセスの王国百二十七州」と書かれています。
 キュロス2世から続くアケメネス朝ペルシアは、すくなくともクセルクセス王(1世? エステル記)やダレイオス2世の時代、その版図を127の州に分割して統治していた、といいます。しかし、実際に127州あったのか、となると、正確なところは不明である、といわざるを得ないようです。20程度の属州を領内に持っていた、とも、36の行政区を持っていた、ともされる。おそらく時代によって数え方や区分の定義が異なるため、そうした混乱が生じているのありましょうか。
 この地域の歴史について知るところは世界史の授業で習ったぐらいが精々で、あとは数冊の本を読んで身に付けた知識があるに過ぎない。体系だったものではないので、一知半解の誹りも免れないだろう。という次第で、今度の休みにでも図書館へ行って、古代のペルシアの歴史やアケメネス朝ペルシアの行政機構など、ちょっとまとめて勉強してみようと思うている。雨が降らなければね。



 例によってスターバックスでこの原稿を書いているのだが、天井のスピーカーからチャイコフスキーのバレエ音楽《くるみ割り人形》から〈花のワルツ〉が流れている。
 オーケストラによる演奏ではなく、ギターに編曲されたヴァージョン。これがうっとりする程典雅で、哀愁漂い、かつ心に染みてくるのだ。
 演奏者が誰なのか不明だが、この演奏、もう一度聴きたいなぁ……。CDあるのかしらん。◆

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第1807日目 〈エズラ記(ギリシア語)第2章:〈キュロスの布告〉&〈アルタクセルクセス王あての書簡と王の返事〉withそういえば今日、『あまちゃん・総集編』を観たのだけれど──〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第2章です。

 エズ・ギ2:1-14〈キュロスの布告〉
 バビロニアからペルシアへ、オリエントの覇権は移った。アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世はその治世第1年(前535年という)、イスラエルの主により内なる霊を呼び起こされて、かつて主が預言者エレミヤを通して語った言葉を成就させる書面を認め、帝国全土に公布した。曰く、──
 イスラエルの神なるいと高き主がわたしを世界の王とした。いま同じ主が、ユダヤのエルサレムに自分の家を再建させよ、という。そこでわたしは領内に暮らすユダヤ人たちをかれらの国へ還すことにした。イスラエルの主はエルサレムにこそ住む。領内のユダヤ人以外の民は、かれらの帰り支度を手伝え。
──と。
 またキュロス王は、かつてバビロニアのネブカドネツァルが略奪してきて保管していた神殿の祭具類を、財務官ミトレダトを通してユダヤの指導者サナバタルに渡した。祭具類の内訳は以下の通りであった、──
 金杯;1,000
 銀杯;1,000
 銀の香炉;29
 金の器;30
 銀の器;2,410
 その他の祭具類;1,000  ──総計、5,469。
 サナバタルはこれらを携えて、同胞と共に廃都エルサレムへ帰還した。

 エズ・ギ2:15-25〈アルタクセルクセス王あての書簡と王の返事〉
 ペルシア帝国がアルタクセルクセス王を王位に戴いていた頃である。サマリヤとその周辺地域に駐在する官僚たちが王宛てに、ユダヤ人やエルサレムに住む者らを訴えた。曰く、──
 ユダヤ人どもがエルサレムへ入りこみ、町の再建に勤しんでいます。加えて城壁を修築し、新たな神殿の基礎工事に着手しています。もしこの町が再建されて神殿が完成し、機能するようになったら、「コイレ・シリアとフェニキアへの陛下の道は閉ざされてしまうでしょう。」(エズ・ギ2:20)
 どうか陛下、王家伝来の諸書をお調べください。そうすればかれらが如何に反抗的で攻撃的であるか、わかりましょう。ユダヤ人にむかしのような力を与えてはなりません。
──と。
 王はこれを読むと諸書を調べさせ、かの地の官僚たちへ返書した。曰く、──
 古来よりエルサレムとユダヤの民が歴代の王に背き、諸国を攻撃・支配して朝貢させていた事実が判明した。
 「そこでわたしは、ユダヤ人どもが町を再建するのを阻止するよう命ずる。この命令に一切背かせてはならない。」(エズ・ギ2:24)
──と。
 書記官シムシャイや記録官レフムらはこの返書を後ろ盾にし、武装した一隊を率いてエルサレムへ向かい、町の再建工事の一切を妨害した。これにより、エルサレムの神殿の再建工事はダレイオス2世の治世第2年まで中断される。

 ペルシアの占領地政策はアッシリアやバビロニアと異なり、そこの文化や風習、宗教を無理に自分たちと同じにしたりしなかった。同化政策よりも寛容政策を選んだのだ。属州となった国に一定の自治権を与えることで、同じ属州となった他民族と手を結び反乱など起こさせぬように、という目論見が背景にあったのかもしれない。真意がどうあれ、斯様な政策ゆえにキュロス王はユダヤ人捕囚解放を公布し、帝国領内に暮らすユダヤ人のうち望む者にはユダヤ・エルサレムへの帰還を許したのだった。
 そうしておそらくそれは、アルタクセルクセス王の時代になり、シムシャイらが王宛てに書き送った書簡に出る「コイレ・シリアとフェニキアへの陛下の道」にも関わりを持ってくる。「陛下の道」とはペルシア属州127州(これについては明日)に巡らされた<王の道>を指すのだろう。これは帝国の主要街道である。コイレ・シリアはシリア地方南部の地域をいい、広義ではレバノン山脈やアンチレバノン山脈以南、ユーフラテス川南域をいう。この場合はシリア・パレスティナ地方と考えてよいだろう。即ち旧南王国ユダがあり、エルサレムを近辺に置く地域だ。そこにも<王の道>は通っていた。帰還したユダヤ人がエルサレムを再建して力を取り戻せば、国家運営に支障を来す、という懸念が先走って、書記官シムシャイらは王に書簡を送ったのであろう。
 ここで第2章に名の出るペルシア王の在位期間を、自身の備忘も兼ねて記し留める。
 キュロス2世;前559-530年
 アルタクセルクセス1世;前464-424年
 ダレイオス2世;前424-405年
 ペルシアには同名の王が複数あるケースが多いけれど、本ブログでは描かれる内容や史書から判断、かつ諸書を参考にして上記の王として以後進めてゆく。
 本章で教えられるのは、立場や視点が変われば一つの歴史はがらり、と様相を変えて読者の眼前に迫ってくる、ということだ。真実は幾つもあるが事実は一つしかない。この言葉を梃子にして読み替えられたイスラエル・ユダ両王国の歴史を、われらはペルシア王家伝来の諸書からかすかに知ることができる。──これは歴史解釈の悩みのタネといえるかもしれない。が、その面白さこそ歴史解釈、或いは<歴史を読む>ということの醍醐味かもしれない。



 今日はTSUTAYAで借りてきたものと架蔵するものから、『あまちゃん・総集編』前編と職場の同僚に奨められてすっかり先が気になってしまうようになった韓流ドラマ『屋根裏のプリンス』第3巻、今年亡くなった好きな俳優に敬意を表してロビン・ウィリアムス主演の『いまを生きる』と『グッドモーニング・ベトナム』を観ました。さすがに背中が痛くなるね。
 ちかごろ休みの日は外に出ないで部屋を片付け、ブログ原稿を書くばかり。自宅で映画を観るのが最高の慰めであり、最高の愉しみです。
 しかし『あまちゃん』ですが、昨年の「紅白歌合戦」で披露された本当の最終回も、いつかソフト化されてほしい。ロット数限定での発売で構わないから、是非。あれほど感動的な朝の連続ドラマの最終回が他にあっただろうか? 勿論、不可能を承知でいうておる。
 さて、クリスマスの日から4日間の連休に入るときはなにを見ようかな。◆

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第1806日目 〈エズラ記(ギリシア語)第1章:〈ヨシヤと過越祭〉、〈ヨシヤの死〉&〈ユダヤの最後の王たち〉withみくらさんさんか、あちら側に恋い焦がれる。〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 エズラ記(ギリシア語)第1章です。

 エズ・ギ1:1-22〈ヨシヤと過越祭〉
 ヨシヤ王はその御代第18年、エルサレムにて主のための過越祭を行った。神殿に奉仕するレビ人を前にして、王はいった。先祖の役割分担に従って持ち場に付き、過越の子羊を規定に従って屠り、兄弟のためにいけにえを用意し、主がモーセに与えた指示通り主のための過越祭の準備をせよ。
 式服をまとった祭司たち、それに他のレビ人が神殿各所で各々の仕事をした。こうして過越祭の準備がされ、イスラエルの子らによってこの過越祭とそれに続く除酵祭が祝われた。サムエルの時代以来このような過越祭は祝われなかったし、イスラエル歴代の王のなかでこれ程の過越祭を祝った者もいなかった。
 「敬神の念のあついヨシヤは、主の前に正しく行動した。」(エズ・ギ1:30)

 エズ・ギ1:23-31〈ヨシヤの死〉
 このことがあったあと、エジプトのファラオ・ネコがユーフラテス河畔カルケミシュでの合戦に赴くため、ユダ王国の領土を通過した。ヨシヤはこれを見逃せずファラオの前を塞いだ。
 両者──エジプトとユダの、本来なら無用な武力衝突は避けられず、双方は激突した。その結果、メギト平野での戦いでヨシヤ王は深傷を負って戦列から離れたが、そのまま逝ってしまった。於エルサレム。
 「ユダヤの各地で、人々はヨシヤの死を悼み、預言者エレミヤはヨシヤのために悲しみの歌を作り、民の指導者たちもその妻たちも共に彼の死を悼む歌をうたった。この哀悼は、現在に至るまで続き、その慣習はイスラエルの部族全体にも及んでいる。」(エズ・ギ1:30)

 エズ・ギ1:32-55〈ユダヤの最後の王たち〉
 ヨシヤ崩御のあと、4人の王が立った。ヨアハズ、ヨヤキム、ヨアキム、ゼデキヤである。いずれも主の目に悪と映ることばかり行い、主に立ち帰ることはなかった。
 殊、ゼデキヤ王はユダ王国最後の君主である。バビロニア王ネブカドネツァルは、再度エルサレムを攻撃し、これを陥落させた。或る者は殺され、或る者は捕囚となった。神殿諸共都は破壊され、荒廃した。
 ──その後、大地は70年の間安息を楽しんだ。そうしてかれらの帰りを待った。

 並行箇所を記しますが、併せてお読みになると、「エズラ記(ギリシア語)」のこの章がそれのほぼ引き写しである、という印象を持たれることと思います。わたくしもそうでした。
 これは、「歴代誌」と同じテキストがたまたま「エズラ記(ギリシア語)」の執筆に採用されたことを示唆するのか。──否、そんな可能性はわずかにもない。とすれば、「エズラ記(ギリシア語)」第1章の執筆には「歴代誌」が脇にあってそれに若干の手を加えたのかしれない、という推測の方がずっと信憑性が高いように思うのであります。
 まぁ、そうなると、ではどうしてヨアハズをエコンヤと記したのか、その理由が不明となりますが……。
 では、各小見出しの並行箇所を記します。
 〈ヨシヤと過越祭〉は王下23:21-23と代下35:1-19。
 〈ヨシヤの死〉は王下23:29-30と代下35:20-27。
 〈ユダヤ最後の王〉は、ヨアハズ(エズ・ギではエコンヤ)は王下23:31-35と代下36:1-4。ヨヤキムは王下23:36-24:7/25:27-30と代下36:5-8。ヨアキムは王下24:8-17と代下36:9-10。ゼデキヤは王下24:18-25:7と代下36:11-23。
 たしか「歴代誌」の当該箇所のノートでも同じだった、と記憶しますが、ヨシヤ王の号令下レビ人たちがが過越祭の準備を進めてゆく場面については、どうしてもきちんとしたノートが書けなくて、困る。同じ場面が「エズラ記(ギリシア語)」にあると知ったあの頃は、そのときになればもう少しまともなものが書けているだろう、と踏んでいた(期待していた)のですが豈図らんや、なかなか現実は難しかった。
 おまけにとてつもなく疲れて……なんだか今日は世界のすべてが自分に牙を剥いたような1日でしたよ。スタバで原稿を書くも集中できず何度も何度も文章を捨て、ようやく約2時間半後に上記のような原稿を書きあげたとはいえ、われながらずいぶんと瑕疵の目立つ文章だな、と、ほとほと呆れ返る。かというて、では後日に改訂の筆を揮うかといえば、もはやその気概もない。嗚呼!



 逢いたい人には決して逢えない。会いたくない人にはしばしば出喰わす。
 これって現実に限らず、この世界とあの世界に於いても真実なんだ。◆

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第1805日目 〈「エズラ記(ギリシア語)」前夜〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 旧約聖書続編に載る「エズラ記(ギリシア語)」は正典「エズラ記」とやや様相を異にします。同じく歴史書に分類されるが、「エズラ記(ギリシア語)」の場合、内容は「エズラ記」と「ネヘミヤ記」を一冊にまとめて再構成した上で、更に両書にない記述を補ったものであります。
 そもプロテスタントでは完全に外典扱いで、カトリックでも第二正典に収められなかった本書。新共同訳の続編では「エズラ記(ギリシア語)」と題されるが、アポリクファまたは70人訳聖書では「第一エスドラス書」或いは「再構築されたエズラ記」と呼ばれ、ラテン語訳ヴルガタ聖書では「第三エズラ記」と呼ばれる。われらは本書のあと「エズラ記(ラテン語)」を読むが、これの別称については然るべき日に触れます。
 「エズラ記(ギリシア語)」、略称を「エズ・ギ」といいますが、本書とヘブライ語(正典)の「エズラ記」の相違点は開巻早々に現れます。南王国ユダの最後の善き王ヨシヤによる主の過越祭の再現とその死、王国滅亡が語られる。実はこの点こそがギリシア語による「エズラ記」の性格を読者に伝えるところである、と思うのであります。つまり、本書は(新共同訳の解説にもあるように)<改革の歴史>を、ヨシヤ王と帰還民のリーダー的存在ゼルバベル、そうしてエズラの3人の活動と業績を通して語るのであります。
 では、この3人が成した業績とはなにか。ヨシヤ王に於いては主の過越祭の再現、ゼルバベルに於いては第二神殿の建設と完成、エズラに於いては雑婚の禁止と律法の朗読、であります。これらを俯瞰して見えてくるのは、これらの作業がユダヤ人のアイデンティティの確立とコミュニティの再編という2点に集約されてくることであります。
 悪しきことばかり行う王の下ですっかり堕ちてしまった民に過越祭を経験させることで、再び自分たちが主の嗣業の民であることを自覚させようとしたヨシヤ王。エルサレムへ帰還して異民族の妨害に遭いながらも、第二神殿の建築を奨めて完成にまで漕ぎ着けたゼルバベル。神殿完成後にエルサレムへ来て、発覚した民の罪や不法行為を正して主へ嘆願したあと、律法を朗読したエズラ。殊、ゼルバベルとエズラの行いは、捕囚と離散を経験したことで失われかけていた民族のアイデンティティを取り戻し、ユダヤ人社会という共同体を再確立させるために必要な改革であった、と申せましょう。
 正典としていまは別の書物と数える「エズラ記」と「ネヘミヤ記」は、かつて一つにまとまった書物であった由。読み返して思い出したのですが、わたくしも第0556日目〈「エズラ記」前夜〉でその点について触れていました。それが今回読む「エズラ記(ギリシア語)」とどの程度まで一致し、どの程度まで異なっていたか、定かではありません。しかし、そんなことを想像しながら読書してゆくのも、楽しみ方の一つである、と思うのであります。なお、「エズラ記(ギリシア語)」には──どこにも見落としがない限り──ネヘミヤの名は出てきません。
 「エズラ記(ギリシア語)」の著者、成立年代や場所などはよくわからない。これらについてはもう少し勉強してみましょう。
 それでは明日から1日1章の原則で、「エズラ記(ギリシア語)」を読んでゆきましょう。◆

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