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第1875日目 〈マタイによる福音書第28章:〈復活する〉、〈番兵、報告する〉&〈弟子たちを派遣する〉withニャーKB with ツチノコパンダ購入とマタイ伝読了の挨拶〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第28章です。

 マタ28:1-10〈復活する〉
 イエスが安息日の準備の日に処刑された。それはニサンの月の14日、過越祭の前日でもあった。その特別な安息日が終わった週の初めの日の暁方、イエスの墓をマグダラのマリアともう1人のマリアが見に行った。というのも、まだイエスの遺体に香油を塗っていないからである。彼女たちが行くと、そこには総督ピラトの指図でファリサイ派他の人たちが遣わした番兵もいた。
 すると、大きな地震が起こり、主の天使が現れた。天使はイエスの墓の入り口を塞いでいた石をどかすとその上に坐り、マリアたちにいった。ごらん、あの人はもうここにはいない。自分で語っていたように、死者たちのなかから復活したのだ。あの人の弟子たちにいいなさい、かつてかれらに語ったようにあの人はもうガリラヤへ行っている。
 マリアたちはそうした。番兵たちは祭司長たちへ報告に行った。
 弟子たちのところへ向かうマグダラのマリアたちの前にイエスが現れた。おはよう。そうイエスはいった。わたしが復活してここにいることを恐れてはならない。わたしの弟子たちにガリラヤへ行くよう伝えなさい。わたしはかの地でかれらと会う。

 マタ28:11-15〈番兵、報告する〉
 番兵たちは祭司長たちの許へ戻って、主の天使によって墓の入り口を塞いでいた石が取り除かれ、イエスの遺体が消えていることを報告した。
 長老たちと相談した祭司長たちはその番兵たちへ多額のお金を渡して、夜のうちにあの男の弟子たちが来てこっそり師の遺体を持ち出したのだ、と偽証するよう言い含めた。総督がこのことを聞いても自分たちが上手く説得するから、おまえたちは安心しておけ。番兵たちはそうした。
 「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」(マタ28:15)

 マタ28:16-20〈弟子たちを派遣する〉
 イスカリオテのユダが自殺したので11人になった弟子たちは、めいめいガリラヤ地方へ赴き、イエスから指示されていた山へ登った。そうして、イエスはかれらの前に姿を現した。歓喜する者もいた。疑う者もいた。
 そんなかれらにイエスは近附いて、いった。曰く、──
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ28:18-20)

 このようにして「マタイによる福音書」は幕を閉じる。正直なところを告白すれば、想定外の内的衝撃を喰らったことである。
 イエスの復活した曜日について、備忘したくちょっと一言しておきたい。
 当初、イエスの殺害は迫る過越祭を避けて行われることになっていた(マタ26:5)。が、ユダの裏切りによって計画は変更、祭りを祝うためエルサレムへ上ってきている、イエスを信じるユダヤ人への見せしめとして、敢えて過越祭の日をイエス処刑の日とする(マタ26:14-15、47-50、
)。
 その過越祭はニサンの月の14日に催される。週第7日目の安息日と重なり、土曜日の行事となった。
 安息日には一切の労働が禁じられているため、その日の準備は前日に行われなければならない(イエスの時代、安息日の規定が細々あったそうだが、それについてはここでは触れぬ)。それゆえに準備の日は金曜日となる。イエスはその安息日の準備の日にゴルゴタの丘で死亡した。それはニサンの月の13日、金曜日であった。13日の金曜日の由縁である。
 かねてよりイエスは、死の日から3日後(その日から数えて3日目)に復活すると予告していた(マタ16:21他)。そうして、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方」(マタ28:1)に天使が現れ、マグダラのマリアたちにイエスの復活を知らせる。
 処刑は金曜日。それから3日目は何曜日か。──と、その前に確認だが、「何日目」、「何日後」はその日を含むか否か。わたくしもときどき混乱するのでいちおう調べてみた。「何日目」、「何日後」は起算日を含む。
 この場合でいえば、処刑された金曜日から数えて3日目となるので、復活は日曜日である。処刑の日は含まないよな、と考えながら読んでいたので、処刑から3日後の復活であればそれは月曜日の話になっちゃうじゃん、日曜日の復活にこだわって逆算すれば処刑は木曜日になるしなぁ、と混乱したのは内緒だが、真相は斯くの如し。なべて世はこともなし。



 iTunesでニャーKB with ツチノコパンダ歌う「アイドルはウーニャニャの件」をDL購入したみくらさんさんかです。どうやら「マタイによる福音書」が終わって気がゆるみ、ジバニャンのようにちょっとした衝撃で「ニャー〜ッケー〜ッビー〜ッ!!」と(心のなかで)叫んでしまったのが、わたくしをしてこのような異事へ向けたらしい。
 それはともかく。
  本日を以て「マタイによる福音書」読了。新約聖書の読書はまだ端緒に付いたばかりですが、なによりもまず始めること。考えていたり足を踏み出さない限り、前には決して進まないのだ。
 阪神淡路大震災20年に寄せた原稿が入って1日遅れたけれど、弛緩することなく最初の福音書が読み終わったことを喜びたい。なによりも読者諸兄があったればこその実現。サンキー・サイ。
 次の「マルコによる福音書」の読書とブログは来週末あたりから始めることを予定しています。その時からまた宜しくご愛読願えれば幸甚であります。◆

第1874日目 〈マタイによる福音書第27章:〈十字架につけられる〉、〈イエスの死〉他withドストエフスキー『虐げられた人びと』を読み始めました。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第27章です。

 マタ27:1-2〈ピラトに引き渡される〉
 祭司長たちや民の長老たちはイエス処刑の思惑で一致していた。かれらは捕縛したイエスを総督ポンティオ・ピラトへ引き渡した。

 マタ27:3-10〈ユダ、自殺する〉
 イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを売り渡した。かれはイエスに有罪判決が下されたことで自分の罪の深さを知り、止み難き後悔の念から一度は受け取った報酬を返しに、祭司長たちや民の長老たちのところへ行った。が、それはお前の問題だ、と突っぱねられるばかり。怒ったユダは銀貨を神殿に投げこんだあと、そこから立ち去って首吊り自殺した。
 イスカリオテのユダは死んだ。祭司長たちや民の長老たちはユダの放り投げた銀貨を拾い集めて、これは血の代金であるから神殿の収入へ含めるわけにはいかない、といい、そのお金で陶器職人の畑を購入した。そこは購入資金の謂われゆえに外国人のための墓地となり、「血の畑」と呼ばれるようになった。

 マタ27:11-14〈ピラトから尋問される〉
 逮捕されたイエスはピラトの許へ連れてゆかれた。総督はイエスに、お前はユダヤ人の王なのか、と問うた。イエスはただ一言、答えただけで、他は沈黙したままだった。それはあなたのいっていることだ。自分に不利な証言が様々偽証されているのを聞いても黙ったままなイエスを見て、ピラトはふしぎなものを感じた。

 マタ27:15-26〈死刑の判決を受ける〉
 ところで総督は祭りのたび、恩赦として罪人の1人を釈放することにしていた。ここに2人の罪人がいる。バラバ・イエスと、ナザレのイエス即ちメシアと呼ばれるイエスだ。総督は民に、どちらを釈放すべきか、と問うた。
 実は民は、祭司長たちや民の長老たちから、メシアと呼ばれるイエスを十字架へ掛けるよう根回しされていた。為、民はピラトの問いに、メシアと呼ばれるイエスだ、と答えるのだった。総督はナザレのイエスの処刑を求める声が大きいのは、祭司長たちや民の長老たち、そうして民の妬みに理由するものだとわかっていた。
 一方、イエス裁判の場にいるピラトのところへ、妻からの伝言が届けられた。曰く、「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢でだいぶ苦しめられました」(マタ27:19)と。
 総督ピラトはイエスの刑を軽減しようと努めた。かれが罪人とは到底思えなかったからである。かれは最後までイエスの処刑に反対し、民や祭司長たち、民の長老たちの説得にあたったが、努力は水泡に帰した。イエスがどのような悪事を働いたというのか、とピラトが問うても、民は、イエスを十字架に掛けろ、と叫ぶばかりである。
 もうこれ以上はなにをいっても無駄だ、と総督は思った。これ以上自分が説得を続けるならば、自分の地位さえ危うくなる、と判断した。そこでピラトは、「水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』」(マタ27:24-25)
 ピラトはバラバを釈放、イエスを鞭打ちし、磔刑に処すため引き渡した。

 マタ27:27-31〈兵士から侮辱される〉
 総督の兵士たちは総督官邸にイエスを連れていった。集められた兵士全員の前でイエスは、着物を剥ぎ取られて赤い外套を着せられ、茨で編んだ冠を頭に載せられ、右手に葦の棒を持たせた。そうしてかれらはイエスの前にからかうようにひざまずき、ユダヤの王様ばんざい、といって侮辱したのである。かれらはイエスの顔に唾を吐き、葦の棒で頭を打って乱暴した。

 マタ27:32-45〈十字架につけられる〉
 イエスは処刑の場、即ちエルサレム郊外のゴルゴタの丘へ引き立てられていった。かれの頭の上には、これはユダヤ人の王イエスである、と書いた罪状が掲げられている。たまたまその場に居合わせたキレネ人シモンはイエス磔刑用の十字架を背負わされて、共にその道を行った。イエスは苦汁を混ぜたぶどう酒を飲まされそうになったが、舐めただけで飲みはしなかった。
 そうしてイエスはゴルゴタの丘へ到着した。人々はかれを揶揄し、中傷し、嘲った。その日一緒に磔刑に処せられていた2人の罪人も、同じようにイエスを罵った。ゴルゴタの丘にイエスを擁護する言葉はなかった。

 マタ27:46-56〈イエスの死〉
 昼12時頃、全地は暗くなり、午後3時頃まで暗闇がエルサレム上空を覆った。その3時頃である。イエスは天を仰ぎ、大声で叫んだ。エリ・エリ・レマ・サバクタニ。父よ、なぜわたしを見捨てたのですか。
 その場にいた人々は、きっとイエスがエリヤを呼んでいるのだと思い、エリヤが助けに来るか見ていよう、と囁いて、十字架状のイエスを見物していた。また、群衆の1人がイエスに駆け寄って、酸いぶどう酒を海綿に含ませてイエスに飲ませようとした。それは麻酔効果を持つものであった。が、イエスはそれを口にしなかった。
 イエスは再び天を仰ぎ、大声で叫び、そうして死んだ。
 「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(マタ27:51-53)
 これらの出来事を目の当たりにした百人隊長やイエスの見張りをしていた人たちは、この人こそ本当に神の子であった、と胸潰される想いで呟いた。
 絶命したイエスを、遠くから見守る女性たちがいた。イエスがガリラヤからユダヤ、そうしてエルサレムへ下ってくる際一緒にいて、かれの世話をした女性たちである。マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母も、そのなかにいた。

 マタ27:57-61〈墓に葬られる〉
 夕方になった。イエスの弟子でアリタマヤ出身の金持ちヨセフが総督ピラトに、イエスの遺体を引き取る許可を願い出た。ピラトは許可した。ヨセフはイエスを綺麗な亜麻布で包み、自分用に掘ってあった新しい墓に埋葬すると、入り口に大きな石を転がして封をした。
 マグダラのマリアともう1人のマリアはそこに残り、墓の方を向いて坐っていた。

 マタ27:62-66〈番兵、墓を見張る〉
 翌る日、祭司長たちとファリサイ派の人々はピラトのところへ行き、イエスの墓を監視させてくれるよう頼んだ。イエスは3日後に復活するといいました、きっと弟子たちがこっそりかれの遺体を運び出して師が復活したと騒ぐのでしょう、そうなれば民の動揺は以前にも増して深刻なものになります、だからわれらにイエスの墓を監視させてください、かれの弟子たちの工作が行われないように、といって。
 総督は、お前たちの番兵にそれを任せよ、といった。かれらはそうした。

 ダイジェストのつもりで始めたノートはもはや当初の目的を失って幾年。今回も自分の言葉、自分の表現に置き換えたが精々の再話となった。もっとも、本章についていえば却ってそれでよかったか、と思うている。
 聖書以外の史料ではポンティオ・ピラト、相当の悪人物に描かれているそうだが、福音書ではなんとかしてイエスの刑を軽減或いは無罪にしようと努める理解ある人、として描かれている。イエスの死の責任はむしろ同胞ユダヤ人にある、とでもいうかのような書きぶりだ。これは共観福音書に見られる要素である。「ヨハネの福音書」のこの場面については正直、なんともいいかねるところだ。
 バラバ・イエスの逮捕理由について「マルコによる福音書」は都エルサレムで発生した暴動と殺人の容疑である、と伝える。
 イエス処刑の場になった、エルサレム郊外のゴルゴタの丘。「髑髏の場所」という意味を持つこの丘がどこであったか、今日ではほぼ聖墳墓教会のあるあたりというのが、一般的だ。ローマ帝国の賢帝、キリスト教を国教と定めたコンスタンティヌス帝の母ヘレーナが326年にエルサレムを訪れた折、イエスの聖遺物を発見したことを根拠にこの場所がゴルゴタの丘とされるようになり、聖墳墓教会が建立されたのだ、という。教会のなかにはイエスの墓所とされる聖堂がある。昨日のゲツセマネ同様、信徒ならずとも訪れてみたい場所だ。
 ゴルゴタの丘についてはもう1箇所、エルサレム北側の城壁にあるダマスコ門から出たところにある岩場、いわゆる「園の墓」と呼ばれる場所がそれである、ともいわれている。
 なお、金持ちのヨセフがイエスの遺体を包む際に使った綺麗な亜麻布。これが聖骸布である。

 本日の旧約聖書は、マタ27:9-10とゼカ11:11-13、マタ27:46と詩22:2。
 但し、マタ27:9-10についてはエレ18:2-3などの言葉とゼカ11:13を編集したものである由。
 「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」(マタ27:9-10)
 これの典拠は、
 「その日に、それは無効にされた。わたしを見守ってきた羊の商人たちは、それが主の言葉であることを知った。わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。『それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。』わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。」(ゼカ11:11-13)

 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタ27:46)
 これの典拠は、
 「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。/なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(詩22:2)



 昨日からドストエフスキー『虐げられた人びと』(新潮文庫)を読み始めました。まだ第4章を読み終わったところですが、このロシアの文豪による長編小説を読むときの感覚がだんだんと戻ってきた。
 やっぱりドストエフスキーは面白い! その圧倒的質量に人はタジタジとなってしまうが、いちど馴染むとこれ程取っつきやすく、愉悦にあふれた、時間を忘れるような小説を残してくれたロシアの作家も、あまりいないように思う。ソ連以前に絞れば……チェーホフとプーシキンぐらいかなぁ、自分にとっては。トルストイは肌に馴染まぬ。
 どうしてこんな小説が書けるんだろう。◆

第1873日目 〈マタイによる福音書第26章2/2:〈ゲツセマネで祈る〉、〈裏切られ、逮捕される〉他withなんたる失態!〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第26章2/2です。

 マタ26:36-46〈ゲツセマネで祈る〉
 そのあと、イエスと弟子たちはエルサレムの東側、オリーブ山の西麓にあるゲツセマネに行った。ペトロと、ゼベダイの子ら即ちヤコブとヨハネ兄弟だけを連れて、イエスは残りの弟子たちから離れた。と、かれは突然悲しみ悶えた。イエスはペトロたちに、自分は死ぬ程悲しい、といった。ここを離れず、わたしと共に目を覚まして待っていなさい。
 イエスはペトロたちから少し離れた場所で、うつ伏せになって祈った。父よ、わたしからこの杯を過ぎ去らせてください。しかし、わが願いによってではなく、それが御旨なら。
 そうしてイエスが戻ってくると、果たしてペトロたちは眠っていた。イエスはかれらにいった。あなた方はわたしと一緒にいて、わずか一刻と雖も起きていることができなかったのか。「誘惑に負けぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マタ26:41)
 が、このことは2度繰り返されたのである。3度目のとき、イエスはペトロたちへいった。「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マタ26:45-46)

 マタ26:47-56〈裏切られ、逮捕される〉
 イスカリオテのユダが来た、イエスを捕縛する者たちを連れて。ユダは、俺が接吻する相手がイエスだ、それを合図にかれを捕まえろ、と示し合わせるとイエスの前に行き、接吻した。そのとき、イエスがユダへ掛けた言葉;「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタ26:50)
 剣や棒を持って、祭司長や民の長老たちと一緒に来た大勢の群衆がイエスを囲み、かれに手を掛けた。イエスの取り巻きの1人が剣を抜いて斬りかかり、群衆の1人の耳を切り落とした。イエスはその取り巻きの1人を諫め、捕縛者たちへいった。曰く、──
 わたしがお願いすれば、天の父は12軍団以上の天使をいますぐ送ってくれるだろう。が、わたしはそうしない。かならずこうなる、という聖書の言葉が実現しないからである。わたしは毎日神殿の境内で教えていたのに、あなた方はわたしを捕らえたりしなかった。なぜか。預言者たちが語っていたことが実現するようにである。
──と。
 弟子たちは皆、イエスを置いてあちこちへ逃げた。

 マタ26:57-68〈最高法院で裁判を受ける〉
 イエスは大祭司カイアファの許へ連行された。ペトロはカイアファの屋敷の中庭にひしめく群衆へ紛れこみ、イエスの裁判の様子を窺った。
 祭司長たちや最高法院の陪審員たちが、イエスの死刑を求めた。イエスに不利な偽証も様々にされた。が、証拠は得られなかった。この男は打ち壊した神殿を3日で再建してみせるといった、と更に偽証されて尚。その間、イエスは終始無言であった。イエスは沈黙したままだった。イエスは黙して口を開かなかった。
 大祭司カイアファがイエスに、生ける神に誓って答えよ、お前はメシアか、と問うた。すると、イエスは答えた。それはあなたのいったことだ。あなた方にわたしはいっておく、「あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」(マタ26:64)
 なんたる冒瀆! 神への冒瀆! カイアファは叫んだ。いま諸君はこの男の口から、冒瀆の言葉を聞いたであろう。これ以上の証拠はいらぬ。諸君はこの男をどう思うか。
 死刑だ! 人々は答えた。そうしてイエスに、寄ってたかって乱暴した。

 マタ26:69-75〈ペトロ、イエスを知らないと言う〉
 この様子を、ペトロはずっと中庭で見ていた。
 1人の女中がペトロを見咎めて、あなたもあのガリラヤのイエスと一緒にいた、といった。否、とペトロ。わたしはあの男を知らない。
 中庭から門へ向かって歩くペトロを、他の女中が見咎めて、周囲の人々に、この男もあのガリラヤのイエスと一緒にいた、といった。否、とペトロ。わたしはあの男を知らない。
 その場にいた人々が寄ってきて、お前もあの連中の仲間だ、言葉遣いですぐわかる、といった。否、とペトロ。わたしはあの男を知らない。
 そのとき、鶏が鳴いた。
 鶏が鳴く前、あなたは3度、わたしを知らない、という──ペトロはイエスの言葉を思い出し、門の外へ走って行って激しく泣いた。

 聖書の言葉が実現する、というマタ26:54はイザ53を踏まえた表現である。イザ53の小見出しは〈主の僕の苦難と死〉、一般に<苦難の下僕>と呼ばれる箇所だ。ここはまこと、イエス捕縛と裁判、そうして処刑を想起させる章だ。即ち、マタ26-27を預言したイザヤの言葉である。イザ53を丹念に読めば読む程、福音書に描かれるイエスの逮捕と死が、より切なるものと感じられることであろう。
 なお初期教会はこのイザ53を聖金曜日のテクストとして使った、と、ジークフリート・ヘルマンはいう(『聖書ガイドブック』P128 教文館)。
 イエスが捕縛されるゲツセマネは、おそらくはエルサレムやローマのような今日もニュースや観光ガイドで取り挙げられるものを除いて、エデンの園やバベルの塔、ソドムとゴモラ、エリコ、ナザレ、ベツレヘム、ガリラヤ、コリント、ハルマゲドンと並んで、聖書に馴染みのない者であっても聞いた覚えのある地名ではなかろうか、と思う。
 アラム語で「オリーブの油搾り」や「オリーブの酒舟」という意味のこの場所は、その名の通りオリーブの樹が群生する一種の庭園である。4つの福音書に共通して登場する場所で(まぁ当たり前ですわな)あり、逮捕前に祈りを捧げた場所、ユダの手引きによってやって来た人々に逮捕される場所として夙に有名であるが、ロシア正教会に於いては生神女マリア(聖母マリア)が埋葬された場所であるそう。カトリック教会の他に生神女マリアの教会「マリア・マグダレーナ教会」がここにあるのはそうした理由からである由。
 地図や衛星写真、各種ガイドに会っても付近で随一というていい程に豊かな緑を誇るこの園、信徒ならずとも一遍は出掛けてみたいものである。

 本日の旧約聖書はマタ26:63とイザ53:7、マタ26:64aと詩110:1、マタ26:64bとダニ7:13。
 「イエスは黙り続けておられた。」(マタ26:63)
 これの典拠は、
 「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。/屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イザ53:7)

 「人の子が全能の神の右に座り、」(マタ26:64a)
 これの典拠は、
 「わたしの右の座に就くがよい。」(詩110:1)

 「天の雲に乗って来るのを見る。」(マタ26:64b)
 これの典拠は、
 「「人の子」のような者が天の雲に乗り」(ダニ7:13)



 本来なら今日からは3冊目のモレスキンで原稿を書くはずであった……。
 なのに、どうしたわけか新しいモレスキンをリュックに入れるのをすっかり忘れ、いつものスタバに来てから、さぁ原稿書こうかな、と取り出してみたら昨日まで使っていたものであったことにすっかり打ちひしがれて、仕方なくシフトやなにやら記入する年変わりの手帳の後ろの方のページに、本日の聖書読書ノート・ブログの原稿を認めたのであります。
 帰ったらすぐに新しいモレスキンをリュックに放りこまなくちゃ!◆

第1872日目 〈マタイによる福音書第26章1/2:〈ユダ、裏切りを企てる〉、〈主の晩餐〉他withわが肉体の故障、ほぼすべての元凶はここにあり。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第26章1/2です。

 マタ26:1-5〈イエスを殺す計略〉
 ──すべてを語り終えたイエスは弟子たちに告げた。人の子は2日後の過越祭の日、十字架に掛けられるために引き渡される。
 その頃、祭司長たちや民の長老たちが大祭司カイアファの屋敷でイエス捕縛と殺害について相談していた。過越祭を祝うためにエルサレムへ集まってきた民衆が騒ぐと厄介なので、その日にイエスを捕らえるのはやめよう、とかれらは決めた。

 マタ26:6-13〈ベタニアで香油を注がれる〉
 エルサレムとはオリーブ山を挟んで反対側にある町ベタニアで、イエスは重い皮膚病を患うシモンという人を見舞った。そのとき、1人の女が、香油が入った高価な壺を持ってきて、イエスの頭に香油を注ぎかけた。それを見咎めた弟子の何人かが、どうしてそんな無駄遣いをするのか、それを売って貧しい人へ施しを行えばいいのに、と詰った。
 その人を困らせてはならない。イエスはそういった。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれたのだ。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタ26:12-13)

 マタ26:14-16〈ユダ、裏切りを企てる〉
 弟子の1人、イスカリオテのユダは銀30枚でイエスを裏切ることに決め、祭司長たちへイエスを引き渡す好機を窺っていた。

 マタ26:17-25〈過越の食事をする〉
 除酵祭の第1日、弟子たちが過越の食事はどこで摂るか、とイエスに訊ねた。イエスはエルサレムに住む或る人の家を指定した。弟子たちはその家で過越の食事の支度を調えた。
 その日の夕方、イエスは12人の弟子たちと食事をするため、卓に着いた。と、食事中にイエスがいった、──
 「『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。(中略)わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』」(マタ26:21,23-24)
 企てがバレたか、と猜疑に駆られたユダは、まさかそれは自分のことでしょうか、と訊いた。イエスは、それはあなたがいったことだ、と答えるだけだった。

 マタ26:26-30〈主の晩餐〉
 食事中、イエスはパンを手にして讃美の祈りを唱えたあと、それを12人の弟子たちへ分け与えた。これを受け取って食べなさい、これはわたしの肉である。
 ぶどう酒を注いだ杯を回して、いった。この杯を受け取って飲みなさい。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタ26:28)
 イエスはいった、父の国であなたがたと再びこうして会うまで、わたしはぶどうの実から作られた飲み物を口にすることはない、と。
 それからかれらは讃美の歌をうたって、オリーブ山へ行った。

 マタ26:31-35〈ペトロの離反を予告する〉
 イエスはいった。今夜、あなた方は皆わたしにつまずく。が、わたしは復活したあと、あなた方よりも一足先にガリラヤへ行っている。
 ペトロは進み出て、誰があなたにつまずこうともわたしはつまずいたりしません、といった。
 イエスはペトロにいった、──
 「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マタ26:34)
 ペトロはこれを否定した、共に死ぬことがあろうともあなたを知らないなどとはいいません、といって。他の弟子たちも、ペトロと同じようにいった。

 遂にイエスの公生涯で最後の2日間が始まった。イエスについてわれらの知る挿話が本章では目白押しだ。ペトロの否認の予告、イスカリオテのユダの裏切り、ベタニアでの香油注ぎなど、いつかどこかで、なんらかの形で接したことがあるような挿話が並ぶ。ユダの裏切りについては太宰治の短編「駈込み訴え」で知る人も多かろう。が、なんというても本章でいちばんの目玉というべきは、マタ26:17-30にて描かれる<最後の晩餐>であろう。これこそ、古今東西ありとあらゆるアーティストが取り挙げた題材であり、また種々の媒体で紹介される場面である。
 イエスと12人の弟子たちが過越の食事を摂り、主の晩餐──〈聖体の制定〉/〈聖体拝領〉が行われた場所について、本章は特に知らせることがない。が、並行箇所であるマコ14:13-16、ルカ22:8-13にはそれが記されている。即ち、エルサレムの、水瓶を運んでいた人の主人の家の2階である。ここが<最後の晩餐>の舞台となった(『聖書大図鑑』のエルサレム地図によれば、それは大祭司カイアファの屋敷の目と鼻の先である)。どちらの福音書に於いても場所を提供した人々の名は記されていない。
 名が記されていない、といえば、ベタニアにてイエスへ香油を注ぎかけた女についても同じだが、こちらは並行箇所の一つ、ヨハ12:3にて「マリア」という名が与えられている。ルナン『イエス伝』でマリアは前節に出るマルタの妹、イエスが死者のなかから甦らせたラザロの姉妹である、という(余談だが、わたくしがラザロの名とエピソードを知ったのは、スティーヴン・キングの哀切極まりない長編『ペット・セマタリー』に於いてであった)。そこでは重い皮膚病患者シモンは登場せず、代わってこのラザロがいる──病によって一旦は命を落として甦ったラザロが。まるで香油注ぎの場面には、重い病人の存在が欠かせない、とでもいうかのように。イエスにベタニアの町を訪問させる理由として、どうしてもシモンやラザロのような重い病人が町にいることが必要であった、とでもいうかのように。ラザロとマリア(とマルタ)が兄弟姉妹であるとなれば、本章に於けるシモンと女も兄妹となるのだろうか。
 イエスを預言者と信じる民衆がエルサレムへ集まる過越祭の日にイエスを捕らえるのは、祭司長たちにとっても民の長老たちにとっても、即ちイエス殺害を目論む人々にとって、自分たちの立場を危うくする行為だった。その日を避けて逮捕しよう、とされたのは当然の成り行きだろう。それを根本から揺さぶったのが、イスカリオテのユダの裏切り。結局それがかれらの計画を変更させた。敢えて過越祭の日に逮捕することになったのだ。ユダがどのような行状の持ち主かは別として、かれらにとってはイエスの弟子たちのなかから、しかも自ら進んで師の引き渡しを持ち掛けてきた者がいた、ということが重要だった。これで、イエス逮捕の大義名分はいくらでも付けられる、とでも考えたのだろう。
 ところで、イエスがユダに投げた言葉「それはあなたのいったことだ」とは、どのような意味だろう。言葉を噛みしめつつ考えると、結構そら恐ろしい意味のように感じるのだが……。

 本日の旧約聖書はマタ26:31とゼカ13:7。
 「『わたしは羊飼いを打つ。/すると、羊の群れは散ってしまう』」(マタ26:31)
 これの典拠は、
 「万軍の主は言われる。/羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。」(ゼカ13:7)



 肩も背中も腰もバキバキなのだ。すべてはこの重量約7.5キロのリュックゆえである。時々強烈な痛みや怠さを訴えたくなるすべての元凶。
 本音をいえば、こんなに重い荷物を持ち歩きたくなんて、ない。1日の遅滞もなくこのブログを終わらせたい、と願ういちばんの理由は、このほぼ毎日背負っている荷物から来る体の故障と無縁の日々を送りたい、というただその一点のみ。全部、資料を電子書籍化させようとしない出版社が悪いんだ、と、こっそり責任転嫁。
 さあ、ブログの完結が先か、体が壊れるのが先か。その顛末をきみよ、じっくり地獄で見届けてくれ。◆

第1871日目 〈マタイによる福音書第25章:〈「十人のおとめ」のたとえ〉、〈「タラントン」の教え〉 &〈すべての民族を裁く〉withS.スマイルズと本田博士の本を読む。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第25章です。

 マタ25:1-13〈「十人のおとめ」のたとえ〉
 目を覚ましていなさい、用意していなさい、とわたしイエスはいった。その日、その時の訪れがいつなのか、誰にもあらかじめわかることなどできないのだから。
 そのことは、このようにも喩えられる。──10人の処女が婚礼の日に、それぞれ松明に火を灯して婿を出迎える準備をした。うち5人は壺に油を入れていた賢い者だったが、残り5人はその用意を忘れた愚か者だった。到着した婿を迎えるため、賢い処女たちは松明に火を灯した。が、愚かな処女たちにはそれができない。油が少ないから、と断られた彼女たちは店まで油を買いに行った。が、その間に婿は来て、用意万端であった賢い処女たちを伴って入り、門を閉ざさせた。戻ってきた愚かな処女たちは門を開けてくれるよう懇願したが、婿は、わたしはあなたたちなど知らない、というばかりだった。
 わたしイエスはあなた方弟子にいう、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから」(マタ25:13)と。

 マタ25:14-30〈「タラントン」の教え〉
 主人が旅に出る前、僕を呼んで、それぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けた。5タラントンを預かった者と2タラントンを預かった者はそれぞれ商売して、倍ずつ儲けた。が、1タラントンを預かった僕は地面に穴を掘ってそこへお金を隠した。
 やがて主人が戻ってきて、預けたお金の精算を始めた。5タラントンを倍にした者と2タラントンを倍にした者は、それぞれ主人から褒めの言葉をもらい、多くの者を管理する仕事を任された。
 が、1タラントンを地中に隠した僕は叱責された。主人が蒔かない場所から刈り取り、散らさない場所から掻き集める性分であることを知っていたからである。主人はこの僕を、怠け者で不忠な悪い僕、と呼んで1タラントンを取り上げると、外の暗闇に放り出した。
 「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マタ25:29)

 マタ25:31-46〈すべての民族を裁く〉
 人の子がやって来て、栄光の座に着く。人の子は自分の前に連れてこられたすべての国の民を、右と左に選り分ける。右は羊で、左は山羊。
 人の子は、右側へ分けられた人々にいう。わたしの父に祝福された人々よ、天地創造のときからあなた方のために用意されていた国を受け継ぎなさい。なんとなればあなた方は、わたしが飢えていたとき、喉が渇いていたとき、旅をしていたとき、裸のとき、病気のとき、牢にいたとき、手を差し伸べてふさわしい施しをしてくれたからである。あなた方よ、いつ自分がわたくしにそのようなことをしたか、などと訝るな。「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタ25:40)
 人の子は、左側に分けられた人々へいう。呪われた者どもよ、わたしの前から去れ。悪魔とその手下どものために用意された永遠の業火へ身を投げよ。なんとなればお前たちは、わたしが飢えているとき、喉が渇いているとき、旅をしているとき、裸のとき、病気のとき、牢にいるとき、手を差し伸べることもふさわしい施しを行うこともなかったからだ。呪われた者どもよ、手を差し伸べなかったことも施しを行わなかったことも自分は一度もない、などと偽るな。最も小さな者のために行わなかったことは、わたしにも行わなかったのである。
 わたしイエスはいう、「この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」(マタ25:46)と。

 これまでにイエスが行ってきた教えと喩え話の総括である。
 事実、20数章にわたってわれらが読んできたイエスと弟子たち、群衆、ファリサイ派と律法学者、サドカイ派との問答、喩えを用いての説教は、本章にて終わる。明日からはイエス最後の2日間の物語を3章、4日間にまたがって読む。
 今日は感想として多くの言葉は費やさぬ。これまでに読んだ箇所を併読しつつ、最後の喩え話へ耳を傾け、いわんとするところへ耳を傾けよう。



 ちかごろはちょっと家のなかでも会社でも気の塞ぐことがあったので、サミュエル・スマイルズの『自助論』と『向上心』、本田静六の『わが処世の秘訣』を読んだ。
 こんなとき、ハマトンやヒルティの言葉は生温い。切っ先の鈍ったナイフにも劣る。スマイルズや本田博士の、偽りとも粉飾とも、持って回ったような言い方とも無縁な言葉が欲しい。ストレートな物言いで訴えかけてくる、この2人の本の方がずっと良い。
 勿論、スマイルズと本田博士のこれらの本がいずれも三笠書房、知的生き方文庫に収められていて、しかも竹内均がかかわっているのは偶然でしかない。
 ド氏は明日から。やっぱり、明日から。やっぱりな。◆

第1870日目 〈マタイによる福音書第24章:〈神殿の崩壊を予告する〉、〈目を覚ましていなさい〉他with先にド氏を読んじゃいます。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第24章です。

 マタ24:1-2〈神殿の崩壊を予告する〉
 ファリサイ派と律法学者たちを非難し終えたイエスは、弟子たちを連れて神殿の境内から出て行った。そうして弟子たちに、神殿を指差して、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マタ24:2)といった。

 マタ24:3-14〈終末の徴〉
 エルサレムをあとにしたイエスがオリーブ山に坐っていると、弟子たちが来て、終末はいつ訪れるのですか、人の子が来る(再臨する)徴はどのようなものですか、世が終わるときにはどんな徴が現れますか、と訊いた。
 誰にも──偽メシアにも偽預言者にもだまされないようにしなさい。イエスはそういった。かりに戦争が始まっても慌てたり、騒いだりしてはならない。それは世の終わりではないのだから。続けて、イエスは弟子たちへ斯く語りき、──
 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタ24:7-14)

 マタ24:15-28〈大きな苦難を予告する〉
 かつて預言者ダニエルはいった、憎むべき破壊者が聖なる場所に立つ、と。そのときが来たら、ユダヤ人は山へ逃げなさい。妊娠中の女、乳飲み子を抱える親は不幸である。それが冬や安息日でないことを祈りなさい。
 「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるだろう。」(マタ24:21-22)
 偽メシアや偽預言者が現れても、かれらの言葉を信じてそのとおりに行動してはならない。奴らが示す大きな徴やふしぎな業を見ても、ゆめ惑わされてはなりません。

 マタ24:29-31〈人の子が来る〉
 苦難の日々の後には、太陽は暗くなり、月は光を放つことをやめる。星はあるべき位置から落ち手、天体は揺り動かされる。が、実は、人の子が来るのはそのような時なのです。
 「そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マタ24:30-31)

 マタ24:32-35〈いちじくの木の教え〉
 イチジクの木の枝がやわらかくなり、葉が伸びると、それは夏が近附いた証拠だ。
 あなた方も、こうした徴が天に現れたならば、人の子が戸口に近附いてきているのだ、と思いなさい。
 徴が天に現れるときまで、この時代はけっして滅びたりしない。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタ24:35)

 マタ24:36-44〈目を覚ましていなさい〉
 が、しかし、人のこの徴が天に現れるのがいつなのか、それは誰にもわからない。天使にすらわからない。知るのは天の父のみである。1人は選ばれ、1人は残される。
 「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が却って来られるのか、あなたがたには分からないからである。(中略)あなたがたも用意しておきなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタ24:42,44)

 マタ24:45-51〈忠実な僕と悪い僕〉
 主人の信を得た僕は家内を正しく切り盛りし、いつ何時主人にその様子を見られても、恥ずかしくない。やがて主人はかれに財産の管理を任せることだろう。
 主人の信を得ても怠けて仕事せず、飲み食いして打ち騒いぐような僕は、遅かれ早かれ主人にそれを見附かり、厳しい罰を受けて偽善者と同じ目に遭うだろう。喚いて歯ぎしりするだろう。

 これまで触れたことがなかったな。新約聖書に何度も登場するオリーブ山はエルサレムの東側にある。エリコへの街道とベトファゲへの街道に挟まれたような場所に位置し、その北西麓にはゲツセマネの園がある。かつてオリーブ畑があったために斯く呼ばれるようになったそうだが、「ゼカリヤ書」第14章第4節にて最後の審判の日、神が立ち死者が復活するという記述に由来して、墓所として使用されていた由。本章にて行われたイエスによる弟子たちへの終末の日の説教と相俟って、ここは聖書に登場する数々の山のなかでも5本指に入るぐらいの存在感を示す山と思う。
 なお、ベートーヴェンに《オリーブ山上のキリスト》または《橄欖山のキリスト》というオラトリオがある(Op.85)。初演から好評を得ていたというが、現在この作品が上演・録音されることは非常に稀である。個人的な音盤のオススメとして、1960年代のヘルマン・シェルヘン=ウィーン国立歌劇場管弦楽団=マリア・シュターダー他によるウェストミンスター盤と、2003年頃に発売されたケント・ナガノ=ベルリン・ドイツ交響楽団=プラシド・ドミンゴ他によるハルモニア・ムンディ盤を挙げる。
 弟子たちの問いに答えて語る本章にて抜きん出た印象を残すのは、やはり終末の訪れについて語られている箇所であろう。この箇所あるゆえに「マタイによる福音書」でいちばん黙示文学に接近した場面でもある。
 しかし、それが妙に重苦しく感じられたり、胸を圧されたりしないのは、終末の日に起こる出来事、最後の審判の日について語ることに比重が置かれているわけではないからだろう。ここで専ら語られるのは、<その日の訪れ>に備えて生きよ、という前向きな提言である。<その日>が来るときにはかならず人の子が来臨する徴が現れる、でもそれはいつ何時現れるかしれないから、あなた方はただひたすら<訪れ>がいつあっても良いように心を清らかにし、正しく生きるよう努めなさい、というガイドライン。──それが他ならぬイエスの口からされているせいで、安堵と信頼の感情を読み手は抱くことができるのだ。
 マタ24:13-14「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」という言葉が、どれ程の希望と救いを心にもたらしてくれることか!

 本日の旧約聖書はマタ24:15とダニ9:27,11:31,12:11,マカ一1:54と59,マカ二6:1-5。マタ24:30とダニ7:13。
 「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つ」(マタ24:15)
 これの典拠は、
 「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。」(ダニ9:27)
 「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。」(ダニ11:31)
 「王は祭壇の上に「憎むべき破壊者」を建てた。」(マカ一1:54)
 「その後程なく、王はアテネ生まれの長老を派遣した。王は、ユダヤ人を無理やりに父祖伝来の律法から引き離し、神の律法に沿った生き方を禁じ、エルサレムの神殿を汚し、その神殿をゼウス・オリンポスの宮と呼ばせ、地域住民が集まってくるゲリジム山の神殿をゼウス・クセニオスの宮と呼ばせた。のしかかってきた悪は、すべての人にとってまことに耐え難く、不愉快極まりないものだった。実際、神殿には娼婦と戯れる異邦人たちの乱痴気騒ぎが充満し、境内では女たちとの交わりが行われるようになった。その上、禁じられている物まで持ち込まれ、祭壇には、律法によって禁止されたものが山のように供えられた。」(マカ二6:1-5)

 「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタ24:30)
 これの典拠は、
 「夜の幻を見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り」(ダニ7:13)



 昨日まで迷っていたけれど、ようやく決めることができた。ドストエフスキーか、村上春樹か。いずれも<王>の御許へ赴く前に片附けるつもりだが、どちらを先にしようか、と悩んでいたのである。
 わたくしは今日(昨日ですか)、丘の上の図書館へ本を返しに行った。出掛ける間際、S.キングの短編集に代わってリュックへ入れたのは、某書店のカバーを掛けたまま2,3年放置された文庫、しかも当時は半分ぐらいまで読んだ形跡を残した文庫。つまり、ドストエフスキー『未成年』上巻である。
 ──ホームで電車を待つ間に読み始めた。ゆっくりと、じっくりと、味わうが如くに。そんな最中、或ることに気が付いた。ちょっと待て、俺。本当にドストエフスキーの長編で読んでいないのは2作だけか? まだなにかあったんじゃないか? そんな引っ掛かりを抱えたまま主人公アルカージーによる序文を読み終えたとき、口のなかで、ああそうか……、と思い出した。
 わたくしは昨日のブログで、ドストエフスキーの未読になっている長編作品は2作である、と申しあげた。が、実は然に非ず。シベリア流刑から文壇に復帰したドストエフスキーが最初に発表した長編小説、即ち『虐げられた人々』をまだ読んでいなかったのだねぇ。いや、参ってしまった。書架の前列にあって毎日背表紙は見ていたはずなのに、すっかり未読であることを忘れてしまっていた。いや、毎日その作品の背表紙を見ていたがゆえに読んだと思いこんでしまっていたのかも。どちらにせよ、今日からこれを読もう、と決めた作品を勇躍読み始めた途端、その事実に気が付くとはなぁ……。いや、参ってしまった。
 図書館の最寄り駅に着くまでの間、読みながらこれからについて考えた。さて、どうしようか。──が、考えるまでもない。既に答えは出ている。海外作家の場合は読み初めの1作を別にすれば、好きになってもっと他にも読んでみよう、となったら原則として発表された順番に読んでゆくことにしている。ゆえにドストエフスキーについても事情は同じで、せっかく読み始めた『未成年』であるが、ここは再び読書を断念して『虐げられた人々』へ戻ることにした。
 明日は食事を作る当番ではないし、外出する用事もないから、ブログ原稿を書きあげたら暖かくして数年ぶりのド氏を楽しもう。◆

第1869日目 〈マタイによる福音書第23章:〈律法学者とファリサイ派の人々を非難する〉&〈エルサレムのために嘆く〉withそれは神なる<王>の御許へ帰還する予告である。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第23章です。

 マタ23:1-36〈律法学者とファリサイ派の人々を非難する〉
 そのあとでイエスは、弟子たちと群衆に向かっていった。曰く、──
 律法学者とファリサイ派の人々はモーセの座に着いている。為、かれらの発言には耳を傾け、行い、守りなさい。が、かれらの言動を真似てはならぬ。有言実行などしないからだ。
 よいか、わたしに付き従う人々よ。あなた方は先生と呼ばれてはならぬ。地上の者を父と呼んではならぬ。教師と呼ばれてもならぬ。あなた方の先生はただ1人だけで、他は皆兄弟である。あなた方にとって父は天の父のみ。あなた方の教師はわたしキリストのみなのだ。
 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタ23:11-12)
 律法学者とファリサイ派の人々は偽善者だ。かれらは、7つの理由ゆえに不幸である。その7つの理由とは、以下のようなものである、──
 人々の前で天の国の門を閉ざすから。
 改宗者を自分の倍も悪い地獄の子にしてしまうから。
 人々に、神殿の黄金や供え物にかけて誓いをさせるから。
 律法の最も重要な正義、慈悲、誠実を蔑ろにしているから。
 自分の外観を取り繕うばかりで、内側の強欲と放縦を正そうとしないから。
 他者からは正しいように見えながら、内面は偽善と不法に満ちているから。
 正しい人の記念碑を築いたり、預言者の墓を建てたりしているから。かれらは、自身の発言によってこの人たちを殺したのが自分たちの先祖であることを証言した。どうして、律法学者とファリサイ派の人々が地獄の業火から免れられようか。
 「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタ23:34-36)
──と、イエスは弟子たちと群衆にいった。

 マタ23:37-39〈エルサレムのために嘆く〉
 エルサレムよ、自分のために遣わされた預言者や正しい人々を死に追いやってきた町よ。わたしは何度もお前の子らを集めようとしたけれど、けっきょくお前がわたしの思いに応じることはなかった。やがては町も神殿も見棄てられ、朽ちて荒れ果てるだろう。
 「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(マタ23:39)

 これまでも折に触れて、ちくり、ちくり、とイエスはファリサイ派や律法学者を非難してきた。しかしながら大抵の場合、それは喩え話を用いてされてきたのに対し、本章ではより直接的、攻撃的に非難の言葉を浴びせるようになっている。それはもはや確信犯的行いだ。まあ、それが陰口の類に(結果として)なってしまっているのは否定できない。
 5番目の理由と6番目の理由については、内も外も清らかで正しくあれかし、という意味であることがわかれば把握もし易かろうが、でも残念ながら現在も過去も、地球上のどんな地域にも、それを実現、体現できている人は仲々いないのである。斯く取り繕ってメッキが剝がれぬよう腐心し、人格者を演じている人は、それこそ掃いて捨てる程に存在するけれど。
 引用したマタ23:34は、やがてわれらも読書や勉強を通して目撃する、ゴルゴダの丘に於けるイエス磔刑、弟子(使徒)たち、信徒たちの迫害を予告しているようにしか読めないのだが、さて、かれらはこの私見についてどのようにいうだろう。
 ──以下、註。
 アベル;アダムと妻エバの次男。羊を飼う者。兄カインと一緒に主へ献げ物をしたが、自分の献げ物を神が選んだことに怒った兄により殺害される。聖書初の殺人事件の被害者はアベルであった。創4:5,10。
 ゼカルヤ;祭司ヨヤダの子。南王国ユダの人。父亡き後、ヨアシュ王共々先祖の神、主の神殿を捨てて異教の神、偶像に仕えた民を非難したことで殺害された。マタ23:35にて父をバラキアとするのは、小預言者ゼカリヤの父ベレクヤと混同されたためか。代下24:20-22。

 本日の旧約聖書はマタ23:39と詩118:26。
 「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』」(マタ23:39)
 これの典拠は、
 「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」(詩118:26)



 いやぁ実はスティーヴン・キングの小説は読み残しが幾つもあってねぇ、とは以前より申しあげているところだけれど、今日またそこに1作が新たに加わってしまったのである。著者自ら最愛の作品と呼ぶ『リーシーの物語』上下(文春文庫)がそれだ。
 むろん、この作品はハードカバーで持っているけれど、それこそ読み残しが生まれるようになった最初の1作ではなかったか。まだキングを心ゆくまで、なんの後ろ髪引かれる思いもなく読み耽るようになるにはかのロシアの文豪の未読長編を2作、片附けてしまわねばならぬ。が、それが済んだら今度こそ、わたくしはわが神キングの長短編とじっくり対峙してゆくのだ。
 復帰劇の開幕を告げるべき作品は、ドラマの日本初放送に伴って先に文庫化された『アンダー・ザー・ドーム』ではなく、『悪霊の島』や『セル』でもない。況んや『11/22/63』でも中編集でもない。この『リーシーの物語』でなくてはならぬ。
 半日勤務の帰り、職場近くの書店で見附けるや即座に購入したこの作品で、わたくしは神の御許へ帰還を果たすのだ。待っていろ。
 なお文藝春秋からはこのあと、『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』、『リヴァイヴァル』と3部作の第1作である『ミスター・メルセデス』、またペーパーバック・オリジナルで刊行されたミステリー小説『ジョイランド』の翻訳出版が待機している由。具体的な刊行時期は不明だが、いまは静かに出版の報を待とう。そういえば、新潮文庫から刊行が予告されている《ダーク・タワー》シリーズの番外編はいつ出るのだろう?◆

第1868日目 〈マタイによる福音書第22章:〈「婚宴」のたとえ〉、〈最も重要な掟〉他withわがエデンの園はやがてソドムと化す。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第22章です。

 マタ22:1-14〈「婚宴」のたとえ〉
 イエスはファリサイ派の人々に、天の国について喩え話を用いて説明した後、こういった。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタ22:14)

 マタ22:15-22〈皇帝への税金〉
 ファリサイ派の人々はイエスの前を辞すと、どのようにしてイエスの言葉尻を捉えて罠に掛けようか、と相談した。そうして自分たちの弟子をヘロデ党の人々と一緒にイエスの許へ行かせ、美辞麗句でイエスを讃仰させた後、こう訊ねさせたのである。曰く、ローマの皇帝に税金を納めることは律法に適った行いでしょうか、と。
 イエスはかれらにいった。なぜお前たち偽善者はわたしを試そうとするのか。税金として納める1デナリオン銀貨には、誰の肖像、誰の銘が刻まれているか。ローマの皇帝であろう。ゆえにわたしはお前たちにこう答える、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタ22:21)と。
 これに驚く人々の前からイエスは去った。

 マタ22:23-33〈復活についての問答〉
 ファリサイ派と違って復活を否定するサドカイ派の人々がイエスのところに来て、モーセの言葉を引き合いに出して訊ねた。曰く、──
 或る人が子供を設けぬまま死んだ場合、弟は兄嫁を妻として兄の跡継ぎを設けなくてはならない、と聖書にあります。われらのところに7人兄弟がいますが、長男が子供を設けぬまま死んでしまったので、弟が義姉を嫁にしました。が、これも子供を設けぬまま死んでしまいました。下の5人も長兄の妻だった女と結婚しましたが、皆同じ運命を辿って終にはその女も死んでしまいました。かれら全員が復活した場合、果たしてこの女は兄弟のうち誰の妻になるのでしょう。
 イエスはかれらにいった。お前たちは思い違いをしている。聖書も知らず、神の力も知らないからだ。復活のときには娶ることも嫁ぐこともなく、ただ天使の如くになるのみである。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタ22:32)
 人々は、イエスのこの教えを聞いて、非常に驚嘆した。

 マタ22:34-40〈最も重要な掟〉
 イエス、サドカイ派を論破する。──これを知ったファリサイ派はサドカイ派の人々と集まって相談した。そのうちの1人である律法学者がイエスの許に行って、律法のなかで最も大事な掟とはなんでしょうか、と訊ねたのである。
 イエスは答えた。それは2つある。1つは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタ22:37)もう1つは、「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタ22:39)……律法全体と預言者はこの2つの掟に基づいているのだ。

 マタ22:41-46〈ダビデの子についての問答〉
 イエスはファリサイ派の人々に訊ねた。メシアとは誰の子か。
 ファリサイ派の人々はイエスに、メシアはダビデの子である、と答えた。
 イエスはファリサイ派の人々にいった。ダビデは霊を受けてメシアを主と呼んだ。ならばどうしてメシアがダビデの子たり得ようか。
 「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」(マタ22:46)

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とは、いつかどこかで聞いた記憶のある言葉である。自分の持ち物のうち、正統なる持ち主が明らかなものあらば、それは自分のものではなくその人のものなのだから、ちゃんと返納しなさない、という主旨で合っているだろうか。
 税金の挿話に話を戻せば、銀貨に刻まれた銀貨に刻まれた肖像と銘ゆえにその銀貨は皇帝のものなのだから、ローマ皇帝に税金を納める行為は是であり、律法に適った行いである──イエスはおそらくそういうているのだろう、わたくしの理解が福音書の主旨、文脈に沿うたものであるならば。
 ところで、この銀貨はティベリウス銀貨であろうか。洗礼者ヨハネの活動開始からイエス処刑までの間、ローマ帝国皇帝はティベリウスであった。ゆえに斯く思う。そうして、もしそれがティベリウス銀貨であったとすれば、この時代の息吹はわずかと雖も遠く19世紀末のアーサー・マッケンの小説にて「復活」することになるのだった。さよう、これはただの世迷い言である!
 ──然るべき持ち主にそれを返せ。これを読むにつけ想起するのは、詩編第88篇の一節である。「主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔を隠されているのですか。」(詩88:15)知る人よ、以てわが想いを汲み給え。
 マタ22:1-14〈「婚宴」のたとえ〉については大幅にカットしたが、このなかの一節「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(マタ22:7)。多くの研究書、註釈書、歴史書にて指摘されるところであるが、この箇所は後70年、第1次ユダヤ戦争に於けるエルサレム陥落を示唆している由。
 なお、本文中に「ヘロデ党」というのが出る。これは文字通りヘロデ王朝を支持する一派であり、いい換えれば親ローマ帝国派である。ローマへの納税にまつわる挿話でこのヘロデ党が出るということは、ローマへの納税に反対する人々あらば告発する立場にあったゆえであろうか。そんな風に、訝しむ。

 本日の旧約聖書は、マタ22:24と申25:5-6、マタ22:32と出3:6と15、マタ22:37と申6:5、マタ22:39とレビ19:18、マタ22:44と詩110:1。
 「『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』」(マタ22:24)
 これの典拠は、
 「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」(申25:5-6)

 「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』」(マタ22:32)
 これの典拠は、
 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出3:6)

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」(マタ22:37)
 これの典拠は、
 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申6:5)

 「『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタ22:39)
 これの典拠は、
 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ19:18)

 「『主は、わたしの主にお告げになった。/「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」(マタ22:44)
 これの典拠は、
 「わが主に賜った主の御言葉。/「わたしの右の座に就くがよい。/わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」 」(詩110:1)



 性急な増員ペースに受け入れる側は付いて行けず、それゆえにこそ却って人間関係が壊れつつある現在。新規参入者は他者を睥睨し、あいさつなど無駄な行いと思うて頑なだ。
 豊かなる園は心ない人々によって崩壊の兆しを見せ始めた。殺伐として秩序の狂わされた環境に心を痛めた古くからの住人は、いまや真剣にその楽園から去ることを検討するも、後ろ髪引かれる想いもあって迷うている。お願いだからせっかく得た仲間を失うようなことをしないで。
 エデンはいまやソドムと化しつつある……。◆ 

第1867日目 〈マタイによる福音書第21章:〈エルサレムに迎え入れられる〉、〈いちじくの木を呪う〉他with遅刻だ、遅刻だ、遅刻だよぉ!?〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第21章です。

 マタ21:1-11〈エルサレムに迎え入れられる〉
 イエスはガリラヤ地方からエルサレムへ上った。その際、近郊の町ベトファゲにて弟子2人に、乗るためのろばを調達させた。もし誰かに会って咎められたら、主がこのろばを必要としているのです、といいなさい。
 かれらが引いてきたろばにイエスは乗って、州都エルサレムへ入った。人々はイエスをダビデの子と歓呼(ホサナ)して迎え、道行く先に自分の服を敷き、折った木の枝を敷いた。
 「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られる方に祝福があるように。/いと高きところにホサナ。」(マタ21:9)
 或る人が問うた、これはどういう人だ、と。或る人が答えた、この人はガリラヤ地方から来た預言者イエスである、と。

 マタ21:12-17〈神殿から商人を追い出す〉
 イエスは都へ入ると、神殿へ行き、境内で行商中の商人たちを追い出した。わたしの家は祈りの家であるべきなのに、あなた方は強盗の巣にしている、といって。
 そのあと、境内にいた目の見えない人、体の不自由な人が寄ってきて、イエスはかれらを癒やした。また、境内にいた子供たちがイエスに向かって、ダビデの子ホサナ、と歓呼した。
 この様子に腹を立てた祭司長たちと律法学者たちがイエスに詰め寄り、子供たちの叫びが聞こえないのか、といった。勿論、聞こえる。そうイエスは答えて、かれらに返した。あなた方こそ、幼子や乳飲み子の口に賛美歌を歌わせた、と詩篇にいうのを読んだことがないのか。
 そうしてイエスはエルサレムを出て、ベトファゲの町に泊まった。

 マタ21:18-22〈いちじくの木を呪う〉
 翌る朝早く、エルサレムへの道すがら、空腹を覚えたイエスは1本のイチジクの木を見附けたが、葉を付けるばかりで実は生っていなかった。イエスは怒って、イチジクの木を呪って枯らしてしまった。
 弟子たちは驚いて、どうして枯らしたのですか、と訊いた。イエスは答えて曰く、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、(中略)そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタ21:21-22)

 マタ21:23-27〈権威についての問答〉
 神殿にて説教中のイエスに祭司長や民の長老たちが、いったいなんの権威があってこのようなことを行っているのか、と訊いた。それにイエスは返して曰く、わたしもあなた方に訊こう、答えられなければわたしも答えぬ、と。
 イエスは訊いた。ヨハネの洗礼は天からのものか。それとも、人からのものか。
 祭司長や民の長老たちは答えた。わからない。
 洗礼が天からのものであるといえば、ヨハネを信じられなかったことを詰問され、人からのものであるといえば、ヨハネを預言者と信じる民衆を敵に回すことになるので、祭司長や民の長老たちは、わからない、と答えざるを得なかったのだ。

 マタ21:28-32〈「二人の息子」のたとえ〉
 父が息子2人にそれぞれ、ぶどう園に行って働け、といった。否、と兄はいい、諾、と弟は答えた。が、考え直して兄は行き、弟は行かなかった。兄弟のどちらが父の望みに適う行動をしただろうか。
 イエスはそんな喩え話をして、祭司長や民の長老たちに問うた。かれらは、兄の方だ、と答えた。イエスはいった、──
 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタ21:31-32)

 マタ21:33-46〈「ぶどう園の農夫」のたとえ〉
 イエスは祭司長や民の長老たちに、別の喩え話をした。
 或る家の主人がぶどう園を造り、設備を整えて、農夫たちに貸し与えて自分は旅に出た。やがて収穫期が近附き、主人はぶどう園の収穫を受け取ろうと数人の僕を派遣した。ぶどう園を預かっていた農夫たちはかれらを殺し、また半身不随にした。このことがもう一度繰り返された。主人の息子が最後に派遣されたが、やはり殺された(「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」マタ21:39)。
 イエスは訊いた。主人が旅から帰ってきたら、この農夫たちをどう扱うだろう。
 祭司長や民の長老たちが、殺して一掃したあともっと誠実で真面目な農夫を雇うに違いない、と答えた。
 イエスはいった。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。/これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(マタ21:42-44)
 祭司長やファリサイ派の人々は、イエスが自分たちを揶揄していることに気が付いた。かれらはイエスを捕らえようとしたが、かれを預言者と信じる民衆を敵に回すことを恐れて、できなかった。

 「ホサナ」は「救いを求める」という意味だが、年を経るに従って歓呼を示す感嘆詞へ変化していった。また、マタ21:42「聖書」とはむろん、旧約聖書の内の一冊をここでは指す。
 イエスのエルサレム入りはソロモン王のエルサレム入城の場面を思い出させる(王上1:33-46)。偶然か、倣ったか、創作か。イエスを偉大なる存在と信じて疑わぬ福音書の著者が、この場面の執筆の際なにを思うていたか、どんな胸の高ぶりを覚えていたか。そんなことを考えると、わたくし自身もちょっとワクワクしてくる。この場面が事実で、しかもエルサレム入りのシチュエーションが同じうすることが偶然でないならば、イエスなり著者なりの目に触れる範囲に「列王記」があってそれを読むことができたことを、ここは暗に示唆していよう。
 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(マタ21:22)とは概ね正鵠を射た教えと思うし、特に意義を表明するつもりもないけれど、しかし空腹を満たせなかったばかりにイチジクの木を枯らしたあとで出て来る言葉ではないように思う。自分のわがままや短気の結果をごまかすために、こんな教えでカモフラージュしているように思えるのだ。
 事実の隠蔽、論旨のすり替え。こんな行状が隠されることもなく記されている点に、わたくしは聖書のおおらかさ、呑気さを感じる。新約聖書のおもしろさ、イエスの人間味を垣間見ることのできる、うれしい挿話である。
 昨日のぶどう園の喩え話には眉を潜めさせられてちょっと感想もエスカレートしてしまったが、今日のこのイチジクの木を呪う挿話は非常に面白いと思う。
 なお、本章に於いてわたくしが気に入っているのは、〈権威についての問答〉であります。

 本日の旧約聖書はマタ21:5とイザ62:11,ゼカ9:9、マタ21:9と詩118:25-26、マタ21:13とイザ56:7、マタ21:42と詩118:22-23。
 「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」(マタ21:5)
 これの典拠は、
 「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。」(イザ62:11)
 「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。」(ゼカ9:9)

 「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られる方に、祝福があるように。/いと高きところにホサナ。」(マタ21:9)
 これの典拠は、
 「祝福あれ、主の御名によって来る人に。」(詩118:26)

 「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(マタ21:13)
 これの典拠は、
 「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザ56:7)

 「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。/これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。」(マタ21:42)
 これの典拠は、
 「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。/これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。」(詩118:22-23)



 夢のなかでと或る同僚に後ろから羽交い締めに等しいハグをされて、うれしくてしあわせだったけれど息苦しくて、窒息寸前の状態になったところで、今朝は目が覚めました。
 様々な感情が綯い交ぜになった「はあ……」という溜め息を吐いたのですが、時計を見たら7時48分! 見事なまでの遅刻モードだ。しかし遅刻したら迷惑を掛けてしまうので(ただでさえ入電件数平均900/日なのだ!)、迷わず最寄り駅からタクシーを使いましたよ。ええ。
 でも気になるのは夢のなかの同僚以上にタクシー料金がいつもより90円高かったこと。ふむぅ。◆

第1866日目 〈マタイによる福音書第20章:〈「ぶどう園の労働者」のたとえ〉、〈イエス、三度死と復活を予告する〉他with完全版お披露目の報告。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第20章です。

 マタ20:1-16〈「ぶどう園の労働者」のたとえ〉
 天の国はこのようにたとえられる、とイエスはいった。曰く、──
 ぶどう園の主人が労働者を1日1デナリオンの報酬で雇った。夜明けに雇い、9時頃に雇い、12時と3時頃にも雇って、広場からぶどう園に送りこんだ。
 この主人が黄昏近い5時頃広場へ行ってみると、そこにはまだ何人かがいて、立ち尽くしている。どうしたのか、と主人が訊いた。まだ誰も雇ってくれないのです。かれらは立ち尽くしたまま、そう答えた。そこで主人はかれらを先の労働者同様、広場からぶどう園へ送りこんだ。
 さて、夕方。1日の労働の終わる時刻になった。主人は監督者を呼び、最後に来た者たちから始めて最初に来た者たちまで順番に賃金を支払ってやるよう命じた。監督者はそうした。
 ……最後に来た労働者たちは喜んだ。1日分の報酬が得られたのだから。最初に来た労働者たちは納得がいかなかった。最後に来た労働者たちと同額の賃金が渡されたからだ。そこでかれらは主人に詰め寄った。1時間しか働かなかった連衆と、夜明けからずっと炎天下のなかで働いたわれらが、どうして同じ賃金なのか。
 主人はいった。友よ、わたしが約束を違えたとでもいうのか。わたしはあなた方に1日1デナリオンの報酬を与える、といった。あなた方は今日の労働の対価として1デナリオンを受け取ったではないか。わたしは最初に来たあなた方にも、最後に来たかれらにも、同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいように使うことはいけないことだろうか。それとも、あなた方はわたしの気前の良さを妬んでいるのか? さあ、その日当を持って、家に帰りなさい。
──と。
 このように、天の国はたとえられる。あとから来た者が先となり、先に来た者があととなる。イエスはそういった。

 マタ20:17-19〈イエス、三度死と復活を予告する〉
 上洛の道すがら、イエスは12人の弟子たちだけを集めて、こう告げた、──
 エルサレムに着いたら人の子は捕らえられ、祭司長たちによって死刑を宣告される。そのあと、異邦人によって拷問され、十字架に掛けられて処刑される。が、人の子は3日目に復活する。

 マタ20:20-28〈ヤコブとヨハネの母の願い〉
 イエスの前にゼベダイの息子たち、即ちヤコブとヨハネの母が来ていうには、あなた様が王座に就いた暁には是非わが子をその右と左に坐らせてください、いえ、坐らせるとこの私にいってください、と。
 あなたは自分がなにをいっているのか、わかっていない。イエスはそういった。そうして母の傍らにいるヤコブとヨハネに訊ねた。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。
 首肯する兄弟にイエスはいった。確かにあなたはわたしの杯を飲むことになる。が、わたしの右に誰が坐るか、わたしの左に誰が坐るか、それを決めるのはわたしではない。そこへ坐るのは、わたしの父によって定められた人皆に許されていることなのだ。
 ……他の10人はこのことを知り、憤った。そこでイエスは12人の弟子たちを呼び集めて、──
 支配し、支配される関係が異邦人の間にはある。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタ20:26-27)
 仕えられるためではなく仕えるために、人の子が来たのと同じように、多くの人の身代金として自分の命をささげるために、人の子が来たのと同じように。

 マタ20:29-34〈二人の盲人をいやす〉
 エリコからエルサレムへ延びる街道がある。その道端に2人の盲人が坐りこんでいた。かれらはイエスが通ると、憐れんでください、と叫んだ。イエス一行に従う群衆が2人を黙らせようとしたけれど、なおもかれらは叫び続けた。
 イエスは2人の前に膝を折ると、どうしてほしいのか、と訊いた。かれらの曰く、目が見えるようにしてほしいのです、と。イエスは深く憐れんで、かれらの目に手を触れた。すると、かれらの目は見えるようになった。
 かれらはその後、イエスに従う群衆の1人となった。

 「ぶどう園の労働者」は有名な喩え話である。西洋の社会保障制度の発達は、人々の生活のなかで新約聖書が繰り返し読まれ、そのなかでこの喩え話も社会へ浸透していったことが背景にある、という。事実かどうか調べる余力は自分にないが、納得させられもする。まあ、誰にでも等しく、実際の労働時間に関係なく同額の賃金がもらえる、というのは魅力的であり、羨ましく、実に良い話である──
 かもしれないが、ちょっと待ってほしい。本当に良い話なのか? 1時間しか働かなかった者にも10時間近く働いた者にも、等しく1日分の給与が支払われることが? ぶどう園の主人が広場へ行って労働者を雇い、ぶどう園へ送りこむ。ここで雇用契約が発生、成立する。契約内容として本章に記されているのは「主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」(マタ20:2)のみで、あとは精々が9時に雇った人々に対して、「ふさわしい賃金を払ってやろう」(マタ20:4)という台詞があるぐらいだ。賃金については1日1デナリオンという日給のみが賃金に係る契約であり、そこに労働時間の多い少ないは考慮されていない。だから1時間しか働いていなくても、1日分の報酬が与えられるのは至極当然といえるのだろう。が、会社員がこの挿話を読むとどうも釈然としないものが残るのだ。夜明けから働いている人の言い分に肩入れし、主人の物言いに反発を覚えるのだね。
 1日1デナリオンが労働者の賃金であることは既に他でも述べた。この挿話に於いては、朝早くから来ている者も、昼と午後から来て働いた者にも、仕事にあぶれてその日はひねもすそこに突っ立っていた者にも、等しく同額の賃金は支給される。たっぷり働いた者にも、まったく働かなかった者にも、1デナリオンの日給が与えられるのだ。
 わたしはこのことについて不平をいうあなた方に対して、なに一つ不正なことはしていない。わたしは最後に来た者にも同じ給料を支払いたいのだ。自分のものを自分の思うようにするのがどうしていけないというのか。──ぶどう園の農主即ちイエスは、そういう(マタ20:13-15)。
 ──イエスは大工の子である。が、こんな喩え話を堂々とされると、この人は大工のヨセフの子であるというだけで、実際に大工なり何なりの生業を持って労働したことなどないのではないのだろうか、と訝しんでしまう。安い給料で賃金以上の仕事を求められるケースはいまも、おそらくは昔も大差ないと思うが、それであっても人は生活のため、家族のため、生存のために「勤労」の名の下に汗して働くことになる。
 そうした者からすれば、かりに安い賃金であろうとそれは自分たちが受け取って然るべき報酬であり、それゆえに、朝から来て働いていた人にとってはあとから来てなにもしない、乃至は半分の労働量しか提供しない者が自分たちと同額の賃金を受け取ることに不満を持ち、雇用主に訴えたくなるのは道理である。自分たちよりあとから来た者が同じ額の賃金を受け取るなら、かれらの実入りは実質的に朝から働いていた人よりも高い給料を得たも同じである。
 こんな喩え話を、よくもイエスは恥ずかしげもなく披露できるものだ。これが果たして<教え>といえるのか。この男は正気か? 自分の考えは如何なるものも常に正しい、と狂信する独裁者も同然だ。かれにとって労働は敵か、罪か。安息日以外の日に行われる労働とて一切白眼すべき行いなのか。流石、人の施しにすがって教えを宣べ伝えたトリック・スターだけある。イエスは労働を経験したことがあるのか。労働の対価としてのお金の重みを知ったことがあるのか。わたくしはいずれについても、ノーであるように思えてならぬ。
 この喩え話を西洋の福祉保障の端緒と見る人もいる。或る程度までは首肯できる。が、一方でイエスの教えの虚しさ、脆さ、不気味さを窺い知る格好のエピソードと取ることもできよう。すくなくともわたくしは、この喩え話を礼賛する側に回りたくない。朝から晩まで働いている人を愚弄、嘲笑しているように思える教えだからだ。なによりもイエスの脳みその中身や倫理観に疑問を持つ。
 ……長々と綴ってきたが、釈然としない、という一言が本章を読んでの感想、そのまとめとなる。拝読、感謝。



 ただいま、2016年09月23日15時48分。ヒューストン、報告がある。
 本日の記事は昨年2015年02月04日にお披露目した原稿の完全版です。「本日は当面、下記小見出しの感想のみお披露目とし、他については後日の公開とさせていただきます」とかつて書いた約束を、ようやく果たすことができました(「下記小見出し」とは〈「ぶどう園の労働者」のたとえ〉をいいます)。
 まさか聖書全巻の読書が終わったあとにこれを書くことになろうとは、たぶん当時は考えていなかっただろうなぁ。気掛かりではあったのです。いつか機を見て筆を執らなくては、と思い思いしつつも先へ進むことを優先した結果、新約聖書の読書はどんどん進み、執筆も紆余曲折を経ながらも同様に進み、いつの間にやら今日へ至った次第であります。
 これで懸念はなくなったかな。聖書読書・執筆に関しては「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」に専念すればいいかな。エッセイを別とすれば、記憶にある限りで抜けた箇所はもうないはずだが……。◆ 

第1865日目 〈マタイによる福音書第19章:〈離縁について考える〉、〈子供を祝福する〉&〈金持ちの青年〉with明日からなにを読むか、真剣に悩んでいるんだ!〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第19章です。

 マタ19:1-12〈離縁について考える〉
 これらのことを語り終えたイエスは、ガリラヤ地方を去り、ヨルダン川を渡ってユダヤ地方へ入った。
 ファリサイ派の人々がイエスに近附き、理由さえあれば夫が妻を離縁することは律法に適っているか、と訊いた。イエスはかれらに答えて曰く、あなた方は本当に律法を読んでいるのか、といった。そもその始めから創造主は男と女を造った。人は父母から離れて女を妻とし、もはや別々ではなく1つの存在となる。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マタ19:6)
 続けてファリサイ派の人々が、ではどうしてモーセは離縁状を渡して離縁するように命じたのか、と訊いた。イエスはかれらに答えて曰く、あなた方の心がかたくなで最早どうしようもなかったからモーセは離縁を許したのだ、始めから夫婦の離縁を認めていたわけではない、と。「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタ19:9)
 このやりとりを聞いて弟子たちは、じゃあ結婚して妻を迎えたりしない方がマシですね、といった。イエスは答えて曰く、この言葉を受け入れるのは男女の縁に恵まれた者だけだ、と。続けて、──
 「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタ19:12)

 マタ19:13-15〈子供を祝福する〉
 そのとき、祝福してもらおうと子供を連れた人々が来た。弟子たちはかれらを叱った。イエスはそれを諫め、いった。わたしの許へ来るのを妨げてはならない、天の国はかれら子供たちのものである、と。
 そうしてイエスは子供たちに手を置き、そこから去った。

 マタ19:16-30〈金持ちの青年〉
 或る青年がイエスに近寄って、永遠の命を得るためにはどんな善いことをすれば良いでしょうか、と聞いた。イエスは答えて曰く、わたしに善いことについて訊ねるな、善いことを教えられる方はただ一人である、と。命を得たくば掟を守れ。
 青年は、掟とはなんですか、と訊いた。イエスは答えて曰く、──
 殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を自分の如く愛せ。
 青年は、それならもう既に行ってきました、それ以外にはなにがありますか、と訊いた。イエスは答えて曰く、──
 「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタ19:21)
 青年はこれを聞くと、悲しみながらその場を去った。かれはたくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちにいった。金持ちが天の国に入ることは難しい、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいだろう。
 ならばいったい誰が救われるというのだろ、と弟子たちが驚いた。イエスはいった。それは人間にはできないが、神は何でもできる。
 ペトロがイエスに、なにもかも捨ててあなたに従うわれらはなにがいただけるのでしょう、と訊いた。イエスは答えて曰く、──
 「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタ19:28-30)

 結婚と富について考える。
 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とは、これ以上になにをも求めるべくのない真実である。既に夫婦である者、これから夫婦となる者は、この言葉の意味するところをよくよく噛みしめて心に刻み、首肯して従うべきであろう。が、一部の定められた者は婚姻そのものを諦めてその事実をありのままに受け入れよ、ともいう──なによりも天の国に仕える者は。カトリックの神父の独身なるべし、というはここを根拠とするか。結婚にまつわる本挿話を読む際、これの延長線上にあるものとして、たとえば「コリントの信徒への手紙」第7章や第12章第31節b-第13章第13節、また、「エフェソの信徒への手紙」第5章第21-33節を併読してみるとよい。
 富についても、わたくしは多くを語らぬこととする。ただ、イエスの前から悄然として去って行く青年の後ろ姿に感じるところはある。かれのこの後ろ姿は読者に、持っているものに対するしがらみを捨てることが難しいことを伝えている。これは単に財産、貯金への執着や未練というばかりではない。持っているものを手放すことは難しく、とても勇気が要る行為なのだ……。よくわかる。この場合に限っていえば、<必要なのにないよりも、あるのに必要ない方がいい>というのは戯言の極みである。こんなとき、実践すべきは本多博士の蓄財術ではなく、断捨離なのだ。

 本日の旧約聖書はマタ19:7と申24:1、マタ19:18-19と出20:12-16、申5:16-20、レビ19:18。
 「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」(マタ19:7)
 これの典拠は、
 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申24:1)

 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタ19:18-19)
 これの典拠は、
 「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。」(出20:12-16)
 「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。」(申5:16-20)
 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ19:18)



 じゅうぶんに堪能しながら、スティーヴン・キングの短編集『骸骨乗組員』(サンケイ文庫)を読了。やはり「霧」は読み応えのある作品だ。フランク・ダラボン監督による映画『ミスト』は結末について特に賛否を浴びたが、じつは原作のなかにダラボンのイマジネーションに火を付けたであろう、映画の結末を是とさせる一文があるのを見出して、思わず感嘆と称賛の溜め息をついてしまったことを、ここで告白させていただく。
 『骸骨乗組員』を読み終えた今日からはなにを読もうか、と昨日の晩からいろいろ考えていたのだが、なにを書架から出してリュックに放りこんだのか、いっこう覚えていない。楽しみ半分で今朝の電車のなかでリュックを探ってみたところ、なんと、キングの短編集がそのまま入っていた! 自分自身にツッコミを入れながら、「カインの末裔」を読みましたよ。
 そこで明日からはなにを読もうか、と真剣に考えねばならぬのだけれど、迷っている。途中になっている<村上春樹読書マラソン>を再開させるか、或いは、ドストエフスキー『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』を読んでしまうか、と考えるも答えは出ない。読書についていえばあんがい優柔不断なんだな、とわがことながら感心している。前者についていえば、残るは一部の紀行とノンフィクションなので、ちょっと手を伸ばすのも躊躇っている、というのが本音。
 さて、いったい明日からの読書はどうなるんでしょうね。勿論、まったく別の本を読んでいる可能性だって否定はできない。えへ。◆

第1864日目 〈マタイによる福音書第18章:〈天の国でいちばん偉い者〉、〈罪の誘惑〉他with残されたMVを観て、ぐったり肩を落とす。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第18章です。

 マタ18:1-5〈天の国でいちばん偉い者〉
 弟子たちがイエスに、天の国でいちばん偉いのは誰ですか、と訊いた。イエスは1人の子供を呼び集めて、弟子たちにいった、──
 誰であれ、心を入れ替えて子供のようにならねば天の国には入れない。それが誰であれ、自分を低くして子供のようになる者が天の国ではいちばん偉いのだ。わが名ゆえに子供を受け入れる者は即ちわたしを受け入れるのである。

 マタ18:6-9〈罪の誘惑〉
 だがしかし、と続けてイエスはいった。この、わたしを信じる小さな者の1人をつまずかせる者は不幸である。首に大きな石臼を掛けられ、深い海に沈められる方がマシなのだ。
 もし片方の手や足があなたをつまずかせるなら、その手や足は切って棄ててしまえ。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、その目を抉り出してしまえ。五体満足のまま永遠の火が燃え盛る地獄へ投げこまれるぐらいなら、たとい片手片足、片目だけであっても命あって生き永らえる方がマシである。

 マタ18:10-14〈「迷い出た羊」のたとえ〉
 これら小さな者の1人と雖も軽んじてはならない。かれらの天使たちは皆天の国でわたしの父の顔を仰いでいるのだから。これらの小さな者が1人でも滅びてしまうことは、天の父の望むところではない。
 ※マタ18:11欠。

 マタ18:15-20〈兄弟の忠告〉
 あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、2人きりの所であなたは兄弟を諭しなさい。忠告を聞き入れたら、あなたは兄弟を得たことになる。
 もしそれでも兄弟が忠告を聞き入れないなら、1人か2人、他に連れて行って改めて兄弟を諭しなさい。あなたを含めて2人か3人の証人の口からすべてのことが確定されるようにである。
 それでも兄弟が忠告を聞き入れないようなら、教会へ申し立てなさい。それでも駄目なら、もうあなたは兄弟を異邦人や徴税人同様に見、扱った方がいいでしょう。
 はっきりいうておくと、あなた方が地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれる。また、どんな願い事であれ、あなた方のうち2人が心を1つにして祈り求めたならば、わたしの天の父はそれをかなえてくれる。というのも、2人乃至は3人がわが名によって集まるところには、必ずわたしがいるからだ。

 マタ18:21-35〈「仲間を赦さない家来」のたとえ〉
 ペトロがイエスに、何回までなら兄弟を赦してよいのでしょう、と訊いた。それにイエスが答えて曰く、7回どころか7の70倍までも、と。
 この場合、──とイエスがいった──天の国ではこのように例えられる。或る王が家来たちに借金を清算させようとした。決済が始まったとき、1人の家来が王の前に連れて来られた。かれは10,000タラントンの借金を抱えている。王は決済を迫った。が、家来の必死の嘆願に憐れみを感じて、王はその家来の借金を帳消しにしてやった。
 ところがこの家来は城外で、自分に100デナリオン借金している仲間に会った。家来はなにがなんでもお金を返してもらおう、と相手の首を絞め付けたりするだけでは物足りず、完済されるまでの間牢へ閉じこめてしまったのだ。このことは王の耳に入り、件の家来を呼び出して、こういった、──
 「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」(マタ18:33)
 斯くして家来は、自分が仲間にしたのと同様、借金が完済されるまでの間、牢へ閉じこめられてしまったのである。
 このように、──とイエスがいった──あなた方1人1人が兄弟を心から赦さないならば、天の父もあなた方に対してこの喩え話の王のようにすることだろう。

 マタ16:19にてペトロの専権として与えられたことが、マタ18:15-20〈兄弟の忠告〉では弟子たちにも与えられている。が、それでもペトロの立ち位置は変わらぬだろう。というのもかれは天の門の鍵を与えられているからだ。
 本項に於いて、教会への申し立ても空振りに終わったなら、もはや兄弟を同胞とさえ見做すな、という。が、これを厳しい、というのは当たらぬだろう。兄弟にはこれまで何度となく赦しを求める機会があったのだろう。しかし、厳しい処置であることは事実として否定ができない。血のつながり。それが呼び起こす<情>からは、なかなか自由になることができないからだ。われも例外に非ざる者なり。
 憐れみによって借金がチャラになる主従関係を諒とするか、如何に思うかは別として、自分の借金が誰彼の慈悲によって精算されたなら、自分に借金している相手へも寛容となるべきだ。近親者の犯した罪は、それが何度繰り返されたものだったとしても、憐れみを以て示し、慈悲の態度を示せ。自分に示された憐れみ、慈悲を、他者にも示せ。
 ──これは相互扶助の教えだ。明後日に読むぶどう園の喩えが社会保障のきっかけとなるならば、この王と家来の借金の話は相互扶助のきっかけだったのではないか。そう考えてしまう。
 なお、当時の労働者の1日分の賃金は1デナリオンであった。6,000デナリオンで1タラントンとなる。仲間の借金100デナリオンは100日分の労働賃金に相当し、家来の借金10.000タラントンはその60万倍──今日のわれらの通貨に換算してこれが幾らになるか不明だが、いずれにせよ結構な額であることに間違いはないだろう。家来がいったいどうやって、なにをしてこの巨額の借金を負債として抱えるに至ったのか。いちおう小説家の端くれとしては非常に関心がある。

 本日の旧約聖書はマタ18:16と申19:15。
 「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」(マタ18:16)
 これの典拠は、
 「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」(申19:15)



 先日スペースシャワーTVで放送されていたSKE48特集を、この原稿を書きながら観ていたのだけれど、そのあまりもの変貌ぶりにショックを隠しきれず、なんだか切なくなってしまった。
 最初と最後ではまさに<死屍累々>の言葉がぴったり! 得たものも勿論大きいが、失ったものも大きすぎる。映像が残る、というのは残酷であるな。
 疲労と寂寥が綯い交ぜになったものを、いま全身に感じているよ。◆

第1863日目 〈マタイによる福音書第17章:〈イエスの姿が変わる〉、〈悪霊にとりつかれた子をいやす〉withiPhone5、すは昇天か?〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第17章です。

 マタ17:1-13〈イエスの姿が変わる〉
 ──死と復活の予告から6日後、イエスは弟子のなかからペトロ、ヤコブとヨセフ兄弟を選んで従わせ、高い山へ登った。そこでイエスの姿は変容した。顔は太陽の如く輝き、衣は光のように白くなり。そうしてかれの周囲にモーセとエリヤが現れ、3人は語り合った。
 驚喜するペトロたち。かれらの前に光り輝く雲が現れて、イエスとモーセとエリヤの姿を隠した。その雲のなかから声が響いた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」(マタ17:5)
 やがて雲は消え、モーセとエリヤの姿も消えた。雲のなかからの声に恐れてひれ伏すペトロたちにイエスが触れて声をかけたとき、もうそこには雲はなく、自分たち4人以外の人の影はなかったのである。
 ──下山する際、イエスはペトロたちにいった。人の子が復活したあとまでこのことは誰にも語ってはならない。弟子たちは了解した。
 どうして律法学者たちは、まずエリヤが始めに来るはずだ、などというのでしょう、と、下山しながら弟子たちがイエスに訊いた。これに答えてイエスの曰く、たしかにエリヤが先に来てすべてを元通りにするのだ、と。続けて、──
 「言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々はこれを認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(マタ17:12)
 これを聞いて弟子たちは既に来たエリヤが洗礼者ヨハネを指しているのだ、と悟った。

 マタ17:14-21〈悪霊にとりつかれた子をいやす〉
 或る人がイエスに、悪霊に取り憑かれたわが子を癒やしてください、と請うた。あなたのお弟子さんたちでも追い払うことができなかったのです。
 イエスは弟子たちを詰った。いつまでわたしはあなた方と一緒にいればいいのか。わたしはいつまであなた方に我慢しなくてはならないのか。そうしてイエスは件の人の子を癒やした。
 そのあと、弟子たちがイエスに訊ねた。どうして自分たちはあの子を癒やせなかったのでしょう、。イエスは、あなた方の信仰が薄いからだ、と答えた。続けて、──
 「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなた方にできないことは何もない。」(マタ17:20)
 ※マタ17:21欠。

 マタ17:22-23〈再び自分の死と復活を予告する〉
 自分は人々に引き渡されて殺されるが、3日経ったあとで復活する。そうイエスはいった。弟子たちはこれを聞いて悲しんだ。

 マタ17:24-27〈神殿税を納める〉
 カファルナウムにて。徴税人がペトロのところへ来て、お前の先生は神殿税を納めないのか、と訊ねた。勿論、納めますよ。ペトロはそう返事したあとイエスのところへ行き、このことを伝えた。
 イエス;ペトロよ、どう思う。地上の王は税を誰から取り立てる? 自分からか、他人からか。
 ペトロ;他人からです、先生。
 イエス;そうだ。しかしかれらをつまずかせるのはよくない。ペトロよ、湖で釣りをしてきなさい。最初に獲れた魚の口にスタテル銀貨が入っているから、それをわれら2人分の神殿税としてエルサレム神殿へ献納しなさい。
 ペトロはそうした。

 ユダヤ人の成年男子は毎年、エルサレム神殿への献納金として2ドラクメを支払うことを義務とされていた。これを神殿税という。「ドラクメ」はローマの通貨単位でヘブライに於ける「デナリオン」と同価。即ち2ドラクメは2デナリオンであり、労働者の2日分の賃金である。
 いまのわれらの感覚でなくても、相当に高い徴税額である。馬鹿にはならぬ額だ。すくなくとも、気軽に支出することを首肯できるようなものではない。当時のユダヤ人はたしかローマ総督とユダヤ領主にそれぞれ税を支払っており、各種関税も課せられていたから、かれらの収入全体に占める徴税率は如何程であったことか。
 魚の口のなかにある銀貨。新共同訳聖書では単に「銀貨」と記すが、岩波やフランシスコ会、個人など他訳を参照して「スタテル銀貨」とした。これはイエスとペトロ2人分の神殿税となったのだから、スタテル銀貨1枚で2ドラクメの倍に相当する。
 イエスが変容した山はガリラヤ湖南西、カファルナウムから約35キロ程に位置するタボル山と伝えられる。が、一方でガリラヤ地方北部のフィリポ・カイサリアから更に北東、ダマスコから西へ約20キロ程離れたヘルモン山である、ともいう。イエスが公生涯の過半を送った地方にあるゆえ、伝承も様々に生まれよう。なお、いずれの山も旧約聖書に何度も登場した山である。
 この「高い山」に現れたモーセとエリヤは、律法と預言者の象徴として出る。イエスを預言者として見、律法の完成者として見る、という、<イエス=メシア>という概念をあざといまでに強調する点が特徴な「マタイによる福音書」らしい表現である、と思う。まぁ比較的喩えのわかりやすい/捉えやすいヴィジョンではある。

 本日の旧約聖書は、マタ17:5と申18:15。
 「これに聞け。」(マタ17:5)
 これの典拠は、
 「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申18:15)



 そろそろ2年縛りも終わることだし、iPhoneの機種変更を検討している。5Sになるのか、6になるのか、6Plusになるのか、それはまだわからぬ。
 ただ、バッテリーが持ってくれることを望む。朝は97%であったのが会社に到着したら45%になっていて、昼休憩のときには3%になっていた、とか、そんな事態が避けられることが第一。いくらなんでもへたりすぎだろう、と思うて、モバイル・バッテリーにつないで充電を始めると、電池の残量表示は51%になっていたりする。こんなマカフシギな現象と無縁になってくれさえすれば、まずは良い。
 今日も今日とて、残量が一桁になっていたから充電しようと思うてケーブルをつないでみれば、まるで認識しなかった。ほら、画面に電池残量とケーブルを挿せ、という絵が表示されるじゃない。充電ケーブルを挿した途端、<ケーブル挿せ>の絵が消えて、まるで充電される様子がない。いよいよバッテリーが昇天したか。加えてケーブル接続口の接触不良も同時に発生したか。笑えない状況に追いこまれた気持ちがしたものだ。
 が、何度か絶望半分でケーブルを挿し治す行為を繰り返していたら、天がわが意を汲んだか、それとも憐れんだか、単なる偶然、iPhoneが気紛れを起こしたか、いずれにせよ再びいままで通り充電されて、いまは電池残量100%を示している。明日はカメラのキタムラかAppleStoreへ朝から駆けこまなくてはならないかなぁ、と懸念していて、たしか市内にはiPhoneの修理を請け負っている専門業者がいたっけな、とキャリアのショップでもらったチラシを探していたので、安堵の溜め息をついて胸を撫で下ろしているところである。
 しかし、今宵の一件を以てわたくしは2年縛りが終わったらすぐに機種変更することを決意した。出ると噂されるiPhone6の通常画面サイズなど待っていられない。だからそれまでは、わがiPhone5よ、へそを曲げたりしないでなんとか持ちこたえてくれ。わたくしはいまお前に昇天されたらまったく身動きができず、数多の不義理を犯すこととなり、かつ要らぬ債鬼に追われることとなるのだから。──嗚呼、わたくしにルードヴィヒ2世のような人物がいたのなら!◆

第1862日目 〈マタイによる福音書第16章:〈ペトロ、信仰を言い表す〉、〈イエス、死と復活を予告する〉他with賛さとう珠緒〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第16章です。

 マタ16:1-4〈人々はしるしを欲しがる〉
 ファリサイ派とサドカイ派の人々がイエスを試そうとかれのところへやって来て、天のしるしを見せてみよ、といった。イエスは答えた、──
 あなた方は空模様を見て明日の天気がわかるのに、時代のしるしを見ることはできないのか。邪で神に背く時代の者は欲しても天のしるしを得ることはできない。
 そういうや、イエスは飄然とかれらの前から去った。

 マタ16:5-12〈ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種〉
 ガリラヤ湖の対岸でのことだ。イエスは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意するように、と弟子たちにいった。弟子たちはパンを持ってきていなかったので、イエスがそれについていっているのだ、と話し合った。すると、それを聞き咎めたイエスの曰く、──
 どうしてあなた方はわからないのか。覚えていないのか、数個のパンで数千人の空腹を満たしたことを。そのとき、パン屑は幾籠分になったか。もう一度いう、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。
 ──そのときになってようやく弟子たちは、イエスがファリサイ派とサドカイ派の教えに注意せよ、といっているのだ、と思い至ったのである。

 マタ16:13-2〈ペトロ、信仰を言い表す〉
 ガリラヤ湖最北に近いフィリポ・カイザリア地方にて。
 イエスは問うた、皆は人の子のことを何者と呼んでいるか、と。弟子たちが答えるには、洗礼者ヨハネ、預言者得エリヤまたはエレミヤ、或いは預言者の一人である、と。
 重ねてイエスが、ではあなた方はわたしを何者と思うか、と問うた。するとシモンことペトロが進み出て、いった。あなたはメシア、生ける神の子。
 イエスはシモンのこの信仰告白に感じて、かれを祝福し、ペトロの首位権を約束した。そのときのイエスの言葉に曰く、──
 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタ16:17-19)

 マタ16:21-28〈イエス、死と復活を予告する〉
 この頃からである、イエスがやがて訪れる自身の未来について語るようになったのは。曰く、自分は必ずエルサレムへ行くが、そこでファリサイ派や律法学者らに苦しめられてやがて殺されよう、が、わたしは3日後に復活するだろう、と。
 これを聞いたペトロは慌ててイエスを脇へ連れてゆき、どうしてあのようなことをお話しするのですか、と諫めた。殺されたり甦るなどあってはなりません。
 イエスはペトロにいった。阻むな、サタン。あなたは神を思わず、人間を思っている。
 そうしてイエスは弟子たちにこういった。曰く、──
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(マタ16:24-28)

 本章が福音書、イエスの公生涯と言行を記録した書物のターニング・ポイントとなる。12人の弟子のうちシモンが信仰告白をしたことで、かれが弟子団の筆頭、代表格と見做された──もっとも、このあとかれの信仰は二転、三転し、イエス亡き後は使徒として初期キリスト教会の立役者となり、伝承ではローマに赴くイエスの幻に付き従ってかの地にて逆さ磔刑に処された、という──。世間からイエスの霊性は相応に認知されている。そうして、4つの福音書に共通して存在する唯一無二のクライマックス、即ち捕縛-尋問-磔刑-死-復活が、他ならぬイエス自身の口から予告される。……これはもはや予告ではなく予見ではあるまいか。
 いずれにせよ、ここは重要な部分である。ゆえ、早々に「まとめ」を諦めて大部の引用を決意した。但し、読みやすさを優先して適宜改行した。
 なお、ペトロとはギリシア語で「岩」という意味。イエスは、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる、というた。これは建造物としての教会では勿論なく、砂のように脆いものではなく<岩>という堅固など台の上に末永く続く信仰を表すための場所、即ち教会を、個人個人が心のなかに持つようになさい、という風なことであろう。揺るぎなく信仰を持て、と諭すこの件、なかなか味わい深い箇所である。



 いまやすっかり形を潜めて「あの人はいま」状態にあるさとう珠緒だが、わたくしはこの人が実は好きである。和久井映見や宮﨑あおいに較べてしまえば女優としての格は下がるかもしれないけれど、この人にはこの人ならではの独特の雰囲気がある。脚本と監督と撮影に恵まれさえすれば、デカダンス女優の最右翼になり得るだろう。「希望ヶ丘夫婦戦争」からそこまではあと2,3歩のような気がするのだけれど。
 あの妖艶あるエロス、影を帯びた表情と姿態、見る者すべてを捕らえて吸いこんでしまうような底知れぬ瞳。それらのあるを差し置いて壇蜜とか橋本マナミなんて足下にも及ばないと思うのだが。たっぷりとした愛情を注ぎこみ、果てることなき情念の暗い渦に絡め取られて<地獄へ落ちるときはお前も一緒……>的なファム・ファタル振りを演じきることのできる女優は、さとう珠緒を於いて今日、他にいないと思うのだが?
 わたくしはさとう珠緒を、和久井映見や宮﨑あおい程ではないけれど、それに肉薄するぐらいの想いを秘めて愛していると告白したい。◆

第1861日目 〈マタイによる福音書第15章:〈昔の人の言い伝え〉、〈カナンの女の信仰〉他with地元へ帰る日。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第15章です。

 マタ15:1-20〈昔の人の言い伝え〉
 イエスの許にエルサレムからファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、かれに訊ねた。あなたの弟子たちはどうして食事の前に手を洗わないのか、どうして昔からの言い伝えを破るのか。これにイエスが答えて曰く、──
 どうしてあなた方は自分たちの教えや言い伝えのために神の掟を破るのか。十戒には、父母を敬え、とある。律法には、父母を呪う者は死刑に処される、とある。なのにどうしてあなた方は、父母に向かって、あなたたちへ差し上げるものは神への供物にする、などというのか。あなた方は、自分たちの教えのために神の掟を無視している。実はこのことは既に預言者イザヤを通して語られていたことの実現であるのだ。
 それからイエスは自分に付き従う群衆に向かって、いった。聞いて悟れ、口に入るものは人を汚さず、口から出るものは人を汚すのだ、と。
 弟子たちが近附いてきて、イエスにいった。あなたの言葉を聞いてファリサイ派の人々がつまずいたのをご存知ですか。イエスは答えた、そのままにしておきなさい、と。かれらは盲人の道案内に等しい。盲人が盲人を導いても穴に落ちるだけだ。
 ペトロがイエスに、さっきファリサイ派とサドカイ派の人々にいっていたたとえの意味を教えてください、と頼んだ。イエスは嘆息して頭を振り、ペトロたちにいった。曰く、あなた方もまだ悟らないのか、と。続けて、──
 「口から出る来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行為、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るのである。これが人を汚す。」(マタ15:18-20)

 マタ15:21-28〈カナンの女の信仰〉
 或るとき、イエスはガリラヤ湖北西の大海沿岸の町、ティルスとシドンの方へ行った。途中、この地方に生まれたカナン人の女がイエスに縋って、いった。主よダビデの子よ、わが娘を憐れみ給え、わが娘には悪霊が取り憑いておりますゆえ。しかし、イエスはこのカナン女になにも答えなかった。
 叫びながら付いてくるカナン女にほとほと参って弟子たちがイエスに、どうかこの女を追い払ってください、と頼んだ。が、イエスはこう答えるばかりだった、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ15:24)と。
 女は、今度はイエスの前にひれ伏して、娘を助けてくれるよう懇願した。イエスはいった。子供のパンを取って犬にやるな。女は、ごもっともです、しかし犬は主人のテーブルから落ちパン屑は食べるのです、と返した。
 これにイエスは感心して、あなたの信仰は立派だ、といった。帰りなさい、あなたの願い通りになるように。
 果たしてこのカナン人の女が家に帰ると、娘は癒やされていたのだった。

 マタ15:29-31〈大勢の病人をいやす〉
 ティルスとシドンのある地方から戻ってきたイエスは、或る山に登って坐った。そこへ群衆が、数多の病人を連れて押し掛けてきた。イエスは皆の病気を癒やした。

 マタ15:32-39〈四千人に食べ物を与える〉
 同じ場所で。
 イエスは群衆が腹を空かせているのを見かねて、弟子たちを呼び集めた。かれらはもう3日もわたしと一緒にいるが、なにも食べていないから腹を空かせている。この状態で解散させれば途中で倒れてしまう者も出て来ることだろう。
 が、かれらの腹を満たそうにもそこに食糧はなく、近隣のどこからも調達できるアテはなかった。
 そこでイエスは訊ねた。いまパンは何個あるか。7個である、と弟子たちが答えた。それと、魚も少々。イエスはそれらを受け取ると、感謝の祈りを唱えた。そうして7個のパンと少々の魚を裂いて弟子たちに渡し、これをかれらに食べさせなさい、といった。弟子たちはそうした。すると、群衆の腹はすっかり満たされたのだった。その数、女子供を除けば男子4,000人。
 その後、イエスは群衆を解散させ、自分はマガダン地方、即ちガリラヤ湖西岸の町マグダラのある地方へ向かった。

 徐々にイエスとファリサイ派、律法学者の対立が表面化してきていることがわかる。サドカイ派があまりイエスとの諍いに関わりを持たぬように見られるのは、詰まるところ、互いに目の上のタンコブ状態にはなっていない、ということでもあろう。
 律法を重視する一方でローマとの共存を図るという意味で、見ようによっては「生き残るための節操のなさ」が目立つサドカイ派は、イエスの目にファリサイ派程頑迷ではなく、神の掟から離れているとは雖も自分の考えと共通する部分のあることを感じていたのかもしれぬ。
 かつてイエスは弟子たちに、サマリアなどではなくイスラエルの家の失われた羊、即ちユダヤ人のところへ行け、と命じた(マタ10:5-6)。本章に於いてイエスは自分自身もかれらのために遣わされたのだ、と述ぶ。そうしてイエスは本章にて異邦人たるガリラヤ人の女の願いをかなえてその娘を癒やした。
 イエスの目的は、ただユダヤ人のみを救うことに非ず。かれが癒やし、救うのは特定の民族ではなく、同じ信仰を本当に持つ者である。それを高らかに語るのがマタ15:21-28〈カナンの女の信仰〉である。単に構成上の理由というてはミもフタもないけれど、本挿話以後異邦人が信仰表明するところが、新約聖書には散見されるようになる。わたくしは本挿話を読んで、キリスト教が全世界へ伝道、受容されてゆく理由の一端を(今更ながら)知ったように思うのだ。ここには確かに、平等と寛容と希望と愛がある。

 本日の旧約聖書はマタ15:4aと出20:12,申5:16,マタ15:4bと出21:17,マタ15:8-9とイザ29:13。
 「父と母を敬え」(マタ15:4a)
 これの典拠は、
 「あなたの父母を敬え」(出20:12)
 「あなたの父母を敬え」(申5:16)
 補記;出エジプト記」、「申命記」それぞれこのあとに、「あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る」(申)旨文言が続く。

 「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」(マタ15:4b)
 これの典拠は、
 「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。」(出21:17)

 「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。/人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。」(マタ15:8-9)
 これの典拠は、
 「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。/彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」(イザ29:13)



 福富町の馴染みのクラブで閉店まで飲んだくれたあと、終電もない帰り道をタクシー1台摑まえることすらままならず、天気予報通り雨が降りやがて霙に変わった空の下をてくてく歩いて、つい先程午前3時18分に帰宅したみくらさんさんかです。皆様、どのような未明の時間をお過ごしでしょうか。
 いまの場所になって6年、その前を含めると約10年も通っている計算になる件のクラブに寄る前は、横浜某所のキリン・シティで黒ビール&いいだこのフリット、達人ビール&本日のタパス、白ワイン&フィッシュ・アンド・チップスをお腹に収めたわけですが、帰り道、殆ど人通りも車の行き交うことも殆どなくなった稀有なる時間帯の国道脇の歩道を歩きながら、みくらさんさんかはふと考えた。
 これまで自分が贔屓にしてきた(?)お店、気が向くと足を向けていたお店というのは、場所がどこであろうと電車やタクシーを使わねば、これまでのような頻度で行くことがない店ばかりであった(あった、とは書いたが、事実上の現在進行形、おそらくは未来進行形でもある)。
 が、時間が時間ゆえにシャッターを下ろして見落としがちになると雖も、わが地元には小料理屋、創作和食の店の、なんと多くあることか。ちょっとした好奇心から国道沿いを外れて裏道に入ってみても、住宅のひしめき合う運河沿いの路地に、これまで存在すら知ることのなかった小さな飲み屋、小さな料理屋がぽつん、ぽつん、と存在している。
 地元と地元の周縁部こそ、呑兵衛の行き着く最終エリアであるのなら、人生の半分を過ぎた年齢を迎えている以上、そろそろ終電の時間やタクシーを摑まえられるかといった心配から解き放たれて、地元の小料理屋や創作和食の店の暖簾を、勇気を出してくぐってみる準備をしておこうかな、という気になってくる。
 これまで通い馴れた店とは訣別しよう、というのではない。ただ、飲むにせよ摘まむにせよ、地元に帰ってそんなことをする場所や時間があってもいいのではないか、というお話。別にiPhoneで「地元に帰ろう」(GMT)を聞いていたが為の発想ではないことを、最後に一筆記しておく。◆

第1860日目 〈マタイによる福音書第14章:〈洗礼者ヨハネ、殺される〉、〈湖の上を歩く〉他withオムライスを食べてきた。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第14章です。

 マタ14:1-12〈洗礼者ヨハネ、殺される〉
 イエスの評判を聞いた領主ヘロデ・アンティバスは家来たちに、あれは洗礼者ヨハネだ、奴は死者のなかから甦ったのだ、だからあのような奇跡を行えるのだ、といった。
 洗礼者ヨハネは領主ヘロデとへロディアの婚姻を非難した。その結婚は律法で許されていない、といって。というのも、へロディアはヘロデの兄弟フィリポの妻だったからだ。それゆえにヨハネは捕らわれ、ヨルダン川東岸ペレア地方の砦マケルイの牢に入れられていたのである。
 が、実はヘロデが家来に向かってイエスをヨハネになぞらえたとき、ヨハネは既に殺されていた。もとよりヘロデはヨハネを殺すつもりでいたが、かれを預言者と慕う民衆の反発を恐れて実行できずにいた。
 が、自分の誕生日の宴の折、妻へロディアの娘が見事に踊るのを見て喜び、彼女に褒美を遣わそう、といった。すると娘は母親に唆されて、洗礼者ヨハネの首を所望した。ヘロデは頭を抱えたが約束したことではあるし、仕方なく家来に命じてヨハネの斬首と、その首を盆に載せて娘のところへ運ばせた。それは娘から母親のところへ運ばれた。
 その後、ヨハネの弟子たちが来て、師の遺体を引き取って埋葬した。また、このことをイエスに報告した。

 マタ14:13-22〈五千人に食べ物を与える〉
 ヨハネの斬首、その死を知るとイエスは、一人群衆から離れて舟に乗り、人里離れた場所へ赴いた。弟子たちがあちこちの町からイエスを追った。イエスは自分を追い掛けてきた大勢の群衆を一瞥して深くかれらを憐れみ、そのなかにいた病人を癒やした。
 夕暮れ。弟子たちがイエスに、皆を帰してください、かれらは空腹を抱えています、といった。イエスは答えた。どこにも行かせることはない、あなた方がかれらを食べさせればよい。弟子たちが、しかしここにはパンが5個と魚が2尾しかありません、と返した。イエスは行った。それをここに持ってきなさい。かれらは草の上へ座っているように。弟子たちと群衆はそうした。
 イエスは5個のパンと2尾の魚を手にして天を仰ぎ、讃美の祈りを唱えた。そうしてパンを割いて弟子たちに渡し、これをかれらに食べさせなさい、といった。弟子たちはそうした。群衆は割かれたパンを食べた。これを口にした者は女子供の他には男が5,000人であった。かれらはみな満腹になったのである。パン屑は集められて、12個ある籠のすべてがいっぱいになった。
 「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。」(マタ14:22)

 マタ14:23-33〈湖の上を歩く〉
 群衆を無理矢理解散させたイエスは一人し孤峰へのぼり、夕方になってもそこにいた。その頃、弟子たちを載せた舟はガリラヤ湖の上で向かい風に遭って、なかなか対岸へ進むことができずにいた。
 夜明け頃、イエスは勇躍湖の水面の上を歩いて、弟子たちの舟の方へ歩いて行った。その様子を見た弟子たちが、幽霊だ、と叫んで慌てふためき、恐怖に駆られた。イエスはかれらに語りかけた。安心しなさい、わたしである。
 これを聞いたペトロが、あなたでしたらわたしも湖の上を歩いて渡れるようにしてください、そうしてあなたのところへ行かせてください、といった。イエスは答えた。来なさい。ペトロは舟をおりて湖面を歩いたが風に気附いて急に怖じ気づき、湖中へ沈みかけた。かれはイエスに助けを求めた。
 イエスはかれに手を伸ばして、いった。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタ14:31)
 かれらが舟に戻ると、それまで湖の湖面を波立たせていた強い風は止んだ。弟子たちはイエスを本当の神の子と思い、拝んだ。

 マタ14:34-36〈ゲネサレトで病人をいやす〉
 かれらはガリラヤ湖を渡って、ゲネサレトという土地に到着した。訪れたのが数々の奇跡を行ってきたイエスである、と知った土地の人々は付近に隈無くそれを告げ知らせた。
 それが為に人々は病人を連れてイエスの許を訪れ、衣の裾に触れさせてくれるだけでもいい、と懇願した。触れた者は皆癒やされた。

 その娘の名は、古来より<サロメ>と呼ばれる。またその男の名は<ヨカナーン>と、いつしか呼ばれるようになった。へロディアの娘と、洗礼者ヨハネのことである。
 ヨカナーンという名が斬首の物語に於いて有名になり、本来のヨハネの名を消し去った要因は、オスカー・ワイルドの戯曲にあろう。しかし、洗礼者ヨハネがいつからヨカナーンと呼ばれるようになったのか、わたくしは知らない。
 が、サロメ。へロディアの娘がいつしかサロメと呼ばれるようになったきっかけは、ヨセフスの著した『ユダヤ古代誌』第18巻5章に求められる。
 そこでは洗礼者ヨハネの処刑があくまで領主ヘロデの政治的決断に基づく出来事であること、へロディアは夫ある身でありながら娘サロメを連れてヘロデ・アンティバスと再婚したこと、その結婚が本来認められない行為であることが語られる。両親ゆえにサロメは福音書でヨハネ斬首を求めた娘と特定されたのだ。
 但し、ワイルドの戯曲に於いて斬首後、サロメが盆に載せられて運ばれてきたヨハネ(ヨカナーン)の死首の唇にキスして語るあの台詞、戦慄すべきあの台詞は、ワイルドの創作である。曰く、──「そのくちびるなのだよ、あたしが欲しくてたまらないのは、ヨカナーン。/お前のくちびるは象牙の塔に施した緋色の縞。/象牙の刃を入れた石榴の実。/ツロの庭に咲く薔薇より赤い石榴の花もお前のくちびるほど赤くはない。」
 ……湖上を歩くイエスの姿を見て驚き、5個のパンで5,000人強の空腹を満たしたイエスの霊性についてはふしぎと思わない。弟子たちは今一つ、イエスが人にして人に非ざる者であることを信じ切れていないのではないか。カフェ・ド・クリエのストロベリー・スポンジ・ケーキを食べながら読んでいて、そんな風に思うたりするのだ。



 久しぶりに同期3人で集まり、市内某所の洋食屋さんでオムライスを食べたのだ。口のなかで蕩けるように美味かった!
 今度は休みの日にプライヴェートで行ってみよう、と思うのだが、連れがいません。モナミ、いっしょにどうですか?◆

第1859日目 〈マタイによる福音書第13章:〈「種を蒔く人」のたとえ〉、〈たとえを用いて話す理由〉他withみくらさんさんか、身内について考える。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第13章です。

 マタ13:1-9〈「種を蒔く人」のたとえ〉
 ガリラヤ湖畔に坐るイエスを慕って群衆が来た。かれは舟に乗って腰をおろすと、たとえを用いて群衆に語った、──
 種蒔き人が種を蒔いている。或る種は道端へ落ちて鳥に食べられた。或る種は石ころだらけの土地に落ち、土が浅いためすぐに芽を出したがすぐに枯れた。或る種は茨の間に落ちて、茨に塞がれて伸びなかった。
 が、他の種は良い土地に落ちて実を結び、何十倍にも、百倍にもなった。耳ある者はこれを聞け。

 マタ13:10-17〈たとえを用いて話す理由〉
 弟子たちは、イエスが群衆に対してはたとえを用いて話すことにふしぎを感じた弟子たちは、イエスにそのことについて訊ねた。イエスはその理由について、あなた方には許されていてもかれらには許されていないことがあるからだ、と答えた。それは天の国の秘密を悟ることである。そうして、──
 「持っている人は更に与えられて、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マタ13:12)……かれらは見ても聞いても理解できないのだ。これは預言者イザヤを通して既に語られていたことの実現である(イザ6:9-10)。
 しかしあなた方は幸いである。目は見、耳は聞いているからだ。「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなた方が見ているものを見たがったが、見ることができず、あなた方が聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」(マタ13:17)

 マタ13:18-23〈「種を蒔く人」のたとえの説明〉
 種を蒔く人のたとえはこのような意味である。
 御国の言葉を聞いて悟らねば、心のなかに蒔かれたものは悪人に奪い盗られる。これが道端に落ちた種だ。
 御国の言葉を聞いてすぐ受け入れるが、根がないためすぐにつまずく。これが石ころだらけの土地に落ちた種だ。
 御国の言葉は聞くが、世の思い煩い、富の誘惑に覆い塞がれて実が出ない。これが茨の間に落ちた実だ。
 御言葉を聞いて悟り、よく考えて行動し、豊かな実りを得る人。これが良い土地へ落ちた実だ。

 マタ13:24-30〈「毒麦」のたとえ〉
 或る人が畑に麦の種を蒔いた。そのあと敵がやって来て、同じ畑に毒麦の種を蒔いた。種は生長して芽が出て実った。人々はそこでようやく毒麦が畑に紛れこんでいることを知り、主人にその旨伝えた。主人は、刈り入れのときまでそのままにしておけ、といった。刈り入れではまず毒麦を集めて焼くための束とし、そうでない麦は刈って集めて倉に蓄えておくよう、刈り入れするものにいうておこう。

 マタ13:31-33〈「からし種」と「パン種」のたとえ〉
 天の国はからし種に似ている。畑に蒔いたときはどんな種よりも小さかったのに、育てばどの野菜よりも大きくなる。
 天の国はパン種に似ている。3サドンの粉に混ぜて焼けば、全体が膨らんで大きくなる。

 マタ13:34-35〈たとえを用いて語る〉
 ──イエスはこれらのことを皆、たとえを用いて群衆に語った。たとえを用いずして語ることはなかった。これは預言者を通して語られたことの実現である。

 マタ13:36-43〈「毒麦」のたとえの説明〉
 群衆を残して家に入ったイエスのそばに弟子たちが来て、毒麦のたとえはどのような意味ですか、と訊ねた。イエスは答えた、──
 良い麦の種を蒔くのは人の子、畑は世界、良い種は御国の子らである。毒麦の種を蒔くのは悪魔、刈り入れとは世の終わり、刈り入れ人は天使たちである。
 「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタ13:41-43)

 マタ13:44-50〈「天の国」のたとえ〉
 天の国は、畑に隠された宝に似ている。良質の真珠を探し歩く商人に似ている。また、湖に仕掛けられた投網に似ている。網が魚でいっぱいになれば人々はそれを引きあげ、良い魚と傷んだ魚に分別する。
 世の終わりにはこうなる。天使たちが来て正しい人のなかに潜む悪い者を選り分けて、悪い者はまとめて燃え盛る炉のなかに放りこまれる。奴らはそこで泣きわめき、歯ぎしりするだろう。

 マタ13:51-52〈天の国のことを学んだ学者〉
 イエスは弟子たちに問うた。あなた他はこれらのことがわかったか。弟子たちは、わかりました、と返事した。
 天の国のことを学んだ者は皆、新しい教えと古い教えを自分の倉から出すのである。

 マタ13:53-58〈ナザレで受け入れられない〉
 ──これらのことを語り終えたイエスは、故郷ナザレに帰って、そこの会堂で説教した。
 すると人々は驚いて、いった。かれは何者か。いつの間にこんな知恵と奇跡を行う力を身に付けたのだ。かれは大工の息子ではなかったか。母はマリア、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、姉妹はわれらのなかに住んでいる。かれはどこでこのような力を備えたのか。こう口々にいって、人々はイエスにつまずいた。
 イエスは慨嘆し、呟いた。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」(マタ13:57)
 このように町の人々が不信仰であったため、イエスはナザレで殆ど奇跡を行わなかった。

 真実、事実をありのままに語るよりは、喩えを用いて説明する方が相手の心に届くこともある。その方が、かれらが理解できることもある。人を教える立場を経験した者ならば、ほぼ例外なく首肯できる話ではないだろうか。が、これは一方で、教える者がどれだけ相手のことを把握しているか、を試されることでもある。誤ると疑念を持たれたり、不信を買うことにもつながりかねない。両刃の剣だ。イエスは、これまでに読んできたところを含めても、実に豊かな語りの才能を持った教師である、といえよう。
 引用もしたマタ13:17だが、これを家族や家庭という社会を構成する最小単位にまで引き下げて顧みると、悲しみに肺腑を捕まれ、落涙を禁じ得ず、申し訳ない気持ちに囚われてしまう。自分が見ているもの、聞いているものを見聞きしたかった人がいるのに、その人たちはいま自分が見ているもの、聞いているものを見聞きすることはできないのだ。──わたくしは自分の家庭を持ち、家族を作り、親に孫の顔を見せ、抱かせられないことを罪に思う。親不孝だと思う。ロクデナシだと思う。磔刑に処さるゝべきは、腹を槍で突かれて血を流すべきは、額に<罪人>の焼き印を押されすべきは、ひょっとすると自分なのではなかったか。そんな風に思い詰めもするのだ。
 未来は閉ざされた。いまや先に続く道は一つしかない。そこに家族を得ること、それによってやすらぎがもたらされること、血脈を次の時代、新しい世界へ残すこと。そうした希望がそこにあるとは、もはや期待できないのである。

 本日の旧約聖書はマタ13:14-15とイザ6:9-14、マタ13:35と詩78:2。
 「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。 /
この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。/こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。/わたしは彼らをいやさない。 」(マタ13:14-15)
 これの典拠は、
 「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。/この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。/目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」(イザ6:9-10)

 「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」(マタ13:35)
 これの典拠は、
 「わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう 」(詩78:2)



 いちばんの理解者であり、いちばんの不理解者は身内にある、というこの矛盾。が、古来よりこれを覆す事実も存在しない。なんたることか……!◆

第1858日目 〈マタイによる福音書第12章:〈安息日に麦の穂を摘む〉、〈手の萎えた人をいやす〉他withあの国へもう一度!〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第12章です。

 マタ12:1-8〈安息日に麦の穂を摘む〉
 或る日、イエスは弟子たちと麦畑を通った。弟子たちは空腹を覚えていたので、思わず麦の穂を摘んで食べた。その日はちょうど安息日であった。
 この様子をファリサイ派の人々が見咎めた。そうしてイエスに訴えた、あなたの弟子たちは安息日に禁じられたことをしている、と。
 これにイエスは答えた。ダビデさえ祭司以外の物は食べてならぬ、とされた供え物のパンを食べたではないか(サム上21:27、レビ24:5-9)。安息日に神殿にいる祭司は安息日の掟を破っても構わない、と律法にあるのを読んだことがないのか(民23:9-10)。
 ファリサイ派の人々よ、預言書にある「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(ホセ6:6)という言葉の意味を知れ。そうすればあなた方が罪なき人々を咎めることもなかったであろう。人の子は安息日の主である。

 マタ12:9-14〈手の萎えた人をいやす〉
 イエスは会堂にて片手の萎えた人に会った。その場にいた人々は律法破りの罪でかれを訴えようと企み、安息日に病人を癒やすのは律法で許されているのかなぁ、と訊ねた。
 その意地悪な質問にイエスは首肯した。「安息日に善いことをするのは許されている。」(マタ12:12)
 ──ファリサイ派の人々は会堂の外へ出て、どのようにしてイエスを殺してやろうか、と相談し合った。

 マタ12:15-21〈神が選んだ僕〉
 ファリサイ派の計画を知ったイエスはその町を去った。大勢の群衆がかれに従って動いた。
 イエスは人々の病気を癒やして歩いたが、併せてくれぐれも自分のことを言い広めぬように、と釘を刺した。これは預言者イザヤを通して語られたことの実現である(イザ42:1-4)。

 マタ12:22-32〈ベルゼブル論争〉
 悪霊に取り憑かれて目が見えず口も利けない人がイエスのところへ運びこまれた。イエスはこの人を癒やした。するとこの人は目が見えるようになり、口も利けるようになったのである。
 ファリサイ派の人々はこの様子を見て、イエスを指して、悪霊の頭ベルゼブルの力によって此奴は人の体から悪霊を追い出したのだ、といった。イエスはいった、──
 どんな国でも町でも内輪で争えば、荒れ果てて機能しなくなる。わたしがベルゼブルの力で取り憑かれた人の体から悪霊を追い出すのなら、いったいあなた方はどのような力で同じことを行うのか。覚えておけ、人々があなた方の裁き手となる。
 が、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタ12:28)わが味方はわが敵なり。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタ12:31-32)

 マタ12:33-37〈木とその実〉
 良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。木の本質は実によって表される。蝮の子らよ、お前たちは悪い人間だ、どうしてその口から良いことが語られようか。「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである。」(マタ12:34)
 「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタ12:36-37)

 マタ12:38-42〈人々はしるしを欲しがる〉
 数人の律法学者とファリサイ派の人々が来て、イエスにいった。先生、しるしを見せてくださいよ。
 邪で神に反逆する時代の者たちはしるしを欲しがるが、とイエスはいった。しるしはかつて預言者ヨナに与えられたもの以外には与えられない。裁きの日、ニネベの人々はいまの時代の者らと共に立ちあがり、かれらを罪に定めるだろう。ヨナの説教によってニネベの人々は悔い改めたからである。

 マタ12:43-45〈汚れた霊が戻ってくる〉
 人から出て行った汚れた霊は遠近を彷徨い、落ち着く場所を見出せなかったので元いた人のところへ戻ってくる。そこが清潔にされていると、霊は自分よりも悪い霊を7人連れてきて、そこへ居坐る。それゆえ、その人は以前よりも悪い者となる。
 邪で神に反逆する時代の者たちも、同じようになるだろう。

 マタ12:46-50〈イエスの母、兄弟〉
 ──イエスの母と兄弟がイエスの許を訪ねてきた。話したいことがある、ということだった。が、折悪しくそのときイエスは説教中だった。そこで母たちは外でイエスを待った。
 説教が終わったイエスにある人が近附いて、母君とご兄弟が来ておられます、と伝えた。するとイエスは、母とは誰か、兄弟とは誰か、と問うた。
 そうしてイエスは弟子たちを指して、見よ、ここにわが母、わが兄弟がいる、といった。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタ12:50)

 ファリサイ派との対立がいよいよ表面化する。かれらとの論争に於いてイエスは聖書の引用を行う場合、典拠とするのは専ら律法である、という。それはおそらくファリサイ派が律法主義のグループだからだろう。かれらが精通するはずの律法を引用、解釈してみせることで、かれらの一知半解を笑うたのか。いずれにせよ、イエスの目にファリサイ派は論語ならぬ「律法知らずの律法読み」と映っていたことであろう。
 説教中のイエスを母と兄弟が訪ねてくる。ここでいうむしろ親類縁者を指す由。そうしてまさにこの場面で再びイエスの行動理念が絶後の台詞を生む(マタ12:48-50)。わたしイエスよりも自分の肉親を愛する者はわたしに相応しくない(マタ10:37)。イエスはこの場面にてそれを実践した……。

 本日の旧約聖書はマタ12:7とホセ6:6、マタ12:18-21とイザ42:1-4。
 「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』」(マタ12:7)
 これの典拠は、
 「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ6:6)

 「見よ、わたしの選んだ僕。/わたしの心に適った愛する者。/この僕にわたしの霊を授ける。/彼は異邦人に正義を知らせる。/彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。/正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。/異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタ12:18-21)
 これの典拠は、
 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。/わたしが選び、喜び迎える者を。/彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。/彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。/傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。/暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。/島々は彼の教えを待ち望む。」(イザ42:1-4)



 是非いちど、ブリテン島最南端から最北端まで、最東端から最西端まで旅をして、電車でゆるゆるロンドンから北上してゆき湖水地方を眺めスコットランドに入り、そのままアイルランドやスカイ諸島などをじっくり回ってみたいと企んでいるのだ。
 目的は勿論、地味に美味いイギリス料理(一括りにイギリス料理と称すのもやや後ろめたいけれど)を食べまくり、ビールとウィスキーを胃袋に流しこみ、再びの聖地巡礼;ハワース再訪を果たし、あれやこれやして、霧のロッホ・ネスとロッホ・ローモンドをもう一度この目で見たい、ということ。
 うむ、このためにももう少し生きねばならぬ、と思うのだ。連れ? いるわけないだろ、そんな者。◆

第1857日目 〈マタイによる福音書第11章2/2:〈洗礼者ヨハネとイエス〉、〈悔い改めない町を叱る〉withSunday Night Café Gypsy〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第11章2/2です。

 マタ11:2-9〈洗礼者ヨハネとイエス〉
 かつて自分が洗礼したイエスの、数々の奇跡に満ちた活動は、牢獄のなかの洗礼者ヨハネの耳にも届いた。いまかれは、ヘロデ大王の子でガリラヤ・ペレア地方の領主ヘロデ・アンティバスの砦の1つ、マケルスに捕らえられている。ヨハネは自分の弟子を介してイエスに、来たるべき方はあなたでしょうか、それとも他の者なのでしょうか、と訊ねた。
 自分の許へヨハネの質問を携えてきたかれの弟子に、イエスはこういった、──
 「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ11:4-6)
 それを聞いた弟子たちは獄中の師、洗礼者ヨハネの許へ帰って行った。
 イエスはかれらを見送ったあと、群衆に向かって洗礼者ヨハネについて語った。
 (ヨハネがヨルダン川の一帯で活動していた頃、)あなた方は荒れ野に行ってなにを見ていたのか。風にそよぐ葦か。否。預言者か。然り。あなた方が見たのは預言者以上の者である。預言書にあって、わたしの前に人を遣わしてわたしの準備をさせる、とはこの人のことである。およそ女の胎から生まれて洗礼者ヨハネ以上の者はなかった。あなた方が認めようと努めればわかることだが、かれこそやがて来るといわれていた預言者エリヤなのだ。耳ある者はこれを聞け。ヨハネが来て食べも飲みもしないと、人々はかれを指して、あいつは悪霊に取り憑かれているのだ、と噂する。が、「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(マタ11:19)

 マタ11:20-24〈悔い改めない町を叱る〉
 これまでに、イエスは数々の奇跡をそれぞれの町で行ってきた。が、いずれも悔い改める様子がない。イエスは痺れを切らして、町々を叱り始めた。
 コラジンとベトサイダよ、お前たちは不幸だ。お前たちのところでわたしが為してきた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町は粗布をまとって灰をかぶり、とうの昔に悔い改めているに違いない。コラジンとベトサイダよ、はっきりいっておく。裁きの日にはお前たちよりもティルスやシドンの方がずっと軽い罰で済む。
 カファルナウムよ、まさかお前は自分が天にあげられるなどと思うているのか。驕るな。お前は陰府に堕とされる。お前のところでわたしが為してきた奇跡が、もしソドムで行われていたならば、神の怒りで焼き滅ぼされることもなかっただろう。カファルナウムよ、はっきりいっておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりもずっと軽い罰で済むのだ、ということを。

 マタ11:25-30〈わたしのもとに来なさい〉
 父よ、わたしはあなたを讃えます、とイエスはいった。これらのことを賢者でも知者でもなく幼子のわたしへ示してくれたことを感謝します。すべてのことは父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者の他に父を知る者はありません。
 ──人の子らよ、天の父は厳しく、その軛を負い、学ぶのは、とても重くて苦しいことです。わたしの許へ、天の父の子であるわたしの許へ来なさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い。あなた方はやすらぎを得られよう。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタ11:28)

 どうやら獄中のヨハネは、わたくしどもの想像と異なって或る程度までの自由が与えられていたようだ。すくなくとも、外界との接触は許されている様子だ。自分の弟子たち、イエスの活動やその弟子の動向などについての情報も、比較的容易に入手できたと思しい。
 かれはマタ4:12にて逮捕されたけれど、真に世を脅かすような思想を持ち、それに基づいた教えを宣べ広めていたならば、ここに見られるような弟子との接触やイエスへの質問などできない、もっと厳重かつ拘束された環境に置かれるのではないか。
 そも、ヘロデ・アンティバスがどうしてヨハネにこのような外部との接触を許していたのか、意図が不明である。それがヘロデの目を欺いて秘密裏に行われたのであればともかく、そうでないならば、案外とヘロデはヨハネに対してなんらかの恐怖を感じていたのかもしれない。それがどのような類の恐怖であったか、それは探りかねるが、下手に扱って事態を悪化させるよりは、或る程度の制限内で自由を許した方が得策かもしれぬ──そんな風に考えたのかもしれないな、とさえ思う。
 しかし、ソドムよりも重い罰を受ける町があるのだ。奇跡を経験しながら悔い改めぬは、成る程、ソドムに比してより重罪を科されるも宜なるかな、というところか。……嗚呼!

 本日の旧約聖書は、マタ11:10とマラ3:1。
 「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』」(マタ11:10)
 これの典拠は、
 「見よ、わたしは使者を送る。/彼はわが前に道を備える。/あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。/あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、/と万軍の主は言われる。」(マラ3:1)



 日曜日の出勤は困るのだ。帰りにカフェへ寄って原稿を書こうとしても、どこもかしこも満席で、それは夜遅い時間まで変わることがない。
 今日(昨日ですか)も小1時間うろうろして、けっきょく会社の真下のカフェに戻り、モレスキンへの第一稿を仕上げてから辞去した。週末ゆえに閉店時間が1時間早いのだ。いつもならばこのあと、MBAでの推敲・清書・予約投稿となるのだが、他のカフェの空席を探すことは諦めて、さっさと帰宅した──。
 かえすがえすも伊勢佐木モールにあったスターバックスと南蛮屋カフェが閉店したことが悔やまれる。いずれもわたくしにとって<巣>だった。そうして唯一無二の<書斎>であった。殊に後者はややもすれば閉店以後までいることができた可能性が濃厚に残る。
 こんな風にして、日曜日の夜にカフェ・ジプシーをしていると、なんとまぁ、因果なこと(本ブログである)を始めてしまったのか、とつくづく思う。溜め息マックスですよ。
 でも、いまでこそカフェに入り浸る日々が続いているが、本ブログ完結後は反動で一気に足が遠ざかるのかな……それも淋しいけれど考えてみれば、足が遠のくなんてこと、まずあり得ないのだ。だってわたくしはこのあと、小説書きに戻るんだもん。
 斯くして再び(三度?)カフェはわが書斎として(店側ははた迷惑だろうが)機能することになるのである。呵々。◆

第1856日目 〈マタイによる福音書第10章&第11章1/2:〈十二人を選ぶ〉、〈迫害を予告する〉with椎名へきるレヴュー・ブログの統合、是か非か。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第10章と第11章1/2です。

 マタ10:1-4〈十二人を選ぶ〉
 イエスは自分の12人の弟子を呼び寄せた。そうしてかれらに、汚れた霊に対する権能、即ち悪霊を追い出して、人々のあらゆる病気や患いを癒やす権能を与えた。かれらは12使徒と呼ばれ、それを構成する者は以下の通りである、──
 ・ペトロと呼ばれるシモン
 ・アンデレ   ※シモンとアンデレは兄弟である。
 ・ヤコブ
 ・ヨハネ    ※ヤコブとヨハネはゼベダイの子、兄弟である。
 ・フィリポ
 ・バルトロマイ
 ・トマス
 ・徴税人マタイ
 ・アルファイの子ヤコブ
 ・タダイ
 ・熱心党のシモン
 ・イスカリオテのユダ   ※後にイエスを裏切り、ファリサイ派の祭司長に引き渡す。

 マタ10:5-15〈十二人を派遣する〉
 呼び寄せた12人の弟子を各地へ派遣する前に、イエスはかれらに幾つかのことを命じた。
 異邦人の町、サマリア人の町に入るな。イスラエルの家の失われた羊、即ちユダヤ人のところへ行きなさい。そこで天の国が近附きつつあることを宣べ伝え、病人を癒やし、悪霊を追い出して、人を健やかにしなさい。
 「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」(マタ10:11-13)
 もしあなた方の言葉に耳を傾けぬ町あらば、そこを出るとき足の裏の埃を払い落としなさい。裁きの日、その町はソドムやゴモラよりも重い罰を受けることだろう。

 マタ10:16-25〈迫害を予告する〉
 わたしはこれからあなた方を各地へ遣わすが、これは狼の群れのなかへ羊を放りこむに等しい行為であることは承知している。ゆえにあなた方は、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ10:16)
 他人を警戒しなさない。やがてあなた方は地方法院へ引き渡され、会堂にて鞭打たれる。やがてあなた方は王や総督の前に引き出され、かれらへ証しを立てねばならぬようになる。その際、なにをどう話そうか、迷う必要はない。父の霊が代わって語ってくれよう。
 わが名ゆえにあなた方はすべての人から憎まれる。が、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。ある町で迫害されたら他の町へ移ればよい。
 「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人のことは来る。」(マタ10:23)

 マタ10:26-31〈恐るべき者〉
 あなた方は誰をも恐れてはならぬ。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ10:28)

 マタ10:32-33〈イエスの仲間であると言い渡す〉
 「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタ10:32-33)

 マタ10:34-39〈平和ではなく剣を〉
 勘違いするな、わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではない。否、その逆で剣をもたらすために来たのである。人々を敵対させるために来たのだ。人はその父と、娘は母と、嫁は姑と。人は己が家族の者と敵対する。
 それはこうした所以からである。即ち、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタ10:37-39)

 マタ10:40-11:1〈受け入れる人の報い〉
 わたしはこれからあなた方を各地へ遣わすが、あなた方を受け入れる人はわたしをも受け入れ、わたしを地上へ遣わした方を受け入れることになる。同様に、預言者を預言者として、義人を義人として受け入れる人は然るべき祝福を受ける。
 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に水の一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタ10:42)
 イエスがこれらのことを伝えると、12人の弟子は各地は赴くため散会し、イエス自身もそこを去ってあちこちの町で伝道し、宣べ教えた。

 ようやく機会が来たのでここでいうておく。熱心党についてだ。かつてわたくしは〈新約聖書・前夜〉にてファリサイ派とサドカイ派について書いた。その際触れるつもりで省いた項に、この熱心党がある。
 12人の弟子の1人、(ペトロではない)シモンが属する熱心党は、ローマ帝国によるユダヤ支配へ激しく抵抗した民族主義的党派である。ファリサイ派などと異なって、こちらは政治的理念民族的理念に基づいて結成された集団であるのが特徴か。
 ユダヤがローマ帝国の属州になったのは後6年のこと。それまでここを所領としていたヘロデ大王の息子アルケラオは度重なる失政ゆえにその任を解かれ、代わってシリア総督代理としてユダヤ総督が置かれた。同時にユダヤはサマリア・イドマヤの2州を併合して、ユダヤ属州となったのだった。熱心党の活動はこの出来事が端緒となって始まる。
 このユダヤ属州ついでにいうと、引用もしたマタ10:23にある「人の子」は後70年、ローマ帝国支配への抵抗から勃発した第一次ユダヤ戦争にてローマ軍を率いた、エルサレムを陥落させてユダヤ人を完全なる離散民(ディアスポラ)とした将軍ティトゥスを指す、という。
 ──うっかりしていると見過ごす事実であるが、既に聖書の時代は西暦を元号としている。
 マタ10:6「イスラエルの家の失われた羊」とはユダヤ人のこと。神とイスラエルの契約によって、神の救いはまずユダヤ人に対して為される、とされるために、イエスは弟子たちにユダヤ人のところへ行け、というたのである。
 「蛇のように賢く、鳩のように素直に」──組織に属して活動するならば、誰もが肝に刻んでよい言葉と思う。が、これはけっして狡猾であれ、というているのではない。思慮深くあれ、というているのだ。<表向きは風にそよぐ葦のようにしなやかであれ。そうして内に於いては、周囲を注意深く、じっくりと観察して慎重かつ真実なる行動を取れ。鋼の如き君であれ>というているのだ。……これは生き抜くための法則、その根幹となるものではあるまいか。

 本日の旧約聖書はマタ10:35-36とミカ7:6。
 「わたしは敵対させるために来たからである。/人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。/こうして、自分の家族の者が敵となる。」(マタ10:35-36)
 これの典拠は、──
 「息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。/人の敵はその家の者だ。」(ミカ7:6)



 別名義で行っていた椎名へきるCDレヴュー・ブログの内容を、そろそろ本ブログへ統合しようと思うの。SMEからランティスへ移籍してからはアルバム1枚しか取り挙げていないため、それ以後のアルバムとシングルについては改めて聴き直し、筆を執らねばなるまいが、まあそれに関しては特に問題はない。
 むしろ悩ましいのは、このレヴューが当初は400字詰め原稿用紙1枚に収まるように腐心していた点である。つまり、本ブログへ移植させた場合、極めて物足りぬ分量となってしまうのだ。かというて、約20年前から書いてきたそれらへ、今更かさ増しの作業を行う気はなく、また短さをカヴァーする目的も兼ねてジャケット写真の取りこみを行うつもりもない。要するに若干の手直しをする以外は発表当時のままとしたいのだ。
 さて、いったいどうしたものか。そも統合か現状維持かさえ判断しかねている。悶々としてしまうけれど、おそらく近日中に自分でも納得のゆく答えが出せるだろう。◆

第1855日目 〈マタイによる福音書第9章:〈中風の人をいやす〉、〈マタイを弟子にする〉他withタクシーに乗っていて接触事故に遭遇する。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第9章です。

 マタ9:1-8〈中風の人をいやす〉
 カファルナウムの町へ戻ったイエスの許へ、中風の人が床に寝かされたまま運ばれてきた。イエスは運んできた人らの信仰を見て、元気を出しなさい、あなたの罪は赦される、と中風の人にいった。
 この様子を見ていた律法学者が心の内で思うて曰く、この男は神を冒瀆している、と。それを察したイエスは律法学者に、なぜ心のなかで悪いことを考えているのか、わたしはあなたに「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(マタ9:6)といった。
 そのあと、イエスは中風の人に、起きて家に帰りなさい、といった。すると、中風の人は起きあがり、家に帰って行った。人々はこの光景を見て恐ろしくなり、人間にこれ程の権威を与えた神を讃美した。

 マタ9:9-13〈マタイを弟子にする〉
 イエスは歩いていると収税所に坐るマタイへ目を留め、わたしに従いなさい、といった。マタイはそうした。
 或る家でイエスは、徴税人や罪人と一緒に、弟子たち共々食事した。これを見て訝しんだ人が、どうしてあなたの先生はあのような者たちと一緒に食事するのか、と訊ねた。
 それを聞いてイエスは答えた、──
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタ9:12-13)

 マタ9:14-17〈断食についての問答〉
 洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスの弟子に訊ねた。どうしてあなた方はファリサイ派の人たちのように断食をしないのか、と。
 それを聞いてイエスは答えた、──
 「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(マタ9:15-17)

 マタ9:18-26〈指導者の娘とイエスの服に触れる女〉
 断食についての問答をしているときであった。1人の指導者がイエスの許にやって来て、いま自分の娘が死にました、といった。来てください、あなたの力で娘は生き返るかもしれません。イエスは弟子たちを連れて、その指導者の家に出向いた。
 途中、12年もの間出血が続く病を患う女と行き会った。女はイエスの衣の裾に触れた。この人の衣に触れば自分の病は治るかもしれない、と思うたゆえである。イエスは彼女に眼差しを注ぎ、元気になるのです、あなたの信仰があなたを救うのだから、といった。すると、女の病は癒やされた。
 一行は件の指導者の家に到着した。家のなかでは娘の葬儀の手配がされており、笛吹きや騒ぎ立てる者らが既にいた。イエスはかれらを見ると、出て行きなさい、この娘は死んでいるのではなく、眠っているだけなのだから、といった。かれらはイエスを嘲笑した。誰の目にも娘の死が明らかだったからだ。
 イエスはかれらを追い出して、娘の手を取った。すると、娘は息を吹き返して、床から起きあがったのである。
 このことはたちまち辺り一帯へ広まった。

 マタ9:27-31〈二人の盲人をいやす〉
 指導者の家をあとにしたイエスに、二人の盲人が縋った。ダビデの子よ、われらを憐れみ給え。かれらはイエスが、自分たちの目が再び見えるようにしてくれる、と信じて疑わないのだった。
 そこでイエスは2人の目に触った。「あなたたちの信じているとおりになるように」(マタ9:29)といって。すると、2人の目は再び見えるようになった。
 イエスはこのことについて、固く口を閉ざして誰にもいわぬように、、と厳命した。が、かれらは喜びのあまりにイエスの厳命を忘れて、かれの許を去るや自分たちの身に起きたことを会う人ごとにいい広めていったのである。

 マタ9:32-34〈口の利けない人をいやす〉
 盲人だった2人がイエスの許を去ると、入れ替わるようにして、悪霊に取り憑かれた口の利けない人が運びこまれてきた。イエスは悪霊を追い出して、その人が再び口を利けるようにした。
 この様子を見ていた人々は驚嘆した。かつてイスラエルにこのようなことを行う人は1人もいなかった、といって。が、ファリサイ派の人々は、あの男は自分の力によってではなく、悪霊の親分の力を用いて男に取り憑いていた悪霊を追い出したのだ、と囁き交わした。

 マタ9:35-38〈群衆に同情する〉
 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタ9:35)
 その年は豊作であった。人手不足ゆえに人々は弱り果てて、打ちひしがれていた。それを見たイエスは、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に祈りなさい。」(マタ9:38)

 福音書を読んでいると、各巻に1度はイエスが死者を復活させた記事が登場する。「マタイによる福音書」に於いては本章にいちばん最初の記事が載るが、あの年あの日あの時間にイエスの如き者が存在しなかったことを本気でわたくしは悔やみ、七転八倒して天を罵り、そうして呪う。手を取って死の淵から帰還させてほしかった。ただ一言でも良かった、帰ってこい、まだ行く時ではない、と。流石に四半世紀以上が経つと<死>という現実を消化して、思い出も昇華させられるが、それでも虚無化した心の一隅に、ずっしりとした重みの未だ整理しかねる感情が居坐っている。なにゆえに天はこの者を遣わさなかったのか!?
 ──本章あたりから律法学者やファリサイ派の人々の間に、後のイエス捕縛につながる感情が醸成されてゆく。イエスの伝道、奇蹟の数々が、それを目撃したり体験したりした人によって広められ、世間の口の端にのぼるようになる。やがてイエスと敵対する立場にある人たちの耳へ、イエスの評判が届くのもさほど隔たった頃ではなかったろう。
 かれらも最初は興味本位でイエスのところに行ったのではないか。イエスの伝道や噂にあがる奇蹟を一見してみよう、ぐらいの気持ちでしかなかったのではないか。それが実際に目撃したりしてみると、あまりに危険な者として映り、時間をかけてかれらの間に反イエスの感情が醸成された──イエスの行為や存在を嫌悪したり、不快を覚える者が一派を築くのも、そうなれば時間の問題だろう。そうした感情の行き着く先が、やがてわれらも読むことになるだろう、ゴルゴダの丘に於ける磔刑である(話は少々それるが、イエスの磔刑は文献に記されたなかでは世界でも1,2を争う知名度を誇るヘイト行為であろう)。
 後に表面化するイエスとファリサイ派の対立の構図の基を築いている、という意味で、本章はすこぶる重要な場面、意味を孕む箇所だ。
 なお、盲人がイエスを呼んで「ダビデの子」と呼ぶのは、サム下7:12-14にて預言者ナタンがダビデ王に告げる預言の一節、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」に起因する由。

 本日の旧約聖書はマタ9:13とホセ6:6。
 「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』」(マタ9:13)
 これの典拠は、
 「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ6:6)



 今日、みくらさんさんかはタクシーに乗っていて、接触事故に遭遇した。朝、ちょっと寝坊したのと沿線の電車が遅延していたため、遅刻しないためにはタクシーを使うしかなかった状況だったのである。むろん、タクシー料金は自分持ちだ。
 いつもよりちょっとだけ混んでいる国道を行く。金曜日のせいかな。それ程会社から貰っている給料が高いわけでもないのにタクシー通勤なんて贅沢かな。でもお金で時間を買うことが必要な場合もあるよな。──そんなことをつらつら後部シートで考えているとき、事故は起こった。
 バイクが突然視界の前に現れた。流れてゆく車の前に突然出現したのだ。あまりに唐突。どうしてこんな状況下でバイクが1台、流れを遮るようにしていたのかわからない。
 辛うじてタクシーは避けた。実は、バイクがタクシーに接触する音も、衝撃も、なかった。これは警察(目の前!)にも証言したことである。しかし、バイクは転倒した。転倒した音ははっきり聞こえたな、どしゃん、って。
 バイクはどうして転倒したのか。タクシーを避けようとした際にバランスを崩したためか。それがそうでもないらしいのだ、ワトスン。
 路肩に停められたタクシーの前に、1台のライトバンが停まった。なかから作業用ジャンパーと思しき上着を着た男が2人降りてきた。あとから3人。最初の2人のうち1人がタクシーの横を通って後ろへ歩いていった。そこに、転倒したバイクがいる。……じきに代車を手配するために戻ってきたタクシーの運転手の曰く、接触したのはこちらではなく、タクシーを避けたバイクに件のライトバンが接触、転倒したのだ、と云々。
 よかった。どういうわけか、安堵した。非はこちらにあらず。ひどい物言いかもしれないけれど、それがそのときとっさに胸をよぎった思いだ。
 バイクの運転手は、怪我一つなかった由。本人曰く、痛むところはどこもない、と。それを同時に聞いていたがゆえの安堵でもあったかもしれないが、事故から約15時間近くが経とうとしているいまとなっては、細かなところは覚えておらぬ。むしろ、さて、会社に遅刻の電話を入れねばならぬな、と嗟嘆する方が優先事項であったからな。
 やがて代替車両として配車されたタクシーが来た。わたくしはそれに乗り換えた。その後、この事故がどのように収束したか、まだ知らされていない。
 ──本件の教訓、遅刻してでもいいから公共交通機関を使いましょう。いや、その前に遅刻しないように朝はちゃんと(寒いけれどがんばって)起きましょう、ということか。
 うむ、これって大切。◆

第1854日目 〈マタイによる福音書第8章:〈重い皮膚病を患っている人をいやす〉、〈百人隊長の僕をいやす〉with本日のBGM/メンデルスゾーン《スコットランド》交響曲〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第8章です。

 マタ8:1-4〈重い皮膚病を患っている人をいやす〉
 説教を済ませて山を降りてきたイエスに、1人の重い皮膚病を患った人が近寄ってきた。その人がイエスにひれ伏して曰く、主よ、御心ならば清め給え、と。
 イエスは答えた。よろしい、清くなれ。そうして相手の体に触れた。すると、病は清められた。その人に対してイエスは、このことは誰にも話さぬように、といった。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセの定めた献げ物をささげなさい。そうやってのみ人々に自分が清められたことを証明するのです。

 マタ8:5-13〈百人隊長の僕をいやす〉
 カファルナウムの町へ戻ったイエスに、1人のローマ軍の百人隊長が近寄ってきた。その人がイエスに嘆願して曰く、主よ、中風に苦しむわが僕を癒やし給え、と。イエスは答えた。よろしい、わたしは行こう。
 が、百人隊長はそれを拒んだ。曰く、わたしはあなたを家に迎え入れられるような者ではありません、ただ一言、僕の中風が治れ、とだけいうてください、と。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(マタ8:9)
 イエスはこの百人隊長の言葉に感銘し、自分へ付き従う人々に振り返ってかれを讃えた、──
 「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。/
言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。/だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタ8:10-12)
 そうしてイエスは百人隊長に、あなたの望むことを信じて家に帰りなさい、といった。百人隊長が家に帰ると、かの僕の中風はすっかり治っていた。

 マタ8:14-17〈多くの病人をいやす〉
 イエスはペトロことシモンの家へ行き、熱にうなされるかれの姑に触れて、治した。
 夕方、人々が多くの悪霊に取り憑かれた者を連れてきた。去れ、とイエスがいうと、悪霊は出てゆき、病人は皆癒やされた。
 これはかつて預言者イザヤを通して語られたことの実現である(イザ53:4)。

 マタ8:18-22〈弟子の覚悟〉
 イエスは自分に付き従う大勢の人たちに、ガリラヤ湖の向こう側を指差して、あちらへ渡れ、といった。群衆のなかから1人の律法学者が歩み出て、イエスに曰く、どこへでも付き従います、と。それに答えてイエスの曰く、──
 「「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタ8:20)
 また、弟子の1人が曰く、その前にまず亡き父の埋葬を済まさせてください、と。それに答えてイエスの曰く、──
 「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(マタ8:22)

 マタ8:23-27〈嵐を静める〉
 ガリラヤ湖の向こう岸へ渡る船が出ると、激しい嵐が湧き起こり湖上の波は大いに荒れた。弟子たちは怯え、眠っているイエスを起こしに行った。
 ──なぜそんなに怖がるのか、信仰の薄き者たちよ。イエスは弟子たちにそういうと、嵐と湖を一喝した。するとたちまち嵐はやみ、湖は凪いだ。
 その様子を見ていた弟子たちは顔を見合わせて囁き交わした。自然をもその言葉で自在とするこの方は果たして何者だろう。

 マタ8:28-34〈悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす〉
 イエスはガリラヤ湖を渡るとガダラ人の土地に入った。そこへ墓場から、悪霊に取り憑かれた2人の男が来た。かれらはとても狂暴で、かれらのいるところは恐れられて誰も通ろうとしなかったのである。
 かれらはイエスを見て、神の子よ、いまはまだその時ではない、われらを苦しめてくれるな、といった。もしわれらをこの者たちの体から追い出すなら、あすこにいる豚どものなかへ入れさせてくれ。
 イエスはそうした。すると悪霊に取り憑かれた豚の群れは雪崩を打ったように崖を下ってゆき、そのまま湖に飛びこんで、いずれも溺死した。
 その様子を見ていた豚飼いたちは逃げ出して、町の人々にいま目撃した出来事について、一部始終を話して聞かせた。人々は一目イエスを見ようと、かれのいるところへ行った。が、かれらはイエスを見るや、この土地から出て行ってくれ、と口々に迫った。

 本章を読んでいて、旧約聖書の神がまず言葉ありきで行動したのと同様、新約聖書では主になぞらえられるイエスもやはり言葉ありきで行動する存在なのだ、と改めて感じたことである。もっとも、旧約聖書の神が行うのは祝福と裁きであって、イエスが行うのは専ら奇跡、治癒である、という相違点はあるけれど。そんな側面もあって「神の子」と呼ばれたりもするのか。
 肉親の埋葬をさせなかったイエスには驚き、惑い、憤ってしまう。しかし、これこそがかれの行動理念であることを知れば、この発言にも頷けるところはあるのだ。明後日読むことになる第10章に、こうした文言がある。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。/また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタ10:37-38)
 まあ、世俗の義理や人間関係よりも自分の教えを優先せよ、という意味合いになるが、「滅私奉公」という語がいちばん相応しかろうか。でも、これまでにも人の義よりも神の義の方が優る旨の言葉は読んできたから、ああそういうこともあり得ような、と思うのだ。正直、個人的にはいったいこの発言、人道的な視点から捉えた場合どうなのか、と疑問ではあるのだが。
 なお、マタ8:12にある「御国の子ら」とはやがてやって来る異邦人を指す。その者たちは主により選ばれた人たちが連なることのできる宴会を、「外の暗闇」から見て口惜しがり、「泣きわめいて歯ぎしりする」というのである。

 本日の旧約聖書はマタ8:17とイザ53:4。
 「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」(マタ8:17)
 これの典拠は、
 「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに」(イザ53:4)



 本日のBGMは、ペーター・マークの指揮でメンデルスゾーンの交響曲第3番《スコットランド》。オーケストラは東京都交響楽団である(フォンテック)。
 ロンドン響(デッカ)やベルン響(カールトン)、マドリッド響(アーツ)を相手にした演奏/録音やはり名演で自分は好きなのだけれど、耳にいちばんしっくりと馴染んで陶酔させてくれるのは、むしろこちらフォンテック盤なのだよなぁ。1993年4月のライヴ。
 ──今後もときどき、このように<本日のBGM>に触れてゆくつもりであります。◆

第1853日目 〈マタイによる福音書第7章/「山上の説教」3/3:〈求めなさい〉、〈狭い門〉、〈あなたたちのことは知らない〉他with<笑い>のあとに<恐怖>を読む。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第7章、「山上の説教」3/3です。

 マタ7:1-6〈人を裁くな〉
 あなた自身が他人に裁かれたりしないようにするには、どうしたらいいか。なによりもあなた自身が人を裁かないようにすることだ。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタ7:2)
 あなたは自分の兄弟の目のなかのおが屑に気附くことができる。なのにどうして自身の目のなかにある丸太に気が付かないのか。その丸太に気附かぬ者が、どうして兄弟の目のなかのおが屑を取り除けよう。
 偽善者よ、なによりもまず自分の目のなかの丸太を取り除け。
 ──また、神聖なものを犬に与えるな。豚に真珠を投げたりするな。奴らはそれを踏みにじり、あなたへ立ち向かってくるだろう。

 マタ7:7-12〈求めなさい〉
 求めよ、さらば与えられん。
 探せ、さらば見つかるらん。
 叩け、さらば開かれん。
 何人であれ求める者は受ける。探す者は見附ける。門を叩く者には開かれる。天の父は求め、探し、叩く者に良い贈り物を与えるだろう。
 ──
 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタ7:12)

 マタ7:13-14〈狭い門〉
 汝、狭き門より入れ。それは命へ通じる道。
 滅びへ至る門は広い。多くの人がそこをくぐる。
 が、命へ通じる門は狭く、その道も細い。これまでにどれだけの人が狭き門をくぐって、命へ至ったことだろう。

 マタ7:15-20〈実によって木を知る〉
 偽りの預言者を警戒せよ。かれらこそ羊の皮をかぶった狼だ。その本性はかれらの実によってこそ知られる。
 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(マタ7:17-19)
 真の預言者と偽りの預言者は、その実によって区別されるのだ。

 マタ7:21-23〈あなたたちのことは知らない〉
 わたしイエスに向かって主の名を唱えれば、だれでも自動的に天の国へ入れるわけではない。そこへ入ることができるのは、天の父たる主の心を行う者のみである。
 主による裁きの日が来て、大勢の人々がわたしのところへ押し寄せてくるだろう。かれらはいう、お前によってわれらを救ってくれ、と。
 が、その日そのとき、わたしはきっぱりとこういう、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタ7:23)と。

 マタ7:24-29〈家と土台〉
 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタ7:24)
 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚か者に似ている。」(マタ7:26)
 ──人々は、ここまでのイエスの話を聞いて、非常に驚いていた。というのも、かれが律法学者のように話すのではなく、権威ある者として自分たちに教えたからである。

 〈求めなさい〉はやはり何度読んでも良い箇所だ。求めて探し、門戸を叩く者には良き贈り物がある。キリスト者にあらざる者も、これは信じてよい言葉だろう。希望にあふれた言葉は読んで心地が良いものである。
 かと思えば、〈わたしは知らない〉という慄然とさせられる言葉がある。かりそめの、うわべだけの信仰を持つと述べ立てる不埒者に、天の国へ入る資格なぞあるものか。裁きの日、自分を頼ってくる者あらば断固として拒否しよう。お前達のことはまったく知らない、とっとと去れ。──いや、厳しい、厳しい。が、来る者は拒まず、千客万来では、やってゆけない。心ある者だけがそこへ入ってゆくことができる。そうでなくて果たしてなんの教えか、信仰か。イエスの激しく厳しい言葉に納得できぬ者よ、離れ去るがよい。
 警戒すべきは偽りの預言者である、という。われらの知る預言者達の時代にも偽りの預言者があって、主により召命された真の預言者達の活動を邪魔したりした。真なる者と偽りの者。その区別はかれらの<実>にこそある。
 エリヤや3大預言者、12小預言者は真実なるがゆえに良い木であり良い実を結ぶ。良い実、それは即ち<福音>でありメシア預言であり、神の国による永遠統治の訪れの予告である。一方で、主の名を騙る偽りの預言者は悪い木であり、悪い実を結ぶ。即ち人心を誑かした廉で主の怒りを蒙るのだ……こんな人物、どこかにいなかったっけ?
 フランシスコ会訳ではマタ7:7-12〈求めなさい〉、最後の節は〈黄金律〉として独立する。曰く、「だから、何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」(フランシスコ会訳)と。──疑われるかもしれないけれど、わたくしは常よりこのような行いのできる人物になりたい、と思い願うているのである。



 ウッドハウスの文庫を読み終わったことを先日、ここでお伝えしました。本来ならばそのまま続刊『ドローンズ・クラブの英傑伝』に移るはずなのですが、読み終わったタイミングがあまり良ろしくなかった。帰りの電車のなかで読む本がなくなってしまったのだ。聖書と聖書人名辞典はリュックのなかにあるけれど、往復の通勤電車のなかで読むような本ではないことはたしかだろう。
 そこでわたくしは考えた。帰り道にはTSUTAYAがある。その2階にはTSUTAYAのエコブックのコーナーがある。まぁ、平たくいえばTSUTAYA版ブックオフである。そこに寄ってなにか短めなものを見繕って帰りの電車のなかで読み、読了したらさっさと売り払おう。そんな風に思うての寄り道。それが良くなかった──。
 望みの本が見附からなかったわけではない。結論からすれば、見附かった。否、棚にその本があるのを発見してしまったのだ。それが他の作家ならば、特にどうということもないのだけれど、そのとき見出して手にして一目散にレジへ運んだのは、スティーヴン・キングの短編集だったのだ。それも、自分が高校生の頃に読み耽ってキングの物語る力に感嘆した短編数『骸骨乗組員』、サンケイ文庫、初版! おお、神よ!!!!
 それを駆って、帰りの電車に乗った。「死神」を読んだ、「カインの末裔」を読んだ。帰宅してからは夜明け近くまで「ウェディング・ギグ」を読んだ、「握手しない男」を読んだ。そうして、「霧」を読んだ。
 ハヤカワ文庫『闇の展覧会』、サンケイ文庫死して扶桑社ミステリ文庫にて真相再刊された版まで含めれば、「霧」は何度目の再読だろう。そうして実はいまもリュックのなかに入っている。行きの電車のなかで読み、、昼休みに同じタイミングで休憩に入っている同僚なくば読み、本ブログ原稿を書く前に(ウォーミングアップを兼ねて)読み、帰りの電車のなかで読む。
 よくもまぁ、飽きずに何度も何度も読み返せるものだ、と、われながら可笑しくなってしまうが、でも仕方ない。キング印の刻印された作品はわたくしにとって教科書であり、至福の読書体験を約束してくれるものであるからだ。これぞ<福音>!! サンキー・サイ。
 この興奮と幸福、しばらくは収まりそうにない。ゆえにウッドハウスに戻ることはいまの段階では困難な行為だ。いや、無謀というか、背信行為に等しいかも。大袈裟というな、ボクハホンキダ。うぃす!◆

第1852日目 〈マタイによる福音書第6章/「山上の説教」2/3:〈施しをするときは〉、〈思い悩むな〉他with滅多にしないことをした理由はなに?〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第6章、「山上の説教」2/3です。

 マタ6:1-4〈施しをするときは〉
 人目につかぬところで、あなたは善行を積みなさい。人に対して施しをするとき、あなたは右の手がすることを左の手に教えてはならぬ。あなたの施しを世人に知られないようにである。斯様に、隠れたところで行われた施しに対して、天の父は報いてくれるから。

 マタ6:5-15〈祈るときは〉
 人前や人目につく場所で祈ってはならぬ。それは偽善者の行うことだ。あなたは世人の目のない場所で、静かに、簡潔に祈りなさい。
 くどくどと言葉を並べ立てて祈るのは、異邦人のすることだ。言葉数が多ければ祈りは届くだろう、願いはかなうだろう、とするのは異邦人の勝手な思いこみである。
 あなた方の場合、祈り願う前から天の父はあなた方のことを知っているのだから、異邦人のようにすることはない。
 「あなたが祈るとき、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタ6:6)

 マタ6:16-18〈断食をするときには〉
 いままさに自分は断食をしているのだ、ということを自ら世人に知らしめるような態度を取るな。あなたが理由あって断食していることを知るのは、ただ天の父のみである。世人には、断食していることがすぐにはわからぬよう、頭に油を付け、顔を洗って臨みなさい。

 マタ6:19-21〈天に富を積め〉
 あなたの富を地に積むな。天にこそそれを積め。
 天の富のあるところに、あなたの心もある。

 マタ6:22-23〈体のともし火は目〉
 あなたの目は、あなたの体の灯火である。あなたの目が澄んでいるならば、あなたの体は明るい。あなたの目が濁っているならば、あなたの体は暗い。あなたの体のなかの光が消えれば、あなたの体はどれ程暗くなることだろう。

 マタ6:24〈神と富〉
 何人と雖も複数の主人に仕えることはできない。それは、あなたは神と富、そのどちらにも同時に仕えることはできない、ということである。

 マタ6:25-34〈思い悩むな〉
 だから、わたしはいっておく。自分の命のことで、自分の体のことで、自分の衣食住のことで、思い悩むな。それらを切に望むのは異邦人である。天の父はこれらのものがあなた方に必要である、とわかっている。あなた自身がそれらについて思い悩むことはない。上ノ国と神の義を求めるならば、それらは皆与えられるのだ。
 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタ6:34)

 昨日に較べると表現の穏やかな印象を受けるのは気のせいであろうか。どこを取り挙げても、静かに、読み手の心に浸透してゆく言葉が並ぶ。正直なところ、本章程読んで余計な解説、註釈めいたものを必要としない章は、珍しいのではないか、と思う。
 信仰あるならば、全力で自分の行いを世間にアピールするようなことはしない。そんなことをする者を新約聖書では「異邦人」、「偽善者」と呼び、今日ならばさしずめ「愚か者」、「エエカッコシイ」、そんな風に呼ばれる連衆である。
 わたくしはこう書いていて、たしか折口信夫が弟子の誰だかに語ったことをどうしても思い出す。地方の寺に来て、談たまたま僧侶の徳に及んだ際である。「本当に徳のある坊さんというのは地方の、草深い田舎の寺にこそいるもので、世間に広く知られたりした人じゃあないんだ」と折口はいった。本章での〈施し〉、〈祈り〉について同様の真意を感じるのは、可笑しな話だろうか。
 そうして、真打ちとして登場するマタ6:25-34〈思い悩むな〉。ここは昨日の〈敵を愛しなさい〉、明日の〈求めなさい〉と並んで、「山上の説教」のヤマ場というてよい。──まだ来ぬ明日のことを思い悩んで自分の心を煩わせるな。明日のことは明日になったら思い悩めばいいではないか。今日の憂いは今日だけでじゅうぶんなのだから。
 ──良い教えではないか。これこそが<福音>である。良い教えとは、宗教や人種、国境や政体、言語や風習を超えて心に届けられ、浸透してゆくものなのだ。



 いちど自分にとっての名盤、決定盤ができるとその後は同曲異演へ滅多に手を出さぬわたくしだけれど、今日のディスク・ユニオンでの買い物は、その「滅多にない」行動をしたのです。
 ブラームスの弦楽四重奏曲全集、ラサール弦楽四重奏団の演奏(DG)。これまでテルデックから出ていたボロディンSQの演奏でじゅうぶんに満足していたのですが、今日、ラサールSQ盤を購入した理由は、本当のことをいえば、自分でもよくわかりません。
 「魔がさした」というのではない。LPで聴いたときの感情がよみがえったのかもしれない。実に良い気分であったのは覚えている。こわばったものがほぐされてゆくような気持ちがしたことも覚えている。──が、実際のところ、即座に購入を決定させたものがなんであったかは、やはり定かでないのである。
 これからじっくりと耳を傾けて、そのときわたくしの背中を押したものがなんであったかについて、わかることができれば良い、と思う。◆

第1851日目 〈マタイによる福音書第5章/「山上の説教」1/3:〈山上の説教を始める〉、〈地の塩、世の光〉他withこれから君の許へ行く、俺の訪れを待っていてほしい。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第5章、「山上の説教」1/3です。

 マタ5:1-2〈山上の説教を始める〉
 ──ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川東岸ペレア地方から来るたくさんの人々を見て、イエスは卒然と山へ登り、適当な所で腰をおろすと、従ってきた弟子たちを前に口を開き、教えを宣べた。
 いわゆる「山上の説教」である。

 マタ5:3-12〈幸い〉
 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタ5:3-12)

 マタ5:13-16〈地の塩、世の光〉
 あなた方は地の塩である。もし塩から塩気がなくなってしまえば、もはや塩としての機能は果たさない。なんの役にも立たなくなったものは棄てられ、踏みつけられるのが常だ。
 あなた方は世の光である。それは燭台の上にあって家のなかのすべてを照らす。「そのようにあなた方の光を人々の前に輝かしなさい。」(マタ5:16)

 マタ5:17-20〈律法について〉
 わたしは律法を完成させるために来た。けっして律法や預言者を廃するためではない。つまり、主の教えを除くのではなく、主の教えを完成させるために来たのだ。
 「すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタ5:18)
 ゆえに律法の定めた掟の最も小さなものであっても、それを破り、お前たちもこうするように、と教える輩は、天の国に於いて最も小さな者となる。
 反対に律法の定めた掟の最も小さなものであっても、それを守り、あなた達もこうするように、と教える人は、天の国に於いては大いなる者となる。
 ──あなた方の義がファリサイ派や律法学者の義に優っていなければ、あなた方は天の国に入ることができない。

 マタ5:21-26〈腹を立ててはならない〉
 兄弟に腹を立てる者は裁かれる。
 「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタ5:23-24)

 マタ5:27-30〈姦淫してはならない〉
 律法に「汝、姦淫するなかれ」という(出20:13,申5:18)。
 しかし、わたしはいっておく。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心のなかでその女を犯したのである。」(マタ5:28)
 右の目があなたを躓かせるなら、それを抉り出してしまえ。右の手があなたを躓かせるなら、それを切断して棄てろ。その方が、地獄へ投げこまれるより、ずっと良い。

 マタ5:31-32〈離縁してはならない〉
 非合法な理由以外で結婚したのでない限り、妻を離縁する者は、何人と雖も、彼女に姦通の罪を犯させるのである。彼女を新たに妻とした男の姦通の罪を犯した者と見做される。

 マタ5:33-37〈誓ってはならない〉
 「一切誓いを立ててはならない。」(マタ5:34)天にも地にも、エルサレムにも、頭にも。
 天は神の玉座である。地は神の足台である。エルサレムはヘロデの都である。頭髪1本すら自分の思うままにはならない。
 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは悪い者から出るのである。」(マタ5:37)

 マタ5:38-42〈復讐してはならない〉
 律法に「目には目を、歯には歯を」(出21:24,レビ24:20,申19:21)という。
 しかし、わたしはいっておく。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタ5:39)

 マタ5:43-48〈敵を愛しなさい〉
 あなた方は、あなた方の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方が天の父の子となるためである。天の父は、悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも等しく雨を降らせるのである。
 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタ5:46-48)

 山上の説教はそこで語られる言葉ゆえに昔から知られてきたところである。が、実はけっこう厳しい物言いがなされていることにも、こうした読書を通じて思い知らされるところである。
 〈姦淫するなかれ〉と語る箇所では、人妻に対して邪な想いを抱くなら、目玉を抉り出せ、手を切り棄てろ、という。その方が地獄へ放りこまれるよりははるかにマシであろう、と。〈離縁するなかれ〉ではきちんとした手続きを踏んで婚姻した夫婦に対して、妻を離縁するならそれは彼女に姦淫の罪を犯させたも同然だ、といって夫であった男を糾弾する。〈敵を愛せ〉では親しい者、身内の者に愛し愛されていたとしてもそれがどうだというのだ、そんなことは蔑まされる者であっても行っている当然至極のことだ、と一刀両断する。
 薄皮を剥げば真実の姿が見えてくる。これは「山上の説教」に於いても同じなようである。
 実を申せば最初、マタ5:43-48〈敵を愛しなさい〉を読んだとき、どうにも引用した一文の真意がわかりかねた。そんなことは当たり前の行為なのだから、幾らそれを行ったとしても善行を積むことにはならない。そんな意味であろうか。──そんな風に考えたりしたこともあった。
 が、本稿を執筆するためにこの条を読書していたら、ようやくわかったのだった。完全な者となるには身内や親しい者、相愛の間柄にある者ばかりでなく、自身にとっての敵、天敵、最悪の敵(your own worst enemy)、生理的嫌悪感が先に立つ輩であっても仕事のライヴァルであっても、等しくかれらをも愛し、理解するよう努めなくてはならないのだ、ということを、マタ5:43-48〈敵を愛しなさい〉は教えるのだ、と思い至ったのである。
 知る者からすれば、一読すぐ理解できることであっても、わたくしにとっては少々の回り道乃至は考える時間が必要だったりする。が、どれだけ時間をかけてでも、多少の遠回りがあったとしても、文章や言葉の意図するところがやがて理解できれば、それで良い。ねじ曲げて解釈したり、自身の考えに沿うような、文脈を無視して己にとって都合の良い考えを構築するよりは、はるかに良いであろう。
 なお、イエスが山上の説教を行ったのは、カファルナウムの町をガリラヤ湖畔に反時計廻りに南下、ゲネサルの野へ至る手前にある山である由。ここには「山上の説教の教会」と呼ばれる古代より存在する教会があって、イスラエルの観光ガイドなどにも載る所であります。

 本日の旧約聖書はマタ5:21と出20:13,申5:17。マタ5:27と出20:14,申5:18。マタ5:31と申24:1。マタ5:33とレビ19:12,民30:3。マタ5:38と出21:24,レビ24:20,申19:21。マタ5:43とレビ19:18。
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」(マタ5:21)
 これの典拠は、
 「殺してはならない。」(出20:13)
 「殺してはならない。」(申5:17)

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」(マタ5:27)
 「姦淫してはならない。」(出20:14)
 「姦淫してはならない。」(申5:18)

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。」(マタ5:31)
 これの典拠は、
 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申24:1)

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。」(マタ5:33)
 これの典拠は、
 「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。」(レビ19:12)
 「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。」(民30:3)

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」(マタ5:38)
 これの典拠は、
 「目には目、歯には歯、手には手、足には足」(出21:24)
 「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」(レビ24:20)
 「あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。」(申19:21)

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」(マタ5:43)
 これの典拠は、
 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ19:18)



 待っていてくれ、これから君を迎えに行く。わたくしの来ることを、君が楽しみにしてくれていることを祈りたい。外は風が強い。夜風ゆえにその冷たさは一入であろう。早く君に会いたい。そうして君を僕の胃袋へ押しこんであげたい。待っていてくれ、キリンシティの黒ビールよ。◆

第1850日目 〈マタイによる福音書第4章:〈誘惑を受ける〉、〈ガリラヤで伝道を始める〉他with1日が30時間ぐらいあったら良いのに。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第4章です。

 マタ4:1-11〈誘惑を受ける〉
 その後、イエスは悪魔からの誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行った。
 40日40夜の間断食して、空腹を覚えるようになった。するといよいよ誘惑者が現れて、イエスにいった。お前は神の子だろう? ならば辺りに散らばる石ころをパンに変えて、空腹を満たせ。誘惑者に答えてイエスの曰く、──
 「『人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタ4:4,申8:3)
 次に、誘惑者によってイエスは聖なる都へ連れてゆかれ、神殿の屋根の端に立たされた。誘惑者がイエスにいった。お前は神の子だろう? どうせ怪我の一つもしないのだろうから、飛び降りてみたらどうだ。それに答えてイエスの曰く、──
 「『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』と書いてある。」(マタ4:6,詩91:11-12)続けて、「『あなたの神である主を試してはならない。』と書いてある。」とも(マタ4:7,申6:16)。
 更に、誘惑者即ち悪魔によってイエスは高い高い山へ登らされた。その頂で、眼下に見える世のすべての国々と繁栄している様を見せられた。悪魔がイエスにいった。俺にひれ伏して崇めるなら、これらの国のすべてをお前にやろう。それに答えてイエスの曰く、サタンよ去れ、──
 「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ。』とかいてある。」(マタ4:10,申6:13)
 悪魔は去った。天使らが来てイエスに仕えた。

 マタ4:12-17〈ガリラヤで伝道を始める〉
 イエスの耳に、洗礼者ヨハネ逮捕の報せが届いた。そこでかれはガリラヤ地方に戻ってナザレを引き払い、更に北のガリラヤ湖畔の町カファルナウムに移ってそこに住んだ。──かつて預言者イザヤを通して語られたことの実現である(イザ8:23-9:1)。
 カファルナウムの町を拠点として、イエスは自身の伝道──「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタ4:17)──を開始した。

 マタ4:18-22〈四人の漁師を弟子にする〉
 ガリラヤ湖の畔を歩いていたイエスは、湖上で網打ちをする、漁師の兄弟シモン(ペトロ)とアンデレを、また、同じように湖上にいて網の手入れをする、ゼベダイの子で漁師の兄弟ヤコブとヨハネを、それぞれ呼んで弟子にした。
 「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)とは、イエスがシモンとアンデレ兄弟にかけた言葉である。。

 マタ4:23-25〈おびただしい病人をいやす〉
 カファルナウムを拠点としたイエスの伝道は続き、その地域は広がっていった。
 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。」(マタ4:23-24)
 イエスの許に様々な病気を抱えた人たちが押しかけた。イエスはかれらを癒やした。かれらはガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川東岸のペレア地方から来て、イエスに従ったのである。

 イエスが本格的に自身で伝道を始めるにあたって拠点とした町カファルナウム。ここはガリラヤ湖の北西岸にあり、水陸の交易の要となった場所でありました。活気のある、賑やかな町だったことが想像されます。いろいろな地方、町や村の人たちが行き来したことでありましょう。
 そうした場所を活動拠点としたイエスには、なにか相応の目算があったはずであります。交易拠点ならではの人々の多様性に期するところもあったでしょう。弟子となる人材のスカウト、という点を視野に入れても、当時のイエスの活動範囲内に於いては、このカファルナウム程行動しやすい場所はなかったのかもしれません。
 本章にてイエスの12弟子として知られるようになってゆく4人が、初めて登場します。ペトロと呼ばれるシモンとアンデレ兄弟、そうしてヤコブとヨハネ兄弟であります。追々、かれらについての素描的エッセイを書いてゆきましょう。
 デカポリスについては過去に書いたような記憶があったので調べてみたら、一度も書いたことがなかった。ただ、旧約聖書続編「ユディト記」を読んでいたとき「スキトポリス」という町が出て来ています。このスキトポリスが、デカポリス即ち「10の町」の1つなのであります。
 ──デカポリスはガリラヤ湖南部とヨルダン川東岸地域一帯に広がる、かつてギリシアが侵攻して築いた、パレスティナに於けるヘレニズム文化の中心を担った地域でありました。旧約聖書でいえば、マナセの半部族、ギレアドの所領であった地域が、このデカポリスにほぼ重なる、といえば宜しいか。ここに10の植民町(衛星都市、というべきかもしれぬ)が造られた。その一つが先述のスキトポリスですが、ここのみヨルダン川西岸に位置しております。新約聖書の時代には、パレスティナを形成する一地方名として知られるようになっていたようです。

 本日の旧約聖書はマタ4:4と申8:3、マタ4:6と詩91:11-12、マタ4:7と申6:16、マタ4:15-16とイザ8:23-9:1。
 「『人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタ4:4)
 これの典拠は、
 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申8:3)
 「『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』と書いてある。」(マタ4:6)
 これの典拠は、
 「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。/彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。」(詩91:11-12)
 「『あなたの神である主を試してはならない。』と書いてある。」(マタ4:7)
 これの典拠は、
 「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」(申6:16)
 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、/暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタ4:15-16)
 これの典拠は、
 「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。/闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザ8:23-9:1)



 1日が24時間というのはたしかに短い。そう感じるようになった。
 いまだけの感慨だろうけれど、いまは切実に1日が30時間程あってくれたなら、と思うている。そうすればゆとりのある1日を過ごすことができるだろうに……。
 地球の公転速度がも少し遅くなったら、この珍妙な願いも叶うのだろうか? そのとき、生態系やわれらの暮らしにはどのような影響が出るのだろう?◆

第1848日目 〈マタイによる福音書:〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉、〈イエス、洗礼を受ける〉withこのリュックは何キロあるんだ?〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第3章です。

 マタ3:1-12〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉
 それはこうして始まった。
 洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野に現れて、悔い改めよ天の国が近附いている、といった。かつて預言者イザヤが語った言葉が実現したのである(イザ40:3)。
 ヨハネは粗衣粗食であった。そんなヨハネの評判を聞きつけて、人々がかれの許へ上ってきた。ユダヤ全土とエルサレムから、ヨルダン川沿いの岸辺の町や村から。かれらは来て、ヨルダン川に入ってヨハネから洗礼を受けた。
 そのうち、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々も来た。洗礼を受けに来た、と、かれらを前に、ヨハネがいった。
 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めるにふさわしい実を結べ。」(マタ3:7-8)続けて、こうもいった、「わたしは悔い改めのために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」(マタ3:11)わたしはその方の履き物を脱がせる資格さえない。その方は聖霊と火で以てあなたたちに洗礼を授けることだろう。

 マタ3:13-17〈イエス、洗礼を受ける〉
 ガリラヤからヨルダン川のヨハネの許へ、イエスがやって来た。受洗のためである。願うかれをヨハネは思い留まらせようとした。わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのです、どうしてわたしのところへ来たのですか。
 イエスが答えて曰く、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタ3:15)
 ──ヨハネはイエスの頼みを聞き入れ、ヨルダン川に入ってかれを洗礼した。洗礼が済んでイエスが岸に上がると、かれの上で天が開けた。神の霊が鳩の如く自分の上に降ってくるのを、イエスは見た。そのとき、天から声が聞こえてきた。それに曰く、──
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マタ3:17)

 洗礼者ヨハネとは何者か。かれの宣べ伝えるメッセージはなんであったか。本来の箇所に到達したら、改めて述べることもあろうが、「マルコによる福音書」第1章第4節に拠れば、ヨハネは民に、「罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」という。ヨハネは、来たる終末の預言者としても捉えられる。これまで預言書などでさんざっぱら触れられてきた<神の裁き>の訪れを前に民を改悛させる──それが洗礼者ヨハネの役割であった。
 かれは祭司の家系に生まれた人で、しかもイエスの血縁者であった、という(「ルカによる福音書」第1章第5節〜第2章第21節)。ヨハネの母エリザベトとイエスの母マリアが親類であったことを、ルカ1:36は伝える。
 またその粗衣粗食(マタ3:4)ゆえにヨハネは旧約聖書の預言者エリヤを想起させる由。

 本日の旧約聖書はマタ3:3とイザ40:3。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」(マタ3:3)
 これの典拠は、
 「呼びかける声がある。/主のために、荒れ野に道を整え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザ40:3)



 重いリュックを背負って会社へ行く。もともと腰が悪いのに、どうしてこうも重い荷物を日々<運搬>せねばならぬのか。自問自答するまでもなく、本ブログの原稿を書くため必要な書籍が詰めこんであるからだ。MacBookAirとバッテリー2種が加われば、この重さも、うむ、道理だ。
 いったいこのL.L.beanのリュック、何キロあるのだろう。日頃倩考えながら、忘れっぽさ(呵々)と恐ろしさが先に立ってなかなか実行できずにいたのだが、遂に昨日、勇気を奮って重さを量ってみた。帰宅して手を洗うのもそこそこに、洗面所の体重計を引っ張り出して、1回深呼吸したあとリュックを乗せてみた。
 ──予想は概ね的中した。体重計はアナログゆえに針が1.5キロばかりプラスの方向へずれている。それを考慮して算出された計量結果は、約7.5キロ!
 肩に食いこむストラップ、降ろしたあとの肉が張った感じも痛みも疲労も、すべてに於いて納得というか、当然の帰結というか、いずれにしても呆れ返ってしまう事実。
 が、このリュックの重さからわたくしは、しばらくの間は解放されないのだ。そう、本ブログが──この書物を読み終える日までは。それまではこの重いリュックを背負わねばならぬ。……会社のロッカーに入らなくなったり、一緒に持ち歩くお弁当バッグゆえにロッカーを2つ占拠する日の訪れは、案外と近いかもしれぬ。◆

第1847日目 〈マタイによる福音書第2章:〈占星術の学者たちが訪れる〉、〈ヘロデ、子供を皆殺しにする〉他〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第2章です。

 マタ2:1-12〈占星術の学者たちが訪れる〉
 ベツレヘムでイエスが生まれたのと時を同じくして、エルサレムのヘロデ王の許に訪問客があった。かれらは占星術の学者で、東方から来たのである。
 ユダヤ人の王として生まれた方はどこにいるのか、とかれらが訊いた。ヘロデは不安を覚えた。かれらのいう人物が自分の地位を脅かす者、と感じたためである。また、エルサレムの民も王同様に震えおののいた。そこで王は学者たちを待たせて、民の祭司長と律法学者たちを集めて、このことを知っているか訊ねた。祭司長と律法学者たちは知っていた。それによれば、かの者はユダヤのベツレヘムで生まれる、とのことだった。
 ヘロデ王は学者たちにそれを教え、自分もその方のところに行って拝みたいから、わかったことがあったら報告してほしい、と伝え、かれらをベツレヘムへ送り出した。
 ベツレヘムへ向かうかれらの前に、以前東方で見た星が再び現れた。それはかれらを導き、幼子の家の上で止まった。学者たちがおそるおそる家のなかを覗くと、そこには母マリアに抱かれた幼子イエスがいたのである。かれらは伏して拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
 その後、かれらは夢のお告げ(「ヘロデの許へ行くな」)に従って、エルサレムを迂回して自分たちの国へ帰っていった。

 マタ2:13-15〈エジプトに避難する〉
 東方からの訪問者が帰国したあと、ヨセフは夢のなかで(再び)天使の告げることを聞いた。曰く、ヘロデが幼子の命を奪おうと計画している、妻と子供を連れてエジプトへ逃れよ、わたしが良いというまでそこに留まれ、と。
 ──ヨセフはそうした。エジプトにはヘロデ王が世を去るまで滞在した。「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタ2:15,ホセ11:1)

 マタ2:16-18〈ヘロデ、子供を皆殺しにする〉
 占星術の学者たちが自分を欺いて帰国したことを知ったヘロデ王。かれは大いに怒り、学者たちにあらかじめ確かめておいた時期に、ベツレヘムとその周辺地域で生まれた2歳以下の男児の虐殺を命じた。そうしてそれは実行された。
 斯様にして、むかし、主が悲しみの預言者エレミヤを通して語ったことが実現したのである(エレ31:15)。

 マタ2:19-23〈エジプトから帰国する〉
 やがてヘロデ王が崩御した。エジプトのヨセフは夢のなかの主の天使のお告げによって、それを知った。ヨセフはマリアとイエスを連れてイスラエルへ帰国した。
 が、王の子アルケラオが亡父の所領を兄弟と分割統治している、と知ると、ユダヤの北方ガリラヤ地方の小村ナザレに身を隠すようにして住んだのだった。

 イエス生誕の地はガリラヤ地方の小村ナザレである。
 福音書に端を発して、ややもすると今日に至るまで未だ根強く思いこまれている<イエスの生地=ベツレヘム>なる挿話は、ダビデ王ゆかりの町でその子孫イエスが生まれたことを強調したいがために為された、歴史のどこかの段階で行われた(良くいえば)改訂である。既に忘却の彼方かもしれぬが思い出すべきは、このベツレヘムがダビデの生誕地であり、サムエルによって油を注がれて統一王国イスラエルの王に即位した地である、ということだ。イエスはダビデの町で生まれたことにしなくてはならなかった!
 そうして後にイエスは<ナザレの人>と称されるようになる。一旦はエジプトへ逃げて、情勢が変わるとイスラエルに帰国したヨセフ一家が、エルサレムの南約8キロの地点にある、かつて住んでいた町ベツレヘムを通過して、わざわざ北方の寒村ナザレに赴かねばならなかった(ことにする)理由は、後代のイエスの呼称にある原因を求められよう。両者の整合性を図ったとき、イエスを仲介としたベツレヘムとナザレの奇妙な関係が誕生した、といえそうである。
 なお、今日ではイエスの誕生はヘロデ王の崩御と同じ前4年である、とするのが一般的。つまり、われらが知るより4年も前から20世紀にも21世紀にも突入していたわけだ。その伝でゆくと、今年はカレンダー上は2015年だが、本当は2019年になるのであって、ちょっとふしぎな気がする。
 なお、イエス生誕の時にベツレヘムを訪れた東方の3博士だが、7世紀になってそれぞれに名前と象徴的意味合いが付与されて、贈り物と関連づけられた。即ち、黄金はメルキオールを、乳香はバルタザールを、没薬はカスパールである(「没薬」の読みは「もつやく」であって「ぼつやく」ではない)。メルキオールは王権を象徴して青年の姿を、バルタザールは神聖を象徴して壮年の姿を、カスパールは死を象徴して老人の姿を、それぞれしている、とのことだ。リヒャルト・シュトラウスのオーケストラ伴奏歌曲に、《東の国からきた聖なる3人の王たち》という作品がある。◆

第1846日目 〈マタイによる福音書第1章:〈イエス・キリストの系図〉、〈イエス・キリストの誕生〉withようやくウッドハウスを読了したよ!〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第1章です。

 マタ1:1-17〈イエス・キリストの系図〉
 ノアがいて、セムがいた。数代を経てテラが生まれ、アブラハムが生まれた。アブラハムからイサクへ、ヤコブ(イスラエル)へ、血は継がれた。ヤコブの息子で最も知られるのはエジプトの宰相にもなったヨセフだが、系図はこの人物を重要視しない。ヤコブ/イスラエルの子らで取り挙げるべきはユダである。
 ユダはタマルを妻としてペレツを設けた。ペレツから5代あとのサルモンは、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がいよいよカナン侵攻に備え始めたとき、エリコの町へ潜入した2人の斥候を匿って主に愛でられた遊女ラハブを妻とした。サルモンとラハブの間にボアズが生まれた。ボアズはモアブ出身のルツを妻に迎えてエッサイを設けた。ルツとボアズのことは「ルツ記」に詳しい。このエッサイはダビデ王の父となった。
 統一王国イスラエルの2代目の王ダビデはバト・シェバとの間にソロモンを設けた。ダビデとソロモンの地は分裂した南王国ユダの王たちがつないでゆく。かれらについては「列王記」と「歴代誌」を繙け。
 王国が分裂して、ダビデ王家の者もバビロン捕囚の目に遭った。が、ここで述べるのはそれ以前に捕囚となってバビロンへ連行されたヨヤキン、またの名をエコンヤという最後から2番目の王がつないだ血の流れである。かれの孫ゼルバベルはペルシアによる捕囚解放を承けて第一次帰還団の指導者として、廃都エルサレムへ帰った。かれから9代あとの子孫にヤコブという者がいる。その子がマリアの夫、イエスの父となるヨセフであった。ヨセフはナザレの町の大工。マリアの胎から生まれたイエスは、メシア(キリスト)と称される。

 マタ1:18-25〈イエス・キリストの誕生〉
 メシア(キリスト)と称されるイエス誕生の次第はこうである、──
 ヨセフとマリアはガリラヤ地方ナザレの人。かれらは婚約していた。しかし、ヨセフの精を受けずしてマリアは妊娠した。ヨセフはこれを知ると、表沙汰にならぬうちに彼女を縁切りしようとした。
 その晩、ヨセフは夢を見た。主の使いの天使が現れる夢だった。そのなかで、天使はヨセフにこういった。曰く、──
 マリアの胎の子は聖霊の働きによって宿ったのであるから、あなたはなにも恐れることなく彼女を妻となさい。どうしてこのようなことが起きたのか、といえば、それはかつて主が或る預言者を通して語ったことを実現するためです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名は、インマヌエルと呼ばれる。」(マタ1:23,イザ7:14)インマヌエルの意味は、神はわれらと一緒にいる。ヨセフよ、あなたは生まれてくる子にイエスと名を付けなさい。かれは自分の民を罪から救う者です。
──と。
 目覚めたヨセフは天使の告げた通りマリアを妻に迎えた。そうして彼女の出産まで夫婦の営みを持たなかった。やがて男児が生まれて、イエスと名附けられた。
──メシア(キリスト)と呼ばれるイエス誕生の次第は、このようなものであった。

 新約聖書の各巻には旧約聖書からの引用が多く行われております。本章に於いては「イザヤ書」からのメシア預言が該当します。幸い、読書のテキストとして使っている新共同訳聖書には、旧約聖書からの引用一覧がありますので、これを参考としながら、必要な範囲でそれを知らせてゆくつもりです。
 系図については実に面白く、楽しく筆を進められました。が、本稿で触れなかったマタ1:17,アブラハムからダビデまで14人、ダビデからバビロン捕囚即ちヨヤキン(エコンヤ)まで14人、バビロン移住即ちヨヤキンの子からイエスまで14人という記述には、ちょっと疑問がございまして。何度数えても1人足りないのです。ありふれた怪談話の類と思うなかれ。
 まず第1ブロック、アブラハムからダビデまで。ここには14人の名があり、マタ1:17の記述通りである。次に第2ブロック、ソロモンからヨヤキンまで。ここには14人の名があり、マタ1:17の記述通りである。終に第3ブロック、シャルティエルからイエスまで。ここには13人の名があり、マタ1:17の記述とは相違する。
 個々のブロックで重複して名が記される者もいるため、数え方を変えてみても、必ずどこかのブロックで13人になってしまう。わたくしの頭が悪いせいかもしれません。どなたか数えてみて、すべてのブロックが14人ずつになったら教えてください。当然、各人1回のカウントですよ?



 今朝、通勤の車内にてようやく(本当にようやくだ!)、ウッドハウスの文庫を読了。『ジーヴズの事件簿 大胆不敵の巻』(文春文庫)、260ページ程度の短編集にどうして1ヶ月強も費やしたのか。
 理由は自ずとしれている、この間、殆どページを開いたことがなかったからだ。仮に1話1日と計算しても費やすのは6日、章立てされている話が2話あることを加味しても、1週間程度でじゅうぶん読み終えられたはずなのになぁ……。
 ──ちかごろ読書欲の低下を著しく感じている。以前は空いた時間がわずかでもあれば、本を読まずば気が済まぬぐらいだったのに、このあまりに悲劇的な変貌はどうか。口惜しいというべきか、悲しいというべきか。正直表現に苦しむところである。
 積み上げられた小説も、果たしてすべて読了するまでには何年かかることやら。せめてS.キングとドストエフスキー、クリスティと太宰治の未読分はすべて消化してから、わが身への審判が下されてほしいものである。◆

第1845日目 〈「マタイによる福音書」前夜〉 [マタイによる福音書]

 人々は、新約聖書を読まずともそのなかの言葉の数々に親しんでおります。「明日のことを思い煩うな」という言葉を耳にしたことはないでしょうか。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というのは如何でしょう。「狭き門より入れ」、お聞きになったことはありませんか。「みだらな思いで人妻を見る者は誰でも、既に心のなかで彼女を犯している(姦淫している)」や「求めよ、さらば与えられん」といった言葉、どこかで聞いたことはないでしょうか。或いは、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」は?
 これらはいずれも「マタイによる福音書」の「山上の説教」から選んだものであります。特に限ったことではありませんが、われらが知らず馴染んだ言葉の多くが、新約聖書就中「マタイによる福音書」を出典とするのは面白い。それだけ本書が、キリスト者でない日本人にも親しみのある書物であることの証左と申せましょう。
 ドイツの作曲家シュッツや大バッハが書いた作品に《マタイ受難曲》があります。これは「マタイによる福音書」全体ではなくそのクライマックス、イエスの捕縛と処刑(磔刑)、その後の出来事について語った第26-27章を基に台本が書かれて、シュッツや大バッハが作曲したものであります。大バッハの《マタイ受難曲》は昔から演奏や録音の栄に浴すことの多い作品ですが、昨今はシュッツの作品も演奏や録音の機会が多くなってきているようであります。
 「マタイによる福音書」の著者はイエスの12人の弟子(使徒)の1人、徴税人のマタイである──初期教会の頃からそう信じられてきました。マタイが著者である、とする根拠はマタ9:9にあった。そこで語られるのは、弟子としてのマタイ召命であります。が、「マタイによる福音書」以前に成立した「マルコによる福音書」では同じ弟子の召命場面に於いて、イエスに声掛けされて従ったのはやはり徴税人であるレビでした。レビからマタイへ変更されたのは、イエスの弟子の名前をここに紛れこませることで著者をマタイとし、本福音書の一種の権威附けを計ったのかもしれません。もしくは、著者未詳のまま歴史に埋没してゆくのを惜しんでの救済措置であったかもしれぬ。
 ただ、マタイがイエスの12弟子の1人であったことは事実であるから、本福音書の著者問題にどう決着が付こうと、弟子/使徒マタイの実在を否定するものにはならない。両者はけっしてイコールの関係ではないのだ。「マタイによる福音書」はそもそもの始めからギリシア語で書かれた、といいますから、著者もギリシア語で書き物のできた無名ユダヤ人であった、と考えるのが無難でありましょう。預言書や諸書でさんざん悩まされてきた<真相は藪のなか>とは、本書に於いても適応される表現であります。
 実を申せば4つある福音書のなかで著者を特定できるのは「ルカによる福音書」のみであり、その著者は外題になり、また「使徒言行録」を書いたルカでありますが、これについては「ルカによる福音書」や「使徒言行録」のところで改めて触れることに致しましょう。
 本書はパレスティナ以外のシナゴーグ(会堂)のある町で書かれた、とされます。著者がパレスティナの事情や地理に詳しくない点を挙げての説ですが、その他の根拠と併せて今日では特に、シリアのアンティオキア(セレコウス朝シリアの首都として「マカバイ記」に出て来ましたね)での成立を有力視しているようであります。しかし、確実な証拠は(例によって)なきに等しいのでした。
 成立年代についていえば、「マルコによる福音書」が第1次ユダヤ戦争によってエルサレムが陥落した後70年から数年間とされますので、「マタイによる福音書」も当然それ以後の、遅くとも後80年代初頭にはいま見る形で書きあげられて存在していたであろう。そう考えられております。
 なお、ヴァルター・クライバー曰く、著者は当時ユダヤ教の会堂から分離したユダヤ人キリスト者の教会のためにこれ即ち「マタイによる福音書」を書いた、と(『聖書ガイドブック』P229 教文館)。
 ──本書「マタイによる福音書」は旧約聖書と新約聖書をつなぐ書物であります。聖書を正直に、旧約聖書の最初から1冊ずつ愚直に読破してきた者にとって、他3つの福音書とは較べるべくもなく旧約聖書の連続性がはっきりわかる書物が「マタイによる福音書」であります。一個の独立した新しい書物というよりは、旧約聖書の続き乃至は後日譚的読み物としての性格も強く感じられます。いうてみれば──旧約聖書との連続性という点は、読み手に敷居の低さを実感させるのであります。「マタイによる福音書」を新約聖書のトップに据える決断を下した者に幸あれ。その勇断に、拍手。
 加えていうと、「マタイによる福音書」は他の福音書に較べてイエスの言行録としてもっともまとまりの良いものであります。そうして、ドラマティック。一つの読み物、一個の文学として優れている。新約聖書の巻頭に据えられたる理由は、そんなところにも求められましょう。本書の実際の著者が誰であれ、相応に教養と文才のある人物である、と見受けました。
 それでは明日から1日1章の原則で、「マタイによる福音書」を読んでゆきましょう。◆
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