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第1903日目 〈マルコによる福音書第16章:〈復活する〉、〈マグダラのマリアに現れる〉他with読書終わりのご挨拶。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第16章です。

 マコ16:1−8〈復活する〉
 安息日、即ちニサンの月の14日土曜日が終わり、週の始まりの日の朝早くのことである。
 マグダラのマリア、ヤコブとヨセフ兄弟の母マリア、イエスの女弟子サロメは、イエスの遺体に油を塗るため香料を買った。そうして誰があの方のお墓の石をどかしてくれるのでしょうね、と互いにいいながら、イエスの墓所へ向かった。
 すると、アリマタヤのヨセフによって塞がれたはずのイエスの墓所は暴かれていた。石は脇へ転がされていたのである。女たちは非常に驚き、恐る恐る墓室のなかへ足を踏み入れた、──
 「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちは非常に驚いた。
 若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。』」(マコ16:5−6)
 若者は続けて、ペトロたちにあの方の復活を伝えなさい、あの方はあなた方よりも先にガリラヤへ行く、といった。
 女たちは震えあがって墓所から逃げ出し、恐ろしさのあまりに正気を失って気絶した。彼女たちはそのことを誰にも告げなかった。

 結び 一
 マコ16:9−11〈マグダラのマリアに現れる〉
 十字架上で息を引き取ったイエス。かれは週の始まりの日の早朝に復活して、まずマグダラのマリアの前に現れた。彼女はイエスの死を嘆く人々のところへ行ってこのことを伝えたが、誰もイエスが復活したこと、マリアの前に現れたことを信じなかった。

 マコ16:12−13〈二人の弟子に現れる〉
 マリアから復活のことを聞いても信じなかったうちの二人が田舎を歩いているとき、イエスは別の形でかれらの前に自身を示した。かれらはイエスの死を嘆く人々のところへ戻ってこのことを伝えたが、誰もイエスが復活したこと、かれらの前に現れたことを信じなかった。

 マコ16:14−18〈弟子たちを派遣する〉
 そのあとイエスは、11人の弟子たちが食事をしているところへ現れて、自分の復活を信じぬかれらの不信仰とかたくなな心を咎めた。そうしてイエスはいった、──
 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マコ16:15−18)

 マコ16:19−20a〈天に上げられる〉
 弟子たちに斯く告げると主イエスは天に昇って神の右の座に着いた。
 「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マコ16:20a)

 結び二
 マコ16:20b
 婦人たち──マグダラのマリアたち──は(イエスの墓所で出会った天使から)指示されたことを手短に、ペトロや弟子たちへ伝えた。
 「イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。」(マコ16:20b)

 マコ16:20bはそのまま第20節aに繋がるのではなく、文章から推してマコ16:8に繋がるものと思う。なにも疑わずに頭から尻尾へ読み進むと、時折今回のわたくしのようなあまりに正直すぎる読み方をしてしまうので、注意が必要だ。
 さて。
 「マルコによる福音書」の最終章である。根強く信じられ、語られ、検証と研究がされてきた上で支持される節に拠れば、本来「マルコ」は第16章第8節で終わっており、第9節以後は後年の加筆であるそうだ。それも「マタイ」と「ルカ」の影響が指摘される。先行していた「マルコ」を基に「マタイ」と「ルカ」が書かれた後、それらから逆輸入されるような形でマコ16:9以後の、イエス復活後の短い挿話群が「マルコ」に追記された、というのだ(「ヨハネ」については自分にはまだよくわからないから保留とする)。
 たしかにもし「マルコ」が第16章第8節で幕切れとなっていたら……実に「あんまりな」終わり方である。ここまで読んできた身にしてみれば、イエスの復活が語られることなくマリアたちの気絶で終わる福音書なんて、木戸銭返せ、と文句の一つもいいたくなるよ。すくなくとも、相応しからぬ幕切れを持つことに不満と疑問を抱かぬ読者はまずあるまい。
 真相はやっぱり<藪の中>であるけれど、この点に関してヴァルター・クライバーの曰く、「この福音書の結末は独特である。(中略)復活後の顕現は16章7節で予告されているが、マルコはそれを復活後の教会の宣教内容にぞくするものと考えたので、あえてもう報告しようとしなかったのだろうか。マルコは『神の子、イエス・キリストの福音の始め(!)』(1:1)という題名の著作では、あえてこの境界線までしか達しようとはせず、それを踏み越えることを欲しなかったのだろうか」(『聖書ガイドブック』P232-3 教文館)と。

 本日の旧約聖書はマコ16:19と詩110:1。



 本日を以てやや更新ペースに乱れと錯綜した感のある「マルコによる福音書」の読書ノートは終わりです。随分と原稿のストックはあったはずなのに、自分の側による一方的な理由によって読者諸兄を困惑させてしまったことをお詫びします。
 それと共に、ここまでお付き合いくだすった皆様に感謝します。
 第3番目の福音書、「ルカによる福音書」読書ノートの始まりがいつからになるか、正直なところいまのわたくしにはお答えできません。可能な限り早い段階で再開をしたいと思いますが、現時点ではこのような曖昧模糊とした台詞しか口にできず申し訳ない。
 ところで、先達て申しあげていた椎名へきるのレヴュー・ブログの件ですが、長く考えた末に本ブログへの統合することを決めました。聖書読書ノートブログの再開までは、そちらで公開していた記事の再掲載でご寛恕願いたく存じます。
 4月中には本ブログの再公開の希望がかなえばいいのですが……。◆

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第1902日目 〈マルコによる福音書第15章:〈十字架につけられる〉、〈イエスの死〉他〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第15章です。

 マコ15:1−5〈ピラトから尋問される〉
 イエスが捕らわれ、死刑が決まり、ペトロが泣いた夜が明けた。祭司長たち最高法院の面子は捕縛したイエスを総督ピラトに引き渡した。
 ピラトはイエスを前に、お前がユダヤ人の王なのか、と問うた。それはあなたがいっていることです。イエスはそう答えた。
 外野から祭司長たちがいろいろと騒ぎ立て、訴えた。ピラトは、ああまでいわれているのにどうして抗弁しないのか、と再び問うた。もはやイエスがなにも答えようとしないのを、ピラトは訝しく、またふしぎに思うのだった……。

 マコ15:6−15〈死刑の判決を受ける〉
 総督ピラトは祭りのたびに囚人を1人、恩赦として解放することにしていた。今回の過越祭に於いても然り。ピラトは人々を前に、誰を解放しようか、と呼びかけた。かれは、この人々がイエスの釈放を望むだろう、と踏んでいた。しかももう1人の囚人バラバは極悪人である。祭司長や律法学者、長老たち即ち最高法院のメンバーの妬みがイエスを捕らえたのだ、と思うていたからである。が、豈図らんや、人々はバラバの解放を求めたのであった。
 ピラトはたじろぎ、訊いた。ではこの<ユダヤ人の王>と自らを称す者はどうするか、と。人々は口を揃えて、十字架に掛けろ! と叫んだ。ピラトは、この者がいったいどのような罪を犯し、悪事を働いたというのか、と説明を求めても、人々はただイエスを十字架に掛けろ、と求めるばかりだった。
 これ以上イエスを擁護することはできない。仕方なくピラトはバラバを解放した。総してイエスを鞭打ちし、兵士たちへ引き渡した。

 マコ15:16−20〈兵士から侮辱される〉
 兵士たちはイエスを総督官邸に連れて行き、王の纏う衣である紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせた。そうして大仰に崇めたり、殴打したり唾を吐いたりして侮辱した、そんなことをしたあと、元の服に着替えさせ、十字架を肩に背負わせて、刑場ゴルゴタの丘へ歩かせた。

 マコ15:21−32〈十字架につけられる〉
 刑場への登り坂でイエスは挫けた。代わって、通り掛かったに過ぎぬキレネ人シモンが十字架を担いだ。キレネ人シモンはアレクサンドロとルフォスの父である。
 ゴルゴタ──それは「されこうべの場所」という意味だ。イエス(とキレネ人)はそこへ向かった。その途中、没薬を飲ませようとした人がいたけれど、イエスはそれを拒んだ。丘の上に到着すると、兵士たちはイエスを十字架に掛けた。誰がその着衣を取るか、分け合うためのくじ引きをして。
 こうしてイエスは十字架上の人となった。午前9時、過越祭の前日である。
 その光景を見て人々は囃し立てた。神の子ならば、メシアならば、ユダヤ人の王よ、自分を救ってみせろ! 心ない言葉が浴びせられた。イエスの左右に立てられた十字架の罪人も、同様に悪態を吐いて罵り、馬鹿にした。

 マコ15:33−41〈イエスの死〉
 昼12時。俄に空が曇り、それは午後3時まで続いた。
 午後3時。イエスは空を仰いで大声で叫んだ。エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしを見捨て給ふたか。
 まわりにいた人々はこれを聞き及んで、イエスが預言者エリヤを読んでいるのだ、と思うた。どれ、本当にエリヤがあいつを助けに来るか、見物するとしよう。
 十字架を望む群衆のなかから1人走り出る者がいた。その人は、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それをイエスに飲ませようとした。酸いぶどう酒には麻酔効果がある。その人はさも自分も見物人の1人で、好奇心からもっと間近で死にゆくイエスを見物しようという風を装って十字架の下へ行き、イエスに飲ませようとしたのだが、そのときである、イエスは息を引き取った。
 ……十字架の上のイエスは死んだ。……
 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのである。これらの様子を見た百人隊長はイエスを顧みて、誠この人は神の子であった、と述懐した。
 また、十字架上のイエスを多くの婦人たちが遠くから見守っていた。そのなかに、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセ即ち弟子ヤコブとヨハネ兄弟の母マリア、女弟子の1人サロメもいた。彼女らはまだイエスがガリラヤ地方で宣教していた頃から付き従い、かれの世話をしてきた女性たちである。

 マコ15:42−47〈墓に葬られる〉
 夕方。間もなく過越祭当日となる時刻だ。
 身分の高いアリマタヤ出身の議員ヨセフが、勇気を奮って総督ピラトに、イエスの遺体を引き取らせてほしい、と願い出た。「この人も神の国を待ち望んでいたのである。」(マコ15:43)
 ピラトは百人隊長にイエスの死亡を確認させたあと、遺体をヨセフへ引き下げた。
 「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に収め、墓の入り口には石を転がしておいた。」(ピラト15:46)
 ──件のマリアたちがイエスの墓所を、なにをするでもなく、悄然と見つめている。

 ゴルゴタの丘へ行くイエスに代わって十字架を担ぐ羽目になったキレネ人シモン。ただそれだけの役なのに、福音書へ登場する端役のなかではふしぎと記憶に残る人物である。かれの家族に触れるのは「マルコによる福音書」のみで、息子が2人いるとはいうてもこの場に居合わせたのか、定かではない。シモンがイエスの教えに感じ入っていたかについても同様で。が、息子の1人ルフォスは後にキリスト者となったらしく、「ローマの信徒への手紙」第16章第13節ではパウロがルフォスの名を挙げている(「主に結ばれている選ばれた者」)。
 本章に於ける端役といえば、イエスを埋葬したヨセフも忘れられない。アリマタヤはユダヤ人で構成された町でユダヤ地方とサマリア地方の境あたりにあり、サム上1:1に出るラマタイム・ツォフィムがそれである由。もう何年も前に読んだ箇所なので忘れていたが、このラマタイム・ツォフィムは士師サムエルの生まれ故郷である。サムエルがサウルとダビデに油を注いでイスラエル王国の王とした。
 ヨセフはここの出身で、かつイエスの弟子の1人。70門徒に数えられる。反キリスト、嫌イエスの感情渦巻く時のエルサレムにて、イエスの遺体を引き取りたいと願い出るには、どれだけの勇気を要したろう。かりにかれが「ルカ」が記すように最高法院のメンバーであったとしても、それがイエスの亡骸を引き取るにあたって絶対有利に働いたとはあまり思えぬ。が、イエスの弟子団の中核である12弟子の1人でなかったことは幸いしたであろう。ヨセフの身分について福音書の記事は一致しないが、共通して観られる唯一の点、イエスの遺体を引き取って埋葬したことはイエスへの愛なくしては到底できない行為であったことは間違いない。
 まったく以て余談だが、マコ15:17でイエスが着させられる「紫の衣」、ここはフランシスコ会訳では「真紅の衣」となる。真紅の衣……しんく……深紅! いささか強引であることは重々承知だ。が、ここでスティーヴン・キングを<神>と崇め、讃え、ひれ伏し、愛読してやまぬわたくしは、鼻血を出して興奮するのである。真紅の衣を纏いし者──<深紅の王>クリムゾン・キング!! うわっほおっ!!!

 本日の旧約聖書はマコ15:34と詩22:2。◆

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第1901日目 〈マルコによる福音書第14章2/2:〈裏切られ、逮捕される〉、〈ペトロ、イエスを知らないと言う〉他〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第14章2/2です。

 マコ14:43−50〈裏切られ、逮捕される〉
 「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(マコ14:42)とイエスがいって示した先から、裏切り者イスカリオテのユダが来た。その後ろには祭司長や律法学者、武器を携えた人々が控えている。
 ユダは打ち合わせた通り、イエスに近附き接吻し、この者が逮捕すべき人物だ、と人々に知らせた。それを見て、ユダの後ろにいた人がイエスを捕らえようと歩み出た。と、その場に居合わせたイエスを慕う者の1人が剣を抜いて斬りかかり、相手の片耳を切り落とした。──騒動を制するように、イエスはいった。──
 わたしは毎日神殿の境内にいたのに、あなた方は今日のように捕らえようとしなかった。が、実はそれは聖書の言葉、預言者イザヤの言葉が実現するようにである。
 ……ペトロたち11人の弟子たちはいつの間にやら四散、いずこかへと逃げ去っていた。

 マコ14:51−52〈一人の若者、逃げる〉
 斯くしてイエスはユダの裏切りによって捕縛され、連行されてゆく。その集団の後ろに従って歩く、素肌に亜麻布をまとった若者がいた。かれはイエス捕縛と連行をつぶさに観察していた。が、やがてかれは自分が捕らえられようとすると、亜麻布を脱ぎ捨てて、裸のままスタコラサッサと逃げていった。

 マコ14:53−64〈最高法院で裁判を受ける〉
 人々はまずイエスを大祭司カイアファの許へ連れて行った。そのときペトロはカイアファの屋敷の中庭にいて、下っ端役人たちと一緒になって火にあたっていた。
 祭司長たちや律法学者、その他の人々は、なんとかしてイエスを罪人に仕立てあげたく思い、様々な偽りの証言者を用意して、大祭司の前でイエスの罪を告げさせた。が、いずれの証言にも矛盾が生じていたので、どれも決定的な告発にはなり得なかった。
 カイアファはイエスに、これだけ多くの者がお前に不利な証言をしているのに、どうしてお前は黙ったままでいるのか、と訊ねた。が、イエスは黙して答えず。重ねてカイアファが問うに、お前は誉むべき方の子、メシア(キリスト)なのか、と。イエスは口を開いて、答えた、──
 「そうです。/あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マコ14:62)
 これを聞いたカイアファは衣を引き裂きながら、もはや証人は必要ない、諸君はいまこの男の口から冒瀆の言葉を聞いた! と叫んだ。民は口々に、然り、然り、といい、イエスを罵った。
 ──イエス処刑の決議はただちに為されたのである。

 マコ14:66−72〈ペトロ、イエスを知らないと言う〉
 さて、前述のようにペトロは大祭司カイアファの屋敷の中庭にいて、裁判の様子を見守っていた。すると、かれを見掛けたこの屋敷の女中がペトロを指して、あなたはナザレのイエスと一緒にいた人だ、といった。なんのことか、誰のことをいっているのやら、わたしにはさっぱりわからぬ。そうペトロは返事して、出口の方へ歩いて行った。そのとき、鶏が鳴いた。
 この女中はなおもペトロを指して、皆さん、この男はあのナザレ人の仲間です、と声高にいった。ペトロはこの言葉をも否定した。
 いまや中庭にいる人々全員の目がペトロに注がれている。その人たちがやはりペトロを指して、いいや、お前はたしかにあのナザレのイエスの仲間で弟子の1人だ、ガリラヤ地方の者だからな、と騒ぎ立てた。ペトロは誓った。わたしはナザレのイエスなど知らない。そのとき、再び鶏が鳴いた。
 ──鶏の鳴くのを2度聞いたペトロのなかに、かつてイエスが自分にいった言葉がよみがえった。鶏が2度鳴くまでに、あなたはわたしを知らない、と3回いうだろう。……ペトロは突然泣き始めた。あらん限りに、泣いた。自分もユダ同様、イエスを裏切ったのだ、と悟り、声を嗄らして、泣いた。

 いよいよイエスの公生涯の幕切れが視界に入って来、そうして十字架上の死に至るカウント・ダウンが始まる。イスカリオテのユダの導きによって、終わりのなかの終わりが始まった。
 イスカリオテのユダといえば古来から<裏切り者>の代名詞のようになっているが、どうしてかれがイエスを売り飛ばす行為に及んだのか、真実は未だ明らかではない。福音書や周辺資料に散らばった小さな証拠を丹念に拾い集めて分析し、解釈を加えるより他ない。その解釈もまだ十人十色、千差万別で、幾通りかの傾向はあるようだが、ユダ自身、或いは近い人物からの発言が出てこない以上、真相は永遠に<藪のなか>にあり続ける。
 一説によれば、ユダは12人の弟子たちのうち、誰よりもイエスの教えに理解を示し、帰依していた、という。一番弟子ではないから仕方ないものの、自分がイエスの教えに最も親近した立場であるならば、それ相応の扱いを受けていいはずだし、またイエスの愛情をもっと受けていいはずではないか。なのに、自分はイエスのお眼鏡にはかなうことなく、却って非道い扱いを受けている。面白くない。愛ゆえの憎しみ;まさしく正真正銘の<アムビヴァレンツ>、<ルサンチマン>。
 また、ユダは弟子団、イエス一派の会計を任されていた、という。なのに、イエスはこちらの心配や諫めをよそに浪費してばかりだ。再た諫めれば陰に陽に詰られ、スケープゴートの如く扱われる。挙げ句の果てには収支をごまかし、浮いたお金を自分の懐に収めて私腹を肥やしている、などとまで中傷され。仲間である兄弟子、弟弟子にもいじめられる。腹立たしい。不快だ。どうやらイエスもその件については疑っているようだ。なおさら面白くない。そんな恨み辛みが積もり積もって<イエス裏切り>という、或る意味で人類の歴史の一大転換点となる事件を引き起こした。勿論、ユダにとっては私憤ゆえの行為であり、まさか自分の行動がその後の歴史を左右するなど想像だにしなかったに違いない。そんなこと、夢にも思わなかったであろう。
 ──いずれにせよ、どうしてイスカリオテのユダがイエスを裏切ってしまったのか、真相は依然として知れぬ。タイムマシンがあったなら、と切望するのは、こんな歴史の闇に埋もれたままな真実を知りたい、と願うときである。……ユダがイエスを裏切ったりしなければ、今日のような混沌とした、いびつな世界は生まれていなかったかもしれないね。
 なお、亜麻布をまとった若者は、本福音書の著者とされるマルコではないか、という。作家というのは自己顕示欲の強い生き物だ。なんらかの形で作品のなかに、自分自身を投影させた登場人物を置く。登場人物に著者自身の名前を与えたりもする。本福音書に於いても、もし件の若者がマルコ自身であったなら、「マルコによる福音書」はその嚆矢といえるだろう。そんなことを冗談交じりに考えるのだ。なによりもこの一節、唐突で浮きまくっており、その描写には思わず、くすり、とさせられる。

 本日の旧約聖書は、マコ14:49とイザ53、マコ14:62aと詩110:1、マコ14:62bとダニ7:13。◆

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第1900日目 〈マルコによる福音書第14章1/2:〈過越の食事をする〉、〈ゲツセマネで祈る〉他with来年の夏までは一途に過ごすのだ。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第14章1/2です。

 マコ14:1−2〈イエスを殺す計略〉
 過越祭と除酵祭の2日前(即ちイエス処刑の前日である)。祭司長たちは集まってイエス殺害を決定した。しかし、エルサレムが人でごった返す祭りの期間は避けることになった。

 マコ14:3−9〈ベタニアで香油を注がれる〉
 於ベタニア。イエスは重い皮膚病患者シモンの家にいて、食事を摂っていた。その折、家の女がアラバスター製の壺に入った純粋で非常に高価なナルドの香油を、イエスの頭に注いだ。それを弟子たちが見咎め、非難したが、イエスはその声を制した。わたしに良いことをしてくれたこの人を、どうしてあなた方は困らせるのか。
 続けて、──
 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
 はっきりいっておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マコ14:7−9)

 マコ14:10−11〈ユダ、裏切りを企てる〉
 イスカリオテのユダ──イエスの12人の弟子の1人──は祭司長たちの許へ行き、イエスを売り渡す算段を付けた。祭司長たち、律法学者たちは喜んだ。これにより、過越祭と除酵祭を避ける必要がなくなったからである。

 マコ14:12−21〈過越の食事をする〉
 除酵祭の第1日目、即ち過越の小羊を屠る日。2人の弟子は晩餐の用意をするため、イエスにいわれた通りエルサレムへ出た。そこで見掛けた水瓶を運ぶ男のあとをついて行き、かれの入った家の主人に事情を話すと果たして2階の広間を提供してくれた。イエスのいうていた通りであった。かれらはそこでさっそく過越の晩餐の支度をした。
 夕方。イエスと弟子たちはそこへ集まり、過越の晩餐を摂った。その席上でイエスは、かれら弟子たちの1人が自分を裏切ろうとしている旨告げた。続けて、──
 「人の子は聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マコ14:21)

 マコ14:22−26〈主の晩餐〉
 イエスはパンを手にして讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちへ与えた。これは、わたしの肉である。
 イエスはぶどう酒を注いだ杯を手にして感謝の祈りを唱え、弟子たちの間に回した。かれらは皆、その杯から飲んだ。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マコ14:24−26)
 一同はそのあと、エルサレムをあとにしてオリーブ山の麓のゲツセマネの園へ向かった。

 マコ14:27−31〈ペトロの離反を予告する〉
 イエス;あなた方はわたしゆえにつまずく。預言者ゼカリヤが語ったように、羊飼いが主により打たれると、羊は散ってしまうからである。が、わたしは復活したらあなた方より先にガリラヤへ行っていよう。
 ペトロ;たとい他の者がつまずいたとしても、わたしだけはつまずきません。
 イエス;ペトロよ、はっきりいっておこう。あなたは今日、今夜、3度にわたってわたしのことを知らない、というだろう。
 ペトロ;たといあなたと一緒に死ぬことになろうとも、わたしはあなたを知らないなどといったりしません。
 ──他の弟子たちもペトロと同じ意見だった。

 マコ14:32−42〈ゲツセマネで祈る〉
 過越の晩餐を終えたイエスたちはエルサレムを出て、オリーブ山西麓のゲツセマネへ行った。そこでイエスはペトロとヤコブ、ヨハネだけを伴って、他の弟子たちから離れた。──と、イエスはひどく恐れて悶え始めた。かれは3人の弟子にいった。わたしは死にそうなぐらい、悲しい。あなた方はここにいて、目を覚ましていなさい。そうしてイエスはペトロたちから離れた。
 イエスは少し行ったところでひれ伏して、祈り、願った。自分の上を覆う苦しみの時が過ぎ去りますように。お父さん(アッバ)、この杯をわたしから取り除けてください。しかしわたしの願いゆえにではなく、御心にかなうことであれば。
 ──イエスが戻ってくると、ペトロたちはぐっすり眠りこんでいた。イエスは嘆き、いった。あなた方はただの一刻も目を覚ましていられないのか。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして、祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マコ14:38)
 ……このことは、あと2回繰り返された。……3回目、やはり眠りこんでしまっていたペトロたちにイエスはいった。
 「あなたがたははまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マコ14:41−42)

 「強さ」を代表するイエスと「弱さ」を代表するペトロ。イエスはもはや人間であることを超越して神の義、神の愛に生きた、或る意味で腹を括った人だ。対してペトロは人間的弱さを露呈する行動を、これまでも度々取ってきた。その一端が離反の予告(マコ14:27−31)と否定(マコ14:66−72)である。詳しくは描かれていないが、ユダも勿論ペトロと同じだ。
 福音書はイエスの公生涯、殊、最後の1週間を描く。が、その一方で、「強い者」と「弱い者」、<自分の運命を自覚してすべての生涯を受け入れる覚悟を固めた者>と、<未だ自分の果たすべき役割を自覚できず、まだ見ぬ未来に戦々恐々としている者>の対比をも描いている。そうした視点から読み直してみると、福音書から受ける印象はまた随分と異なってこよう。
 イスカリオテのユダについては、明日改めて思うところを書く。



 本ブログを完結させぬ限り、自分はなにからも解放されないし、他の著作に手を着けることもできないと自覚した。要するに不器用なのですな。
 あちらに手を着け、こちらに手を着け、それでもどれにも成果を上げられる人が羨ましい。自分には、無理。すくなくとも或る程度の期間を費やして取り組まねばならぬ相応の分量を持つ書き物を並行させることなど、絶対に無理です。それができれば仕事をしながらブログを書き、小説も書けるのだろうけれど、どんな反動が生じて自分の身に災いが及ぶかわからないからなぁ。
 社会人の資本は体です。健康であることはいちばん大事。自分の健康を損なっては何事をも為すことはできません。だから、来年春を予定している本ブログ完結までは誘惑や思い付きに惑わされぬように、自分を律して過ごすのだ。浮気は来年夏からだ!◆

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第1899日目 〈マルコによる福音書第13章:〈終末の徴〉、〈目を覚ましていなさい〉他withわたくしには現状のSKE48を箱推しすることができない。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第13章です。

 マコ13:1−2〈神殿の崩壊を予告する〉
 弟子の1人が神殿を振り返り、なんとも見事な建物ですね、と賞讃した。イエスは答えた。1つの石すら崩れることなく他の石の上に残ることはない。

 マコ13:3−13〈終末の徴〉
 於オリーブ山。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの4人、2組の兄弟が神殿の方に向いて座っているイエスに訊ねた。その日、その時はいつ来るのでしょうか。また、その前触れとなる徴はどのようなものなのでしょう。
 イエスは答えた、──
 他人に惑わされないようにしなさい。わたしの名を騙る者があっても惑わされないように。戦争の噂を聞いても惑わされるな。それはいつかかならず起こるが、世の中の終わりではない。やがて民と民が反目し合い、国と国が剣を交えるときが来る。あちこちで地震が起こり、飢饉が始まる。これが、産みの苦しみの始まりだ。
 やがてあなた方はわたしゆえに迫害される。しかし、代の終わりの前には福音があらゆる民に宣べ伝えられなくてはならない。あなた方は引き渡されて連れて行かれるとき、なにを話そうか、と悩む必要はない。聖霊があなたに代わって話すからだ。
 あなた方はわたしの名のゆえに悩まされる。が、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

マコ13:14−23〈大きな苦難を予告する〉
 いつの日か必ず、憎むべき破壊者が立ってはいけない場所に立つのを、あなた方は目撃する。そのときは迷わず山に逃れよ。着の身着のまま、そのあたりへ無造作に放ったマントを取りに行こうとしたり、家になにかを取りに戻ったりしようとするな。とにかく一目散に山へ逃げよ。どうかこのことが冬の寒い日に起きたりしませんように。
 この日に訪れる苦難は、未だかつて誰も経験したことのないもの。神が天地創造して以後、そうして今後もけっして来ないであろうとされる未曾有の苦難、災禍。主がその期限を縮めてくれなければ、誰一人助かることはないであろう。が、幸いにして主は自分の選んだ人を救うためにその期間を縮めてくれた。
 流言綺語の類、偽りのメシア預言、信憑性も定かでない徴や業に振り回されてはならぬ。だから、あなた方は気を付けていなさい。

 マコ13:24−27〈人の子が来る〉
 こうした苦難のあとで人の子は来る。人の子は天使を遣わして地の果て、天の果てから、選ばれた人々を彼方此方から呼び集める。

 マコ13:28−31〈いちじくの木の教え〉
 いちじくの木は夏が近附くと、枝がやわらかくなって枝が伸びる。それと同じように代の終わりの徴を見たら、人の子が戸口へ近附いていることを悟りなさい。
 「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マコ13:30−31)

 マコ13:32−37〈目を覚ましていなさい〉
 その日その時がいつ訪れるのか、それは誰も知らない。天使すら知らない。知るのはただ父のみである。
 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたにはわからないからである。」(マコ13:33)
 わたしはあなた方だけでなく、すべての人にいう。目を覚ましていなさい。
──と。

 並行箇所であるマタ24:3−44を読んだとき、黙示的内容であることこそ把握はできても、いったいこの箇所がなにをいうておるのか、よくわからなかった。たしかあの日は雨交じりの空模様で、図書館に隣接された談話スペースでそこを読んでいた。よくわからぬながらも、とにかく先へ進むために読み通し、ノートを書いた……。
 あれから40年(荒れ野の40年か、綾小路きみまろの40年か)、ではなくあれから約1ヶ月。中断気味ではあっても読書経験の賜物か、理由はともあれ、本章についても表面上の意味は捉えられるようになってきた。
 かならず戦争は起こるがけっしてそれが代の終わりというわけではない。しかし、終わりの始まりではある。やがて憎むべき破壊者が立ってはならぬ所に立つ。そうして未曾有の、有史以来何人も経験したことのないような災禍、苦難が訪れる。しかし、その際にはかならず<徴>というべきものが現れる。それがどういうものであるのか、父たる主のみぞ知る。だからあなた方は気を付けて、目を覚まして、それがいつ、どのような形で示されてもそれと知ることができるようにしていなさい。
 ──だいたいこんなところであろう。黙示的内容ではあるけれど、ここには奇妙なまでの明るさとおおらかさがある。どうしてか。本章が「ヨハネの黙示録」のような終末の訪れを、読者を圧倒するような描写と表現で、隠すところなく提示するのではなく、メシア/キリストたるイエスが語る黙示的内容には震えあがるような恐ろしさもあるけれど、そこには苦難に遭った人が救済されるようなヒントが提示されているところに、奇妙なまでの明るさとおおらかさがある理由の一端を求められるように思うのだ。
 わたくしは本章について、まるで<死>を執拗に描いてなお仄明るさとあたたかさ、静けさを保つフィル・ディックの『ティモシー・アーチャーの転生』を読むような感慨を抱いている──というたら、果たして笑われるだろうか?



 久しぶりにTVの画面で観たSKE48になんの感情も湧かぬ自分に気附いて哀しい気持ちになっている。紅白単独出場の翌年から始まりいまや歯止めが効かない卒業ラッシュ、活動辞退ラッシュは落ち着きを見せるどころか、徐々にながら加速しているように見える。
 次世代と呼ばれる子らが成長して、不動の3番手をキープするぐらいの勢いがないと駄目なのに、「12月のカンガルー」でちょっとだけ期待できた(不動の)新センターの誕生も、現時点に於ける最新シングル「コケティッシュ渋滞中」では見馴れた旧態の布陣に戻り、ちょっとだけ安心しつつもそれ以上のがっかり感を抱いたことは否定できない。まだJRを完全後退させるだけの馬力を持った人は出てこないのかなぁ……。
 有望株の過半は軒並み第一線から姿を消して一般人としての人生を謳歌し、わずかに芸能界とその周辺で生き残る人たちがSKE48再生のために<舞台>へ帰還することはあるまい。彼女ら個人についていうなら、それで良いのだと思う。それが彼女らの選んだ道、果てなく続く人生の役割。しかし、逸材はここにこそ揃っていた。名前を出すのは控えるが、そのなかにこそJRを凌ぐ、或いは安心してセンターを努める姿を見ていられるだけの実力を備えた人たちがいた。んんん、はにゃーん、っす! テンキュー、いいよ〜、バッテリーが……、12月31日のバック宙、etc.
 今年になって中西優香と佐藤美枝子(姉さん!)、古川愛李らが卒業していった。調べれば他にもいたはずだが、わたくしの記憶には留まっていない。そうして昨年は木﨑ゆりあがAKB48へ完全移籍した。これまでの移籍・卒業・活動辞退組でも相当な打撃なのに、どうしてこの期に及んで古参メンバーが矢継ぎ早に抜けてゆくのだ。新陳代謝とか年功序列というシステムがある以上、名古屋・栄で展開されているこの事象に目を剥く必要なんてないのかもしれない。が、秋葉原の本店越えを本気で果たそうとしていた、パワー漲る時代を経験した者としてはなんだか淋しいよ。
 遅かれ早かれ、いま選抜常連となっている面々も舞台を去って新たなステージに進んでゆくのだろう。それはめでたいことだ。祝福して送り出すべきだろう。しかし、喜びの色で塗られた仮面の下には、流されることのない涙が溜まっている。淋しさと悲しみで支配された心が、推しメンの選択を100%喜べぬ自分を縛り付ける。いかんね、こんなことでは──わかっちゃいるが、心と脳は別物だ。おまけに傷が癒えた頃になると、同じ場所に新たな傷が生まれるんだよねぇ。なんとかしてくれ、この負のデフレ・スパイラル。
 変化に付いてゆくことのできない人というのはどの世界にもいるものだ。と同時に、変化をすぐには受け入れられないものの、時間をかけることで変化に馴染んでゆくことのできる人もいる。わたくしなど後者の典型例だと思うが、それでも喪失感は拭えない。いまのSKE48は日没前の最後の輝きのように思える。むろん、新たな夜明けが来るならばこの日没も礼賛して然るべきだろう。が、まだ(あまりに強大すぎる)あのツートップは良くも悪くもいましばらくWセンターを務めざるを得ない様子だ。
 それにしても今日のSKE48次世代メンバーと称される人たちの殆どから、かつて先輩たちが持っていたハングリー精神を感じられないのはどうしたわけだろう。なんとしてでも這い上がり、チャンスあらば不可能事でも挑戦してただ一度のチャンスをものにしてみせる、というぐらいの気概を持った人物が昔はずいぶんといて、それこそグイグイ出て来たものだったが、いまの子らのおとなしさはいったいなんなんだ。
 柴田の場合はあざとさが高じて却ってドン引きさせられ、敬遠したく思い、可能ならば視界に入れたくないぐらいだが、須田ちゃんのようにあまりにラブリーなぶちゃいく面をお茶の間に曝し、軟体という特技で一度のチャンスを物にし、ももクロ潰しの急先鋒に登板して結果を残し、ブログの自撮り写真や握手会、だーすーノートを含めて元祖・釣り師、王道の釣り師、完全無欠の釣り師として君臨するに至るぐらいのハングリー精神全開、意識の高い人物が、果たして今日のSKE48にいるか? 或る意味で須田ちゃんこそ<ザ・SKE48>である。
 嗚呼、栄のアイドルたちよ、いったいどうしてしまったんだ。体育会系アイドル・グループはいつから去勢豚のようなおとなしいサークルへ変貌してしまったのか。いまの名古屋地方のお嬢様方にとってSKE48は人生の記念の一つでしかないのだろうか。
 わたくしには現状のSKE48を箱推しすることができない。極論かもしれぬが、仕方ない話だ。過去を愛して未来を憂う、いちばん厄介な属性の持ち主である。それは百も承知。でもね、いちばん問題なのは、歯止めが利かない、というその事実一点に集約されると思うんだ。これだけの規模で優れた人材が流出したら、もはや残るは看板だけで中身は全くの別物になっちゃうよ。次の世代が育って独り立ちするまでは、なんとか往年の勢いを経験したメンバーにはお残りいただき、後輩諸氏にとでもいうべき闘魂を叩きこんでもらいたいものである。◆

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第1898日目 〈マルコによる福音書第12章:〈「ぶどう園と農夫」のたとえ〉、〈皇帝への税金〉他with鳥羽・伊勢旅行が喚起したむかしの<夢>〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第12章です。

 マコ12:1−12〈「ぶどう園と農夫」のたとえ〉
 引き続いてイエスは神殿の境内にて祭司長たちに話した。曰く、──
 或る人がぶどう園を作り、造作を調えた後、農夫たちに貸して自分は旅に出た。収穫の季節となり、その人は収穫を受け取ろうと使いの者を出した。使いは3人、出された。が農夫たちは3人に暴力で報いた。1人は袋叩きに、1人は殴って侮辱し、もう1人は殺した。そのあと何人となく使いの者が出されたが、いずれも暴力の犠牲となった。最後に農場主の息子が送りこまれた。しかし農夫たちは、跡取りであるがゆえにかれをも殺したのだった。
 ──この喩え話が自分たちへの中傷である、と気附いた祭司長らはイエスを捕らえようとしたが、民衆の反発が怖くてできなかった。そこでかれらはイエスをその場に残して去った。

 マコ12:13−17〈皇帝への税金〉
 イエスに反感を持つ人々が相談して、ファリサイ派とヘロデ派(党)のなかから数人を派遣してイエスを試した。かれらはいって、イエスに問うた。皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか否か。また、皇帝に税金を納めるのは是か非か。
 イエスは相手の下心を見抜き、皇帝の肖像と銘が刻まれたデナリオン硬貨を持って来させて、いった、──
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マコ12:17)
 人々はイエスのこの言葉に驚いた。

 マコ12:18−27〈復活についての問答〉
 サドカイ派の人々は「復活」を否定する立場を取る。そのサドカイ派の人々がイエスに、復活について訊ねた。7人の兄弟に、夫が死ぬたび嫁いだ女がいたとする。皆死んで復活の時が来てかれらがよみがえった際、この女はいったい誰の妻になるのだろう。彼女は長男から七男まで、全員に嫁いだのだ。
 あなた方は思い違いをしている。そうイエスはいった。復活したらばもはや娶ることも嫁ぐこともなく、皆天使のようになるのだ。神は生きている者の神であり、死者のための神ではない。

 マコ12:28−34〈最も重要な掟〉
 これまで議論を聞いていた1人の律法学者がイエスに、あらゆる掟のなかでどれが第一でしょう、と訊いた。
 イエスは答えた、──
 第一の掟とはこれである;「イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マコ12:29−30 ex/申6:4−5)
 第二の掟はこれである;「隣人を自分のように愛しなさい。」(マコ12:31 ex/レビ19:18)
 この2つに優る掟はない。
──と。
 先生、仰る通りです、と、その律法学者はいった。神は唯一であり、他に主はない。これは本当のことです。心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分の如く愛せ、とは、どんな献げ物やいけにえよりも立派です。
 「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」(マコ12:34)

 マコ12:35−37〈ダビデの子についての問答〉
 どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だ、というのか。ダビデ自身が聖霊を承けて詩篇で詠っているではないか。ダビデ自身、メシアを主と呼んでいる。なのにどうしてメシアがダビデの子であり得よう。

 マコ12:38−40〈律法学者を非難する〉
 人々よ、律法学者に気を付けなさい。かれらの行動はすべて演技、体裁を取り繕うためのパフォーマンスである。

 マコ12:41−44〈やもめの献金〉
 イエスは人々が神殿の賽銭箱にお金を入れる様子を見ていた。金持ちはたくさんのお金を入れた。そのなかに、1人のやもめがいて、レプトン銅貨2枚、即ち1クァドランスを賽銭箱に入れた。
 それを見たイエスは弟子たちを呼び集めて、やもめを讃えた。この人を見よ、──
 「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マコ12:43−44)

 この時代、労働した1日分の賃金は1デナリオンであった。新約聖書では様々な貨幣単位が現れるが、デナリオンはその基準ともなっている。マコ12:42の「レプトン」はギリシア通過の最小単位で1デナリオンの1/128,レプトン銅貨2枚と等価である「1クァドランス」はローマ通過で1デナリオンの1/64。
 ──1日分の賃金の1/64が生活費であるとは、今日の貨幣基準では幾らぐらいになるだろう。下手な換算をしてみよう。時給1,000円で8時間労働の場合、日給は当然8,000円となる。それを64で割ると……125円! これが単純に給与を64で割ってその金額になる、というのなら、特に問題はあるまい。金融機関の口座や或いはお財布のなかに、それ以外のお金はあろうはずだから。
 が、当時のユダヤ人社会に、雇用主と労働者の間に雇用契約が取り交わされて仕事の繁忙期・閑散期の別なく雇用が続けられて、決まった日時に決まった賃金が支払われる、という今日的意味合いでの<仕事>があったとは思えない。勿論、ここで俎上に上すのは日雇い労働者であり、家業を営んでいたり、神殿へ奉職していたり、家僕として使われているなど継続される生業を持つ者は考慮しない。
 となれば、今日は懐を暖めてくれる1デナリオンの1/64である1クァドランス、即ち2枚のレプトン銅貨が明日も得られるとは限らぬ。まさにその日暮らし、生活費のすべて、全財産。それを賽銭箱に入れたとあっては、やもめの行為、その人物をイエスが賞讃するのも道理である(意地悪な見方をすれば、それが賃金を貯めたなかから捻出したものであり、やもめのところには他に貯金があった可能性だって否定はできないけれど。呵々)。
 これを踏まえて考えると、マタ20:1−16〈「ぶどう園の労働者」のたとえ〉で1日の労働量が違っても等しく賃金が支払われるとうのは、やはり凄い、素晴らしい話と思わざるを得ない。こうしたぶどう園での労働と賃金、やもめの献金といった挿話が繰り返し語られてきたことで、欧米に於ける社会福祉保障制度の礎が築かれたのかなぁ、と感銘を(1人勝手に)新たにしてみる。



  いまはしがない雑文書きだが、これでも20代の頃は物書きとして大志があった。
 村上春樹『辺境・近境』(新潮社)を何気なく手にして、この人の文章や人柄、思考回路に惚れこんだ。バックパッカーの知人の影響から雑誌『GEO』を読み、自発的に『NATIONAL GEOGRAPHIC』を講読して、自分の志が固まった。──世界のあちこちを旅して取材して、旅行記やルポを書いて、食っていきたい。そんな志、というか希望。
 自分は紀行作家になるんだ──そう決めた僕のなかでは村上春樹=紀行作家であったし、『NATIONAL GEOGRAPHIC』に自分の署名入り原稿を寄稿することは生涯の夢となった。もともと歴史に興味があって歴史上の出来事の舞台となった地、あるいは好きな文学に所縁ある場所を訪ね歩くことを(安い給料をやり繰りして)始めていた時期である。物書きとして自分が進むべき道を見付けたときの得も言われぬ感動……<歌おう、感電するほどの喜びを!>
 さて、翻ってあれから20年が経とうとしている現在。いったい自分は「ここで」「なにを」しているんだろう。小説家としての活動も、翻訳家としての活動もいまは絶え、舞い込む小文書きに身をやつすばかりじゃ。毎日時間に追われて書いているのは、お金にならぬ自己満足のブログ原稿ぐらいだ。
 今回鳥羽・伊勢旅行して古人の紀行文の端々を思い出し、松尾芭蕉や泉鏡花の紀行文を拾い読みしていて、ふと現実に帰ってみて、現在の自分が20年前に思い描いた自分の姿と大きく乖離していることに気付かされ、茫然自失の状態である。
 会社員をやりながら歴史や文学に立脚した紀行文を書くことは、難しいのかなぁ……。◆

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第1897日目 〈マルコによる福音書第11章:〈エルサレムに迎えられる〉、〈権威についての問答〉他withこれも、<ラ・ヴィアン・ローズ>か。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第11章です。

 マコ11:1−11〈エルサレムに迎えられる〉
 一行はオリーブ山東麓の町ベトファゲとベタニア郊外にさしかかった。イエスは弟子2人に命じて、町から、まだ誰も乗ったことのないロバを1頭、綱をほどいて連れて来させたのだった。2人が行ってロバの綱をほどいているとそれを見咎めた人がいたので、かれらは、イエスからあらかじめ教えられていたように、このロバを主が必要としています、すぐここに返します、と伝えて、許された。
 弟子たちがロバの背に自分たちのマントを掛け、イエスはロバに跨がった。そうして一行は出発した。町の人々が自分のマントを脱ぎ、道に敷き、ロバに乗ったイエスはそこを進んだ。一行の前を行く者も、後ろに従う者も皆一様に讃えた、──
 「ホサナ。/主の名によって来られる方に、/祝福があるように。/我らの父ダビデの来たるべき国に、/祝福があるように。/いと高きところに、ホサナ。」(マコ11:9−10)
 ──斯様にしてイエスはエルサレムに入城した。神殿の境内を見て回り、夕方になると12人の弟子たちを連れてベタニアへ戻った。

 マコ11:12−14〈いちじくの木を呪う〉
 翌る朝、エルサレムへ向かう一行は1本のイチジクの木を見附けた。ちょうどそのとき、イエスは空腹だったので食べられるような実はないか、と近寄ってみたが、なかった。実の生る季節ではなかったのだから、当たり前である。
 イエスは怒って、そのいちじくの木を呪った。今日から終わりの日まで、お前から実をもいで食べる物のないように!
 ──弟子たちはその様子を一部始終、見聞きしていた。

 マコ11:15−19〈神殿から商人を追い出す〉
 いちじくの木を呪ってエルサレムに入ったイエスは、神殿の境内に行き、そこで商いをする人たちがいるのを見て怒り、かれらをそこから追い出した(マコ11:15−16)。そうして、いった。主の家はすべての国の人にとって祈りの家と呼ばれるべき、と預言者イザヤがいっているのに、あなた方はそこを盗人たちの巣窟にしてしまった。
 これを聞いたファリサイ派や祭司長たち、律法学者たちは、どのようにしてイエスを殺そうか、と謀を巡らせた。民衆がイエスの教えに心酔し、信じていたので、念入りな殺害計画を練る必要があったのである。

 マコ11:20−26〈枯れたいちじくの木の教訓〉
 その次の日、イエスと弟子たちはあのいちじくの木の前を通った。前日のイエスの呪いのゆえか、枯れてしまっていることを弟子たちは話題にした。それを承けてイエスの曰く、──
 「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(マコ11:22−26)

 マコ11:27−33〈権威についての問答〉
 神殿の境内を歩いていたイエスの許に、祭司長や律法学者たち、民の長老たちが来て、あなたにどのような権威があってこのようなことを行っているのか、どのような者があなたにそうした権威を与えたのか、と問うた。よろしい、わたしの質問に答えられたら、わたしもあなた方の質問に答えよう。イエスはそういうと、かれらに尋ねた。──洗礼者ヨハネの授ける洗礼は人からのものか、天からのものか。
 祭司長たちや律法学者、民の長老たちは返答に窮した。洗礼者ヨハネの授ける洗礼が天からのものだ、と答えれば、ならばどうしてヨハネを信じなかったのか、といわれるから。もしそれが人からのものである、と答えれば……嗚呼! 自分たちはきっと民の暴動の犠牲となって死ぬであろう。民衆は洗礼者ヨハネを本当に預言者であると思い、信じていたからだ。もしヨハネの行う洗礼が人からのものだ、と答えたら、自分たちは人殺しである、かれらの信じるヨハネを殺めた下手人である、自分たちの立場はおろか命さえ危うかろう。それにかれらは思い至った。為、かれらは結局、わからない、と返事せざるを得なかったのだ。
 では、わたしもあなた方の質問には答えない。そうイエスはいった。

 イエスと、祭司長や律法学者たち、民の長老たちとの権威についての問答。これは人を食ったようなイエスの問い掛けから発展した。──先駆者ともいえる洗礼者ヨハネの死について、お前たちはどのように考えているのか、思うところを口に出せるか、ヨハネの授ける洗礼が天からのものであろうと人からのものであろうとお前たちに語るべき言葉も正義もないはずだ、違うか?──イエスはそう問い掛ける。祭司長や律法学者たち、民の長老たちが返答に窮したのは至極当然だ。誰だって答えられようはずがない。自分の命運はすぐそこで潰え去ることがわかっているから。しかしこの問い、ヘロデ・アンティバスならどのように答えただろう?
 ベトファゲとベタニアはオリーブ山を間に置いて、エルサレムの反対側にある。ベトファゲは本日の並行箇所であるマタ21:1に、ベタニアはマタ26:6とその並行箇所である本書14:3に出る。
 この2つの町(村かもしれぬ)はオリーブ山東麓に位置し、ヨルダン川と死海を望む傾斜地にある、という。エルサレムからはゲツセマネの園を通り、オリーブ山の南を巡ってベトファゲとベタニアへ至る街道がある。地図から判断する限りでは行程約6−7キロといったところだが、実際のところはどうなのであろうか。これはむろん往復できる距離ではあるけれど、エルサレム−ベトファゲ/ベタニア間の高低差を考えれば結構な運動量となり、相応の疲労が蓄積されることだろう。イエスと弟子たちのように数日だけであればなんとか耐えられますよ、といわれれば返す言葉もないが……。
 本ブログ完結後、聖書の舞台を訪ね歩く旅行をしてみたいのだけれど、その折は是非エルサレム−ベトファゲ/ベタニア間の道程や地勢を知り、そこからどのような景色が見えるのか、どのような風が吹いているのか、どのような空気に満たされているのか、といったことを感じてきたいものである。
 なお、引用したマコ11:23にある「この山」とは、一行の行程と位置関係、「この」という連体詞から、勿論、オリーブ山を指す。



 社食のメニューを餌に追加出勤の目に遭った。まあ、そのお陰で昼過ぎに早上がりができ、宙に浮いた半日で「マルコによる福音書」の読書ノートを終わらせ、映画も観て、キリン・シティで黒ビールと料理をじっくり堪能することができたのだが。
 ああ、いいな。毎日を静穏に、平穏に、大過なく暮らすことができること。(おそらくたぶん)年齢相応に健康で、仕事があって同僚に恵まれ(一部除く)、こうして好き勝手に本を読み文章を書けていること。どれもこれもが幸福だ。
 市井の幸せ──伴侶も子もなく死ぬことになるのだろうけれど、いつも胸に浮かぶのは「いまがいちばん幸せ」という父の口癖。本当に、そうなんだ。◆

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第1896日目 〈マルコによる福音書第10章:〈離縁について教える〉、〈子供を祝福する〉他with竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』の再読を開始、半分まで来ました。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第10章です。

 マコ10:1−12〈離縁について教える〉
 イエスはカファルナウムを発って、ヨルダン川の向こう側、即ち東岸のデカポリスとペレア地方を通り、再びヨルダン渡河してユダヤ地方へ入った。当然、群衆も(金魚の糞の如く)付き従った。
 途中、ファリサイ派の人々がイエスを試そうと来て、離婚が律法に適っているかどうかと問うた。その際、モーセは離縁状を書いて離縁するよう命じた、とかれらはいう。
 イエスはいった。あなた方の心がかたくななだからモーセはそのように命じたのだ。続けてイエスの曰く、──
 「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マコ10:6−9)
 また、あとになってイエスは弟子たちに、こうもいった。妻を離縁して他の女と結婚した男は、別れた妻に対して姦淫の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男と結婚した女も、別れた夫に対して姦淫の罪を犯すことになる。

 マコ10:13−16〈子供を祝福する〉
 イエスに祝福してもらおうと、人々が子供を連れて来た。それを弟子たちが叱って追い払おうとする。イエスは弟子たちを諫め、子供たちを祝福した。
 神の国はこの子らのような者のためにある。そうイエスはいった。続けて、「子供のように神を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない。」(マコ10:15)

 マコ10:17−31〈金持ちの男〉
 イエスがその地を出発しようとすると、富裕な男が来て、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいか、と訊ねた。それにイエスが答えて曰く、──
 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。」(マコ10:19)
 男が、それならばもうすべて行ってきて、守らなかったことはありません、と返した。
 ならば、とイエスはいった。持っているものをすべて売り払い、そのお金で貧しい人に施しなさい。
 すると男はこの言葉に気を落とし、悲しみながら帰って行った。この人はたくさんの財産を持っていたのである。
 帰って行くかれの後ろ姿を眺めながら、イエスは弟子たちにいった。財産のある者が神の国に入るのは難しい。ラクダが針の穴を通る方が易しいだろう。
 それでは誰が救われるというのですか、と弟子たちが訊ねた。
 イエスは答えた。人間にできることではないが、神にならできる。神にできないことはなにもない。
 そうしてペトロがイエスの前に進み出て、われらはすべてを捨てて従っています、といった。それにイエスが答えて曰く、──
 「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マコ10:29−31)

 マコ10:32−34〈イエス、三度自分の死と復活を予告する〉
 一行はいまやエルサレムを目指して進んでいた。その集団の先頭にイエスが立ったので、弟子たちは驚いた。イエスは12人の弟子たちを集めて、いった、──
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マコ10:33−34)

 マコ10:35−45〈ヤコブとヨハネの願い〉
 ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟がイエスに、どうか栄光を受けるとき、われらをあなたの左右に置いてください、とお願いした。イエスは拒んだ。それを決めるのは自分でなく、定められた人にのみそれが許されるからだ。
 兄弟の抜け駆けに憤る他の弟子たちを呼び集めて、イエスはいった、──
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ10:43−45)

 マコ10:46−52〈盲人バルティマイをいやす〉
 一行はエリコの町に到着して、次の出発の準備を調えていた。そこへエリコの住人でティマイの子バルティマイが来て、イエスに、視力を一切失ったこの目を治してほしい、と頼んだ。ダビデの子イエスよ、俺を憐れんでくれまいか。
 イエスはバルティマイを呼んで、いった、行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。
 するとこの盲人は目が見えるようになり、イエスのあとに従って歩いた。

 わたくしはこの章を、結婚にまつわるイエスの言葉と、財産ある者の神の国へ入ることの困難を伝えるイエスの言葉ゆえに、好む。自分の胸に、ぐさり、と突き刺さる。わたくしは神によって結びあわされるはずだった人を失って未だその代役を得られていない者であり、掟を守っても持っているものすべてを売り払ってまで他者に施して、<永遠>を得ることのできぬ者であるからだ。
 が、そうではあっても、である。何遍読み返してみても、この「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という件は良い。
 婚姻の聖性を強く烈しく意識させ、と同時にその結びつきが如何に重大で意義深いものであるかを感じさせる言葉だ。この素朴な言葉は、素朴であるがゆえにずっしりとした重みを持って読み手の胸に迫ってくる。そうして、いつまでも残る。共感と憧れと満足の溜め息しか出ない。およそ共観福音書のうちでいちばん美しい言葉ではあるまいか。

 本日の旧約聖書はマコ10:4と申24:1及び3,マコ10:6と創1:27及び5:2,マコ10:7−8と創2:24,マコ10:19と出20:12−16及び申5:16−20。



 寝しなに少しずつだが竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』(電撃文庫)を刊行順に読んでいる。21世紀になってシリーズのライトノベルを、かりに遅滞はあったとしても続けて読んだのは、記憶になる限りでは谷川流『涼宮ハルヒ』シリーズ(完読)と今野緒雪『マリアさまが見てる』シリーズ(第36巻で挫折)ぐらいでなかったか。そんな意味ではちょっと特筆すべき位置を占める作品と癒えるかもしれない。
 ずっと以前に本作については「読み始めた」という報告を行った。それから4巻あたりまでは読んでいたけれど、その後中断。時が経て完結したあと、改めて読んでみよう、と思い立ったきっかけがなんであったかは、正直よく覚えていない。<読書の時期、来たる>というだけでは説明不足だ。ベッドにいちばん近い書架にはずっと置いてあったから、機会あれば読むつもりであったのは間違いない。常日頃気にかけていた小説だったのだ。──たぶん、今回まとめて読もうと思うたのは、新潮文庫nexから同じ作者の『知らない映画のサントラを聴く』が刊行されたときであったかもしれない、と、いまこの瞬間ふと思い至った。そうだ、そんな作品があったけな……。
 『ゴールデン・タイム』をいま読み返してつくづく思うのは、この人の描く登場人物は実に良く「キャラ立ち」していて、繊細な描写を得手とする人のようであるな、ということ(キャラ立ち……好きではない言葉です。表現に困った際の伝家の宝刀、この言葉を用いれば自分の語彙の貧弱を棚に上げてあらゆる事象が代弁できてしまう即席麺のような言葉に思えて、なるべく使わないようにしています。それなのにここでこうして使ってしまったのは……自分の芸の足りなさの露呈ですね)。
 ライトノベルを読みこんでいる人にはもっと別の見方ができるのだろうけれど、如何せんわたくしにとってこの作者は描写の優れた、面白い小説の書き手という風にしか見ることができぬ。むろん、他の作品は読んだことがないから、あくまでこの一作に限っての話とはなるが。まぁ、当たり外れはあったとしても、自分の好みに左右されてしまうところも多いけれど、面白い小説の書き手としていまわたくしのなかに認知できているなかに、竹宮ゆゆこはいる、とだけはご報告させていただきたい。そんな意味では有川浩や三浦しをんと同格か。
 現在枕辺にある『ゴールデン・タイム』は第5巻「ONRYOの夏 日本の夏」。外伝である前作「二次元くんスペシャル」の後遺症もあってか、数日ぶりの本編に若干の停滞は感じたもものじゅうぶんに読書を愉しませてもらっている。既に完結した作品ゆえ結末もそこへ至る経緯も知っているけれど、それを抜きにしてでも純粋に作品世界へ身を浸し、心遊ばせる時間をもたらしてくれるライトノベルがあったことを喜び、新刊が出るたび買っていた当時の自分を讃えたい気分でいることを〆の言葉として書き残したい。
 なお、お気附きか知れぬが、聖書とドストエフスキーと『ゴールデン・タイム』は同時進行の読書なのである。◆

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第1895日目 〈マルコによる福音書第9章2/2:〈イエスの姿が変わる〉、〈汚れた霊に取りつかれた子をいやす〉他with4日も休んでごめんなさい。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第9章2/2です。

 マコ9:2-13〈イエスの姿が変わる〉
 自分の死と復活を予告した6日後、イエスはペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて高い山へ登った。するとイエスの姿は変容し、その肌は白絖の雪よりも、白妙の絹よりも、白くなったのである。そうしてモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合った。ペトロは歓喜のあまり、この場所にお3方のための仮小屋を建てましょう、と口走った。やがて雲が現れてイエス、モーセ、エリヤを包み、そのなかから声がした。曰く、これはわが愛する子、これに聞け、と。──雲が晴れるとそこにはイエスだけがいた。
 下山する途中、イエスは3人の弟子たちにいった、今日のことは、人の子が死者のなかから復活するその日まで誰にも話してはならない。弟子たちは、それがどのような意味なのか、議論し合った。
 そうしてかれらは、どうして律法学者たちはエリヤが先に来るはずだ、というのでしょう、と訊いた。イエスが答えて曰く、──
 「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(マコ9:12-13)

 マコ9:14-29〈汚れた霊に取りつかれた子をいやす〉
 4人が他の弟子たちのところへ戻ってくると、かれらは律法学者たちと議論していた。悪霊に取り憑かれた息子を助けてほしい、息子のなかから悪霊を追い出してほしい、と或る父親が来たのでそれを行ってみたが、弟子たちには汚れた霊を少年から追い払うことができなかったのを承けて、それについて弟子たちは律法学者たちと言い争っていたのである。
 これを聞いたイエスはいった。なんと信仰なき時代であることか。わたしはいつまであなた方と一緒にいられよう。いつまであなた方に我慢しなくてはならないのだろう。
 イエスは少年を連れて来るよう命じた。悪霊はイエスを認めるや、少年の体にひきつけを起こさせ、その場に倒れて転げ回させ、口から泡まで吹かせてみせた。
 その様子を見た少年の父親がイエスに、あなたに息子を助けるとこができましょうか、もしそれができるならわれらを憐れみ救ってください、と懇願した。
 できるならば、とは何事か。そうイエスはいった。信じるならばなんでも出来るのだ。
 少年の父親が、信仰なきわたしを助けてください、といったので、イエスは少年に取り憑いていた悪霊を追い払った。しばらくは死んだようになっていた少年だったが、イエスがかれの手を取ると起きあがり、父親と一緒に家に帰った。
 このことがあったあと、イエスは弟子たちに、汚れた霊の類は祈りに拠らなければけっして追い出すことは出来ない、と教えた。

 マコ9:30-32〈再び自分の死と復活を予告する〉
 イエスは町や村に入って人々に気附かれるのを好まなかった。心ない人々によって自分は捕らえて、時を経ずして殺されるであろうことを知っていたからだ。イエスは自分の死と復活について、改めて弟子たちに話した。かれらはこれを聞いて深く悲しみ、この言葉についても怖くて、それまでのようには真意を聞くことも憚られた。

 マコ9:33-37〈いちばん偉い者〉
 道中、弟子たちが誰がいちばん偉いかについて話し合っているのを聞いたイエスは、かれらを呼び集めてこういった。曰く、──
 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マコ9:35)また、「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしを遣わしになった方を受け入れるのである」(マコ9:37)とも。

 マコ9:38-41〈逆らわない者は味方〉
 イエスの名を騙って悪霊を追い出している者がいる、とヨハネがイエスに告げた。
 実はヨハネはそれを止めさせようとしていたが、イエスはそれに反対した。その者はわたしの名によって悪霊を追い払う奇跡を行ったのだから、よもやそのすぐあとでわたしの悪口はいえまい。わたしに逆らわない者はわたしの味方である。
 それゆえキリストの弟子という理由だけであなた方に水を恵んでくれる人は、必ずや祝福を受けることだろう。

 マコ9:42-50〈罪への誘惑〉
 イエスはいった。自分を信じる小さな者の1人をつまずかせる者は、重しをつけられて海に投げこまれてしまう方がはるかに良い。
 もし片方の手や足があなたをつまずかせるなら、その手や足は切って棄ててしまえ。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、その目を抉り出してしまえ。五体満足のまま永遠の火が燃え盛る地獄へ投げこまれるぐらいなら、たとい片手片足、片目だけであっても命あって生き永らえる方がマシである。
 「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マコ9:50)

 マコ9:42-50〈罪への誘惑〉については一部、並行箇所であるマタ18:6-9〈罪の誘惑〉から流用した。ご容赦願いたい。
 イエスの姿が変容した高い山はタボル山ともヘルモン山ともされる。ここでイエスはモーセとエリヤと会い、会談した。この箇所について「マタイ」ではあまり考えることもなく過ぎたが、改めてこれがどのようなことであるかを調べたところ、ここで3人が語り合った内容とは、このあとイエスがエルサレムに入って果たすべき役割、しなくてはならない事柄についてのものだった、という。
 顧みれば、エルサレム入城後のイエスの言動には、結論だけが開陳されて動機と経緯が語られないパターンが目に付くようになったようである。それを踏まえてこの会談の場面を読むと、イエスがここで一段、より高みに登って自分の役割と為すべきことを見通した、と考えられそうだ。前後してイエスは自分の死と復活について三度語る。活動当初はまだ不明瞭だった自分の未来がこのときになって、明確なヴィジョンとしてかれの目に映るようになったのだろう。
 モーセとエリヤがここでイエスと会うのは、かれらが旧約聖書に於ける律法と預言者の象徴的存在で、メシアたるイエスの到来を告げてきた者であるから。それゆえにここではモーセ、そうしてエリヤがイエスと会うという、ありがたくも畏れでいっぱいな光景が現出することになったのだ。



 予告なしに4日も休んでしまって申し訳ありませんでした。この間、ずっとハマトン『知的人間関係』を読んでいました。
 今日からまた従前通りの更新を行ってゆきますので、どうぞ宜しくお願いします。◆

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第1894日目 〈マルコによる福音書第8章&第9章1/2:〈ファリサイ派の人々とヘロデのパン種〉、〈イエス、死と復活を予告する〉他with4年目の“3.11”を迎えて。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第8章と第9章1/2です。

 マコ8:1−10〈四千人に食べ物を与える〉
 その頃、また群衆が集まってきた。イエスやその弟子たちのところでのらくらしていて、お腹を空かせる始末。人里離れた場所だったので、どこからも食べ物は調達できそうにない。
 パンは何個あるのか。イエスはそう訊ねた。弟子たちが、7個あります、と答えた。イエスは群衆を地面に坐らせるとパンを手にし、感謝の祈りをささげた後にそれを裂いて弟子たちに渡し、これを人々に食べさせるよう命じた。また、魚も少しあったので、イエスはパンにしたのと同じようにして、人々へ食べさせた。……これらを食べると群衆は皆、満腹になった。パン屑を集めさせると籠7杯分あった。
 イエスは群衆を解散させると、弟子たちを連れて舟に乗り、ダルマヌタの町へ向かった。

 マコ8:11−13〈人々はしるしを欲しがる〉
 ダルマヌタの町へ到着したイエスの許にファリサイ派の人々が来て、天からの徴を見せてほしい、といった。かれらはイエスを試そうと企んでいたのである。イエスは心のなかで深く嘆き、いった。「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(マコ8:12)

 マコ8:14−21〈ファリサイ派の人々とヘロデのパン種〉
 ファリサイ派の人々を退けたあと、イエスと弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に向かった。その舟のなかで弟子たちはパンを1個しか持ってこなかったことに気附いた。
 そのときである、イエスが、ファリサイ派とヘロデ党の人たちの差し出すパン種に気を付けなさい、というたのは。弟子たちはこれを、自分たちがパンを持っておらず、それゆえにファリサイ派とヘロデ党の人々が親切めかして差し出すパンに誘惑されたりするな、という意味なのだ、と議論の末に解釈した。
 イエスは頭を振って弟子たちにいった。パンを持っていないからといってそのことについて議論するな。あなた方にはまだ理解できないのか、悟ることもできないのか。どうしてそこまで心が頑ななのか。その耳は飾りでなにも聞こえていないのか、まるでなにも覚えていないのか。
 続けて、──
 5,000人に5個のパンを裂いて与えた日、パン屑は何籠分になったか。4,000人に7個のパンを裂いた今日、パン屑は何籠分あったか。(弟子たちが12籠分です、7籠分です、と答えた)──まだあなた方は悟らないのか。

 マコ8:22−26〈ベトサイダで盲人をいやす〉
 一行はベトサイダの村へ向かった。そこへ到着するや、人々が病人を連れて集まってきた。そのなかに、目の見えない人がいた。イエスはその人を村の外へ連れ出して、相手の目に唾を付け、両手をかれの頭上に置いた。
 なにが見えるか。そうイエスは訊ねた。すると、人の姿が見えます、と返事が返ってきた。木のようにしか映りませんが、歩いている様子は見て取れます、とかれはいった。イエスはもう一度、相手の頭上に両手をかざした。そうしてかれは視力を取り戻し、視界に映りこむものはなんでもちゃんと見えるようになったのである。
 イエスは目が見えるようになったその人に、ベトサイダの村には戻らずこのまま家に帰りなさい、といった。その人はそうした。

 マコ8:27−30〈ペトリ、信仰を言い表す〉
 イエスが弟子たちとフィリポ・カイサリア地方へ赴いたときのことである。
 人々はわたしのことをなんといっているか。イエスは訊ねた。然る後、イエスは再び訊いた。では、あなた方は何者と思うか。
 それにペトロが答えた、あなたはメシアです、と。
 「するとイエスは、御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(マコ8:30)

 マコ8:31−9:1〈イエス、死と復活を予告する〉
 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」(マコ8:31−32)
 イエスが突然そのようなことを話したのに驚いたペトロは、かれを脇へ連れて行き、あのようなことをいってはなりません、皆が動揺します、と諫めた。が、逆にイエスからこう叱責された、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マコ8:33)と。
 そうして群衆と弟子たちを呼び集めて、こういった、──
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
口語訳
35:マルコによる福音書/ 08章 35節
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(中略)神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。(中略)はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(マコ8:34−35,38,9:1b)

 12人の弟子たちは必ずしも優れていたわけではなく、また、一頭地を抜く程に有能なわけでもなかった。愚鈍の衆、とまではいわぬまでも、イエスの起こす数々の奇跡を目の当たりにしてもそれをあるがままに受け入れることは難しく、発言の真意と比喩をたちどころに正しく解釈できる程ではなかった。それがイエスをしてかれらに、愛と嘆きと失望の綯い交ぜになった叱責をさせたのだろう(マコ8:17−18)。
 殊にペトロは──12弟子の筆頭格でリーダー的存在であるペトロはその傾向が甚だしい。福音書の記録からは弟子たちのうち、ペトロの言動しか浮かび上がらないのでその分割を喰う形ではあるが、新約聖書を通じていちばん成長が確認できるのも実はこのペトロである。
 福音書で描かれるペトロは幾分そそっかしくて失言も多く、イエスの言動の解釈では弟子団をミス・リードさせること度々であるが、イエス亡きあとは12使徒のリーダーとの自覚も出たか、イエス・キリスト(メシア/救世主イエス)の言葉と奇跡を地中海世界──ローマ帝国領内へ根気強く、熱心に伝道して根附かせ、自身の弟子を育てた(マルコ、パウロ他)。そうしてローマにて殉教した。前にも書いたが、このペトロが初代ローマ法王と記録されている。
 しかし、そのペトロもイエス存命中は疑ってしまうぐらいに<愚>で、幾分か春風駘蕩な様子もある。けれどもイエスは実はそのような人をこそ必要としたのであろう。自分よりも優れた者ではなく、自分の教えについて深く考察して場合によっては<否>を唱える者ではなく、自分の言葉、教え、奇跡をその場ではすぐに理解できずともあるがままの眼差しでそれを見、後に伝えてゆくことのできる者をこそ、イエスは必要としたのだ。それはけっして自分の周囲をイエス・マンで固めたということではない。それだけは注意しなくてはならない。
 パン種の喩えはマタ16:5−12にて読んだ(「ルカによる福音書」にこの喩えはない)。「マルコによる福音書」ではファリサイ派とヘロデ党の差し出すパン種がなにを意味するか、特に説明をしない。が、マタ16:12ではそれがファリサイ派とサドカイ派の「教え」であることが知らされている。
 「マルコによる福音書」では説明しないことが「マタイによる福音書」では説明されている、という傾向が偶然ではなく事実であったとすれば、それは各々の福音書の執筆意図、対象読者の相違、そこから必然的に浮上する各々の福音書の性格といった点に理由を求められようか。
 なお、マコ8:10に出る「ダルマヌタ(の町/地方)」とはマタ15:39「マガダン地方」と同じ。即ち、ガリラヤ湖西岸のマグダラを指す。



 4年前のこの時間、何事か起こるなどわかっていた者がどれだけいただろう。いまから12時間と46分後、マグニチュード9という途方もないレヴェルの地震が発生し、人智を超越した規模の津波がはるか沖合から押し寄せ、すべてを呑みこんで破壊した。そうして史上空前の原発事故が発生した。
 4年前のこの時間、自分がまだ起きていたかどうかも覚えていない。それぐらいに当たり前な、まったく代わり映えのしない<湯冷めしない程度にぬるい>日だったのだ。いまから12時間と46分後、会社で商品の勧誘電話をしていて、相手は契約しそうもないな、とクロージングの機会を探っていた矢先、坐ることも立つこともできないような揺れを感じて、机に必死にしがみついた。目の前の大型モニターに映るNHK−BSが押し寄せる津波の映像を流すのはその約1分後のことで、揺れがまだ収まっていない頃である。
 4年前のこの時間、4年間のこの日、何事も起こらなかったら、<いま>という時はどのようなものになっていただろう。あのまま時間が分岐しなかったら、いまわれらはどのような人生を歩み、この国はどのような方向へ進んでいただろう? 現在より少しでもマシな方向に歩けていたのかな?◆

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第1893日目 〈マルコによる福音書第7章:〈昔の人の言い伝え〉、〈シリア・フェニキア地方の女の信仰〉他withiTunesで映画をレンタルすること。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第7章です。

 マコ7:1−23〈昔の人の言い伝え〉
 或るとき、エルサレムから来たファリサイ派の人々と数人の律法学者が、イエスの弟子たちが手も洗わずに食事している光景を目にして驚いた。かれらの慣習ではあり得ぬことだったからである(ex;マコ7:3−4)。そこでかれらはイエスに、どうしてあなた方の弟子たちは手が汚れたまま食事を摂っているのか、と訊いた。
 イエスは答えた。あなた方は神の掟を捨て、人間の言い伝えを固く守っている。よくもそのようなことができるものだ。「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(マコ7:13)
 そうして、集まっている群衆に向けて、いった。外から人の体に入るもので人を汚すものはなにもなく、人のなかから出て来るものこそが人を汚すのである。人々よ、聞いてこれを悟れ。
 が、弟子たちはイエスの言葉がよく理解できなかったので、イエスが群衆と別れて家のなかに入るや、いまの言葉の真意について訊ねた。イエスはこれに嘆息し、頭を振って曰く、──
 人の口から体のなかに入った食べ物や飲み物は、腹を経由して外に出る。こうして口から入ったすべてのものは清められる。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無差別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マコ7:20−23)

 マコ7:24−30〈シリア・フェニキア地方の女の信仰〉
 イエスはカファルナウムをあとにして、ティルスの町があるフェニキア地方へ行った。誰にも自分が来ていると知られたくなかったけれども、やはり来ていることは知られてしまい、その地の人たちはこぞって集まってきてしまったのだった。
 そのなかに、悪霊に取り憑かれた娘を持つ母親がいた。彼女はギリシア人でシリア・フェニキア地方の出身だった。どうか娘を救ってください、と彼女は頼んだ。どうか娘のなかから悪霊を追い出してください。
 イエスは答えた。娘にじゅうぶんな量の食べ物を与えなさい。但し、娘が食べるべきパンを犬にあげてはならない。
 しかし先生、と母親はいった。食卓の下の子犬は食卓から落ちたパン屑を食べるのです。
 イエスは母親を家に帰した。彼女の信仰を正しいと見たのである。果たして彼女が家に帰ると、娘は、イエスのいった通り悪霊から解放されて、寝台で眠っていたのだった。

 マコ7:31−37〈耳が聞こえず舌の回らない人をいやす〉
 イエスはフェニキアからデカポリスへ赴き、ガリラヤ湖畔へ戻ってきた。そこで耳の聞こえない人を癒やし、舌の回らない人を癒やした。このことを広めたりしないように、とイエスは(例によって)厳しく口止めしたが、「しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」(マコ7:36)

 ──「口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」という箇所を読んで、実はわたくしは大笑いしてしまいました。予定調和的な笑劇と思え、またそれによって憤慨するイエスの姿を想像し、歓喜に心浮かれた人々の様子を想像し、悪意なき噂の連鎖を思うて呵々し、溜め息してしまうのであります。
 もはやイエスの一挙一動は注視され、周辺地域にくまなく伝播する、格好のニュース・ネタになった。ヘロデ・アンティバスがイエスの噂を聞き及んでヨハネの復活と考えて恐怖した、という前章で読んだ挿話もそれを裏付けておりましょう。イエスの言行が弟子たちやその教えを信じる者以外の一般大衆にとっても、無関心ではいられなくなっており、むしろそうした人々の方がイエスの言行や旅程について一際強い関心を持っていたかもしれません。この時代にTwitterやFacebookなどSNSが存在していたら、きっととんでもない騒動が起こったに違いありません。
 さて。
 「マルコによる福音書」は誰が、どこで執筆したか。わたくしはそれを、シリア・パレスティナ地方の外に住むローマ帝国領内のキリスト者であろう、と〈前夜〉にて触れました。すくなくとも、ユダヤ人の慣習を一端ながら知る人物であろう、とも。その根拠を提供するのが、本章第3−4節であります。本日のノートには反映させなかった箇所でもあるので、そこを引用すれば、──
 「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」
 今日のわれらの習慣からすれば手を洗わないで食べることを、汚い、とも、不潔、とも思うのですが、これはむしろ日本人的感覚であり、当時のユダヤ人のそれでは勿論、ない。そうしてここでいう「汚れた手」(マコ7:2)が、律法が規定する不浄なものに触れた手ではなく、あくまで世俗の行いがされた手であることは一読して推察できるし、またその旨フランシスコ会訳聖書の傍注にもあります。
 ここで指摘される「食事の前には手を洗え」というのは、律法には本来なかった事柄をファリサイ派や律法学者が追加事項として設けたものだ。それは神の掟に反する行い、背く行為だ、とイエスは拒絶反応を示し、かれらを弾劾するのである。イエスが殊にファリサイ派や律法学者と対立するのは、律法本来の教えではなく、その周辺に張り巡らせた余計な事項を遵守させ、また神の掟よりも人間が伝えてきた習慣を尊ぶその姿勢ゆえでありました。そうして、律法主義でありながら律法に書かれたことの意味を考えぬその一知半解ぶり、有職故実に凝り固まった形骸化したその考え方でありました。イエスはそれらに「否」を突き付けた、当時としては非常にラディカル、しかし実際は、極めてリベラルな姿勢の持ち主であったことを念頭に置いて読むのが良いでしょう。
 イエスをキリスト者が崇めるメシア、キリスト教の親玉という宗教面から切り離して考えると、だいたいこんな見方、捉え方ができる、と思います。



 iTunesにて映画をレンタルすることが多くなってきました。わざわざ実店舗に出向き、お目当てのものがレンタルされていたらどうしよう、と怯えることも、返却期限をうっかり超過して延滞料金を払う羽目にならぬことも利点の1つでしょうが、わたくしの場合、原稿を書いていたりなにかの拍子に確認したい事柄が発生した場合、すぐにiTunesでレンタルして確認できる、という安心感があります。
 1作あたりのレンタル料金はTSUTAYAなど実店舗よりも高額に思えるけれど、レンタルして30日以内であれば再生可能、返却期限は再生開始から48時間以内となれば、おそらくお店で借りてくるよりは安く済む話でありましょう。
 ただ問題点は、自分の観たい(ソフト化されている)作品が必ずしもiTunes上にあるわけではないこと、連続ドラマのラインナップが全滅していること、邦画で字幕選択できる作品が皆無であること、洋画の場合は字幕版・吹き替え版が並立している点でやや使い勝手が宜しくないこと、などなど。幾つかは今後改善されようし、幾つかは克服されぬまま時間が流れるのだろう。
 このような弊害があったとしても、それでもiTunesでの映画レンタルは便利です。できればHuluとiTunesで二刀流、と気取りたいところですが、如何せん双方帯に短し襷に長し。それぞれの長所を取り挙げてみれば重複するところが実に多く、これは短所に於いてもほぼ変わりはない。Huluで軍配を挙げるところがあるとすれば、連続ドラマのラインナップがそこそこ充実している点か。あと指摘すべきは支払い方法ですが、これについてはまた機を見て。今一つ、Huluの支払い方法に納得がゆかず、使い倦ねている部分があるからだ。これが解決したら、Huluをもう少し積極的に利用したいな、と思うのだが。
 実を申せば現在わたくしのiMacには、iTunesでレンタルした映画が3作ある。それらの感想を認める機会あり、本ブログにてお披露目することとなった場合には、それがiTunesでレンタルしたものであることを江湖に宣伝(?)させていただきます。映画が好きな人であれば、限界はあると雖もiTunesの利用は積極的に行うべきであろう、というのが、現時点でのわたくしの意見である。◆

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第1892日目 〈マルコによる福音書第6章:〈ナザレで受け入れられない〉、〈洗礼者ヨハネ、殺される〉他withさて、『サロメ』を読むか。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第6章です。

 マコ6:1-6a〈ナザレで受け入れられない〉
 イエスはカファルナウムの町を去って故郷ナザレへ帰った。安息日、かれは会堂で教えた。むかしのイエスを知る者らはその様子を見て、口々に囁き交わした。
 曰く、かれが授かった知恵とその手で行われる奇跡はいったいなんなのか。どこであのような業を得たのだろう。あれは大工だぞ、マリアの息子でかれの兄弟姉妹はわれらのなかで生活している。果たしてあの男は何者か。
 斯様にしてナザレの人々はイエスにつまずいた。イエスは独りごちた。預言者が敬われないのは故郷と家族の間でだけである。そうしてかれは、ナザレで極僅かの人を癒やしただけで、他にはなにもしなかった。イエスは人々の不信仰に驚いた。

 マコ6:6b-13〈十二人を派遣する〉
 イエスは付近の町や村を巡って教えていたが、或るとき、12人の弟子たちを2人一組にして、自分の代わりに遣わすことにした。イエスはかれらに、汚れた霊に対する権能を与え、杖1本の他はなにも持たせず、履き物も履かせず派遣したのだった。そうして、いった、──
 「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れずあなた方に耳を傾けようともしない所があったら、そこを出てゆくとき、彼らへの証として足の裏の埃を払い落としなさい。」(マコ:10-11)
 ──12人の弟子たちは行って、人々を悔い改めさせるために宣教した。そうして人々を癒やし、汚れた霊を人から追い出した。

 マコ6:14-29〈洗礼者ヨハネ、殺される〉
 イエスの名が広く知られるようになり、その名と行いはエルサレムのヘロデ・アンティバスの耳にも届くようになった。ヘロデの周囲の人々はイエスをエリヤの再来といい、また斬首された洗礼者ヨハネのよみがえり、とも囁いた。ヘロデ自身は洗礼者ヨハネが生き返ったのだ、と思ういていた。さよう、この頃既にヨハネはこの世の人ではなかったのである。
 ──ヘロデは兄弟フィリポの妻ヘロディアと婚姻しており、洗礼者ヨハネはそれは律法に背く行為であるとヘロデに諫言していた。それゆえ洗礼者ヨハネは捕縛されてヨルダン川東岸ペレス地方にあるマケロスの砦の牢へ幽閉されたのだった。一方、「へロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜならヘロデが、ヨハネは聖なる正しい人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」(マコ6:19-20)
 ……斯様にへロディアはヨハネ殺しを企むも果たせずにいた。が、遂に好機が訪れたのである。……
 ヘロデ・アンティバスの誕生日。かれはその祝宴の席にローマの高官や将校、ガリラヤなど諸地方の有力者を招いていた。宴の余興の一つとして、ヘロディアの連れ子である娘が、いとも妖艶な踊りを披露した。それをすっかり喜んだヘロデは娘に、なんでも望むものを褒美にやろう、と口走った。これこそヘロディアの目論んだ筋書きである。娘はあらかじめ母と打ち合わせていたように、<それ>を所望した。<それ>、──
 洗礼者ヨハネの首を!
 ヘロデは怯み、たじろいだが、今更引っこみもつかなくなり、臣下の者らに獄中のヨハネの首を刎ねて盆に載せ、ここへ持ってくるよう命じた。少女はそれを受け取ると母へ渡した。ヘロディアの目的は斯くして果たされたのである。
 洗礼者ヨハネの遺体はかれの弟子たちが引き取り、埋葬した。

 マコ6:30-44〈五千人に食べ物を与える〉
 各地での仕事を終えて戻ってきた6組、12人の弟子たちはイエスへの報告を済ませたあと、奨められて人里離れた場所に行ってしばしの休みを取った。かれらは舟に乗り、自分たちだけその場所へ向かったのだ。多くの人たちがかれらを見、それと気附き、すべての町から出発して先回りして、件の場所へ、かれらよりも先に到着した。
 イエスは人々の行動を見て、その飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ、そうして自分も行って、人々を教えた。
 ──時間が経って、弟子たちが群衆を解散させようとイエスを促した。いまならまだ近隣の村でかれらが食事できるからである。イエスは否を唱え、あなた方がかれらに食事を与えなさい、といった。弟子たちはそれを拒んだ。
 イエスは5切れのパンと2尾の魚を持ってこさせ、天に祈りをささげて人々へ分け与えさせた。人々はそれを満腹になるまで食べた。パン屑を集めると籠12杯分になった。

 マコ6:45-52〈湖の上を歩く〉
 イエスは弟子たちを舟に乗せ、対岸のベトサイダに向かわせた。そうして自分は、その場に残った群衆を解散させたあと、陸地から舟の行く様を眺めていた。
 夕暮れ刻、舟の進行方向から風が吹き、湖の水面に漣が立った。風はだんだんと強くなり、逆風となって進路を阻んだ。舟の上の弟子たちは漕ぎ悩んだ。
 陸地からそれを眺めていたイエスだったが、未明になってようやく重い腰をあげて、湖の上を歩いて舟の方に向かった。かれは、自分を幽霊と思いこんで恐怖する弟子たちに声を掛け、舟に乗りこんだ。すると風は吹き止み、舟は前に進んだ。
 弟子たちはこのことに驚いた。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(マコ6:52)

 マコ6:53-56〈ゲネサレトで病人をいやす〉
 一行はガリラヤ湖畔の町ゲネサレトに到着した。──イエス、来たる。人々はすぐさま、「その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。」(マコ6:55)
 町でも村でも里でも、イエスを迎え入れた。広場には病人が集められた。イエスがその人たちに触れると、皆、癒やされた。

 イエスの癒やしの業は、自発的に行うときと依頼されて行うときとに大別される。前者はともかくとして、後者については果たして無償でこれを行っていたのであろうか。これをすべて無償で行っていたら、民にとってイエスは無料巡回医のようなものだ。無料巡回医というのは生活の資を他から得ているがために行うことのできるボランティアだ。ならばイエスはどこから生活の資を得ていたか。説教の際には寄付金でも徴収していたのか。それであってもどこまで生活の資となり、活動の礎となったことだろう。方々で行う癒やしの業に代金を請求するのは、イエスの如く弟子を抱え、遠近で活動する者にとっては必要なことだ、と考える。
 自発的に行う際にどう対応していたかはともかく、依頼されて行ったときは、かりに医者にかかるよりは安価であったとしても、幾許かの料金設定をしていないとタダ働きでしかなく、却ってイエス自身を疲弊させる結果になろう。イエスは癒やしの業を行うにあたって、いったいどれだけの代金を設定・請求していたか。それに答えてくれる史料や研究所はないものかな。
 思わずヨハネ斬首の項に力が入ってしまったが、ここは事実、本章でいちばん長い節を持った挿話なのだ。ヨハネ捕縛の理由、斬首の経緯などはマタイ伝と共通した内容だが、ヘロデ・アンティバスの描かれたは若干異なる。マタ14:5では民衆の帰依、ヨハネを預言者エリヤと信じる民衆の反乱を恐れて処刑に至れなかった、というのだが、本章ではヘロデのヨハネに対する敬信の情が仄見えよう。むしろヨハネ延命のキーマンとして、ヘロデはいる。
 「マタイによる福音書」に於いても「マルコによる福音書」に於いてもヘロデは気の弱い人物ではある。が、「マルコ」での描かれ方は「マタイ」と較べてより精細になっていることも手伝って、いっそう生身の人間らしく感じられ、ゆえにかれの内心の葛藤が想像できるのだ。そうして奸計巡らすヘロディアの恐ろしさが際立ってくる。これらを踏まえて考えると、オスカー・ワイルドは戯曲『サロメ』を執筆するときに典拠とした洗礼者ヨハネ処刑の挿話は、「マタイ」でも、ましてや「ルカ」でもなく、この「マルコによる福音書」であったように思われてならない。それともこれはわたくしの深い思いこみゆえであろうか。
 ──良くも悪くも、ひとかどの人物になった人にとって生まれ故郷は一種の軛、後ろめたいところがあるわけではないが直視に耐えぬ過去の澱が溜まった場所、冷静に扱うことの難しいものかもしれない。そこには常に過去の亡霊が生きている。イエスの、ナザレでのこの挿話を読んでいると、ふとそんな思いに駆られることである。室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」はこの挿話を理解する最良の副読本ともなりそうだ。併せて、イエスが故郷の人たちから気が触れた、と噂されており、わざわざカファルナウムまで来てかれの身柄を拘束しようとした人たちのいることを考えると、受け入れられぬのも道理だ。
 ゲネサレトはガリラヤ湖北西岸はゲネサレの野にある町。12部族時代はナフタリ族の所領、王国時代は北王国イスラエル領であった。王上15:20に名の出る町キネレト(アラム人の王ベン・ハダドが南王国ユダの王アサの要請によって攻略した町の一つ)が新約聖書の時代には斯く呼ばれたのである。カファルナウムとマグダラのほぼ中間にあった。



 『サロメ』を初めて読んだのは、オスカー・ワイルドの作品としてではなく、リヒャルト・シュトラウスの楽劇《サロメ》のLPに添付されたリブレットとしてでした。高校を卒業した年、進学した年の夏だったかな。そこから興味を持ってワイルドの原作を読んだ。爾来、折に触れて──舞台監督兼脚本家志望だったこともあって──何度となく読み返したっけ。
 でもその頃は自分が聖書を読むなんて思いもしなかったから、典拠に当たってみることもしないでこの年齢になってしまったわけだけれど、改めてこうして共観福音書が伝える洗礼者ヨハネ処刑の挿話を全体の流れのなかに置いて読んでみたり、──その恩恵というべきか、情報と知識と感覚のフィードバックというべきか──ワイルドの作品をこれまで考えたことのなかった視点から読み直してみたりして、なかなか有意義な読書経験を、この作品ではさせてもらっている。
 たぶん、シェイクスピアとワーグナー(!?)を除けば、何度も読み返したことのある戯曲は『サロメ』ぐらいだろう。1年に何回も読んだり、一度も手にしないこともあったりして、頻度は一定しないけれど、どうして自分がこうも『サロメ』に熱をあげるのかについてはあまり考えたことがない。今夜はもうこれぐらいにして、布団のなかで今年最初の『サロメ』読書を堪能しながら、それについて想いを巡らせてみたいと思います。玲奈ひょんみたいな子が隣にいたら、彼女こそがサロメになるのかもね。◆

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第1891日目 〈マルコによる福音書第5章:〈悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす〉&〈ヤイロの娘とイエスの服に触れる女〉with読みたい本が見附からなかったから、……〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第5章です。

 マコ5:1-20〈悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす〉
 一行はガリラヤ湖を渡って対岸、即ちデカポリス地方のゲラサ人の土地へ到着した。イエスが舟から下りると、すぐに汚れた霊に取り憑かれたゲラサ人が来て、いった。神の子イエスよ俺に構うな、後生だから苦しめてくれるな。
 この、悪霊に取り憑かれたゲラサ人は墓場を住処としていて、どれだけ縛られ、どれだけ鎖や枷でつながれても結局はそれらを引きちぎったり砕いてしまったりして自由になってしまうのだ。「彼は夜も昼も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」(マコ5:5)
 汚れた霊よ、この人から出て行け。イエスはそういった。汚れた霊はイエスに、どうか自分たちをこの地方から追い出さないでほしい、と頻りに懇願した。イエスは汚れた霊に、汝の名は、と訊ねた。汚れた霊が答えて曰く、わが名はレギオン、われらは大勢だから(レギオンとは「軍団」という意味である)。
 悪霊よ、この人から出て行け。そうイエスはいった。すると汚れた霊は付近の山で餌を漁る豚の群れを指して、われらをあの豚どものなかに入れてくれ、と願った。イエスはそうさせた。汚れた霊に取り憑かれた豚の群れは次々と湖目掛けて走り出し、そうして終いには溺死した。その数、2,000。──豚飼いたちは恐ろしさのあまり逃げ出し、町や村にこの出来事を知らせた。
 不信の村人たちが現場へ赴くと、これまで汚れた霊に取り憑かれた人が正気を取り戻しており、きちんと身なりを整え、端座している光景を目にしてびっくりしてしまった。事の次第を知る人たちが説明すると、今度は村人、すっかり気味悪がってイエスに、さっさとこの土地から出て行ってくれ、と要求した。イエスたちはそれに従った。
 と、かれらのあとを件の男が追ってきて、自分も一緒に連れて行ってほしい、と頼んだ。が、イエスはそれを断り、自分の家に帰るよう諭した。「そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マコ5:19)
 ──その人は却って家族や隣近所に、イエスが自分にしてくれたことをつぶさに語って聞かせた。その話はデカポリス地方一帯に広まり、聞いた人々は皆一様に驚いた。

 マコ5:21-43〈ヤイロの娘とイエスの服に触れる女〉
 再びガリラヤ湖を渡ってカファルナウムの町に戻ったイエスの許に、ヤイロという名の会堂長が来て娘の重態を告げ、助けてほしい、と頼んだ。イエスは諾い、弟子たちを連れてヤイロの家に向かった。当然、かれにくっ付いて回る群衆もぞろぞろと。
 その途中のことである。12年間も出血の止まらない女がいた。彼女はイエスが来ていることを知り、その人の服にでも触れれば病は癒えるかもしれない、と一縷の希望を抱いて群衆のなかへ紛れこみ、ようやっとイエスの服の裾に触れた。するとたちまち彼女の病は治り、出血もすぐに止まったのである。これまでは全財産を処分して治療に臨んでも治らなかったのが、イエスの服の衣に触れた途端、完治したのだった。
 ところでイエスは、自分の体から力が、すうっ、と抜けてゆくのをふしぎに感じて、あたりを見廻した。誰がわたしの服に触れたのか。弟子たちは、これだけの人が周囲にいるのですから、誰が先生の服に触れたかなんてわかりません、と答えた。このやり取りを聞いていた件の女は恐ろしくなり、それは自分です、と名乗り出た。そうして事情を打ち明けた。それを聞いてイエスの曰く、──
 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マコ5:34)
 ──イエスと女がまだ話しているとき、ヤイロの家から人が来て、かれの娘が息を引き取ったことを知らせた。
 イエスは娘の父であるヤイロとその妻、弟子のペトロ、ヤコブとヨハネ兄弟だけを連れて、会堂長の家に入った。そうして娘の死を嘆き悲しむ人たちにこういった。その子は死んでいるのではない、眠っているだけである。嘲笑する人たちを無視してイエスは娘の手を取り、そうしていった。タリタ、クム。少女よ、起きなさい、という意味である。
 すると娘は目を覚まし、起きあがって歩き出した。人々はこの様子を見て腰を抜かすほどに驚いた。すっかり我を忘れて口も聞けないぐらいだった。
 イエスはこのことを誰にも知らせぬよう厳しく言い置き、また彼女になにか食べさせるよう命じた。

 実は本日の2つの挿話、福音書の数あるイエスにまつわるエピソードのなかでも五本指に入る程に好む箇所である。自己弁護をするのではないが、取り憑かれた者を救い、長く続く病を癒やす人の存在を希求するならば、本章に親しみを覚えるのは宜なるかな、というところではあるまいか。わたくしも夜昼の別なく墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりしている。もうその病気が完全に治癒され煩わされることなく元気に暮らすことを望んでいる。群衆のなかのロビンソン・クルーソーが抱える闇と孤独はそう易く癒やされるものではないようだ。いったい<雪解け>はいつ訪れるのだろう?
 ──果たしてデカポリス地方ゲラサ人の土地にいたレギオンは地縛霊のようなものであろうか。もし土地に縛られているなら、この悪霊とゲラサ人の土地にはどのような因果関係があるのだろう。双方になにかしらの因果がない限り、イエスに斯様な懇願をすることもないように思うのだが……。こうしたところも聖書理解、福音書理解には見過ごすべからざる問題点と思うのだが、この点に着目して研究したりした教会や学者や信徒たちはいるのだろうか。いないならせめてこの点、考えていただきたいものである。
 そうしてマコ5:5の引用箇所;これは近隣の人たちへの悪霊による意図的所作、パフォーマンスであるのか。はたまた取り憑かれた者の意識が表層へ浮かんだ際に発せられた、わが運命を呪い、解放を望む嘆きの声であったか。たとえば──スティーヴン・キング『シャイニング』に於けるホテルの悪霊に憑かれたジャック・トランスの如き? となれば……悲しみの深さは想像するに余りあります。



 真夜中にiTunesで音楽を購入しているとき、ふと一冊の本が読みたくなって探し回るも見附からず。その場は断念したものの、改めて部屋の掃除と蔵書の処分を行うよりない、という思いを強くしたのである。もう目の前ではあるけれど、春までにはいまよりすっきりとした、どこになにがあるか把握できるぐらいの所蔵量にしておきたい。もうこのままでは駄目だ。◆

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第1890日目 〈マルコによる福音書第4章:〈「種を蒔く人」のたとえ〉、〈たとえを用いて話す理由〉他with数年ぶりにド氏を読んでいますが、……〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第4章です。

 マコ4:1−9〈「種を蒔く人」のたとえ〉
 於ガリラヤ湖畔。イエスは舟に乗り、岸の群衆を前に喩え話を用いて教え始めた。種を蒔く人が種を蒔きに行ったところ、──
 或る種は道端に落ちて、鳥に食べられた。
 或る種は石ころだらけで土の殆どない場所に落ちて、根附かぬまま枯れた。
 或る種は茨のなかに落ちたが茨にさえぎられて、実を結ぶことはなかった。
 他の種は肥沃な土地に落ちてよく育って実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった。
 聞く耳のある者はこれを聞け。

 マコ4:10−12〈たとえを用いて話す理由〉
 イエスが1人でいるとき、弟子たちが来て、どうしてかれらには喩えを用いて教えるのですか、と訊いた。
 あなた方には神の国の秘密がそのまま語られるが、他の人々には喩えを用いてそれを示す。そうイエスはいった。預言者イザヤの言葉にあるように、見ても認めず、聞いても理解できず、立ち帰って赦されることがないようにするためである。

 マコ4:13−20〈「種を蒔く人」の説明〉
 続けてイエスはいった。この喩えのわからぬ者がどうして他の喩えを理解できようか。それはこういうことである、──
 種を蒔く人とは、神の言葉を蒔く人のことである。
 道端に落ちた種とは、御言葉を聞いてもすぐサタンによってそれが奪われてしまう人のことである。
 石ころだらけの土地に落ちて根附かぬまま枯れた種とは、三日坊主で、後々御言葉ゆえに困難に遭うとすぐつまずく人をいう。
 茨のなかに落ちて実を結ばなかった種とは、御言葉を聞くには聞くが実生活の憂いや悩み、富の誘惑、様々な欲望によって心が惑い、それらによって聞いた御言葉を忘れたり、失ってしまうような人を指す。
 よく育って実を結んだ種とは、御言葉を聞いて受け入れ血肉とし、場合によって30倍、60倍、100倍もの恵みを得る人のことだ。

 マコ4:21−25〈「灯火」と「秤」のたとえ〉
 灯火は燭台の上に置かれて部屋の隅々まで照らす。隠されていたもので露わにならぬものはなく、秘められたもので公にならぬものはない。──聞く耳のあるものはこれを聞け。
 あなた方がいま、なにを聞いているかについて注意を払え。あなた方は自分を量る秤によって、更にたくさんのものを与えられる。──「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マコ4:25)

 マコ4:26−29〈「成長する種」のたとえ〉
 神の国をこう喩えよう。
 人が土に種を蒔き、あとは夜でも昼でも寝て過ごす。その間ずっと、人は蒔いた種がどうなっているかを知らない。
 が、土はひとりでに実を結ばせる。ちゃんと育ち、実が熟すと、人はさっそく鎌で刈り入れる。収穫の時が来たのだ。

 マコ4:30−32〈「からし種」のたとえ〉
 神の国をどう喩えよう。
 それはからし種のようなものである。土に撒くときは地上のどんな種より小さいが、成長すれば野菜より大きくなり、やがて枝を張ってそこに鳥が巣を作るぐらいに大きくなる。

 マコ4:33−34〈たとえを用いて語る〉
 斯様にしてイエスは、自分の話を聞く者にあわせて様々な喩えを用いて教えを宣べた。が、自分の弟子たちには喩えを用いることなく、秘かに、すべてを話した。

 マコ4:35−41〈突風を静める〉
 その日の夕方、イエスは弟子たちを連れて湖の対岸へ渡った。すると突風が湧き起こり、湖面は大いに荒れ狂った。舟は波をかぶり、水浸し。
 弟子たちは怯え、艫を枕にして寝ているイエスを起こして、どうにかしてください、と頼んだ。イエスは起きて、風を叱り、湖に命じた。黙れ、静まれ。するとたちまち風はやみ、湖は穏やかになった。
 なぜ怖がるのか。イエスはいった。まだ信じないのか。
 弟子たちはイエスの業を見て、非常に恐れ、訝った。この人は何者だろう、風や湖をも従わせるこの人は、いったい誰なのだろう。

 本章で披露された喩え話はすべて「マタイによる福音書」を既に読み、やがては「ルカによる福音書」でも読むことになる。
 さすがに別の書物と雖も同じ内容を読むのが2度目となれば、以前は気が付かなかったこと、見落としていたことが見えてきて、それが為にこれらの喩え話は前回以上に理解できるようになる。──「マタイによる福音書」のときは、とりあえず消化するのが先、という意識がどうしてもありましたからね。
 が、こうして読むと、イエスの語りの上手さ、比喩の豊かさ・わかりやすさ、人心掌握術の巧みさなどに改めて思いを新たにし、感服する。イエスの言葉を記した4つの福音書、もしくは新約聖書全体を見渡した場合、イエスは極めて優秀かつ有能な街頭演説家、煽動家である、と評してあながち間違いはないと思う。
 論旨の明快ぶり、語りのさわやかな調子、能弁である点など、<話す>ことを仕事とする側よりすれば、まこと見習うべき先達といえようか。

 本日の旧約聖書はマコ4:12とイザ6:9−10。



 久しぶりにドストエフスキーを読んでいて(改めて)思うたこと──いや、皆さん、誰にも負けることなく喋って喋って喋りまくりますな! そうして皆さん、相手の話を辛抱強く耳を傾け、おまけに最初の方で話したことについてもきちんと覚えていらっしゃる。いったいどれだけの人たちなのか……。
 現在ではこんなこと、絶対考えられません。21世紀の今日、そんな小説が商業出版されたなら、それは確実に<狙って>いるか、作者も編集者も左巻きか、どちらかに相違ありません。それでも出版されたら話題になることは確実で、わたくしもその暁には怖いもの見たさで手にしてみたいものであります。
 ドストエフスキーの登場人物の長台詞ばかりでなく、ディケンズの長大・悠然たる筋運びやバルザックの細密画のような描写についても然りですが、19世紀というのはいまよりもずっと時間がゆったりと流れていて、読者諸氏も小説とはそのようなものだ、という認識の下にそれらを手にしていたのでありましょうね。或る意味に於いて小説好きには至福の時代であったかも。ああ、良いなぁ、19世紀の読書界……。
 いつから小説というものは質実共に痩せ細り、袋小路に迷いこんでしまったのだろう?◆

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第1889日目 〈マルコによる福音書第3章:〈手の萎えた人をいやす〉、〈湖の岸辺の群衆〉他with坂下K氏宅前小路にて火災あり。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第3章です。

 マコ3:1-6〈手の萎えた人をいやす〉
 イエスはカファルナウムの会堂に手の萎えたユダヤ人がいるのを見た。その人に曰く、真ん中に立ちなさい、と。そうして、その場にいた群衆に向かってこういった。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マコ3:4)
 会堂に集まっていた群衆は実は、安息日であってもイエスが病人を癒やすのかどうか、注目していたのであるが、イエスのこの問い掛けには誰も答えられなかった。
 イエスはかれらの頑なな心を悲しんだ。そうして真ん中に立たせた手の萎えた人の手に触れると、果たしてその人の手は癒やされ、健常な状態に戻ったのである。
 この様子を見たファリサイ派の人々はヘロデ党の人々と与して、イエス殺害の計画を練り始めたのである。

 マコ3:7-12〈湖の岸辺の群衆〉
 いまやイエスの評判は津々浦々に広まり、パレスティナ全土即ちガリラヤ・サマリア・ユダヤの各地方、ティルスやシドンを擁すフェニキア地方、またヨルダン川東岸のデカポリス、ペレアから、数多の人々がカファルナウムの町目指してやって来た。
 イエスは群衆に圧し潰されぬよう弟子たちに一艘の舟を用意させ、自分はそれに乗って湖上から岸辺の群衆に説教した。病人を癒やし、悪霊を人々の体から追い払った。悪霊どもは口を揃えてイエスを神の子と呼んでひれ伏した。イエスは自分のことを言い触らさぬよう厳しく戒めた。

 マコ3:13-19〈十二人を選ぶ〉
 イエスは自分の従う人々のなかから12人を選び、弟子とした。かれらを自分のそばに置き、また派遣して、人々への宣教や治癒に務めさせるためである。汚れた霊に対する権能、即ち悪霊を追い出して、人々のあらゆる病気や患いを癒やす権能も、イエスは弟子たちへ与えた。
 かれらは12使徒と呼ばれ、それを構成する者は以下の通りである、──
 ・ペトロと呼ばれるシモン
 ・アンデレ  ※シモンとアンデレは兄弟である。
 ・ヤコブ
 ・ヨハネ   ※ヤコブとヨハネはゼベダイの子で兄弟。ボネアルゲス、雷の子らと呼ばれる。
 ・フィリポ
 ・バルトロマイ
 ・マタイ
 ・トマス
 ・アルファイの子ヤコブ
 ・タダイ
 ・熱心党のシモン
 ・イスカリオテのユダ  ※後にイエスを裏切る。

 マコ3:20-30〈ベルゼブル論争〉
 イエスが家に戻ると群衆もそのあとに従った。その頃イエスの身内が来て、かれを取り押さえようとした。イエスの気が触れた、と噂が立っていたからである。またファリサイ派の人々はイエスを指して、ベルゼブルに取り憑かれた者、と呼んだ。悪霊の頭と結託している、とまでいうた。そんなファリサイ派にイエスの曰く、──
 どうしてサタンにサタンを追い出せよう。サタン同士で内輪揉めすればやがて滅びるのは必至。国も、家も同じだ。あなた方はわたしが汚れた霊に取り憑かれている、という。はっきりいっておこう。「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マコ3:28−29)

 マコ3:31-35〈イエスの母、兄弟〉
 イエスの母マリアと兄弟たちが来て、人をやって会堂のなかのイエスを呼び出した。が、イエスはそれに応じなかった。わが母とは誰か、わが兄弟とは誰か。イエスはそう問うた。そうしてまわりにいる人々を見て、こう続けた。ここにわが母、わが兄弟たちがいる。神の御心を行う人たちこそわが家族である。

 カファルナウムのイエスを家族が訪ねてきた。共観福音書の伝える小さなエピソードである。並行箇所であるマタ12:46−50、ルカ8:19−21は「訪ねてきた」ことだけを記し、その前後で来訪の目的が述べられることはない。
 が、両福音書の原型である「マルコによる福音書」はそれらと異なり、来訪の目的と推理される情報を提供してくれている。それがマコ3:21だ。気が変になった、といわれるイエスを取り押さえに来た身内の者たち──これが母と兄弟たちであろうか。示された情報はこれだけであるけれど、他資料を博捜して駆使すれば、言外の推定材料も得られるかもしれぬ。そうすれば、違う見方も可能であろう。たとえば、そういう身内もいるにはいたが、その後事態は収束されたのでそれの報告ついでにイエスの顔を見に来た、など。
 実際のところは勿論未詳だが、やはり本章のキモは、おそらく故郷ナザレ一帯に於いてであろう、漱石ならぬイエス発狂が信じられて身内の者が取りも直さず身柄の拘束に動いた、という点。これを踏まえて考えれば、故郷ナザレで受け入れられないのも道理かな、と思う(マタ13:53−58、マコ6:1−6a、ルカ4:16−30)。
 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マコ6:4)とはチャーリー・ブラウンも夏のキャンプで思わず口にした真理であるけれど、イエスの言動:かれを知る者には斯く映るか。成る程。



 平成廿七年弥生一日、夜半。坂下K氏宅前小路の群宅何れかにて火災あり。午前零時十六分に報あり、たちまち消防数多来たりぬ。十台近く取りも直さず来たりて場所なく遠方に停まるなどありき様なり。但し消防来たるも救急の陰、視野に無し。また消防群れる頃その方を眺めるも煙立つを見ず。消防の者らの無線を傍にて聞けば、すぐに鎮火しこれ所謂小火なるか云々。之午前零時三十九分のこと。之等大凡午前零時四十六より五十分の間に順次去りてやがてその陰一台と雖も見ざるなりき。今最期の一台赤灯回転して点滅するも之やがて行き、夜街尓静音戻りけり。拙宅襲いたる難を想起し之甚だ不快。◆

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第1888日目 〈マルコによる福音書第2章:〈中風の人をいやす〉、〈レビを弟子にする〉他with教え子、日本を去る。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第2章です。

 マコ2:1-12〈中風の人をいやす〉
 数日後、イエスは再びカファルナウムの町に来た。それを知るや町の人々はこぞってイエスのいる家に詰め掛けた。戸口まで一分の隙もない程に。
 そこへ4人の男が中風の人を運んできた。が、すし詰め状態でイエスのそば近くに寄ることができない。どうすればよいか。男たちは考えた。そこでかれらはその家の屋根にあがって一部を壊し、井戸の釣瓶のように患者の床をイエスのそば近くに降ろしたのである。イエスはかれらの信仰を見て、中風の人にいった。子よ、あなたの罪は赦される。
 さて、この家に詰め掛けた群衆のなかに数人の律法学者がいた。かれらはイエスの台詞を聞いて、心のなかであれこれ考えた。──この人はどうして患者に、罪は赦される、などというのだろう。神に対する冒瀆ではないのか、罪人を赦すことのできるのは神だけのはずなのに。
 イエスの霊が律法学者たちの心のなかの疑問を聞き取ったので、イエスはかれらにいった。中風を患うこの人に向かって、罪は赦された、というのと、起きて床を担いで歩け、というのと、どちらが易しいであろうか。「人の子が地上で罪を赦す権利を持っていることを知らせよう。」(マコ2:10)
 そうしてイエスは中風の人にいった。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。するとその人は起きて、床を担ぐと、人々の見守るなかを何事もなかったかのように平然と、てくてくと自分の家に帰っていった。
 人々は皆唖然とし、呆然とし、驚いた。これまでこのようなことが起きた試しは一度もなかったからである。人々は神を讃美した。

 マコ2:13-17〈レビを弟子にする〉
 ガリラヤ湖の畔に出た自分を追って集まってきた人々を相手に、イエスは教えた。その際、通り掛かった街角でイエスは徴税人レビと出会った。わたしに従いなさい。イエスはそういって、このレビを弟子にした。
 ──イエスがレビの家で食事をしていたときのことである。大勢の人がその場、その時間を共にし、多くの徴税人や罪人がイエスや弟子たちと同席していた。この様子を見たファリサイ派の律法学者はイエスの弟子たちに、どうしてあなた方の先生はこのような連衆と席を同じうしているのか、と訊ねた。
 それを聞いたイエスは答えて曰く、健康な人は医者を必要としない、必要とするのは病を患う人たちである、と。続けて、──
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マコ2:17)

 マコ2:18-22〈断食についての問答〉
 洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食しているのに、どうしてあなた方はそうしないのか、と訊いた人がいた。
 それを聞いたイエスは答えて曰く、──
 花婿のいる婚礼の席で誰が断食するだろう。断食するのは花婿が奪い取られたときだ。
 誰も古着に新しい継ぎを当てたりはしない。古い革袋に新しいぶどう酒を入れたりしない。古い物には古い物を、新しい物には新しい物を。これが法則である。

 マコ2:23-28〈安息日に麦の穂を摘む〉
 或る安息日にイエスと弟子たちは麦畑のなかを歩いていた。弟子たちはお腹をすかせていたので、麦の穂を摘んで食べた。それを見咎めたファリサイ派の人々がイエスに、あなたの弟子たちは安息日の決まりを破った、と非難した。
 それを聞いたイエスは答えて曰く、──
 ダビデ王が空腹だったときのことが聖書に書いてある。あなた方はそれを読んだことがないのか。ダビデは神の家に入り、祭司以外は口にしてはならぬ供え物のパンを食べ、部下にも分け与えたではないか。勘違いをしてはならない。人のために安息日はある。安息日のために人がいるのではない。

 「マタイによる福音書」を読んでいたときはよくわからなかったことが、「マルコによる福音書」の読書中にようやくわかった、と感じることが間々あるのである。本章に則していえば断食について問答する場面、イエスの言葉がそうだった。
 服の継ぎとぶどう酒の喩え。これはいったいどういうことなのだろう、と思いながらも「マタイ」のときは読み流してしまっていた(そうした箇所はマタイ伝ノートに多くある)。この2つの喩えが断食とどう関係あるのだろう。この疑問は今日、本稿執筆中に解けた……ように思うている。
 おそらくこれは断食に限定した喩えではなく、慣習の話なのであろう。どれだけ考えても相応しい言葉が出てこないのだが、古い秩序と新しい秩序は相容れない、古くからの集団組織に新しい教えや考えは馴染まぬし、そも芽吹くことも根附くことも難しかろう。それを、イエスはここで服の継ぎとぶどう酒の喩えを用いて説くのである。
 これはイエスからファリサイ派への明確な「否」に他なるまい。あなた方の教義とわたしの思想は異なるのですよ、という一種の宣言。──わたくしはそう理解している。
 マコ2:14「アルファイの子レビ」がマタ9:9では「徴税人マタイ」になっているのは既に述べた通り。レビの別名がマタイであるならば2人は同一人物となる。しかし、レビとマタイが別人である可能性は否定できない。おまけに徴税人マタイと12弟子のマタイは同一人物であるのか否か、それすらも真相は藪のなかというべきだろう。「マルコによる福音書」が「マタイによる福音書」に先行して執筆されたならば、レビをマタイに書き換えた理由はなにか。12弟子マタイと同一視させ、福音書の著者として相応しい経歴を付与するがための初期教会による工作か。こんな古来よりの不明点に決着を付けるには、ドラえもんやデロリアンの登場にすがるより他ない。わたくしは真剣にこれをいうている。ハハハ。折しも今年は2015年、デロリアンが未来にタイム・トラヴェルした記念すべき年だ。百聞は一見に如かず。この言葉をとく噛みしめよ。
 当時のユダヤの住宅の屋根は、縦横に張り巡らした木材の上に塗り固めた粘土を敷いたもので、形状は平らであった、という。ただ、「ルカによる福音書」の並行箇所を読むと、屋根瓦を剝がした、とあるので、平らな粘土質の屋根の上には瓦が敷き詰められていたのだろう。ただ、それがすべてのユダヤの住宅に適用できる話かはわからぬ。
 いずれにせよ、4人の男が中風の人をイエスのそば近くに連れてゆくために屋根を壊したことを逆に考えれば、当時のユダヤの住宅は壊しやすい/壊れやすい屋根を持つ構造であったことの証ともいえるだろう。なお、『聖お兄さん』の何巻だかでイエスの説教を聞くために屋根を壊して屋内に入ってきた人がいる、とイエスが語るのはおそらくこの部分の挿話を挿すのだろう。
 (福音書の)イエスは屋根を壊してまで患者を担ぎこんだ男たちに信仰を見てひどく感じ入った様子だが、その家の持ち主にしてみれば屋根を勝手に壊されてはおちおち生活することもできず、修繕されるまでの間はずいぶんと不安で落ち着かぬことだったろう。その行為は単に傍迷惑かつ噴飯物でしかない。まったく、たまったものではありませんな。

 本日の旧約聖書はマコ2:25-26とサム上21:2-7、マコ2:26とレビ24:5-9。



 ISによる邦人拉致・殺害を契機に、この国でも反イスラムの感情がネット上にあふれる事態となった。いまは平穏を取り戻しつつある様子だが、逆に意識の奥底にその感情は沈められ、根付いてしまった感もある。
 地方都市に住むイスラム教徒の夫婦がいる。かれらは先日、日本を離れた。日本語の教え子なだが、あの事件によって風評被害を被ったのである。そうして、自宅の前でヘイト・スピーチがされたり、石を投げこまれたり、理由なき迫害を受けた。
 先生、もう限界ですよ。世界でいちばん寛容な国でどうしてこんな目に遭うのでしょう。僕らはイスラム教徒だが、ISはイスラムの皮を被ったただの過激派組織です。家族を守らなくてはならないから、残念だけれど日本を離れることにしました。こんな出来事のせいでこの国を去るのはとても辛いけれど、良い思い出もたくさんあります。良い人たちとも出会えました。もし僕らの国に来ることがあったら、ぜったいに寄ってください。
 ──かれからのメールに涙した。そうして、なにもできない自分に腹が立ち、<イスラム>の固有名詞ゆえにすべてを白眼視してヘイトする行為をなんとも思わぬ同胞ニッポンジンが憎たらしい。ヘイト行為に走るだけの余力があるなら、どうしてそれを使ってイスラムについての正しい知識を仕入れ、ISについて報道された内容を検証しないのだ。せめてそれぐらいの努力をしてから、自分の声で、自分の名前で主張をしてほしい。
 かりに実際のイスラム・ヘイトに携わっていなかったとしても、ネットやSNSでそれを主張・拡散したものも同罪ではないか。この人たちの行っていることは正義感ではなく、単なる不満解消だと思う。
 法と秩序と正義をねじ曲げるものは決して許されるべきではない。あらゆる差別と暴力を決して許してはならない。──そうして、寛容と博愛を忘れてはならない。気持ちだけではなく、実際の行動を以てそれを示そう。
 純朴にして敬虔なる二心なきイスラムの人たちと、再び友達になりたい。Let’s be friends.◆

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第1887日目 〈マルコによる福音書第1章:〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉、〈イエス、洗礼を受ける〉他with病より癒えたる者の神への聖なる感謝の言葉〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第1章です。
 ──神の子イエス・キリストの福音の始め──

 マコ1:1−8〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉
 預言者イザヤ(とマラキ)の言葉──わたし主はあなたより先に使いを遣わし、来たるあなたのために準備をさせよう。荒れ野で叫ぶ者の声が聞こえる、曰く、主の道を整えてその道筋をまっすぐにせよ──。
 その言葉の通り、まず洗礼者ヨハネがイエスに先立ってユダヤに現れた。かれはヨルダン川沿岸の荒れ野にて悔い改めの洗礼を宣べ伝えて奨励し、ユダヤの全地方とエルサレムからやって来た数多のユダヤ人に洗礼を授けた。ユダヤ人は罪の告白をした後、ヨハネから洗礼を受けた。
 わたしよりも優れた方があとから来られる。そうヨハネはいった。わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方は聖霊によってあなたたちへ洗礼を施す。

 マコ1:9−11〈イエス、洗礼を受ける〉
 その頃、ガリラヤ地方の小村ナザレからイエスという男がヨルダン川の方へ来た。ヨハネから洗礼を授かった後、岸へ上がったイエスは天から自分の方へと降ってくる霊を見、天からの声を聞いた。その声に曰く、あなたはわたしの愛する子、わが心にかなう者、と。

 マコ1:12−13〈誘惑を受ける〉
 霊により荒れ野へ導かれたイエスはそこで40日にわたって断食した。その間、サタンがかれを様々に誘惑したが、イエスはそれに屈しなかった。野獣がかれを食い殺そうと狙ったが、天使たちがこのイエスを守った。

 マコ1:14−15〈ガリラヤで伝導を始める〉
 ヘロデ・アンティバスによってヨハネが捕縛されると、イエスはガリラヤ地方へ帰り、自身の教えを宣べ伝えるようになった。かれは神の福音を説き、神の国の到来を告げた。

 マコ1:16−20〈四人の漁師を弟子にする〉
 ガリラヤ湖北端の岸辺を歩いていたイエスは、湖で網を打って漁をするシモンとアンデレの兄弟に出会った。かれらはガリラヤ湖に面した町ベトサイダの出身で、シモンは既に結婚してその家には姑が同居していた。イエスは兄弟の方へ近寄って、自分に従いて来るように、と声を掛けた。あなた方を、人間を漁る漁師にしよう。兄弟はその場で網を捨て、イエスに従った。
 また、そこから少し歩いてゆくと、今度はゼベダイの息子ヤコブとヨハネ兄弟に出会った。かれらは舟のなかで網を修繕していた。イエスは兄弟たちの方へ近寄って、自分に従いて来るように、と声を掛けた。兄弟は舟から降り、その場にいた父や雇い人たちをあとに残して、シモンたちと同じようにイエスに従った。

 マコ1:21−28〈汚れた霊にとりつかれた男をいやす〉
 イエスと4人の弟子たちはガリラヤ地方西北端の町カファルナウムへ向かい、安息日にそこの会堂で教えを宣べ伝えた。その様子に、会堂へ集った人々は大いに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてイエスが教えたからだ。
 ちょうどそのとき、その場に悪霊に取り憑かれた男がいて、叫んだ。どうかナザレのイエスよ俺に構うな、滅ぼしに来た者お前の正体はわかっている、神の聖者だ。
 この者から去れ。そうイエスがいった。すると、汚れた霊は男を痙攣させて、大きな叫び声をあとに残して男の体から出ていった。
 その光景を目撃した人々は驚き、これは新しい教えだ、この方の言葉には悪霊さえ従うではないか、と囁き合った。この出来事はたちまちのうちにガリラヤ地方一帯へ広まったのである。

 マコ1:29−34〈多くの病人をいやす〉
 イエスたちはベトサイダの町へ戻り、病床にあるシモンの姑を見舞った。イエスが彼女の手を取って起こすと、姑の病気はすっかり癒えた。彼女は感謝をこめて一同をもてなした。
 その日の夕刻、町の人々が病人や悪霊に取り憑かれた人たちを連れて、イエスの許へやって来た。イエスは病気の人たちを癒やし、また悪霊を追い出してなにも喋らせなかった。悪霊はイエスの正体を知っていた。

 マコ1:35−39〈巡回して宣教する〉
 朝まだき、イエスは人里離れた場所へ行き、1人祈っていた。そこへシモンたちが来て、皆が探しています、といった。イエスはかれらにいった。近くの町や村に行って宣教しよう、わたしはそのために来たのである。
 そうしてイエスは4人の弟子を伴ってガリラヤ全土の会堂を巡り歩き、人々を癒やし、悪霊を追い出すことに精を尽くした。

 マコ1:40−45〈重い皮膚病を患っている人をいやす〉
 或るとき、イエスの許へ重い皮膚病を患う人が来て、御心ならばわたしを清くすることができます、と懇願した。イエスはその人に手を伸ばして触れ、こういった。よろしい、清くなれ。するとたちまちその人の重い皮膚病は癒やされた。
 イエスはその人を立ち去らせる際、このことは誰にも話したりしないように、と厳しく言い置いてから、こう続けた。祭司のところへ行って皮膚病が治った体を見せ、モーセの定めに従って清めの献げ物をささげて人々へ証明しなさい。
 が、その人はイエスの許を辞去するや自分のみに起きたことを町の人々に語って聞かせた。最早イエスはどの町にも正面から堂々と入ることが難しくなってしまい、郊外に居場所を求めることを余儀なくされた。それでも人々は彼方此方からイエスの許へ押し掛けた。

 この当時、きっとイエスは新しい宗教の創始者としても、福音の伝道者としても、世間には認知されていなかったろう。人々の目にイエスは、非常に優れた民間療法士として映ることが専らだったのではなかったか。そうした人物が施す癒やしの技術の評判は本人が望まずとも広まってゆくものだ。
 いまもむかしもクチコミは情報拡散の要である。ただ情報を伝播する手段が異なるだけのことだ。それまでひっそりと活動していたのが、或る出来事乃至は或る人物の発信を契機に自分を取り巻く環境がすっかり変容してしまい、公然とした活動が妨げられる/支障が生じる、という点で、この段階ではイエスもまた被害者かもしれぬ。既にイエスの評判はカファルナウムの会堂での一件によってガリラヤ地方の隅々にまで伝えられていた。
 が、マコ1:40に於ける皮膚病患者はイエスの評判を後押しすると共に、その活動に制限を加えたことで記憶に留めてよい存在である。もっとも、それによりイエスの評判が高まって江湖の口にのぼるようになり、その存在と技が噂され、やがてはファリサイ派や律法学者の耳に入って敵対し、殺害計画・ゴルゴタの丘に於ける処刑へ至る連鎖反応が始まるのだけれど、その端緒に位置する者としてやはりこの皮膚病患者は記憶するに値しよう。
 カファルナウムの悪霊に取り憑かれた人々とこの皮膚病患者は或る意味で、イエスの公生涯のファースト・シーンの執筆者であり、磔刑に至る未来に舵を切らせた注目すべき者たちである。

 本日の旧約聖書はマコ1:2とマラ3:1,マコ1:3とイザ40:3,マコ1:44とレビ14:2−32。



 病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌;ベートーヴェンが弦楽四重奏曲第15番イ短調Op.132は第3楽章の楽譜に記した言葉である。これを本稿の末尾にわたくしも──当事者ではないけれど──書き留めたい。一時は悲しみに暮れたけれども家族の病気は(当面は)癒やされた。予断は許さぬけれども、安堵、そうして感謝。
 父祖の仏前に、庭のお稲荷様に、神社に祈ったのだ。特にこれといった信仰を持つわけでもないし、そんな意味では甚だ自分勝手なお願いではあるけれど、子供の頃から日常に溶けこんできた行いをより篤く、より深くして病人の回復を祈るのは当然至極であろう。それが結果かは別として、なべて常態に戻り、わたくしもこのようにして小さな文章を綴るだけの気持ちを取り戻すことができている。これを安堵、感謝といわずになんといおうか。
 まだ誰もが道の果ての開拓地へ赴くのは早過ぎる。まだなにも為し得ていないのだ。わが両の腕から奪ってゆくのはしばらく先延ばしにして、この日常を維持させてほしい。頼む。◆

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第1886日目 〈「マルコによる福音書」前夜〉 [マルコによる福音書]

 とにもかくにも「マルコによる福音書」を読み通したあとで思うのは、本福音書がと手も読みやすい、ということでした。既に「マタイによる福音書」を約1ヶ月掛けて読了している経験からかもしれません。が、それ以上に「マルコによる福音書」という書物の性格がそう思わせているのかも。
 かつて「マタイ伝」前夜や共観福音書の稿で触れましたけれど、「マルコによる福音書」は4つの福音書のうち、いちばん最初に成立したものと考えられています。「マタイ」、「ルカ」両福音書の抜粋ではなく、基。読みやすさとわかりやすさについては「マルコによる福音書」に軍配が上がる、というてよいでしょう。これから初めて福音書を読もう、とする方はこの「マルコによる福音書」、別称「マルコ伝」から始めるとよいのではないかな、と思います。ただ事前に承知しておくべきは、開巻早々から登場するイエスは既に成長しており、われらの知る生誕物語はどこにも記載されていない点でありましょうか。
 ついでに申しあげれば、「マルコ伝」第1章にて「マタイ伝」の前半1/3が消化されている。これを歓迎するか、呆然とするか、素っ気ないと感じるか。読者次第でありましょう。
 冗談はさておき、ウィリアム・バークレーが本福音書を指して、「『イエスの生涯』の原型を確立した」(『バークレーの新約聖書案内』P30 高野進・訳 ヨルダン社 1985.4)というのは、こうした内容の簡潔さ、構成のシンプルさに起因するのかもしれません。また、それは裏を返せば「マルコによる福音書」が最も早い段階で成立した福音書であることの、証しの一つといえるのでありましょう。
 では、本福音書は、いつ、どこで、誰によって書かれたのか。
 著者については旧来よりマルコなる人物とされてきたが、ではマルコとは誰か。これは12使徒の1人でそのリーダー的存在、初代ローマ教皇とされる聖ペトロ即ちシモンの弟子で助手、通訳であったヨハネ・マルコ(使12:12,13:5他)であります。かれがペトロからイエスのことを聞き、それを書き記したのが事実なら、著者はイエスの弟子団トップの人物を取材源としたことになります。
 が、その一方で過去数世紀の間に巻き起こって今日はそちらの方が信憑性が高い、とされるのが、「使徒言行録」に載るエルサレム出身のヨハネ・マルコによってではなく、かれとは無関係の人物の手によって「マルコによる福音書」が書かれた、という説であります。それもパレスティナ、就中ガリラヤ地方の地理に幾つもの不正確な点があるため、実際の著者はこの地域にあまり縁のない、しかしローマ帝国領内のキリスト者であろう、という。ただそのキリスト者がパレスティナの外に住むユダヤ人であるのか、それとも外国人であるかは未詳。アラム語やラテン語を本文に紛れこませ、異邦人のためにユダヤ人の慣習を説明している、というだけでは、著者をの出自は明らかにできないのであります。
 が、そうはいわれてもわたくしは、本福音書の著者がペトロの弟子マルコとする旧来の説に首肯したいのです。マルコの従兄弟に敬虔で熱心なキリスト者バルナバがいた(使4:36−37)。ユダヤ人で出自はレビ族、キプロス島出身。バルナバはサウロことペテロの伝道旅行に同行し、ローマ帝国領内で福音を説いたが、或るときに或る出来事が原因して袂を分かち、連れ1人を伴いキプロスへ向かいます。その原因となり、バルナバがキプロス伝道へ伴ったのがマルコでありました。パウロとバルナバの不和は、マルコのキプロス伝道同伴の是非に結論の一致を見なかったせいだが、これについては「使徒言行録」の当該章にて改めて触れましょう(使15:37−40)。
 マルコはペトロ・シモン、バルナバ、パウロという3人の篤信家の謦咳に接して、自分の信仰と思想を深めてゆく。折節──殊ペトロからイエスについて語り聞くこともあったでありましょう。また、「イエスの言行録」とでも称すべき、やがて福音書執筆の資料になる記録、断簡の類も、マルコの目に触れ、手の届く範囲にあっただろう。そのようにして蓄積された情報が、なにかの拍子にまとまりを持ち始め、1つのストーリー・ラインを作り、一巻の執筆へまで発展してゆくのは自然と思います。これについては2世紀初頭、小アジアはヒエラポリスの司教パピアスが著書『主の言葉の解釈』に書き、3−4世紀のギリシア教父エウセビオスが自著『教会史』へ引いた断片でも確かめられます。
 或いはマルコを直接の著者とせずとも、かれの思想を受け継いだグループがマルコがペトロから聞いたイエスの言行や生涯をまとめ、今日われらが読むような「マルコによる福音書」として完成させた、という可能性も否定はできないでしょう。この完成経緯はわが国の『古事記』、中国の『論語』、ドイツの『ニーベルンゲンの歌』、イギリスの『ベーオウルフ』、ギリシアとローマ、ゲルマン、スカンジナヴィアエジプトやシュメール他世界各地の神話の生成過程と酷似します。聖書も然り、福音書も然り、といえるのではありませんか。
 すくなくともわたくしは、本福音書の著者が「マルコによる福音書」、乃至はマルコ派というべき人々の手によって書かれたのだろう、と考える者であります。すくなくとも、「マタイによる福音書」の著者をマタイとするよりは納得のできる証拠が新約聖書その他の文書に見出すことができる、と思うのであります。
 なお、本福音書が成立したのは70年代と考えられている由。マタ24,マコ13,ルカ21にそれぞれ見られる神殿崩壊の予告、終末の徴、大いなる苦難の予告の内容は、66−70年に勃発した第一次ユダヤ戦争を暗喩し、特に70年のエルサレム陥落と第二神殿の破壊、そうしてその後の都の荒廃を嘆いたものであります。既にマタイ伝前夜で触れたように「マタイによる福音書」が80年代の成立であれば、自ずとそれに先行する形で存在した「マルコによる福音書」がエルサレム陥落からあまり時間が経過していない時代、即ち70年代の成立と推察するのでは必然と思われます。
 新共同訳聖書の解説によれば「マルコによる福音書」は、異邦人の改宗者を読者対象にしてイエスの説く福音を伝えた書物である、という。であるならば、わたくしのように改宗する気なんて毛頭ないけれど聖書を読みたいと欲する者が読むに、いちばん相応しい福音書ということもできるのではないでしょうか。読みやすさとわかりやすさ、そうして素朴さに於いて、本福音書は4つのなかでいちばん接しやすく、また最初に読まれて然るべき書物と思うのであります。
 それでは明日から1日1章の原則で「マルコによる福音書」を読んでゆきましょう。◆

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