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第2093日目 〈ローマの信徒への手紙第16章:〈個人的な挨拶〉&〈神への讃美〉with「ロマ書」読了のご挨拶〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第16章です。

 ロマ16:1-24〈個人的な挨拶〉
 ローマの兄弟たちよ、あなた方にケンクレアイ教会の奉仕者の1人フェべをここに紹介します。あなた方は聖なる者たちとして相応しく、また主イエス・キリストに結ばれた者らしく彼女を迎え入れてください。彼女があなた方を必要としたときはかならず手を差し伸べて援助してあげてください。
 アキラとプリスカ(プリスキラ)夫妻にどうぞよろしく。かれらは主に結ばれたわたしの協力者です。わたしを命懸けで守ってくれたかれらには、わたしのみならず異邦人の教会のすべてが感謝をささげているのです。また、アキラとプリスカ夫妻の教会へ集う人々にもよろしく。
 アジア州でキリストへささげられた初穂、エパイネトへどうぞよろしく。
 わたしと同じくキリキア州出身で共に囚われの身にもなったことのあるアンドロニコとユニアスへよろしく。かれらは使徒たちのなかでも目立つ存在で、わたしよりも前にキリスト者となった人なのです。
 その他、そちらにいる兄弟たち、聖なる者たちへ、どうぞよろしく。キリストのすべての教会がローマのあなた方によろしく、というています。
 わたしパウロはあなた方へ奨めます、──
 「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」(ロマ16:17-18)
 わたしパウロはあなた方に望みます。あなた方が善にはさとく、悪にはうとい人たちであることを。いつの日か神はあなた方の足下でサタンを打ち砕くでありましょう。
 また、わたしの協力者テモテが、同胞ルキオが、ヤソンが、ソシバトロが、ローマの兄弟たちへよろしく伝えてほしいとのことです。ここコリントでわたしがお世話になっている家の主人ガイオからもよろしく伝えてほしい、と言付かっています。かれにはこの地方の教会全体も世話になっているのです。コリント市の経理係エラスト他の面々からも同様に。

 ロマ16:25-27〈神への讃美〉
 神は福音の力を強めることができます。
 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(ロマ16:25-26)
 イエス・キリストを通して代々限りなく、栄光が唯一の神にありますように。

 「歴代誌・上」や「マタイによる福音書」冒頭に掲げられた系図の方が余程面白く思うのは、おそらく<時間>の積み重ねによって蓄えられてきた歴史を確かなものとして実感することができるからです。反してロマ16の人名列挙に際して心動かされず、むしろ無味乾燥然と感じるのは、大半の人物の背景が知らされていないためかもしれません。「使徒言行録」や他のパウロ書簡から血肉を与え得る存在がこのなかにいるとすれば、アキラとプリスカ夫妻、パウロの随伴者テモテを筆頭として、たぶんそのあとに続けられる者は殆どいないでありましょう。
 挨拶の最初に出るフェベは、本書簡をローマ教会へもたらした人物と考えられます。ゆえにパウロはここに紹介の一節を認め、ねんごろに遇してほしい、と依頼するのであります。
 彼女が所属するのはケンクレアイ教会。ケンクレアイはアカイア州にあり、コリントの南東に位置して、エーゲ海につながるサロニコス湾(サロン湾とも)に臨む港町。商業都市コリントの経済を支える重要な立場の港湾都市として、ケンクレアイは機能していたのです。第2回宣教旅行の帰途、コリントをあとにしたパウロはここケンクレアイにて誓願に従って頭髪を剃り落としたのでありました(使18:18)。



 本日を以てようやく「ローマの信徒への手紙」を読了。途中1週間の倦怠が更新スケジュールへまともに悪影響を及ぼした感があります。「ヨハネによる福音書」以来、なにやら途中でダレてしまうのが習慣となりつつある。駄目ですね。
 残りの書簡、「ヨハネの黙示録」の読書を今後進めてゆくにあたってこうした遅滞はもう許されないでしょう。如何なることがあろうと読書-執筆-入力-投稿のサイクルを揺らぐことなく維持し、継続させてゆかねば。
 読者諸兄よ、「ローマの信徒への手紙」も変わることなくお読みいただき、ありがとうございました。感謝しています。サンキー・サイ。
 次の「コリントの信徒への手紙 一」(「一コリ」)は<愛の書簡>とも称される、新約聖書に収められる順番としては2番目のパウロ書簡。11月第2週のうちには読み始められればいいな、と思います。◆

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第2092日目 〈ローマの信徒への手紙第15章:〈自分ではなく隣人を喜ばせる〉、〈ローマ訪問の計画〉他withクトゥルー神話小説のネタが生まれたよ。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第15章です。

 ロマ15:1-6〈自分ではなく隣人を喜ばせる〉
 強い者は自分の満足を求めず、強くない者の弱さを担うようにしなくてはなりません。善を行い、隣人を喜ばせることで互いの向上に努めようではありませんか。キリストも自分の満足は求めなかったのです。
 聖書に書かれた事柄は、いずれもわれらを教え導くためのものであります。われらは聖書から教えと忍耐を学び、聖書を読むことで希望を持つのです。
 どうか忍耐と慰めの源である神があなた方に、かつてイエス・キリストが神に対して持っていたのと同じ思いを抱かせ、声を揃えてわれらが主の神にして父である方を、讃えさせてくれますように。

 ロマ15:7-13〈福音はユダヤ人と異邦人のためにある〉
 神の栄光のためキリストがあなた方を受け入れたのと同じように、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(ロマ15:7)
 キリストは神の真実を現すため、割礼を受けた者即ちユダヤ人に仕える者となり、先祖に与えられた約束の確かな証しとなりました。また、異邦人に対してはかれらが神の憐れみゆえに神を讃えようとしました。これらのことは聖書のなかに、たとえば詩篇や預言者イザヤの書に記されています。
 「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ロマ15:13)

 ロマ15:14-21〈宣教者パウロの使命〉
 ローマの兄弟たちよ、あなた方は1人1人が善意に満ち、あらゆる知識を内に蓄え、互いに相手を戒め合うことができる、とわたしは信じています。それがためにわたしはこの手紙のなかで、ときどきかなり思い切ったことを発言したのであります。
 わたしは神の恵みを得て異邦人のためにキリスト・イエスへ仕える者となり、神の福音のため祭司の役を務めるのです。というのも、聖霊によって異邦人が聖なる者となり、神に喜ばれる供え物となるためであります。
 「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」(ロマ15:17-19)
 斯くしてわたしはエルサレムからイリリコン州までの地域を巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えることになりました。キリストの名が知られていない地域に向かって熱心に、その福音を宣べ伝えたのでした。かつて預言者イザヤの書になかに、かれ(イエス・キリスト)のことを告げられていなかった人が見、聞いたことのなかった人が悟るだろう、とあるように、他人の築いた土台の上にキリストの福音が立てられたりしないようにするために。

 ロマ15:22-33〈ローマ訪問の計画〉
 この手紙の冒頭の方でも述べましたが、わたしはあなた方のいるローマへ行きたい、とずっと望んでいました。最早こちらにはわたしが宣教して回らなくてはならない場所はなく、また現在イスパニア行きの計画を立てていますので、その途次にでもローマへ寄ってあなた方に会いたいと希望しているのです。あなた方と共にいる喜びを味わい、そうしてからイスパニアへ出発したいのです。
 が、いまはエルサレムへ行くことを優先しなくてはなりません。というのも、マケドニア州とアカイア州の人々がエルサレムにいる<聖なる者たちのなかの貧しい人>を援助するため、義援金を集めてわたしに託したからです。わたしはこの役割を、まずは果たさなくてはなりません。そのあとでイスパニアへの旅行を実現し、キリストの福音をあふれる程に携えてローマのあなた方へ会いに行くこととします。
 異邦人がエルサレムのユダヤ人のために……、と、あなた方は驚かれるでしょうか。そうかもしれません。しかし、異邦人にはそうしなくてはならない理由があるのです。「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」(ロマ15:27)──これが理由です。
 ローマの兄弟たちよ、われらが主イエス・キリストによって、“霊”を与えてくれる愛によって、わたしのために祈ってください。わたしと一緒に祈ってください。不信心なユダヤ人の陰口と陰謀と暴力からわたしを守り、エルサレムへのわが奉仕が聖なる者たちから歓迎されるように、どうか祈ってください。そうしてわたしが喜びのうちにあなた方の許へ行き、ゆっくりと憩うことができるように、どうか祈ってください。
 「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」(ロマ15:33)

 実質的に「ローマの信徒への手紙」は本章にて擱筆されました。続く第16章はこの時代の書簡の定型というてよいらしい、著者からの挨拶であります。
 これまで縷々と述べられてきた教えの総括であり、それは煎じ詰めれば<隣人愛>となる点、第13章と同じというてよいでありましょうか。本章でそこに加わる新しい要素があるとすれば、ユダヤ人、異邦人の別なく実践される隣人愛によって自己を高め合う、という一種の「相互補完」かもしれませんね。
 が、個人的に本章のいちばんのキモは、既に〈前夜〉などで触れてもいたパウロのローマ訪問希望の件りであります。ここを読んでわかることですが、パウロの目はローマのずっと西方へ向けられていました。そこにはまだ、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせ」(ロマ15:20)るため、熱心に宣教に努めるに足る地だったからであります。パウロはまだイスパニアで異邦人のための宣教師として活動できる、と踏んでいたのであります。それは何事もなければ、きっと実現されていたことでありましょう……。
 その路程の途中にあるローマは勿論ローマ帝国の帝都であり、ローマ市民権を持つパウロとしては一目見ておきたい場所だったでありましょう。一方で──こちらの方がより強く望んだ事柄でありましょうが──自分が設立に携わっていない教会を実見したい、そこに集う信徒たちと会い、膝を接して話をしたかったでありましょう。もとよりローマでの宣教を伝道旅行中に随伴者へ洩らしていたパウロですから、その希望を書簡に認めるのは至極当然な流れである、と思います。もっとも、護送という形を取ってのローマ入りがかれの望むところであったかは定かではありませんが。
 ロマ15:26「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです」の背景は「使徒言行録」にはなく、このあとに読む「コリントの信徒への手紙 一」第16章第1-4節と「同 二」第8-9章にてパウロが報告しているところであります。
 当該箇所の読書となった際に改めて触れることもあるでしょうが、ここで背景を要約しておきますと、経済的に困窮したエルサレム教会に対して、まずマケドニア州の諸教会が、次いでそれに刺激を受けるようにしてアカイア州各地の教会が、自発的に、「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしい」(二コリ8:4)とパウロとテトスに願い出て、その成果は終わってみれば予想以上のものだったのであります。パウロがロマ15:25でエルサレム行きを優先する旨いうておるのは、かれがマケドニアとアカイアで集まった義援金をエルサレム教会に運ぶためなのであります。
 ──おそらくはこの一点を最大の根拠として、パウロの<主要書簡(<4大書簡>)>の執筆順が決まっていったのでしょう──
 なお、パウロが自分の宣教旅行の範囲の西端としてあげるイリリコン州ですが、バルカン半島西岸一帯の、アドリア海に面した地域とのみしかいまはわからず、現代でいえば旧ユーゴスラビア、アルバニア、北部ギリシアのどこかとしか申しあげないのが正直なところ。もう少し調べてみて、わかったら改めてご報告させていただきましょう。

 本日の旧約聖書はロマ15:3と詩69:10、ロマ15:9と詩18:50及びサム下22:50、ロマ15:10と申32:43、ロマ15:11と詩117:1、ロマ15:12とイザ11:10、ロマ15:21とイザ52:15。



 久々にクトゥルー神話小説のネタが思い浮かんだのである──仕事中、日本地図を見ているときに。日本人青年とダゴン幼生(という表現は当たっている?)の種族(!?)を越えた感涙必至(呵々)の友情物だ。
 簡単にプロットを作ってみたのだけれど、コメディと呼ぶより他にない代物になりそうで、思わず嘆息、頭を抱えた。プロヴィデンスの郷紳はきっとこうした風味の神話小説、構想すらもし得なかったろうなぁ──!
 ちかごろわたくしが書こうと思う小説は、多くがユーモア小説のカテゴリーに収められてもふしぎのない作品になりがちだ。本心ではウッドハウスや佐々木邦と同じジャンルの創作を切望している、ということなのかなぁ。でもこのジャンルは恋愛小説よりも難しいよ。タメイキ。◆

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第2091日目 〈ローマの信徒への手紙第14章:〈兄弟を裁いてはならない〉&〈兄弟を罪に誘ってはならない〉withもう、この子ったらホントに手が掛かるんだから!〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第14章であります。

 ロマ14:1-12〈兄弟を裁いてはならない〉
 信仰の強い人は信仰の弱い人を受け入れなさい。相手の考えを批判してはならない。食べられる人は食べられない人を軽蔑してはいけませんし、食べられない人は食べられる人を裁いてはなりません。神はどのような人であっても自分の元に受け入れているのですから。また、誰であれ、他人の召使いを裁くことはできません。なんという思い上がりでしょう、いったい裁きを受け持つ人は自分が何者と勘違いしているのでしょう。
 「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(ロマ14:5)
 食べるも食べぬも主のために。特定の日を重んじるも主のために。いずれも神への感謝から。
 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ロマ14:7-9)
 それでもなお兄弟を裁き、侮ったりするとすれば、いったいそこにはどのような理由があるのでしょう。われらを裁くはただ神のみであり、われらは等しく神の裁きの前に立つのです。預言者イザヤはその書のなかで、すべての膝はわたしの前に屈み、すべての舌はわたしを誉め讃える、というています。さよう、われらは神の前に立ってのみ、自分について述べることができるのであります。もう互いを裁くのはやめましょう。

 ロマ14:13-23〈兄弟を罪に誘ってはならない〉
 われらが為すべきは、兄弟が歩くその前につまずきとなるようなものを置かないことです。それ自体で汚れたものなど何一つありません。汚れたものだと思うならば、それは、その人にとってのみ汚れたものなのです。他の人には汚れたものではありません。
 食べるものについても然り。食べ物それ自体に悪いところはありません。その食べ物がもし悪とされるならば、それは、食べた人が悪事を働いた場合であります。悪を行った人が食べたということでその食べ物は件の人物にとって悪いものとなったのです。食べ物それ自体に悪いところはありません。
 「あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」(ロマ14:16-19)
 「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」(ロマ14:22-23)

 1つ1つの物に汚れや悪など、ない。或る物が悪く受け取られたり、汚れた物と見做されるのは、どんな場合でもそれを用いる人間の言動、思惑による。あなた方は兄弟に対して心清くあれ。パウロは本章後半にて斯く語りかけます。
 今日のわれら、否、人類の歴史そのものを顧みて、このパウロのメッセージは古今東西に適用させられましょう。いちばんわかりやすいのは<言葉>かもしれません。言葉それ自体に悪いところなど何一つない。それを悪いものと思うたり、汚れたものと思う人は、まずいないでしょう。時と状況と心によって、同じ言葉で他人を癒やすこともできれば、逆に人を窮地に追いこむことだってできるのです。物理的に殺害することも可能であります。
 電脳空間リテラシーが未だ整備・確立されていない現在、インターネットの掲示板やSNSを舞台にして、あらゆる悪意を孕んだ言葉が氾濫し、それを用いた(時には「正義」を騙った)事件が飽きもせず発生していることを思えば、何人と雖も言葉を使うことに慎重になるべきであります。想像力を駆使して、その言葉が理に適ったものか、果たして用いねばならぬ言葉なのか、それを受け取ったとき相手はどのような思いを抱くであろうか、などと自らに問いかけるべきであります。
 われらは言葉の使い方に無神経であってはなりません。自戒をこめて、ここに書きます。
 <兵器>もわかりやすい例かと思い、引き合いに出そうか、と考えたのですが、黙考して、それはやめることにしました。兵器が製造される目的は、人を殺戮するため、傷を負わせるためでしかありません。兵器は常に抑止力として存在するものでもありますが、一旦均衡が崩れたらば大量破壊兵器に早変わりし、多数を殺戮・死傷させるための道具になり果てます。「兵器の存在が平和をもたらす」と曰う人々が実際に存在しますが、それは詭弁です。本来の目的から他人目をそらすための方便であります。その言葉はゴミ箱の蓋に等しい。とはいえ、それを完全否定し、それを絶対悪と断言することができないのは、かの詭弁が事実の隠された一面を的確に指摘しているのが瞭然であるからです。いやはやなんとも。

 本日の旧約聖書はロマ14:11aとイザ49:18、ロマ14:11bとイザ45:23-24。



 昨晩、iMacのディスプレイにずいぶんと埃が付着していたので、精製水とマイクロファイバー・タオルで掃除しました。それはそれは丁寧に、何度も何度も、拭き跡が完全になくなるまで。いったい何度、ディスプレイの表面を撫でさすったことか!
 様々な角度からライトをあて、チェックするたびに拭きムラや塵埃を発見し、その度またマイクロファイバー・タオルで拭き拭きし。なんとか拭きムラ、拭き跡を消してみても、どうしたって塵や埃は宙を舞ってディスプレイに付着する。こいつらどこかで磁力でも発しているんじゃないか。
 斯くしてどうにかこうにかその約9割を除去して、満足のゆく綺麗さを取り戻したiMac。それを前にして胸を張り、勝ち誇ったような笑みと安堵の溜め息を吐いて、ふと壁の時計を見あげると、作業開始から2時間近くが経過している。映画1作、鑑賞できてしまう時間を、わたくしは目の前の真っ暗な、惚れ惚れするぐらいに黒々したiMacのディスプレイ掃除に費やしていたのだ。そこに悲壮感はない。打ちひしがれた感もない。あるのは使命を完遂した、一種の満足感である。
 ……ああ、もうまったく、手が掛かる子ほど愛おしい、って本当だね。これでまた数日後にはぞろディスプレイ掃除に勤しんでいるんだよね。いやはやなんとも。◆

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第2090日目 〈ローマの信徒への手紙第13章:〈支配者への従順〉、〈隣人愛〉他with読みたくて、傍らに置きたくて、;有川浩『ストーリーセラー』〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第13章です。

 ロマ13:1-7〈支配者への従順〉
 現世の権威に従いなさい。その権威は神に由来し、国家の権力機構は神があつらえた道具なのですから。権威に背くことと神に背くことは同義です。それは即ち、わが身を裁きへ委ねることでもあります。
 善を行っているうちはそれ程でもないが、悪を行ったらば、支配者はたちまち恐ろしい存在に変わります。あなたが願うのは、権威者を恐れずに済む方法。ならば、──
 「それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。」(ロマ13:3-5)
 あなた方へ課された納税義務についても然り。権威者はあなた方から徴収した税を神への貢ぎ物としてささげます。かれは<権威者>という立場の者に課された義務を果たしているのです。
 「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。」(ロマ13:7)

 ロマ13:8-10〈隣人愛〉
 互いに愛し合うこと。これ以外の借りは、誰に対しても作ってはならない。
 心に刻んでおいてください、──
 「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのものです。」(ロマ13:9-10)

 ロマ13:11-14〈救いは近づいている〉
 あなた方はいまがどのようなときなのか、ご存知のことでしょう。眠りから覚めるべき時が、既に近附きつつあります。救いは、われらが信仰に入った頃よりも近くへ来ているのです。
 「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ロマ13:12-14)

 皇帝のものは皇帝に返しなさい。神のものは神に返しなさい。──イエスが福音書で述べた言葉が思い出されることであります。税についてもイエスは弟子たちに語ることがあった、と記憶します。パウロが斯く発想する原点がかのイエスの言葉と教えにあるのは当然ですが、実はこれ程明瞭に、「ローマの信徒への手紙」に於けるパウロ神学と福音書が伝えるイエスの言行を結び付ける<糸>が見えるのは、ちょっと珍しいことのように思えてなりません。
 ここでいう「従順」とはけっして現世の権威を絶対的なものと仰いで、頭を垂れて唯々諾々と従うことではありません。この世の権力構造とその頂点に位置する権威者とは、いわば神の直接統治に代わるものであり、また権威者は神の代理人であります。剣の下の裁きから肉体と精神、信仰を守るため、そうしてあなたの良心のためにも、善を行って徳を積みなさい。そういうのであります。
 権威者の怒り=神の怒りを被らないために、限定された範囲のなかで!
 ロマ13:1-7〈支配者への従順〉を読みながら、脳裏にルターの『現世の主権』を倩想起したのは一人、わたくしのみでありましょうか──?
 すべての人に対して自分の義務を果たせ。──頭を深く垂れて謹聴、噛みしめて心の糧としたい言葉です。
 どんな掟も隣人愛に要約される。──正直なところ、素直には頷きかねます。本当にそういえるのかなぁ、と。
 酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨てよ。欲望を満たす目的で肉に心を宿して動くなかれ。──ともすれば、意思が一時の情念と欲望に敗北を喫することしばしばであるわたくしにとって、この言葉は強烈です。そうして、鮮烈です。生きてゆく上で「七つの大罪」とまったく無縁であること、十戒/律法に盲目的に従順でいられるなど、できようはずはありませんから。
 安倍政権がどれだけこの国の秩序や教示、理念や歴史や伝統を蔑視し、破壊し、無知であろうと、それでも日本はまだ法治国家であります。ゆえに社会の規範、根本には法律があります。われらはこの法律と無縁で生きてゆくことはできないのであり、これを犯すことは即ち権威者の裁きに委ねられるわけです。洋の東西、時代は隔てたとしても、本章が提示するメッセージは極めて今日的です。
 話を元に戻せば、どれだけ小市民的に生活しようと、罪と無縁で、如何なる法規に抵触しない生活など送れようはずはありません。それができるようになればいちばん良いのかもしれませんが、違反者やアウトローの存在しない社会など、いったいあり得ましょうか? ユートピアは<煉獄>の別称であります。
 如何に善と悪のバランスを取って人生を過ごし、死後に誰彼から、──
 「かれは生きているとき、全き善人とはいえないが、人の役に立つことをしたし感謝されることもした。褒められるようなことも、幾つかした。一方で全き悪人ではないけれど、それなりに──小市民的に──ルールから外れたこともしたし、細かく見れば法律に抵触するようなこともしでかした。が、改めてかれの人生を振り返ってみるならば、プラスマイナスゼロの人生で、何事にも大過なく過ごし得た人であった。まぁ、諸々検証すればプラスの方がマイナスよりちょっと優った人生を送った人であった。うん、憎めない人だったな」
──と顧みられれば良しとするか、だと思うのであります。シェイクスピアの戯曲やヴェルディのオペラでお馴染みなフォルスタッフ(ファルスタッフ)みたいですが、かれは一つの典型だと思います。

 本日の旧約聖書はロマ13:9aと出20:13-15及び申5:17-19と21、ロマ13:9bとレビ19;18。同節の参考として、マタ22:39とマコ12:31並びにルカ10:27。



 有川浩『ストーリーセラー』(新潮社)を買いました。ずっと買うのを迷った本で、そのたび文庫になるのを待とう、と決めたにもかかわらず、今日こうして単行本を購入した理由ですが、その1つとしてやはり先日の『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』の存在があったのは否定しない。
 観たあとで『レインツリーの国』を読んだ人は非常に多いと思うが、わたくしは全国の人々がおそらくは同じ時間にそれを読んでいるであろう連帯感を気持ちの片隅に置きながら、その物語にキュンキュンしつつ、一方では検討しては諦めた『ストーリーセラー』が読みたくて、傍らに置きたくて仕方なくなっていたのである。それゆえの単行本購入でありました。
 文庫化まで待とう、と考えたのは、作者が『図書館戦争』や<自衛隊3部作>などの文庫化の際、元版に加筆修正を加えていることがしばしばであり、またそれの為された版こそ作者の意思が反映した暫定的かもしれないが最終形態であるならばそちらを尊重しよう、という考えあるがためである。……が!
 しかし、単行本発売から既に約4年が経過、未だ新潮社は『ストーリーセラー』の文庫化に踏み切らない。あとから刊行された『ヒア・カムズ・ザ・サン』は疾うに文庫になっているのに……。実は既に文庫化の連絡はされており、それに伴い作者が他の作品同様、加筆修正を施しているのかもしれない。刊行から約4年と雖も未だ売れ行き好調、順調に版を重ねている作品だから、新潮社はまだまだ単行本だけで行ける、と思うているのかもしれない。或いは『レインツリーの国』が前例を作ったように、他社への版権移動の手続き中なのか、若しくは他社からの版権移動の要求・督促という名の「お願い」と<戦争中>なのか。呵々。
 だがしかし、最早それは自分にとってもどうでもよくなってきている。読書熱が頂点に達した時点で目的の作品を買ってしまったのだから、あとは野となれ花となれ。購入の翌月に文庫化されたりしはしまいか、と『ダ・ヴィンチ』誌の新刊文庫カレンダーを見て戦々恐々としたわたくしなのである。結果は、まずは安堵。ほっ。◆

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第2089日目 〈ローマの信徒への手紙第12章:〈キリストにおける新しい生活〉&〈キリスト教的生活の規範〉with来年、新しく聖書を買い直します。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第12章です。

 ロマ12:1-8〈キリストにおける新しい生活〉
 あなた方のなすべき礼拝、それは、自分の体を神に喜ばれる聖なる生身のいけにえとしてささげることです。世の倣いに流されたり、従ったりすることなく、心を新たにし、なにが神の御心であるのか、よくわきまえて生活しなさい。
 わたしはあなた方へ伝えます、──
 「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ロマ12:3)
 われらは全体の個であります。キリストにょって結ばれた一つの体という全体のなかで、1つ1つの部分を構成する個なのであります。
 「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(ロマ12:6)から、それを活かして行動してゆくべきです。奉仕の賜物を受けているなら奉仕に専念しなさい。施しをする人は惜しむことなく施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く慈善に励めばよいのです。

 ロマ12:9-21〈キリスト教的生活の規範〉
 偽りの愛などあってはなりません。悪を憎んで善から離れず、兄弟愛、隣人愛を以て愛し合い。尊敬の気持ちを忘れず相手を(自分より)優れた者と思いなさい。
 希望を持って喜び、苦難に耐え忍び、倦まず弛まず祈るように。自分の敵を祝福しなさい、呪うのではなく。貧しき聖者に手を差し伸べて助け、旅人をもてなしなさい。これらのことに努めなさい。身分の高い人とではなく、低い人とこそ交わり、自分は賢いと自惚れることがないように。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ロマ12:15)
 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ロマ12:17)
 あなた方は平和に暮らしなさい。厭う者への復讐など企んだり、ましてや実行したりしないように。復讐は神の領分です。復讐はすべて神の怒りに委ねなさい。代わりに、もしあなたの敵が飢えて苦しんでいたら、食べさせなさい。渇いていたら、飲ませなさい。それは燃える炭火を相手に積むのにも等しい。
 わたしの兄弟たちよ、悪に負けるな。欲望に屈するな。過去の感情に囚われるな。ただ善を以て悪に打ち勝つのです。

 〈前夜〉でもいうたことですが、わたくしが「ローマの信徒への手紙」でいちばん共感し、いちばん好むのが第12章であります。一旦立ち止まって考えて熟考玩味して、ああわかるな、というのではなく、一読してすぐにこちらの心のひだを通って内奥にまで達した、数少ない文言がここには2箇所もありました。それが引用したロマ12:15と同17であります。
 そうして本章から「ローマの信徒への手紙」は新しいパートに入ってゆくこと、昨日述べた通りであります。ここから後はいままで語られた信仰による義、隣人愛に総括されるパウロ神学を生活、行動へ反映させてゆくのです。
 すくなくとも非キリスト者であるわたくしなどには第12章以後の方がわかりやすく、個人的には以後こそ重要な内容であり、殆ど唯一無二というてよい価値を持つのです。ここに書かれた言葉をわたくしは支えと思い、道標と思い、また、戒めとして、心に深く刻んで忘れぬようにしようと思います。

 本日の旧約聖書はロマ12:19と申32:35、ロマ12:20と箴25:21-22。



 さすがに7年も同じ聖書をほぼ毎日開き、家の外に出るときは旅行を除いて必ずというてよいぐらい持ち出していると、相応にくたびれてきて、ノドからページが剥がれかけてきたり、破れて表紙と本体がサヨナラしていたり、あたら今日までの歳月と酷使(か?)を思うて嗟嘆する。本ブログ完結時にはわが聖書、もしや崩壊しているのではないか。
 というわけで、聖書の読書が終わったら同じ新共同訳の聖書を新しくもう1冊、買い直すことに決めました。横組み、旧約聖書続編附きであるのは勿論であります。これにどうしたって馴染んでいますからね。
 その日が訪れたらば、生田先生のフランス俗語辞典の顰みに倣うわけではないが、ねんごろに感謝しつつブログ原稿執筆の伴侶であった新共同訳聖書は書架の一隅に収まって休んでいただくことにしましょう。
 ああ、本心を告白すれば、あの子が使っていた聖書が欲しいなぁ……。◆


-15/11/09 20:56 +29

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第2088日目 〈ローマの信徒への手紙第11章:〈イスラエルの残りの者〉、〈異邦人の救い〉&〈イスラエルの再興〉with映画館の限定上映について一言、二言。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第11章です。

 ロマ11:1-10〈イスラエルの残りの者〉
 兄弟たちよ。神は自分の民を見捨てたのでしょうか。否。前もって選んでおいた民を、神は見捨てたりしませんでした。退けたりしませんでした。
 かつてエリヤは神にこう訴えました。(北王国)イスラエルの民はあなたの預言者を殺し、主の祭壇を壊し、わたしだけが残されました。そのわたしもかれらに命を狙われています、と。それについて神は、わたしはバアル神にひざまずかなかった者を7,000人残した、と答えました。
 いまも恵みによって残された者たちがおります。その者たちが残ったのが行いによってでないならば、恵みによるものでしかありません。そうでなければ、恵みはもはや恵みでなくなってしまいます。
 どういうことか、おわかりでしょう。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。いい換えれば、選ばれなかった者は頑なだったのです。モーセがイスラエルの全会衆を前に語ったように、また預言者イザヤがその書のなかで述べたように、神は自分を拒む者に鈍い心と見えない目を──永劫に──与えたのです。ダビデもある詩篇のなかで、同様なことをいっています。

 ロマ11:11-24〈異邦人の救い〉
 兄弟たちよ、お訊ねします。ではユダヤ人がつまずいたというのは即ち倒れたということなのでしょうか。否。そうではありません。「かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」(ロマ11:11-12)
 ──わたしパウロはあなた方異邦人のための使徒なので、あなた方へこうしたことを申しあげることについてとても光栄に思うのです。──
 そこであなた方異邦人へお話ししましょう。わたしはどうにかして同胞の間に妬みを掻き立てて、そのなかからわずか数人であったとしても救うべきを救いたいのです。世界の和解のためにかれらが捨てられるならば、かれらが受け入れられることは死者のなかからの命でなくていったい何でありましょうか。
 喩え話をしましょう。或る枝が折られて、代わりに野性のオリーブが接ぎ木されて根から豊かな養分を受けるようになったとします。野性のオリーブとはあなた方の誰かです。根からの養分を受けて育ったとしても、折られた枝に対して誇るようなことがあってはなりません。あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているからです。
 枝が折られたのは自分が接ぎ木されるためである。おそらくおあなたはそういうでしょう。まさにその通りなのです、──
 「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。」(ロマ11:20-23)
 もしあなたがそこらに野性するオリーブで、接ぎ木されて、元からあった他の枝同様に育つのだとしたら、元々あって折られた枝ならどれ程容易く接ぎ木できることでしょうか。

 ロマ11:25-36〈イスラエルの再興〉
 一部のイスラエル人が頑なにされているのは、すべての異邦人が救われるまでの間です。異邦人がすべて救われるとき、全イスラエルも救われるのです。預言者イザヤの言葉の通りに。
 「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(ロマ11:28-32)
 ──
 おお、神の知恵と知識と富の、なんと深いことでありましょう。いったい誰に、神の定めを極め尽くしたり、神の道を正しく理解し尽くせるというのでしょう。いったい誰が主の心を知り、相談相手になれたというのでしょうか。誰がまず主に与えてその報いを受けるのでありましょうか。
 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ロマ11:36)

 本章を以て「ローマの信徒への手紙」の1つのパートが終わりました。信仰による義と救い。専らこれらについてパウロは熱を帯びた、勢いの保たれた筆で、ローマの兄弟たちに向かって説き、説き、そうして説きまくった。わたくしなぞは非キリスト者だから表面を上撫でできたに過ぎぬが、敬虔なる者らが読めば、ここで触れた以上のことが確認できるはずです。また、自分の信仰にフィードバックされて、きっと<なにか>を得ることでありましょう。
 次の第12章から第15章までは本章までに語られた神学に基づいたキリスト者としてのあるべき生活、あるべき態度/姿勢について綴られてゆきます。
 改めて本章を読み返すと一読してすぐの理解は難しいところですが、こうして原稿を書きながら顧みると、ようわからぬながらも読後感はすこぶる清廉で希望に彩られたものとなるのでありました。
 ロマ11:2に出るエリヤは北王国イスラエルに在ってアハブ王とアハズヤ王の御代に活動が報告された、旧約聖書最大級の預言者の1人。聖書に名前が記録される預言者の過半が南王国ユダにて活動したため、北王国イスラエルを活動舞台にする預言者は少ない。エリヤとその後任エリシャ、12小預言者のアモスとホセア、計4人を数えるのみであります。
 かれの最期は列下2:11で「火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」とあるように、決して「死んだ」とは書かれませんでした。ゆえにエリヤは創5:24でアダムの子孫エノクと同じように、生きたまま天に上げられ、いつしかメシアとして遣わされる存在と信じられるようになった。イエスがゴルゴタの丘で磔刑になったとき、息を引き取る直前に「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と有名な言葉を洩らしましたが、その様子を見ていた人々が聞き間違えて、あいつはエリヤを呼んでいるんだ、と囁き交わしたことはマコ15:35-36で見た通りであります。
 ロマ11:3でパウロが引用したエリヤの台詞、それに対する神の答えを、その前後も含めて「列王記・上」第19章から書き写しておきます。(12)は第12節の意味であります、──
 「(12)地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。(13)それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』(14)エリヤは答えた。『わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。』(15)主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。(16)ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。(17)ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。(18しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。)』」

 本日の旧約聖書はロマ11:3と王上19:10及び14、ロマ11:4と王上19:18、ロマ11:8と申29:3及び申29:3並びにイザ29:10、ロマ11:9-10と詩69:23-24、ロマ11:26-27とイザ59:20-21、ロマ11:34とイザ40:13、ロマ11:35とヨブ41:3。



 地元に何軒もある映画館のポスターやスケジュール、或いはHPを見ていると、幾つもの思いが浮かんでくるのである。いまはこれだけ、──
 観たい映画が何本も重なるときもあれば、1本も観たい映画が見当たらないときもある。いまはまさに前者。一刻も早く観に行かねばならぬのは、『WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT』と『ガンダム THE ORIGIN Ⅱ 哀しみのアルテイシア』だ。どうしてかというと期間限定の上映と聞いているからである。小劇場で上映される『3泊4日、5時の鐘』も、おそらくは早々に上映終了となることだろう。
 また、良作は常に鑑賞のタイミングを逸しがちだ。METの《イル・トロヴァトーレ》がそうだ。1週間しか上映しない、なんてやめてくれよ。会社員は午前11時から映画を観ることが難しいんだ。休みの日なら行けるでしょう、と仰る方もおられようし、事実行けるのだが、上映時間に間に合うことはできてもたぶん途中でぐっすり寝るね。東京の映画館のように夕方からの上映なら特に問題はないのだが……。ブ○ク○3よ、1週間上映というスケジュールが動かせぬなら、せめてレイトショーにでも移行してくれ。
 さて、明日は仕事帰りになにを観に行こうかな。◆


-15/11/09 20:51 +32

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第2087日目 〈ローマの信徒への手紙第10章2/2:〈万人の救い〉with『スター・ウォーズ』エピソード7の予告映像を観て。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第10章2/2です。

 ロマ10:5-21〈万人の救い〉
 モーセ曰く、律法による義とは掟を守り、掟によって生きることを指します。一方で信仰による義については、種々例証を挙げた後に「御言葉はあなたのごく近くにあり、口と心ににあるのだから、それを行うことができる」(申30:14)というております。
 御言葉はあなたのとても近くに、あなたの口と心のなかにある──これこそがわれらが宣べ伝える信仰の言葉なのであります。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ロマ10:10)
 神の前にユダヤ人や異邦人の区別はありません。神はすべての人の上にいるのです。そうして自分を呼び求める者の声に応えて、豊かな恵みを与えてくれるのです。かつて預言者ヨエルがいうたように、主の名を呼び求める者は誰もが救われるのであります。
 ところで、信じたことのない方を呼び求め、聞いたことのない方を信じることが、いったいどうしてできましょう。宣べ伝える者なくしてどうして聞く者があろう。福音のために遣わされる者なくしてどうして宣べ伝えることができるでしょう。
 残念ながらすべての人が福音に従ったわけではありません。信仰とはキリストの言葉を聞くことから始まるのです。実際のところ、福音に従わなかった人々もキリストの言葉は耳にしていました。詩篇に、「その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」(詩19:5)とあるように。
 ではイスラエルにはこのことがわからなかったのでしょうか。そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれません。が、モーセはイスラエルの全会衆に向けた歌のなかで触れ、また預言者イザヤもその書のなかで述べたように、主なる神は尋ねなかった者に見出され、探さなかった者へ自分を現したのです。
 その一方で神は、不従順なイスラエルへ一刻の休みなく手を差し伸べ続けたのでした。

 義は信仰によってのみ、という主張をもう一歩推し進めたのが本日の所であるように思います。神の前に平等というキリスト教の理念はロマ10:10の、人は心で信じて義とされ、口から出る言葉によって救われる、というパウロの信念から芽吹いたものでありましょうね。
 「ローマの信徒への手紙」は一筋縄ではいかない書物であり、読書は他のパウロ書簡を済ませてからにすればよかったな、そうすればもうちょっと理解は易くなっていたのではあるまいか、なんていう後悔と反省の気持ちがわずかなりともあるのですが、折々に文脈や神学とは切り離されても心に響く言葉に出会うので、こうしてようわからぬながらも読み進める報いはじゅうぶんにあるわけです。すくなくともこれが読書のモチベーションの1つになっていることは否定できません。

 本日の旧約聖書はロマ10:5とレビ18:5、ロマ10:6-8と申30:12-14、ロマ10:13とヨエ3:5、ロマ10:15とイザ52:7、ロマ10:16とイザ53:1、ロマ10:18と詩19:5、ロマ10:19と申32:31、ロマ10:20とイザ65:1、ロマ10:21とイザ65:2。



 徐々に『スター・ウォーズ』エピソード7の予告映像が公開されてきています。子供の頃からSWを愛し、これに或る程度までは人生を狂わされ、支配されてきたわたくしは、新たな予告映像をインターネットで観るたびごとに興奮すること頻りで、たった30秒の映像と雖も繰り返し観て1時間は保つと自負できるのでありますが、最近「ちょっと待てよ、これなんか可笑しくない?」と思うようになったのであります。
 わたくしの気のせい若しくは見落としであれば済むのだが、どうして宇宙空間の映像が1コマも出てこないんだ? 今度のエピソード7は地上と屋内でばかり物語が進み、宇宙空間なんて精々が恒例の冒頭のテロップぐらいなんですよ、えへ、っていうJ.J.エイブラムスの茶目っ気が炸裂した作品であるのか!?
 そんなSW、いらない。そんなSWが出て来たら、世も末だぜ(とうの昔に末ってるけどな)。だってミレニアム・ファルコンが砂漠の上を、ばびゅーん、って飛んでる場面がいちばん印象に残る映像なんだもん。宇宙空間はどこにあるのさ? そういえばコクピットらしき場面の後ろの方に黒っぽい空間が見えたような気がするけれど、それだけじゃぁ映像処理がされていない未完成フィルムなのか、どうかわからぬではないか。ぷんぷん、である。
 まぁ、ふざけた話はともかく。
 SWに宇宙空間での戦闘場面は必須である。それを予告映像に用いないのはきっと、完璧な場面を作り出すためにスタッフが奮闘してるからであって、それが<たまたま>予告映像の制作に間に合わなかっただけに相違ない。或いはファンの期待を煽るための戦略か。いずれにせよ、「知りたくば映画館へ行こう!」ということなのでしょう。
 われらは、映画館でワクワクしながら新しいSWを観る愉しみが、これでまた1つ増えた、と思えばよいのである。わかっちゃぁいるが──ああ、公開まであと1ヶ月半か……長いなぁ……。◆


-15/11/09 20:42 +48

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第2086日目 〈ローマの信徒への手紙第9章&第10章1/2:〈イスラエルの選び〉、〈イスラエルと福音〉他with<土屋太鳳は毬江役にぴったりですね及びその他の話題〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第9章と第10章1/2です。

 ロマ9:1-18〈イスラエルの選び〉
 キリストに結ばれた者として、わたしは真実を語る。偽りは口にしない。わたしには深い悲しみがある。心には絶え間ない痛みがある。わたしの良心が聖霊によって証ししてくれることでも、それはわかります。
 わたし自身、兄弟たち即ち肉による同胞のためならば、キリストに厭われても構いませんし、離されることも覚悟しています。
 かれらはイスラエルの民であります。神の子としての身分や栄光、契約、約束、礼拝、それから律法はイスラエルの民のもの。が、イスラエルから出た者が皆イスラエル人というわけではなく、アブラハムの子孫だからとて皆がその子供というわけではありません。かつて神がアブラハムに告げた言葉(来年のいま頃わたしはここに戻ってくるが、その頃あなたの妻サラは男の子を生んでいる)からもわかるように、「肉による子供が神の子供なのではなく、約束によって生まれる子供が子孫と見なされるのです。」(ロマ9:8)
 また、その子イサクが長じてリベカを娶り、なかなか懐妊しない彼女のために祈った結果、子を授かるにあたって神に告げられた言葉の通り(兄は弟に仕える)、2人の長子エサウは弟ヤコブの下に従く者となったのでした。
 これらのことが明らかにするのは、自由な選びによる神の計画が神自らによって進められるのだ、ということです。神の不義ゆえではありません。既に神は出エジプト後のモーセに、わたしは憐れむ者を憐れみ、慈しむ者を慈しむ、というています。人の行いによってではなく、神の憐れみ、神の慈しみによって事は為されるのです。ファラオの存在も偏に神が御名と御業を全世界へあまねく知らしめるためでしかありませんでした。
 「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ロマ9:18)

 ロマ9:19-29〈神の怒りと憐れみ〉
 「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(ロマ9:22-24)
 このことは預言者ホセアの書にも記されています。
 また、預言者イザヤはイスラエルについて、その数は浜辺の真砂の如くになろうとも、神はその残りの者を救う、しかも神は地上に於いてすみやかにそれを実行する、と述べています。そのことはイザヤ自身、その書のなかで告げている通りなのです。曰く、もし万軍の主がわれらのためにわずかでも生存者/子孫を残してくれなかったら、われらはソドムのように、ゴモラのようになっていたことであろう、と。

 ロマ9:30-10:4〈イスラエルと福音〉
 結局のところ、義を求めなかった異邦人が義とされ、信仰による義を得たのです。一方でイスラエルは義の律法を追求したにもかかわらず、否、追求したがゆえにこそ、その律法に到達することができませんでした。どうしてでしょう? それは、信仰によってではなく、行いによってこそ律法へ達することができる、と考えたからであります。つまり、預言者イザヤもいうたように、かれらは躓きの石に躓き、妨げの岩に妨げられたのです。
 イスラエルは熱心に神に仕えています。が、誤った認識に基づいて仕えている。かれらは神の義を知らない。自分の義を求めて神の義に従おうとしなかったからであります。
 「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ロマ10:4)

 わたしには深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがある、とパウロはいう。創作なのか、本音なのか、すこぶる判然としませんが、本書簡には珍しくパウロの人間らしさが垣間見える瞬間でありますね。かれが自分の胸の内を他に明かしたのは、ローマ行きの希望を述べ、本書簡の執筆の契機や背景を津宛てた箇所ぐらいです(ロマ1:9-15,15:22-29)。それだけにここは、続く同胞のためならキリストから離れたって構わぬ、と啖呵を切るところと併せて、読後妙に印象の残る箇所となっているのであります。
 神の言葉は決して効力を失っていない、と前置きした上で、パウロはアブラハムとイサクの子供が生まれる以前、神がかれらへ告げた言葉を例にして、神の子たるの証しは行いによってではなく約束によってである、と説きます。前章で触れた予定説の補強というてよいと思いますが、ここではすこし視点を変えて神の憐れみや怒り、異邦人の信仰による義といった話題も交えて、より普遍的なお話としてパウロは持論を発展させているようであります。憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ──モーセへの神の言葉はパウロにとって、わが思うところの正しさの拠り所となったのではないでしょうか。
 本章は第8章と並んで、「ローマの信徒への手紙」の中核を為すというてよいはずであります。

 本日の旧約聖書はロマ9:7と創21:12、ロマ9:9と創18:10及び14、ロマ9:11と創25:23、ロマ9:13とマラ1:2-3、ロマ9:15と出33:19、ロマ9:17と出9:16、ロマ9:25とホセ2:25、ロマ9:26とホセ2:1、ロマ9:27-28とイザ10:22-23、ロマ9:29とイザ1:9、ロマ9:33aとイザ8:14、ロマ9:33bとイザ28:16。



 録画しておいた『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』を観ていたら、……確かに土屋太鳳は毬江ちゃん役に最適な女優さんやな、と思いました。まだ朝ドラ放送中に本作のアナウンスがされたときは、双方のイメージが結びつかず、「え?」と小首を傾げましたが、今回放送された完成品を観て、つくづく自分の誤った思いこみに反省させられました……。
 閑話休題。
 『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』を観ていたら、なぜだか急に『レインツリーの国』の単行本が欲しくなりました。文庫で持っていて、何度も読み返している有川浩の作品中いちばん愛着のある小説なのだが、ほら、堀北真希もいうように、好きな作品は単行本でも文庫本でも持っていたい、という気持ちの表れですよ。有川作品中、好きな作品は幾つもあれど、文庫本だけでなく単行本も(できれば帯附きで)手元に置いておきたい、と願うたのは、いまのところこの『レインツリーの国』だけでありますよ。
 まぁ、『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』に於いて大きな意味を持つアイテムとなる『ネムノキに降る雨』のオリジナルが『レインツリーの国』だから、という単純な理由もあるにはありますが。──願いはいつ、どのような形で発露するか、そんなことは誰にもわからない、ということでありましょう。
 こっそりといわせてもらえば、タイトルが『ネムノキに降る雨』に変更された表紙カバーも欲しいけれど、これは関係者にツテがなかったり、偶然オークションに出ている場面に遭遇してお金に糸目をつけずに落札するぐらいの勢いと覚悟がないと駄目でしょうけれど、ね。
 ──斯くしてわたくしは翌日からブックオフや古本屋を訪ねて『レインツリーの国』の単行本を探すことになりました。が、どこにも見当たらない、という事態に遭遇して困っております。どうしてだろう、と考える必要はない。かつてドラマ『ビブリア古書堂の事件手帖』で取り挙げられた本が放送直後に売り切れたのと同じ事態が、このときも発生したのであります。放送前はブックオフでも数冊は転がっていたものだがなぁ……。いまの『猫旅レポート』や『キャロリング』みたいにね。というわけで、どなたか帯附き美品の『レインツリーの国』単行本をお恵みくださいませ。えへ。◆


-15/11/08 23:15 +42

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第2084日目 〈ローマの信徒への手紙第8章2/2:〈将来の栄光〉&〈神の愛〉with結婚式に出席したせいなのかな、なんだか近頃……、〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第8章2/2です。

 ロマ8:18-30〈将来の栄光〉
 将来われらに与えられるはずの栄光を思えば、現在の苦しみなどいったいどれ程のものでありましょう。
 人間以外の造られたもの、被造物は、神の子らの現れることを切に待ち望んでいます。そう、被造物も希望を持っているのです。いつか滅びの自由から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあやかれるから。この被造物が今日に至るまで、共に呻き、産褥の苦しみを味わっていることを、われらは知っています。
 「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ロマ8:23-25)
 そうして“霊”は弱いわれらをも助けてくれます。祈りを知らずとも“霊”が言葉では表現できない呻きを以て執り成してくれるからです。この“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくれます。
 ──神は前もって知っていた者たちを御子の姿に似せようと、はじめから決めていました。それは御子を自分の長子にするという計画のためです。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ロマ8:30)

 ロマ8:31-39〈神の愛〉
 兄弟たちよ、どうぞ考えてみてください。
 もし神が自分たちの味方であったなら、果たして誰がわたしたちに敵対できるでしょう。われらのために御子を、ためらいなく死に渡された神が、われらへ御子と一緒にすべてのものを賜らないということがありましょうか。
 果たして誰が、神に選ばれた者たちを訴え、罪に定めることができましょう。
 いったい誰が、キリストの愛からわれらを引き離すことができるでしょう。それは艱難でしょうか、或いは死でしょうか。迫害なのでしょうか。でなければ、飢えなのか、裸なのか、危険なのか、剣なのか──。が、これらに対してわれらは既に、われらを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めているのです。
 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ8:38-39)

 予定説(二重予定説とも)という考えが宗教改革の時代、ジャン・カルヴァンによって提唱され、カルヴァン神学の中心教義となりました。
 勿論「予定説」とはなにか、ということですが、あらかじめ神により決められていた者だけが救われ、他の者はかりに神を求めたとしても救済には与らない、という考えです。見方を変えれば相当に不公平で、残酷なこの「予定説」の発端というか根拠が、引用したロマ8:(29-)30であるのです。
 たしかに表面上は不公平ではないか、と抗議の一言もあげたくなる。冗談じゃぁない、といいたくもなる。が、実はこれはパウロの神学的には当然の帰結でありまして、神を求めてなお救済されない者は、口では「わたしは神を信じています」と曰うても実際のところはなに一つ神の恵みへ与ることはしてこなかった者なのですから、救われる者と堕とされる者が分けられるのはじゅうぶん納得のゆく話なのであります。
 もっとも、そこに「あらかじめ」とあるのがミソで、この点こそが予定説の要となる。即ち、人間は生まれる前からこの世での活動一切が決定されており、神にはそれが当然わかっているからこそ<あらかじめ>救う者と堕とす者を選別している次第なのです。換言すれば、この世に現れた人間はゆりかごから墓場までの期間を既に決定された道に従って歩くだけの、既に決められていた役を演じるだけの、マリオネットの如き存在に過ぎぬということにもなりましょう。
 荷が重いことはじゅうぶんに承知しておりますが、もっとこのことを勉強して理解が深まり、自身の考えを持つことができたら、「予定説」について一編の文章を書いてみたいですね。前後して宗教改革小史やカルヴァン、カルヴァン神学などに関しても一編を認める必要がありそうですけれど……。われながら大風呂敷を広げたものであります。呵々。

 本日の旧約聖書はロマ8:36と詩44:23。



 なんだか最近ね、ああ結婚したいなぁ、しようかなぁ、と思うの。でも、故人とはいえ婚約者の誕生日直前にこんなこと、不謹慎かつ非道だよね。反省。◆

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第2083日目 〈ローマの信徒への手紙第8章1/2:〈霊による命〉with自分を卑下したり、貶めないようにしよう。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第8章1/2です。

 ロマ8:1-17〈霊による命〉
 キリストの結ばれた者は罪に問われることが最早ありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、その人を──キリストに結ばれたあなたを罪と死の法則から解放したためです。肉の弱さゆえに律法が果たすことのできなかったことを、神はしてくれたのです。われらに模した御子をこの世に誕生させ、罪を贖う犠牲(サクリファイス)として処断したのは、その出来事によってわれらの内に律法の要求が満たされるためでした。
 肉の思いに従う者は肉に属することを考え、神に敵対し、神の律法に従ってはいません。そういう者が──肉の支配下にある者が、どうして神に喜ばれるでしょう。霊の思いに従う人は、霊に属することを考えるのです。
 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ8:9-11)
 ──霊によって肉の思いを断つ人は生きるのです。──
 兄弟たちよ、覚えておいてください。神の霊によって導かれる人は皆神の子です。自分たちを神の子とする霊を、あなた方は授かった。そうしてこの霊こそがあなたたちの霊と一緒になって、あなた方が神の子供であることを証ししてくれるのです。
 子供ならば相続人です。それはつまり、キリストを共同相続人とした神の相続人ということです。苦しみがキリストと共にある以上、栄光もキリストと共にあるのです。忘れないでください。

 神の霊を受けた人は皆すべからく神の子であり、キリストを共同相続人とした神の相続人である! このメッセージは当時のローマ教会の人々の胸にどう響いたことだろう。なかなかに希望にあふれ、信仰と自身を持たせるものに思うたのではないか。
 パウロの文章は翻訳で読んでいても一筋縄ではゆかぬものだけれど、そのときどきの論旨は意外とシンプルで、表現もストレートであることが多い。わたくしは本章の読書でそんな印象を新たにしました。こんな風に思想や主張が一言で表現されるのに接するとなんだか小泉元首相の<ワンフレーズ・ポリティクス>を想起します。パウロはスピーチライター、コピーライターの先駆け的人物でもあったかもしれませんね。
 私用により第8章は2日に分けて読むことになります。ご了承ください。



 今日は朝から小さなネガティヴ事が続きました。仕事が終わっていつものスタバにて本稿を書いているいま、荒んではいないが鬱屈はしている。そんな所以で、すこし生活を慎もうと思います。自己自重しなくては。◆

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第2081日目 〈ローマの信徒への手紙第7章:〈結婚の比喩〉&〈内在する罪の問題〉withむかしの作品が亡霊となって立ち現れ、わたくしを苛むこと。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第7章です。

 ロマ7:1-6〈結婚の比喩〉
 律法は生きている人間に対してのみ有効です。結婚で喩えましょう。妻は夫が生きている限り、律法に支配されています。が、夫が死ねば妻は律法から解放されるのです。
 あなた方はいま、キリストに結ばれて生き、律法に対しては死んだ者となっています。それは死者のなかから復活した方のものとなったことで、神に対して実りを結ぶ存在となったからであります。
 「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ロマ7:5-6)

 ロマ7:7-25〈内在する罪の問題〉
 律法それ自体は罪ではありません。が、わたしは律法によって罪を知りました。律法はわれらの生活を規定し、神の目に正しいと映ることは何か、神の前に義とされることはなにか、或いはどういうことをしてはいけないか、を教えます。裏を返せば、してはいけないことをすれば、もしくは神の目に悪と映ることをすれば、それは罪を犯したことにあるのです。律法によって罪を知るとは、実にそういうことなのであります。
 また、律法は規約でありますから、規約によって罪が罪と定められなければ、何人と雖も罪を罪と認識することはありませんでした。律法によって罪はその足掛かりを得て、われらの内にあらゆる<貪り>、<他に属する物や人をわがものにしたいと欲する願望>を生んだのです。が、わたしは──かつては律法とは関わりなしに生きてきたのに、掟が登場したことで罪は生き返り、と共にわたしは死にました。それは同時に、命を与えるはずの律法が死を招くものであることを知ったときでもあったのです。
 「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」(ロマ7:12-13)
 咨、わたしは自分がしていることがわかりません。望んでいることは実行せず、望んでいないことを実行する。わたしの肉に善は住んでいない。望む善は実行せず、望んでいない善を実行している。善を行う意思はあっても、実行できない。自分で望まないことをしているとすれば、それを行っているのは最早わたしではなく、わたしの内に巣喰う罪なのです。おお!
 「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」(ロマ7:21-24)
 「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ロマ7:25)
 こんなわたしをいったいだれが救ってくれるでしょう──わたしはイエス・キリストを通して神に感謝します。

 律法は社会規範を確かなものとし、人間の生活を正しいものへ導く。そうした点で律法は聖なるものであります。しかしなににも二面性がある以上、律法は不正と不義と不道徳を教えもします。パウロが本章後半で言葉を尽くして説くのは、そうした点を明らかにせんがためでした。が、これを把握してそれを頼りに分け入ってゆけば、難解と映るロマ7:7-25〈内在する罪の問題〉を読んで内容がわかるようになることは、ずいぶんと容易なことではないのか、と思うのであります。自分の体験に照らし合わせての発言を、敢えてさせていただきました。
 そのままの引用こそ控えたものの、ロマ7:20「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」は、今日のわれらの行いにも、じゅうぶんに通用する告白である、とわたくしは申しあげましょう。

 本日の旧約聖書はロマ7:6と出24:12、ロマ7:7と出20:17及び申5:21。



 やはりわたくしも艶笑小説へ手を染めたことがある。学生の時分だったな。或る出会いを契機に国内のものでは『四畳半襖の下張り』や『長枕褥合戦』、『藐姑射秘事』を、海外のものでは『歌姫の告白』や『仮面舞踏会の夜』を、専ら耽読して風狂に淫し、その結果として自分も擬古文を更に模倣した文章で『艶戯色乃乱玲』てふのを書いた。
 この前の休みの日の昼、過去に書いた原稿をしまった段ボール箱を発掘、軒並み点検していたら、まさにこの作品が出て来たのには相当赤面、そのまま七転八倒した。文章は勿論拙くて自分以外の誰にも公開はできないけれど、読み返すち執筆当時のあれこれが思い出されて長く長く嗟嘆するより仕方なく。ここに描いた人々は実在する。内1人の行為を描いた後半は、ほぼノンフィクションだ。
 そこにはとても儚く、壊れやすい時代の記憶が封印されていた。わたくしは──あれから4半世紀が経過したいまにして思う──いったいなんてものを書いてしまったのだろう。これだけは、生きている間にこの世から抹殺してあの人を守り、わが血だらけの魂に久遠の安息を与えてやらねばならぬ。さもないと、「やがて裁きの座が開かれ/彼はその権威を奪われ/滅ぼされ、絶やされて終わる」(ダニ7:26)ことだろう!◆

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第2080日目 〈ローマの信徒への手紙第6章:〈罪に死に、キリストに生きる〉&〈義の奴隷〉withちかごろのわたくしのSKE48観。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第6章です。

 ロマ6:1-14〈罪に死に、キリストに生きる〉
 では、われらは恵みを増すために罪のなかへ留まるべきなのでしょうか。否、断じてそうではありません。罪に対して死んだわれらがどうして、なおも罪のなかに生きることができましょう。
 われらは洗礼によってイエス・キリストに結ばれ、その死に与るため(われらも)洗礼を受けたのです。死者のなかからキリストが復活したように、われらも罪の固まりであった体を死なせて新しい命を得て生きるようになったのです。われらがキリストと一体になってその死の姿にあやかることができるなら、われらはキリストの復活の姿にもあやかれることでしょう。
 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。」(ロマ6:6-7)
 キリストと共に死んだ者はキリストと共に生きる。あなた方はこのことを信じて、忘れてはなりません。あなた方は罪に対して死んだが、いまやイエス・キリストに結ばれて、神に対して生きることを知りなさい。
 「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」(ロマ6:12-14)

 ロマ6:15-23〈義の奴隷〉
 われらはたしかに律法の下ではなく、恵みの下におります。が、だからというて罪を犯してよい、というわけではありません。
 奴隷となった者はその従う人の奴隷であります。どういうことでしょうか。「つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ロマ6:16)
 咨、あなた方はかつては罪に従う奴隷でした。が、いまは伝えられた(キリストの)教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放されて義に仕えるようになりました。わたしはこのことを神に感謝します。
 「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:20-23)

 第3章からパウロが話題としてきた「義」の問題は、本章にてひとまずの結論へ至りました。律法から離れて信仰によって義とされる、というパウロの主張はここに(一応の)結実を見せた。弁解めいて恐縮ですが、今日引用した箇所はことごとくこの「信仰による義」についての統括として機能し、その思想を凝縮させた重量感ある文章と思うのであります。
 パウロ流の修辞が炸裂しているため、なかなか一筋縄ではゆかぬ点は本章とて例外ではない。とはいえ、さすがに1週間読んできてややカンが鋭くなったのか、相応に働くようになったのか、或いはただ単にパウロの弁証法に馴らされただけなのか、われながら定かでないけれど、すくなくとも本章に関してはそう労することなく、パウロはこういうことをいいたいのだな、と察し得て、結果小一時間で本稿を仕上げられたことである。まさに<読書百遍、……>でありますね。



 SKE48/AKB48の松井珠理奈が今月21日、総合プロデューサーと次期総監督立ち会いのなかで、今後の活動にかかわる重大発表を行うという。もはや気持ちがだいぶSKE48から離れてしまっているので、その発表の内容がどんなものであろうとさほど驚く気分ではないのが本音。総大将玲奈ひょんの卒業にくらべれば……。
 近所のTSUTAYAが閉店するので半額で叩き売られている音楽CDの山のなかから、SKE48のアルバム《この日のチャイムを忘れない》初回特典盤を購入してきた。これを歴史の前期とすれば、現在は後期(中期?)ということになろうが、爾後の歌で自分のなかに残るシングル曲は5曲だけ。リリースされたうちのちょうど半分である。更にシングルCD或いは音源DLで購入したのはわずかに3曲という為体。われながら潮が引いた、という実感を抱くね。
 世代交代、次世代エース、7D2と騒がれながらも楽曲やダンス、メンバー、PVにさしたる新味は見受けられず、この間SKE48はむしろ安逸なる停滞に甘んじているように映り、為に突然の卒業発表に震撼してすぐにその状況に「ああ、またですか」と納得できてしまう、負のデフレ・スパイラルというよりない構造を生み出している──ちかごろのわたくしのSKE48観である。
 でも、「12月のカンガルー」は良かったな。松井珠理奈と松井玲奈というW松井から宮前杏実と北川綾巴をダブル・センターに起用したものだが、どうして運営側やレコード会社はこの路線を推し進めてくれなかったのだろう。数字とかいろいろ理由はあるのだろうけれど、緩やかに改革を継続してゆけばスムースな世代交代が、新戦力の育成がされていったことであろうが、蓋を開けてみれば次の「コケティッシュ渋滞中」ではW松井のセンター曲に戻ってしまった。これではせっかくの人材を捨て駒にしたようなものである。『ガンダム』に於けるランバ・ラル的な? そう、まさにその比喩がぴったり!
 「不器用太陽」、「前のめり」と好きな作品はその後も続くが、いずれにも相応の話題性があって、果たして純粋に作品で勝負できたのか怪しいところである。今後、回顧屋に等しいわたくしの琴線に触れるような作品と出会える気は、まるでしないのだ。もちろん、出会いはあるまい、と申し述べる根本には、わたくしの側に一切の問題があることを否定はしない。
 そうだなぁ……古畑奈和のサックス、東李苑のピアノで、アイドルのCDとしては実験的かつ冒険的な、たとえばヤン・ガルバレクを彷彿とさせるアルバムを1枚作ってくれたら、喜んで買うだろうけれどね。むろん、レヴューだってします。無理だろうけれど、聴いてみたい。◆

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第2079日目 〈ローマの信徒への手紙第5章:〈信仰によって義とされて〉&〈アダムとキリスト〉with村上春樹の新しい紀行文集『ラオスにいったい何があるというんですか?』が出るよ!〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第5章です。

 ロマ5:1-11〈信仰によって義とされて〉
 われらは律法によってではなく、信仰によって義とされました。われらはイエス・キリストを仲保者として、神との間に平和を得ています。われらはキリストのお陰で、恵みによる信仰に導かれています。そうして、神の栄光に与る希望を誇りとしています。
 ──まだわれらが弱く、罪人であった頃、不信心な者のためにイエス・キリストは十字架に掛けられて死にました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ5:8)
 われらはキリストの血によって贖われ、義とされました。ゆえにキリストによって神の怒りから救われる。われらがキリストの敵であったときでさえ、イエスの死によってわれらは神と和解することができた。ゆえに御子の命によって救われる。──われらはイエス・キリストを通して(仲保者に立てて)神と和解したのです。

 ロマ5:12-21〈アダムとキリスト〉
 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ロマ5:12)
 罪と死は実にアダムによってもたらされました。律法以前にも罪はあったのですが、罪が罪とされるのは律法の存在ゆえであります。アダムの時代からモーセの時代まで、アダムと同じような違反を犯さなかった人々の上にも死は厳然としてあり、人々を支配しました。来たるべき方を前もって表していたのがアダムだったのです。
 が、恵みの賜物は罪と比較できるものでありません。
 「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」(ロマ5:15)
 裁判に於いては罪を犯せば有罪判決が下ります。が、恵みが働くときは多くの罪があると雖も無罪判決が下るのです。
 「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ロマ5:17)
 顧みれば律法の導入は罪の増加を促しました。が、罪が増えればその分、恵みはなおいっそう満ちあふれたのです。
 「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ロマ5:21)

 三浦綾子は「原罪」をテーマにした小説を幾つも書きました。「原罪」とはなにか。それは神により創造された人類が最初に犯した罪であり、エデンの中心にある知恵の実を神の言い付けに背いて(蛇にそそのかされて)アダムとエバが食べたことであります。アダムの子孫即ち人類はその罪を生まれながらに背負っており、自分の意思ではその罪から自由になれないのでした。
 この原罪について、ロマ5でパウロは自分の考えを述べています。正直、わたくしの手に余った章でもあるのですが、つまりこういうことなのでしょう──人は生まれながらに罪人だけれども、キリストを仲保者として信仰ある者は神との和解を果たしており、神の恵みは信仰の義によって人々を支配している。わたくしはこのように解釈しましたが、勿論まるで見当外れの見解かもしれない。どなたか、心ある方の指摘を待ちたく存じます。。

 本日の旧約聖書はロマ5:12aと創3:6及び19、ロマ5:12bと創2:17。



 今年は村上春樹の新刊が既に2冊(『村上さんのところ』と『職業としての小説家』)も出ており、今月後半には新潮文庫から『雑文集』の刊行が予告されている。何年ぶりかの刊行ラッシュ、ファンとしては嬉しい限り。なかでもわたくしが待ち望んでいたのが、今年後半に刊行を予告されていた紀行文集なのだった。
 そもわたくしは村上春樹をきちんと読むようになったきっかけは、紀行文集『辺境・近境』を手にしてこのような作物を書きたい、と望んだのがきっかけだった。公式な出発点が紀行文集だったためか、わたくしは未だ氏の著作のなかでは紀行文集をもっとも好む。床中の読書、暇つぶしの読書に手を伸ばす頻度も、紀行文集が多くなるのは必定というてよい。
 さて、そんな村上春樹の、紀行文集としては11年ぶりの新作として刊行がアナウンスされているのが、11月21日予定の『ラオスにいったい何があるというんですか?』(文藝春秋)である。
 本書には10編の紀行文が収められる、という。なかでもわたくしが鶴首して待つのは、アイスランドとフィンランドを巡ったときの文章だ。やはり自分が行ったことのある国が俎上に上せられると、この作家はあの国の風物をどのように観察して捉えたのだろう、と気になって気になってならなくなる。過度の期待は禁物だが、それでも否応なしにわたくしは一人勝手に、北欧2国の紀行を読む日を思うてヒートアップしておる。呵々。
 同時に熊本で行われた読書会の文章も気になって仕方ないところだ。『CREA』2015年9月号に載った熊本旅行記(おでかけエッセイ)で触れていた、愛くるしい招き猫がいる、こじんまりしたセレクトショップ的書店で行った小さな小さな読書会(読まれたのは「ヤクルト・スワローズ詩集」なる短編であった、という。スワローズ・ファンクラブの会報に掲載されたものの全文)でのあれこれが、その文章に結実するのであろう。
 いまから愉しみ……さて、これを読むのはいつの日になるかな。◆

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第2078日目 〈ローマの信徒への手紙第4章:〈アブラハムの模範〉&〈信仰によって実現される約束〉with鏡花の復刻本が欲しい。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第4章です。

 ロマ4:1-12〈アブラハムの模範〉
 では、われらが肉の祖、アブラハムはなにを得たでしょう。創世記を読むと、かれは神を信じて為に義とされた、とあります。そうして不信心な者をも義とする方、即ち神を信じる人は、かりに働いていなくても義とされるのです。ダビデは神によって義とされた人の喜びを詩篇に詠んだこともありました。
 ではこの幸いは割礼を受けた者、つまりユダヤ人にだけ与えられるのでしょうか。それとも割礼を受けていない者にも、幸いは与えられるのでしょうか。アブラハムの義が神に認められたのはかれの割礼前のことでしょうか。それとも割礼後だったでしょうか。さよう、それは割礼前のことでした。アブラハムは信仰のゆえに義とされ、義とされたゆえに割礼の印を受けたのです。
 「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」(ロマ4:11-12)

 ロマ4:13-25〈信仰によって実現される約束〉
 神がアブラハムに、かれとその子孫に世界を受け継がせると約束したのは、偏に信仰による義に基づくものでありました。「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。」(ロマ4:14-16)
 律法に頼るだけでなく、かれの信仰に従う者も皆、恵みによって確実に神の約束に与れるのです。かれはわれらすべての父であり、そのことは創世記にて神が、わたしはあなたを多くの民の父と定めた、と書いてある通りなのです。
 アブラハムは死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じました。かれは希望する術も根拠もないときでさえ神を信じ、望みを抱きました。子供を授からないまま高齢になりながらも、かれの信仰は弱まったりしませんでした。
 「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」(ロマ4:20-22)
 ──かれの義が認められた。それは単にアブラハム1人に留まらず、われらへも手向けられる言葉なのです。
 「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ4:24-25)

 パウロは本章にてすべての民の父アブラハムが義とされた所以について説きます。ユダヤ人のみならずすべての民(異邦人)が神により義とされるのは律法、ここでは割礼によってでなく偏に信仰によるものである──パウロは本章にてこの主張を聖書に則って具体的に教えているのです。
 その主張の明確さ、揺るぎなさにはただ頷くより他ないのですが、「ロマ書」第4章を読む際はあらかじめ、創世記第15,17章を読んでおいた方がいいでしょう。下にも挙げるとおり、本章は創世記の2つの章に主張と裏付けを拠っているためであります。

 本日の旧約聖書はロマ4:3と創15:6、ロマ4:7-8と詩37:5、ロマ4:11と創17:10-11及び23-24並びに27、ロマ4:17と創17:4、ロマ4:18と創15:5、ロマ4:22と創15:6。



 県内最大手の新刊書店の本店前で、ときどき古本のワゴンセールをやっている。定期開催なのか未だわからないけれど、出店している店はいつも同じではないらしい。行き合えばかならず覗いて2冊、3冊は買ったりしておる。亀井勝一郎『大和古寺風物誌』の旺文社文庫版や三谷栄一/山本健吉・編『日本文学史事典・古典編』(角川書店)など購入した。
 ここに時折、日本近代文学館が復刻した近代文学の名作が並ぶ。うち、わたくしにとっていちばんの目玉は泉鏡花だ。ここが復刻した鏡花は『高野聖』と『日本橋』以外になく、わたくしもそのワゴンで他を見たことはないが、昔、神保町に通い詰めていた頃、この2作以外の作品が復刻されたものが棚挿しされていたのを見た覚えがあるのだが……。夢かな、幻かな。
 それはともかく、鏡花ファンとしては文庫や全集だけではなくて、こんな復刻本で物語を堪能したい気持ちを持つのである。殊鏡花本は装丁や挿絵などヴィジュアル面でもじゅうぶん鑑賞に値するので、尚更復刻本が欲しくなるのだね。
 もはや鏡花の初版本の蒐集などわたくしには夢物語に等しい。往時の面影を残した復刻本を座右に侍らせ、繙き、物語へ没頭することで、ほんのちょっとだけステップアップした鏡花ファンになれそうな気がするのである。◆

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第2077日目 〈ローマの信徒への手紙第3章:〈ユダヤ人と律法〉2/2、〈正しい者は一人もいない〉&〈信仰による義〉withネタはあるけど原稿はない。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第3章です。

 ロマ3:1-8〈ユダヤ人と律法〉2/2
 ユダヤ人は神の言葉を委ねられました。かりにすべてのユダヤ人が偽り者だったとしても、神は真実な方であるべきです。詩篇の一節にもあるように、人は神の言葉を述べるときに正しいとされ、裁きを受けるときに勝利を得られるからであります。
 が、われらの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうでしょう。人間の論法に従っていえば、怒れる神は正しくないのか。否、怒れる神でなくして如何に世を裁くことができるでしょうか。
 また、わたしが偽ることで神の真実が明らかになり、神の栄光になるのであれば、どうしてわたしはなお罪人として裁かれねばならぬのでしょう。もしそれが通用するなら、善が生じるために悪を為そう、という考えが認められなくてはなりません。違いますか。
 われらのこうした主張を陰に陽に中傷する人々がいますが、連衆が罰を受けるのは至極当然のことといわねばなりません。

 ロマ3:9-20〈正しい者は一人もいない〉
 これらを踏まえた上で、改めて問い掛けましょう。われらの優れている点はどのような点であるのか、ということを。全く、1つとしてそんなものはありません。ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にいるからです。
 正しい者は1人もいないし、善を行う者も1人としていない。かれらは平和の道を知らないし、その目に神への畏れは宿っていない。「彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。/口は、呪いと苦味で満ち、/足は血を流すのに速く、/ その道には破壊と悲惨がある。/彼らは平和の道を知らない。」(ロマ3:13-17)
 律法に記載されている事柄は、律法の下にいる人々に向けられています。偏にそれは人々の口がふさがれて神の裁きに服するようになるためです。律法を実行するだけでは義とされません。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ロマ3:20)

 ロマ3:21-31〈信仰による義〉
 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(ロマ3:21-22)
 人は皆、キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で、見返りを求められることなく義とされます。神はこのキリストを自身とわれらの間に立てて、その血によって信じる者のため<罪を贖う供物>としたのでした。それはこれまでわれらが犯してきた罪を見逃して義を示さんとする神の行為です。神がいまこの時を選んで義を示したのは、自分の正しさを証明して見せ、かつイエスを信じる者を義とするためであります。
 人の誇りは信仰によって明らかとなります。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ロマ3:28)
 神はユダヤ人のみの神にあらず。これを忘れてはなりません。神は異邦人の神でもあるのです。なぜなら神は唯一だから。この神は割礼のある者を信仰ゆえに義とし、また割礼のない者をも信仰ゆえに義とします。
 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのであります。」(ロマ3:31)

 「ロマ書」最初のヤマ場であります。そうしてパウロの論弁もいよいよ好調です。律法をベースとしながらそこからはるかに高い次元で神の義を説き、より普遍的に申して義は信仰による、と喝破してみせます。ここを読んだときの衝撃と感銘、使徒パウロへの尊崇の念、いまでもよく覚えております……。
 最後に引用したロマ3:31については、フランシスコ会訳の訳文と註釈がわかりやすいので、恥も外聞もなく下に引きます、──
 訳「それでは、わたしたちは信仰によって律法を破棄することになるのでしょうか。決してそうではありません。それどころか、わたしたちは律法に真の価値を与えることになるのです。」
 註「神が人間に啓示と律法を与えたのは、結局は、人間の救いのためであった。人間の弱さの故に律法がなしえなかったことは、キリストへの信仰という新しい救いの計らいによって成し遂げられる」(P403)
 ……参照せよ、というロマ8:3-4を併読すると、なるほど、とより深く首肯するのであります。
 フランシスコ会訳聖書の註釈は地理や地勢、歴史の面ではまず頼りにならない、むしろ役立たずだけれど、こうした神学面になると流石の手際の良さを発揮します。
 なお、このフ訳でロマ3:25「罪を贖う供え物」は「贖いの座」と訳されております──。

 本日の旧約聖書はロマ3:4と詩51:6、ロマ3:10-12と詩14:1-3及び53:2-4、ロマ3:13aと詩5:10、ロマ3:13bと詩140:4、ロマ3:14と詩10:7、ロマ3:15-17とイザ59:7-8、ロマ3:18と詩36:2。



 わたくしは本ブログにおまけのようにくっ付いているエッセイやコラム、感想文の類を愛してくれる人を3人、知っている。が、おそらくは本ブログの読者の過半が聖書の箇所はすっ飛ばして、このパートを専らお読みいただいているような気がしてならない。いやはや、なんともありがたい限りだ。
 聖書の箇所は極端な話、消化して文章にすることの困難と疲弊を別にすれば毎日だって書いてゆける。種本は目の前に、堂々と存在しているのだ。それを粛々と消化してゆけばいいだけのことだ。それに引き換え、エッセイはそうもいかない。ネタは約1ヶ月以上をストックしていても、それを毎日毎日、タイ焼きを鉄板の上で焼く人のように一個の文章へ昇華させられるわけでは、残念ながら、ない。ネタだけでは原稿にならないのだ。
 ゆえに今日はエッセイ、休んじゃおうかな、と逃げ道を作ってそこへ退散する準備は怠らない。おい、といわれるかもしれないが、毎日のエッセイ執筆は常に困難の連続なのである。だけれどこんな悩みさえ原稿としてあげてしまう自分は、相当太々しいなぁ、と反省しているが、一向それは収まらぬのだからタチが悪いね。
 おかしいなぁ、以前はあとからあとからネタが湧いてきて、その日のうちに一編の作品となったものだったが。記憶は美化されるし、フィルターも掛けられちゃうから、いつもそうであったかと訊ねられれば、さてどうだったか、と、腕組みして考えこんでしまうのだが、それでも今日のような意味では苦労した覚えがないな。
 日々の出来事を優しく包みこんだ、でも相応にユーモアと毒を盛りこんだエッセイを書いてゆければ、それでじゅうぶんだ。理想は高く、現実は分相応に、でもちょっとだけ背伸びし続けて。そうやって毎日の思いを文章に封じこめられれば、いい。◆

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第2076日目 〈ローマの信徒への手紙第2章:〈神の正しい裁き〉&〈ユダヤ人と律法〉1/2withiPhone6S Plusに機種変更して。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第2章です。

 ロマ2:1-16〈神の正しい裁き〉
 すべて人を裁く者に弁解の余地はありません。かれらは他人を裁いて罪に定めます。が、同時に他人を裁くことで自分を罪に定めてもいるのです。人を正しく裁くことができるのは、ただ神のみであります。
 いったいかれらは自分たちは神の裁きを免れられる、とでも思うているのでしょうか。神の憐れみが自分たちを悔い改めに導くことを知らないのでしょうか。どうして神の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのでしょう。斯様に頑なな心を改めようとしないかれらは、自ら率先して神の怒りを自分のために蓄えているようなものです。この怒りはかならず、やがてかれらの上に降り注ぐことでありましょう。神の正しい裁きが執行される怒りの日に。
 「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」(ロマ2:6-8)
 神は人を分け隔てたりしません。律法を知らぬ者が罪を犯せば律法とは関係なしに滅び、律法を知る者が罪を犯せば律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、それを実行する者こそが義とされるのです。律法を持たない異邦人が律法が命じることを自然に行ったならば、その人は自分のなかに律法を持っていることになるのです。これはその人の心に律法が記されていることを意味し、その人の良心もそれを証ししています。
 こうした人々の行いはやがて、神がキリスト・イエスを通して裁く日に明らかとなるでしょう。

 ロマ2:17-29〈ユダヤ人と律法〉1/2
 律法に通じた人々はその知識と記された真理を以て他人に教えます。が、他人には教えても自分に教えることはないようです。果たして、姦淫するなと教える者が姦淫しないでしょうか。偶像を嫌悪する者は神殿を荒らしたりしないとでもいうのでしょうか。
 咨、かれらは律法を誇りとしながら律法を破って神を軽んじている。預言者イザヤの書にあるように、神は異邦人のなかにあって汚されています。
 「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ロマ2:25-29)

 なんだかわかったような錯覚に惑わされて原稿を書いているような気がしたことであります。に早ダイジェストではなく、語り直しとも程遠くなってきている。ただちょっと言葉を換えて書き写しているだけじゃぁないのか、と自らへ疑問を投げかけることもある。解答はない。でもいまは自分にできるやり方で読み続け、書き続け、更新し続けてゆくより他ないんだな。みなさま、見守ってください。
 そうはいいつつも、──
 ロマ2:25-27(「あなたが受けた割礼も……律法を破っているのですから。」)はなんともシンプルかつ見事な畳みかけであると思います。こうした論法、レトリックがパウロの思考の特徴の一つと思うのはわたくし1人のみでありましょうか?
 ファリサイ派だとかサドカイ派だとかいうて様々主義・主張はあると雖も、ユダヤ教徒の行動の根本にあるのは律法であります。かれらは、口ではどのようにいうておっても律法の呪縛から解き放たれることがありません。この時代、ユダヤ教徒がキリスト教を迫害したのは、キリスト教が律法から離れてそれに束縛されることなく、神の義と愛と平等の教えを展開したからでありましょう。
 ──わたくしは今日、ロマ2:11-14、「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」を読んで、ようやく、伝道に様々な障害が生じ、信徒が陰に日向に迫害されてきたのか、その理由が一端ながらもわかったような気がするのです。
 それにしてもパウロの言葉は激しくも優しく、たくましく、そうして慈悲に満ちておりますね。鋭利なナイフのようにぐさぐさ、わたくしの心に突き刺さって抜けません。抜いたら出血多量で死んでしまいそうです。えへ。



 iPhone6S Plusに機種変更して以来、バッテリー問題に悩まされなくなって、安堵しているみくらさんさんかです。
 さすがにずっとWi-Fiモードにしていると、日付が変わる頃には20%台にまで減っており、寝ている間に充電となるのだけれど、それでもバッテリー残量を気にしなくて済むようになったのは、ただただ嬉しくてたまらないのです。大きな画面になったことで、safariでのサイト閲覧、YouTubeなどでの動画閲覧がストレスなく楽しめることに加えて、青空文庫の収められている作品をじっくり読みこめるようになったことが最大の僥倖でしょうか。
 嗚呼、やっぱり<大きいは正義>ですねぇ……しみじみ。
 カメラで撮った写真もみんなで囲んで見られるしね。この前の上司の披露宴で撮影した写真、4K動画、来られなかった人々に喜んでもらえたなぁ。このときかな、機種変更していちばんよかった、と思うたのは。
 iPhone6S Plusで今後は動画撮影にも勤しんでゆきたいですね。◆

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第2075日目 〈ローマの信徒への手紙第1章:〈挨拶〉、〈ローマ訪問の願い〉他with小山清『落ち穂拾い・犬の生活』を読んでいます。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第1章です。

 ロマ1:1-7〈挨拶〉
 神の福音のために選び出されて、召されて「使徒言行録」となったわたしパウロから、ローマに在ってやはり召されて聖なる者となった皆様へ、一筆啓上仕ります。

 ロマ1:8-15〈ローマ訪問の願い〉
 わたしは神に祈るとき、いつもあなた方のことを思い起こし、なんとかして──いつの日か──あなた方の許を訪ねることができるように、と願っています。
 「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」(ロマ1:11-12)
 兄弟たちよ、どうか知ってください。わたしはこれまで何度もあなた方のところへ行くのを試みましたが、その度に妨害されて今日に至ります。わたしには責任があります。万人へ福音を告げ知らせる、という責任が。だからわたしはローマへ行くのを希望するのです。

 ロマ1:16-17〈福音の力〉
 わたしは福音を恥としません。それはすべての信じる人へ救いをもたらす神の力だからです。
 「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ1:17)
 預言者ハバククの書に、神に従う人は信仰によって生きる、と書いてあるようにです。

 ロマ1:18-32〈人類の罪〉
 神が天から怒りを降されるのは、不義によって真理の働きを妨げる者の不信仰と不審に対してであります。神の怒りを被ることについて、かれらは一言だって弁解することはできないでありましょう。
 「なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ロマ1:21-23)
 ──これは口では神を信じ敬い愛すというておきながら、その実、神に背いている者の罪であります。
 神は人間を、心の欲望の赴くままに行動させることとし、結果としてかれらは互いにその体を辱め合うこととなりました。男女は自然な関係を捨ててしまったのです。いまかれらはその不純な行為に対する当然の報いを受けています。
 「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(ロマ1:28-32)
 ──これは、信者というよりも人間としての罪であります。

 わたしは福音を恥としない──信仰と信念と行動の人、パウロらしい、否、パウロでなければ発することのできなかった言葉でありましょう。コンフェッション・オブ・フェイスというには大袈裟かもしれませんが、使徒パウロを特徴附ける言葉として相応しいと申せましょう。
 「ローマの信徒への手紙」を代表する言葉といえば、人が義とされるのは信仰によってである、でありましょうが、このパウロの想いは言葉を換えて表現を変えて、あたかも通奏低音のようにして本書簡に散りばめられている、と感じます。引用もしたロマ1:17は本書簡に於けるその嚆矢というてよいでしょう。
 ……個人的には、ロマ1:24-31が胸に突き刺さりましたねぇ。引用しなかった部分についてはそこはかとなく来し方の一断片を思い起こして反省と悔恨の念に駆られ、引用した部分については自分はそれらの罪を自ら犯すような愚人にはなるまい、落ちぶれまい、と自己自重の思いを新たにし、心へしっかりと刻みつけたく思うのであります。
 この「ローマの信徒への手紙」はキリスト者に宛てて書かれてはおりますが、今日パウロの思いはキリスト者に限らず、すべての理性と知性と品性を備えた者ならば誰しも、自分に言い聞かせて日々の言行の指針とした方がよいもののように思えてならぬのであります……。

 本日の旧約聖書はロマ1:24-31とハバ2:4。



 『ビブリア古書堂の事件手帖』にて取り挙げられたのを契機に注目が集まり、作品集が文庫でお目見えした小山清。「落ち穂拾い」しかそれまでは読んだことがなかったのだけれど、ちくま文庫でお手軽に読めるようになったのを機にこの作品集1冊だけでも読んでみようと思い立ち、購入から2年半を経てようやくページを開くことになりました。
 まだ全体の1/3弱しか読めていないけれど、心のひだにしみ通ってくるような、ほの温かさがありますね。そうして、透明さと潤いがあります。これは買っておいて良かったな、と素直に思いました。第1作品集として刊行された『落ち穂拾い』所収の作品は概ね読み終えましたが、「落ち穂拾い」を別格とすれば「聖アンデルセン」と「夕張の宿」、「朴歯の下駄」が好きです。
 これを読み終えたら佐々木邦を読む予定ですが、小山清の作品集も講談社学術文庫や新潮文庫のものも探して読んでみたいですね。◆

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第2074日目 〈「ローマの信徒への手紙」前夜〉 [ローマの信徒への手紙]

 福音書を読みあぐねたときだったでしょうか、気分転換も兼ねて読む順番を変えてみようか、と思うたのは。けっきょくは構想で終わって実行はされなかったけれど、いま再たわたくしは性懲りもなく同じことを<パウロ書簡>について企んでいるところであります。
 新約聖書には全部で13の<パウロ書簡>が収められます。内、「ローマの信徒への手紙」と「コリントの信徒への手紙」一と二、「ガラテヤの信徒への手紙」は主要書簡とされ、書簡集の始めの集団を成すことは昨日も述べたとおりであります。その配列はなんと、長い順である。執筆年代ではないのだ。古代はその分量、その長さが尊ばれて重視され、年代が問題となり配列基準となったのは19世紀末から20世紀初頭にかけてのことといいます。どういうわけだかわたくしのような怪奇党はその時期を見て、おお怪奇小説黄金時代とぴったり重なるではないか、と意味もなく興奮する……閑話休題。
 パウロ書簡の筆頭に置かれる「ローマの信徒への手紙」は質・量共に他を圧するものということになるが、パウロ真筆とされる6つの書簡のなかでは最後に書かれたものとされ、使20:2-3で言及される3ヶ月滞在したコリントにて後56年頃、ローマのキリスト教教会宛てに書かれました(なお、いちばん最初に書かれたのは「テサロニケの信徒への手紙 一」で後50年頃の執筆云々)。そうして自ら創設にかかわっていない教会に宛てた手紙としては、現存する唯一のパウロ書簡であります。
 エルサレムを遠く離れた帝都ローマにも、キリスト教会はありました。離散ユダヤ人がそれを創ったのです。他地域の教会同様、ローマのキリスト者たちが一個、乃至は複数の共同体(コミュニティ)を構成し、それが離散集合を繰り返して在ローマ・キリスト教会となった、というのが実際でありましょう。
 殆ど律法原理主義というてもよい従来のユダヤ教徒からすれば、ナザレのイエスという厄介者を開祖とするユダヤ教イエス派と、その信者が集う教会は異端としか映らなかったはずであります。小アジアやギリシアでされたパウロの宣教を妨害したと同様な騒ぎが、ここローマでも幾度となくあったであろうこと、想像に難くありません。むろん教会はそれに耐え抜いた。クラウディウス帝によってユダヤ人及びユダヤ人キリスト者はローマ追放の憂き目に遭ったけれど(使18:2)、帝崩御して後かれらがローマへ戻ってくるまでの間は異邦人キリスト者が教会を守ったことでありましょう。パウロは祈るとき、常にローマ教会のことを思い起こし、そこへ行くことができるよう願っていた、と「ロマ書」第1章第9-10節で自ら語っております……。
 これを書いた当時、パウロはローマでの伝道の希望を、傍らの者へたびたび洩らしていた様子です。別のいい方をすればまだローマを訪れたことはない、ということ。ロマ15:22-29で本書簡の執筆背景が綴られていますが、それに拠れば、パウロの目的はイスパニア(スペイン)訪問/伝道にあり、ローマはその中継地、逗留地としての役割を与えられておりました。
 勿論、ローマ市民であってもパウロはまだローマの都を自身の目で見たことはなく、市民であれば一度は訪ねたい希望と共に帝都ローマでの伝道にも励みたかったことでしょう。が、当時パウロの眼差しは帝都のずっと西の方へ向けられていたのでした。エルサレムからすれば世界の果て、地の果てまでイエス・キリストの福音を運び、かの地の異邦人へ福音を届けて宣べ伝えるのが、パウロの役目だったのであります。
 「ローマの信徒への手紙」はパウロ書簡のなかで最大の規模を誇ります。その趣は最早「書簡」というより「論文」というてよい。「所信表明演説の原稿」といい換えても差し支えないでしょう。「ロマ書」が自分が創設にかかわっていない教会へ宛てた、そこへ集う未知の信者集団に宛てた、逆にいえば自分のことをよく知らない人々へ書かれた、意と筆をじゅうぶんに尽くした自己紹介と信仰への導きの手紙であれば、わたくしのこのような印象も宜なるかな、というところでしょうか。
 本書簡の内容は、個人の信仰や罪の問題、神の愛、ユダヤ人のみならず異邦人も含めた人類の救済、そうして信仰に生きるための諸事について触れ、終いに本書簡を書いた己の思いと挨拶を以て擱筆される。ここで取り挙げられる事柄はいずれもパウロの思想/神学の中核を成すものであり、新約聖書の心臓というてよいでしょう。暴言ではあるが、<パウロ書簡>のうちではこれさえ丹念に、きちんと読んでおいてくれれば良い、という代物であります。
 ──人が義とされるのは信仰によってである(ルターは初の聖書独語訳を作る際、信仰によってのみ、としたそうです。徹底的に聖書を読みこんだルターならではの解釈でありますね)。
 ──「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ロマ12:15)
 ──「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ロマ12:17)
 ……この3つ、就中引用した第12章からの言葉は、わたくしが本書簡で大好きな言葉であります。「ロマ書」の本題からはやや外れますが、そのあたりはご勘弁願いたく存じます。
 それでは明日から「ローマの信徒への手紙」、別称「ロマ書」(略せばロマ)を明日から1日1章の原則で読んでゆきましょう。今度は停滞なく読み進めることができますように。◆

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