コリントの信徒への手紙・二 ブログトップ

第2178日目 〈コリントの信徒への手紙・二第13章:〈結びの言葉〉with読了の挨拶と次に読む書簡について。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第13章です。

 二コリ13:1-13〈結びの言葉〉
 わたしパウロがあなた方の許へ行くのは、これで3度目です。そちらへ住む、以前罪を犯した者、また他の人々に向けて、あらかじめ伝えておきます──前回2度のコリント訪問時にもいうたことですが──。
 今度そちらへ行ったら、容赦しません。どうして? あなた方はキリストがわたしによって語っているてふ証拠を求めているからです。「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(二コリ13:3-4)
 自分が信仰を持って生きているか反省し、自身を吟味しなさい。失格者でない限り、内にイエス・キリストが在るか、わかるはずです。失格者でないことを祈ります。われらが祈るのは、あなた方の目にどのように映るか気になるためではなく、あなた方が善を行うようになのです。われらは自分が弱くてもあなた方が強ければ喜ぶのです。あなた方が完全になることを祈っています。
 「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。」(二コリ13:10)
 喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなた方と一緒にいてくれます。聖なる接吻で以て互いに挨拶しなさい。こちらの聖なる者たちがあなた方によろしく伝えてほしい、と申しております。
 どうかあなた方一同に主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりがありますように。

 二コリ13:1;わたしがコリントへ行くのはこれで3度目です。ここは昨日読んだ二コリ12:14、3度目のコリント訪問を計画中である云々を踏まえての文言であります。
 本書簡が複数の手紙を編集して成立した説のあること、それが有力視されていることを知っていると、この点について極めて面白い発想(妄想?)が浮かびます。第12章と第13章はそれぞれ別の手紙の一部を為していた箇所であるまいか、偶々双方に3度目のコリント訪問の記述があるが両者を照らし合わせると齟齬を来しはしないか、とかね。
 むろんこれこそが誤りであって、実際は双方共に一連の正しい流れのなかにあり、パウロがいうているのは3度目のコリント訪問であり、実際その計画に従ってそちらへ行ったらば、という前提の下のことであります。以上は読書中、この件りを読み誤ったわたくしの妄言でありました。誠、知識は時として無用の躓きを生みますね。
 それはともかく。
 果たしてパウロの希望する3度目のコリント訪問は為されたのか。資料に拠れば、それは為された。西暦56年頃のことで、その折にパウロは「ローマの信徒への手紙」を執筆した由。複数回の訪問がされたこと、複数の書簡が執筆されたことなどから推測するに、パウロにとってここコリントは自分がかかわった幾つもの教会設立地のなかでも後回しにすることのできない、いちばん気懸かりでならぬ所であったのかもしれません。それだけ思いを傾けていた、ということにもなりましょう。
 「今度そちらへ行ったら、容赦しません」(二コリ13:2)などは、そんなパウロからコリントの信徒たちへの愛ある忠言といえるでしょうね。

 本日の旧約聖書は二コリ13:1bと申19:15。



 天候不順に見舞われ日々の寒暖差激しく、積雪・降雪により列島に様々な被害が出、交通機関も麻痺した1月後半、体調回復に油断せずとも喜びを実感し、一方で持病の悪化の兆候を知らされ苦悶しつつもわたくしは本日無事、「コリントの信徒への手紙 二」を読了した。
 途中、数年来の定時更新を棄てることもあったけれど、休むことなくこの約10日を乗り切ることができた。誓いの通りに! ちかごろの本ブログにあっては大きな達成である。恥ずかし気なくいうな、と野次られそうだが、喜ぶに足るじゅうぶんな理由がこちらにはあるのだ……。
 読者諸兄よ、あなた方へ感謝。その力強き存在と皆様のブレないアクセス数があってこそ、わたくしは営々と、のんびりと、しかし焦燥感を抱きつつ本ブログを執筆、更新・お披露目できるのだ。ありがとうございます。
 次に読むのは「ガラテヤの信徒への手紙」であります。<4大書簡>、<主要書簡>の掉尾を飾る本書簡はロマ、一コリ、二コリのなかでいちばん少数の少ないものだけれど(全6章)、勿論重要性は他に較べてまるで遜色はない。
 仄聞するところではこの「ガラテヤの信徒への手紙」、マルティン・ルターのその思想、その神学に深甚な影響を与え、キリスト教社会を一転させる宗教改革への道筋をつけた手紙であるそう。そのせいもあってかは存じませぬが、プロテスタントにとって本書簡は大切な意味を持つらしい。敬虔なるプロテスタントであった婚約者が生きていて妻となっていれば、このあたりも日々の折々に訊くこともできたのだが。追憶を胸に、わたくしもこの手紙を大切に読んでゆこう。
 そんな「ガラテヤの信徒への手紙」の読書開始は2月14日前後を予定しています。◆

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第2177日目 〈コリントの信徒への手紙・二第12章:〈主から示された事〉&〈コリントの教会に対するパウロの心遣い〉with「幸いにしてわたくしは……」〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第12章です。

 二コリ12:1-10〈主から示された事〉
 主がわたしに見せてくれたこと、主がわたしに啓示したこと。それを誇らずにはいられません。これからその件についてお話しします。
 わたしが知る、キリストに結ばれた人がいます。この人は14年前、──体のままか、体を離れてかわかりませんが──第三の天にまで引き上げられました。「彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。
 しかし、自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません。」(二コリ12:4-5)
 真実を語るのだから誇ってよかろうとは思いますが、敢えてそれは行いません。それを耳にした人がわたしを過大評価しても困りますし、なによりも主の啓示があまりにすばらしかったから、却って誇ることは控えようと思うのです。
 このことを誇っても構いませんが、誇りません。為にわたしには1つの棘が与えられました。わたしを痛めつける目的でサタンから送られた棘です。わたしは日に3度、この棘を取り除いてほしい、サタンの使いから離してほしい、と主に祈りました。それについて主の答えて曰く、わたしの恵みはあなたにじゅうぶんである、力は弱さのなかでこそその強さを発揮するのだ、と。
 「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(中略)なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(二コリ12:9-10)

 二コリ12:11-21〈コリントの教会に対するパウロの心遣い〉
 わたしは愚か者になりました。あなた方が無理にそうさせたのです。わたしがあなた方に推薦されるべきだったのだ。たといわたしが取るに足りない者であったとしても、あの大使徒たちには少しも引けを取らなかったはずです。自分が使徒であることを、徴や不思議な業を行うことで、あなた方へ示しました。あなた方が他の諸教会に劣るところがあるとすれば、わたしがそちらに負担をかけなかった点ぐらいですよ。その節は失礼しました。その不当を許してください。
 わたしはコリントへの3度目の訪問を計画しており、いま準備中です。勿論あなた方に負担は掛けません。わたしが求めているのはあなた方自身なのです。あなた方の魂のためにわたしは喜んで自分自身を使い果たしましょう。
 「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなた方を造り上げるためなのです。」(二コリ12:19)
 ──あなた方を愛すれば愛するだけ、あなた方はわたしを愛さなくなるのだろうか。
 実はあなた方がわたしの期待した程ではなく、わたしもあなた方の期待通りの者でなかった、ということがあるだろうか。
 わたしの神があなた方の前でわたしに面目を失わせたり、恥をかかせるようなことはないであろうか。
 わたしがそちらへ行ったとき、かつて罪を犯した多くの者がむかしの過ちを悔いることなく、反省していない様をわたしは見ることになるのだろうか。──

 本章冒頭にて、主が見せたこと、啓示されたことを自分は誇らずにはいられない、と、まるでレイ・ブラッドベリの短編のタイトルを思わせるような興奮でパウロは告白します。これはそのまま次の節につながり、14年前キリストに結ばれていた人が第三の天にまで引き上げられて云々という報告に至ります。パウロはその人を知っている、という。それもそのはずで、実はその人物はパウロ自身なのであります。三人称に仮託してかれは自分の経験を書いているのでありました。
 正直なところ、わたくしにはこの文言のなかに、幾つかの不案内な箇所を持ちます。パウロが引き上げられた、という「第三の天」とはなんなのか。註釈書や研究書などを開いてもよくわかりません。ただ、天国(パラダイス)と同定するのは困難な様子。また、「14年前」とは正確にいつ(何年)なのか、舞台はどこで、どのような経緯で斯様な経験がされるに至ったのか、知りたいことは幾つもあります。これらについてはもう少し調べて、後日補記、乃至は本日の修正など、なんらかの形でご報告できるようにしたいと思います。
 サタンから送られた使いとして、1つの棘が与えられた。この棘はパウロの心に与えられた「弱さ」であります。パウロは、弱さは宣教活動の足枷になると考えていたのでしょう、その弱さを自分から取り除いてほしい、と(1日に3度も!)主に祈った。それはとても真摯で、強さこそ行く先々で迫害に遭う自分に必要なものである、と思うて疑わなかったことでありましょう。が、主から与えられた回答は、かれにとって意外なものでした──美辞麗句に彩られた明確な「否」だったわけですから。でも、パウロは主の真意に気附いて胸に留め、宣教活動に腐心します。なんとなれば、<弱さこそ力であり、強さ>なのだから。これに大いに力と慰めを得てパウロは本章を書き、また、より一層の伝道に励んだのでありました。



 大学でわが国の古典文学を教える、という大学入学時の夢をかなえていたら、現在の自分はどうなっているのだろう、と考えると、ぞっ、とします。たしかにそれは真剣に夢見て目指した自分の姿でしたが、昨今の大学の講義風景や学生の態度、学力の低下など仄聞すると、象牙の塔にこもらずに社会へ出てよかったな、と思うのです。
 勿論こう思えるのも、その後就職した会社やアルバイトや派遣でお世話になった勤務先にて、人間関係と仕事内容に恵まれた所産。佐藤春夫の辞世の言葉ではないけれど、「幸いにしてわたくしは……」という台詞がぴったりな人生を歩めてきた。そんな風に実感するのであります。まだわたくしの人生は幕引きされたわけではないが、感謝を述べられるときに(つまり生きている間に)然るべき言葉でこれまでの人生にお礼をいうておきたいのだ。
 まぁ、あのまま大学院に進み、講師-准教授-教授と進んでいれば、いま頃は恩師の娘と結婚して学統を継承し、子供もいたかもしれないけれど……でもそれって、他人に規定されたコースでなんだか嫌だよね。ぶるぶる、って身を震わしちゃいます。だって自分で恋したいモン! 呵々。
 では皆様、ちゃお!◆

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第2176日目 〈コリントの信徒への手紙・二第11章:〈偽使徒たち〉&〈使徒としてのパウロの労苦〉with志賀直哉の読書について。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第11章です。

 二コリ11:1-15〈偽使徒たち〉
 あなた方に対して神が持つ熱意をわたしも抱く。「なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた。つまりキリストに献げたからです。」(二コリ11:2)
 わたしが心配しているのは、あなた方の想いが汚されて、キリストに対する純潔と真心とから逸れてしまうのではあるまいか、ということです。われらが宣べ伝えたのとは異なるイエスが宣べ伝えられたり、受け入れることのない違った福音を受けたとしても、よく我慢しているからです。
 あの大使徒たちと較べれば、わたしは何者でしょう。でも、少しも引けは取らないと思います。たとい話しぶりが素人でも、知識はじゅうぶんに、豊かにある。これまでわたしはそのことをあらゆる点あらゆる面で示してきました。
 わたしは罪人でしょうか、神の福音を無報酬で宣べ伝えた廉で? あなた方を高めるため、自分を低くしたというのに? わたしはあなた方へ奉仕するため、他の諸教会から生活費を掠め取りました。あなた方の許で生活に困窮したときも、あなた方へ負担は掛けなかったですよね。マケドニアの兄弟たちがわたしの生活面を金銭等で支えてくれたからです。もう一度いいます。わたしはあなた方へ負担を掛けたりしなかった。今後もそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて。
 「わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(二コリ11:12-15)

 二コリ11:16-33〈使徒としてのパウロの労苦〉
 兄弟たちよ、わたしのことを愚か者と思わないでほしい。が、愚か者と見做したくば、そうしてくれて構いません。わたしはこれから、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話します。賢いあなた方のことだから、まぁ、我慢してくれますよね。
 あなた方はどんな暴行や侮辱を受けても我慢しています。恥を忍んでいえば、われらの態度は弱過ぎたのです。
 誰かがわたしに訊ねます、お前はキリストに仕える者なのか、と。わたしは答えます、かれら以上にわたしはそうなのです、と。
 わたしはこれまで多くの労苦に直面してきました。投獄されたことも鞭打たれたことも、死ぬような目に遭ったことも石を投げつけられたこともあります。難船したことも一昼夜海上を漂ったこともあります。同胞や異邦人からの難、町や荒れ野での難、様々な難に遭いました。苦労し骨を折り、しばしば眠れず過ごし、食べるものに事欠くこともあれば、喉の渇きを覚えたこともある。寒さに凍え、裸で過ごしたこともありました。勿論これのみでなく、日々わたしを悩ます厄介事、あらゆる教会についての心配事もたくさんある。──誰かが弱まるならばわたしは強くならなくてはならず、誰かが躓くならばわたしは心を燃やさずにはいられないのです。
 「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。」(二コリ11:30-31)

 自らをキリストの使徒であると偽り、使徒と同じように誇ることを企む、自らを使徒に準えるがその資格なき衆を、「偽使徒」と呼ぶ。その人々の出現の背景が、使徒の権能を羨み、かつ妬んでの結果なのか、不明ですが、パウロはかれらが使徒に取って代わってデタラメな、有害な伝道を行わせないように今後も使徒として活動してゆくことをコリントの信徒たちへ、引用した二コリ11:12-15にて宣言しています。
 偽りの蔓延を妨げ、阻止するのは、義を除いて他にはないのであります。
 ──とはいえ、読者諸兄よ、お気附きだろうか、その直前パウロがとんでもないことを口走っている点に。嘘か誠か判然としないが、かれはコリント教会、コリントの信徒たちへ迷惑をかけぬよう、その地での生活費をマケドニアの諸教会から掠め取るようにしてまでも回収して、それに充てていた。ッ時一であれば、掠め取った生活費が実際はマケドニアの諸教会からの献金であったのか、或いは通常の献金にプラスアルファして幾許かの金額を上乗せしてそれを貯めこんで生活費にと流用したのか、もしくは本当にマケドニアの一部信徒たちにタカって懐に仕舞いこんだものだったのか、そのあたりは資料を基にしての検証をどなたかに依頼したい。誇張であるならば、コリントに対してパウロがどれだけ心を尽くし、なににつけ優先していたか、教会・信徒たちに気附かせようという狙いが見え隠れしてくるであろう。いずれであるにせよ、ここにはパウロの計算が働いているように思います。
 ノートからは省きましたが本章末尾で、ダマスコから脱出したときの様子がパウロ自身によって語られています。これは回心直後のパウロ/サウロがダマスコ宣教を行った際、かの地のユダヤ人に殺害されそうになって難を逃れたときの、使9:23-25の出来事をパウロの側から語った記述であります。二コリ11:32でその首謀者をアレタ王に帰しているのは、パウロの宣教によって配下の者たちがキリストを信じて、怒りを被ったゆえかもしれません。
 パウロが記す自ら経験した様々な労苦や難については、是非「使徒言行録」や各書簡から該当箇所を探してみてください。



 志賀直哉の読書がまったく捗らない。読もうと思うても朝は電車のなかでぐっすり眠り、夜はリュックのポケットに収まる文庫に手を伸ばすことを瞬間思うも直後には青空文庫を開いて鏡花の『眉かくしの霊』を読んでいる。困ったものである。寝しなには米澤穂信『氷菓』をあくびが数回出るまで読みふけり。
 好みでないのはわかっている。でも稀に、やたらと気に入ってしまう作品が出るので油断できない。とはいうても、「剃刀」以上に印象に残っている作品は精々が「網走まで」で、肉欲と理性と問題解決策としての<暴力>が組みこまれたDNA、この三者の葛藤を綴る「濁った頭」は判断保留だ。
 志賀直哉を読んでいちばん捗ったのは、病院の待合だ。その分量やテーマの一極集中、夾雑物のなさがそうさせるのかもしれない。今後も何度か病院へは行かねばならぬので、その際だけ志賀直哉の文庫を荷物に収めようかな、となかば真剣に考えている。◆

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第2175日目 〈コリントの信徒への手紙・二第9章&第10章:〈エルサレムの信徒のための献金〉&〈パウロの誇り〉with今日の読書を振り返って、独り言をする。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第9章と第10章です。

 二コリ9:1-15〈エルサレムの信徒のための献金〉
 (エルサレムの)聖なる者たちへの奉仕については以上です。われらはマケドニア州にてアカイア州では去年からこのことの準備ができている、というてあなた方を誇りました。結果、マケドニア州の人々は奮い立ち、自分たちも募金活動を始めたのです。
 よろしいですか、われらがそちらへ人を派遣するのは、マケドニアの人々へ誇ったことがたしかに行われているのを確認する意味でもあります。わたしがマケドニアの人々とそちらへ行ったとき、かれらに誇ったことが行われていないのは恥に他ならない。テトスたちを派遣するのは、以前あなた方が約束した贈り物を用意しておいてもらうことが必要だからです。渋々提供したのではなく、惜しまず率先して差し出したものとして、それを用意してもらいたいのです。
 惜しんでわずかの種しか蒔かぬ者は刈り入れも少なく、惜しむことなく豊かに蒔く人は刈り入れも豊かなのです。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。」(二コリ9:7)
 喜んで与える人を、神は愛します。あなた方は種を蒔く人、パンを糧とする人。神はあなた方に種を与えてそれを増やし、あなた方の慈しみが結ぶ実を生長させる。あなた方はすべてに於いて富む者とされ、惜しまず施すようになる。あなた方の行う施しはわれらを通して神への感謝の気持ちを引き出します。なぜかといえば、この施しは、聖なる者たちの欠乏を補うのみでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。
 テトスたちはこうした奉仕が実際に行われた結果を報告しています。キリストの福音を従順に公言していること、自分たちだけでなく他の人々へ対しても施しの業に励んでいること、です。テトスたちは神が与えたこの上ない恵みに接して、あなた方を慕い、あなた方のために祈っています。
 神に感謝します、言葉ではいい尽くせないこの贈り物について。

 二コリ10:1-18〈パウロの誇り〉
 あなた方はわたしパウロについてこう仰っている、即ち、手紙のなかでは強硬だが、面と向かっては弱腰だ、と。そのパウロが、キリストの優しさと心の広さを以てあなた方にお願いします。──われらを肉に従って歩んでいる、と見做し、考えている者に対しては、そちらへいった際に直接、面と向かって、勇敢に立ち向かう覚悟です。できるならば、そのような事態が出来しませんように。わたしはそう願います。
 思い違いしないでほしいのですが、われらは肉に於いて歩んでいるけれど肉に従って戦うのではない。われらの武器は神に由来する力、つまり、聖霊の力であります。われらはその武器を頼りに理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢をねじ伏せ、あらゆる思惑を虜にして、キリストへ従わせる。あなた方の従順が完全なものになるとき、あらゆる不従順を罰する準備も終わるのです。
 あなた方のなかには、自分がキリストのものだと信じ切っている人がいます。でも、その人には今一度考えていただきたい。、同時にわれらもキリストのものなのだ、ということを。
 「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。」(二コリ10:8)
 手紙のなかでは強硬だが、面と向かっては弱腰だ、あれは話のツマラヌ奴だ。わたしのことをそんな風にいう人がいます。が、手紙を書くわたしと、そちらで行動するわたしとの間には、なんの隔たりもありません。
 自己推薦する人々と自分たちを同列に置いたり、比較しようなどとは考えていません。まったく以て愚かなことですから。われらは限度を超えて誇るようなことはせず、神が割り当てた範囲内で誇ります。われらはキリストの福音を携えて、誰よりも先にあなた方の許を訪れました。われらは他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。
 「ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。」(二コリ10:15-16)
 ──預言者エレミヤの書に曰く、誇る者は主を誇れ、と。この言葉をよく噛みしめて、真意をわかってください。

 パウロは優男であったのか──見る人によってはそう映ったかもしれない。眼病を患っていたともいうから、時として容貌も崩れたらしい。もとよりパウロを快く思わぬ者が実際かれと対面したら、外見から受ける印象に引きずられて内心でか或いは露骨にか、パウロを軽んじて軽挙妄動へ及ぶこともあったやもしれぬ。
 人の評価は容貌、外見に左右されることがある。いいや、そんなことはないよ、と曰う方は幸福だ。おそらく容貌ゆえに村八分になったり、イジメに遭った経験のない方だろうから。話を戻して、斯様な人が「その他大勢」から「選ばれた者」へ立場が変わると、周囲の人々の感情は変容する。風当たりが激しくなったり、陰に陽に誹謗中傷が巻き起こり、内心で留まっていた侮蔑、侮辱が表面化して、結果、かの人を迫害する羽目になる。わたくしはそんな経験を幾らでもしてきた。おこがましい物言いだが、わたくしにはパウロが──新約聖書のなかでは誰よりも自分に近しい存在として映る。むろん、わたくし以上の経験をしてきた方など、天空に瞬く星々、浜の砂粒の数と等しく存在しよう。それを承知でなお、わたくしは斯く思うのだ。
 障害持つ者を陰に陽に嘲笑して愉しむ輩が身近にいる。かれらは人間の形をした異生物だ。
 そんなシンパシーの深さと強さゆえか、パウロの痛みや悲しみ、苦しみ、そうして喜びに触れる度、わたくしも「使徒言行録」や各書簡の記述に影響されて一喜一憂してしまうのである。
 なんだか今日はいつも以上に、無性に、パウロに共感を覚えた。どうしたわけだろう。こうしたことを書くと、また狂信的などという、無理解と想像力の欠落に基づいた言葉が寄せられるのだろう。まぁ、それはくだらない話だし、関わり合いになることでもないので、無視する。当たり前だ、わたくしには時間がない。

 本日の旧約聖書は二コリ9:9と詩119:9、二コリ10:17とエレ9:23。



 2日分の読書と執筆ということでチト息切れ気味だけれど、これでどうにか今月中の「コリントの信徒への手紙 二」読了のメドが立った。
 午前2時の定時更新に復すことはかなわず、本書簡は最後まで当日中の更新と相成ってしまうけれど、まずは安堵。あとはこのまま進むだけだ。
 つつがなき読了を読者諸兄よ、どうかわたくしのために祈ってほしい。◆

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第2174日目 〈コリントの信徒への手紙・二第8章:〈自発的な施し〉、〈諸教会からの使者〉with音楽を聴く環境を取り戻そう!〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第8章です。

 二コリ8:1-15〈自発的な施し〉
 コリントのあなた方にマケドニア州の諸教会で、自発的に行われた善き施しについてお話ししましょう。
 マケドニアの信徒たちは苦しみによる激しい試練を受けていました。にもかかわらず、かれらからは満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったのです。かれらは自分たちから進んでわたしに、聖なる者たちを助けるための慈善の業の奉仕に参加させてほしい、と願い出ました。かれらはわれらの期待以上に、主に、次いで神の御心に添ってわれらへも自分自身をささげました。
 そこでわれらはテトスに、この慈善の業をあなた方コリント教会の信徒たちの間で始めたからには完遂するよう勧めました。というのも、コリントの信徒たちはマケドニアの信徒たち以上に信仰に篤く、われらから受ける愛など、すべてに於いて豊かだったからです。この慈善の業でもあなた方が豊かになりますように。
 わたしがいうのは命令ではなく、試しです。愛の純粋さを量るための。他と比較して、それがどれだけのものかを量るための、試しなのです。主は豊かであったのにわれらのために貧しくなりましたが、それは主の貧しさによってわれらが豊かになるためだったのです。
 この点について私見を述べましょう。あなた方はこうした自発的な施しについて他に先駆けて実行したのみならず、発案そのものも同じく他より先んじていました。だからこそ、あなた方はそれをやり遂げるべきです。「進んで実行しようと思ったとおりに、自分で持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」(二コリ8:11-12)
 他の人々が楽をして、あなた方が苦労をする、ということではありません。釣り合いが取れるようにするのです。あなた方の現在のゆとり、即ち豊かさが他の者の欠乏を補うとすれば、いつの日か、かれらの豊かさがあなた方の欠乏を補うこともあるだろう、ということです。釣り合いが取れるようにするとは、こういうことです。

 二コリ8:16-24〈諸教会からの使者〉
 自ら進んでそちらへ赴こうと準備するテトスに、われらはもう2人、同行者を従けます。かれらは諸教会が任命を受けた信頼の篤い人です。任命はわれらの行う慈善の業に参加するためでした。われらはこの惜しまず提供された募金について誰からも非難されないようにしています。
 「これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。」(二コリ8:23-23)

 本日の第8章と明日の第9章で、エルサレムへの募金の件が語られます。既に一コリ16:1-4にてエルサレム教会への募金が支持されていますが、ここではマケドニア州各地の教会と比較し、なかば競うようにしてコリントの町の豊かさに応じてもっともっと募金活動に励みなさい、という風に読み取れてしまい、文章の裏に見え隠れするパウロのしたたかさと相手を煽る能力を感じ取らずにはいられません。
 補足致しますと、本章並びに次章はロマ15:26-27「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」の背景となる箇所であります。
 パウロがテトスに従ける2人の名前は今日に伝わっておりません。仮定する材料もない様子であります。

 本日の旧約聖書は二コリ8:15と出16:18。



 人間の細胞は7年周期で入れ替わる、とは事実なのか。根拠がある話なのか、定かではない。日本版『ウィアード・テールズ』のどの巻かで当時の寄稿作家がエッセイに書いていた説だけれど、わが身を顧みてその節を思い浮かべて、さもありなん、と首肯する機会は多々ある。
 種々の要因が重なって現在、これまで以上の規模と深度のルネサンスが訪れたことを感じている。火事で失うまで持っていたアナログ・プレーヤーとミニコンポ、CD/MDラジカセを追憶すること近頃は頓に多く、そろそろ支払う先も金額も少なくなってきたこと、本ブログが完結を視野に入れたこともあり、そろそろ「趣味;音楽鑑賞」に立ち返れそうだな、と思うた気持ちが、ルネサンスの下地にある。
 いまAmazonのオーディオのページを見ていたのだが、オーディオから離れていたこの10年近くでこの世界はずいぶんと変化したな。なによりもPCデスクトップオーディオって凄いや。でも、正直なところ、PCを音楽生活の中心にはしたくないのだよね。これは中学生の頃から自分のなかに染みついた<常識>と<ノスタルジー>と<かくあるべし>なのだろう。というか、きちんとコンポがあってアナログ・プレーヤーがあって、という形でないと落ち着かない。
 アナログ・プレーヤーについてはデノンのDP500MやEACのTN-350-CHなど、わたくしの望むスタイルを持ったプレーヤーはまだ健在である。勿論、パソコンやiPhoneに収まる音源が再生できないのは困るし、LPの音が取り込めないのも困るから、デノンのプレーヤーは第二候補と(残念ながら!!!!!!!!)なってしまうのだが。
 再生装置を調えてゆく余裕が生まれるのは、今年も後半のことになるだろう。それまではBOSEのPCスピーカーを買って渇きを癒やすことにする。◆

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第2173日目 〈コリントの信徒への手紙・二第7章2/2:〈教会の悔い改めを喜ぶ〉with牧野良幸『僕のビートルズ音盤青春期』に触発されたのか?〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第7章2/2です。

 二コリ7:2-16〈教会の悔い改めを喜ぶ〉
 われらは誰に対しても不義を行わず、誰からも掠め盗ったりせず、誰をも破滅させませんでした。嫌みではありません。われらへ心を開いてください。あなた方はわれらの心のなかにいて、苦楽や悲喜、生死を共にしています。
 わたし自身はといえば、あなた方へ寄せる信頼は厚く、あなた方を大いに誇っているのです。「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」(二コリ7:4)
 ──マケドニア州へ着いたときのわれらは非常に疲れ、さまざまな出来事に苦しんでいました。が、それはもう癒やされた……待ちに待ったテトスの到着がその慰めをもたらしてくれたのです。テトスはあなた方がわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを伝えてくれました。
 以前わたしが涙ながらに書いた手紙があなた方を悲しませたのは承知しています。が、わたしはそれを後悔していません。かりに当時は後悔していたとしても、いまわたしを満たすのは、喜びです。とうのも、あなた方があの手紙によって悲しんだだけでなく、悲しんで悔い改めたからであります。あなた方が悲しんだのは神の御心によるものだったのです。
 「神の御心にかなった悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(二コリ7:10)
 神の御心にかなった悲しみ! それがあなた方のなかにどれ程の熱心や弁明、憤り、恐れ、憧れ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょうか。例の事件に関してはあなた方自身で解決し、潔白であることを証明しました。あなた方へ手紙を送ったのは、あなた方の、われらへの熱心を神の御前で明らかにするためなのです。斯くしてわれらは慰められたのであります。
 加えてわれらをより一層喜ばせたのは、実にテトスの喜びあふれる様子だったのです。かれの様子を見れば、あなた方がどれだけ心を尽くしてかれの活動を助け、かれの心へ喜びをもたらしてくれたか、わかろうというものです。われらはテトスを誇りと思うてあなた方の許へ派遣しましたが、却って恥にならずに済んで安堵しています。テトスはあなた方の従順や歓迎を思い起こし、その度にあなた方へ心を寄せているのです。
 わたしはといえば、あらゆる点であなた方を信頼できることに喜んでいます。

 パウロは不安を抱きながら小アジア、ミシア州トロアスを発ってマケドニア州へ赴きました。そこで合流するはずだった兄弟テトスに会えなかったからであります(二コリ2:13)。が、いまやパウロの心は晴れやかなものとなったでありましょう──本章に於いてようやくテトスと再会できたからであります。テトスの合流が予定より遅れた理由ははっきりしません。察するにコリント教会の平定と和解、信徒たちの歓待によって発つに発てない状況だったのでしょうただ、その理由は決してネガティヴなものではなかった、と思います。
 二コリ7:11「例の事件」がなにを指すのか、具体的なところはなにも書かれておりませんが、この書簡が書かれた背景を検討すれば、おそらくコリント教会内でパウロを糾弾する者があったことをいうのでありましょう。これはコリント信徒たちが自ら、それに「否」を唱えることでわが身とわが信仰の潔白を証して、決着を見た。マケドニアに到着した頃は様々なことで煩悶し、苦悩し、悲しみ、疲れ切っていた、とパウロはいうておりますが、その原因の1つが「例の事件」であれば、テトスの報告によって負担はわずかなりでも軽くなったことでありましょう。



 どうしてビートルズのアルバムをリリース順に聴く気になったのか、われながら真相は藪のなかだ。10年ぐらい前は『ビートルズ 1』で満足していた。5年ばかり前には『赤盤』と『青盤』、『ホワイト・アルバム』が加わり、それ以上は望まなかった。これらのアルバムがベスト盤である、と単純に思いこんでいた時期だ。その後、『ホワイト・アルバム』のコンセプトやリリース経緯を知り、根を下ろしていた思いこみを修正させるに至ったお話は他日に譲ろう。赤面。
 実は昨年の春かな、『赤盤』と『青盤』はなんのきっかけでか、矢も楯もたまらなくなって購入してしまっている。架蔵するビートルズのCDはこれが2枚目、3枚目だ。わが物となって改めて何度も聴いていると、ああビートルズって良い歌がたくさんあったんだなぁ、とか、おおこれはビートルズの歌だったのか、など感銘し、びっくりし、今更ながらにその存在の偉大さ、楽曲の普及率に腰を抜かしたね。
 ……この経験を踏まえると、いまオリジナル・アルバムについては『プリーズ・プリーズ・ミー』から専らTSUTAYAで借りては返しを繰り返しているけれど、──なんとなく思うのだが──これらも遅かれ早かれCDショップのレジへ積みあげて、日がな一日取っ替え引っ替え聴き耽る日の訪れも近いのかなぁ、と倩想像する。
 でも、どうしてこの時期にビートルズなのだろう、と思うて考えていたら、心当たりが1つ。好きなイラストレーターに牧野良幸という人がいる。この人の近著に、ビートルズへ的を絞った『僕のビートルズ音盤青春期』Part1&2(音楽出版社)があるのだが、いまのわたくしのビートルズ経験はこの本に触発されたことなのかもしれない。
 余談だが、牧野氏の『僕のビートルズ音盤青春期』と『僕の音盤青春期』、『オーディオ小僧の食いのこし』、ユーモアと共感とノスタルジーと羨望の詰まったこれらの作物は、まとめて読んで愉しまれるとよいだろう。常にマニアの一歩手前にいることを自負する著者が自らのオーディオ遍歴をイラストとエッセイで辿った『オーディオ小僧の食いのこし』(共同通信社)、幼少時代から始まっておそらく「現在」に至るまで書き継がれる=永遠にゴールの見えてこない音楽遍歴をイラストとエッセイで綴る『僕の音盤青春期』Part1&2(音楽出版社)が面白くて、わたくしには近年稀に見る再読、偏読率の高さを誇る本となっている。
 なお『僕のビートルズ音盤青春期』は内容が一部、『僕の音盤青春期』と重複してしまうけれど、それは仕方のないことだ。こちらはこちらで楽しめばよい。愉快な読み物であることに変わりはないのだから。Part2の過半はリヴァプールでのポール・マッカートニー・ライヴ参戦のため渡英した著者が、編集者と共にビートルズ所縁の地を巡るイラストとエッセイになっている。このあたりで巷間の評価は分かれるそうだが、わたくしは著者の聖地巡礼の記録を大変楽しく読んだ。今度渡英する機会あらば、ビートルズ所縁の地を巡ってみたいな、と思うた程である。
 しばらくの間は簡単な(!)ディスコグラフィと、この牧野氏のビートルズ本を共として、アルバムを順番に聴いてゆこう。◆

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第2172日目 〈コリントの信徒への手紙・二第5章2/2、第6章&第7章1/2:〈和解させる任務〉&〈生ける神の神殿〉〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第5章2/2、第6章と第7章1/2です。

 二コリ5:11-6:13〈和解させる任務〉
 主に対する畏れがどのようなものであるか、それを知るわれらは人々の説得に努めます。神がありのままのわれらを知るように、あなた方にもわれらをありのままに知ってほしい。なにもあなた方へセルフ・プレゼンテーションするつもりはありません。ただあなた方へ、内面ではなく外面を誇るような人々に応じられるよう、われらのことを誇る機会を提供しているのです。
 「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(二コリ5:13-14)
 人々が生きているのは自分自身のためではなく、自分たちのために死んで復活した方のためです。その方のために生きるのだ、と心に刻め。
 ゆえにわれらは今後、肉によってキリストを知ったりしない。かつてはそうであったとしても、これからはそうではない。キリストと結ばれる人は誰もが新たに創造された人。つまり、古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた、ということなのです。
 神はキリストを仲介として、われらを神と和解させた。また、われらには和解のために奉仕する役目を授けた。それがどういうことか、といえば、こういうことである、──
 「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。」(二コリ5:19-20)
 キリストに代わってあなた方へお願いします。神と和解させてもらいなさい。神は罪となんの関わりもない方をわれらのために罪と定めて死なせました。その方によってわれらは神の義を得られたのです。
 もう一つ。われらはあなた方へ勧めます、神からもらった恵みを無駄にしないように、と。預言者イザヤの書に、恵みの時にわたしはあなたの願いを聞き入れ、救いの日にわたしはあなたを助けた、とあるからです。
 いまや恵みの時。いまや救いの時。
 われらは自分たちの行う奉仕の務めが非難されたりしないように、如何なることであれ人々に罪を犯す機会を与えず、あらゆる場面、あらゆる事態に際して神へ仕える者として行動しています。かりに鞭打ちや監禁、暴動、貧困、飢餓、苦難などに直面したとしても、われらはそのように行動します。純真、知識、寛容、親切、聖霊、真理の言葉、嘘偽りのない誠の愛などによって、われらはそのように行動します。両手に義の武器を持ち、悪評を浴びたとしても、好評を受けたとしても、栄誉に浴すときも辱めを受けるときも、そのようにわれらは行動します。われらは<無>のようでいて、実は<有>なのです。
 咨、コリントの兄弟たちよ。われらはあなた方へ飾ることなく語り、大きく心を開きました。「わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。」(二コリ6:12-13)

 二コリ6:14-7:1〈生ける神の神殿〉
 あなた方へいうておきます。信仰なき人々と一緒に不釣り合いな軛につながれて、そのまま生きるようであってはならない。正義と不法の間にどのようなかかわりがあるでしょう。キリストとベリアルの間にどんな調和がありましょう。信仰と不信仰の間にどんな関係がありましょう。神の神殿と偶像に、果たしてどんな一致が?
 われらは生ける神の神殿なのです。かつて神はこういいました。曰く、──
 「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。/そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。/だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。/『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。/そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、/父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」(二コリ6:16-18)
 愛する人たちよ、われらは斯様に約束されているのですから、肉と霊がもたらすありとあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れて完全な聖なる者となろうではありませんか。

 ……新共同訳の当該章を併せてご覧いただけば一目瞭然でありますが、本稿がわずかに言葉と表現を換えただけの、全節引用に等しくなってしまったことをお詫びしなくてはなりません。どうにも手に余り、こうした結果になってしまった。いつもではないか、といわれれば返す言葉がない。でも、読者諸兄よ、今日の箇所は本当に辛かった。肉体を傷附けられて血を流した思いだ。ここ数日の執筆でいちばんの不調を自覚している。何ヶ月か何年後かに書き直したいものです。
 書き終えた直後の打ちひしがれた言葉は以上として、以下2点について註釈めいたものを。
 二コリ5:16,肉によってキリストを知る。「肉」とは霊によってキリストを知る以前の状態をいう。その頃は霊による統一的な認識基準がなく、各自の自己認識、自己基準、自己判断によって、キリストというものを理解していた。即ち、人によって良きようにも悪きようにもキリストを受け止めていた、ということだ。われらは既に福音書や「使徒言行録」にて、イエスや使徒たち、パウロの反対者としてそれらの人々を見てきた──ファリサイ派、律法学者、ユダヤ人、異邦人、エトセトラ。
 パウロがもはや、肉によってキリストを知ることがない、というのは、霊によってキリストを知った人は新しくキリストと結ばれたのだから、つまりそれは新たなる創造、再生に浴したことを意味し、そうした自分たちを誇れ、というのであります。
 二コリ6:15,キリストとベリアルにどんな調和がある? 「ベリアル」はヘブライ語でアウトサイダー的存在を指し、たとえば箴6:12、同16:27「ならず者」の訳語であるそう。「ベリアル」という語では、聖書全体を通じて本日のこの箇所にのみ登場。ここではキリストと対になる存在として出ており、(ユダヤ人にとっての)サタンの蔑称として用いられております。
 キリストとベリアル/サタンの間にどのような調和があり得ようか? いや、そんなものはない、というのが、どうやら回答のようでありますね……。

 本日の旧約聖書は二コリ6:2とイザ49:8、二コリ6:16とレビ26:11-12とエレ32:38及びエゼ37:27、二コリ6:17とイザ52:11とエレ51:45及びエゼ20:34、二コリ6:18とサム下7:8-14とイザ43:6及びエレ31:9並びにホセ2:1。◆

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第2171日目 〈コリントの信徒への手紙・二第4章&第5章1/2:〈土の器に納めた宝〉&〈信仰に生きる〉withこれからしばらく、更新時間を変更させていただきます。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第4章と第5章1/2です。

 二コリ4:1-15〈土の器に納めた宝〉
 われらは新しい契約の奉仕者の務めを委ねられている、神からの憐れみを受けた者として。ゆえに落胆はしません。神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることで、われらは神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ねるのです。
 われらの福音に覆いがかかっているとすれば、滅びの道を辿る者に対してのこと。神は自らの言葉を聞かず信じず、畏れず敬わぬ者の心の目をくらまし、キリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。闇から光を輝き出させた神は、救いの道を歩むわれらの心を照らし、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくれました。
 ところで、われらはこのような賜物を土の器に納めております。神の栄光が自ずと外側にあふれ出るように、です。それがわれらのものではなく、神からのものであることがわかるようにであります。
 「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(二コリ4:8-9)
 われらはいつもイエスの死を体に纏うています──イエスの命がこの体へ現れるために。
 生ある間、絶えずわれらはイエスゆえに死に曝されている──死して朽ちるこの身にイエスの命が現れるために。
 斯様にしてわれらの内には死が働き、あなた方の内には命が働いていることになります。
 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(二コリ4:14-15)

 二コリ4:16-5:10〈信仰に生きる〉
 われらの「外なる人」は衰えてゆけども、「内なる人」は日に日に新たにされてゆきます。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(二コリ4:17)──われらは目に見えないものへ目を注ぎます、見えないものは永遠に存続するからです。
 われらの地上の棲み家である幕屋が滅びても、われらは知っています、神によって天に永遠の住処が用意されていることを。われらが地上の幕屋に在って日々悶え苦しむのは、天に用意された永遠の住処を上に着たいからに他なりません。われらが地上の幕屋に棲み、重荷を背負うて呻いているのは、なにも地上の棲み家を脱ぎ捨てたいからではなく、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために」(二コリ5:4)天から与えられる住処を着たいからなのです。われらは神によって、そうするに相応しい者とされました。その保証として、神はわれらに“霊”を与えてくれました……。
 体を棲み家としている限り主からは離れている、と、われらは知っています。目に見えるものに拠らず、信仰に拠って歩んでいるからです。そうして体を離れて、主の許に住むことを希望しています。為にわれらは、体を棲み家としているにしても、体を離れているにしても、主に喜ばれるような存在でありたいのです。
 「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(二コリ5:10)

 引用もした二コリ4:8-9「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」が、本日読む章の窮極的一言、まとめの一言であるように思えます。
 それを補うのが、やはりこちらも引用した二コリ4:17「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」であります。
 これらが相互に働きかけて、パウロが本章にて拮抗した文章を用いて説く教えの結論的役割を担うておるのだ、とわたくしは考えます。手抜きではなく、本章の原稿をPagesで入力するにあたって次第に斯く思うようになったのであります。



 お気付きの方もあろうかと思うが、これから数日の間、本ブログの更新時間を毎日午前2時から「当日中」ということで変更させていただく。基本的には日付の変わる直前となることが多かろうけれど、当方の体調もなかなか元に戻らず相当きつい状態が続いているので、なにとぞご理解を賜りたい。
 むろん、毎日更新という原則は崩れない。「コリントの信徒への手紙 二」の読書と原稿執筆は既に半分を消化し、あと5日程で読了する。順調な読書ペースだ。予定通り今月中に終わらせるには、1日2回更新せねばならぬ日が1度だけ生じるけれど、特に問題あるまいと思う。
 偶に音楽から離れたことをエッセイに書こうと思うたら、このような本ブログにまつわる自己弁護めいた内容になってしまった。芸のないことだとは自分でも呆れている。丸頭の少年に倣って、わたくしも溜め息交じりに呟こう、good grief、と。◆

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第2170日目2/2 〈コリントの信徒への手紙・二第3章:〈新しい契約の奉仕者〉withiPhone7 Plusに256GBモデルが検討されている、という噂に寄せて。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第3章です。

 二コリ3:1-18〈新しい契約の奉仕者〉
 われらの活動にはあなた方からの推薦状が必要でしょうか。或いは、あなた方へ宛てた誰かからの推薦状が必要でしょうか。いいえ、それは必要ありません。
 「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(二コリ3:2-6)
 死に仕える務めさえ栄光を帯びるなら、霊に仕える務めは尚更栄光を帯びるはず。人を死に定める務めが栄光を纏うなら、人を義とする務めは尚更栄光を纏うはず。かつて栄光を与えられていたものも、遙かに優れた栄光のためにいまや霞んで失われている。このように、消え去るべきものが栄光を帯びていたら、永続するものは尚更栄光に包まれているはず。違うでしょうか。
 われらはこうした希望を抱くから、確信に満ちあふれて振る舞っています。かつてモーセは、消え去るべきものの最後をイスラエルの民に見られまいとして顔に覆いを掛けました。われらはそのようなことはしません。
 が、イスラエル/ユダヤの民の考えは鈍り、今日に至るも律法が読まれるときは心に覆いが掛けられたままになっています。覆いが取り除かれるとすれば、キリストへの信仰に基づいて律法を理解するときであります。主なる方の方へ向けば覆いは取り除かれる、というのはこういうことなのであります。
 「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリ3:17-18)

 使徒の推薦状は教会であり、信徒である──少し長い引用になりましたが、パウロは本章に於いて喜びと自信を持って書き綴っています。その上で新しい契約に仕えるための資格や、霊に仕えることで身に纏う栄光について触れる。
  では、この新しい契約とはなにか、といえば、最後の晩餐の席でイエスがぶどう酒を注いでの台詞、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20 ex;マタ26:28、マコ14:24、一コリ11:25)に基づいて、人類の罪を赦すものである、とわかります。なぜならば、イエスはすべての人の罪のため、自身は罪がないのに十字架に掛かって血を流したから。
 パウロの説く神学は時に<十字架の神学>と呼ばれます。当初はその概念などよくわからぬままでいたのですが、こうして書簡を読み進めてくるに従って折節この点を考えるようになると、だんだんと、朧気ながら弱々しくもその輪郭が見えてき、内容が窺えてきたように思えるのです。傲慢とも尊大とも一知半解とも中傷されたって構いません。ただ、わたくしは本心から斯く思うのである、と言葉を返すのみであります。そうして返答するわたくしを支える感情は、喜び以外にありません。
 ところで、かつて栄光を与えられたものもいまは遙かに優れた栄光が現れたゆえ霞んで失われている、というのは(二コリ3:10)、なんともわが身につまされる一文でありました……。

 本日の旧約聖書は二コリ3:7と出34:29-30、二コリ3:13と出34:34-35。



 2016年に発売が噂されているiPhone7ですが、まぁ、ヘッドフォン端子がなくなり付属イヤフォンがBluetooth接続になるという点はさておくとして、iPhone7 Plusには256GBモデルがラインナップされているという噂、実現するのでしょうか。
 個人的には実現されてほしい! だって、音楽プレーヤーとしてのiPhoneがいまの自分には手放せなくなっており、片っ端からCDを取り込み、iTunesで購入していること、先日のご報告通りだが、事態は更に逼迫、そろそろ他に支障を来しそうだからであります。
 今日も靴を買いにちょっと離れたショッピング・モールへ出掛けたのですが、そこのブックオフにてベーム=BPOによるモーツァルト後期6大交響曲のCDを発見、序でにAKB48のアルバム2枚(210円+税)も購入。ベーム=BPOによるモーツァルトに関しては、先達ての懸案事項に終止符を打つ形になったわけだから、思わず「わお!」とか「アメイジング!」とか心のなかで叫んじゃいましたけれどね。
 計4枚の音盤を本日新たにiPhoneに取り込んだら、容量は残り25GBであったよ……。ビートルズの全アルバムを取り込むのに、この容量は問題ありなのかなぁ、と不安になってきたりしてね。冒頭のiPhone 7 Plusの話題が生まれたわけです。
 音楽プレーヤとなればAppleでは本来iPodになるはずなのだが、今更ながらiPod Classicを2台ぐらい買いこんでおけばよかった、と悔やまれてなりません。160GBって、ワーグナーの全オペラ(初期作品含む)に加えて交響曲と独立した管弦楽曲、ピアノ曲、歌曲が概ね収まるぐらいの化物じみた容量なのですよ。いまのわたくしの悩みなど、芽を出して深刻な事態を自覚させる程育つのは何年もあとのことだと思いますね──。
 iPhoneではなく、iPod touchの容量が256GBに増えてくれれば、わたくしとしては申し分ないのだが。悩ましいなぁ……。◆

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第2169日目 〈コリントの信徒への手紙・二第1章&第2章:〈挨拶〉、〈コリント訪問の延期〉他with「趣味:iTunesに音楽を取り込むこと」と履歴書に書いてもいいかも。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第1章と第2章です。

 二コリ1:1-2〈挨拶〉
 使徒パウロと兄弟テモテから、コリント教会とアカイア州の聖なる者たちへ。父なる神と主イエス・キリストの恵みと平和が与えられんことを祈って。

 二コリ1:3-11〈苦難と感謝〉
 あらゆる苦難に際して神が与えてくれる慰め。これあるゆえに、われらは、あらゆる苦難のなかにいる人々へ慰めを与えられるのです。われらが受ける慰めはキリストによって満ちあふれたものだからです。
 われらが悩み、苦しむとき、それはあなた方の慰めとなり、救いとなる。われらが慰められるときはあなた方も慰められ、あなた方はわれらの苦しみと同じ苦しみに耐えることができる。
 「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」(二コリ1:7)
 ──かつてわたしはアジア州で筆舌に尽くし難い苦難に遭いました。あなた方にはこれについて是非知ってほしい。このときの経験から、自分自身を恃むのではなく、死者を復活させてくれる神を頼りとするようになりました。これまでも神はわれらを死から救ってくれたし、今後も救ってくれることでしょう。そう希望しています。わたしは神に希望をかけています。
 あなた方も神に祈るよう奨めます。そうすればきっと、多くの人のお陰でわれらへ与えられた慰めについて、多くの人々がわれらへ感謝をささげてくれることでしょう。

 二コリ1:12-2:4〈コリント訪問の延期〉
 われらは就中あなた方に対して、人間の知恵ではなく、神から受けた純真と誠実に基づきその恵みの下に行動してきました。これは良心も証しするところであります。主イエスの来る日、あなた方がわれらの誇りとなり、われらがあなた方の誇りとなることを知っていただきたい。
 斯様な確信に支えられて、わたしはあなた方の許を訪ねようとしました。コリントからマケドニアへ行き、戻ってきたらばコリントからユダヤの地へと、わたしを送り出してほしかったのです。いったいこの計画は軽率だったでしょうか。それともわたしが計画するのは人間的な行いによるもので──つまりそこに福音の宣教とか神や主の御旨の働きなどはまるでなく──、肯定の言葉がそのまま否定の言葉となるような類の行いだったのでしょうか。
 否。はっきり申しあげます。あなた方に対する肯定の言葉、「はい」「然り」は同時に否定の言葉「いいえ」「否」を意味するものではないのです。わたしとシラスとテモテがあなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、肯定の言葉と否定の言葉を同時に語って使い分けるような二枚舌の人ではありませんでした。主イエスに限っていえば、肯定の言葉のみが実現した。為にわれらはこの方を讃える「アーメン」という言葉を唱えます。
 われらとあなた方を固くキリストへ結び付けたのは、神であります。そうして、われらへ油を注いでくれたのも神なのです。その証拠として、神はわれらに“霊”を与えてくれました……。
 ──神を証人とし、命にかけて誓います。わたしが未だコリントへ行かないでいるのは、あなたを想うがこそのことなのです。あなた方は信仰に基づいてしっかりと立っている。わたしはその信仰を支配するつもりはありません。わたしがコリントへ行くことで、あなた方を悲しませるようなことはしない。わたしがコリントへ行くことで、本来ならそれを喜んでくれるはずの人々から却って悲しまれたくはないのです。わたしの喜びはあなた方全員の喜びでもある。わたしはそう確信しています。
 「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(二コリ2:4)

 二コリ2:5-11〈違反者を赦す〉
 もしあなた方のなかに悲しみの原因を作った人がいれば、その人はわたしではなく、あなた方全体を悲しませたのです。その人については、たくさんの者から受けた罰だけでじゅうぶんです。
 「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」(二コリ2:7-8)
 以前に書いた手紙でわたしは、万事に於いてあなた方が従順であるか、試しました。
 あなた方が赦す相手をわたしも赦します。わたしが赦したとすれば、キリストの前であなた方のために赦したことになります。それは、サタンの誘惑に心迷わされないため。わたしはサタンの手法を知っているのです。

 二コリ2:12-17〈パウロの不安と安心〉
 わたしは小アジアのミシア州トロアスへ行きました。そこはイエス・キリストの福音のための門が開かれていました。が、そこで落ち合うはずの兄弟テトスには会えませんでした。不安な心を抱えたまま、わたしはそこを発って海を渡り、対岸のマケドニア州へ赴いたのでありました。
 神に感謝。神はわれらを、主イエス・キリストの勝利の行進に連ならせてくれます。われらを通じて全地隈無くキリストを知るてふ知識の香りを漂わせてくれる。われらはキリストによってささげられる、良い香りです。救いの道を歩む者にも、滅びの道を辿る者にも。それは、滅びる者には死の香りとなり、救われる者には命の香りとなるのです。
 「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(二コリ2:17)

 パウロのコリント訪問の希望は既に一コリ16:6に出ておりました。二コリ1:23-2:1で訪問延期を報告するのは、それを承けてのことでありましょう。
 二コリ1:8でパウロはアジア州で自らの受けた大きな迫害について触れています。具体的なところは記さず、耐え難い程の圧迫を受けたこと、死の宣告を受けたような気分だったこと、それのみ述べるのですが、果たして「使徒言行録」はなにか参考になる記事を載せているでしょうか。
 実はこれに触れる註釈は聖書によって、というよりも担当者によって異なってしまうのですが、どの出来事を指すのかは概ね一致している様子であります。
 たとえばフランシスコ会訳では使9:23-40(ex;一コリ15:32)とあり、新共同訳新約聖書スタディ版では使20:17-19を指す、とある。前者は回心直後のサウロをユダヤ人が殺害しようと企んでいる場面ですが、第40節まで含む話ではありません。参考として挙げられる一コリ15:32に従えば第3回宣教旅行の途次、エフェソでの、アルテミス神殿の騒動を指すことになります。おそらくフランシスコ会訳の註釈は「使9」ではなく「使19」の誤植でありましょう。
 一方、スタディ版に従うと、第3回宣教旅行の終わり方、エフェソの長老たちを前に今回の旅行で遭遇したアジア州での困難を語るとなる。おそらくここも主眼とするのはエフェソのアルテミス神殿での一件でありましょうから、両者は同じ出来事を憶測する結果となる。
 「使徒言行録」はアジア州での、死を覚悟させるような大きな騒動は他に伝えませんから、やはり本書簡でパウロがいうのは、エフェソのアルテミス神殿での一件と捉えてよさそうです。もっとも、書かれていない事柄がないとは限りませんので、あくまでこれは「であろう」の域に留まり、「そうであるのに違いない」とは断言できないことであります。
 二コリ2:6には「その人には、多数の者から受けたあの罰だけで十分です」とある。これはパウロの反対者がパウロを糾弾したとき、コリントの信徒が公の場で、公衆の面前で、相手に「否」の言葉を突きつけ、非難したことをいうのであります。
 わたくしが「コリントの信徒への手紙 二」でいちばん好きな言葉が、上記〈違反者を赦す〉のなかにあります。本文中で引用もした言葉ですが、罪を犯した者へ手を差し伸べて孤独にしてはならない、相手を愛しなさい、とパウロはいう。これなのです、すべての弱き人に必要な言葉は。なんと涙があふれそうになる、あたたかな言葉でありますことよ。



 iPhone6sPlusの容量が既に50GBを切っています──128GBのモデルなのですけれどね。容量をいちばん食っているのは、音楽でした。iTunesから購入したものはほんの少しで、他は架蔵のCDと、県立図書館や友人知人、TSUTAYAで借りてきたCDが専ら。
 ジャンルは……訊かないで。百花繚乱といえば聞こえはいいが、相当に雑食の傾向を呈している。なんというてもは<バッハからPerfumeまで>(敢えてSKE48とはいわない)を標榜する自分である、ルネサンス音楽からロック、J-Popまで揃ってしまっています。
 最近になって再びヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハを聴き返したいな、と思う一方でビートルズのアルバムをリリース順に聴き始め、これまで聴いてきたのとは違う演奏家でモーツァルトのオーケストラ曲を系統立てて聴く、という道楽に目覚めてしまうたので、もう拍車が止まらない状態であります。
 もはや、ケ・セラ・セラ、と諦念の微笑を湛えて「趣味:iTunesに音楽を取り込むこと」を究めるしか他になさそうだな……。
 後日、カール・ベーム=ベルリン・フィルによるモーツァルト後期6大交響曲にまつわるお話をこのエッセイ部分でさせていただく予定だが、それもiPhone6sPlusに取り込もうという思い付きに端を発している。進歩の兆しのまったくないエッセイであるが、こちらは相当面白がって書いているので、なにとぞご笑読いただければ幸甚であります。◆

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第2168日目 〈「コリントの信徒への手紙 二」前夜〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 「コリントの信徒への手紙 二」は57-58年頃、マケドニア州にて書かれたパウロ書簡の一つであります。かれの随伴者の1人、ルカはその著「使徒言行録」でパウロが第3回宣教旅行の終盤、マケドニア州入りしたことを伝えています(使20:14)。これがちょうど57-58年頃の出来事なのでした。
 前回の書簡の数年後に、同じ教会宛ての手紙を書いたのはどうしてなのでしょう。一旦悪習に染まったコリント教会は、パウロのからの手紙を以てしても完全に立ち帰ることはできなかったのか──それはおそらく「否」であります。手紙へ込められたパウロの神学と信念、熱意は、悪習に耽る(一部の)コリントの信徒たちの心を動かし、またそれを運んだパウロの優秀な協力者テトスも教会の正常化に一役買ったものと思われます。
 では、「二コリ」が書かれねばならなかった理由は? 「二コリ」に於けるパウロの文章から判断するに、どうやら「一コリ」以後のコリント教会にはパウロを否定する輩/一派が誕生したようであります。これが元からいた信徒であったのか、外から流れてきた者であったのかは不明です。いずれにせよ、パウロの主張や教え、神学に拒絶反応を示し、使徒としてのパウロの資格や能力に疑を呈すばかりか、その容貌にまで反パウロ派の舌鋒は及んだ様子。こうした連衆の批判に答えるパウロの心痛は、果たして如何ばかりであったでしょうか。が、それは一方でパウロの信仰と情熱をいや増すことになり、かれを支えたはずであります。自らの思想が精錬されてゆくのを、きっとかれは実感しつつ、ひたすら福音のために奉公したのでしょう。大きな反対に遭ってこそ人間は逞しくなってゆきます。われらはその例を、他ならぬパウロに見るのであります。
 なお、パウロはコリント教会宛に幾通かの手紙を書き送っております。実際のところ、それは何通であったのか、定かでありませんけれど、4通から5通は存在したことであろう、とされております。それを列記すると以下のようであります、──
 1;一コリ5:9「わたしは以前手紙で、みだらな者とは交際してはいけないと書きましたが」云々
 2;コリントの信徒への手紙・一
 3;二コリ2:4「悩みと憂いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」
 4;二コリ7:8-9「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても」云々
 5;コリントの信徒への手紙・二
 6;二コリ6:14-7:1(4まで?)を含む別書簡
 内、1と3と4は今日、既に失われております。6も、別書簡の存在は確かに疑問ではありますが、実在したとすれば、挙げた箇所以外の部分は散逸したことでありましょう。また3と4は同一書簡を指すとも考えられております。
 従来根強くいわれてきたのは、「二コリ」は複数の手紙を編集した成立した、という考えでした。これについてわたくしが語る資格は能力共々ありませんので、自身の判断は保留させていただきますが、読書してゆく過程で自分の意見が形作られてゆくかもしれません。そのときは改めてお話ししたく思います。ただ、これから「二コリ」を読んでゆくなかで統一感を欠くように思えたり、まとまりがないように感じたり、内容が中途半端であったりいきなり話題が変わったりしたように思えたら、「二コリ」の成立について昔からいわれてきたこの複数書簡の編集説を思い出しても良いかもしれませんね。
 それでは明日から1日1章の原則で、「コリントの信徒への手紙 二」を読んでゆきましょう。◆

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