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第2213日目 〈エフェソの信徒への手紙第6章:〈悪と戦え〉、〈結びの言葉〉他withエフェソ書読了の挨拶。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第6章です。

 エフェ6:1-4〈子と親〉
 子供たちは主に結ばれている者として両親に従いなさい。父と母を敬え、とは約束を伴う最初の掟です。
 父親たちは子供を怒らせてはならない。主が躾け、諭すようにして、子供たちを育てなさい。

 エフェ6:5-9〈奴隷と主人〉
 奴隷たちは肉による主人に従いなさい。恐れ戦き真心を以て、キリストへ仕えるが如く主人に仕えよ。奴隷の身分であったとしても、善いことを行えば主から報いを受けられるのだから。
 主人たちは奴隷をキリストの如くに扱いなさい。ゆめ虐げてはならぬ。主人の上にも奴隷の上にも、等しく同じ神がいて、人を分け隔てることはないのだから。

 エフェ6:10-20〈悪と戦え〉
 エフェソの聖なる者たちよ、これが最後の奨めです。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェ6:10-12)
 邪悪な日の訪れに供えて、いつその時が来ても抵抗してしっかりと立っていられるように、神の武具を着けてそれに臨め。また、どのようなときも“霊”の助けを得て祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために絶えず目を覚まして根気よく祈り続けよ。
 「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェ6:19-20)

 エフェ6:21-23〈結びの言葉〉
 われらの様子を皆さんに知ってもらうため、ティキコをそちらへ派遣します。かれはわたしの宣教旅行の同伴者の1人で、主に結ばれた、わが愛する兄弟です。あなた方はティキコから、心に励ましを受けることでしょう。
 どうぞあなた方へ平和と愛が、父である神と主キリストからありますように。恵みが、変わることなき愛を以て主キリストを愛するすべての人々へ共にあらんことを。

 新共同訳新約聖書の本章の訳文は徹底的に改めるべきです。日本語として機能していない文章から神の御心を知れなど無理な話。がちがちの朴念仁どもに依拠してばかりでなく、ユダヤ教/キリスト教に明るい職業翻訳家も翻訳チームに交えて、日本語として読める聖書を作りあげてくれ。ドイツ語に於けるルター訳の如く、英語に於ける欽定訳聖書の如く、日本語の文章の模範となるような、かつての文語訳のように影響力ある聖書を残してくれ。それが文章に異様にこだわりたい本ブログ主からの希望であり、要求であります。
 それはさておき。
 正直なところ、何度読んでもよくわからぬ文章のお陰もあってか、本章の前半は読み流しても構わないでしょう。わずか一行に惹かれるものはあると雖もそれ以外の箇所はまるでどうでもいい。少なくとも、これまでと同じ姿勢で臨む必要はまったくない、と判断しました。上の本文をお読みいただいて、なんだか薄い文章だな、とお感じの方が居られれば、わたくしのなかば投げ遣りな読書姿勢が影響したのだ、と思うていただいて結構です。
 〈悪と戦え〉でパウロは神の武具を着けて云々と述べますが、おわかりのように本文ではばっさり削除しました。ちょっと落ち着かないので補記しておきます。
 帯:真理
 胸当て:正義
 履物:平和の福音を告げる準備
 盾:信仰
 兜:救い
 霊の剣:神の言葉、以上であります(エフェ6:14-17)
 ──おそらくは本書簡を携えてエフェソへ向かったであろうは、第3回宣教旅行の随伴者の1人、アジア州出身のティキコでした。随伴者として選ばれたことから、アジア州内の諸教会では知られた存在で、特に信仰に篤かっただろうことが想像できます。残念ながらプロフィールが知られないティキコの初出は使20:4。本章第21節の他、「テモテへの手紙 二」第4章第12節でも名前が出ます。

 本日の旧約聖書はエフェ6:2-3と出20:12及び申5:16。



 最後に新共同訳聖書の訳文について愚痴っちまったが、そんなことはあっても「エフェソの信徒への手紙」は本日で読了となる。1週間以内で読み切れる書物は久しぶりだ、と以前に書きましたが、実際終わってみると、本当にこれで全部だったのかなぁ、と不安になってしまいます。でも、読了は本当の話。信じろ、俺。
 最終日にあたり、読者諸兄に感謝します。過去に何度となくいうたかもしれないが、事実なので何度だって述べる。あなた方なくして本ブログの継続はあり得ぬし、わたくしもあなた方なくして会社帰りの読書と執筆に耽ったりはしない。たとい亡き婚約者とテロの犠牲となった友らの追想と雖も、斯くも本腰を入れて本ブログのための時間を割くのは、読者諸兄あってのこと。
 数は少ないながらも年来の読者の方々へ、また、新規参入であってもお気に召していただきそのままお読みくださっている方々へ、わたくしは心よりの感謝をささげる。これを一言でいえば、ありがとう、という言葉に結ばれる。
 次の「フィリピの信徒への手紙」を明日から読むか、明後日から読むか、まだ決めかねていますが、再開の日まで皆様がご健勝でありますように。道の果ての開拓地へ、誰も行ってしまいませんように。◆

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第2212日目 〈エフェソの信徒への手紙第5章2/2:〈光の子として生きる〉&〈妻と夫〉with〈獄中書簡〉読書の今後について、及び有川浩『ストーリーセラー』読了の報告。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第5章2/2です。

 エフェ5:6-20〈光の子として生きる〉
 空しい言葉に惑わされるな。神の怒りは不従順な者の上に降る。あなた方はもう暗闇に住まう者ではない。主に結ばれて光となった。ゆえに光の子として歩みなさい。光からこそ、あらゆる善意と正義と真実が生まれるのです。
 未だ暗闇に住まう者の為すことはけっして主の喜んでくれることのない、口にするのも恥ずべき行いの数々。そんな実を結ぶことのない暗闇の業に加わってはなりません。
 どうか、愚かな者としてではなく賢い者として、細かく気を配って歩きなさい。時をよく用いるのです──いまは悪い時代ですが、だからというて無分別な者とならず、主の御心が奈辺にあるかをよく考えなさい。
 「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(エフェ5:18-20)

 エフェ5:21-33〈妻と夫〉
 夫婦はキリストに対する畏れを持って互いに仕え合いなさい。キリストが教会の頭であり、それゆえに教会がキリストに仕えるのと同じように、妻は頭である夫に仕えなさい。すべての面で妻は夫に仕えるべきなのです。
 夫たちは妻を愛しなさい。キリストが教会を愛し、教会のために自分を与えたのは、洗礼によって教会を清めて聖なる者とし、汚れなき、聖なる、栄光に輝く教会を自分の前に立たせるためでした。夫もそのように、あたかも自分の体の如く妻を愛さなくてはなりません。
 夫婦はキリストの体の一部。それは聖書にある、それゆえに人は両親から離れてその妻と結ばれ、2人は一体となる、ということなのです。
 「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェ5:33)

 あなた方は自分の体の如く妻を愛せ(エフェ5:28)──この文言は一読すぐにはわかりにくいかもしれません。でも、ちょっと考えればわかることだと思います。
 といいますのも、体はその人の活動と生活を支え、維持する最も大事なものだからであります。よく<体は資本>といいますが、換言すれば健康な体があってこそ、人間は正しいことを為し、天に徳を積み、愛と正義と信仰の業を行うことができる。誠、肉体は人生の良きパートナーなのであります。
 夫にとって妻は、体と同じように大切に、気を遣って扱うべき存在であり、同時に最良の、否、唯一無二のパートナーなのだ。パウロはちと遠回しな表現で奥様を愛しなさい(愛し抜きなさい)、大切にしなさい、というておるのです。伴侶を指して「ベターハーフ」と称するのも宜なるかな、と思います。
 それにしても羨ましい話。だってわたくしが今後妻帯する可能性なんて万に一つもないのですから。

 本日の旧約聖書はエフェ5:31と創2:24。



 先日、本ブログの今後について、聖書読書ノート完了後を視野に入れて述べました。今回は現在読書中の〈獄中書簡〉に関して、このあとの予定をお知らせしておきます。
 「エフェソの信徒への手紙」、「フィリピの信徒への手紙」、「コロサイの信徒への手紙」、「フィレモンへの手紙」の4つをまとめて斯く称すのだ、ということは〈エフェソ・前夜〉(第2207日目)で説明致しました。これらが順番に収められていれば、いまこうした文章は書いていません。というのも、「コロサイ」と「フィレモン」の間には2つの「テサロニケの信徒への手紙」と〈牧会書簡〉としてまとめられる2つの「テモテへの手紙」と「テトスへの手紙」があるからです。
 一時、似たような挿話が続く福音書の読書を退屈することなく消化するために、「使徒言行録」や〈4大書簡〉を途中で挟んでゆこうか、と企んだことがありました。結局そんな馬鹿げたことをしなくてよかった、と安堵した次第ですが、今回は少々話が異なります。
 そこで様々悩んだ挙げ句、変則的ではありますが、「コロサイ」読了後は狭間の5つを飛び越して「フィレモン」を読み、まずは〈獄中書簡〉を終わらせてしまうことにしました。そのあとは1番目の「テサロニケ」へ戻って、しれっ、とした顔で順番に読み進めてゆきます。従ってパウロ書簡で最後に読むものは、〈牧会書簡〉の「テトス」になるわけであります。
 今回の報告と判断を読者諸兄が諒としてくださいますように。サンキャー。
 

 有川浩『ストーリーセラー』(新潮社)を今日(昨日ですか)読了。Side:Aも良いが、わたくしは書き下ろしのSide:Bの方が好きです。
 次は『空飛ぶ広報室』か『明日の子供たち』か、或いは『キャロリング』か。迷うなぁ……。ところでド氏の『未成年』はどうなっちゃったんでしょうね。あは!◆

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第2211日目 〈エフェソの信徒への手紙第4章&第5章1/2:〈古い生き方を捨てる〉、〈新しい生き方〉他with可処分所得が増えたなら、……〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第4章と第5章1/2です。

 エフェ4:1-16〈キリストの体は一つ〉
 わたしはあなた方へ奨めます。神に招かれたのならばその招きに相応しく歩みなさい。高ぶらず、柔和で、寛容の心を持ってください。愛を以て互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つよう努めるのです。主は1人です。信仰は1つしかなく、洗礼も1つしかありません。すべての父である神は唯一です。神はすべてものの上にあり、すべてのものを通して働きかけ、すべてのものの内にいます。
 聖なる者たちはそれぞれの分に応じて奉仕の業に尽くす。或る者は使徒に、或る者は福音宣教者に、或る者は教師や牧者に、といった具合に。斯くしてわれらは皆神の子に対する知識と信仰に於いて1つのものとなり、成熟した人間となり、満ちあふれるキリストの豊かさになるまで成長するのであります。もう未熟な者ではありません。風評や、風が吹く度毎に変わる教えに玩ばれたり、惑わされたり、迷わされたりしません。愛に根ざして語り、キリストへ向かって成長してゆくのです。
 体全体はキリストによって結ばれて1つとなり、各部位はそれぞれの分に応じて働き、自ら愛によって造り上げられてゆく。

 エフェ4:17-24〈古い生き方を捨てる〉
 あなた方は未だキリスト者にあらざる異邦人と同じような、知性は暗く、無知で頑な、そうして淫蕩な生活を送ってはなりません。あなた方はキリストによって結ばれた神の家族なのです。
 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェ4:22-24)

 エフェ4:25-5:5〈新しい生き方〉
 エフェソの聖なる人々よ。偽りを捨てて、各々が隣人に対して真実を語るようにしなさい。われらは互いに体の一部なのです。
 たとい怒ることがあってとしても、罪を犯してはならない。怒りを持続させてはなりません。それは悪魔に付け入る隙を与えるだけです。
 泥棒はこれまでの所業を改めて、今日から盗みを働いたりしてはなりません。労苦して得た正当な収入のなかから困っている人々へ分け与えなさい。
 誹謗中傷、それに類する悪い言葉を口にしてはならない。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェ4:29)
 神の聖霊を悲しませるな。あなた方は聖霊によって贖いの日に対して保証されているのだから。
 無慈悲、憤り、怒り、喚き、妬み誹りなど<負>の感情、<負>の行いの一切を捨てなさい。互いに親切にしなさい。憐れみの心で接しなさい。赦し合いなさい。
 ──あなたは神に倣う者となれ。キリストのように、愛によって歩む者となれ。自らを貶め、下劣と後ろ指指されるような言動を取るな。
 それよりも、感謝を。あなた方はかれらと違い、キリストと神の国を受け継ぐことができるのだから。

 本章はとても良い章であります。人間如何に生きるべきか、については、西洋に於いてはギリシアやローマの哲学者たちにより、東洋に於いては孔子を筆頭に数多の思想家たちにより、説かれ、書かれ、そうして幾万という人々に読まれてきました。この流れが実に今日に至るまで絶えることなく続いていることは、書店へ行けば一目瞭然でありましょう。
 聖書のなかでも度々それは取り挙げられてきましたが、本章はそのなかでもいちばんわかりやすく、具体的で、実践的であります。これが人間教育の現場に適用されると敬虔な人物ができあがることは簡単に想像できます。
 が、わたくしは本章を読んで牧者の誰彼よりも真っ先に、カール・ヒルティやハマトンを想起したのであります。さほど突飛な連想ではない。新しい生き方として提示されたパウロの意見はその後千数百年にわたって西洋社会で醸造されて熟成し、やがてかれらのような人物を生み出す背骨となったわけですから。ヒルティやハマトンの人物像に想いを巡らし、またその著作に親しんだならば、わたくしのこの発言に違和感を覚えるどころか賛意を示してくださる方はきっと多い、と信じております。

 本日の旧約聖書はエフェ4:8と詩68:19,エフェ4:25とゼカ8:16,エフェ4:26と詩4:5(70人訳)。



 学生時代の読書は文庫が中心で、とてもではないが単行本を買うことなどできなかった。小説にしろ、人文科学の本にしろ、単行本は図書館で借りるか、新刊書店で立ち読みするものと相場が決まっていた。古本屋を数に入れないのは個人的理由によるので、いまは触れない。
 所謂可処分所得が少ないと、書籍購入代に充てられる金額はその分シビアになる。探し歩いて、吟味して、諦めがつけばそのまま暫しの、或いは永遠のお別れ。諦められなければ……清水の舞台から飛び降りる覚悟でレジへ運ぶ。学生時代は古本屋の街で過ごしたので、安価で良書がずいぶんと買えたものだが、内情は変わらない。使える金額が少なければ少ないだけに、……。
 社会人になってどれだけの歳月が流れたことやら知れぬ。今日に至るまでの間、なにを得て、なにを失くしたか、倩考え始めればキリがない。
 が、これだけは確実にいえる──お給料をもらうようになって、単行本を買うことに憂いがなくなった、と。むろん、購入するかどうかの迷いは未だにあるけれど、躊躇することは格段に減ったように思う。衝動買いが増えたとは単行本に関しては思わないが、欲しい、と思ったときに運良くお財布にお札が数枚入っていれば、よし、と内心頷いてレジへ直行できるのは幸せだ。時には序でに何冊かの文庫や単行本も物色したりしてね。
 大人になると単行本の購入が増えるのは自分に限ったことではないし、大人になって単行本の購入に躊躇いがなくなってくるのは勿論可処分所得が増えたことに理由がある。が、ここにもう1つ、わたくしなりに理由を付け加えれば、文庫本にならずに消えてゆく単行本のなかにどれだけ自分好みのものがあるか、そのなかにどれだけ自分が必要としているものがあることか、という事実に気が付いてしまったせいもある。
 小説の場合、時代小説で文庫本化されていない名作は幾らでもあるよ。わたくしは江戸時代の文芸に携わった人々の小説を読むのが好きなのだけれど、一部有名作家の作物を除けば結局単行本のお世話になるより他ない。人文科学の本に至っては逆に文庫で読めるものがどれだけあることやら。
 とまれ、わたくしは今日も今日とて読みたい本を探しに書店へ出向き、読みたい単行本があれば内容吟味の上、レジへ運んで、その後に訪れる一時の読書の桃源郷を愉しむのである。◆

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第2210日目 〈エフェソの信徒への手紙第3章:〈異邦人のためのパウロの働き〉&〈キリストの愛を知る〉with相手の目を見て物をいえ。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第3章です。

 エフェ3:1-13〈異邦人のためのパウロの働き〉
 わたしはあなた方異邦人のためにキリスト・イエスの囚人になっています。
 この手紙の冒頭で書いたように、神による秘められた計画の啓示がわたしへもたらされました。キリスト以前は何人も知らされていなかったこの計画は、いまでは“霊”ゆえにキリストの聖なる使徒たち、預言者たちへ啓示されています。つまり、異邦人と雖も福音によってキリストに於いて、約束されていたものをわれらと一緒に受け継ぎ、同じキリストの体に属し、同じ約束に与る者となったわけです。
 神はこの世でもっともつまらなくて卑しい者、つまりわたしパウロに、異邦人への宣教者たることを課しました。と同時に、神のその力を以てわたしは恵みを賜ったのであります。わたしはその恵みにより、キリストの計り知れない富──福音について異邦人へ告げ知らせて回り、万物の創造主である神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が如何にして実現されるのか、それを説き明かして回っています。
 今日、そうした神の知恵や計画は教会によってあまねく知られるようになりました。これは神による永遠の計画が主イエス・キリストによって実現されるためなのです。
 「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェ3:12-13)

 エフェ3:14-21〈キリストの愛を知る〉
 わたしは祈ります、御父の前に跪き。
 どうか御父がその豊かな栄光、その霊により、力を以てあなた方の内なる人を強め、信仰によりあなたの心の内にキリストを住まわせてくれますように。どうかあなた方が御父によって愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となりますように。
 「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェ3:18-19)
 ああ、わたしたちが望んだり思ったりする以上のことをかなえられる神に、栄光が世々限りなくありますように。教会と、キリストによって。アーメン。

 これまでわれらは「ロマ書」から始まって5つのパウロ書簡を読み、いまはこうして6つめのものを読んでいます。
 日本語で読んでいるため表面的な事柄しか窺えないときもありますが、瞥見していずれにも共通して出て来る話題があるのはなんとも興味深いものだと思います。そのうちの1つが、使徒としての、宣教者としての役目を陳述した件であります。むろん、その度毎に小見出しが設けられているわけでありません。本文のなかへ組みこまれているものだってある。
 そこに気附いて改めて読み返してみると、面白い。そうして推理してしまう──なぜパウロはあたかも変奏曲の如く、ここの書簡に於いて自身の役目について書いたのだろうか、と。ここまで読んだ手紙が偶々そうした記述を持つだけで、次に読むものからはそんな意味の文章はまるで出て来ないかもしれない。あり得ることだ。偶々こうした記述を持つ手紙が残って、新約聖書に収められただけなのかもしれない。じゅうぶんあり得ることだ。
 どちらであったにせよ、異邦の信徒たちへ手紙を書き送るにあたって都度パウロは自身に課された役目/職務、自身が使徒として選ばれた正当性を語らずにはいられなかったのでしょう。パウロを偽使徒と称して腐し、その資格を疑い、貶める者らのいたことは「使徒言行録」や「コリントの信徒への手紙 二」、「ガラテヤの信徒への手紙」に明らかでありました。パウロは目に映らぬけれども確実に存在する無理解者、迫害者の存在を念頭に置いて、手紙の筆を執っていたのかもしれませんね。



 相手の目を見て物のいえぬ輩が増えて呆れてしまいます。
 たとえば。相応に目を惹く容貌の女性が本日、行き付けの某飲食店に居ってな。マホでLINEするのが最優先らしく指だけ器用に動かして、注文を取りに来た店員など一瞥もせずにぼそぼそした声で注文。聞き取れなかった店員が今一度聞き返すと逆上してスマホをテーブルに叩きつけて、こっちは忙しいんだよ、一度で聞き取れ馬鹿野郎! とかの女性はぶち切れた。
 哀れなり、テーブル。哀れなり、画面のひび割れたスマホ。後者についてはこうもいえよう、自業自得、と。更に哀れと思うのは、その場に於ける優先事項の判断を誤って、挙げ句に己の評価を自ら落とした件の女性だ。テーブルと店員には同情申しあげるが、スマホと持ち主の女性についてはいささかの情も湧かぬ。蔑むばかりじゃ。ニンジンと干瓢ばかりの駅弁にも劣る。
 が、こんなのは実際に目撃し得た、氷山の一角。会社にもいます、どんなところにもいます、こうした人。場合によっては自分だって知らず行っているかもしれない。が、しつこく付きまとう小売業の店員を無視したいときだけだ、こんな技が通用するのは。せめて人になにかを頼むときは相手の目を見て物をいえ。そんな当たり前のことができないって、いったいどんな育ち方をしたのだろう、と小首を傾げるね。
 社会人としては勿論だけれど、こうしたことって小学生や幼稚園児でも必要でしょ。ということは、物心ついたときには教えられていなければ可笑しいのでないのかな。まぁ、そこまでゆくと親の育て方、という話になるのだろうけれど、それは間違っている。要は本人の問題だろう。
 人として当たり前のことができない人など、どれだけ世間から敬われたり好かれたりしていても、わたくしは信じない。信じられません。どれだけ立派な地位に在って尊敬されているようでもモラル欠落者として世にはびこるぐらいなら、酸いも甘いも知った者として善き業を行って社会の片隅で無名のまま暮らす方が、どれだけ幸せであることか。前者が語る人生は金メッキ、後者が語る人生は本物。そんな分け方もできるかな。◆

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第2209日目 〈エフェソの信徒への手紙第2章:〈死から命へ〉&〈キリストにおいて一つとなる〉with本ブログの今後について。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第2章です。

 エフェ2:1-10〈死から命へ〉
 以前までのあなた方は自分の過ちと罪のために死んでいました。肉体は生きていても、霊は死んでいたのです。それというのもあなた方はこれまで、世を支配する者、かの中空を勢力下に置く者といった不従順な者らのなかにある霊に従っていたからです。
 われらもかつてはこうした諸霊に従っていました。われらの神と無縁な生を営む者らに混じって、いつしか罪に彩られた放埒な生活を送っていたのです。が、神はそんなわれらに憐れみをかけて、この上なく愛してくれました。加えてその愛によって、罪ゆえに死者となっていたわれらを、われらの罪を贖って死んで復活したキリストと共に生かし、共に天の王座へ着かせてくれもした。
 「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エフェ2:7-8)
 これは神の賜物なのですよ。自分の力で為された行いではありません。何人と雖も誇ることがないようにするためです。また、神が前以て準備していた善き業のために行き、歩むためです。

 エフェ2:11-22〈キリストにおいて一つとなる〉
 そのことを心に留めておきなさい。かつてあなた方は異邦人と呼ばれ、割礼を受けていない者と称されました。キリストを知らず、イスラエルの民と関係を持たず、約束を含む契約と無縁で、この世に希望を抱くことなく神を知らぬまま、あなた方は生きてきた。が、もはやそうではない。いまはキリスト・イエスに於いてキリストの血によりそれと近しい者となったのです。
 キリストはわれらが平和。自分の肉に於いて敵意という隔たりの壁を壊し、規則と戒律に縛られて名ばかりとなった律法を棄てました。キリストは十字架を通して両者を1つに結び合わせ、神と和解させた。そうして十字架によって敵意を滅ぼした。
 「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェ2:17-18)
 従ってあなた方はもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者であり、神の家族なのです。いまのあなた方は使徒や預言者を土台としたその上に建てられている。その要、その礎石は勿論、キリスト自身であります。キリストに於いて土台の上のものは成長し、結び合わされて教会または聖なる神殿となる。あなた方も霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 キリストに於いて1つに結びあわされた者は、誰もが神の子、神の家族である。それは即ち自分の内にこそ神は在る、という以前読んだ書簡にてパウロが発信したメッセージへつながります。
 他のパウロ書簡で述べられていたそのことが本章でも再び取り挙げられることで、<点>の状態で頭のなかにあったものが他と関連附けられてゆく。これまで暗くてよく見えなかった<点>の周囲に光が射して、以前に述べられてそのままにしてあった他書簡或いは<点>が案外近くにあって、しかも双方をつなげる線が件の<点>と<点>の間に見えたことで、立体的に物事が把握できてくる実感を、徐々に抱くことができます。読書の継続なくして斯様な経験はありますまい。
 エフェ2:2「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い」はなんだかとってもカッコイイ文言だなぁ、と鼻の下を伸ばし、エフェ2:12「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」はちょっと言い過ぎというかエフェソの信徒の過去についてどうして斯くも傷口に塩を塗りこめるようなことをこの人はしでかすのだろう、と思わず頭を振っちゃったことでありますよ。



 そろそろ本格的に考え出さなくてはならない時期が来たようです。あと半年もすればお別れなのですから。
 病気や怠惰、事故等がない限り本ブログは予定通り、夏の終わり頃に聖書全巻の読書を終えて大尾となります。その後について考えておかなくてはならないな、と、仕事と原稿書きを終えて夜の街を歩きながら、最近頓に思うようになったのであります。
 当初目論んでいた、たとえばトマスやユダの福音書や新約聖書外典、死海文書やナグ・ハマディ文書などの原稿を、すくなくとも現在と同じような形で本ブログに発表することはないでしょう。力尽きたのだろう、といわれては返す言葉がありませんけれど、むしろ疑問を抱いた、という方がより真実に近いかもしれません。
 ……自分は聖書やユダヤ教/キリスト教に精通したいのか。否。約束を果たす、という意味では旧約・旧約続編・新約を読了してここにこうして記事をお披露目しておれば、それだけでいいはず。そこから逸脱してまで、自分は外典や死海文書等の読書に血道をあげたいのか。否。際限なき薄闇の未来は実人生だけでじゅうぶんであります(大袈裟か)。──もっとも、全体の見渡しができていないから及び腰になっているだけかもしれませんが。
 まぁ、聖書にまつわる未来は現実味が薄いためともかくとして、その後も週に1日か2日程度の感覚でこれまで通りの内容雑多なエッセイ、時には小説をお披露目してゆこうかな、ぐらいには思うております。わたくしは中学生の頃から今日まで途切れることなく文章を書いてきた者なので、骨の髄にまで染みついた道楽ともいうべきこの愉しみを放棄することはできません。
 開設当初からの読者はお気附きかもしれませんね。既に『論語』や『コーラン』、『神曲』などの読書ノートブログを書く意思が、わたくしから消え失せていることを。これはこれで相当に骨の折れる作業ですよ。『論語』は学生時代から実に馴染みのある書物ですから、他に較べればまだ良いかもしれませんね。
 聖書の読書が終わるあと半年のうちに、その後の方向性を見出せるようにしておきましょう。あと半年しかない。でもまだ半年もあるのだ。うむぅ……。◆

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第2208日目 〈エフェソの信徒への手紙第1章:〈挨拶〉、〈神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる〉&〈パウロの祈り〉with新人さんを育てる、ってこと。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第1章です。

 エフェ1:1-2〈挨拶〉
 キリスト・イエスの使徒パウロからエフェソの聖なる者たち、信徒たちへ。神とキリストからの恵みと平和のあらんことを。

 エフェ1:3-14〈神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる〉
 神はわれらをキリストに於いて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくれました。神はわれらをキリストに於いて、聖なる者、汚れなき者として選んだ。実にキリストによって神の子にしようと、神はわれらを選んでいたのです。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(エフェ1:6)
 われらは御子に於いて罪を赦され、その血によって贖われました。前以てキリストに於いて決められていた神の御心に基づく秘めたる計画を知らせるため、神は豊かな恵みをわれらの上に注いであふれさせ、すべての知恵と理解を与えました。斯くして時は至り、救いの業は完成されて、あらゆるものがキリストの下へ一つにまとめられるのであります。
 われらはキリストに於いて約束されたものの相続人。それは以前からキリストに希望を抱いていたわれらが神の栄光を讃えるためなのです。
 われらは約束された聖霊に証印を押されます。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェ1:14)

 エフェ1:15-23〈パウロの祈り〉
 わたしは祈りの度毎に感謝しています。あなた方が主イエスを愛し、すべての聖なる者たちを愛している、と聞いたからです。
 どうかあなた方が主イエス・キリストの御父である神によって知恵と啓示の霊を与えられ、神を深く知り、心の眼が開かされますように。
 どうかあなた方が主イエス・キリストの御父である神によって、その招きによってどのような希望が与えられ、聖なる者たちが受け継ぐ栄光がどれだけ豊かであるか、あなた方が知ることができますように。
 どうかあなた方が主イエス・キリストの御父である神によって、われら信仰者に対して神の振るう力がどれだけ絶対的で偉大、そうして強大なものであるか、どうかあなた方が悟りますように。
 「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェ1:20-23)

 信徒にとってキリストは<ハブ>の役割を果たし、かつそれはネットワークの中枢にして最上位にある存在だとはっきり示した言葉で、本書簡は開幕します。就中引用もしたエフェ1:20-23はそうしたことを明確に、唯一点の迷いも曇りもなく論述した箇所である、とわたくしは読みました。
 祈りという形で表出されたパウロ思想の要、けっして譲ることのできぬ生命線を見た思いであります。



 新人を育てることはお金もかかり、研修やOJTを担当する者には神経をすり減らせる行為だ。が、その一方でコンプライアンスや社内ルール/マナー、そうして業務知識の確認が人知れずできる点で、またとない自分磨きの場をそれは兼ねている。
 とはいえ、こちらの力不足なのか、相手の資質によるのか、もしくは相乗効果を来したか。どうあがいても底上げして独り立ちさせられることかなわず去る姿を見送らざるを得ないことも、往々にしてある。自分がしてきたことに疑問を抱き、方法や接し方を反省し、しばしの間落ちこんでしまうのはそうしたときだ。あんなに一所懸命教えてもらったのに独り立ちできなくて済みませんでした、と殊勝にいわれたときなど尚更。いや、もしかしたらそれは俺に原因があったのかもしれないし(でも実はそんなこと、微塵も思っていないときもある)。
 が、それだけに、次に入ってくる人たちは、と思う。1人でも多くの人材を早くに独り立ちさせて、先輩たちのなかへ組みこんで実戦を経験してもらえるよう、まずはそちらへ全力を傾注できるようにしたいのである。しかしながら、それにはOJTに集中させてくれるだけの環境が必要だ……。
 会社へ行けば、わがマイ・スウィート・ハニーも何人かいるし、頼りになる仲間が揃っている(極々一部に存在する反対派・中傷派は華麗にネグレクト〔スルーではなく〕)。──これは折々別業務を行うことしばしばなわたくしにとって、孤独と無聊を慰めるなによりの支え。
 クマのプー助、別称:テッド、ときどきパディントンなわたくしは春の花も嵐も踏み越えて、行くさそいつが男の生きる道、と歌ってみたり、叫んでみたり、ぼやいてみたり。
 ──ところでこのエッセイ、コンプライアンスに抵触していないですよね?◆

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第2207日目 〈「エフェソの信徒への手紙」前夜&〈獄中書簡〉について。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 「エフェソの信徒への手紙」は〈獄中書簡〉と呼ばれる書簡群の最初であります。この名称は「エフェソの信徒への手紙」とこれに続く「フィリピの信徒への手紙」、「コロサイの信徒への手紙」、<パウロ書簡>の最後を飾る「フィレモンへの手紙」に冠せられたもので、いずれもパウロが獄中の身にあった時分に書かれた手紙をいうのです。
 では、この「獄」とはどこなのか。ローマだという者もあれば、シリアのカイサリアであるという者もいる。いずれも2年の間パウロが監禁もしくは軟禁されていた場所であります(カイサリア/使24:27、ローマ/使28:30)。
 わたくし自身は人の出入りが激しかったと想像されるローマよりは、たびたび総督フェリクスから呼び出されたと雖もじっくりと自分の考えを整理して言葉で表現する術を練ることの出来たカイサリアこそその場所に相応しい、と思うております。人類史を根本から揺るがすような、或いは価値観の変動を求めるような思想は育って行くには、なんというても持続される静寂と機械的な生活サイクルが必須でありましょう。「獄」の場所を求めるにあたり、ざわめくローマの借家よりは沈黙のカイサリアの監獄を選択肢として出されれば、わたくしはどうしてもカイサリアに可能性を見出すのであります。
 但し、「使徒言行録」とてパウロの動向を逐一書き留めたわけではないでしょうから、われらの知らない長期の獄中生活を(継続してか断続してかは別として)過ごしたことがあったかもしれない。史実は常に歴史の闇へ隠されてしまうこと多々であります。これを一概に誇大妄想と切って捨てることは誰にもできないのではないでしょうか。
 そうなると、4つの書簡の執筆場所はシリアのカイサリアに限定され、また執筆年代も自ずと範囲が狭まってくる。どれが最初か、となると熟考を要しましょうし、もはやわたくしの手には負えないことを自覚するよりないが、およそ58-60年の間に書かれて、かつ順番は不明である、と申しあげるが精々であります。

 では、「エフェソの信徒への手紙」。
 「使徒言行録」の後半でパウロは3次にわたる宣教旅行中、幾つもの町乃至は村を訪れました。今回の手紙の宛先であるエフェソはそんなパウロが訪れた町のなかでも特に記憶に残る所であります。というのも、(観光土産になっている)アルテミス神殿の模型製作に携わることで生計を立てていた職人らがパウロの宣教に反対して暴動を起こした挿話は、第3回宣教旅行のハイライトというてよいものだったからであります(使19:21-40)。
 旅行が終わってカイサリア監禁中の2年間のうちに、パウロは本書簡の筆を執りました。では「エフェソの信徒への手紙」はどのような内容を持つのでありましょうか。
 要約すると、キリストの愛によってユダヤ人も異邦人もすべて結び合わされ、キリスト者としての新しい生活を各人で営みなさい、ということ。その新しい生活をパウロは夫婦、親子の間に適用し、主人と奴隷の間に援用し、そうしてキリストに反する<悪>と戦うよう説くのでした。最後のものについて先走って引用すれば、──
 「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェ6:10-12)
 わたくしの感想でしかありませんが、本書簡はこれまで読んできたなかは勿論、13あるパウロ書簡のなかでも特にわかりやすく、読みやすいものであるように思うのであります。おそらく、ここで語られている内容が神学というよりも人生論、人間関係の助言のように読めるからでありましょう。キリスト教が夫婦や親子の有り様について述べる事柄は、本書簡に源流といいますか基盤があるように思えます。
 「エフェソの信徒への手紙」の執筆年代について書き忘れるところでした。パウロがカイサリアに監禁されていた頃、ローマ帝国から任命されてユダヤ総督の地位に在ったのは、アントニウス・フェリクスとその後任ポルキウス・フェストゥス。パウロはフェリクス在任中に投獄/監禁され、フェストゥス着任の年──つまり総督職が引き継がれた60年──に解放された。本書簡が58-60年の間に書かれた、と先に述べた背景はこれであります。
 なお、「エフェソの信徒への手紙」は同じ〈獄中書簡〉の一、「コロサイの信徒への手紙」と内容的にも表現的にも酷似した箇所がある、といいます。ゆえに2つの書簡が期を同じうして別々の宛先へ書かれた、と考えるのが自然であります。が、一部には「コロサイの信徒への手紙」をパウロ真筆とし、それを基にして他人が「エフェソの信徒への手紙」を書いた、と主張する一派もあるそう。さりながら本ブログではそうした説があることを紹介・容認しつつも、特にそれに拠ることなく進めてまいります。
 それでは明日から1日1章の原則で「エフェソの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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