テサロニケの信徒への手紙 二 ブログトップ

第2250日目 〈テサロニケの信徒への手紙・二第3章:〈怠惰な生活を戒める〉、〈結びの言葉〉他with「テサロニケの信徒への手紙」読了のご挨拶。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 テサロニケの信徒への手紙・二第3章です。

 二テサ3:1-5〈わたしたちのために祈ってください〉
 この手紙の筆を擱く前に、兄弟たちよ、あなた方へお願いしたい。どうかわれらのために祈ってください。主の言葉がすみやかに人々へ宣べ伝えられ、崇められるように。われらが道から外れた悪党たちの標的にならないように。
 忘れてはなりません、すべての人に信仰があるわけではないのです。
 主はあなた方を強め、悪人から守ってくれます。なんとなれば主は真実な方だから。主があなた方に神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくれますように。

 二テサ3:6-15〈怠惰な生活を戒める〉
 仄聞するところでは、あなた方のなかには怠惰な生活をし、働くことを厭い、却って余計なことに耽っている者がいるそうですね。そのように怠惰に暮らし、われらの教えを守らない者のことは努めて避けなさい。われらは怠惰な生活をして暮らす者へ、こう忠言します。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい、と。
 われらはテサロニケに滞在中、夜も昼も休むことなく、誰からの援助を受けることなく、働き続けました。それは偏にわが身を以てあなた方に模範を示すためでした。実際われらはそちらにいるとき、働かざる者食うべからず、と教え、命じていました……。
 兄弟たちよ、弛まず善き行いに励みなさい。
 「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」(二テサ3:14-15)

 二テサ3:16-18〈結びの言葉〉
 いつ如何なるときでも平和の主自身があなた方に平和をもたらしてくれますように。主があなた方一同と共にあり続けますように。
 わたしパウロが自身の手でこの挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印であります。わたしはこの手紙の結びにこう綴ります──われらの主イエス・キリストの恵みがあなた方一同にありますように。

 パウロは本書簡のなかで2度、テサロニケ滞在中の自分たちが行ったこれこれのことについて思い出してみてください、とかの地の信徒たちへ訴える。これらの箇所を読んで、さてそんな描写があったかな、と「使徒言行録」を開いて読み直しても、該当するような箇所は見当たりません。
 他の、訪問済みの町の教会に宛てた〈パウロ書簡〉にもいえることですが、「使徒言行録」と手紙いずれか片方だけが<正>であるわけではありません。どちらかだけが事実を伝えているわけではないのです。今回の場合は「使徒言行録」と「二テサ」双方に書かれた、それぞれの出来事のすべてが同地に於いてパウロたちが行った事どもなのだ、と考えるのが最も史実に近いであろう、とわたくしは考えます。
 ──われらはわが身を以てあなた方に模範を示した。だからあなた方もこのように行いなさい。或る意味でこれ以上は望みようがないOJTですが、それでいてなお怠惰な生活に走る者がいたとなると、信仰は植え付けられても根幹となる人間本来の性質は変えられないのかな、と嘆息します。どんなに深く、真実な信仰を持っていたとしてもDNAレヴェルで怠惰なのであれば、最早斯様な生活をしてしまうのも仕方ないか、と溜め息交じりに諦めるよりないのかも……。



 10日にわたって「一テサ」、「二テサ」を途中に間を置かず読んでまいりました。〈パウロ書簡〉のなかでこの2つの手紙は他書簡のように、たとえば〈主要書簡〉や〈獄中書簡〉という風になにかしらのカテゴリーにまとめられることのない手紙であります。息切れせずに、怠惰にならずに読み進め、無事終わらせる事ができた理由の1つに、変に〈主要書簡〉や〈獄中書簡〉といったレッテルに惑わされることがなかったから、というのはあるかもしれません。
 とまれ、本日を以て2つの「テサロニケの信徒への手紙」は読了となります。飽きず毎日本ブログを読んでくださっている読者諸兄に感謝。あなた方の存在なくして読書と執筆とPC入力の日々を、判で押したようなその日々を過ごすことは耐えられなかったであろう。ありがとうございます。サンキー・サイ、と綴る方がより「らしい」か?
 次は〈パウロ書簡〉最後の手紙群、即ち〈牧会書簡〉である。その初め、「テモテへの手紙 一」は明後日から読む予定です。◆

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第2249日目 〈テサロニケの信徒への手紙・二第2章:〈不法の者についての警告〉&〈救いに選ばれた者の生き方〉with美辞麗句は並べない;お金を遣うということ。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 テサロニケの信徒への手紙・二第2章です。

 二テサ2:1-12〈不法の者についての警告〉
 兄弟たちよ、お願いがあります。霊や言葉によって、或いはわれらから送られた手紙によって、主の日は既に来てしまった、などと叫ぶ者がいたとしても、動揺して分別をなくすなどといった真似はしないでください。知らないうちに主の日が過ぎてしまっていることはありません。
 その日が来る前には必ず神に対する反逆が起こります。そうして不法の者即ち滅びの子が登場します。かれは神への、その権威への完全なる反逆者。神を嘲り、罵り、貶めるなど、あらゆる形で抗った挙げ句、神殿に坐りこんで己を神と自称する。
 いまはまだ、かれは不法の者にはなっていない。かれを抑えつける力が働いているからです。しかし、その計画は秘かにかれに近附き、蝕んでいます。定められた時が来れば抑えつけていた力は取り除かれて、不法の者即ち滅びの子が登場する。かれはサタンの働きによって現れ、ありとあらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な御業を披露し、同時にありとあらゆる不義を用いて滅びゆく人々を欺くことになります。
 が、不法の者は主イエスが吐く息で殺され、御姿の輝かしい光で滅ぼされます。「彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからであります。」(二テサ2:10)
 そこで神はかれらに惑わす力を与え、偽りを信じるよう仕向けた。斯くして真理を信じず不義を喜んでいた者は皆裁かれるのです。

 二テサ2:13-17〈救いに選ばれた者の生き方〉
 主に愛された人々は、しかし救われます。われらがあなた方について神にいつも感謝するのは、あなたが救われるに足る人々だから、というだけではありません。あなた方を聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなた方の信仰とにより、神はあなたを救われるべき者の初穂として選んだからです。われらはこのことについて神へ感謝せずにはいられません。
 兄弟たちよ、しっかりと立って、われらが説教や手紙で宣べ伝えた教えを堅く守りなさい。
 「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。」(二テサ2:16-17)

 「二テサ」のテーマその①であります。主の日って実はもう来ちゃっているんだぜ。え、マジで!? まじまじ、大マジよ。そんなぁ……。当時、テサロニケの信徒たちの間に起こった動揺の端緒はこんなやり取りであったろう、と想像されます。
 これを伝え聞いたパウロは、いやいや、そうではないよ、とばかりに慌てて本書簡の筆を執って一気呵成に認めたのであろう──というのは〈前夜〉にて既に申しあげました。そんなデマを鵜呑みにしても仕方ない空気が、この時代のキリスト者の間に漂っていたらしいことも。
 パウロはそうしたデマに取り合うな、といいます。風評に惑わされるな、と。諫めるというよりも諭すというた方がより適切な調子で。後年の書簡のように一つ一つの説得に強烈かつ堅固な神学で裏打ちするようなものではなく、よりわかりやすく、より効果的な文章と表現を用いて。
 本章前半で示されたことを承けて綴られる、「しっかりと立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(テサロニケ2:15)のなんと晴れやかで、頼もしく、揺らぎなき信念に満ちた言葉でありましょう。テサロニケの信徒たちがこれを聞いて深く首肯し、喜びの声をあげる様子がわたくしには想像できるのであります……。



 もうすぐ月末、給料日。吟味したうえ買い控えている本を贖い、オンラインで注文済みのCDが届く時機の到来である。散財というなかれ。とはいえこの消費活動を、自分へのご褒美、だとか、自分への投資、などと眉唾めいた言葉で片附けはしない。そんな意図はまったくないからだ。稀に「自分へのご褒美」としてなにかしらの物を買うことはあるが、毎月そんなことをしていてはすべての買い物に於いて体のいい弁解にしかならないではないか。本質を見失うだけである。
 わたくしは心底読むのを欲す小説を選んで買い、本当に試聴したいCDをあれこれ悩んで選び注文したのだ。この消費活動のいったいどこに美辞麗句でごまかす余地があるというのだろう。取り敢えずここで述べた<今月のお買い物計画>の根底にあってそれを支える盤石な基盤は、純粋に「欲求」である。読みたい、観たい、聴きたい。たまたま可処分所得は多い今月だ、それらの購入に回せるお金が相応にあるならば、知的渇望を癒やすために費やすのは必然だろう。金銭は精神の自由、肉体の自由、時間の自由を保証する人生の杖の一つである。これを呵々する人はお金の怖さやありがたみを知らない人たちだと思う。
 可処分所得が多いなら、吟味や選別など鷹揚にしておいて、自らの琴線に触れたものを片っ端から買ってゆけばよいではないか。そんな声をあげる御仁もおられよう。正論のように聞こえて然に非ず、それはただの浪費だ。多いと自負できるからこそ、財布の紐は引き締めるのだ。自分の欲望には際限がなく、しかしそれを収める空間には限界がある。消費と浪費を取り違えてはならぬ。個人的消費は斯様に引き締めるけれど、それ以外は必要な場面で必要なお金を遣っているから、わたくしなりに日本経済の活性には、微力ながら貢献していると思うのだが。まぁ、今月に関しては、という限定句を冠しての話であるのは冒頭からきちんと読んでくださった読者ならおわりであろう。
 ──で、なんの本買うの? なんのCD買ったの? そんな質問が遠い山並みの向こうからかすかに聞こえてくる。が……教えてあげないよ、ジャン・バルジャン。◆

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第2248日目 〈テサロニケの信徒への手紙・二第1章:〈挨拶〉&〈キリスト来臨と裁き〉with今年も夏蜜柑を収穫しました。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 テサロニケの信徒への手紙・二第1章です。

 二テサ1:1-2〈挨拶〉
 わたしパウロとシルワノ、テモテからテサロニケ教会のあなた方へ。父なる神と主キリストにより恵みと平和がありますように。

 二テサ1:3-12〈キリスト来臨と裁き〉
 われらはいつも、あなた方のことを神に感謝しています。あなた方の信仰が日増しに成長してゆき、お互いに1人1人の愛があなた方全員の間で豊かになっているからです。ゆえにわれらは神の諸教会の間であなた方を誇ることができているのです。これ即ち神の国に相応しい存在としてあなた方を選んだ神の判断が正しかったことを示しています。神は正しいことを行うのです。
 「あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。」(二テサ1:6-7)
 神はわれらに休息を以て報いてくれる、主イエス・キリストが天使たちを率いて、燃え盛る火ののなかを通って天から来る時に。
 が、地上に在るのは神を、主を信じる人々ばかりではありません。では、信じない者たちはどうなるのでしょう。やはり救われる? 否、──
 「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」(二テサ1:8-9)
 キリスト再臨の日、主はすべての聖なる人々から崇められ、信じる人々の間で誉め讃えられます。あなた方も──主を信じる限り──その一員となるのです。そうなれるよう、われらはいつも祈っています。
 どうかわれらの神があなた方をその招きに相応しい者としてくれますように。どうかわれらの神がその御力で以て善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就してくれますように。──神と主キリストの恵みによってあなた方の間でイエスの名が崇められ、また、主により誉れを受けることができますように。

 その信仰を失うことがありませんように。パウロの願いはその一点に集約されます。どんな苦難や逆境のなかにあったとしても、信仰と希望と愛、それを持ち、互いの間で行われているならば、主の日の訪れに際してあなた方には休息が与えられ、神の国に入るに相応しいと選別されるのだ。本章に於けるパウロのメッセージはだいたいそんな風に要約できましょう。
 「来臨」と「再臨」の使い分けについて、一言。
 復活したイエスが主の日(裁きの日)に訪れる──新共同訳を始めとする日本語の新約聖書はそれを「来臨」と訳し、本ブログでは「再臨」と記します。福音書で描かれたイエスの公生涯こそむしろ「来臨」であろうと思うていたので敢えて「再臨」と書いていたのですが、調べてみたところ、ギリシア語でそれに相当する単語は「パルーシア」というがそこに「到来」とか「出現」などの意味はあっても「再び」というニュアンスは含まれない由。為に今日読める新約聖書にて該当箇所は「再臨」ではなく「来臨」と訳されているそうです。
 一方本ブログでそれを「再臨」と記すのは、ここが聖書翻訳の場ではなく、あくまでノートという立場を取っているから。主の日にイエスが再び地上に臨むので、「再臨」とするのはけっして誤りではないでしょう。



 樹齢どれぐらいなのかわかりませんが、わたくしが生まれる前から庭の一角にある夏蜜柑の木。初春の頃に寒い日が続いたので実りが心配だったのですが、今年も推定50個以上の夏蜜柑を恵んでくれました。
 2連休最終日の今日(昨日ですか)、高枝切り鋏と脚立とノコギリを駆使して昼過ぎから剪定ついでに収穫。けっこうな勢いで地上に落下しても、やはり夏蜜柑の皮は厚くて丈夫です。ぱっかりと割れるなんて軟弱な実は1個もありませんでした。でも、先に獲ってガレージへ並べておいた実にくっ付いたままの枝が、落下の拍子に刺さって側面部分に穴が開いた、というのは2個ばかりありましたが。
 小一時間をかけて収穫した夏蜜柑は全部でちょうど40個。皮の表面や実がぶよぶよしていないか、などをチェックして、さっそく4個を選んで果肉は砂糖漬けにして戴くことに。表皮は刻んでネットに入れてミカン風呂。でも今回は、ピールやマドレーヌにもする化けてもらおうと企んでいます。
 自分の家の庭で獲れたものでこのような楽しみを得られるのは、しあわせです。◆

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第2247日目 〈「テサロニケの信徒への手紙 二」前夜withバーンスタインのマーラーを聴いています。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 執筆の時期、場所について「テサロニケの信徒への手紙 二」は「一テサ」とほぼ変わるところはない、というのが一般的なようであります。「一テサ」を書いてから/送ってから数ヶ月後に新たにテサロニケ教会の人々のために筆を執ったのが今回読む「二テサ」、即ち「一テサ」同様50-52年頃、コリントにて書かれた、とされる。一説にパウロ没後、その名を借りて書かれた手紙の一つともいわれますが、定かではありません。本ブログではこちらもパウロ真筆として扱います。疑う理由と根拠が、こちらにないからであります。
 パウロはどうやら「一テサ」を送ったあと、風聞か人伝かわかりませんが、テサロニケの信徒たちを惑わす出来事のあるのを知った様子。その出来事というのは2つに分けられるようでありまして、1つは同地の人々がイエスの再臨は既にされてしまっていて、自分たちはそれにあずかることができなかった、という落胆。もう1つはパウロの教えを否定する、むしろ怠惰な生活を奨める人物が現れてテサロニケの人々を動揺させていたこと。これらの出来事に触れてパウロは必要を感じ、2通目の手紙を書くに至ったのでありました。
 が、1番目の出来事──再臨は既にされている、とテサロニケの人々が考えてしまったのも宜なるかな、と思うのです。福音書や「使徒言行録」を読みますと、十字架上で死んだイエスの再臨──主の日はそれ程遠くない頃に訪れて実現する、と考えられていた節が窺える。が、イエスの死から20年以上の歳月が経過していた1世紀中葉、待てど暮らせど一向にその日が訪れる様子は見られぬ。となれば、人々の考えることは自ずと限られてくる。①再臨はもうされてしまった(=見逃した/わからなかった)、②その日は来ないかもしれない(=不安、戸惑い、不審)、のいずれかとなりましょう。前者が「二テサ」当時のテサロニケの信徒たちの心境を映した嘆きであり、そうして後者の種々の思いが出発点となり、来たるべき日に供えて新約聖書が編纂されたのであります。
 全3章47節、わたくしの使う新共同訳では実質2ページで済む、という短さが暗に示すように、本書簡は話題を絞り、その要点だけを綴った、まあ手紙というより指示書というた方が良いやもしれぬ代物であります。別のいい方をすれば「テサロニケの信徒への手紙 二」は一気呵成に書かれたがゆえ要点だけが記される結果となったのでしょう。だからこそ、わたくしのような非キリスト者も読書中、成る程、と首肯しながら、或いはその内容を咀嚼しながら、理解しながら、読んで腑に落ちるところが幾つもあるわけです。
 それでは明日から1日1章の原則で「テサロニケの信徒への手紙 二」を読んでゆきましょう。



 昨日騒いだヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース『The Oregon Report』ですが、『Hip to be Square…Live』以外にも同じ放送音源からCD化されたものが最低2種類は出ているようであります。今日昼、県立図書館への長い坂道をのぼったところで一服しながらGoogleで調べていたら、検索結果を何ページも送ったあとにその情報が出ていました。そちらは1990年代前半のリリースである由。以上、補足。
 では、本題。
 県立図書館に出掛けた理由なのだけれど、別に本ブログのための下調べに行ったわけでは(今日は)ない。先月からレナード・バーンスタインがドイツ・グラモフォンに録音した、2度目のマーラー交響曲全集を借りて聴いているのです。第4番のCDだけがバラの状態では貸出棚にないのだけれど(所蔵されていない、という意味である)、幸い交響曲全集のボックスが別にあるので、こちらはあとで借りてくればよいのです。ひとまず今日借りた3曲を以て《角笛》交響曲はすべて聴き果せた。
 全集へ向けた録音は全9曲プラス《大地の歌》を完了する前にレニーの死により中断したそうですが、非道いことをいうようですが、数少ない自分の好きなマーラー交響曲はすべて再録音されていたので、その点は妥協することと致します。作曲家としてではなく曲単位で好きか否かを計る場合、このような感慨を抱いてしまうのは果たして惨い所業なのでしょうか。わたくしがいまよりずっと若かった時分、ショルティのLPでマーラーを聴き耽っていた頃にバーンスタインの全集も同じように聴き耽っていたら、上述のような感慨は生まれなかったかもしれないなぁ。
 借りてきたマーラー/バーンスタインのCDは2回程聴いた後、iTunesでiMacへ取り込んでiPhoneで聴けるようにします。イヤフォンではなくヘッドフォンの購入を検討している理由の半分はiPhoneでマーラーを聴くに備えての話であります。iPhone付属のイヤフォン、家電量販店などで売られるイヤフォンでマーラーを聴くのは、すくなくともわたくしには無理です。いたずらに耳を痛めるだけです。耳に負担をかけることなくマーラーが聴けるヘッドフォンを折に触れて探すのは、案外と労多くして実りなしの作業であります……。
 今一度レニー。かれのマーラーを聴こうとこの度思い立ったきっかけはCSのクラシカ・ジャパンで観た、たしかウィーン・フィル相手の交響曲第2番《復活》でありました。仕事帰りの午前様になったとき、明日は休みをいいことに夕食後、ビールを飲みながら録画したものを観ていたのですが、これがすっかり興奮させられる演奏でした。最後までまんじりともせず、食い入るように観て、聴きましたよ。
 それに刺激されて、バーンスタインのマーラーを聴いてみようかな、と思うた。興奮収まらぬ頃に出掛けた県立図書館にてDGの全集を見出したのが、今日に至るプチ・マーラー熱の直接の原因。──更に今回の遠因を辿れば年始、風邪に倒れて正月から臥せっていたときに聴いた、アバドとカラヤンがそれぞれベルリン・フィルを振った第9番にあるでしょうね。病床の身で第9番を聴くのもいったいどうなのか、というところでありますが、それはこの際不問で。
 バーンスタインのマーラーを聴いた感想を認めることはないだろうけれど、最前のヘッドフォンも含めて音楽の再生環境にようやく──あれから10年以上が経ってようやく思い巡らし、構築を検討できるようになったので、それらに関して短い文章を書くかもしれません。
 この出来事を端緒としてバーンスタインの残した録音等に手を伸ばし、10数年ぶりにマーラーの音楽をじっくり聴くことが増えるかもしれないなぁ。そんな予感がしている、春の今宵。◆

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