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第2328日目 〈ヨハネの手紙・一第5章:〈悪の世に打ち勝つ信仰〉、〈永遠の命〉他with「一ヨハ」読了の挨拶。〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第5章です。

 一ヨハ5:1-5〈悪の世に打ち勝つ信仰〉
 イエスがメシアである、と信じる人は誰もが神から生まれた人であり、神から生まれた人は同じく神から生まれた他の人を愛するようになります。神を愛し、神の掟を守ることは神の子らを愛することを意味するのです。
 神を愛することは神の掟を守ること。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(一ヨハ5:4)──世に打ち勝つ人とは即ちイエスが神の子、メシアだと信じる人であります。

 一ヨハ5:6-12〈イエス・キリストについての証し〉
 イエス・キリストは水と血を通って、来ました。真理である“霊”がそれを証ししています。
 神が御子に対して行った証しこそ神の証し。御子を信じる人の内にこの証しはある。が、そも神を信じぬ者は御子に対する証しについて知るところはなにもなく、為に神を偽り者に仕立てています。
 「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(一ヨハ5:11)
 御子と結ばれている人にはこの命がある。御子と結ばれていない人にこの命はない。

 一ヨハ5:13-21〈永遠の命〉
 わたしがこうして書き送るのは、自分の永遠の命を得ているのだ、ということを悟ってほしいからに他なりません。
 既に述べたように、それが神の御心にかなうことならば願いは聞き入れられます。求めよ、然らば与えられん、というわけですね。このことを理解できるなら、神に願ったことは既にかなえられていることがわかるはずです。
 死に至らぬ罪を犯した兄弟がいたら、かれのため神に願いなさい。かれは神によって命を与えられるでしょう。
 一方で、死に至る罪があります。死に至る罪を犯した者のため神に祈れ、とはいいません。不義はすべて罪、例外はない、かれの前にあるのは避けられない死です。
 「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。」(一ヨハ5:20-21)

 総括としての本章を読み終えて倩思うのは、この世全体が悪い者の支配下にある、てふ一ヨハ5:19の文言です(ノートはしませんでしたが)。
 本書簡は90年代後半から2世紀初頭の成立と推理しました。ドミティアヌス帝によるキリスト教弾圧/迫害があったあとの時代、と考えました。
 ヨハネが手紙の筆を執った時代は件のキリスト者への迫害の記憶が生々しく残っている、まだ歴史的遠近法のなかでそれが古典化していない頃であります(*)。そうした時代に、反キリストについてはまぁともかく、世の支配体制について一石を投じるような言葉で触れるのは相応の覚悟を伴ったのかもしれないなぁ、と憶測。実際はなにも心配することのない、わたくし一人の杞憂かもしれないけれど……。
 ただ、本書簡の史的背景を踏まえた上でかの文言を読むと、あらぬ想像が頭をもたげて暴れるのだ、と詭弁を弄しておきましょう。
 *米澤穂信『氷菓』より表現を借用した。法的道的支障があれば典拠資料を添えた上でご報告いただきたい。善処する



 手紙の体裁を整えないがゆえに回状と推理した「ヨハネの手紙 一」を終わります。ブログの今後のテーマを(改めて)見出し、(ほぼ)確定させられたことは当該日で述べましたが、これはいままさにこのとき「一ヨハ」を読んでいたからこそ摑み得たもの。天に、サンキャー。
 実は本書簡の記事をお披露目中、本ブログに激震が走りました。いつもと変わらぬ記事が公開されたその日、どうした理由でか訪問者数が500人強、PVがなんと30,000以上の記録が樹立されたのです。普段は1/2,1/100程度なのに……。
 どうしてこんなに読まれたのだろう? なにが起爆剤となったのかさっぱりわからないし、新たな固定読者の獲得につながるなんて楽観視はしていない。けれども出された数字は事実以外の何物でもありません。この数字が維持できたら良いけれど、ブログの性質上それは難しそうだ。わたくしに出来るのは、これまで通りのレヴェルの原稿を日々怠ることなく書き、これまで通りの定時更新を愚直に繰り返してゆくだけです。
 既存の読者諸兄よ、新たな読者諸兄よ。そうして、モナミ。わたくしはあなた方のため、あなたのため、そうして自分の救いのために、今後も書く。更新してゆく。あなた方あればこそ、あなたあればこそ──サンキー・サイ。◆

第2327日目 〈ヨハネの手紙・一第4章:〈偽りの霊と真実の霊〉&〈神は愛〉with“あす”のための仕込みにいそしむ。〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第4章です。

 一ヨハ4:1-6〈偽りの霊と真実の霊〉
 いたすらに“霊”であれば信じなさい、というのではありません。それが神から出た例なのか、確かめる必要があります。というのも、いまや世に多くの偽預言者が出てきているからです。
 イエス・キリストは肉を伴ってわれらの世に現れた、と公言するのは神の霊が内にある人であります。一方、イエスのことを公にいうことのない霊は神とは無縁なので、これは反キリストの霊になります。あなた方がかねてから噂として聞いていた反キリストの霊の登場は既に現実のものとなっています。
 が、子らよ。あなた方は神に属する者であり、偽預言者を退けました。あなた方の内にある神の霊は、世に属するすべてに於いて優って強いからです。
 「わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」(一ヨハ4:6)
 嗚呼、偽預言者たちは世に属していて、世の人々はかれらが話す世俗のことへ熱心に耳を傾けます……。

 一ヨハ4:7-21〈神は愛〉
 さあ、諸君、互いに愛し合おうではありませんか。愛は神から出、愛する者は皆神から生まれ、神を知っています。神は愛です。神の愛は独り子をわれらの許に遣わし、独り子によってわれらが生きるようになることで示されました。われらが神を愛するから神もわれらの愛するのだ、とは半分正しいが半分は誤りです。神はわれらを愛するがゆえに、われらの罪を償ういけにえとして御子を遣わした──ここに神の愛があるのです。
 斯様にして神がわれらへの愛を表明し、実行してくれたのですから、われらも互いを愛し合いましょう。未だかつて神を見た者など勿論いないけれど、神は自分の霊をわれら1人1人に分け与えてくれました。われらが互いを愛して神の内に留まるならば、神の愛はわれらの内で全うされているのです。われらは、われらに対する神の愛を信じて疑いません──!
 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハ4:16-19)
 ──わたしは神を愛しています、と言い表していながら兄弟を愛さぬ者がいたとすれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者がいったいどうして目に見ることのできない神を愛せましょうか。互いに愛し合え、これが神の掟ではありませんか。

 われらが(漠然と)知るキリスト教の教義、「理念」というた方がよいのか、それと本章が完全重複するように思うのです。わたくしの一知半解ゆえの誤認識なのか、それともわたくしが感じたのは実は正解なのか。判断しかねますが、なんだかこれって教会で聞いたり、物の本で読んだこととよう似とるなぁ、思い出せるなぁ、と読書中、執筆中に脳裏を過ぎってゆくのでありました。
 今日の第4章は本書簡の核を成す部分、というてよいでしょう。あなた方の内に住まう神の霊の由来と強さ、神の霊とは如何なる程のものか。そうしたことが毅然とした筆致で書かれている。きっとこの手紙を受け取った人々は励まされたことでありましょうね。
 正直なところ、過去に読んだ書簡群を思い出してみても本書簡の本章ぐらい「神の愛」というものについて明瞭に記した手紙は、あまりなかったのではないでしょうか。シンプル・イズ・ベストが必ずしも正しいわけではないけれど、殊「神の霊」と「霊の真偽」についてそれぞれ述べた点はシンプル・イズ・ベストに相応しい、ブラームスの作曲上のモットーを拝借すれば「簡潔に、豊かに」が実践された箇所である、と思います。……そういえばブラームスのファースト・ネームは本書簡著者に由来する「ヨハネス」でありましたな……。



 「ユダの手紙」を終わるまで書物間のエッセイは封印。昨年10月中旬から読んできた書簡群は来週の土日で終わらせたいのである。為にエッセイは封印するのだ。むろん、そのあとに続く、新約聖書最後の書物「ヨハネの黙示録」に入る前には読書/執筆の準備と気分転換を兼ねたエッセイ期間は置く予定でいる。
 休みの今日(昨日ですか)は「ヨハネの手紙 二」前夜のためのメモを取り、アウトラインを作り、その後はひたすら米澤穂信『王とサーカス』(東京創元社)を読んでいた。そうして読了した(感想はまたいずれ)。棚に待機する米澤作品はあと3作、明日からは同じ太刀洗万智を主人公とした短編集『真実の10メートル手前』(同)を読む。
 米澤穂信が終わったら加藤シゲアキの『ピンクとグレー』、『閃光スクランブル』(共に角川文庫)。そのあとは再読となるがいよいよ谷川流『涼宮ハルヒ』シリーズ(角川スニーカー文庫)だ。が、その後も読みたい小説、紀行はたくさんあって、その山はわたくしを内心たじろがせ、姫に喝采を叫ばせている。
 いやはやなんとも、と頭を振りたい気分……。いや、実は喜びに頬がゆるんでいることへの照れ隠しだ。えへ。◆

第2326日目 〈ヨハネの手紙・一第2章2/2&第3章:〈神の子たち〉、〈互いを愛し合いなさい〉他with汚濁末法の世を生き抜いてゆくために〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第2章2/2と第3章です。

 一ヨハ2:28-3:10a〈神の子たち〉
 御子の内にいつもいれば、再臨については確信が持て、それが実現したらば御前で恥じ入ることもないでしょう。御子は正しい、と知っているならば、あなた方は、義を行う者が皆神から生まれたことがわかるはずです。
 われらへ注ぐ御父の愛がどれ程のものか、考えたことがありますか? それはわれらが神の子と呼ばれる程の愛なのです。そうして事実、われらは神の子なのです。神の子としてこれからわれらがどのような役割を担うことになるのか、それはまだわかりません。が、御子が現れるにあたってわれらは御子に似た姿になることを知っています。
 御子へ望みをかける人は、御子がそうであったように自分を清めます。
 罪を犯す者は法にも背く。道理であります。罪を犯すこと、法に背くこと、これらは同義です。御子は罪を取り除くために来ました。
 御子に罪というものはありません。ゆえ、われらも御子の内にある限りは罪とは縁なき者でいられる。逆にいえば、罪を犯す者、法に背く者は誰も彼も御子を見たことも、知ることもない、というわけです。
 子らよ、惑わされるな。義を行う者は正しい。罪を犯す者は悪魔に属す。神の子が現れたのは、悪魔を滅ぼすため。神から生まれた人は罪を犯さない、神の種がその人の内にあるゆえに。神の子らと悪魔の子らの線引きは明確です。正しい生活をしなさい。

 一ヨハ3:10b-18〈互いを愛し合いなさい〉
 自分の兄弟を愛さない者もまた、神には属していません。これは、あなた方が初めから聞いている教えです──汝ら、カインの轍を踏む勿れ。
 「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」(一ヨハ3:14-15)
 イエスはわれらのために命を捨てた。それはわれらへ愛を教えました。われらも兄弟のため命を捨てなくてはなりません。有り余る富を持ちながら貧窮、欠乏する兄弟を見て手を差し伸べない者の内に、どうして神の愛が留まることがありましょうか。
 「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(一ヨハ3:18)

 一ヨハ3:19-24〈神への信頼〉
 「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」(一ヨハ3:21-22)
 というのも、われらが神の掟を守り、かつ御心にかなう行いに努めているからです。神の掟、それは互いに愛し合いなさい、ということでした。それを守る人はいつまでも、どんなときでも、神の内に留まっていられますし、また、神もその人の内に留まっていることでしょう。それは、神が与えてくれた“霊”によってわかるのです。

 なんだか好きな章ですね。わが身に即して思うことができるためかもしれません。
 罪を犯す者は悪魔に属す。神に属する者は罪を犯さない。神に属するとは義を行う人。義を行うとは神の掟を守る人、「互いに愛し合え」という掟を守る人のことである。──なんと明快ではありませんか。
 なお、第10節は小見出しのつく箇所の不自然さを思うて私意により「10a」と「10b」に分割しました。

 本日の旧約聖書は一ヨハ3:12と創4:3-8、一ヨハ3:23とレビ19:18。



 いつまでいまの会社にいるのか、いられるのか、そんなのわからないし、わがことながら知ったことじゃぁないぜ、と思うている。とにもかくにも会社員であり続けるのは時に心痛を伴うけれど、勤続年数に比例して対外的な信用度は増すよね。住宅ローンの融資も審査は通りやすくなるし、不動産投資のため金融機関に行っても前向きに億単位の融資を検討してもらえる。もう嫁さん欲しいなんて夢、棄却したっていいや、なんて考えたりして。これをわたくしは不適切発言とは考えない。
 もっとミクロなところでいえば、社会人になって学生時代との違いをいちばん実感したのは、娯楽に割けるお金が増えたことです。具体的なところでは、好きな作家の単行本を懐をさして気にせず購入できるようになったこと、観たい映画気になる映画をさしたる逡巡なく鑑賞できるようになったこと(映画館前提)、でしょうか。
 すくなくともわたくしにとってこれらは、生きる愉しみです。時間との折り合いがつかなくて諦めること間々あるけれど件の愉しみが控えているからどうにか生きてゆける。次の休みを心待ちにできる。これらなくしてこの汚濁末法の世を生き抜いてゆく自信はまったくないですね。ちなみに「汚濁末法の世」とは生田耕作先生の言である。
 あと何年、生きられるのだろう。どれだけの本を読み、どれだけの映画を観、どれだけの文章を書き散らせるのだろう。人生は有限である。だからこそ……。◆

第2325日目 〈ヨハネの手紙・一第2章1/2:〈弁護者キリスト〉、〈反キリスト〉他with次のブログのテーマのための参考文献〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第2章1/2です。

 一ヨハ2:1-6〈弁護者キリスト〉
 あなた方が罪を犯すことがないように、と願いながら、わたしはこの手紙を書いています。万が一にも罪を犯したとして、あなた方には弁護者キリストがついています。この、御父の許にいる正しい方キリストこそ、「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(一ヨハ2:2)
 われらは神の掟を守ることで、神を知っている、と表明できます。裏返していえば、神の掟を守らない者は偽り者で、其奴の内に真理はない。
 神の言葉を守る人の内には神の愛が実現しています。これが、自分が神の内にあることの証明です。神の内にある、と表明する人はイエスが歩んだ如くに歩まねばなりません。

 一ヨハ2:7-17〈新しい掟〉
 わたしが書き、伝えるのは新しい掟ではなく、古い掟。あなた方がキリスト者となったとき聞いたことのある掟。その古い掟をわたしはいま新しい掟として書き、伝えようとしています。
 イエスにとってもあなた方にとっても、その掟は真実です。既に闇は去り、まことの光が輝いているのですから。しかし、たとえば、光のなかにいると表明していながら、──
 「兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。」(一ヨハ2:9-11)
 兄弟たちよ。世も、世にあるものも、ゆめ愛してはなりません。世を愛する人の内に御父への愛はない。世にはびこる欲はどれも御父からではなく、世から出ているからです。
 世も、世にある欲もいつかは過ぎ去ってゆきます。が、御心の実行者は永遠です。

 一ヨハ2:18-27〈反キリスト〉
 ご存知のようにいまや多くの反キリストが現れています。これは終末の時の到来を告げ知らせるものです。かれらはわれらの前から去ったけれども、元々仲間ではありませんでした。仲間だったらわれらの許に留まっていたはずでしょう。
 聖なる方から油を注がれたあなた方は、<真理>というものを知っています。真理から偽りが生まれることはけっしてない、ということも知っています。
 「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(一ヨハ2:22)
 どうかあなた方よ、キリストの福音によって信徒となったその初めから聞いていたことを、心に留めておいてください。初めから聞いていたことがあなた方の内にある限り、あなた方は御子の内にも、御父の内にも、普段からいることになります。実はこれこそが、御子によって約束された永遠の命なのです。
 ──以上、あなた方を取り巻く反対勢力について書きました。が、あなた方の内には御子から注がれた油があるのですから、誰彼から教えを受けるなどという必要はないのですよ。この油があなた方にすべてを教えるのです。
 真実はそこにあります。偽りが入りこむ余地はありません。
 ゆえ、御子の内に留まれ。反キリストに染まるな。

 〈弁護者キリスト〉も〈新しい掟〉も大事な話題であるが、なんというても本章のキモは〈反キリスト〉であります。反キリストについては〈前夜〉でグノーシス主義を掲げる人々を専らいうように書いたが、勿論グノーシス主義を以てのみ反キリストというのではない。この手紙が書かれた当時、キリスト教を巡る周辺環境は大きな変化を迎えていました。ローマ皇帝ネロやドミティアヌスによる弾圧/迫害や、異端というべき宗教思想の誕生等々。
 本稿で俎上に上すのは当然後者ですが、キリスト教からすれば異端、件の宗教思想の側から見てもキリスト教はイレギュラーと映る。この二律背反から<反キリスト>が登場するのは自明の理であります。即ち反キリストとは特定の思想による態度ではなく、幾つものそれらが表明したキリスト教/キリスト者に対する行動原理、一個の風潮、ムーブメントとして捉える方がよいのでしょう。
 ──本章前半部のノートが(相も変わらず)だらだらと、ほぼ転写に等しくなってしまったことをお詫びいたします。
 引用した兄弟を憎むな云々、一ヨハ2:9-11、自戒とすべし。



 聖書読書が終わったらグノーシス主義について腰を据えて調べてみよう、という次の目標が定まりました。以前から考えていたことではあるけれど、いまや数ある選択肢の1つからただ1つのテーマになった。長編小説『ザ・ライジング』の連載(分載か?)が終わったら、どれだけの期間を費やすか、どのテキストを用いるか、決まってはいないが、グノーシス関連のブログを新規開幕予定である、とまずは予告しておきます。
 そこで備忘を兼ねて「これだけは読んでおかねばなるまいな」という本を、以下にリスト・アップしておく。順不同。
 ・大貫隆『グノーシスの神話』(講談社学術文庫)
 ・筒井賢治『グノーシス』(講談社選書メチエ)
 ・青木健『古代オリエントの宗教』(講談社現代新書)
以上である。すべて講談社の刊行物としてのは偶然に過ぎぬ。
 また、参考として図書館から都度借りてくるものとして、──
 ・荒井献・大貫隆他『ナグ・ハマディ文書』(全4冊 岩波書店)
がある。但し、これをブログ読書のテキストとするならば、購入しなくてはならない。おお!
 そうして架蔵の宗教事典やキリスト教史などである。むろん、PKD『ヴァリス』も。◆

第2324日目 〈ヨハネの手紙・一第1章:〈命の言〉&〈神は光〉with専用ラックをプレゼント、って新潮文庫だったっけ?〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第1章です。

 一ヨハ1:1-4〈命の言〉
 初めからあったもの、われらが聞き、見、しっかりと目で見て、触れたもの──即ち命の言について、お伝えします。
 この命、つまり御子、キリストは現れました。われらは、自分たちの前に現れたこの永遠の命(これは元々御父と共にあったわけですが)を見て、あなた方へ証し、伝えるのです。
 われらが見て聞いたものをあなた方にも伝える理由は、あなた方もわれらとの交わりを持つようになるからであります。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(一ヨハ1:3)
 このように書く理由は、われらの喜びが世界中へ満ちあふれるようになるためです。

 一ヨハ1:5-10〈神は光〉
 神は光であり、神には闇がまったくない。これが、われらが既にイエスから聞いて、あなた方へ伝えようとしていることです。
 神との交わりを持っている、といいながら闇のなかを歩く人は、嘘つきです。真理を行う人でもありません。
 が、神は光のなかにいる。われらが光のなかを歩むならば、互いに交わりを持っていることになります。そうして、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(一ヨハ1:9)
 ──罪を犯したことがない、と誰がいうでしょう? そんな台詞は神を偽りというのと同じで、発言者の内に神の言葉はありません。自分は罪など犯していない、という者は自らを欺いており、その者の内に真理はありません。
 
 闇のなかを歩く人、罪を犯したことがない人。かれらは反キリストの立場にある人です。当然、かれらのなかに神の言葉は刻まれていないし、わずかの真理さえ持ってはいません。対してキリスト者(であるわれら)は……、と著者は語ります。この反キリストの行為を読むとき、その背後に著者の憤激に似た感情を認めてしまうのは一人、わたくしだけでありましょうか。
 キリスト者はイエスの血によってあらゆる罪から清められている。勿論これは、十字架上の死、パウロの思想にも通じる<十字架の神学>であります。これまでも何度となく新約聖書に現れ、われらも読んできたテーゼですが、〈前夜〉でも触れたように反キリストは肉なる状態にあったイエスを悪と見做し、十字架上の死も復活も否定する。──そんな背景あってこその本章後半であります。
 ……お読みいただいてわかるでしょうし、或いは5日目を読めばおわかりになりましょう、本書簡には手紙の定型である〈挨拶〉と〈結びの言葉〉が存在していないことに。元々あったのが新約聖書に収められるまでに欠落してしまったのかもしれないけれど、まさかそんな上手い偶然があろうとは思えません。最初からなかった、と考える方がむしろ自然です。それが為に本書簡は別の通信文に添えられた回状ではなかったか、とわたくしは想像するのであります。



 むかしむかしのことだと思ってほしい。自分が高校生の頃、否、或いはもうちょっとあとだったかも。夏恒例の「新潮文庫の100冊」は当時からあったけれど、帯の端っこに印刷された応募券ね、あれを30枚とか50枚とか送るとあくまでそれなりな賞品がもらえた、そう記憶します。賞品に目がくらんで一所懸命買って読んで集めたことはないけれど、いや、無料配布の目録にはその写真が出ていてなんとなく記憶の底に留まっている、という話ですよ、コホム。
 で、その100冊の賞品なんだけれど、応募券100枚集めて出版社に送ると豪華賞品なる名目で全点が収納可能な木製ラックがもらえます、っていうのは新潮文庫ではなかったかな。文庫にも厚さというものがあるから全冊を収めることは微妙に不可能な気が、当時からして仕方なかったんだけれどね。もし新潮文庫じゃなかったらごめんなさい。でも、たとい目録が貸し倉庫にあっていま開いて確かめることができなくとも、それは新潮文庫であったという確信が9割8分はあるのだ……残りの2分は照れ隠しであると誰が信じてくれるか。
 どうしてこんなことを書いているかといえば、何年も前に東急ハンズで購入した木製CDラックへ試しに新潮文庫を詰めてみたら約60冊が収められたからなんだよね。そこで湧き起こった疑問──本当にあの木製ラックに文庫100冊を収蔵することは可能だったのか?◆

第2323日目 〈「ヨハネの手紙 一」前夜〉 [ヨハネの手紙・一]

 どこにその端緒を求めるか、となると諸説あるやもしれませんが、キリスト教が誕生して半世紀も経つ頃にはそれもローマ帝国内では無視し得ぬ大きな勢力となっておりました。そうして、時を同じうして種々の宗教思想が生まれて帝国領内緒地方に広まりつつありました。本書簡、「ヨハネの手紙 一」はそんな時代に書かれたのでした。
 種々の宗教思想、と申しましたが、キリスト教の側から見れば異端となるそれらのうち、最も考えて然るべきはグノーシス主義ではないでしょうか。キリスト教にとってグノーシス主義が異端とされるいちばんの理由は、キリスト(救い主)としてのイエスを否定するがためであります。
 グノーシス主義は「霊は善であり、肉(物質)は悪である」と考えました。ゴルゴタの丘で処刑されて絶命するまで、ナザレのイエスは肉の人でした。グノーシス主義にとってそれは認め難き悪なのです。これはいい換えると、イエスは霊それ自体でしかなく、十字架上の死とその後の復活も現実の出来事にあらず、となります
 神は、肉体という器に別れを告げたときにイエスを霊の世界へ移し、永遠の命を与えて祝福しました。グノーシス主義はこれを否定、生前のイエスは誰もが目撃できるよう具現化された幻でしかない、という。今回読む「ヨハネの手紙 一」でいえば、反キリストはキリストが救い主、贖い主であることを認めず(一ヨハ2:22-23)、かつ肉体を持って生活していたことさえも否定します(一ヨハ4:2-3)。反キリストとは、すくなくともグノーシス主義に感化された人々、と捉えてまずはよいでありましょう。
 普通に考えれば相容れないように映る両者──キリスト教とグノーシス主義が一部に於いて手を結ぶことを企て、受容と融合の方へ向かったのは、おそらくはキリスト教がローマ帝国の諸地方へ拡散、伝播してゆく過程で経験しなくてはならなかった踏み絵にも似たものだったのかもしれません。発展のためには清濁併せ呑むのも止むなし、というところでしょうか。
 わたくしはグノーシス主義というものを20歳の頃、フィリップ・K・ディックの《ヴァリス》3部作、就中『ヴァリス』巻末に添えられて本編にも引用される「釈義」を通して知りました。こうして新約聖書の読書を始めて以来、しばしば立ち現れるグノーシス主義については、いつかきちんと参考文献を読んで知識を定着させなくちゃぁな、エッセイの一編でも物せるようにならなくっちゃな、と思い思いしておりますが、意欲ばかりで肝心の勉強はさっぱりです。が、本書簡の読書を契機にそれを実現させられるよう努めたく存じます。
 さて、仕切り直し。
 本書簡が専ら説くのは、神に対する愛であります──まさしくキリスト教の教義としての<愛>。これは一ヨハ4:16-19に明らかであります。
 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハ4:16-19)
 一ヨハの内容を簡単にまとめれば、こんな風になるでしょう。曰く、反キリスト、神に属していない者のようになることなく、信仰を全うして、神の愛に浴し、神を信頼し、世に打ち勝つよう努めよう、と。「この世全体が悪い者の支配下にある」(一ヨハ5:19)ゆえに。
 これまでも言語にあたりさえすれば構文の妙は感じられたかもしれませんが、翻訳でそれを鑑賞するのは難しかった。しかし、本書簡ではそれを一端なりとも確認できそう。というのも、ここでは対比を駆使してキリスト者と反キリスト者の相違を鮮明にしているからであります。そうしてそれはこういうようになります。「キリスト者は〜〜だから〜〜である。反キリスト者は〜〜だから〜〜である。ゆえにキリスト者は是であり、反キリスト者は非である」と。
 上に併せて述べれば冒頭一ヨハ1:1「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。──」は本書簡の通奏低音であり、ライト・モティーフであり、主題であります。ここに本書簡が如何なる性格を持つか、簡潔に語り尽くされている。そのあとに続くすべての文言は常にここから出発し、常にここに帰ってくるのです。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。」(一ヨハ2:24)
 ところでその一ヨハ1:1ですが、これまでに読んだ或る書物を思い出させないでしょうか、然り、「ヨハネによる福音書」であります。神学に於いても語法に於いても双方はとてもよく似る、とはフランシスコ会訳の解説(P665)。語法についてはわかりませんが、その内容、その思想に関しては共通するものを多く感じます。すくなくとも、けっして無関係ではない。
 こうした理由から本書簡(と続く2つの書簡)は、「ヨハネによる福音書」や「ヨハネの黙示録」と同じく12使徒の1人、イエスの母マリアの世話をした使徒ヨハネとされています。そうしてそれはほぼ間違いなさそうであります。かりに著者について他説あったとしても、この著者:使徒ヨハネ説を覆して論の首座に就く程のものではないでしょう。
 執筆時期については、90年代後半から2世紀初頭というのが有力。ヨハネ著とすれば自ずと浮上する年代と申せましょう。
 新約聖書に収まるヨハネ著の5書が執筆された順番は、「ヨハネによる福音書」→3書簡→「ヨハネの黙示録」とされる由。但し、3つの書簡と「ヨハネによる福音書」は比較的近い時期に書かれた、とわたくしは思います。たしかに「ヨハネの黙示録」は流刑地パトモス島で受けた啓示を基に書かれましたが、実際にその地で筆を執るだけの余裕があったのか、甚だ疑問であり、想像し難い。かれは流刑解除後にパトモス島を出て小アジアのエフェソへ移住、そこで庵を結び晩年を過ごしました。従って執筆場所は小アジアに於けるキリスト教の中心地エフェソと定めて構わないでしょう。
 「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。」(一ヨハ5:20-21)
 それで明日から1日1章の原則で「ヨハネの手紙 一」を読んでゆきましょう。◆
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