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第2296日目 〈ヤコブの手紙第5章:〈富んでいる人たちに対して〉&〈忍耐と祈り〉with「ヤコブの手紙」読了の挨拶。〉 [ヤコブの手紙]

 ヤコブの手紙第5章です。

 ヤコ5:1-6〈富んでいる人たちに対して〉
 富める者らよ、自分に降りかかる不幸を思うて、泣き喚け。あなた方の富はやがて朽ち果てる。衣服には虫が喰い、金銀は輝きを失って錆びる。この錆こそあなた方の罪の証拠となり、あなた方を蝕むことでしょう。
 あなた方は終末の日に裁かれ、焼かれるために富を貯えていたのです。あなた方の富は労働者へ支払いを惜しんで貯えられた。労働者の悲しみの叫びは神に届き、やがてあなた方はそれゆえに罰せられるでしょう。
 「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコ5:5-6)

 ヤコ5:7-20〈忍耐と祈り〉
 農夫は大地の豊かな実りを期待して、春の雨と秋の雨が降るのを忍耐して待ちます。それに倣って、あなた方も主の再臨まで忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。再臨の時は迫っています。
 主の名によって語った預言者たちを辛抱と忍耐の模範としなさい。義人ヨブが最後、神によってどのように扱われたか、御存知でしょう。斯様に主は憐れみ深く、慈しみ深いのです。
 あなた方は誓いを立てたりしてはなりません。どんな誓い方をしたとしても、誓いを立てたということ、その一事に基づいてあなた方は裁かれます。裁きを受けないようにするために、「然り」は「然り」と、「否」は「否」とするのです。
 「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(ヤコ5:13)
 主に癒やしてもらうために、罪を告白し合い、お互いのために祈りなさい。正しい人の祈りには大きな力があり、効果をもたらします。かつて北王国イスラエルで活動した預言者エリヤをご覧なさい。雨よ降るな、と祈れば3年半もの間日照りが続き、雨よ振れ、と祈ればたちまち土砂降りとなって生きとし生けるものの命を潤したのです。
 「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」(ヤコ5:19-20)

 富者への警告には抗い、忍耐については「然様でございますか」と思い、祈りについては然り然りと頷くのが、本章に対するわたくしのスタンスであります。
 ヨブとエリヤてふ旧約聖書最大級の義人と預言者が忍耐と祈りの象徴として出した上で、それが事実であるのはこの2人を見ればわかることです、と畳みかけているあたりに、本書簡の具体性が垣間見えるように思うのですが、読者諸兄は如何でしょうか。

 本日の旧約聖書はヤコ5:11bとヨブ42:10-17、ヤコ5:17と王上17:1-7及び同18:1-2(但し「3年半」と明記されるのはルカ4:25)、ヤコ5:18と王上18:41-45。



 1つ1つ、書物を消化してゆくたびに味わう達成感と喜びと充実はなににも代え難く、今日もまた「ヤコブの手紙」に於いて満ち足りた気分を味わうことができました。あと少し、あと少しで書簡は終わる、そうしてその後に辿り着いた黙示文学1巻を以て聖書を読み終える。が、この「あと少し」が曲者で、それは途轍もなく長い時間と感じ、気力を奪う程に高い、高い壁のように映るのであります。まぁ、その主たる要因は最後に鎮座坐す「ヨハネの黙示録」なのでしょうけれどね。
 が、新約聖書を構成する27の書物のうち、「ヤコブの手紙」を以て20を読み終え、9月中葉乃至は10月初旬の聖書読書ノートの完結が視界に入り、その実現も具体化してきました。〈公同書簡〉の始めの1巻を読み終えたいま、目の前に広がる光景が以前よりも遠くまで見通せるようになったことに気附いたことであります。この感慨は、とても大きい。
 無償で行われている本ブログの継続と前進は偏に読者諸兄あってこそ。あと少しの間、わたくしの手をその見えない手で引いてほしい。◆

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第2295日目 〈ヤコブの手紙第4章:〈神に服従しなさい〉&〈兄弟を裁くな〉withそっちへ曲がるのではない!〉 [ヤコブの手紙]

 ヤコブの手紙第4章です。

 ヤコ4:1-10〈神に服従しなさい〉
 兄弟たち、あなた方の間で争いや諍いが起こるのは、あなた方の内にある欲望が原因です。あなた方は欲しても得られないから人を殺す。望んでも得られないから争い、戦う。得られないのは願い求めないからでしょう。願い求めても得られないのは、得たものを個人の愉しみのためにだけ用いよう、と考えているからです。そんな動機は間違っています。
 「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」(ヤコ4:4)
 神に服従して、悪魔に反抗しなさい。やがて悪魔は離れてゆくでしょう。
 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」(ヤコ4:8-10)

 ヤコ4:11-12〈兄弟を裁くな〉
 誰彼の悪口をいうたり、裁いたりしてはならない。
 ──あなた方は律法の裁き手ではないからだ。
 律法を定め、裁きを行うのはただ1人。救うことも滅ぼすこともできるのも、ただ1人。
 ──隣人を裁くあなた方はいったい何者か。

 ヤコ4:13-17〈誇り高ぶるな〉
 未来を語る者たちよ、自分の命が明日どうなるかわかっているのか。明日も今日と同じように生きていられると思うておるのか。あなた方はこの世の泡沫。わずかの間現れて、すぐに消えてしまう露に過ぎない。
 ──主の御心ならば生き永らえて、様々のことを行おうではないか。あなた方はそう発言するべきなのです。
 ところが実際は誇り、高ぶっています。それはすべて悪いことだと知りなさい。
 「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(ヤコ4:17)

 悩んだ挙げ句に最終稿から削ったのが、ヤコ4:5-6にある旧約聖書からの引用と思しき一節。曰く、──
 「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。』」
 が、実はこの一節、旧約聖書に該当箇所はないのだ、という。ただ、類似の箇所はあるとのことで、参考として以下に記しておきます。
 ・神の嫉妬;出20:5、同34:14、申4:24
 ・神が霊を人の内に宿らせる;創2:7、民16:22、同27:16、ゼカ12:1
以上。
 ──引用したヤコ4:17、これは誠の言葉でありますね。首肯できぬ人は果たしてどれだけいるでしょう?

 本日の旧約聖書はヤコ4:6と箴3:34(但し70人訳ギリシア語聖書)。



 参議院選挙の期日前投票に行きました。1つ先の駅で降りて徒歩数分の場所にある区役所が投票所となるのですが、そこへ行くためには、改札を出て右に曲がらねばならない。左に行けば、そこはまるで違う場所。
 今更こんな初歩的な過ち、犯すはずはないと思うていた。わたくしはなんの疑いもなく躊躇いもなく、その日は左に曲がってしまったのだ。そちらにはよく利用するTSUTAYAと成城石井、パンの神戸屋がある。
 5メートルばかり歩を進めたところで、わたくしは、はた、と気を確かにする。そうして、俺は投票に来たはずだ、と思い直し。斯くしてわたくしは颯爽と踵を返し、飄然とその場を去った。その完璧なる去り様にブーイングなぞ起ころうはずもない。
 いや、それにしても、習慣って怖いものですな。呵々。◆

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第2294日目 〈ヤコブの手紙第3章:〈舌を制御する〉&〈上からの知恵〉with“buy or not buy”──V.ペトレンコ=RLPOetcのショスタコーヴィチ全集〉 [ヤコブの手紙]

 ヤコブの手紙第3章です。

 ヤコ3:1-12〈舌を制御する〉
 あなた方の多くは教師になってはならない。教師は、そうでない人よりも様々な理由から厳しい裁きを受けることがしばしばです。われらは皆、例外なく罪を犯してしまう。もし言葉で過ちを犯さない人がいたら、それは自分のすべてを制御できる完全な人であります。
 舌は、──船にたとえれば舵取りの操る小さな舵です。強風に嬲られながら荒れ狂う海を行く大きな船、それを舵取りはただ1つしかない小さな舵を巧みに操って意のままにする。舌はその小さな舵なのです。舌は大言壮語します。おわかりでしょうが、船は教会で、舵取りは教師。教師は舌を操って教会や信徒たちを誤った方向へ導くこともできるのです。
 どんなに大きな森も、小さな火で燃やし尽くされます。舌は火であり、また、舌は不滅の世界です。舌は全身を汚し、移ろいやすい人生を焼き尽くし、自らを滅ぼすこともできます。動物は人によって制御されますが、舌を制御できる人はいません。
 「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」(ヤコ3:8)
 われらは同じ舌で神を讃美し、人を呪います。同じ口から舌によって、讃美と呪詛の言葉を発するのです。が、しかし、兄弟たちよ、ゆめこのようなことがあってはなりません。斯様に正反対の事柄が一つ所から来ることなどないのですから。

 ヤコ3:13-18〈上からの知恵〉
 あなた方のなかに、分別と知恵を兼ね備えた人がどれだけいるか、わかりません。が、該当する人はその知恵に相応しい柔和な行いを、その立派な生き方を以て世に示しなさい。この世のものや悪魔から出た知恵に囚われてはなりません。妬みや利己心があるところには、混乱や紛争を始めとするこの世のありとあらゆる悪い出来事が、常に存在するからです。
 あなた方が必要とすべきなのは、上から出た知恵であります。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」(ヤコ3:17)
 覚えておいてください。義の実は平和を実現する人々によってのみ、平和のうちに蒔かれるのだ、ということを。

 口が達者なわけではありませんが、誠実めいた、真実めかした言葉を、これまた真摯ぶった調子で語りかけていると、よし相手を手玉にとった、よし相手の心を掌握した、と感じる瞬間があります。そうなればしめたもの。余程口が過ぎたり墓穴を掘るような真似を自ら演じない限り、世論を自分の思う方向へ導くことが可能です。
 これを単純に詐欺とかペテンとかいうことはできません。もしかするとそれは自己防衛かもしれません。賛同者欲しさの根回し運動かもしれません。自分を有利な位置に置いておきたい、という一心からかもしれません。加えていえば、ここが大切なのですが、ここを読んで「否」を唱えられる人、自分はそんなことをしたことはないと曰える人は、いないはず。誰もが身に覚えあることで、この点についていえば脛に傷持つ身であり、叩けば埃の出ること必至なはずでありましょう。
 舌について説かれた前半を読んで、わたくしは非常に感じ入るところがありました。舌/言葉によって人を1つの方向へ導く役割を担う立場としては、ここに書かれた言葉の一々が戒めであり、諫めである、と感じたのでありました。しかしながらその一方で、ここでの教えはそのまま反面教師と化して冒頭の意見が出る土壌となるのであります。
 わたくしは以上のような感想を抱くと同時に、20世紀中葉のヨーロッパを席巻したと或る1人の人物を想起しました。アドルフ・ヒトラー。わたくしは本章を読んでいる間、意識の裏で、ああこれはヒトラーの演説や人心掌握術にも通じるものがあるな、そうした意味ではヒトラーは本当に「舌」の功罪について本能的に嗅ぎ取っていた人なのだなぁ、と感心するのでした。冒頭の感想は小説家の職能(小説家とは世界に類を見ない嘘つきの別称である)に同じですが、一方でヒトラーのような人物を生み出す素地ともなるのだ、と思います。



 遅ればせながら、ナクソス・レーベルから順調にリリースされていたヴァシリー・ペトレンコ=ロイヤル・リバプール・フィル(RLPO)によるショスタコーヴィチの交響曲全集が第13番《バービ・ヤール》を以て完結しました。もう1年近く前のことですけれどね(えへ)。
 行きつけのCDショップで新譜・旧譜を見るたび、買うか否かを迷いに迷い、たいていは棚に置き去りにして帰宅する、ということを繰り返してきました。それでも購入した音盤は1つだけあって、それは第10番だった。後日、他に紛れて処分してしまった、というオチが付くけれどね。
 クラシカ・ジャパンで放送されていたゲルギエフ=ロンドン響のショスタコーヴィチ交響曲&協奏曲全集をずっと録画していたのですが、ここ数日に分けてそれを観返していました。するとどのような作用が起こるかといえば、交響曲全集(CD)が欲しいな、という蒐集欲が頭をもたげるわけです。で、のこのこと仕事帰りにCDショップへ寄り道して棚をぼんやり眺める。
 ──ここで余談を挿入。わたくしがこれまで聴き、有したことのある全集はルドルフ・バルシャイ=ケルン放送SOだけで、図書館には弦楽四重奏曲全集は幾つもあるが交響曲全集はほぼないに等しく……。バルシャイの演奏は水準以上で曲を知るになんの不足もないのだが、わたくしにはどうも物足りなかった。好きな曲に限ってどうにも中途半端な印象で。
 そこへ来て前述のゲルギエフのライヴ映像であり、ペトレンコの演奏である。ペトレンコ=RLPOのショスタコーヴィチについていうと、第10番がカラヤンの新盤とは別の意味で自分好みの演奏であったものだから、やはり機会あらばこのコンビによる他の曲も聴いてみたかったんですよね。でも、バラで買うのはしんどいなぁ、ここが渋谷や新宿であれば問題とする必要もないけれど、わが海ある故郷ではねぇ……できれば取り寄せはしたくないし。いっそのこと、iTunesで購入しちゃおうか、なんて愚かな方法も検討してみたり。
 話はここで前に戻る。仕事帰りに寄ったCDショップの棚に、何気なくそれは並んでいた。ペトレンコ=RLPOによるショスタコーヴィチの交響曲全集、スリム・ボックス・セットが! お値段税込み8,000円弱。クラシック売り場を1周して他に買うものがないと判明するや、わたくしは勇んでナクソスのコーナーへ戻った。そうして、……膝を折って崩折れた。かのセットは最早なく、あるは抜かれた痕跡だけ。そういえばわたくしと入れ違うようにしてコーナーの前に立ち、熱心に棚を眺めていた御仁がいたな──嗚呼!?
 斯くして先に発見していたウサギさんはその怠惰からかめさんに追い抜かれて、内心溜め息しつつ取り寄せを頼む羽目になったのだった。教訓;買う気が少しでもあるなら、諸人よ、武器ならぬ商品を手に取れ。それは二度と巡ってこない出会いなのかもしれないから。注文したペトレンコ=RLPO、ショスタコーヴィチ交響曲全集は1週間程で到着する……。それまではiTunesでサワリの部分を聴いて、我慢しよう。長いなぁ、1週間って。◆

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第2293日目 〈ヤコブの手紙第2章:〈人を分け隔てしてはならない〉&〈行いを欠く信仰は死んだもの〉〉 [ヤコブの手紙]

 ヤコブの手紙第2章です。

 ヤコ2:1-13〈人を分け隔てしてはならない〉
 主イエス・キリストを信じるあなた方は、人を分け隔てしてはならない。そんなことをしてはなりません。相手の外見や物腰や言葉遣い、自分の感情や偏見などに基づいて、誰かを差別したり、依怙贔屓したりしてはなりません。「あなたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになる」(ヤコ2:4)からです。
 神は貧しい人を選んで、富める者は選びませんでした。神は貧しい人たちに信仰を富ませ、自分を愛する人々へかつて約束した国を受け継ぐ者にした。なのに、あなた方は貧しい人たちを辱め、富める者へ追従する──これはよくないことです。富める者は却ってあなた方を虐げ、主の名を冒瀆しています。
 隣人を己のように愛しなさい、という掟を実行しているなら実に結構なことです。が、人を分け隔てしているのであれば、律法によって違反者と見做されます。よろしいでしょうか、律法全体を守っているとしても、たった1つの点で落ち度があるならば、すべてのことで有罪とされるのです。あなた方はいつの日か律法によって裁かれる者と覚悟して語り、そうして振る舞いなさい。
 「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコ2:13)

 ヤコ2:14-26〈行いを欠く信仰は死んだもの〉
 自分は信仰を持っている、と曰う者がいたとします。だが持っているだけで行いが伴っていないならば、信仰は形ばかりのものでしかありません。救われることもないでしょう。
 「行いが伴わないならば、信仰はそれだけで死んだも同然です。」(ヤコ2:17)
 行いなく信仰ある者よ、あなたの信仰を見せなさい。そうすればわたしも、行いによってわたしの信仰を見せてあげよう。
 行いを伴った信仰としてすぐに思い浮かぶのは、「創世記」にあるアブラハムのイサク奉献です。また、「ヨシュア記」にある娼婦ラハブがヨシュアからの斥候を匿い、逃がした一件です。アブラハムもラハブもその行いによって義とされました。
 もう一度いいます、──
 「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコ2:26)。

 信仰を持つことは誰でもできる。が、その信仰がまことのものであるかどうかは行動によって示される、というのです。双方はいわばコインの表と裏であります。けっして切り離せない間柄、どちらか片方だけでは存在できない。
 ──信仰生活に於いては斯くいえますが、実際の生活面でもこうしたことはあるでしょう。「口先ばかり/考えるばかりで行動しない」とはこれまでの人生のなかで誰もが一度ならず経験していることではありませんか? やるべきことをずるずると先延ばしにする、というのはまさしく典型的事案と申せましょう。
 前半の分け隔て、差別、依怙贔屓をしない、ということについて。そうなのかもしれない、とは思うのです。が、今更というか最早後戻りはできない──そんな状況に置かれている現在、この箇所はわたくしにとって読むことが非常に辛いところなのであります。やれやれ。

 本日の旧約聖書はヤコ2:8とレビ19:18、ヤコ2:21-22と創22:1-18、ヤコ2:23と創15:6、ヤコ2:25とヨシュ2:1-21及び同5:17並びに22-25。◆

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第2292日目 〈ヤコブの手紙第1章:〈挨拶〉、〈信仰の知恵〉他with米澤穂信『遠回りする雛』読了。〉 [ヤコブの手紙]

 ヤコブの手紙第1章です。

 ヤコ1:1〈挨拶〉
 神とキリストの僕ヤコブから離散した12部族の人々へ、この手紙を送る。

 ヤコ1:2-8〈信仰の知恵〉
 試練に出会うことを喜びなさい。信仰が試されることで忍耐が生じる、とあなた方は御存知でいらっしゃいます。あくまで忍耐しなさい。そうすれば神に喜ばれる完全無欠な人になれます。
 知恵の欠けたる人があらば、その人のために神へ祈りなさい。さすれば神は与え給ふ。
 「いささかも疑わず、信仰を持って願いなさい。」(ヤコ1:6)
 疑う者は心が定らず、人生それ自体に安定を欠く人に他なりません。

 ヤコ1:9-11〈貧しい者と富んでいる者〉
 貧しき者らよ、やがて自分が高められることを誇れ。
 富める者らよ、やがて自分が低くされることを誇れ。なんとなれば、富める者は草花のように滅び去るから。富める者は人生の途中で消え去ってしまうのだから。

 ヤコ1:12-18〈試練と誘惑〉
 試練を耐え忍ぶ人こそ幸いなり。かれは適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠を戴くからです。
 神は何人も誘惑したりしません。何人からも誘惑されたりしません。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコ1:14-15)
 良き贈り物、完全な賜物は皆、天から与えられます。というよりも、光の源である御父、即ち神から来ます。御父は御心のまま、御言葉によってわれらを生み、造られたものの初穂としたのです。

 ヤコ1:19-27〈神の言葉を聞いて実践する〉
 兄弟たちよ、わきまえていなさい。誰しも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しない。あらゆる汚れやあらゆる怒りをすべて捨て去り、あなた方の心に植わって根を張っている御言葉を受け入れるのです。御言葉はあなた方を救います。
 どうか、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。」(ヤコ1:22-23)
 鏡のなかのあなたは虚ろな影。御言葉を行わない人はその程度の存在です。が、自由をもたらす律法を一心に見つめ、守る人は、行う人です。その人はその行いゆえに幸せになれます。
 「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」(ヤコ1:26-27)

 昨日の〈前夜〉にて「ヤコブの手紙」は現実的実践的な面を強く押し出した手紙である、と申しました。それはこの第1章にてすべて提示されております(殊ヤコ1:26-27)。むしろ第2章以後は、第1章の各所で蒔かれた種──1つ1つの事柄、話題を注意深く育てあげ、大輪の花を咲かせた、という印象を抱くのであります。
 おそらく「ヤコブの手紙」第1章を読んでもよくわからない、という人は──勿論キリスト者でなくては到底わかり得ぬ、或いは感得できぬところはあると雖もそれを差し引いてなお、このあとを読み続けても雲を摑むような話ばかりで、5章から成る短い本書簡の読書中は道に迷うて途方に暮れるのがオチであるように思えます。
 では、わたくしのいわんとしていることはなにか──第1章をよく読んで次章へ進むのが最良にして唯一の方法である、という、それだけのこと。



 米澤穂信<古典部>シリーズ第4巻『遠回りする雛』(角川文庫)読了。雑誌掲載のみの単行本化されていないものも含めて、アニメ化されたエピソードはすべて原作小説で消化した。
 そんないま倩思うのは、アニメ版の方がややビターさは薄まっているね。たとえば「手作りチョコレート事件」。原作は右も左もどちらを見ても八方塞がりで、どうしようもないぐらいの息苦しさが読後に残ってしまうのだが、そこへゆくとアニメ版はラストでわずかなりとも救いが与えられるように改変/演出されていた。
 巻を閉じて思う、本書は素晴らしき短編集であった。ケメルマン「九マイルは遠すぎる」にじゅうぶん肩を並べ得ると思う「心当たりのある者は」。前述の、救い難さ漂う「手作りチョコレート事件」。ヒロインのいじましさと諦念、主人公の彼女に対する想いの発露が印象深い表題作「遠回りする雛」。
 どれもこれも甲乙付け難く、好き嫌いを決め難かった。既刊5冊のうち最後の『二人の距離の概算』は未読だけれど、それをさておいてもわたくしは本書がシリーズ随一の出来映えを誇る1冊と思う。作中の時期としては先行3冊の間へそれぞれ組みこまれるものであり、また季節も移り変わってゆくなかで登場人物たちの関係性も徐々に変わってくるのがわかる。それを楽しみに読んだのでもある。折木奉太郎と千反田えるの関係、福部聡と伊原摩耶花の関係。これが実にゆっくりと、だが望ましい方向へ変わってゆくのは、読者としても喜ばしい出来事なのである。
 本書のみでもじゅうぶん読書に耐えるが、どうせなら『氷菓』と『愚者のエンドロール』、『クドリャフカの順番』を先に読んでおくのが良い。各短編のなかでこれら3冊にかかわる描写も出て来るからであり、またそれが簡単というか無味乾燥な記述なので、それの背景を知っておくのはけっして無駄ではない。……と、最後にどこかで聞いたような読書ガイドめいた一段を添えて、擱筆。◆

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第2291日目 〈「ヤコブの手紙」前夜〉 [ヤコブの手紙]

 公同書簡の劈頭を飾る「ヤコブの手紙」は、わたくしのような非キリスト者にとって全書簡のなかで最もわかりやすいものであります。内容や文章が平明、論旨も簡にして要を得ている。それだけに留まらず、〈パウロ書簡〉が教理的神学的側面を強調するのに対して、「ヤコブの手紙」は現実的実践的側面を色濃く漂わせております。
 パウロが手紙のなかで説くのが「信仰」という実を育てるにあたっての心構えだとすれば、「ヤコブの手紙」が述べるのはその実の育て方です。敢えていうなら〈パウロ書簡〉は園芸理論書であり、「ヤコブの手紙」は園芸手引き書(ハウ・トゥ)である、というところでしょうか。
 どうやら「ヤコブの手紙」が書かれた頃、キリスト者、キリスト者になりかけの人々の間には、信仰さえきちんと持っていれば多少行いが悪くても、或いは奉仕や施しなど信仰に基づく行いがなかったとしても、救われるのだ、という考えが一般的にあったようです。むろん、これは誤り、誤解でありまして、キリスト者としての務めを果たすには信仰があるのは当然として、信仰生活に於ける行いが重要となってまいります。それは祈りであり、聖餐であり、洗礼であり、また奉仕や励まし合いだったでありましょう。煎じ詰めると本書簡にて著者がいいたいのは、<するべきことをきちんと行いなさい>という単純明快なことに他なりません。
 では、「ヤコブの手紙」は誰が書いたのか。新約聖書では4人の「ヤコブの手紙」が登場しますが、本書簡の著者問題で俎上に上るのは内3人です。1人目はアルパヨの子である小ヤコブ(マタ10:3、マコ15:40)、2人目はイスカリオテではない方の使徒ユダの父ヤコブ(ルカ6:16)、3人目はゼベダイの子ヤコブ(マタ4:21)。この3人目のヤコブは殉教時期と手紙の執筆推定時期がまったく合わないことから著者論争に名の挙がる機会は殆どありません。
 4人目が、主の兄弟ヤコブであります(使12:17、15:13、21:18、一コリ15:7etc)。ナザレのイエスには弟や妹がおりました。ヤコブはいちばん上の弟でしたが、イエス存命中は兄の特福音なぞ信じていないようだったが死して後の復活に接してからはこれを信じるようになり、使徒たちに迎えられてエルサレム教会の指導者となり、支柱となり、牧者としてユダヤ人相手に福音を説くなど活動し、かれらの改宗に腐心し、かつ手を差し伸べました。
 ペトロはヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ1世)に捕らえられた牢から天使の導きにより解放された際は同士の許を訪ねて、自由の身となったことを(主の兄弟)ヤコブに報告してくれるよう頼んでおります。またパウロは第3回宣教旅行を終えた後、エルサレム教会にヤコブを訪ね、その場に居合わせた長老たちの前で、「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した」(使21:19)のでありました。
 消去法を用いずとも、「ヤコブの手紙」の著者はこの4人目のヤコブ、即ち主の兄弟にしてエルサレム教会の指導者、義人ヤコブと判断して、まず間違いなさそうであります。
 では、執筆場所は? 執筆年代は? 場所についてはエルサレム以外の地を挙げること自体が難しそうです。エルサレム教会の牧者という立場を考えると尚更ではないか、と思うのであります。まぁ、時にはかれも旅空の下にある日もあったでしょうが、それをいい始めるとヤコブが足跡を残したすべての地を候補にしなくてはなりません。パウロならともかく、職務上1ヶ所に留まることが多かったであろうヤコブがエルサレム以外の地で斯様にまとまりのある手紙を書く可能性はずいぶんと低いのではないでしょうか。わたくしは本書簡の執筆地をエルサレムと考え、他に選択肢を思い浮かべられぬ者であります。
 書かれた時期については他書簡同様に開きがあって一致を見ておりません。念頭に置くべきはヤコブが70年のエルサレム陥落から遡ること数年前、神殿の壁から突き落とされて殉教した、という伝承でありましょう。それが史実かは別として、かれが60年代に殉教したのは確かなようであります。一部ではかれの晩年にあたる時期に執筆されたと考えられているようでありますが、大勢を占めているのは40年代後半、もう少し狭めるならば45-48年頃である由。理由としては、本書簡のなかでエルサレム会議に触れた箇所がないこと、教会を指すのに「会堂」という呼び方をしている(ヤコ2:2、但し新共同訳では「集まり」と訳される)ことなどあるようですが、殊後者についてはわたくしにはどうにもわかりかねる点であります。
 ──わたくしが聖書を読み始める直前だったでしょうか、畳に寝転がって読んだ本に内田和彦『「聖書は初めて」という人のための本』(いのちのことば社 1999.11)というものがありました。その第6章にこのような一文があります。曰く、「(聖書に書かれていることを)何でも杓子定規に同じことをするというより、そこにある精神、姿勢などを自分に当てはめることが大切です」(P83)と。
 「ヤコブの手紙」はたとえば「試練と誘惑(忍耐)」、「差別(えこひいき)」、「舌の制御」、「驕るな」、「富者への警告」、「忍耐と祈り」などを信仰生活のなかでどのように取り入れ、適用させるか、ということについて書いております。本稿冒頭にて本書簡を「現実的実践的」というた所以であります。
 先述の内田の文章をここに重ねるならば、本書簡は現在のわたくしの心奥にまで容赦なく突き刺さり、一方で戒めとも諫めともなる手紙となりそうな予感がしております。まあ、わたくしも公私共々(専ら前者に傾くが)いろいろありますのでね。
 「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(ヤコ1:6)
 「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコ2:17)
 「あなたがたのなかで苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(ヤコ5:13)
 ──それでは明日から1日1章の原則で、「ヤコブの手紙」を読んでゆきましょう。◆

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