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第2541日目 〈『ザ・ライジング』第5章 1/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 準備は終わった。そう上野は独りごちた。生きている心地がしなかったぜ。なんたって俺は犯罪者だからな。いつ学園や警察から電話がかかってくるだろう。それを思うと顔色は、鏡を覗かずともわかるぐらいに青ざめ、足許から冷たいものが脳天まで貫いてゆき、いても立ってもいられなくなる。
 今日は帰宅してから四回、部屋の電話が鳴った。携帯電話の電源は学園を出る前からずっと切ってある。電話が鳴るたび、それが地獄の底から赤塚が自分を呼ぶ声に聞こえて仕方なかった。いや、もしかしたら死んでいなかったのかもしれない。俺がそう早とちりしただけで、実際は生きている。あのあと、むくりと起きあがり、ぺちゃっとした笑みを顔に貼りつけて、体をずるずると引きずって、俺の後を追いかけてくる途中から電話をしてきたのかもしれない。部屋に閉じこもって電話が鳴るたび、一度新聞の勧誘で男がベルを鳴らしたとき、その向こうにいつも、自分が最前殺してきた人間が、色を失い、焦点を結ばぬ眼でこちらを見、腕をだらんとこちらに伸ばしている姿が見えた。勧誘は耐えきれずに怒鳴って追い返したが、電話には出ることができない。受話器を取った途端に風の音がし、赤塚の忌まわしいだみ声が自分の名前を呼ぶような気がする。あり得ないこととわかってはいても、それを想像すると電話に出る勇気なぞ湧いてくるものではなかった。
 だが、と上野は自分を説得するように声に出し、頷いた。俺はもう二度とあいつが、深町に危害を加えられないようにしただけなんだ。それだけでも誉められるべきじゃないか。彼は部室の床に横たわっていた希美を思い浮かべた。最低のことをしてしまったな。よりによってなんで深町を。この数ヶ月で彼女はあまりに辛い経験をしたんだぞ。お前だって知らないわけじゃあるまい。それをようやく克服した矢先に、ああ、上野宏一よ、お前はとんでもない苦しみを彼女に与えたな。きっと、彼女を大切にするすべての連中に八つ裂きにされるぞ。……いや、俺は地獄に堕ちて、その業火に永遠に苦しむのだろうな。
 深町、ごめんよ。謝ってどうなるものでないのは、もちろんよくわかってるさ。でも、一言だけ謝りたかった。そうした上で、……。そう、お前の家に何度も電話したのはそのせいさ。けど、逆に怒られてしまった。あれはいったい誰だったんだ、お前の家にいたあの人は。なんだか、かなえを思い出したよ。
 自分がいま手に握っているものを見つめながら溜め息をついた。最後にお前に謝ることができて、俺もようやく安心したよ。これから俺は、あることをしようと思う。いうなれば、たった一つの冴えたやり方、ってやつだ。
 電話がまた鳴った。がなり立てるように何度も、何度も。そちらへ視線を向けることもなく、うつむいたまま、上野はそれを無視した。するうち諦めたらしく、電話は鳴りやんだ。仰向けに寝転がって天井を眺めていると、ロフトの縁に開いた縦に細長い空間へ目が向き、自然と首吊り自殺という考えが浮かんだ。それ以上長く見あげていると、ロフトから下卑た表情の赤塚が顔を出すような気がする。彼はそそくさと立ちあがり、近くのコンビニでおあつらえ向きの長さ太さのロープを買いこんで帰宅した。ボーイスカウト時代の記憶をたぐり寄せて、なんとか用を足すに十分なものが出来あがるまで、電話が二度鳴ったけれど、やはりこれも無視した。□

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第2526日目 〈『ザ・ライジング』第4章 46/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 宮木彩織はベッドから上半身を起こして、大きく伸びをした。頗る長い時間、ベッドに寝っ転がっていたせいか、背中の肉がずいぶんと張っている。そうして寝惚け眼のまま、足を床へ降ろして立ちあがり、よたよたと机に向かって歩き始めた。
 (彩織!)
 希美の声が耳の奥に響いた。
 両足から途端に力が抜け、膝をついて彩織は崩れ落ちた。周囲の光景がまるで引き潮の如く急速に自分の後ろへ引いてゆく。彩織は口を半開きにし、視線を天井へやった。知らぬ者が見たら白痴とでも思われていたかもしれない。体がゆっくりと背中から倒れていった。
 床に倒れこんで後頭部と背中をしたたかに打ちつけたとき、目の前で浮かんだ光景は彩織をしばしの間、息を呑んで、おののかせるに十分だった。希美が横たわったまま海の底へ沈んでゆく。屈折した光の輝きが美しい中、髪をたなびかせて、おだやかな面持ちで。その表情は気品にあふれ、会う者を知らずひれ伏させる威厳に満ちていた。
 (さよなら……)
 束縛が突然解かれ、彩織は上半身をはね起こした。いまの短い幻影が現実の、しかもいまこの瞬間に起こっている出来事だと確信するのに、さほどの時間はかからなかったし、根拠も必要としなかった。実際のところ、予感はあった。夜のローカル・ニュースで白井正樹殺害の方を知ってハウエルズを聴きながら漫画を読み出すまでの間、彩織は希美の家と携帯電話に五〇回以上は連絡をつけようと躍起になった。が、ただの一度もつながらなかった。藤葉や美緒にも連絡したが、やはり彼女達も電話がつながらないという。何度かは緑町の希美の家に行ってみようとしたものの、そのたびに季節外れの暴風雨が邪魔立てをした。
 「のの!」
 今度ばかりは邪魔なんてさせやしない。ののが危ないんやから――。
 彩織は机の角に掌をついて立ちあがると、(希美と二人で撮ったプリクラが二枚と、〈旅の仲間〉四人で撮ったプリクラが一枚貼られている)携帯電話を摑み、電源を入れるのももどかしく、藤葉と美緒に電話をした。パジャマを脱ぎ捨てると着替えてコートを羽織り、部屋を出ていった。◆

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第2525日目 〈『ザ・ライジング』第4章 45/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 さあ、おいで。あの黒い衣の男の声が脳裏に響いた。ためらってはいけない。こちらにはお前が望む世界があるのだから。お前が会いたがっている人たちがいるのだから。さあ、おいで。有無をいわさぬ調子の声である。しかし、四囲を見渡してみても、黒い衣の男の姿は視界に入ってこない。こちらで暮らそう、とみんなが待ってくれているよ。
 希美は知らず知らずのうちに頷き、よろよろと立ちあがった。そして、おぼつかない足取りで海へ入っていった。くるぶしが波に洗われた。少しずつ浅瀬から沖へ移動してゆくにつれ、くるぶしからふくらはぎへ、膝へ、腿へ、腰へと海面は高くなってゆく。襲いかかってくる高波に希美の体はよろめき、頭から水をかぶった。そのたびにむせて、喉の奥で塩辛い吐き気を催したが、浜辺へ引き返す気持ちはこれっぽっちも起こらなかった。
 そう、その調子だ。いいぞ、そのまま歩いておいで。怖がらなくていい。――不気味なせせら笑いが声に被さって聞こえてくる。
 (のの! 行っちゃダメや!)
 彩織の声が他の二人の声を圧して、一際はっきりと耳へ届いた。
 (ずっと一緒って約束したやんか。独りぼっちになるなんてイヤや!)
 (彩織ちゃんのいう通りじゃない?)
 落ち着いた調子の母の声が、耳許でそっと囁かれた。――ママ?
 そのとき、これまでよりも一段と高い波が、希美に襲いかかってきた。見あげるような、津波かと間違うぐらいの大きな波だ。黒い壁がぐんぐんと勢いを増して隆起してくる。巨人が血管の浮き出たたくましい腕で持ちあげているのではないか、そんな想像さえ生まれた。音ももはや塊となって耳の奥まで轟いてくる。波はスローモーションで描かれる映画の一場面のように、ゆっくりと希美に向かって倒れかかってきた。彼女には目を見開いて、恐怖に満ちた瞳でそれを見つめることしかできなかった。
 波の重さに耐えかねて、希美は海の中に倒れた。その拍子に髪が根本から逆立ち、水の中で広がるのが視界の端に移った。それはどことなく水中花のように見えた。無意識に、口を開いて呼吸しようかとも思ったが、海水が容赦なく口腔に押し込められてくるだけだった。手足をばたつかせてみても水を掻くばかりで、なかなか浮くことができない。海岸に向かう波、沖へ帰る波、それぞれの水圧もあるのだろう。が、いまの希美にそんなのは関係なかった。海岸からさほど離れたとも思えないのに、体は底へ底へと引きずりこまれてゆくような気がする。錯覚かなあ? ああ、もう本当に駄目なのかも……死んじゃう……。
 目の奥で熱いものが浮かんだ。これまでの思い出が、時間も空間も無視して断片的な映像となって駆けめぐってゆく。
 さよなら……。
 刹那、ハーモニーエンジェルスのオーディションへ一緒に応募した盟友の顔が、脳裏を過ぎった。
 ――彩織!
 それを契機としたように、意識が徐々に遠ざかり始めた。希美の体は自ら抗うことをやめ、静かに海の底へ沈んでいった。□

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第2524日目 〈『ザ・ライジング』第4章 44/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 目の前に、海が横たわっている。怒号に似た唸りを立てながら、海は飽くことなく波を浜辺へ押し寄せていた。白い波頭は夜目にもそれとはっきり映り、うねりゆく様も細かくわかった。
 それをうつろな眼差しで眺める希美は砂浜にたたずんで、全身の揺れるのを風に任せ、海の向こう側から荒々しく吹き寄せる風に漆黒の髪をなびかせていた。これまで何度も夜の海は見てきたが、常に畏怖や恐怖が心の底にしっかりと根を張っていた。だがいまは、目の前に茫洋と広がる光景に魅せられ、誘惑されかけている。その先で待つのは永劫の闇。愛する死者達が待つ永劫の闇によって統べられた世界。希美にとっていまや海は黄泉の国へ通じる路であった。
 いま行くよ、パパ、ママ。もうすぐだから、正樹さん。もうすぐ逢えるよ。それまで待っていてね。
 希美は一歩を踏み出した。歩くたびに足が砂にめりこみ、不安定な足許では風に誘われ砂利と小石がポルカを踊っている。あと十歩ほどで波打ち際だ。右足の爪先が流木に当たり、つんのめってバランスを崩し、膝から転んだ。両掌が砂に沈み、左の薬指がガラスの破片に触れて一直線に切れた。鮮血が滲みはじめる。顔の両側から垂れた髪で視界は半分以上ふさがれた。
 閉じた目蓋の裏に昔の光景が鮮やかに甦ってきた。希美にとって海辺は懐かしい思い出でいっぱいだ。物心ついた時分からの、またとない遊び場でもあった。〈旅の仲間〉や真里はもちろん、小学校の同級生や近所の子らと連れだって(時には誰彼の保護者付きで)ここで遊んだのは数知れない。幼稚園のときはともかく、小学生の頃は学外行事で来たこともたびたびあった。原の海岸に小型タンカーが嵐で流されて打ちあげられたときは、真里に引き連れられて彩織と三人で自転車に乗って、それを見物に出掛けたりもした。高校へ入学して知り合った藤葉や美緒に何気なくそれを話すと、なんという偶然か、二人も日を同じうしてタンカーの見物に来ていたという。「もしかするとすれ違っていたりしたかもね」と一刻、四人して盛りあがったものだ。
 ――あの日、正樹さんのことで彩織にけしかけられたのも、そういえばここだったっけ。希美の両の頬を涙が伝い落ちてゆく。それは顎まで流れて拳になった手の甲へ落ちるまでの間に、雨に紛れて涙なのかどうかもわからなくなってしまった。彩織がいなかったら片想いで終わっていたかもしれないな。そうしたら、正樹さんは死なずに済んだかも……。まあ、私がレイプされていたかどうかは別として。彩織、いままでありがとう。私のいちばんの友だち。楽しい思い出をたくさん作ったね。忘れないよ……さよなら……大好きな彩織。
 (うちらを残してどこへ行くつもり、のの?)
 幻聴だろうか。だが、ここに彩織がいるはずはない、いまのは空耳だ。それにしてはあまりにはっきりしすぎている。でも、確かに宮木彩織の声だった。風の勢いに途切れることなく、その声は希美の耳許へ届いた。希美はうなだれていた顔をあげ、口を半開きにしてあたりを見回した。幾列にも幾重にも築かれたテトラポッドのすぐ手前、希美のいるところから五メートルと離れていないところに、彩織が立っていた。こちらを見る眼はもの哀しげだ。心の奥底へ押し隠した秘密まで見透かされるような思いに囚われた。いつもの元気たっぷりな彩織からは滅多に窺えない表情に、希美は気圧される感じがした。そんな目で見ないでよ、せつなくなっちゃうじゃない。せっかく決心したっていうのに……。
 (決心って死ぬことなの、ののちゃん?)
 木之下藤葉がそういいながら、彩織の背後から姿を見せた。その目にははっきりわかるほどの怒りが宿っている。これも普段の藤葉からは想像できない表情だった。彼女の鋭い眼差しに希美は、彩織とはまた別の意味で気圧された。だが、その睨みは裏切られたことへの怒りではない。そこには――その一端には、愛情が確かに宿っている。ごめんね、ふーちゃん。でも、わかって。信頼していなかったわけじゃない。こればっかりはみんなの慰めがあっても駄目なの。私一人が考えて結論を出さなきゃいけないの……。
 (それじゃあ、希美ちゃんにとって私達はいったいなんだったの?)
 テトラポッドの陰から現れ、藤葉の隣に立った森沢美緒がそう訊ねた。両手は腹の前でしっかりと握りあわされている。涙がしとどに流れていた。思わず希美はうつむいた。美緒の情念のこもった視線を、正面から受け止められる自信がなかったからだ。みんな、大切な友だちだよ。たぶん、これ以上の友だちなんて、このまま生きていたって得られはしない。世の中の誰一人としてみんなの代わりにはなれない。けれど、正樹さんの代わりだって誰も務められないんだよ……。□

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第2523日目 〈『ザ・ライジング』第4章 43/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 十二月の凍てついた空気が肌に突き刺さってきた。公園の入り口で立ち止まり、目の前に広がる闇の世界を凝視する。闇は慈悲に満ちていた。自分達の世界の住人になると決意した少女を歓迎する慈しむ思いが、暗闇の隅々にまであふれていた。闇は恐怖の対象ではない。闇は愛惜を知っている。恐れるべきは闇を隠れ蓑にして悪事を企む、彼岸此岸の別なく住まう者に対してだろう。
 ゆっくり、ゆっくり公園の奥へ歩を進めた。夜更けの公園は予想外に明るかった。耳に聞こえてくるのは、土と傘と枝葉に打ちつける雨の音だけ。それは如何なる音楽よりも美しく、魂へ訴えかけてくる響きだった。自然に優る音楽はない。雨と闇の世界を歩きながら、これまで自分がやってきた音楽はいったいなんだったのか、そう反省させられるぐらい見事なハーモニーに、知らず知らず溜め息がもれた。
 松林を退けてぽっかりと開けた、土が剥き出しのグラウンド。松林を縦横無尽に、縫うように走る小道。植えこみの境界は松の樹皮を模した人工の木杭とロープで示され、ところどころの段差には、同じ木杭が倒されて埋めこまれている。公園が毎日の遊び場であった者の常として、希美も幼い頃、この小道で迷子になって夕暮れまで泣き腫らしていた者だった。いまそれを思い出すとなんとも恥ずかしく、なんとも照れくさく、なんとも懐かしかった。左手には、子供が四、五人乗れるぐらいの小舟の形をした鉄製の遊具と二台のシーソーが、闇夜の中で薄ぼんやりとした輪郭を浮かびあがらせていた。よく彩織や真里ちゃんと遊んだっけ……真里ちゃんは仕切り屋さんだったなあ。
 しばらく歩くと左斜め前方の小高い堤に休憩所の屋根が、重なり合った松の枝の間から見え隠れしている。自宅に防音室(聞こえはいいが、納戸として扱われる方が圧倒的に多かった)を作ってもらうまでは、テューバの練習をたいてい、公園内に数ヶ所ある休憩所で行っていた。日が陰って雨が降り始めたのも気づかずにいたため、途方に暮れてしまったことも幾度かある。他ならぬこの休憩所で、ふーちゃんと美緒ちゃんの三人で夏休みの宿題をしたこともあったっけ。別のとき、やっぱり同じ場所で美緒ちゃんとお喋りしながらおにぎりを食べていると、それまでおとなしくしていた美緒ちゃんのシベリアン・ハスキーがいきなり飛びかかってきたこともあった。あのシベリアン・ハスキー(確か雄で、セオデンなる勇猛果敢な名前だった)が死んじゃったのは、いつのことだったろう。
 なおも足は自らの意志を持つように交互に動き、希美を――彼女が無意識に選んだその場所へ連れてゆこうとしていた。落雷で真っ二つに裂け、隣の植えこみの松の幹にもたれてアーチを築くような形に倒れた松の老樹をくぐり、うねうねと曲がりくねって迷路みたく感じられる小道をたどっているうち、ふいに公園の外へ出た。
 目の前には片側一車線の道路があった。希美はそのまま道路を横切り、なまこ壁に沿って歩いた。曲がり角のポストへ封筒を投函して一、二歩歩きかけてから、思わず足を停めて、電柱の陰に身を潜めた。そして、そっと道路の反対側にある派出所を窺い見た。
 田部井さんがいたらどうしよう。もし見つかったら声をかけられて……家に連れてゆかれるのがオチだろう。田部井さんというのは、深町徹が刑事だった頃の上司である事件がきっかけで降格されいまは千本浜公園の派出所に詰めている人だ。おっとりした性格の五十男で、こんなにこにこ顔のぽっちゃりした体型の人が、本当に刑事だったのか、と思わず疑ってしまったのを覚えている。そっと派出所の方を覗いてみた。電気が灯り、人影も見えた。おそらくあれは田部井だろう。
 見つかるわけにはいかない。希美は人影が消えた瞬間にためらいなく道路を渡り、派出所の裏手に、道路を隔ててなお原や片浜の方へ広がる公園へ駆けこんだ。ちょっとしたスリルを味わったせいか、肩がぜいぜい喘いでいる。その場で息を整えてから、雨だれの音色を奏でる噴水と、若山牧水の銅像と歌碑を横目に、松林の中を移動した。一歩一歩そちらへ近づくにつれ、風が強くなってくる。傘をまっすぐ持つことも徐々に難しくなってきた。
 防波堤の階段を駆けあがると、荒々しい唸り声をあげる強風が思い切り吹きつけ、傘があおられ骨がぽきんと折れた。猪口になった傘が、風に嬲られ希美の手を離れると、空へ放りあげられ、すぐに彼女の視界から消えてしまった。刹那、希美の体が松林の方へ引き戻されかけたが、腰をおろせるぐらいの幅がある突端部に肩掌をついて、どうにかその場に踏みとどまった。
 目の前に海が横たわっていた。黒く、時化た海が。太古から人間の生活を助け、ありとあらゆる命を呑みこんできた海が。希美の成長をその両親と共に見守ってきた海が。□

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第2522日目 〈『ザ・ライジング』第4章 42/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 そうか、美緒ちゃんか。もう赤塚さんを恐れる必要はないけれど、この日記帳を託すに美緒は適役のように思われる。彩織でもなく藤葉でもなく、希美が美緒を選んだのはある意味で懸命な処置かもしれない。きっと、と希美は考えた。彩織がこれを受け取ったら誰も止められないまま暴走し、関係者に掴みかかってゆくかもしれない。藤葉はもう少し冷静でいられるだろうが、やはり彩織と同じ行動を起こすだろう。藤葉の場合、部室での一件を希美自身から聞いているだけに、普段よりも血が頭にのぼるのは早いと考えられる。ならば、日記帳を送る相手に美緒を選ぶのは、いちばんの安全策であり、穏健な処置かもしれない。もうあまり順序だって物事を考えられなくなってきているのを実感しながら、希美は日記帳を送る相手を美緒に決めた。
 油性のサインペンで美緒の住所を丁寧な字で表書きし、楽譜を送るときに使うビニール袋へ日記帳を入れて封をした。適当に八〇円切手を四枚貼って、裏には「深町希美」とだけ書き。
 椅子から立ちあがって数歩歩くと、両の足がくの字に曲がり、そのまま床へ膝をついた。燃えるような痛みが足の付け根から爪先めがけて疾駆してゆく。高熱を出したときに似て、関節という関節が万力で締めつけられ、鋭い悲鳴をあげている。立とうとしても、次の瞬間には力が抜けて前屈みに倒れこんでしまう。ベッドの端に掌をついてなんとかバランスを保ちながら、そのまま腰をおろした。体のあちらこちらが火照り、疲れがのしかかってくる。
 さあ、おいで。泥を口いっぱいに頬張って発音のはっきりしない澱んだ声が、耳許でそう囁きかけてきた。頬を冷たいものが撫でてゆく。そこからは、いたわるような感情が伝わってくる。お前が思っているほど、死というものは怖いものじゃないよ。そうさな、むしろあたたかくて優しいものだ。時に苦痛を伴って死んでくる者もあるが、連中はタイミングを誤っただけでね。もっとも、我々は誰にでも死を奨励しているわけではない。本当にそれを望む者にのみ切符を渡す。当然のことじゃないかね? そう、お前は我々によって選ばれたのだよ。さあ、おいで……。不吉な笑い声をもらしながら、黒い衣の男がいった。
 やおらパジャマを脱いでフード付きのパーカーとジーンズに着替えると、封筒を携えて蝋燭を消し、居間に行って仏壇に合掌して、両親の写真を額から出して胸に押し抱き、ジーンズのポケットに折りたたんで仕舞うと、玄関へ足を向けた。真里が壁に掛けてくれたコートへ袖を通し、写真をポケットにしまった。スニーカーを履いて傘を持つと、鍵をはずして外へ出た。防犯ライトがポーチとその周辺を煌々と照らしている。
 さっきより収まったとはいえ、まだ雨降りやまず雷の轟く音が聞こえる夜更けの街に、希美はさまよい出た。背後で人の声がした。振り返ってみると、NTTの工事車両が電柱に横付けされ、作業用クレーンが伸びて男が二人、電話線の修復にあたっていた。
 ふうん、電話線、切れちゃったんだ、と起伏のない声で呟くと、希美は千本浜公園に向かって歩き始めた。□

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第2521日目 〈『ザ・ライジング』第4章 41/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 なかなか言葉の訪れる様子はなかった。が、しばらくしてためらいがちに、シャープペンを持つ手が動き始めた。

天皇誕生日なのに昼から部活。いやんなっちゃう。だけど駅でバスを待っていると、ふーちゃんとばったり! ふーちゃんも水泳部の練習があるらしい。部長になるといろいろあってねえ、なんてため息をついてたけど、とても充実した顔をしていた。ちょっとうらやましい。私もなにかやればよかったかな。教室でちょっとおしゃべりして別れる。部活。

 ここまで一息に書いて手を休めた。文章を書き馴れない者にはこれだけ書くのも重労働かもしれないが、何年も日記を書いていると〈文章を書く〉という行為に抵抗はなくなり、苦痛が愉悦へ変わる瞬間もまま経験するが、こなれた調子で筆先から言葉があふれてくるまでには至っていない。小説家を夢見た正樹さんや、どうやら隠れて物語を書いている節のある美緒ちゃんなら、そんなこともないんだろうけど。そう希美は口の中で呟いた。

パート練習。Tp,Euph,Hrと合わせる。Aさんだけどうしてもずれる。音も濁っている。仕方ない? 上野先生の指揮でヒンデミットのSym,3rd,4th movの合奏。先生体調優れないからか指揮棒鈍り、4th mov途中で練習終わり。そのまま解散。Hrの中井さん(1-1)とおしゃべりして教室に戻り、ふーちゃんを待つ。

 天井を見あげて目蓋を閉じた。上野が練習に集中できず、何度も指揮棒を振り間違えた理由も、いまなら納得できる。その後で私を……レイプするという〈仕事〉があったからだ。そういえば先生、赤塚さんと一緒に部室を出て行ったな。ふうん、なるほど。あれは相談だったわけか。
 さて、次は本日のハイライトね。詳細に書くつもりはないが省くつもりはない。これを書かずして〈今日の日記〉を書くことに、いったいなんの意味があるだろうか。希美は頁の上に視線を落とした。

赤塚理恵(2-2)から「上野先生が部室で待ってる」と伝言あり、部室へ。これは嘘だった。これは罠だった。部室で先生に襲われて……処女を失う。

 つっ、と涙が筋を残して頬を伝い、頁の上に落ちると、そこだけ少し盛りあがってまわりに皺が走った。下唇を強く噛んでいると、上の歯が滑って傷をつけた。じわじわと血の味が口の中へ広がっていった。左手の甲で涙を拭い、怒りの宿った瞳で帳面を見、書き付けた。

ばかやろう!!!!!
私の処女は正樹さんだけのものだったのに。

 途端、涙がどっとあふれてきた。まるで堰を切ったようにほとばしり出て、拭う暇もない勢いで。

――ふーちゃんが来てくれて、ブラウスのボタンを直してくれたりした。駅、港行きのバス停で別れる。

 その一行を書き付けるとシャープペンから手を離し、立ちあがってベッドに倒れこんだ。指の先がMDラジカセのリモコンに触れた。何気なく再生ボタンを押すと、タンポポの《乙女パスタに感動》が流れてきた。
 ……時間が流れて居間の時計が十二時の鐘を打ち、ややあってCDが終わった。数分の虚無に似た時間が過ぎてゆく。再び机の前に坐り、シャープペンを持って日記帳に向かった。

公園に突き当たる路地で三人組の男に車に押しこまれ、また暴行される。赤塚さんの指金だったらしい。何度もなぶられて解放されて車はその場を去った。通りかかった真里ちゃんにカイホウされて入浴。食事。
何度も無言電話あり。私が出ると、上野先生だった。「すまなかった」とだけいって切れる。電話線抜く。
雷。電気ダメ。TVのニュースで正樹さん殺されたのを知る。犯人は池本先生(保健室)。小田原、彼のアパート近くの天神社にて。

 そこでもう一度シャープペンを置き、冒頭から何度も読み返してみた。誤字に気がつき、あ、と小声で呟いてその部分を消しゴムで訂正した。
 もう書くべきことは尽きたようだ。これでいい、と希美は頷いた。
 でも、これが生涯最後の日記になるのなら、せめてあと二、三行、メッセージめいた文章を書き残しておきたい。うーん、なにがいいだろう……。

死者が私を手招いている。

 え、なに、これ? 希美はその一文を、目を剥いて見つめた。私、こんなの書いてない。消しゴムで、どれだけ力をこめてこすってみても、マジックで書いたようにそれは消えなかった。薄まりもしない。黒く塗りつぶそうとしても弾かれるばかりだ。結局、希美はその一文を放置することに決めた。
 その後に本来書こうとしていた文章を書き加えた。
彩織、美緒ちゃん、ふーちゃん、いままでありがとう。みんなのことは忘れない。大好きだよ!
 気取って英語で一言、同じことを加えようとしたが、英語の得意な彩織に文法や単語の綴りを、あの世で再会したときに指摘されるのは癪だったので、考えた末にそれは省くことにした。書きたいことはあるかもしれないが、これ以上時間が経つと、決意が変わってしまうかもしれない。もうなにも考えたくないし、なにも考える必要はない。それにさっきから気のせいかもしれないが、自分の背後のずっと遠くの方から、黒い衣の男が誘う声が聞こえる。
 希美は日記帳を閉じると、B5の封筒を引き出しから一枚取り、住所録を繰って、これの送り先を考えた。
 誰にしよう。誰がいいかな。〈旅の仲間〉の三人だろうな、やっぱり。
 ふと、一人の名前と住所に目が止まった。

森沢美緒 駿東郡長泉町下土狩……□

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第2520日目 〈『ザ・ライジング』第4章 40/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 この時初めて、希美は自分自身に訪れる死について考えをめぐらせた。もっともそれは十七歳の少女のこと、ひどく漠然としたものではあったが。父も母も将来の夫も、突然の死によってこの世を去った。この予期せぬ事態について、彼等はいったいなにを思っただろう。希美は夏休みの読書感想文の宿題で読まされたドイツ人作家、ハンス・カロッサの小説を思い出した。若き日の死への憧憬。ずたずたにされた心へ挨拶もなしに訪れ、土足であがりこんできた死の影を前にして、ようやく、小説の主人公達がふとした拍子に抱えこみ、掌で転がすようにしてもてあそんだ、まだ見ぬ世界への憧れが理解できた。現実を肯定して、困難があればそれを乗り越えてゆく強さを自分は持っている。希美は今日のこの瞬間まで信じていたが、どうやらそれは間違っていたらしい。きっと克服すべき困難に出会ったことがなかったから、そうした過信ともいえる考えを持っていたのではないだろうか。自殺という行為が弱い魂の表現であるのは疑いない。でもさ、人間ってみんな弱い存在じゃないのかな。
 〈死〉が私を手招いている。おいでおいで、と。パパとママと正樹さんが呼んでいる。そっちには友だちがいるから未練もあるだろうけれど、こっちの世界にはお前を愛している者がお前の来るのを待っている。そう、死者も愛するんだよ、希美。――そんな風にいって、私を呼んでいる?
 さあ、こっちへおいで。その決意ができたのなら。さっき廊下にいた黒い衣の男が、希美をじっと見つめて手招きしている。
 希美はおもむろに上体を起こした。相変わらず家の中は暗く、立って電気のスイッチを押しても明かりがつく様子はない。試しに洗面所へ行って配電盤のレバーを、背伸びして押しあげてみたが、結果は変わらなかった。何度か足をもつれさせ、壁に肩や肘をしたたかにぶつけながら台所へ歩を進めた。食器棚の下の引き出しに、蝋燭があったはずだ。そう、それはそこにあった。三本まとめて摑むと横長の平皿を一枚手にして、居間に戻った。仏壇にマッチがある。一本の蝋燭に火を灯し、蝋を数滴皿へ垂らして他の二本を立て、それらに火を移してから、最後に最初の一本を立てた。簡単な燭台が完成した。小さな空気の揺れが炎を静かにゆらめかせ、わずかな煙をくゆらせた。あたたかな雰囲気の明かりが、室内をぼんやりと照らした。だが、それとて希美の心から死の影を追い払うことはできなかった。
 あ、そうだ、日記書かなきゃ。そう希美は独りごちた。如何なる非常事態に直面しようとも、人間は本能的に日常生活を営もうとするらしい。明日、警察に行くことはもうないだろうけれど、今日、自分の身になにがあったのか、警察の人々、〈旅の仲間〉へ伝えることはできる。おそらく部室で陵辱場面を撮影していた赤塚理恵も、おそらくはこの世にいないのだろう。さっきの上野のいい方を思い返してみると、何度考えてみても、結論はそうとしか出ない。でも、間違っていたって関係ない。書いた日記をこの家に置いておくのはためらいがある。誰かに送っておくのが懸命というものだ。
 部屋に入ると、机の前に坐って一番上の引き出しから、緑色の表紙の日記帳を取り出した。置いた蝋燭の炎がゆらめき、帳面に影が踊った。彼女はゆっくりと頁を開き、掌で綴じ目を下から上に滑らせると、いつも使っている軸の太いシャープペンを握った。
十二月二十三日(月)天気;晴れ→風雨/雷
 そして最初の言葉が浮かんでくるのを待った。□

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第2519日目 〈『ザ・ライジング』第4章 39/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 涙が涸れるぐらい泣くとはよくいわれる言葉だが、いったいだどれだけ涙を流せば涸れるのだろう。涙腺が刺激を受けて自動的に涙は目からあふれてゆくわけだが、ショックを与えずともある程度の時間が経てば自ずと涙は止まる。が、実際にはその後しばらくはしゃくりあげるなどして〈泣いている〉時間は続く。
 居間の床に横たわったままの希美にしても、さっきのニュースを聞いて三〇分ぐらい声をあげて泣き伏し、涙の海を床に作っていた。時間の経過と共にそれは次第にやんでゆき、居間は隈無く家中を覆う闇をぼんやりと見つめながら、ふわりと現れてはすうっ、と消えてゆくような思いが、乱れる心を訪れて交錯した。
 正樹さんは死んじゃった。殺されちゃった。私の愛した男性はもうこの世にいない。逢うこともできないまま、私はこれから生きてゆかなきゃならない。……ねえ、彩織、私ね、正樹さんと婚約したんだよ。これもあのとき、彩織がそばにいて告白する勇気を与えてくれたから。……あ、そうだ、美緒ちゃん。パーティーで出す料理で足りない材料があるの(欲しい材料、っていった方がいいかな)。美緒ちゃんのお母さんが作ったバラのジャムなんだけれど、余ってたら分けてもらえないかな。あれ、上野先生ってどんな顔してたかな。よく思い出せないや。でも先生、私をレイプしているとき、泣いていた。結婚相手のことでも考えていたのかな。〈あいつら〉って池本先生と赤塚さんのことなんでしょ。可哀想に、先生も私と同じで被害者なんだね。……ふーちゃん、あのとき一緒にいてくれてありがとう。高校に入って初めての友だちがふーちゃんだったね。その後で美緒ちゃんが加わって〈旅の仲間〉が結成されたんだよね。……パパ、パパが生きている間に正樹さんを紹介したかったな。ママは写真だけ見せてたから知っていたけれど。……ああ、正樹さん、あなたがいたからこれまで生きてこられたのに……。
 うつろな眼差しで闇を見あげる希美の心に小さな傷が生じた。白井正樹は死んだ。その事実が体中に、まるで水を張ったコップに一滴の墨汁を垂らしたように、マーブル模様を描いて滲み、じわじわと浸透していった。まだ冷静とは言い難い心理状態が事実を徐々に受け容れてゆくにつれ、ほんの少しずつだが確実に傷口は広げられていった。そうっと慎重に、息を殺して入念に。針の先ほどの、ほとんどそれと見分けられないぐらいに小さな穴が、やがてぱっくりと口を開けた。心という部屋の天井に開けられた穴を見あげると、その向こう側には深い闇が広がっていた。星の瞬きもなんの光もなく、幾重にも塗り重ねられた黒い空間が覗いているだけだ。希美は感情のない人形になった気分でその闇を見あげていた。あたかも白井の死が、彼女からすべての感情を奪ったかのようだった。
 そのとき、闇のはるか彼方から、表面がほのかに艶がかった楕円形の物体が、音もなく落下してきた。それは空っぽになってしまっていた希美の心のやわらかな土壌に着地し、そのままめりこんだ。やがて、彼女の心の中で一つの言葉が様々な情調を伴って生まれた。〈死〉という言葉だった。蒔かれた種子は芽吹いて頭をもたげると、天をめざしてゆっくり成長していった。意識の遠くからさざ波に似た音を立てて、忘れかけていた思考能力が戻ってきた。□

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第2518日目 〈『ザ・ライジング』第4章 38/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 サンダルを脱ごうとしたとき、ふとなにかの気配――誰かがいるという気配を感じた。私の知っている誰かじゃない。そう考えた途端、全身を冷たいものが走り抜けた。今日の悪夢めいた光景が目の前に浮かんでくる。もうやめてよ、これ以上私をどうしようというの。そんなに私が欲しかったら、正樹さんを殺してからアタックしてきなさいよ。でも、代償は大きいからね。それだけ覚悟しておきなさい。憎悪のこもった眼差しで顔をあげた。
 廊下の先に、丈の長い黒いローブを頭からかぶった者が、こちらをじっと見つめている。周囲には七色に輝いてそれぞれにグラデーションを描く光の玉が浮かんで、それらは円を描いてその者の周りを回っていた。ローブを鼻のあたりまで引きさげているので表情までは読み取れない。が、辛うじて見られる口許の皺の数や深さ、瑞々しさを遠の昔に失って干涸らびた唇から推理するに、ずいぶんな年寄りと思われた。あれ、と希美は記憶をたぐり寄せた。昨日、横浜で会った人だよね。八景島のアクアチューブで私をじっと見ていた、黒い衣の男。
 その者は廊下を滑るように移動してきた。視線は感じられるが、その瞳までは見えない。首許には緑色に輝く石をはめこんだ銀縁のブローチが飾られている。やがて、黒い衣の男は希美から視線をはずして、居間の方を指さした。指は透き通るぐらいに白くて鉤状に屈曲し、鋭く尖って長く伸びた爪があった。指の肉にも深い皺が縦横に刻みこまれ、それはなんとか骨に付着しているという程度だった。ローブは袖のところからやわらかな曲線を描いて切れ目がなく、そのまま足許まで続いている。希美も黒い衣の男の動きにつられたように、居間へ顔を向けた。
 ブレーカーが落ちたままの居間に、一点の明かりが戻っていた。続いて、テレヴィの音声が聞こえる。驚きのあまり息を呑み、サンダルを脱ぎ捨てて居間に駆けこんだ。真っ暗であるはずのブラウン管が明るくなって、アナウンサーが淡々とした口調でローカル・ニュースを伝えている。
 「な、なんで……」
 テーブルに掌をつき、画面から黒い衣の男に目を戻した。だが、そこにはもう誰もいなかった。慌てて廊下へ戻り、あちらこちらを見て回ったが、いまこの家にいるのは自分一人だけという事実を、再確認したに過ぎなかった。
 変なの……。そう思いながらテレヴィを消そうと電源ボタンに手を伸ばしたときだった。画面の中のアナウンサーは季節外れの暴風雨と落雷に注意を促した後、これまでなんとか自制を保ってきた希美の心を完全に打ち砕くニュースを伝え始めた。
 「本日午後六時半頃、神奈川県小田原市に住む大学四年生が殺害されました。被害者は小田原市在住の白井正樹さん、二十九歳、横浜市にある聖テンプル大学の学生です。犯人は静岡県沼津市にある聖テンプル大学付属沼津女子学園の保険医、池本玲子、二十六歳。白井さんは塾でのアルバイトの帰り、下宿近くの神社の境内で池本容疑者に頭部を何カ所かひどく殴られ、ほぼ即死だったということです。所轄の小田原警察署では――」
 「いやああああああっ!!」
 希美は鋭く叫びながら両耳をふさぎ、その場に崩れ落ちた。目蓋を固く閉じ、幾度も幾度も頭を振った。「そんなの、そんなの信じないっ! 正樹さん……あなた……正樹さん……嘘でしょ……正樹さん……」
 震える指でテレヴィの電源を切った。再び闇が帰ってきた。その闇の中で希美はしとどに涙を流しながら、婚約者の名前を繰り返し、繰り返し呟いた。□

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第2517日目 〈『ザ・ライジング』第4章 37/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 最後の食器を拭き終わり、棚にしまったその瞬間、なんの前触れもなく雷があたり一帯に鳴り響いた。鼓膜を破らんばかりに轟いた雷は、どこかとても近くに落ちたらしい。地響きが足許から伝わってき、家具が揺れ、電気の傘が振り子のようにあちらこちらへ揺れている。すべての電化製品の電源が一斉に飛び、視界のまったく効かない世界が、予告なしに訪れた。
 その静寂のほんのわずかの間隙を縫って、かすかながら幾人ものざわめき声が聞こえてくる。耳をすましてようやくそれとわかるぐらいの距離だったが、そのざわめきは二軒右隣の沢森宅からだった。なおもじっとしていると、だんだんはっきりと声が耳にできた。どうやら、庭に植わるご自慢の松の大樹に雷が落ちたようだった。
 あれ、と希美は小首を傾げた。真里の声が混じって聞こえる。あの騒々しいわめき声は間違いない、と希美は確信した。真里が沢森宅に行っている。想像するに、消火作業に、無精無精駆り出されたのだろう。これはちょっと事件だった。あのわめき声も、おそらくは沢森夫人と口論でも始めたのかもしれない。沢森のお姉ちゃんと真里ちゃん、小学生の頃から仲が悪かったもんなあ。あの二人の喧嘩に巻きこまれるたび、いちばん年下の希美は困った立場に立たされた。二人の間に挟まっておろおろしていると、決まって最後は、あんたどっちの味方なの、と詰め寄られた。そのたびに希美は、知らない、と叫んで家に逃げ帰ってきたものだった。
 いろいろあったよねえ、と希美は小さい頃のことをふと思い出して、苦笑した。子供の頃はよく遊んでもらってたけど、やっぱり沢森のお姉ちゃんがいちばん年上だったせいかな、だんだんと顔を合わせる機会も少なくなって、話すこともなくなっていった。そこら辺が私と真里ちゃんの結びつきの違いだろうけれど、真里ちゃんは知ってるかな、パパとママが死んじゃったとき、いちばん最初に駆けつけて慰めてくれたのは、沢森のお姉ちゃんだったんだよ。
 それにしても、男の声が全然聞こえてこなかった。いや、聞こえてくることは聞こえてくるのだが、それはいずれも真里の父であったり、お向かいのおじさんであったり。沢森夫人の夫の声は、どれだけ耳に神経を集中させてみても、まったく聞こえなかった。やっぱり噂は本当なのかしら、と希美は思った。気の強い奥さんに閉口して(おまけに婿養子だし)同じ会社のOLさんと不倫してる、って噂。あの広い家にお婿さんと二人で住んでるんじゃ、特にこんな晩は――いくら沢森のお姉ちゃんであっても――不安で仕方ないだろうな。旦那さん、早く帰ってきてあげればいいのに。私は、と希美は力強く頷いた。私はああいう風にはならないようにしよう。正樹さんに浮気なんかさせるものか。
 さて、それはともかく。
 家は大丈夫だろうか。希美の心へ俄に不安が生まれ、あっという間に広がっていった。ふと見ると、セキュリティ・システムは作動していない。当たり前だ。雷が落ちて、すべてのブレーカーが飛んでしまったのだから。それにこれは対人用に作られたものであって、その敷地内で火事が起こったりしてもよほどの大事にならない限り、生真面目に動いてくれる代物ではない。希美はストーブを消すと、仏壇から鍵を掴み、懐中電灯を下駄箱から出して玄関ドアを開けた。
 空を見あげると、真っ黒くて層の厚い雨雲が低く垂れこめている。ときどき、雲が薄くなっているところから、青白い輝きがゼラチン状の皮膜を透かしたように光っているのが見えた。低音で唸るモーターに似たごろごろという音も聞こえる。希美はドアを閉めて鍵をかけ、ポーチに立って左右へ懐中電灯の光を走らせた。いつもと変わらぬ光景が、光のプールに浮かびあがって消えてゆく。小さく頷いて、小走りに門扉の所へ行き、階段から自転車置き場になっている小屋を照らしてみた。うん、異常なし。続いてポーチへ戻って通り越し、いまはプランターを並べて家庭菜園になっている嘗ての駐車場から庭の方を覗き、懐中電灯を向けた。こちらも異常なし。業務報告。希美ちゃん家はなんの異常も見受けられませんでした。以上、報告終わります。
 沢森宅からは相変わらずざわめき声がやまない。でも鎮火したらしく、一瞬感じた焦げ臭い匂いはしなかった。それに、男の人の声がする。あ、お婿さん、帰ってきたんだな。真里は早々に退散したらしく、ともかく声はしなかった。
 パジャマを着た風呂あがりの体が雨に濡れている。またお風呂に入り直すのも面倒だな。二度風呂なんて、そんなもったいないことできないよ。早足で五段あるポーチの階段を一気に昇った。ポケットから鍵を取り出してノブの鍵穴に差しこむ。かちゃっ、という耳馴れた音がしたのとほぼ同時に玄関ドアを開けて中に入り、鍵とチェーンをかけた。□

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第2516日目 〈『ザ・ライジング』第4章 36/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 しばしあって希美は泣きやんだ。真里が言葉少なに慰めて、テーブルに着かせた。居間に沈黙の帳が垂れこめた。テレヴィをつける気にもなれない。台所に引っこんだ真里が戻ってきて、希美の目の前に夕食を置いた。
 「はい。どうぞ」
 「わあ、美味しそう!」置かれた料理を見て、希美は歓声をあげた。「食べていいの?」
 にこやかな笑みを浮かべて、真里が頷いた。「東京に行ってからさ、ずいぶんと料理のレパートリーは増えたんだぜ。まあ、オムライスだけどさ。一人暮らし始めてようやく満足に作れたよ」
 それを聞きながら希美は、
 「思いっきり卵焦がしたり、破ったりしてたもんねえ」
 「そんな昔のこと、蒸し返すなよ。これでも一生懸命練習したのに……」真里が腕で目を隠し、声を震わせ、泣き真似して見せた。
 希美はそれを無視して「いっただきまあす!」と、用意されたスプーンで、マッシュルーム入りのデミグラスソースをかけたオムライスを食べ始めた。横にはベーコンとキャベツのスープが湯気を立てている。
 無視されたことに頬をふくらませながら、真里が自分を見ているのを希美は気づかなかった。食べている間、今日の出来事が頭から去ってゆくことはなかったが、幼馴染みの作ってくれた料理を食べることは、殊に大好物といっていいオムライスを食べることは、一時の気晴らしになるし、今後のことをじっくり考える余裕を与えてくれる。
 ――食事を終えて、しばらくお喋りを楽しんでから(真里の東京生活はなかなか楽しそうなものだった。だが、希美はふと、真里ちゃん、卒業したあとも東京で暮らすのかな、と淋しさを覚えた)、帰るのを渋る真里を、もう一人でも大丈夫だから、と説得した。それを承けてようやく真里が帰り支度を始める。
 上がり框へ腰をおろしてブーツを履きながら、真里が傍らに立っている希美に、「警察に話す気はあるの?」と訊いた。
 壁を背にして廊下に坐りこむと、希美は頷いた。
 「そう。じゃあ、明日の昼間、一緒に行こうか。知ってる人、いるの?」
 「うん。パパが刑事やってたときに部下だった人が、いま沼津署にいるの。たぶん明日もいると思う。いなくても、あすこには知ってる人がたくさんいるから」
 「そうか、刑事だったんだよね。……もうあんまり覚えてないな。拳銃見せて、ってごねたのは記憶にあるけど」
 「私だってもう覚えてないよ。広報に移ってからの方が、ずっと長いからね」
 「その頃だったっけ、彩織が転校してきたの?」真里の問いに希美は、うん、と短く答えた。「そっか。早いね……。でも、彩織の第一印象は強烈だったよ。生まれて初めて生で聞いた関西弁からなぁ。可愛い名前とコテコテの関西弁が妙にミスマッチだったっけ」
 「いまでもそうだよ」くすくす笑いながら希美はいった。
 「マジ? でも、彩織が関西弁喋らなくなったら彩織じゃなくなっちゃうよなあ。そうなったら、かなり淋しいな」と真里がいった。
 「うち、宮木彩織いうねん。よろしうな」希美は彩織の口調を真似ながら、初めて真里と彩織が対面したときの、彩織の第一声を口にした。「彩織、声が高いから、真里ちゃんのお母さん、びっくりして台所から出てきたよね」
 「そうそう」笑いながら真里は頷いた。
 それからしばらく、彩織にまつわる思い出話が続いたが、玄関がだいぶ冷えこんでき、希美のくしゃみでようやく真里は腰をあげた。
 「じゃあ、もう帰るよ」
 そういって振り返った真里が、希美を強く抱きしめた。
 「真里ちゃん……」
 「のの、辛いだろうけれど、耐えるんだよ。お前は一人じゃない。みんな、味方なんだからね。彩織もいるし、私もいる。未来の旦那様だっている。みんなでお前を守ってゆくから。いつだって甘えておいで。そうされるの、うれしいんだからね」
 希美は目尻に浮かんだ涙を指で払った。「うん、ありがとう……」
 真里が希美の体を離して、肩をぽんぽん、と叩いた。玄関ドアを開けると、真里が一声、うひゃあ、と呻いた。
 「雨だ……降るなんていってなかったのに」
 「こっちは朝から降水確率七〇パーセントだったよ」
 「箱根越えたら天気は変わるんだよ」
 「あっ、そう。……傘、持ってく?」
 「いらないよ、隣なんだから。二、三〇秒あれば着くから平気。ありがとね」
 希美から荷物を受け取ると、
 「ちゃんと家中の鍵かけて、セキュリティもチェックしてから寝るんだぞ。いいね?」
 「わかったよ、お姉ちゃん」
 「よし、それじゃ、お休み」
 「お休み」
 真里が足早に門扉へと駆け寄り、開け閉めして路地に出た。手を振ってきた。希美も手を振り返す。真里は小走りに自分の家へ向かい、門扉を開け閉めした。ややあって、「ただいまあ!」という声が聞こえた。
 それを聞くと、希美は安堵の溜め息をつき、門扉がちゃんと閉まっているのを確認すると、玄関を閉めてチェーンをかけた。そのまま居間へ戻り、セキュリティ・システムがちゃんと動いているのを確認すると、台所へ行って流しに置かれた食器を洗い始めた。
 雨粒が窓や自転車置き場の屋根を叩く小気味よい音を聞きながら、明日警察へ行ったらその帰りにお茶っ葉と生春巻きの皮を買ってこなきゃ、と思った。
 明日は〈旅の仲間〉とクリスマス・イヴ・パーティーだ。そうだ、真里ちゃんも呼ぼう、っと。美緒ちゃんもふーちゃんも、真里ちゃんとは面識があるから構わないだろう。彩織には真里ちゃんが帰ってきてるのは内緒。驚かせてやろう。
 ――ああ、どうか明日のパーティーが、心の傷を癒してくれますように。□

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第2515日目 〈『ザ・ライジング』第4章 35/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 もしかすると、と希美は不安に駆られた。
 上野先生だろうか、と。あるいは、さっきの三人組だろうか、とも。上野だとしたら、吹奏楽部の名簿を持っているから、家に電話するのはわけないことだった。
 じゃあ、三人組は? そういえば、誰かに頼まれたようなことをいってたな、と希美は思った。俺達は頼まれたのだよ……君の親愛なる友人から。そうあのブルージーンズの男がいっていた。誰かに頼まれたのなら、家の電話番号を知っていてもおかしくはない。
 でも、その理由はなんだろう。刹那、うつむいて考えたが、まさか、と思って顔をあげた。真里が、どうかしたの、という表情で自分を見ているのにも、希美は気がつかなかった。――まさか、また? 冗談じゃない、と希美は憤った。もう二度と犯られるものか。ああ、だけど脅迫されたらどうしよう……知られたくなかったら、もう一度俺(達)の相手をするんだな、とか? 口でいってるだけならいくらでも否定できる。だけど、写真を撮られていたら……
 写真! 希美ははっ、吐息を呑んで、愕然とした。部室で上野に犯されているとき、誰かが入ってこなかったか。口許へにたにたと評判の悪い笑みを浮かべて、誰かが自分のそばに立たなかっただろうか。藤葉ではない。藤葉なら目の前で起きている暴行を力ずくで止めたはずだ。それに、DVCで撮影なんて趣味の悪いこともしないだろう。うっすらと、やがてはっきりと、希美はそのとき部室にいた人物の顔を思い出した。そして、無言電話を繰り返す主が誰であるのかも、なんとなく直感で見抜いた。
 また電話が鳴った。二人はほぼ同時に目を向け、互いを見やった。真里が手を伸ばしかけたのを制して、希美は「私が出る」とだけいって、受話器を取った。そうして、数字ボタンの下の録音ボタンを押した。録音中の赤いランプが点灯した。
 「もしもし?」
 返事はない。もとよりあるとも思えなかった。相手は沈黙を守っている。相手は向こう側で息を潜めていた。気配がゆっくりと伝わってきた。
 「――赤塚さんね? わかってるわよ」
 真里が驚いた表情で希美を見た。視界の端でそれを捉えはしたものの、希美はそちらに視線を向けようとしなかった。
 「――俺だ、深町。赤塚じゃない。あいつは……もういないよ」
 「先生……」希美はそういうのでやっとだった。感情が混乱して、なにをいっていいものか、見当がつかない。
 「お前に一言だけ、謝りたかったんだ。すまなかった。……それじゃ」
 電話はそれで切れた。希美は肩から力が抜けてゆくのを感じた。たどたどしい手つきで受話器を置いたが、いまの電話が現実だったとはすぐに信じることが出来ない。横から覗きこんだ真里の声で、ようやく我に返った。
 「いまの、誰?」
 「――部活の顧問代理。私の……私を……」
 電話に両の掌を置きながら、希美の体がずるずると崩れ落ちた。真里が支えるのも間に合わず、希美は床にぺたりと坐りこんだ。うつろな目で壁を見、電話のケーブルをプラグから抜くと、顔を覆ってしくしくと泣き始めた。
 隣にしゃがみこんでそっと肩に手をやったはいいものの、どう声をかけていいのか、真里にはわからなかった。自分が同じことをされたときを思い出してみても、頭はそう便利に働いてくれそうもない。仕方なく、希美の肩を抱いたままで、彼女が泣きやむのを真里はじっと待った。□

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第2514日目 〈『ザ・ライジング』第4章 34/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 年末年始の休みを利用して東京から帰省した真里が、希美を心配してずっと付き添ってくれていた。実家はすぐ隣だというのに、まだ一歩もそこへ立ち寄らず。ありがとう、と口の中で呟き、通りかかったのが真里ちゃんでよかった、と思った。他のご近所さんだったら、あっという間に町内の噂種になっていたかもしれない。真里も口にはしないが、同じことを考えているのだろう、と希美は考えていた。
 「うん、ちょうどいいよ」と彼女は答えた。「もう少ししたら出るねえ」
 「ああ、わかった、わかった。子供の時みたいにゆでダコにはなるなよ」
 笑いながらそういうと、真里は脱衣所から台所へ戻っていった。ガラス扉からシルエットが消える。それを見届けると、希美は「わかってるよぉだ」と呟きながら、アカンベエをした。
 真里にコートを脱がされ、手を洗わされた後、着替えをするよう促された。その間に真里は居間のガス・ストーブを点けたり、浴槽に水を張って湧かしたりしていた。着替え終わると希美は、白井の携帯電話に何度かかけてみた。が、呼び出し音が鳴るだけで一向に本人が出る気配はない。留守電にもつながらないなんて……変なの。そしてそのまま彼女は電源を切り、充電器にセットした。
 居間の電話が鳴っている。夕食の支度をしていた真里が出たのか、呼び出し音がやんだ。
 「ありがとう、真里ちゃん、ふーちゃん……」
 希美はそういって、お湯をかき寄せた。さざ波が胸元や肩にぶつかって、小さな音を立てて砕けた。
 パパ。ママ。あれから全然逢いに来てくれないんだね。さっきは「嘘つき」なんて罵ったりして、ごめんなさい。だから、お願い。逢いに来て……。
 もしかしたら、と淡い希望を抱いて、浴室をぐるりと見回してみた。しかし、どこにも両親が姿を現しそうな気配はなかった。
 あまり浸かっていると、本当にのぼせてゆでダコになりかねない。
 若干の未練を残しながら希美は湯船からあがり、蓋をした。ガラス扉を開ける。すぐさま冷気が襲いかかってきた。

 「あんた誰なんだよ!? さっきから何度も何度もさ!」
 用意されたパジャマを着て居間に入ると、受話器に向かってそう真里が叫んだ。自分がいわれたわけではないのがわかっていても、思わずその場に棒立ちになり、身をすくめてしまう。
 それを視界の隅で認めた真里が、送話口をふさいで希美の方へ向き直り、「無言電話。もう何度もかかってきてるんだ」と教えた。
 「黙ってちゃわからないじゃんか。用がないなら切るよ!」
 そういって真里が受話器を置いた。そのときの、ちん、という音が悲鳴のように聞こえた。
 「ずっと無言なの?」
 「そう。最初はこっちが出るとすぐ切ってたんだけどね。三、四回目ぐらいから、ずっと無言なんだ」
 「ふうん……あ、全部非通知でかかってきてるんだ」と着信履歴を確かめていた希美はいった。「誰だろう。いやだな……」
 「非通知拒否したら?」と真里が提案した。「怖いよ」
 「でもさ」と希美は真里を見ながら渋った。真里が怪訝な顔で見返してくる。「真里ちゃんからの電話って、いつも非通知なんだけど? 出なくていい、っていうんだったら、そう設定してもいいけどね」
 真里の顔がみるみる赤く染まっていった。その様を見物するのはなかなか楽しいものだった。
 「嘘!? ひゃあ、知らなかった。ごめん、すぐに非通知解除する!」
 そういって鞄から携帯電話を出してくると、真里は希美の前で設定の変更を始めた。ボタン操作しながら顔をあげずに、「いままでもかかってきてたの、無言電話?」と訊いた。
 希美は頭を振って答えようとしたが、それだと真里に返事はわからないだろうと思い直し、「ううん」といってやった。
 思い当たる相手はいない。彩織達〈旅の仲間〉なら自宅も携帯電話の番号も登録してある。――というよりも、家に電話をかけてくるような人なら、いずれも電話番号を登録してあったし、かかってきた際もディスプレイ表示されるようにしてあった。父や母が登録した名前も番号も、一つも消さずにいまでも残っている。それに何度も無言電話をかけてくるほど、人生に於いて暇を持て余している面々とも思えない。□

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第2513日目 〈『ザ・ライジング』第4章 33/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 おそるおそる希美は顔をあげた。「真里ちゃん?」
 東京の大学へ進んでいまはそこの大学院に籍を置いている、幼な馴染みの若菜真里が立っていた。心配と不安と疑問が入り混じった眼差しで、こちらを見ている。
 「そうだよ。どうしたのさ、こんなところでうずくまって?」真里が希美のすぐ脇にしゃがんだ。妹同然に育ってきた希美の顔を見やっている。「なにか、あった?」
 そう訊いてはみたが、真里には希美の身になにがあったのか、察しはついていた。自分にも同じ経験があったから。学部時代の唯一、思い出すことを拒否したい記憶だった。まったく面識のない他学部の、四年生が相手だった。校舎の地下室に丸二日監禁されて暴行の限りを尽くされて解放された翌々日、真里はその四年生を殺害した。ただの一度も警察に疑われず、これから先、一生捜査の目を向けられることがなかった真里のこの挿話は、いつかどこかで語る機会もあるだろう。閑話休題。
 希美はうつむいたまま、唇を噛みしめた。あまりに強く噛んだせいで、所々で唇が切れて血が滲んでいる。そうしてそのまま、真里の胸に顔を埋めた。真里の掌が希美の肩に置かれた。
 「のの、立てる?」
 真里が訊いた。相手が頷くのを見て、真里は希美の脇から背中に片手を廻し、もう片方で腕を掴むと、そっと彼女を立たせた。ちょっと膝ががくがく震えよろめいたが、真里が手を出して助けようとするより一瞬早く、希美は電柱に手を伸ばして自分の体を支えた。その様子を見て、真里は安心したような溜め息をもらした。
 真里は自分の荷物を肩から提げ、希美の鞄を片手に持つと、幼馴染みの腰に手をやって、ゆっくりと歩きながらその場を離れた。希美の家までの約十メートルが、真里にはひどく遠く感じられた。何気なく時計に目をやると、針は十時三十九分を指していた。

 低い唸り声をあげる浴室乾燥機。宙に漂う湯気。あたたかなお湯。それらにくるまれ、幸せを感じてぼんやり過ごす時間。大好きなお風呂。落ち着く、というよりも、至福なる言葉が似合ういま。なにものにも代え難い、安息の時間……いつもなら。
 蛇口から水滴が一粒、音を立てて落ちた。ぽっちゃん、という音に顔をあげた。水面にごく小さなさざ波が円を描いて広がってゆく。それはしかし、希美の体にたどり着くことなく消えてしまった。その代わりなのか、希美はふうっ、と息を吹きかけた。同心円が四方へ伸びてゆく。その様をみて、少女は笑んだ。それは諦念と悲哀とが、複雑に混ざった笑みだった。
 希美は溜め息をついた。すべてが今日一日の出来事とは、どう頭をひねってみても信じられなかった。単に処女でなくなっただけなら、理性はそれを現実として受け容れるだろう。殊に婚約者が相手ならば。だが、目の前に突きつけられた現実は、希美の期待と想像を裏切ってあまりあるものだ。信頼していた――わけではないが、その技術や熱意、知識に尊敬の念ぐらいは抱いていた顧問代理の上野に(事情はどうあれ)レイプされ、まるでダメ押しのように見知らぬ三人の男達に嬲り者にされた。たった一日で四人に強姦された女が、いったいこの世に何人いるというのか。
 ゆらめく恥毛をそっと撫で、お腹の方へ手を滑らせた。子宮の奥深くに精液のこびりついている感覚は、まだ残っている。膣には怒張が挟まったままのような違和感が、残って消えなかった。歩くたび、股間に鈍い痛みが走る。処女でなくなるとは、こういうことか。……いったんは止まった涙が、またとめどなくあふれてきた。
 「のの? お湯加減はどう?」
 真里の声で我に返り、手の甲で涙を払った。振り向いたガラス扉に真里のシルエットが浮かんでいる。ぼおっ、と影法師みたいだ。□

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第2512日目 〈『ザ・ライジング』第4章 32/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 「それじゃあな。気をつけて帰るんだよ」
 ブルージーンズの男が希美の背中を押し、ライトバンの開け放たれた後部ドアから降ろした。そちらを振り向く間もなく、ドアは閉められ、車は走り去った。
 電柱に背中が触れた。途端、急に足から力が抜け、そのままへたりこんだ。目はうつろで、視線は千本公園の入り口あたりをさまよっている。口も半開きになってそこから白い息がか細く吐き出された。師走の風が路地を吹き抜け、希美の頬をさっと撫で、艶をまったく失った髪を嬲った。そのうち、希美は自分の体から感覚というものが――一時的にそうなっているに過ぎないのは承知していた――なくなってしまっているのに気がついた。
 そういえば五感だけでなく、時間の感覚もどこかで流れてしまったようだ。あの男達と車の中で、どれだけの時間を過ごしたのか、さっぱりわからない。覚えているのはただ、男達が代わる代わる希美の体に侵入して来、何度となく盛大にその精を吐き散らしたことだけ。一つだけ確かだろうと思えるのは、何時間も辱められて過ごした、ということだけだった。
 っくちゅん! ぼんやりとしていたら、くしゃみが出た。と同時に感覚が戻り、思考も復活した。
 一日に四人の男からレイプされたのか、私は……なんて一日だったんだろう。突然、頭を思い切り殴られたような衝撃を感じた。男達に輪姦された、という事実よりはるかに現実的で、想像もしたくない恐怖が彼女の心に芽生え、ほんの数瞬の間にあらゆる感情を吸い尽くして大きく、際限なく大きく成長していった。
 妊娠したらどうするのよ!? 
 誰の子供かわからない。四人が四人とも――いや、三人だった。細面の男は完全な早漏で、二回挑戦して二度とも(希美のお腹と太腿に)たっぷりと白濁した精液をぶちまけてくれたから。それはともかく、希美に侵入した三人の男達はいずれもきちんと膣内射精をしてくれた。コンドームはなし。
 いったいなんてことしてくれたのよ……これじゃ正樹さんに今夜抱かれて、その結果として新しい命を宿したとしても、彼の、未来の夫の子供です、なんていえないかもしれないじゃない……。
 小さくうずくまった体を震わせながら、希美は体育館坐りした足の間に顔を埋め、濃淡のついた青の格子柄のコートに頬をなすりつけ、さめざめと泣いた。どうしてこんなことになっちゃったの? なんで私だったの? なんで誰も助けてくれなかったの? パパもママも来てくれなかった……嘘つき!
 低く唸る風の音に混じって、靴の音が路面に打ちつけられる音が聞こえた。その足音は徐々に近づいてくる。なんだか疲れを窺わせる足音だった。希美は身を強張らせた。遂に足音がやんだ。相手の視線がこちらへ向けられる。
 「あれ?」と相手のあげた声、やや尻あがりのイントネーションと珠を転がすような高い声は、希美に懐かしい感情を抱かせた。女の声だった。物心つく前から一緒に遊んでいた、一人っ子の希美にとっては実の姉のように慕った女性の声だった。「のの? ――のの、だよね?」□

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第2511日目 〈『ザ・ライジング』第4章 31/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ブルージーンズの男が優しげな声で訊いてきた。人を従わせる威力のある、深い響きの声だった。だが、希美にはそれがまるで別世界から聞こえてくる声のように感じられた。口の中がからからに乾いてしまっていた希美は、こわごわと上目遣いで男を見やり、こくんと頷いた。男は
 「そうか、よかった。人違いだったらどうしようか、と心配だったんだ」と唇の端をあげた。他の二人の口から笑い声がもれた。ヘドロに似た臭気が刹那、鼻をかすめたのは気のせいだったろうか。「俺達はね、頼まれたのだよ。君の知り合い――いや、親愛なる友人から」
 親愛なる友人? いったい誰が、なんのために、この三人を? 逃げるのよっ! 再び《声》が、今度は耳のすぐそばで聞こえた。希美が半歩、右足を後ろに滑らせたとき、細面の男が彼女の腕を取って背中へねじあげた。鞄が手から離れ、路地に倒れた。希美は声ならぬ悲鳴をあげたが、ミラーグラスの男の掌で無造作にふさがれた。ついでミラーグラスの男が、希美の膝の後ろを軽く蹴った。彼女の体は崩れ落ち、テューバケースが鈍い音を立てて路地に落ちた。
 喉の奥に重くて苦いものがこみあげてくるのを感じながら、希美はテューバケースへ手を伸ばした。ブルージーンズの男が膝を曲げてケースを、片手で軽々と持ちあげた。それを追う希美の視線が、男のそれと正面からぶつかった。ケースの表面に付いた細かな砂粒を払い落としながら、
 「これは俺が持って行ってあげよう。大丈夫、壊したり傷つけたりはしないよ。亡くなったご両親に買っていただいた大切な、思い出深い楽器なんだよね? 安心したまえ。俺は契約を守る男だ。それに俺はサックスを吹くんだよ、アルトだがね。君にとって楽器がどれだけ大切か、それぐらいはわかっている」
 ブルージーンズの男は希美の鞄も拾いあげて、同じように表面を払った。そうしてから彼女の体の自由を奪っている二人に、愉快でたまらない、という調子でいった。「さあ、そのお嬢さんを車に乗せるんだ。我々もメインディッシュを味わうとしよう。初物でないのが残念だがな」
 希美は腹の底から大声で悲鳴をあげようと口を開けたが、ブルージーンズの男の腕が力一杯に押しあてられ、思わずむせかえった。何度も口を動かして空気を吸おうとしたが、わずかな隙間が出来るたびにブルージーンズの男が腕を押しつけてくる。そのときの唇の動きは、却って卑猥な想像を男達にさせたようだ。彼等がいやらしい忍び笑いをもらした。
 希美の歯がブルージーンズの男の腕に触れた。希美は男を見据え、思い切りその肌に歯を立てた。自分のどこにこんな力があったのか、と不思議に思えるほどの勢いだった。鋭く尖った八重歯(「希美ちゃんのトレードマークだよね、その八重歯って」と森沢美緒がいつぞや言っていた台詞が脳裏をすうっ、と横切った)が男の肌にめりこんでゆく。ややあって、口の中にどろりとした液体が流れこんできた。――血だった。しかし男はにやにや笑っているばかりで、痛みは感じていない様子だった。男は希美の額を軽く押しやって腕を放した。歯の突き刺さっていた箇所が赤黒くにじんでいる。希美の口から離す際に出来た歯の後が、引き裂いたような筋を残しているのが、薄暗い中でもはっきりと見られた。
 「やれやれ、たくましいお嬢さんだな。気に入ったよ」
 そういって希美の頬を掌でそっと包み、撫でさすった。かさかさした鮫肌で、ささくれがすべらかな頬に白い引っ掻き傷を幾つも残した。これまでに感じたことのない寒気が全身を貫いていった。希美はいま自分が抱いている恐怖に屈するより他、この状況から逃れる術はない、そう悟った。然り、抵抗は無意味だ。
 「あの小娘、この子にずいぶんと恨みを持ているらしいな」とミラーグラスの男がいった。ブルージーンズの男はなんの表情も見せずに頷いた。話の内容よりもその顔の方が、よほどおぞましく感じられた。
 「だけど、写真以上の上玉だな。こりゃあ美味そうだ」細面の男がいった。
 ミラーグラスの男は「そうがっつくな」とそれを諫めた。
 「さあ、乗せろ。誰かに見られないうちにな」
 ブルージーンズの男がそういうと、希美は、男達にされるがままとなって、ライトバンに押しこまれた。最後に希美の鞄とテューバケースを持ったブルージーンズの男が乗りこんできた。後ろのドアが、静かに閉まった。男達は獣となって、獲物に襲いかかった。□

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第2510日目 〈『ザ・ライジング』第4章 30/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 バスを降りて千本公園に突き当たる路地へ折れた途端、それまで低い唸り声をあげながら嬲るように吹いていた風が、ぱったりとやんだ。あまりに唐突だったので思わずその場に立ちすくんでしまった。いい知れぬ恐怖が足許から湧き起こり、脳天めがけて駆けあがってゆく。身震いがした。なにか嫌な予感がする。そんな思いを希美に抱かせる一因は、路地の街灯が一つも点いていないことにあった。三本ある街灯のガラスがすべて割られ、その破片が路面に散乱している。電球も砕けていた。路地に面した家の明かりのお陰で、辛うじて暗闇の状態ではなかったものの、一抹の不安を抱かせるにはその薄暗がりだけでもう十分だった。路地の脇に青いライトバンが一台、停まっている。中には誰もいないらしく、車内灯もテールランプも点いていない。エンジンの音も聞こえなかった。しかし、と希美は考えた。誰が街灯を壊したのだろう。こんな住宅街の、しかもバス通りに接して人目につきやすい路地の街灯を?
 ――逃げるのよ。自分の内なる《声》が警告した。逃げる? 家はここから目と鼻の先なのに? それなのにぐるりと遠回りをしろというのか。普段ならともかく、今日はとてもかったるくて仕方がない。足は鉛のように重くて、全身は疲れに満たされている。早く帰って休みたい。一刻も早くあの人に連絡を取り、優しく抱かれて眠りたい。彼に抱かれてその愛にくるまれることは、きっと浄化の儀式を意味するだろう。
 でも、さっきだって――逃げ遅れこそしたものの、《声》は正しかった。他の誰でもない自分自身の声だったけれど、あの《声》はやがて来る悲惨な出来事を事前に察知して、警告してくれた。そう、《声》は正しかった。なら、いまだってそうじゃない? 危険を回避できるなら、例え遠回りになろうとも――例え足を引きずってでも、身の安全を計った方がいいんじゃない? 
 ……とはいえ、知らぬ間に足は動いていた。いま来た道を逆戻りするのではなく、普段と同じように、家に向かって。一歩、一歩、緩慢に、だけど、確かに。いつもの家路をたどっている。
 駄目だってば。いますぐ引き返しなさい!!《声》を意識のずうっと遠くに聞きながら、希美はまるで操られでもするように、路地を歩いていった。
 目の前に立つ男に気づいたのは、二本目を過ぎて砕けたガラスの破片を避け、三本目の街灯まであと一メートル足らず、というときだった。その男はデニムのジャンバーにブルージーンズ、髪を短く刈っていた。眼差しはとてもおだやかだが、実際になにを腹の底で企んでいるのかはわかりかねる。希美がその男に気を取られている間、ライトバンの陰からもう二人が現れた。髪をオールバックにした細面の男と、金色に染めた髪を肩まで垂らしてミラーグラスをかけた男だった。三人は立ちすくんだままの希美を取り囲んだ。ずっとそこに潜んで待ち伏せていたのだ、と希美は思った。そう、まるでスティーヴン・キングの小説に出て来る、狂犬病にかかったセント・バーナードのように。
 「深町希美さんだね?」□

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第2509日目 〈『ザ・ライジング』第4章 29/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ……日も暮れて空に夜の帳が降りつつあった頃、二人は駅前のバス停にいた。それはつまり、池本が白井の額に最初の一撃を加えた頃でもあった。
 「大丈夫だよ、心配しないで」と希美は答えた。友人を心配させまいと無理に作った笑みは、却って藤葉を不安にさせるだけだった。「平気よ、一人で帰れるから」
 「うん。……わかった」もう一度訊けば希美は考えを変えるかもしれない。が、それもなんだかためらわれてしまった。
 沼津港行きの停留所にバスが停まった。鈍い音に一瞬遅れてドアが開き、女声のアナウンスが洩れ聞こえてくる。待っていた十人ばかりの人々の列が、のろのろと動き始めた。
 「じゃ、帰ったら私の携帯に電話して。ね?」
 「うん、わかった。必ず連絡するよ」
 ステップに足をかけながら、希美は藤葉の方へ向いてそういった。口許に浮かべた笑みと瞳に浮かんだ哀しげな色が妙にアンバランスで、藤葉は理由知らず息を呑んだ。
 しばらくして希美が、一段高くなっているいちばん後ろの座席に坐るのが見えた。ややあってバスが動き始める。窓ガラス越しに「じゃあね」と手を振った希美の姿が、だんだんと遠くなってゆく。ふと藤葉は、もう希美とは一生会えないのではないか、という不安な気持ちに襲われた。

 藤葉の姿がビルの陰に隠れて見えなくなると、希美は坐り直してうつむきながら、目蓋を閉ざした。さっき上野に犯されたのが未だに信じられずにいる。他のことを考えようとしても、頭の中のもやもやは晴れず、なにも考えられそうにない。胸の奥がちくり、と痛み、腹の底から不快感がこみあげてきた。少しの間、掌で口を押さえてみたが、どうやら吐くところまではいかなかったらしい。が、それでも全身にのしかかってくるような気持ち悪さと気怠さは相変わらずで……。
 希美はより固く目蓋を閉じ、窓に頭をもたれさせた。泣くもんか、と口の中で呟いた。こんな公衆の面前で涙を流してたまるものか。泣くならあの人の前、正樹さんの腕の中でしよう。それまではこらえなきゃ。 
 ――帰ったら電話しなくちゃ。ふーちゃんよりも先に、あの人に。未来の夫に。
 今夜はずっと一緒にいてほしい。あの光景を、陵辱者の顔を、あの感覚を思い出すと、一人で寝ることなんて出来そうもない。そう、今夜、あの人に自分を捧げたっていい。正樹さんに抱かれよう。それでこの汚れてしまった体が清められるなら、二人で交わした約束にいったいなんの意味があるだろうか。
 そう決めてなお、汚辱にまみれた喪失感は心の底に巣喰って残った。――希美は鞄からMDプレーヤーを出してディスクを入れ替えると、イヤフォンを耳にかけて再生ボタンを押した。SMAPの《世界に一つだけの花》が流れてきた。
 希美を乗せたバスは、アーケード商店街を抜け、下本町の交差点を通り過ぎていった。□

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第2509日目 〈『ザ・ライジング』第4章 29/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ……日も暮れて空に夜の帳が降りつつあった頃、二人は駅前のバス停にいた。それはつまり、池本が白井の額に最初の一撃を加えた頃でもあった。
 「大丈夫だよ、心配しないで」と希美は答えた。友人を心配させまいと無理に作った笑みは、却って藤葉を不安にさせるだけだった。「平気よ、一人で帰れるから」
 「うん。……わかった」もう一度訊けば希美は考えを変えるかもしれない。が、それもなんだかためらわれてしまった。
 沼津港行きの停留所にバスが停まった。鈍い音に一瞬遅れてドアが開き、女声のアナウンスが洩れ聞こえてくる。待っていた十人ばかりの人々の列が、のろのろと動き始めた。
 「じゃ、帰ったら私の携帯に電話して。ね?」
 「うん、わかった。必ず連絡するよ」
 ステップに足をかけながら、希美は藤葉の方へ向いてそういった。口許に浮かべた笑みと瞳に浮かんだ哀しげな色が妙にアンバランスで、藤葉は理由知らず息を呑んだ。
 しばらくして希美が、一段高くなっているいちばん後ろの座席に坐るのが見えた。ややあってバスが動き始める。窓ガラス越しに「じゃあね」と手を振った希美の姿が、だんだんと遠くなってゆく。ふと藤葉は、もう希美とは一生会えないのではないか、という不安な気持ちに襲われた。

 藤葉の姿がビルの陰に隠れて見えなくなると、希美は坐り直してうつむきながら、目蓋を閉ざした。さっき上野に犯されたのが未だに信じられずにいる。他のことを考えようとしても、頭の中のもやもやは晴れず、なにも考えられそうにない。胸の奥がちくり、と痛み、腹の底から不快感がこみあげてきた。少しの間、掌で口を押さえてみたが、どうやら吐くところまではいかなかったらしい。が、それでも全身にのしかかってくるような気持ち悪さと気怠さは相変わらずで……。
 希美はより固く目蓋を閉じ、窓に頭をもたれさせた。泣くもんか、と口の中で呟いた。こんな公衆の面前で涙を流してたまるものか。泣くならあの人の前、正樹さんの腕の中でしよう。それまではこらえなきゃ。 
 ――帰ったら電話しなくちゃ。ふーちゃんよりも先に、あの人に。未来の夫に。
 今夜はずっと一緒にいてほしい。あの光景を、陵辱者の顔を、あの感覚を思い出すと、一人で寝ることなんて出来そうもない。そう、今夜、あの人に自分を捧げたっていい。正樹さんに抱かれよう。それでこの汚れてしまった体が清められるなら、二人で交わした約束にいったいなんの意味があるだろうか。
 そう決めてなお、汚辱にまみれた喪失感は心の底に巣喰って残った。――希美は鞄からMDプレーヤーを出してディスクを入れ替えると、イヤフォンを耳にかけて再生ボタンを押した。SMAPの《世界に一つだけの花》が流れてきた。
 希美を乗せたバスは、アーケード商店街を抜け、下本町の交差点を通り過ぎていった。□

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第2508日目 〈『ザ・ライジング』第4章 28/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 「ののちゃん、本当に一緒に帰らなくて平気なの?」木之下藤葉が表情を硬くしたままで訊いた。これが何度目の確認だったか、藤葉にもわかっていない。誰にもいわないでね、と希美は駅に向かうバスの中でいった。彩織や美緒にも? 間を置かずに頷いた希美の姿に藤葉は気圧され、そのまま黙りこくってしまった。当面は二人だけの秘密。
 ……教室でいくら待っても戻ってこない希美を心配して、吹奏楽部の部室を覗きに行った。扉を開けた瞬間、目に飛びこんできたもの――床へ転がった希美の、剥き出しになった太腿を見たときは、さすがに心臓が停まりそうになった。最近になって、父親の影響で読み耽っている数多の推理小説だと、床に転がっている人間とは、即ち殺されてしまった人間だから。
 ののちゃん! そう叫びながら藤葉は希美の傍に駆け寄った。一見して死んでいないことはわかる。小刻みに肩が震え、嗚咽をあげていた。髪はぐしゃぐしゃに乱れて艶を失っていた。あたりの床には、引きちぎられたかなにかして飛び散ったブラウスのボタンが、あちらこちらに散見された。ショーツも丸まったままで放られている。早くも固まり始めたどす黒い血のかたまりが、絨毯に幾何学模様を作っていた。
 誰よ、こんなことしたの!? 藤葉は友の名を呼び、肩を揺さぶった。ここで行われた陵辱劇を想像すると、寒気と吐き気を覚え、思わず涙があふれてきた。――助けてあげられなかった。もっと早くここに来ていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。ののちゃん、痛かったよね、辛かったよね、苦しかったよね……ごめん、私が待たせちゃったせいだ。
 涙の粒が筋となって藤葉の両眼からこぼれ、希美の頬へ落ちた。しゃくりあげる泣き声はやみ、瞳がゆっくりと動いた。初めのうちはうつろで定まらなかった視線も、ようやく焦点を結んだらしい。藤葉の姿を認めると目が大きく見開かれた。ふーちゃん……? 希美は顔を皺くちゃにして、大きな泣き声をあげながら、藤葉の胸に飛びこんだ。
 誰がやったの、と訊いてみても、希美は首を横に振るばかりだった。なにも答えようとはしない。――上野先生? わずかの間の後で再び、希美の首が横に振られた。だが、もう答えたようなものだった。
 藤葉は立ちあがって部室を横切って音楽準備室の中をくまなく探したけれど、どこにも上野の姿はなかった。念のため、鍵が開きっぱなしになっている音楽室を見てみたが、やはりここにも姿はない。隠れている様子もなく、人のいる気配もなかった。とはいえ、準備室には確かに淫靡な匂いが漂っている。まだ経験のない藤葉ではあったが、それがいったいなにを暗示しているのかぐらいは、さすがに見当がつく。もう学校にはいないのかもしれない。でもね、上野先生。私は絶対に先生を許さない。ううん、私だけじゃない。美緒や彩織、それに、白井さんだって。だけど、まずはののちゃんだ。
 希美のところへ戻って声をかけながら立たせると、ショーツをはかせて制服の乱れを直してやった。幸い、ブラウスはボタンが飛び散っているだけで、破られたりはしていなかった。藤葉は散らばったボタンを集めてから、ぼんやりと立ったままでいる希美を促して、部室を出て教室へ戻った。途中、誰かに見られたりしたらどうしよう、とあたりを見渡しながら(反対側の階段も注視しながら)ではあったが、それも杞憂に終わり、教室へ着いたときに藤葉は安堵の溜め息をついた。教室へ着くと藤葉は希美にブラウスを脱がせてコートを着させ、いつも持ち歩いている裁縫セットを鞄から出すと、馴れた手つきでボタンをかがっていった。……□

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第2507日目 〈『ザ・ライジング』第4章 27/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 徐々に薄れてゆく意識の中で白井正樹は、希美と自分の結婚式の場にいた。これは夢かな。でも、なんて幸せな夢だろう。なんだか心がぽかぽかしてくるな。だがその一方で彼は、いま目にしているこの光景が本来あったはずの、そして、もう決して実現しない未来であるのを、よく承知していた。
 向かい合って立つ希美は純白の、肩がむき出しになったウェディングドレスを纏っている。お腹の前で重ね合わせた両手にはブーケを持ち。
 しばしの間、彼は美しく着飾った希美に見惚れ、棒を呑んだようにその場に立ち尽くしていた。まるで天使だ……いや、女神様かな。とまれ白井には目の前の妻が、この世に降り立った天上界の存在としか映らなかった。
 ひそやかな笑い声が参列者の後ろから起こり、会場全体へさざめきのように広まっていった。
 (正樹さん?)
 ふしぎそうな顔で希美が下から覗きこんだ。
 (あなた?)
 希美……。彼は手を伸ばして彼女の肩に触れた。そこへ彼女の掌が重ねられた。いつもと同じくぬくもりに満ち、心をやすらかにさせる〈力〉が感じられた。
 死んでも……僕は君を愛しているからね。
 瞳を涙に潤ませながらも彼女はにっこりとほほえみ、ゆっくりと頷いた。ありがとう。つられて口許をほころばせた白井は、いまさらのように参列者の顔ぶれを見渡した。
 深町徹と恵美があたたかな眼差しで、娘夫婦の門出を見守っている。が、二人が浮かべる表情は対照的で、白井にはそれがすこぶる面白かった。恵美はようやく肩の荷がおりた、というような安堵とやすらぎの表情で、徹は自分の許から一人娘が離れていってしまう淋しさを隠そうともしない表情で。まあ、でもいいではないか。白井正樹は義父の申し出を快く承けて婿養子になってくれたのだから。それを聞いたときは恵美も希美も、開いた口がふさがらなかったのだが。
 彩織と美緒、藤葉ら〈旅の仲間〉が夢見がちに、うっとりとした様子で〈ののと先生〉を見つめている。おそらく未来の自分とまだ見ぬ夫の姿を、そこへ重ね合わせているのだろう。彼女達の後ろには希美の友人達が、楽器を構えてたたずんでいる……らしいが、薄靄がかかっていてよくわからなかった。
 そのまま視線を動かすと、銀行員時代に不倫とはいえ、愛し合った女性の姿がかいま見えたが、それはすぐに消えて見えなくなってしまった。
 新郎側の席の最前列には、ここ何年も会っていなかった両親と兄が坐っている。それを目にした途端、やりきれぬ思いと後悔が、心の底から浮かびあがってきた。
 親孝行も仲直りも、なにもできなかったな……。実の家族にさえ小さな未練を残して、僕は死んでいくのか。
 兄さん……なぜあんなに毛嫌いしてしまったのか、自分でもよくわからないんだ。あんなに可愛がってもらって気まで遣わせてしまったのに、僕はそれを理解することができなかった。ごめんね。
 母さん……ささいなことがきっかけでよく口喧嘩したけれど、悪気なんてこれっぽっちもなかった。泣かせるようなことばかりしてごめんね。でも、大好きだよ。僕を産んでくれてありがとう。
 父さん……小さいときからずっと迷惑ばかりかけてしまったよね。いつどんなときでも僕の考えを理解してくれた。誰よりも尊敬している。僕は、父さんのような父親になりたかった。
 ――みんな、紹介するよ。白井は希美の手を取って優しく握り、両親と兄の方へ振り向かせた。この女性が、僕の奥さんです。ほら、希美、僕の両親と兄だよ。
 希美が口を開いて、なにやらいっている。が、はっきりとそれを聞き取ることは、もはや白井には不可能だった。
 目の前が霞み、意識が消えかかってゆく。
 愛しているよ、希美。死して後も君への愛と隷属を誓おう。真実の愛に終わりはない。
 白井正樹は息絶えた。□

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第2506日目 〈『ザ・ライジング』第4章 26/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 白井は身をよじらせ、池本の体を思い切り払いのけた。唇をごしごしこすって、少しでも池本の残り香を消そうと躍起になった。だが、唇に残った感触は、なかなか消えてくれそうもない。希美とのキスではついぞ感じたことのない嫌悪感が襲ってきた。
 池本がなおもすがりつこうと白井に寄ってきたが、彼はそれをも乱暴に払ってみせた。その反動で池本が敷き詰められた砂利の上に転がった。
 「やめろよ、この色情狂! くそ、汚らわしいっ!!」
 (汚らわしい? この私のキスが?)
 憎しみに燃えた瞳で池本が白井を睨んだ。彼はこちらへ背中を見せ、立ち去ろうとしていた。
 (殺してやるつもりだったのよ。だから、あんなにしおらしく謝ったのに――)
 「――白井、あんたこそ何様のつもりよ!」
 レンチを振りかざして池本が、白井の背中に詰め寄った。白井は彼女の気配を察すると振り返った。彼の目に映ったのは、鬼女のような形相をした池本の姿だけだった。
 次の瞬間、額に鈍い痛みを感じた。頭蓋にまで響くような、しびれを伴う痛みだった。白井の足がよろめく。続いて、左耳に一撃。
 肩に、ぼこっ。首の後ろに、ぼこっ。
 刹那、たたらを踏んだかと思うと、白井はうつ伏せになって倒れこんだ。砂利の飛び散る音が、やけに大きく耳に響いた。
 馬乗りになって池本が、何度も何度も白井の後頭部を力任せに叩いた。何発も、何発も。
 「くそ、思いしれ! 私の苦しみを!」
 無我夢中になって打ち叩く。呼吸が乱れて吐く息が白濁して消え、心臓がとてつもないスピードで早鐘を鳴らしている。気づくと手にしたレンチは血にまみれ、コートやストッキング、顔や髪のあちらこちらに返り血が飛んでいる。
 白井はうつ伏せのまま、血を流して倒れている。左耳の後ろの付け根は鋭く切れて、血がとめどなくあふれていた。後頭部は右半分が陥没し、ぱっくりと十センチ強の傷口が開き、細い線状の無数の神経が散り舞っている。頭蓋骨は内側にえぐられて脳漿へ突き刺さり、シロップのように粘り気のある血の湖が広がっている。どれだけ時間が経っても、その体が動く様子はなかった。
 ――しばらくは放心したように白井の死体を見おろしていた池本だったが、やがてぺたんと地面に崩れ落ちた。うつろな視線が白井の左の薬指で止まった。これまで気がつかなかったものが見える。彼が恋人に贈ったのと同じ指輪だった。
 池本はそっと目を閉じた。どれぐらいそうしていただろう、閉じられていた目蓋が、ぐわっ、と見開かれた。そして、頭をのけぞらせて、彼女は狂ったように笑い始めた。冬空にその声は不気味に響いた。
 それを聞いてなにごとか、と境内をひょいと覗いた会社帰りのOLが悲鳴をあげても、池本の笑い声は収まりそうになかった。OLの通報で警察が駆けつけ、池本玲子が逮捕されたのは、それから十分と経たない頃であった。□

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第2505日目 〈『ザ・ライジング』第4章 25/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ベンチから立ちあがろうとした。が、池本に両肩を強く押さえこまれて、そのままベンチに坐り直された。いまにも牙をむきそうな野獣めいた表情で、池本が白井を見おろしている。
 「待ちなさい。深町さんのことがまだよ」
 「ああ、そうでしたね」と白井はいった。一変した池本の声音に、心底ぞっとさせられたからだった。「さっさと話してください。彼女がどうしたんですか」この場から立ち去りたい、それも一刻も早く。そんな気持ちからか、白井の口調は極めて事務的なものになっていた。
 「さっき、あなたは一組のカップル誕生の影で誰かが泣いてる、っていったわよね?」
 白井はこくりと頷いた。
 「私とあなたがくっつくことで、深町さんが泣くことになる。道理よね?」
 「ええ、理屈はわかりますよ。だけど、それが現実になることはないと思いますけれど?」
 「――ねえ、白井さん、あなた、傷物の女は好き?」
 「どういう意味ですか?」
 「あら、鈍いのね。私とあなたが恋人になる。誰かが泣く。傷物の女。これでなにか連想できないかしら?」
 ほんの数瞬、白井は砂利の敷かれた地面を見つめながら、考えた。そうしてすぐに、さっきは考えまいとしていた最悪の出来事が脳裏に浮かび、確信となって彼に迫ってきた。「――おい、まさか!?」
 にこやかな顔で頷いている池本を見据えながら、白井は立ちあがった。
 「お前、彼女になにをした!?」
 「いまごろ……」とゆっくり池本は口を開いた。「いまごろ深町さんは男を知った体になってるわね。宴はだいぶ前に終わってると思うけど、もしかするとジャンキーみたいになって、腰を振りまくってるかしらね」
 「この野郎!」白井は池本のコートの襟を掴んだ。「まさか希美を……」
 「ふん、希美だって。馬鹿みたい。あんなガキに身を持ち崩しちゃってさ。そうよ、あなたの想像通り、深町希美は学園でレイプされて、もう処女じゃなくなってる。お前の大事な女を傷物にしてやった! ざまあみろ! もうあんなのに興味はないわよね。あなたはただ、あの子の処女が欲しかっただけなんでしょ? それとも、本物の女子高生を相手に制服プレイでも楽しみたかった? どうかしてるわ。だいたいね、年齢の差を考えてみなさいよ。長続きするわけがないじゃない」
 「希美!」踵を返して道路へ足を向けたものの、池本に肩を摑まれた。「放せよ!」
 「もうどうなるわけでもないわ。そんなに彼女を愛してるの? そんなに私よりあの子の方がいい?」
 「当たり前でしょう! ――ちくしょう!」
 「あんた、馬鹿よ。私よりもあんな小娘に夢中だなんて。ねえ、行かないで。私と一緒にいてよ!」
 「いやなこった!」
 「どうして私じゃ駄目なの!?」
 「池本先生、二度と僕達の前をうろつかないでください。希美にこれ以上危害を加えるようなら、僕だって黙っちゃいませんよ」
 「私は理事長と血がつながってるのよ? 私を邪険にすれば、あなたの就職だってなくなるんだからね。それでもいいわけ?」
 「ああ、構わないさ」と白井は即答した。「別にあの学園だけがすべてじゃないさ。こんなご時世だけどね、探せば働き口なんてどこにでもあるんだ」
 「そう。じゃあ、深町さんは? あの子はあと一年あるのよ? あのガキの残りの学生生活がどうなったって知らないわよ」
 「希美に手を出すな。そういったはずだ」
 「そんなに深町さんの方がいいの? ……そう、わかったわ」そういいながら池本は、ポケットの中のレンチを握りしめた。「わかった。あなたのことは諦める。深町さんのことは悪かったわ……取り返しのつかないことをしてしまって、ごめんなさい。謝ってすむことじゃないけど……」
 「まったくですね。先生はあの子の心に一生消えない痛みを与えた。許されることじゃありません。彼女の痛みや苦しみを背負って、あなたはこれから生きてゆくんだ。それを忘れないでくださいよ」
 「……ええ、その通りね。私、明日になったら辞表を出すわ。もうあなたや深町さんにつきまとったりしない。安心して」
 「そうであることを祈りますよ。それじゃ、僕はもう帰ります」くるりと背中を向けた白井の腕を、池本が摑んだ。彼は訝しげな眼差しでそれを見やった。「まだなにか用ですか?」
 「お別れに……この世のお別れにキスしてほしいの。それぐらい、いいわよね?」瞳を潤ませながら、そう池本はいった。
 「嫌です。まだ彼女を傷つけたいんですか?」
 「キスぐらいいいじゃないの!」池本はそういうとすばやく、白井の唇に自分の唇を重ねた。□

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第2504日目 〈『ザ・ライジング』第4章 24/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 「で、深町さんのことってなんですか?」境内にあった木製のベンチに腰をおろして、白井は訊いた。
 くすくす笑ってから、「その前にお喋りしましょうよ。深町さんのことはその後でいいわ。どうせ大したことじゃないから」と池本がいった。「まずは思い出話ね。私達が初めて一緒に過ごす夜の幕開けに」
 「どういう意味です?」
 「本当は期待しているくせに。今夜を限りにすべてが変転するのよ。私はあなたの女になり、あなたは深町さんを忘れるの」
 「さっぱりわけがわからないな」白井は頭を掻きながら、立ったままでいる池本を見あげた。「なにがいいたいんですか?」
 池本が大仰に肩をすくめた。「まあ、種明かしは追々してあげるわ。そんなに慌てることはない。夜も私達も始まったばかりなのだから」
 なにかいおうと口を開きかけたが、池本が掌をこちらに向けて制するような素振りを見せたので、彼はそのまま口を閉ざした。池本の態度が他人を威圧し、屈服させてしまうものであったがために。
 「覚えてる? 私達が初めて会ったときのこと。――覚えてない? ふふ、そうかもね。でも、私ははっきり覚えているわ。あなたが教育実習で学園にやってきた朝、私は職員室に行ってた。あれ、見馴れない人がいるな、この人が今日から来るって聞いてた教育実習生なのかしら、って思った。それでね、突然、ぴん、と来たのよ。この人だわ、って。私をいまの生活から救い出してくれるのは、この人に違いない、ってね」
 「そりゃあ、ずいぶん身勝手な思い出ですね。だけど、池本先生。僕のあなたの印象は最悪です。保健室に行ったらいきなり襲われたんですからね。いま思い出してもぞっとします」
 「へえ、どうかしら。あのときのことはよく覚えているよ。白井さん、あなたのアレ、すっごく固くなってたわね。口ではいろいろいってたけど、本当は私とやりたかったんでしょ? もしかしたら、その日は一人でしちゃったんじゃないの?」
 「そんなことないですよ」と白井はいった。保健室で襲われた日の晩、手淫に耽ったのは事実である。ただ、そのネタになったのは、池本の艶姿ではなく、同じ日の午後、階段で偶然見てしまった希美のパンチラだった。
 「下手な嘘つかなくたっていいわよ。ともかくね、あの日からずっと私はあなたを想うようになった。知らないでしょ、私がどれだけあなたを想い、あなたの女になるのを望んでいたか?」
 白井は首を横に振った。「知るわけないじゃないですか。知りたくもないですよ」
 「でも、教えてあげるわ。あなたは知っておく義務があるんだから。私の想いを受け容れるしかないのよ」
 「ねえ、ちょっと。池本先生、あなた、何様のつもりなんですか? なんで僕が先生の気持ちを押しつけられなくちゃならないんですか?」
 「決まってるじゃない。私達は今日から恋人同士になるからよ」いとも当たり前のようない口振りであった。
 「おい、待ってくれよ。だから、なんで恋人にならなくちゃいけないのかな。僕には深町さんがいる。なんであとからしゃしゃり出てきて――」
 「昨夜もいったはずよ。あなたに深町さんは似合わない、って!」
 「でも、僕と先生ほどじゃない。僕のことを好いてくれるのは――はっきりいって迷惑ですけれど、まあ、ありがたい気持ちです。でも、諦めてください。僕は深町さんを愛しているし、深町さんだって僕を愛してくれています。昨日もいいましたが、僕達は結婚の約束をしました。だから、僕達に関わらないでください、金輪際ね。いいですか?」
 「そんなの、お断りだわ」池本がにべもなくいった。
 「わからない人だな。あなただって知らないわけじゃないでしょう。一組のカップルの誕生の影では必ず誰かが泣いている、ってこと。先生、お願いですから、深町さんと僕のために諦めてください。自分でもひどいこといってるな、ってわかってます。けれどね、先生。先生の理不尽で横暴な愛の押し売りにくらべたらそんなの、ものの数ではありませんよ。もっと自分にふさわしい男を探してください」
 「あなた以外に誰がいるのよ!? 私にはあなたしか見えていないのに!!」
 「そんなの、僕に訊かないでくださいよ。それにね、先生のやってることはれっきとしたストーカーですよ。その気になれば、僕は先生を訴えることだってできるんです。覚えておいてください。――それじゃ、僕はもう帰りますよ」□

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第2503日目 〈『ザ・ライジング』第4章 23/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 「さも偶然を装ったような台詞ですね。どうせ待ち伏せていたんでしょ、昨日みたいに」白井は冷徹に、ぴしゃりといってのけた。が、それさえわずかに震えているのがわかる。だが、なにはともあれ、先制攻撃は仕掛けられた。いいぞ、こっちが一ポイント、有利に立ったぞ。
 しかし、池本にひるむ様子は見られなかった。ただ頷いたきり。ええ、そうよ、よくわかったわね、とでもいいたげに。
 「どうなんですか。僕になにか御用ですか」
 「そこの境内で話さない?」と池本が天神社を指さした。「立ったままでお喋りもいいけど、ここは風が吹きつけて寒いわ」
 そんな格好じゃあね、と白井は独りごちた。
 「いやですよ。僕は早く帰りたいんです」
 アウディの横を通り過ぎようとする白井の前に、腰へ両掌をあてて背中を伸ばした池本が立ちはだかった。「深町さんのことで話があるのよ」
 白井は足を停めた。振り返って池本を睨視した。希美ちゃんのこと? こいつ、あの子になにかしたのか? まさか、と思ったが、白井にはその先を考え続けることができなかった。いざ最悪の状況を想像しようとすると、却って頭は混乱して真っ白となり、なにも考えられなくなってしまう。それでも何秒間かの後、徐々に落ち着いてきて、なんとか彼は考えをめぐらせられるようになった。
 いじめられているんだろうか。でも、どういうわけで? ハーモニーエンジェルスのオーディションのことかな。いや、まだ選ばれたわけじゃないんだから、それはたぶん違うだろう。じゃあ、なんだ。どういう理由がある? ご両親を亡くして同情を集めているが故の怨恨か? しかし、もしいじめられているのだとしても、希美ちゃんには三人の親友がいる。宮木彩織と森沢美緒と木之下藤葉。なにがあっても彼女達が希美ちゃんを守ってくれるだろうし、宮木さんは僕のところへ連絡してくるだろう。それがないというのは、彼女達の目が届かない――部活絡み? だけどなあ、と白井は考えた。昨日は半日ずっと一緒だったのに、希美ちゃん、そんなこといってなかったし、匂わせもしなかったぞ。信用されていないわけじゃないのに……。いずれにせよ、いま目の前にいるこの女がなにかを知っているのは間違いない。でなければ、まるでとどめの一突きにも似た、深町さんのことで話があるのよ、なんて台詞をああも無感情に言い放てるわけがない。
 本人も知らぬ間に拳にした彼の両掌を、ちら、と池本が見やってせせら笑った。「そんなに深町さんのことが心配?」
 頷くよりも早く、「当たり前でしょう」と白井はいった。予想外に厳しい口調だった。「彼女のことっていったいなんですか? ――わかりました、境内で話しましょう。そしたらさっさと教えてくださいよ」
 白井はむっとした表情で、天神社へ足を向けた。境内への三段の階段に足をかけて、彼は振り返った。池本は背中を見せたまま、動こうともしていない。腹立たしげないい方になるのを隠しもせず、「どうしたんですか、早く来てくださいよ」と白井はいった。
 はいはい、とからかうような口ぶりで池本が答えて、踵を返した。彼女がそのとき、コートのポケットに忍ばせたレンチを固く握りしめたのに、白井はまったく気づかなかった。
 白井は視線が合うのを避けるように顔を背け、天神社の境内へ足を踏み入れた。□

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第2502日目 〈『ザ・ライジング』第4章 22/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 これ……夜の女王のアリアじゃなかったっけ。アウディから降りてきた池本を視界の端に認める一方で、耳はすばやくモーツァルトに反応していた。クラシックと縁のない生活を送る白井が、高校時代に手痛く振られたのを契機に聴くようになったのが、大バッハとモーツァルト。この二人の作品以外は、クラシックなんて聴いたこともないし、これからも多分そうだろう。
 小説を無性に書きたくなった大学時代、材料集めも兼ねて大学図書館をうろうろしていたら、音楽資料庫に迷いこみ、モーツァルトのレコード群と出喰わした。その山を見ているうちに、また聴いてみようかな、と思い始めた矢先、目の前に十数組のオペラ《魔笛》が現れた。適当に選び出したカラヤンの全曲盤LPを借りて、その日はアパートに帰った。確かプレーヤーにかけたのは、翌々日だったような気がする。対訳や解説をめくりながらずっと聴いていて……終わったときに白井は、ほうという気持ちを深く心に刻んで、感想の手紙を友人に認めた。
 これってすごいオペラじゃないか!
 とはいえ、結局彼はこのオペラを小説に仕立てあげることを諦めた。音楽と言葉が密接に結びつき、フリーメイスンの思想が複雑に絡み合った《魔笛》を散文に移し替えるのは、如何に老練の作家でも無理なように思えてきたからだ。友人から借りたフリーメイスンにまつわる本を繙いてみて、その思いはより確信へ近くなった。一週間の返却期限を延長し、大学図書館へレコードを戻すころには、すっかり《魔笛》の小説化は諦めた。ただ、作品自体にはとても忘れがたい魅力を感じていたので、カセットへダビングして(まだMDプレーヤーなんて出回っていないころのことだった)返却した。あのテープ、部屋を探せばまだあるよな、たぶん。
 ……でも、池本先生と夜の女王のアリアの組み合わせは、なんとまあ、お似合いだろうか。まるでダース・ヴェーダーと〈帝国のマーチ〉みたいだ(希美がこの行進曲をさして、“史上最強の行進曲”といったことがあったのを、ふと彼は思いだした)。
 それにしてもこの声、アリアを歌うソプラノは、池本先生の声とよく似ているな。どこかぬめりのある、水っぽい声。それでいて端々から濃縮された色気を感じさせる。
 そうと知られぬように、白井は、アウディから女王然として降り立った池本を盗み見た。黒革のマイクロ・ミニのスカートからすらりと伸びた、無駄な肉の付いていない長い脚が見えた。左の、引き締まった足首には金色の二重鎖のアンクレット。そのまま、まるで操られでもするように上半身へと視線を動かす。厚手のショートコートを着こんでいてもはっきりとわかる乳房のふくらみを通り過ぎ、互いの視線がぶつかった。
 白井は足がすくむのを感じた。がくがくと膝が小刻みに震えてくる。抑えようとしても抑えられない。崩れ落ちてしまわないのがふしぎなくらいだった。
 狂ってるよ、この人!
 心の中で、もう一人の自分の声が叫んだ。なにがどうと説明するのは難しい。ただ物事には、なんの説明もなく幾重もの衣の下にひた隠された真実を知らせる、直感としかいいようのない、得体の知れない〈力〉が働くことがあるものだ。この場合の白井とてそれは例外ではなかった。
 池本玲子の瞳には邪悪な意思が宿っていた。殺意と怨念と嫉妬が、離れがたいまでに結びついて、彼女の心を操り支配している。それにいい知れぬ恐怖を感じて白井はすくみあがった。そのまま回れ右をして逃げ出そうか、とも思った。しかし、そんなことをしても、池本はこれっぽっちも動じないだろう。道成寺縁起に出てくる清姫のように、いつまでも、どこまでも、執念深く追いつめて来るに違いない。そう、どちらかがこの世から消えるまで。
 ゆっくりとした歩き方で、池本が車の正面へまわった。口許をほころばせると(白井にはいびつにひずんだようにしか見えなかったが)、「また会ったわね」といった。□

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第2501日目 〈『ザ・ライジング』第4章 21/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 初めてあなたに紹介されたとき……確かあれって健康診断かなにかの書類持って職員室に行ったときだったと思うけど、すぐに私はぴんと来たわ。ああ、私を救ってくれるのはこの人だ、って。底無し沼のように感じるただれて乱れた生活から、この人だったら救い出してくれる、って、そう確信したわけよ。――正直にいうとね、一目惚れだった。この年で一目惚れなんて十代の女の子みたいな事故に出喰わすなんて、思いもよらなかった。信じられなかったね、自分にまだそんなピュアな感情が残ってた、ってことに。まあ、ちょっぴり感動もしたけれど。
 あの日から私の心にはあなたが住むようになった。さすがに寝ても覚めても、というわけじゃなかったけど、あなたを見るといつも心がときめいた。朝に会ったりすると、もうその日一日がバラ色だったわよ。話す機会はほとんどなかったけど、いまでもあなたと交わした会話は覚えている。
 あなたに抱かれているところを想像して、家だろうが保健室だろうが自慰に耽ったことも、いまはいい思い出。どうあがいてもあなたとは結ばれないのかな、と考えたりすると落ち着かなくなって、上野を呼び出して気晴らしをしたことだって何度もある。その最中でもあなたの顔は私から離れてゆかなかった。いま目の前にいるのが上野じゃなく、あなた、白井さんだったらどんなにいいだろう、といつも考えてた。
 深町さんと付き合い始めた、と知ったのも、やっぱりあの噂好きな連中からだった。「ねえ、先生、知ってたあ!? 例の実習生だった白井先生、うちのクラスの深町さんと付き合い始めたんだって。マジ意外だよねえ」ですと。あれは、深町さんのご両親が亡くなる前だったかな。それはあなたの方が詳しいはずだけど。それはともかく、嫉妬したね。当然だわ。この夜の女王のアリアってそのときの、ううん、いまでも抱いている私のジェラシーを、よく代弁してくれていると思う。
 高二の小娘に愛しい男を盗まれたわけだからさ、私の嫉妬と憎悪がどれだけ深いか、あなたにはわかるのかな。あんななんの色気もなくて、男好みの体をしているわけでもない青臭い小娘が、あなたの愛を独占してのほほんと生きているのを見るのが、とてつもなく腹立たしかった。口惜しくて口惜しくて歯ぎしりしたり、地団駄踏んだり、なんて、そんな程度じゃなかったんだからね。
 はっきりいおうか、この際だから。二人まとめて殺してやろうか、って今回の計画の発端を思いついたのも、そんなときだったのよ。学園祭の時分じゃなかったかしら。初めのうちは殺すなんてことはいくらなんでも出来ないから、せいぜい深町さんを痛めつけようかな、って考えていた程度。でもね、昨日、深町さんと横浜に行ったでしょ。あんた、駅で彼女を優しく抱いてあげたわよね? それを見た瞬間よ、深町さんじゃなく、あんたを地獄に送ってやろうと決めたのは。あなたが自分のせいで殺されたと思い知らせるのが、あのガキにはいちばんの痛手になるでしょうし、一生かかっても癒せない傷をあの子は抱えて生きることになるんだわ。ふん、いい気味だわよ。
 私? ええ、ブタ箱にぶちこまれるのは覚悟の上よ。好きなオペラを聴けなくなるのと男漁りができなくなるのが残念だけど、まあ、刑務所にいたって何年かすれば出てこられるからね。別になんとも思っていないよ。そうそう、男はムショの中にもたくさんいるしね。それはともかくとして。
 さて、あんまり待たせちゃ可哀想ね。そろそろ行ってあげようか。
 池本はモーツァルトを流したまま、車から降りた。片手には、さっき工具箱から出したレンチを持って。それをコートのポケットに忍ばせて。□

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第2500日目 〈『ザ・ライジング』第4章 20/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 バスの車内アナウンスが、次は早川口、と告げた。無意識に降車スイッチへ手が伸びたが、一足早く誰かがボタンを押した。車内に甲高いブザー音が響く。ちょっとだけ口惜しい。彼は役に立たなかった腕を降ろした。やがてバスは、諸白小路の交差点を過ぎた。バスのスピードが徐々に落ちてゆき、ややあって停留所へ静かに停まった。
 降車扉が開いて、白井が最初に降りた。若いOL風の女性が二人と、革ジャンを着た初老の男性が続いて降りた。四人がそれぞれの方向へ散ってゆく。きっと、もう二度と会うことはないし、関わり合うことだってあり得ない四人が。そう考えると、人と人の出会いや結びつきというのはふしぎだな、人智で推し量れないなにかがそこには働いているのかもしれない、と白井はふと考えた。希美ちゃんと僕の出逢いだって、きっとこれはただの偶然じゃないのだろう、とも。
 バスは車の流れが途切れたところへ割りこむようにして発車していった。

 途中の自動販売機で缶コーヒーを買って道を折れ、住宅街に入った。ここから三分も歩けばアパートだった。帰ったら……希美ちゃんに電話しようかな、今日は部活がある、っていってたけど、夕方には終わるともいっていた。もう帰ってるだろう……まさか食事を作りに来てくれてる、なんてことは……ないよな。うん。まだ十七歳の女の子にそんな出費をさせちゃいけないよな。簡単に夕飯を摂ってからでもいいや。明日のこともあるし、とにかく電話しなきゃ。
 心の底から湧きあがってきた幸福感に、白井は我知らず軽やかな足取りで歩いてゆく。見覚えのあるアウディが天神社の前に――ちょうど昨夜と同じ場所に停められているのを発見したのは、その矢先だった。

 夜の女王のアリアが車内に鳴り響いていた。地獄の復讐が私の心臓の中で煮えたぎっている、死と絶望とが私をめぐって燃え立つ! ……池本玲子はアウディから五メートルばかり離れたところで、執した男が棒を飲んだように呆然と突っ立っているのを見て、思わず口許をほころばせた。
 考えていることが手に取るようにわかる、っていうのは傍から見ているととても面白いものよね。あなたが深町さんに惚れていたのは、くすっ、生徒ならみんな知ってたわよ。保健室の常連達がいつでもあなたの情報は提供してくれたわ。こっちが頼んだわけでもないのに、噂ばかりよくぺらぺら喋っていって、私は首尾よくあなたに関する情報をふんだんに手に入れることができた。深町さんのことだってそう。彼女と同じクラスの噂好きの連中がね、こんな話をしていってくれたのよ。「ねえねえ、先生、知ってる? 実習生の白井先生ね、私達と同じクラスの深町さんにホの字なんだよ。古典の授業の時なんかもう意識しちゃってるの、バレバレでさあ。みんな教科書で口隠して笑いをこらえるのに必死なんだよねえ。それに深町さんも顔真っ赤にしながら反応しててさ、なんだか猿芝居見てる、って感じ」とね。□

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第2499日目 〈『ザ・ライジング』第4章 19/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野を送り出すと池本はすぐに身支度を整え、教職員用の駐車場がある地下まで一気に階段を駆けおりた。車は片手で数える程度の数しか停まっていない。彼女のアウディは出入り口から十メートルぐらい離れたところの、柱の影に駐車してあった。この学校に赴任してからずっと、そこが池本の駐車場所として割り当てられている。勢いこんでシートに腰を落とすと息つく間もなくエンジンをスタートさせ、タイヤの摩擦する音を響かせて、駐車場を出て行った。
 学園から一キロほど北上したところに、東名高速道路の沼津インターがある。いま、池本は通行券を受け取って、高速に入ったところだった。時間と時期のせいか、東京方面へ向かう車は少ない。トラックがところどころで列をなし、観光バスがまばらに点在し、その間を普通車が間隔を開けて走っていた。
 車を購入する際に、それまで付いていた標準装備のものをはずして、新しく付けたセパレート式のカーオーディオに指を伸ばす。前後のボードに埋めこまれたスピーカーから、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』序曲が流れてきた。ほの暗く陰鬱な旋律だった。陵辱と殺人の宴にはなんとふさわしいことであったか。池本の口許に笑みが広がった。あの恋人達の短い春の終わりにはぴったりの曲じゃないか、そう池本は口の中で呟いた。
 あと一時間もあれば、彼のアパートに着けるだろう。時計を見ると、針は五時を指していた。大丈夫だ。探偵社を使って調べさせたこの一ヶ月のスケジュールは、深町希美と会う日、及び大学へ行く日を別にすれば、ほぼ同じような毎日だった。藤沢の学習塾のバイトが終わるのが、確か五時。塾を出るのが五時半過ぎ。それから一時間半ぐらいで彼は帰ってくる。駅前で買い物をする日もあったが、今日、月曜日は特売があるわけでもないらしく、どこへも寄らずに帰ることが多かった。いずれにせよ、自分の方が早く到着するのは間違いない。早めについて、最後の心の準備をしておくのはいいことだ。
 〈大井松田IC 30Km〉左手に見える緑色した表示板に白抜き文字で書かれているのに目をやった池本は、再び微笑した。大井松田で降りたら国道二五五号線に入ってひたすら南下、小田原城からさして離れていないところでぶつかった国道一号線を、今度は静岡方面へたどってゆけば、一キロ走るか走らないかというぐらいで白井の住むアパートだった。
 もうすぐよ、白井さん。池本は口の中で呟いた。もうすぐ私達のショータイムの始まりよ。

 白井は小田原駅の改札をくぐってから、駅前のデパート地下で夕飯の買い物をしてゆくか少し悩んだが、一昨日近所のスーパーであれやこれや買いこんだ食料品のあるのを思い出し、そのままバスロータリーへと歩を進めた。ちょうど自分が乗るバスが、乗車場所に停まっていた。バスの中は、帰宅する人々でだいぶ混んでいた。白井は一渡り車内を眺め渡してみたが、坐れそうもないので、降車口に近いところで吊革に摑まった。彼が乗りこんで一分ばかりして、バスは扉を閉めて鈍いエンジン音を立てながら、ロータリーをあとにした。
 結局のところ、昨夜はあまりものうれしさと興奮に寝つけず、本を読んでいても目は冴えてゆく一方で、手淫に耽ってもますます希美の笑顔はより鮮明となり、冷蔵庫から泡盛を持ち出して三杯、四杯と盃――コップだったが――を重ね、空が白みだした午前五時過ぎになってようやく眠りに落ちていった。
 バスに揺られて窓の外をゆっくりと後ろへ流れてゆく風景を眺めながら、ぼんやりと白井は希美のことを考えていた。見るもの聞くもののほとんどすべてが、なぜか希美を想起させる。自分と希美が共に歩いて買い物をしたり、なにを話すでもなく並んで歩く光景が、街角のあちらこちらで見られた。それはいつの間にか、二人が子供を中にして買い物をする姿に取って変わった。絵に描いたような平凡な家族だが、それは世界の誰よりも幸福な家族の姿でもあった。
 いつの日か、と白井は考えた。いつの日か、希美ちゃんと結婚したら、旬日経ぬうちにあんな家庭を築くことになるんだろうな、と。彼はいろいろ想像をめぐらせてみた。婚約したことではるかに現実的となった自分達の将来。学校での授業が終わって家に帰れば、希美が、お帰りなさい、と出迎えて手料理でその日一日の疲れを癒してくれる。休日の昼間は海辺を散歩し、砂浜に坐りこんで沈む夕陽を眺めたり、時には箱根や伊豆まで足を伸ばして、食事したり温泉に入ったり。夜には……まあ、愛の交歓と子作りに励む。ううむ、と白井は唸った(隣に立っていた買い物帰りの主婦に訝しげな目を向けられたが、彼はつとめてそれを無視した)。希美ちゃん、僕と同じ年齢になるころには、いったい何人の子供の母親になっているんだろうな。はあ……養っていけるのかな、とすこぶる疑問も湧いてきた。仕事、がんばるしかないな、という結論しか彼には出せなかった。□

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