第3736日目 〈病床からのレポート──これが「病より癒えたる者の神への感謝の歌」とならんことを。〉 [日々の思い・独り言]

 月曜日の夜から始まった腰痛も、いまはだいぶ落ち着いてきたようである。いまは、そう思いたい。
 左腰部を震源とする今回の腰痛は次第に、時間を経るに従って背中全体へ広がって最終的には右肩甲骨のあたりまで最大勢力圏に置き、ゆっくりとその力を衰えさせながら昨夜は腰部とそのすぐ上の部位(専門用語で此所、なんて呼ぶんでしょうね)に痛感を覚えさせるに留まり、今朝は……そうしてこれを書いている木曜日の宵刻はどうにかこうやって椅子に坐りMacへ向かうことができるまでに回復してきている(よかった、ブログに穴を開けずに済んだ)。
 ……うん、回復と捉えたいね! すくなくとも夜、多少の痛みは感じると雖も床に横へなっても耐えられるくらいになったのだから、回復、と考えてよいのではないか。睡眠誘導剤を枕元に置いてある、それを服んで小一時間もすれば眠りに落ちることができる。経験に基づくそんな安心感も手伝っての「回復」なのだろうけれど。
 とはいえ、まだ左腰部、つまり震源とふざけて称した部位の痛みは依然として残っている。これから寝るまでの間にこの痛みが激しくなる可能性も、また他へと広がってゆきまったく寝られないで一夜を過ごす可能性も、否定できるものではない。
 咨、立っていても、坐っていても、横になっていても、この肉体的苦痛に苛まされて無為に時間を過ごす、なんて事態は二度と経験したくないな。願わくば本稿が、「病より癒えたる者の神への感謝の歌」となりますように。◆

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第3735日目 〈腰痛、再び。〉 [日々の思い・独り言]

 昨夜一晩、激しい腰痛に苦悶の汗を流し、ろくに睡眠できなかった。原因がなにか、自分でもわからない。坐り方か、重い荷物を背負っているせいか、その両方か。
 痛みは腰の左側、脇腹の少し後ろのあたりが中心のようだ。そこから腰全体、背中へと広がっていった。仰向けになっても横向きになっても痛みは一瞬たりと治まらず、外用鎮痛消炎薬……アンメルツのような塗布式、サロンパスに代表される貼るタイプ、等ですね……もどれだけ効能があったかは不明で、救急車を呼ぶことも考えたけれど数ヶ月前と同じ症状にも思えたのでそれは一旦退け、寝る場所も変えてみたが改善の様子は見られぬためまた元の寝場所に戻り、朝刊が投函される音を聞き、ゴミを出したらそこで安心したのか眠ることがようやく出来た。途中、宅配便の受け取りで起きたけれど、それも終えたらまた寝てしまい──起床は15時52分!
 腰と背中の痛みは落ち着いた。むろん、これを書いている現在まだまだ震源たる腰の左側、脇腹の少し後ろのあたりに痛みは残り、長時間同じ姿勢を取っていると腰から背中にかけて痛みが走るけれど、どうやら峠は越えたようだ(そう捉えたい)。
 坐り方の意識的改善と、リュックに詰める荷物を減らすことで再発防止ができるなら、幾らだってやる。体、大事。◆

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第3734日目 〈これの読書ノートも作るんかい。〉 [日々の思い・独り言]

 杉原『憲法読本 第4版』再読は、予定通り年内の了がほぼ確定して安堵している。或る程度の期間、一つの書物に拘泥して様々書込みして向き合ったのは、いったいどれくらいぶりだろう。聖書を終わってから以後は……正直なところ思い出せるものが余りない。強いて挙げれば昨年いま頃の『恋愛名歌集』だろうけれど、こちらが或る程度の期間を要したのは外的要因が専らだから、聖書と『憲法読本』と同列に並べるのは無理がある。
 『憲法読本』の再読が終わったら次はノート──抜き書き、自分のコメント等々の作成になるわけだが、そこでふと、過去の読書を省みた。感想文を書いたりしてきたなかで別個にノートを作っておいた方がよいと考えたものが、たしかあったはずなのだけれど、と。太宰? ノン。ドストエフスキー? ノン。『古事記』と六国史? ノン、ノン。『源氏物語』? 断じてノンですぞ、モナミ! 今後引用しそうな文章を写す? それはよいアイディアだが、別個にノートを作る必要はあるのかな。
 ──ああ、そうだ、と深く呼吸しながらその書物を思い出した。聖書だ。いま、井上洋治『イエスに魅せられた男 ペトロの生涯』といっしょに置いてある。聖書読書ノートの原稿(=本ブログ)を書く際、常に持ち歩いて自宅やカフェで開き、下線を引いたり書込みをした、新共同訳・旧約聖書続編附き。ページの端は丸くなったり手垢で黄ばみ、ノドが割れて修繕し、形崩れした、くたびれた感じの聖書。
 昨日とそれ以前も書いたように、日本語訳聖書で現在流通している訳はその殆どを、時間をかけて手許に揃えた。個人訳は購入をずっと迷っている。代替テキストは新共同訳(引照附きのと、上で述べたのと同じもの)を含めて幾らでもあるのに、この手擦れした聖書を未だ侍らせ、なにかにつけて開くのは、これで読んできた、というノスタルジーと自負に加えて、数多の書込みあるゆえだ。
 下線を引いた箇所、特定の文章や単語へ与えたメモ。それらを一冊のノートに書き写してしまおう。自分の考えや調べたことをアクセスし易くしよう。折につけそう考えていた。
 それを思い出したのだ。時間を見附けて着手したい。時間がかかる。何冊も要る。百も承知だ。なのに、ためらっているのは、なぜ?◆

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第3733日目 〈ぼんやりしている時間があるなら、〈前夜〉を書け!〉 [日々の思い・独り言]

 聖書についていえば、テキストと註釈書は揃えられたのではないか。むろんそのすべてを購うなんてのはあらゆる意味で不可能だ。ここでいうのはあくまでも自分が必要とする、また過去にお世話になって手許にあれば有益だ心強いと感じる、そんな限定された範囲での「揃えられた」である。
 懐に資金の余裕が生まれたら、あと二、三種類の注釈書は買いたいが、それはもはや来年の話だ。当面は、まずは手許にあるものでよい。
 さて、このような状態にあるいま、(それに全力で取り掛かりさえすれば)以前こうしたものを書きたい、と表明したエッセイ案の半分くらいは一ヵ月に一篇程度のペースであげてゆけるのだろう。が、生来の天邪鬼も手伝って現実的にはなかなか難しい。二十代の頃のように一つの分野へのめり込み、本妻がきちんといてそちらへちゃんと帰って愉しみ悦ぶことある一方で、その時々の興味思考関心に(素直に)従って、あっちに手を出しこっちに唾をつけて、っていうのを重ねているいまは、予定や計画を立ててもすぐ崩れ落ちてしまうのが関の山だ。
 されど……それにもかかわらず……聖書の註解書や研究書などが十数年のうちにゆっくりとしたペースで手許に集まってきて、なにを考え、なにを書くにせよ、蔵書の範囲内でまぁ大概の用事は済ませられるようになった現在、わたくしが早急に取り組む必要がある聖書にまつわるエッセイは、といえば、何年も前から進めている聖書各書物の〈前夜〉の執筆に他ならない。就中棚上げしたままの「エステル記」と、旧約の難所(難書?)の一「ヨブ記」の〈前夜〉である。
 執筆というても既に本ブログではいちどお披露目しているゆえまったくの新規原稿ではない。旧約聖書と旧約聖書続編(旧約外典)の一部については過半が改稿──但し、新稿というてよいくらい書き直しているから、「改稿」という言葉の定義も曖昧だ──、新約聖書の全部と旧約聖書、旧約聖書続編の(残りの)一部は再掲となる。細かな字句、表現の修正或いは加除の筆は入ろうが、それは当然の作業といえないか。
 柱はもう組み上がって上棟もできている(とわたくしの目には映る)「エステル記」〈前夜〉と難所ゆえに手を出しかねて結局本文や解説書、註解書の類を読んでばかりいる「ヨブ記」〈前夜〉。この二編を書きあげてしまえば、道は開けたも同然(あわれな魂は解き放たれた。 わたしの前途にはかぎりない希望と 奇跡にみちた時とがある ※)。そこから先の作業がサクサクスイスイ進むわけでは勿論ないけれど、それでもなお──。
 十数年にわたって蓄積してきた書物を死蔵させないためにも、かねての案を具体的な形にして残さねばならぬ。ぼんやりしていることは、許されない。◆

※カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』P249 九月一日条より(草間平作・大和邦太郎・訳 岩波文庫 1973/05)□

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第3732日目 〈「〜と思います」はいらない。〉 [日々の思い・独り言]

 改めて哲学に関心が向き、倫理の参考書や学生時代に読まされたヤスパースやハイデガーを開く気になったその源を辿れば、平山美希『「自分の意見」ってどうつくるの?』(WAVE出版 2023/04)に行き当たる。別ルートで憲法があるが、これはさておき。
 例のリュックへ詰めこんでいつも運搬しているうちの一冊だが、後半にとても突き刺さる指摘があった。実はその指摘こそ、面陳されていた本書をぱらぱら繰っていたら目に飛びこんできた一節でもあったのだ。その一節を以下に引く。曰く、──

 結論を述べるとき、ぜひみなさんに心掛けてほしいことがあります。
 それは断言すること。
 できるだけ、言い切る形で主張してみてください。
 これは、前述したような安易な〝決めつけ〟とは、まったく違います。
 自分がじっくりと考えて出した結論に自信を持つということです。(P203)

──と。「前述したような安易な〝決めつけ〟」とはP195-6「悪い結論」を指す。「悪い結論」即ち「問いも立てず、疑いもせず、考えを深めもせずに判断を下し」(P196)た結論である。
 結論を述べる際はできるだけ、言い切る形で主張(断言)して、その結論に自信を持つ。
 フランスの学生はレポートや論述試験、おそらくは日常の会話、議論でも「わたしは〜と思う」式の表現はしない、という。
 (きちんと手続を踏んでなされた引用以外は)あなたが思うたことしか書かれていない、話されていないのだから、わざわざ「わたしは〜と思います」なんて書いたり話したりする必要はない。あなたの発言はすべて、あなたが思うていることなのだから。
 著者曰く、──

 フランスの哲学教育でも、生徒一人ひとりにきちんと「結論」を出すことを求めています。また、哲学の教科書にも、「最終的には自分の出した結論を受け入れ、その結論に責任を持ちなさい」と書かれています。こうした教育を受けているため、フランス人は、自分で考えて出した結論を堂々と主張し、断言できるのでしょう。(P204)

──と。
 自分が出した結論を受け入れろ。その結論に責任を持て。なによりも、考えた上での発言なのだから「〜と思います」は不要。
 パウロじゃあないが、目から鱗、である。「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」(使徒9:18)
 以前にもどこかで、文章に「〜と思う」は使うな、とあるのを読んだ。自分の発言に自信がないことの表れであり、醜い責任回避でしかない、と。
 冷水を浴びせられた気分だった。自分がこれまで書いた文章を、手当たり次第に検めた覚えがある。──なんと「〜と思う」で埋め尽くされた文章であったことか。スティーヴン・キングの、副詞を警戒する文章をどうしても思い出してしまう。地獄への道は副詞で舗装されている、とキングはいう。続けて、──

 別の言い方をすると、副詞はタンポポである。芝生に一つ咲いている分には目先が変わって彩りもいい。だが、抜かずに放っておくと、次の日は五つ、また次の日は五十、そのまた次は……と切りがない。しまいに芝生は、全面的に、完全に、淫蕩に、タンポポに占領されてしまう。タンポポは雑草だ、と気がついた時は、悲しいかな、もはや手遅れである」(『小説作法』P141-2 池央耿・訳 アーティストハウス 2001/10)

──と。
 以来なるべく使わないように、と心掛けてきたが、なにかの拍子にどうしても、ね……。情緒的なものや小説ならば必要最低限の範囲で用いるのは仕方ないとしても、読書感想文や硬質な文章は「〜と思う」を回避する手立ては幾らでもあるはずだ。
 ちか頃はだいぶ減って、検めても殆ど見ることは少なくなった推定絶滅語彙だが、やはり油断すると使ってしまう。どう書いてこの原稿──エッセイを〆括ろうか、と考え倦ねているときすぐ思い浮かんで安易に使い、なんとなく〆括れてしまうのが実は、「〜と思うのである」の書き方なのだ。文章がなんとなく形を調えたように映ってしまう。まぁ、錯覚してしまうんですね。──われながら軽薄な解決手段であるなぁ、と嘆息せざるを得ない。
 もう「〜と思う」は使わない。
 第一稿でこれが使われたら、考え抜いて代替語(※)も見附からぬような本当に必要な場合──考えに考え抜いた挙げ句、これしかない! 「思う」以外はあり得ない! という場合──を除いて、これを徹底的に駆逐、殲滅する。胸に刻みこもう。
 平山美希のこの本を読まなかったら、「〜と思う」と縁を着る決心は、まだ先だったかもしれない。◆

※「I think」の直訳としての「わたしは〜と思う」ばかりでなく、feel、suppose、deem、considen、believe などその場により相応しい「〜と思う」の類義語を念頭に置いているが、いずれにせよ日本語のボキャブラリーを試される作業であるのは間違いない。□



「自分の意見」ってどうつくるの?

「自分の意見」ってどうつくるの?

  • 作者: 平山 美希
  • 出版社/メーカー: WAVE出版
  • 発売日: 2023/04/12
  • メディア: Kindle版



書くことについて ~ON WRITING~ (小学館文庫)

書くことについて ~ON WRITING~ (小学館文庫)

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2022/06/03
  • メディア: Kindle版




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第3731日目 〈心情告白──今年の秋冬も、本を買いすぎた。〉 [日々の思い・独り言]

 今年は……ちょっと本を買い過ぎました。否、今年は、ではなく秋から今月に掛けては、というのが正解。それこそ反省を深くしなくてはならない程に。
 歯止めが効かなくなった? いえ、それは違う。
 己の興味関心趣味勉強に関する書籍が昨年までとは比べものにならぬくらい多く、それまでよりも安価で市場に供給されたからに他ならない。
 その核の一つとなるのが、既に本ブログでも話題にしたことがあるフラウィウス・ヨセフスの著作群。単行本と文庫版のすべてとヨセフス伝、ヨセフス研究所の基礎文献を、それぞれバラで購入できたことで(振込手数料と送料を含めたとしても)件の全巻揃いよりもぐっと安価に買い揃えられた。また、一ヵ月程思案した挙げ句にその後、死海文書の既刊全巻揃いも清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入。先程まで、別の所で買った死海文書解説書二冊と併せて一通り目を通していたところである。ヨセフスと死海文書だけで積みあげれば一メートルを超えるてふ事実は内緒にしておこう。
 他には? 北村薫の作品に触発されて読みたくなったが架蔵する文庫には収録されていない短編を収めた芥川龍之介全集(ちくま文庫版)を購入し、憲法を中心にした法律の本と、バカロレアでの哲学学習を書いた本から地滑りして学校を卒業してからトンと御無沙汰していた哲学の本、加えて勿論(ヨセフスと死海文書以外の)キリスト教と聖書に関する本を購い、ミステリ評論やミステリ小説、SF小説を殆ど一年ぶりに買うようになり、そうして『ラブライブ!スーパースター!!』のムックと同人誌に手を染めた(いと幸せなり)。
 ……注ぎこんだ金額は、ですって? 買った本についてはすべて記録しているが(購入日・購入書籍・購入場所/手段・価格[税込]はちゃんと控えているのだ)、その合計額となると──怖くて電卓を叩く気になれないし、仮にそれができても披露はしたくない。
 積ん読山脈はますます標高を高くしてゆく。それを解決するために、部屋の隅っこに置けるような小さな本箱を幾つか買う手筈を整えたところだ。とはいえ、焼け石に水、かなぁ……。
 それにしても、自分が寄贈を受ける立場にないことが幸福である。身銭を切って購入した本以外で仕事とか勉強できたりする<評論家>や<プロ作家>の方々のような、なにかを切り詰めてでも本を買う苦労と幸福と向学心とは無縁になってしまった連衆の同類にはなりたくない。
 自分で中身を吟味して、自分の収入で購入してこそ……と思うている。その結果が、上で告白した購入書籍群である。◆

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第3730日目 〈みくらさんさんか運営ブログ「Let's be Friends,」休日に関する私法」、公布の告知。〉 [日々の思い・独り言]

令和5/2023年12月8日(金)午前2時00分 公布
令和6/2024年1月1日(月)午前0時00分 施行

 【前文】
 整理しておきたい。明文化して一覧にすることがなかったからこの機会に、だ。みくらさんさんか運営ブログ「Let's be Friends,」(以下「本ブログ」)の休日について、以下のように定める。

 【通常休日】
 以下のように定める。
 1月に計二日間、
 4月に計二日間、
 5月に計一日間、
 6月に計二日間、
 7月に計一日間、
 10月に計二日間、
 11月に計一日間、
 12月に計一日間、
 以上、年間合計十二日間の休日(これを「安息日」と称することがある)を設ける。但し特定の日附を定めてこれを固定しない。
 上記の如く通常休日の日数を定めて、本日令和5/2023年12月8日(金)午前2時00分に是を公布した。令和6/2024年1月1日(月)午前0時00分より是を施行する。

 【臨時特別休日】
 上記通常休日以外で、体調不良や入院を余儀なくされた場合とその期間(予後を含む)、冠婚葬祭等によって更新お披露目が程度に拠らず困難な場合は、是を臨時特別休日として扱う。
 及び出産その成長に伴う慶弔事に関しても都度臨時特別休日として是を扱う。
 生誕及び逝去に伴う年間の通常休日に増加がある場合、事前の告知を以て追加変更を認める。
 以上、三項について告知の時期は特に是を定めない。
 冠婚葬祭の「葬」を除いて臨時特別休日を実施する場合は、当日を含む事前の告知を必要とする。「葬」に於ける臨時特別休日の採択と告知に関しては、期間を定めない事後の告知等を追認する。
 なお、上記以外の予期せぬ事態が出来した場合は、期限なき事後の告知を以て臨時特別休日として是を扱う。

 【補則】
 上記通常休日及び臨時特別休日の規定に関して、何人からも一切の干渉は許されない。
 又、第三者による本ブログへの干渉及び中傷非難差別人権侵害他を拒絶する権利をブログ運営者みくらさんさんかは保有するのみならず、当該行為他が健康的文化的生活に著しく支障を来す或いは人権保障の観点から逸脱すると判断した場合、司法その他該当機関に知り得る当該人物(団体を含む)の全情報を開示して一切の対処を委ねる可能性がある。
 「本ブログ休日に関する私法」はその文章や内容等全般に関して必要と認める場合、改訂修正補筆等を行いながら半永続的に是を適用してゆくものとする。

 【目的】
 休日(安息日)の採用に関して曖昧に運用していた点を反省、是まで自分のなかでだけはっきりしていた休日採用基準を明文化することで、今後の円滑なる本ブログ運営の一助とする。
 又、今後様々なトラブルを回避することも、今回の明文化及び公布・施行の目的の一である。

 【結語】
 主語はすべて「わたくし」みくらさんさんかである。
 而して本稿は真面目にして戯作也。◆

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第3729日目 〈『憲法読本』のあとは、なにを読もうか?〉 [日々の思い・独り言]

 毎度の登場で申し訳ないが呆れず笑って済ませてほしい。
 杉原泰雄『憲法読本 第4版』の再読はいよいよ最終コーナーへさしかかり、夢想としか考えられなかった年内読了も現実になってきた。これを基にしたノートは年初から取り掛かる。そんな現在、心の片隅に生まれてわたくしをワクワクさせるのは、次はなにを読もうかな、っていう企みに外ならない。
 ざっと目を通したのみながら芦辺信喜『憲法 第六版』(最新の第八版、『ポケット六法』令和六年版と一緒に買いました!)と、高見勝彦・編『あたらしい憲法のはなし 他二篇』のあとに手を着けたこの『憲法読本』は、とても読み応えのある一冊だった。
 で、次はなにを……なのだが、ここまで岩波書店の刊行物が偶然とはいえ並んだので、井上ひさし・樋口洋一『「日本国憲法」を読み直す』、小関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』、鵜飼信成『憲法』のどれかを……と調子附いたがすぐ反省。いまの自分の脳力(「能力」の誤変換だが、言い得て妙なのでこのままにする。呵々)そのレヴェルを鑑みて、あと回しに。
 だが、歴史や、もうすこし突っこんだ憲法論ではなく、もっと平易な憲法解説を読んで『憲法読本 第4版』再読の熱を冷まそう、とだけは決めてあった。となれば、架蔵するうちから該当するのを選ぶと──池上彰の二冊が必然と浮上してくる(というよりも、それくらいしか、ない)。
 『池上彰の憲法入門』(ちくまプリマー新書)と『君たちの日本国憲法』(集英社文庫)を以て熱冷まし役とし、また、これまでの読書で得た知見の確認と新たな意見・疑問をピックアップする作業を行いたい。池上は他にも憲法に関する本を出しているが、上述の二冊で見解は尽きている、というのがわたくしの偽らざる感想だ。
 斯くして次に読む、そのまた次に読む憲法の本は、決まった。並行して(これまで通り)渋谷秀紀『憲法を読み解く』と本秀紀・編『憲法講義 第3版』、そうして肝心要の『日本国憲法』(岩波文庫・白帯──またもや岩波!)をちょこちょこ開きもしながら、しっかりと憲法について勉強してゆきましょう。
 ……そろそろ判例集、買った方が良いかなぁ……。◆

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第3728日目 〈きょう買った本──ルソー『社会契約論』。〉 [日々の思い・独り言]

 憲法の勉強をしていれば否応なく「国民主権」について考えることになる。
 日本国憲法は第一章第一条「天皇の地位・国民主権」で「(天皇の地位は)主権の存する日本国民の総意に基く」と定める。
 「総意」とは「人民の意思」。日本国憲法に於いて人民とは、「政治に参加できる年齢に達した成年者の集まり」((杉原泰雄『憲法読本 第4版』P185)を指す。「政治に参加できる年齢に達した成年者一人ひとりのことを市民(citizen, citoyen〔仏〕)とか公民とかよぶこともありますが、主権者のとしての国民はその市民の集まりとしての人民を」(同P186)いう。
 では「総意」を「人民の意思」と定義したのが誰かというと、フランスの教育学者で思想家のジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)である。政治哲学の著書に『人間不平等起源論』と『社会契約論』がある。
 この『社会契約論』でルソーは、「総意」とは「人民の意思」なり、と定義した。
 ──成る程、と膝を打った。
 聖書やキリスト教、或いは法学を趣味で勉強していると、自分に欠けていた領域が明らかになってくる。そうして、本を読んだり調べたり人に会って話したりして知っていることも知らなかったこと(教科書レヴェルでしか知らないことを含む)も、なにかをきっかけにしてそれぞれが結びついてきて、新たな扉を提示し開く後押しをしてくれる。
 この場合、近代市民憲法の礎ともなった人権宣言に興味を持ち、本文中に必然のように登場するモンテスキューやホッブス、ルソーへのアプローチを考えるようになった。法学を初めて学ぶ人向けの本や、或いは法哲学の本をぱらぱら目繰っていても、かれらは必ずというてよい程登場する。教科書や世界史事典の類に載る程度でしか知らないかれらのことを、もっと知りたくなるのは(少なくともわたくしにとっては)自然な流れであったのだ。
 わたくしの性癖なのかもしれぬが、こうした場合採る手段は、それを解説した本ではなく真っ直ぐにかれらの著作へ向かい、丸ごかしに読んで頭が沸騰したところで解説本に手を伸ばす、という、近道なのか遠回りなのかよくわからぬものだ。はい、今回、ルソーの場合もそうでした。
 「総意」を定義した箇所をこの目で確認したい。法律の制定を議会に白紙委任している(イギリス)国民が自由であるはずがない・議会に自分の運命を委ねてしまっているイギリス人は選挙のときを除けば奴隷といわざるを得ない、という箇所も、この目で確認したい。どのような文脈で指摘されているか知りたい。
 シャープペン片手に杉原『憲法読本』を読み進めるうち、その思いはゆっくりと強くなっていった。どこの文庫で読めるかを調べた。翌日、みなとみらいの本屋さんで逡巡した後に買い物カゴへ入れたのは、光文社古典新訳文庫版『社会契約論』とその前著になるらしい『人間不平等起源論』(いずれも中山元・訳)だった。岩波文庫版も迷ったけれど、明日以後の買い物にしよう。
 帰りの電車のなかで『社会契約論』を開いた。憲法の勉強をする傍ら幾度も開くことはあっても、本格的に読み出すには時間を要すだろう。挑み甲斐のある著作なのは間違いない。
 鉄は熱いうちに打て。読書ペースを少しばかり上げて、ルソーに取り掛かれるようにする。◆



社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle版




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第3727日目 〈5キロのリュックを背負って、外出先で勉強する。〉 [日々の思い・独り言]

 読み返してみて、やはり半分以上寝ながら書いた原稿には、非道い部分が目立つ。誤字脱字の類は当然、すこぶる文意の通らぬところもあったりして、反省頻りだ。昨日第3276日目はなるべく早く必要最低限の修正を施すことにしよう。
 さて、本日の話題だが、──
 
 悪化の一途を辿っていた陥入爪の手術はぶじに終えて、恐る恐る靴下を履くことからも、出掛けにガーゼとテーピングで徹底ガードすることからも、ようやく解放された。まだ痛みを感じたり、化膿止めの薬のお世話になっているけれど、年内に治療は終わりそうなことを喜んでいる。
 とはいえ、いきなり行動範囲が広がるわけではなくて、却って自分の行動範囲の狭さと回遊先が固定されていることを実感して、呆れるより外ない。
 ついでにいえば、リュックへ詰めこむ荷物も日によって変わるようなことはなく、多少の入れ替えがあるが精々だ。今日は憲法、明日はホームズ、明後日は英語多読、明明後日は聖書/キリスト教、その次の日は……という具合。もっとも、こうまであからさまに内容が変わることはないけれど。──読者諸兄は、慢性腰痛持ちにもかかわらず5〜6キロの荷物を詰めたリュックを背負って外出しているのだ(MBAもありますから)、その外出先でその本を使った勉強等々をしているのだ、とだけ知っていただければ結構です。
 ところでその憲法だが、例の杉原『憲法読本 第4版』の、シャープペン片手にした再読は基本的人権の項目を数日がかりで読み果せ、今日は議会制民主主義の項を読んだ。残りは100ページにも満たない。かりに何事かがあったとしても生命にかかわるようなことがない限り、『シャーロック・ホームズ・バイブル』とイケナイ・アダルティーな小説の感想文初稿に着手できなかったとしても、本書の再読作業だけはどうにか終わらせられそうだ。
 今日の再読を済ませたあと、関心を深く持った点(国政調査権、ルソーが『社会契約論』で述べたこと)について、持参していた本秀紀・編『憲法講義 第3版』と渋谷秀紀『憲法を読み解く』の当該ページへ目を通し、白水uブックス版『社会契約論』をぱらぱら目繰って過ごした。
 一冊の本を広げたままもう一冊を開いて読み較べたりするのは、或いは並べて相互補完させるには、電子書籍は不向きだと思う。端末をその分持ち歩くなら話は別だが、それはウリの一つである携帯性を放棄するに等しい。使い勝手は極めて悪そうだ。電子書籍の利点をまるで活かせていないようにも思うし……バッテリー切れやふとした拍子の落下破損の心配もありますね。『憲法読本』のような線引き、書込みも端末のよっては難しいですからなあ。最後に勝ち残るのはアナログである、ということか。
 とまれ、複数の本を並べ置いての勉強や、直接書きこむような読書のときは電子書籍は全く以てその存在利点をことごとくデメリットに変える、無用の長物、というのが実体験に基づくわたくしの(現時点での)結論だ。
 と、こんな風に本を運んだり、読んだりしているときに脳裏を過ぎり、わたくしを支えるのがアメリカの、殊ハーバード大学の学生たちの学習スタイルである。引用と要約をして、筆を擱く。

 ○要約
 【ハーバード大学生の読書について】
 かれらの読書量は1週1課平均200-250ページ、1学期中に無理なく受講できるのは4課目が限度といわれるから、毎週平均1,000ページを読むことになる。ゆえにかれらはどんな場所でも寸暇を惜しんで本を読む。
 教員が指定テキストを優しく噛み砕いて解説してくれる日本の大学と違って、ハーバードでは指定した文献を読んできていることを前提に講義を進められる。しかもディスカッションを中心とした講義スタイルだ。つまり、毎週平均1,000ページを読んでいないと講義についてゆけない。
(下村満子『ハーバード・メモリーズ』P70-74 [PHP文庫 1990/10])


 ○引用 いずれもスコット・トゥロー『ハーヴァード・ロー・スクール』(山室まりや・訳 ハヤカワ文庫NF 1985/04)より
 【ハーバード・ロー・スクール生の予習】
 週末を通して、ぼくは大いに勉強した。あの夜の救いがたい無能さの自覚を、ふたたび味わいたくなかったからだ。刑事法と契約法の宿題として出されたテキストの章を入念に要約し、そのあと、ペリーニが調べるように命じた二つの事件を、何度も読み返した。そして一語一語熟考し、あらゆる角度から調べたりしながら、二件に関する細密な判例メモを作成した。授業で指されたときの答えのリハーサルもやった。法律辞典も充分調べ、しまいには、オピニオンに出てくる重要な法律用語の定義をすっかり暗記してしまったぐらいだ。ペリーニについてはこれで大丈夫。万全の構えはできた。
(「登録──敵との出会い」P44-5)


 【アメリカ法学部生のふだんの勉強】
 肩にかついだしん玄袋ふうのナップザックに、千四、五百頁もある判例集を数冊詰め込んで、教室から教室へと移動するのが、アメリカの法学生の姿だが、宿題に追われて、オチオチ新聞も読んでいられない彼らからみれば、教養を積む暇も、人によっては遊ぶ暇さえある日本の法学生がふしぎに映るかもしれない。アメリカのロー・スクール図書館は、午前八時から夜半まで開いている。ハーヴァードでは土曜は午後六時まで、日曜は午後一時から開くというのが、以前は一日中開いていたというから、学習の圧力のすごさがしのばれる。
(山室まりや「付記/日・米法学教育事情の比較」P303-4)


──以上。
 そういえば、小沢一郎衆議院議員が学生時代に使った憲法テキストへの書込み写真も、影響しているか(佐藤章『職業政治家 小沢一郎』P247 朝日新聞出版 2020/09)。◆

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第3726日目 〈「健康で文化的な最低限度の生活」をこの部屋で営むために。〉【改稿版】 [日々の思い・独り言]

 その部屋には積ん読山脈と呼ばれる連峰がある。最大標高一メートル八十三センチ、最も低いところでも八十数センチの、いつ頃隆起を始めて現在のような景観を築いたのか、部屋の主さえ知らぬ連峰だ。
 積ん読山脈の西側の、最大標高を誇る文庫とA5版コミックスが混在する山にもたれかかる形で聳える、こちらはコミックスだけの山(標高一メートル六十二センチ)であるが、これが近年の調査で倒壊の恐れありと診断され、倒壊の際は隣接した、連峰を構成する山々を巻き添えにして崩落、部屋の様相を一変させる事態となるてふ予想が発表された。
 斯様な報告を受けた部屋の主は遂に重い腰をあげて、そのコミックス山の手入れにかかったのだった。日曜日の夕刻、夕食の仕度と並行してのことだ。それに併せて、書架のコミックスを放りこんである棚も整理し始めた。
 ──積ん読山脈の手入れは以前から考え、焼け石に水的な片附けは行ってきたが、いよいよ根本的な整備が必要になったのである。
 まず着手したのがコミックスだけで構成される山であるのは述べた通りだが、どうしてここから始めたかというと、理由は二つある。構造上これが倒壊したら付近を巻きこんで本崩れを起こして床が見えなくなるであろう事態を回避するためが一つ。
 もう一つは、今後急増するコミックスの置き場を作るためだ。このタイミングで着手したのは、こちらの理由の方が大きい。なにしろこちらはあと数日後に増加するのが確実なのだから。
 どうして急増するのか? むかし手放してしまった作品の全巻揃が安価で売られているのを発見、気附くと購入手続を行っていたからに外ならない。作品としては四作なれど、全巻揃いとなるとトータルすればその冊数、七十冊を超える。置き場所を作るのは「待ったなし」の状態なのだ。片附けねばならぬ事情の正体、ここにあり。

 「健康で文化的な最低限度の生活」をこの部屋で営むため、部屋の片附けをした。コミックの群れを本来の棚へ放りこみ、また独身時代のベッドの宮台に移動させた。
 「あ、こんなコミック買っていたんだ」とか「てっきりもう処分しちゃったのかと思ってた〜」とか、況んや懐かしさ半分悦び半分で作業のてを休めてしばし読書に没頭することが避けられたことを、幸運に思うことで自分を慰めよう。◆

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第3725日目 〈日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 自分に宿題を課した手前──でもないけれど、けふ、日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』(と、モーリーン・ウィティカー『シャーロック・ホームズとジェレミー・ブレット』高尾菜つこ・訳/日暮雅通・監修 原書房 2023/11)をL.L.Beanのリュックに詰めこんで、いつものスターバックスなう。
 二杯目のコーヒーを飲みながら、セミドライトマトのピザトーストを頬張りながら、『シャーロック・ホームズ・バイブル』(以下、『SHB』)へ目を通す……いつものように適当なページを開いて、蕩けた表情で、鼻の下をすっかり伸ばして。
 今日は第一章を、頬杖ついて読んだ。ホームズが生きたヴィクトリア女王の御代(ヴィクトリア朝)の、ロンドンとイギリスの社会情勢やホームズ物に登場するファッション、職業、貨幣価値、飲食、警察、鉄道、郵便、などなどが、当時の出版物からのイラスト、写真、地図を適所に配して、実にわかりやすく説明されている。
 ヴィクトリア朝イギリス、帝都ロンドンについて、その社会情勢を含めて知るところがなくても名探偵シャーロック・ホームズの活躍は楽しめる。ごもっともな意見だ。わたくしも始めはそうだった。所謂ビギナーズ・ラックの読者であれば、それでよろしかろう。
 が、名のみ知られて詳細が語られない事件や、物語に登場する各種アイテム、そうしてなによりも〈影の主役〉たるロンドンという町、イギリスという国そのものに興味関心があり、また各出版社から出ているホームズ全集を買い揃えてあれこれ読み較べたり、原文で読んでみようと洋書へ手を伸ばしてみるくらい〈ホームズ沼〉へ沈みかけている人は、かならず、遅かれ早かれ、ヴィクトリア朝期の社会風俗の知識を自ずと求めるようになってゆく──勿論、すっかり沈んでシャバへの復帰が困難なレヴェルの重篤患者も、既知の知識を上書きしたり修正したり、或いは未知の知識を獲得する行為に余念がないはずだ──。ここまで来たら、物語の舞台を訪う聖地巡礼まであと一歩。……ようこそ、こちらへ。歓迎しよう。
 こんな風に一歩踏みこんだ楽しみ方、読み方をするようになったとき、知りたいことを正確に、簡潔に、発展的に(ここ、重要!)教えてくれる役目を、本書は果たす。
 質と量を備えた蔵書(資料)を手許へ置いていつでも自由に自在に扱える者でなしに、これだけの使い勝手よく資料としても読み物としても愉しめる大著を物すのは難しい。では、いったいそんな本を書いた人の蔵書とは、どのようなものか。
 答えは──というかその一片は──『絶景本棚』てふ本にあった。『本の雑誌』巻頭カラーページの連載をまとめた本棚紹介本(ミもフタもない説明だな)だが、ここに著者、日暮雅通の本棚──蔵書──仕事場奥の書庫──が載る。この仕事場奥の四畳の書庫、本棚七棹をホームズ本とヴィクトリア朝本が占拠する。当然すべて洋書。これだけの資料を私蔵してこそ『SHB』は相当に濃ゆい充実度を誇り、また、日暮が訳筆を執った光文社文庫版ホームズ全集と各社から出ているホームズ・パスティーシュ、或いは今朝の新聞一面に広告があったヴィクトリア朝本の監修に結実するのであろう。
 こんにちの日本に於いて日暮雅通は、北原尚彦(『シャーロック・ホームズの建築』、ホームズ・パスティーシュの著作あり)と並んでホームズとヴィクトリア朝期に関する仕事を信頼してよい御仁というのを、本書と書庫の写真が証明している。

 ところで──『SHB』の読書感想文、わたくしは本当に書けるんですかね? 愛が大きいと却ってなにもできない性格が、ここでまた弊害をもたらそうとしている……。◆



シャーロック・ホームズ・バイブル 永遠の名探偵をめぐる170年の物語

シャーロック・ホームズ・バイブル 永遠の名探偵をめぐる170年の物語

  • 作者: 日暮 雅通
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2022/10/18
  • メディア: Kindle版



絶景本棚

絶景本棚

  • 出版社/メーカー: 本の雑誌社
  • 発売日: 2018/02/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



シャーロック・ホームズとジェレミー・ブレット

シャーロック・ホームズとジェレミー・ブレット

  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2023/11/27
  • メディア: 単行本




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第3724日目 〈新しい一ページ目に悩む。〉 [日々の思い・独り言]

 いつもと違う心持ちでいる。為、ふだんならしないことをしてみた。背筋を伸ばして歯を喰いしばり、腕を組んで窓外を睨み黙考する。不定期に襲ってくるその時間が、約一年半の時を隔てて到来して、再びわたくしの気持を重くしてまた胸躍らせる。
 諸人よ、わがために喝采せよ。新しきモレスキンの始まりである。この処女地に初めて足跡を残す愉悦!
 なにを書けばよいか迷い、考えあぐねて、結局はお読みいただいているこの文章と相成った次第だが、ノートを跨ぐことなきエッセイなればこその悩みというか、思案といえる。
 これが小説ならば? 前のノートの最終ページもしくは表3でその場面が切りよく終わっても、作品それ自体は旧いノートから新しいノートへ跨いで引き継がれる。長編を想定するが、短編であってもじゅうぶん起こり得る事態だ。とまれ、そこに断絶はない。研究論文もこのパターンに含めてよいか。
 が、エッセイの場合、「ノートが切り替わる = 一つの読み物としての断絶」と考えてよい。詩も、コラムも、同じだ。短い読み物はどうしてもその弊を免れることが難しい。宿命、とは大げさか?
 斯様に物理的断絶あるゆえに新しいノートを開いても、さてなにを書こうか、と考えてしまう。最初から話題が決まっていたり、腹案があるならば考えこむ必要もないけれど、その、ほら、本ブログは案外と(?)行き当たりばったりなところがあるからさ。
 こゝろに移りゆくことをそこはかとなく書きつけるのは常なれど、殊それが何冊目かのモレスキン最初のページに残される文章となると、ふだんとはまた少し違う心持ちになり、気負うてしまうのである。──仕方ないよね。◆



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第3723日目 〈ガンジーからKipper少年へ。〉 [日々の思い・独り言]

 ラダー・シリーズLV1『ガンジー伝』(The Gandhi Story by Jake Ronaldson)を読み終わった。途中ちょっと日が開いたので一念発起、最初から最後まで、生理現象を除いて中断することもなく半日を費やして。
 嘘偽りなく、『ガンジー伝』は面白かった。
 世界史や倫理の教科書の記述以上のことは知らなかった〈インド独立の父〉ガンジーの生涯、理念、行動、勇気について識ることができたから。易しく書かれたとはいえそれを英文で吸収することができたから。それによって面白さはより増して、自分のなかにしっかり刻みこむことができたから。
 白状すれば、ワードリストに頼ったのは十回や二十回じゃ利かない。いまではそれが却って、良かった、と思うている。「わからなければ飛ばす」が英語多読の原則(の一つ)とはいえ、単語がわからないからとて飛ばす箇所が多ければ、伝記やノンフィクションと雖も内容を摑むことなんてできまい。だったら一回(一冊)くらいは開き直って、徹底的にワードリストを使い倒して「訳せないけれど、わかる」(繁村一義・酒井邦秀『英語多読』P75 アルク 2018/07)状態に自分を持っていってしまった方が、後々のことを考えれば遙かに楽ではないか。
 ともあれ、一冊を読み切ったときの達成感と高揚感は、よく知らなかったモハンダス・カラムチャンド・ガンジーの生涯に通じることのできた満足と相俟って、なににも代え難い悦びをわたくしに与えてくれたのである。

 それを祝い寿ぐのが本来かもしれぬ。が、実は、そんな気分にはなれないのである。
 斯くの如く『ガンジー伝』を読み終えて意気軒昂と次の本(Run, Melos, Run by Osamu Dazai)へ向かおうとして、踏み留まった。──も少し易しいものを、多量に読んでみたいな。
 そこで脳裏をかすめたのが、古川昭夫他『英語多読入門』だった。購入動機の一つでもあったのだが、本書第3章「英文を実際に読んでみよう」は多読の初期段階の人へオススメのシリーズから一冊、もしくはその一部を載せており、どの物語を自分は読める、読みやすいと感じたかによってその後の読書の指針を得られるようになっている。
 たとえば最初の「The Jumble Sale」はYL(読みやすさレベル)は0.3、総語数81語のLeveled Readers(LR)で、Oxford Readers Tree(ORT)のStage3の一冊。古物市に不要品を出品したKipper少年と家族にフォーカスした日常系エピソードが、シンプルな英語の文章とユーモラスなイラストで綴られている。
 次の「It’s Natalie Nevada!」はYL0.6、総語数5,300語のGrated Readers(GR)で、Building Blocks Library(BBL)のBBL5の一冊。憧れの歌手Natalie Nevadaが町にやって来るのを知った少女Amyがレモネードを作って販売したお金でチケットを買おうと奮闘する、Self Helpと友情のストーリーである。
 両方とも、一読すぐにストーリーも台詞もわかる一篇だ。でも、どこかで(全部ではないが)日本語の文章に置き換えている自分がいる。けれども──二回目、三回目、と繰り返し読んでいると、英語を英語のまま(なんの疑問もなく)読んでいることに気附き、日本語に置き換えるのではなく「あ、英語だとこういう表現になるのか」と合点している自分を発見したのである。同じ表現、同じ単語に何度も接しているうちに、そんな「わかった」体験を積み重ねていたのだ。
 『英語多読入門』第3章には上記二作以外に、冒険物語「The Cave」(FRL LV2)、「The Sheep Station」(FF LV8 ──下から二番目のレベル)、「Hotel Casanova」(chapter 1-2 CER LV1)、「The Three Musketeers」(chapter 1-2 MMR Beginner Classics ──『三銃士』!)が収録されており、嬉しいことにこれらを朗読したCDが付録についている。
 上述「The Jumble Sale」を収めたOxford Readers Tree(ORT)は、Kipper少年一家を中心に据えた日常系エピソード(Stage1-4)と、Kipperと飼い犬Floppyを中心にしたファンタジー風味の冒険物Magic Keyシリーズ(Stage5-9)がある。そのStage1はwordless、つまり表紙にだけ文字があって物語自体はイラストで展開される絵本になっていて、読んでいて(見ていて?)とても愉しい。洋書を扱う大きな新刊書店にて6冊パックで売られている。こちらについては多少なりとも思い入れがあるので、後日改めて述べことに決めている。
 
 いまはつくづくしみじみ思う、過去の栄光その残滓を潔く振り捨てて、英語の多読を始めてよかった、と。
 これは来年秋からを予定しているシェイクスピア読書マラソン、今後の聖書読書は勿論、ありとあらゆる場面でその効果を発揮するはずだ(いや、別にシェイクスピアの戯曲を原語で読もう、と企んでいるわけではありませんが……)。
 しばらく虚心坦懐に多読に耽り、いつか再び──多読を始めるそもそもの原因となった─Ursula K. Le Guin『VERY FAR AWAY FROM ANYWERE ELSE』が昔のように読めたら、こんなに嬉しいことはない……勿論ホームズもキングもエミリもね。あと、レスターの怪談集も。◆



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第3722日目 〈北村薫「続・二銭銅貨」を読む前に。〉 [日々の思い・独り言]

 その本をパタリ、と閉じた。
 なぜか。或る感覚を覚えたのだ。前にもこんなことが、確かにあった。
 横濱を舞台にした欠伸が止まらぬくらい退屈な連作小説を読み棄てて、今季二冊目の北村薫、『雪月花』のあと『遠い唇 北村薫自選 日常の謎作品集』(角川文庫 2003/09)を読んでいる最中に覚えた、その感覚。
 やがて、最近はすっかり働きの鈍くなった灰色の脳細胞が答えを出してくれた。すべては、その感覚を覚えたときに読んでいた、「続・二銭銅貨」に原因していた。
 江戸川乱歩の短編「二銭銅貨」に材を取ったのが、「続・二銭銅貨」。「続」とあっても実際のところ、後日談というべきか、真相解明篇と呼ぶのか、よくわからぬ。
 乱歩の来訪を「私」が受ける場面で覚えた、前にも抱いた感覚の正体に思い当たったのは、後半へさしかかろうとするあたり──それは、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』所収「D坂の殺人事件」(草稿版)を読むときのそれに、よく似ている。
 即ち──乱歩の書いた正篇を読んでから、取り掛かれ。正篇とは「D坂(草稿板)」の場合、人口に膾炙した決定稿である。北村の場合は、新潮文庫なり光文社文庫版全集──否、暗号の誤りが訂正された、著者が本文に採用している創元推理文庫の「二銭銅貨」(『日本探偵小説全集 2 江戸川乱歩』)を先に読め、だ。わたくしは素直な読者だからね。
 「二銭銅貨」を読んだのはずいぶんと前になる。筋らしい筋はもう覚えていない。ただ日本初の暗号小説てふ惹句のみだ、覚えているのは。ならば「D坂」同様、いまが再読の好機ではないか。
 以前あったことが、いま再び。その感覚に従う。だから。
 その本をパタリ、と閉じた。◆










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第3721日目 〈やっておきたいことは? って訊かれても。〉 [日々の思い・独り言]

 かつての同僚(先輩)とランチする約束をして、お店の予約もぶじ終えて気附いたこと──今週からもう12月なんだね。マジか、と口のなかで叫んでしまいました。
 そうか、そのせいか。先刻まで一緒にいた人から、今年中にしておきたいことってある? と訊かれたのは。そうか、成る程。合点した。
 なんと答えたか、覚えていない。ありきたりの返事だった気がする。未納の税金(4期分)を払っちゃいたい、とか、確定申告の準備を始めたい、とかね。咨、なんて芸がない……。
 それはともかく。
 改めてこの質問を考え答えるならば──シャープペン片手に(まだまだ)読書中で、例によって例の如くの杉原泰雄『憲法読本 第4版』の再読は終わらせておきたい。ノートは来年になろうとも、再読はなんとしても今年中に。
 (昨年のいま頃はなにを読んでいたんだっけ、とモレスキンのノートを繰ってみたら、萩原朔太郎『恋愛名歌集』であった)
 『憲法読本 第4版』再読了ンヌ以外であれば、家庭のこと不動産業のことを別にすると、いちばんに思い浮かぶのは積んである小説を一冊でも多く読み捨てることだがこれは、目標とするには値せぬ。となると、いま思いつくのは、絶讃棚上げ中の読書感想文二つ(日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』と、イケナイ・アダルティーな小説)の第一稿完成と、……あれ、それだけ? なんだか随分と慎ましい残り一ヶ月間の抱負だな。英語の多読もヨセフスの通読も、勿論行うけれど、敢えて「目標」と声高に宣言するものでもないし。
 今日(昨日ですか)、川崎の丸善で買ったジェレミー・ブレットの本と、劉慈欣『三体』三部作プラス前日譚は年末年始のお楽しみである。『推しの子』と『その着せ替え人形は恋をする』共に既刊分全巻一気読みは、年末になる前にしてしまいそうな予感がしている。
 一日、なにもしないでひたすらワーグナーに心ゆだねてどっぷり浸り法悦に耽りたいとも思うけれど……これはチョット実現が難しそうだ。なにしろ《ワルキューレの騎行》が流れた途端、積ん読山脈が轟音立てて崩落したからなあ(実話です)。
 ああ、いやいや、年末年始のことではなく、あと一ヶ月のうちになにをしておきたいか、であった。母の逝去に伴い服喪中のため、お正月とは無縁である。ゆえにこんなのんびりした話にもなるのだが──ホントにね、一;杉原『憲法読本』再読了、二;二つの読書感想文・第一稿の執筆と完成、くらいしか望むところがないのですよ。
 欲がないのか、現実的なのか、よくわかりません。good grief.◆

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第3720日目 〈フラウィウス、揃う。〉 [日々の思い・独り言]

 幾度も幾度も迷うた果てにフラウィウス・ヨセフスの著作が、想定していたよりも低い価格で揃うたことを報告し、祝い寿ぎ、後の戒めとしたい。
 既にちくま学芸文庫版『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』をネットで購入したことをお伝えしてある(第3702日目、第3707日目)。また、その後については第3713日目でさらりと触れた。本稿は、いわば後日談だ。
 文庫で読めるヨセフスの著作を、本文ならびに訳者の文章を流し読みしているうち、やっぱり……と考えを改める事態になった。エウセピオス『教会史』と同じく『戦記』も『古代誌』も固有名詞の表記をより一般的なものへ改めてあるのみならず、いろいろな点でやはり元版となる山本書店版『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』を手許に置いておく方がよい、と結論したのである。
 ちくま学芸文庫版と同じ時期に購入を迷った山本書店版『ヨセフス全集』全巻揃いはその時点で未だ誰に買われることなく残っていたけれど、送料を含めれば10万円近くとなれば今回もまた(早々に)諦めるにはじゅうぶんな理由となった。神の恩寵というてよいか、偶々同じ頃に全集諸作がバラ売りされていて、それらを個別に購うても件の全集揃いの半分の金額にもならぬのが判明したことも大きい。
 斯くして一時的な可処分所得増に恵まれて、然れど慎重に状態と金額(送料含む)を比較検討して、まずは『ユダヤ古代誌』全十一巻と『ヨセフス研究』全四巻を、次に『自伝』と『アピオーンへの反論』を、最後に──注文済みと思いこんでいて実際はそうでなかったと気附いた『ユダヤ戦記』全三巻を注文、振込を済ませて……二日と開けずにそれらが届けられたのは嬉しかったけれど、流石に置き場所の確保は困った!
 お断りしておくと、実は『自伝』と『反論』はそれぞれ独立した山本書店版ではなく、2020年05月に青土社から合本で復刊された一冊である。訳文に修正が施されており、訳者のあたらしい解説を付してある。これらに限って山本書店版を選ばなかったのは、既に図書館で青土社版を手にして読んでいたのと、こちらの要求を完全に満たす『自伝』と『反論』が売られていなかったからだ(帯附き書込みなし、濡れ皺やブレなし。経年劣化に伴うダメージは許容範囲、但しヤケは程度による)。後者の理由──条件をクリアしていない『自伝』と『反論』を除いていったら山本書店版はみな消えてなくなり、青土社版だけが残った、という次第──。
 床に積まれたハードカバーのヨセフス著作群を、鼻の下をだらしなく伸ばして眺めている。聖書やユダヤ教/キリスト教、古代オリエント史とローマ帝国史を勉強してゆく際の基本文献を、日を経ず揃えられた幸福(と奥方様の愛ある理解への感謝)のゆえに。
 今後勉強するのがどんな分野であろうとも、良質のテキストと基本的な参考文献──辞書をはじめとしたレファレンス・ブックは手を尽くして状態の良い、場合によっては能う限り最新の版を(が、常に新しく出版されたものがモア・ベターでない点に注意)、あまりお金をかけることなく自分のまわりへ侍らせるようにできれば良い。時に必要となろう息抜きのためにその分野の(軽い)読み物も用意できれば、なお好い。
 いまのわたくしにこれを当てはめて、聖書・ユダヤ教/キリスト教、古代オリエント史/ローマ帝国史に即していうならば、……次は死海文書となる。ディック『ヴァリス』に淫してそれを知って爾来三十年余の時を隔ててようやく、死海文書それ自体へのアプローチである。
 まずは日本語訳のテキストだがこちらについては既にアタリを付けてある。問題は参考文献なのだが……図書館で端からあたっていって、自分に合うものを見附けるより外にない。が、それも時間がかかりそうなので、取り敢えずは手持ちの三冊を徹底的に読みこむことに専念するのが吉であろう。
 勿論、並行してヨセフスもぽつぽつ読んでゆきますよ、ハイ。◆

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第3719日目 〈英語の多読について。4/4 単語調べ補足とステップラダー・シリーズ、読書ノートのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 前項でわたくしは、載っている単語でわからんものは片っ端から巻末のワードリストにあたって調べてしまえ、それくらいまで割り切っちゃえ、と述べた。暴言だなんて思っていない。基礎的単語は何度辞書やワードリストで調べたって過ぎることはないのだ。mustとかdecideとか、shouldとかcouldとか、be afraid ofとかbecause ofとかといった、動詞や助動詞、形容詞、前置詞、代名詞、副詞の類は(作っただけで満足する単語帳と違って)辞書やワードリストを何回も引いた方が確実に脳味噌へ定着する、というのが実体験から導き出した提言である。……leftの例もあるしね。
 いまでもボキャビルマラソンの本やコースってあるのかな。でも、ボキャビル(ボキャブラリー・ビルディング)だけやっても、多読にどれだけの効果があるのか、と疑問に思います。単語の蓄積に力を注ぐなら、同じくらいの力を文法にも注がなければならない──って話にまでなりませんか。そうなったら、中高で計六年間やって来た英語のつまらん授業の繰り返しである。ボキャビルが無意味なんていわないけれど、そちらへ注力して読書が疎かになったり、本末転倒の結果を招くのならば、そちらへは(いまは)手を出さず愚直にワードリストのお世話になり、いつかそこから離れるようにすれば良いだけだ。

 そうそう、言い忘れるところだった。ラダー・シリーズLV1を困難に感じたり、或いは買ったはいいが、二、三ページ開いただけでそのまま読むのを止めてしまう人も、なかにはあるだろう。
 そんな人の気持ちがよくわかる。正直にいえば、並行して読む本が多くて例の『ガンジー伝』も読むのを止めていた日がトータルで1週間ほど、わたくしにもあったから。
 そうした人のために、同じIBCパブリシングから出ている「ステップラダー・シリーズ」を紹介しておきたい。ページを開けばたっぷりとした余白に大きめの活字で組まれた本文に、挿絵が添えられるばかりでなく、そのページの粗筋やキーワードになる単語と熟語の意味が載り、キーセンテンスといってちょっと長かったり難しかったりする表現を改めた項目も用意されている。読みやすさ、とっつきやすさという意味では、LV1よりもこちらの方に軍配をあげたい。
 このステップラダー・シリーズもLV1からLV3まで、児童文学やミステリ、名作小説がラインナップされている。わたくしもLV1(使用語彙300語)から『ロミオとジュリエット』と『美女と野獣』(このセレクトに意味はある)、LV2(使用語彙600語)から『くまのプーさん』と『赤毛のアン』、LV3(使用語彙900語)から『シャーロック・ホームズの冒険』を読んで、気持の上で(あくまで気持の上、である)英語を英語のまま読む姿勢を取り戻して、『ガンジー伝』に戻ったクチである。
 IBCパブリシングHPの特設サイトから、引用する。曰く、「ステップラダー・シリーズは、やさしい英語で書かれた、英語初級〜初中級向けの英文リーダーです。初心者レベルの方でも無理なく読めて、段階的にステップアップできるようにつくられています」と。まだ英語を沢山読むことになれていない人、なにから手を着けていいかわからない人、に向けた、最適のテキストというてよいのではないか。

さて、世に読書ノートというのがある。本ブログでもたびたびワードだけは登場する、読んだ本の内容や感想を記録したノートだ。最後に短くこの話題に触れて擱筆したい。
 英語の多読でも、この読書ノートは役に立つ。内容や感想を後日振り返るだけではない。それ以上の役目を、多読に於ける読書ノートは発揮する。これまで何冊読んだのか、これまで何万語を読んで目標数値まであと何冊(何語)を読めばよいのか。具にそれが記録されたノートは自分の現在地の確認と将来の道程を示してくれる。自分が着実に英語読書の経験値を積み重ねてきていることが一目瞭然であり、モチベーションの維持・向上にもつながる。ノートの作成は今後の読書の指針になることでもあるから、是非の作成を勧めたい。
 ここでフト意識に上るのが、先日感想文をお披露目した横田順彌の読書ノートのこと。
 書肆盛林堂から刊行されたノートの解説に、原本のサイズは明記されてない(追悼展に行っていないから補足説明もできない)。おそらくポピュラーなB5、原寸ならA6だろう。形式は大学ノートに、書名・著者名(訳者名)・出版社・五行程度の感想、が記されたシンプルなものである。
 こんな感じでなら、多読用の読書ノートも飽きることなく続けるのではないか。負担は少なければ少ない程よい。エッセイや論文の土台になるわけでなし、備忘の域に留まるものでしかないのだ。ヨコジュン氏みたくシンプル極まりないスタイルがこの場合、ピッタリなように思える。
 読んだ本が増えれば増えるだけ、ノートは増える。個人差こそあれ英文を読むスキルは、そうした過程で貯えられてゆく。成長の確認、将来の目標、停滞期の再出発に、読書ノートはきっと励ましを与えてくれる。◆



ロミオとジュリエット (ステップラダー・シリーズ STEP 1)

ロミオとジュリエット (ステップラダー・シリーズ STEP 1)

  • 作者: ウィリアム・シェイクスピア
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2021/11/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



Beauty and the Beast ステップラダー・シリーズ 美女と野獣

Beauty and the Beast ステップラダー・シリーズ 美女と野獣

  • 作者: アイラ・ポールソン
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2022/09/16
  • メディア: Kindle版



くまのプーさん (ステップラダー STEP Ladder Step2)

くまのプーさん (ステップラダー STEP Ladder Step2)

  • 作者: A・A・ミルン
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2019/06/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



赤毛のアン (ステップラダー STEP Ladder Step2)

赤毛のアン (ステップラダー STEP Ladder Step2)

  • 作者: L・M・モンゴメリ
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2020/06/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



Adventures of Sherlock Holmes ステップラダー・シリーズ シャーロック・ホームズの冒険

Adventures of Sherlock Holmes ステップラダー・シリーズ シャーロック・ホームズの冒険

  • 作者: コナン・ドイル
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2022/09/16
  • メディア: Kindle版




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第3718日目 〈英語の多読について。3/4 いっそ開き直っちゃえ、ということ。〉 [日々の思い・独り言]

 ラダー・シリーズLV1やLV2を謳うと雖もじゅうぶん難しい作品はある、と聞く。わたくしの失敗を棚にあげるわけではないが、わからない箇所はすっ飛ばし、辞書をなるたけ引かずに一冊読み切るという行為、事情はどうあれ中学英語も怪しくなっている人にはLV1であっても気持の上で曰く言い難い困難・苦痛を伴うはずだ。よーくわかる。わが身を顧みて、これ程共感できる話もない。
 辞書をなるたけ引かない、が呪縛になって生じる「内容が理解できない、筋を把握できない」といった「(あらゆる意味での)つまらなさ」が理由で読書が中断されてしまうなら、いつまで経ったって一冊を読了する達成感とも、「どうにか内容がわかった」とか「面白かった・退屈だった」とかの感想とも無縁のまま、多読から離れてしまうのは必至。勿体ない話だ。一度は横の文章を縦に変換する労を要すことなく、横の文章を横のまま読めるようになりたいと望んで原書を手にしたのに。
 もう、開き直ってしうことだ。中学高校で習った授業のことは忘れて(極端な話、それを引きずっている限り、前に進むことは出来まい。むろん、すべてをかなぐり捨てる必要はない。そこまで極端な話ではないのだ。覚えているものを敢えて捨て去るのは愚行でしかない)、はじめの十数冊はレヴェルに関係なく巻末のワードリストに依存して──むしろ載る単語を全部引いてしまうと思い切り、英和辞典に載る文法や動詞の変化一覧などもコッソリ覗くことにすればよい。
 読んでゆくなかで徐々にワードリストや(辞書・参考書といった)外部ツールへ頼る回数を減らしてゆき、二十冊くらいに達する頃にはそれらを殆ど用いることなく読了できれば良いよね。最初の一冊から逃げ道を断って一冊読了を迫るのは、拷問という外ない。
 そんな意味では、多読に取り掛かった最初のうちは、辛抱強さとめげない気持が求められる段階でもある。なかなかページが進まなくてもこの一冊を読み通すぞ、っていう辛抱強さ(忍耐力)と、ワードリストや外部ツールに頼る回数がどれだけ多くても或いは同じ単語を何度となく調べてしまっても、めげることなく落胆することなく読み進めてる鋼のメンタルを──。
 話がだいぶ横道に外れた。
 ラダー・シリーズのLV1であろうとLV2であろうと、易しい本もあれば難しい本もある(仄聞)。どうやら内容や総単語数に拠るわけでもないようだ。
 たとえば、以前本ブログで触れたNina Wegner『Bible Stories』はLV4(総単語数は13,670語)だが、Alam Morse & Gill Tavner他『Three Religious Leaders:Jesus, Buddha, Muhammed』(総単語数19,390語)は所々引っかかる箇所があって、『Bible Stories』の方がずっと楽に読めた。『Three Religious Leaders』はJesusのパートのみながら、早くもこんな印象を持っている。難しいというよりは読み応えがあった、というべきなのだろうが……。
 なお、『Three Religious Leaders』はLV2である。LV2の使用単語数は1,300語、英検でいえば3級、TOEICなら400-500点、になる。ちなみに、LV4の使用単語数は2,000語で英検2級、TOEIC600-700点に相当する。
 多読用のテキスト、学習用読み物に付されたレヴェルは出版社個々の基準に則って定められる。統一基準はない。繰り返しになるけれど、A社のLV1とB社のLV1が同等とは限らないのだ。『英語多読入門』を読むまでまるで意識しなかったそのことは、今度、ラダー・シリーズばかりでなく当該書で紹介されるシリーズの本にも手を出してゆく過程で否応なく実感するだろう。これもまた将来の楽しみである。
 まずは100万語到達・突破を目指して数をこなしてゆくこと。本稿冒頭──書いたのは何日前だっけ? タイトルに「1/4」とある回なのだが──で述べた、英語の学び直し・多読によるリーディング・スキルの取り戻しと向上を、来年の(もう一つの)目標にしたい、とは即ちこのことなのである。□



旧約聖書と新約聖書の世界 Bible Stories (ラダーシリーズ Level 4)

旧約聖書と新約聖書の世界 Bible Stories (ラダーシリーズ Level 4)

  • 作者: ニーナ・ウェグナー
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2013/11/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




イエス/ブッダ/ムハンマド 世界三大宗教の開祖たち (ラダーシリーズ)

イエス/ブッダ/ムハンマド 世界三大宗教の開祖たち (ラダーシリーズ)

  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2021/10/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




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第3717日目 〈英語の多読について。2/4 SSS(Start with Simple Story)について。〉 [日々の思い・独り言]

 「レヴェル」というのが厄介なのだ。出版社それぞれで基準を設けているため、たとえば、A社のLV1は読めるがB社のLV1は歯が立たない、なんてことは間々あるらしい。
 その点を解消すべく、英米の出版社が出している英語初心者用の読み物──対象は、なんらかの理由で学習が遅れている人、移民の人たちなどである──を、「読みやすさレベル(YL)」という一定の基準で整理したのが、『英語多読入門』で紹介されている「SSS(Start with Simple Story)」だ。同書から、「YLとは?」「ステップアップの効用は?」を述べた箇所を引用する。
 YLとは? 曰く、──

 SSS英語多読研究会では、本の読みやすさを評価する共通の基準、読みやすさレベル(Yomiyasusa Level, 以下YL)という数値を決めています。実際に多読をしている人の声を集約して、「日本人にとっての本の読みやすさ」をYL0.0-9.9の数値で評価し、YLの数値が小さいほど読みやすいことを示します。
 YL0.0は、題名だけが英語で、なかには一切文字のない絵だけの絵本です。したがって、YL0.0の本はまったく英語を知らない人でも読む(=内容を理解する)ことができます。英語学習用で使う本のYLは、0.0から8.5までです。YL9.0以上は難しすぎて英語学習目的の多読には適さない本であることを示します。
 (中略)
 SSS多読では、YL0.0から0.9の本をレベル0、YL1.0から1.9の本をレベル1の本というように、まとめて呼んでいます。(P15)

──と。
 『英語多読入門』ではYLごとに本の特徴が五行くらいで紹介され、該当する本の書影と出版社が例として載る(P45-8 P49にGR[Graded Readers]のYL別一覧もある)。
 では次。YLをステップアップしてゆくとはどういうことか? 曰く、──

 英語が相当苦手な人でも、読みやすさレベル0の本を100冊単位で読むことによって、レベル1の本が確実に読めるようになります。そして、レベル1の本を何十冊も読めば、必ずレベル2の本が読めるようになるのです。レベル2の本が読めれば、英米の小学生向け児童書を楽しんで読めるようになります。小学生向け児童書といっても、普通に日本の学校教育を受けただけで多読をしていない大人がいきなり読むとほとんどの人が歯が立たないレベルの本なので、ここまで読めるようになれば相応の英語が使える実感を持つことができます。(P28)

──と。
 ちなみにレベル1はYL1.0-1.9、使用語彙は300-400語、総語数500-40,000。文法としては現在形、現在進行形、can、must、going toに加えて、過去形が登場する。
 同じくレベル2はYL2.0-2.9、使用語彙は600-1,000,総語数は3,000-6,000。ここで新しく登場する文法は、現在完了、過去進行形、比較、間接話法、will、have to、could、である。
 レベル2で、ほぼ中学英語を網羅するんじゃないかしら。□



英語多読入門(CD付) (めざせ! 100万語)

英語多読入門(CD付) (めざせ! 100万語)

  • 出版社/メーカー: コスモピア
  • 発売日: 2010/12/24
  • メディア: 単行本




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第3716日目 〈英語の多読について。1/4 「ガンジー伝」での恥ずかしい失敗と多読三原則について。〉 [日々の思い・独り言]

 アインシュタインかエジソンか。モーツァルトかアンネ・フランクか。
 迷った末に選んでレジへ運んだのは、ガンジーの伝記であった。どうせなら、世界史の用語事典に載る程度しか知らない人物の伝記を読んでみるか。そんな気持あっての選択だが、実はこれ、例のラダー・シリーズの一冊で、しかもレヴェル(LV)1なのである。
 来年は、秋からのシェイクスピア読書を大きな目標とするが、同時に、英語の学び直し・多読によるリーディング・スキルの取り戻しと向上をもう一つの目標にしよう、と思うのだ。そんな意味では理に適ったセレクトだろう。
 読む時間にして三十分くらい。寝る前に一章、長ければ途中まで。全単語の意味を網羅したワードリストが巻末にあるとはいえ、不明の単語あればエピソードや文脈から意味を推測して前に進むようにしている。その過程で、思いこみによる弊害も既に経験した。
 このガンジー伝、LV1でも総単語数8,190語。一緒に買ったOsamu Dazaiの『Run,Meros,Run』は4,700語だからほぼ倍である。厚さは若干、ガンジー伝の方が勝るかな。
 LV1とはいえ読み応えのある一冊だが、思いこみによる弊害とは”Introduction”、P4の「Because of Gandhi, the British left India」てふ一文。
 ガンジーがなんちゃらな理由で、英国がインドの左側でどうたら、とは? なんのことやらさっぱり、である。小首を傾げるより外なし。
 どうやら、御無沙汰していた十数年の間にわたくしの英語力は、深刻な問題を抱えていたようである。英文読解の根本をなす動詞の活用形をすっかり忘れていたのだから。──と、ここまで書けば腹を抱えて大笑いされる方が続出して跡を絶たぬだろう。つまり、なぜか「左(側)」と思いこんでいた”left”は、「立ち去る」とか「〜をあとに残す」という意味の動詞、”leave”の過去形、過去分詞だった。
 お恥ずかしい限りである。幸いなことにこの箇所で散々悩み、解決してからは特に立ち止まることもなく、ガンジーとカスツルバ(Kasturba ──共に十三歳!)が結婚する章まで進んだ。今宵から新しい章に取り掛かるつもりでいる。
 ガンジー伝、Osamu Dazaiとおなじく一昨日丸善で購入した、『やさしい本からどんどん読もう! 英語多読入門』(古川昭夫;監修・著/上田敦子;著/伊藤晶子;協力 コスモピア 2011/01初版第1刷・2015/03第3刷 以下『英語多読入門』)にも、ラダー・シリーズ同様に多読三原則が載る。いまここに引けば、──
 第一原則 辞書は引かない
 第二原則 わからないところは飛ばす
 第三原則 つまらなければやめる
──以上(P22)。
 辞書は引くな。わからなければすっ飛ばせ。ツマラナケレバ次の本に移れ。──わかっていても、それがなかなか出来ない日本人である。国民性? 否、学校教育の弊害でしょう。
 しかし、英語を読みこなせるようになりたい日本人は世にあふれ、斯様な希望をいだく日本人は絶えてなくなることがない。そこに需要はあった。突破口もあった。ラダー・シリーズにいまは代表させておく英語多読用のテキストが、洋書も扱う新刊書店に行けば必ず棚の一角を占めて並ぶのは、要するにニーズがあるために他なるまい。
 そこで『英語多読入門』が提示するSSS(Start with Simple Story)のご登場である。SSSは単語数が極めて限定された(0語〜5語程度)絵本から始めて、徐々に「英語を日本語に訳さず、英語のまま読めるようになる」のを目的としたシステムだ。
 第一原則「辞書は引かない」について、不明な単語は一冊につき三語くらいに留めたい旨述べる。が、巻末にワードリストがあるならば、読了後の参照は大いに推奨されている。読了後の参照、とは読書の流れを中断させないための方法である。
 でもわたくしは正直なところ、読んでいる最中にワードリストを覗いてもよい、と思うている。挿絵などの助けがないなかで読み進めることに不安が生じるのなら、読書中であってもそれは存分に活用されるべきだろう。「三語程度」とあるからとてそれに従う必要なんて、ない。絶望する必要も、ない。文字通りの意味ではなく、敷衍させて「調べる未知の単語は、なるべく少ない方がよいですよ」という程度の話である。無闇矢鱈に、片っ端からワードリストにあたってそれに馴れること勿れ、ってことです。
 第二原則と第三原則に関しては、現在のところ該当するようなアクシデントは生じていないから、話題にするのは止めておく。興味ある人物の伝記、という理由もあろうからね。□



The Gandhi Story ガンジー・ストーリー ラダーシリーズ

The Gandhi Story ガンジー・ストーリー ラダーシリーズ

  • 作者: ジェイク・ロナルドソン
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2013/09/06
  • メディア: Kindle版




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第3715日目 〈横田順彌『ヨコジュンの読書ノート』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 まずお断りしておくと、正式な書名は『ヨコジュンの読書ノート 附:映画鑑賞ノート』である。厳密には「の」が丸で囲まれているのだけれど、そこまでの再現は無理なのでご了承願いたい。書肆盛林堂 2019年12月刊。
 北原尚彦の解説に拠れば本書のベースになった読書ノートは、1965(昭和39)年〜1967(昭和42年)、ヨコジュン氏高校三年生(の三学期)から大学在学中の時期に書かれている由。
 この時期の日本SF出版は(ミステリと然程変わらずで)黎明期というてしまえばそれまでであるが、とにかく読む選択肢は現在とは雲泥の差。所謂SF小説の古典が翻訳されてそのラインナップが揃い始めた時期でもあった──事実、ヨコジュン少年の読書ノートには、クラーク『幼年期の終わり』、アシモフ『われはロボット』、ハインライン『夏への扉』、シマック『中継ステーション』、シュート『渚にて』、などの書名が並ぶ。脚注の書誌(労作!)に頼れば、どうやら氏はこれらを熱々の新刊で手に入れ、片っ端から読み倒していった様子。むろん、なかには古本屋で購うたものもあっただろうが、出版事情を考えればこの充実ぶりはまさしくマニアの読書ノートの面目躍如といえるのではないか。
 ヨコジュン氏が読んでいたのは海外のSF小説ばかりでは勿論、ない。小松左京や筒井康隆、星新一、光瀬龍、海野十三、といった面子も並ぶ。なかには佐野洋、新田次郎、なんて名前も出て来て意外の感に打たれるが、氏は、SF小説と銘打たずともSFの要素を含む(と思われる)作品を見附けると読んでいた(P98 北原)、というからその一環か、と思うていたらこれがちゃんと「SF小説」として出版されていたのだから、二重に驚かざるを得ぬ。想像するにどの出版社も、時代の流れに取り残されぬようお抱えの作家にSF小説を書かせていた時期でもあったのだろう。「水準以上の作品だろうとは思う」(佐野『透明受胎』 P51)、「日本SF史の中では貴重な作品である」(新田『この子の父は宇宙線』 P52-3)というのが氏のコメントである。
 なかなか痛快なのが、佐野、新田と同じく一度しか言及されない山田風太郎。「SF」ではなく「奇想小説」と銘打たれているのが納得だが、『男性週期律』を読んだ若かりしヨコジュン氏の感想が、痛快というのである。曰く、「よくこんなくだらないものを書いたものだ 本を保存しておく必要もないので早速古本屋へ売った 150円也」(P20)と。でもこんな風にコメントされると却って読みたくなるのが人情です。エロとナンセンスが同居した同名短編は光文社文庫に入っているとのことなので、早速古本屋で捜してみましょう。150円じゃ手に入らんだろうけれどね。
 前述した国内外のSF小説家、勿論本稿では名を挙げていない作家もいるが、21世紀に於いてなお読み継がれている人の作物は、雑誌を含めて出た端から、見附けた端から読んでいたことから、本書は必然的に戦後高度経済成長期を背景にした日本に於けるSF小説の出版史&(読者側の)受容史の貴重な証言になっているわけだが、同時に、今日では(マニアならいざ知らず)すっかり忘れられてしまった作家の手になる(SF)小説の存在をいまに伝える記録にもなっている点に着眼したい。
 丘美丈二郎『鉛の小函』(P9)、泉政彦『改造人間』(P83)、山口裕一『キチガイ同盟』(P84)、海外作家に目を向ければこちらの浅い知識を露呈するばかりだが、ピーター・ブライアント『破滅への二時間』(P25)、エリック・F・ラッセル『宇宙の監視』(P71)、或いは大光社《ソビエトS・F選集》に入ったナターリャ・ソコローワ『怪獣17P』やZ・ユーリエフ『四つ足になった金融王』(いずれもP70)など、氏のコメントに従えば埋もれて忘れ去られても仕方のない作品もあれば、埋もれてそのまま忘れられているのが勿体ないと思える作品もある。殊に《ソビエトS・F選集》の二冊! 訳文は当時のままでまったく構わぬから(最低限の誤植誤訳を正し、欠損あらば補訳して)、ハヤカワ文庫SFか創元推理文庫で復活させてくれないものか。帯には当然ヨコジュン氏のコメントを抜粋して。地元の県立図書館にも市中央図書館にも収蔵されていないんだよ……読みたい、マジで!
 ああ、さて(小林完吾風に)。
 『SFマガジン』を読み、ハヤカワと創元の既刊新刊を読み倒すのに並行して、氏の足は自ずと古本屋へ向かい、古書市場に出回る戦前の科学小説の収集を始める。この過程で氏は最大の鉱脈を掘り当てることになる。日本古典SFの発見、である。そこを主軸にした近代文学史の書き換えと近代科学・文化史の新しい視座の獲得、である。本書は氏の、何人も及びがたい業績を遠くに予見するかのように押川春浪の作品の読書感想も載る(P53-4)。そんな意味でもヨコジュン氏の生涯の仕事の萌芽がここに見られる、というて過ぎはしないだろう。
 松本清張唯一のSF小説『神と野獣の日』(P16 案外と高評価)、ブラッドベリとシマックの作品に寄せた氏の感想について言及できなかったのが残念。これは機会があれば別の日に……といいたいが、本当にそんな日が来るのかは不明である。
 それにしても本書をもし、『バーナード嬢曰く』に登場するSF小説好きの女子高生、神林しおり嬢が読んだらどうなるか。海野十三「電気風呂の怪死事件」も載っている。そんなことを、本書を読みながら夢想したりもしたのである。◆
※2023年11月22日 03時47分公開□



!!! もうすぐ !!!
!!! 待っててね !!!
※上2行、2023年11月22日 02時49分に直接入力、つなぎとして公開。記念に残す。□

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第3714日目 〈いまになって法律が面白いということ。〉 [日々の思い・独り言]

 それにしても法律は面白い。馬齢を重ねたとか社会経験の蓄積、っていうのがいちばん大きいんだろうけれど、民法はともかく、刑法や商法なんて学生時代よりも余程よくわかる。不動産会社やコールセンターで仕事していなければ、株主総会・決算に伴うディスクロージャー・IRツールの進行管理やスタッフの労務管理をしていなければ、法律を面白いと感じたりしなかったろう。
 法律は、年齢と社会経験を重ねてからの方がずっと面白い。これは実感である。
 いまならば、25年前の慶応通信法学部生の平均年齢が他よりも高かった理由を、背景も含めてわかるような気がしている。公私問わず様々な法律に関わってきたためだろう。自分がいた文学部や経済学部は、もうちょっと若かったものなぁ。──木を隠すなら森、現在の自分であれば入りこんでも目立つことはあるまい。延期していた学士入学、本気で考えようかしらん。◆

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第3713日目 〈杉原『憲法読本 第4版』、再読の進捗具合。〉 [日々の思い・独り言]

 時刻は14時過ぎ、「魔の刻」というてよい頃。青土社から出版されたヨセフス『自伝/アピオーンへの反論』(秦剛平・訳 2020/05)が届いたその月曜日、みくらさんさんかは杉原泰雄『憲法読本 第4版』精読の続きをせんとて近所のカフェに出掛けた。ようやく買えた新しいリュックにモレスキンのノートと芦辺慶喜、本秀紀・編の憲法の本二冊を放りこんで。
 相も変わらずシャープペン片手に、時々巻末の憲法条文を参照しながらゆっくり、丹念に、傍線を引いたり余白に書込みもしながら、読み返す。扉への書き付けを見るとこの再読、今月11月07日から始めて、下旬に差しかかる今日の読了箇所を以て140ページ目に至った。二週間で140ページ、か。本書は、日本国憲法全文や参考文献のページを除いて本文約270ページ。残りが130ページ程だから、読了まで同じくらいの日数を要すると考えて間違いあるまい。前述の通り、毎日読んでいるわけではないから、実際は七日というところかもしれない。
 ただ今後の内容に目をやれば、今日、基本的人権のうち自由権の項目を読み終えた(本来は社会権、受益権まで進めたかったが、集中力が切れた)。基本的人権はまだ端緒についたばかり。このあと、国民主権/議会制民主主義、三権分立、国会・内閣・司法、地方自治、象徴天皇制、と続いて当該章が終わり、第九条を中心にした憲法運用の章、総括の章、となって巻は閉じられる。これからちょっと難しい項目に入ってゆくから、残りのページも二週間くらいで……というのはあまりに楽観的な計画かもしれない。それだけ内容が詰まったパートへ突入している、ということでもあろう。
 日本国憲法のことは、然れど来る日も来る日も考えている。書店へ行けば法学や憲法のコーナーで足は停まるし、家にいても岩波文庫や『ポケット六法』の日本国憲法や、枕辺にあって今日もリュックに詰めこんだ芦辺『憲法 第六版』と本・編『憲法講義 第3版』(日本評論社 2022/03 2203/04第3版第3刷)を興味ある条についてのページやぱらぱら目繰って目に留まった箇所を読んでいる。これとて毎日ではないが、法曹でも法学者でも学生でもないから、と弁解しておく。
 この本は読了後、多少の間を置いて読書ノートへいろいろ書き写される。傍線や書込みの多さに閉口して途方に暮れて、「やれやれ」と頭を振って独り黙々と作業に耽るだろう。内に燃え盛る知識欲の充足と獲得の喜びに打ち震えながら。◆

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第3712日目 〈あの世界への鍵をなくした男の話。〉 [日々の思い・独り言]

 ラヴクラフトが友人諸氏へ宛てた書簡から、ダンセイニ卿について触れた箇所を適宜訳出した自費出版本を今日、受け取った。巻末底本一覧に拠れば、アーカムハウス刊『Selected Letters』全5巻からではなく宛名人毎に編まれた書簡選から訳出したようだ。
 まだぱらぱら目繰った程度に過ぎないが、きちんと読む日の訪れがいまから楽しみである。これだけまとまった形で、ラヴクラフト・トーキング・ロード・ダンセイニが日本語で読める機会はないから、その意味ではとても貴重な一冊といえるはず。感想等は別に認めるが、まさか初っ端から校正ミスに出会うとはおもわなんだ。
 ちょうど部屋の片附けをしていて、ダンセイニ卿やラヴクラフト・スクールの作家たちの翻訳や原書、或いは研究書を詰めこんだ棚の整理へ取り掛かろうとしていた矢先これが届いたのは、一種の僥倖だと思うことにしたい。
 先日、何年も前に書いた(実際は、書きかけた)友人への手紙の下書きが出てきて、懐かしく読んだ。レポート用紙10枚以上に及ぶ、わたくしの幻想文学遍歴を綴った手紙である。読みながら嗟嘆せざるを得なかった。幻想文学への愛着と執着は当時から既に薄れかけていたのに、それを読んでいる〈いま〉は更なる拍車がかかり、近頃は省みることも甚だ少なくなった。だんだん、その世界、その雰囲気に入ってゆくのが難しくなっているのを感じる……『銀の鍵』のようだ。
 ゆえに夢中になって読んだ偏愛の群れもいまや事実上の場所塞ぎと成り果てている。それでも好きな作家の翻訳を見附けると、矢も楯もたまらず買いこんでしまうのだから、なんとも未練がましい自分である。最後に読んだのは……マンビーとオニオンズだったな。
 余命宣告されたわけでないし、終活に取り掛かっているわけでもない(あれ? 以前「終活始めました」みたいなものを書いた覚えがあるけれど……まぁいいか。時は流れる、のだ)。が、最近は、二十歳前後に書き継いで結局残り1/3という辺りで書くのを止めてしまったHPL論……恋文、というが相応しいようなエッセイの集まりである……や、未完の『世界幻想文学講話』を書き継ぎ推敲して遺してゆきたい、と夢想してもいる。やり残したことを仕上げる作業に、この分野に関しては取り掛かりたい。そう倩思うことが多くなったのだ。
 まずは前述した、友人に宛てて中途で止した件の手紙を完成させる。加除修正・推敲して、本ブログでお披露目する(許可は得ている)。それが、始末の最初になるかな。まったく、昨日の今日で忙しい話です。◆

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第3711日目 〈2024年はどんな一年になるんだろう?〉 [日々の思い・独り言]

 来年は──どんな一年になるんでしょうね? 色々あって苦労させられた、悲嘆の今年だったので、来年はその反動で喜ばしい事態が立て続けに出来する一年であってほしい。火事や盗難、事件や事故とは無縁で、お金に不安のない、好きな人が側にいる、健康で文化的な生活が送れれば、それ以外はなにも望まないのだけれど……。
 本ブログに関していえば、当初読むと決めていた本を読み、うち幾つかの読書ノートを作ったら、憲法の勉強からは一旦離れる。そのあとはシェイクスピア読書マラソンへ比重を移そう。これは最低でも三年を予定するが、実質的には一ヶ月半程度の作業だ。並行して英語の学び直しもある。従前通り、聖書とその周辺に関しても読書は続け、折に触れて文章も書く。むろん、近世怪談の訳筆も執る。
 こう話すと遅滞なく停滞なく順調に元日から大晦日まで進んでゆきそうだが、そんなことがぜったいにないのはブログ主たるわたくしが保証する。ブログ主のわたくしがいうのだ、間違いはない、信じてよい。呵々。ただ、身銭を切って購った本が多少なりとも斯様な事態の到来をわずかなりとも減らすことができるはずだ。
 昨日と今日買った/届いた本を列記して、筆を擱く。

 2023年11月17日
 ヨセフス ユダヤ古代誌 全11巻 山本書店
 ヨセフス研究 全4冊 山本書店
 大塚幸男 閑適抄 -ギッシングと共に- 第三書房
 荒木茂雄他編集 関口存男の生涯と業績 三修社
 新約聖書翻訳委員会 新約聖書 改訂新版 岩波書店
 並木浩一 ヨブ記注解 日本基督教段出版局
 本英紀編 憲法講義[第3版] 日本評論社
 P.D.ジェイムズ 女には向かない職業 ハヤカワ・ミステリ文庫

 2023年11月18日
 青空葵 星色のあしあと。 青空アクアリウム
 別冊SFイズム① まるまる新井素子 みき書房

 注文中・到着待
 ヨセフス ユダヤ戦記 全3巻 山本書店
 H.P.ラヴクラフト 怪奇小説家はダンセイニ卿を語る

 以上、である。たぶん。◆

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第3710日目 〈第4000日目を目指して。〉 [日々の思い・独り言]

 未来が具体的に描けてきたのでようやくこんなことを書けるわけでもあるのだが、来年令和06/2024年09月のどこかで本ブログは第4000日目に到達できそうである。
 平成20/2008年秋に開設して、更新を続けてゆくのが極めて困難な事態に幾度か直面し、その度いつ終止符を打つか不明の沈黙を余儀なくされたが、いま読者諸兄にお読みいただいている事実が証明するように、本ブログは16年目にして、いよいよ第4000日目を迎えられるメドが立った──。
 勿論、この予定もこれから先、ありとあらゆる可能性に起因する深甚な肉体的精神的ダメージを喰らうことなく、不注意等による「更新(予約投稿)うっかり忘れちゃった、えへ現象」、その他考え得るすべての更新停滞要素が現実にならなければ、という前提あってのことなのは、敢えてお断りする必要もあるまい。
 つまり、お前が怠けなければいいわけだな。どこかからそんな声が聞こえてくる。耳の痛い話だ。首を縦に振るしかない。
 とまれ、第4000日目だ。書くことはもう決まっている。いまはその日を目指して、ガムシャラに、馬車馬のようになって書き続けるに外なし。◆

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第3709日目 〈鹿島茂『成功する読書日記』を読みました。──読書日記/ノートの作り方。〉2/2 [日々の思い・独り言]

 フランスの学生の挿話を振り出しにした鹿島茂が次に筆を進めるのは、いよいよ具体的な読書日記(読書ノート)の作り方、いわば実践を前にした読者へのアドヴァイス、であります。が、これがまた一筋縄ではゆかぬ、誰もが即座に真似できるものではないのです、とはあらかじめお断りしておきたい。
 読者諸兄のためにアドヴァイスの見取り図を作ると、こうなります。①どこを引用したらよいか? ②引用だけから成るレジュメ(要約)を作る ③自分の言葉で要約するコント・ランデュに挑戦する ④批評に挑む 以上。核となるのは②と③で、④はむしろ添え物くらいに思うた方がよい。
 では、まず、①読んだ本のどこを引用したらよいのだろうか? です。
 これね、本当に迷うところがあると思うんです。ここを引用しようかな、と考えた途端にその前後も引いた方が分かりやすいかと思い始めたり、ここを引用しようと思うんだけどなんか主題や内容に即していないようか気がすると悩んでしまったり、かと思えば目に留まった箇所を片っ端から引用してみたくなったり、などなど。
 そんな疑問、そんな悩みに、鹿島が授ける唯一無二のアドヴァイスはこれ、「読み終わって本を閉じ、ついでに目も閉じたとき、一番記憶に残っている一節がいい、と答えましょう」
 ここで鹿島は読書日記の本義に立ち返って、「(それは)客観的な資料を残すためのものではありません。あくまで、自分個人のためのものです」と説く。まったく以てその通り。そう、あくまで自分のための読書日記なのです。それゆえに、「引用も極私的なもの」で構わない。「かならずしも、その本のエッセンスを示す箇所とはかぎりません。本筋とは関係なく、自分にとっては妙に気にかかる一節、心に触れる箇所というのがあるはずです。そこを引用すれば」良い。なんとなれば、「そのほうが、後々、はるかに役に立ちますし、力にもなります」から。その本のエッセンスとなる箇所を見附けるよりも、読んでいてピンと来た箇所を引用する方が余程理に適っている。エッセンスとなる箇所はあとから幾らでも捜すことができますけれど、読みながら自分の琴線に触れた箇所というのはまさしくそのとき限りの出会い、一期一会なわけですからあとで捜すのは到底不可能に近い。誰しも同じような出会い方をして、心に刻まれる箇所というのはあるのです。ただ、読みながらノートへ写すのは無理でしょうから、あとで追跡はできるよう、「読みながら端を折っておくといい」でしょう。そうして実際ノートへ写した際は「引用箇所のページくらいは書き留めておいたほうがよい」とは、経験者なら誰しも首肯するところだと思います。引用はいずれもP24から。
 次に、②引用だけからなるレジュメ(要約)を作る、ですが、どんな意味なのでしょう。文字通りの意味であります。自分の文章は使わず、その本からの引用だけで、その本のレジュメ(要約)を作るのです。
 誰ですか、簡単だぜっ! と鼻息荒くしていてるのは? 事はそう単純ではない。というのも、「これは、やってみると、案外、難易度の高いパフォーマンスだということがわかります」。「では、なぜ難しいのでしょうか? 本をしっかりと読んでおかないと的確な引用ができず、ちゃんとした要約にならないからです。本を要約するには、まず正確に理解することが大前提となります」。引用はいずれもP25から。
 そうですね、頷くよりありません。内容をきちんと咀嚼し、自分のものにしてしまっている本であればほぼ「正確に理解」しているだろうから(エッセンスとなる箇所もわかっているだろうから)、そうした本を、引用のみで要約するのは難しいことではないのかもしれません。
 鹿島は、特に引用から成るレジュメの実例は見せてくれていませんから、自分の考えるところを述べますと、この要約は、無理にその本の全編にわたって行う必要はない、各章事の要約は必要になりましょうが、それとて必死になって長いだけの要約はでっちあげなくてもよい。というよりも、むしろ、作ってくれるな。読まされる側は却ってその本のことが分からなくなるばかりだから。かというてむろん、短くしてしまえば良いというわけでもない。しっかり読んで正確に理解しているならレジュメは、必然的に適切な分量に収まるはずだ。程度の問題、というよりはどこまで理解が及んでいるか、どこまで内容をしっかりと把握しているかの問題、というのが相応しいかもしれませんね。
 本の内容、作者のメッセージ、思想等の理解が正確にできていないと、本からの引用は“レジュメ”から大きくズレて、一個人の感想レヴェルに留まります。もっともこの引用のみから成るレジュメが、日常的な読書日記に留まるのか、エッセイや論文のための土台になるのか、でそのあたりの様相はだいぶ変わってくることになるのかもしれません。
 わたくしが『成功する読書日記』を読んで(それこそ全編を通じて)心底唸ってしまったのは、③自分の言葉でその本を要約する、コント・ランデュ、の技術でありました。本書を読んだ少しあとに出版された本の一節に触れて、ああこれはコント・ランデュの技術につながることでもあるな、と合点した点でもありました。
 「引用だけからなるレジュメは、この正確な理解の試金石」(P25)とした上で、「引用だけのレジュメに習熟したら、次になすべきことは、物語や思想を自分の言葉で言い換えて、要約してみるということです。[改行]フランスの教育では、これをコント・ランデュ(compte-rendu)と呼び、引用を使ってするレジュメとは区別しています。これをやると、引用のなかにある言葉や句を使ってはいけないので、語彙を豊かにするのに役立ちます。また、言い換えが作者の言っていることと矛盾してはいけませんから、必然的に[言葉の:みくら補]正しい理解を心掛けるようになります」と述べる。この引用は、P25-6から。
 ボキャブラリーが貧しい人、言葉の誤用濫用に疑問を持たぬ人、その場に相応しい言葉かどうかを配慮できない人、には高い壁かもしれません。しかし、本を沢山読んでボキャブラリーを増やしても、それの正しい意味と使われ方に無頓着では仕方ない。そうした人はコント・ランデュに挑もうとしたらまず座右に侍らすべきは複数冊の国語辞典でありましょう(自戒も兼ねて、いう)。
 先程合点した、というたのはフランス在住の、現地学校で哲学を教える日本人が書いた本に、フランスの学生は論文など書く際そこで使用する言葉の定義を明らかにして(=読み手に伝えて)本題に入る、という件があったのです。曰く、「(フランス人は)アカデミックな世界や学校教育のなかで論文や論述を書くとき、導入となる部分にその文章のキーワードとなる言葉の定義を記します。[改行]これは「私はこの○○という言葉をこんな意味で使います」という前置きです。[改行]文章の初めから終わりまで登場するような重要な言葉であれば、なおさら最初に定義づけをしておく必要があります。そうでないと、読者が「あれ? 自分のイメージしているものと違うぞ」とモヤモヤを抱えながら読み続けることになります」と(平山美希『「自分の意見」ってどうつくるの?』P90 WAVE出版 2023/04)。
 論理的なフランス人、議論好きのフランス人、正しい言葉を正しい場面で正しく使うフランス人、というのが、わたくしのなかで初めに浮かぶフランス人のイメージであります。日本語の教え子のなかにいたフランス人を思うと、そんなことが初めに思い出される。セーヌ川の辺で愛を囁き交わすフランス人、みたいなのが逆に思い浮かんでこない。それはさておき、──
 言葉の定義を明らかにするとは、多義語(同じ言葉でも複数の意味を持つ単語)が多いフランスでは特に必要な作業なのでしょう。言葉は、使われる場面で意味が微妙に異なってくる。その場に相応しくない意味でその言葉を用いることは、時に発信者と受信者の間で相互理解の大きな障壁となる。これを避けるために、どんな意味でこの言葉を使うか、定義をはっきりさせる作業を行うのでしょう。これはそのまま、コント・ランデュに於ける、引用したなかで作者が用いた言葉は使わず、同じ意味を持つ言葉に置き換えて本なり論文なりを要約する作業に直結するはずです。
 ただ、──コント・ランデュはもはや読書日記の域を出てしまっている、というてよいかもしれません。さりながら、ボキャブラリーを増やす、言葉の正確な意味・用い方を獲得する、というばかりでなく本や論文の構造や思考の発展系を正しく把握しているか、の試金石に、これはなりますね。そう考えてみると、自分の語彙や文章力、思考、思想を鍛えることができる最良の方法といえます。
 自分に、②引用のみから成るレジュメ、と、③引用中の言葉に頼らず己の言葉で内容を要約するコント・ランデュ、のいずれであっても出来るかどうか、分かりませんが、そうですね、今後取り組む予定のシェイクスピアで、いっぺん試してみるのはいいかもしれません。
 さて、最後の、添え物程度というた④の批評ですが、読書ノートに写した箇所と、そこに記したわたくしのコメントを転写することで責を塞ぐと致します。鹿島曰く、──
 「(引用から成るレジュメとコント・ランデュを完全に習得したら)ようやく、ここに至って、「批評」という言葉が登場します。言い換えれば、一冊の本のいわんとしていることを的確に引用してレジュメしたり、コント・ランデュすることができぬ限りは、批評という大それた行為に踏み切ってはいけないのです。(中略)不正確な理解の上には、なにを築いても無意味なのです。[改行]また、批評をするには、それなりの修行が必要となります。(中略)批評が、断定的な言葉の羅列だと誤解されては困ります。[文芸批評家以外は:みくら補]批評を全面展開する必要はありません。引用によるレジュメかコント・ランデュ、それに感想かコメントを書き留めるだけで十分だと思います」(P26-7)
──と。
 みくら曰く、──
 「不正確な理解の上には、なにを築いても無意味」! 辛辣ではあるが、実に正しい。文章を書くばかりでなく、何事に於いても然り。肝に銘じよう。
 批評文は感想文の発展型ではない。その間に、レジュメやコント・ランデュという段階がある。批評は窮極系と捉える方がよい。内容を正確に把握していない独りよがりで断定的な言葉で綴られた批評文めいた代物を書くくらいなら、レジュメやコント・ランデュ、もしくは感想やコメントを読書日記に記している方がよい。それでじゅうぶんである。──この鹿島の言葉に安堵した読者も多かったのではないか。わたくし自身、正直、ホッとしている。
──と。◆

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第3708日目 〈鹿島茂『成功する読書日記』を読みました。──読書日記/ノートの作り方。〉1/2 [日々の思い・独り言]

 読書ノートや読書日記の作り方、みたいな記事を見附けると、つい手を伸ばして読んでしまいます。なにか自分にフィードバックできる技術はないか、そんなことを期待してであります。
 鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋 2002/10)を読んだのも、最初はそんな期待あってのことでした。読み始めてすぐに打ち砕かるとは、つゆとも思わず。

 最初に紹介されるのは、フランス留学中に知り合った学生です。この学生がわたくしには、南方熊楠のような人物と映ります。
 「その学生はたいへんなインテリで勉強家、おまけに博引傍証自由自在という恐るべき男」で、「一発でバカロレア(大学入学資格試験)にも合格できたし、エコール・ノルマルというグランド・ゼコール(大学以上の超エリート校)にも入学できた」。
 ──ここまではまぁ良しとしよう。外国の大学生の猛勉強ぶりは夙に知られたことでもありますから、これもその一例と捉えてよいのかもしれない。が、驚いたのは、この学生の勉強法。
 これだけの結果を残したのだから、さぞ本の沢山ある生活を送っているかと思えば、然に非ず。かれの「アパルトマンには蔵書というものがほとんどないのです」、「(鹿島が)なんで本が一冊もないんだと尋ねると、その学生は、自分は貧しい家庭に育ったので、リセにいたときから、本は図書館で借りて読むようにしていた。そのときの癖で、本を読んだら気になる箇所をノートに引用する習慣がついた」。「僕の蔵書は、リセの図書館や国立図書館で写したノート数十冊分の引用、これだけだ、と胸を張って」鹿島に語ったそう。引用はいずれもP23から。
 わたくしは最前、このフランスの学生を、南方熊楠みたいな人に映る、といいました。熊楠も相当数の文献を地元和歌山の素封家の蔵や大英博物館の図書室で読み漁り、ノートへ書き写した。そうして蓄えられた知識を基に多くの論文(エッセー)を日本語・英語で物して新聞雑誌に寄稿、新発見を含む粘菌の研究他に勤しみ、昭和天皇への御進講を行った、「博引傍証自由自在という恐るべき男」だったのです。この、熊楠が書き写したノートは一部が、和歌山県田辺市の南方熊楠顕彰館に収蔵されていると聞きます。ちなみに、熊楠を後年回想して昭和天皇は一首の短歌を詠まれました。和歌山県西牟婁郡白浜町にある南方熊楠記念館の敷地内にある歌碑に刻まれているという、その一首を引きましょう。

   雨にけぶる神島を見て紀伊の国 生みし南方熊楠を思う

 熊楠にしろフランスの学生にしろ、 東西の別なく学習の要諦(のひとつ)は”書き写す”ことにあり、と証明するような人物といえましょう。共に実績がそれを裏附けているだけに、否の声などあげられようはずもありません。
 が、鹿島はこのあとトドメを刺してくるのです。ひゃあ凄いなあ、と口をあんぐり開けているわれらに冷や水を浴びせかけてくるようなトドメの一文を、鹿島は書いているのです。「フランスではバカロレアやグランド・ゼコールの文系試験は、大作家の引用を散りばめた論文を書くことが要求されますので、こうした勉強法をしている学生は少なくないようです」(P23) ……もうびっくらぽんなんてふざけていっていられません。
 高等教育機関の学生になったからこそ、これまで以上に勉強に励まなくてはならない。単位を落とさぬ程度に講義へ顔を出しておれば、どうにか卒業できてしまう。時間があり余って仕方なく、その挙げ句犯罪に手を染めてしまう(知らず加担してしまう)。そんなケースが間々見られる日本の大学生とは雲泥の差と申せましょう。もはや両者は、別次元、別宇宙に存在している生命体に見えてきます。
 ここで思い出されるのは、以前本ブログでも話題にしたハーバード大学の学生たちの勉強量、読書量です。鹿島が紹介するフランスの学生と併せて見ると、超エリートにはそれだけの根拠といいますか、陰で積まれた努力とハードスタディがあったことに実感させられるのであります。
 ──鹿島は、このフランスの学生のエピソードを紹介したあと、具体的な読書日記(読書ノート)作成のアドヴァイスを述べてゆきます。
 が、残念ながらここでわたくしの、執筆に費やせる時間が尽きましたので、続きは明日とさせていただきます。また、本稿も疲れと集中力欠如と、昨日同様に時間に追われての流し書きになってしまったので、追々修正の筆など入れさせていただきます。◆

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第3707日目 〈スタバで、フラウィウスに目を通す。〉 [日々の思い・独り言]

 フラウィウスが来たんだぜ。日を置かずして、ちくま学芸文庫で読めるヨセフスの代表的著書二つが揃い、訳者によるヨセフス概説書も届いた(うち一つは店頭引取・支払)。タイミングよく、べらぼうでない価格でそれらすべてが出品されて運良く買うことができたのは、何年も購入を迷うてそのたび諦めた、それでも遂に勇を鼓して購うた男への、ささやかなる福音と思うことにしたい。
 なかなか時間の取れぬなかで試しに『ユダヤ古代誌』を、新共同訳聖書を傍らに置きながら開いてみる。ちくま学芸文庫版『ユダヤ古代誌』は前半三巻が旧約時代篇、後半三巻が新約時代篇という構成。時代区分を大まかにすれば、旧約時代篇は天地創造から族長時代・士師時代を経てイスラエル王国建設と王国分裂そうしてそれぞれの滅亡と旧約時代の終焉(列王記/歴代誌)まで、新約時代はセレコウス朝シリアのユダヤ支配とマカバイ戦争・ハスモン朝成立からヘロデ王の時代・「キリスト証言」・使徒時代を描いて第一次ユダヤ戦争前夜までを扱う。
 いま、外出中のわたくしの手許にあるのは、読書ノートブログでテキストとして持ち歩いていた新共同訳聖書と、『ユダヤ古代誌』第一巻から第三巻の計四冊だ。
 ざっと目を通しているに過ぎないが、『ユダヤ古代誌』は旧約聖書の語り直し(リトールド)に徹している。語り直し、というてもその記述は、たとえば、「創世記」を読み較べてみると、当たり前かもしれぬがヨセフスの方が描写はずっと細かい。それはアダムとエバのエデンの園の物語から顕著になり、モーセ曰く、という形でエデンの園の場所や周辺環境を説明し、またバベルの塔の物語についても、天頂へ届くかの如き塔を言語を同じうする一つの民族が築くに至ったその背景に、ノアのひ孫ニムロドの煽動があった、と語る。「創世記」でニムロドは、「クシュはまた、ニムロドをもうけた。ニムロドは地上で最初に勇士となった者である。彼は主の前において勇ましい狩人であった。それゆえこういうことわざがある。『主の前における勇ましい狩人ニムロドのようだ。』彼の王国の初めは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。」(創10:8-10)と紹介されている。こうした伝承が生まれる温床となったかもしれない。
 「創世記」後半のヤマ場となる「エジプトのヨセフ物語」も、原典同様にかなりの紙幅を用いて生彩豊かに描いている。もはや独立した短編小説と呼んでもよいような仕上がりだ。ヨセフが兄弟たちに自分の正体を明かす件など、ワーグナー《ローエングリン》第三幕の「ローエングリンの名乗り」を名ヘルデンテノールの美しく深みのある声で聴いたときのような感動さえ味わった──と書くと、笑われるだろうか? でも事実だから仕方ない。
 原典以上に詳細に語る、ドラマティックに語るのは、「申命記」の最後を飾る──というのは《モーセ五書》《律法》の最後を〆括ることでもある──モーセの死についても、ヨセフス時代の民衆の間で語られていたような民族伝承など取りこんで、報告している。曰く、「彼は比類のない有能な指揮艦であった。そして預言者としては文字通り古今独歩であり、人びとは彼の語ることのすべてを神の言葉を聞く思いで聞いたのである」(『ユダヤ古代誌』第一巻P430)と。ちなみに、「申命記」第34章は該当箇所をこう記す。曰く、「 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためであり、また、モーセがイスラエルのすべての人々の目の前で、力強い手と大いなる恐るべき業を行うためであった」(申34:10-12)と。
 わたくしが今日思い立って『ユダヤ古代誌』を持って家を出たのは、「レビ記」の内容をヨセフスはどう書いて処理しているか、に興味があったからだ。第一巻にそれは載っているが……原典よりわかりやすい! 15年前にこれを読んでいたら、難渋しなかっただろう。が、難渋したからこそ本ブログは始まったわけだから……なんというか、怪我の功名、ってやつ? まぁいいか。
 《モーセ五書》の再話に一巻を費やしたヨセフスは、続く第二巻で「ヨシュア記」から「サムエル記」を、第三巻で「列王記/歴代誌」を中心に「ダニエル書」と「エステル記」・「エズラ記」と「ネヘミヤ記」を再話する。こちらも第一巻とスタンスは同じで、ヨセフス時代の伝承や旧約聖書以外の史資料を採用しながら再話/再構成されたユダヤ民族史が読者に提示された。
 『ユダヤ古代誌』は聖書に次いでキリスト教社会では読まれた書物である、という。旧約聖書の理解を助ける、補うための側面資料としてのみならず、むしろ聖典同様かそれ以上の頻度で読み継がれてきた、という。中世のと或る修道院では受難節の間も読むことを許された唯一の書物であり、近代印刷術が発明されるとその黎明期にラテン語訳が印刷され、英米のピューリタン家庭では日曜午後に読書が許されるのが聖書とヨセフスの著作だった。訳者、秦剛平が自著『ヨセフス』の「はしがき」で述べている(P9 ちくま学芸文庫 2000/05)。
 ──本稿は、2023年11月14日20時58分から21時48分まで、殆どなにに頼ることもなく一気呵成に書きあげた物である。かなり走り書きとなったこともあり、これからちょくちょく折を見て加筆修正してゆくつもりだ。現時点で見出せるだろう多少の誤謬、瑕疵についてはお目こぼしいただきたく願う次第である。場所は、今日二軒目となったスタバである。◆

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