第0434日目 〈列王記下第25章2/2:〈ユダの統治者ゲダルヤ〉&〈ヨヤキンの解放〉〉 [列王記・下]

 列王記下第25章2/2です。

 王下25:22-26〈ユダの統治者ゲダルヤ〉
 「國敗れて山河あり」という様に、国は滅びても民は地上に残る。
 地上に残ったユダの民を監督する名目で、バビロン王ネブカドネツァルはかつてユダのヨシヤ王に仕えた書記官シャファンの孫でアヒカムの子ゲダルヤを総督に任命、ユダをバビロン王の名代として統治した。斯様に旧王国の関係者を然るべき立場に据えたのは、ユダの民に対してバビロン王、ひいてはバビロン国への服従を徹底させるためであった。
 が、それを不服に思うユダの民もいた。ゲダルヤはそんな輩たちに謀られて殺された。首謀者は王族の一人エリシャマの孫でネタンヤの子イシュマエル。彼は十人の部下を率いてゲダルヤを討った。

 王下25:27-30〈ヨヤキンの解放〉
 国が滅びて民は絶望した。が、そこに希望の曙光が灯される。
 かつて、エルサレム陥落ユダ滅亡の先立つ時代、バビロンの捕囚となった者に当時のユダの王ヨヤキンがいた。覚えておいでだろうか? 経緯(いきさつ)については王下24:15を参照されたい。
 彼はバビロンへ連行されてから37年後の暮れつ方、捕囚の立場から解放された。というのも、ネブカドネツァルに代わって新しくバビロン王の座にエビル・メロダクが就いたからである。ヨヤキンの捕囚解放は、その恩赦であった。
 新王はヨヤキンを篤くもてなし、共に食卓へ着くことを許した。ヨヤキンはその存命中、生きる糧を常に供されて生き続けた。

 ヨヤキン元王の血はやがて新約聖書にて〈神の子〉を出現させるに至る。ダビデの家の血、ユダの民の血、イスラエルの血がここに命脈を保ち、やがてイエスへ至るのです。
 ダビデ王の先祖の一人にルツがいて遥か未来でイエスにつながる、とずっと以前に書きましたが、ここでも同じことが指摘できると思います。いや、それ以上に大事な事柄かもしれません。
 幾つもの意味が重なって故の希望の曙光でもあるわけであります。



 帰り道、寒風に吹かれて夜空を見あげている。と、南東の空にオリオン座が輝いていました。そこに被るは翼端灯と機内の光を瞬かせる一機の旅客機。
 なにとはなしに、「いいなぁ」と感慨を覚えました。憧れ、渇望、歓喜へ至る苦悩、様々に湧きあがる想いの数々。
 死ぬときは独りぼっち:孤独死というのではなく。誰かのぬくもりにくるまれて死にたいのじゃ。リヴィング・プルーフ……おお、俺は生きている。

 あの人に、こんな歌詞を捧げます。
 Tell me,in a world without pity
 Do you think what I'm askin's too much
 I just want something to hold on me
 And a little of that Human Touch
 Just a little of that Human Touch
    冷たいこの世の中で
    俺の望みは高すぎるのか
    俺が望むのはただしがみつくことができるもの
    わずかばかりの人間のぬくもり
    そう、わずかでいい、人間のぬくもりが欲しい
       (B.SPRINGSTEEN:「Human Touch」より。訳は三浦久による)

 本日で聖書読書ノート「列王記下」を終わります。◆

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