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第3090日目 〈小説『それを望む者に』のまとめです。〉 [小説 それを望む者に]

 これまで本ブログでお披露目してきた拙い小説のまとめ記事、その第2弾であります。『それを望む者に』を読者諸兄の目に曝したのが2015年、実際の執筆はそれより何年も前のことです。
 妻を亡くした夫の話というのは変わりありませんが、最初のアイデアでは実は本作、黒魔術小説になるはずでした。そんな夫婦の話にブラック・マジックを絡めるつもりになったのは、倉庫内作業の仕事に従事していた<島>にあった廃ビルの存在でした。
 <島>と<陸>をつなぐ海底トンネルの<島>側出入り口からちょっと離れたところ、木立で薄暗くなっているところに建つビルを見あげて薄ら寒いものを感じずにはいられませんでした。老朽化して廃棄されたようには見えない。というのも、窓ガラスは1枚も割れていないし、木立側の壁の塗装も所々剥げてはいる。加えて、冬の暗くなった時刻に海底トンネルから帰ろうとすると、3階あたりの窓から電気の灯りがもれているのを見掛けたこともあった。要するに、どうして使われていないのか、まったく見当が付かないビルだったのです。
 そんな廃ビルを日々眺めていたら、小説の舞台に使えそうだ、と想像を逞しうし、ネタの2つや3つ思い浮かべるのは簡単でありましょう。そんなこんなで駅近くのスターバックスの窓際席に陣取り、ノートを広げてシャープペンを一心不乱に走らせて、閉店までプロットやキャラクター設定など書きつけた。けっきょく黒魔術の要素は排除され、死者の復活という、わたくしが高校の頃から取り憑かれているテーマに還ってゆくことになったわけですが……。
 舞台になる街の描写と神社の設定については、既に本作「あとがき」で触れておりますからそちらをご参照いただければ幸いです。
 この小説はわたくしにとって、なによりも愛する死者の慰霊でありました。有楽町の思い出をレイテ河に流して忘却する作業でもあった。その結果は関係者のみが知っております。



 第2097日目 〈【小説】『それを望む者に』 01/20〉

 第2098日目 〈【小説】『それを望む者に』 02/20

 第2099日目 〈【小説】『それを望む者に』 03/20〉

 第2100日目 〈【小説】『それを望む者に』 04/20〉

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 第2114日目 〈【小説】『それを望む者に』 18/20〉

 第2115日目 〈【小説】『それを望む者に』 19/20〉

 第2116日目 〈【小説】『それを望む者に』 20/20〉

 第2117日目 〈【小説】『それを望む者に』 あとがき〉



 お披露目したなかではいちおう最新作となっている『人生は斯くの如し──ヘンリーキングの詩より』は勿論ですが、いずれ、単発でお披露目した作品も一括まとめ記事を作らなくてはなりませんね。
 が、後者の作業に手を着けようと考えた途端、サルヴェージの手間に思い馳せて気持ちが萎えてしまうのです。いやはやなんとも。◆

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第2117日目 〈【小説】『それを望む者に』 あとがき〉 [小説 それを望む者に]

 小説『それを望む者に』を20日にかけて分載させていただいた。まずは今日までお読みくだすった読者諸兄に感謝の花束を。いつのときでも見捨てることなく呆れることなく、本ブログの読者であり続けてくれる皆様なくして、このようなわがままは実現できなかった。サンキャー。
 本作の執筆は、いま第一稿やその基となったノートが出てこないので記憶に頼るが、2009年の春から夏にかけての時期だろう。これは、前年の東京国際フォーラムでのアルバイトにて生じた思いの沈静を謀りつつも自分の内に宿る思い出を、却って生々しく記憶に焼き付ける結果となった作品である。
 東日本大震災後に本作を閲読してくれた数少ない知己の人たちは、本作冒頭の東北地方を襲った地震をかの震災と思うたようだが、事実は異なる。執筆の直前であったか、まさしく東北地方では道路のひび割れ、陥没を引き起こすような強い地震が発生していた。陥没した道路に、運悪く走行中の観光バスが突っこんで死傷者が出たかどうかは、覚えていない。『それを望む者に』は、いまにして思えば3.11の前兆とさえ思える大きな地震の報道に触れたことで、その頃執筆を目論んでいた黒魔術を用いた死者のよみがえりを扱った小説が変容して、現在読者諸兄の前にあるような形の作品として誕生したものである。そうして結局は、葬るつもりであった気持ちを復活させ、傷口に塗りこむような愚を(自らの手で)犯した……。
 作中では専ら地理の正確さ、町の描写の正確さに力点を置いたつもりだが、読者諸兄の目にはどのように映ったことであろうか。横浜市鶴見区の高台、伊勢佐木モールへの道程、東名高速道路の下り線……が、結果としてわが内にある幻想の故郷の創造に従事したのかもしれない。まぁ、或る町を舞台にした小説を書く、というのは、その町の再創造に等しい作業なのであろう。かつてスティーヴン・キングが《暗黒の塔》シリーズのなかで、ニューヨークの町並みを物語のために敢えて改変したのと同じように……空き地に咲く薔薇の花!
 後半の舞台となる北白川市はわたくしが高校時代から小説の舞台とすることたびたびであった町だが、一部と雖も実質的にその町並みや交通機関が描かれるのは21世紀になって書かれた本作が初めてとなる。われながら開いた口が塞がらないけれど、この間ずっと小説を書いてきたわけではないから、この空白期については諒としていただきたい。
 また、御澤神社の境内や建物配置、そうして周辺の様子については今回新たに設定を書き起こした。というのもずっと以前に書いたものではあまりに雑すぎて使い物とならなかったからである。だからなんだ、といわれるかもしれないけれど、作品の生命力を少しでも逞しく、強く、また長いものとするためには、どうしても必要な作業であったことなのだ。創作する者ならば、誰しも経験していることではないか。そうして──私事になるが、この設定の作り直しに費やす下調べや簡単な配置図などの作成は、すこぶる楽しい作業であった! なお、この神社のモデルとなったのは、神奈川県伊勢原市にある関東総鎮護、大山阿夫利神社である。わたくしは何度か訪れたこの神社、そうしてこの大山にいわれなき愛着と畏怖を感じる。いわばこれはわたくしの、この神社に寄せるConfession of Faithなのだ──とは、さすがに大仰か。
 本作にこめた気持ち、思いがどのようなものであったのか。それは行間をお読みいただければ自ずと明らかであるが、やはりわたくしは多くの怨霊に取り憑かれているのだ、と確認したことである。
 完結済みの作品とはいえ、本ブログでは久しぶりの小説掲載となった。アクセス数を見ると分載中も特に変化はない様子なので、これに調子附いて味をしめ、今後も折を見て過去作品のお披露目を企んでいる。◆

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第2116日目 〈【小説】『それを望む者に』 20/20〉 [小説 それを望む者に]

 夜になった。作家は一人で食事を作って、テーブルに運んだ。テレヴィで野球中継を観ながら食べた。そのあとで一人でシャワーを浴びて、風呂あがりのビールを一人っきりで飲んだ(冷蔵庫にあったギネスを買った覚えが、彼にはとんとなかった)。延長戦に入って放送時間内に終わらなかった試合の結果をスポーツ・ニュースで確かめると、そのままCS放送に切り替えて、一九三〇年代のイギリス映画を観た。エンド・ロールが流れるまでにビールの空き缶は、彼自身も気付かぬうちに五本に増えていた。
 寝室でベッドに寝転がってみても、眠気はまったく訪れる様子がなかった。こうした場合は経験上、羊の数を数えるのも逆効果である。どうせまた正装した雌雄の羊たちが優雅なステップを踏むのが関の山だ。ワルツを踊るならまだいい、でも今度はオペラでも歌いかねないな、と作家は吹き出すのをこらえながら、そんな夢想を弄んだ。
 御澤山から帰ったこの三日間、なるたけ妻のことは考えないようにしてきた(せいぜいが線香をあげるときだけだった)。そうした方が、早く望みは叶えられるような気がしたからだ。でも、こんな夜はふと考えてしまう。疑念混じりに、彼女のことを。希望は捨てちゃダメ、といった妻の声が心の片隅で聞こえた。十六歳も年下の女の子とこれから一緒に歩いてゆけるのか、と将来に不安を感じていた自分に妻がいい、新婚旅行のときにも作家へ諫めるようにいったあの言葉。
 いかなるときであろうとも、希望は捨てちゃダメだよ。
ああ、そうだと思う。しかし、ひとたび生まれた疑念は希望を微妙に歪めて、信じる心を蝕んでゆく。逃れる術は、たった一つ。たった一つの冴えたやり方を実行する。
 作家はむくり、と起きあがり、仕事部屋へ向かって机の前に腰をおろした。机の上に両肘をつき、重ねた両手の親指を額にあて、なぜかそれだけが明瞭に記憶に残っている詩編の一節を、そっと口ずさんだ。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこへとどまるだろう」と。
 そうしてから彼は、ノート・パソコンの電源を入れた。BOSEのCDラジオにライチャス・ブラザースのCDをセットして、再生した。次いで猛然たる勢いで、作家没して後も長く読み継がれることになる唯一の長編小説のプロットと第一章を書きあげた。数時間経ってから、印刷したプロットをじっくり読み返してみた。結末の手前でより効果のある展開を思いつき、内心で「よっしゃ!」と叫びつつ、赤ペンで細々と書き付けて、満足の溜め息をついた。
 リビングの時計の鐘が四時を知らせている。外は白み始め、雀のさえずりが聞こえてきた。
 ノート・パソコンの脇に置いた携帯電話が鳴った。エーデルワイスの着信音を設定しているたった一人からの電話である。最小のボリュームにしてあったから、机の前にいなければ気附かなかったかもしれない。彼は原稿を上書き保存するとパソコンの電源を落として、充電器に繋いだままの携帯電話を取りあげた。背面のサブ・ディスプレイに蛍光グリーンで“CALL”の文字が浮かびあがっている。携帯電話のフリップボディを開いて通話ボタンを押すまでの間、彼は迷った。が、それもほんのわずかな時間だった。彼は深く息を吸いこんだ。やがて小さく頷くと、通話ボタンを押して受話口を耳に当てた。その瞬間、彼の周囲から生きとし生けるものの気配がみな消え失せた。雀のさえずりも、この時間帯にいつも聞こえてくる新聞配達のバイクの音すらもこの世界から退場したような静けさが、作家の周囲に訪れた。携帯電話の向こうで彼と同じように言い躊躇っている相手の呼吸だけが彼の耳に届いた。
 悠久の希望を与えてくれる君を想えば、夜も短い。嗚呼、わたしのラキシス、君を想えば夜も短い。
 「もしもし?」と作家はいった。


 四十九日を済ませる前に作家は伊豆へ転居した。毎晩電話で協議を重ねた末の決断だった。思いの外、引越作業は早く進み、前日の午前中にはすべての荷造りが終わった。それまで仕事部屋に使っていた部屋(いまは梱包された段ボール箱が積みあげられて幾つもの塔を築いている)で、そこでは最後の執筆を終えると、一時的に役目を放棄して単なる箱と化した家具が影法師となって壁を背にたたずむなかを行き、敷かれた布団へ倒れこみ、最後の夜を過ごした。
 かつての同僚から安く譲ってもらったデミオ(これの代金と中伊豆に購入した別荘の支払いで、貯金の三分の二が吹っ飛んだ)に乗って、運送会社の六トン・トラックを追うようにして住み慣れた横浜を離れ、途中、ちょっとした渋滞に巻きこまれながらも東名高速に入り、以降は順調に進んだ。真上から照りつける梅雨明け空の太陽がボンネットに反射して、カーブのたびに作家の目を射る。これが真夏だったら事故を起こしているかもしれない。彼は苦笑して、スピードを落としてからいちばん左の斜線へ車を移した。平日のせいで普通車はあまり多くない。その代わり、横の車線をびゅんびゅんと、地響きを思わせるエンジンの唸り声をあげて、トラックが何台も通り過ぎてゆく。作家はそれらを、諦めを含んだ目で見送った。
 やがて上下線が大きく離れ、緑深い山々の間を無骨な橋脚に支えられて、さらに高く低くなって続くようになった。丹沢山系へさしかかったのだ。ずっと上の方では薄い靄が棚引いて横たわり、視界をさえぎっている。夜ともなればそれは牙を剥いて山肌を伝いおり、高速の下の方まで覆い尽くすことだろう。都夫良野トンネルを抜けてこのあたりを走るのは、いつだって怖い。それは靄━━ときには霧に変化する━━のせいでもあり、離ればなれになった上り方面の高速をこうして見あげてもたらされる底知れぬ不安が生み出した恐怖だった。下から見あげる橋脚は無骨ながらとても頼りなげに見える。もろい部分をさらけ出して、山肌に縋りついているみたいだ。テロの標的になったり、地震で崩れ去ったって、まったくおかしくない。そのときに、このあたりを走っているのは絶対に嫌だ。でも、作家はどうしても考えてしまう。もしこの場所でこんな事態に遭遇したら、とフィクションをこしらえて現実味を付加するのは、妄想を売り物にしている立場にある者の特権だ。ただ一つ難点があるとすれば、そのとき弄んだ妄想があまりに真実味を帯び出して、気分を悪くさせることがままあるということだ。事実、作家はそんな目にあったことがある。そのとき助手席には婚約者がいて、次のサービス・エリアで休んだ。さりながら、現在、横浜をあとにして中伊豆に向かう作家運転するデミオは何事もなく順調に、東名高速の下り車線を走ってゆき、丹沢山系にさしかかり最初の中継点に近づいている。
 鮎沢パーキング・エリアまで四キロ、という標識が目に入った。そのまま車を走らせ、パーキング・エリアの進入路へ車線変更する。道は大きく回りこむようにして半円の弧を描き、駐車場に入った。ここで作家は待ち合わせをしていた。婚約者に頼みこんで休憩した、情けない思い出がある場所だ。同時に、彼女の違う側面が堪能できた場所でもあった。それゆえにここを待ち合わせの場所に選んだ。閑散とした駐車場にデミオを停めて車から降りて、ぐるりを見渡した。どのみち、それほど広いパーキング・エリアではない。すぐに相手の姿は認められた。そのとき、人目を忍ぶ恋をしている気がした。世間の倫理に背いた恋であるのはじゅうぶん承知している。だが、それでもいい、と彼は思う。そんな恋だってこの世にはあるのだ。
 藤棚の下のベンチに、満面の笑みを湛えてソフト・クリームを舐める女性がいた。作家はそちらへゆっくり足を向けた。片手をあげて接触を試みる。その女性はすぐに気がついて、腰をあげて陽光の下へ出た。相手の足許から正方形のアスファルトが敷きつめられた路面(その継ぎ目からは勢いよく雑草が生えている。どんな環境、どんな条件下でも生命は芽吹き、育つのだ)へ伸びる黒い影を見た。太陽の下でそれがあるのを確かめられるのは、なんとも気分のいいものだった。
 麦わら帽子をかぶったその女性が、こちらへ歩いてくる。自分でもそれと知らぬ間に涙を流していた。随喜の涙だった。彼は差し出されたソフト・クリームを一舐めすると、目の前にいる妻をかき抱いた。ソフト・クリームがシャツにくっついたが、気にはしなかった。はらり、と落ちた麦わら帽子が二人の足許に転がって、数回転して勢いを失うと、頭頂部を下にして止まった。妻が身をよじっても、作家は腕の力を弱めようとしなかった。彼女は観念した表情でつま先立ち、ソフト・クリームを持っていない方の手を伸ばし、夫の首へ絡めた。目が合うと、さも当たり前のように唇を重ねた。
 「もう少し背が伸びますように、ってお願いすればよかったかなぁ」と彼女がぼやいた。
 「そのままでじゅうぶん」吹き出すのをこらえながら、作家はいった。
 「それはあなたの言い分でしょ? わたしはさぁ……まぁ、いいか」
 両頬をふくらませてこちらを見あげる妻の肩へ手を置いた。そうして、妖しの力へ感謝を捧げた。それを望む者にのみ力は振るわれる。ああ、まったくその通りだ。が、願いには代償が付き物だ。代償としてお前の命を差し出してもらう。よみがえりの樹の下で妻を託した相手は、あのとき作家の耳許でそう囁いた。あと四年の命だ、それを定めと心して生きるがよい。逃れることはかなわぬ。ならば、と作家はつらつら思う、与えられた命があと四年なら……如何にしてこの歳月を愛する死者と共に、悔いることなく生きてゆくかを考えよう。
 「あなた?」と妻が呼びかけた。どうした、と見ると、彼女はゆっくりと唇を開いた。「例え結果がどうなろうとも、チャンスを与えてくれてありがとう」
 いや、と夫は頭を振った。「俺は為すべきことをしただけだよ」
 二人はデミオに乗りこんだ。しばらく走ってから、妻がぽつり、と呟くようにいった。
 「ただいま」
 妻の手に自分の手を重ねて、作家は返事していった。「おかえり」と。◆
【小説】『それを望む者に』完


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第2115日目 〈【小説】『それを望む者に』 19/20〉 [小説 それを望む者に]

 教えてほしい、これからどうすればよいのかを。沈黙の掟なんてものが横行していいはずがない。だから、教えてくれ、我が妻よ。だが、それに答える者はいない。妻は隣にいるけれど、今日はまだ一言も、彼女の口から言葉が洩れてこない。答える変わりに、彼女は傍らに立って、夫の肘の少し下を両手で握り、怯えの色を隠せぬ眼差しで彼を見あげていた。
 作家は妻にちらり、と目を走らせただけで、すぐに桜の木を見あげ、そのままあたりへ視線を走らせた。空の色が既に宵刻の訪れを知らせている。林も原っぱも、背後の洞を持った松の木も、色を増してゆく暮色のなかで沈むように眠りへ就こうとしていた。風のそよぐ音も、鳥の鳴き声も、なにも聞こえない。森は、沈黙したままだ。不安と予感を孕んだ大気が彼らの周囲で渦巻き、何事かが起きるのを待って息を潜めている。
 肘の少し下を触る妻の手が離れた。なぜかは知らない。作家はもう一度、桜の木を見あげた。自分はここで、道の向こうから誰かがやって来るのを待っているのだ。そんな思いが、心のなかでじわじわと広がっていった。比例するように、だんだんと気持ちが落ち着いてくるのも感じていた。
 するとそのとき、つむじ風が巻き起こった。池の面はそれでも波一つ立たなかったが、原っぱの鷺草はざわめいて乱れて緑の海にさざ波を立てている。 作家は妻の体をかき寄せたが、いたずらに空を掻くばかりだった。まわりを見まわそうとしても、風に嬲られてそれもできず、ただ背中を曲げ、首を亀のようにすくめ、顔を背けて、曲げた両腕をあげて、なんとか身を守ろうとするので精一杯であった。彼の足許の叢(くさむら)に、この状況下でなくても不自然な程まっすぐな窪みが生まれ、そのままよみがえりの樹目指して走っていった。それは根元まで辿り着くと這うように幹を駆けあがり、そのたびに不快な音を立てて樹皮を剥いでゆく。つむじ風が去ってからそこへ目をこらすと、赤みのさした黄土色の木肌に殆どまっすぐな筋を描いて上へ伸びている。
 と、よみがえりの樹が震えた。枝が揺れ、葉のぶつかる音が頭上から降ってきた。その葉が、幾枚もはらはらと舞い落ちてきた。刹那の間、妻のことを忘れ、目の前で震えて唸り声をあげる桜の木へ見入っていた。やがて幹の樹皮様が奇妙な具合に歪んだ。『ウルトラQ 』のオープニングでマーブル模様が捩れて様々に形を変えてゆく場面を、作家は思い出していた。堅固に思えた幹の樹皮は内側へぺろり、と落ちこみ、徐々に幅を広げてゆき、だいたい五〇センチばかしの穴が生まれた。幹の内側にできた穴は深紅に塗られており、ときどきその面を樹液が垂れ落ちて、不気味に鼓動をしていた。
 驚愕の表情で見守っていたとはいえ、これが現実に目の前で起こっている現象であるのを、作家はちゃんと了解していた。幻覚と疑うものはなにもなかった。眼前で起こった出来事が偽りであるなら、今日この御澤山へやって来たこと自体が実は夢のなかの出来事であったといったって過言ではないだろう。
 彼は生唾を呑みこんで、一歩、桜の木へ歩み寄った。実在したよみがえりの樹を見出した喜びと、果たして本当に伝承通りの結果がもたらされるのか、という不安を抱きながら。
 そのときだった、
 「復活を求めるはお前か、男よ?」
 くぐもった声は穴の奥底から聞こえてきた。発声は幾分不明瞭ながら、さっき唐松の林のなかで聞いたのと同じ声だ。ついでにいえば、妻があの晩見せた《像》のなかで聞いたヴォータン神とも同じ声である。
 いつしか、幹にぽっかり空いた穴から薄桃色の光が放たれ始めた。光量がだんだん強まってゆく。その輝きのなかから、頭巾の付いた長衣をまとった者が現れ、作家の前に立った。背は作家よりずっと高い。優に二メートルを越えているだろう。作家自身身長は一七六センチあったが、それよりも頭一つ分は高い。叢まで裾を引きずった長衣は、周囲が宵闇に埋まるなかでも銅色に輝いていた。動いてこちらへ近づくたびに、衣の皺が青と緑を基調とした色に変わる。その様を、作家は信じられぬ思いで見つめていた。頭巾にぽっかり開いている顔の部分は濃い影が落ちて、表情どころか輪郭さえ判然としない。例え真夏の午後の陽射しの下にあっても、ただひたすら漆黒の闇に似た影を湛えるばかりであろう。作家は数歩後退ってこわばった顔で、長衣をまとった者を見あげた。眼球に相当するものだけでも闇に浮いていたら、と思うが、それすら見えそうになかった。やがて長衣の者が、すっ、と片手を差し出した(そのときになって、もう片方の手に水晶を固めて伸ばしたような透明な杖が握られているのに気がついた)。作家は無意識に手を伸ばし、相手の手を握った。つるつるの皮膚の感触は、人間の肌というよりも蝋人形のそれに近い。総毛立った。口腔から肛門へ冷たい棒を射しこまれたような気分になった。
 長衣をまとった者は、作家の瞳に恐怖が宿っているのを無視するようにして、じっと作家を見おろしている。そもそも目があるかどうかもわからないのに、視線を感じるなんておかしな気分だが、そのうちになぜ相手が無言でこちらを見おろしたままなのかに思い至った。そう、相手は作家に訊ねたはずだった━━、
 作家は、震える声をどうにか抑えながら、「そうだ」といった。
 長い沈黙が訪れた。少なくとも、作家には何分にも思える沈黙だった。こちらの心の底まで探るような視線を感じる。不安が徐々に大きくなってきた。門前払いを食らわされたらどうしよう、と心配を抱き始めたときだった。
 「結果がどうなろうと悔いることはないな?」
 「あいつが帰ってくるなら、後悔なんてしない」
 喉の奥、渇いた唇の間から、斯くも力強い言葉が出てくるとは、我ながら意外だった。処刑を前にした英雄のような気分でもある。わたしは愛する民のために戦った、
 「復活は一度のみと承知しているな?」
 「復活は一度のみ。ああ、承知している」
 その者の言葉をおうむ返しにしたことで、契約が締結されたのがなんとなくわかった。もう後戻りはできない。妻のよみがえりは《彼》と桜の巨樹を媒介とする妖しの力へ委ねられたのだ。自分の関知せざる領域へ、永遠の伴侶は束の間の旅に出た。いまや不安は消え、希望だけが目の前に広がっている。そう信じたい。
 作家は相手の手に、デイ・バッグから出した妻の遺灰(骨壺からプラスチックのボトルへ移し替えたとはいえ、それでもじゅうぶんに重たかった)に衣服と写真、そして解約をしなかった妻の携帯電話を渡した。ややあって、すーっ、と耳のすぐ近くへその者の気配が動いてきた。相手は低い声で、作家だけにしか聞こえない程度の声で囁いた。それは代償を求める言葉だった。よみがえりには必ず代償が付き物だ。それを聞いて、作家は自分の背中に氷柱が添えられたような気分を味わった。が、頷くより他はなかった。再び妻と暮らすことが出来るなら、と。
 あたりはもう一度薄桃色の光に包まれた。それは、さっきよりも強い輝きを放っているようだった。目を眇めて腕をかざして桜の木を見ようとしても、光の筋が眼を射して数秒と開けていられない。目蓋を閉じても薄桃色の光はまだ作家の目から消えようとしない。が、やがて光は弱まってゆき、長衣の者が現れて語りかけたときのように、完全に周囲から消え去った。
 恐る恐る目を開けてみる。あたりは暮色が落ちて、見あげるようにして立つ眼前の桜の木を覗いては輪郭がはっきりしない。幹に開いた穴もすでになく、樹皮に走って抉った線もどこにも見当たらない。さっき無意識に《彼》と呼んだ長衣の者の姿も、薄桃色の光が薄まってゆくと共にかき消えていっていた。
 復活は一度のみ。だが、妻が帰ってくるならそれでいい。
 デイ・バッグを背負い、去り際に彼はもう一度桜の巨樹を仰ぎ見た。そうして、愛情と希望のこもった声で、妻の名前を口にした。君を想えば夜も短い。悠久の希望よ、絶えることなく彼の人の前を照らせ。絶えることなく我々の行く手を照らし続けよ。刹那、彼女の気配がすぐ傍でしたが、それと気づかぬうちに消えた。巨樹の幹がわずかに震えたように見えたが、すぐに収まった。何事もなかったかのようにあたりは深閑とした空気に包まれた。
 しばらくの間、木の下にたたずんでいたが、「待っている、何年でも」と呟くと、踵を返してその場を立ち去った。松の木と祠を横目に池の淵をめぐり、唐松の林のなかへ。ここに至るまでの行程を逆にたどり、木々のさざめきと夜の鳥たちの歌声を聞きながら。

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第2114日目 〈【小説】『それを望む者に』 18/20〉 [小説 それを望む者に]

 池の向こうから林の方へ微風が吹き寄せてくるのを感じた。彼は唐松の林を抜けたところでちょっと足を停め、小首を傾げて池を眺めた。なにかがおかしいぞ、とマック・テイラーの声色で独りごちた。ペンライトを手にしていたら、きっと池の方向を照らしていたことだろう。
 しばらく池とその向こうの林をじっ、と観察していて、小さな違和感を感じたその理由がわかった。池の上を風は渡ってくる。本来なら水面にさざ波が立って然るべきだろう、なのに、池の面はひたすら静かに沈黙を守っていた。波一つ立たず、変わらず四囲の景観を映し続けている。
 なるほど、と彼は呟いて、ゆっくり歩を進めた。やわらかな下草を踏みつけて、唸るような溜め息を口の端から洩らしながら、汗をしとどに吸いこんで臭くなったハンカチで額から頬、首筋の汗を拭った。さっきから唇が乾いて困る。冬場でもないのに、ひび割れを起こしそうなほどだった。
 池の淵まで来たところで足を停めた。池は見おろす彼の姿を当たり前のように映し出している。がやはり、池の面を渡ってくる風は波を立てることも、彼の姿を歪めることもしなかった。
 腰に手を当てて、あたりを見渡した。奇異な光景が目に入った。蔓草と蔦が傍らの古木の枝から垂れて、なにかを隠す目的で互いの身を寄せ合いよじらせ、地面から緑色の塚を築いている。幾重にも重なり、やたらと強固に見える。それは、なにかを、びっしりと覆っていた。
 周囲の光景への溶けこみ具合と来たら、注視しなければ見落としそうなぐらい。だが、明らかに異質な光景でもあった。自然に作られたのだろうが、あくまで結果に過ぎない。
 彼は、緑色の塚から目をそらさず近づいた。まるで一瞬でも目を離したら、たちまち消えてしまうとでもいうような雰囲気である。近づく足取りは慎重で、抵抗をやめた犯人に歩み寄る警官みたいだ。
 塚の前で膝を折り、しゃがみこんで蔦と蔓草を手で払った。蔦と蔓草の壁は存外に頑丈で手こずるが、丁寧に、左右へ薙ぎ払った。その下にあるものがあたかも聖遺物であるかのように。作業を進めるたびに、手が緑色に染まる。植物の茎を折ったときの匂いも、鼻先をかすめていった。最後に残った蔓草と蔦の壁へ両手の指先を押し込んだ。そうして、左右へそっとかき分ける。これまでと異なって、なんの抵抗もなかった。
 蔦と蔓草をすべて払うと、塚のなかから祠が姿を現した。相当昔に造られ手入れする者も最近はなかったようで、木材は黒ずんでひび割れ、湿気を大量に含んでキノコの苗床になっている。なんだか見てはいけないものを目にした気分になり、作家は蔓草と蔦の壁で覆い隠すようにしてから合掌して立ちあがり、そこから離れた。
 祠を背にして三、四歩歩き、ポケットに手を突っこんで、踵を返してうち仰ぐ。その視線の先に、池の上にまで大きく枝を張り出して、人一人がじゅうぶんに入れなかをうろつけるだけの空間を持つ洞がぽっかり開いた、祠を隠していた蔦と蔓草を枝から伸ばした老松の巨木があった。夕暮れが迫り、松の木は夕陽を背にしている。枝の間からオレンジ色の陽射しが通り抜け、作家の目を射した。掌を目の上にかざし、仰ぎ続けた。
 これがよみがえりの樹なのだろうか、と自問する。いや、そうではない、と彼は自答した。妻が見せたあの《像》でよみがえりの樹は桜の木だったのではあるまいか。あの桜を探せ、と彼女はいわなかっただろうか。一つのチャンスにすべてを賭けるため、そのときが来たら自分をあの桜の木のある場所へ連れていってほしい、と妻はいったのではなかったか。それに被さるようにして、ヴォータン神を思わせるバリトンの声が告げなかっただろうか━━それを望む者のみがそこへ辿り着く、と。
 そう、自分の前に立ちふさがるようにしているこの松は、よみがえりの樹ではない。でも、この近く……とても近い場所に、よみがえりの樹はある。《像》のなかでも感じたような、この世のものならざる雰囲気がいまや現実感を伴って、自分の周囲を包み、露出した肌という肌を舐めるように覆い尽くそうとしているのを感じる。
 彼はなんの気なく身をかがめて、洞のなかを覗きこんだ。コウモリがいやしないか、とびくついたが、勇気を奮って足を踏み入れた。ひんやりしている、というよりも、寒かった。胸の前で両腕を組み合わせ、掌で反対の二の腕をさすった。頭上の漆黒のなかに潜むやもしれぬ輩にビクビクし、首をすくめて背中を曲げて、洞のなかをうろついてみた。外から見て感じたよりは、ずっと広い。入った途端、自分の体が縮んでしまったような錯覚さえ感じるほどだ。幹の反対側に開いた洞は、作家が入ってきたよりもずっと小振りだった。妻なら頭から入りこんでどうにか脱出できるだろうが、作家には無理だ。その小振りな洞から外を覗いた。作家は自分の目を一瞬疑い、手で目をごしごし擦って、目をしばたたかせ、深呼吸して、もう一度、洞から外を覗いた。すると、それがそこにあった。

 求めたそれが、そこにあった。よみがえりの樹が、洞から覗いた外にあって、作家を歓迎している。よみがえりの樹はやはり桜の木だった。この松の木と同じかそれ以上かもしれない樹齢の、枝に青葉を豊かに茂らせる老いし桜の巨樹であった。
 作家は外に置いたままのデイ・バッグを取りに戻った。祠の横を迂回して松の木の裏に回る。猫の額ほどの幅の鷺草の原っぱを渡り、桜の木の前に立った。根元にうずくまっていた妻が顔をあげた。待ちくたびれた、とでもいわんばかりの表情だった。
 作家は彼女の顔を見て、訊ねた。
 「さて、これから俺はどうすればいい?」

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第2113日目 〈【小説】『それを望む者に』 17/20〉 [小説 それを望む者に]

 林のなかでは、唐松の枝と針状の葉が重なり合って西日の熱を遮断し、その残光を細い帯へ変えて、土と落ち葉の上に矩形の溜まり日を作っている。それをたどるようにしてうねうね蛇行して、御澤山の西の斜面を下りてゆく。時折林をひんやりとした風が通りすぎていった。
 新婚旅行先のモルディブでの出来事を、思い出した。時折こちらを振り返る妻と目が合ううち、記憶の底から偶然掘り起こした思い出だった。
 あれは到着して何日目のことだったろう。いまと同じで夕暮れ刻だった。
 長編小説の決定稿を仕上げて午睡のまどろみから覚めた作家は、ベッドから起きあがると、寝ぼけ眼で妻の姿を探した。ベランダへ出て、コテージの三方を廻っても彼女はいない。泳いでいるのかな、と海中へ伸びる階段を真ん中まで降りてみても、姿は見えなかった。水が砕けたり、跳ねる音もしない。聞こえるのはコテージとベランダを支える杙へ静かに打ちつけ砕ける波の音ぐらい。念のため、階段からコテージの下を覗いて、床下と、コテージと島を結ぶ桟橋の下も探してみたが、どこにも人のいる様子はなかった。
 頭を振りつつ不安でたまらなくなった心をどうにか落ち着かせながら、コテージのなかへ戻った。もしや、とバスルームの扉を思い切り開けてみた。コーナー出窓が付いたバスルームに、妻の姿は見当たらない。使われた様子もなかった。もしや、誘拐されたんじゃあるまいな、えーと、まずはフロントへ電話して警察を呼んでもらわなくっちゃ、と髪を掻きむしる寸前の心境で、作家は、顔が青ざめてゆくのを感じながら、コテージのなかをうろうろ歩き回った。むふぅ、と鼻息を荒く鳴らして足を停め、バスルームの扉の陰に隠れていたランドリー・ボックスに、バス・タオルが掛けられているのを目に留めた。あんなの、午睡の前はなかったぞ。胸のなかで呟きながら、彼はそれに歩み寄った。恐る恐るそのバス・タオルを取り除けてみる。と、そこに妻の、折りたたまれた下着の上下とドレスが置かれていた。
 ぼんやりとそれを見おろしながらその場に突っ立っていると、桟橋の方から、聞き覚えのある、こらえるような熱い吐息がかすかに聞こえた。眉間に縦皺を刻んで、そちらへ摺り足で近づく。桟橋には腹這いになってあらぬ方角を一心に見つめている妻がいた。
 彼女の視線の先にあるものがなにかも知らず、寝汗で固くなりごわごわになった髪を掻きむしって、その場に立ったまま、作家は、
 「なにやってんの?」
と訊いた。
 ひっ、と短い悲鳴が妻の口から洩れた。背を反らせてこちらを見あげる眼は大きく開かれている。目が合うや、指を唇へあてて、しーっ、しーっ、と黙るように促した。「早くしゃがんで! これからいいところなんだから」
 なんのことやらわからぬまま、妻の横にしゃがんで腹這いになり、事情を訪ねようとしたが、それよりも早く彼女の指さす方角へ視線を投げて、ああなるほどね、と合点した。そうして、おいまさか一日三回でも欲求不満か、と空恐ろしさを感じた。
 「━━あのさ、ずっと見ているの?」
 「うん」と夫を見ずに頷いた。「シャワー浴びようとしたら、あのコテージのカップルがおっ始めてくれたからさ」
 「だからって覗き見する?」
 そういいつつ作家の目も、妻と同じものを真剣に見つめている。妻が横目でそれを認めて、肘で小突いた。
 「自分だって見ているくせに。もう熱くなってきちゃっているんじゃないの? まぁ、私も人のことはいえないけれどさ━━っ、おおっ!」
 隣で唾を呑みこむ音がはっきり聞こえた。口から洩れる溜め息も、いつもよりずっと熱くて……妻も夫も、なんの変わりもない。彼らは桟橋に伏せたまま、隣のコテージのカップルが傍目にもわかるぐらいに絶頂を迎えるのを、つぶさに見つめ続けた。……むろん刺激されて二人はその場で貪るように荒々しく唇を重ね、バスルームへ移動してたっぷり何度もまぐわった。
 そうそう、そんなこともあった。作家は苦笑混じりに頷いた。年齢と体力を考えたら早く子供が欲しかったし(妻の方に事情があってすぐには子作りへ取りかかれず、そのうちにあんな事故が起こってしまったわけだけれど)、十六歳も年下の、かわいいと綺麗の間をたゆたう女の子をお嫁さんにしたら、そりゃあ誰だったがんばるよな。
 幸せと悲しみが綯い交ぜになった笑みをを浮かべた。がんばろうね、と妻の声が耳許で聞こえた。それが自分の生み出した幻聴だとはもうわかっている。自分の記憶のなかに仕舞いこまれ、自分に都合よく加工され編集された偽りの妻の声であることは。でも、いまはそれに縋りたかった。わずかでもチャンスがあるのなら、それに縋るのは当然じゃぁないか?
 唐松の林はまだ続く。斜面はわずかながらなだらかになったように感じる。進む先には唐松の林が続いていた。木の陰から、妻の後ろ姿が見え隠れしている。飄然と彼女は去ってゆき、と彼は呟いた、作家は彼女を追った。

 湿った土を踏みしめて、ところどころに露出した根っこにつまずかないよう注意しながら、林のなかを歩いていった。
 足の裏で、なにかが乾いた音をたててつぶれた。その音は耳のすぐ近くでしたように聞こえた。生々しいその音に心が動揺しなかったといえば嘘になる。彼は足を停め、恐る恐る足許を見やった。足をゆっくりどかしてみる。松ぼっくりの残骸が転がっていた。まるで骨が踏まれて砕け散ったような光景だった。松ぼっくりの粉微塵になった部分は、ヤスリで削ってその場に撒き散らした骨粉のようだ。
 作家は大きく喘いで手を離した。膝と両掌を土と落ち葉の上について、ぐったり頭を垂らした。デイ・バッグが肩からずれて腕に垂れた。汗がこめかみから頬を伝って顎や首筋へ流れ落ちる。
 斜面の下から鳥の鋭い鳴き声が一度だけ聞こえ、羽ばたいて空へのぼってゆく音がした。うなだれたままそちらへ投げた視線が、ある一点で固定された。ひゅっ、と喉が鳴って、目を見開いた。信じられない、だが、あれは現実だ。砂漠の彷徨者が幻で見るオアシスなんかでは、断じてない。だって、そこにあるのは……
 ……よみがえりの樹を探す唯一の手がかりとなる池だったから。
 拳にした手で腿を叩いて、よろよろと彼は立ちあがった。引き寄せられるようにして足が勝手に進む。さっきの鳥なのか、鳴き声がずっと上から聞こえた。もう作家はうち仰いでそれを見ることはせず、ただ歩き続けた。よみがえりの樹が傍にあるという、深山の奥のなお奥つ方に確かにあった池を目の前にして、彼はゆっくり歩き続けた。

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第2112日目 〈【小説】『それを望む者に』 16/20〉 [小説 それを望む者に]

 体のあちこちが軽い痛みを訴えている。それに耳を傾ける余裕は、だがない。ふらふら立ちあがって視線を投げた左側には、木漏れ日の射す山林が広がっている。視界の上端でなにかが動き、つられてそちらを見あげた。林の中に立ってこちらを見ている妻がいた。
 手にしていたデイ・バッグを背負ってから、肩越しに参拝路を振り返った。誰もいない。念のため、上も見てみた。だいじょうぶ、瑞垣から下を覗きこんでいる物好きなんて、俺ぐらいのものだ。そう、そこにも誰もいなかった。さあ、行くとしよう。寸劇の幕があがる。
 妻へ大きく頷くと、作家は、人の手の入っていない林の中へ、道なき道を分け入っていった。

 地面には落ち葉が堆積していた。湿り気を帯びた土が、その所々から顔を覗かせている。林の中へ落ちる木漏れ日が地面を優しく照らし、あたりを静謐な光景に映している。
 それにしても、馴れぬ山歩きである。これまでの人生で山登りの経験があったかというと、実は二度ある。苦い思い出と甘い思い出が共存した、山登りの思い出。
 一度目は高校生のとき。毎春になるとご大層な名目の下に男子生徒のみが箱根連山へ夜明けから登らされた。金時山から矢倉岳まで約六〇キロの強行軍である。毎回脱落者が十名近くは必ず出て、脱落者を出した班には連帯責任の名の下に徹底的な体罰が待っていた。ひどいものだった。あの伝統はいつしか廃止されたと聞くが、体罰が原因で肺出血を起こして死んだ生徒がいるのを、高校は未だに公表していない。小説家としてデヴューしてしばらく経った頃、その高校から匿名であの事件については語らぬように、と箝口令じみた文書が届いたこともあった。だが、作家はいつの日かそれを書くつもりでいる。死んだ生徒は作家と同じ班にいた人物だったからだ。御澤山の斜面を歩きながらそれを思い出し、まったく呆れた話だな、と頭を振った。そしていつの間にか、作品のプロットを練ろうとしている自分に気がついて、呆れたような笑みを口許に浮かべた。
 あともう一回は、妻が一緒だった。それぞ甘美なる思い出、彼女が一緒にいればすべての過去はせつなさと甘酸っぱさを伴ってよみがえる、おお我が「バラ色の人生(ラ・ヴィアン・ローズ)」よ━━。まぁ、そんなところかもしれないな、と胸のうちでずっと昔、高校生の頃にラジオから流れてきて好きになった古いシャンソンの一節をなぞってみる。口の端からうろ覚えの歌詞をこぼしながら、二度目の山登りを回想する……婚約してさほど経っていない早春の鎌倉……鎌倉アルプスをめぐる天園ハイキング・コースを歩いて、自分と彼女の体力の差を感じた山登り。年齢差がここまで響くものか、と痛感させられ、疑問にも感じた山登りだった。あの山道もそれなりに難儀だったが、それでも人の手がじゅうぶんに入っていた、山登りといえるかどうかも怪しい山道ではあった。なによりも、鎌倉は金時山-矢倉岳と違って、一応の安全は保証されていた。それをいうなら、金時山-矢倉岳ラインとこの御澤山は似たようなものかもしれない。だが━━
 ━━いまの俺は義務や押しつけられて山道を歩いているんじゃない。すべては一つのために、一つはすべてのために。それ故に、俺は動く。妻のために、未来のために、例え結果がどうなろうとも、そこにわずかでも希望があるのならチャンスを生かすべきだ。悠久の希望は絶えることなく、彼の人の道を照らさなくてはならない。嗚呼、愛し子よ、君を想えば、夜も短い。
 ずっと前屈みになって歩いていると、腰が硬くなってくる。彼は立ち停まって、背中を伸ばした。胸を反らせて肩で息をする。そのたびに肺のずっと奥までひんやりした空気が入りこんできて、肺の壁を冷却させるように感じた。
 額の汗を腕で拭い、目をしばたたかせて、上の方を見た。なだらかな登り斜面が続いている。落ち葉と土に覆われた地面は、誰かに踏みしだかれた形跡はない━━少なくとも最近は。というのも、先人の落とし物ともいうべきものが、落ち葉の堆積する下に埋もれていたからだ。一メートルばかりの長さの、途中の参道沿いの土産物屋でも売られていた登山用の杖だった。湿気で表面に割れ目が走り、キノコまで生えている。誰が、どんな目的でここを歩き(どれぐらい前なのだろう?)、いかなる理由でここに杖を落としたのだろう。自分と同じで、この山の奥(のどこか)にあるよみがえりの樹を探していたのか。なんにせよ、ここを誰かが歩いていた証拠ではある。嗚呼、どうかこの杖の持ち主が遭難したり自殺したりしたのではありませんように。
 大きく息をついて、腰に手をやって、少し上の方にいてこちらを見つめている妻へ目を向けた。目が合うと、彼女は踵を返して馴れた様子で斜面を登り始めた。作家もそれに続く。重なり合った倒木を避けて通り、遠くに野鳥の鈍い鳴き声を耳にし、ひたひた忍び寄ってくる夕暮れの気配を感じながら、帰ってくる妻のことをひたすら考えて、作家は歩いた。
 五、六分歩いたと推測したちょうどそのとき、ひょい、と顔をあげると、行く手にはもう登り斜面が少なくなっていた。山頂に着いたのかな、と一瞬思ったが、すぐに考え直して否定した。そこが本当に山頂なら、山の稜線が右から左へ、下から上に走っているわけがない。俺は尾根に近づいているんだ。少しがっかりした━━山頂に着いたら、そこに誰もいなかったら、大空を仰いで何事か叫んでみるつもりだったのだ━━が、それでも登り斜面が終わりかけている事実に変わりはない。やれやれ、舞台のスポットライトのように木漏れ日が尾根に落ちて溜まっている。そのなかに妻がいた。まぶしそうに目を細め、手を額へかざして、頭上から降り注ぐ木漏れ日を笑顔で見あげている。
 もうすぐだからな、待っていろよ。作家はそう呟いた。一歩一歩、彼女の待つ尾根へのぼってゆく。それが、意外に遠く感じられた。

 隣に立っても妻はこちらを見なかった。どころか、なにも話そうとさえしてこない。
 でも、同じ場所に立って同じ風景を眺めているだけでよかった。昨日までの彼ならば相手の肩を抱いていただろう。いまはそんなことをする必要も感じない。小さな心境の変化だった。あとになってそれは自分の意志ではなく、樹の意志だったのかもしれない、とふとした折に考えるようになるが、いまはそこまで考えをめぐらせることはできなかった。ただ同じ風景を一緒に眺めていることに幸福を感じているだけだった。
 尾根の草むらにできた日溜まりのなかで十羽近くの雀が、さえずりながらちょこまか移動して、地面にうごめく虫をついばんでいる。頬をゆるませて妻に教えようと、作家は妻の方へ振り返った。どこにも彼女はいなかった。足を踏み出すと草にすべって尻餅をついた。顔をしかめて立ちあがると、斜面をくだった夏草の生い茂るなかに、こちらを見あげる妻がいた。切迫したような眼差しをしている。彼は頷いて斜面を下り始めた。のんびり油を売っている場合じゃないよな、ごめんよ。妻の名を呟いて、そう心のなかで謝った。
 やがて、これまでよりはなだらかな斜面に出た。唐松が林を作っている手前まで歩を進めた。陽射しをさえぎる鬱蒼とした林の薄暗い闇へ目をやると、あたりにバリトンの深い声が響き渡って、作家の耳を聾した。
 従え、そうして、務めを果たせ。
 四囲に声の主は見当たらない。病院から帰った晩に妻が見せてくれた〈像〉の中で聞いた声と━━よみがえりの樹への道をたどる途中で聞いた声と、同じ声だった。
 俺を導く者の声だ。作家は口のなかで呟くと、デイ・バッグを背負い直し、林へ、力強い足取りで歩いていった。その様子を振り返って見つめていた妻が、頬をゆるませて小さく頷いて、再び先導するために歩き出した。声と妻に導かれて、作家は林のなかへ入っていった。

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第2111日目 〈【小説】『それを望む者に』 15/20〉 [小説 それを望む者に]

 正直なところ、ぼたん鍋の誘惑に何度か挫けそうになりながらも、半楕円を描く石畳の広場へ出た。それを囲むようにして常緑樹が群生している。何軒かの茶店が商いの最中だった。店先に幟が翻っている。広場を渡るそよ風が、作家の顔と腕を撫で、汗を引かせた。身震いした。さすがに、標高一千メートル近い山だと、風もやけに冷たく感じる。
 喉が渇いた。ミネラル・ウォーターでもアクエリアスでもいい、駅の自販機でペット・ボトルを買い求めなかったのは失敗だった。いちばん手近な茶店に入ったら、子供の時分によく飲んだ、懐かしいビン詰めのコーヒー牛乳が売られていた。でも、それは帰りに飲むことにした。それよりもそそられるものがあった。黒みつ寒天と抹茶を頼んだ。喉の渇きと空腹を鎮めるには、なかなか良いチョイスじゃないか。口のなかに、天草の上品な甘みがじんわりと広がった。
 真正面に三輪鳥居と呼ばれる黒ずんだ袖鳥居が、堂々たる立ち姿を誇っている。鳥居の足の間から、向こうに伸びて楼門まで続く参拝路が垣間見えた。参拝路の両脇にはこの広場同様、常緑樹が植わり群生していた。茶店の軒先に坐ってこうして眺めていると、その光景は、額縁にはめられた一幅の絵画のようだ。……うーん、これをいったのは、確か永井荷風であったか。つらつら出典を思い出しながら、抹茶の最後の一口を啜った。
 ごちそうさま、といって代金を払い、袖鳥居をくぐった。途中、遥拝殿へ行く道が枝分かれしていたが、いまは目的が違うので無視した。楼門をくぐり、参拝路を「往路」と書かれた札に従って、ずいずい歩く。往路と復路の間には、季節の花が植えられた、膝ぐらいまでの高さの花壇がある。いまはたもと百合を主役にして、蛍葛の青紫色の花が彩りを添えている。行く者帰る者の目を和ませる光景だった。なら、あの世から帰ってくる者の目も? そうかもしれない。そうであって悪いことはあるまい? 事実を知りたいなら、あとで妻に訊いてみればよい。作家は再び一本になった参拝路を進んだ。右手には、樹間から隠れるようにして建つ額殿と神楽殿がちらちら見える。どちらも一部分だけで全体が見えていないせいでか、神社に属する建築物というよりも、ゴシック・ロマンスに登場する妖しと偽りと恐れがうずまく古城のようだ。
 うんざりするほどなだらかな登り斜面の参拝路を来て、目前に迫った階段を息を切らしながら見あげた。てっぺんに、妻がいた。夫を、薄い笑みを浮かべて見つめている。
 ほらほら、ちんたらしないの。声が耳許で聞こえた。
 背負っているデイ・バッグの中身を頭のなかに描いた。この、およそ一般的とはいいかねる目的の日帰り旅行で、いちばん忘れてはならない大切な“アイテム”を幾つか。
 待っていてくれよ、と妻の名を呼んで、作家はそう口のなかで呟いた。もうすぐだからな━━。
 大きく肩で息をして、よっこらしょ、と階段をのぼり始めた。真ん中あたりまで来たところで「よっこらしょ」という言葉が、結婚したての頃、妻に決められた使用禁止言葉であるのを思い出して(彼女が死んでいま初めて使ったことも、併せて思い出した)、顔をしかめた。

 階段を終えて手水舎へ向かう作家の耳に、妻の声が聞こえた。足を停め、振り返る。参拝路を挟んだ反対側にある、腰高の木製の門の向こうに、彼女が立っていた。丸垣の間を奥に伸びた小道に、妻が立ってこちらを観ている。そちらへ吸い寄せられるように足が動いた。門に手が掛かる。閂で固く閉ざされていた。
 彼は身を乗り出して、妻の名を呼ぼうと口を開いた━━と、参拝路の方から妻とは違う視線を感じて、そちらを見やった。牛乳ビンの底をレンズにしたような眼鏡の奥から濁った瞳で作家を睨めつける、両頬がむくんで鼻が曲がった、髪は鋼をよじりあわせたみたいな風貌の老女が、がに股で立っている。目が合ったら、小さく舌打ちして階段を降りていった。なに、それだけの出会いだ。彼女はこのあと、参道の中程にある食事処で店員を口汚く罵った後に殺したが、それだけの話である。彼は老女の後ろ姿を見送りながら首を左右に振って、門の向こうの小道へ目を向けた。ちょうど妻が背中を向けて丸垣の向こうへ消えたところだった。彼は踵を返して、手水舎へ足を向けた。
 まずは参拝を済ませてしまおう。人気は少ないとはいえ、このままあの門を通って妻のあとを歩くのは賢明な判断とはいえない。ならば、時間稼ぎだ、参拝を済ませよう。そう作家は独りごちた。
 切妻屋根の下、水盤に掛けて置かれた柄杓の一つを手にし、作法に従って左手を清め、右手へ水をかけ、掌へ落とした水で口をすすぐ。杓に残った水で柄を清めてから、水盤に戻した。去り際にひょい、と水口を見ると、なるほど、龍だった。
 数段の階段をのぼって青銅製の明神鳥居をくぐって、拝殿の前に出た。瑞垣で周囲を囲まれて如何にも聖域といった趣の境内、そこに流れる空気は玲瓏で厳粛、文字通り身の引き締められる思いがした。そのなかにいて、ちょっと自分が浮いた存在であるのを感じる。ちょっと? だいぶ、の間違いだろう。これから禁忌を犯そうとしている自分を責め立てるなにかが潜んでいるように感じられてならない。だからといって尻尾を巻いて逃げ出すわけにもいかない。そんなところまで追いこまれているのも、彼はじゅうぶんに感じていた。小説家の仕事は小説を書くこと、小説家の真の職能とは傑作を生み出すこと。これはスティーヴン・キングと生田耕作の言葉である。だが、と彼は額に縦皺を刻んで、口のなかで否を唱えた。いまの俺━━いみじくも一応は小説家という職業に就いている俺がいまやろうとしている、この生涯最高の仕事は、神が生み給うた傑作をこの世に復活させることだ。これこそいまの俺が果たすべき仕事で、生涯を賭けた最大の仕事に他ならない。
 拝殿に着いて拝礼を済ませてから、鳥居まで戻ってみた。参拝路を見おろすとまだ人の往き来がある。ちょっと人目をごまかすには厳しいぐらいの参拝客が、そこここでゆっくり時間を過ごしていた。思わず毒づいて、しばらく境内をぶらつくことにした。
 拝殿の左手には社務所がある。その後ろには、鎮守の杜が広がっている。瑞垣はそれをぐるりと囲んで、杜へ分け入って見えなくなっていた。澄んだ空気を大きく吸いこみ、社務所の裏へ回った。瑞垣の近くまで歩いてくると、水の流れる音が聞こえたように思った。首をゆっくりめぐらせて瑞垣の手前まで移動すると、身を乗り出して眼下を覗きこんだ。樹の枝葉の間から、細い水の流れるのが見える。目をこらすと、苔生す岩に当たりながら流れる向きを替えて沢は蛇行しながら左手へ流れてゆき、やがて視界から消えた。
 さらに作家は目をこらした。汀にあって水中から伸びて群生しているのは水田芥子ではないだろうか。いつぞや妻と伊豆へ旅行した際、天城の山間を流れる沢で同じ植物を目にした覚えがある。彼女はそれを目にするやしゃがみこんで根削いで洗い、これおいしいんだよ、といって口に含んで咀嚼した。それを思い出して、作家は顔をしかめた。水田芥子の花言葉は「燃える愛情」だ、と妻に教えられたのを思い出したからだ。
 瑞垣を離れて社務所の脇を過ぎ、拝殿の前を通って境内の反対側に行ってみた。こちらはずっと開けた印象だった。杜は奥に引っこみ、樹木の陰が地面へ落ちていないせいかもしれない。それだけに瑞垣の出っ張りに立つ御神木が実際以上の存在感を持って目についた。黒ずんでごわごわした樹皮を持ち、落雷のせいでか太い幹は二つに裂けて伸び、頭上の空を覆い尽くさんばかりに大きく枝を張っている。息をも呑むばかりに堂々とした立ち姿に圧倒された。表現しがたい信仰心が湧きあがってをくるのを禁じ得ない。じっとしているとそのうねりに呑みこまれてしまいそうだ。作家はよろめきそうになるのなんとか抑えて、その場を離れた。あとで見たら、掌はじっとり汗で濡れていた。
 一歩ずつ御神木から離れるごとに、胸の圧迫される思いから解き放たれるような錯覚がした。刹那ながら頭の重くなるのを感じた。瑞垣まで歩いて手をかけ、落ち着こうとして長く息を吐いた。頭をあげると、木の間隠れに神楽殿の屋根が見える。それから何気なく下を見ると、さっき妻が立っていた、丸垣に挟まれた、門の向こうの小道が見えた。それは切り立った傾斜面から突き出すように見えている屋根の当たりで途切れていた。
 あの屋根はいったいなんだろう。もっと身を乗り出して確かめようとした。屋根の下から妻が姿を見せて、こちらを見あげた。そんなところでなにやってんの、とでもといいたげな顔だ。
 そりゃないだろう、と作家は口のなかで呟いて、━━足が地面から離れるのを感じた。体が軽くなった。やばいな、と作家は思う。ああ、この状況はやばすぎる。引力の法則に従って、斯くして彼は……落下してゆくのでありました。無声映画の字幕よろしくナレーションが脳裏に浮かんで、観客の喝采までが聞こえ、悲鳴をあげる間もないまま、作家はどさり、と地面に落っこちた。四メートルほどしたの、草生すやわらかな地面に、どさり、と。喉の奥から細切れに呻き声がもれる。目撃者は、傍らにしゃがみこんで額をぺちぺち叩く妻のみ。生ける者ならざりし妻、ただ一人。幸いなるかな、その事実に安堵して、焦点の定まらぬ目で妻と樹群を見あげた。作家はしばし横たわって、背中と腰の痛みに顔をしかめていた。

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第2110日目 〈【小説】『それを望む者に』 14/20〉 [小説 それを望む者に]

 下調べをしてきたとはいえ、現地に行ってみないとわからないこともある。それを作家は思い知った。立川駅から武蔵五日市駅を経て北白川新線に乗り換えるまでに、予想外の時間を費やしてしまった。後悔あとに立たずとはこういうことか、と彼は心のなかで唸り声をあげる。午前十時頃に横浜駅を出発して、北白川駅に着いたら午後二時を疾うに回っていた。
 溜め息混じりで北白川駅南口の改札を出る。駅前のロータリーへ出た。午後のけだるい陽光の下で寝そべる犬のような、もんわりとした空気が微風に流れて作家の肌を撫で、ロータリーの中央に植えられた樺の木の葉群を揺らしてゆく。ロータリーにはバス停が幾つかと、タクシー乗り場が見える。四つある停留所に、停まっているバスはない。数人の客が待ってるだけだ。タクシーが二台客待ちしていた。運転手は外に出て暇そうに車に寄りかかって、煙草を吸って談笑している。右手のずっと奥の方に、稜線を際立たせた奥多摩連峰が鎮座していた。
 バスが来そうな様子はない。作家はぶらぶら歩いて、観光案内の(縮尺や距離を無視した)看板をぼんやり見あげて御澤神社を探した。ずっと離れて書かれているが、本当にこの通りなのかな、と小首を傾げて考えてみる。振り返って山を打ち眺めてから看板に目を戻すと、方向すら間違えているような気がしてならない。しかし、と作家は腕組みするのをこらえて、口のなかで呟いた。神社行きのバスに乗ってしまえばあとは終点まで揺られていけばいいんだから、そう深く考える必要もないか、と。まぁ、それはそうなのだが、それをいってはお終いである。
 作家は改札にいちばん近い停留所から、順に行き先を確認していった。御澤神社行きのバスが出るバス停は、改札からいちばん遠い場所にあって、傍らの木製ベンチには誰もいなかった。時刻表を見ると、いちばん早いバスは五分後に出発とある。ぼんやり突っ立っていると、鈍重なエンジン音を唸らせて埃にまみれた、クリーム地に緑色の縁取りを施されたバスが、のんびりとロータリーに入ってきた。どうやらこの街にはラッピング・バスは無縁の存在らしい。昔ながらの路線バスを久々に目にしたぞ、と作家は口許をほころばせた。
 バスは一旦、改札前で停車して(降車客がいるのだろう、と彼は見当をつけた)、すぐに作家のいるバス停に滑りこんできた。
 バスに乗って発車を待っていると、二組の夫婦と大きなリュックを背負った老女が一人、乗ってきた。運転手とは馴染みらしく、老女は快活な笑い声をあげて、リュックを降ろすと床にどすんと降ろし、手近の座席に坐りこんだ。二組の夫婦は明らかに作家同様余所者と見えた。やはり神社に行く人たちなのだろう、と何気ない風で車内を見まわして、作家は思った。そして、窓の外を見やりながら、耳をダンボにして、彼らの話を聞いていた。
 ━━バスの軽い揺れに身を任せながら、聞きかじった彼らの話をまとめてみる(作家の特権とも職業病ともいえる行為である)。どちらの夫婦も二ヶ月ぐらい前に近親者を亡くしているようだった。この日の翌日、近所の本屋で観光ガイドを調べてみたところ、バスの終点となる御澤神社とそれを中腹に抱く御澤山は霊場として信仰を集めた場所であり、葬って七十日経った頃にお参りすると死者そっくりの人に会えるのだ、という。みな、それを求めてきているわけだ。よく似た人に会える━━でも、俺は違うな、と作家は独りごちた。俺がこれから会いに行こうとしているのは、“そっくりさん”どころか本人なんだからな。
 バスは多摩川へ注ぎこむ楓川を渡り、北白川市の住宅街を縁取るようにして西へ伸びる道路を、とろとろと走ってゆく。右手には、楓川と道路の間に建つ、築年数のまだ浅いマンションがある。外壁はレンガを模したタイル張りで、半分以上のベランダには洗濯物がひるがえっている。布団を叩く音も、どこかから聞こえてきた。左手にあるのは、建売か注文かの別なく戸建て住宅が軒を連ねている。サイディングやリシン吹きつけの綺麗な色合いの外壁と、重厚さを演出している黒光りの門扉が道なりに並んでいる。壁の色に合わせた窓枠へ嵌めこまれた複層ガラスの窓は、灰色のカーテンが垂らされているみたいだ。売り主の意向か、門柱の脇の花壇にひょろひょろしたオリーブの木が植えられている。シンボル・ツリーだ。作家はその光景を頬杖をついて眺めながら、不動産販売会社で担当してきた物件や購入者の家族を思い出している自分に気がついた。
 バスは途中、何度か停まり、地元の人とわかる客がそのたびに一人、二人、と乗ってきた。あの老女はいつの間にかバスを降りていた。信号を過ぎたところでそれまで走ってきた道路を外れたバスは、勾配のきつい、ろくに舗装されていない坂道を、喘ぎ喘ぎしながら登った。二〇メートルぐらい行ったところで、道は一旦、平らになっていた。そこでしばらく停車した。この先は道が細くなり、すれ違うこともままならなくなるので、山を下りてくるバスを待っているのだ、と運転手がアナウンスした。了解だ、ボス。
 杉の木が道路のすぐ脇から生えて、山の面を覆っている。樹群のなかに目立たぬ構えの門が見えた。門柱に表札が掛かっているが、木肌が黒ずんでいて、ここからではよく読めない。目をこらしてみても無駄だ、と諦めた頃に、駅へ向かうバスが鈍重そうにすれ違っていった。ややあって、こちらのバスがエンジン音をがなり立てながら、神社目指して出発した。
 エンジンの音がやたらと耳につき、尻の下から激しい振動が突きあげてくる。上下の歯がかち合うほどだ。
 道を行くにつれて両側から杉やクヌギの木が威圧するように聳えて立ち、まだ陽は高いのに冬の黄昏時のように鬱然として薄闇に包まれ、冷気が窓ガラス越しに車内へ侵入して肌の下まで潜りこんでくるようだった。深山幽谷って、きっとこんな場所のことをいうのかもしれないな、と、心中納得した様子で作家は頷いた。陽の光を遮らんばかりに高く生育した樹木の群れが両脇に壁のように聳え立って、木下闇という風情ある言葉では一端なりとも表現できぬぐらい暗緑に闇の色を塗り重ねた空間を貫いて伸びる道を、バスはゆっくり進んでゆく。
 作家にはその道が、これから自分が禁断の領域へ足を踏み入れるのに相応しい花道のように見えた。傍らのデイ・バッグへ腕を回し、それをより強く自分の体へ密着させた。

 最後のバス停は、駐車場にあった。そこで降りれば、御澤神社への参道の入り口である。バスを除けば駐車場には、乗用車が一台停まっているきり。下車して作家は、バスの陰から二、三歩抜けて、ちょうど反対側にある乗車専用のバス停へ目を向けた。参拝帰りの客が十人以上いて、列を作っている。所在なげにぼんやりバスを見つめているが、気が急いてもうリュックを背負いこむ男もいた。
 駐車場を縁取るようにして整備された歩道を行き、あがりの低いコンクリートの階段が続く参道をのぼる。十分ばかり経ってからペースを落とそうと足を停めた。ふと、左手の食事処へ顔を向けた。店先に、黄色く日焼けした紙に手書きされたメニューが貼られている。「ぼたん鍋、ぼたん定食あり〼」とあった。
 猪か━━そう思うや腹が鳴った。が、いまは進まなくてはならない。鼻先をかすめる美味そうな匂いに背を向けて、脇目もふらずにずんずんと参道を、汗を垂らして歩いていった。前を行く参拝者の後ろ姿は、いまや小指の爪ぐらいの大きさに映っている。

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第2109日目 〈【小説】『それを望む者に』 13/20〉 [小説 それを望む者に]

 三日が経って、その日はまだ陽が出ているうちから、作家は本牧のバーの片隅に陣取って呑んでいた。同人誌時代の仲間と編集者が誘ってくれたのだ。うわべは、まだ妻の突然の死から立ち直れていないがどうにか日々を過ごしているから心配しないでくれ、といった風を装って談笑している。だが、すべて上の空だった。
 時間が流れグラスを重ねるにつれて、決意は固まっていった。どんな結末を招いても構わない。
 仲間たちと談笑する自分を冷徹な眼差しで観察する己がいた。そいつがほくそ笑みながら、ゆっくりと計画を練りあげてゆく。
 深夜になってみんなと別れ、タクシーの後部座席へ深々と腰をおろした。携帯電話の画像フォルダに保存してあった妻の写真を出す。親指の腹で画面を撫でた。途中、上り坂のところで樹木にまわりをおおわれた教会を見た。信徒でもないのに、彼は祈り、許しを乞うた。
 亡き妻の面影が作家を苛み続けたこの日の夜更け、彼は禁忌(タブー)を犯す決意を固めた。
 底知れぬ深い虚無と倫理を踏みにじった末の希望が、作家の前に横たわっている。

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第2108日目 〈【小説】『それを望む者に』 12/20〉 [小説 それを望む者に]

 妻の同僚の女性が、オリーブの木が両側に植わる石畳の遊歩道をやってくる。作家はマンションの外、エントランスを出たところで立ち呆けて眺めている。黒のジャケットにタイト・スカート、黒のストッキングにパンプス、駄目押しのように左手から提げられたハンド・バッグ。非の打ち所のない喪服姿だ。陽射しがそれほど強くないにもかかわらず、その姿を見ているだけで汗が噴き出してくる。意識しないまま手の甲で額を撫でた。べっとりとした感触に顔をしかめ、ズボンのポケットから出したハンカチで額と手の甲を一拭きした。
 近づいてきた女性を笑顔で出迎え、マンションのなかに入る。今日は暑いですね、と交わした直後に、エントランスへ足を踏み入れれ、同時に女性が思わず、「涼しい」と洩らした。割に大仰な様子だったこともあって、作家はなにはなし、この女性に好感を持った。
 部屋へ招き入れると、女性をリビングの文机に案内した。焼香と合掌の間にお茶の支度を済ませる。彼女は合掌を終えると立ちあがり、やもめになった作家へ深々とお辞儀した。彼も機械的に返礼した。坐るよう促して(普段は彼が坐る椅子だった)お茶を煎れて進めた。静岡は久能山のそばで摘まれた粉茶で、小堀製茶というところが出している。
 作家は妻が坐っていた椅子に腰をおろし、女性の視線の行方を観察した。お茶を飲んでは折々に違う表情を浮かべて、妻の(かつての同僚の)遺影に投げられるその眼差しは、まるで今し方目の前で奪われた命が形を持って宙に漂うのを見つけて、周囲の見えていない人へ教えようか教えまいか、悩んでいる人のそれのようだ。ふらふら行方定まらずさまよう視線は、そんな風に見える。
 あながち間違っちゃいないさ。口のなかでそう呟き、内心にっこりと微笑んだ。この人が選ばれた人なら、やがてその眼差しには真実が宿ることになるだろうよ。
 そのうち、彼女は放心したように細長い溜め息を吐いて、口を開いた。
 「昨日聞いたときは信じられなかったんです。あの子が死んだ、っていうのが」その目に涙がじわっ、とあふれ、濡れた跡を残して流れ落ちていった。「嗚呼。……でも、ようやく納得できました。もう生きては会えないんですね」
 彼女は顔を背けて、ハンド・バッグから出したハンカチで涙を拭いた。
 故人となった我が妻のために、自分の知らない人が紅涙をしぼり慟哭している。私的な空間で目の当たりにすると、感情が感染して、こちらも涙腺がゆるんできて、どうにも困った。仕方なく作家は、妻の遺影と女性をひとまず視線から追い出し、ぼんやりとリビングの折上げ天井を見つめた。葬儀のときは泣く暇も余裕もなかったから、誰かが涙をこぼすのを目にしても、なんとも思わなかった。なのに、いまは……。
 そこまで考えて、彼は大きく頷いて息をついた。一緒に全身の力が抜けてゆきそうで、テーブルへそのまま突っ伏してしまいたい気分になる━━実際やりそうになったが、女性がいては思い留まるより他はない。
 くすん、くすん、と鼻を啜りながらハンカチで目頭を押さえていた彼女が、失礼しました、と小さな声でいって、作家の方を見た。
 「今日はあの子の昔の同僚では私だけが非番で。まだ在職している人たちの代表を兼ねて私が来ました。もう辞めたり、違う病院で働いている人もいますから、もしかすると焼香に来たい、という人もいるかもしれません。そのときは、お忙しいでしょうけれどご対応お願いします」ゆっくりとした口調で喋ると、テーブルの上に両掌を置いて、ぺこり、と頭をさげた。つられて作家は頭をさげて、了解した。
 それから会話の接ぎ穂も見つからぬまま時間が過ぎ、気まずい沈黙が訪れた。女性はあまり意に介していないようだった。相変わらず妻の遺影を眺め、ほんのときどき、窓の外へ目を移した。一緒に働いていたときのことを思い出しているのか、表情が実によく変化した。内容まではわからないが、どんなことを思い出しているのかはだいたい想像がつく。しかしながら、作家は手持ち無沙汰だった。関節を曲げたときの骨の鳴る音までがはっきりと聞こえてきそうで、身動きも呼吸も慎重にしなくてはならない状況に放りこまれた気分だ。針のムシロ、っていう言葉がぴったりだな、この状況。湯呑みのなかのお茶の色を溜息混じりで見おろしながら、そう思った。━━が、黙ったままでいるのも限界がある。
 がばっ、と顔をあげて、口を開いた━━
 「ご実家はどちらなんですか?」
 どんぐり眼で女性が振り向いた。その表情に、困惑と警戒の色が一瞬浮かんで巧妙に隠されてゆくのを、彼は見逃さなかった。
 作家は両腕を前へ差し出し広げた両の掌を左右に振り振り、あわてて弁解した。
 「い、いや、変な意味で訊いたんじゃありませんよ。専業作家になるまで不動産営業の仕事をやっていたもので。だから、染みついた職業病みたいなもので、習性っていうか、単なる興味? で訊いているんじゃありませんから。気に障ったなら、あの、本当にごめんなさい」
 そういって、頭をさげた途端、テーブルの端に額をぶつけた。呻き声がもれるのを禁じ得なかった。おまけに、結構いい音がした。そのとき、開いた掌へ目を落とした。汗でびっしょり濡れている。なに焦っているんだ、俺?
 気まずい思いで面を上げた。女性と目が合った。女性のどんぐり眼が見開かれ、すうっ、と細くなり、引き結ばれていた唇が歪んでゆるんだ。顔色は健康的な薔薇色に染まってゆく。そして、背をのけぞらせて呵々大笑した。
 さっきまでの真面目な印象を吹き飛ばすような、豪放磊落な笑い方だった。それが却って作家を落ち着かせた。妻が生きてこの場にいたら、午前中からずいぶんと賑やかなことになっていただろうな、と思うと、ちょっと心が痛んだ。
 少しして笑いやむと、女性は息も絶え絶えにお茶を飲んだ。指で涙を拭って、思い出し笑いをこらえて、「気に障っただなんて、そんなことちっとも思っていません。ただ、あの子のいっていたとおり、誠実な方なんだな、って思っていたんです。━━あの子が惚れたわけですね。ずっと年上の男性だって教えられたときは、さすがにびっくりしましたけれど」といった。
 「はあ……」
 「いつも、とっても楽しそうに話していたのを、みんなが覚えているんです。伊勢佐木モールのスターバックスでしたよね。初めて逢ったのは?(はい、と作家は頷いた)あの日、病院へ戻ってきたら、いきなり貴方のことを喋りだしたんです。それまで男性の話もしたことがなかったし、浮いた噂の一つもない子でしたから、なおさらみんな、覚えているんです。……そう、ずっと、いつも貴方のことでしたねぇ……」
 「そうだったんですか」と彼はいった。赤面していいのか、恐縮してよいのか、よくわからない。「そんなこと、話してくれませんでした」
 「照れ臭かったんですよ、きっと」そういって、女性はお茶を飲んだ。「あの子は最初から貴方にどっぷりと惚れこんでいましたよ」
 ふうん、と作家は相槌を打った。とても満足げなそれと、女性には聞こえた。
 女性が続けていった。「あの子が辞めて、もう三年ぐらいになるのかしら。いなくなってからしばらくは火が消えたような淋しさで。少し暇になったり仕事が終わったあとなんて、集まると誰彼なくあの子のことを話し始めて。みんな、好きだったんですね。みんな、あの子と話したり、顔を見ているだけで元気をもらえましたから。退職してから私もいろいろありました。つらいことや苦しいことがたくさん。でも、そのたびにあの子と過ごした時間を思い出して……そのたびにあの子のことを思い出して、無理矢理笑顔を作ってがんばったんですよね」そこで一端言葉を切り、こぼれ落ちかけた涙を拭って、遺影へ目を向けた。「ほんと、なんで死んじゃったのよ……?」
 「ありがとうございます」と作家はいった。女性がこちらへ振り向いた。「妻をそんなに好いてくださって。彼女、家にいてもほとんど同僚や仕事の思い出話はしなかったし(付き合っているときもそうでしたが)、貴女たちを家に招くこともなかった。だから、あまり友達がいなかったのかな、なんて、ずっと思っていたんです。でも、そうじゃなかった。今日貴女の話を聞いて疑問が解決しました。お話を聞けてよかったです」
 女性が頭を振った。そして、一緒の時間を大切にしたかったんですよ、二人の時間や場所を守りたかったんでしょうね、と呟いた。
 「あの子、あんな風に背が小さくて明るくて元気で前向きで、一緒にいてとても楽しい気持ちにさせてくれる子だったじゃないですか。(作家はここで首肯した)いい寄ってモノにしようとした人は多かったんですよ━━そうね、五〇人ぐらいはいたのかな」
 むせた。お茶が気管支に入りこみ、ずっとむせた。女性がテーブルを回って、背中をさすってくれる。そうこうしてようやく呼吸が落ち着いた。テーブルへこぼれたお茶を拭き取って、急にそんなヘヴィーなこといわないでくださいよ、と請うた。
 でも、それって本当ですか、と作家は訊いた。女性が頷いたのを見て、さもありなん、と納得した。
 女性が続けた。「医師や患者さん━━外来や入院の別なしに━━はもちろん、えーと、調剤局の人とかレントゲン技師や救急隊員、メーカーの営業さんとか、まあ、病院に関わる人の大半は網羅していましたね。そういえば、俳優とか気象予報士とか、代議士なんていうのもいたな。代議士さんはその後、汚職事件の主役として起訴されて有罪判決受けましたけれどね」
 「ず、ずいぶんとモテたんですね」顔を引きつらせながら作家はいった。
 「ええ、モテました。あの病院じゃいちばんでしたよ。でも、撃墜率は一〇〇パーセント。あれでよくいじめに遭わなかったな。人徳かなぁ、やっぱり」と、頬杖をつきながら女性が、ひょっ、と思いだし笑いをした。「あの子が結婚した、って知って、みんなショック受けてましたねぇ」
 「返答に窮す事実です」
 「それでも、あの子は自分がいちばん愛して信じた男性のところへ嫁いでいったんですから」
 その台詞には、喜び以上に空しさを感じた。それほどに想いを寄せてくれていた妻のいないことが、途方もなく応えたからである。
 作家の顔とかつての同僚の遺影を交互に眺めながら、女性がぽつり、といった。
 「お似合いの夫婦でしたね」
 「いつまでも一緒にいられる。そう思っていたんですけれどね」
 そういいながら、作家はこの数日、自分の前に現れては消える妻の幻影に思いを馳せていた。死んだのに彼女は俺の前に現れては生前と同じように過ごしている。これはすべて自分の幻覚なのだろうか。それとも俺は正気を保ったまま、肉体を持ってこの世をさすらう妻の亡霊と交わっているのだろうか。
 「でも、正直なところ、十六も年齢(とし)が下の子に心を奪われるなんて、思いもしなかったですけれどね」
 幻影がゆらめいて立ち現れ、ふっ、と消えた。そしてまた現れた。妻の姿が、昨日ほどの存在感はないものの、テーブルの向こうにいる女性の背後を行ったり来たりしている。洗濯カゴを持って、ベランダへ歩いてゆく。彼女の目にかつての同僚の姿は映っていないようだった。喋りながら作家は、そんな光景を内心面白そうに眺めた。
 リビングの腰高窓から駒丘や東寺尾の丘陵が望めた。壁の近くに立って北西へ目を転じれば、新横浜の街並みを視野に収めることもできる。が、急速な再開発が進んだせいで、子供の頃に親しんだ景観はなくなってしまった。いま彼が住んでいるこの地域にしたって同じだ。このマンションが建つまで、作家の生まれ育った家(高校卒業と同時に出奔した実家)はこの地にあった。舞い戻ってくる気はなかったが、磁場に引き寄せられるようにここへ戻ってきてしまった。幸い母も兄も、もうこの界隈にはいない。ハレルヤ。この街は腐りきっている。横浜は魂を捨ててよそ者をたらふく抱えこんで名にし負う借金街になってしまった。腐っている。
 唇を噛んで窓外へ目をやっていたら、女性のいることをすっかり忘れてしまった。視界の端で相手がなにかいっている。それに気附いて作家は謝り、話を促した。女性は嫌な顔一つせずに、もう一度訊ねた。
 「あの子からリンゴ箱の話って聞いたこと、ありますか?」
 小首を傾げて作家はしばし記憶の掘り起こしを試みた。でも、どれだけそのキー・ワードで記憶を検索してみても、該当するものは思い当たらない。
 彼は首を左右に振って否定した。「いや、たぶん聞いたことないですね」
 そうはいっても、なぜか明瞭にリンゴ箱の映像は脳裏へ描ける。どこかで見たことがあるのだろうか、それとも、子供の時分に見たそれが思い出されているだけなのだろうか……。
 「あの子のことを思い出すたびに、リンゴ箱のことも思い出すんです。対になって記憶されている事柄、とでもいえばいいのかしら」
 「そういうことってよくありますよね。良い思い出であれ、悪い思い出であれ」
 「ええ、そんなところですわ。病院の外来受付の後ろに、カルテが保管されている部屋があるんですけれど、昨日ご覧になりました?」作家が頷いたのを見て、女性が続けた。「過去に来院したことが一度でもあれば、カルテがそこにあるわけですよね。それを探してそれぞれの科の窓口へ持ってゆくのが私たちの仕事の一つだったんですけれど」
 そこまで喋って一端切ると、女性はお茶で口を湿らせた。
 ちょっとの間があった。無言の時間が訪れるのを嫌うように作家は、「ああ、廊下で順番を待っていると、よく受付の人がカルテを窓口へ置いてゆくのを見ますよね」といった。
 頷いて、女性は口を開いた。
 「カルテが棚の上の方にあるとあの子、手が届かないんですよ。だから普段は踏み台を使って取っていたんですが、ある日、それが壊れてしまったんです。私たちは別にいいんですよ。なくても届きますから。でも、あの子はねぇ、なんて話をしていたら、彼女、どこで見つけてきたのか、リンゴ箱を拾ってきたんですよ。昭和四十年代までよく見かけられた、あの木製のリンゴ箱ですよ。私たちが唖然としているのを尻目にあの子ったら、それに乗って棚の上の方のカルテを取り出したりして。そりゃあもう、可笑しかったのなんのって。しばらくみんな、カルテ室で大笑いしていましたわ。そのうち、新しい踏み台が届いたら、そのリンゴ箱はあの子専用になりました。いつの間にか、〈私専用〉なんて貼り紙がしてあったっけ。そんな風に、いるだけでその場の雰囲気を和ませてくれましたね、あの子は」
 作家はくすくす笑いながら返事した。「光景が目に浮かびますね」
 そういえば、あの子が辞めてからあのリンゴ箱も見なくなったんですが、捨てていったんでしょうか」と、まるで独り言のように女性は呟いた。
 それを聞いて、作家は黙考した。やがて、「あっ」と短く声をあげた。自分でも知らずにテーブルの端を叩いて、湯呑みのなかのお茶をさざ波立たせた。━━リンゴ箱。ああ!
 「思い出しました、そのリンゴ箱、まだありますよ。納戸の奥に閉まってあります。見ますか?」
 「あ、い、いえ。お構いなく。そうですか、やっぱり持っていったんですね。あの子が辞めてしばらく淋しい気持ちになっていたのは、あのリンゴ箱がなくなっていたからなんです。あの子のいた痕跡っていえばいいのかな、それが跡形もなく消え失せてしまったような気がして……。そうでしたか、ちゃんと私物として持って行っていたんですね。よかった」
 女性が心底から安堵した表情になった。それを見て作家も、自分の心が充足感で満ちてゆくのがわかった。
 「私、彼女と病院で会えたことに、ちょっとした運命を感じたんです。あ、別に変な意味じゃなくて。━━あの、もう一杯いただけます? 喋り続けたせいか、喉が渇いて……」
 「どうぞ、いくらでも。いま新しいのに替えてきます。━━いえ、もう出涸らしですから」そういって台所の生ゴミ捨てにお茶の葉を捨ててリビングへ戻り、また新しいのを煎れた。どうぞ、と新しいお茶の入った湯呑みを、女性へ差し出す。「運命、ですか?」
 ええ、といって、女性は湯呑みへ口をつけた。「あの子と私、同郷だったんです」
 「あ、そうなんですか。出身地のことを訊ねても、教えてくれなかったんですよね。どこなんですか?」
 「小さな街ですよ。奥多摩の方で、北白川市、ってご存知ですか?」
 「名前だけは」
 「私たち、あすこで生まれ育ったんです。もっとも、彼女は義務教育が終わる前に街を出たそうですけれど」
 ふーん、と作家は相槌を打った。「二人で訪ねてみたかったな。でも、なんで妻は街の話を一度もしてくれなかったんだろう」
 女性が頭を振って、いった。「そこにいるときにご両親を亡くされた、っていうのは聞いたことがありますけれど、うん、確かにあまり話そうとはしなかったですね」
 「僕はあまり信用されていなかったのかな」自嘲気味に彼はいった。
 「そんなことありません!」怒髪天を貫く勢いで女性がいった。が、すぐに冷静を取り戻し、恥じるように小声で、「すみませんでした」と呟いた。
 「誰にだって話したくないこと、黙っていたいことはありますよ。貴方だってそうではありませんか?」
 「そりゃあ、まあ……。そうですね。こちらこそ、軽くいってしまってすみませんでした」
 「いいんです、忘れましょう。あの子が貴方に寄せていた想いは本物だったのですから」
 うん、と頷いて、お茶を一口飲んだ。甘みと渋みが程よく調和した味が、口のなかいっぱいに広がった。
 「小説家なんて仕事をしていると、その街の伝承とか興味がありますね」と、作家は唐突にいった。
 それを聞いて女性はしばし考えこむように俯いて、そうして口を開いた。
 「北白川市にはいろいろと民間伝承や伝説がありましてね。歴史や民俗学の研究者たちには、昔からよく知られた街だったようです。柳田國男や折口信夫も訪れたとかで、民俗資料館に記録がありますよ。この近くに聖テンプル大学ってありますよね。そこと、北白川市にある北白川大学は姉妹校だそうです」
 そうして幾つかの話を披露してくれた。作家は耳を傾けているうちに、それらが小説の題材として使えそうだ、と判断した。だが、それ以上に話そのものに引きこまれていた。彼は女性に許可を得て、仕事部屋から持ってきたノートへそれらを書き留めた。
 リビングへ西日が射しこんできた。近くの国道を走る車の音は聞こえない。黄昏時の静寂の時間が訪れた。
 話が一段落して、また妻の思い出話をぽつり、ぽつり、と続けていたら、ふと、女性が「そういえば、よみがえりの樹、っていうのもあったな」と呟いた。
 思わず顔をあげた。なにかが琴線へ引っかかった。彼の関心を誘うのに、これ以上はない話題だった。
 どうやら自分でも気がつかないうちに、貪欲な表情を眼へ浮かべていたらしい。女性がちょっと怖じ気づいて身を引くのがわかった。わかりやすいぐらいにかぶりついてしまった。作家は、もっと自然に見える関心の寄せ方はできなかったのか、と悔いた。女性が思わず引いてしまったのも道理だ。しかし、もう遅い。
 まだ妻が死んで日が経っていないせいか、そんな話題にはどうしても過敏に反応してしまう。どうか許してほしい。よかったらその話を聞かせてもらえないだろうか。
 作家はそういって、女性に話を促した。ちょっとの間を置いて、女性が口を開いた。
 「私も━━いえ、誰もちゃんとしたことはなにも知らないんです。ごめんなさい。なんていうのかしら━━みんな、とても断片的な噂は子供の頃から聞いて育っているんです。でも成長するにつれてそれを忘れていってしまう。本当のところを知る人なんて、殆どいないんですよ。真実はいつも、薄いヴェールが何重にもかかっているずっと奥にあって、真実に行き着いたと思うとまだその先がある━━そんな感じです。
 その“よみがえりの樹”、それがどんな種類の樹なのかも誰一人として知りません。ただ子供の頃に聞かされていまでも覚えているのは、童謡みたいな節で唄われる一節だけ。『泉の裏の、深山の奥つ方、朽ちた社のなかの池、ほとり植ゑばら樹の下の……』なんていう一節だけです。なんでもその樹の下に死体や灰を埋めると……死者が黄泉の国から帰ってくる……そうです。そんな風に聞きました」
 話し終わっても女性は顔をあげようとしなかった。ただじっと、テーブルの表面の木目模様に目を落としていた。作家はなにもいわず、黙りこくっていた。
 「きっと」と、ようやく作家は口を開いた。電気を点けていないリビングに射しこんでいる西日は、徐々に弱まってきている。「大切な人を失った人が、それを望んだのでしょうね」
 我ながら陳腐極まりない台詞だと思ったが、女性が「ええ、そうなんでしょう」と同意してくれたことで、少しく気が晴れた。
 作家の脳裏で、昨夜妻が見せた桜の木の映像がちらついている。光と闇の境界線にある桜の木。それこそよみがえりの樹に違いない。彼はそう考えて、心のなかで頷いた。
 しばらく経って、妻の同僚だったその女性はお暇を告げて帰って行った。別れ際になにかいおうと口を開きかけたが、すぐに閉じて、背中を向けて歩き出した。廊下を曲がって見えなくなるまで、作家は無言でその後ろ姿を見送った。
 藍色をした宵闇の空に黒ずんだ雲が薄く棚引き、乳白色をした半月が虚空に浮かび、静かに下界を見おろしている。飛行機の翼端灯が二つ、北へ向かっていた。作家はそれらを、呆けたような表情でしばらくの間、じっと見あげていた。淡い期待を抱いたが、妻は姿を現さなかった。

 作家はシャワーを浴びて、冷蔵庫から缶ビールを出してリビングへ戻った。妻が自分の遺影の前に坐って、額のなかの自分を見つめている。椅子を引いて腰をおろし、ぷしゅっ、と音をたててプルトップを開け、一口呑んだ。その間中、ずっと妻の背中から目を離せなかった。
 やがて妻が振り向いた。泣いていた。作家はそれを、美しい、と思った。
 「お前の見せてくれた樹が、お前の故郷のどこにあるのか、わからないよ……」
 缶をテーブルの上に置き、妻の隣へしゃがみこんで、彼はいった。彼女はなにも答えない。
 二人揃って遺影の前に坐っているのは落ち着かない気分だった。この異様な光景のなかに身を置いていたら、自分の目にも涙がじわり、と溜まってゆくのがわかる。
 妻がこちらを見て、声を震わせながら、いった。「神社まで来てくれたら、私が道案内をするから」と。
 作家は唇を引き結んで、目尻から涙がこぼれそうになるのをこらえた。彼女を抱き寄せようと両腕を伸ばした。
 が、肩へ手を触れた途端、妻の体は黒い煙となって消えた。その煙もすぐに見えなくなった。
 妻のいた空間に目をさまよわせていても、彼女が現れるわけでもない。わずかとはいえ、その場にぬくもりが漂って残っているばかりだ。視線を動かしていたら、遺影の妻と目が合った。最前までの遺影とは、表情が異なるように思われた。相変わらず彼女は微笑して、夫を見ているのだが。
 作家は姿勢を崩して額を床へ押し当て、ごろり、と横ざまに転がった。フローリングの冷たい感触をシャツの生地越しに感じながら、妻の名を何度もうわごとのように呟いて、さめざめと泣いて過ごした。

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第2107日目 〈【小説】『それを望む者に』 11/20〉 [小説 それを望む者に]

 手を洗ってから妻に手を引かれ、ダイニングまで先導されるとテーブルの上には、夕食の支度がすっかりできあがっていた。並べられたメニューになんとなく見覚えがあった小首を傾げながらも、喜悦の色を湛えた顔で坐って、坐ってと急かす妻のいいなりになって、引かれたいつもの椅子に腰をおろす。フットボールを仲介としたルーシーとチャーリー・ブラウンの、永久に終わらないシークエンス・コメディみたくなりませんように。そう祈りながら。幸い、そんなことにはならなかった。浮き立つ妻が鼻歌を口ずさみながら(テレヴィで近頃よく耳にする、後ろ脚で立つ黒毛和牛が歌っているCMソングだった)、反対側の自分の椅子へいそいそと坐った。
 よく冷えているシャンパンで乾杯した。両頬を薄紅色に染めた妻が、温野菜のサラダへ手をつけた。それを見つつ、コンソメ・スープを口にしながら、思い出す。あ、そうか、と胸のうちで相槌を打った。いまテーブルに並ぶ料理の数々、シャンパン、これらはすべて、妻があのバス旅行へ行く前の晩に摂ったメニューではないか。最後の晩餐が用意されていた。
 俺は過去へ戻ったのか━━妻が生きていた日まで? 新しく生まれた疑問は、しかし一瞬で消えた。リビングの端の文机に乗る品々は、無言で、だが、これ以上にないほど雄弁に、妻が個人となったのを物語っている。葬儀社や区役所、保険会社の書類、加えて検死解剖された際の死体検案書が、箪笥のなかにある。なのに、いま妻は目の前にいて、自分と手をつないだり、話したり、唇を重ね、こうして食事までしている。死が現実であるならば、ほっぺをふくらませて楽しそうに食事をしている妻は、俺が生み出した幻の存在なのか。もしくは、長い眠りのなかで見ている夢。最前の自分がそうであったように、彼女も俺の想念が生み出した、イドの怪物みたいなものなのか?
 ━━幻でも夢でも、どちらでも知ったことではない。願いはただ一つ、いつまでも消えないでくれ。この子といつまでも一緒にいたい。望むのは、そんなにちっぽけなことだけなんだ……。
 ロースト・ビーフを咀嚼し終えて口許をナプキンで拭っているとき、二杯目のシャンパンを注いでくれた妻が、ものいいたげな眼差しでこちらを見ているのに作家は気がついた。あの晩にもこんな場面があったかもしれない。が、よくは覚えていなかった。十一日前の記憶は、もはや霧の向こう側にあって、実体を失いかけている。彼はうつむいて、時間の残酷さを呪った。
 「ねえ?」
 甘ったるくて艶めいた声だった。なにかを求める声色である。その主が死者であろうとも反応せずにはいられない。相手へ心から惚れこんだ伴侶の悲しい性だった。とはいえ、すぐに顔をあげることにはためらいがあった。心の片隅で、頭の片隅で、その死を現実の出来事と信じようと務めてきたのが、目を合わせた途端、木っ端微塵に砕け散ってしまいそうだったから。頭をちょっと動かして、視線をテーブルの反対側にいる妻へ投げるだけの作業なのに。
 夫の内心の葛藤を知ってか知らずか、妻が再び声をかけた。今度はためらうことも抗うこともしないまま、操り人形のように顔をあげた。別に生ける屍がいるわけでもない。拳にした両手を顎につけ、とろんとした目でこちらを見つめる妻がいるだけのこと。桜色の肌に鮮やかな朱がうっすらと差して、薄化粧(棺のなかの妻を見た者には、どうあっても死化粧を連想させた)を施された顔に、深みのある色気と情念が宿っている。生理の前後には頻繁に目にした表情だった。
 大粒の雨が音を立てて窓へぶつかっている。戦場で絶え間なく掃射される機関銃から吐き出された弾丸が、勢いもそのままに標的へ叩きつけられているみたいだ。
 作家はその音を聞きながら妻を見、微笑みかけようとする彼女から逃れるように顔を背け、伏せた。死を受け入れようとしているのに、生前と同じ姿をして同じ仕草をする妻がこうして目の前にいては、それを信じることはとても難しい。テーブルの反対側にいる妻は、どれだけ時間が経とうとも消える様子がなかった。
 だが……いや、もうそんなことはどうでもいい。なににもまして重要なのは、いま妻が目の前にいて、こうして生前と変わらない日常の一場面を演じていることだ。夢であろうと幻であろうと知ったことではない。歪んだ現実でも狂気の産物でも、作家にはもうどうでもよくなってきていた。それが、正直な気持ちだった。
 彼は諦めと充足が奇妙に調和して同居した溜め息をついた。顔を伏せたまま、ひょい、と上目遣いで妻を見、温野菜の皿の脇で遊んでいた彼女の手へ、自分の手を重ねた。妻がそれを優しく握り返してくる。その瞬間に、いわれようもないぐらいの幸福を感じた。
 そうして━━世界は暗闇に閉ざされた。黒に黒を塗り重ねた八重の闇。どこまで行っても薄まることもなさそうな暗闇が、周囲に垂れこめて作家を惑わせた。すべての色を失い、方向感覚も距離感も失われ、一人放り出された闇の王国の真ん中で、作家は右往左往し、叫び声をあげたい気分に襲われたとき━━
 ━━あたりは純白の世界に変化(へんげ)した。暗闇の遠いところからまっすぐに伸びてきた白い光の球(ホームラン・ボールを真正面から見ると、こんな風だろうか、と素朴な疑問を抱いた)が、輝きを放って作家の周囲に四散した。白い光の触手が四方八方へ伸びてゆき、一本の光の触手は並走する職種を合体してより太い触手となり、収束を続けて隙間のない白い光の幕になって暗闇の世界を覆い隠していった。暗闇はそれまで独占していた支配者の座を、なんの抗う様子もなく純白へ明け渡してゆく。まるで抵抗そのものが無意味だと知っているかのように。
 純白の光が暗闇を駆逐してゆくのを見て、汀へ押し寄せる波によって黒く濡れた砂浜が覆われてゆく光景が、脳裏に浮かんだ。埋もれた記憶の底から、子供の頃、朝な夕なに飽きることなく眺めていた伊豆の海が思い出された。彼にとって、妻と出逢うまでは唯一、幸せを伴って思い出せる記憶だった。
 気がつくと、妻がそばに立っている。彼女は夫の腕に両手を添えて、そのまま歩き出した。引きずられるようにして従(つ)いてゆく。目の前に緑深い森の光景が映った。きょろきょろ見まわしながら歩くうちに、二人はその森の中へ歩を進めていた。苔生した倒木が行く手を遮り、落ち葉が堆積してふかふかになった地面の感触を足の裏で確かめながら、森の奥へ二人は歩いていった。鳥のさえずりや木の葉がさざめく音、風が流れる音が聞こえる。目指す場所があってそこへの行き方がわかっているのか、妻は、倒木を迂回したり夫が休むのに足を停めたりもしたものの、迷う様子もなく、確信に満ちた足取りで森を進んでいった。途中、作家は後ろをなにげなく振り返った。自分たちの歩いてきたずぅっと後ろの方に、小さく一ヶ所だけ窓のように切り抜かれた場所があって、その向こうに純白の世界が覗いている。正体のわからない恐怖に身が震えた。もう二度と振り返らない、と固く心に誓って、妻に従って歩いた。
 いつしか森のなかは深閑となり、落ち葉を踏みしめる音だけが耳にできる。やがて森は開け、葎の茂る空き地に出た。そこに、さざ波一つ立っていない、四囲の光景を水面に映し出す池があった。一周しても五、六分というところか。傍らに立つ妻に顔を向けた。彼女の視線は池の向こうにまっすぐ向けられている。作家もそちらを見た。大きく枝を張って若葉を茂らせた桜の巨樹が、二人を出迎えるように植わっていた。この世のものならざる雰囲気を漂わせた巨樹であった。
 それを見つめたままで妻がいった。「あの桜を探して、私を連れてきて……“そのとき”が来たら……」懇願するような口調だった。「例え結果がどうなろうとも、そこにわずかでも希望があるのならチャンスをちょうだい」
 妻の名を呼び、作家は訊ねた。からからに渇いた口からどうにか絞り出した声は、やたらと大時代的で平板に聞こえた。
 夫の質問に答えるより早く、森のなかに男声が響いて森を揺るがした。深くて重々しい、全能神を想起させるバスの声(作家はハンス・ホッター歌うヴォータンを連想した)。その、目に見えぬ者の声が、作家の耳を聾した。「それを望む者のみがそこへ辿り着く」と。
 作家があらん限りの声量でその声に訊ねようと口を開いたとき、背後から迫ってきた純白の光が彼と妻を包みこんだ。森は光に呑みこまれた。池も、桜の木も、すべてが純白の光のなかへ溶けこんで、塗りこめられて見えなくなった。周囲の光景がそうやって消えてゆくにつれて、作家の体も輪郭が光のなかへ消えてゆき、目が開けていられないほど眩くなって、気がつけばダイニングにいて夕食を摂っていた。テーブルの反対側に、妻が坐って、にこやかな顔で何事か話しかけている。
 テーブルに手をついて、椅子から腰を浮かす。手から力が抜けた。そのまま床へ倒れこんで側頭部をしたたかにぶつけ、顔をしかめても、作家にはいまの森の光景が夢や幻とは信じられずにいた。
 妻があわててやってきて、しゃがみこんで夫の肩に手を置いた。
 「どうしたの? だいじょうぶ?」
 朦朧とした頭でぼんやり妻の顔を見あげて、「いや、なんでもない。どうということでもない」と、抑揚を欠いた声で答えた。
 妻の助けを借りて、体を起こす。
 膝で立って、彼女の額にかかった前髪を、指先でそっ、と触れた。刹那の間見つめ合った後、作家は荒々しく妻を抱き寄せた。そして、唇や頬といわず、剥き出しになった桜色の肌へ跡がはっきり残るぐらい強く口づけて、妻の名前を呼び続けた。いつしか涙が滂沱とあふれ、彼女の肌を濡らしていた。
 夫の頭を撫で、背中をさすって、宥めるような声で妻は夫を慰め続けた。ごめんね、という彼女の声が作家に聞こえていたかどうかはわからない。夫を抱きしめる彼女の視界に、リビングの片隅に置かれた文机が映った。妻自身の遺影や骨壺が載っている。彼女は小さく頭を振ってそれを視界から追い出し、夫の首筋へ顔を押しつけた。

 雀のさえずりで目が覚めた。まどろみのなかでそれを聞きながら、軽く息を吐いた。どうやら昨夜は食事とシャワーのあと、和室でねっとりした愛の交換に励んでから、寝室へ移動する気力もなくして、この場で眠りこけてしまったようだった。和室の障子を細く開けると、刷毛で一塗りしたみたいな雲の浮かぶ青空が広がっていた。
 このマンションへ移ってきた当初、妻がおもしろ半分にご飯の残りをベランダの手摺りへ置いてからというもの、ほぼ毎日雀の集団が入れ替わり立ち替わり訪れるようになった。二人はそれを観察しては囁き声で会話をし、ほっこりとした気分にさせられたものである。妻が死んでからは訪れる回数も減ったような気がしていたけれど、昨日スターバックスへ出掛ける前に撒いた冷飯がないところから、雀たちはこのエサ場を見捨てていなかったようだ(昨夜の風で飛ばされたのかもしれないが、希望も夢もない貧しい発想だ)。
 いったい雀たちは、自分たちの餌付けを思い立って実行し、成功させた、この部屋にいた女性が死んでしまったことを知っているのだろうか。まだ目蓋が半分落ちた状態で、つらつらそんな風に考えた。彼らにしてみればちっぽけなことなのかもしれない。そこにエサがあるかどうか。なければ他へ行く。それだけのこと。そう、簡単なことだ。
 起きあがって和室のなかを見まわす。妻の姿はなかった。真夜中に目を覚ましたとき、彼女は隣で寝息を立てて眠っていた。いまは、どこにもいない。着替えて家のなかを探してみても、どこにもいなかった。
 リビングの片隅には、ちゃんと妻の遺影や骨壺がある。離れたところから手を合わせて、顔洗ってきたら線香あげるからな、と話しかけて、背を向けた。ダイニングにもキッチンにも、昨夜の食事の痕跡は見出せない。片付けていったのかな、それとも、そんなものは最初からなかったか、だ。洗面所へ行って顔を洗う。鏡に顔を映して、しばらくしげしげと見つめてみる。頬がこけた様子はない。昨日のタクシーの窓に映ったあの顔は、やっぱり俺の見間違いだったんだ。妻恋しやの気持ちが見させた、束の間の幻影に過ぎない。
 口許が自然とほころび、納得した溜息がもれた。うれしかった。妻の死を現実として受け入れられたような気分だ。もう幻影に惑わされはしない。俺は、この世にたった一人の存在。
 洗面所から出ようとして、ん、と立ち停まった。頭の片隅に、小さな「?」が灯った。現実ならざるものがこの場所に忍びこんでいる。踵を返して、ゆっくり頭をめぐらせた。広くもない洗面所が、やたらと大きく思える。次第に募ってくる怯えをどうにか押さえ、洗面所の端々へ目をやりながら、すり足で進んだ。
 と、視線が吸い寄せられるように動いた。洗面所の一角、洗濯機の方へ。蓋は開けられ、ドラム缶の上部が見えている。覗くのが怖かった、そこにヨカナーンならぬ妻の生首を見つける気がして。だが、そんなものはない。放りこまれた洗濯物があるだけだ。安堵して洗濯機から離れかけたとき、作家はそれを見つけた。小さな悲鳴が唇の間からもれて、いつしか歓喜に彩られていった。
 投げこまれた洗濯物のいちばん上にあったのは、なに、大したものではない、昨夜妻が身につけていて作家も脱がせた記憶のある、山吹色のショーツだった。無造作に投げこんだ様子が、ありありと思い浮かべられた。手を伸ばしてそれを拾いあげる。触ってみてようやく、それが実在するものだと納得できた。
 しげしげと眺めるなぁ! もお、バカ、なに触ってんだよぉ!?
 ムキになって奪い返そうとする妻の声が、耳のなかに響いた。こんな会話が実際にあったような気がするが、思い出せない。
 手にしたそれは、わずかな湿り気を帯びていた。やっぱり昨夜の君は現実だったのか。泣き笑いしながらその場へしゃがみこんだ。妻の名を何度も口にしつつ、手にしていたものを胸に押しつけた。
 ━━しばらくの間、そこに坐りこんでいた。電話が鳴っている。無視したかったが鳴りやみそうにない。手にしていたものを洗濯機のなかへ戻して、リビングへ戻った。しつこく鳴り続ける電話を壊したい衝動を覚えた。が、それはすぐに封じこめて、意を決したように受話器を取った。
 もしもし、というのを、相手が遮った。妻の声が受話器の向こうから、はっきり聞こえてきた。ひゅっ、と喉を鳴らして、呆然とそれを聞いた。
 「私の下着、触ってたでしょ? やめてよね、恥ずかしいんだから」
 呆れたような口調に、腹の底から笑い出したくなった。恐怖は突き詰めると笑いに転化するという。まさしくこれは、その実証ではないか。それに、妻よ、まさかそんなことをいうために、あの世から電話してきたわけじゃあるまい。
 「なに笑ってんのよ。もう……」
 彼は妻の名を呼んで、「ねえ━━」
 「私を連れていって」
 そういって、電話は切れた。というよりも、電話線が切られたような唐突な終わり方だった。
 その場に立ち尽くして、窓の外を見つめた。その様は、糸を切られた人形のようだ。彼女の名前を二度、三度と呼ばわったが、返ってきたのは、怪訝な調子を隠さない女性の声だった。むろん、妻ではない。
 「あの、昨日病院でお会いした━━」
 深い失望感を巧みに隠して、その場を取り繕った。
 焼香に来るといっていたが、そういえば時間までは決めていなかった。聞くと、もう最寄りの駅にいるという。
 「これからお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 「ええ。もちろん。道はわかりますか?」
 「年賀状に地図がありましたから、平気です。駅徒歩約二〇分とありますが?」
 「だいたいそんなもんです。じゃあ、時間を見計らって外へ出ていますから」
 では後ほど、と約束して電話は切れた。
 二方向へ開けたリビングの窓を両方開け放して、風を取りこんだ。手早く片付けと掃除を済ませると、妻の遺影の前に胡座をかいて坐った。遺影の表面のガラスを撫でながら、写真の妻に訊ねた。
 連れていって、とはどういうこと? あの桜の木のことか? あれがどこにあるのかも知らないっていうのに、そんな無茶いわないでくれよ、……。
 妻はなにもいわず、ただそこで微笑んでいた。
 手摺りに留まった雀の集団がさえずって、エサをねだっている。

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第2106日目 〈【小説】『それを望む者に』 10/20〉 [小説 それを望む者に]

 エントランスの車寄せにタクシーが停まった。ぽしゅん、と乾いた、拍子抜けするような音をあげて後部扉が開け放たれると、暴風の低い唸りが耳を聾した。生々しくて湿った重低音が耳のなかで渦巻き、奥まで刺激した。腕にもべったりとした湿気が貼りついてくる。不快指数が一気に上昇した。さっさと精算を済ませてタクシーを降りると、待っていました、とばかりに彼の背後で扉が大きな音をたてて閉まった。ガラス張りになったエントランス・ホールから、台風が接近する外の世界の闇のなかへ消えてゆく赤いテール・ランプを見送った。ホールと隣り合わせにある宅配ボックスと郵便受けに寄ってみたが、DM以外の郵便物はなかった。他は、濡れないようビニールで覆われた新聞の夕刊が入っていた。疲れた足取りでエレヴェーターまで辿り着いて、箱に乗りこむと自分の住戸のある階のボタンを押し、壁に背中をくっつけて目蓋を閉じた。波乱に満ちた一日の疲れが両肩にのしかかってきた。それが却って妻の幻影をここに出現させるのではないか、と恐怖し、また期待もしたが、彼女は現れなかった。彼は妻の名前を呟いて、目尻に浮かんだ涙を拭った。
 目的の階へ到着すると人気のない外廊下をぐったりして歩いていった。不動産会社に勤めていた頃、特に深夜まで残業して疲れ果てて帰ってくるときは、この外廊下がやけに長く感じられたものだった。このまま永遠に玄関には辿り着くことはないのではないか、とさえ訝ったことも、二度や三度ではない。でも、家に帰ると誰かがいて、「おかえり」といって出迎えてくれるのはいいものだ。作家はそんな小さな幸せがいつまでも続く、と盲目的に過信していたのを恨めしく思った。愚かだったな、といまになって痛感する。家に帰ったって妻はもういないんだ……そう、実体があって、一緒に老けてゆくことのできる生きている妻は。
 作家(と当時は婚約者だった妻)が購入したのは、南西のいちばん端に位置する日照も風通しも眺望も申し分のない住戸で、そこの玄関扉へ至るまで外廊下は三度折れ曲がっている。幸いにして今日は雨曝しになっていない外廊下を歩いて、作家は一歩一歩部屋へ近づいていった。三度目の(最後の)角を曲がって顔をあげた。足がすくんで、その場から動かなくなった。
 いるはずのない人がそこにいた。存在すらするはずのない人が、そこに立っていた。伊勢佐木モールで目にしているとはいえ、それが存在の根拠になるわけのない人が、六メートルばかし前にいた。あれは、俺の生き霊か? 本格的にポオの小説の世界に足を踏み入れた、ってわけか? いや、この奇妙な感覚を十全に表現するならば、ロッド・サーリングの『ミステリー・ゾーン』の世界の住人になった、というべきか?
 目の前にいる自分は伊勢佐木モールで目にしたときと同じ服装で外廊下の、胸のあたりまである壁に肘をつけて、少し乗り出し気味になって、台風の接近でいつもより静かで不安げな夜の街を、楽しそうな横顔で眺めている。手にはバドワイザーの缶が握られ、蛍光灯を背にしているせいか、缶の表面の赤と白のロゴがくすんで映った。
 立ちすくんだままの作家を横目で捉えると、その人━━もう一人の自分はこちらへ頭をめぐらせて、含むような笑い声をあげて作家を迎えた。「待っててくれ、いまあの子を呼ぶよ」
 自分が玄関扉を開けてなかにいる妻を呼んだ(「おぉい、帰ってきたよ」)のを、作家は映画でも観る面持ちで見守った。低予算に悩まされながら短期間で作られた安直な映画、場末の映画館でさえ上映したがらないようなスラップスティック・コメディ。妻の返事がなかから聞こえた。目の前に自分がいて、遅からず彼女も顔を出すだろう……それが、絶えることなく繰り返される日常の延長線上にある行為として。仕事帰りの亭主を出迎える妻による、当たり前の日常の一コマとして。
 作家は三人が一堂に会す、刹那の後に実現するであろう奇異な光景を想像して、胸を押し潰されそうな感覚を味わった。彼女が顔を出すまでの数十秒が、途方もなく長い時間のように思える。時間がコンマ何秒かの感覚で刻まれてゆくごとに、心の底から止め処なく哀しみがこみあげてくる。わずかでも気を許したら、堰を切ったように涙があふれてきただろう。が、それをどうにか抑えられたのは、こちらをすくませるような眼差しで見ている、一メートルと離れていないところに立つ自分の存在だった。手には相変わらずバドワイザーの缶が握られている。作家の視線がそれに注がれているのに気附いて、自分が相貌を崩して缶の口を拭って差し出してきた。
 「飲むかい? これ、好きだろう? そうだよな、あんたは俺なんだから」
 震える手で缶を受け取り、飲んだ。口の端から中身が少しこぼれて顎を伝い、首筋を流れて鎖骨に落ちてシャツを濡らした。バドワイザーの軽い味が喉をすり抜けてゆく。その味さえ作家には現実なのかどうか、よくわからない。
 そんな様子をにたにた笑いで眺めながら、自分がいった。「安心していいよ。俺はあんたのドッペルゲンガーでも生き霊でもなんでもない。俺はね、あの子の想念が生み出した〈像〉なんだ。モールで一緒だった子供もね」頭をぐしゃぐしゃ掻きむしりながら続けた。「ま、イドの怪物みたいなもんかな……いや、ちょっと違うか……」
 缶を握る手に力が入り、軽薄な音を立ててアルミがへこんだ。
 開け放してあった玄関扉の奥から妻の声が聞こえた。こちらへ近寄ってきている。玄関扉の方へ目をやって向き直ると、自分は「じゃあ、俺、消えるよ」といって、ぱっ、と消えていなくなった。そこに人がいた証拠になりそうなものは、どこにもなかった。ただ、相手から受け取ったバドワイザーの缶は中身を三分の一ほど残したまま、作家の手のなかにある。
 強まってゆく雨足と激しくなるばかりの風に嬲られる一方の夜の街を、H.P.ラヴクラフトが描き続けた荒廃と悪夢の統べる異界の街を目の当たりにしたような顔で呆然と見おろしていると、なにやらやわらかくてあたたかいものが背中へ、ぽしゅん、と押しつけられた。振り向くと、生前となんら変わらぬ笑顔で見あげる妻がいた。
 「ひゃふん、本物だぁ。えへ、おかえりなさい」
 「あ、━━ただいま」
 「なんて顔してんの? ……そりゃいいたいことはわかるよ。でもね━━お、ビール」
 そういって缶をひったくるみたいにして奪うと、妻は背を反らせて中身をごくごくと飲んだ━━飲み干した。喉が上下するのを、作家は目をすがめて見つめた。
 ぷはあっ、と満足そうな声を洩らすと、妻は夫の首に両手をまわし、思い切り伸びをして、彼と唇を重ねた。彼女の体から立ちのぼる甘やかな香りとビールの残り香が鼻腔についた。最初は軽い、ついばむようなキスだったが、貪るような濃密な口づけへ変わるのに時間は要しなかった。
 いま目の前にいて唇を重ね合わせているお前が、生者であろうと死者であろうと構わない。生涯でただ一人愛していつまでも添い遂げてほしいと望むのは、妻よ、お前だけしかいない。死んだお前を再びこの手に抱けるなら、もしお前を生き返らせることができるなら、再び相見えて永劫の彼方まで一緒にいられるのなら、俺はどんな代償だって支払うよ。賭けたっていい、お前を生き返らせられるなら、どんな禁忌を犯したっていい。なにも知らない世人の非難を受けなくてはならないなら、甘んじて断頭台にだって立ってやる。唇の端にしょっぱい味を感じながら、作家は心のなかで叫んだ。
 すると、頭のなかに「本当?」という妻の声が響いた。ああ、本当だとも。彼は、そう答えて、薄目を開けた。妻は目蓋を閉じたまま夫の唇へ自分のを押しつけている。まるでこの世の名残のキスのようだった。
 湿気を孕んだ重い風に曝されて、唐突に妻が体を離し、身をよじらせてくしゃみした。作家は妻の肩を抱いて、もうなかへ入ろう、と促した。
 彼女は軽く抵抗した。なぜ、と問うと、妻は口を尖らせて、駄々をこねるような口調で、
 「お姫様抱っこじゃなきゃヤダ」
 そういうことか、と苦笑して、妻の背中と脚へ手を回して抱えあげる。こいつ、少し太ったんじゃないか、と顔をしかめたが、それは勘違いで自分の体力が落ちたんだよな、と作家は思い直し、そういうことにした。
 よいしょ、となんとか持ちあげると、全身を鈍い痛みが走った。苦痛に顔をしかめたそうになったが、にこにことこちらを見る妻にそれを知られたくはない。彼女の喜びに影を落としたくなかった。このまま寝室まで。おやすいご用だ。
 玄関のドア枠へぶつからないよう注意して、二人はなかへ入って扉を閉めた。誰にも見られなかった。よかった、よかった。以前、同じく外廊下でお姫様抱っこしてなかへ入ろうとしたとき、妻がドア枠に頭をぶつけて悲鳴をあげたことがある。それを聞きつけて顔を出したお隣さんが、お姫様抱っこしている作家と妻を見て、あらま、といって引っこんだことがあった。そのお隣さんも、妻が死んだことは当然知っている。なおさら、見られなくて、よかった、よかった。
 靴を脱いで廊下への第一歩を記す。と、お姫様抱っこはそこまでだった。夫の腰を心配した妻が、自分から降りるといい出したのである。決して自分が太ったことを認めたわけではない。

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第2105日目 〈【小説】『それを望む者に』 09/20〉 [小説 それを望む者に]

 はっきりいわずとも、モルディブで聴いたブラームスはどこか浮いていた。
 その物音で目を覚ます直前、作家はそんな考えを弄んで、心のなかでにんまりとした。
 薄目であたりを見まわす。飾りっ気のない天井と壁が迫ってくる。息が詰まりそうな苦しさを覚えた。清潔な白い空間のなかで、自分の体が横たえられているのに気附いた。死体安置所みたいだな、と真っ先に思った。意識の回復してくるにつれて、でも、俺はまだ死んじゃいないようだ、と信じられるようになった。死後の世界がどんなものかは知らないが、俺はまだ生きている。こうして隣でごそごそ誰かがやっている音も聞こえるし、軽いしびれが走るけれど腕も指もちゃんと動かせる。ここがどこなのか、如何にしてこの部屋で身を横たえるに至ったかを思い出そうとした。……整理しよう。えーっと、……路地の裏の甘味処から息子(推定三歳から四歳と覚しき、妻と俺の間に生まれた息子)を連れた自分が出てきた。足許がよろけて倒れこんで━━妻が走り寄ってきて、……気絶して夢を見た。新婚旅行で行ったモルディブで過ごした、幸福だったひとときの夢を見た。
 作家は唸り声をあげて、ずきずきする頭で半身を起こし、部屋のなかを見渡した。ベッドの脇にしゃがみこんで作家のトート・バッグを開きかけていた男が、びっくりした表情でこちらを見ている。
 「誰ですか?」鋭くて棘のある口調になっているのがわかった。「それ、ぼくの荷物ですよね?」
 男が憤然とした勢いで立ちあがった。紅潮した顔で鼻息が荒い。豚が鼻を鳴らしているみたいだ。襲いかかってくるか、と心配が心のなかをよぎったのは、いうまでもない。
 トート・バッグから手を離した男がこちらへ一歩を踏み出した。漫画の登場人物じみて、唇がわなわな震えている。作家はベッドに坐りこんだままなのにもかかわらず、とっさに身構えた。それを見るや男は大きく目を剝いて踵を返して扉へ駆け寄った。ノブへ手をかける直前、お約束のように扉が引かれ、男はバランスを崩して前方へつんのめった。扉を引いたのは女性だった。作家にはとても見覚えのあるベージュ色の制服を着ていた。女性は体をよじって、正面から倒れてくる男を避けた。男は素早く立ちあがると顔を背けて、脱兎の如くに走り去った。女性はその背中へ向けて、「待ちなさい!」と叫び、近くにいたらしい同僚たちへ「そいつが例の盗人よ!! 捕まえてっ!!」と告げた。━━そうして廊下に喧噪が生まれ、潮が引くように静かになっていった。
 狐につままれた顔つきで一連の様子を眺めていた作家は、女性がこちらを振り返ってすぐに柔和な顔を見せたとき、やっとここがどこなのかを合点した。そうか、ここは大通り公園に面した横浜ふれ愛病院だったか、と。
 腑に落ちた思いがした。倒れた自分を介抱したのが妻だったなら、この病院へ運びこまれるのは自然な成り行きであっただろう。ここは生前の妻が、結婚してからも一年半の間、事務員として━━いま目の前にいる女性と同じ制服を着て━━働いていた病院なのだから。倒れた場所からいちばん近いのがここでなかったとしても、おそらくこの病院へ担ぎこれていたに違いない。
 女性が、ファスナーが半分開いたままのトート・バッグを手にして(数瞬とはいえその重さに女性が顔をしかめたのを、彼は見逃さなかった)、作家へ手渡した。「なかにあったもので、なくなっているものはありませんか?」
 いわれるがままに作家はバッグのなかを検分した。財布の中身も確かめて、大仰に溜め息をついて頷いた。
 「全部ありますね……」或る意味に於いて(いや、窮極的な意味に於いて)財布の中身や携帯電話よりも大切なノートをぱらぱらめくってみる。「うん、だいじょうぶですね」筆記用具もすべて揃っていた。
 安心した表情になって、女性がいった、「あの男、病院荒らしなんですよ。今日は捕まえられるかな」
 作家は体の向きを変えて、ベッドの端から両足を降ろして、女性を見あげた。相手がくすり、と笑んだ。
 「やっぱりそうだったんですね」と彼女は、壁際に並んだ丸椅子の一つを引き寄せて、それに坐りながらいった。「カルテを見て、あれっ、って思って。それで来てみたんです」
 一瞬、自分のことを小説家の何某だと知って顔を見物にやってきた読者なのかも。淡い期待を含んだ疑念が脳裏をかすめた。だが、すぐに自己嫌悪混じりの嘲笑でそれを一蹴した。そんなことがあるもんか、と。もうかれこれ二〇年ばかり作家稼業を続けているが、小説家の何某先生ですよねサインしてくださいナンバー・ワンのファンなんですご著書に是非サインをお願いします、なんていわれたことは一度もない。っていうか、ふつうそこまで顔が知られて本が売られている作家なんて、まさしく稀少生物そのものである。顔写真も出さず自分の仕事についてあまり口外したがらない、というのも善し悪しだな、と口のなかで呟いて、少々へこんだ。
 まぁ、それはともかく━━
 「そうしたら病院荒らしに遭遇した、と?」
 肩をすくめて、「すごい偶然ですよね」と女性が苦笑した。
 しばしの沈黙のあとで、さっきから抱いていた疑問を口にした。
 「あの、どこかでお会いしていますよね?」むろん、そんな記憶はない。
 「ええ」と女性が頷いた。「覚えていないですよね。一回しか顔を合わせていませんもの」
 作家は曖昧に諾ってから、小首を傾げた。その一方で、脳みそはフル回転をして、目の前の女性が誰であったかを思い出そうとしている。けれども、思い出そうとすればするほど、真実は意地悪い高笑いを響かせて遠ざかってゆく。記憶の糸を探る作業はいつだって意地悪だ。もどかしい気分が、作家の胸をむかつかせる。吐き気がこみあげてきそうなむかつきだった。
 そんな彼を見て、女性は「背が小さくて可愛らしい奥様に連絡して、迎えに来てもらいましょうか?」と提案した。「携帯の番号はまだ変わっていないのかしら?」
 はっ、と息を呑んで、作家は女性を見た。そうか、とようやく思い出したのだ。結婚して一週間ぐらい経った平日の夜、妻の同僚たち有志が開いてくれたお祝いの席に招かれたときのことを。その席で妻に腕を引っ張られて料理を口にする暇もないまま彼女の同僚たち(事務局の女性陣ばかりでなく、看護師や医者[もちろん全員女性]も忙しいなかを出席してくれていた。そのうちの三分の一が、宴が果てるやぞろぞろ病院へ出勤していったのが印象的だった)に挨拶するなか、最後の方で紹介された人こそ、いま目の前に立っている女性ではなかったか。嗚呼、しかしながら、名前までは覚えていない。申し訳ない。事実とは得てしてそんなものだ。記憶もまた、そんなものである。
 ━━連絡して迎えに来てもらいましょうか? 女性の台詞が残響を伴って、心のなかで繰り返された。あ、そうか。妻の同僚たちの誰か一人にさえ、妻がバスの事故で亡き人になったのを知らせていなかったんだな。作家は、時間は自分で思っているよりもずっと早く流れていることに痛感させられた。人生の伴侶がみまかって今日で十一日目、いろいろ慌ただしくて普段付き合いのない(とは彼が勝手にそう思っているだけの話だったが)人々へそれを知らせるのを忘れていた━━というのは、どんなに心をこめたって、結局は言い訳にしかならない。
 わずかの逡巡の後、彼はかつての妻の同僚の女性へ、幾分か口ごもりながら妻の死を伝えた。女性が虚を突かれたような表情になり、天井の一点を睨みつけたかと思うと、大きくて長い溜め息を吐いた。虚脱と哀しみが溜め息を飾り立てている。小刻みに震える声でお悔やみの言葉を述べた女性が、続く言葉を探して何度も口を開きかけてはつぐんだ。その永遠に続きそうな反復行動をやめさせる意味も含めて、作家はスターバックスのバリスタに返したのと同じ言葉を口にした。女性の、口を開きかけてはつぐむ行動は終わった。その代わり、今度は彼女の喉の奥から嗚咽がこみあげてき、病室に低い啜り泣きが満ちた。
 気まずい状況だった。妻が死んだという事実を受け容れることはできたようだ。おそらく、親交のあるなしにかかわらず、病院に勤める者ならそれを受け容れるのは馴れているかもしれない。だが、自分はどうだ? 妻の幻影(幽霊、亡霊。うん、なんとでもいってくれ)に悩まされる側にいる自分は? 生きていた頃と変わらない妻の姿を何度も見、会話し、触れもしたのに、どうやって彼女の死が信じられるというのか。現実なのか、目覚めの悪い夢のなかにいるのか、どっちつかずの状況にいるのが嫌だった。旅行会社と搬送先の病院の担当者と交わした電話越しの会話も、葬儀場で浪費した多くの言葉も現実にあったこと。動きも喋りもしない姿となって白木の棺に入って帰宅した妻を見たことも、鉄箸で骨の欠片を一つ一つ骨壺へ収めてゆく光景は、紛れもなく現実にあった出来事だ。それなのに、妻は未だ夫の前に現れて、生きているかのような振る舞いを見せることがある。━━啜り泣きたいのはこっちだ。
 そうして、いま不意に思い立った。━━こうも彼女が自分の前に姿を見せるのは、自分の妻恋しや妻の夫恋しやの感情ばかりでなく、彼女自身が生に執着しているからではあるまいか、と。だって妻がいっていたではないか、例え結果がどうなろうとも、まだ私たちにチャンスはある、と。これってそういうことなのではないか?
 低く続いていたしゃくり声が落ち着いた。女性はこちらへ背を向けて鼻をかみ、ハンカチで、泣き腫らして赤くなった目を押さえて、こちらへ向き直った。
 「明日は休みなので、お焼香へ伺っても構いませんか?」
 「ええ、もちろん」と作家は快諾した。安堵した気分が自分のなかに満ちてゆく。「家はわかりますか?」
 「毎年年賀状が届いていますから。住所は━━」
 「ええ、変わっていませんよ。きっと妻も喜びます」
 パトカーのサイレンが近づいてきた。作家は時間を確かめようと右手の腕時計へ目をやった。なにもなかった。バンドのあとだけが、薄く残っている。左手を念のために見た。なかった。枕の脇にも、荷物のなかにも、部屋のどこにも、時計はなかった。作家は舌打ちした。女性と目が合って、思わず口から発しかけた悪態の言葉を呑みこんだ。
どうしました、と訊ねられ、作家は説明した。女性は途端に身を翻して扉を威勢よく開け、大きな音をたてて閉めた。廊下を走ってゆく彼女の足音と誰かを呼び止める声が、扉越しにもよく聞こえた。
 グッド・グリーフ、と呟きながらベッドを降り、作家は窓辺へ歩み寄った。ぴったり閉じられていたカーテンを細く開けて夜の街を眺めた。窓の下へ視線を移すとパトカーが二台、病院の表玄関の前に停まっていた。赤い回転灯が周囲を威圧するように回ったままだった。折しもさっきの男が警官に左右を固められて連行されてゆくところだった。更にそれを見物していると、件の女性が猛然と追いすがってきて、警官を呼び止めた。かなりの剣幕でまくし立てている。警官の一人がずいっ、と男に詰め寄り、男がポケットのなかから出した物を手にとって、女性へ渡した。一頻りの問答のあとで女性は建物の影に消えた。ああ、戻ってくるな、とぼんやり思っていたら案の定、二分もしないうちに女性が部屋へ飛びこんできて、時計の確認を求めた。作家がそうだ、と首肯すると彼女は窓を開け、眼下の警官たちに叫んだ。腹の底から難なく絞り出された、張りのある声だった。まるで舞台の経験がある人のように、どれだけ声量をあげても割れることなく遠くまで響きそうな声に、しばし作家はその場の状況を忘れて聞き惚れてしまったものである。
 斯くして━━ミッション・コンプリート。ホレイショ・ケインだったら無線で「クリア」と、あの渋い声でいっていたことだろう。ややあって二台分のパトカーのサイレンが大通り公園界隈に鳴り渡り、急速に遠くなっていった。
 そのあと、外来受付で手続きを済ませ、女性と、妻の同僚でまだ病院に残っている(なおかつ手が空いていた)事務員二人に見送られてタクシーで帰宅した。その車中で彼は、肝心なことを訊くのをすっかり忘れていた、と後悔した。
 誰が俺を病院へ運び、カルテの記入に手を貸したのか? 名前や住所なら財布に入っている住基カードを見ればわかる。しかし、見せてもらったカルテには身内しか知らないことも、幾つか記されていた。あの病院にかかったことはない。ならばいったい誰が、そんな細かい点まで知り得てカルテに記入することができるのか。
 そりゃぁ、もちろん━━。
 極めて現実的な答え(他の病院の診察券が財布のなかにある。それを見つけた誰かが、その病院からカルテのコピーを取り寄せた。でも、そんなことができるのか?)と、非現実的な答え(そんなことができるのなんて妻しかいないじゃないか! 他に誰がいるんだい?)が当たり前のように交錯した。思考が引き裂かれ、正気を失いそうだった。皮膚の下を冷気が走り、上下の歯をかち鳴らすほどの寒気を覚えた。
 タクシーの窓に自分の顔が映っている。目の下は落ち窪み、頬は肉がごっそりと削げ落ちていた。土気色をした自分の顔が、窓の向こうから見つめ返してくる。本当の俺の顔じゃない。ああ、わかっているさ、そんなことは。スターバックスのバリスタの声が思い出されてくる━━お露さんに取り憑かれた新三郎みたい……外見でそういったわけじゃなくって、そんなオーラがでている、って感じ。作家は固く目を閉じて、窓へ頭をもたせかけた。だが目蓋の裏には、やつれてこちらを見つめる自分の顔が焼きついて、しばらくは消えてくれそうもない。暗がりのなかでいきなり銃口を突きつけられた気分だ。
 予想進路を大きく外れて、今夜半にも房総半島に上陸、と報道が改められた台風四号が突然の大雨を、横浜にも降らせている。窓ガラスに飛沫がぶつかり四散し、タクシーのスピードに引きずられるように水滴が後ろへ流れてゆく。その様を焦点の定まらない目で見ながら、作家はそっと頬を撫でた。平気だ、まだ肉はくっついている。痩せこけてなんかいない。
 窓に頭をくっつけたまま、モーツァルトのモテット《エクスルターテ・イウビラーテ》の一節を、口の中でそっと呟き、唱えた。Tu virginum corona,Tu nobis pacem dona,……純潔の王冠たる汝よ、われらに平安を与え給え……。
 タクシーは悠然と国道十六号線を、昼間作家が歩いてきたのと逆にたどって進む。

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第2104日目 〈【小説】『それを望む者に』 08/20〉 [小説 それを望む者に]

 「起きた?」
 目を開けると、すっぴんの妻の顔が視界を占めていた。かわいいな、と心のなかで作家はにやけた。思わず強く抱きしめて押し倒したい欲望にかられたが、午睡の前にたっぷり運動した疲れがまだ残っているようだ。無理はしないが肝心だ。今夜の分を温存しておかなくては。
 「ずいぶん寝ちゃったようだな」
 頭を動かしてキング・サイズのベッドの上から西の方角を眺めた。入り陽が海を赤染色に染め、空を濃藍色に彩っている。モルディブへ新婚旅行に来て、四日目の夕暮れである。
 膝枕をしてくれていた妻が、屈んで夫の額へキスをした。「モルディブに変えてよかったね」
 手の甲で目をこすって欠伸をした作家は頷いて、
 「海面があと一メートル上昇したら、国土の八割が水没するらしいからな、この国は」
 「本当の最後の楽園かもね。パリは残るもモルディブは消える、か。温暖化を食い止めることはできないのかしら?」
 作家はちょっと考えて、頭を振った。「マイナス六パーセントだってやらないよりはやった方がいいんだろうけれど、焼け石に水だと思うな」妻の首へ手を回してかき寄せ、唇へ自分の唇を重ねた。「いますぐ人類が死滅して、この星自身に治癒させるしかないよ。それでも間に合わないかもしれない」
 「でも、希望は捨てちゃダメ」夫の唇へ人差し指を軽く押し当てた。いたずらっぽく微笑みながら妻はいった。「私たちが結婚できたのも、最後まで希望を捨てなかったからでしょ?」
 ちょっとためらってから、ああ、そうだったな、と作家は小声で諾った。
 水上コテージの杭にぶつかった波が砕ける音が、床の下から聞こえた。
 「なにか聴く? ━━ブラームスとピアソラ、どっちがいいかな?」
 「いったいなんだってまた、そのチョイス?」
 「だって、これしかなかったんだもん」妻が頬をふくらませて抵抗した。
 まぁいいか、と夫は、チョイスについてそれ以上の質問はやめた。「ブラームスは、何番で、誰の?」
 「四番。えっとね……」妻は思いきり腕を伸ばして、持参したCDを摑もうとした。届かないかな。気を利かせて頭を浮かせようとした。そのままでいて、という妻の訴えめいた声がした。納得した。いま頭を浮かせたら、彼女は重心を失ってベッドから転げ落ちる羽目になるだろう。で、問題のCDは、デ・ラ・メアとウッドハウスの単行本の間に挟まっていた。これだって、いったいなんだってまた、そのチョイス? である。
 「チェリ、ビ、━━ダッケ」少しいいにくそうだった。「そんな名前の指揮者」
 「そうか。━━うん、それにしよう」
 「頭どかしてくれてもだいじょうぶだよ」
 膝枕を解いて、妻はコテージに用意されていたCDラジカセの方へ歩いていった。
 リゾート地で聴くブラームスか。しかも、指揮はチェリビダッケ。重厚といえば聞こえはいいが、コクがありすぎる。もたれるのを覚悟で聴く他はない。少しして、拍手が始まってブラームスの交響曲第四番ホ短調が流れてきた。
 妻がおもむろに脱ぎ始め、ビキニの水着姿になった。きゅっ、とくびれたウェストの上下然るべきところに、程よく肉がついていた。背丈は中学生でも、肉体は大人の女である。バルコニーへ出た彼女は振り返って、「ちょっと泳いでくる」といって、その場から海へ飛びこんだ。あがった水飛沫の音がブラームスと奇妙な調和を演出した。
 ベッドに横たわったまま、白いレースの蚊帳が吊られた天井を眺めていると、妻が子供を産んで三人して海岸を散歩している光景が、自分でもびっくりするぐらい鮮明に、はっきりと焦点を結んだ映像となって浮かんだ。近い将来実現するだろう、と満足げに頷いてみせる。そうしてベッドから降り、バルコニーへ足を向けた。
 モルディブの海と戯れている妻は、泳いでいるというよりも溺れているみたいだ。だが、ああ見えて彼女はちゃんと泳いでいる。はしゃぎが過ぎて、溺れているように見えるだけだ。
 「じきに夕食の時間だしさ、夜の海は危ないから、もうあがったら?」まるで保護者だな、と自嘲しながら、作家はいった。
 「わかったぁ」間延びした妻の声が、闇のなかから返ってきた。
 コテージの壁へ背中をくっつけて、まわりを眺め渡した。夜の闇は海と空のほとんどを支配している。水平線の、日没点のあたりだけが、鮮やかなオレンジ色に染められていた。東の空を打ち仰ぐと、映るのは、天空を埋め尽くす無数の星々の、遠い昔の瞬きだけ。その光景に胸が圧迫されるのを覚えて、再び西の方へ目を戻した。馴染みの光景に触れて息苦しさから解放された。離れた海上に浮かぶコテージの灯りと、島をつなぐ桟橋の両端に設置された灯りが、星空に畏怖したあとではとても安らいだ景色に感じられた。
 バルコニーから海中へ伸びる階段を、四肢から水をしたたらせた妻があがってきた。軽快な足取りで、ご機嫌な鼻歌まで披露している。
 インスマスの寂れた街へダゴンが上陸する様子が脳裏に浮かび、笑ってそれを退けた。ホラー小説ばかり書いていたせいで、そんな想像はすぐ湧いてくるな。そう、作家は結婚直前までホラー小説を量産しまくっていた。そろそろマンネリ化し、このジャンルへ見切りをつけようとしていた矢先に妻と出逢い、かねてから暖めていたユーモア小説の企画が通り、文字通り“新生”を果たそうとしていたのだった。けれども、そうやって、自分がいちばん書きたくてならなかったジャンルへ移行したとしても、遅かれ早かれ出版社はジャンル作家のレッテルを貼りたがるだろう。そうすれば俺はまたそこから逃げるように別のジャンルを模索し始めるんじゃないのかな。
 でも、そもそも作家はデヴュー前からユーモア小説志向で、この種の小説を書きまくってなお倦んで疲れることを知らず、筆が荒れたりやっつけ仕事をしたことはなかった━━錯綜してなお整然としたプロットを持ち、(それこそ自分の分身と思えて愛情を注げる)キャラクターたちが上へ下へのどたばた騒ぎを繰り広げる類の小説を、自分が読みたくてたまらない小説を、馬車馬みたく書き続けてきたのだ。それなのにホラー小説作家とレッテルを貼られるようになったのは心外だった。事の起こりは、作家が駆け出し時代に書いた(多少はホラーの要素もある)中編小説が、新進女優を主役に据えて鳴り物入りでドラマ化されたのがそもそもの始まりだったのだ。DVD化もされ、地上波やCSで再放送が続いている作品だが、これほど憎たらしくて、題名を口にするのもおぞましい、キャリアから抹殺したい作品なんて、滅多にあるものではない。事実、原作となった小説は単行本化されて版を重ね、文庫にもなったが、作家の嫌悪が頂点に達した時期に絶版となった。古書価がずいぶん高いと聞くけれど、そんなのは作家にとってどうでもいい話だった。そう、古書店で売買されていたって、こちらの懐へ金が入るわけでもない。勝手にさせておけばよいのだ。けっ。
 ブラームスは響きを重ねてゆき、第四楽章のクライマックスへ昇りつめようとしている。それを聴きながら妻の頬へキスして、耳許で囁いた。
 「ピアソラは夕食のあとで、腹ごなしのスポーツのときに聴こう」
 すぐに意を察して、妻は肘で夫の腹を小突いた。くまのプーさんみたい、とニコニコしながら、いつまでも撫でていたこともある、ぽっちゃりせり出した夫の腹を。
 「えっち。でも、大好き」
 妻がシャワーを浴びてイヴニング・ドレスへ着替えるのを待つ間、二人分のキール・ロワイアルを作った。
 グラスを傾けあう二人の傍らで、ブラームスは絶後のコーダを描き、厳粛なまでの音の大伽藍を築いて終わった。心の火照りを鎮めるかのように、波音はいつまでもおだやかであり続けた。
 はっきりいって、モルディブで聴くブラームスは、どこか浮いている。

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第2103日目 〈【小説】『それを望む者に』 07/20〉 [小説 それを望む者に]

 想い続けるのは、遺された側のエゴ、か……。やりきれない思いを弄びながら舌打ちした。これからずっと独身を━━やもめを続けて亡き妻の魂を浅茅が宿で弔いながら夜を過ごすのもいいだろうさ。あの子だけが希望だったのだ。死者をいちばんに愛してなにが悪い? バリスタよ、悪いがそういうことだ。
 もう俺はなにも迷わない。過去よ、永遠に彼の人の腕の中で眠れ。未来よ、永遠に暗闇のなかに横たわって目覚めるな。もう迷いはしない。
 会社の退ける時間になったせいもあって、店内のざわめきが耳につきだした。昔なら妻と待ち合わせ、これからのデートに心弾ませていた時刻だったのにな。一人呟くようにいって、荷物をまとめて立ちあがった。マグ・カップを返しに行き、踵を返そうとして、あのバリスタと目が合った。どちらからともなく会釈して、作家は店を出た。
 涼風を孕む微風を肌に感じながら、、伊勢佐木モールを国道十六号線の方へてくてく歩いた。人並みを縫って、てくてく歩いた。宵闇が帳を降ろしつつあったが、空はまだ明るい。居酒屋やカジュアル・ファッション、携帯電話ショップの店員ががなり立てて、客寄せにこれ務めている。人々はその前を泰然と通り過ぎてゆく。行き交う人々の装いは軽やかだ。初夏がその気配をいや増しに増しながら、そこかしこへ忍び寄ってきている。ずっと歩いていると、少し汗ばんできた。帰りは電車を使おう、と決めた。
 歩いていたら、奇妙な感じに襲われた。首筋を針でちくり、と刺されるのに似た一瞬間の痛みを伴って、その“感じ”は訪れた。お前の興味を引く光景がすぐそこにあるぞ、と暗闇のなかで見知らぬ誰かが耳許で囁いてきたような、恐怖と好奇心を両立させてしまう悪ふざけめいた感覚。あたりを見まわしてみる。街並みにこれといった変化はない。が、人々の姿は輪郭を失い、大気のなかへ溶けこんでゆこうとしている。街路樹に(目立たぬよう)設置された小型スピーカーからは、それまでの小鳥のさえずりに変わってラテン語の典礼詩が、男の厳しい声色で流れてきた。シャツの下の汗ばむ肌をざらついた手で撫であげられるような感触がした。悲鳴が喉の奥から飛び出そうになったが、どうにか押しとどめられた。気附けば、周囲には誰もいない。ロッド・サーリングの『ミステリー・ゾーン』やリチャード・マシスンの『地球最後の男』の世界に迷いこんだような気がした。それは決して楽しいものではなかった。
 眼前の景色がさざ波のように揺らいで、空間が歪んだ。一陣の風が吹きつけて、彼の体を嬲って足をよろけさせた。眇(すがめ)で見ているうちに空間は直ってゆき、再び往来を行く人々の姿が戻ってきた。だが、なにかが違う、と本能が訴えてきた。さっきと変わらぬ光景なのに、なにか異質な要素が混入している。自分の身に危険をもたらすかもしれない。が、そうは思っても特有の好奇心に抗うことはできず、彼はそれを探し求めた。そして、人波の途切れた場所に新たな光景を目にして愕然とした。もっとも、これまでの経験を基にすればさして驚くことでもなかったのかもしれなかったが。
 妻と自分が、目の前にいた。二人は子供(息子だ、と作家は直感した)の手を引いて、両脇を守るようにして、並んで歩いている。さながらそれに付き従う影法師のようになって様子を窺っていると、時折妻と自分は互いに眼差しを交わして笑みあった。それが幻であろうがなかろうが、作家の心は嫉妬で煮えくりかえり、一方で砂を噛んだような苦々しさが生まれてくるのは留められなかった。だが、さりとてどう振る舞えばいいのだろう? 彼は己にそう問うた。このまま三人を━━殊に両脇の三人を観察し続ける以外にどうすれば? そう、そうするよりない。この幻が終わる瞬間まで。現実と空想の境目を見失って、それとわからぬまま生きる男のように。
 幻の三人と現実の一人は伊勢佐木モールをゆっくりとした足取りでそぞろ歩いた。いつしか大型書店の自動扉脇にある花屋の前で、三人は立ち停まった。妻が子供の前にしゃがみこんだ。作家も歩くのをやめ、白樫の影に隠れた。妻の傍らに立つ自分は中腰になって息子の頭に手を置きながら、幾つかの単語を口にした。息子の顔に晴れやかな色が浮かんだ。夫婦は立ちあがり、子供の手を引いて、モールの反対側の路地へ歩いていった。作家もそのあとを、なるべく自然に見えるように追った。他の人々に俺たちの姿は見えているのだろうか、と疑問を抱かないでもなかったが、いまはそんなことに構っている場合ではなかった。疑問を脇に押しやって、作家は三人の跡を追いかけた。
 三人は地下のライヴ・ハウスの看板を過ぎて、その斜め向かいにある甘味処(なが乃庵という店だ)の暖簾をくぐった。一緒に入ってゆきたい衝動に駆られたが、そんなことしてどうする俺? と思い直し、外で待つことにした。その姿を客観的に思い浮かべると、なんだかハードボイルドの探偵にでもなったような気分だった。そういえば、なんであの手の小説に出てくる探偵は、昼間から酒をしこたま飲んでしゃんとしていられるのだろう、と訝った。今度その類のジャンル小説を茶化した短編でも書いてみようか、と思い立ったが、知人の小説家のようにそれが原因で十年近く干されたらたまんないなと考え直し、すぐさまそれは記憶のなかのアイデア処理工場へ投げこまれた。
 店の前を行ったり来たりしているうち、この甘味処へ入ったことがあるのに気がついた。確か、戦後すぐから営業を始めて、以前妻と来たときは老夫婦二人で切り盛りしている上に、満席だったのもあり、だいぶ待たされた覚えがある。
 ━━三十分経っても、彼らが出てくる様子はなかった。路地を奥へ進んだところに、半地下のラーメン屋がある。そこへ行って腹ごなしでもしてこようかな、と何度か考えたが、その間に三人が出てきたらどうする? 作家はその可能性にがっくりと頭を垂らして、重くなった足取りで店の前を行ったり来たりし始めた。
 暖簾の向こうの磨りガラスに黒い影が映った。出てくるのかな。その矢先、作家ははたと思い至った。
 すでに亡き妻との再会は果たされている。互いに相手は見えて、肌が触れ合いもした。妻とそうだったということは、いま一緒にいる自分にも、俺の姿は見えるということだろう。もちろん、息子にも、目の前で突っ立っている父親(俺だ)の姿が見えるはずだ。これはもしかしたら、相当危険な状況なのではあるまいかもう一人の自分と向き合うことがどれだけ危険を伴うか、ポオが『ウィリアム・ウィルソン』でじゅうぶん指摘しているではないか。目前に迫った危険を察知でき、回避できるのなら、そうするのが賢明だろう。
 伊勢佐木モールの方へ踵を返す。ここを抜け出さなくちゃ。重くなった足を前に振り出そうとする。
 背後で甘味処の扉が開く音が聞こえた。思わず振り返ってしまった。息子が、自分が、最後に暖簾を片手であげて妻が出てきた。扉を後ろ手で閉める妻に、息子がまとわりつく。典型的な、絵に描いたような家族に映った。あのまま妻が生きていれば、近い将来現実のものになっていたかもしれない光景。実の家族の元から脱出して以来、求めてやまなかった、ぬくもりと信頼と絆の上に築かれた、守るに値する自分自身の家庭。だのに━━嗚呼、妻はもういない。眼前の妻は、生きていたときそのままの妻の姿をまとって現出した幻……それは俺の死期が迫っているからかもしれない。三人の口からもれた笑い声が、作家には死の宣告を告げる鐘の音に聞こえた。
 彼は、路地の先にあって、人工の輝きが奇妙な現実感をもたらしている伊勢佐木モールへ、足を向けた。途端にふらついて棒立ちになり、くるっ、と回転して仰向けになり、そのまま崩れるように倒れた。すると、普段はあまり目にしない光景が広がった。地表に近い位置から見あげていると、路地の両脇から空を目指して建つ雑居ビルとデパートの屋上の縁の間に、暮色を増した宵闇空が、きゅうくつそうに収まっていた。動物園の動物たちも檻のなかから、こんな風に空を見あげるのだろうか、と作家は思った。披露をたっぷり塗りこめられた溜息を残して、静かに目蓋を閉じる。
 どこかから誰かの、小さくて短い、鋭い叫びが聞こえた。女性の声だとはわかったが、こうして倒れてしまってはどちらの方向から聞こえてくるかまではわからない。次いで、足音が迫ってきた。早歩き以上小走り未満の足音。路面を伝って響いてくる音は、かすかに振動してコンクリートの下から彼の鼓膜を刺激した。倒れたままの作家の傍らでそれは停まった。足音の主が衣擦れの音をさせながら、屈みこむのが感じられた。好奇心も手伝って、目を細く開けてみる。
 よかった、と嘆息した。予想通りの人物━━妻以外の誰がいるというのか━━がいて、彼の顔を覗きこんでいる。心配と不安を隠しきれぬ面持ちで、夫の顔を覗きこんでいた。作家はそんな妻を、愛情と恐怖の入り交じった眼差しで見あげた。額にかかる髪をそっ、と払ってくれる仕草が、いまはとてもつらい。執筆に倦んでリビングや和室で寝転がっていると、どこからともなく妻が現れて膝枕をしてくれながら、こんな風にそっと髪を払ってくれたのを思い出す。いまの妻の仕種は、以前のなにげない小さな、でもすべてが幸福に彩られていた日常の一つ一つを、否応なく連想させる。髪を払うと妻は作家の両肩を摑んで、軽く揺さぶっていた。さっきよりも彼女の顔は近くにある。
 さて、そんなときにもう一人の自分と息子がどうしているかと思えば━━眼球をぐるり、と動かしてみたが、どこにも姿が見えなかった。もしかしたら妻のすぐ後ろに立っていて、自分のところからはたまたま見えないだけなのかもしれない。それならそれでいい、彼らが俺の視界に入っていないのは事実だからな。満足と安堵の溜息が知らずにもれた。
 だいじょうぶ? 珠を転がすような妻の声が降ってきた。懐かしくて、四六時中聞いていたって飽きはしない妻の声。だがいまはそれよりも恐れの方が若干優っている、まるで天のお告げのような妻の声。重ねて彼女は訊いた、だいじょうぶ? それが作家の耳には、「愛してる?」という言葉の別の表現のように聞こえたのだったが。
 目の前がゆっくりと闇に閉ざされてゆく。彼は妻の名前を呼んだ。ここにいるよ、と相手の声が聞こえた。これが疑う余地のない現実であったならどんなにか救われていただろう。開いた唇から出るのがゼイゼイいう喘ぎ声ばかりなのにいらいらしながら、作家はそう思った。死んだはずの妻とこんな風に会話しているなんて、正気の沙汰じゃぁない。気が狂ったわけでもないのに(でも、本当に?)幻と現実の区別ができなくなってしまうなんてなぁ……。ぼんやりとそんな考えに耽っていると、視界が隅の方から白く濁ってぼやけだして、徐々に中心へ浸食しつつあった。妻の顔もはっきりしなくなってきた。彼は妻の名前を再び呼んだ。それに答えるように、あたたかな掌が、髪の払われた額へ置かれた。「なあに?」と妻の声。
 「やめろ。お前は死んだんだ」と作家はうなされるようにいった。妻の傷ついた顔がちらついたが、表情をしかと確かめることはできなかった。でも、それでよかったのかもしれない。見てしまっていたら、作家は後々まで、そのときの妻の顔を記憶から拭い去ることができなかったかもしれないから。そう、この先の運命がどうなっていようとも。「俺を遺して、たった一人で逝ってしまったんだ。なのに、なんで……」
 あなた、と妻がいった。耳許へ口を寄せて、結婚する前のように作家の名前を、続けて呼ばわった。その声は涙でかすれているように聞こえて……刹那のあとで、頬に熱い雫がこぼれ落ちてきた。導かれたかのように、作家の両目からも涙がしとどにあふれて流れ出した。唇を噛んで眉間に皺を寄せ、ぎゅっ、と目蓋を閉じても、涙の奔流は止まりそうにない。
 妻が、あなた、と震える声でいいながら、舐めるように唇を重ねてきた。肉体の熱さと重みをはっきりと感じられる口づけだった。やがて唇が離れ、妻がいった、しばらくゆっくり眠って、と。作家は考える間もなく、頷いた。
 「まだわたしたちの未来は変えられる」と妻はいった。眠る子供へ語りかける母親を思わせる口調だった。「例え結果がどうなろうと、まだ私たちにチャンスはある」
 作家は最後まで聞くことができなかった。〈眠り〉が歓待した。

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第2102日目 〈【小説】『それを望む者に』 06/20〉 [小説 それを望む者に]

 作家はノートへ目線を落としたが、またすぐに頭をあげた。視界の隅っこでグリーンのエプロンを着けた黒いシャツ、黒いカーゴパンツ姿の女性バリスタの姿が映ったからだった。顔をあげると、真正面から視線があった。久しぶりに会うような気がしたが、栗色の髪の毛にぱっちりした瞳の、色白で背が高い女性だった。生前の妻が、「あの人ぐらいの身長があればなぁ……」と羨望の眼差しを向けたこともあるバリスタであった。加えていえば、作家と妻が出逢った場面の目撃者。その女性バリスタは目が合うや、つかつかとこちらへ歩いてきた。
 こんにちは、とアニメ声のソプラノが頭上から降ってくる。「お久しぶりですね、先生。なんだか━━やつれてません?」手にしていた台布巾を折りたたみながら、続けて、「病みあがりみたい」と。
 「そうかな」と呟いて、作家は頬から顎へかけてのラインを撫でてみた。しかし、誰かにはっきり指摘されるほどにやつれたとは思えない。「そんな風に見える?」
 バリスタはためらいがちに頷いて、
 「お露さんに取り憑かれた新三郎みたいです」
 それは言い得て妙だな、と作家は苦笑した。そういえば牡丹の花が咲く季節だ。
 「でも、その状況はちょっとやばいな。みんなに気味悪がられる」
 「うーん、なんていうかな……」バリスタは腕組みをしながら小首を傾げた。「外見でそういったわけじゃなくって、なんとなく、こう……そんなオーラがでている、って感じですかね」
 「オーラ?」間髪入れずにバリスタが頷いた。ああ、そうか、それならよくわかるな。「でも、だいじょうぶだよ、至って健康だから。家から出なくても済んじゃう仕事だから、少し不摂生になったのかもしれない。心配してくれてるんだね、ありがとう」
 作家がぺこり、と頭をさげると、その動作に女性バリスタもつられて頭をさげた。間の悪いコントの一場面みたいだった。
 「忙しくても無理はやめてくださいね。先生が倒れたら、その分うちの売上げが落ちちゃいますから」と、べっ甲のカチューシャを直して、バリスタがいった。冗談とも本気ともつかぬ口調だったのが、作家の心に微妙な影を落としたのに、彼女は気がつかない。
 「今日もお一人なんですね。いつもお留守番じゃぁ、奥様がかわいそうですよ?」
 それは決して配慮を欠いた発言ではなかった。知らないのだから、仕方がない。作家の返答にバリスタの顔が曇り、代わって哀悼の色が浮かんだ。そして、作家がこれまで何十回となく聞いていい加減うんざりしている台詞を、彼女も口にした。まぁ、それが当然の反応で礼儀だからな。それにしても、たまにはもう少し変化のある、気の利いた台詞を口にする者はいないのか?
 「……可愛らしい方でしたよね」ぽつり、とバリスタがいった。「なんだか小動物みたいで……」
 一人でいるのをあまり好まず、家にいても仕事しているとき以外はたいていすり寄ってじゃれついてきた妻の姿を思い出しながら、いまバリスタがいった“小動物”という表現が、あまりに的を得ていたのに、彼は知らずおかしくなった。
 「いざいなくなってしまうと、どれだけ自分が彼女に依存していたのか、身に沁みてわかるね」
 刹那の間のあとで、声小さく、そうですよね、そんなものなんですよね、とバリスタは諾った。その表情にほんの一瞬とはいえ、暗い影が射したのを、作家は見逃さなかった。胸をえぐられた気分だった。知らずに相手の傷へ触れてしまった。誰もが誰かを失う。そんな自明のことに、彼はいま初めて思いをめぐらせたような気がした。目の前にいるバリスタの女の子だってそうだ。
 「背が小さくて元気いっぱいな人で、かわいかったですよね。私は奥様のこと、とっても好きでした」と彼女。それを作家は、うつむいて唇を噛んで聞いていた。バリスタの口許には懐かしむようなほほえみが浮かんだ。「先生と奥様、うちの店で初めて逢ったんでしたよね」
 短い時間に自動ドアが何度も開き、レジに客が並び始めてざわめいてきたのが、雰囲気で伝わってきた。女性は一礼して、仕事に戻った。去り際にうるんだ瞳で作家を見、「でもね、先生。もういない人をいつまでも一途に想い続けるのは、なによりもつらくて苦しいことでもありますよ。そして、残酷です。たぶん、それは遺された側のエゴでしかないから━━」
 作家はバリスタの後ろ姿を見送って、ぐるり、と頭をめぐらせてガラス窓の向こうへ目をやった。視線は、ガラス壁の向こうに見える、だんだんと暮色を増してゆこうとしている伊勢佐木モールではなく、店内、ガラス壁に面した、スツールの六脚あるカウンター席へ向けられている。
 先生と奥様、うちの店で初めて逢ったんでしたよね。さっきのバリスタの声が脳裏に響いてよみがえった。
 それに頷く自分の声が聞こえる。ああ、君のいう通りだ。ここで、俺は妻と出逢った。
 初冬の平日の昼下がり。第一印象は強烈だった。忘れられはしなかった。彼女と別れてぼんやりその残像を店のなかで追っていたら、なぜか銀色夏生の詩の一節が浮かんだことも覚えている。
 遠くの方から鈴の音が聞こえてくる。心のなかがおだやかになってゆき、顔からこわばりが消えてゆくのが感じられる。だんだんとあの日の思い出が像を結んで、作家の心のなかに投影されてきた。……
 ……予兆もなく、なんの変哲もない平日の、訪れて間もない冬の昼刻。作家はこのスターバックスにいて、カウンター席の真後ろになる丸卓に坐って、出世作になった長編小説の決定稿を仕上げているところだった。視界の隅で影が蠢いていた。ごそごそと、なにかを探しているような、落ち着きのまったく感じられない動きだった。最初は無視していたが、やがてどうにも気になって、遂に我慢できなくなって顔をあげて、そちらを見た。呻きに似た女性の声が耳へ飛びこんできたのは、ほぼ同時だった。どこかの会社の制服なのだろう、ベージュ色のタイト・スカートとジャケットを着た、背の小さな━━街角でふいに話しかけられたらすぐには視界に入ってこないぐらいの身長だった。もし私服だったら、中学生ぐらいに思えたかもしれない、と後年彼は妻に語った━━女性がカウンター席に並ぶスツールへ腰掛けようと奮闘(いや、無駄な努力だ、と目にした瞬間の作家は思った)しているのが見えた。
 呆気にとられてしばしそれを傍観していたが、やがて、当たり前のようにその疑問が生まれた。この女性はなぜそうまでして、その席に坐りたがっているのだろう? 他にも席は、十分に空いている。この時間なら、昼刻とはいえ席が完全に埋まることはない。正午を三〇分ぐらい過ぎると様子が変わってくる日もある。作家は時計を見た。まだそんな時間ではなかった。店内をざっと見渡してみても、客は四割程度の入りだ。その大半は、作家同様午前中から居坐っている、いわばこの時間帯の常連だ。
 いまや作家は横目で観察するのではなく、完全に頭をそちらへ向けて、女性の何度目かの挑戦を固唾を呑んで見守っていた。それは店内の他の客も同じだったようで、視線がそちらへ集まっているのを、背中で察することができたぐらいだ。
 女性はもがき続けていたが、やがてコツを摑んだようだった。
 まずスツールの低い背もたれとテーブルの縁に手を置く。と同時に、スツールの脚につけられた馬蹄状の足かけへ片足を掛け、弾みをつけて体を浮かした(なるほど、そうやって坐ると、なんだか優雅でかっこいいな、と頭の片隅で感心した覚えがある)。女性の体が浮きあがったが、ほんの束の間だった。足掛けへ置いた片足がずるり、と滑って座面の縁へ膝をしたたかに打ちつけ、……引き結ばれた唇から痛みを訴えかける声が漏れた。女性の味わっている痛みを、知らず共有させられるかのような呻き声だった。
 小さな溜め息をついて、何気なく店の奥に目をやった。幾人かの客はこれ以上見ていられない、という様子で、彼女から目を離して自分のことへ戻っていた。作家と女性の二人を視界の中央に置く位置に立っていた、モップで床を磨いていた長身で色白の、栗色の髪をした女性バリスタが、一連の場面を目撃していた。スツールから女性がずっこけた場面でバリスタは即座に背中を向けて、うつむきながら吹き出していた。背中がそれとわかるぐらいに震えている。
 そんな風な状況であっても、まだこの女性は諦める気配がない。彼女を突き動かすのはなんなのか。知りたい気分でもあったが……そろそろ助け船を出した方がよさそうかな。
 そんなことをつらつら考えていると、向かいに坐っていた赤のタートル・ネックを着た男が席を立ち、にやけ顔でカウンター席に歩み寄りかけた。それを認めた瞬間、なにかが作家の背中を押した。彼は迷うことなく立ちあがり、タートル・ネックの男を遮って(まるで男が透明人間でもあるかのように視界の外へ追い払って)、奮闘中で頬を上気させている女性に声をかけた。
心のうずきを感じながら、作家は、「あの……」と声をかけた。店の奥で口笛を吹いて茶化すような音が聞こえた。現実であったかどうか、いまとなっては定かではない。
 振り向いたベージュ色の制服姿の女性の目尻に涙が浮かんでいる。どきりとした。闇で閉ざされていた場所に一筋の光を見出したような気がした。また心がうずいた。今度は、そのうずきの原因がなんであるのか、よくわかった。それは久しく忘れていて、このまま風化させるつもりでいた感情だった。
 「こっちの席でも構わないなら、変わりましょうか?」震える声をどうにか抑えつつ、それだけの言葉をやっとの思いで振り絞った。
 ややあって(それがどれだけ長く感じられたことか!)女性は弱々しく頷いて、それまで以上に顔を赤くしてそそくさと、なぜか隣の席へ坐りこみ、両手で抱えるように持っていた、プレミアム・ホット・チョコレートの入ったマグカップを口へ運んだ。そうして二人は、ちらちらと相手の横顔に目をやりながらそこでの時間を過ごし、紆余曲折を経て数年後に結婚した。
 最初の一人が坐るまで、思い出に浸ってそのカウンター席を眺めていた。

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第2101日目 〈【小説】『それを望む者に』 05/20〉 [小説 それを望む者に]

 午後二時をわずかに過ぎていた。てくてく歩き続けて、店がいちばん静かで、落ち着きを保っている刻に、お目当てのスターバックスへ到着した作家。すぐには店へ入らず、外のバルコニー席に陣取る幾人かの常連(彼らも妻のことは知っていたが、事故で死んだことはまだ知らなかった。敢えて教えるまでもあるまい、と作家は判断した)と声を交わしてから、自動ドアへ向かった。出てくる高校生の集団が行くまで脇にどいて、伊勢佐木モールを、無力な眼差しでぐるり、と眺め渡した。
 伊勢佐木モールは陽光の恵みを受け、金色の輝きに包まれている。そのなかを人々は闊歩し、それぞれの人生の一瞬間を過ごしていた。午後と雖もさして大量の人間が行き交っているわけではないが、十五年前よりはずっと多い。作家が学生だった頃(それはずっと昔のお話。まだ日本がバブル経済を謳歌していた時分だ)は平日でも人があふれ、モールにはもっとローカルな雰囲気が満ちていた。社会人になったとほぼ同じ時期を同じうして日本経済は下降線をたどり、それと軌を一とする如くここの人通りもめっきり少なくなった。すべて本当のお話だ。シャッターを閉めて二度と開くことなく消えていった店も多く、寂れた田舎の商店街と同じ雰囲気が横浜の繁華街にも漂っていた。ご多分に漏れず地上げ屋も押しかけたが、街の崩壊だけはなんとか食い止められた。が、そうではあっても、当時の伊勢佐木モールとは、閑古鳥の鳴り響く黄昏の色濃くなりまさってゆく場所だったのだ。しかし、やがてモールは復活した。但し、その代償としてモールを行く人の国籍は変化し、韓国人やフィリピン人どもが我が物顔でうろつき回る、およそ快適とは言い難い街にはなってしまったが。
 スターバックスへ足を踏み入れて店内の暗がりにしばしとまどった。薄暗いというほどのものではないが、陽の下を歩き続けてきた目には、刹那の混乱をもたらすぐらいには暗く感じた。目が馴れると、壁際に並んだ丸卓に空席があるのがわかった。ギターのネックをあしらったポップな絵を背にした席だ。作家は歩み寄って通路側の椅子に荷物を置き、なかから文庫を出して卓上へ置き、財布を持ってレジ・カウンターへ向かった。トールのマグカップで〈本日のコーヒー〉を注文した。いつもと変わらない。妻が死んでも、習慣は変わらない。単純な事実に作家はむなしさと安堵を同時に覚えた。ちなみに、今日の〈本日のコーヒー〉はピーペリー・ブレンドだった。
 席へ戻って壁側の椅子に腰をおろし、コーヒーを一口、二口飲んで、おもむろに文庫本を広げた。いま読んでいるのは、ヘミングウェイの短編集である。読みさしの短編(「蝶々と戦車」)を三ページ読み進んで、誰かの視線を感じたような気がして顔をあげた。こちらを見る者は、誰もいない。気のせいか、と作家は口のなかで呟いた。正直なところ、妻が店のなかにいるのを期待したのだったが。
 店内を一瞥した。客の入りは半分程度話し声は気に障るほど目立つわけでない。いちばん耳に飛びこんでくるのは、カウンターのなかにいて作業しているバリスタたちの声だ。そこにときどきエスプレッソ・マシンの音や、稀にカップや皿が割れる音が聞こえてくる。できあがったドリンクを渡すカウンターから女性の、おっとりした気の抜けるような高い声が聞こえた。ああ、あの子いるんだな、と作家は思った。ふいに静かな瞬間が訪れ、天井に設置されたスピーカーから、男性ヴォーカルの歌声が流れてくる。歌手の名前は知らないが、なんという曲かは作家も知っていた。《ミスティ・ブルー》だ。耳を澄まさずともスピーカーからは、歌手の生々しい息遣いや客席の囁き交わす声とグラスを合わせる音が、よく聞き取れた。
 作家は再びヘミングウェイの世界へ戻るのを決めた。いつしかここが、伊勢佐木モールのスターバックスでも、男性歌手が歌っている小屋でもなく、マドリードの街角にある酒場チコーテであるかのような錯覚を抱かせた。もちろん、ここには水鉄砲を撃つ男も、銃を提げた制服姿の男たちもいない。況や、「ノ・アイ・デレチョ」(「あんたにそんなことをする権利はない」という意味のスペイン語である)と叫んで抗議するウェイターをや。読んでいる間、知らず何度も飲んでいたようで、短編が終わって息をついて持ったマグ・カップの中身は、すっかり空っぽだった。そこに茶色い染みができている。お代わりを買ってこようと、彼は席を立った。
 二つあるレジの両方がふさがっていた。フォーク並びの列の三番目で順番を待ちながら、カウンターの上に吊られたメニュー・ボードとその左側に掛けられた黒板を見あげる。たまにはなにか違うものを頼んでみようかな、と考えることがある。過去に何度かこの店でジャバ・チップ・フラペチーノを注文したことはあったが、思い出せる限りでは、いずれも誰かと一緒のときではなかったか。妻ではなく、友人であったり編集者であったり。それも、年末年始の時分であったと記憶する。いずれにせよ、例外は数えるほどであった。判で押したように(馬鹿の一つ覚えにも等しい)〈本日のコーヒー〉をトールのマグカップで頼む。それから、席に戻っておもむろにノートを開き、シャープペンを握って小説を書き始める。まるで有史以来絶え間なく続いた運動のような営みの連続であった。おそらく、と作家は考えた、この世にスターバックスがあり続け、この店がなくなってもこの界隈に点在する他のスターバックスで同じ行為が繰り返されるだろう。しかし、ここ以上のバリスタたちに出会えることは、まずあるまい。妻と出逢った場所という以上の意味を、自分のなかでこの店が持ち始めていることに思い至って、作家は複雑に表情の入り交じった溜め息をもらした。
 視界を最前の女性バリスタがよぎった。顔をあげることなく彼は、彼女の動きを目端で追った。妻を知る以前から働いていた中川翔子似の子で、白状すれば、ちょっといいな、と思ったこともないではない。いや、もっと正確にいえば、妻と結婚してからもこの店へ来るのは、その女性バリスタの顔見たさであった。むろん、どこかへ誘ったり声を掛けたことはない。浮気を夢想しても、一歩を踏み出せぬまま伴侶の許へ戻ることの方が、彼にとっては幸せだったからだ。船は常に母港(みなと)へ帰るようにできているのである。
 作家はお代わりしてきたコーヒーの、最初の一口を飲んだ。風俗店へ行く度胸もない自分に、浮気なんていう日常から著しく逸脱した行動を取れるはずがないではないか。それは妻もわかっていたようで、誰かと過ちを犯したらおろおろして私に相談してくるよね、となかば真顔でいっていたほどである。だが、逆にさばさばされすぎていると、却って不安になるのが男という生物だ。ときには流血沙汰も辞さないぐらい嫉妬してくれてもよさそうなものだけどな、と思うが、実際に誰かと交渉を持つ器用さも、誰かと火遊びする気もないと自分で納得したら、目の前にいてくれる女性がより愛しくなった。
 作家は実の母親と兄から〈生まれてこなくてよかった者〉と拒否されて育ってきた。中学生になると年齢を偽ってアルバイトに精を出し━━倉庫の入出庫作業やコンビニ弁当のおかず詰めなど、その気になればいくらでも仕事は見つかった。年度末になると道路工事の交通誘導が多くなり、その時期だけは目玉が飛び出るほどの高時給だった━━、高校卒業と同時に不動産会社へ就職するや、夜逃げ同然に家を出た。それは必然としかいえない流れである。それからずっと一人でいた。誰を信用してよいのか、わからなかった。職場での人間関係は比較的恵まれていたので(男だらけだったのが幸いしたのかもしれない、と結婚したあるときにビールを飲んでいて、ふと、そんな風に思った)悩みはなかったが、会社を退職した理由が組織ぐるみの裏切りに背反行為となれば、再び人間不信が戻ってくるのに仕方ない部分もあろう。そんななかで出逢ったのが、いうまでもなく妻であった。交際が始まって間もない時分は、際限なく愛情を注ぎこんできて平然と自分のなかへ入りこんで居坐っている妻に、不審と恐れを感じた。が、月日が経るにつれて彼女の存在が実に心地よく、ありがたく感じられてき、ようやく安息の地を見出したような、心からのやすらぎを覚えたのである。もしこの先、小説家を廃業しなくてはならなくなったとする。そうなったら、どんな黒い仕事に手を染めてでもこの子を養う。結婚をはっきり意識したときに彼はそう決意していた。
 だけど、彼女がこれまで与えてくれた以上のものを、俺は彼女に与えてこられたのだろうか? ふと作家は開いたノートから目をあげて、自問した。確かめる術はもうない。そうであったらよかったのだが、という思いのみが、心のなかに浮かんで消えた。世界でたった一人の女性だった妻を失った。バランスを欠いた心を抱えて、俺はこれからどうしてゆけばいいのだろう?
 コーヒーをもう一口飲んで、閉じてあったヘミングウェイの短編集をぱらぱらめくっていたら、光が闇を切り裂くような速さで小説のアイデアが浮かんだ。三作の長編からなるユーモア小説のキャラクター像とプロットを、作家は一心不乱に、訪れた物語の〈声〉を聞き逃さぬようにして、ノートへ書き綴っていった。最後に登場人物の相関図を簡単に書き留めた。掌がじっとりと汗で湿り、手首を軽い震えが走った。シャープペンを置いた手でマグカップの握りを摑んだが、わずかに卓の表面から浮いただけですぐさま落下した。手首をぱたぱた四方に揺らしてほぐし、ようやくマグカップを持つことができた。喉へ流れこむコーヒーは、すっかり冷めていた。どれだけ長くノートに向かっていたかを、彼はいまさらのように知った。
 首をこきこき鳴らしながら窓外へ目をやった。モールに面した壁は天地の十センチばかりを除いてガラス張りである。そこから見えるモールは変わらず陽光に照らされていたが、若干陽が傾いたようだ。白樫を囲むアルミ・パイプ製のベンチでは、流しのギター弾きの老人が日曜画家と気軽に声を交わし、取り巻きたちがそれに加わっている。待ち合わせなのか、時計を見携帯電話でメールをチェックしながら、コーヒーだかラテだかを飲んでいる、早くも真夏の格好をした女性がいる。自転車を押す人と乗る人がすれ違い、ちょっとした諍いが起こった。向かいの眼鏡店の店頭でぼんやり外を眺めていた店員が、踵を返してなかへ引っ込んだ。立ち話に興じている若い男たちが、背を反らせて笑い声をあげている。スターバックスの緑の日除けが微風に波打ち、垂れた部分がめくれあがった。その下のテラス席では東南アジア系の男女が思い思いに坐って煙草を吹かし、携帯電話をいじくり、いつ果てるともなく続く会話が繰り広げられている。女性たちの相手の多くが日本人男性だった。年齢的には定年退職したぐらいだろうが、どう見たって堅気の社会人経験者とは考えにくい。そうしてなぜか、そんな女性たちのグループの七割がおべべをお仕着せた小型犬を連れている。彼らの話し声や雑踏のざわめきが、自動扉が開くたびに聞こえてきた。
 作家は目を細めてそうした光景の一々を眺めた。世界は何一つ変わることなく、動き続けている。それは当たり前のことだ、とわかっていても、釈然としないものを感じる。虚ろな気分を抱えたまま、割り切れぬものを感じたまま、作家は妻がいなくなったこの世界でこれからどうやって生きてゆけばいいのだろう、とこの日何度目かの同じ疑問を口のなかで呟いた。再婚という言葉がふいに脳裏をよぎったが、即効で完全否定した。不謹慎に思ったのではなく、あり得ない未来の選択肢だったからだ。自分が妻以外の女性を娶ることも愛することもできないことは、なによりも作家自身がよくわかっている。どう考えても、現実的な選択ではない。やれやれ、つくづく救いがたい男だな、俺も。

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第2100日目 〈【小説】『それを望む者に』 04/20〉 [小説 それを望む者に]

 横浜駅東口の中央郵便局から手紙を投函すると、鎌倉まで伸びている国道十六号線沿いの歩道をてくてく歩いて、作家は南へ進んだ。彼が十四年間勤務した不動産会社が建てた三十四階建てのマンションを複雑な気分で見あげ、かつての東横線の高架下、壁に描かれたポップなテイストの絵を鑑賞しながら、てくてくと。有名になった壁絵も、秋から暫時撤去されるという。昨年行われた、市内外に住むイラストレーターの卵たちが参加したイヴェントは、伝統ある壁絵の歴史の掉尾を飾る大がかりなものだった。今年の後半は、長く横浜の景観を作ってきたものが幾つか消えてゆく。ここにあった壁絵だけではない。伊勢佐木モールで一一〇年以上営業してきた松坂屋(旧野沢屋)も、今年の秋で閉店してしまう。
 子供の頃から親しんできたそれらが消えてしまうのを嘆かずにはいられない。なぜなら、歴史を持った街並みを破壊し、新たな活力を注入するのが、つい数ヶ月前までの作家の仕事だったからだ。それは取りも直さず、自分の生まれ育った街の秩序と人間関係を自分の手で粉砕し、会社の利益増に貢献することでもあった。なんだか自分が歯車の一部になって、二度とその枠から踏み出しては生きられないような気がした。組織にがんじがらめになって生きることと、故郷の街を自らの手で崩壊させることに耐えられなくなったとき、作家は退職を決めて、職業小説家として独立することを決めた。反対されるのを覚悟して妻に打ち明けたところ、あっさり頷かれたのに拍子抜けしたときの気持ちは、いまでもよく覚えている……。
 頭上を仰ぐと、首都高の道路と道路の間から、嫌みなくらいさわやかな青色で塗りたくられた空が覗いている。この空の下を、ぽっかり空洞が生まれた心を抱えて、俺はどうやって生きてゆけばいいんだろう?
 壁絵が描かれたガード下の歩道には、ホームレスの体臭と生活用具から発生する饐(す)えた匂いが漂っている。加えて、道路から横様に流れてくる土埃の匂いも。車の排ガスに関しては、いわずもがなだ。鼻先をかすめるそれらの匂いが、たまらなく苦手だった。気管支の弱い妻が一緒のときにはガード下を歩くことはめったになく、みなとみらい地区の西端を縁取るように走る幅広の道路沿いの歩道を歩くことにしていた。その方が、妻のおだやかな顔が見られたからだった━━臭気に顔をしかめ、顔色を青ざめさせ、稀に立ち停まって気分の悪いのを落ち着かせるのを見ずにすむなら、どんな遠回りをしたって構わなかった。そんな彼女を見るのは、苦痛以外のなにものでもなかったから。どうしても━━幸いなことにめったになかったことだが━━ガード下の歩道を行かねばならないときは、マスクをしていた妻を思い出し、自分は妻の健康についてちゃんと考えたことがあっただろうか、と自問した。答えは出ない、自分ではそうしてきたつもりだ、という他は。
 そんなこんなで歩き続け、昔とはすっかり様変わりした桜木町駅界隈を無意識に避け、地下通路を通って野毛の横町へ出た。足はいつの間にか、昨年の一月まで営業していたジャズ喫茶ちぐさの跡地へ向かっていた。そこではマンションが建設中である。ここもだ。作家は内心頭を振って、ちらっ、とシートに囲まれたそれに視線を投げ、そこから足早に立ち去った。大岡川に架かる橋を過ぎて、彼は足を停め、ちぐさのあった場所を振り返った。なにもかもみな懐かしい。沖田艦長の名台詞が、思わず口をついて出た。
 婚約中だった頃、一度だけちぐさで待ち合わせをしたことがあった。散々道に迷った挙げ句に到着したものの、独特の雰囲気を店の外で察したか、ドアに嵌めこまれたくすんだガラスからおっかなびっくり顔を覗かせて、待ち人がいるかを探っていた妻。ちょうど流れていたオスカー・ピーターソンに耳を傾けて気がつかなかった作家だが、ドアのそばにいた店主が気を利かせて妻を店内に招き入れ、待ち人の前の席に座らせた……でも、作家が彼女がいるのに気附いたのは、それから五分ばかり経った頃である。当然ながら店を出たところで、妻からぶつぶつ愚痴られ、その夜は山下公園の向かいにあるニューグランドホテルで夕食を取る羽目になった。むろん、すべてが良き思い出である。
 思い出は次の思い出を呼び醒まし、新たなかなしみを嫌がらせのように誘(いざな)い、遂にはあり得べからざる光景を眼前に、昼日中に出現させた。ちぐさでの一刻を思い出しながら、裏伊勢佐木町と呼ばれる風俗店と韓国人街のアーケードを歩いていると、買い物袋を担いだ妻が角を曲がってやってきた。ちっこい体に不釣り合いな、松坂屋の大きな紙袋を両手で抱え持って。大根の葉っぱとフランス・パンの先っちょが見えているのが、無性におかしかった。行き交う人の姿はわずかだが、そんな人々の目に彼女は映らない。だがいま目の前にいて危なっかしい足取りで買い物袋を抱えているのは、紛れもなく終生共にいると誓い合ったはずの妻である。それ以外の何者かであるはずはない。
 死んだ妻がいる。頭ではそれが幻影だとわかっていても、心はその考えを拒否していた。もはやどうでもいいことだ、とさえ思う。あるがままの光景を受け容れるよりないじゃないか。
 ちっこい体の妻は、相変わらずよたよた歩いている。このままだとアーケードを支える柱にぶつかったっておかしくない。幽霊だから柱と正面衝突しても、きっとすり抜けちゃうさ。きっと痛みも感じないよ。本人(?)たちが聞いたら噴飯ものだろうけれど、悲しいことに作家は幽霊の気持ちというのが、理解できないでいる。しかし安心したまえ、作家よ、君は間もなくそれを知ることになるのだから。そう、きっと彼らは柱をすり抜けてしまうかもしれない。でもその幽霊なるものが、夫婦として暮らした女性であれば、一声声をかけて注意を促すのに如くはないだろう。で、彼はそうした。
 作家は妻に、危ないよ、といった。それに反応する一瞬前に妻がこちらへ向きを変え、買い物袋の向こうからひょい、と顔を覗かせた。その瞳には喜びが、その口許には微笑が浮かんでいる。この笑顔をずっと見、守り続けたい。そう願って彼は妻にプロポーズした。他愛のない理由で喧嘩した日はその笑顔が、やけに重苦しく感じられ、能面のような冷たさに思えたこともある。が、作家はそれを見て、普段見る“可愛らしい”妻ではなく、まさに“美しい”としか表現しようのない彼女を発見して、密かに恋心をふくらませたときもあった。ああ、良き思い出である。
 妻が表情を崩さないで両頬をふくらませた。「突っ立ってないで、さっさとこの荷物持ってよぉ」と抗議してきた。昔の歌謡曲のタイトルが、唐突に脳裏に浮かんだ━━たとえていえば薔薇の花のようなあなた。これは……和久井映見の歌であったか。ぱっと咲き誇る花のように可憐で気高く、美しい。妻の顔を見て歌のタイトルを連想し、そんなことを思い、鼻の下が伸びているのを感じながら、作家は荷物を受け取ろうと手を伸ばした。だが、わかっている。彼女は荷物を渡しはしないだろう。いつものことだったから。さっきの台詞も、とどのつまりいってみたかっただけ。なににせよ、いわずには気が済まない台詞というものがある。妻のも、それと変わるところはない。
 今回もきっとそうだ。慣れ親しんだ生活のパターンが戻ってくるのを、作家は期待した。が、無駄だった。
 買い物袋を担いだまま、笑顔を湛えたまま、妻はかき消えた。作家は刹那の間、その場に呆然と立ち尽くした。
 彼女のいたあたりの空間が歪んで見える。空気が澱んでいる。気のせいか、腐臭に似た匂いが鼻先をかすめた。軽い吐き気を覚えたが、なんとか我慢できる程度のものだった。両肩へなにかがのしかかってくるような気がする。黒い影の葬列が目の前を、風に巻きあげられた土埃を従えて、整然と目の前を通り過ぎてゆく。砂漠を行くキャラバンのようだった。葬列は死者を悼んで、〈怒りの日〉の歌詞を唱えている。作家ははっきりとその声を耳にし、恐怖を覚えるよりも耳をふさぐよりも先に顔を両手で覆い、泣き咽んだ。
 その涙をハンカチで拭ったら、不審げな目つきを隠そうともしない、水商売風の韓国人女と目が合った。彼は足早にその場を立ち去った。あの女の視線がいつまでも背中に貼りついているような気がし、葬列の唱える〈怒りの日〉の朗唱がいつまでも聞こえてくるような気がして、そうしてなによりも腐敗した姿の妻があとを追ってくるような気がして、彼は足早にその場を立ち去った。飄然と立ち去った。もうこの場所を訪れたくはなかった。事実、この日以降、作家がこの場所に訪れることはなかった。ハレルヤ。
 目指す店は、この少し先にある。

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第2099日目 〈【小説】『それを望む者に』 03/20〉 [小説 それを望む者に]

 事故当日の朝以来初めて、動く妻と邂逅した夜が明け、昼近くに目が覚めて床のなかでまどろんでいたら、今日は気分転換に(久しぶりに)散歩へ出掛けて、関内は伊勢佐木モールにある(いつもの)スターバックスで原稿を書こう、と思い立ち、昼ちょっと過ぎの刻、作家は文庫と辞書とノートと筆箱を、愛用する帆布地のトートバッグへ入れて支度を済ませ、出発した。
 空を仰ぎ見た。雲一つない、非現実的にさえ映る青空が広がっている。うん、気持ちも足取りも軽くさせる天気だ。なんか今日は良いことがありそうだ。作家は口のなかで呟いた。良いかどうかはともかくとして、そう、確かにこの日は作家にとって生涯忘れられぬ日の一つとなった。理由は、このまま先をお読みになればおわかり頂けるだろう。
 階段と曲がり角が続く東寺尾の丘陵を下ると国道一号線へ出る。そうしたら歩道を右手に折れて、そのまま横浜駅を経て伊勢佐木モールまで歩いてゆく。全行程、片道約七.五キロの散歩は独身時代からの習慣だが、始めたきっかけはよく覚えていない。ただ職業柄、机の前から動かず坐りっぱなし、家から一歩も出ない日だって珍しくない(いや、むしろそれが当たり前と化していた)身には、この往復約十五キロの散歩は、それなりに健康維持に役立っていると考えていた(ついでにいえば、これ以外にも作家は毎日マンションの周囲一、二キロをコースも定めず逍遥していた)。
 だいたい週二日はこうして出歩いているけれど、最終目的地が変わることはほとんどなかった。彼はそこにスターバックスがオープンしたときから、たいてい二、三時間居座って━━コーヒーを二杯飲み、冬場はザッハートルテをぱくついて━━小説を書いている。結婚後もそれは変わらず、てくてく歩いて出掛けてゆく。一時、妻の可愛らしい嫉妬と疑惑を買ったが、やがて呆れられ一片の関心すら払われなくなった。もっとも彼らにとってそこが出会いの場所となったせいであったかもしれない。それ故の安堵感であったのかもしれない。
 今日も目的地は変わらないが、なにしろ妻がみまかって以来初めて行く思い出のスターバックスである。店のなかへ足を踏み入れた途端、過去の亡霊に足を絡みとられ、奈落の底へ叩きこまれるような気がしてならない。そうでなくとも、あすこには妻と自分が出逢った場面の目撃者がいて、時折声をかけてくる。その人の顔がもし妻のそれだったらどうする? 昨夜の妻が幻覚でなく本当にそこへ存在していたのなら、件のバリスタの代わりに妻が声をかけてきたってふしぎじゃあるまい。お前は平静を保てるのか?
 長く続くゆるやかな登り坂と長く続くゆるやかな下り坂が交互に繰り返される国道を、彼は歩き続けた。
 済生会病院の老朽化してきた建物を右手に見、連絡歩道橋が新しくなった東神奈川駅を左手に眺めつつ、作家は歩くペースを落とさず歩き続けた。乗客のまばらな、系統の異なる市営バスが二台、立て続けに走っていった。
 信号を渡り、国道の反対側、右手にスケート場が見えるところで足を停めた。ふわぁっ、と思い出が、記憶の彼方から勢いよく押し寄せてきた。……
 ……スケート場の向こうにある区役所で婚姻届を提出したあと、妻にスケートの手ほどきを受けて十六歳の年齢差を如実に痛感させられてから、隣の反町公園へ魂の抜け殻みたくなった体を引きずってゆき膝枕してもらい、新婚特有の甘い一刻を過ごした。そうやって思い出は連鎖し、過去が生々しく牙を剥く。妻が死んでから何十回となく経験し、おそらくこれからも苛まされ続けるであろう現象だ。愛しくはあっても、実のところ、苦痛しかもたらさない記憶の波は、ふとした瞬間に堰を切ったように流れこみ、作家の心を奔流のなかに巻きこんでとんでもない地へ連れて行く。
 妻は死んだのだ。それが事実でないのなら、リビングに置かれた遺影やら骨壺やらは、いったいなんなのだ。死んだ人間が生前と変わらぬ風で自分の前に現れて、生きていたときと同じように日常生活を営んでいるなんてあり得ようか━━。とは雖も、昨夜現れた妻の実在を願う気持ちも、確かに彼のなかにはある。なんだか思考の無限地獄に陥ったみたいだった。がっくりとうなだれたまま歩き出そうとすると、バスから降りて区役所へ行く信号を渡ろうとしていた老婦人とぶつかった。彼はしどろもどろで謝ると、そそくさとその場を離れた。後ろを振り返る勇気なんて、なかった。
 再びゆるやかな登り坂となった国道をとぼとぼ歩きながら、線路の向こうに見えている幸ヶ谷公園の葉桜群を望み、青木橋の交差点まで来て、ぼんやりと信号が変わるのを待った。待っている間に考えた━━そして、思い出した。横浜に寄り道しなくてはならない用事があったことを。スターバックスはそのあとだ。
 信号が青に変わり、人と車(とバイクと自転車)が動き出す。作家はそのまま国道沿いに歩道を行き、途中で左に曲がって相鉄バスの駐車場とビジネス・ホテルを横目に首都高の下、鶴屋橋を渡って岡田屋More`sへ入っていった。
 ちょうど上階へ行くエレヴェーターが来ていた。乗客は彼の他に誰もいない。行く先階と〈閉〉のボタンを押して扉が閉まった。箱は低い駆動音を立てて、なめらかに動き出す。扉の向かいの壁と自分の背中の数十センチの空間で、なにか蠢く気配を感じた。振り返ると、扉の向かいの壁にある鏡に、妻が立っているのが見えた。大きく息を呑みこんで、両目をごしごし擦って、再び鏡のなかを見たが、そこには誰もいなかった。彼は妻の名を口にした。むろん、そうすることで妻が、鏡のなかにもう一度現れると思っているわけではなかったが。いまのも昨夜のも、すべては幻だ。ああ、きっとそうに決まっている。
 箱がなめらかに停まり、扉が開いた。携帯電話の料金の支払いにauショップへ行く。待つことなく窓口へ呼ばれ、二分後に下りのエスカレーターに乗っていた。すぐ下の階のマーシャル・レコード横浜店へ行くまでの間、妻が使っていた携帯電話の解約手続きを忘れていたのに気がついた。今度、解約の手続きを行わなくては。これは忘れずにやっておくことだ。エスカレーターを降りたところで手帳を出し、開いたページにそれを書きつけた。さりながら解約がされることはなかった。必要なくなってしまったから。
 作家はマーシャル・レコードで、バーバラ・ヘンドリックスが歌うシューベルト歌曲集とミシェル・コルボ指揮するシューベルトのミサ曲第五番、カラヤン指揮するオネゲルの交響曲のCDと、ピート・シーガーのベスト盤を買った。シューベルトは先月、東京国際フォーラムをメイン会場にして行われた“ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン”で聴いて探していたものである。そのときの会場は、ホールCだった。
 嗚呼、思い出よ、永久(とこしえ)にみずみずしくあれ。
 悠久の希望よ、絶えることなく彼の人の道を照らせ。

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第2098日目 〈【小説】『それを望む者に』 02/20〉 [小説 それを望む者に]

 妻が死んだ。一週間が経ち、十日目を迎えても、それは未だ信じられない出来事だった。一日のうちで彼は何度も思う、あの朝出て行ったのと同じ格好でひょっこりと妻が舞い戻ってくるのではないか、と。ちょっと長い旅行へ出掛けているだけで、この十日間のことはすべて性質(たち)の悪い夢かもしれない、と。
 しかしすべては現実である。仕事と家事の合間に、彼女の死後、主に生命保険会社から次々に送られてくる、書類の数々と悪戦格闘したことが、それを否応なく知らしめているのではないか。美しい夢は眠りのあちら側にしか存在しない。醜悪で残忍な現実は、いつだって自分のまわりにある。アーメン。
彼女の死を受け容れられるようになったのは、その日から二週間になろうという日である。が同時に、それを再び疑わしくさせたのも、十四日が経とうとしている日だった。そんな相反する気分にさせてくれるのに相応しく、夜の深まった時間帯に作家はその光景を目の当たりにした。
 腹の虫が鳴って夕食の支度に取りかかった。炊飯器のスイッチを入れて米を炊く。きっかり三十分後にキッチンへ立ち、おかずを作り始める。
 生活のペースはなんとか回復しつつあった。当たり前のように存在していた大切なピースを欠いた日々、だが生活のペースは取り戻され、一人で送る新しい生活の規範も徐々に形成されてきていた。淋しいけれど仕方のないことだ。どれだけ大切な人を失おうとも、生活が根底から引っ繰り返ったとしても、命ある限り生きてゆかなくてはならない。進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない。
 作家は食事を終えると後片付けをし、風呂を沸かした。沸くのを待つ間、読まずに放ってあった朝刊へ目を通した。地震関係のニュースにはどうしても敏感になってしまう。仕方のないことだ。
 湯船へ浸かっていたら、ここで何度となく妻と情交したことを思い出した。妻の死後ずっと元気を失って永久に目覚めることもあるまいかと思われていたモノが盛んな反応を見せた。まだ妻の掌と口内のぬくもり、なめらかな舌遣い、熱く濡れそぼった蜜壺を覚えているモノを見て、ちょっと安堵した。作家は風呂からあがると水を飲み、体重を量った。
 仕事部屋(書斎と呼ぶのは大嫌いだった)で、一昨日完成した短編へ目を通して誤字を正した。決定的な、大爆笑を誘う誤字であった。ふと背後に人気を感じた。振り返る。が、誰もいなかった。もちろんだ。もし自分以外の何者かがいたのなら、住居不法侵入どころの話ではない。作家は再び原稿へ向き直り、最後の最後の行でとんでもないミスを発見し、大慌てでそれを正しく訂正した。いくらなんでも一行脱落させたままキーボードを打ち、気付かず編集部へ送っていたら、後々まで残る大失態となっていたかもしれない。作家はそれを思って、思わず背筋をぶるつかせた。
 もう一度読み直してだいじょうぶ、と判断すると、それを引き出しへしまい、リビングのテレヴィの前に移動して、リビングの電気は消したままで、深夜の映画を観た。前から名前だけ知っていて、なにはなし気になっていたイギリスのモノクロ映画だった。ハッピー・エンドで終わるものの、年末の都心部の町並みも顔色をなくすほどのごてごてしたデコレーションと、もたれて腹痛を訴えかねないぐらいの甘さがウリのケーキみたいな映画だった。立て続けにビールを流しこんで酔っぱらわねば正視もできないような、御都合主義と歯の浮く台詞が満載の、俗悪ゆえに愛されるタイプのハーレクイン・ロマンス。エンド・ロールを三分の二落ちた目蓋で観終えるや、ぐったりしてしばらく動く気にさえなれなかった。大きな溜め息をつくと同時に、待ってましたとばかりに、欠伸が四回、立て続けに出た。
 酔いと眠気と後悔でずっしり重くなった体を引きずり、空き缶を抱えて(八本あった!)キッチンまで歩いてゆく。それを、リビングのドアへ体を預け、裸身にバスタオルを巻きつかせた風呂上がりの妻が呆れ顔で眺めていた。頬を上気させて、髪を結いあげている。作家は無意識に空き缶をシンクへ置いて(というよりも並べて。まるで歩兵が整列したみたいだった)、妻の方へふらふら歩み寄った。なにか話しかけようとしても、舌が口蓋へくっついて離れない。おまけに口のなかはからからに乾いている。喉まで出かかった言葉が、塊になって気道を肺腑へ落っこちてゆく。作家は妻の前で膝を折り、彼女の腹の上で、頬をしとどに濡らした。妻がやわらかく微笑んだのに、彼は気がつかない。死者を想う者なら誰しも願う光景は刹那の後に、跡形もなく空気のなかへ消えた。
 作家は頭を振って思い直そうとした。いまのは幻だ、そう思いこもうとした。妻を思う心が束の間生み出した幻影に過ぎない、と。いまさらながら喪失の重みがどれほど自分のなかに痛手となっていたかを作家は思い知る。ちくしょう、と彼は吐き捨てるようにいった。投げやりな気分と鬱屈として切り替えのできない心を抱えながら、作家は和室に敷いた布団へ体を潜りこませた。初夏だというのに、夜半はまだ冷える。あ、歯磨かなかったな、と思い出したが、もう遅い。起きあがるのが面倒臭かった。いいや、明日ちゃんと今夜の分も磨こう。もっとも、そんな問題であるはずがない。
 独り寝の寂しさをかこち、オレンジ色の豆電球だけにした室内灯(シーリング・ライト)をぼんやり見あげているうちに目蓋が重くなってき、じわりじわりと睡魔が忍び寄ってきた。目蓋の裏にしか存在しない真っ暗な劇場の舞台の上にスポットライトが灯り、タキシードとイヴニング・ドレスで正装した羊の群れが、後ろ脚で立って互いに手をつなぎ、ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ《こうもり》のカドリーユの旋律に合わせ、ワルツを優雅に踊っている。なかなか愉しい光景である。独り寝の淋しさを紛らわすにはもってこいの、最高に馬鹿げた妄想だった。んふぅ、と意味のない呻きに似た声をあげた。羊の群れがご丁寧にカーテン・コールをして、閉じられた緞帳の影へ、手を振り投げキッスをして消えてゆく。当然、レディー・ファーストである。さすがは紳士の国と縁ある国の生き物だ。やることが違う。
 作家はそれを見送ると、深々と溜め息をついて、寝返りを打った。寝返りを打ったら、目の前に、静かに寝息を立てて眠る妻が横たわっていた。死者の姿ではなく、生前そのままの姿と寝息のリズムの妻が、隣で寝ていた。危うく悲鳴を洩らしそうになったがどうにかそれを押しとどめ、まじまじと妻の寝顔を観察した。確かに生きていたときの妻である。
 恐る恐る手を動かしてみた。指先が、パジャマの生地越しに彼女の肉体に触れた。生地越しにもわかる肌のぬくもりと、やわらかさ。生者のみが持ち得るものだった。掌を然るべき位置へ動かせば、心臓の鼓動さえ伝わってくるだろう。その考えに作家は大きな希望とそれ以上のとまどいを覚えた。いや、もしかすると、わずかの喜びとそれを圧するぐらいの恐れ、といった方が正確だったかもしれない。
 作家は目を閉じ、開き、それでもなお、そこで眠る妻の名を呼んだ。と、それに応じるように、すぅっ、と彼女の目蓋が開き、どうかしたのあなた、とでもいいたげな表情を瞳に浮かべて夫を見た。少し茶のかった瞳は、気のせいか、潤んでいるようだった。彼女が旅行へ行く前の晩、激しく床を共にし肌を重ねたあとの瞳の表情と、まったく同じだった。ぎこちない笑みを顔に浮かせようとする作家の両頬へ、妻の掌が包みこまれるように触れた。作家は再び妻の名を呼び、その、身長一五〇センチに満たない体を抱き寄せて、唇を重ねようとした。が、口づける直前に妻の姿はかき消え、体へかかっていた薄い掛け布団が支えを失い、はらり、と音もなく落ちていった。
 呼吸することさえ忘れてしまうような状況に出喰わして、愛しさよりもまず先に全身が総毛立ち、心臓を冷たい手で思い切り、ぎゅっ、と掴まれた気分がした。けっしてよい気分ではない。だが、常軌を逸した出来事を目の当たりにすれば、それも致し方のないところかもしれなかった。妻の寝ていたあたりへ手を伸ばすと、そこはわずかに窪んでシーツが乱れ、ぬくもっている。作家は細長い吐息をついて仰向けになると、天井を虚ろな目で見あげた。掌に残ったままの妻の体温と感触は、いましばらく消える様子がない。
 作家は悶々としながら明け方まで眠れぬ夜を過ごした。美しい夢は訪れなかった。

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第2097日目 〈【小説】『それを望む者に』 01/20〉 [小説 それを望む者に]

 「いってらっしゃい」と夫はいった。
 「いってきます」と妻。軽いキスを交わして、彼女はマンションの外廊下を早朝の空気のなかへ去ってゆく。そうしてそれが、夫婦の最後の会話となり、生きて出会った最後となった。
 夫婦は、妻が一泊二日の東北へのバス旅行から帰ってきたら、子供を作る予定だった。決めてからこの方、夫は━━作家は折りにつけて小説を書くのをほったらかしては(「手を休めているだけ」とは本人の弁だ)子供の名前をすでに、一〇〇以上用意していた。ついでにいえばそれらは片っ端から、妻に却下され続けていまに至っている。
 そんな矢先のバス旅行━━妻を送り出したその日の夕暮れ時である。昼寝から覚めてまどろんでいたところを、電話に出ると、妻の死を知らされた。バス・ツアーを主催した旅行会社の者は、どんよりとした声で伝えた。失われた人間の命よりも会社の存続、つまりは己の定収入がなくなる方がよほど心配だ、というような声だった。「地震で道路が陥没し、その裂け目にバスが落ちて乗客乗員がみな重傷を負い、近くの病院へ搬送されて手当を受けている」と。教えられた病院へ電話をかけて、妻の具合を確かめる。嗚呼、どうか、と作家は祈った、この世で信仰されているあらゆる神に。どうか妻が無事でありますように。さしたる怪我ではありませんように。電話の保留音が途切れた。しばしの沈黙が訪れた。作家が唾を呑みこんだとき、電話の向こうの相手がいった。奥様はたったいま亡くなられました。極めて事務的で抑揚を欠いた口調だった。作家の手からコードレスの受話器が落ち、うまい具合にフックへ当たり、そのままフローリングの床へ鈍い音をたてて転がった。
 リビングのソファへ坐りこみ焦点の定まらない目で、まだカーテンを引いていない窓の向こうへ広がるあかね色に染まる西の空を眺めた。あまりに突然な予想外の出来事で、ふしぎとすぐに涙は出てこなかった。まだ心はそこまで事実を現実の出来事と認めてはいないのだ。が、テレヴィのニュースで妻の死が現実のことで、死のきっかけとなった東北地方を襲って未曾有の被害をもたらしたという地震のことも現実と受け容れられるようになった。彼は両膝を抱えこんで声を押し殺し、妻の名を繰り返し呼びながらむせび泣いた。
 妻はそれから一週間後、荷物と一緒に無言の帰宅をした。マンションの隣人や妻の主婦仲間(誰一人として知る顔がないのに愕然とした)や管理会社の担当者らを主な参列者として公営の斎場で通夜と葬儀が営まれた。葬儀から帰って、納戸から文机を出してきて雑巾で拭き清めてレースのテーブルクロスを折って敷き、遺影や骨壺、位牌を並べた。香典袋や芳名録のチェックをしなくてはならなかったのだが、それさえ億劫に感じられ、シャワーを浴びて冷蔵庫から缶ビールを出して二本あけると、文机の前に寝転がり、遺影の妻と視線を合わせているうちに、眠りの世界へ落ちていった。なお、その週末に設けられていた短編小説の締め切りを、彼は落っことした。

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