第3753日目 〈読み続けていれば。読み続けるには。〉 [日々の思い・独り言]

 英語の多読と同じで読書体験を重ねれば、だんだんと上のレヴェルの本が読めるようになってゆく。内容が手に余るとか支障はあるだろうけれど、ずっと読んでいれば、これまでよりすこしだけ専門的な本を手にしても、どうにか読める、まったくわからないわけじゃぁない。
 実体験だ。日本の古典文学についても、聖書/キリスト教についても。
 ただ大事なのは、英語多読の入門書でもいわれているが、ときどき易しいレヴェルの本へ立ち返って自分の興味を「そこ」へつなぎとめる、難しめの本ばかりで凝り固まった脳ミソと心を休ませ回復させる、という二点。
 怠ると、たちまち知的硬化を招いて読書がイヤになります。本当のことである。◆

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第3752日目 〈親しき人、ヨブ。〉 [日々の思い・独り言]

 旧約聖書に収まる「ヨブ記」とは身に覚えのない罪によって肉体的苦痛精神的苦痛を味わわされた男の、神を呪詛する物語である。友ならざる友が好き放題に喚く身勝手ステレオ・タイプの主張に悩まされる男の話でもある。信仰が本物かどうかを試される男の話、というのが一般的にいわれるところ。
 最初に読んだとき、なんて難解な書物だろう、と何度頭を抱えたことか。いまでも難解という印象に変わりはない。繰り返し本文へ目を通しても、幾種かの註解や研究書を読んでみても、肝心の部分は未だ濃い霧のなかにある。
 斯様な状況にありながらもちか頃は、突破口となりそうなものを見附けた気がしている。「ヨブ記」に抱く難しさにかわりはないが、その内容・思想へ迫る取っ掛かりを、得たように思う。
 突破口とは、いまわたくしが味わっている肉体的苦痛である。それが生み出す不安と絶望である。空想の力によって創られた、快癒への希望である。
 「ヨブ記」は、神なる主とサタンによって、永遠に続くかのような苦しみと痛みを味わう羽目に陥った、ウツの地に住むヨブという男の話だ。どうして? なぜ自分が? この苦痛を与えた──なんの罪もないのに不当の苦しみを与えた自分の神を、ヨブは呪う(サタンの関与をかれは知らない)。この苦痛から解放されるならば、とヨブは、神なる主との論争に正面から挑む。
 わたくしの場合原因は概ね判明していると雖も、やはり「なぜ、このタイミングで?」「なぜ、わたくしばかりが?」「わたくしがどんな罪を犯したというのか?」という疑問からは逃れられない。特に痛みがひどい夜中には、ありったけの呪詛の言葉を吐き続けた。
 咨、これはもしかすると──ヨブと一緒ではないのか。あのとき、ヨブはこんな気持だったのだろうか。だとすれば、自分はいまこそ「ヨブ記」がわかるような気がする──。
 この思いを失うことがなければ、そうして元気でさえいられれば、「ヨブ記」〈前夜〉への着手と初稿の完成は、案外と早そうだ。◆

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第3751日目 〈「マルコ」の再発見──『バークレーの新約聖書案内』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 咨、ウィリアム・バークレーとの出会いは、新約聖書の読書を始める直前と記憶する。頼りとすべき註解書を探す一方で、新約聖書全体を見渡す一冊の、自分にとって最適な一冊の本を見附けるべくあれこれ漁っていた──市の中央図書館の棚の前を行ったり来たり、背伸びしたりしゃがみこんだりしながら。
 そうやって見附けたのが、『バークレーの新約聖書案内』だった。いちばん下の、いちばん端っこにあった。スコットランド協会の雑誌に連載された、新約聖書を構成する二十五の書物について、各巻の中心になる思想、各巻がいわんとする大事な一点に絞って書かれたエッセイ群プラス序文と結語から成る『バークレーの新約聖書案内』は、本文二〇〇ページにもならぬ本である。この、一巻一点集中の姿勢が、新約聖書へこれからアプローチしようとしているわたくしにとって、いちばん身の丈が合うようだった。その予感は現実となり、九年が経とうとしている現在まで折ある毎に読み返す一冊となっている。
 とはいえ、いまわたくしの傍らにある『バークレーの新約聖書案内』は図書館の蔵本ではない──既に! 状態の良い古本が見つかったので、価格も送料込みで納得できるものだったこともあり、今秋に購入したのだ。ようやく、である。
 やはり手許に置いて読むのと、図書館で借りてきて読むのとでは、かなり違う。いつでも手に取れる状態にあるということは、読書に費やす時間はトータルで格段に増え、勢いその間の没入度も思考の度合いも濃密になる。自由に書きこめる、付箋を貼れる(貼りっぱなしにできる)メリットについては、いわずもがな。
 そんな利点だらけの現状でありながら、購入してから今日になるまで、最初から通して読む機会を設けなかった。単に他に読むものがあってあと回しになっていたに過ぎぬ。昨日読了した本があるのを機に今日、序文から読み始めた──今回もまた病院、診察の待ち時間と、そのあとのお楽しみなスタバにて。
 わたくしは本書で、「マルコによる福音書」の価値に気がついた。「マタイ」に続いて二番目に載る福音書が「マルコ」だが、執筆順としてはこれがいちばん最初。これを資料の一つに取りこんで「マタイ」と「ルカ」は書かれた。それゆえに、か、それゆえにこそか、か、「マルコ」は共観福音書のなかで最も簡素素朴で、余計なフィルターを通していないナマに近いイエスの言動を伝える書物になっている。というのもマルコは十二使徒の筆頭で初代ローマ教皇としても知られるペトロの従弟で、かれの語るイエスの言動をほぼそのまま伝えている、と目されるからだ。 
 ──素朴! それこそが「マルコ」を読みこそすれ内心軽んじていた原因だった。「マタイ」程劇的でなく、「ルカ」程調和が取れているわけでなく、「ヨハネ」程神秘的哲学的でもない「マルコ」。が、フルトヴェングラーの言葉を持ち出すまでもなく、偉大なものはすべて単純(素朴)である。「マルコ」に於いても然り。シンプルなお話は人々から愛されこそすれ、表面上の理解で止まってしまうことがしばしばだ。それはともすれば誤読を招き、誤解を引き寄せることになる。気をつけよ、偉大なものはすべて単純素朴にできている。「マルコ」とて例外ではない。否、「マルコ」こそ、その最善最良な証拠物件であろう。
 福音書のなかで「ルカ」をいちばん多く読み、「マルコ」をいちばん少なく読んできた。バークレーの導きに従って、これからは「マルコ」もちゃんと読もう。◆

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第3750日目 〈お詫びと現状報告。……わたくしは挫けない、前を見てその果てに進む。〉 [日々の思い・独り言]

 右耳の後ろだけでなく、ちょうど右襟足にあたる首の箇所にまで腫れができて、痛みに耐えかねている。知己がそれを見て、はっきりと視認できる程の大きさだと教えてくれた。写真を撮ってもらったが、これまで見たことのないような大きさの腫れだった。
 痛みは右耳の後ろの腫れからズキンズキンと絶えることなく続いているが、首の後ろの腫れからも鈍痛がときおり起こっているように感じられる。そうして昨日(12月26日)の診察のあとで生じた左襟足にあたる首の箇所も、右側ほどではないが細長く腫れあがっている。
 帰りはなかなかタクシーが摑まえられず、配車を頼んでもすべて出払ってしまっていた。店を出てから40分くらい経ったあと、桜木町でようやくタクシーを停められたときは、既に右脇腹は痛みと突っ張りで悲鳴をあげていた。
 帰宅してすぐお腹に食べ物を入れて空腹を満たしたあと、脳梗塞の経過観察で処方された薬と、白血病の薬を服んだ。そうして、クリスマスの日に処方された痛み止めを服んだ。薬漬けである。が、わたくしはまだマシな方だ。これ以上の数、種類を服んで闘病している人は、この世にたくさんいる。弱音をあげるわけにはいかない。まだわたくしにはやるべきこと、やらなくてはいけないこと、やっておきたいこと、やりたいことがたくさんある。生きなくてはならぬ、
 上記のような次第で第3750日目の文章を、いつもより何時間か遅く公にすることになってしまった。12月27日の夕刻、病院の帰りに、体を休めるため寄った喫茶店で書いた『バークレーの新約聖書案内』についての文章は、12月29日午前2時にお披露目させていただくことにする。
 わたくしには敵が多い。わたくしの病気を陰で嘲笑う人がいることを知っている。自業自得と無知蒙昧の輩がいうのも聞こえてくる。その人たちの気配も感じる。だが、わたくしはかれらの嘲笑罵詈を退けて、あがいて、しぶとく、健康を取り戻して、最期の最期まで意識明晰、臓器も四肢も健常の状態で、長寿を全うしてやる。授かった希望のために。◆

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第3749日目 〈山本芳久『キリスト教の核心をよむ』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 きょうばかりは暗い話はなるべくしたくないので、読んだ本のことを話そう。

 山本芳久『キリスト教の核心をよむ』(NHK出版 2021/10)を読み終わった。ずっと鈍く続く痛みをわずかの間でも忘れられたら……という思いから手にした一冊だったが、ゆっくり読み進めるうちジワジワと、旅する人々を束ねる同伴者イエスの優しさが染みこんできて、すこぶる感銘深い読書となったことをまずは報告したい。
 なにより心に残ったのは最後の第四章、「橋をつくる──キリスト教と現代」だった。教皇フランシスコとヘンリ・ナウエンの著書を紹介しながら、〈周縁の神学〉を踏み台にして自分と他者の間に「橋をつくる」、架橋することが、世界が断裂されているこんにちにこそ必要と説く。
 キモとなるのは、ナウエンの代表的著作『傷ついた癒し人』にある、自らの傷を(他人への)癒やしの源泉とする、という箇所。この発想は、「『十字架で苦しむイエス』というキリスト教の根本的なイメージを、現代的な文脈で活かし直したものと言うことができ」(P116)る、と山本は解説する。
 自分自身がわが身わが心にこうむった傷──悲しみや苦しみ、無理解、孤独や病気などを、同じように傷ついて、癒やしを求めずとも求めている人に用いる。ここでいう癒やしは「ヒーリング」の枠を飛びこえて、共感すること、寄り添うこと、手を重ねること、話に耳を傾けること、そうした行為をも含むと捉えてよい。
 これが、ひいては「同伴者イエス」のイメージへつながってゆくが、非キリスト者にもこれをイメージしやすくすれば、隣人愛、となるか。自分と相手の間に「橋をつくる」ことにもつながるそれが決して、施しをする、なんていう上から目線の行為を意味しないことは、自分の傷を他人への癒やしの源泉とする、というそもそもの出発点が明らかにしている。
 著者の言を借りれば、曰く、──

 自分が苦しみ、傷つくとき、それを単に偶然起こったことと受けとめるのではなく、私たちみなが共有している人間の条件の深みから生じてくるものと受けとめる。人間とはそもそも傷つき苦しみ存在なのだと気づくことが重要なのです。
 人間とは苦しむ存在だということに目を開かせ、また傷つき苦しむ人への共感の態度を持つことで、ほかの人の癒やしにもつながるような在り方が備わってくる。それは、安易な仕方で苦しみを取り去るということではなく、傷や苦しみを共に負いながら共に歩んでいけるようになる、ということです。これはまさに、これまで語ってきた「同伴者イエス」の在り方につながります。
(P117)

──と。

 山本の単著を読むのは、たぶんこれが初めてのこと。奥付に拠ればトマス・アクィナスに関する著作が中心らしいが、『キリスト教の核心をよむ』は深みと広がりを兼ね備えた、こんにちに於ける最良のキリスト教入門書のひとつといえる。宗教に固定観念(偏見──それはいちばん危険な思考である!!)を持った偏狭な非キリスト者にこそお奨めしたい。むろんそこに留まらず、江湖に推奨したいのである。
 わたくしは本書を取っ掛かりにして、巻末のブックガイドを参考にしながら、教皇やアウグスティヌス、或いは他の著者たちの本を読んでみようと考えている。◆






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第3748日目 〈病気と闘いながら、今年よりは良い来年を迎えたい。〉 [日々の思い・独り言]

 体調不良に伴って読書が遅れていた杉原泰雄『憲法読本 第4版』について、年内の再読終了を目論んでいたがそれはどうやら水泡と帰すことになりそうだ。というのも二週間程前から呻き続けて罵詈を叫んでいた腰と背中、両脇腹、左股間(鼠径部)の断続的かつ移動する痛み、そうして右耳後ろの腫れと痛みの原因、今後の治療方法等がわかってきたからだ。
 クリスマスの昼、救急車を呼んで運ばれたかかりつけ病院の緊急医療室での検査に拠れば、すべてはリンパの腫れによるものの可能性が高いという。
 最近はCT撮影をしていなかったので「いつから」とは判然としないが、前回撮影した2022年秋と、今年夏の脳梗塞を発症した際に撮影された(別病院での)写真を並べてみるとリンパがいまのように拡大して神経を圧迫、痛みや腫れをもたらしたのはここ三、四ヶ月のことである様子。これとて明日の診察を経ないと正確な原因などわかりかねる部分が大きいのだけれど、リンパが拡大しているのは事実。原因が実はまったく違うものでした、なんて結果にはならないだろう。
 実際にリンパが原因だったとして、もうこんな時期だから化学療法を行うのは年明けからになる由。当面はこれまでもらっていたよりも強い薬と、今日もらった痛み止めの薬で対処してゆくしかなさそう。
 けれど、未確定ながら原因と目されるものが判明しただけでもよかった。つくづくその点は感謝している。救急車を呼ぶのが前回──二週間前──であれば、クリスマスの今日あたりに退院できていたかもしれない。誰も、なにもいわなかったが、今日救急車を呼んで運びこまれたのは「時、既に遅し」なのかもしれない。血液内科の先生が既に退勤されていたので詳細なお話が聞けなかったのは残念である。
 痛み止めの点滴のお陰で、運ばれる前よりは痛みも治まっている。昨夜から今日昼にかけてのように非道くはない、という意味だ。それでもこの状態が続いていることが、とても嬉しい。
 とまれ、原因と考えられることは判明した。明日が本来の診察日であったこともよかった。救急隊の方々の対応、病院の緊急医療室の方々の対応も嬉しかった。わたくしは幸せ者だ。すべては導きである。人に恵まれること、これがいちばんの宝である。この病院との縁を結んでくれた母に感謝している。
 斯様な次第で、今年はまだ一週間あるけれど『憲法読本 第4版』読了を無理して目指すのは、止めることにした。負担をかけないこと、無理をしないこと、規則正しい生活をすること。自分が抱えている病気を沈静化させるためなら、読書が二義的になるのは仕方ないと思う。命あっての、健康あっての趣味である。
 それにしても令和5/2023年はいろいろ散々な一年であったな……。来年は良い年(Better Year)でありますように。◆

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第3747日目 〈徴税人、マタイのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 福音書に登場する徴税人マタイ、レビはユダヤ人だった。エルサレムの一角で仕事をしていた。かれらは同胞から忌み嫌われる存在だった。にもかかわらず、イエスはかれらを召して弟子とした。
 エルサレムを含むユダヤ、その北にあるサマリヤ、イエスの故郷ナザレを服むガリラヤ。その周辺地域。そこは当時ローマ帝国の属州だった。小規模の抵抗運動、大きな反乱はあったと雖もそのたび、ローマ軍によって鎮圧された。
 人々は内心でローマを憎んだ。よい感情は持っていなかった。矛先はローマの代理人のようになって働く同胞へも向けられた。マタイ、レビがユダヤ人でありながら忌まれたのは、徴税人というのが、ユダヤ人がローマへ納める税金の取り立て役だったからだ。
 「マタイによる福音書」に曰く、「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『(中略)わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マタ9:10-13)と。
 検めてみる。全員の出自や生業があきらかにされているわけではないが、十二使徒のうちペトロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟はガリラヤ湖の漁師だった(マタ4:18-22)。十二人の使徒はマタ10:2-4で判明するが、福音書に出自や生業があかされているのは、ガリラヤの漁師だった四人と徴税人のマタイだけである。シモンは熱心党に属したというが、いずれにせよ出自や生業はさげすまされたり、ふだん省みられることのないようなものであったろう。
 社会的にはさして重んじられていない、何事かがないと存在を認知されないような人々、或いは罪人と一括りにされるような人々とイエスは積極的に関わりを持ち、時に弟子として召した。
 山上の説教(垂訓)に曰く、「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」(マタ4:3-4)と。
 そうした人々とは即ち、特別な身分や職業とは無縁な、イエスが進んで交わりを持とうとした人々だ。そんな人々にとって、「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタ11:28)と手を差し伸べ胸を開いてくれるイエスの存在はどれだけ心強く、安堵できるものであったろうか。ゆえに、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という台詞はいよいよ具体性を増してくる。
 招かれたユダヤ人社会内部の敵、裏切り者と見られ上前をはねるコスい奴と陰口を囁かれる徴税人、マタイは十二使徒の一人としてイエスと行動を共にし、磔刑後は他と同じく宣教に努めて、その活動地域は、ペルシア、パルティア、エジプトなど、ユダヤの南側だったと伝えられる。近代になるまでは福音書記者マタイと同一視された。
 今日12月25日は、マタイを召したナザレのイエスが生まれたと信じられている日である。読者諸兄よ、諸人よ。友人よ、家族よ。メリー・クリスマス。世界は苦しいだけのものではない。◆

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第3746日目 〈それって本当に幸せなの?〉 [日々の思い・独り言]

 酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
(ロマ13:13-14)


 マニ教徒であったアウグスティヌスは、たまたま読んだ「ローマの信徒への手紙」の上の一節によって安心の光ともいうべきものが心のなかに降り注いできて、それまで自分のなかにあった迷いや疑いというものが消えていったのを、感じたそうであります。
 では、自分はどうか。聖書読書に用いた新共同訳にあたり、ブログ原稿を検めると、こんな風に言葉すくなに述べている。曰く、「ともすれば、意思が一時の情念と欲望に敗北を喫することしばしばであるわたくしにとって、この言葉は強烈です。そうして、鮮烈です」(第2090日目)と。
 酒宴酩酊からは病を患ったことでなかば強制的に縁切りできたが、まだまだ現世の欲望情欲と縁を切ること能わず。アウグスティヌスのように、心のなかが安心に満たされて疑いや迷いの軛から解放される〈その時〉は、わたくしにはまだしばらく来そうもありません。
 そのような境地から解放されたら……本当に幸せなのかな? よくわからないや。◆

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第3745日目 〈ハズレの年?〉 [日々の思い・独り言]

 『古書ミステリー倶楽部』全三巻をそれなりに楽しく読んで以後も何冊かの小説を読んだけれど、感想文を書くのもTwitterに読了ツイートを流すのもヤメにする程ハズレを引き続けた不運を嘆きたい。
 以後に読み終えた小説四冊の著者とタイトルを列記する非道はしないが、うち二人がベテラン作家で過去には好んで読んだけれど此度の三冊は「徒労」としか言い様のない、スランプなのか耄碌なのか判断しかねる、呆れ果てたる愚作と断を下すより仕方のない代物だった。なかには「良いな」「好きだな」と目次に丸をつけた短編もあったが、それは読後間もない感情であって維持継続される気持ではない。
 唯一読んでよかった、と感じるのは、芥川龍之介の短編をモティーフにした短編を二人のベテラン作家が書いていて、その短編が架蔵する芥川の作品集には入っていないので偶々売りに出ていた文庫版全集揃を購い、「カルメン」「沼地」を読むことができた点のみである。
 残りの一人、一冊は、そろそろ中堅の域に差しかかろうとしている人の、横濱を舞台にした<日常の謎>系の短編集なんだけれど、これがもう箸にも棒にも引っ掛からぬたわけた作品でわずかも琴線に触れるところなく、長所を無理矢理でも見附けることすらできず、正直なところ読み通すにはかなりの体力と精神力を消耗した……もう二度とこの人の小説を手にすることはあるまいな。
 結局、今年一年で読んだ小説のうち、「2023年に読んでよかった本 ベスト……」に入るのは橘外男『蒲団』のみと、現時点ではなりそうである。
 今年ももう残すところ十日を切った。待機中の小説からなにを選ぶかすっかり弱気になっているわたくしだが、鈴木悦夫『幸せな家族』、山田風太郎『厨子家の悪霊』、緑川聖司『晴れた日は図書館へいこう 物語は終わらない』、劉慈欣『三体』は、どれも前期待を裏切らぬものと信じて、過去の四冊についてはもう忘れることにしよう。
 忘れるといって舌の根も乾かぬうちにこんなことをいうのもなんだけれど、最後に生田耕作の著書から、わたくしの気持ちを代弁するような一節を。曰く、──

 最初の数十ページで、私はいさぎよく書物を床に叩きつけるべきであった。批判の最高の形式は沈黙であり、一冊の書物にたいする、一人の著者にたいする最高の批判形式は「読書の中絶」にあるからだ。書評の義務にせまられ、自らに苦役を課する思いで、読みつづけ、上・下二巻千ページ近い大作に目をとおしたあと、いま私は、自ら招いた優柔不断の代償として、不愉快な重労働のあとにつきまとう後悔と、いいようのない腹立たしさに向かい合わされている。私に残されたものは、首尾一貫した書評ではなく、この憤ろしさの原因究明と、その報告があるだけである。(「虚妄の『戦後』」 『生田耕作評論集成Ⅳ 滅びの文学』P273 奢灞都館 1996/01)

──と。ご想像あれ。◆

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第3744日目 〈その場のノリで「石を投げる」側に立たないようにするには。〉 [日々の思い・独り言]

 「ヨハネによる福音書」にある挿話です。不義密通の罪を犯した女性に投石しようとしている群衆にイエスが曰く、あなた方のうちで罪を犯したことのない者から(この女性に)石を投げよ、と(ヨハ8:7)。誰も、誰ひとりとして石を投げられなかった。群衆は散り散りになって、イエスとその女性だけが残された。彼女に、誰もあなたを罪に定めなかった、わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい、そうして二度と罪を犯してはならない、といった(ヨハ8:10-11)。
 とても良い話だ。不倫は赦されない不貞行為でありますが、イエスはそれについて頭ごなしに説教したり、律法を持ち出して群衆と同じように裁こうとはしなかった。むしろ群衆を婉曲な物言いで諫めることでその場の危機を一旦やり過ごし、群衆一人ひとりに己の罪を思い起こさせた。人間誰しも規範に背く行為をしでかしている。それが大きいものであれ小さいものであれ、律法に抵触しようとしなかろうと──。古今東西を通して変わりようのない人間の本質が、ここでは象徴的に描かれていると感じます。
 イエスが最後、女性に投げかける台詞も良い。判決は下された、行って、ゆめ不義を働くことなかれ。命を救い、赦すばかりでなく、今後の行動指針まで与えている。こんにちの裁判の、結審後に裁判長が被告へあたえる言葉を想起します。或いは、刑期を終えて出所する人へ刑務官らがかける言葉を。ステレオ・タイプの域を出ぬ想像でありますが、イエスの姿、言葉がそこにかぶってわたくしのなかにあるのは否めぬ事実であります。
 もしも自分が、不義密通でなくてもなにかしらの罪を犯した人と、それを取り囲んで非難する集団のいる場に出喰わしたら、……時代も国も法も違うのを盾にして(言い訳にして)、群衆にまざって深く考えてもいない正義を声高に叫び、イエスとは真逆の立場に自分を置いているかもしれない。
 そうならないための第一歩──たやすく群集心理に呑みこまれて思考を停止させたりしないための第一歩はやはり、いやちょっと待てよ、そんなに簡単に結論を出してよいのか、一旦冷静になって両方の側からこの問題を検討する必要があるんじゃないか、結論や立場を表明するのはそれからでも遅くはないだろう、っていう〈余裕〉を持つことなんではあるまいか。思考の停止と想像力の欠落は同義だ。想像力を欠いた人、考えるのをやめた人は、どんなに非道いことでも、非道いと思うことなしに平然とやってのける。それこそがいちばんの罪なのでは?
 「ヨハネ伝」のこの挿話を読んでいると、人間一人ひとりが罪を犯しながら生きていることや、長いものに巻かれて自分の考えや意思を置き去りにして行動することの危うさを思わずにはいられないのです。
 ──今年はあと二、三回、聖書に材を取ったエッセイを、クリスマスを含めてお披露目する予定でいます。◆

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第3743日目 〈そんなに意外かなぁ。〉 [日々の思い・独り言]

 なにが意外かって、Kindleを持っていないことです。発売当初から「Kindle気になるんだ」「Kindle買おうかな」「Kindle貸して、買うときの参考にしたいから」といい続けていたせいかもしれません。でも、まだ持っていないのです。だって、買おうと決意するとほぼ9割の確率で新機種が出るんだもん。決めようにも決められませんや。
 けれどね、もう諦めたんです。Kindleは買わない。少なくとも当分の間は。諦めた、というよりは先延ばしにすることに踏ん切りがついた、というた方がよい。
 どうしてか? 以前iPadにどうした理由でかDLしたKindleアプリがあるのを見附けたから。それを使えるようにして済ませればいいじゃん、って気が付いたから。どの道、電子書籍に鞍替えするつもりも依存するつもりもない。だったら手持ちのタブレットにアプリが入っていれば、それでじゅうぶん。
 勇み足で買わなくてよかった、と胸を撫でおろすのは、ゆめ負け惜しみの類ではない。断じて。ただ一人の作家の、ただ一冊の本を読めればいい。それ以外は付属の恩恵でしかない。紙の本で所有していて出先でも使う/読むものは、都度DLしてKindleアプリで読めるようにするが、それで良いんじゃないか。鞍替えするならば、依存するくらいならば、もう疾うの昔にKindle、買ってますよね。
 とはいえ、今回の腰と背中の一件で、上の代替策を早々に引退させて現物購入の早期検討に踏み切ったことは報告しておかねばならぬか。◆

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第3742日目 〈「エステル記」〈前夜〉、ようやく書き了んぬ。〉 [日々の思い・独り言]

 二年程前から手を着けて、昨年の11月に一旦書きあげていた「エステル記」〈前夜〉。昨日久しぶりに読み直しました。聖書や参考文献を引っ張り出して机の上に山を築いて一部を直し、「これで良し」としました。つまり、書き終わった、のです。
 こんな長期にわたって手が掛かろうとは……書き始めた当初は、たぶん想像していなかった。次の「ヨブ記」が思いやられます。これと「詩篇」、「コヘレトの言葉(伝道者の書)」が終われば、〈前夜〉の新稿は概ね書き終わったも同然ですから楽になるのですが。
 「ヨブ記」については聖書の本文を、ここ一日、二日は体調も良いので合間合間に読んでいますが、中盤は流石にすらすら読めるには至らぬ。ヨブと三人の友人(後半で一人増える)の間で応酬される信仰の問題は、非キリスト者にはハードルが高い。並行して註解書を繙いていますが、これもなんだか雲を摑むようなところが多くて、小首を傾げることもしばしばです。
 今年中は幾らなんでも難しいけれど、今年度中には第一稿を書きあげていたい。たとえそれが不満だらけの代物でも、叩き台になる原稿があるとないとでは大違い。どれだけ瑕疵が目立とうと、未完成品よりは完成品の方がずっと価値がある。◆

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第3741日目 〈パウロの言葉はストア派、ビーダーマイヤーにもつながる。〉 [日々の思い・独り言]

 みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならないのです。(一テサ4:3-5)

 落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。(一テサ4:11-12)

 新約聖書から好きな文言を十個あげろ、といわれたらノミネート間違いなしの、パウロ書簡からの一節であります。こんなに地に足つけた言葉が聖書のなかにあるなんて、素敵です。
 ここに引いた「テサロニケの信徒への手紙 一」からの言葉は、ストア派の哲学や、ピーダーマイヤーの思潮にも通じると、わたくしは考えています。
 じっくり時間をかけてこの点を考察してみましょう。◆

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第3740日目 〈平井呈一・生田耕作の対談から。〉 [日々の思い・独り言]

 最初から引っかかるところがあったにもかかわらず、優先順位が低いせいで調べるのがどんどん後回しになり、あげく何十年も経ってしまっている、ということが、わたくしにはよくある。
 たとえば表題の件もその一つ。『牧神』創刊号(牧神社 1980/01)を初出とする生田耕作と平井呈一の対談「恐怖小説夜話」はその後、生田耕作名義では『黒い文学館』に載り『生田耕作評論集成Ⅲ 異端の群像』に再掲、平井呈一名義になると『幽霊島 平井呈一怪談翻訳集成』が初めてとなった。「第3082日目 〈生田耕作『黒い文学館』を読む。〉」(2021/07/08)でも触れたが、『幽霊島』に載るヴァージョンには、前述生田の著書からは削除された『牧神』編集部の前書きが復活した。本稿では『生田耕作評論集成Ⅲ 異端の群像』(奢灞都館 1993/08)を引用元とする。
 「恐怖小説夜話」の中盤、『牧神』編集部が、生田と歌人・塚本邦雄の対談で平井訳ホレス・ウォルポール『オトラント城綺譚』を「戯作」と呼ばれたことに触れて曰く、──

 編集部 以前生田先生と塚本邦雄さんが対談をされ、平井訳『おとらんと城綺譚』に触れ、戯作調ということを言われましたが……
 平井 あれを部分的に読んで「戯作」をどういう意味でいっているのかはっきりしなかったな。(中略)
 生田 塚本さんとしては、文章に江戸文学の素養が表れているという程度の意味で言われたのではないでしょうか。
 平井 その程度ならよいのです。(P301)

──と。
 『黒い文学館』で最初に読んだときから気になって仕方なかった。塚本邦雄は余り好きな歌人ではないが、歌詠みとしてはともかく評論家・歌論家としてはその意見、傾聴してきたから、さて、塚本はどんなニュアンスで、どんな流れで「戯作」なる語を口にしたのか。機会あれば掲載誌にあたって確認してみよう。……それから長い歳月が流れた。言い訳はしない。こちらにも様々あるのだ、とだけ発言しておく。
 この間に、生田・塚本対談の掲載誌『短歌』昭和47/1972年7月号は手に入れた。が、幾箱ものダンボール箱とその上に積みあげられた本の山に阻まれて、雑誌の発掘は早々に断念した。おまけに腰と背中の痛みがようやく治まってきたのだから、無理をしたくない(というよりも、する気がない)。為、確認用に書架から持ってきたのは追悼として編まれた『現代詩手帖特集版 塚本邦雄の宇宙 詩魂玲瓏』である。これに、生田・塚本対談が再掲されているのだ。編集部の勇断に感謝。
 では「戯作」云々の典拠を辿ろう。対談のタイトルは、「わが心の芸術橋[ボン・デ・ザール] ダンディズムへの誘い」。以下、──

 生田 そういえば最近出た平井程一[ママ]さんの『オトラント城綺譚』[ママ]の訳、お読みになりましたですか。
 塚本 読みました。
 生田 どうお思いになりますか。私なんか、あの古語のうつし方にただただ舌をまくばかりで、深く味わうというところまでいきませんが、余裕綽々の離れわざに、あれよ、あれよと見とれるばかりで……。
 塚本 そのとおりですね。ゴシック・ロマンの訳をやるなら、漢詩あたりもやらなくちゃできないんじゃないかと思うような精神の緊張度を考える分けなんです。その意味で『オトラント城綺譚』なんかは名訳だと思います。
 生田 ただ、戯作調すぎるというようなところはありませんか。
 塚本 そうですね。でも、戯作調ってだいじなことだと思うんです。その要素があまりにも少なすぎる訳が多いじゃないかと思うくらいなんですがね。戯作調の日本語をマスターし、日本語をよく心得ている人の訳は、やはり味わいがちがいますね。(P314)

──と。
 どこかでわたくしがそう思いこんでいた部分もあるのだが、なんと、「戯作」と最初に口にしたのは生田先生であった! 「ただ、戯作調すぎるというようなところはありませんか」という問い掛けが果たして、同意を求める類のものであったか、あくまで懸念の域を超えぬものであったか、或いは自分の印象を確かめるための誘導であったか、今度は録音テープを何度も聞いてその口吻から推測するよりないが、もはや斯様な記録は残っておるまい。
 生田・平井対談に戻ると、平井が「部分的に」──都合よくトリミングされた対談を誰からもたらされて「読ん」だかは不明だ。可能性がいちばん高いのは思潮社に籍を置き、平井とは『オトラント城綺譚』のみならず退職後に設立した牧神社での『アーサー・マッケン作品集成』で、生田とはベックフォード『ヴァテック』補訳を通して接点があった菅原孝雄かと想像できるが、正しいところは不明である。
 ただ、塚本が平井の擬古文訳に江戸文学の素養を見出していたのは事実で、逆にそうした素養がなければゴシック・ロマンスの翻訳は難しいのではないか、と考えていた節さえ窺える。塚本は「戯作調の日本語」なんていうているが、古典時代の文学で用いられた言葉全般を使いこなせることが日本語で物を書き表す、表現する際の幅と深さをもたらすことにつながる──そんな信念を言葉の後ろに感じるのだが、如何であろうか。
 荒俣宏の回想にあったが、平井は『オトラント城綺譚』の手彩色版本を殊の外大事にしていたそうだ。平井にとってこの、ゴシック・ロマンスの嚆矢とされる歴史的名作は鍾愛して止まぬ一篇だったようで、それ故に、現代語訳と擬古文の二種類の翻訳を残した程だ。
 「建部綾足に範を取る擬古文」(菅原『本の透視図』P284 国書刊行会 2012/11)で訳された『オトラント城綺譚』は東雅夫編『ゴシック名訳集成 西洋伝奇物語』(学研M文庫 2004/06)で読むことが可能。ついでにいうと現代語訳は同編『ゴシック文学神髄』(ちくま文庫 2020/10)で読める。
 なお本稿では混乱を避けるために統一したが、平井の『オトラント城綺譚』は訳文のスタイルによってタイトル表記に相違がある。擬古文訳は『おとらんと城綺譚』、現代語訳が『オトラント城綺譚』となるので、古本屋さんで探すときはご注意の程を。◆

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第3739日目 〈ふたりの「放蕩息子」、親を想ふ。〉 [日々の思い・独り言]

 「ルカによる福音書」第15章に〈「放蕩息子」のたとえ〉と小見出しを持つエピソードがある(新共同訳)。
 生前の父に財産分与を請うた息子二人の弟の方は、それをすべて現金に換えて遠方の地で放蕩三昧に暮らした。が、その地が飢饉に見舞われると食うものに困り、紆余曲折あって故郷に還るのを決めた。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(ルカ15:18-19) 父は遠くからこちらへ歩いてくる息子の姿を認めると駆け寄り、上等の着物と食事を用意させると近隣の知己を呼び招いて祝宴を催した。
 これが〈「放蕩息子」のたとえ〉の前半である。このあと故郷に留まって家作に従事した兄が父を詰り、諫められる場面が続くがそれは省く。
 本ブログで聖書読書ノートを連載(……?)していた時分には気附いていなかったが、この父はたまたま畑に立っているとき遠くへ目をやると下の息子の姿を見附けたのではなく、いつもそこにいて息子が還ってくるのを待ち続けていたのだ。呻きながら読んでいた山本芳久『キリスト教の核心』(NHK出版 2021/10)を読んでいて、そうであったか、と首肯し、そうして過去の自分を思い出した。
 三十代の前半、〈家〉のことで色々ありどうにも飼い慣らせぬ衝動に家中を暗くし、ギスギスさせ、挙げ句に一度だけながら宵刻家を飛び出した。どこをどうほっつき歩いたか、不動産会社時代に販売した建売住宅のある地域を回ったのは覚えているが、それ以外はとんと……。途中で雨が降ってきた。気附けば自宅前の道を歩いている。神社で雨宿りでもしよう。そのときだ、インターホンからわたくしを呼ぶ母の声がしたのは。
 謝って許してもらい、風呂に入り、あとで聞いたところでは、ずっと窓やインターホン越しに前の道を見続け、息子が通るのを待っていたそうだ。これをきっかけに荒ぶる心を鎮める術を身につけ、親孝行の道に入ってゆくのだが、それは別のお話。恥ずかしくて、流石に文字にできない。
 わたくしが「ルカ伝」にあるこの放蕩息子のエピソードを読んで親しみを感じたのは、いまにして思えば、この父親の姿が、母にかぶるところが大きかったせいだろう。
 山本芳久は件の本のなかで、放蕩息子を待ち続けて帰りを迎えた父親について、こう述べる。曰く、──

 この父親は単なる父ではなく、たとえ話として「父なる神」のことを語っているのです。自分に立ち戻ることは、父に立ち戻ること。そしてそれは神に立ち戻ることにつながっている。
 神になぞらえられる父親は息子に走り寄り、明確な許しの姿勢を示しています。それでこの息子は、自分が真に安住できる場所は父親のもとにあったのだということに気づきます。(P58-9)

──と。
 「ルカ伝」の時代は父性社会というのに加えてユダヤ教の神が男性的であることから、父親を神に準えた斯様なイエスの喩え話になりますが、宗教に関係なく男の子全般にとってはむしろ母親に準える方がよりわかりやすかろう。
 わたくしは父を事故で亡くしているから尚更かもしれないけれど、父親とは永遠に追いかける背中であり生き方の模範である。一方で母親とは、安住できる場所は勿論自宅だが、その場所を守り、なにをしでかしても帰りを迎えてくれる存在だった。こちらもそれなりに放蕩息子だったから、両親にどれだけ心配をかけたか怒らせたか悲しませたか、想像するに余りあるけれど、母には甘えられる分余計な心的負担をかけてしまった。すぐにそれを自覚し、反省して、……できる範囲で、できる限りいっぱいに孝行したと思うのだけれど、母も身罷ってしまった現在はそれを確かめる方法がない。
 女性を港に喩えたりするのも、放蕩息子のエピソードに於ける息子の帰りを待ちわびてずっと遠方へ目をこらしている父親と同じような理由からかもしれない。それを持つ人は、それだけで幸せだ。◆






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第3738日目 〈今年程「趣味:読書(ガチ)」で良かったと思う年も、そうなかなか無いだろう。〉 [日々の思い・独り言]

 腰の痛みに耐えかねて臥せったり朦朧としていたら、曜日の感覚がすっかり失せているのです。
……はて、今日はいったい何曜日であったろうか? 状況が状況ゆえ新聞を読むのも億劫で、テレビの報道番組とも御無沙汰していると、そんな風になる。
 え、スマホでネットニュース見ろ、ですって。見ていたさ、勿論。が、見ることと今日が何曜日か、何日なのか、は決して等号で結びつきはしない。テレビの報道番組でそれが可能なのは、キャスターが「何月何日何曜日……」とちゃんと伝えてくれるからだ──お察しと思うがみくらさんさんか、民放の報道番組は殆ど視聴しないのである(同じ地上波でも朝や昼間の情報番組[……嘆かわしい顔触れである]をよもや報道番組と曰う阿呆は居るまい)。
 そんな不毛で誰の得にもならないお話はさておき。
 曜日の感覚が狂うなんて時代劇の楽隠居じゃあるまいし、ね。なんだか世間の流れに取り残された感がいっぱいで、ああこれを〝寂寥〟っていうのかなぁ、定家卿が蟄居謹慎に処されたときの心境ってこんなだったのかなぁ、と徒然思いを馳せたことでありますよ。いや、勿論、わが身を準えるも烏滸がましいことであるのは承知している。承知しているが……若いときに読み耽った古典のそんな場面記述があれこれ脳裏を過ぎってゆくのです。これも「暇」の為せる技だろうか。
 ええ、この数日は暇でした。暇を余儀なくされる、というのも変な表現だが、横になっていても起きて立っていても、坐っていても、腰や背中に耐え難い痛みが生じてなにもできなかったのだから、もうこれを「暇」と呼ばずしてなんと呼ぶ。
 とはいえ、菜にもせず、ただ痛みをこらえて終日呆と過ごすのはわたくしの望むところでない。為、読書に励んだ。否、痛みを忘れるため、痛みをわずかなりとも和らげるため、そこから少しでも意識を逸らすため、読書に励んだ、というのが正しい。とはいえ、流石に憲法の本は読めぬ。シャープペン片手に集中するだけの根気がないのだ。
 この数日の読書を省みて納得するところあるのは、然程脳味噌を回転させずともよさそうな本ばかり読んでいたことだ。著者には失礼な物言いと承知しながら敢えて斯く述べるのは、或る程度理解しているもしくは知るところ多い分野については初読の本と雖も、痛みを一時的に忘れるための読書だとしても比較的すんなりと頭に入ってくる部分がかなりを占めることがあり、一方でコミックスというのは斯様な状況下で最もその効能を発揮する出版物と考えるからだ。ちなみに此度の読書においてそれぞれ代表をあげれば、前者では山本芳久・若松英輔『キリスト教講義』と山本芳久『キリスト教の核心』となり、後者については矢吹健太朗・漫画/長谷見沙貴・脚本『To LOVEる -とらぶる-』(全18巻のうち第1-12巻)と小畑健・作画/大場つぐみ・原作『バクマン。』(全20巻のうち第1-9巻)となる。
 いろいろツッコミどころのある読書ではあるが、なに、これはこれで良くバランスが取れているではないか。
 想定外の体調不良により蟄居を強いられた師走。それにしても今年は陥入爪の発症と悪化・手術、脳梗塞の発症と入院、白血病の定期検診、聴力の低下に伴う通院と経過観察、そうして今回の腰と背中の激痛と自宅療養、とまぁ色々と健康面でトラブルが続いた一年であった。その傍らにいつも「趣味:読書(ガチ)」があった幸福を噛みしめている。◆

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第3737日目 〈ああ、やっぱりだめだ!〉 [日々の思い・独り言]

 なんとか午前2時の更新に間に合わせようと試みたのですが、頭がぼんやりしてまるで集中できないため、また腰の痛みも強くなって坐っているのが苦痛なこともあり、今日はお休みさせていただきます。
 なかなか体調が元に戻らないことが、くやしくてなりません。ひとりとはつらいものです。
 明日からはふたたび毎日書けるようにしたい!!!◆

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第3736日目 〈病床からのレポート──これが「病より癒えたる者の神への感謝の歌」とならんことを。〉 [日々の思い・独り言]

 月曜日の夜から始まった腰痛も、いまはだいぶ落ち着いてきたようである。いまは、そう思いたい。
 左腰部を震源とする今回の腰痛は次第に、時間を経るに従って背中全体へ広がって最終的には右肩甲骨のあたりまで最大勢力圏に置き、ゆっくりとその力を衰えさせながら昨夜は腰部とそのすぐ上の部位(専門用語で此所、なんて呼ぶんでしょうね)に痛感を覚えさせるに留まり、今朝は……そうしてこれを書いている木曜日の宵刻はどうにかこうやって椅子に坐りMacへ向かうことができるまでに回復してきている(よかった、ブログに穴を開けずに済んだ)。
 ……うん、回復と捉えたいね! すくなくとも夜、多少の痛みは感じると雖も床に横へなっても耐えられるくらいになったのだから、回復、と考えてよいのではないか。睡眠誘導剤を枕元に置いてある、それを服んで小一時間もすれば眠りに落ちることができる。経験に基づくそんな安心感も手伝っての「回復」なのだろうけれど。
 とはいえ、まだ左腰部、つまり震源とふざけて称した部位の痛みは依然として残っている。これから寝るまでの間にこの痛みが激しくなる可能性も、また他へと広がってゆきまったく寝られないで一夜を過ごす可能性も、否定できるものではない。
 咨、立っていても、坐っていても、横になっていても、この肉体的苦痛に苛まされて無為に時間を過ごす、なんて事態は二度と経験したくないな。願わくば本稿が、「病より癒えたる者の神への感謝の歌」となりますように。◆

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第3735日目 〈腰痛、再び。〉 [日々の思い・独り言]

 昨夜一晩、激しい腰痛に苦悶の汗を流し、ろくに睡眠できなかった。原因がなにか、自分でもわからない。坐り方か、重い荷物を背負っているせいか、その両方か。
 痛みは腰の左側、脇腹の少し後ろのあたりが中心のようだ。そこから腰全体、背中へと広がっていった。仰向けになっても横向きになっても痛みは一瞬たりと治まらず、外用鎮痛消炎薬……アンメルツのような塗布式、サロンパスに代表される貼るタイプ、等ですね……もどれだけ効能があったかは不明で、救急車を呼ぶことも考えたけれど数ヶ月前と同じ症状にも思えたのでそれは一旦退け、寝る場所も変えてみたが改善の様子は見られぬためまた元の寝場所に戻り、朝刊が投函される音を聞き、ゴミを出したらそこで安心したのか眠ることがようやく出来た。途中、宅配便の受け取りで起きたけれど、それも終えたらまた寝てしまい──起床は15時52分!
 腰と背中の痛みは落ち着いた。むろん、これを書いている現在まだまだ震源たる腰の左側、脇腹の少し後ろのあたりに痛みは残り、長時間同じ姿勢を取っていると腰から背中にかけて痛みが走るけれど、どうやら峠は越えたようだ(そう捉えたい)。
 坐り方の意識的改善と、リュックに詰める荷物を減らすことで再発防止ができるなら、幾らだってやる。体、大事。◆

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第3734日目 〈これの読書ノートも作るんかい。〉 [日々の思い・独り言]

 杉原『憲法読本 第4版』再読は、予定通り年内の了がほぼ確定して安堵している。或る程度の期間、一つの書物に拘泥して様々書込みして向き合ったのは、いったいどれくらいぶりだろう。聖書を終わってから以後は……正直なところ思い出せるものが余りない。強いて挙げれば昨年いま頃の『恋愛名歌集』だろうけれど、こちらが或る程度の期間を要したのは外的要因が専らだから、聖書と『憲法読本』と同列に並べるのは無理がある。
 『憲法読本』の再読が終わったら次はノート──抜き書き、自分のコメント等々の作成になるわけだが、そこでふと、過去の読書を省みた。感想文を書いたりしてきたなかで別個にノートを作っておいた方がよいと考えたものが、たしかあったはずなのだけれど、と。太宰? ノン。ドストエフスキー? ノン。『古事記』と六国史? ノン、ノン。『源氏物語』? 断じてノンですぞ、モナミ! 今後引用しそうな文章を写す? それはよいアイディアだが、別個にノートを作る必要はあるのかな。
 ──ああ、そうだ、と深く呼吸しながらその書物を思い出した。聖書だ。いま、井上洋治『イエスに魅せられた男 ペトロの生涯』といっしょに置いてある。聖書読書ノートの原稿(=本ブログ)を書く際、常に持ち歩いて自宅やカフェで開き、下線を引いたり書込みをした、新共同訳・旧約聖書続編附き。ページの端は丸くなったり手垢で黄ばみ、ノドが割れて修繕し、形崩れした、くたびれた感じの聖書。
 昨日とそれ以前も書いたように、日本語訳聖書で現在流通している訳はその殆どを、時間をかけて手許に揃えた。個人訳は購入をずっと迷っている。代替テキストは新共同訳(引照附きのと、上で述べたのと同じもの)を含めて幾らでもあるのに、この手擦れした聖書を未だ侍らせ、なにかにつけて開くのは、これで読んできた、というノスタルジーと自負に加えて、数多の書込みあるゆえだ。
 下線を引いた箇所、特定の文章や単語へ与えたメモ。それらを一冊のノートに書き写してしまおう。自分の考えや調べたことをアクセスし易くしよう。折につけそう考えていた。
 それを思い出したのだ。時間を見附けて着手したい。時間がかかる。何冊も要る。百も承知だ。なのに、ためらっているのは、なぜ?◆

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第3733日目 〈ぼんやりしている時間があるなら、〈前夜〉を書け!〉 [日々の思い・独り言]

 聖書についていえば、テキストと註釈書は揃えられたのではないか。むろんそのすべてを購うなんてのはあらゆる意味で不可能だ。ここでいうのはあくまでも自分が必要とする、また過去にお世話になって手許にあれば有益だ心強いと感じる、そんな限定された範囲での「揃えられた」である。
 懐に資金の余裕が生まれたら、あと二、三種類の注釈書は買いたいが、それはもはや来年の話だ。当面は、まずは手許にあるものでよい。
 さて、このような状態にあるいま、(それに全力で取り掛かりさえすれば)以前こうしたものを書きたい、と表明したエッセイ案の半分くらいは一ヵ月に一篇程度のペースであげてゆけるのだろう。が、生来の天邪鬼も手伝って現実的にはなかなか難しい。二十代の頃のように一つの分野へのめり込み、本妻がきちんといてそちらへちゃんと帰って愉しみ悦ぶことある一方で、その時々の興味思考関心に(素直に)従って、あっちに手を出しこっちに唾をつけて、っていうのを重ねているいまは、予定や計画を立ててもすぐ崩れ落ちてしまうのが関の山だ。
 されど……それにもかかわらず……聖書の註解書や研究書などが十数年のうちにゆっくりとしたペースで手許に集まってきて、なにを考え、なにを書くにせよ、蔵書の範囲内でまぁ大概の用事は済ませられるようになった現在、わたくしが早急に取り組む必要がある聖書にまつわるエッセイは、といえば、何年も前から進めている聖書各書物の〈前夜〉の執筆に他ならない。就中棚上げしたままの「エステル記」と、旧約の難所(難書?)の一「ヨブ記」の〈前夜〉である。
 執筆というても既に本ブログではいちどお披露目しているゆえまったくの新規原稿ではない。旧約聖書と旧約聖書続編(旧約外典)の一部については過半が改稿──但し、新稿というてよいくらい書き直しているから、「改稿」という言葉の定義も曖昧だ──、新約聖書の全部と旧約聖書、旧約聖書続編の(残りの)一部は再掲となる。細かな字句、表現の修正或いは加除の筆は入ろうが、それは当然の作業といえないか。
 柱はもう組み上がって上棟もできている(とわたくしの目には映る)「エステル記」〈前夜〉と難所ゆえに手を出しかねて結局本文や解説書、註解書の類を読んでばかりいる「ヨブ記」〈前夜〉。この二編を書きあげてしまえば、道は開けたも同然(あわれな魂は解き放たれた。 わたしの前途にはかぎりない希望と 奇跡にみちた時とがある ※)。そこから先の作業がサクサクスイスイ進むわけでは勿論ないけれど、それでもなお──。
 十数年にわたって蓄積してきた書物を死蔵させないためにも、かねての案を具体的な形にして残さねばならぬ。ぼんやりしていることは、許されない。◆

※カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』P249 九月一日条より(草間平作・大和邦太郎・訳 岩波文庫 1973/05)□

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第3732日目 〈「〜と思います」はいらない。〉 [日々の思い・独り言]

 改めて哲学に関心が向き、倫理の参考書や学生時代に読まされたヤスパースやハイデガーを開く気になったその源を辿れば、平山美希『「自分の意見」ってどうつくるの?』(WAVE出版 2023/04)に行き当たる。別ルートで憲法があるが、これはさておき。
 例のリュックへ詰めこんでいつも運搬しているうちの一冊だが、後半にとても突き刺さる指摘があった。実はその指摘こそ、面陳されていた本書をぱらぱら繰っていたら目に飛びこんできた一節でもあったのだ。その一節を以下に引く。曰く、──

 結論を述べるとき、ぜひみなさんに心掛けてほしいことがあります。
 それは断言すること。
 できるだけ、言い切る形で主張してみてください。
 これは、前述したような安易な〝決めつけ〟とは、まったく違います。
 自分がじっくりと考えて出した結論に自信を持つということです。(P203)

──と。「前述したような安易な〝決めつけ〟」とはP195-6「悪い結論」を指す。「悪い結論」即ち「問いも立てず、疑いもせず、考えを深めもせずに判断を下し」(P196)た結論である。
 結論を述べる際はできるだけ、言い切る形で主張(断言)して、その結論に自信を持つ。
 フランスの学生はレポートや論述試験、おそらくは日常の会話、議論でも「わたしは〜と思う」式の表現はしない、という。
 (きちんと手続を踏んでなされた引用以外は)あなたが思うたことしか書かれていない、話されていないのだから、わざわざ「わたしは〜と思います」なんて書いたり話したりする必要はない。あなたの発言はすべて、あなたが思うていることなのだから。
 著者曰く、──

 フランスの哲学教育でも、生徒一人ひとりにきちんと「結論」を出すことを求めています。また、哲学の教科書にも、「最終的には自分の出した結論を受け入れ、その結論に責任を持ちなさい」と書かれています。こうした教育を受けているため、フランス人は、自分で考えて出した結論を堂々と主張し、断言できるのでしょう。(P204)

──と。
 自分が出した結論を受け入れろ。その結論に責任を持て。なによりも、考えた上での発言なのだから「〜と思います」は不要。
 パウロじゃあないが、目から鱗、である。「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」(使徒9:18)
 以前にもどこかで、文章に「〜と思う」は使うな、とあるのを読んだ。自分の発言に自信がないことの表れであり、醜い責任回避でしかない、と。
 冷水を浴びせられた気分だった。自分がこれまで書いた文章を、手当たり次第に検めた覚えがある。──なんと「〜と思う」で埋め尽くされた文章であったことか。スティーヴン・キングの、副詞を警戒する文章をどうしても思い出してしまう。地獄への道は副詞で舗装されている、とキングはいう。続けて、──

 別の言い方をすると、副詞はタンポポである。芝生に一つ咲いている分には目先が変わって彩りもいい。だが、抜かずに放っておくと、次の日は五つ、また次の日は五十、そのまた次は……と切りがない。しまいに芝生は、全面的に、完全に、淫蕩に、タンポポに占領されてしまう。タンポポは雑草だ、と気がついた時は、悲しいかな、もはや手遅れである」(『小説作法』P141-2 池央耿・訳 アーティストハウス 2001/10)

──と。
 以来なるべく使わないように、と心掛けてきたが、なにかの拍子にどうしても、ね……。情緒的なものや小説ならば必要最低限の範囲で用いるのは仕方ないとしても、読書感想文や硬質な文章は「〜と思う」を回避する手立ては幾らでもあるはずだ。
 ちか頃はだいぶ減って、検めても殆ど見ることは少なくなった推定絶滅語彙だが、やはり油断すると使ってしまう。どう書いてこの原稿──エッセイを〆括ろうか、と考え倦ねているときすぐ思い浮かんで安易に使い、なんとなく〆括れてしまうのが実は、「〜と思うのである」の書き方なのだ。文章がなんとなく形を調えたように映ってしまう。まぁ、錯覚してしまうんですね。──われながら軽薄な解決手段であるなぁ、と嘆息せざるを得ない。
 もう「〜と思う」は使わない。
 第一稿でこれが使われたら、考え抜いて代替語(※)も見附からぬような本当に必要な場合──考えに考え抜いた挙げ句、これしかない! 「思う」以外はあり得ない! という場合──を除いて、これを徹底的に駆逐、殲滅する。胸に刻みこもう。
 平山美希のこの本を読まなかったら、「〜と思う」と縁を着る決心は、まだ先だったかもしれない。◆

※「I think」の直訳としての「わたしは〜と思う」ばかりでなく、feel、suppose、deem、considen、believe などその場により相応しい「〜と思う」の類義語を念頭に置いているが、いずれにせよ日本語のボキャブラリーを試される作業であるのは間違いない。□



「自分の意見」ってどうつくるの?

「自分の意見」ってどうつくるの?

  • 作者: 平山 美希
  • 出版社/メーカー: WAVE出版
  • 発売日: 2023/04/12
  • メディア: Kindle版



書くことについて ~ON WRITING~ (小学館文庫)

書くことについて ~ON WRITING~ (小学館文庫)

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2022/06/03
  • メディア: Kindle版




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第3731日目 〈心情告白──今年の秋冬も、本を買いすぎた。〉 [日々の思い・独り言]

 今年は……ちょっと本を買い過ぎました。否、今年は、ではなく秋から今月に掛けては、というのが正解。それこそ反省を深くしなくてはならない程に。
 歯止めが効かなくなった? いえ、それは違う。
 己の興味関心趣味勉強に関する書籍が昨年までとは比べものにならぬくらい多く、それまでよりも安価で市場に供給されたからに他ならない。
 その核の一つとなるのが、既に本ブログでも話題にしたことがあるフラウィウス・ヨセフスの著作群。単行本と文庫版のすべてとヨセフス伝、ヨセフス研究所の基礎文献を、それぞれバラで購入できたことで(振込手数料と送料を含めたとしても)件の全巻揃いよりもぐっと安価に買い揃えられた。また、一ヵ月程思案した挙げ句にその後、死海文書の既刊全巻揃いも清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入。先程まで、別の所で買った死海文書解説書二冊と併せて一通り目を通していたところである。ヨセフスと死海文書だけで積みあげれば一メートルを超えるてふ事実は内緒にしておこう。
 他には? 北村薫の作品に触発されて読みたくなったが架蔵する文庫には収録されていない短編を収めた芥川龍之介全集(ちくま文庫版)を購入し、憲法を中心にした法律の本と、バカロレアでの哲学学習を書いた本から地滑りして学校を卒業してからトンと御無沙汰していた哲学の本、加えて勿論(ヨセフスと死海文書以外の)キリスト教と聖書に関する本を購い、ミステリ評論やミステリ小説、SF小説を殆ど一年ぶりに買うようになり、そうして『ラブライブ!スーパースター!!』のムックと同人誌に手を染めた(いと幸せなり)。
 ……注ぎこんだ金額は、ですって? 買った本についてはすべて記録しているが(購入日・購入書籍・購入場所/手段・価格[税込]はちゃんと控えているのだ)、その合計額となると──怖くて電卓を叩く気になれないし、仮にそれができても披露はしたくない。
 積ん読山脈はますます標高を高くしてゆく。それを解決するために、部屋の隅っこに置けるような小さな本箱を幾つか買う手筈を整えたところだ。とはいえ、焼け石に水、かなぁ……。
 それにしても、自分が寄贈を受ける立場にないことが幸福である。身銭を切って購入した本以外で仕事とか勉強できたりする<評論家>や<プロ作家>の方々のような、なにかを切り詰めてでも本を買う苦労と幸福と向学心とは無縁になってしまった連衆の同類にはなりたくない。
 自分で中身を吟味して、自分の収入で購入してこそ……と思うている。その結果が、上で告白した購入書籍群である。◆

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第3730日目 〈みくらさんさんか運営ブログ「Let's be Friends,」休日に関する私法」、公布の告知。〉 [日々の思い・独り言]

令和5/2023年12月8日(金)午前2時00分 公布
令和6/2024年1月1日(月)午前0時00分 施行

 【前文】
 整理しておきたい。明文化して一覧にすることがなかったからこの機会に、だ。みくらさんさんか運営ブログ「Let's be Friends,」(以下「本ブログ」)の休日について、以下のように定める。

 【通常休日】
 以下のように定める。
 1月に計二日間、
 4月に計二日間、
 5月に計一日間、
 6月に計二日間、
 7月に計一日間、
 10月に計二日間、
 11月に計一日間、
 12月に計一日間、
 以上、年間合計十二日間の休日(これを「安息日」と称することがある)を設ける。但し特定の日附を定めてこれを固定しない。
 上記の如く通常休日の日数を定めて、本日令和5/2023年12月8日(金)午前2時00分に是を公布した。令和6/2024年1月1日(月)午前0時00分より是を施行する。

 【臨時特別休日】
 上記通常休日以外で、体調不良や入院を余儀なくされた場合とその期間(予後を含む)、冠婚葬祭等によって更新お披露目が程度に拠らず困難な場合は、是を臨時特別休日として扱う。
 及び出産その成長に伴う慶弔事に関しても都度臨時特別休日として是を扱う。
 生誕及び逝去に伴う年間の通常休日に増加がある場合、事前の告知を以て追加変更を認める。
 以上、三項について告知の時期は特に是を定めない。
 冠婚葬祭の「葬」を除いて臨時特別休日を実施する場合は、当日を含む事前の告知を必要とする。「葬」に於ける臨時特別休日の採択と告知に関しては、期間を定めない事後の告知等を追認する。
 なお、上記以外の予期せぬ事態が出来した場合は、期限なき事後の告知を以て臨時特別休日として是を扱う。

 【補則】
 上記通常休日及び臨時特別休日の規定に関して、何人からも一切の干渉は許されない。
 又、第三者による本ブログへの干渉及び中傷非難差別人権侵害他を拒絶する権利をブログ運営者みくらさんさんかは保有するのみならず、当該行為他が健康的文化的生活に著しく支障を来す或いは人権保障の観点から逸脱すると判断した場合、司法その他該当機関に知り得る当該人物(団体を含む)の全情報を開示して一切の対処を委ねる可能性がある。
 「本ブログ休日に関する私法」はその文章や内容等全般に関して必要と認める場合、改訂修正補筆等を行いながら半永続的に是を適用してゆくものとする。

 【目的】
 休日(安息日)の採用に関して曖昧に運用していた点を反省、是まで自分のなかでだけはっきりしていた休日採用基準を明文化することで、今後の円滑なる本ブログ運営の一助とする。
 又、今後様々なトラブルを回避することも、今回の明文化及び公布・施行の目的の一である。

 【結語】
 主語はすべて「わたくし」みくらさんさんかである。
 而して本稿は真面目にして戯作也。◆

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第3729日目 〈『憲法読本』のあとは、なにを読もうか?〉 [日々の思い・独り言]

 毎度の登場で申し訳ないが呆れず笑って済ませてほしい。
 杉原泰雄『憲法読本 第4版』の再読はいよいよ最終コーナーへさしかかり、夢想としか考えられなかった年内読了も現実になってきた。これを基にしたノートは年初から取り掛かる。そんな現在、心の片隅に生まれてわたくしをワクワクさせるのは、次はなにを読もうかな、っていう企みに外ならない。
 ざっと目を通したのみながら芦辺信喜『憲法 第六版』(最新の第八版、『ポケット六法』令和六年版と一緒に買いました!)と、高見勝彦・編『あたらしい憲法のはなし 他二篇』のあとに手を着けたこの『憲法読本』は、とても読み応えのある一冊だった。
 で、次はなにを……なのだが、ここまで岩波書店の刊行物が偶然とはいえ並んだので、井上ひさし・樋口洋一『「日本国憲法」を読み直す』、小関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』、鵜飼信成『憲法』のどれかを……と調子附いたがすぐ反省。いまの自分の脳力(「能力」の誤変換だが、言い得て妙なのでこのままにする。呵々)そのレヴェルを鑑みて、あと回しに。
 だが、歴史や、もうすこし突っこんだ憲法論ではなく、もっと平易な憲法解説を読んで『憲法読本 第4版』再読の熱を冷まそう、とだけは決めてあった。となれば、架蔵するうちから該当するのを選ぶと──池上彰の二冊が必然と浮上してくる(というよりも、それくらいしか、ない)。
 『池上彰の憲法入門』(ちくまプリマー新書)と『君たちの日本国憲法』(集英社文庫)を以て熱冷まし役とし、また、これまでの読書で得た知見の確認と新たな意見・疑問をピックアップする作業を行いたい。池上は他にも憲法に関する本を出しているが、上述の二冊で見解は尽きている、というのがわたくしの偽らざる感想だ。
 斯くして次に読む、そのまた次に読む憲法の本は、決まった。並行して(これまで通り)渋谷秀紀『憲法を読み解く』と本秀紀・編『憲法講義 第3版』、そうして肝心要の『日本国憲法』(岩波文庫・白帯──またもや岩波!)をちょこちょこ開きもしながら、しっかりと憲法について勉強してゆきましょう。
 ……そろそろ判例集、買った方が良いかなぁ……。◆

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第3728日目 〈きょう買った本──ルソー『社会契約論』。〉 [日々の思い・独り言]

 憲法の勉強をしていれば否応なく「国民主権」について考えることになる。
 日本国憲法は第一章第一条「天皇の地位・国民主権」で「(天皇の地位は)主権の存する日本国民の総意に基く」と定める。
 「総意」とは「人民の意思」。日本国憲法に於いて人民とは、「政治に参加できる年齢に達した成年者の集まり」((杉原泰雄『憲法読本 第4版』P185)を指す。「政治に参加できる年齢に達した成年者一人ひとりのことを市民(citizen, citoyen〔仏〕)とか公民とかよぶこともありますが、主権者のとしての国民はその市民の集まりとしての人民を」(同P186)いう。
 では「総意」を「人民の意思」と定義したのが誰かというと、フランスの教育学者で思想家のジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)である。政治哲学の著書に『人間不平等起源論』と『社会契約論』がある。
 この『社会契約論』でルソーは、「総意」とは「人民の意思」なり、と定義した。
 ──成る程、と膝を打った。
 聖書やキリスト教、或いは法学を趣味で勉強していると、自分に欠けていた領域が明らかになってくる。そうして、本を読んだり調べたり人に会って話したりして知っていることも知らなかったこと(教科書レヴェルでしか知らないことを含む)も、なにかをきっかけにしてそれぞれが結びついてきて、新たな扉を提示し開く後押しをしてくれる。
 この場合、近代市民憲法の礎ともなった人権宣言に興味を持ち、本文中に必然のように登場するモンテスキューやホッブス、ルソーへのアプローチを考えるようになった。法学を初めて学ぶ人向けの本や、或いは法哲学の本をぱらぱら目繰っていても、かれらは必ずというてよい程登場する。教科書や世界史事典の類に載る程度でしか知らないかれらのことを、もっと知りたくなるのは(少なくともわたくしにとっては)自然な流れであったのだ。
 わたくしの性癖なのかもしれぬが、こうした場合採る手段は、それを解説した本ではなく真っ直ぐにかれらの著作へ向かい、丸ごかしに読んで頭が沸騰したところで解説本に手を伸ばす、という、近道なのか遠回りなのかよくわからぬものだ。はい、今回、ルソーの場合もそうでした。
 「総意」を定義した箇所をこの目で確認したい。法律の制定を議会に白紙委任している(イギリス)国民が自由であるはずがない・議会に自分の運命を委ねてしまっているイギリス人は選挙のときを除けば奴隷といわざるを得ない、という箇所も、この目で確認したい。どのような文脈で指摘されているか知りたい。
 シャープペン片手に杉原『憲法読本』を読み進めるうち、その思いはゆっくりと強くなっていった。どこの文庫で読めるかを調べた。翌日、みなとみらいの本屋さんで逡巡した後に買い物カゴへ入れたのは、光文社古典新訳文庫版『社会契約論』とその前著になるらしい『人間不平等起源論』(いずれも中山元・訳)だった。岩波文庫版も迷ったけれど、明日以後の買い物にしよう。
 帰りの電車のなかで『社会契約論』を開いた。憲法の勉強をする傍ら幾度も開くことはあっても、本格的に読み出すには時間を要すだろう。挑み甲斐のある著作なのは間違いない。
 鉄は熱いうちに打て。読書ペースを少しばかり上げて、ルソーに取り掛かれるようにする。◆



社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle版




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第3727日目 〈5キロのリュックを背負って、外出先で勉強する。〉 [日々の思い・独り言]

 読み返してみて、やはり半分以上寝ながら書いた原稿には、非道い部分が目立つ。誤字脱字の類は当然、すこぶる文意の通らぬところもあったりして、反省頻りだ。昨日第3276日目はなるべく早く必要最低限の修正を施すことにしよう。
 さて、本日の話題だが、──
 
 悪化の一途を辿っていた陥入爪の手術はぶじに終えて、恐る恐る靴下を履くことからも、出掛けにガーゼとテーピングで徹底ガードすることからも、ようやく解放された。まだ痛みを感じたり、化膿止めの薬のお世話になっているけれど、年内に治療は終わりそうなことを喜んでいる。
 とはいえ、いきなり行動範囲が広がるわけではなくて、却って自分の行動範囲の狭さと回遊先が固定されていることを実感して、呆れるより外ない。
 ついでにいえば、リュックへ詰めこむ荷物も日によって変わるようなことはなく、多少の入れ替えがあるが精々だ。今日は憲法、明日はホームズ、明後日は英語多読、明明後日は聖書/キリスト教、その次の日は……という具合。もっとも、こうまであからさまに内容が変わることはないけれど。──読者諸兄は、慢性腰痛持ちにもかかわらず5〜6キロの荷物を詰めたリュックを背負って外出しているのだ(MBAもありますから)、その外出先でその本を使った勉強等々をしているのだ、とだけ知っていただければ結構です。
 ところでその憲法だが、例の杉原『憲法読本 第4版』の、シャープペン片手にした再読は基本的人権の項目を数日がかりで読み果せ、今日は議会制民主主義の項を読んだ。残りは100ページにも満たない。かりに何事かがあったとしても生命にかかわるようなことがない限り、『シャーロック・ホームズ・バイブル』とイケナイ・アダルティーな小説の感想文初稿に着手できなかったとしても、本書の再読作業だけはどうにか終わらせられそうだ。
 今日の再読を済ませたあと、関心を深く持った点(国政調査権、ルソーが『社会契約論』で述べたこと)について、持参していた本秀紀・編『憲法講義 第3版』と渋谷秀紀『憲法を読み解く』の当該ページへ目を通し、白水uブックス版『社会契約論』をぱらぱら目繰って過ごした。
 一冊の本を広げたままもう一冊を開いて読み較べたりするのは、或いは並べて相互補完させるには、電子書籍は不向きだと思う。端末をその分持ち歩くなら話は別だが、それはウリの一つである携帯性を放棄するに等しい。使い勝手は極めて悪そうだ。電子書籍の利点をまるで活かせていないようにも思うし……バッテリー切れやふとした拍子の落下破損の心配もありますね。『憲法読本』のような線引き、書込みも端末のよっては難しいですからなあ。最後に勝ち残るのはアナログである、ということか。
 とまれ、複数の本を並べ置いての勉強や、直接書きこむような読書のときは電子書籍は全く以てその存在利点をことごとくデメリットに変える、無用の長物、というのが実体験に基づくわたくしの(現時点での)結論だ。
 と、こんな風に本を運んだり、読んだりしているときに脳裏を過ぎり、わたくしを支えるのがアメリカの、殊ハーバード大学の学生たちの学習スタイルである。引用と要約をして、筆を擱く。

 ○要約
 【ハーバード大学生の読書について】
 かれらの読書量は1週1課平均200-250ページ、1学期中に無理なく受講できるのは4課目が限度といわれるから、毎週平均1,000ページを読むことになる。ゆえにかれらはどんな場所でも寸暇を惜しんで本を読む。
 教員が指定テキストを優しく噛み砕いて解説してくれる日本の大学と違って、ハーバードでは指定した文献を読んできていることを前提に講義を進められる。しかもディスカッションを中心とした講義スタイルだ。つまり、毎週平均1,000ページを読んでいないと講義についてゆけない。
(下村満子『ハーバード・メモリーズ』P70-74 [PHP文庫 1990/10])


 ○引用 いずれもスコット・トゥロー『ハーヴァード・ロー・スクール』(山室まりや・訳 ハヤカワ文庫NF 1985/04)より
 【ハーバード・ロー・スクール生の予習】
 週末を通して、ぼくは大いに勉強した。あの夜の救いがたい無能さの自覚を、ふたたび味わいたくなかったからだ。刑事法と契約法の宿題として出されたテキストの章を入念に要約し、そのあと、ペリーニが調べるように命じた二つの事件を、何度も読み返した。そして一語一語熟考し、あらゆる角度から調べたりしながら、二件に関する細密な判例メモを作成した。授業で指されたときの答えのリハーサルもやった。法律辞典も充分調べ、しまいには、オピニオンに出てくる重要な法律用語の定義をすっかり暗記してしまったぐらいだ。ペリーニについてはこれで大丈夫。万全の構えはできた。
(「登録──敵との出会い」P44-5)


 【アメリカ法学部生のふだんの勉強】
 肩にかついだしん玄袋ふうのナップザックに、千四、五百頁もある判例集を数冊詰め込んで、教室から教室へと移動するのが、アメリカの法学生の姿だが、宿題に追われて、オチオチ新聞も読んでいられない彼らからみれば、教養を積む暇も、人によっては遊ぶ暇さえある日本の法学生がふしぎに映るかもしれない。アメリカのロー・スクール図書館は、午前八時から夜半まで開いている。ハーヴァードでは土曜は午後六時まで、日曜は午後一時から開くというのが、以前は一日中開いていたというから、学習の圧力のすごさがしのばれる。
(山室まりや「付記/日・米法学教育事情の比較」P303-4)


──以上。
 そういえば、小沢一郎衆議院議員が学生時代に使った憲法テキストへの書込み写真も、影響しているか(佐藤章『職業政治家 小沢一郎』P247 朝日新聞出版 2020/09)。◆

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第3726日目 〈「健康で文化的な最低限度の生活」をこの部屋で営むために。〉【改稿版】 [日々の思い・独り言]

 その部屋には積ん読山脈と呼ばれる連峰がある。最大標高一メートル八十三センチ、最も低いところでも八十数センチの、いつ頃隆起を始めて現在のような景観を築いたのか、部屋の主さえ知らぬ連峰だ。
 積ん読山脈の西側の、最大標高を誇る文庫とA5版コミックスが混在する山にもたれかかる形で聳える、こちらはコミックスだけの山(標高一メートル六十二センチ)であるが、これが近年の調査で倒壊の恐れありと診断され、倒壊の際は隣接した、連峰を構成する山々を巻き添えにして崩落、部屋の様相を一変させる事態となるてふ予想が発表された。
 斯様な報告を受けた部屋の主は遂に重い腰をあげて、そのコミックス山の手入れにかかったのだった。日曜日の夕刻、夕食の仕度と並行してのことだ。それに併せて、書架のコミックスを放りこんである棚も整理し始めた。
 ──積ん読山脈の手入れは以前から考え、焼け石に水的な片附けは行ってきたが、いよいよ根本的な整備が必要になったのである。
 まず着手したのがコミックスだけで構成される山であるのは述べた通りだが、どうしてここから始めたかというと、理由は二つある。構造上これが倒壊したら付近を巻きこんで本崩れを起こして床が見えなくなるであろう事態を回避するためが一つ。
 もう一つは、今後急増するコミックスの置き場を作るためだ。このタイミングで着手したのは、こちらの理由の方が大きい。なにしろこちらはあと数日後に増加するのが確実なのだから。
 どうして急増するのか? むかし手放してしまった作品の全巻揃が安価で売られているのを発見、気附くと購入手続を行っていたからに外ならない。作品としては四作なれど、全巻揃いとなるとトータルすればその冊数、七十冊を超える。置き場所を作るのは「待ったなし」の状態なのだ。片附けねばならぬ事情の正体、ここにあり。

 「健康で文化的な最低限度の生活」をこの部屋で営むため、部屋の片附けをした。コミックの群れを本来の棚へ放りこみ、また独身時代のベッドの宮台に移動させた。
 「あ、こんなコミック買っていたんだ」とか「てっきりもう処分しちゃったのかと思ってた〜」とか、況んや懐かしさ半分悦び半分で作業のてを休めてしばし読書に没頭することが避けられたことを、幸運に思うことで自分を慰めよう。◆

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第3725日目 〈日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 自分に宿題を課した手前──でもないけれど、けふ、日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』(と、モーリーン・ウィティカー『シャーロック・ホームズとジェレミー・ブレット』高尾菜つこ・訳/日暮雅通・監修 原書房 2023/11)をL.L.Beanのリュックに詰めこんで、いつものスターバックスなう。
 二杯目のコーヒーを飲みながら、セミドライトマトのピザトーストを頬張りながら、『シャーロック・ホームズ・バイブル』(以下、『SHB』)へ目を通す……いつものように適当なページを開いて、蕩けた表情で、鼻の下をすっかり伸ばして。
 今日は第一章を、頬杖ついて読んだ。ホームズが生きたヴィクトリア女王の御代(ヴィクトリア朝)の、ロンドンとイギリスの社会情勢やホームズ物に登場するファッション、職業、貨幣価値、飲食、警察、鉄道、郵便、などなどが、当時の出版物からのイラスト、写真、地図を適所に配して、実にわかりやすく説明されている。
 ヴィクトリア朝イギリス、帝都ロンドンについて、その社会情勢を含めて知るところがなくても名探偵シャーロック・ホームズの活躍は楽しめる。ごもっともな意見だ。わたくしも始めはそうだった。所謂ビギナーズ・ラックの読者であれば、それでよろしかろう。
 が、名のみ知られて詳細が語られない事件や、物語に登場する各種アイテム、そうしてなによりも〈影の主役〉たるロンドンという町、イギリスという国そのものに興味関心があり、また各出版社から出ているホームズ全集を買い揃えてあれこれ読み較べたり、原文で読んでみようと洋書へ手を伸ばしてみるくらい〈ホームズ沼〉へ沈みかけている人は、かならず、遅かれ早かれ、ヴィクトリア朝期の社会風俗の知識を自ずと求めるようになってゆく──勿論、すっかり沈んでシャバへの復帰が困難なレヴェルの重篤患者も、既知の知識を上書きしたり修正したり、或いは未知の知識を獲得する行為に余念がないはずだ──。ここまで来たら、物語の舞台を訪う聖地巡礼まであと一歩。……ようこそ、こちらへ。歓迎しよう。
 こんな風に一歩踏みこんだ楽しみ方、読み方をするようになったとき、知りたいことを正確に、簡潔に、発展的に(ここ、重要!)教えてくれる役目を、本書は果たす。
 質と量を備えた蔵書(資料)を手許へ置いていつでも自由に自在に扱える者でなしに、これだけの使い勝手よく資料としても読み物としても愉しめる大著を物すのは難しい。では、いったいそんな本を書いた人の蔵書とは、どのようなものか。
 答えは──というかその一片は──『絶景本棚』てふ本にあった。『本の雑誌』巻頭カラーページの連載をまとめた本棚紹介本(ミもフタもない説明だな)だが、ここに著者、日暮雅通の本棚──蔵書──仕事場奥の書庫──が載る。この仕事場奥の四畳の書庫、本棚七棹をホームズ本とヴィクトリア朝本が占拠する。当然すべて洋書。これだけの資料を私蔵してこそ『SHB』は相当に濃ゆい充実度を誇り、また、日暮が訳筆を執った光文社文庫版ホームズ全集と各社から出ているホームズ・パスティーシュ、或いは今朝の新聞一面に広告があったヴィクトリア朝本の監修に結実するのであろう。
 こんにちの日本に於いて日暮雅通は、北原尚彦(『シャーロック・ホームズの建築』、ホームズ・パスティーシュの著作あり)と並んでホームズとヴィクトリア朝期に関する仕事を信頼してよい御仁というのを、本書と書庫の写真が証明している。

 ところで──『SHB』の読書感想文、わたくしは本当に書けるんですかね? 愛が大きいと却ってなにもできない性格が、ここでまた弊害をもたらそうとしている……。◆



シャーロック・ホームズ・バイブル 永遠の名探偵をめぐる170年の物語

シャーロック・ホームズ・バイブル 永遠の名探偵をめぐる170年の物語

  • 作者: 日暮 雅通
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2022/10/18
  • メディア: Kindle版



絶景本棚

絶景本棚

  • 出版社/メーカー: 本の雑誌社
  • 発売日: 2018/02/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



シャーロック・ホームズとジェレミー・ブレット

シャーロック・ホームズとジェレミー・ブレット

  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2023/11/27
  • メディア: 単行本




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第3724日目 〈新しい一ページ目に悩む。〉 [日々の思い・独り言]

 いつもと違う心持ちでいる。為、ふだんならしないことをしてみた。背筋を伸ばして歯を喰いしばり、腕を組んで窓外を睨み黙考する。不定期に襲ってくるその時間が、約一年半の時を隔てて到来して、再びわたくしの気持を重くしてまた胸躍らせる。
 諸人よ、わがために喝采せよ。新しきモレスキンの始まりである。この処女地に初めて足跡を残す愉悦!
 なにを書けばよいか迷い、考えあぐねて、結局はお読みいただいているこの文章と相成った次第だが、ノートを跨ぐことなきエッセイなればこその悩みというか、思案といえる。
 これが小説ならば? 前のノートの最終ページもしくは表3でその場面が切りよく終わっても、作品それ自体は旧いノートから新しいノートへ跨いで引き継がれる。長編を想定するが、短編であってもじゅうぶん起こり得る事態だ。とまれ、そこに断絶はない。研究論文もこのパターンに含めてよいか。
 が、エッセイの場合、「ノートが切り替わる = 一つの読み物としての断絶」と考えてよい。詩も、コラムも、同じだ。短い読み物はどうしてもその弊を免れることが難しい。宿命、とは大げさか?
 斯様に物理的断絶あるゆえに新しいノートを開いても、さてなにを書こうか、と考えてしまう。最初から話題が決まっていたり、腹案があるならば考えこむ必要もないけれど、その、ほら、本ブログは案外と(?)行き当たりばったりなところがあるからさ。
 こゝろに移りゆくことをそこはかとなく書きつけるのは常なれど、殊それが何冊目かのモレスキン最初のページに残される文章となると、ふだんとはまた少し違う心持ちになり、気負うてしまうのである。──仕方ないよね。◆



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