第3751日目 〈「マルコ」の再発見──『バークレーの新約聖書案内』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 咨、ウィリアム・バークレーとの出会いは、新約聖書の読書を始める直前と記憶する。頼りとすべき註解書を探す一方で、新約聖書全体を見渡す一冊の、自分にとって最適な一冊の本を見附けるべくあれこれ漁っていた──市の中央図書館の棚の前を行ったり来たり、背伸びしたりしゃがみこんだりしながら。
 そうやって見附けたのが、『バークレーの新約聖書案内』だった。いちばん下の、いちばん端っこにあった。スコットランド協会の雑誌に連載された、新約聖書を構成する二十五の書物について、各巻の中心になる思想、各巻がいわんとする大事な一点に絞って書かれたエッセイ群プラス序文と結語から成る『バークレーの新約聖書案内』は、本文二〇〇ページにもならぬ本である。この、一巻一点集中の姿勢が、新約聖書へこれからアプローチしようとしているわたくしにとって、いちばん身の丈が合うようだった。その予感は現実となり、九年が経とうとしている現在まで折ある毎に読み返す一冊となっている。
 とはいえ、いまわたくしの傍らにある『バークレーの新約聖書案内』は図書館の蔵本ではない──既に! 状態の良い古本が見つかったので、価格も送料込みで納得できるものだったこともあり、今秋に購入したのだ。ようやく、である。
 やはり手許に置いて読むのと、図書館で借りてきて読むのとでは、かなり違う。いつでも手に取れる状態にあるということは、読書に費やす時間はトータルで格段に増え、勢いその間の没入度も思考の度合いも濃密になる。自由に書きこめる、付箋を貼れる(貼りっぱなしにできる)メリットについては、いわずもがな。
 そんな利点だらけの現状でありながら、購入してから今日になるまで、最初から通して読む機会を設けなかった。単に他に読むものがあってあと回しになっていたに過ぎぬ。昨日読了した本があるのを機に今日、序文から読み始めた──今回もまた病院、診察の待ち時間と、そのあとのお楽しみなスタバにて。
 わたくしは本書で、「マルコによる福音書」の価値に気がついた。「マタイ」に続いて二番目に載る福音書が「マルコ」だが、執筆順としてはこれがいちばん最初。これを資料の一つに取りこんで「マタイ」と「ルカ」は書かれた。それゆえに、か、それゆえにこそか、か、「マルコ」は共観福音書のなかで最も簡素素朴で、余計なフィルターを通していないナマに近いイエスの言動を伝える書物になっている。というのもマルコは十二使徒の筆頭で初代ローマ教皇としても知られるペトロの従弟で、かれの語るイエスの言動をほぼそのまま伝えている、と目されるからだ。 
 ──素朴! それこそが「マルコ」を読みこそすれ内心軽んじていた原因だった。「マタイ」程劇的でなく、「ルカ」程調和が取れているわけでなく、「ヨハネ」程神秘的哲学的でもない「マルコ」。が、フルトヴェングラーの言葉を持ち出すまでもなく、偉大なものはすべて単純(素朴)である。「マルコ」に於いても然り。シンプルなお話は人々から愛されこそすれ、表面上の理解で止まってしまうことがしばしばだ。それはともすれば誤読を招き、誤解を引き寄せることになる。気をつけよ、偉大なものはすべて単純素朴にできている。「マルコ」とて例外ではない。否、「マルコ」こそ、その最善最良な証拠物件であろう。
 福音書のなかで「ルカ」をいちばん多く読み、「マルコ」をいちばん少なく読んできた。バークレーの導きに従って、これからは「マルコ」もちゃんと読もう。◆

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