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第1371日目 〈ゼファニヤ書第3章:〈エルサレムの罪と償い〉withノートの感想〉 [ゼファニヤ書]

 ゼファニヤ書第3章です。

 ゼファ3:1-20〈エルサレムの罪と償い〉
 エルサレムは背反と汚れに満ちた、忌むべき暴虐の都。自分たちの神の声を聞こうとせず、また戒めを受け入れて諒としなかった。皆が皆、己の職掌を抛ち、疎かにするどころか悪事に耽る有様だ。腐敗するエルサレムに在ってもはや正しきは神殿に坐す万軍の主のみ。主はけっして不正を行わず、朝ごとに裁きを与えてそれを光とし、誤るところがない。
 ――わたしは諸国民を集める。かれらの上に憤りと激しい怒りを降す。地上は隈無くわたしの熱情の火に焼き尽くされよう。
 然る後、わたしは諸国民へ清い唇を与える。それはわが名を呼び、求め、一つとなって仕える。クシュの川の向こうからわたしを礼拝する者が、献げ物を携えて旅してやって来る。それはかつてわたしによって散らされた人々だ。お前たちはわたしに背いて行った悪事のゆえに辱められることは、もうない。お前たちのなかから力と武器に頼る者を除く。お前たちが、わが聖なる山で悪を企み、行うことは、もうない。
 イスラエルよ、わたしはお前たちのなかに、苦しめらたり卑しめられたりした者を残す。かれらは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は正しくある。不正とも偽りとも欺きとも縁なき人々となる。かれらは養われて憩い、脅かす者なき安穏な生活を営む。イスラエルの王なる主は、お前たちのなかにいる。ハレルヤ。
 散らされた地で、捕囚の地で、わたしはお前たちの名を上げさせ、誉れを与える。「そのとき、わたしはお前たちを集める。/わたしが、お前たちの目の前で/お前たちの繁栄を回復するとき/わたしは、地上のすべての民の中で/お前たちに誉れを与え、名をあげさせる(と/主は言われる。)」(ゼファ3:20 ( )みくら付す)

 どうにも致しかねてカットした部分に、ゼファ3:18があります。その節に曰く、「わたしは/祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。/彼らはお前から遠く離れ/お前の思い恥となっていた」と。
 <祭り>とはなにか、それを祝えなかった者たちとは誰か、なぜかれらは遠くに離れていたのか。これが捕囚後の時代を謳っている、と考えると、すべてが明確に線で結ばれる。捕囚期が明けてもなおそこへ残ったり、或いは逃れて逃げ惑うた末に遠近の国へ散ったままのユダ/イスラエルが、帰還民、残留民が集うて祝った祭りに参加できないのは当たり前で、そうした者たちを主は然るべき時の訪れの日に集める、というのであろう。そんな風にわたくしは倩考えている。むろん、キリスト者や学者衆、教会関係者たちは一様に違った見解を述べてくれるはずでしょう。しかしそうした人々と関わりなきわたくしは一人で読んで一人で考えた末に斯く考える、というのであります。プロテスタント系の学校に通っていた婚約者が生きていれば、また異なった感想や考えも出ましょうけれど、いまはそれについて想いを巡らせるのは止めとします。
 わずか3章4夜のうちに2回もトラブルが発生した「ゼファニヤ書」は今日で終わります。見捨てることなくお読みいただき、本当にありがとうございました。次の「ハガイ書」でもよろしくお願いいたします。



 ノートを執っていて久しぶりに「難しいな」と感じたゼファ3でありました。悪戦苦闘の結果、聖書本文をわずかに自分の言葉、自分の文章へ置き換え、散文に移したが精々のこと。訳語まで殆ど流用せざるを得なかったのは残念ですが、といって後日に改稿したりしようという気になれぬ、不思議な手触りがある一章です。
 これはこれでじゅうぶんにわたくしの書いた聖書読書ノートである。いちばん非道い出来のノートとも、いちばん上出来のノートとも等しく肩を並べられる出来映えのノートである。これがわたくしの正直な感想。勿論、ここでいうノートが本ブログの原稿のことでもあるのは、今更申し上げることではないでしょう。
 いつものエッセイを楽しみにしている方には、ゼファ3ノートの感想をお読みいただくことになった点を謝りたく思います。しかし、たまにはこうした、聖書絡みの小文も良いと思いません?◆

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第1370日目 〈ゼファニヤ書第2章2/2:〈諸国民の滅亡〉〉 [ゼファニヤ書]

 ゼファニヤ書第2章2/2です。

 ゼファ2:4-15〈諸国民の滅亡〉
 ペリシテ人の都、町は荒れ果てて捨てられる。滅びて、住む者は絶えてなくなる。モアブとアンモン人の国はイスラエル、ユダへの嘲笑と驕りのゆえに裁かれる。ソドムとゴモラの如く久遠に荒れ果て、一本の雑草すら生えぬ塩の窪地となる。その地を、ユダの生き残りが受け継ぐ。
 クシュも主の怒りの前に滅び、それは北に向かってアッシリアとニネベの都を討つ。かの地は往時の繁栄を留めぬぐらいに荒廃する。ここを行く者はあまりの変貌に驚き、口笛を吹く。そうして、目の前の現実を否定するかのように、自分がそんな災禍に巻きこまれることがないよう祈るかみたいに、広げた手を力なく横へ振るのである。

 廃墟を目にした異邦人がその様子をせせら笑う場面はこれまでも何度かお目にかかってきましたが、本章ではやはり廃墟を通りかかった異邦の旅人をしてこの災厄がわが身の上に降りかからぬよう願う様が描かれています。
 こうしたパターンは初めてでないか。かりにあっても覚えていないぐらいに少ない例である。このコントラストの妙は主の怒りの徹底ぶりを客観的に伝えるものであると共に、イスラエルの神であった主を畏怖する思いが諸国民にも浸透していることの証左と申せませんでしょうか。
 キリスト教が世界宗教となった今日の目で見れば、これも道理といえるのかもしれませんが、当時では事情も異なりましょう。当時は国境を越えて、人種を越えて、言語を越えて畏怖される神の存在は極めて異例であった。或る意味で異端というてよいかもしれぬ。本章に於いて異邦人が主の破壊の凄まじきゆえに廃墟となった町を見て災厄より逃れられるよう祈るのは、イスラエルの主に対する信仰が徐々に、主に貿易によって周辺諸国へ知られるようになっていったことを示しているのではないか、と、考えてしまうのであります。
 それにしましてもこの、旅人が廃墟――アッシリアの町々とニネベの都――を眺める光景は、なんと残酷で美しいことでしょう。まさに<詩>であります。◆

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第1369日目 〈ゼファニヤ書第1章&第2章1/2:〈主の怒りの日〉withカフェ密集エリアで働く。〉 [ゼファニヤ書]

 ゼファニヤ書第1章と第2章1/2です。

ゼファ1:1-2:3〈主の怒りの日〉
 預言者ゼファニヤに預けられた主の言葉、――

 わたしは地の面から、空と海から、すべての生きとし生けるものを一掃する。わたしを忘れて蕃神に従う者、わたしに逆らって生きる者、エルサレムとユダに在ってわたしを拝み、マルカムとバアルへ誓いを立てる者を断つ。
 主のいけにえの日が訪れたらば、高官も祭司も王族も、異邦人もすべてを罰する。敷居を跳び越える者、主の家を不法と偽りで満たす者を罰する。
 エルサレムの西側の地区から悲鳴や泣き叫ぶ声がする。大きな崩壊の音が聞こえ、都のあちこちから助けを求める声があがる。
 ……主は幸いも災いもくれない、とぼやく酒飲みを、わたしは罰する。かれらの財産は奪われ、家は荒れる。が、建て直してもそこへ住むことはできない。ぶどう畑を整地して木を育てようとしても、実がなることはない。況やぶどう酒をや。
 主の大いなる日はすぐそこへ迫っている。もはや何人と雖も逃れることはできぬ。その日は誰もが悲痛な叫びを喉の奥から搾り出す。苦しめ。盲目の人のように歩め。かれらはわたしに背いた。犯した罪の重さを知れ。かれらの血は塵のように地へ散り、臓物は排泄物の如く撒かれる。
 主の憤りの日に全地は火で舐め尽くされる。恐るべき破滅が降りかかる。
 恥を知らぬ国よ、集まれ。判決が出ぬうちに、来たれ。この地でまとめてお前たちを絶つのだから。
 わたしを信じる人々よ。裁きに耐え、苦しみに耐えた人々よ。わたし主を求めよ。わが恵みの御業を求め、苦しみに耐えることを求めるがよい。終わりの日に、怒りの日に、あなたを守ってくれるだろうから。

 「その日は憤りの日/苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日/闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。/城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい/角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。」(ゼファ1:15-16)

 マルカムはヘブライ語で「かれらの王に」の意味。アンモン人の信奉する神ミルコムを掛けた言葉であり、またミルコムは過去に何度か名の出たモレクであります。イスラエルの神なる主を拝む一方でミルコムを、バアル同様にユダの王が崇めるようになった、というのがこの節のいわんとするところであります。
 引用箇所のみならず「ゼファニヤ書」自体が黙示文学を想起させるものがあります。言葉や表現、描写の激しさということだけでなく、底を流れる思想にそう感じるのです。これまでの預言書も同様だったかもしれませんが、「ゼファニヤ書」を読んでいつもと違う感覚を抱いたことの一因はそのあたりにあるのかもしれませんね。
 また、ゼファ2:1-3は第1章にて預言された破滅をまぬがれるためにも斯くあれかし、と民へ反省を促す箇所であります。

 まだ「創世記」と「出エジプト記」前半など手附かずの箇所はあると雖も、いよいよ旧約聖書の終わりへとわれらは到着しようとしています。予定通りなら今月いっぱいで「マラキ書」を終わらせられるでしょう。
 感慨を記すには勿論早いけれど、本ブログを開始した当初はこんな日が訪れるなんて夢想だにしませんでしたね。読み始めてからもう5年になるのか。この間、いろいろあったなぁ……。



 カフェ・ド・クーリエにて原稿書き;モレスキンにエッセイを書いた。こちらについては「ゼファニヤ書」が終わったあとにお披露目予定。
 会社のまわりにはカフェが多い。土地柄もあろうが、10軒強の店舗が集中している。或る種、僥倖である。
 こうなったら<基地(ベース)>になる店を幾つか確保の上、ローテーションで回遊してゆけば原稿書きも捗るに相違ない――そんな夢想を弄んでいます。◆

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第1368日目 〈「ゼファニヤ書」前夜with黄昏時のカフェのテラス席で。〉 [ゼファニヤ書]

 南王国ユダに預言者が割拠した時代があったとするならば、まさしくそれはエレミヤが生きた時代であったでありましょう。既に読んだなかでもオバデヤがおり、ナホムがおり、ハバククがいた。そうしていま、われらはゼファニヤという<エレミヤ時代>の預言者を、ここで新たに知ることとなりました。
 「ゼファニヤ書」が冒頭で記すように、かれが活動したのは、堕落したユダを<主の坐す国>へ立ち帰らすよう改革を断行したヨシヤ王の時代でした。が、ゼファ3:1-5が端的に語るように、ゼファニヤ活動期のエルサレムは腐敗していた。神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった(ゼファ3:2)王都エルサレム――即ちそれはヨシヤ王が改革に着手する前の時代である、と推測することができる。預言していた当時かれは何歳で、どこに生まれていつまで生きたのかなど知る術はない。が、およそゼファニヤはヨシヤ王による改革の<ビフォー・アフター>を経験した人物であろう、と考えてよいでしょう。
 なお、ヨシヤ王の事績は王下22:1-23:30、代下34をお読みいただければ幸いですが、ここでは神殿の補修工事中に律法の書が発見されてそれを王が民の前で朗読したことと、その治世第18年に過越祭が祝われた、という2点を申し添えておくことと致します。
 本書の成立は捕囚期以後とされることがあるようですが、原「ゼファニヤ書」というべき書物は概ねかれの存命中に成っていた、と考えてよいのではないか。要するに、まず身辺にあった人、或いはゼファニヤ自身が預言を書き留めた一書があった。それはユダ王国末期から補修解放の間に補筆改訂されて、然るべき方針の下に旧約聖書へ編入された。そう見るのが妥当であろう、とわたくしは考えております。
 語られる内容については他のユダで、エルサレムで活動した預言者たちと変わるところはありません。罪が語られ、裁きが告げられ、回復が宣言される。他の預言書とは一線を画すような特徴は、これといってないように読みました。しかしながら、自分でもこうして書きながら、どんな理由ゆえかわからないけれど、わたくしはどうしたものか、この「ゼファニヤ書」が気になって仕方ない。いつもと同じく明日から1日1章ずつ読んでゆきます(「ハバクク書」のときは夏風邪をこじらせかけて、更新を諦めねばならぬ日もあったけれど)が、今回は並行して、なぜ本書に斯くも心惹きつけられるのか、それを探ることにもなりそうです。むろん、自分の内に於いて、というお話しです。



 ベージュ色のビルの壁がオレンジ色に染まってゆく。街路樹の緑の葉が涼やかな風に揺られている。どこか離れた場所から蝉の鳴き声が断続的に聞こえてくる。車がゆっくり走ってゆく一方通行の道路、その両端の歩道を老若男女が行き交う。
 タリーズコーヒーのテラス席で「ゼファニヤ書」の露払い的ノートを済ませ、ぼんやりしながら、なかなかここを立つ踏ん切りが付かぬまま、これを書いている。暮れてゆく街のなかに身を置いて、街路樹の一本一本を眺めて「木の名前が図鑑とか見ずにいえたらいいなぁ」と思い、視界の右から左へ、左から右へ、向こうからこちらへ、こちらから向こうへ、移動して止まることのない恋人たちや夫婦を見ている。
 良いなぁ、と思う。羨ましいなぁ、とも思う。それ以外の感情は生まれない。あるとすればただ一つ、未だ現在進行形の希望だけ。
 ――空はだんだんと青みを失ってゆきつつある。そろそろ立とう。帰ろう、望まぬ家のある場所へ。◆

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