第1493日目 〈「レビ記」前夜-2withさんさんか、行く末について考える。〉 [レビ記]

 だいたい昔から読み継がれてきた書物には一ヶ所ぐらい、壁となる部分があるように思います。壁というのは読書の挫折を促しかねない箇所をいう。
 聖書にまつわるブログなのでそれに即していえば、たとえば新約聖書に於いては「マタイによる福音書」冒頭イエスの系図、旧約聖書続編についていえば馴染みなきゆえの全編、そうして旧約聖書については「歴代誌」上は第9章まで続く諸系図、などでありましょうが、就中「レビ記」は読者の意欲を砕くにじゅうぶんな破壊力を持ったものといえましょう。「レビ記」を以て聖書読書から遠ざかる人は多いようです。実際、キリスト者であっても教会関係者や研究者を除けば「レビ記」を通読している人は少ない様子であります。
 かといって、では「レビ記」を飛ばして構わないか、といえば、答えは断固として<否>であります。たしかに腰を据えて読んだり、神の言葉を一つ一つ噛みしめて味わう、という性質の書物ではない。わたくしは初めて読んだときから本書を、(旧約)聖書に於ける六法、と呼んでいますが、決して間違った呼称でないと思います。法律の専門家でない限り、六法を読み通すなんてことはないでしょうからね、それと同じです。
 「レビ記」は献げ物や祭司の務めなどに関する規定を取り纏めた書物。煩雑といえば煩雑ですけれど、聖書を読んでいると「レビ記」の記述に基づく場面、表現が折りにつけ登場することに気附かされる。いま思い浮かぶこととしては、王下15:5(代上26:20-21)にて南王国ユダの王アザルヤ(ウジヤ)が重い皮膚病に罹ったとき隔離された旨、記されますが、隔離の報告の後ろにはレビ13〈皮膚病〉についての規定があるとわかれば、聖書という(本来なら)日本人には縁薄い古典の読書が愉しくなるのは請け合いです。
 聖書の他の書物と同じような濃度で「レビ記」を読む必要はないでしょう。ざっ、と通読すればじゅうぶんです。が、細々した記述に匙を投げて一書丸々を読み飛ばすようなことはしてはいけません。せっかくの読書に瑕疵を残すのは勿体ない。最後の章、最後の節まで辿り着くことが先決。ブログという手段に助けられたとは雖も、取り敢えず「レビ記」を読み通すことができたわたくしは、そう考え思うのであります。
 <モーセ五書>の第3番目の書物、「レビ記」がいつ、誰によって書かれ/纏められ、いまの世にわれらが読むような形となったのかはわかりません。本書は所謂〈祭司文書〉と〈神聖法典〉の2つのパートで構成されますが、それぞれ成立時期は捕囚期前後とされています。性格の異なる両者が一書のなかに並存している点は、「レビ記」成立の過程に手掛かりを与えている様子ですが、本ブログはそのあたりへ踏みこむのは慎重に避けることと致しましょう。
 〈祭司文書〉と〈神聖法典〉に関しては、岩波版旧約聖書Ⅱ『出エジプト記・レビ記』の「レビ記」解説に詳しいので、興味のある方は是非の一読をお奨めします。
 本ブログでは「出エジプト記」後半と同様、「レビ記」の記事を5年前に公開しております。第0037日目から第0070日目が該当します。いまより更に未熟なものであり、かつ現在とは分量も体裁も格好も違うけれど、明日より一日一章(一記事)ずつ、読者諸兄にはお目通しいただければ幸いであります。



 聴力を失った世界で生き延びる方法を考えておこう。誰かの助けは必要だが、憐れみを施されたり、上辺(うわべ)の同情を押し付けられるのは嫌だな。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0070日目 〈レビ記第27章:献げ物〉 [レビ記]

 今宵のレビ記は第27章、「レビ記」の最終章になります。

 ここでは、「どんなときに━━どんな献げ物を━━(誰に)━━どれだけ献げなくてはならないか」が、モーセを通して民へ念押しされます。

1:終身誓願に相当する代価を、〈満願の献げ物〉としてささげる場合、代価の決め方は、……
 ・60歳超の男子は銀15シュケル、女子は銀10シュケル。
 ・20-60歳の男子は銀50シュケル、女子は銀30シュケル。
 ・05-20歳の男子は銀20シュケル、女子は銀10シュケル。
 ・01-05歳の男子は銀05シュケル、女子は銀03シュケル。
それぞれの“~シュケル”とは、聖所基準で決定されます。
 これらの代価が支払えぬ場合は、そのものの資力に応じて祭司が決定します。

2:家畜をささげる場合、……
 ・ささげた家畜はすべて聖なるものである。
 ・ささげた家畜を、ささげたあとで変えてはならない。
 ・ささげる家畜が汚れた家畜のときは、祭司の評価に委ねられる。
 ・買い戻すときは、相応の代価を支払う。

3:先祖伝来の畑の一部を献げ物としてささげる場合は、……
 ・そこに蒔かれる種の量によって相当額が決められる。
 ・ヨベルの年から奉公する場合は、その相当額で確定される。
 ・ヨベルの年以降から奉公する場合は、「祭司は次のヨベルの年までに残る年数によって値を評価し、それに応じて、確定している畑の相当額から差し引く。」(レビ27:18)

4:購入した畑をささげる場合は、……
 ・「祭司はヨベルの年までの年数によって相当額を評価する。ささげる者はその日決められた相当額をささげ、その畑は主に属する聖なるものとなる。」(レビ27:23)

5:家畜の初子は生まれた瞬間から主のものである。

6:自分の所有物から献げ物を主にささげた場合は、それがなんであれ、永久に神聖なものであり、主のものである。
 「特に、永久に神に奉納された奉納物が人である場合は、その人を買い戻すことはできず、必ず殺さねばならない。」(レビ27:29)

━━など。
「以上は、主がシナイ山において、モーセを通してイスラエルの人々に示された戒めである。」(レビ27:34)

 以上をもって、レビ記のノートを終わります。
  第26章と並んで第27章が、これまでのなかでいちばん大切な部分を抜粋してダメ押しのように伝えていることがおわかり頂けると思います。

 レビ記に続く次の律法の書、「民数記」のノートのスタートは、来週後半からを予定しております。


 オルフの《トリオンフィ》を三部作通して聴きました。すっげーな、この音楽! 好きになりました。オルフをもっと聴いてみたいなぁ━━。
 それにしても、第2部〈カトゥリ・カルミナ〉のプロローグ、時間的には2枚目へちゃんと入れられたと思うのですがね……? この辺はなんとか編集してがんばってほしかったです(コロンビア COCO70996-97)。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0069日目 〈レビ記第26章2/2:祝福と呪い〉 [レビ記]

 レビ記第26章の後半です。

 民が「わたしの掟に従って進み、わたしの戒めを忠実に守るならば」(レビ26:3)、大地に豊かな実りを与え水を与え、国家安康を民に約束する。イスラエルの民が、敵対する者たちに国を滅ぼされ、さまようことはない。
 「わたしはあなたたちを顧み、あなたたちに子を生ませ、その数を増し、あなたたちとわたしの契約を立てる。」(26:9)
 「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしはあなたたちが奴隷とされていたエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの軛(くびき)を打ち砕き、あなたたちがまっすぐに立てるようにした。」(レビ26:12-13)

 しかし、もしイスラエルの民が「わたしの掟を捨て、わたしの法を捨て、何一つわたしの戒めに従わず、わたしの契約を破るならば」(レビ26:15-16)、病を流行らせ、敵に攻めのぼらせて占領させ、憎む者に踏みにじられるようになり、また、大地と天の恵みから見放され、家畜も人も滅びてゆくようになる。
 それでもまだ民が懲りない場合は、「わたしは激しい怒りをもって立ち向かい、あなたたちの罪に七倍の懲らしめを加える。」(レビ26:28)その結果、街は廃墟となり、至高の場所である聖所は荒らされ、もはやそこで焚かれる宥めの香りさえ効力を発揮しない。
 斯くして、かつて主の民であったイスラエル人は、国を追われてさまよい人となる。

 民が追われて遠近をさまよっている間は、大地の安息の時である。
 もし、民がわびるなら、わたし、主は昔彼らの先祖と交わした約束を思い出して、再び彼らを我が民として迎え入れよう。

 以上、主がシナイ山にてモーセに伝え、モーセの口から民に伝えられ定められた、掟と法と律法である。

 第26章後半こそ、創世記から出エジプト記、レビ記に至るこれまでの総決算的意味合いの強い部分であり、すべてはここに向かって進んでいたのだ、と深く感じました。


 人は誰しも心を入れ替えてゆけるし、悔い改めることだってできるんだ。
 なんで誰もそれをわかろうとしてくれないのだろう。
 そこまで人の罪の業は深くて、赦されること稀なのでしょうか━━?

 鈴木秀美=オーケストラ・リベラ・クラシカのハイドンとモーツァルトを、初めて聴きました。ハイドンはともかく、このモーツァルト(《セレナータ・ノットゥルナ》)は、ちょっとやり過ぎでは……でも、面白い。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0068日目 〈レビ記第26章1/2:偶像を拝んではならない〉 [レビ記]

 レビ記第26章です。
 小見出しは〈偶像を拝んではならない〉と〈祝福と災い〉の2つ。迷った末、2日にかけてノートを載せます。
 ご了承ください(いまさらなにを言うか、って感じ……?)

 では、レビ記第26章第1-2節、〈偶像を拝んではならない〉です。

 ・わたし(神であり主)に見立てた偶像を造り、拝んではならない。
 ・聖所を敬い、安息日を守るよう心がけなさい。

 殊ここにいたって、なお偶像崇拝を禁じる。これは最後のダメ押しでしょうか。それとも、民を信じ切らぬ主の葛藤でしょうか。
 いずれにせよ、エジプトから解放したイスラエルの民が、わたしに背反してはならない、という意識が働いているのに間違いありません。
 これは、出エジプト記第32章、レビ記第10章の遠いエコーである、と考えてよいと思います。


 アルバン・ベルクのエッセイを書こうと思い立ち、はや1年が経過。焦る心を抑え、原点に立ち戻ってDGの『アルバン・ベルク全集』を聴いています。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0067日目 〈レビ記第25章:安息の年とヨベルの年 3/3〉 [レビ記]

 レビ記第25章の最終回、3回目です。

 同胞(イスラエルの民)が貧しくなったときには、どう対処すべきか、が語られます。

 同胞、即ちイスラエルの人々が貧しくなったときは、……
 互いに助け合い、一切の見返りを求めず、無私の心で相手に手を差し伸べるようにせよ。 「あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。」(レビ25:36)

 貧しさゆえに身売りした同胞を奴隷のように扱ってはならない。寄留者か雇い人として遇しなさい。
「あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。」(レビ25:43)
 但し、同胞でない奴隷はその家族をも、子々孫々まであなたの家の物である。

 雇い主やその家族が貧しくなり、寄留者へ身売りしなくてはならなくなったとする。そうした場合でも、自分のかつての立場や、自分自身を買い戻す権利を有する。
 契約が途中で解除されたときは、残りの期間に応じて日割り計算をし、それを<買い戻し金>として支払う。

「イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ25:55)
 この言葉は、第25章の通奏低音を成すといえましょう。……。

 どうにもこの箇所は、うまく読みこみができているとは思えません。後日読み直して、ノートを書き改めます。約束。


 まだCSで『ゴジラ』シリーズを観ています。同じ作品でも、何度観ても良いんだなぁ、これが。で、ストラヴィンスキーも折節聴いています。
 両者をつなぐキー・ワードは、「伊福部昭」。
 《SF交響ファンタジー》第1番と《春の祭典》の間に、いかなる溝も存在しません。魂を揺るがす原始の声を、とくと聴けっ! ……というところでしょうか。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0066日目 〈レビ記第25章:安息の年とヨベルの年 2/3〉 [レビ記]

 昨日の続き、レビ記第25章の中盤です。
 ここでは土地の売買について語られます。

 いかなる理由であっても、土地を売った人にはその土地を買い戻す権利がある。
 この大前提を念頭に置いて読んでいただきたく思います。

 1、貧しさから土地を売った場合:
 親類による土地の買い戻しや、売り主が富を得て土地を買い戻す。これを認める。
 また、買い戻しの手段がなくても、ヨベルの年になれば売った土地は返却される。
 
 2、城壁に囲まれた街中にある家屋を売った場合:
 基本的に1と同様の扱いとなる。が、ヨベルの年になっても買い戻されていないと、その土地は永劫に買い手とその子孫のものである。
 但し、城壁に囲まれていない場所に建つ家屋は畑地と判断される。従って、売り手には買い戻す権利があり、買い手にはヨベルの年に手放す義務が生じる。

 3、売買契約がレビ人同士で結ばれている場合:
 レビ人は街中に建つ家屋を、いつでも買い戻す権利を持つ。
 レビ人Aがレビ人Bに売った家屋を買い戻したときは、レビ人Bは速やかにその家屋を立ち去るべし。
 また、街の領域内にある牧草地は売買禁止である。「彼らの永久の所有物」(レビ25:34)だからである。

 いつの世も土地の所有権や売買については煩雑で、トラブルがつきもの。すでに聖書の時代も同じだったようです。
 表面に出てこないところで様々なトラブルが発生していた。それに悩まされる人が後を絶たなかった。
 だからこんな記録が、聖書に特記して留められた? そんな邪推をしています。
 それにしても土地について書くのは、仕事であれ読書ノートであれ、難しいです。……。


 心から想い続ける、というのは、相手を気重にさせ、却って相手に疎まれる原因なのか。考えるたび、頭から消えない苦痛と息苦しさ。でも、かすかな、悠久の希望も抱きたいよ。ふぅ。
 「アンティフォナ《天使が汝を天国に》および詩篇」(ハイリゲンクロイツ修道会シトー会修道士 ユニバーサル・ミュージック UCCS1126)を聴いています。静謐なる気品。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0065日目 〈レビ記第25章:安息の年とヨベルの年 1/3〉 [レビ記]

 レビ記第25章になります。

 ここはちょっと長いのですが、ちょうど3つのパーツに分けることが可能です。だいたい、以下のような感じでしょうか。
 25:01-22 ヨベルの年と土地の返却
 25:23-34 土地の売買について
 25:35-55 同胞が貧しくなったとき
 以上にかこつけてこれ幸いと、ノートも3日に分けて掲載しきます。

 カナンへ入植して50年目はヨベルの年。それは聖なる年ゆえに土地を耕し種をまき、穀物を収穫するなどしてはならない。ヨベルの年、畑は休閑地としなさい。

 カナンへ入植して6年間は土地を耕し種をまき、穀物を収穫して大地の恵みを受けなさい。しかし、7年目は安息年として、土地を休ませよ。その年は畑に育ち、実ったものを収穫してはならぬ。
 その代わり、6年目の収穫は常にも増して多く、おおよそ3年分の豊作を約束しよう。これは安息年に大地の恵みを受けられぬ民が備蓄し、その年、ひいてはその翌る年(8年目)まで食いつなぐことができるようにである。

 安息の年を7回経験した年、即ち7年×7回=49年目の第7の月の10日を贖罪日にあてる。雄羊の角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、これを即ち<ヨベルの年>と称す。
 ヨベルの年に民は各々の所有地へ帰り、また、各々の所有地を返却(返還)される。この際、土地の売買には互いが損をしないよう計らえ。
「あなたたちはわたしの掟を行い、わたしの法を忠実に守りなさい。そうすればこの国で平穏に暮らすことができる。土地は実りを生じ、あなたたちは十分に食べ、平穏に暮らすことができる。」(レビ25:18-19)

 7×7=49というのは、ヨーロッパの古典作品、近代の小説を読んでいると、時折出てきます。
 すぐ思いつくのは、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』ですが、そのルーツはここ、レビ記第25章にあるのかもしれません。今度『嵐が丘』について書く機会があれば、ちょっと調べてみましょう。そのときは、結果をご報告します。

厳めしい記述が続いたレビ記でしたが、ここ第25章に至ってようやく、ほの明るいムードが漂ってきて、一息つけた心地がしました。
 そのレビ記も、幕切れに向かっています。


 アルミング=新日本フィル他のベートーヴェンの《第九》、自分にはどうも頂けません。管弦楽がなんともはや暴力的。ブラヴォーの声にはまったく同調できない……。嗚呼!◆

共通テーマ:日記・雑感

第0064日目 〈レビ記第24章:常夜灯・十二個のパン・神の御名を冒瀆する者〉 [レビ記]

 レビ記第24章であります。
 小見出しが3つある関係で、ノートも少し長くなりますが、おつきあいください。

〈常夜灯〉(レビ24:1-4)
 出エジプト記第27章第20-21節に、常夜灯を作りなさいね、という主の指示があったのを、覚えていらっしゃいますか?
 ・純粋の油を灯火にした常夜灯を、決して絶やすことなく焚き続けなさい。
 ・常夜灯は純金の燭台の上に灯火皿を置き、その上で焚きなさい。
 ・常夜灯を焚く場所は、臨在の幕屋の垂れ幕の前。時間は夕暮れから朝方までである。

〈十二個のパン〉(レビ24:5-9)
 ・輪型のパンを、2/10エファの上等の小麦粉を使った焼きなさい。
 ・それは、純金の机の上に並べて主の御前にささげるように。
 ・安息日ごとに、民は十二個のパンを主の御前に供えよ。これは永遠の契約である。
 ・パンは、アロンとその子らのものであり、神聖なものである。それ故に聖域の外で食べてはならない。

〈神の御名を冒瀆する者〉(レビ24:10-23)
 ・神を冒瀆する者は、即ち罪を負う者である。
 ・神を冒瀆した者は、共同体の民全員によって石で打ち殺される。
 ・人を打ち殺した者は死刑となり、家畜を打ち殺した者は償いをしなくてはならない。
 「命には命を持って償う。(中略)骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたのと同じ障害を受けねばならない。」(レビ24:18,20)
 ・神(の御名)を冒瀆する者は、民によって石で打ち殺される。それは、24:10-12,23にて、例証が掲げられている。即ち、……
 エジプト人の父とイスラエル人の母の間に生まれた男と、純血(生粋)のイスラエル人が争って、混血の方が神の御名を口にし、汚く罵った。民の間に戦慄が走り、モーセが主に意向を訊ねた。それが、この部分であります。拠って民は主の意志に従い、混血の者を石で打ち殺した。

 これまでにも、主の言葉に疑問や恐怖、残酷を感じたことはありました。が、24:10-23で一つの頂点を築いたように思います。
 「目には目を」云々とは有名な文言ですが、出典はここ。ですが、もっと恐ろしいのはそのあと、集団殺人を是認していることであります。
 主は、自らの力を示すことなく、冒瀆者を民の手で殺せ、といいます。民のなかから神の背く者が現れたのだから、自分たちの手で引導を渡せ、ということです。
 しかし、なぜここで主は自らの力で、(かつてナダブとアビブにそうしたように)冒瀆者を滅ぼさないのでしょう。何だ彼だといいつつも、主は人の罪死と流血を望んでいるように受け取れてしまうのです。……。


 月日の流れるのは早いもの。2008年があと3週間弱で終わることに、未だ実感が湧かぬ日々を過ごしております。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0063日目 〈レビ記第23章:主の祝祭日〉 [レビ記]

 レビ記第23章です。
 この章で主は、“主の祝日”はいつか、なにをするのか(してはいけないのか)、献げ物はなにか、について、モーセに語られます。


・6日間働いて、7日目は休む(<安息日>)。

・第1の月の14日の夕暮れは<主の過越(すぎこし)>、15日は<主の除酵祭(じょこうさい)>である。
  初日に聖なる集会を開き、7日目に再び聖なる集会を開く。その間は燃やす献げ物を続ける。

  ※初穂の献げ物は祭司に渡し、祭司はそれを安息日の翌日に主へ献げる。
  ※この日から50日目の日に、新穀の献げ物がささげられる。

・第7の月の10日は<安息日>である。
  聖なる集会を開き、燃やして主に献げる献げ物を続ける。

・第7の月の15日は<贖罪日>である。
  民はこの日、苦行を行う。そうして、聖なる集会を開き、燃やして主に献げる献げ物を続ける。
  「この日はいかなる仕事もしてはならない。この日は贖罪日であり、あなたたちの神、主の御前
  においてあなたたちのために罪の償いの儀式を行う日である。この日に苦行しない者は皆、民の
  なかから断たれる。また、この日に仕事をする者は誰であれ、わたしはそのものを民のなかから
  滅ぼす。」(レビ23:28-30)

・第7の月の15日から7日間は<主のための仮庵祭(かりいおさい)>である。8日目に聖なる集会を開け。
  「あなたたちは7日の間、仮庵に住まねばならない。」(レビ23:42)

 以前にも、過越祭と除酵祭、仮庵祭が出てきたことを覚えていらっしゃいますか?
 すべてイスラエルの民のエジプト脱出にちなむお祭りで、こんな由来があります。
 1:過越祭 → エジプト人の長子と家畜の長子を滅ぼした神の使いが、イスラエル人の家は通り過ぎた(過ぎ越した)ことに由来(出12:23-27,43-49)。
 2:除酵祭 → 過越祭に続いて7日間行われる祭り。エジプト脱出を記念して、酵母を入れないパンを食べたことに由来(出12:14-20,13:3-9)。
 3:仮庵祭 → エジプト人たちの許から脱出した際、彼らが仮庵に住まったことに由来。


 仲道郁代のベートーヴェンをいまさらながら鑑賞中。そうか、楽聖のピアノ・ソナタはここまで透明度の高い曲だったのか……。
 それはそうと、『のだめカンタービレ』(上野樹里&玉木宏の方ね)映画化ですって。邦画史上初の、2作連続上映だそうで。楽しみです。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0062日目 〈レビ記第22章:聖なる献げ物について〉 [レビ記]

 レビ記第22章になります。予定通りなら、あと5日で読み終わるのですが……?


 この章では、祭司が受け取る献げ物について、主はモーセに斯くいいました。

 ・汚れたまま献げ物に近づく者は、民から永遠に断たれる。
 ・汚れある者は身が清くなるまで、聖なる献げ物を食すことはできない。
 ・一般の人は何人と雖も、献げ物を口にすることはできない。但し、奴隷は祭司の食物を食べられる。
 ・「祭司はイスラエルの人々が主に献げる聖なる献げ物を汚したり、それを人に食べさせて、彼らに賠償の責めを負わせてはならない。わたしは彼らを聖別する主だからである。」(レビ22:15-16)
 ・献げ物とする動物は必ず、無傷であり、かつ身体の完全なそれでなくてはならない。
 ・献げ物となる牛、羊、山羊は7日間は母親の許に置き、8日目以降に献げ物として認められる。それを屠る日は、親を屠るのと同じ日であってはならない。

「あなたたちはわたしの戒めを忠実に守りなさい。(中略)
 あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。(中略)
 わたしはあなたたちの神となるために、エジプトの国からあなたたちを導き出した者である。」(レビ21:31-33)


 先日、部屋を片附け中にチャイコフスキーの《組曲第1番、第2番》のCDを発掘しました(シュテファン・ザンデルリンク=アイルランド交響楽団 NAXOS 8.550644)。
 これを書きながら聴いていますが、やっぱりチャーミングでリリカルなチャイコ節は健在です。うん、この曲、好きだ~。もっともっとチャイコフスキー、という方は是非!!! ◆

共通テーマ:日記・雑感

第0061日目 〈レビ記第21章:祭司の汚れ〉 [レビ記]

 レビ記もだいぶ先が見えてまいりました。今宵は第21章であります。

 祭司の汚れについて、主はモーセに次のようにいいました。
 ・親族の遺体に触れて自らを汚すことのないように。但し、両親・子供、兄弟など近親者は別である。
[レビ21:11では、父母の遺体に近づいて身を汚してはならない旨、記述があります。矛盾していますよね?]
 ・男を知らぬ清らかなる処女とのみ結婚して、健常なる子孫を残せ。未亡人や離縁された女、不浄の女と交渉を持ってはならない。
 ・燃やしてささげる献げ物の務めをしてよいのは、即ち健常の子供である。そうでない者は、燃やしてささげる献げ物の務めをしてはいけない。とはいえ、献げられた食物は、これを食してもよい。
 ・自らの娘が遊女に身を落とし、不浄の者となった際は、祭司はこれを焼き殺さなくてはならない。父を汚す者であるが故に。
 ・一族に汚れた子孫を残してはならない。「わたしは彼を聖別した主であるからである。」(レビ21:15)

 ずいぶんとむごい言葉が並びます。親となった経験があろうとなかろうと、ここに目を背けたくなる人は多いのではないでしょうか。
 それだけの犠牲を払って、主は民にいったいなにを求めるのか? 救いがもたらされようがされまいが、こうまできつい言葉を並べられると、……どうにもやってられません。


 遂に『LOST season4』(AXN)が終わりました。帰還した“オーシャニック6”はどのようにして島へ帰るのか? 島はどこへ消えたのか? 島に残った仲間と“他の者たち”はどうなったのか? その他諸々の疑問が頭から離れません。
 年末には一挙放送があるので、そちらを改めて観直して、これまでのことを整理し、来るseason5の予想を仲間としてみようと思います。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0060日目 〈レビ記第20章:死刑に関する規定〉 [レビ記]

 レビ記の第20章になります。
 出エジプト記と前章を承けて、死刑に処せられるのはどんな場合なのか、が語られます。

 死刑となるのはいかなる者(場合)か。それを主がモーセにいうには、……
 ・異教の神(モレク神)に献げ物をささげ、淫行を行う者、
 ・直接の血縁の有無にかかわらず、近親者を犯し、辱めた者、
であります。

 第19章で「してはならない」と定められたことの大半が、そのまま死刑に結びつくことが、おわかり頂けると思います。
それだけ主の言葉は拘束力が強く、かつ強力である、ということでしょう。
 それを端的に示すのが、「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる」(レビ20:27)という言葉であります。

 総説に等しい箇所(レビ20:22-26)では、再び、掟と法を忠実に守りなさい、と求め、「乳と密の流れる土地」(レビ20:24)カナンへ入る際は、人間か動物かを問わず、聖なる者と汚れた者に聖別しなさい、といいます。

「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」(レビ20:26)

 折しも死刑の存続が是非され、裁判員制度が具体的にわれわれの前に現れました。いろいろ考えながら、この章を読んだことを、付け加えておきます。


 門光子の『アクロス・ザ・ユニバース』という、20世紀のピアノ音楽を集めたCDを聴いています。サティの《ジムノベディ第1番》とグラナドスの《嘆き、または美女とうぐいす》がよかったです。
 また、本日放送の『ポストマン』を観て、ホセ・M・カレヨというキューバ人作曲家(?)に興味が出ました。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0059日目 〈レビ記第19章:聖なる者となれ〉 [レビ記]

 レビ記第19章では、かつて読んできた事柄を想起させるような記述が続出します。
 かいつまんでいえば、十戒(出20:2-17)と契約の書(出20:22-23:33)で主がモーセに言った諸々の忠告、掟が、ここで再び繰り返されるのです。

 自分を育んでくれる人らを変わらず敬い、愛し、正直でいなさい。
 邪な心を持たず、常に神、主をのみ信じてその愛を裏切るな。
 「わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。」(レビ19:37)

 さんさんかが特に、心へ深く残ったのは、こんな文言であります。
 「父と母を敬いなさい。」(レビ19:3)
 「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。」(レビ19:14)
 「心のなかで兄弟を憎んではならない。」(レビ19:17)
 「死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない。」(レビ19:28)
などなど……。


 CSの日本映画専門チャンネルにて昨日から24時間、<平成/ミレニアム・ゴジラ・シリーズ>を放送中。録り溜めているドラマを放って、かぶりつきです。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0058日目 〈レビ記第18章:いとうべき性関係〉 [レビ記]

 レビ記第18章では、唾棄すべき性関係について述べられます。

 カナンの地に到着しても、かつてのエジプトでの風習や入植地カナンの風習に従ってはなりません。
 「私はあなたたちの神、主である。私の掟と法を守りなさい。」(レビ18:4-5)

 郷に入っては郷に従え、ということわざが我が国にはあります。同様のことわざは世界各地にあると仄聞します。
 主はここで、それを完全否定します。最初に読んだときは、<“俺が正義であり、法律だ”ということ?>と疑問でなりませんでした。日本人的発想でいえば、<図々しい>というか<何様?>とも思えたのです。
 先を読みつつしばらく考えていました。━━で、<そうか>、と考え至ったのです。

 本来ならばよそへ行っても周囲と協調しながら、自分たちの生活習慣や風習は大切に守りなさい、というところなのでしょう。後にイスラエルの民がカナンの地へ侵入することを考えると、<主の民であるが故に侵略と先住民の風習の駆逐は正義である>と受け取れます(どこぞの“超大国”のように)。
 しかし、ずっと読み進んでゆき、ちょっとずつわかってきました。
 カナンの地では、一夫多妻制が専らで、いわゆる乱交も多々行われていた由。
 カナンの風習に染まってはならない、とは、すなわち、それらから自らの民を遠ざけんがための主の配慮。

 そして、以上の配慮(もしくは忠告)を媒介として、いよいよ〈いとうべき性関係〉が述べられるのでした。

 主のいう〈いとうべき性関係〉。
 それを大雑把にまとめれば、……
 ・近親姦(血のつながりのあるなしにかかわらず)
 ・同性愛
 ・獣姦
となります。これら3点(近親姦、同性愛、獣姦)を禁じて更に、一夫一婦制を守りなさい、と主はいいます。これは今日においても変わることなきことであります。

 続けて、あたかも総説のように、主はいいます。
 カナンは汚れた土地である。というのも、カナン人は、タブーとする上記3点に耽っている民だからだ、と。
 主(神)はそんな悪しき風習のある場所から、堕落させないように、(自らのものである)イスラエルの民を切り離したのである、とも。

 となると、イスラエルの民にカナンの地を目指すよう導くのは、彼の地からカナン人を駆逐するのが目的なのでしょうか……?

 おまけに、総説にあたる箇所は、すでに民が定住していることを前提とした挿話であります。このあたりは、以前にも申し上げたことですが、記述が混乱しております。従って他の箇所以上に、注意深く読む必要がありそうです。


 帰宅しては、ストラヴィンスキーとシェーンベルク漬けの日々。『CSI:マイアミ』と『ブラザーズ&シスターズ』が2回分ずつ溜まっているなぁ……。

 なお、明日は安息日とさせていただきます。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0057日目 〈レビ記第17章2/2:血を飲むな〉 [レビ記]

 昨日の続き、レビ記第17章の後半であります。
 前半とは〈血〉をキー・ワードにして結ばれ、主が戒めを告げます。

 動物の肉を食べるとき、血を一緒に食べたりしてはならない。
 なぜか? 「命は血の中にある」(レビ17:11)からである。
 血を食べる者は(動物の)命を食べるのに等しい。それは(私=主の)民のすべきことではない。

 ではなぜ、主は人や動物に血を与えたのか。ちょっと恐ろしい理由なのですが、……
 それは、「祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。」(レビ17:11)由。
 ここまではっきりいわれると、怖さと共に、ああそうですか、という気持ちになってしまうことであります。

 主は繰り返す、
 「いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。」(レビ17:14)
 そういえば、「血は命の水だから」というクロフォードでしたか、の短編がありましたな。

 また、死んだ動物、殺された動物を食べた者は、誰であれ、どこの者であれ、衣服を洗い身を清めよ。
 それをしない者は罪責を負う。

 主はどうやら血と罪がお好きのようであります……。いや、別に好んでそうしているわけではありますまいが。


 シェーンベルクの《ソプラノとオーケストラのための6つの歌》op.8、ようやく満足のゆく演奏に遇いました。NAXOSからリリース中の『ロバート・クラフト・エディション』第7集に収められるものが、その演奏。
歌手はジェニファー・ウェルチ・バビッジ(S)、オーケストラは名門フィルハーモニア管弦楽団で2000年の録音(8.557525)。
 これは、いつか書評サイトで紹介したいです。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0056日目 〈レビ記第17章1/2:献げ物を献げる場所〉 [レビ記]

 レビ記も最後のコーナーを回ろうかという今宵、第17章に突入いたします。
 ここから最後の第24章までは、[神聖法集]と別記されております。

 第17章は小見出しの関係で、2日に分けてノートを載せます。
 今日の箇所(17:1-9)では、献げ物をささげる場所について、規定されます。

 イスラエルの民が献げ物を屠る。その場所がどこであれ、主への献げ物としなければ、屠った者は流血の罪を犯したことになり、他の民からは断たれる(村八分にされる)。
 即ち、屠った牛、羊、山羊は臨在の幕屋の入り口まで持ってきて献げ物としなくてはならない、ということでありましょう。

 また、献げ物を臨在の幕屋へ持ってこなかった者も、同じように他の民からは断たれるのです。

 「彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度とその献げ物をささげてはならない。これは彼らが代々にわたって守るべき不変の定めである。」(レビ17:7)
 ……民が、異教の神へささげ者をしたことが以前にあったことをしさしていますが、こんな記述がかつて聖書にありましたでしょうか? 否、なかった、と記憶します。
 たしかに、かつて出エジプト記第32章に、民が偶像を作って崇めていたことがありました(それがレビ族が祭司職に就く原因ともなりました)。それとなんらかの関連があるのでしょうか。……。
 突飛で恐縮ですが、筆者はここを読んでノートを取っているとき、思わずギリシア神話や伝承に登場する、アーサー・マッケンの小説にもなった牧神(パン)を想起しました━━。

 レビ記の記述も厳しさを増してきました。
 これまで儀式の次第について割かれてきた主の言葉も、微妙な変化を見せているように思えます。嵐に立ち向かうのに似た雰囲気を醸しつつ、人の内面を質(ただ)してゆくものへと……。


 AXNで連続放送中の『CSI』シリーズ。個人的には『CSI:マイアミ』がいちばん好きです。ホレイショ・ケイン(デヴィッド・カルーソ)、カッコイイっすよね。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0055日目 〈レビ記第16章:贖罪日〉 [レビ記]

 では、レビ記第16章に入りましょう。

 かつて第10章にて、アロンのこの一人であるナダブとアビブによる主への背反について触れられた箇所がありました。本章はそれを承けた話になります。

 その事件を承けて主のモーセに曰く、決められたとき(祭礼や各種儀式のことでしょう)以外に、臨在の幕屋、垂れ幕の奥の至聖所に入って契約の箱の上にある贖いの座に近づかないようにせよ。汝らが無意味な死を招いたりしないようにである。
 「私は贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである。」(レビ16:2)
 [この種の言葉は第16章第13節と呼応します]

 アロンが至聖所に入るときは、次のようにしなくてはならない。
 贖罪の献げ物として若い雄牛1頭、焼き尽くす献げ物として雄羊1頭を用意し、出エジプト記第39章第27-31節で指図された衣服を纏う。
 イスラエルの民から贖罪の献げ物として雄山羊2匹、焼き尽くす献げ物として雄羊1匹を(アロンは)受け取る。

 アロンは自身による贖罪の献げ物をささげ、自分とその一族のために贖いの儀式を行う。
 民からの贖罪の献げ物、即ち雄山羊2匹のうち、1匹を主のもの、1匹をアザゼルのものとし、後者は荒れ野に放つ。
アロンは、自身の献げ物である雄牛を屠る。主の御前の祭壇で香を火にくべ、「香の煙を雲の如く漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。」(レビ16:13)
 屠った雄羊の血を贖いの座の東面に振りまき、血の一部を贖いの座の前面に7度振りまく。
 これが、アロン自身による贖罪の儀式となります。

 民からの贖罪の献げ物である雄山羊を屠り、その血で贖いの座の周囲を清める。こうしてイスラエルの民の汚れと背きの故の贖いの儀式が執行された。

 臨在の幕屋、垂れ幕の奥の至聖所にてアロンは、以上の献げ物とその血を用いて自分とその一族(レビ族とイスラエルの民)のための贖罪の儀式(贖いの儀式)を執行する。その間、臨在の幕屋にはアロン以外の者がいてはならない。

 またその際、至聖所と臨在の幕屋、祭壇にも血を振りまいて贖いの儀式を済ませる。
 それを終えたらばアロンは祭服を脱いで身を清めてから、自分の民から受け取った焼き尽くす献げ物を用いて、焼き尽くす献げ物の贖いの儀式を執り行う。
 アザゼルのために野に放たれた雄山羊を引いていった者も、衣服を洗い身を清めたら、自分の天幕に帰宅できる。

 第7の月の10日には、民は苦行をしなくてはならない。
 「この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。」(レビ16:30)
 これは、もっとも厳かな安息日である、と主は規定します。その日に民は苦行をする。これが不変の定めである、と。

 年に一度、正規の祭司職に任じられた者が、祭司たちと全会衆のために贖いの儀式を行う。これは、不変の定めである。

 主は口を酸っぱくして、何度も、噛んで含めるように、必ず守れ、と通告します。
 正直なところ、主よあんたはしつこいよ、と思ってしまうこと度々だったのですが、……逆に言えば、そこまで人間は堕して救い難き存在になった、ということなのかもしれません。
 なるほど。


 用事で東京国際フォーラムへ出掛けたところ、来年のラ・フォル・ジュルネのチラシを発見。
 そうか、あれから7ヶ月も経つのか。もう一度だけ、あの女性(ひと)に逢いたいなぁ……。
 (ただいま脳内にてSMAPの「オレンジ」、エンドレスで再生中っす)◆

共通テーマ:日記・雑感

第0054日目 〈レビ記第15章:男女の漏出による汚れと清め〉 [レビ記]

 レビ記第15章に入りましょう。

 男女に“漏出”があった場合、どのような手順を踏んで清められるのか。それを述べた章です。

 ・炎症による尿道の漏出があった際は、まず7日間の期間を置く。そうして8日目に、清めの儀式を執り行います。

 ・性の漏出があった場合は、まず身体と衣服を清めます。枕をあわせた際は、男女共に同じように清めなくてはなりません。

 ・女性が、生理か否かにかかわらず出血した場合、7日間の清めの期間を経て、8日目に清めの儀式を執り行うようにしなくてはならない由。

 「あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないようにし、あなたたちの中にあるわたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい。」(レビ15:31)

 この章は短いながら記述がややぶっきらぼうであります。「臭いものに蓋をする」的な発想が垣間見えるのは、気のせいでしょうか……?


 昼過ぎから夕方まで部屋の片付けを敢行。未だ残る書籍雑誌の処分に頭を悩ませております。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0053日目 〈レビ記第14章:家屋に生じるかび〉 [レビ記]

 昨日のレビ記第14章には、実をいうと、まだ続きがあります。
 今宵は続きの部分、〈家屋に生じたかび〉についてのノートであります。

 これは、彼らイスラエルの民がカナンに侵入してからの訓戒になります。

 家屋にかびが生じていたら、と主はいいました。
 7日間そこの隔離して、かびが広がるかどうか見極めなさい。もし広がらなかったら、そのまま住まって宜しい。
 しかし、かびの範囲が広がるようであれば、清めなくてはならない。
 そのために、かびが生じている壁の漆喰を削り、壁の石を取り除き、修繕する。
 それでもかびが生じて広がるようなら、そこは汚れている。家屋を打ち壊し、新しく建て直すようにしなさい。旧屋の部材はすべて処分すること。

 家屋の汚れを清めるために、祭司による儀式が行われます。
 それは実を申せば昨夜のノートにあった、皮膚病にかかった人の清めの儀式と呼応するところ大であります。長文になるので引用は省きますが、第14章49-53節が該当します。

 かびが生えたら家屋の清めの儀式を行いなさい、というのが主の、民がカナンへ侵入した後のために授ける教えであります。


 昼間に、退職の手続きを終えました。心の重苦しさが失意に繋がり、あとに思いを引きずる羽目になりました。せっかく希望に燃えて入った会社で、これから、というときだったのに……。わが耳の不幸を呪いたい気分です。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0052日目 〈レビ記第14章:清めの儀式〉 [レビ記]

 レビ記第13章では、皮膚病にかかった人か否か、祭司がどのように選別すればよいか、を述べていました。
 今日の第14章では皮膚病の患者を清める儀式の次第について、語られます。

 清めの儀式に必要とされるものは、
 ・生きている清い鳥2羽、
 ・杉の枝、
 ・緋糸、
 ・ヒソプ(Ezob,植物名)、
以上であります。

 清めの儀式が執行されるまでに、以下のことがされなくてはなりません。
 1:新鮮な水を満たした土器の上で、清い鳥1羽を殺す。
 2:1で殺された鳥の血を湛えた水に、杉の枝、緋糸、ヒソプ、もう1羽の鳥を浸す。
 3:2で浸したものを7度、清めの儀式を承ける者に振りかける。
 4:生きている方の鳥を野に放つ。
 5:清めの儀式を承けた者は衣服を水洗いし、体毛をすべて剃る。然る後に、自分の天幕に帰宅してよい。但し、7日目間は外にいなくてはならない。天幕の中に入ってはならない。

 8日目に清めの儀式が執り行われます。
 立ち会う者は、祭司と清めの儀式を承ける者、場所は臨在の幕屋であります。

 清めの儀式を承けるためには、次のものが用意されなくてはならない、とのこと。
 ・無傷の雄羊2匹、
 ・無傷の雌羊1匹、
 ・オリーブ油を混ぜた3/10エファの小麦粉、
 ・1ログのオリーブ油、
以上であります。

 賠償の献げ物として雄羊1匹、オリーブ油をささげて贖いの儀式が行われます。
 また、そのほかの献げ物についてですが、贖罪の献げ物は第14章第19節にて、焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物は第14章第20節にて、それぞれ触れられております。
 これらの贖いの儀式が済んで、件の者は清められる、といいます。

 清めの儀式に用いる献げ物が、貧しくて用意できないときは、と主はいいます。
 ・賠償の献げ物として、雄羊1匹を、
 ・穀物の献げ物として、オリーブ油を混ぜた上等の小麦粉1/10エファ、1ログのオリーブ油を、
 ・焼き尽くす献げ物、賠償の献げ物として、それぞれ1羽の山鳩か家鳩を、
用意しなさい、と規定されております。
 同じように8日目に清めの儀式が行われて、件の者は清められる、ということです。


 聴力を一時的ながら失った。故、せっかく得た仕事を辞めるよりなくなりました。
 口惜しいです。もう斯くなる上は、堕ちるところまで堕ちるしかないのかな…… !! ◆

共通テーマ:日記・雑感

第0051日目 〈レビ記第13章:皮膚病〉 [レビ記]

 レビ記第13章は皮膚病についての章です。
 新改訳聖書ではかつて、<らい病>と記されていました。
 ここは、第一のクライマックスといえると思います。

 次の第14章(〈清めの儀式〉)と共に、皮膚病を患った人か否かの選別(レビ13:2-44)、患っている人なら(祭司は)どう対処しなくてはならないか、について語られます(レビ13:45-46)。
 加えて、ここでは衣服や織り糸、革製品にカビが生じた場合の対処法についても触れられます(レビ13:47-58)。

 皮膚病に関して。
 ・皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて皮膚病の疑いがある場合、
 ・重い皮膚病にかかった疑いのある場合、
 ・炎症が治ったにかかわらずふたたび炎症ができ、白い湿疹か、あるいは赤みがかった白の疱疹ができた場合、
 ・皮膚にヤケドをしてただれ、赤みがかった白か、白の疱疹ができた場合、
 ・頭か顎に皮膚病の症状が現れたとき、
 ・皮膚に白い疱疹ができた場合、
 被疑者は7日間隔離される。8日目に祭司が診て清いか否か(本当に皮膚病にかかっているか否か)を判断する。

 実際に皮膚病にかかっていた場合の清めの儀式については、次の第14章に引き継がれます。


 職業著述家でない身には、ブログ、SNS、小説、CDレヴューを並行して書くのは、或る意味で至難の業。でも、その配分を、限られた時間をやりくりしながら行ってゆくのも、また楽しいものであります。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0050日目 〈レビ記第12章:出産についての規定〉 [レビ記]

 今宵はレビ記第12章です。

 ここでは母となりし者の清めの期間と、清めの儀式について語られます。

 女性が妊娠し、出産します。生まれたのが、男児ならば、……
 ・月経と同じ日数、すなわち7日間汚れていることになる。8日目に割礼の儀式を施す。・産婦は33日間在宅して、出血の汚れが清まるのを待たねばならない。

 彼女の腹から生まれたのが、女児ならば、……
 ・月経に準じた日数、すなわち14日間汚れていることになる。
 ・出血の汚れが清まるまでの期間は、66日間である。

 上記の期間が過ぎたら、母となった者は、……
 ・焼き尽くす献げ物として1歳の雄羊1匹、
 ・贖罪の献げ物として家鳩か山鳩1羽、
以上をそれぞれの献げ物として、主にささげる。
 祭司はそれを献じて儀式を行い、母となりし者は清められる。
 ※もし焼き尽くす献げ物を用意できないときは、家鳩か山鳩を2羽用意して、1羽を焼き尽くす献げ物としてささげる。

 割礼の儀式については、すでに創世記第17章11節、アブラハムの生涯が語られるなかで、触れられています。


 渋谷のユーロスペースで『ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて』(2008独)を観てきました。躍動感と感銘に満ちた、良質のドキュメンタリー映画。来春DVD(コレクターズ・エディション)が発売予定の由。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0049日目 〈レビ記第11章:清いものと汚れたものに関する規定〉 [レビ記]

 最初の通過点を経て、レビ記は第11章に入ります。

 主はここで、清いもの(生物)はなにか、汚れたもの(生物)はなにか、を規定してゆきます。

 主の定める清いもの(生物)、すなわち食べてよいものとは、……
 ・「ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうする」(レビ11:2-3)地上の動物、
 ・海川の魚類でひれや鱗があるもの、
 ・地面を跳躍する後肢を持った昆虫(イナゴの類)、
など。

 主の定める汚れたもの(動物)、すなわち食べてはいけないものとは、……
 ・「反すうするだけか、ひづめが分かれただけの」(レビ11:4)地上の動物、
 ・ひれや鱗のない海川の魚類、
 ・羽があり四本足を持った群れて生活する昆虫、
 ・地上を這う爬虫類
などです。

 また、人とその周辺のものが汚れる場合とは、……
 ・死骸に触れたり、運んだ場合、
 ・汚れた動物に触れたり、その死骸に触れた場合、
 ・地上を這う爬虫類の死骸が土器や食器のなかに落ちたり、竃などに落ちたりした場合、
などであります。
 水に爬虫類が落ちた場合ですが、人為的に蓄えられた水ならその水は汚れます。但し、泉やため池などに落ちたら、その水は清いままであるとのこと。

 また、主はこういいました。
 「地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。」(レビ11:44)と。
 これは明らかに、創世記第3章(アダムとエヴァのエデンの園追放)の、遠いエコーでありましょうね。
 件の箇所にて、主はヘビにこういっています。
 「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。」(創3:14)


 眼鏡の修理に行ったらお店が改装工事中で、そのまま勢いで6キロほど歩いて商店街の眼鏡屋さんで修理をしました。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0048日目 〈レビ記第10章:祭司ナダブとアビフの違反〉 [レビ記]

 レビ記第10章です。

 ここに至るまで民は誰しも、モーセの口を通して語りかけられた主の仰せに従い、生活をしてきました。
 しかし、ここで遂に造反者が現れます。それは、アロンの子らのなかから、すなわち祭司に任命された人物が造反を企てたのです。
 もっとも、それが明確な意図あっての行為だったのか、不明であります。

 アロンの子らであるナダブとアビフが、神の規定に反した香をささげたため、神の怒りにあって焼き殺される。
 モーセはアロンの(生き残った)子らに命じて二人の遺体を処分させる。
 モーセは主への贖罪の献げ物を探すが、それは既にどこにもなかった。聖所の外で燃やし尽くされていたのである。
 そこで、臥せっているアロンとその生き残った子らに、モーセは詰問する。


モーセ「なぜ贖罪の献げ物を聖域で食べなかったのか。(中略)あなたたちは血を聖所に持って行かなかったのだから、命じられたとおりに聖所のなかで食べるべきであった」(レビ10:17-18)
アロン「たしかにあの者たちは今日、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物を主の御前にささげました。しかし、わたしにこのようなことが起きてしまいました。わたしが今日、贖罪の献げものを食べたとしたら、果たして主に喜ばれたでしょうか。」(レビ10:19)
「モーセはこれを聞いて納得した。」(レビ10:20)


 “わたしにこのようなことが起きてしまいました”とはもちろん、ナダブとアビフが焼き殺されてしまったことを意味します。当初、このやりとりについて、納得できません━━というよりも、理解できませんでした。
 でも、読み直してみて単純な事実に思い当たり、考えの浅さに恥ずかしくなりました。
神の意向に背いて殺されたとはいえ、アロンにとってナダブとアビフは自らの子。子供の死を悲しんで仕事がおろそかになったり、手が着かなくなってしまうのは、わたくしたちにだって覚えがあるし、想像するのは容易でしょう。
 それ故にアロンは“果たして主に喜ばれたでしょうか”と逆に問い、モーセは依り代としてでなく一人の人間として納得した。
 そういうことなのかな、と思い直し、なんとなく納得しているところであります。


 くじけそうになりかけたけれど、がんばるしかないんだな。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0047日目 〈レビ記第9章:アロンによる献げ物の初執行〉 [レビ記]

 レビ記第9章です。

 前章を承けて、祭司アロンの任職式から8日が経ち、主に献げ物がささげられます。

 アロンが献げなくてはならない献げ物は、……
 ・贖罪の献げ物として、無傷の若い雄牛
 ・焼き尽くす献げ物として、無傷の雄羊
であります。

 また、イスラエルの民も献げ物をささげなくてはなりません。その内容は、……
 ・贖罪の献げ物として、雄山羊
 ・焼き尽くす献げ物として、無傷で1歳の雄牛と雄羊
 ・穀物の献げ物として、オリーブ油を混ぜた物
である由。

 アロンは臨在の幕屋の祭壇で、まず自分の〈贖罪の献げ物〉、〈焼き尽くす献げ物〉をささげました。
 続いて、イスラエルの民が献げ物として持ってきた〈贖罪の献げ物〉、〈焼き尽くす献げ物〉、〈穀物の献げ物〉を、それぞれささげたのでした。
 その後でアロンは民を祝福し、祭司として初めて、献げ物をささげる儀式を執り行ったのでした。

 モーセとアロンが臨在の幕屋に入って出てくると、主の栄光が民の前に現れてみなを祝福したのです。

 「そのとき、主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くしたこれを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」(レビ9:24)

 この件を読んで思わず膝を打ってしまいました。もっとも綺麗なプロットを持つ物語は、実はこの旧約聖書なのではあるまいか、と。


 家族で映画『まぼろしの邪馬台国』を観てきました。
 “良い”とか“傑作”とか、そんな類の言葉では讃えられないぐらいに、深々と心にしみる作品。
 九州の風景、人々の姿振る舞い、言葉の数々。どれもがくっきりとした美しさを持っています。
 竹中直人と吉永小百合演ずる二人の、強い絆で結ばれた関係のなんとも麗しきことよ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0046日目 〈レビ記第8章・祭司の聖別の任職式 [レビ記]

 レビ記の第8章に入りましょう。

 かつて出エジプト記第29章で、なにが語られたか、覚えていらっしゃいますか?
 さよう、祭司を聖別する際の、様々な規定でした。ずいぶんと事細かく、主はモーセに言っていましたね、いろいろと(まぁ、特に珍しいことでもありませんが)。

 今夜のレビ記第8章では、そこで規定されたことが、いよいよ実践されます。
 共同体全体(イスラエルの民全体)を前にして、アロンとその子らが祭司に任職される次第が、感動的に、しかも厳めしい筆致で綴られてゆく。
 この任職式は七日間続きます。

 「七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入口を離れてはならない。(中略)臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託されたことを守り、死ぬことのないようにしなさい」(レビ8:33,35)


 姿の見えない不安と恐怖に圧し潰されそう。一人でいいから、それを分かち合える仲間が欲しい。切実に思います。

 テレヴィで映画『ALLWAYS 三丁目の夕陽』を観ました。ホロリとしたが、昔には帰れないのだなぁ、と痛感。とはいえ、良い作品でした。堀北真希が抜群によいのですよ……。


 明日は、安息日とし、ブログはお休みさせていただきます。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0045日目 〈レビ記第7章第11-38節・和解の献げ物の施行細則〉 [レビ記]

 昨日でノートは、レビ記第7章に入りました。
 今日は第7章の残りの部分、第11節から第38節までのノートです。

 和解の献げ物は2種類に分けられます。
 1,感謝の献げ物
 2,満願の献げ物
 3,随意の献げ物

 それぞれ、献げ物とされるものはどんなものか、どうやってささげるのか、と主はモーセに伝えます。

 感謝の献げ物とした動物の肉はその日のうちに食べなさい。
 満願 / 随意の献げ物とした動物の肉は翌日まで食べられる。但し、3日目には焼き捨てなさい。

 「主はこの日、シナイの荒れ野において、イスラエルの人々に以上の献げ物を主にささげよと命じられた」(レビ7:38)


 これまで、レビ記でも出エジプト記でも、体面ばかりの細則(決まり事)ばかり規定されてきました。
 でも、なにか罪を贖うようなことを誰かがしても、とりあえず謝罪だけして(献げ物をささげて赦される)、心のなかで舌を出していた者も出てきたのではなかったか、と。
 外面だけを取り繕って心が伴っていない。そんな輩はいなかったのか? 彼の時代には、人はみな主に対して敬虔で、嘘や偽りとは無縁の存在だったとでもいうのでしょうか?



 仕事の帰りはずっと徒歩。歩くごとに、心のもやもやが少しずつ落っこちてゆくようです。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0044日目 〈レビ記第6章、第7章第1-10節・各種の献げ物の施行細則〉 [レビ記]

 レビ記、第6章に入ります。
 が、ここもまた次の章にまたがっております(第7章第1節から第10節まで)。
 今日はそこをひとまとめにして、ノートにしてみましょう。


 この章で語られるのは、祭司向けの各種献げ物についての決まり事。
 ━━ 献げ物を如何なる手続きを踏んで、主へ献げなくてはならないか。
 それが、主からモーセに伝えられます。

 主は、モーセにいいます。
 ・焼き尽くす献げ物は、如何なる手続きを踏んで、主にささげなくてはならないか。
 ・穀物の献げ物は、如何なる手続きを踏んで、主にささげなくてはならないか。
  (「穀物の献げ物は贖罪の献げ物、賠償の献げ物と同様に神聖である」レビ6:10)
 これまで同様、細部にわたって規定が綴られてゆきます。

 また、任職式の日にアロンとその子らが主に献げなくてはならないものは、……
 ・穀物の献げ物
 ・贖罪の献げ物
 ・賠償の献げ物
とのことです。
 ここもまた同様に、細部にわたり規定が綴られてゆくのでした。


 出エジプト記後半部分をもっと細かく砕き、しつこく語り続けるレビ記。
 ちょっとゲンナリしちゃいますが、ここは忍耐が肝心、と心に留めるよりないかも。
 地を這うように、へばりつくように、しぶとくゆっくり読んでゆきましょう。
 さんさんかも、もとよりその覚悟なり。


 夜、落ち葉が かさかさ 音をたてて道を掃いてゆく。
 冷たさを増す風に吹かれ、火照った体を冷ましつつ、その様を見ます。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0043日目 〈レビ記第5章・賠償の献げ物〉 [レビ記]

 レビ記第5章の後半へ入りましょう。
 〈贖罪の献げ物〉を規定した前半と変わり、後半では〈賠償の献げ物〉が規定されます。


 主がモーセに曰く、〈賠償の献げ物〉を献げなくてはならないケースとは、……
 ・主を欺いて罪を犯した場合、
 ・過ちを犯し、主の戒めを破った場合、
 ・主を欺き、友人を偽った場合、
であります。

 賠償の献げ物としてささげられる動物は、いずれの場合にも無傷の雄羊。
 但し、最初の2つのケースでは、
 「主を欺いて罪を犯した場合、(中略)、聖所で定められた支払額に相当する無傷の雄羊」(レビ5:15)であるか、
 「過ちを犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破った場合、(中略)、相当額の雄羊を群れの中から取り」云々(レビ5:18)であるか、
━━という違いは出てきます。

 「支払額」と「相当額」はどう異なるのか?
 岩波版とティンデル版の双方を繙いてみましたが、わかったようでわからない。
 このあたりがキリスト者でないさんさんかの、聖書読書の限界なのかもしれません。

 3番目の“主を欺き、友人を偽った場合”。これは盗難や着服、横領、といった罪を犯した場合の規定です。
 もしそんなことをしたら、と主の曰く、……
 ①それらのものは即刻返却せよ、
 ②相応額の無傷の雄羊を主にささげよ、と。
 相手には返却すればそれでいいの? そんな疑問が、読んだとき脳裏に浮かびました。



 昔から庭に植わる柿の木。今年も多くの実がなり、食卓を賑わわせてくれました。
 その柿を今日、母と二人で収穫しました。今年最後の収穫です。
 ついでに伸びた枝も適度に剪定し、すっきりした感じに。葉の色具合もいい感じ。
 来年もおいしい柿の実が、たくさんなってくれることを祈ります。◆

共通テーマ:日記・雑感

第0042日目 〈レビ記第5章・贖罪の献げ物 2/2〉 [レビ記]

 レビ記第5章をお届けします。
 第4章のノート冒頭で申し上げたように、〈贖罪の献げ物〉についての記述は、2章にまたがって語られました(第5章もですけど)。

 今日は、その第2回目となります。
 誰かが罪を犯して責めを負うのは、こんなときである、と第5章は語り起こされます。


 責めを負うのは、こんなときです、……
 ①誰かが罪を犯したと知っても黙っていたとき、
 ②獣の死骸に気附かずに触れたとき、
 ③人体から生じる汚れに気附かず触れたとき、
 ④軽はずみな誓いを立てたとき、
であります。

 当然ながら、これらの罪を贖うための儀式の次第が、続いて語られます。
 これをフローチャート化すると、こうなりました。
 告解→代償(贖罪)の献げ物をささげる→罪の償い

 この場合、贖罪の献げ物としてささげられるのは、雌の羊か山羊であります。

 なお、貧しくて雌の羊か山羊が用意できない場合は、……
 ・二羽の山鳩か家鳩をささげる。
 そのうちの一羽が焼き尽くす献げ物、もう一羽が贖罪の献げ物としてささげられる。

 なお、貧しくて二羽の山鳩か家鳩も用意できない場合は、……
 ・小麦粉1/10エファを贖罪の献げ物としなさい、と主はいいました。

 もしそれも用意できないようなら……応相談、というところだったのでしょうか?

 「誰かが罪を犯した場合、以上のいずれかに従って、祭司が彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される」(レビ記5:13)


 ベームとウィーン・フィルの1975年NHKライヴのCDを聴きました(POCG-3119)。ブラームスの第一交響曲が立派で興奮、感動した。でも、それ以上に衝撃的だったのがストラヴィンスキーの《火の鳥》(1919年版)。これまで抱いていたベームのイメージが一新された、肉の奥へまで斬りこむような鋭さに背筋がゾクリ、としました。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。