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第1804日目 〈ダニエル書補遺:〈ベルと竜〉with「味方以外はすべて敵」;カラヤンの言葉はわが座右の銘。〉 [ダニエル書・補遺]

 ダニエル書補遺〈ベルと竜〉です。

 ベル1-22〈ベル神の物語〉
 メディアとペルシアがエクバタナの地で戦い、メディアは敗れた。時に前550年。アスティアゲス王の版図を継承して新たにオリエントの覇者となったのは、当時キュロス2世を王に戴くペルシア帝国であった。ダニエルはこのキュロス王に、その即位元年まで仕えた。
 ペルシアもかつてのバビロニア同様マルドゥク即ちベル神をあがめた。ベルへの献げ物は、12升の上質の小麦粉と40匹の羊、6樽のぶどう酒。民は毎日これをささげてベル神を敬い、礼拝した。ダニエルは勿論、これをあがめない。
 キュロス王が或る日、ダニエルに訊ねた。なぜベルをあがめ、礼拝しないのか。ダニエルは答えて曰く、わたしは偶像ではなく、すべてを造り、すべてを統べる生ける神をのみあがめる、と。キュロス王が重ねてダニエルに訊ねた。献げ物を食べるベルが生ける神だとは思わないのか。否、とダニエルは答えた。あれは偶像、作り物でしかなく、献げ物を食べているのは祭司とその家族なのだ。
 これにキュロス王は怒り、祭司全員を呼び集めて問い質した。ダニエルの言葉が正しいならお前たちは皆死ぬ。かれの言葉が間違いならダニエルを処刑する。──祭司たちは事実を隠蔽して虚偽の証言をした。ならば王様、試してみましょう。献げ物を置いて神殿の外に出、扉は固く閉めて閂を下ろしましょう。誰もなかには入れない。その間に献げ物がなくなっていたら、ベル神は生きている、ということになりませんでしょうか。
 王はこれに首肯して、祭司たちのいうとおりにした。次に神殿の扉を開けると、果たして献げ物はすべてなくなっていた。ただちにダニエル処刑の段取りが組まれた。
 否、とダニエルは抗った。そうして灰を神殿の床一面に撒き、最前と同様神殿の扉を閉じて完全な密室とした。次に扉を開けると、灰が撒かれた床に幾組もの足跡が残っている。調べてみたら、それは祭司とその家族の足跡であり、かれらは祭壇の下に設けられた隠し扉から出入りして献げ物をくすね、自分たちの腹を満たしていたのである。
 キュロス王は憤ってかれらを全員捕らえて処刑した。ベル神の偶像の処置については一任されたダニエルにより神殿共々破壊された。

 ベル23-42〈竜神の物語〉
 またバビロニア人は生きた竜をあがめてもいた。キュロス2世はダニエルにこれを示し、如何なお前でもこれを神と認め、あがめないわけにはゆくまい、といった。否、とダニエルは首を横に振り、王の言葉を拒んだ。そうして、王よ、お許しいただけるなら素手でこの竜を殺してみせましょう、といった。王は許可した。
 ダニエルは竜を殺すため、ピッチと毛髪と油脂を取ると一緒に煮て、団子を作り竜の口へ放りこんだ。すると竜は死んだ。喰うやたちまち体が裂けたのである。
 このことを知ってバビロニア人たちは怒った。かれらは王に抗議し、王はやむなくダニエルを、獅子の住む洞窟へ6日の間、放りこんでおくよう命じた。バビロニア人たちは毎日獅子(7頭いた)に餌をやっていたが、このときはそれを与えていなかった。ダニエルが餌だからである。
 その頃、ユダヤの地に預言者ハバククがいた。シチューを作り、パンを焼き、それを刈り入れ中の人々へ差し入れとして持ってゆくところを、かれはイスラエルの神なる主に頭を摑まれ、遠くバビロンの獅子の洞窟の前に連れてゆかれた。そこでハバククはダニエルに食事を供し、6日の間馳走したのである。ダニエルは神に感謝した。しかし、ハバククに感謝した、という記述はどこにもない。
 7日目になった。もうダニエルは死んでしまっているだろう。王は消沈して洞窟へ来た。すると、なんということか、ダニエルはちゃんと生きていた。キュロス王はダニエルの信じる神を讃え、バビロニア人たちを代わりに洞窟へ放りこみ、獅子に喰わせた。

 本日を以て「ダニエル書補遺」を終わる。
 〈ベル神の物語〉を読んでいて思うたのは、これは世界最古の密室犯罪ではないか、ということ。J.D.カーを頂点とする密室を事件現場とする犯罪譚の源流がここにある──とはさすがに言葉が過ぎるか。ただ、そんな風に思うてしまったがゆえか、ノートがなんとなくミステリのプロットめいたものになってしまったのはご愛敬と呵々して済ませたい。
 ダニエルは正編「ダニエル書」でも獅子の洞窟へ放りこまれた記録がある。第6章である。なんとも獅子の洞窟に縁のある人物である。ここまで何度も放りこまれて生還した人物もそうそういないと思うのだが、どうだろう。
 そうして、この挿話に於ける最大の受難者は預言者ハバククだ。かれは12小預言者の1人、滅亡後のユダヤに在って神を信じぬ民への嘆きと、その神との対話から成る「ハバクク書」の外題役。預言書のなかにあって「ハバクク書」が持つ特異性については、わたくし自身そのとき述べた。
 差し入れに出掛けてゆくところを、見ず知らずのダニエルに食事を与えるためはるばるバビロンへ「息の一吹き」(ベル36)で向かわせられるあたりなど、滑稽でありながら災難を一身に浴びた人のうなだれる様を想像できて、なんとも複雑な読後感である。哀れなるべし、その人。



 嘘かまことか定かでないが、その人の言葉として或る種の信憑性を伴う台詞がある。たとえば、こんな台詞、──「味方以外はすべて敵」
 なんとも薄ら寒いものを感じさせるこの言葉の発言主は、楽壇の帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンである、という。嘘かまことか定かでないが、さもありなんと納得させられてしまう言葉だ。
 実はこの言葉、わが座右の銘の一つである。本当に信用できる者は誰か。誰に後事を託すべきか。全権を与えて信ずるに足る行動を起こす者は誰か。信頼して腹の内を明かすことのできる者は、果たして誰か。複雑怪奇な人間関係を維持、乃至は点検して風通しを良くしようとすると、最終的に一つの結論に行き当たる。そこにある言葉こそ、「味方以外はすべて敵」
 狭苦しくも的を射た言葉だ。が、わたくしは心の底からこの言葉に共感する。
 淋しい人物だ、と思われるかもしれない。可哀想な奴だ、と蔑まされるかもしれない。しかし、わたくしはそんなことを口にするすべての人々に問いかけたい。果たしてあなたの知る人はすべて善人か? 皆が味方であるのか? 諾否いずれであれ答えを断言できる者はどれだけいるのか。論破できる者がいるならば、わたくしの前に姿を現してほしい。
 「味方以外はすべて敵」──本当にカラヤンの言葉かどうか、真相は藪のなかだけれども、わたくしにとってこの言葉が語りかける意味は、とても深くて、絶対的真実である。◆

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第1803日目 〈ダニエル書補遺:〈スザンナ〉withこの世を生き抜くためにも、わたくしはウッドハウスを読む。〉 [ダニエル書・補遺]

 ダニエル書補遺〈スザンナ〉です。

 スザ1-64〈スザンナ〉
 むかし、帝都バビロンにヨヤキムというユダヤ人がいて、ケルキアの娘スザンナを娶った。ヨヤキムは評判の良い富者であり、スザンナは主を畏れる正しい女性である。その人柄ゆえ、バビロンのユダヤ人たちはヨヤキムの家に出入りし、談論風発、徳と知と義の席を楽しんだ。
 このなかに、今回の事件の原因となった2人の長老がいた。かれらはスザンナに欲情して、なんとか彼女を自分の下に組み伏したい、と日夜破廉恥極まりない妄想をしている。かれらは互いがまったく同じことを考えているのを知らなかった。
 或る日、いつものようにヨヤキムの家に集まっていた人たちは昼刻になると、三々五々と自分たちの家に帰って行った。2人の長老も紛れて帰るふりをして、そっと戻ってきた。ヨヤキムの家で再びばったり顔を合わせることで、やっとかれらは、自分たちが同じ思いを抱いているのを知ったのである。そうしてかれらは結託した。
 さて。スザンナは毎日午刻になると水浴びに来る習慣だった。その日も同じだった。彼女は卑女に庭園の扉を閉めて下がるようにいうと、いつものように水浴びをした。水浴び場のある庭園にいるのはスザンナの他、木陰に隠れてスザンナの艶姿を覗き見している2人の長老だけである。
 もはやかれらは我慢できなかった。スザンナの許へ駆け寄ると、2人がそれぞれ互いに自分の欲情を訴え、行為を迫ったのである。
 長老たちの好色に彼女は嘆息し、「主の前に罪を犯すよりは、あなたたちの罠にかかる方がましです」(スザ23)といった。長老たちは喜んだ。と、突然スザンナが叫び声をあげた。
 2人も各々に叫び、1人が庭園の扉を開け放ち外の者を呼ぶ。集まってきたヨヤキムやスザンナの従者たちは、女主人の不義密通を長老たちから子細に聞かされ、赤面した。むろん、それは2人の長老たちの保身とスザンナ憎しが生んだ偽証である。
 スザンナは自分が交わることを拒んだ長老たちの偽証によって、いまや死刑が決まり、刑場へ引き連れられてゆく。彼女は天を仰ぎ、イスラエルの神なる主に無実を訴え、救われることを祈った。──それは主に聞き届けられた。
 神の霊がダニエルに触れ、かれの内の聖なる霊が呼び覚まされた。ダニエルは、わたしは彼女の血についてなんの責任もない、と衆人のなかで宣言し、スザンナを刑場へ連れて行く一行に向かって、証言は偽りであるから裁きをやり直すよう伝えた。好色爺たる例の2人以外の長老たちは、ダニエルを迎えて真ん中に坐らせ、かれに事件を裁かせた。神があなたに長老の特権を与えたのだから、と。
 ダニエルは2人を別々に尋問した。スザンナと情人が抱き合い、肌を重ね、貪り合っていた、とお前はいう。では彼女たちがまぐわっていたのはどの樹の下であったか。
 別の場所で1人がいった。乳香樹の下だ、と。
 別の場所で1人がいった。柏の木の下だ、と。
 この偽りの証言をそれぞれに聞いて、ダニエルは判決を下した。まさしくお前たちは致命的な偽証をした。「神の使いが剣を持ち、あなたを真っ二つに切り裂こうと待ち構え、あなたたちを打ち滅ぼす。」(スザ59)
 斯くして2人の長老は、自分たちがスザンナに対して行おうとしていたこと、即ちモーセの律法に従って処刑されたのだった。スザンナには不貞の事実がなかったこともわかった。こうしてこの日、無実の人の血が流されずに済んだのである。
 人々は神を讃えた。その日以来、ダニエルは偉大なる人として皆に慕われた。

 このように、複数の証人を別々に尋問して証言の裏付けをとる方法は、古代に於いては珍しかったそうである。今日では当たり前の方法だが、いにしえの時代、こうした場合は皆の証言が一致すれば、それで「正」とされた由。
 しかし、これはダニエルが公正なる義の人であることにスポットを当てる道具立てでしかあるまい。われらがまず味わうべきは古代の裁判方法とこの物語の新しさを知ることではなく、むしろ主を畏れる人が八方塞がりの苦境から救い出される清々しさであり、ノアやヨブと並び称される義の人ダニエルの公正明大ぶりであろう。
 「エゼキエル書」はこの3人を並べて讃えるが(エゼ14:14,20)、その信念のブレのなさ、という点から見れば、ダニエルこそ第一等の人である、とわたくしは思うている。
 そうして、──
 自らの保身を計って他人を人身御供とし、陥れて己が罪を隠蔽する者は呪われよ。



 最近の読書はP.G.ウッドハウスである。春風駘蕩、笑いの桃源郷。幾らも評されるが、わたくしにはウッドハウスの小説は、いまや数少なくなった逃れ場である。絆創膏である。寝酒である。良き夜の夢を約し、憂い少なき朝の来ることを約してくれる。
 日本語で読めるウッドハウスもいまでは20冊を超える。いまは汚濁末法の世。卑賤と無礼が幅を利かせるいまはまさに乱世。この汚濁末法の世を健やかに、たくましく、したたかに生き抜くため、わたくしはウッドハウスの小説を枕頭また懐中に侍らせる。
 そうしてそのしあわせに満ち足りて、ロバート・ブラウニングの有名な詩を口ずさむんだ。「時は春、/日は朝、/朝は七時、/片岡に露みちて、/揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、/神、そらに知ろしめす。/すべて世は事も無し。」(「春の朝」上田敏・訳)
 これってたしか、われらがバーティー・ウースターも口にしていたっけな。◆

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第1802日目 〈ダニエル書補遺:〈アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌〉withみくらさんさんか、同僚と上司に感謝する。〉 [ダニエル書・補遺]

 ダニエル書補遺〈アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌〉です。

 アザ1-67〈アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌〉
 こしゃくな、この連中を炉の中へ放りこめっ! バビロニア王ネブカドネツァルがそう叫んだかどうかはさておき、若きユダヤ人男子3人、即ちアザルヤとハナンヤ、ミシャエルはバビロニアの神と王の造った金の偶像をあがめなかった廉で不興を被り、生きたまま、いつもより7倍も熱く燃える炉のなかへ投げこまれた。
 そこをかれらは、自分たちの神なる主を讃えながら歩いている。やがて、そのうちの1人アザルヤは足を停めて火のなかで口を開き、祈った。曰く、──
 われらの神なる主よ、われらと、われらと先祖の町エルサレムへの裁きは正しいものでした。われらの罪ゆえの裁きだったからです。幾度となくあなたはわれらを戒め、立ち帰るよう告げてくれたのに、誰一人それに従う者はありませんでした。
 「敵意に満ちて反抗する無法な敵の手に、/地上で最も邪悪な、不義の王に、/あなたは我らを渡されました。/今や、我らは口を開くことも許されず、恥と恥辱があなたの僕らと/あなたを礼拝する物にふりかかりました。」(アザ9-10)
 嗚呼、主よ。どうかアブラハムとイサクとヤコブ(イスラエル)に免じて、われらの上からあなたの憐れみを取り去ったりしないでください。
 いまやわれらには指導者も高官も預言者もなく、焼き尽くす献げ物もいけにえも、供え物も香もありません。これらを御前にささげる場所すらないのです。
 砕かれた魂とへりくだる心を持つわれらを、主よ、受け入れてください。われらは心よりあなたにへりくだり、従い、畏れ、御顔を求める者です。
 「あなたに従う我らの歩みを全うさせてください。あなたに信頼する者は辱められないからです。」(アザ17)
──と。
 王の侍従たちは更に激しく炉の火を燃やす。そのとき、主の使いがアザルヤたちの前に現れた。それでなにをしたかというと、炉から炎を吹き払ったのである。すると、炉のなかには露を含んだ涼風が吹いた。アザルヤたち3人はもはや火に苦しめられることも悩まされることもなかった。かれらはそのことに感謝し、炉のなかで神に栄光を帰す讃歌をうたった。その最後の件りに曰く、──
 「正しい人々の霊と魂よ、主を賛美し、/代々にたたえ、あがめよ。/清く心の謙虚な人々よ、主を賛美し、/代々にたたえ、あがめよ。/(中略)/主は、陰府より我らを救い出し、/死の力より救い、/燃える炎の炉の中から、/火の真っただ中から我らを解放された。/主に感謝せよ、主は良き方、/その慈しみは代々に変わることはない。/神々の神である主を礼拝するすべての人よ、/主を賛美し、感謝せよ。/その慈しみは代々に変わることはない。」(アザ63-67)
──と。
 燃え盛る炎のなかを歩くかれらにネブカドネツァル王はびっくりして、3人のユダヤ人の若者を炉から出した。王の重臣たちが3人の体や衣服を検分したが、どこにも異常なところは見当たらなかった。
 このことを承けてネブカドネツァル王は3人のユダヤ人の神を讃え、かれらをバビロン州で高い位に就けたのである。

 特に申し添えることがあるとすれば、流れを俯瞰できるようにダニ3からの描写を補った、という程度か。
 3人の若者について話す。
 アザルヤとハナンヤ、ミシャエルはダニエルと同じときにエルサレムからの捕囚としてバビロニアへ連行されてきた。ネブカドネツァル王は連れてきたユダヤ人の王族と貴族から容姿端麗、才色兼備、宮廷に仕える能力を持つ男子を選ぶよう侍従長に指示した。そうして選ばれ、王の御前に召されたのが、ダニエルとアザルヤ、ハナンヤとミシャエルの4人であった。侍従長はその折、かれらの名前をユダヤのものからカルデア人風に改めた。ダニエルをベルテシャル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと別に呼ぶのはそんな理由からだ。
 かれらは知識と才能を神から恵まれており、文書や知恵についても特に優れたものを持っていた。王の話し相手としても申し分なかった。ゆえにネブカドネツァル王は知恵と理解力を必要とする事柄についてはこの3人のユダヤ人の若者を重用したのである。なお、ダニエルはバビロン州の長官に任命されたが、その際、王に願ってアザルヤたちを同州の行政官に任命してもらった。
 斯様に王の信篤い者たちであったからこそ、金の偶像とベル神をあがめないことにネブカドネツァルは立腹し、かれらを炉のなかへ投げこむ、という挙に出たのだ。なんというか、ちょっとした裏切られた感が王の胸に湧いたのであろう。また、それがため、王はかれらの神を自身も讃えることができた。
 ここから読み取れるのは、新バビロニア帝国の捕囚民に対する措置の寛大さであろう。祖国から敵地へ連行されたことでユダヤ人のなかに芽生えた先祖の神への信仰を、バビロニアは敢えて摘もうとしなかった。かれらのメンタリティを尊重することで、ユダヤ人の間に反バビロニアの気風が起こるのを鎮めたのか。敗戦国の文化は駆逐して滅ぼすよりも、それを認めて寛大に処遇することが最善の策なのであろう。



 爆発的に忙しい日を過ごすと雖も良き同僚と良き上司に恵まれたことをわたくしは感謝する。◆

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第1801日目 〈「ダニエル書・補遺」前夜〉 [ダニエル書・補遺]

 カトリック教会に於いて第二正典として認められるものの最後が「ダニエル書・補遺」であります。ヘブライ語になくギリシア語で書かれたゆえのプロテスタントでの外典、カトリックでの第二正典ということであります。
 3つの挿話から成る本書ですが、カトリックで専ら使われるフランシスコ会訳では正典である「ダニエル書」のなかに完全に組みこまれている。「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」はダニ3:23と24の間に挿入され、「スザンナ」と「ベルと竜」はそれぞれ第13章,第14章として「ダニエル書」の大尾を飾ります。
 もはやそれらがいつ書かれたのか、定かでないにしても、シリア・パレスティナ地方にヘレニズムの勢いが及んでいた時期、即ち旧約聖書続編を構成する他の書物と同じく前一世紀頃であろう、とする意見が大勢を占めるようであります。
 が、テキストの成立時期や場所、著者が正典の一、「ダニエル書」と同じであろうがなかろうが、「補遺」に収められる挿話、ことに「スザンナ」と「ベルと竜神」は読んでいて面白く感じられる物語です。
 簡単に各挿話の内容をお話ししておきます。
 「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」は、ダニ3にてバビロニア王ネブカドネツァルの怒りを買っていつもより激しく燃える炉のなかに生きたまま投げこまれた3人のユダヤ人、即ちアベド・ネゴことアザルヤとシャドラクことハナンヤ、メシャクことミカエルが炉のなかを自由に歩き回って自分たちの主なる神への讃歌をうたっている、というもの。この3人の若者はダニエルと一緒に捕囚として連れてこられ、特に目をかけられ王宮での活動を許されたのであります。これを読む前にはダニ3へ目を通しておくと良いかもしれません。
 「スザンナ」は、主に敬虔な人妻スザンナが好色な長老2人の関係によって死刑に処されることが決まるが、刑場へ引かれてゆく際に行き合ったダニエルの正しい裁きによって無実を証明され、かの長老たちが代わって裁かれて処刑された、というもの。地位と名誉ある人が保身のために偽証して、罪なき人を陥れることは既に実社会に於いてもお馴染みですが、現実は「スザンナ」と異なってなかなか勧善懲悪が現実となることはありませんね。腹立たしく思います。
 「ベルと竜」は、バビロニアとメディア滅びてペルシア帝国キュロス王(2世)の御代、バビロニア人のあがめるベル神を敬わず呵々したダニエルを陥れようとする祭司たちの陰謀とそれの暴かれる様を描く「ベル神の物語」と、バビロニア人が自分たちのあがめる竜神を殺したダニエルを捕らえて獅子の洞窟へ投げこむも豈図らんやかれは生還し、却って投獄者が獅子の空腹を満たすため投げこまれて喰われる「竜神の物語」の2部に分かれます。後者には12小預言者の一人、ハバククが登場してダニエルを救います。
 ──斯様に本書は読んで面白く、知って奥行きある3つの小さな物語で構成されるのでした。この面白さはたしかに「ダニエル書」本編に組みこまれてしまうと看過してしまうかも。わたくしとしては理由や事情はどうあれ、これら3編を「補遺」として独立させたマルティン・ルターの勇断に拍手を送り、感謝したく思う者であります。
 改まって顧みるまでもなく、旧約聖書続編で物語と呼ぶことのできる物語を読むのは、ずいぶんと久しぶりなことであります。「ユディト記」や「エステル記(ギリシア語)」以来となりましょう。歴史書というが相応しい「マカバイ記」を<物語>と呼ぶのはいささか抵抗があるけれどいずれにせよ半年以上が経ちます。
 正直なところを申せば、知恵や預言を直接的に扱った書物から離れられること、たとえ費やす日数はすくなくとも物語書に触れられることに、安堵を覚えているところであります。
 なお、小さな点ですが1つだけ申しあげておきます。新共同訳聖書では本書を「ダニエル書補遺」と表記します。が、本ブログでは「ダニエル書・補遺」と表記しております。特に深い根拠はありません。以前から中黒を入れた表記で自分が書いておりましたので、今回も同様に記す、というのであります。是非とも読者諸兄にはご理解いただき、受け入れていただければ幸いです。
 それでは明日から「ダニエル書・補遺」を1日1編ずつ読んでゆきましょう。◆

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