マカバイ記・一(再々) ブログトップ

第3251日目 〈「マカバイ記 一」にしばしのお別れを。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 ガムシャラに「一マカ」再々読に精を出していたら、もう他のことは殆ど手着かずになってしまった。わが悪癖の一である。『一茶』を読むのはどんどん間遠になって、田舎に一寸した用事ができてその往復の車中で巻を開いたのはなんと、1週間ぶりであったという為体。
 それだけではない。本稿第一稿を書きつけているモレスキンの方眼ノートは「一マカ」読書ノートが軌道に乗ってきた頃からぴったり1カ月、使っていなかった。ようやく(なんとか)1つの形にまとめあげられた時代小説のプロットは、その後まるで顧みることなく今日へ至ってしまっている。それは奈穂と脩二郎てふ夫婦のお話だ。ほではなくおである。どれだけ「一マカ」再々読に夢中になり、精出し励んでいたかの証となっていないだろうか。 
 〈「一マカ」を読み直してノートを作ります、本ブログにお披露目します〉サギに手を染めて、もう何年になるのかな。白状すれば、本当に再々読がかなって最後まで息切れすることなく、毎日の数時間をこれに費やすことができるなんて、わがことながらまったく信じていなかった。こんな文章を綴る日が来ることをいちばん疑っていたのは、わたくし自身である。
 そう、たびたび引き合いに出してきた『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』がなかったら、きっと再々読の作業へ乗り出したりはしなかった。前回の再読でも頼りにしたはずなのだが、今回程その恩恵に与り、自分なりに能う限り活用したことはなかった。ノートがいまみな様の目に触れるような形で世にあるのは、『スタディ版』から多くの気附きや発見、疑問などに大きく触発されてのことに他ならない。いやはや、『スタディ版』様々じゃ。念仏唱えて寿いちゃろ。
 その一方で、再読のとき役に立つだろう、参考することもあるだろう、と思うて買いこんでいた──時に巻を開いてページに目を曝すこともあった、といい換えてもよい──秦剛平『旧約聖書続編講義』(リトン 1999/11)と榊原康夫『旧約聖書続編を読む』(聖恵授産所出版部 1999/04)を参考文献として開くことはまずなかった。むしろ、じゅうぶん予想できたことだが、ローマやギリシア、オリエントの歴史や考古学、文学、史書などを傍らに置くことの方が多かった、と記憶する。
 たぶん、あらかじめ<歴史>に主軸を置いて<神学>には一切踏みこまない、と決めていたせいだろう。この方針を守っていなかったら、或いは神学に秋波を送るようなことがあったらば、此度の再々読もかならずや挫折していたに相違ない。
 ──ここから先は、「一マカ」再々読ノートのテキストと、ノート作成にあたり直接益を得た参考文献の一覧である。殆どが過去に、感想のなかで触れたものになるが、改めてここに整理しておきたい。
 ◌テキスト
 聖書 旧約聖書続編つき
 ◌参考文献(4冊目から順不同)
 旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳
 フランシスコ会訳聖書
 聖書協会共同訳
 インドロ・モンタネッリ/藤沢道郎・訳『ローマの歴史』(中公文庫 1996/05改版)
 エルンスト・H・ゴンブリッチ/中山典夫・訳『若い読者のための世界史』(中公文庫 2012/04)
 村川堅太郎・長谷川博隆・高橋秀『ギリシア・ローマの盛衰』(講談社学術文庫 1993/06)
 小川英雄・山本由美子『世界の歴史4 オリエント世界の発展』(中央公論新社 1997/07)
 桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』(中央公論新社 1997/10)
 バリー・J・バイツェル/山崎正浩・他訳『聖書大百科 普及版』(船本弘毅・日本語版監修 創元社 2013/10)
 加藤隆『旧約聖書の誕生』(ちくま学芸文庫 2011/12)
 山折哲雄『聖書時代史 旧約篇』(岩波現代文庫 2003/02)
 長谷川修一『聖書考古学』(中公新書 2013/02)
 笈川宏一『物語 エルサレムの歴史』(中公新書 2010/07)
 S.ヘルマン&W.クライバー/泉治典&山本尚子・訳『聖書ガイドブック』(教文館 2000/09)
 S.ヘルマン&W.クライバー/樋口進・訳『よくわかるイスラエル史』(教文館 2003/02)
 土岐健治『はじめての死海写本』(講談社現代新書 2003/11)
 ミルトン・スタインバーグ/山岡万里子&河合一充・訳『ユダヤ教の基本』(手島勲矢・監修 ミルトス 2012/04)
 ニコラス・デ・ラーンジュ/柄谷凛・訳『ユダヤ教入門』(岩波書店 2002/02)
 エーミール・シューラー/小河陽・訳『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』第1巻(教文館 2012/12)
──以上である。要するに、最初に読んだときに参考とした文献の半分以上をふたたび利用したわけである。
 最後にこれまた蛇足だが、「一マカ」再々読ノートの執筆進捗を書き写して終わりとする。
 一マカ:1  2021年11月16日 00時07分
 一マカ:2  2021年11月16日 17時29分
 一マカ:3  2021年11月17日 21時00分
 一マカ:4  2021年11月18日 21時04分
 一マカ:5  2021年11月20日 18時02分
 一マカ:6  2021年11月22日 00時37分(21/11/21-)
 一マカ:7  2021年11月23日 00時13分(21/11/22ー 満腹の眠気と闘いながら、約2時間ちょっと、これを草す)
 一マカ:8  2021年11月23日 22時23分
 一マカ:9  2021年11月24日 20時28分
 一マカ:10  2021年11月25日 20時23分
 一マカ:11  2021年11月29日 01時10分(21/11/28-)
 一マカ:12  2021年11月29日 15時00分
 一マカ:13  2021年12月02日 00時00分(21/12/01-)
 一マカ:14  2021年12月02日 13時37分
 一マカ:15  2021年12月04日 19時26分
 一マカ:16  2021年12月05日 00時00分~2021年12月5日 00時50分(感想;2021年12月05日 01時09分)
──これが各章第一稿の執筆日である。このタイミングでエッセイは書いていない。
 そうしてお披露目原稿の仕上がりの日時が、──
 第3234日目 〈「マカバイ記 一」〈前夜〉〉 2021年12月08日 14時10分
 第3235日目 〈マカバイ記 一・第1章with友情の死、について。〉 2021年12月09日 02時33分;本文・感想改訂 2021年12月09日 03時26分;エッセイ執筆
 第3236日目 〈マカバイ記 一・第2章with渡部昇一『ドイツ留学記』他の復刊を求めます。〉 2021年12月09日 15時33分;本文・感想改訂 2021年12月09日 15時50分;エッセイ執筆
 第3237日目 〈マカバイ記 一・第3章with天に召されても幸せでいられる人。(つぶやき・なう)〉 2021年12月09日 23時44分;本文・感想改訂 2021年12月09日 23時52分;エッセイ執筆
 第3238日目 〈マカバイ記 一・第4章with『LoveLive!Days ラブライブ!総合マガジン』を買いました/読みました。〉 2021年12月11日 02時05分;本文・感想改訂 2021年12月11日 02時44分;エッセイ執筆
 第3239日目 〈マカバイ記 一・第5章with渡部昇一の本を捜索中。〉 2021年12月11日 16時30分;本文・感想改訂 2021年12月11日 16時46分;エッセイ執筆
 第3240日目 〈マカバイ記 一・第6章withイエスは<人生の永遠の同伴>。〉 2021年12月11日 21時13分;本文・感想改訂 2021年12月11日 21時27分;エッセイ執筆
 第3241日目 〈マカバイ記 一・第7章withクレオパトラについてメモを書いていました。〉 2021年12月13日 01時20分;本文・感想改訂 2021年12月13日 01時50分;エッセイ執筆
 第3242日目 〈マカバイ記 一・第8章with10数年振りにお迎えする全11巻の歴史書。〉 2021年12月13日 18時46分, 2021年12月13日 23時24分;本文・感想改訂 2021年12月14日 00時22分;エッセイ執筆
 第3243日目1/2 〈マカバイ記 一・第9章with S.K原作『チェペルウェイト』放送開始。〉 2021年12月14日 18時32分;本文改訂 2021年12月15日 02時31分;感想改訂及び執筆 2021年12月15日 03時19分;エッセイ執筆
 第3244日目 〈マカバイ記 一・第10章with蔵書を作りあげてゆく喜び〜ギボンが届いた。〉 2021年12月15日 19時44分;本文・感想改訂 2021年12月16日 02時16分;エッセイ執筆
 第3245日目 〈マカバイ記 一・第11章withセネカの言葉、ストア派を読んだ一昨年の晩秋。〉 2021年12月16日 16時37分;本文・感想改訂 2021年12月17日 00時27分;エッセイ執筆
 第3246日目 〈マカバイ記 一・第12章with簡単に今年を総括してみた。〉 2021年12月17日 19時38分;本文・感想改訂 2021年12月17日 21時28分;感想補訂(カフェナタ、ハディド) 2021年12月18日 01時17分;エッセイ執筆
 第3247日目 〈マカバイ記 一・第13章with<昭和から平成>へ〜伊勢佐木モールの場合。〉 2021年12月19日 00時49分;本文・感想改訂 2021年12月19日 01時27分;エッセイ執筆
 第3248日目 〈マカバイ記 一・第14章with信仰について。【つぶやき・なう】〉 2021年12月19日 17時05分;本文・感想改訂 2021年12月19日 17時11分;エッセイ執筆
 第3249日目 〈マカバイ記 一・第15章with聖書の舞台に行ってみたい。〉 2021年12月20日 20時38分;本文・感想改訂 2021年12月21日 00時28分;エッセイ執筆
 第3250日目 〈マカバイ記 一・第16章with「一マカ」読了のご挨拶。コロッケの本、1年前の読書。〉 2021年12月21日 23時34分;本文改訂 2021年12月22日 00時10分;感想改訂 2021年12月22日 00時41分;エッセイ執筆
──となる。煩雑にして見づらい部分もあるが、ご寛恕願う次第である。
 これで積年の宿願の1つは果たされた。「マカバイ記 二」の再読は? と訊かれたけれど、予定していません、とお答えしておく。「エズラ記(ラテン語)」はもうね、予告してしまったので再読します。正直なところ、「出エジプト記」後半から始まり「レビ記」を核とする法律、掟、祭儀次第、については今一度読み直したい気持ちはあるものの、それがそのままノートに直結するかは不明だ。それとは別に、4つの福音書と「使徒言行録」、4大書簡は読み直しておきたい、ノートを新たに作成したい、という気持ちはある。
 これ以上はいわない。トラタヌになるばかりかもしれないから。
 「マカバイ記 一」再々読ノートに関する文章は、本稿でひとまず終わりとする。
 毎日長いものを読んでくださって、本当にありがとうございました。◆

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第3250日目1/4 〈マカバイ記 一・第16章:〈ヨハネ、ケンデバイオスを破る〉、〈シモンの最期〉他with「一マカ」読了のご挨拶。コロッケの本、1年前の読書。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第16章です。

 一マカ16:1-10〈ヨハネ、ケンデバイオスを破る〉
 シモンの返答に、アンティオコス7世は激怒した。腹心のケンデバイオスにユダヤ討伐を任せると王は、ドルの町から海上へ脱出したトリフォンを追撃した──そのときのアンティオコス7世にはユダヤよりも王位簒奪者トリフォンを討つことが最大命題だったのである。
 ケンデバイオスはユダヤ領を通過、ペリシテ人の町ヤムニアにて住民の無差別虐殺を実施。そうしてユダヤへ通じる街道を使ってエルサレム侵攻計画を実行に移そうとしていた。
 ……と、ここまでが第15章の終わりの部分。それでは「一マカ」最終章を始めよう。……
 ゲゼルのヨハネはエルサレムのシモンの許へ急行した。かの地に於けるケンデバイオスの所業を知らせるためでだった。話が先になるがこのヨハネが、シモン亡きあとハスモン朝の王となり大祭司職を継承した。ヨハネス・ヒルカノスである。
 シモンはヨハネと、もう1人の息子ユダを呼んだ。そうしてかれらを民の指導者に任命した。ケンデバイオスの悪行からユダヤを守るためである。ヨハネとユダはこの役目を謹んで承けた。
 ヨハネとユダの兄弟は精選した歩兵20,000強と騎兵を率いてエルサレムを出立、モデインを経てケドロンの町がある平野へ向かった。
 すミツパの方を源流とする川の向こうに、ケンデバイオス率いるシリア軍が待ち構えていた。ユダヤ軍は敵の正対する形で陣を敷き、攻撃に備えたが、渡河には躊躇いがあった。そこでヨハネが率先して川を渡った。兵がそれに続く。ラッパが戦場に響き渡った──。
 シリア軍が敗走して、ケドロンを過ぎてアゾトの砦へ逃げこんだ。ヨハネたちの命令で砦に火が放たれた。そのときのシリア兵の死傷者は約2,000と、「一マカ」第16章は記録する。
 ユダが途中負傷する場面こそあったものの、ヨハネたちはぶじ、ユダヤの都へ帰還した。

 一マカ16:11-17〈シモンの最期〉
 アブボスの子プトレマイオスはシモンの娘婿である。エリコの平野の長官に立場に在った。
 シモンはプトレマイオスに暗殺されて世を去った。セレコウス紀177年即ち前134年、第11の月つまりサバトの月である(ニコラス・デ・ラーンジュ『ユダヤ教入門』のユダヤ暦に従えば、「シュバット」)。
 事の次第はこうである、──
 或るときからプトレマイオスは義父シモンを葬って、王朝の実権を握ろうと企んでいた。
 折良くシモンが息子マタティアとユダを伴い国内を廻り、「切迫している諸問題の解決」(一マカ16:14)に奔走していた。これを利用しない手はなかった。警備が普段エルサレムにいるときよりも手薄になること必至だったからだ。おまけに疲労も手伝って、酒も程良く回るだろう。
 案の定、エリコに来たシモンを誘って、プトレマイオス自身が築いた砦ドクにて酒宴を催したのである。ドクはエリコの北西約6キロの場所にある由。好い加減義父と義兄弟が酔っ払った頃、プトレマイオスは部下と共に近附き、シモンとマタティア、ユダ、かれらの部下を残らず殺害したのだった。
 「こうして、プトレマイオスは恐るべき裏切り行為を働き、善に報いるに悪をもってしたのであった。」(一マカ16:17)

 一マカ16:18-24〈ヨハネ、プトレマイオスの陰謀を逃れる〉
 野心を実現するための第一歩を踏み出したプトレマイオスが次にしたのは、事の顛末をアンティオコス7世に報告することだった。かれは王に、援軍の派遣を依頼した。と同時にユダヤ統治の最高責任者に任命してくれるよう嘆願した。
 その一方でゲゼルへ人を遣わし、そこの千人隊長を買収してヨハネ暗殺を依頼した。また、エルサレムと神殿の丘を制圧するため、各所に伝令を派遣して挙兵の準備を着々と進めた。
 が、いつの時代でも情報漏洩というアクシデントはあったようで、このときもヨハネ暗殺の企ては事前に本人の耳に入ったのである。ヨハネは暗殺者を捕らえて逆に殺害した。
 ──やや唐突かつ中途半端ながらここで、著者は「マカバイ記 一」の筆を擱いている。プトレマイオスの反逆がどのような結末を迎えたのか、ヨハネの時代になってハスモン朝がどのような危機に曝され、また如何にして独立を守り続けたか、などの記事が本書で語られることはない。ただ著者は、このように書いてヨハネ時代を統括するのみである。曰く、──
 「ヨハネの行った他の事績、彼の戦い、彼の発揮した数々の武勇、城壁の建設、彼の業績、これらのことは、ヨハネが父を継いで以来の、彼の大祭司職中の年代記に記されている。」(一マカ16:23−24)
──と。
 ここで触れられる「年代記」は現存していない。

 プトレマイオスがシモンを招いて酒宴を催した砦、ドクの位置については、フランシスコ会訳聖書当該箇所の註釈を参考にしました(P1180 註釈6 サン パウロ 2013/02)。
 義父殺害の舞台に選んだのが完全に自分の所有になる砦であった、というのは逆にいえばどれだけプトレマイオスが周到な準備を費やして義父暗殺計画を立案したか、自分がコントロールできる場所で行うことの利をどれだけよく理解していたか、を窺わせる材料になりましょう。
 シモン暗殺。その命を奪ったのは娘婿だった。──シモンの娘の名前や素性は明らかでない。そのプトレマイオスの行状を聖書は、薄ら寒くなるような修辞でこれを評します。曰く、──
 「善に報いるに悪をもってした」(一マカ16:17)
──と。
 その文言がここではどのような意味を帯びるか、というのは各種註釈書や研究書に解説を譲りますが、わたくしはここで、この文言が聖書で描かれる人間模様を説明するキーワードの1つとなることを述べておきたく思います。
 「善に報いるに悪をもってした」とは旧新約続編の別なく聖書に頻出するキーワードです。
 「創世記」ではアダムが神に背き、バベルの塔は神の善に対して善に報いるべきが傲慢が嵩じて塔を高くするという悪をもって倒壊し、ソドムとゴモラは神の愛に報いることなくその背徳と堕落ゆえに滅ぼされた。「サムエル記」ではダビデとソロモンが己の栄華に酔い痴れてか異邦人の女性とまぐわい、或いは部下の妻を寝取って孕ませるなんていう悪を侵し、「列王記」と「歴代誌」では北王国イスラエルの王も南王国ユダの王も主の目に悪と映る行為に耽って善に報いるに悪をもってするを地で行きました。
 それはプトレマイオス朝とセレコウス朝支配下のユダヤでも繰り返された。考えてみれば、「一マカ」にて悪をもって敬虔なるユダヤを震撼させたのはギリシアの流れを汲む王朝の者らでした。就中セレコウス朝の王アンティオコス4世が。旧約聖書の時代から大きく前進してユダヤが、確実にわれらが義務教育や高等教育で習う世界史の領域に関与してきたことを実感させます。ユダヤに対して「悪をもって」する存在が外圧を伴うものであったことを忘れないこと、これが「一マカ」を読み進めてゆく上での最大のポイントではないでしょうか。
 話が脱線しました。「善に報いるに悪をもってした」のは、実は、新約聖書の時代になってもよくあるお話でした。ユダヤ教のなかでだけのこともあれば、ローマが関与してくることもある。然り、状況に変化はなかったのです。人間の心も畏怖も敬愛も、それ程の進歩はしていない。
 福音書で、イエスの奇跡を目の当たりにしたり治癒にあやかった者も最後にはイエスの死刑を支持し、12使徒は最後の最後でイエスを裏切った。「使徒言行録」ではパウロが、サウロ時代にユダヤ教イエス派の信徒を迫害して止まなかったことを記録している。最初の殉教者ステファノの石打ち刑の場面にも、サウロはいた。
 ……殊程斯様に聖書には<善に報いるに悪を以てした>人々があとからあとから登場して、懲りることなく飽きることなく罪を重ねてゆきました。これも聖書の通奏低音の1つといえましょうか。……穿ちすぎ? 考えすぎ? 的外れている? 特段そうは思わないのですが……。

 一マカ16:22以後のヨハネ時代については『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』第1巻P281-301他に詳しく載る。「セレコウス王朝はその後も弱体化する一方であり、紀元前63年のポンペイウスの侵攻にいたるまでの間ハスモン家の勢力拡大を妨げる存在は消滅した。ヒルカノス1世(在位前一三四〜一〇四年)は傭兵を使ってトランスヨルダンやイドゥメアを征服」した、と述べるのは小川英雄/山本由美子『世界の歴史 4 オリエント社会の発展』(P220 中央公論新社 1997/07)である。
 また、南王国ユダ滅亡以来数百年ぶり(王都エルサレム陥落/南王国ユダ滅亡;前587年〜「イスラエルは異邦人の軛から解放された」;セレコウス紀170年即ち前143年)に地上へ出現したユダヤ人独立国家、ハスモン朝の歴史とその終焉については、ジークフリート・ヘルマン&ヴァルター・クライバー『よくわかるイスラエル史 アブラハムからバル・コクバまで』(教文館 2003/02)で概略の知識を得ることが出来る。
 ──マタティアとその子孫による民族独立紛争はモデインでの決起に始まり、モデイン近郊でのシリア軍との戦闘を最後に終わった。これは歴史の偶然か、記事執筆上の作為か。不明である。どこまでわたくしの疑問に答えてくれるか分からないけれど、やはり、ヨセフスの著作──『ユダヤ古代誌』と『ユダヤ戦記』を手に入れる必要があるなぁ。元版となる山本書店版とちくま学芸文庫版、どちらが所有して使ってゆくのに至便だろう、役に立ってくれるだろう?



 さて、これで宿願の1つであった「マカバイ記 一」の再々読とそのノートが終了した。記録を見ると、今回最初に着手したのは、11月16日であった。それから毎日1章の原則で「一マカ」の要約ノートを執り、疑問点や気附いた点、注意点を書きこんで感想の土台とした。これが終わったのは、12月05日であった。
 どうにか予定通り12月09日から本ブログでの再々公開をスタートさせて、遂に今日、12月21日23時44分に本文の改訂を、翌22日00時10分に感想の執筆と改訂を終わらせた。いまこの文章を書いているのは22日00時18分である。仕事している時間を除けば殆どの時間を、この再々読ノートに費やしていたように思う。機械的に仕事することのなんと重要な教えであることか。
 この度本当に久しぶりに聖書へがっつり取り組んで、加えてオリエントと地中海世界の歴史にどっぷり浸かッたことがどれだけ作用したかわからないけれど、聖書やユダヤ教/キリスト教、オリエント地方の習俗やローマを始めとする地中海世界の政治体制や歴史など今後書いてみたい、と思う話題が幾つも生まれたことは、偏にこのタイミングでの「一マカ」再々読という作業があったからである。これは本当にありがたいことであった。
 このような形で聖書読書ノートブログが(唐突に)復活するのは、しばらく先のことだ。とはいえ既に来年2月メドの「エズラ記(ラテン語)」再読を宣言してしまっているから、それまではしばらくの間、日常や読書のエッセイが飽きることなく書きつづけられてゆくことだろう。

 読書といえばこの前、コロッケの『母さんの「あおいくま」』(新潮文庫 2012/12)を読んだ。すごく心に、ぐっ、と来た。お母さんは立派である。「あおいくま」の教えにはポロリと涙がこぼれそうでしたよ。
 この本を読んで初めて知ったのだが、コロッケも真珠腫性中耳炎に罹って聞こえが悪くなっていた、という。中2のときだそうだ。わたくしと同じ症状である。右耳というのも同じだ。他人とは思えぬのである。
 もう1つ、読書といえば今年から読書の抜き書きノートを作り始めた。まだ1冊目というお恥ずかしい為体だが、01月02日に初めて書いたのは池上彰と佐藤優の『知的再武装60のヒント』(文春新書 2020/03)だった。ノートの残りはあと8ページ。藤沢周平『一茶』から……と考えたのだが、ふとした拍子に手にした新書、池上彰と竹内政明『書く力』(朝日新書 2017/01)にあちこち折り目があって、書き込みがあるのも発見した。
 これの抜き書きでノートの残りを埋めたいのだが、読み返すと前回よりページの端っこを折るのが多くなり、付箋を貼りまくる結果となった。これはちょっと膨大な量である。どうにかして残りのページにまとめあげたいが、うーん、白紙の紙を何枚か貼り足す必要がありそうだなぁ。
 なお、これを読み終えたのは昨年12月25日であった。「どうしてこんな日に……?」と扉に書いてある。このあと、前掲『知的再武装60のヒント』を読むことになるのだな。
 ──とまれ、本日にて「一マカ」再々読終了。読者諸兄よ、お読みいただきありがとうございました。あなた方に幸い事あらんことを。サンキー・サイ。◆

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第3249日目 〈マカバイ記 一・第15章:〈アンティオコスの呼びかけ〉、〈アンティオコス、トリフォンを攻める〉他with聖書の舞台に行ってみたい。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第15章です。 

 一マカ15:1-9〈アンティオコスの呼びかけ〉
 地中海の島、おそらくはロドス島からシモン宛の書簡が届けられた。差出人はアンティオコス・シデテス。デメトリオス1世の息子にしてデメトリオス2世の弟となる。その内容に曰く、──
 いまシリア国内に害悪をもたらす者が蔓延っている。私は連衆を一掃すべく軍備を整え、これと戦う決意をした。シリアをわが手に取り戻し、国内に秩序を取り戻すため、民の安寧を願うためである。
 ついてはユダヤの指導者にして大祭司のシモンよ、貴方にお願いしたい。国を取り戻すための私の戦いを、いまは静観してほしい。援助が必要になった際は改めてその旨お願い申しあげる。
 これを機会に私は、先代のシリア王(デメトリオス2世)と貴方の間で合意していた各種事項を確認し、これを認めることにした。また、それに加えて、ユダヤ国内で通用する貨幣の鋳造と流通を許可する。
 エルサレムと聖所の自由を認めよう。シリアへの負債の免除は、過去にまで遡って適用され、未来まで有効となる。ユダヤの軍隊と砦の一切が貴方の所有となることを正式に認める。
 シリアがわが手で平定された暁には、約束を守ったとしてユダヤの名誉はあまねく全地に知れ渡るだろう。
──と。

 一マカ15:10-14〈アンティオコス、トリフォンを攻める〉
 ユダヤへの根回しを終えたアンティオコス・シデテスは軍隊を率いてシリアに上陸、寝返った兵も含めてトリフォンに戦いを挑み、サマリアの北北西約60キロ、海辺の町ドルへ追いつめた。
 アンティオコス・シデテスはこの町に向けて陣を敷き、海にも艦隊を配置して、ドルの町を完全封鎖した。誰ひとり出入りできず、連絡も補給も不可能になった。町は外部から隔離された。

 一マカ15:15-24〈ローマ、ユダヤを支援する〉
 さて、第14章でローマへ派遣されていた使節団──ヌメニオスとアンティバトロスとその一行がエルサレムへ帰還した。
 かれらはローマの執政官ルキウスが諸国の王に宛てた書状を携えていた。それはユダヤへの干渉の禁止と、ユダヤと敵対する国家との同盟締結を禁止する内容だった。曰く、──
 ユダヤのシモンが元老院に使節を送ってきた。同盟更新のためである。われらはそれを確認して、更新の手続きを完了させた。ユダヤからは重さ1,000ムナの金の盾をわれらは受領した(→一マカ14:24)。ついては諸国の王に、ユダヤへの干渉の禁止と、ユダヤと敵対する国家との同盟締結を禁止をお願いする。
 また、ユダヤに害悪を及ぼす者が貴方の国へ逃げこんでいたら、即座にその者を大祭司シモンに引き渡して、ユダヤの法律で裁くことができるよう取り計らってもらいたい。
──と。
 この書状は大祭司シモン宛の他、エジプトやシリアを始めとする諸国の王たちへも送られた。また、ロドスやキプロス、キレネなどのローマ属州へも、写しが送られた。

 一マカ15:25-41〈アンティオコス、シモンを裏切る〉
 ドルの完全封鎖は続いていた。アンティオコス軍の攻撃は間断なく行われ、攻城機を用いた戦闘も起きていた。トリフォンが逃げ出す機会は刹那と雖も与えられなかった。
 そこへシモンからの遣いが来た。攻撃の支援(ユダヤ軍の派遣)を願い出たのである。
 が、アンティオコス・シデテスはこれを断り、シモンへの態度を変えた。アンティオコスは腹心のアテノビオスをシモンへ遣わした。アテノビオスは主君からのメッセージを携えていた。曰く、──
 ユダヤ人は、シリア王国の都市ヤッファとゲゼル、シリア所有のエルサレムの要塞、その他シリア領内の土地を不当に占拠、制圧して、あまつさえこれらの都市や諸地域から税収を得ている。これは認められるものではない。
 シモンよ、ただちに占拠した都市や要塞からユダヤ人を退去させ、シリアに返還せよ。それらの地域から徴税した土地税をただちにシリアへ納めよ。それが出来ぬなら銀500タラントンの支払いを請求する。
 それとは別にユダヤがもたらした破壊と取り立てた租税の代償として、銀500タラントンを納めよ。
 ユダヤの回答や如何に。場合によっては武力行使も止むを得ないと考える。
──と。
 エルサレムに到着したアテノビオスは、シモンの豪奢な生活を目の当たりにして言葉を失いながらも取り敢えず、主君から預かったメッセージを伝えた。シモンが答えて曰く、──
 不当に占拠していると仰っるエルサレムの要塞は、われらユダヤの先祖の遺産。ゆえにユダヤの所有となるのは至極当然のことであろう。しかしながらヤッファとゲゼルに関しては、こちらとしても含むところはあるが、そちらの言い分は尤もである。従ってこの件については100タラントンをお支払いしよう。
──と。
 シモンの返答にアテノビオスは返す言葉を持たなかった。憤然とエルサレムを去るのみであった。……アンティオキアへ戻ったアテノビオスは、シモンの返事とその豪奢な生活ぶり、また自身目にした数々の事柄を報告した。アンティオコス・シデテスは激怒した。
 ところでドルの町にいて、動くに動けぬ状況にあったトリフォンであるが、なんと、かれは秘かに海路でオルトシアの町へと脱出したのである。オルトシアは、アンティオキアとティルスのほぼ中間にあるフェニキア地方の町。
 トリフォンが逃亡したことでシリア王位は空位となった。アンティオコス・シデテスがアンティオコス7世として即位した。前138年のことである。
 アンティオコス7世はケンデバイオスを海岸地方総司令官に任じた(=その地の司令官であったシモンを放逐した)。そうしてユダヤ攻撃の命令を下し、自分はトリフォン追撃にあたった。
 ケンデバイオスは軍を率いて南進した。ユダヤ領内を通ってペリシテ人の土地へ侵入するとヤムニアの町の住民を捕らえ、殺めて弾圧した。
 続いてケドロンの町の防備を固めて騎兵と歩兵を駐屯させた。ケドロンはペリシテ人の土地にあり、ユダヤとの国境に面した町。ヤムニアの南南東約10キロ、ゲゼルの西南西約20キロに位置する。
 ここを掌中に収めたことでケンデバイオスはユダヤの街道を使って、ユダヤ攻撃の足掛かりを築いたのだった。

 やや唐突にアンティオコス・シデテスが登場しました。前138年即位とされるアンティオコス7世であります。第15章の始まりの時点ではシリア王位はトリフォンにありましたので、ノートもしばらくはアンティオコス・シデテスとしました。
 他のシリア王と異なって「一マカ」では明記されませんが、アンティオコス・シデテスの即位はセレコウス紀175年即ち前138年という。
 一マカ15:10でシリアに上陸したアンティオコス・シデテスはドルの町を封鎖して攻撃を繰り返すも、一マカ15:37でトリフォンの海上脱出を許してしまう。
 トリフォンが海路で逃亡した場面がセレコウス紀174年即ち前138年のことであったろう。そのあとでアンティオコス・シデテスはセレコウス朝シリアの王位に就いた。アンティオコス・シデテスの誕生であります。然る後、王はトリフォン追撃に移ったのでありました。
 ちなみにトリフォンが幼きアンティオコス6世を殺害して王位簒奪者としてシリアを支配したのは第13章でのことであります。
 この件と絡めて申しあげれば、本章は如何に「一マカ」がユダヤと直接かかわる相手以外に関心を持たないか、がわかる章でもある。実際のところ、われらは(すくなくとも「一マカ」からは)ドルを脱出したトリフォンがどうなったか、アンティオコス7世の追撃劇がどのようなものであったか、知る術がない。完全に放りっぱなし。ステージの袖に退場した人物についてどうなろうが知ったことではない、という執筆態度が露骨であります。
 その代わりとして(?)一マカ15は新たに登場した敵ケンデバイオスとの戦いに筆を進めて、最終章となる第16章では前半がこのケンデバイオスとの戦い、後半は裏切り者プトレマイオスとの戦闘を描く。
 秦剛平は「一マカ」を<プロパガンダ文書>と呼んでおりますが、この、マカバイ家・ハスモン朝と関わりなき事柄に関して、「一マカ」は一切筆を費やすことがない。この意味では確かに<プロパガンダ文書>の性質を帯びる書物ではありましょうが、或る意味に於いてこの態度は歴史書として非常に正しいといわざるを得ない。むろん、秦はそこから更に踏みこんだ地点で「一マカ」を<プロパガンダ文書>と呼ぶのですが、すくなくとも<歴史書>という観点から見ればその呼称は小首を傾げる部分があるように思えてなりません。
 アンティオコス・シデテスがシモンの援軍派遣を断り、却って態度を硬化させたのはどうしてだったのでしょうか。わたくしにはこのシモンの行動がどうも解せない。予めアンティオコス・シデテスからは、援軍が必要なときは別途依頼する旨連絡があったにもかかわらず、シモンは援軍を派遣しました。
 劣勢と見たわけではあるまい。戦いが長期戦になるため、シリア軍が補給を待ったり受けたりする間だけでもユダヤ軍が代わりにドル攻撃を受け持ちましょうか、という提案だったのかもしれません。援助は(こちらから依頼しない限り)不要と知らせたのにそれを破って送ってきたことと侮辱と感じたのかもしれません。
 むろん、古代の約束事が大抵すぐに反古にされ、「裏切り、裏切る」図式が常となっていたことを考えれば、ひとまずユダヤと戦わずに済む状況を(手紙を出すことで)作り出し、トリフォン討伐が済んだらすユダヤ攻撃に転ずる意思が最初からあったのかもしれません。書簡はあくまで<邪魔しないでね>というお願いの内容でありました。同盟を求めるものではなかった。邪魔立てしない見返りとして税の免除や債務一切の反故を約束した。側面から攻撃されないようあらかじめ根回しをしたのであります。
 いずれにせよ、このシモンの支援行動がアンティオコス・シデテスの地雷を踏んだことは間違いないでしょう。
 (或いは──と考えてしまう──、ユダヤとローマの同盟がアンティオコス・シデテスになにかしら影響を与える、変身させるところがあったのかもしれません。そんな風に思うてしまうぐらい、ユダヤとローマの同盟の件りはドル攻撃の間に不自然に挿入されたエピソードなのであります。)
 最後に余談ではありますが、アンティオコス・シデテスのドル完全封鎖は、第2次世界大戦に於ける独ソ戦の1つ、名高いレニングラード攻囲戦(1941年09月08日〜1944年01月27日)を想起させました。
 2年4カ月に及ぶ完全封鎖でレニングラードの市民は食糧を絶たれて飢えに苦しみ、赤痢が流行り、絶望状態にありました。それでも市民は耐え抜いた。死者は数10万人とも100万人以上ともいいます。ドルの町はいったいどうだったのでしょうか。
 なお、ショスタコーヴィチ交響曲第7番《レニングラード》の同市初演は、この攻囲戦の最中の出来事でありました(1942年08月09日 世界初演の約5カ月後)。



 聖書の読書を始めて13年になります。その間、殆どの時間を聖書と一緒に過ごしてきました。
 別のいい方をすれば、登場する人物、舞台となる地に親しみを持つようになる、ということ。地図や写真を眺めながら文章を書いていると、否応なくかの地への興味、関心は高まり、実際に足を運んでみたくなるのは誰しもでありましょう。
 「一マカ」再々読ノートやその他聖書や歴史等々の文章を書いていると、パレスティナやエジプト、ギリシアやイタリアへ行ってみたくてたまりません。エルサレムとその界隈、ナザレやベツレヘム、ヨルダン川の東側。アンティオキア、ダマスコ。エジプト、アレキサンドリア、葦の海。スパルタ、コリント、アテネ、キプロス、そうしてローマ。
 仕方ありませんね。こんな風にコミットした読み方をしてくれば舞台となった大地の土を踏んでみたくなるのは、当然ではないでしょうか。
 かつてホームズを読んでベーカー街を夢に見、エミリ・ブロンテを読んでハワースを希求し、ワーズワースを読んで湖水地方に憧れ、プーさんを読んで100エーカーの森のモデルとなった場所へ心遊ばせる。英文学の舞台を訪ねたのと同じように、聖書に関しても、古代オリエントやエジプト、地中海世界について<聖地巡礼>をしてみたい。
 「マカバイ記 一」を読んでいて実はいちばん困ったことは、世情を顧みてどうにか鎮めることの出来ている風来癖がしばしば、頭をもたげてきてしまうたことでした。国内ではありませんから、たといCOVID-19がなくとも、かの地へ行くことは難しいでしょうが、それでもいつの日にかそこを訪れてみたいのです。◆

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第3248日目 〈マカバイ記 一・第14章:〈デメトリオス、捕らえられる〉、〈シモンをたたえる歌〉他with信仰について。【つぶやき・なう】〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第14章です。

 一マカ14:1-3〈デメトリオス、捕らえられる〉
 来たるトリフォンとの戦いに備えてデメトリオスはメディアへ遠征した。援助を請うためである。
 が、メディアとペルシアの軍勢に行く手を阻まれ、敗れて、デメトリオス2世は捕虜となり、監禁された。メディアとペルシアの王は、アルケサス、といった。
 セレコウス紀172年即ち前141年のことだった。

 一マカ14:4-15〈シモンをたたえる歌〉
 シモンを統治者に戴いたユダヤは全地で平和を満喫していた。「シモンは民のために善きことを求め、その権威と栄光は、日々、民に喜びをもたらした。」(一マカ14:4)そうして、「人々は安んじて地を耕し、地は収穫をもたらし、野の草木は実を結んだ」(一マカ14:8)のだった。
 (前章でユダヤ軍を駐留させた)港湾都市ヤッファを拠点に海上の道を開き、領土を拡大していった。汚れた物が取り除かれたゲゼルやベトツルの町にはユダヤ軍が駐屯した。町の防衛は強化され、食糧の備蓄も急がれた。要塞にはたくさんの捕虜が配置された。
 一マカ第14章は、シモンの業績を讃えてこう述べる。曰く、──
 「シモンは地に平和をもたらし、イスラエルは無上の歓喜に酔いしれた。人々は、おのおののぶどうの木、いちじくの木の下に憩う。彼らを脅かす者はいない。彼らに戦いを挑む者は一掃されて地上から消え、シモンが世にあるかぎり、王たちは砕かれた。シモンは民の低き者を残らず励まし、律法を順守した。シモンは、律法に従わず悪を行う者を根絶した。」(一マカ14:11-14)
──と。
 聖所には栄光がもたらされ、祭具類は数を増した。
 ハスモン朝の樹立とそれに伴う版図拡大、各拠点の強化防衛、平和の維持と民の生活の安んじて営まれていること、そうした事柄はシモンの名声と相俟って地の果てにまで知られていった。

 一マカ14:16-24〈スパルタからの書簡〉
 ヨナタンの刑死。それはローマに伝えられ、スパルタにも届けられた。スパルタ市民はその報せに嘆いた。
 と同時にスパルタ市民は、シモンがヨナタンの継いで指揮官と大祭司の任に就いていることを知り、これまでの友好と同盟関係をこの機会に更新すべく話し合った。その旨記した書簡は銅販に刻まれてユダヤへ送られた。その書簡はユダヤに着くと民の前で読まれた。
 スパルタとユダヤの同盟関係はこれによって確認、更新された。
 シモンはローマに対して重さ1,000ムナ(=約430キログラム)もある金の大盾を贈った。同盟更新の確認のためである。

 一マカ14:25-49〈シモンをたたえる碑〉
 外国との友好・同盟更新を聞いたユダヤ人たちは、シモンを讃える文章を刻んだ銅販をシオンの丘に建てた。その碑文に曰く、──
 セレコウス紀172年即ち前141年、エルルの月18日、大祭司シモン第3年にアサラメルで開かれた集会にてわれらは次の内容を確認した。つまり、──
 シモンは侵入してくる敵へ果敢に挑み、そのため私財を抛って兵を雇い、給与を払い、軍を指揮した。各地の要塞や砦を強化し、城壁を高く強固にし、占領地にユダヤ人を入植させた。復興のために力を惜しまなかった。
 「民は、シモンの信仰を目の当たりにし、彼の念願した民の栄光が実現したのを見て、シモンを彼らの指導者、大祭司に立てた。それは、彼がこれらすべてのことを成し遂げ、民のために正義と信仰を守り、あらゆる手を尽くして民を高めようとしたからである。」(一マカ14:35)
 エルサレムに於いては要塞を築いて自軍の拠点とし、異邦の敵兵を放逐して聖所に神聖さを取り戻し、都の防備を固めた。
 シモンがローマ、スパルタとの同盟・友好関係を結んだことを知ったデメトリオス2世は、シモンの大祭司職を承認した。シモンはマタティアの子、マタティアは祭司を家業とするヨヤリブ家の流れを汲む者であるから、大祭司職の任に就くのは不当なことではない。
 民であれ祭司であれ何人と雖もシモンの命令を拒否したり反抗することは認められない。シモンの許可なく集会を催しすことは禁じられる。紫の衣、黄金の飾りを身に付けることも御法度である。違反者、拒否者は罰せられる。
──以上。
──これが碑文の内容であった。
 この碑文は聖所の目に付く場所に設置された。写しが作られ、それは宝庫に収められた。シモンとその息子たちがいつでも閲覧できるようにである。
 「民全体は、これらの決議に従って、シモンに権限を与えることをよしとした。シモンはこれに同意し、大祭司職に就くこと、また総司令官となって、祭司たちを含むユダヤ民族の統治者となり、陣頭に立つことを快く承諾した。」(一マカ14:46-47)

 デメトリオス王がシモンの大祭司職を承認(実際は追認であったろう)したのは、シモン/ユダヤがローマやスパルタと友好・同盟国になったことを知ったからでした。
 ローマとスパルタは、シモンが大祭司としてまた、ユダヤの総司令官として職務に勤めることを良しとして、これにかかわる権限を数多与え、全イスラエルを掌握し、すべての文書はかれの名前で発行され、また紫の衣や黄金の飾りを纏うことを認めた。
 台頭してきた列強国と手を結んだユダヤを、もはや自分一人の胸先三寸でどうにもできなくなったことを知ったからであります。シリアもこれまで以上にユダヤとの関係を良好に保ってゆかねばならない、そんな焦りがデメトリオスをしてシモンの大祭司職承認を促したのでしょう。
 シモンを讃える碑文の「シモンはマタティアの子、マタティアは祭司を家業とするヨヤリブ家の流れを汲む者であるから、大祭司職の任に就くのは不当なことではない」という文章は、わたくしの判断で添えました。
 強国の首長(シリア)、或いは最高意思決定機関(ローマ、元老院)によってシモンの大祭司職は対外的に認められた。が、実際のところ、シモンに大祭司職を継ぐ資格はないのです。
 といいますのも、大祭司職に就くことができるのはレビ族でもアロンの家系、エレアザルの家系、ツァドクの家系に連なる者のみだからであります。マタティアの属するヨヤリブ家はいうなれば傍系の家系、祭司職に就くことはできても大祭司になるなんぞ以ての外。
 律法に違反する行為をやってのけたシモンの立場を正当化するための諸外国からの承認取り付け、碑文への記載であったように思えます。即ちそれは民の純粋な総意で決定された碑の建立、刻まれる文章の執筆ではなく、シモンを頭とするハスモン朝の圧力を受けて為されたものである、という見方ができてまいります。
 この時代から大祭司職はシモンの子孫が、ハスモン朝滅亡まで継承せられますが、この職業は政治的側面を帯びて、否、むしろそちらの方が濃くなってゆきました。
 シモン礼讃(正当化)の碑が建立されたエルルの月は第6の月、グレゴリオ暦では8月/9月にあたります。
 そのシモンがローマヘ贈った金の大楯、その重さは約1,000ムナ、とあり、本文中に約430キログラムと添え書きしました。換算方法ですが、1ムナ=100ドラクメ、1ドラクメ=約4.3グラム、というのを踏まえて、100×4.3=430。ゆえに430キログラム、といたしました。
 ややこしくなるかもしれませんが、ドラクメ、とはギリシアの通貨単位でもある。これは、ローマの通貨単位、デナリオン、と等価でもある。即ち、1ドラクメ=1デナリオン。なにがいいたいか、と申しますと、マタ20<「ぶどう園の労働者」のたとえ>にある1日分の労働の賃金で印象的な1デナリオンを想起させた、というに過ぎない。寄り道に付き合ってくださったことに感謝。
 さて。
 シモンは港湾都市や異教の町を制圧、各地に軍隊を置いたことで、ユダヤの版図を拡大してゆきました。マカバイ戦争時代のユダヤ領土の地図がありますが、これを見ると如何にシモンの時代にユダヤが領土を拡張していったか、よくわかります。
 が、急速な版図拡大は1つの問題をもたらした。領土を維持するだけの軍隊、兵士をもはやこれまでのユダヤ軍内からは調達できなくなっていったのです。兵士の養成にも限界があります。そこで、ではシモンはどのような手段を採ったか。
 それが捕虜の活用であります。捕虜をユダヤ化して、拡大されてゆく領土、その各所に築かれた要塞や砦にかれらを配置して、防衛の任にあたらせたのでありました。急速な領土拡大の背景には武力侵攻があり、捕虜の存在があるわけなので、かれらの活用は至極当然のことと思えます。
 <シモン・ドクトリン>、とでもいえましょうか。



 個人の信仰と家の宗教は別であります。個人の信仰と興味嗜好も別物です。それを快く思わない者が、「お前のためを思って」なんて大義名分をかざして弾圧に走る。違うだろうか?◆

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第3247日目 〈マカバイ記 一・第13章:〈シモン、ヨナタンの後を継ぐ〉、〈シモン、一族の記念碑を建てる〉他with<昭和から平成>へ〜伊勢佐木モールの場合。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第13章です。

 一マカ13:1-24〈シモン、ヨナタンの後を継ぐ〉
 トリフォン未だユダヤを討ち滅ぼすを諦めず、プトレマイスからユダヤ領内へ侵入した。ヨナタン未だシリアに抑留されるも存命であった。ユダヤ未だ指導者を戴かず、民はシモンにその役を求めてシモンは了承した。
 エルサレム城壁の修復が急ピッチで進んだ。防衛強化の一環として兵の増強が図られた。港湾都市ヤッファをユダヤ軍は制圧した。今後の海上通商を有利に進めるためである。ヤッファには守備隊が駐留した。シモンは軍を率いてエルサレムを出た。領内に侵入したトリフォンの軍勢を迎え撃つべく出撃したのである。
 ハディドに陣を敷いたシモンのところへ、トリフォンの伝令がやって来た。曰く、──
 ①ヨナタンがいまわれらの側にいて捕らえられているのは、国庫に納めるべき金銭を偽るという職業上の過失を犯したためである。
 ②これは現時点で解決されていない。
 ③銀100タラントンを支払えばヨナタンの過失は不問に処し、またヨナタンの息子2人をわれらに送れば捕虜たるヨナタンを解放する。
 ④シモン、汝に100タラントンを支払う意思並びにヨナタンの子供を送る意思の有るや否や。
──と。
 誰一人信じる者はなかった。が、ヨナタン釈放のため銀100タラントンは支払うことにした。後代の奇禍を避けんがためである。また、同じ理由でヨナタンの子供を差し出すことにもした。
 が、トリフォンは案の定、前言を翻した。銀と子供を手に入れた上、ヨナタン釈放も実行しなかったのである。トリフォンは軍を進めてユダヤの地深く喰いこもうとしたが、アドラを目指す途中でシモンの軍勢の抵抗に遭い、退却を余儀なくされた。
 エルサレムの要塞に駐屯するシリア兵は孤立した(ex;一マカ12:36)。かれらはトリフォンに荒れ野を迂回してくるよう懇願したが、トリフォンは折しも吹き荒れた大雪に立ち往生してギレアドへと更に後退せざるを得なくなってしまった。
 ギレアドを経由してプトレマイスへ戻る途中である。ゲネサル湖北岸の町バスカマに来たとき、トリフォンはヨナタン処刑を命じてそこに埋めさせた。

 一マカ13:25-30〈シモン、一族の記念碑を建てる〉
 シモンはバスカマに人を遣わした。ヨナタンの遺体を取り戻すためだ。
 埋葬地はモデインである。父マタティア、兄弟たちの墓の上に記念碑を建て、7つのピラミッドと石柱を設けた。シモンによってモデインに作られたこの記念碑は、いまでもそこに残っている。
 全イスラエルがヨナタンの死を何日にもわたって嘆き悲しんだ。

 一マカ13:31-48〈シモンの第一年〉
 マタティアはおそらくは老衰で歿してユダがあとを継ぎ、ユダは戦死してヨナタンが次の指導者となり、ヨナタンは処刑されてシモンが指揮官と大祭司職を継いだ。そのシモンの年、第1年目である。
 遂にトリフォンは幼きアンティオコス6世を殺害してシリアの王位に就いた。アジアの王冠を戴いたトリフォンはこの地に大きな災いを引き起こしてゆく。
 シモンはユダヤ各地に砦を築いてその周囲に塔や城壁を築き、門に閂を設け、砦には多くの食料を備蓄した。またデメトリオス2世に使者を送り、トリフォンの略奪行為によってユダヤの財政が逼迫したことを伝えて税の免除を願い出た。王の返書に曰く、──
 ユダヤに課している諸々の税を免除するよう担当者に申し伝えた。これまであなた方が犯してきた過失や罪はこの機会に赦そう。ユダヤの兵士のなかでわが軍へ加わるに相応しき者があれば登録せよ。われらの間に平和があるように。
──と。
 セレコウス紀170年即ち前143年、イスラエルは異邦人の軛から解放された。南王国以来のユダヤ人による独立行政自治体、ハスモン朝の始まりである。イスラエル人の発行する公文書や契約書には、シモン第1年、と年号が記されるようになった。
 その頃、シモンはエルサレム北西平野部の町ゲゼルへ向けて陣を敷いてこの町を包囲、攻撃した。町へ雪崩れこんできたユダヤ兵たちに異教を信奉する住民は城壁に逃れて、戦いをやめてくれるようシモンに嘆願した。シモンはこれを諒承して、戦いは終わった。
 異教徒に支配された町、ゲゼルから連衆を追放するとシモンは、偶像を祀っていた家々を清め、讃美と祝福の歌をうたいながら町へ入った。斯様にして町から汚れたものが一掃された。一時無人になった町には、律法を順守する者を住まわせた。シモン自身もそこに住んだのである。

 一マカ13:49-53〈要塞の清め〉
 ところで。
 隔離されたに等しいエルサレムの要塞に駐屯するシリア兵は、町との往来や通信、通商もままならず、遂に餓死者が出るまでになった。シリア兵はシモンに慈悲を請うた。シモンはそれに応えた。シリア兵は要塞から追い出されて、要塞は清められた。
 「第百七十一年の第二の月の二十三日にシモンとその民は、歓喜に満ちてしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二絃を鳴らし、賛美の歌をうたいつつ要塞に入った。イスラエルから大敵が根絶されたからである。」(一マカ13:51)
 セレコウス紀171年即ち前142年のことである。
 シモンはエルサレムに移り、成人した息子ヨハネを全軍の指揮官に任ずると共にゲゼルへ住まわせた。

 ようやくシモン以下敬虔なるユダヤ人のグループは、エルサレムの完全奪還を果たした。
 エルサレムから異邦人は皆追放されて、ユダヤ人の手に都が戻ります。アンティオコス4世の聖所蹂躙がセレコウス紀第145年とされますので、実に26年ぶりのことでした。
 戦力的に必ずしも有利とは言い難い戦いが続きましたが、自分たちの国を取り戻そう、自分たちの軛をなんとしてでも取り払おう、という一念がその困難を克服させた。この戦争は武力と戦略によってのみ勝利したのではなく、これまで聖書に記されたどんな戦いよりも外交ルートを通して同盟と友好関係をフルに生かして得られた勝利でもある、と申せましょう。
 時代と環境が確実に変化していることに加えて、多国間の関わりの密なることや、通商ルートがオリエント地方・地中海世界に細かな網の目状に張り巡らされていることなど、改めて実感させられるところでもあります。
 デメトリオス2世がシモンに送った手紙のなかにあった、「今日までのあなたがたの過失や罪を赦そう」(一マカ13:39)は、ユダヤがローマやスパルタと同盟を結んだことをいうのかな、と考えてしまいますが、仮にそうだとしても恐らくそれだけではないでしょう。
 実際にユダヤ側に指摘されて然るべき過失等があったか不明ですけれど、むしろこれは、デメトリオスが終始ユダヤに対して上の立場にあろうとする気持ちがそういわせたのだろう、と思うのです。シリアの王から見ればユダヤ人の自治行政体なぞ属領同然で、その行政体の長はローマ帝国のように<王>と<地方総督>の関係にも等しかったでしょうから。
 シモンがモデインに築いた記念碑は、後1世紀まではその地に在った、とヨセフスは報告しております。ただ疑問なのは、「石柱の一本一本に永遠の名を記念して、甲冑を彫り込み、海路を行く者が皆見ることのできるよう、甲冑のかたわらに船を刻んだ」(一マカ13:29)とはどのような意味か、という点であります。
 記念碑とはわれらの感覚でいえば墓碑に相当するでしょう。それに甲冑や船(の絵)を刻む、とは、むかし吉村作治の古代エジプト・ミステリ番組で観た、ピラミッドの墓所に巨大な船が天地逆になって──要するに、墓所/棺と船の甲板が巨大な空間に向かい合わせになり、船底の部分が天井に埋めこまれている光景を思い出してしまいます。
 確かエジプトの雨期に因んだカラクリで、そのときピラミッドは上下が逆転して、天井に埋めこまれていた船が水面に浮かんで黄泉の国を目指して航海してゆくようになっている、とかそんな話だったように記憶します。
 ただこれも30年近く前のことなので、はっきりとした内容ではありません。そのとき耽読した吉村先生の著書も、火事の際処分してしまったか、なにかの折に売り払ってしまったか、で、手許にはありません。今度図書館でありったけの蔵書を借り出して調べてみましょう。



 昨日、テレビ東京の『出没! アド街ック天国』を観ました。テーマは伊勢佐木町。伊勢佐木モールを中心として、様々な店舗、名物、人物、懐かしい写真が放送された。
 どれだけの人が覚えているかわからないけれど、1980年代のモールは『あぶない刑事』撮影にも使われたことで、週末ともなれば凄まじい人いきれで、数10メートルおきにお立ち台(これまた懐かしい名詞だな)に立ったアルバイトの女子大生、フリーターがメガフォンで、「自転車は降りてくださーい!」とか「小さいお子さんをお連れの方は手を離さないであげてくださーい!!」とか、声掛けしていたものじゃった。
 え、そのときわたくしがなにをしていたか、ですって? オデヲンの5階にあった先生堂という県下最大級の床面積を誇った古書店に週末のたび出掛けて、3冊100円の文庫や映画のパンフレット、ちょっと奮発して、それでも数100円の文庫や単行本、新書を丹念に拾って、今日の蔵書の礎を築いておりました。たまに上階の映画館に行ったりね。そういえば1987年頃? 6階か7階にあったフランス料理店でクリスマス、家族で出掛けてディナーを摂ったことも、良い思い出だ。
 オデヲンからは道路を渡った斜向かいにある、いまは消費者金融とか怪しげ極まりないマッサージ店、貿易会社が入るビルの4階だったかな、やはり古本屋があって、買い物客には無料で珈琲1杯飲ませてくれたっけ。そういえばここの2階には喫茶店があって、一時期南蛮屋Caféと交互で入り浸ったっけな。
 とまれ、1980年代の伊勢佐木モールは現在からは想像附かないぐらいの人出でごった返していたのである。そう、歩くのも困難なぐらいであった。みんな、<イセブラ>しに来ていたんだね。
 が、それはバブルが弾けると途端に人の波は消え、モールはちょっと治安の悪い街になった。外国人が闊歩し始めて、裏道の雑居マンションに棲みつくようになったのは、この頃だ。
 昼間はともかく、夕方あたりから、いまのサンクス(だっけ?)や牛角のある辺りをあちらの筋の方々もしくは生活の崩れた衆が歩きまわり、大小様々な喧嘩も勃発しておった。警官はなかなか来なくてね。お店はシャッターを下ろしたまま再開することなく消えてゆくところあり、またその跡に入って商売する店もあり、で、出入りのすこぶる激しい時代であったのだ。
 南蛮屋Caféがそこに出来たのはこの頃であったろうか。ブックオフの向かいあたりにあったダンキンドーナッツはいつしか姿を消した。松坂屋は健在であった。ゆずが街頭ライヴを始めた頃だ。ドラッグストアはまだレコード屋さん(楽器屋さん、音楽教室)だったけれど、客の姿はまばらになっていた。吉野家は英会話教室NOVAだった。カレー屋さんはサンマルクカフェで、有隣堂本店の裏の同社ビルは文具専門店舗だった。いまのパチンコ屋はむかしマルイで、2階から上はHMV。丸井が(現在線路の反対側に建つマンションの前身であった店舗共々)撤退したあとはカレーミュージアムになり、パチンコ屋に鞍替えした。マリナード地下街の広場には滝が流れておった。……その他その他。
 ──『出没! アド街ック天国』を観て懐かしさが湧き起こり、物悲しさを覚えた。わたくしにとって<昭和から平成へ>、その象徴はこの伊勢佐木モールかもしれない。◆

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第3246日目 〈マカバイ記 一・第12章:〈ローマおよびスパルタとの友好関係の更新〉、〈ヨナタンとシモン兄弟の戦いぶり〉他with簡単に今年を総括してみた。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第12章です。

 一マカ12:1−23〈ローマおよびスパルタとの友好関係の更新〉
 ヨナタンはこの機会に、ユダ・マカバイの時代に結ばれたローマとスパルタとの友好関係を更新する手筈を整えた。ローマへの使者──アンティオコスの子ヌメニオスとヤソンの子アンティバトロス──は元老院の議員と面会し、同盟関係の確認と更新の約束を取り付けた。元老院は諸地方の役人に宛てた書簡を2人に与える。ユダヤからの使者がぶじ帰国できるよう配慮せよ、という内容だった。
 同様にヨナタンはスパルタへも使者を遣わした。携えさせた書簡に曰く、──
 かつてスパルタの王アリオスからわが国の大祭司オニアスに宛てて、同盟と友好を示した書簡が送られてきた。ユダヤはこの度スパルタとの同盟と友好関係の更新をお願いしたく、ここに使者を遣わします。ご検討いただき、是非にも良いお返事をこの者らへ持たせて下さいますように。
──と。

 一マカ12:24−38〈ヨナタンとシモン兄弟の戦いぶり〉
 デメトリオスの指揮官たちが以前より規模を増した軍隊を再編成して、ユダヤと戦う準備を進めていることをヨナタンは知った。そこでヨナタンはエルサレムを出てハマト地方へ出陣、デメトリオス軍と刃を交えてユダヤ領内への侵入を許すことなく戦ったのである。
 敵の陣営に潜りこませた偵察兵から報告があった。夜襲の準備をしている、という。ヨナタンは味方の陣営に迎撃準備の号令を掛けた。その様子が却って敵の士気を鈍らせ、退却させた。
 が、ヨナタンは敵軍が撤退したことを朝まで知らなかった。敵陣にかがり火が煌々と焚かれたままだったからである。追ったが、敵はもう追いつけない場所にいた。
 追撃を諦めたヨナタンは矛先を転じて、今度はザバダイと呼ばれるアラビア人たちを討ちにかの地へ入り、それを打ち破り、略奪し、ダマスコとその地方全体を駆け巡った。
 一方シモンはアシュケロンとその近郊の砦を討ち、ヤッファを落とし、守備隊を駐屯させた。
 戻ってきたヨナタンは民の長老たちを集めてユダヤの領内に砦を築き、エルサレムに高い城壁を築いて要塞と町を分断することに決めた。
 「人々は町の建設のために集まってきた。(エルサレムの)東側の渓流沿いの城壁が一部破損してたからである。ヨナタンはカフェナタと呼ばれる城壁の部分を修復した。シモンは、セフェラにあるハディドを再建し、これを強化し、門とかんぬきを付けた。」(一マカ12:37-38)

 一マカ12:39−53〈トリフォン、ヨナタンを捕らえる〉
 前章にて幼いアンティオコス6世を擁立したトリフォンには野心があった。王を亡き者にして自ら王冠を戴きアジアの王となろうというのである。そのためにはヨナタンが目障りだった。そこでトリフォンは軍隊を率いてベトシャンに入り、ヨナタンが軍勢を連れて出てくるのを待った。
 果たしてヨナタンは来た。トリフォンは自らに戦意のないことをヨナタンに説き(<軍隊を引き連れているのは戦うためではない、巡視の警護である>というのがトリフォンの主張であったろう。そうしてそれを疑う根拠はないのだった)、率いる兵の数を減らしてあなたの兄弟シモンが収めるプトレマイスへ一緒に行こう、と誘った。来てくれればプトレマイスや他の町に駐留させているシリア軍、こちら側の砦、皆あなたに引き渡して、私はアンティオキアへ帰りましょう。
 こんな話を信じてついてゆく者が、いったいあるだろうか? 嗚呼、あったのである。ヨナタンはトリフォンの言葉を信じて率いる兵を1/3まで減らしてプトレマイスに向かい、そこで殺された。町に入ったユダヤ軍も全滅させられた。
 帰国途中のユダヤ軍はヨナタンの死を知ると、後ろから追ってくるシリア軍を迎え撃つ準備をして、これを待った。が、シリア軍は、ユダヤ軍が命懸けでこの戦いに臨む覚悟なのがわかると、戦うことなく後退していった。プトレマイスに入ることなく帰路に就いたユダヤ軍はこうして1人の死傷者も出さずに、エルサレムへ帰還した。
 全イスラエルがヨナタンの死を嘆き、悲しんだ。セレコウス紀170年即ち前143年である。
 周辺の異邦人はヨナタンの死を、ユダヤを攻撃する好機と捉えた。
 
 なんだか今日は感想が短くて済みそうです。こんな日が偶にはあっても、良い。
 ローマとスパルタとの関係は継続される。古代社会では指導者が代わる都度、相手国との友好や同盟が見直されて更新されることが多かった、といいます。ヨナタンもこの慣習に倣ったのでしょう。むろんそこには、シリア国内の乱れも関係していたはずです。先の反乱でデメトリオス2世はひとまず大人しくしているようだし、アンティオコス6世はユダヤに対して好意的である──ならば海を渡ってローマへ人をやり、懸念事項であった同盟更新を取り付けるのは、いまを措いて他になし、となるのは当然であります。為、2人の使者が派遣された。
 ここで小首を傾げてしまうのは、スパルタの王とユダヤの大祭司との間に、既に同盟と友好を目的とする手紙が交わされていた点であります。これが事実なのか、「一マカ」著者の創作なのか、定かではありません。
 事実と仮定すればそれは、大祭司職にオニアスが就いていた頃というので、ユダヤではまだ律法があまねく機能し、アンティオコス4世の暴虐も及んでいなかった時代となります。当時ユダヤの指導者であった大祭司オニアス(〈前夜〉では「オニア」と書きました)がスパルタとの同盟・友好に踏み切ったのは、以下3点の理由が考えられるように思います。つまり、──
 ①ユダヤを取り巻く諸外国の動静──就中エジプトとシリアの対立が念頭にあったか。隣接地域やアラビア地方の異邦人の動向も気掛かりであったろう──キナ臭くなってきたこと、
 ②かつてのイスラエル王国がそうして滅んだように外敵から身を守るためにはそれよりも更に強力な国家と手を結んで有事の際に協力を求められる相手が必要である、と考えたこと、
 ③折しもスパルタの王から送られてきた手紙に、「(スパルタ人とユダヤ人が)兄弟であり、アブラハムの血筋であることが確認された。我々はこのことを知ったので、あなたがたの繁栄ぶりをぜひとも知らせていただきたい」(一マカ12:21-22)と書かれていたこと、
──であります。
 このオニアが大祭司職に在ったのは前196年頃から前175年、アンティオコス4世の即位は前175年といいますので、スパルタと関係を結んだ時期は詳らかにできません。スパルタの王アリオスが特定でき、その在位期間が判明すれば良いのですが。
 『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』の脚注はこのアリオスをアレウス1世(在位;前309-265年)と仮定した上で、この時代に大祭司職に在ったオニアス1世もしくは2世との間に手紙のやり取りはあり得たとする学説を紹介しております(P155)。ちなみに前段にてわたくしが念頭に置いた「オニア」はオニアス3世でありました。
 いずれにせよその当時のユダヤが地中海世界の諸権力との結びつきを求めて活動していたことは、『スタディ版』の註釈を待つまでもなく、十二分に考えられることといえましょう
 さて──ヨナタンが謀略に嵌まって命を落とした。
 異邦人はこれをユダヤ攻撃の絶好の好機と捉えたらしい。闇雲に攻めてゆくのではなく、敵が内部で弱体化したタイミングを狙って攻撃を仕掛ける。旧約聖書、ヨシュアや士師の時代からちょっとはかれらも成長したようです(当たり前か)。とはいえ、「一マカ」がこのあと、異邦人のユダヤ攻めを記録した様子はありません。考えただけで攻めることはなかったのか、或いは攻めても小競り合い程度の規模で記すに値しなかったのか。
 この時代の歴史を複眼で捉えて書き留めた文書ではありませんから当然かも知れませんが、ここに書き留められなかった歴史がどれだけあったのか、を考えると、ちょっと欲求不満になってしまいます。ヨセフスや他地方の同時代史を掻き集めて自分で歴史を再構築するしかないわけですが、まぁそういう愉しみを残してくれたことに感謝すべきかもしれませんね。
 〈ヨナタンとシモン兄弟の戦いぶり〉の引用箇所に出る、ヨナタンが修復した城壁「カフェナタ」とシモンが再建・強化した「セフェラにあるハディド」について。
 カフェナタは長野県伊那市や香港のマカオに同名カフェがある由。が、いま検討すべきはそれではない。エルサレムにある城壁で、一マカ10:10-11で始まったヨナタンのエルサレム再建計画が続行されていることがわかります。では、そのカフェナタは、エルサレムのどこにあるのか(あったのか)ですが、特定は難しい作業となる。
 といいますのも、各時代のエルサレム地図を披見しうる範囲で見ても該当する城壁が見当たらないからです。フランシスコ会訳聖書の当該箇所註釈にカフェナタの語義不明とした上で、「一説によると、アラム語のカフラタ、すなわち二重の石垣を意味し(王下22・14の『エルサレムの新しい町』を指す)」(P1169 註6)とする。エルサレムを囲む城壁の一部、但しどの部分を指すか未詳、というのが現時点での調査結果であります。
 ……各時代に於けるエルサレムの地図、それも考古学の成果を十全に備えた地図があれば良いな、と思います。ダビデの時代から南王国陥落時、エズラ・ネヘミヤの再建/第二神殿時代からハスモン朝を経てヘロデ王の時代までの、エルサレムの発展、破壊を俯瞰できるような、薄手のトレシング・ペーパーを何枚も重ね合わせて作った地図があれば、こうしたときの調べ事にとても役に立つのですが……。自作するか。
 「セフェラにあるハディド」はシモンが再建指揮を執り、かつ防備を強化していることから、アンティオコス6世から与えられた(一マカ11:59)地中海沿岸地域にある町と想像できます。そうしてハディドは、シモン時代のユダヤ国境から然程離れていない場所にある町でありました。
 「セフェラ」は「シェフェラ」として「オバデヤ書」第1章第19節に載る。曰く、「彼らは、ネゲブとエサウの山、シェフェラとペリシテ人の土地を所有し」と。シェフェラは地中海沿岸の平野とユダヤの山岳地帯の中間あたりに位置する丘陵地帯といいます。この丘陵地帯にあるハディドの町をユダヤ防衛の要衝と捉えてシモンは、再建と防備の強化に乗り出したのでありましょう。



 いつの間にやら師走は中葉を過ぎて後半戦。なんと来週末はクリスマス・イヴですよ。今年、2021年を総括すると、──
 様々な裏切りと背信の上に幸福を築いた1年、でありました。
 一緒に仕事した人々に背を向け、恩ある人の世話を裏切りという形で反古にし、自分の首を自ら絞めてカツカツの生活を送った。裏切りと背信の代償として、幸福なる生活と安定した財政を手に入れた。良き哉、良き哉。
 このお話はまた改めて、暮れまであと数日というときにしましょう。なお、──
 しあわせに暮らせていますか? しあわせを与えられていますか?◆

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第3245日目 〈マカバイ記 一・第11章:〈エジプト王の野心と死〉、〈ヨナタンの巧妙な駆け引き〉他withセネカの言葉、ストア派を読んだ一昨年の晩秋。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第11章です。

 一マカ11:1-19〈エジプト王の野心と死〉
 エジプト王、プトレマイオス6世フィロメトルにはアレキサンドロス5世の王国を手中に収める企みがあった。
 そこでエジプト王はデメトリオスと協定を結んだ。そのため、いちどはアレキサンドロスに嫁がせた娘クレオパトラ・テアをデメトリオスの妻に与える。斯くしてエジプトとシリアはわずかの友好の季節を解消し、ふたたび敵国同士となった。
 その頃、アレキサンドロス5世はアンティオキアを留守にしていた。北西のキリキア地方へ反乱鎮圧に赴いていたのだ。プトレマイオス王の企みを知ったアレキサンドロス王は身の危険を感じ、アンティオキアへは戻らず、息子や部下たちを連れてアラビアの砂漠地方へと逃げこんだ。
 が、かの地でアレキサンドロス5世はアラビア人のザブディエルに殺されたのである。首はプトレマイオス王の許へ届けられた。そのプトレマイオス6世はその数日後に崩御した。
 そうしてデメトリオスがシリアの王位に就いた。デメトリオス2世の誕生である。時にセレコウス紀167年即ち前146年。

 一マカ11:20–29〈ヨナタンの巧妙な駆け引き〉
 ヨナタンの許にデメトリオス2世からの伝令がやって来た。伝令は王の命令を伝えに来たのである。曰く、エルサレムの要塞を攻撃する準備をしていると聞いたが本当か、もし本当ならただちにその仕度をやめて、プトレマイスに来て事情を説明してもらえないか、と。
 ヨナタンは命令を無視する気持ちでいたが、プトレマイスには赴くことにした。長老と祭司から同行者を選び、多くの贈り物を携えて。
 王の歓迎を受けたヨナタンは、大祭司職をはじめとする自分が与っている栄誉を共々確認したあと、その場を利用して交渉を持ちかけた。即ち、ダヤ、アファイレマ、リダ、ラマタイム、サマリア各地方の租税免除の嘆願と、その代わりとして300タラントンを支払うという申し出である。
 デメトリオス2世はこれを快く承諾し、ヨナタンに確認の書簡を送った。「父ラステネスへ書き送る書簡と同じ内容を、ヨナタンに送る」と始まるその書簡に曰く、──

 一マカ11:30−37〈ヨナタンにあてたデメトリオス王の書簡〉
 私デメトリオス2世は以下の恩恵を、忠義のユダヤ人に与える。
 01;ユダヤ全土とアファイレマ、リダ、ラマタイムの3地区をかれらの土地として承認する。
 02;エルサレムでいけにえをささげるすべての者から、地の産物税と果実の税を廃止する。
 03;これまで私が受けとっていた各種の税、即ち十分の一税、塩税、王冠税、他の諸税すべてをかれらに譲渡する。
 04;今後永久にこれらの事項に関して取り消されることがあってはならない。
──以上。
 王はこの書簡を、聖なる山の目立つところへ掲げさせた。

 一マカ11:38-53〈ヨナタン、デメトリオスを援助する〉
 デメトリオス2世の領内には平穏の日々が続くようになった。反乱を企てる者も、その動向を知らせる報も絶えた。そこで王は異邦の島々から雇った騎兵部隊だけ残して、自前の軍隊を解散させて兵を故郷へ帰した。これが兵士たちの不満の種となった。
 さて、アレキサンドロス5世に仕える武将に、トリフォンという者がいた。かれは兵士たちの不平不満の声を聞き、秘かにアラビアへ出発した。先王の遺児でいまはアラビア人イマルクエに育てられているアンティオコスを還してもらい、これを担いで反デメトリオス戦の狼煙をあげようというのだった。交渉は順調に進み、返還は為され、トリフォンはシリアへ急行した。
 刻を同じくして、反デメトリオスの運動が湧き起こった。市民が波のように王都へ押し寄せた。デメトリオス2世はヨナタンに救援を依頼した。ヨナタンは精鋭3,000人を送りこみ、反乱を鎮圧させた。反デメトリオスの運動に参加していた人々は消沈し、投降した。
 そもユダヤ軍の派兵は同盟ゆえとはいい切れぬものがあった。デメトリオス2世が自国の反乱鎮圧を要請してきたのに乗じて、ユダヤ国内に駐留するシリア軍の撤退を求めてそれを王が承諾したからである。この一件のおかげでユダヤ人たちは面目を施した。
 が、王座に戻ったデメトリオス2世は国内にふたたび平穏が戻ったと見るや、ユダヤからの軍撤退を反故にし、その後もヨナタンたちを悩ませ続けたのである。

 一マカ11:54-74〈アンティオコスとヨナタンの同盟〉
 トリフォンがアンティオコスを連れて帰国した。幼きアンティオコスはアンティオコス6世として王位に就き、新たな王の許へ解雇された兵たちが集まった。かれらはデメトリオス2世に戦いを挑んだ。デメトリオス2世は敗走した。トリフォンは象部隊を率いてアンティオキアを制圧した。
 斯くしてデメトリオス2世のシリア単独支配は終わり、このあと数年の間、2人の王がシリアの王位に在った。セレコウス紀168年即ち前145年のことである。フランシスコ会訳聖書当該箇所の註釈に拠れば、シリア東北部の民がデメトリオス2世を支持し、西部地方の民がアンティオコス6世を支持した、という(P1163 註14)。
 アンティオコス6世はヨナタンに書簡を送り、改めてのユダヤ自治とヨナタンの職掌を確認し、兄弟シモンを「『ティルスの階段』から、エジプトの国境に至るまでの地域の総司令官に任命した。」(一マカ11:59)この地域にはプトレマイス、アシュケロン、ガザなどが含まれる。
 ヨナタンは王から与えられた地中海沿岸地域の町の平定にあたった。シリア軍のすべてが同盟軍としてかれの下に従いた。アシュケロンを平定し、ガザでは抵抗に遭ったが周辺都市に火を放ち、略奪する様を見せつけたことでこれも平定した。
 それから(エルサレムを擁す)ユダヤ地方を西に横断、ヨルダン川を渡りギレアドを通過して北上、ダマスコの町へ向かった。更にデメトリオスの残党部隊が兵力を集めてガリラヤのケデシュに入ったことを知ると、これを撃破した。また、ゲネサル湖畔に陣を敷きハツォル高原に進軍して異邦人の軍隊を相手に戦ったが敗走、が、再戦を挑んで今度はこれを撃破した。
 シモンはベトツルに向かって陣を敷き、数日にわたって攻撃を繰り返して、敵を降伏させた。
 ヨナタンもエルサレムへ帰ってきた。

 本文にも反映させましたが前145年からシリアは2人の王を擁して、内紛が続きます。最終的にはデメトリオス2世がアンティオコス6世を退け、かつ弟のアンティオコス7世に代わってふたたび王位に就くのですが、これはまだしばらく先のお話です(前129年)。
 なお『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』P114の一覧「マカバイ記一・二におけるセレコウス朝とユダヤ教の指導者」には1箇所、誤植がございます。「アンティオコス4世エピファネス(前145-142年)」は「アンティオコス6世」が正しい。この本を読んだり参照される際は十分お気を付けください。それとも重版かかって誤植は訂正されているのかな?
 さて、そのデメトリオス王ですが、本章で自国の軍隊を解散させる、という愚挙に出ます。平和が続いているから軍隊は不要である、という論が王自身から出たのか、或いはクーデターの首謀者格の役人が吹きこんだのか、定かでありません。が、結果としてトリフォンの王位簒奪をやりやすくする行為でもありました。
 反デメトリオスのクーデターは、解雇されたシリア軍人が発火点になったことはまず間違いない。解雇された兵の、再雇用や家族の生活保障もないまま路頭に放り出した王への怒りは、如何程だったでありましょう。そこに、シリア軍の武器製造や部品の調達にかかわる商人たち、保管庫の担当者や軍務に携わるあらゆる人たちの不満がそこに合流。それが飛び火して一般市民が常に政治や官僚に対して抱く不満や不平を爆発させる。斯くして「異邦の島々から雇った傭兵部隊」(一マカ11:38)だけでは鎮められない、激情に駆られた反乱の出来上がりであります。
 反乱はいちおう(王の要請を受けた)ユダヤ軍の介入により収まりましたが、正直なところ、よくデメトリオスの王位が揺るがなかったな、と思うのです。ユダヤ軍が助勢したから詳しく書き留められたのでしょうけれど、他国の反乱鎮圧の要請を承けてユダヤ軍が──イスラエルが動いた例というのは、あまりなかったように記憶します。エジプトのファラオがバビロニア軍を攻撃するにあたって南王国ユダが援軍を差し向けた、というのはありましたが……。
 このようにデメトリオス2世の国家運営には根本的致命的な欠陥がありました。軍隊を解体した国家が自国で有事に遭遇した際、外国の救援を頼まねばならない状況になるのは必然。軍隊を解散させた時点で想定しておくべき事柄でありました。脳ミソが蕩けてお花畑が咲き誇っていたのでしょうか。有事の勃発を念頭に置いて行動できぬリーダー、危機管理能力の欠落したリーダーをトップに戴いた組織こそ哀れなるべし。まるでどこかの国みたいな泰平天国ぶりでありますな。
 そも反乱が起こった際、傭兵部隊はなにをしていたのですかね? 先に賃金を要求したのでしょうか。それともちょっとだけ戦って、手に負えないと見るや海を泳いで帰ってしまったのか。
 解雇されて食いっぱぐれること、自分は勿論家族も養えなくなること、生活の保障がなくなること、かつ残されたのが=優遇されたのがいわば外人部隊であったこと、この4点が大雑把にいえばシリア軍人の、政府ならびに王への反感を募らせる結果となった。まぁ、そうなるわな。
 王は良かれと思うたかもしれないが配慮不足、残すべき人材の選択を間違えました。これが件の反乱につながってゆくのですが、このとき解雇された兵たちは、新たに即位を宣言したアンティオコス6世の下に集まってきて、元の雇い主に戦いを挑んでゆく。積もり積もった怨みつらみがかれらを動かしたでありましょう。その勢いに推されたか、デメトリオス2世は敗れて敗走したのでありました。



 一昨年の秋であった。気鬱な田舎への旅であった。終われば2度と遭わずに済む、顔を合わせる用事がなくなることだけが救いだった。
 先祖来のお墓を終うことにしたのである。たまたま生き残っただけに過ぎない叔父のしゃしゃり出に愛想を尽かし、一気に片を付けて縁を切る覚悟を固めたのである。
 祖母から騙し取った兄弟名義の株や債権の名義変更を巧みに行って、換金した数1,000万をすべて自分のものにして子供3人を育てて自宅をリフォーム、会社も興した叔父である。そんな薄汚く後ろめたいお金で育てられたアレの息子娘たちは、その事実を知っているのか。
 とまれ、いまは顔を合わせることも年始の挨拶もしなくて済んでいる。アレとその妻、子供たちが死んでも葬儀の席に出向くことはないだろう。こちらも連絡はしない。これ以上の平等がどこにあろう? 文句を言われる筋は、どこにもない。覚えておけ。
 さて、本題。
 田舎への電車のなかで、セネカを読んだ。『孫子』にするか迷ったが、洒落にならないのでセネカを選んだ。戦争するつもりでいたからその前にクラウゼヴィッツ『戦争論』にも目を通したが、これは流石にお門違いも良いところだった。
 で、セネカである。心をなるたけ平坦にしておきたかったのである。闘争心に火を注ぐ読書ではなく、むしろ逆に静穏に努めたかった。ページの片隅をいちばん多く折ったのは、「心の安定について」である。これを契機に古代ギリシアの哲学者たちを読むことも増えてきた。
 そのセネカのなかで特にそのとき、心に響いたのは、こんな一節であった。曰く──
 「まんまと成功した悪事の山が、どれほどあるだろう。あるいは、貪欲が、どれほどの利益と損害(いずれも忌まわしいものだ)を得ているだろう。……そんなもののことを考えていると、まるで、徳が次々と消え去っていくかのように、精神が闇に包まれていく。……だからこそ、われわれは、ものの見方を変えなければならない。人々が持つ欠点すべてを、忌まわしいものとは思わずに、笑うべきものと思うようにするのだ。……だから、われわれは、なにごとも軽く見るようにし、心を楽にして、ものごとに耐えるべきなのである。人生を嘆き悲しむより、笑い飛ばしたほうが、人間的なのだ。」(P254-246 中澤努・訳 光文社古典新訳文庫 2017/03)
──と。
 ここを読んだのは、大きな山また山を越えているときだった。もうすぐ田舎に到着する、という時刻だ。それまでは鬱々として、ともすれば自分でも制御不可能なぐらいの凶暴性が露わになりそうなのを必死こいて抑えつけていたのが、セネカのこの一節を偶然ながら読んで鎮まったのである。単純という勿れ。親族と争うこと程気が重く、さっさと蹴りをつけたいと望むことはないのだ。モナミ、あなたも経験してご覧、わかるから。
 話がすべて終わり、連衆が帰ったあとはその場で全身から一気に力が抜けてゆくのを感じた。相手が自ら掘った墓穴に気附かぬままなのを苦笑しながら、味方の親戚が出してくれたビールを業者さんと一緒に飲んだ。美味かった。帰りの電車のなかでは放心状態が長じて、乗り換えたあとはぐっすり下車駅まで眠ってしまった。母が起こしてくれるまで泥のように眠った。
 これであともう1つの懸案事項が実れば完璧な幕引きになったろうが、そうはならなかった。それは良かったのかもしれない。──幸いとむくつけきあの連衆とはその後、声を聞くことも顔を見ることもない。
 いまでもセネカを読み返す。図書館で『セネカ全集』を手に取り、ページを開いて閉じることもある。それが弾みとなったか、買ったままで殆ど手附かず──拾い読みと関心のある部分だけ精読したセネカと同じストア派のエピクテトス『人生談義』上下(旧訳である。翌年新訳が出た。鹿野治助・訳 岩波文庫 1958/07)とマルクス・アウレリウス『自省録』(神谷美恵子・訳 岩波文庫 1956/10)を会社の昼休憩の折など読んで過ごした。関係ないがショーペンハウエル『読書について』の新訳(鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫 2013/05)をようやく読んだのも、この頃か。気鬱な田舎への旅のあとである。一昨年の秋の暮れである。◆


人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)

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  • 出版社/メーカー: 光文社
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マルクス・アウレーリウス 自省録 (岩波文庫)

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  • 作者: 神谷 美恵子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/12/18
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第3244日目 〈マカバイ記 一・第10章:〈デメトリオスとヨナタンの同盟〉他with蔵書を作りあげてゆく喜び〜ギボンが届いた。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第10章です。

 一マカ10:1-14〈デメトリオスとヨナタンの同盟〉
 セレコウス紀160年即ち前153年、アンティオコス4世の遺児を名乗る男がプトレマイスに上陸、占領した。名を、アレキサンドロス・エピファネス、という。本書以外の史料は、アレキサンドロス・バラス(アレキサンドロス5世)、と伝える。プトレマイスの住人はアレキサンドロスの統治を歓迎した。
 アレキサンドロス5世の登場を知ったデメトリオス1世は、戦闘の準備を進める一方で、ユダヤとの講和を図る必要が生じたことに気附いた。パレスティナ南部を中心に活動するマカバイ家とアレキサンドロスが手を結んだらば必ずや、大きな脅威となるに相違なかったからである。
 が、懸念もあった。これまでシリアが行ってきたユダヤ弾圧の委細を、ヨナタンたちが忘れているとは到底思えなかったからだ。さりとてアレキサンドロス5世とかの敬虔なるユダヤ人の一派を連携させるわけには、断じていかない。国家運営に支障を来すこと必至だからである。
 そこでデメトリオスはヨナタンに書簡を送って、軍の編成・運用と武器の用意・調達の権限を与える旨約束した。併せてかつてエルサレムの要塞に監禁した人質──ユダヤの指導者たちの息子たちを解放する旨命令を下した。
 驚いたのは要塞を守る兵士たちである。王がヨナタンに下した命令を知るとかれらは持ち場を放棄し仕事を放棄し、自分の国へとそそくさ戻っていった。かのユダヤ人たちの反撃を恐れたからである。ただベトツルだけは未だ律法や掟を捨てた不敬虔な者たちの逃れの町として、機能していた。

 一マカ10:15–21〈アレキサンドロス王、ヨナタンに近づく〉
 アレキサンドロス5世もマカバイ家と敬虔なるユダヤ人の勇猛果敢ぶり、シリア軍相手の獅子奮迅の戦いぶりを伝え聞き、是非とも自分の側に取りこんでおきたい人材と考えた。
 新しく登場したこの王は、ヨナタンと同盟を結ぶことにした。
 アレキサンドロス5世はヨナタンを大祭司に任命し(一マカ10:20)、「王の友人」なる名称といっしょに紫の衣と王冠を与えた。
 セレコウス紀160年即ち前153年、その第七の月つまりティスレウの月、ヨナタンは神聖な衣をまとって、仮庵祭を催した。対シリアの軍勢の召集と武器の準備も、並行して行われた。

 一マカ10:22−45〈ユダヤ人にあてたデメトリオスの書簡〉
 アレキサンドロス5世とヨナタンの同盟を知ったデメトリオス1世は悩んでいた。相手に一歩、出し抜かれたことで、シリア/アンティオキアは南部地方に大きな軛を抱えることになった。
 デメトリオスは相手に先んじられたとはいえ、自陣にヨナタンの一派を引き入れることの利をよく承知していた。そこで王は再度、ヨナタンへ書簡を送った。デメトリオスからユダヤ国民にあいさつを送る、と始まるその書簡に曰く、──
 01;全ユダヤ人からの貢と塩税と王冠税、家畜税の徴収を免除する。
 02;エルサレムとその周辺を聖地とし、十分の一税や租税を免除する。
 03;聖所の運営や修復に必要な経費に充てるため、プトレマイス及びその属領を寄贈する。また、私デメトリオスは毎年の税収から銀10,000シェケルを寄贈する。
 04;聖所の再建と修築のための費用は王の会計から支出することとする。
 05;エルサレムの城壁、周囲の砦の再建(城壁の再建も含む)のための費用も同様に、王の会計から支出することとする。
 06;私デメトリオスはエルサレムの支配権を放棄し、大祭司にその権利を譲渡する。大祭司は自分の任命した者をそこの警備につけることができる。
 07;捕虜として連行されたすべてのユダヤ人を無償で解放する。
 08;ユダヤの祝祭日、安息日、新月と記念日、祝祭日の前後3日間を、全ユダヤ人に休息と解放のため与える。これらの日には如何なる理由があろうともユダヤ人から徴税したり、危害を加えたりしてはならない、とする。
 09;毎年、聖所の収入から納めさせていた銀5,000シェケルは以後、免除する。本来なら祭儀を司る祭司たちへ還元されるべきものだからである。
 10;30,000人のユダヤ人を王の軍隊に加える。待遇は、王の軍隊に属する者と同じである。
 11;一部の者については国家の要職に就かせる。軍の将校にも任ずる場合がある。
 12;全ユダヤ人が、かつて王がユダの地で命じたように律法に従って歩むことを認める。
 13;サマリヤとガリラヤのなかから3地方(アファイレマ、リダ、ラマタイム)を正式にユダヤに編入し、いずれをも大祭司の権威に従わせる。
──以上。順不同である。
 破格の扱いであった。シリアの対ユダヤ政策が根本から一転した。さて、実質的な独立もしくは自治の容認文書を受け取ってヨナタンたちは、どう反応したか?

 一マカ10:46−50〈アレキサンドロスとデメトリオスの戦い〉
 勿論、ヨナタンたちはこれを信じなかった。これまでのことを忘れていないからだ。むしろかれらはアレキサンドロス5世に好感を持ち、そちらの申し出の受諾を検討した。
 結果として、ヨナタンはアレキサンドロスと同盟を結んだのである。
 アレキサンドロス5世はデメトリオスに対して戦いを挑んだ。アレキサンドロス軍は敗走したが、その日、デメトリオス1世は戦死した。

 一マカ10:51-58〈アレキサンドロス王とプトレマイオス王の同盟〉
 アレキサンドロス5世はエジプトの王、即ちプトレマイオス6世フィロメトルとも同盟を結んだ。王の娘を自分の妃とし、姻戚関係となったのだ。同盟手続きはエルサレム北西約12キロにある地中海沿岸の町、プトレマイスで行われた。セレコウス紀162年即ち前151年である。
 王の娘は、クレオパトラ、という。あの、クレオパトラでは勿論ない。クレオパトラ・テア、という女性である。
 プトレマイオス朝エジプトの王は娘のために、プトレマイスで「絢爛たる婚宴を」(一マカ10:58)催したのだった。

  一マカ10:59-66〈ヨナタンの成功〉
 さて、アレキサンドロス5世はヨナタンに書簡を送り、そんな次第でプトレマイスにおりますので、よろしければお越しになりませんか、と誘った。
 ヨナタンに断る理由はない。出掛けてゆき、2人の王に謁見した。それぞれに多くの贈り物を献上した。
 律法に背く不敬虔なユダヤ人がその場に集まってきた。アレキサンドロス王は、かれらのヨナタンに関する讒言へ耳を傾けなかった。王はヨナタンを紫の衣に着替えさせ、隣に坐らせた。
 そうして重臣たちに、「町に出てゆき、ヨナタンを讒言してはならない、かれの妨害をしてもいけない、といえ」と命じた。紫の衣をまとったヨナタンを見て、かれを讒言した者らは皆、どこかへ退散していった。
 アレキサンドロス5世はヨナタンを第一級の友人の列に加え、軍の司令官及び地方長官に任命した。「ヨナタンは無事に、また満足してエルサレムに帰った。」(一マカ10:66)

 一マカ10:67-89〈ヨナタンとアポロニオスの戦い〉
 セレコウス紀165年即ち前148年になった。
 (一マカ10〈アレキサンドロスとデメトリオスの戦い〉で)戦死したデメトリオス1世の息子がクレタ島から脱出して先祖の地に入った。
 アレキサンドロス5世はこれを聞いて不安になり、アンティオキアへ戻った。
 息子デメトリオスからコイレ・シリアの総督に任命されたアポロニオスはヤムニアに陣を敷き、大祭司ヨナタンに書簡を送った。曰く、──
 お前がひとり抗っているせいで俺は笑い物になっている。山賊みたいな真似していないで、本当に実力があるなら平野に出てきて俺たちと戦えや。決着つけようぜ? 俺が誰で、後ろ盾がどなたか、聞いて教わってこい。
 みんないってるぞ、「俺たちの前では足で立つこともできない奴、それがヨナタンだ。あいつの先祖は2度も自分たちの地で失敗してるんだ」とな。今度も同じだ。お前は俺たちに勝つことはできない。
──と。
 ヨナタンは激怒した。かならずこの邪知暴虐の総督を倒さなくてはならない、と決意した。斯くしてヨナタン率いる敬虔なるユダヤ人の軍勢はヤッファへ向けて進軍した。そこにシモンの部隊が合流した。
 アポロニオスは策を練った。「三千の騎兵と大部隊を招集し、アゾトまで行き、そこを通過するかのように見せながら、しかし実際は、信頼していた騎兵の大部隊を率いて、平地へと歩を進めていた。ヨナタンの軍は、彼を追撃してアゾトまで行った。こうして両陣営は戦いを交えた。アポロニオスは騎兵一千をユダヤ軍の後方に潜ませていた。」(一マカ10:77-79)
 要するにアポロニオスは軍を二分して、主力部隊を囮にしてヨナタンをおびき寄せ、躍起になっているところを背後から急襲しようとしたのである。
 が、ヨナタンはこの計画を察知した。ユダヤ軍は包囲されて、四方から矢の雨を浴びたが、ヨナタンの命令もあって兵はよく持ちこたえた。やがてシリア/アポロニオス軍の軍馬に力の衰えが見え始めた。そこへシモンの部隊が襲いかかり、敵軍は総崩れとなり、敗走を始めた。
 アポロニオスの兵士たちはアゾトへ逃げこみ、かれらの神ベト・ダゴンに救いを求めて神殿へ立て籠もった。ヨナタンは町を焼き、神殿に火を放った。斯くしてアポロニオスの敗残兵は死んだ。この戦闘で命を散らせたアポロニオスの兵は、8,000人という。
 ──アレキサンドロス王はこの戦闘の報告を受け、更なる栄誉をヨナタンに授けた。王家の慣習に従って金の留め金を贈り、エクロンとその周辺一帯を所領として与えたのである。

 ユダヤに2人の王が接近した。新しく登場したアレキサンドロス5世と、度々ユダヤを弾圧したデメトリオス1世とが。目的は、同盟の締結であります。
 デメトリオス1世は、ユダヤが交渉に応じないことはじゅうぶん覚悟していたでありましょう。自らが命じて行わせた弾圧行為を、どれだけ時間が経過しようとマカバイ家の者、或いは敬虔なるユダヤ人たちが忘れているなんて思えませんから。ユダヤの側から見た際、事はそんなに甘くない。だからかれらがシリアの提案を拒み、アレキサンドロス5世と同盟・友好を結ぶことは初めから想定範囲内だったはずであります。
 それでもデメトリオスは南に抱える不安を払拭したい思いがあった。それがため、ユダヤ人にギリギリまで譲歩した内容の書簡を送って再度の接触を図り、自分の陣営に取りこまんとしたのであります。事実、このとき送られた書簡の内容は、ユダヤ人への不干渉と自治を認める内容でありました。これだけ見ればじゅうぶんに検討する余地もあるが、如何せん、過去の仕打ちがユダヤをして「検討するに及ばず」てふ結論に直結させた。
 タイミングとしてはアレキサンドロス5世からの提案の方が先で、ユダヤはこれを良しとして同盟に踏み切りました。しかし、どれだけデメトリオス1世がへりくだった態度で接して、破格の譲歩を示してこようが、過去の仕打ちがある以上、ユダヤとしては先に締結したアレキサンドロスとの同盟を破棄、もしくは維持したまま、デメトリオスからの提案を受け入れてこれとも同盟を結ぶ、なんて芸当はできないでしょう。換言すれば、デメトリオス1世とアレキサンドロス5世を両天秤に掛けるまでもなかったのであります。
 そのデメトリオス1世が戦場で戦死。どのような最期であったのか、そもどのような戦闘であったのか、「一マカ」は伝えておりません(ユダヤと外国の戦闘でないから記述しなかった、というのが実際でしょう)。それを知ってかどうか、1世の息子が人質になっていたクレタ島を脱出してシリアへ入国しました。第11章で新たにシリア王として即位するデメトリオス2世であります。
 このデメトリオス2世の即位は前145年、といわれる。そうして同じ年、実はもう1人、シリア王として記録される人物が現れます。それがアンティオコス6世でした。かれは次の第11章で登場する。詳しくはそちらへ譲りたいので、ここではアンティオコス6世がデメトリオス2世と同じ年に即位したことと、かれがアレキサンドロス5世の息子であることだけ述べておきましょう。
 デメトリオス1世からユダヤに送った書簡に、「サマリヤとガリラヤから3地方ユダヤに編入する」旨あります。第10章では実はアファイレマ、リダ、ラマタイムの地名は記載されていませんが、ここは必要と判断し、一マカ11:34から補っておきました。この3地方はむかしの区域でいえば、エフライムにあたります。旧北王国の領土で、旧南王国ユダと国境を接した場所です。
 同じ書簡に見える、「かつて律法に従って歩むことを認めるとした王」についても述べておきましょう。リシアスがアンティオコス5世に進言したユダヤとの講和のなかに、これと同じ内容が確認できました(一マカ6:59)。従ってここでデメトリオス1世が念頭に置いた「王」とは、アンティオコス5世であります。なお、『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』P147当該箇所の脚注はこれを「デメトリオス5世」としておりますが、誤植でありますので参照される際はじゅうぶんご注意いただきたく存じます。
 〈ヨナタンとアポロニオスの戦い〉でヨナタンとの戦いに敗れたアポロニオスの兵が逃げこんだ先が、アゾトのベト・ダゴン神殿でありました。これはお復習いになりますが、旧約聖書の「サムエル記」上に、ペリシテ人に奪われた聖櫃がダゴン神殿に運びこまれた記述があります。途端に災いが及んだので恐れたペリシテ人は、奪った聖櫃をイスラエルに返還するのでした。けっして半魚人の如きダゴンを祀る神殿ではありません。ましてやそこに出入りするのはダゴン秘密教団の信徒なぞではございません(遊んでみました)。
 最後に、プトレマイオス6世の娘、アレキサンドロス5世の妻なりしクレオパトラについて述べて、終わりといたします。
 ここでアレキサンドロス1世(アレキサンドロス・バラス)にお嫁さんに出されたクレオパトラは当然、「鼻がもうすこし低かったら……」とパスカルにいわしめたあのクレオパトラではありません。
 こちらのクレオパトラの父は、プトレマイオス6世(プトレマイオス・フィロメトル)。名は、クレオパトラ・テア、という。プトレマイオス6世は妻クレオパトラ2世との間にプトレマイオス7世、クレオパトラ3世(クレオパトラ・コッケ)、クレオパトラ・テアを設けた。
 クレオパトラ・テアはアレキサンドロス5世に嫁しますがすぐに離婚して(させられて?)、今度はデメトリオス2世の妻となり、セレコウス5世フィロメトルを産む。デメトリオス2世が捕虜となった後はその弟アンティオコス7世と再々婚した女性であります。
 そうして史上最も有名なクレオパトラ──映画ではエリザベス・テイラーが演じた、世界3大美女に数えられるクレオパトラ──はプトレマイス12世の娘クレオパトラ7世、クレオパトラ・フィロパトルであります。
 彼女はプトレマイオス朝エジプト(事実上)最後のファラオ(在位;前51-30年)。時はローマが共和政から帝政へ移行する時期。実際のところ、クレオパトラ7世失脚後のエジプトはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスに支配されたのであります。ローマの武将アントニウスを翻弄してローマを裏切らせ、滅亡の一途をたどったのは、このクレオパトラ7世であります。
 前32年、プトレマイオス朝エジプトに宣戦布告したローマはアクティウム海戦で決定的勝利を収め、前30年に王都アレキサンドリアを制圧。アントニウスは自害し、その10日後にクレオパトラ7世は自害した。
 このクレオパトラ7世とアントニウスの情欲と権力欲を中心に置いて、ローマが地中海世界の覇権国家となり、共和政から帝政へ移行する時代を切り取って描いてるのが、シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』であります。
 ちなみにアントニウスと最初の妻小オクタウィアの遺児からクラウディウス、カリギュラ、ネロといった後のローマ帝が誕生した。ちょっとだけお話しますと、──
 アントニウスと最初の妻小オクタウィアの遺児のうち、娘小アントニアは叔父にあたる初代ローマ帝国皇帝オクタウィウスに養育されて、大ドルススと結婚して第4代ローマ帝国皇帝クラウディウスを生む。
 クラウディウス帝の兄ゲルマニクスとオクタウィウスの孫大アグリッピナが結婚して第3代ローマ帝国皇帝カリギュラが生まれる。カリギュラの妹小アグリッピナがアントニウスを祖父とするドミティウス・アヘノバルブスと結婚して第5代皇帝ネロが生まれた。
 オクタウィウスからネロまでの王朝を、<ユリウス=クラウディウス朝>と呼びます。この五人には直系の嫡男を皇帝(後継者)にできなかったという共通項がありました。



 ゆっくりとであっても自分の研究分野、趣味の分野の書物を1点、また1点と揃えてゆく愉しみに優る喜びが他にあることを知らない。学生時代、けっして豊かとはいえぬお小遣いやバイト代から毎月数千円也を日本の古典文学や美術関係の書物を、古本屋を丹念に歩いて回り、亀の歩みに等しいスピードで購い、繰り返し読み耽った喜びを忘れられない。
 好きな本を買い集めてゆく、必要な本であればそのたび清水の舞台から飛びおりる覚悟で購入してしまう。──思えばこれは高校時代から続く趣味であった。怪奇幻想文学のジャンルを進学したあとまで続けてその後は、古典時代の日本文学を柱に海外の名作群、絵画にまで拡充してゆき、そうやって<蔵書>と呼ぶべきものを作りあげていった。 
 そうしていまは、それが聖書とオリエント・地中海世界の歴史と、キリスト教史へ関心が向いている。そのことから年に数冊のスピードであるが、必要と思うたり読みたいと欲した本を迷った末に購い書棚へ並べ、時に開いて酷使するようになって、もう10年以上になる。
 ここ数年は書籍購入に割ける可処分所得が若干ではあるが増えたこともあり、これまでは手が出なかった揃い物やずっと昔の文献を買い求めることもできるようになった。考えようによっては(見ようによっては、かな。ずっと文章を書きつづけてきていても時々、こうした表現に迷うことがあります)、働いているのは税金や年金を遅滞なく支払うためであると共に、書籍購入という目的ありきである、といえるように思う。
 さて。直近の例でいえば、ギボン『ローマ帝国衰亡史』全11巻である。一昨日かな、お話したものであるが、それが今日の昼間に届いた。箱を開梱する手が震えていたのを、けっして忘れないだろう。元版の単行本ゆえ、嵩はあるが手に馴染むサイズで活字の組み方も悪くない。全巻初版、目立つ外傷等なし、刊行時のチラシや葉書が挟みこまれている、そうして嬉しいことに全巻帯附き。これで総額4,000円を切っていたのだから、躍りあがる気持ちは理解いただけよう。
 目次と口絵、あとがきへ丹念に目を通したあとは、各巻を拾い読みして、午後の一刻を、夕方までそうやって過ごした。ああ、やっぱり歴史が好きだ。──目撃者によればギボンへ目を通しているときのわたくしはとても幸せそうな横顔だったそうである。
 直接、いまの聖書読書に結びつく買い物ではないけれど、補助資料という名目で所有することになんら後ろめたい気持ちはない。すぐに役立つ書物なんて、喫緊の目的あって状態を問わず購入した本以外にないですよ、わたくしには。むしろいまは、むかし文庫版で買い揃えて手放してしまった古代ローマ史の名著をふたたび迎えられた喜びにどっぷり浸っているところだ。
 ゆっくりと蔵書を作りあげてゆく法悦ここに極まれり、ではないか?
 「自分の専攻の分野や、趣味の分野の本を一点ずつそろえてゆき、自分なりの小図書室を作り上げてゆくことに人生の楽しみを見いだすことができた。それはまた学問を学問として学校でやるだけでなく、それを生活の一部とする道でもあった。つまり知的生活が可能であった」(渡部昇一『続 知的生活の方法』P47 講談社現代新書 1979/04)──高校3年の春休みに読んでずっと記憶の底にあり続けたこの言葉をいま程しみじみと、実感として味わえる時はないかもしれない。
 願わくば、「『自分自身のライブラリーを作るという楽しみ』を持つことをえた」(同P49)1人として、「目つきがやさしい。ものあたりがやわらかい、つまりジェントルである。話しているときにかすかな微笑が絶えない。そして話にユーモアがある」(同P48)人になれますことを。
 早くギボンをゆっくり読めるようになりたいな。◆

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第3243日目2/2 〈マカバイ記 一・第9章ノートについて。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 SSブログ恒例のレイアウト崩れが発生しました。
 原因について過去に問合せするも返信はなく、まったくの<梨のつぶて>。過去に何度も問い合わせましたが、未だに、です。「よくある質問」もまったく役に立ちません。ググってみても同じ。
 読みにくい、という苦情はSSブログへお願い致します。
 わたくしも被害者なのです。◆

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第3243日目1/2 〈マカバイ記 一・第9章:〈バキデス、アルキモスとの戦い、ユダの死〉、〈ヨナタンが指導者となる〉他with S.K原作『チェペルウェイト』放送開始。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第9章です。

 一マカ9:1-22〈バキデス、アルキモスとの戦い、ユダの死〉
 時間をほんのちょっとだけ巻き戻そう。戦の序盤でニカノルが戦死したあたりまで。
 デメトリオス1世は将軍バキデスと大祭司アルキモスに軍を与えて再度、ユダヤへ出撃させた。途中シリア軍は小規模の戦闘を繰り返しながら、南に──エルサレムへ進んだ。
 セレコウス紀152年即ち前161年の第一の月つまりニサンの月である。
 シリア軍はエルサレムに向かって陣を敷いた。更にそこから20,000の軍勢と2,000の騎兵が出て、エルサレム北約15キロの町ベレトへ進んだ。
 そのベラトのほぼ真西約5キロの町エラサには、エルサレムを発ったユダが陣を敷いていた。敵の大軍を目撃したユダヤ兵は怯えて怖じ気づき、離反していった。ユダ・マカバイの許に残った兵は僅か800を数うのみである。
 戦局、大いに不利なり。
 狼狽しつつもユダは己を鼓舞するかのように、残った兵に檄を飛ばした。曰く、──
 「断じて、敵に後ろを見せてはならない。死ぬべき時が来たなら、同胞のために潔く死のうではないか。我々の栄光に汚点を残すようなことはしたくない。」(一マカ9:10)
 斯くしてシリア軍とユダヤ軍の戦闘が始まった。「大地は両陣営のどよめきに震え、朝から夕方まで激しい戦いが続いた」(一マカ9:13)のである。
 熾烈な戦いが繰り広げられた。まさに一進一退の戦闘であった。双方に多数の戦死者が出た。ユダ・マカバイがその戦闘の最中に倒れた。背後に回りこんだシリア軍に討たれたのである。
 やがて戦闘は終わった。
 ヨナタンとシモンはユダの遺体を故郷、モデインの先祖の墓へ埋葬した。数多のイスラエルの民が、シリアの圧政と暴虐に果敢に立ち向かい、信仰篤きユダヤ人を導いたかれ、ユダ・マカバイの死を嘆き、悔やんだ。「マカバイ記 一」はこう記す。曰く、──
 「ユダの行ったさまざまの業績、彼の戦い、その大胆さ、その偉大さは、書き尽くすことができない。あまりにも多すぎるのである。」(一マカ9:22)
──と。

 一マカ9:23–31〈ヨナタンが指導者となる〉
 ユダ・マカバイの死後、新たに指導者の任に就いたのは、兄弟ヨナタンである。そこへ至るまで、このようなことがあった、──
 当時イスラエルの全土には、律法に従わない不敬虔なユダヤ人が頻出、不正と暴力が横行した。タイミングの悪いことにこの頃、イスラエルを飢饉が襲った。これが却って律法離れを加速させ、シリア側に付くユダヤ人が続出したのである。
 バキデスは寝返ってきた不敬虔なユダヤ人から選抜して、この国の支配者に仕立てた。偽りの支配者となったかれらは全地を回った。マカバイ家に与する者を探し出して、バキデスの前に連れ出すためである。バキデスは引き出された連衆を嘲笑して<復讐>した。
 「大きな苦しみがイスラエルに起こった。それは預言者が彼らに現れなくなって以来、起こったことのないような苦しみであった。」(一マカ9:27)
 シリアに抗う敬虔なるユダヤ人は集まって、どうしたものか、と膝つき合わせて相談した。そうしてヨナタンの許へ行き、ユダ・マカバイに代わってあなたに指導者になってほしい、と頼んだ。斯くしてヨナタンが新たな指導者として立つことになったのである。

 一マカ9:32-53〈バキデスとの再度の戦闘〉
 ヨナタンが新たな指導者になったことを知ったバキデスは、再度の対ユダヤ攻撃を発令した。
 ユダヤ軍はテコアの荒れ野に後退すると、アスファルの貯水池の傍らへ新たに陣を置いた。ヨナタンは兄弟ヨセフを呼んで。携行品を友人であるナバタイ人に預かってもらうよう依頼させた。
 そのヨハネを不幸が襲った。ヨルダン川の東にあるメデバ出身のヤンブリがヨハネを殺め、預かり品を奪っていったのである。これを知った兄弟は復讐のため、ヤンブリの婚姻の宴を急襲した。多くの者が倒れ、残りはどこかへ逃げた。「こうして婚宴は悲しみに一変し、歌声は挽歌となった。このようにして兄弟の血に対する復讐が成し遂げられたのである。」(一マカ9:41-42)
 ヨナタンたちは改めて対シリア戦に備えた。ヨルダンの沼地へ戻ると背後にヨルダン川の流れを臨み、沼地と林で囲まれた場所に陣を構えた。つまり、易々とは退却のできない場所である。
 戦いが始まった。ヨナタンがバキデスを討とうと出ると、バキデスは退いた。ユダヤ軍はヨルダン川を渡ってバキデス軍から離れた。バキデス軍は敢えて渡河してまでこれを追うことはしなかった。
 バキデスはエルサレムに戻ると、エリコの砦やアマウス、ベト・ホロンなどユダヤの町々の防備を固めた。城壁を高く築き、たやすく門を打ち破られぬよう閂を強化したり、といった具合である。また、対ユダヤのためにそれらの町々へ守備隊を置いた。ベトツルやゲゼルの町のみならずエルサレムの要塞をも固め、部隊を配置し、食料も蓄えた。
 それだけではない。この国の指導者たちの息子を捕らえてエルサレムの要塞に監禁したのである。何事かあらばこの者たちに危害を及ぼす、という意思表示でもあったろう。

 一マカ9:54-57〈アルキモスの死〉
 セレコウス紀153年即ち前160年。驕ったアルキモスは聖所の中庭にある仕切り壁を撤去し、預言者たちが造りあげたものの破壊を始めた。
 このときアルキモスは発作に襲われ、全身が麻痺した。なにかをいい残すことも、指示することもできないまま、アルキモスは死んだ。悪行に足枷を嵌められたアルキモスは、このようにして死んだ。
 バキデスはアルキモスが死んだのを見ると、アンティオキアのデメトリオス王の所へ帰還した。
 それから2年の間、ユダヤの地は平穏であった。

 一マカ9:58-73〈平和の回復〉
 律法に従わない者、不敬虔なユダヤ人が或るとき集会を持った。
 んーと、ヨナタンたちはすっかり安心して暮らしているよね? 今一度、バキデスさんを連れ出してきたら、連中を一網打尽にして打ち滅ぼしてくれるんじゃないかな? んだな。んだ、んだ。
 そこでかれらはてくてく出掛けて行き、バキデスに三度(みたび)、ユダヤへの出陣を請うた。バキデスは諾い、戦略を練った。
 秘かに出陣したバキデスはユダヤ全土に散らばる同盟軍に書簡を送り、ヨナタンとその部下たちを捕らえるよう命じた。が、どこからかその計画は洩れ、企ては失敗した。逆にヨナタンたちによって首謀者の何割かが捕らえられて処刑されたのである。
 来たる戦いに備えてヨナタンは、破壊されたままだったベトバシの要塞を再建した。バキデスはユダヤ人の同盟軍にこれの攻撃を命じた。戦いは数日にわたった。ヨナタンはベトバシ防衛をシモンに任せると少数の兵を連れて要塞を出、シリアへ寝返ったユダヤ人の同胞を殺害した。
 一方シモンは要塞から打って出て、バキデス軍に大きな損害を与えた。「策略も攻略も水泡に帰して、完全に挫折してしまった。バキデスは、自分を唆してここに出撃させたあの律法に従わない者どもに対して激怒し、その多くを殺し、自分の国へ帰ろうと決意した。」(一マカ9:68-69)
 これはヨナタンにとって好機であった。このタイミングを逃せば2度とこのような機会は訪れまい。つまり、──
 ヨナタンはバキデスに使者を送った。和平の締結と捕虜の返還の申し出である。バキデスはこれを受け入れ、実行した。自分が生きている間はユダヤを攻撃しない、ヨナタンに危害を加えない、と誓ってもくれた。
 「バキデスは、彼がユダの地で以前に捕らえた者たちをヨナタンに返して自分の国へと引き揚げ、もはやユダヤ人の領域に侵入しようとはしなかった。 
 イスラエルでは剣はさやに納まり、ヨナタンはミクマスに住んだ。こうして彼による民の統治が始まり、不敬虔な者たちはイスラエルから一掃された。」(一マカ9:72-73)

 〈バキデスとの再度の戦闘〉を読んでいて改めてわからなくなったのですが、このとき、エルサレムにはマカバイ家に味方するユダヤ軍がいたのでしょうか、それともシリア軍だったのでしょうか。かつて第4章に於いてユダ・マカバイは聖所を奪還して清めの儀式を行った(神殿再奉献)。ここに軸足を置くなら、〈バキデスとの再度の戦闘〉の時点で跡を継いだヨナタンはエルサレムにいると考えるのが当然であります。が、シリア軍もエルサレムを出たり入ったりしている……これは果たして?
 そこで考えねばならぬのが<要塞>の存在であります。「一マカ」ではシリアもユダヤもそれぞれエルサレム内に要塞を築いたり修復したり、或いはユダヤはシリア兵が立てこもる要塞と居住区の間に高い壁を築いたりしている。そもシリア軍のいるエルサレムにどうしてユダヤ軍がのこのこと出入りする?
 ……と、この二段落がこの感想文(らしきもの)を書く出発点でした。
 しかし、疑問はあっさり氷解した。まとめると一段落で、数行で片附いてしまう。つまり、──
 ユダヤ軍は聖所を清めすることさえ出来たものの、エルサレムの完全奪還には至っていなかった。ゆえにエルサレムにいるのはシリア軍である。シリア軍は旧都奪還を目指すユダヤ軍──反乱軍を一歩も入れまいとエルサレム周辺の防備を殊更頑強にし、壁を築き、要塞を強化し、シリア軍を駐留させ、離反ユダヤ人を囲ってこの都を守らせていたのだった。
 大げさかもしれないが、証明終了であります。書架にあったバリー・J・バイツェル著/山崎正浩他・訳『聖書大百科 【普及版】』(船木弘毅・日本語版監修 創元社 2013/10)の「マカバイ戦争と独立」P244を読んでいたら、たちまち解決ですよ。やれやれ。  では気を取り直して、──  同じ〈バキデスとの再度の戦闘〉でヨナタンの兄弟、ヨハネがメデバ出身のヤンブリに襲撃されて殺される。ヤンブリはメディア出身のならず者、悪党、としかわかりませんが、ヨハネが携行品を預けるはずだったナバタイ人については、上記『聖書大百科 【普及版】』に簡単な説明があった。お茶濁しになりますが、引用しておきますと、──  「ナバタイ人はシリアの一部、ヨルダン川とアラビア砂漠の間のステップ、ネゲブ、シナイ半島からエジプトにかけて住んでいた民である。……ナバタイ人の王は、ハスモン朝と様々な関わりがあった。アレタ1世(在位紀元前170~紀元前160年)はセレコウス朝を敵に回してユダとヨナタンを援助した」(P246)という。また、『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』(日本聖書協会 2017/11)当該箇所の註釈はナバタイ人が援助した背景について、「(或る資料でナバタイ人は)紅海でプトレマイオス王国からの船を攻撃することで自分たちの商業貿易を繁栄させていた。従って彼らが、この地域で他のギリシア勢力、すなわちセレコウス朝に敵対しているマカバイを支持したことは、驚くに当たらない」(P127)と述べる。  ローマ登場以前にユダヤが好意を抱いていた数少ない異邦人として、ナバタイ人は記憶に値する存在といえましょう。相応の信頼関係がなければ、貴重品を預けようとはしませんよね。それにナバタイ人は一マカ5:25で敵の情報をもたらしてくれた、協力者でもありました。  わたくしが「一マカ」を読んでいていちばん、ではないけれど、この目に魅力的と映る1人がシリアの将軍バキデスであります。かれは「一マカ」に登場するシリア軍人のなかで、<武人>と称するに唯一相応しい人物です。また、聖書全巻を通して登場した武将のなかでトップ・クラスの策謀家とわたくしは感じました。  それをひしひしと感じたのは、アルキモス戦死を承けてのバキデスの行動であります。デメトリオス1世からユダヤ討伐の命令を受けたとき、アルキモスもいっしょに連れてゆくように、というお達しがあったからこそかれは、このニワカ大祭司を連れてアンティオキアを出発した。おそらくバキデス自身はユダヤ討伐についてはともかく、アルキモスと組んで行動することには乗り気でなかったのではないか。  第7章で初めてコンビを組んで以来、ユダヤへ行く度毎に終始行動を共にしていたわけではないことは、一マカ7:20からじゅうぶん推測できることであります。実際の戦闘行為はシリア軍が担当し、エルサレムを含めたユダヤ地域、ユダヤ人への実際の干渉はアルキモスが行う、というように役割分担がされていたせいもあるのでしょう。  バキデスにとってアルキモスは、ユダヤ軍に与するユダヤ人との折衝や交渉を行う外交官、総してユダヤ地域にいる間の身の安全を担保する材料であった、と考えられます。  そうした己の手足になっていたユダヤ人が死ぬと、さっさと王都アンティオキアに還っていった。アルキモスの死因に恐れを抱いたのではなく、エルサレム周辺の防備も固めたことだし、正直なところ、こんな<文化果つる不毛の地>からはさっさと引き揚げたかった、というのが案外と本音かもしれません。  それはともかくとして、アルキモス落命の場面はバキデスの冷徹さの一端が表れた場面であるように思います。そこには冷静な計算と事の成り行きを見通す能力を備えた人物としての判断があった──。これを実像とするなら、<武人>としてもさることながらこのバキデス、なかなかの策謀家ではないでしょうか? そうしてなんというても和平交渉に乗り出すタイミングが絶妙である。いたずらに戦力を消耗する前に区切りを付けることの難しさ、をバキデスはよく心得ていたように感じられてなりません。  もっとも、3度目のユダヤ出陣に腰をあげて来てみたら一マカ9:58-60に見る如く、不敬虔なユダヤ人に唆され、ユダヤ人の愚鈍から襲撃計画が洩れ、その上ユダヤ人に攻撃を命じても戦果はまったく出なかった。その忸怩たる思いは如何程であろう。このときのバキデス、かなりご立腹だったと思います。かれをアンティオキアから連れて来た不敬虔なユダヤ人でこの戦闘に生き残った者は、どんな思いでバキデスの前に出、弁明し、助命を懇願し、そうして死んでいったのでしょう。まぁ、唆されたバキデスもバキデスなのですが……。  斯様に細かな点を取りあげれば、「どんな立派な人にも過失はあるよね」となる。とはいえ総合的な観点から判断した際、バキデスという軍人、かなり有能で、下からの信頼篤く上からの覚えもめでたく、また敵からも讃えられるような人物ではなかったろうか。こんな人物、聖書全体を見渡してもなかなかいないですよ。すくなくともわたくしのなかではユダ・マカバイよりも評価は抜群に高い。  もっと外国語を勉強してあちらの文献を拾い読みできるぐらいにまでなり、さまざまに資料が集まってきたら、バキデス小伝、シリア軍人バキデスの魅力、のようなエッセイを草してみたい気持ちになっております。  スターチャンネルで今月から『チェペルウェイト 呪われた系譜』全10話が放送開始、原作はS.キングの初期短編「呪われた村 <ジェルサレムズロット>」。実は高校生のとき、これを脚色して文化祭での上演を目論みましたが顧問の頑強にして自己中な反対で却下。先日、ダンボール箱のなかから当時の原稿が出てきました。  そんな話ではなく、『チャペルウェイト』のこと。現代の視聴者に沿うようにかキャラクター設定に若干の変更があるようですが、それは問題としない。  懸念しているのは、1シーズンで完結するんですか? ということ。オリジナルでもなければ長編の映像化でもありませんから、シーズン2なんてあり得ないだろうが、その気になれば引き伸ばしなんて幾らでも出来るからなぁ。  既にキング原作ドラマは2本、立て続けにシーズン1、もしくは2で打ち切りになっている。『アウトサイダー』と『キャッスルロック』である。ここから引き出される教訓は、無闇に次シーズンにつながるような趣向は凝らさぬこと、でしょう。  とはいえ、新しいキング原作ドラマが観られるのは、一ファンとして純粋に嬉しいニュースであります。楽しみに待ちましょう。  ……そういえば『ラヴクラフト・カントリー』もシーズン1で打ち切りなんですね。わたくしの好きなドラマはどうしてどんどん、打ち切られてゆくのでしょう。顧みればそれは、『フラッシュフォワード』から始まった……。◆

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第3242日目 〈マカバイ記 一・第8章:〈ローマ人についての報告〉&〈ローマとの同盟〉with10数年振りにお迎えする全11巻の歴史書。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第8章です。

 一マカ8:1-16〈ローマ人についての報告〉
 西の海の向こうに、ローマという大国が興り、周辺国を配下に置いている。ユダにローマのことを報告してきた者は、そういった。報告者の曰く、──
 ローマは、ローマと連合するものはすべて歓迎し、ローマと友好を結ぼうとする者みなと友好を結ぶ。しかし、敵対する者には勇猛さを発揮してこれと戦い、毎年貢を課している。そうやって支配下に置いた遠隔地の運営は、策略と忍耐とを以て抑圧している。
──と。
 それから報告者たちはユダに、セレコウス朝の王たちがローマと戦ってどのような目に遭ったかも、併せて伝えた。曰く、──
 大王アンティオコス3世は120頭の象をはじめとする大軍を以てこれと戦うも無残な敗北の憂き目に遭った、アンティノゴス朝マケドニアの王フィリポス5世とその子ペルセウスをやはり強大な軍隊で打ち砕き、かの地を征服した。
 「(共和政ローマに敗北を喫した)ギリシア人たちは今日に至るまでローマ人に隷属している。ローマ人に反抗した他の王国や島々も、すべて粉砕され、彼らに隷属している。」(一マカ8:11)
 ローマは同盟国や友好国、自分たちに庇護を求める国とは非常に良好な関係を保つが、それらの国の国主は皆ローマの恐ろしさをも知るため、ローマの名を聞くと竦みあがり、震えあがることもあった。ローマが後ろ盾する者は王となり、ローマが退けたい者は失脚した。斯様にしてローマは周辺世界を配下に置いて属領とし、円滑に運営したのである。
 ローマの政治体制はというと、かれらは320人の議員を擁す元老院を設置していた。議員たちは「民衆に秩序ある生き方をさせようと、日々検討を続けている。彼らは、自分たちを統治し、自分たちの全土を支配する人を年ごとに一人信任する。そしてすべての者が、この一人の者に服従する。そこにはねたみもなければ、うらやみもない。」(一マカ8:15−16)
──と。

 一マカ8:17–32〈ローマとの同盟〉
 報告を聞いてユダは、ローマと同盟を結ぶことの利を悟り、ハコツ家のエウポレモスとエレアザルの子ヤソンをローマへ派遣した。そうすることで、自分たちの軛を取り除くことができる、と考えたからである。
 ヤソンとエウポレモスは、遠い道程の末にローマヘ到着した。かれらを待っていたのは、元老院である。元老院の議員たちが遠国からやって来た2人のユダヤ人に質問した。何の用ぞや、と。ヤソンたちは答えて曰く、あなた方と同盟平和関係を結び、あなた方と友好を結ぶ国の1つにわれらも加えていただきたいのです、と。
 ローマにとってユダヤの申し出は願ってもないものだった。というのも、セレコウス朝の存在を好く思うていなかったからだ。
 元老院はさっそく、ユダへ親書を遣わした。これはローマとユダヤの平和同盟関係の覚書でもある。それに曰く、──
 ローマに対し、或いは同盟国に対して攻撃が加えられた場合、ユダヤ民族はローマと共同して事態に即応するように。敵国には如何なる物資、資金の提供を行わない。守るべきものを守り、討つべきを討つ。自国の利益のみを図ったりはしない。守るべきことを守り、これを、偽りなく実行する。
 「ローマ人はユダヤの国民とこのような条約を結ぶ。この条約の発効後、もし双方に、追加あるいは、削除すべきことが生じた場合、双方の了解があれば、その追加や削除は有効なものとして認められる。」(一マカ8:29−30)
 既にシリアのデメトリオスには通達してある。その内容は、われらが同盟国にして友好国、ユダヤに対してこれ以上の軛を負わせるようなら、ユダヤの友がなお嘆願するようなことがあれば、ローマはシリアのデメトリオス王に対して海からも陸からも攻撃をさせていただく。
──と。

 いよいよ西の列強、ローマが登場した。ユダヤのこれまでの活動がオリエントの一地方に留まっていたことを考えると、ローマとの同盟締結がユダヤをして地中海世界へ目を向けさせるきっかけになった、と申しあげてよいでしょう。
 ユダヤとローマの同盟は前162年以後間もなくと考えて良さそう。デメトリオス1世の即位がその年だったからであります。
 これをローマの側から見れば、前168年に終結した第3次マケドニア戦争によりアンティゴノス朝マケドニア滅亡、マケドニア最後の王ペルセウスの故アンドリスコス(ピリップス)が宣戦布告して第4次マケドニア戦争に突入する前150年(或いは前149年)までに同盟と友好を結んだ、ということになります。
 地方から中央へ。これによって地中海世界はユダヤという民族集団の存在、或いはその特異な一神教を知ることになりました。もっともそれゆえにユダヤは後々ローマからの干渉を受け、ハスモン朝滅亡後は共和制帝政ローマ(前30年。前27年以後は帝政ローマ)による実効支配を甘受することになるわけですが。
 そのローマの存在を、というよりもローマがどのような国なのか、をユダ・マカバイに教えた報告者の名前や素性は、「一マカ」のみでなくどの書物も明らかにしない。これは残念なことであります。かれらこそ本当の功労者と思えるからです。
 報告者はローマが、ユダヤの軛ともいえるセレコウス朝シリアとの関わりや、ローマの対外政策について語ります。それはおそらくユダ・マカバイが最も興味をそそられる話題でもありました。シリアに対してはアンティオコス3世の時代に勃発したローマ・シリア戦争(前192-前188年)に於いてこれを破り、シリア弱体化の原因を作った。
 ユダ・マカバイのみならず、この報告を聞いたユダヤ人たちは驚きの声をあげたかもしれません。自分たちの上にかぶさる強国がまさかそのような状態にあり、更にそれを打ち破る国家が存在する事に。ユダたちがどのような経緯の末にローマへ人を遣わしたのか、それはわかりません。というのもいまわたくしの披見できる文献は限られたものであり、未見の資料にその理由等が記されているかも知れない、と思うているからです。
 シリアはローマに敗れたことで地中海世界への進出(=領土拡大)を諦めざるを得ませんでした。アパメイアの和約でシリアはローマに対して、多額の賠償金の支払い、軍備縮小、人質を差し出す、インド・メディア・リディア他地域の割譲を約束させられます。この人質が、昨日触れたデメトリオス1世であります(このときデメトリオス1世は1歳になるかどうか、という年齢だったはずです)。
 戦争終結後のセレコウス朝シリアは、オリエント地方と更にその東の地域の支配権強化に専心することになった。その一例が、「一マカ」に見る対ユダヤ政策なのでしょう。
 シリアやエジプトと同じく後継者戦争後に王朝を樹立したアンティノゴス朝マケドニアを破ったことも、ユダ・マカバイたちには驚嘆の声をあげさせたのではないでしょうか。報告自体はわずか2行で済まされておりますが、これをもうすこし詳しくお話しますと、──
 後継者戦争(ディアドコイ戦争)後、地中海世界・オリエント世界は4朝が鼎立、最終的に2朝が残って支配されました(プトレマイオス朝エジプト、セレコウス朝シリア、そうしてアンティノゴス朝マケドニア、リュシマコス朝トラキア)。時のマケドニア王フィリポス5世は前221−前179年在位、一マカ8:5「マケドニアの王、フィリポスとペルセウス、および彼らに逆らった者たちを、戦いで粉砕し、征服した」とは、ローマとマケドニアの間で勃発した<第二次マケドニア戦争>を指すのでしょう。フィリポスは戦後、国内の財政再建に努めるもやがて逝去。アンティノゴス朝マケドニア最後の王となったペルセウスはその後起こった<第三次マケドニア戦争>で敗北、廃位され、失意のうちに逝去いたしました。
 第二次マケドニア戦争と第三次マケドニア戦争はローマとユダヤの関わりを見る際、どうしても避けて通ることのできない事項でありますが、ここについて書くとなれば別に一稿を要す分量となります。為。これについては機を改めて、独立したエッセイとして執筆したく思うております。また、自分の知識不足等も感じておるためでもあります。
 対シリアの報告と同じぐらいユダ・マカバイらの耳目を引いたのが、ローマの対外政策でありました。ローマは、ギリシアの轍を踏むまい、と決めていたのでしょうか。多くの国家を征服して属領にするなどしましたが、そうした被支配地に自分たちの文化や宗教を持ちこんで住民に強制することはしませんでした。それによって多様な社会性が生まれ、長く共存共栄の道を歩んだとあれば、こうしたローマの政策はそのまま21世紀世界にヒントを与えてくれるものにもなるように感じられます。
 敬虔なるユダヤ人を弾圧から解放したユダ・マカバイが次に目指すのが、民族独立であり、かつてのイスラエル王国の如きユダヤ人による独立国家の樹立、でありました。もはやユダは血に飢えた残虐なる民族独立主義者、民族運動の指導者という顔以上にユダヤ人国家建設を視野に入れた政治家でもありました。
 どの段階でユダ・マカバイの脳裏に国家建設の望みが生まれたのか、どの程度まで構想ができていたのか、まだ萌芽の段階でしかなかったのか、定かでありません。が、就中引用もした一マカ8:15−16、「民衆に秩序ある生き方をさせようと、日々検討を続けている。彼らは、自分たちを統治し、自分たちの全土を支配する人を年ごとに一人信任する。そしてすべての者が、この一人の者に服従する。そこにはねたみもなければ、うらやみもない」は、ユダ・マカバイになにかしらのヴィジョンを与えなかったでしょうか(まぁこの報告は若干、理想化されている気が致しますが……)。もっとも、これが今後議論されることも、これに基づいてなにかしらの政策が実施されるわけでもないので、当方の妄言と一刀両断されるかもしれませんが、仮にそうではあってもローマの自国民への保護、および異邦人への柔軟な姿勢には目を瞠るものがあります。シリアの弾圧を経験した者にこれは理想であったように思うのであります。
 では、ユダ・マカバイからの使者を迎え入れて審問した「元老院」、とはなんであったか。それは国政運営の中枢機関、最高諮問機関、と説明されます。
 元老院という機関そのものは王政時代からありましたが、王政・共和政・帝政、と各時代で元老院はその性質をすこしずつ異にしていたようであります。ここでは共和政ローマでの元老院のお話をいたします。
 執政官の諮問機関でありながら構成議員の出自、役職等から事実上の国家統治機関として機能していたようであります。内政・外交の最高意思決定機関、財務上の諸問題──予算決議、果ては国家の人事権の掌握などを担ったのが、この元老院でした。われらの感覚では、政権与党の内閣がこれに相当する、と考えて良いと思います。
 構成議員は当初は貴族(パトリキ)のみ、やがて市民(プレブス)も参加するようになり、議員資格は終身でありました。

 ローマの寛大ともいえる申し出にユダはどのような感慨を抱いただろう。どことなく日米安保を思わせる内容ではあるが、同盟とは案外とむかしから性質を変えるものではないようだ。
 必要あらば条文に変更ができる、とはまた寛大なお言葉である。が、穿った見方をすれば仮にユダヤが自分たちの負担、軛、不利になるような条文の改正、削除を求めてもローマ側(=元老院)を納得させられなければ拒否されもする、ということにもなるだろう。あくまで双方合意の上での条文変更、と考えるのが妥当である。そのあたりの取り決めはどうなっていたのか。今後の、包括的な宿題の1つとしよう。
 ただここでいえることは、当時のユダヤにとってローマの申し出はこの上なく魅力的で、心強いものであった、ということだ。それがローマの、シリア・パレスティナ地方への本格的進出の足掛かりになるものであったとしても。
 事実、ハスモン朝はローマから任命された総督、ヘロデ大王の台頭(前37年、エルサレム攻囲戦⇒ハスモン朝滅亡、ヘロデ王国樹立[ヘロデは王族では勿論ないが、ローマ元老院より王と認められた]。エルサレム攻囲戦でヘロデに助成した(兵を送った)のは、かのマルクス・アントニウスである。ローマが共和政から帝政に移行したのは、前27年の事)と軌を一にして瓦解し、それ以後はローマの属領として総督の監督下に置かれることになるのだから。そうして新約聖書の時代へと突入してゆくわけだ。



 失礼ながらローマの話題が続きます。予約投稿前の本文改訂、感想執筆と改訂を行うにあたり、貧弱な蔵書からほんのすこしばかりのローマ史を引っ張り出してきて、ページを繰っては「ふむ、ふむ、成る程」と頷いたり、「んん、そのところをもすこし詳しく……」と呟いたりしております。これが今日を含めて3日程続いております。
 昨晩もそうでした。が、いつもとはちょっと違う日でした。ローマ、ローマ、と魘されていたわけでは断じて、ない。が、どうしても資料の不足を感じ、むかし買い揃えてその後財政上の都合で手放してしまったこの分野の古典的名著を改めて手許に置いておきたい願望が、もう我慢できぬ程に膨れあがったのでした。そうして昨晩遅く、状態の良い全巻揃いが極めて安価で売りに出されているのを見附けて、もう矢も盾もなく購入の手続きを取ってしまったのです。
 ──嗚呼、モナミ、わたくしは遂に、というか、ようやく、というか、あの本をふたたび書棚へ迎え入れることができるのです!! ハレルヤ!!! エドワード・ギボン著/中野好夫・朱牟田夏雄・中野好之訳『ローマ帝国衰亡史』全11巻(筑摩書房 1976/11-1993/09)を購入したのです。一緒に、同じ書肆から出ている中野好夫・訳『ギボン自伝』(1994/10)も……。
 ご覧の通り、いずれも元版です。ちくま学芸文庫版ではありません。買い揃えて手放してしまったのは文庫版なのですが、最近知ったところでは文庫版では元版にあった註釈がだいぶ削られているそうです。処分してしまったため手許にないので確認はできませんがちくま学芸文庫版は中野好之が訳文に目を通して改訂した、という話を聞きます。事実なら訳文に関してはこちらへ信を置くべきなのでしょうが、文庫版揃いって古書市場でもまだ高いんですよね。いずれは文庫版揃いも(同じく文庫化されている自伝も一緒に)迎えるつもりですが、もう来年の話です、これは。
 もっともギボンの本は書名から明らかなように、「一マカ」の時代よりも後代を扱うので直接の役には立つか、と訊かれれば、「さて」と小首を傾げるよりない。そうして内心では「たぶんないでしょうね」と呟いている。が、安心材料として、また或る種の保険として所持する本があっても良いと思います。
 ……そうなのです、わかっているのです。ギボンよりも先に購入を検討し、お迎えするべき揃い物があることは。ヨセフスとエウセビオスですね。あ、塩野七生もか。これらはもう、気長に条件に見合う出物を待つしかないですよ。
 いまは空間を空けて、ギボンを迎える準備を進めているところです。◆

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第3241日目 〈マカバイ記 一・第7章:〈デメトリオスの支配と弾圧開始〉、〈アルキモスの策略とその結果〉他withクレオパトラについてメモを書いていました。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第7章です。

 一マカ7:1-11〈デメトリオスの支配と弾圧開始〉
 セレコウス紀151年即ち前162年、セレコウス4世の息子でアンティオコス・エピファネスの兄弟、デメトリオスがローマを脱出して地中海沿岸に上陸、王を宣言してその地を統治した。
 デメトリオスは上陸した町を征服して、アンティオキアに入った。かれはリシアスと、従兄弟にあたるアンティオコス5世を処刑した後、セレコウス朝の新しい王として即位した。即ちデメトリオス1世である。
 律法に背く不敬虔なユダヤ人がアンティオキアに来て、デメトリオス1世に謁見を求めた。これを束ねるのは大祭司職への復職を狙うアルキモスだった。
 アルキモス以下の不敬虔なユダヤ人たちは口々に、ユダ・マカバイとその兄弟たちによる”蛮行”を報告、連衆を鎮めてくれるよう懇願した。
 話を聞いたデメトリオス1世は、アルキモスを大祭司に再任した。そうして、ユーフラテス川の向こう側の総督を務めるバキデスと共にユダヤ鎮圧にあたるよう命じた。アルキモスはこうしてシリアの新しい王と手を組み、バキデスの協力を得て、大軍を引き連れてユダヤへ戻ることに成功した。
 バキデスとアルキモスはユダヤに入るとさっそく、友好関係を築くべくかの地のユダヤ人たちと交渉に入った。ユダ・マカバイとその兄弟はまったく相手にしなかった。それが罠であり、軛であるとわかっていたからである。

 一マカ7:12–25〈アルキモスの策略とその結果〉
 アルキモスといっしょにシリア側に寝返ったユダヤ人のなかに、律法学者の一団がいた。かれらは、アルキモスに公正な判断を下すよう求めた。
 一方イスラエルの民のなかに、ハシダイと呼ばれる一団があった。かつてマタティアが挙兵した際、その陣営に合流した律法に忠実で、律法の遵守に熱意を抱く集団である。
 ハシダイはシリアとの講和を主張した。アロンの家系(ツァドク族)に属するアルキモスが大祭司に任命されるのは律法に違反することではなかったからだ。ハシダイはこう主張する、──よもやアロンの家系に連なる者が、われら同胞を不当に扱ったりはするまい、と。
 が、ハシダイはまんまと騙され、1日で60人の仲間を失った。それを知った民の曰く、──
 「あの者たちには真実も正義もない。だからこそ、取り決めも立てた誓いも破ってしまったのだ。」(一マカ7:18)
──と。
 その頃バキデスは、エルサレムを離れたベトザイトに移っていた。寝返った/脱走したユダヤ人がベトザイトへ集まってきた。が、バキデスはそうしたユダヤ人を処刑して、大きな貯水槽に投げこんだのである。然る後、その地をアルキモスに任せて帰ってしまった。
 そのアルキモスは大祭司職の保持に必死だった。かれ1人では手に余る程の仕事が肩にのし掛かってきた。いまや不敬虔なユダヤ人は皆、アルキモスの所へ集まるようになった。監督も指揮も行き届かなくなったことで、律法に背くユダヤ人たちの蛮行は異邦人以上に非道いものになった。──ユダ・マカバイはその度出撃して、2度とかれらが民を悩ませることがないようにした。
 やることの多さと物事が自分の思い通りにならぬことに”ぷっつん”したアルキモスは、プリプリ怒りながらアンティオキアに行き、王を相手にユダたちの行動をクソミソに罵った。

 一マカ7:26-32〈ニカノルの出撃〉
 イスラエルを憎み、敵視することこの上ないニカノルが、新たにユダヤ殲滅を命じられた。
 大軍を率いてエルサレム入りしたニカノルは、ユダに講和の使者を送った。が、ユダはすぐこれが偽りであるとわかっていたので、2度目以後の会談に応じることはなかった。
 自分の企みが露見したと知り、ここにいれば危険が及ぶと察したニカノルはただちにエルサレムを出て、北北西約16キロ程の場所にあるカファルサラマの郊外に陣を構えて、追ってくるユダヤ軍を迎え撃った。この戦闘でニカノル側は約500人の兵が倒れた。残った兵はニカノル側の拠点にもなっているダビデの町へ逃げこんだ。

 一マカ7:33−50〈ニカノルの神殿冒瀆とユダ軍の勝利〉
 そのあと、ニカノルはシオンの山に登り、聖所から出てきた祭司たちの迎えを受けた。が、ニカノルは神殿を冒瀆する言葉を吐き捨てて祭司たちを泣かせ、その場を去るとエルサレムを出てベト・ホロンに出陣していった。進軍してきたシリア軍とここで合流するのである。
 アダルの月の13日、シリア軍とユダヤ軍の戦いが始まった。シリアの将ニカノルはこの戦いで真っ先に戦死した。
 ニカノル戦死を知るやシリア軍は、総崩れになって敗走を始めた。ユダは容赦なくこれを追い、全滅させた。生き残ったシリア兵はゼロである。
 ニカノルの首は、屈辱的な講和を申し入れてきた右手(ex;一マカ7:29)と並べてエルサレム郊外で晒し者にされた。
 民は自分たちの上を覆っていた不安がなくなったことを喜んだ。これがきっかけで毎年アダルの月13日は、「ニカノルの日」として祝われるようになった。
 「しばらくの間ではあったが、ユダの地には平和が訪れた。」(一マカ7:50)

 よく似た名前が同じ章、同じエピソードに乱出することで、混乱を招いているかもしれません。同じ名前ゆえに前回登場した人物と同じ人か、刹那であっても悩んでしまいますね。
 第5章のゴルギアスなどは、わたくしも確信はないが状況などから総合的に判断して、第4章でユダ・マカバイと一戦交えたゴルギアスであろう、と判断いたしました。今日の第7章でも、のっけから新キャラ、デメトリオスが登場する。本文へ落としこんだように、これはアンティオコス・エピファネス(アンティオコス4世)の兄弟であります。人名に関してはなるべく読者諸兄が混乱せぬよう注意を払っているつもりですけれど、それでもなお要らぬ混乱を招いてしまっているようであれば大変申し訳なく思い、また自分の力不足を痛感せざるを得ません。
 さて、気を取り直して、──
 ローマから脱出して地中海沿岸のシリアの町(「一マカ」本文に明記なし)へ上陸したデメトリオス。では、デメトリオスはローマでいったいなにをしていたのか、ということですが、かれは実はかの地で人質になっていたのであります。
 人質とは申せ今日のように、犯罪事件に於いて犯人側が要求を通すための交渉材料として確保する、刹那的かつ非人道的な意味での人質(被害者)ではありません。特に古代に於いては<人質>とは国交上の交渉を有利にしたり、将来の指導者教育の面を備えた留学生に似た扱いをされることが専らでした。
 塩野七生であったか曾野綾子であったか、或いは他の人であったか忘れてしまいましたが、古代ローマの人質を説明して、<フルブライト留学生のような性格を持っていた>と説明しておりました。成る程、と深く首肯したのを覚えております。
 こうした際の人質とは大概、国の指導者の子息で、この場合であればシリア王がローマへ、王子を人質に差し出した。ローマでは王子を厚遇して元老院議員など有力貴族の家に置き、高度な教育を施し、政治の世界を垣間見させ、ローマの中枢を目の当たりにさせることでローマの色に染めあげる。そうして人質が祖国へ戻る際は立派な親ローマ派が1人、誕生している、といった具合です。これはローマにしてみれば同盟国、友好国を増やして、かつその後の国益をも保証する、未来の国家運営を見据えた巧い政策でした。デメトリオスはそうした意味では、或る種の帝王学を受けるため人質としてローマへ渡った、といえそうであります。
 が、「脱出し」(一マカ7:1)て来たとは、果たして? ただ上述の説明を踏まえればこの脱出も、割と穏健な背景を持つように思えます。穏健とは相応しい表現か定かでありませんが、とまれ、ローマの貴族に預けられていたデメトリオスはシリアの王位が不安定なのを見、また兄弟アンティオコス4世の客死を知り、いま自分が出てゆかねばどうするか、と、決意して寄宿先の貴族を説得、一路東へ向けて出奔。海を渡って故国の土を踏んだのではなかったろうか。……甘ちゃんな見方かもしれませんが、わたくしにはそう考えられるのであります。
 ハシダイは第2章にも登場した、律法主義者の集団であります。新約聖書に登場するファリサイ派がハシダイの流れを汲んだ一派であろうことは、第2章ノート感想にて既に述べたとおりであります。エッセネ派についても僅かながら触れました。これを機に、ハシダイというマカバイ戦争時代にユダヤに現れた集団の1つについて、独立したエッセイを書いてみるつもりであります。
 アダルの月13日をニカノルの日と記念、祝うようになった、と一マカ7:49は伝えます。ニコラス・デ・ラーンジュ『ユダヤ教入門』に拠ればアダルの月13日は「エステル記の断食日」とあり、その翌日はプリム祭である(P143-144「ユダヤの暦」 柄谷凛・訳 岩波書店 2002/02)。
 エステル記の断食日とニカノルの日につながりがあるとは思えませんので、ニカノルの日はかつては祝われたけれどやがて忘れられてゆく運命にあった祭日だったのだ、といえるでしょう。フランシスコ会訳聖書の当該箇所の註釈には、「この記念の祝いは毎年行われたが、エルサレムの神殿の滅亡後、いろいろな記念の祝いは廃止されて、ハヌッカ祭とプリム祭のみが存続している」(P1143 註13)とあります。
 ハスモン朝の時代にはじゅうぶん意義あった祭りでありましょうが、新約聖書の時代へ進んでゆくに従ってその意義は徐々に薄まり、やがて廃れてゆき、世代が代わるにつれて「一マカ」に記し留められる歴史上の祭りとしか認識されなくなっていったのでありましょう。



 ちょっとした寄り道をしてきました。本稿を書きながらクレオパトラに関するメモを作っていたのです。「一マカ」第10章で登場するクレオパトラ・テアについてのメモ、であります。なにがきっかけだったんだっけ? まぁ、いいや。
 それだけならほんの数分で済んだのですが、それが1時間近くも要したのは偏にその名前から出発して、あのクレオパトラ(7世)に筆が飛んだからでした。メモのかたわらローマ史やプトレマイオス朝エジプトの歴史、アウグストゥス/オクタウィウスの伝記を読み耽ったり、ローマ皇帝記の類に目を通していたら、こんなに時間が経っていました。
 当該章にてこのメモがどれだけ役に立ってくれるか定かではありませんが、とまれ、書いていて非常に愉しい時間を過ごすことができたことだけご報告しておきます。
 一方でそろそろ、シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』(小田島雄志・訳 白水uブックス)を買って読みたいなぁ、と、思うこと頻りだったのであります。……そうか、この1冊で小田嶋訳シェイクスピアは完読になるんだったな……。長い30年だったぜ。◆

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第3240日目 〈マカバイ記 一・第6章:〈アンティオコス・エピファネスの死〉、〈アンティオコス・エウパトルの攻撃〉他withイエスは<人生の永遠の同伴者>。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第6章です。

 一マカ6:1-17〈アンティオコス・エピファネスの死〉
 ペルシア遠征に失敗してバビロンへ戻る途中のアンティオコス4世は、リシアスに託したユダヤ攻略が失敗したという報告を受け取った。
 「この言葉を聞いて、王は愕然として激しく震えだし、寝台に倒れ、心痛のあまり病気になってしまった。」(一マカ6:8)──死期が迫ったことを悟ると王は枕辺に、遠征に同道する友人をすべて集めてこういった。即ち、──
 「エルサレムで犯した数々の悪行が思い出される。わたしは不当にも、その町の金銀の調度品全部をかすめ、ユダの住民を一掃するため兵を送った。わたしには分かった。こうした不幸がわたしにふりかかったのは、このためなのだ。見よ、わたしは大きな苦痛を負って、異郷にあって死ぬばかりである。」(一マカ6:12−12)
 その後、友人フィリポスだけを呼び寄せて王国の全権を委ねた。王子アンティオコスの養育と教育も頼んだ。
 ──セレコウス紀149年即ち前164年、セレコウス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスはバビロンで客死した。
 アンティオコス王崩御の一報はすぐにアンティオキアへもたらされた。フィリポスに託された遺言を、リシアスは無視した。リシアスは、先王がペルシアへ出発する間際に王子アンティオコスの養育と教育を任されていたことを大義名分とし、この王子をアンティオコス5世、即ちアンティオコス・エウパトルとして即位させたのだった。

 一マカ6:18–32〈アンティオコス・エウパトルの攻撃〉
 その次の年、エルサレムにて。
 むかしエルサレムに侵攻したシリア軍が、「罪深い異邦人と律法に背く者どもを」(一マカ1:34)都のなかの要塞に守備兵として配置したことがある。その守備兵たちがいま、敬虔なユダヤ人たちを聖所周辺に隔離して、嫌がらせをしていた。
 ユダ・マカバイは要塞の守備兵たちを包囲するため、民に呼び掛けて、投石機や攻城機を作って準備を始めた。エルサレムの要塞は、居住区や神殿とは高い壁で隔絶されていたのである。
 これが、要塞を秘かに脱出した守備兵の一人によって、アンティオキアへ報告された。
 王は怒った。ただちに軍隊を編成し、地中海の島々から集まった傭兵たちも交えて、エルサレムに向けて南進させた。シリア軍は歩兵100,000万、騎兵20,000,戦闘用の象32頭から編成されていたという。「一マカ」に記録されない戦力もあった、と推測される。また、この数字を一概に信用することもできない。
 とまれ、──
 シリア軍はベトツルに対して陣を敷き、ベトツルの守備隊と連日連夜の戦闘を重ねた。
 ユダはエルサレムを離れてベトザカリアに行き、シリア軍に向けて陣を敷いた。ベトザカリアは、エルサレムとベトツルの間に位置する町。ここをユダは、会戦の場所に選んだのである。

 一マカ6:33-47〈ベトザカリアの戦い〉
 エルサレム南西約18キロ、ベトツル北約10キロのベトザカリアにて、シリアとユダヤは会戦した。シリアの「大軍のどよめき、進軍の足音、武具のぶつかり合う音を聞く者は皆、震え上がった」(一マカ6:41)という。シリアの軍勢は数が非常に多く、とても強力だったからである。
 が、ユダの兄弟、エレアザル・アワラン(一マカ2:5初出)は1頭の象に目を着けた。他よりひときわ大きな象だった。それにこそ、シリアの王が座乗しているに相違ない。──そう判断したエレアザルは、密集隊形の敵陣へ果敢に突っこんでゆき、かの象めがけて突進、これを攻撃した。象の下に回りこんで致命傷を与えたものの、倒れてきた象の下敷になって、エレアザルは死んだ。「民を救い、不朽の名を残そうと、自らを犠牲にしたので」(一マカ6:44)ある。
 「ユダたちは、王国の力と軍隊の勢力を知って、後退した。」(一マカ6:47)

 一マカ6:48−54〈シオンの山の包囲〉
 ベトザカリア会戦でユダヤ軍を後退させたシリア軍は、平和裏にベトツルを占領した。ちょうどその年が安息年にあたり、町にはシリアの包囲に耐えるだけの食糧が蓄えられていなかったからである。アンティオコス5世はベトツルの住民を他の町へ移住させた。そうしてシリア軍はエルサレムに向けて陣を敷いた。
 シリア軍とユダヤ軍の攻防は、何日も続いた。が、安息の年ゆえにユダヤ人は食糧を殆ど持たなかった。ベトツルで見たのと同じである。
 おまけにエルサレムには、元々の住民に加えて難民が寄宿してたので、食糧不足は余計に深刻であった。飢えがかれらを苦しめた。難民の多くが自分たちの土地へ帰っていった。
 聖所に残る者は少なくなった。

 一マカ6:55−63〈リシアスの和睦の提案〉
 ユダヤと戦闘中のリシアスの許へ届けられた報告、──
 「先王アンティオコスの存命中に、その王子アンティオコスを王となるにふさわしく養育する任務をゆだねられたフィリポスが、遠征していた先王の軍隊を引き連れてペルシアとメディアから帰還し、政権を乗っ取ろうとしている」(一マカ6:55−56)と。
 フィリポスとの衝突はもはや避けられなかった。ユダヤと戦っている場合ではない。リシアスは王と軍の指揮官に、撤退を具申した。
 「我々の力は日ごとに衰え、食物も乏しく、しかも包囲している場所は強固だ。王国の命運は我々の双肩にかかっている。この際、この人々には和解の印として右手を差し出そう。そして彼らおよびその民族全体と和を結ぼうではないか。また彼らに、従来どおり自分たちの慣習に従って生活することを許してやろうではないか。彼らが怒って、抵抗しているのは、我々が彼らの慣習を破棄させようとしたからだ。」(一マカ6:57−59)
 リシアスのいうことはもっともだったので、王も指揮官も異を唱えることはなかった。ただちに軍の撤退が開始された。
 一方でリシアスはユダヤ軍に和睦の使者を遣わした。ユダヤが和睦に飛びついたのはいうまでもない。腹がへっては戦はできぬ、は古今東西、万国共通の真実である。ユダヤ人は砦から出て来て、久しぶりに戦闘のない日が訪れたのを喜んだ。
 しかし、である。アンティオコス・エウパトルはシオンの山に築かれたその砦の堅固なるを見て、城壁の破壊を命じた。そうして王はアンティオキアに戻り、既にフィリポスの手に落ちていた町々を力ずくで奪還した。

 リシアスがユダヤ側に和睦の提案を図ったのは、先王が率いていった軍勢の強さを知っていたからに他なりません。ペルシア遠征が事実上失敗に終わったとはいえ、軍隊が全滅したわけではない。フィリポスの指揮官としての能力もリシアスは良く知っていたことでしょう。
 そのフィリポスが残された遠征軍を率いて迫ってくる。これにシリアは全軍を持って取り組まねばならない。が、シリア国内に散らばる軍隊をすべて招集しても、戦力を二分して事に当たるのは不可能事に等しい──つまり、いまのシリアにユダ・マカバイとフィリポス両方を同時に相手して戦うだけの戦力はなかった。為にリシアスはユダヤとの停戦をまとめて、全シリア軍を対フィリポスへ向かわせたのであります。
 このタイミングでの和睦は非常に賢明な判断であった、と申せましょう。この判断の速さ、的確さは称賛されるべきです。それが結局、ユダヤを飢えから救ったわけでもありますから。
 抗戦を続けるユダヤにとっての幸い、シリア国内に留まった軍隊にとっての幸い、アンティオコス5世にとっての幸いは、リシアスが先王の留守を守って残ったことでありましょう。かれのような明晰かつ先を見通す力なくして事態の即時収束は困難であったに違いありません。
 最期に、安息の年(安息年)について、簡単にお復習いして終わりとします。
 安息年は「レビ記」に載り、主なる神がシナイ山にてモーセに語った神聖法の1つ。曰く、──
 「あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。」(レビ25:2-5)
──と。
 どれだけ安息年が豊作であろう土地に実ったものはすべて、収穫してあなたたちの食糧にすることはできない。……結構厳しいお話です。が、これは道理にかなう話でもあります。大地に休息を。そうして翌年は、安息年の間に実ったものをすべて食糧とすることができる。ちなみにこの7年のサイクルを7回繰り返した翌年、つまり50年目はヨベルの年と呼ばれます。
 第7章でユダヤ人が食糧に喘いだのは、こうしたむかしからの教えを忠実に守っていたためでありました。



 このままのペースで更新を続けられれば、「一マカ」第16章は12月25日午前02時にお披露目できる。今年のクリスマスは久しぶりに、イエスについての記事が書ければ良いな、と思います。
 就寝前の一刻、遠藤周作『イエスの誕生』をすこしずつ読んでおりますが、これまで読んだイエス伝のなかでいちばん、心の襞に染みこんで深いところまで届く。遠藤は常にイエスを、人生の永遠の同伴者、と捉え、内に秘めた悲しみに寄り添ってその輪郭を丁寧に描いてゆく。
 ──かれらに必要なのは<奇蹟>ではなく、<愛>である。哀しみや苦しみを分かちあい、共に泪する母の如き<人生の永遠の同伴者>。
 福音書を読んでいるときにこの本に出会っていたら、わたくしのイエス観も変化していたかもしれません。イエスはけっして超然とした人物ではなく、弱き者の悲しみに寄り添い、共に泣くことのできる同伴者であった……。
 夜更け、奥方様の寝息を横に聞きながら、この言葉を口のなかで呟くと、自然に両親の姿を思い浮かべてしまうのであります。◆

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第3239日目 〈マカバイ記 一・第5章:〈隣接諸民族との戦い〉、〈ギレアドとガリラヤ在住のユダヤ人の危機〉他with渡部昇一の本を捜索中。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第5章です。

 一マカ5:1-8〈隣接諸民族との戦い〉
 シオンを取り巻く地域に暮らす異邦人たちは、ユダヤ人が祭壇を清め、聖所を新たに奉献したことに激怒し、ユダヤ人根絶を図って行動を起こした。
 ユダは、それら異邦人──イドマヤのエサウの子孫とバイアンの子孫に対して戦いに臨み、これを破った。ヤゼルとそれに属する村々を占領した。
 ヨルダン川東岸に住むアンモンの子孫との戦いには手こずった。その数は多く、力も強大で、指揮官はティモテオスという優れた武人だったからである。が、何度か戦闘が繰り返された末にユダは、打ち破ることができた。

 一マカ5:9–20〈ギレアドとガリラヤ在住のユダヤ人の危機〉
 ギレアド地方とガリラヤ地方のユダヤ人が迫害を受けていた。ギレアドとガリラヤはいずれも旧北王国イスラエルの領土にあり、ギレアドはヨルダン川東岸に接し、ガリラヤはゲネサル湖に面してやがてイエスの故郷となる地域である。そうしてギレアドの対ユダヤ勢力を率いるのは、前章にてアンモンの子孫らを指揮したティモテオスだった。
 ギレアドとガリラヤ双方から伝令が走り、エルサレムのユダの許へ窮状が伝えられた。かれらは援軍を求めていた。
 ユダは、兄シモンにガリラヤ地方の救援を頼み、自分は弟ヨナタンを連れてギレアド地方に出陣した。兵力はガリラヤ救援部隊に3,000,ギレアド救援部隊に8,000が割かれた。

 一マカ5:21-45〈シモンとユダ、同胞を救出〉
 ◌シモン
 ガリラヤ地方へ到達したシモン軍は異邦人との度重なる戦闘に勝利し、敗走する敵兵を地中海沿岸の町プトレマイオスまで追いつめて、これを倒した。
 そうしてガリラヤ地方とアルバタ地方のユダヤ人を救出して、かれらをユダヤ地方へと連れて帰った。

 ◌ユダ
 3日3晩、荒れ野を進んだユダ軍とナバタイ人が接触した。ナバタイ人はシリア・パレスティナ南方から東方に住む人たちである。かれらはギレアドのユダヤ人を襲った災厄を伝え、現状を報告した。ギレアドのユダヤ人は主要都市また他の町々に封じこめられ、明日にも敵は攻めこんで1日でかれらを滅ぼすであろう。
 ユダ軍は東に転じてギレアドの町ボソラを目指し、その夜のうちに敵を退け町を開放した。
 夜明け頃に到着した次の町では(この町の名前は「一マカ」に記載が無い)既に、敵が攻略に取りかかっていた。
 「(ユダは兵たちに)今日こそ我々の同胞のために戦え」(一マカ5:32)と鼓舞して進撃。異邦人はマカバイ率いる軍勢が来たのを見ると、たちまち態勢を乱して逃げ始めた。ユダ軍は敵に大打撃を与え、町を占領し、敵兵を殺し、戦利品を奪い、火をかけて、次の町へと向かった。
 カスフォ、マケド、ボゾル、その他ギレアドの町でもユダ軍は同様に戦い、殺し、略奪し、火をかけるなどして、それらの町を攻め落としてゆく。
 その頃シリアの将ティモテオスは部隊を再編成して、次の、ユダとの戦いに備えていた。ユダが現在、ギレアド地方に出陣して異邦人の脅威に曝されている同胞を助けて回っていると知ったティモテオスは、帰国する際通るであろうラフォンの町に向かって自陣を強いた。ラフォンは、(ガリラヤとギレアドを分かつ)ゲネサル湖へ注ぐ渓流の向こう側にある。渓流は雨後のせいもあって増水して、流れも激しかった。
 ユダ軍が接近してくる。ティモテオスは配下の指揮官たちに、「敵の方が先に川を渡ってくるなら、わが軍は太刀打ちできない、彼らの方が優位に立つことになるからだ、だがもし敵がちゅうちょして対岸に陣を敷くなら、そのときはこちらから川を渡り、敵を打ち負かそう」(一マカ5:40−41)といった。
 果たせるかな、ユダは渓流を、すべての兵を渡らせて、ティモテオスの軍勢を攻撃したのである。シリア勢は総崩れとなり、カルナイムの町の神域へ逃げこんだ。が、ユダ軍が神域に火を放ったので、逃げこんだ敵兵は皆、焼き殺された。カルナイムは陥落した。もはやユダヤの敵となる異邦人はなくなった。
 斯くしてユダは、ギレアド地方の同胞を引き連れて、ユダヤへの帰還の途に就いた。

 一マカ5:46−54〈エフロンでの破壊〉
 ユダ・マカバイの軍勢とギレアドからの避難民の一団は、エフロンの町の入り口に到着した。通過のための許可を願い出るも、エフロンの人々はそれを拒んだ。
 ユダはただちに戦闘の準備を始め、エフロンの町を一昼夜にわたって容赦なく攻撃し、これを陥落させた。エフロンの男子は残らずユダ勢の剣の下に血塗れとなって倒れ、「敵の屍を踏み越えて」(一マカ5:51)、揚々と町を通過していった。
 落伍しそうになる避難民を励ましながらヨルダン渡河して西岸に戻り、かれらは歓喜のうちにシオンへ帰還した。途中ひとりの犠牲者を出すこともなく帰還できた感謝に、焼き尽くす献げ物がささげられた。

 一マカ5:55−64〈ヨセフとアザリアの敗北〉
 シモンとユダの戦火の報を聞いて浮き足立った者が、いた。留守中の守備を任されていたザカリアの故ヨセフとアザリアである。
 かれらは(軽率にも)ヤムニアの町に駐屯するシリア軍を攻撃した。その地を当時守っていたシリア将はゴルギアスである。ヨセフとアザリアは返り討ちに遭い、ユダヤの国境まで追撃された──つまり、大敗北を喫したのである。
 というのもかれらは、イスラエルを救うべく使命を委ねられた一族に属する者ではなかったためである。一方でその使命を委ねられた一族に産まれたユダとシモンは、その武勇ゆえにすべての異邦人の間で栄誉を讃えられたのだった。

 一マカ5:65−68〈ユダ、南部と異国の地を撃つ〉
 その後もユダとその兄弟たちは異邦人との戦に明け暮れた。ヘブロン、アゾト、等々である。アゾトでは異教の祭壇を破壊し、かれらの神の像を焼き、略奪行為に明け暮れた。
 マリサの地では一部の祭司が功名心に駆られて戦場に出て、敗れるという無思慮かつ無分別な出来事があった。かれらもまた、イスラエルを救うべく使命を委ねられた者ではなかったのだ。

 第5章ではユダ・マカバイの異常性が垣間見られます。アンティオコス・エピファネス4世やヒトラー、スターリン、毛沢東、或いは太平洋戦争末期に沖縄に上陸し、B-29の編隊で本土を空襲、挙げ句に広島と長崎に原爆を投下して、市民をも大量虐殺した米軍の如き大量殺戮者のリストに名前を連ねても、なんの不思議もない。かれらとどこが異なるのでしょうか。
 わたくしは先達てこの疑問と憤りから、〈「第3218日目 虐殺系民族主義者の祖、ユダ・マカバイ?〉というエッセイを書きました併読いただけますと幸いです。
 ギレアド地方に同胞救援へ向かったあたりからその傾向は顕著になってきます。自分の意に添わぬ輩はただちに攻撃して、滅ぼして、戦利品と称して略奪行為を正当化する。戦闘指揮官としての能力は優秀でありましょうが、人間性に目を向けると、これはただのロクデナシ、ヒトデナシ、卑しさと傲慢と残忍が同居した愚人であります。民族独立運動の指導者、ハスモン朝成立の道を切り拓いた人、という業績なかりせば十把一絡げに切り棄てても構わぬ人物であります。むろん、これはわたくしの見解でありますので、他の方々が、たとえば読者諸兄が「いや、そんなことはないでしょう」というのであれば、まったく以てそれでも良いのです。
 ただ感じられてならぬのは、神殿再奉献をぶじ果たしたあとユダ・マカバイは、一時的ながらも目的を見失ってしまったのではないか、ということであります。
 シリア軍に自ら──敵が攻めてきたわけでもないのにこちらから喧嘩を売りに行くような愚かな行為は、流石にユダ・マカバイもできなかったろう。なにしろ相手は曲がりなりにも後継者戦争を勝ち抜いて現在の版図を得、エルサレム一帯を支配したプトレマイオス朝を撃退し、いまこの瞬間にも版図拡大の戦闘を展開しているであろう大国、シリアであります。もしシリアが全戦力をユダヤ討伐に割いたら、如何に優秀なる武将ユダ・マカバイと雖も一溜まりもないでしょう。これは見落とされがちなことですが、注視して然るべき点であると思います。
 とりあえずは現在の手持ち無沙汰の解消に、戦いの最中で覚えた血の臭い、敵が倒れるときの悲鳴や地面に落ちる音が忘れられなくなったユダが、溜まったストレスを発散させに異邦人を必要以上に攻めまくって、暴走して戦闘員・非戦闘員の別なく虐殺行為に耽った記録、と考えるのが、本章を読むにあたっていちばん無難な姿勢ではないか、と考えるのであります。記録に残ってしまっているだけに悪質、残虐だ、ともいえましょう。
 ギレアドから一人の犠牲者を出すことなくエルサレムに帰還できたことを感謝して焼き尽くす献げ物をささげる、というのも、普通に読めば首肯できることなのに、そんな風に読んでくると民族主義者の負の側面を見る思いがしてならぬのであります。
 まったく以てここでのユダ・マカバイによる虐殺行為は、アンティオコス4世よりも非道いといわざるを得ない。それが「正義」の名の下に行われているだけにタチが悪い、と思うのは一人わたくしだけでしょうか?
 なお、勇み足だったヨセフとアザリアを負かしたシリアの将ゴルギアスとは、第4章アマウス会戦にてシリア軍を指揮したゴルギアスと同一人物と考えて良い。そこでゴルギアスの戦死は伝えられていない。ならば同一人物とするのが自然でありましょう。



 渡部昇一の本にあったことで、どうしても思い出せないものがある。人間関係の整理について、触れた本があったはずだ。年賀状の整理かなにかをしていて、この人とはもう付き合いがないなぁ、と感じるところから始まり、或る程度の年齢になったら人間関係の整理も必要になるのではないか、と指摘する箇所である。
 これを数日前から探しているのだが、どうにも見附けることができていない。人間関係の整理、というだけなら『クオリティ・ライフの発想』(講談社文庫 1982/07)の「前書き」にあるが、どうも記憶と違うのでこれではあるまい。……おそらく、ではあるが。
 人間関係の整理、を読んで「ふぅん」と思うたのは、高校3年である。『クオリティ・ライフの発想』は相鉄線を途中下車した古本屋で買った。これも高3である。30代になるまではよく読み返した本だ。松下幸之助や昭和天皇のインテレクト、亡母との方言での会話、外山滋比古との対談など、覚えている箇所が目白押し。でも、「前書き」に人間関係の整理について触れるところがあることは覚えていなかった。
 ということは、件の指摘をわたくしが読んだのは、この文庫ではなかろう。では、どの本で? わからない。現在、該当書目を捜索中である。
 見附かったら、お話します。◆

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第3238日目 〈マカバイ記 一・第4章:〈アマウスの勝利〉、〈聖所の清め〉〉他with『LoveLive!Days ラブライブ!総合マガジン』を買いました/読みました。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第4章です。

 一マカ4:1-25〈アマウスの勝利〉
 敵将ゴルギアスは夜陰に乗じてユダ勢への奇襲を目論んだ。シリア軍は二分され、夜襲部隊をゴルギアスが率いて、ユダの宿営地目指して進軍した。
 敵の動きを察知したユダは宿営中のアマウス南方を離れて、警備が手薄になったアマウス北方のシリア軍本営を急襲、これに火をかけて宿営地に戻った。
 そうとは知らぬゴルギアスの夜襲部隊はユダ軍の宿営地に迫った。が、そこはもぬけの殻だったので周囲を捜索させた。──ユダの軍勢が戻ってきたのは、その最中である。
 ユダ軍の1人は、いまの状態では勝ち目がない、とひるんだ。戦帰りで兵は疲労し、武器も十全ではないから、と。が、ユダは疲れ果てているはずの兵を鼓舞して、戦馴れしたシリア軍に躍りかかった。
 不意を突かれてシリア軍は奮闘するもだんだんと劣勢になり、遂には敗走する事態に陥った。戦闘を放棄して逃げてゆくシリア兵を、ユダ軍はどこまでも追った。南はイドマヤの平野へ、西はゲゼルやヤムニア、アゾト、まで……。
 ──と、その様子をこっそり窺う一団があった。ゴルギアスの残存部隊である。かれらは目の前で展開される味方の敗走劇を見、また遠くには陣営に放たれた火の煙が空へ漂い昇を見て、ことごとく異国へと逃げ去っていった。
 ユダ勢は戦闘が終わると、倒れた敵兵から数多の戦利品を数多、奪ったのである。そのなかには金や銀、色鮮やかな布などもあった。

 一マカ4:26–35〈リシアスとの戦い〉
 敗走兵の一部はリシアスの許へ帰り着き、アマウス会戦の一部始終を報告した。
 リシアスはユダヤ殲滅計画の進捗が芳しくないことに歯がゆい思いをしていた。そこでかれは自ら出陣して対ユダヤ戦に臨むことに決めて、アンティオキアを出発した。セレコウス紀148年即ち前164年である。
 シリア軍は南進してイドマヤへ到着、ベトツルに陣を構えた。エルサレム南西、約22キロ程に位置する町である。
 10,000の兵を動員してもこの陣営を破ることができなかったユダは、祈りをささげて、然る後に再度、シリア軍を攻撃するため兵を率いて出陣、その勢いは非常に激しかった。
 「リシアスは、自分の軍勢が交替し、逆にユダの軍が士気をますます高め、生きるにせよ、死ぬにせよ、雄々しくふるまう覚悟のできているのを見て、アンティオキアに戻った。」(一マカ4:35)
 ──が、リシアスは諦めたのではない。次のユダヤ攻撃に備えて戻ったのである。

 一マカ4:36-61〈聖所の清め〉
 リシアス/シリア軍撤退を喜んだユダとかれの兄弟たち、志を同じうして戦ってきた者らは、一路シオンの山、エルサレムを目指して進んだ。
 聖所は荒れ果てていた。祭壇は汚れ、門は焼け落ち、中庭は草生し、祭司部屋は崩れ落ちている。ユダはエルサレムに残る敵兵征伐を兵に命じ、一方で、律法に忠実でなに一つ咎められるところのない、清廉な祭司たちを選んで、聖所清めの仕度に取りかかった。
 祭司たちはまず聖所を清め、汚れの石を不浄の場所へ移した。それから、──

 「汚されてしまった焼き尽くす献げ物のための祭壇の処置をめぐって協議し、それを引き倒すことが最善ということになった。異教徒がそれを汚したので、そのことで自分たちが非難されないためである。こうして彼らはその祭壇を引き倒した。
 そしてこの石を神殿の丘の適当な場所に置き、預言者が現れて、この石について指示を与えてくれるまで、そこに放置することにした。そして祭司たちは、律法に従って、自然のままの石を持って来て、以前のものに倣って新しい祭壇を築いた。
 こうして、聖所および神殿の内部を修復し、中庭を清めた。
 また聖なる祭具類を新しくし、燭台、香壇、供えのパンの机を神殿に運び入れ、香壇には香をたき、燭台には火をともして神殿内部を照らした。また机には供えのパンを置き、垂れ幕を垂らした。かくしてなすべきことはすべてなし終えた。」(一マカ4:44−51)
 そうして、その日は来た、──
 セレコウス紀148年即ち前164年、第9の月──キスレウの月──25日である。
 先祖の信仰をこの日まで棄てることなく生きてきた篤信のユダヤ人たちは聖所に集まり、律法に従って、焼き尽くす献げ物のための新しい祭壇に焼き尽くす献げ物を置き、3年前に異教徒が祭壇を汚したと同じ日にその祭壇を新たに奉献した。
 その後8日間にわたって祭壇の奉献を祝い、喜びを以て各種献げ物をささげ、荒れ果てた聖所の部屋を直し、門を飾り立てた。
 ふたたび聖所は民の喜びにあふれた。斯くして異邦人から承けた大いなる恥辱はここに晴らされたのである。
 「ユダとその兄弟たち、およびイスラエルの全会衆はこの祭壇奉献の日を、以後毎年同じ時期、キスレウの月の二十五日から八日間、喜びと楽しみをもって祝うことにした。」(一マカ4:59)
 ──これが今日までユダヤ教のなかで祝われる「ハヌカ」という祭りの起源である。──
 ユダはいつシリアを始めとする敵からの襲撃を受けてもよいように、高い城壁を築き、堅固な塔を建て、塔には兵を配し、シオンの山の防御を固め、同時にイドマヤ地方を警戒するためベトツルの守備も強化したのである。
 
 リシアスの部隊が一旦退いたのは、一歩も退かずに雄々しく戦うユダ・マカバイの統率力やかれに従う兵士たちの勇猛さに怯んでのことでは、なかったはずであります、むしろユダの戦術やユダヤ軍の戦いぶりをつぶさに目の当たりにしたことで、シリア軍の戦術、部隊の再編、兵の鍛錬、などなど対ユダヤ戦について色々考えるところあってのことでしょう。そんな風に考えて、本文を作ってみたのであります。
 本章以後、ユダヤとの戦いに於いてシリアもまた、此度のアマウス会戦での二の轍を踏まぬよう仕切り直して、互角の戦いを多く繰り広げているように見受けられます。
 もっとも、常に対ユダヤ戦に於いてシリアの主力部隊が投入された、とは考えるのはすこし困難でもありますので、たまたまユダヤ攻撃にあたったシリア軍が臆病神に吹かれた青虫の集団であっただけなのかもしれません。誰にも、肯定も否定もできぬ指摘をしてみました。
 聖所清めの仕度を始めたユダヤ祭司たち。作業を進めてゆくなかで、汚された焼き尽くす献げ物をささげる祭壇の処置について頭を悩ませたようであります。元より汚され方の程度が他と較べても尋常でなかったことから、結論としては取っ払うより他にはない。それは良いのです。むしろわたくしが、──
 わたくしがこの箇所を、今回改めて読んでいて立ち止まってしまったのは、果たして「最善」という訳語が本当に相応しいものであろうか? 「最善」とはいろいろ選択肢があるなかでいちばんその場に相応しい方法を採る、という意味であります。
 新共同訳では「最善」だが、では他の、「一マカ」翻訳ではどのような日本語が充てられているのだろう。引っ繰り返してみましたところ、フランシスコ会訳聖書では「妙案」とあり、最新訳である聖書協会共同訳でも同じ「妙案」の訳語が与えられております(関根正雄・編/・訳「第一マカベア書」[『旧約聖書外典』上巻所収 講談社文芸文庫 ]は本稿執筆時点で未見のため、参照できませんでした)。
 わたくし自身はフランシスコ会訳聖書と聖書協会共同訳の「妙案」に軍配を挙げる。
 この文章をじっくり読んでおりますと、「妙案」が焼き尽くす祭壇の撤去ではなく、後世の人々による自分たちの評価を気にしての言葉であることに気附かされます。いろいろ協議した、というのは「祭壇を撤去して新しいものを建てて清めるか、祭壇自体はそのまま残して清め直すか」だったのでありましょう。
 この協議はけっして目前の作業についてのみ侃々諤々しているのではなく、それを行うことで自分たちが後世のユダヤ教徒にどのようにいわれるか、も視野に入れての協議であったのだと、わたくしは思うのであります。そうしたなかから結局、「撤去して新たに清める」という結論が下されます──それを以て子孫に「ご先祖様、よくやった!!」とでもいってもらえることを期待してのことだっただろう。こう考えてくると、すくなくともわたくしには「最善」というなにやら目先の問題を解決するための手段の如き訳語よりは、上述の理由からフランシスコ会訳聖書と聖書協会共同訳の「妙案」てふ訳語を支持する者なのであります。
 さて、「一マカ」最初にして或る意味最大級のクライマックスが、既に本章で明らかとなってしまった。いうまでもなく、神殿の清めであります。これが本書幕開けになり、全16章という点も加味すれば、なんだかあっけなくここに着地してしまった感が、なきにしもあらずではないでしょうか。
 この再奉献が「ハヌカ」というユダヤ教のお祭りの源であります。旧約聖書或いは旧約聖書続編を読んでおりますと、ユダヤ民族は様々なお祭りをこの時代に催して、すくなくともその後何世紀かは存続したようだが、いまではすっかり廃れてしまったお祭りが少なくない。
 ユダヤの3大祭りといえば、仮庵祭、七週祭(「刈り入れ祭」とも)、過越祭(除酵祭)、でありますが、これらはまだ敬虔なユダヤ教徒の家では祝われております。他にも「エステル記」を起源とするプリムなどありますが、本章でユダたちが神殿再奉献したことを記念して、別名「光の祭り」と呼ばれるハヌカがユダヤ人の間で祝われるようになりました。
 ハヌカとはどのような祭りか、ミルトン・スタインバーグは著書『ユダヤ教の基本』(ミルトス 2012/04)でこう述べております。曰く、「昔、良心の自由のために戦ったマカベア家の勝利を思い出す日であり、人間の不屈の魂の象徴である」(P220)と。
 火の灯された蠟燭が8日間、消えることなく燃え続けた、という故事に倣ってハヌカも8日間、祝われる祭りであります。その故事は『タルムード』に載ります。『タルムード』はヘブライ語聖書(旧約聖書)と並ぶユダヤ教の聖典の1つで、口伝・伝承等を収めたユダヤ教徒の生活の規範、信仰の礎を担う書物。
 ではそのハヌカ、どう祝うのか、というお話ですが、これについてはニコラス・デ・ラーンジュが著書『ユダヤ教入門』(岩波書店 2002/02)で説明するところを、長くなりますが、引用して本稿の筆を擱きたく思います。曰く、──
 「これを祝う主なやり方は、石油ランプか蠟燭に灯りをともすことで、最初の晩には、一本、二日目の晩には二本、というふうに、八日目の晩に八本目を灯りがともされるまで続く。毎晩、一本余分に用意された「僕」の祈り(シャマシュ)が、実際の灯りをともすのに使われる。この時のためのランプや燭台(メノラーとかハヌキヤーとよばれる)が使われるが、これはしばしば奇想をこらしたデザインになっていて、暗闇の中に輝きをもたらすようにと窓辺におかれる。
 灯りをともすときには、特別な祈りを唱え、大変愛されている聖歌、マオズ・ツールを歌う。(中略)この時のための祝福の言葉を唱え、神が「この季節に奇跡を行ってくださった」ことをほめたたえる。
 大きくなった副次的風習の中に、子供がお金をプレゼントされ、4つのヘブライ文字が彫りこまれた小さな回転盤を使って賭けをするというものがあるが、このあいだ、親はカード遊びをする。ラートケ(ポテトのパンケーキ)、ドーナッツ、フリッターなどの揚げ物を食べる。」(P151-152)
──と。
 ハヌカが行われるキスレウの月とは11月から12月に相当し、年によって日程が異なりますが、今年2021年は11月28日夕方に始まり12月06日に終わったそうです。
 公益社団法人日本イスラエル親善協会のHPには「ユダヤ教のお祭「ハヌカ」って何?」と題して写真入りで現代のユダヤ人家庭が祝うハヌカの様子や、8基プラス1基のハヌカ用の燭台なども紹介されております。ご関心のある方は見てみるとよいと思います。



 『LoveLive!Days ラブライブ!総合マガジン』Vol-22を購入した。『ラブライブ!スーパースター!!』放送終了後はロス期間が続いて、『ラブライブ!』関連の情報を仕入れることからすっかり遠ざかっていた。
 従ってTwitterの、公式を核とするメディアからのツイート、或いはライバーのツイート・リツイートがTLに流れてきても素通りが専らだが、今回だけは立ち止まってじっくり確認せざるを得なかった。
 それが前述『LoveLive!Days ラブライブ!総合マガジン』Vol-22である。
 内容というよりは、表紙である。わたくしをピタッと立ち止まらせたのは。実際見ていただければわかるのだが、初めてのことではないか、公式の側から供給されたイラストで、シリーズ4作品の主人公が1枚絵に揃い踏みしたのは。穂乃果がいて、歩夢がいて、かのんがいて、千歌がいる。なんと神々しいイラストであるか!?
 エモい、とか、尊い、とか、そんな言葉では言い表せない。永遠に愛おしく、崇敬する。イコン、というがいちばん近いか。イコンとは、「聖像画」を意味する。
 『ラブライブ!』に興味ない人でも、この表紙を見てっ!! 買って、とは小声でひっそりお願いする。
 表紙イラストを用いたB1サイズのタペストリー、買おうかなぁ……いや、結構マジで悩んでいる。教育の賜物か、奥方様も好きになってくれたようなので、許してくれるのではないか……と踏んでいるのだが。◆


ユダヤ教の基本

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  • 出版社/メーカー: ミルトス
  • 発売日: 2021/12/11
  • メディア: 単行本



ユダヤ教入門

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2002/02/18
  • メディア: 単行本





⇒紙媒体(雑誌・ムック)もあるからね!!

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第3237日目 〈マカバイ記 一・第3章:〈ユダ・マカバイ〉、〈ユダ、セロンを撃つ〉他with天に召されても幸せでいられる人。(つぶやき・なう)〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第3章です。

 一マカ3:1-12〈ユダ・マカバイ〉
 歿したマタティアに代わって三男ユダが、対シリア運動の先頭に立った。兄弟は互いに助け合い、支え合い、共に戦った。
 記録される歌に拠ればユダは、「巨人のように、胸当てを着け、 / 武具に身を固めて、戦場に臨み、 / 剣をもって、陣営を守った」(一マカ3:3)という。かれは獅子に喩えて歌われた。
 律法に従わない者はユダの名前を聞くだけですくみ上がり、混乱した。逆に律法に従う者、父祖の信仰と生活を棄てなかった者らの目にユダは、救いの道を開く人物と映ったのである。
 その頃、シリアのアポロニオス(サマリア地方司令官)の部隊とユダ・マカバイの軍が戦い、シリア軍は敗北した。このときユダは敗将アポロニオスの剣を奪った。この剣は終生ユダの手にあり、各地の戦いで揮われた由。

 一マカ3:13–26〈ユダ、セロンを撃つ〉
 セロンはシリア軍の司令官である。ユダが戦いの準備を進めているのを知るとセロンは軍隊を一路、敵が陣を敷く場所へ出陣させた。不敬虔なユダヤ人たちが南下するシリア軍に加わった。
 ──ベト・ホロンの上り坂にさしかかったシリアの大軍を、ユダとわずかな数の斥候が見ていた。斥候はシリアの大軍を見て士気を削がれてユダに、出直そう、と訴えた。なんとなればわれらは朝からなにも食べていないではありませんか、そんな状態でいったいどうやってシリア軍に挑めというのですか、と。
 ユダは斥候の訴えを退けて、平然といった。「少人数の手で多勢を打ちのめすこともありうるのだ。(中略)戦いの勝利は兵士の数の多さによるのではなく、ただ天の力によるのみだ」(一マカ3:18-19)と。続けて曰く、──
 「我々は命と律法を守るために戦うのだ。天が我々の目の前で敵を粉砕してくださる、彼ら如きにひるむことはない。」(一マカ3:21)
──と。
 斯くしてユダと少数の斥候はセロンの軍隊へ斬りこんでいった。不意を突かれたシリア軍は態勢を整える間もなく敗走した。生き残りは這々の体でペリシテの地へと逃げこんでいった。
 セレコウス紀147年即ち前165年のことである。

 一マカ3:27-37〈ペルシアおよびユダヤへの王の遠征計画〉
 アポロニオスとセロンの敗走を知ったアンティオコス・エピファネス4世は、これまでにない規模の軍隊を対ユダヤ戦に備えて招集した。兵にはあらかじめ年棒を前渡しして、常時あらゆる事態に即応できる体制を維持させた。
 が、それが却って国家財政を疲弊させたのである。「(アンティオコス4世は)以前からその褒賞を気前よく与え、歴代の王以上に出していた」(一マカ3:30)からだ。
 そこで王は、資力確保の名目で隣国ペルシアへの遠征(事実上の侵略戦争である)を計画、自ら指揮を執ることにした。
 為政者不在、政治空白の混乱を避けるためもあり王は、国事全般と国軍の半分を腹心のリシアスに委ね、当面抱えている各種懸念事項もリシアスに共有した。特にユダヤ人とエルサレムの処遇については幾度も幾度も念を押したのである。即ち、ユダヤ人は根絶やしに、エルサレムは壊滅させよ、と。以てかの地を往き来するあらゆる民への見せしめとせよ、と。
 こうしてアンティオコス・エピファネスはペルシア遠征に出発した。セレコウス紀147年即ち前165年のことである。「彼はユーフラテス川を渡り、高地の国々へと歩みを進めた。」(一マカ3:37)

 一マカ3:38-45〈ニカノルとゴルギアスの出陣〉
 リシアスはさっそくユダヤ人──マタティアの子ユダを代表とする律法に従う勢力──攻撃に取りかかった。ニカノル、ゴルギアス、ドリメネスの子プトレマイオス、3人の将軍を指揮官に任命し、40,000の兵と7,000の騎兵を与えてユダ攻撃に向かわせたのである。
 シリア軍はエルサレム西北西約15キロのアマウス近郊に到着、町の北側に陣を敷いた。
 自分たちの領内にシリア軍が陣を敷いたことを知ると、ユダたちは、「同胞を絶望の淵から奮い立たせ、民と聖所のために戦おう」(一マカ3:43)と誓い合い、祈りをささげ、慈悲と憐れみを求める集会を開いた。

 一マカ3:46-60〈ミツパの戦い〉
 祈りのため、ユダとかれに従うユダヤ人たちがミツパへ行った。かれらは断食し、粗布をまとい、頭から灰をかぶって衣を裂いた。律法の巻物を開いた。祭司服と初物、十分の一税を用意して、誓願の日数の満ちたナジル人を立たせた。天に向かって大声を上げた。
 そのときの言葉に曰く、──
 「御覧ください、異邦人たちがわたしたちを滅ぼそうと押し寄せて来ます。……あなたのお助けなしにどうして彼らに立ち向かえましょうか。」(一マカ3:52-53)
 それからユダは、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長、をそれぞれ任命した。一部の者については律法に従って帰宅するよう勧告した。然る後、ユダとその軍勢はアマウスの南側に陣を敷いた。
 明朝の戦いに先んじて民を鼓舞するユダの言葉、──
 「備えを怠るな。わが民族と聖所に加えられる災いを目にするくらいなら、戦場で死ぬ方がましではないか。万事は天の御旨のままになるであろう。」(一マカ3:58-60)

 通読すればわかるように、「一マカ」にはただの一言も「神」という言葉が出て来ません。「列王記」や「歴代誌」の如く時に神が為政者や諸国に働きかけて動いてゆく、という場面が「一マカ」にはないのです。そうした意味では超自然的な神が介在しない物語といえましょう。神の恩寵によってユダヤはシリアの圧政を退けたのではない。あくまで、人の力でありました。たしかに「天」に祈る場面こそあれ、シリアもユダヤも、エジプトもローマも、人間の智略が歴史物語を動かしてゆく。地に足が着いた軍記物、それが「一マカ」なのであります。
 勿論、かれらの背後に「神」はいつだって存在しております。神は<ここ>にいる。<ここ>とはどこか? 1人ひとりの信仰のなかであります。抽象的な物言いになりますが、ユダたちはイスラエルの、先祖の神から離れて生きているわけでは勿論、ありません。律法遵守が前面に出ているため忘れがちですが、先祖の神ありきの律法なのです。それはユダたちはじゅうぶんに理解していたでしょう。ただ本書での扱いに於いては「律法=神」という構図に差し替わっているだけなのです。
 「一マカ」に於いて神とは信仰の対象であって、その超自然的な力の働きかけを願う──期待するものではない。そうした意味ではこの「一マカ」は土埃と血の臭いが充満し、人々の権謀術数が錯綜する、極めて人間臭い歴史物語でもあります。それがゆえもあり、「一マカ」は単に旧約と新約をつなぐ書物としてだけでなく不思議と人の心を惹きつけて止まない魅力的な1冊ともなっているわけなのです。
 そうして本書を読んでいると度々、日本史との類似点を見出すことがございます。
 「寡兵よく大軍を破る」の中近東版ともいえるユダ・マカバイの台詞、「少人数の手で多勢を打ちのめすこともありうるのだ」は桶狭間の戦いを連想させずにはおかないし、近現代史から探せば、1941年12月に勃発した日本軍の南方作戦に於けるマレー作戦、などが思いあたります。
「以前からその褒賞を気前よく与え、歴代の王以上に出していた」アンティオコス王の姿に後醍醐天皇の恩賞大盤振る舞い但し不公平あり、を想起してしまうのです。元寇後の北条幕府が恩賞を出そうにも配分するだけの財源を確保できず、為に参戦した武将たちから総スカンを喰らった事例も挙げられようけれど、正直なところ、北条幕府には国家運営者の苦悩が滲み出て大いに共感、気持ちを寄り添わせることができるけれど、アンティオコス王と後醍醐天皇の例に関しては後先顧みずの愚かさを垣間見るようで、まるで同情に値いたしません。
 むろん、こんなことは偶然なのである。古今東西、探せば山程類例を探し出すことができる、というだけのこと。案外と人間はどこの地域に暮らしていようとも、同じような歴史の営みを知らず繰り返している生き物なのかもしれません。これを俗に、「歴史は繰り返す」という……流石にこじつけに過ぎましょうか?



 家族、出会いの縁、道徳、仕事、お金、この5つを大切にして愛おしむ人は、きっと天に召されたあとも幸福で満ち足りた生活を送ることができると思います。◆

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第3236日目 〈マカバイ記 一・第2章:〈安息日の惨劇〉、〈抵抗の始まり〉他with渡部昇一『ドイツ留学記』他の復刊を求めます。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第2章です。

 一マカ2:1-28〈マタティアとその子ら〉
 エルサレム北西約30キロにある村、モデインにも、シリア王の迫害から逃れてきたユダヤ人がひっそり暮らしていた。
 マタティアとその子供たちも、そうしたユダヤ人の一家族であった。かれには息子が5人、いた。即ちヨハネ(通称ガディ)、シモン(通称タン)、ユダ(通称マカバイ)、エレアザル(通称アワラン)、ヨナタン(通称アワス)である。
 ユダとエルサレムで起こっている数多の暴虐について、マタティアは憤怒し、嘆いていた。「我らにまだ生きる望みがあるのだろうか」(一マカ2:13)と。
 或るとき、シリアの役人たちがモデインへ来て、ユダヤ人たちは広場に集められた。役人の目的は未だ律法に忠実なユダヤ人を改宗(実際は、背教)させることである。かれらはマタティアに、あなたは村の有力者だから、あなたからも父祖の信仰を捨てて王の宗教に鞍替えするよう説得してください、と頼んだ。
 が、マタティアはそれを拒んだ。「律法と掟を捨てるなど、論外です、わたしたちの宗教を離れて右や左に行けという王の命令に、従うつもりはありません。」(一マカ2:22)
 しかしモデインのユダヤ人のなかには、マタティアと考えを異にする者たちも、当然の如く存在していた。そうしたユダヤ人は役人の命令に従って、異教の祭壇にいけにえをささげた。
 憤ったマタティアは、件のユダヤ人とシリアの役人を斬り捨てた。そうして、異郷の祭壇を打ち壊した。マタティアは息子たちを従え、有志の者と共に山へ逃れていった。

 一マカ2:29-38〈安息日の惨劇〉
 時を同じくして、ユダヤの各地で義と公正を求めるユダヤ人たちが家族を連れて、荒れ野で暮らすようになっていた。この報せはエルサレムに駐屯するシリア軍にもたらされた。
 シリア軍は安息日を狙って、荒れ野のユダヤ人を襲撃した。ユダヤ人が安息日には一切の戦闘を行わない、と知っていたからである。
 ユダヤ人たちは律法遵守の立場から武力抵抗はせず、ただ滅びの道を行くことを選んだ。「我々は全員潔く死ぬ。お前たちが我々を不当に殺したことを大地が証言してくれよう。」(一マカ2:37)
 死傷者は1,000万人に上った、という。

 一マカ2:39-48〈抵抗の始まり〉
 安息日の惨劇を知ったマタティアは心から同胞の死を悼み、誓い合った。曰く、──
 「だれであれ、安息日に我々に対して戦いを挑んでくる者があれば、我々はこれと戦おう。我々は、隠れ場で殺された同胞のような殺され方は決してしまい。」(一マカ2:41)
──と。
 やがてマタティア勢にハシダイの一群が加わった。ハシダイはイスラエルでちょっとは知られた屈強の集団で、律法のためとあらば命を投げ出すことも厭わぬ勇気の持ち主であった。
 合流したのはハシダイだけではない。その他の、迫害から辛くも逃れた者、律法に忠実な者、父祖の信仰を守る者も、マタティア勢に加わったのである。
 かれらは力を合わせて、シリアに抵抗した。また、各地に散らばる、王の命令に従って背教した罪あるユダヤ人、律法を軽んじて律法から離れた生活を営むユダヤ人を、討ってまわった。「勝利への道を着々と手にして、異邦人や、王たちの手から律法を奪回し、勝利の角笛を罪人に渡すことはなかった」(一マカ2:47-48)のだった。

 一マカ2:49-70〈マタティアの遺言〉
 死期が迫ったマタティアは、息子たちに遺言した。曰く、──
 「お前たちは、律法をよりどころとして雄々しく強くあれ。律法によってこそお前たちは栄誉を受けるのだ。
 見よ、お前たちの兄弟シモンは知略にたけた男だ。いつも彼の言うことを聞け。シモンはお前たちの父となるであろう。
 ユダ・マカバイは若年のころから剛の者である。彼を軍の指揮者として仰げ。彼は諸国民との戦いを戦い抜くであろう。
 お前たちは、律法を実践する者全員を集め、民のために徹底的に復讐することを忘れるな。異邦人たちには徹底的に仕返しし、律法の定めを固く守れ。」(一マカ2:64-68)
──と。
 マタティアは歿した。モデインの先祖の墓所に遺体は埋葬された。全イスラエルがかれの死を嘆き、深い哀しみに包まれて、その死を悼んだという。セレコウス紀146年即ち前166年である。

 ハシダイは、律法主義の集団であります。一マカ7:13ではシリアとの和睦を提言するなど活動しておりますが、かれらの行動はその存在も含めて、(「一マカ」中では)だんだんと埋もれていった様子。実際に第7章以後、「一マカ」はハシダイについて言及することがない。
 が、かれらは、新約聖書で再登場を果たす──福音書にて、イエスを悩ませる律法学者として。
 この律法学者は会堂や家庭、学校で、律法を人々に教えて、民衆のなかに律法を定着させる役割を担いましたが、イエスは「律法の真意を見失って」(『新エッセンシャル聖書辞典』P1101 いのちのことば社 2006/11)いるとして非難を続けました。
 このハシダイ(ハシディーム/敬虔主義者)が新約聖書時代のファリサイ派、その源とされます。ファリサイ派もイエスを悩ませた集団でありますが、根っこが同じ律法主義、聖書解釈を仕事とする集団とあれば、律法学者、ファリサイ派とイエスの対立は避けられぬことだった、といわざるを得ません。
 なお、このファリサイ派から分裂した、或いは派生したと思われるのエッセネ派があります。死海写本で存在が明らかになったクムラン宗団は、このエッセネ派に属するグループとされている。エッセネ派はファリサイ派よりも厳格な律法主義の立場を取るとされ、特に荒れ野での厳しい修行や他から隔絶された場所での独立した生活の営み、財産共有制を採るなどで知られた一派であります。
 されどこのエッセネ派が新約聖書で言及されることはない。なぜか? そこに上手く答えているのが遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫 1982/05)であります。非キリスト者であっても敬虔な気持ちにさせてくれる好著でありますので、是非一読願いたく思います。ここにはイエスとエッセネ派の関わりについても触れられております。先行研究の成果を踏まえた著者の筆致は非常に説得力を持ったものであります。



 講談社現代新書はどうして渡部昇一の『知的生活の方法』だけ残して、他をすべて絶版にしているんだろう? 『日本語のこころ』とか『英語の起源』はまぁ、推測できるとしても、『発想法』や『ドイツ留学記』(上下)が現役でないことには小首を傾げてしまう。いずれもいまの時代に十分通用する内容だけに、書店の棚に並んでいないことが無念でたまらない。1人でも多くの人に読んでほしいのに、手に入らないとはねぇ……。
 いま入手しようとすると、Amazonのマーケットプレイスなんかだと強気の金額設定をした状態の悪い物(『ドイツ留学記』は上巻、下巻、どちらかだけとかな)がずらり、と揃う。ヤフオク!でもメルカリでも滅多に出品されず、新古書店の店頭でも見掛けるのは何年かに一度程度。古書店でも事情は同じ。
 『ドイツ留学記』は下巻「このキリスト教的なる国」が先日、新装再刊されたけれど(『わが体験的キリスト教論』 ビジネス社 2021/10)、留学先での交流や学問、豊かなる自然を綴った青春のモニュメントともいうべき上巻がないと片手落ちの感は否めない。そう感じるのはおそらく、上下巻という本来の形を知っているからか。
 もはや難しくなってしまったかもしれないが、『ドイツ留学記』上下巻と『発想法』の復刊を希望します。買わないけれどね、持ってるから。でも、新しい世代に是非読んでほしい著作なのである。
 いずれ『発想法』と『ドイツ留学記』の感想文を書きましょう。◆


わが体験的キリスト教論

わが体験的キリスト教論

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2021/10/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




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第3235日目 〈マカバイ記 一・第1章:〈アレキサンドロスとその後継者〉、〈アンティオコス・エピファネスの登場〉他with友情の死、について。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第1章です。

 一マカ1:1-9〈アレキサンドロスとその後継者〉
 前330年、マケドニアのアレクサンドロス大王が東征してアケメネス朝ペルシアを滅ぼし、ギリシアは地中海世界・オリエント地方の覇権国家となった。が、王が病歿するとたちまち世界は荒れ、後継者を自称する人たちが王座をめぐって争った。これを「ディアドコイ戦争」と呼ぶ。
 エルサレム、ユダヤを含むシリアにはセレコウス朝が、エジプト一帯にはプトレマイオス朝が、それぞれ樹立した。「部将たちは彼の死後、皆王冠をいただき、その子孫が多年にわたり跡を継ぎ、地には悪がはびこることとなった。」(一マカ1:9」
 「マカバイ記・一」はセレコウス朝の支配下で苦しみ、民族独立を掲げて戦ったユダヤ人の物語である。この時代のセレコウス朝シリアは、アンティオコス・エピファネス4世(在;前175-163年)を王に戴いていた。
 
 一マカ1:10-14〈アンティオコス・エピファネスの登場〉
 アンティオコス・エピファネス4世はセレコウス紀137年即ち前175年に即位した。「マカバイ記・一」はかれを「悪の元凶」と呼んだ(一マカ1:10)。
 その頃ユダヤでは律法に背き、異邦人と時には婚姻を進め、かれらの慣習に従う者たちが現れた。律法に背くユダヤ人はエルサレムに精錬所を作り、生後8日目に行う割礼の跡を消した。
 斯くしてかれらは、「聖なる契約を離れ、異邦人と軛を共にし、悪にその身を引き渡した」(一マカ1:15)のだった、

 一マカ1:16-28〈アンティオコスの遠征と神殿略奪〉
 シリア領内を掌中に収めたアンティオコス王はエジプト遠征を企て、軍を南進させた。プトレマイオス朝エジプトは敗走し、多数の死傷者を出した。シリア軍はエジプト各地の要塞都市を攻め落とし、兵たちの略奪が横行した。
 王は次の遠征先をイスラエルと定め、北西へ軍を動かした。セレコウス紀143年即ち前169年のことである。
 易々とエルサレムへ入城したアンティオコス王は不遜にも聖所へ入りこみ、そこに眠る数々の宝物を奪って帰国した。「彼は人々を殺戮し、高言を吐き続けていた。」(一マカ1:24)
 そのときの惨状を憂い、嘆いた歌に曰く、──
 「大地もその地に住む者を悼んで揺れ動き / ヤコブの全家は恥辱を身にまとった。」(一マカ1:28)

 一マカ1:29-35〈エルサレム再び汚される〉
 2年後、シリア政府から徴税官がユダの町々へ派遣された。一方で王はエルサレム郊外に陣を敷き、言葉巧みに都の人々を懐柔して見せた。かれらからの信頼を得たと見るや王はただちに軍隊を入城させ、城壁もろとも街を破壊し、火を放ち、男を殺め、女と子供は捕らえ、家畜を奪った。
 それが一段落するとシリア軍はエルサレムのなかに「いくつもの城壁を備えた巨大で強固な城壁を巡らして、要塞を築いた。彼らはそこに罪深い異邦人と律法に背く者どもを配置し、要塞内での勢力を強めた。」(一マカ1:33-34)
 この要塞には多くの食糧や武器が貯えられたばかりか、略奪した数々の戦利品までもが積みあげられ、「ユダヤ人にとっての大いなる罠となった」(一マカ1:35)のである。

 一マカ1:36-40〈都を嘆く歌〉
 要塞即ちシリアの出城にして監視塔となった建造物は、イスラエルには邪悪な敵の何物でもなかった。エルサレムは異邦人の住処となり、エルサレム在住ユダヤ人には故郷でありながら見知らぬ地同然となった。
 「エルサレムの栄誉は、嘲笑の的となった。 / かつての栄光に代わって、不名誉が満ちあふれ、 / エルサレムの尊厳は、悲しみに変わった。」(一マカ1:40)

 一マカ1:41-64〈アンティオコスのユダヤ教迫害〉
 王はシリア領内の町という町に、「これまでの慣習をすべて棄てよ」というお触れを出した。多くの異邦人が従った。そのなかには離散ユダヤ人もいた。かれらは自ら進んで王の宗教を受け入れ、偶像にいけにえを供え、安息日を汚したのである。
 続けて王はエルサレムとユダヤの町々に伝令を走らせ、これまでかれらが父祖以来の伝統として続けてきた祭礼や儀式を禁じ、律法で定められた安息日や祝日の規定を犯し、不浄の生き物を偶像にささげ、不浄に身を汚し、自らを忌むべき者とするよう命令した。背く者あらば即刻処刑されるとのことである。
 多くのユダヤ人が律法を焼き捨て、悪を行う人となった。民の監督官の許で、それは行われた。数少ない、先祖からの慣習を守るイスラエルは隠れて住まねばならなくなった。
 セレコウス紀145年即ち前167年、キスレウの月15日、アンティオコスは祭壇の上に「憎むべき破壊者」(一マカ1:54 即ちゼウス像)の像を建てた。ユダヤの町々には異教の祭壇が築かれた。棄てずに隠されていた律法の巻物は、発見され次第、破り、裂かれて火中に投じられた。契約の書を隠し持つ者、律法に従って生きる者は見附かり次第、容赦なく処刑されていった。
 「子供に割礼を受けさせた母親を王の命令で殺し、その乳飲み子を母親の首につるし、母親の家の者たちや割礼を施した者たちをも殺した。」(一マカ1:60-61)
 要するにアンティオコス・エピファネス4世はユダヤ教の迫害のみならず、それを理由にしたユダヤ教徒の虐殺をも実施して、冷酷にかの地を支配したのである。イスラエルは知らず神の怒りの下に置かれることとなった。
 ──が、それで信仰を棄てたり曲げたりしないユダヤ人も、いた。かれらは覚悟を固めて王の命令に背き、父祖以来の生活と祭礼と信仰を守った。そうした人々はエルサレムを逃れてユダヤの地のあちこちに住んだ。
 モデインに逃れたマタティアの一家も、そうした人たちである。

 紀元前323年、マケドニア出身のギリシア王、アレクサンドロスが遠征先のバビロンで崩御しました。残された王国の版図は非常に巨大で、世界史に最初に登場した世界帝国というても過言ではない。強大な権勢をも持った王でしたから、後継者争いは年を追うに従って熾烈を極め、また一筋縄ではゆかぬ泥縄の様相を呈してゆきました。
 それがディアドコイ戦争(後継者戦争)であります。暫定的には以下の3つが覇者として勝ち残りました。即ち、プトレマイオス朝エジプト、セレコウス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア(アンティパトロス朝マケドニアの版図をそのまま引き継ぐような形で成立)、であります。
 ディアドコイ戦争は小さな紛争が上記の王朝成立後も続きましたので、いつ終結した、ということがはっきりと申せません。ただ1つだけいえるのは、プトレマイオス朝もセレコウス朝も歴史の大きな波に呑まれて地上の地図から消滅してゆく命運にあったことでしょう。如何に強大な国家でも王位を巡る紛争は絶えずあり、加えて西方から台頭してきたローマの勢いに抗うことはできなかったためであります。
 本章はアレクサンドロス王崩御からディアドコイ戦争を経て、エルサレムのあるユダヤ地方がセレコウス朝の支配下に置かれ、時の為政者アンティオコス・エピファネス(アンティオコス4世)によるヘレニズム化がかつての都を侵食、祭壇にゼウス像が置かれるなどして民族の信仰が大いに揺らぎ、各地で小さな抵抗運動が始まろうとしているまでを、駆け足で語っております。
 アレクサンドロス王崩御から後継者戦争の勃発、経緯、3朝鼎立(シリア、エジプト、マケドニア)と滅亡まで、はいずれ書かねばならぬ題材ですが、そのための準備はまだできていない。為、ここでは立ち入ったお話を避けますが、では、旧約聖書に収まる最後の歴史書「エズラ記」と「ネヘミヤ記」の時代から「マカバイ記・一」までの間にどれぐらいの時間が流れたか、ぐらいは本稿の務めであるように思いますので、それだけ述べて本日は幕といたします。
 一言で申しあげますと、エズラとネヘミヤがペルシア帝国から派遣されてエルサレム再建の時代からアンティオコス4世の登場までは、約254年前後の時間が経過している、と考えられます。
 どこを起点とし、どこを終点とするか、で見方は変わってまいりましょうが、約254年前後とは以下の出来事が起こった年代を、単純に引き算したものであります。
 ネヘミヤがアルタクセルクセス王から2度目の命を承けてエルサレムにやって来た(とされる)前423年から、アンティオコス・エピファネスがエルサレムに入り、聖所へゼウス像を建てた冒瀆の前169年を引いた結果として、254年、といたしました。
 ネヘミヤの動向がはっきり摑めぬ以上は斯様に大雑把なことしかお伝えできません。254年という年数が余りに限定的である、ゆえに多少なりとも幅を持たせるべき、という声あらばそれに従うとしても前後10数年、もしくは四半世紀、というあたりで線引きするのが無難でしょう。
 但しこれは、旧約聖書の記述通り、エズラのあとにネヘミヤがエルサレムに来た、ということが最大前提となりますことを、ご了承ください。
 いずれにせよペルシアの衰退とマケドニアの台頭、アレクサンドロスの東征、ディアドコイ戦争による地中海世界・オリエント地方の分裂、内1つの王によるユダヤ民族弾圧が始まった、という大局的な流れに変わりはありませんので、約254年(或いは勿論その前後10数年もしくは四半世紀)という結果は妥当であるように思う次第です。
 なお、アンティオコス4世がエルサレムの聖所の祭壇に「憎むべき破壊者」を立てたセレコウス紀145年、キスレウの月15日とは前167年12月7日に該当する由(フランシスコ会訳聖書・一マカP1115註1-12)。



 渡部昇一の言葉をふとした拍子に思い出す。大人になると学生時代とは交友関係の質が異なってくる、という言葉を。そこには個々の経済事情が大きく関わってくる、という言葉も、一緒に。
 最初にそれを読んだのがどの本であったか記憶に定かでないが、『新・知的生活の方法 ものを考える人 考えない人』(三笠書房 1999/04)もしくは『知的余生の方法』(新潮選書 2010/11)のどちらかではあったろう。
 初っ端から横道にそれて恐縮だが(まぁ、いつものことですけれどね)、わたくしには渡部昇一の著作から離れていた時期がある。『ものを考える人 考えない人』は古本屋をほっつき歩いては渉猟していた終わりの頃に購い、『楽しい読書生活』(ビジネス社 2007/09)を新刊で書店の平台に積んであったのを見附けてその日に買ったのを弾みにしてふたたび氏の著作を──片っ端からではないにしても──読むようになったのははっきりしているから、そうね、都合8年程か。色々なことがあった時期である。
 それはさておき、交友関係の変化と、それに伴う経済の話だ。
 『新・知的生活の方法 ものを考える人 考えない人』で渡部氏は述べる。曰く、──
 「シビアな話になるが、お互いの経済レベルが同じ水準にないと、『遊ぶ人間関係』は成り立たないのではないだろうか。若いころであればまだしも、齢を取ってくるに従い、お互いの経済水準が『遊ぶ人間関係』を左右する。なぜなら、中年以後の遊ぶ関係には、お金を必要とするからである。一方が裕福であり、もう一方が余裕のない生活をしているのなら、およそ『遊ぶ人間関係』を成立させるのはむずかしい。」(P64-65)
──と。
 大人になるにつれて人は、収入に見合った相手と交わりを結んでゆくようになる、という、恐ろしくも悲しい事実の指摘である。
 初めて読んだのは20代の終わり頃。まだその指摘に「ふーん、そんなものか。俺はそうなりたくないな」と軽く思うが精々であった。が、あれから何十年か経ってみると、ずいぶんと人間関係の変化があったことに唖然とする。職場の人間関係が、一度退職すれば仮に復職したとしても維持されること不可能なのは自明の理。驚かされたのは、学生時代の友人知人の過半と交わりが絶えてなくなっていることだ。
 断っておくが、メールやSNS等で連絡を取り合っているけれど同窓会ぐらいでしか顔を合わせぬような人物のことをいうているのでは、ない。なにかと時間を作って談話する時間を設けていたような人たちのことである。
 いつの間にか、あれ程頻繁に会ったり連絡を取り合っていた人たちと、パタリ、と交わりが絶えた。どうしたことか? 家庭の事情や仕事で時間調整ができない、というのは除くとして? そこで「ああ……」と思い当たるのが、前述の渡部氏の指摘なのである。
 この年齢になれば、どうしても収入──経済状態に差異が生じてしまうのは致し方ないところである。あすこに行きたいな、あのお店で食べたいな、あんなことをしたいな。そんな希望が叶えられるかどうかは最終的に、相手の懐具合、経済事情によるのだ。
 ディナーの平均予算8,000円のお店が貴方の行きつけである。そこは非常に美味い料理と美味い酒を出す店で、スタッフのホスピタリティも申し分ない、立地も悪くない──路地裏に人知れず開いている、知る人ぞ知る店である。そのお店に貴方は長いこと親しくしている人物を連れて来たいと思うて、誘ってみた。最初は相手も、誘われたことで悪い気分にはならないだろう。が、予算を聞いた途端尻込みして、なにかと理由を付けて辞退するかもしれない。或いは実際にその店で食事をして会計もぶじ済ませたとしても、普段自分が立ち寄る店よりずっと高い店に誘われたことで相手と自分を比較して、次からは誘いを拒むようになるかもしれない。
 わたくしが実際に経験したことを例として挙げてみた。わたくしがどちらの側であったか、読者諸兄のご想像にお任せする。
 いずれにせよかれらの交友はこの日を境に一変して、だんだんと疎遠になり、やがては縁が切れるだろうこと、想像に難くない。これが、個々の経済事情が友情にヒビ入れる要因となるケースの1つだ。
 渡部氏は『知的余生の方法』でこうしたあたりを踏まえて、こう述べる。曰く、──
 「経済状態があまりにもかけ離れていると、友人関係を続けていくのは難しくなるものだと思う。」(P184)
──と。
 まさしく、である。たしかに、である。悲しいことにこれ、真実なのだ。もっと悲しいのは、そうしてヒビ入った友情が修復されることはない、という事実だろう。
 ちなみに氏は『知的余生の方法』の前後する部分で、年齢を重ねてゆくにつれて付き合いを続けてゆくことが難しくなる友人関係として、①基本的な考え方の違う人、②支払い能力に差のある人、③知的レヴェルの異なる人、を挙げる。学生時代からの友人であっても長じて後、このあたりに差が生じてくると付き合いが遠のいてゆくのは、わたくしもさんざん経験してきたことである。嗚呼……!!
 とはいえ現代は、これまでまったく未知であった人とSNSで容易につながれる時代でもある。そこに過去の積み重ねや会社のしがらみは当然なく、あるのはあくまで<自分が好きなもの>への情熱と知識だ。趣味を介してつながった人間関係であれば、案外と渡部氏が指摘する「友情の死」(P.G.ハマトン/渡部昇一、下谷和幸・訳『知的人間関係』P158 講談社学術文庫 1993/04)を避ける術は幾らでも転がっているのかもしれない。◆


ものを考える人考えない人―新・知的生活の方法

ものを考える人考えない人―新・知的生活の方法

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2021/12/09
  • メディア: 単行本



知的余生の方法(新潮新書)

知的余生の方法(新潮新書)

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/05/20
  • メディア: Kindle版



知的人間関係 (講談社学術文庫)

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  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2021/12/09
  • メディア: 文庫




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第3234日目 〈「マカバイ記 一」〈前夜〉〉 [マカバイ記・一(再々)]

 「マカバイ記・一」の再々読書ノートを始めます。今度は大丈夫、既に最後の第16章までノートは終わっていますから。あとは感想の執筆と細かな訂正を追っかけでこなしてゆくだけ。とはいえ、これがなかなか面倒臭い……もとい、細かい作業でね。てへ。
 かつて「第1830日目 〈旧約聖書続編の読書ブログは昨日で終わりです。ありがとうございました!〉」にてわたくしは、こんなことを書いておりました。曰く、「前者については時代背景や人物相関、地理の把握などが今一つだった感があるために」いま一度「一マカ」を読み直さなくてはならない、と。
 この思いから一昨年、「一マカ」再読を仕事帰りの東銀座で行ったのですが、第5章で作業を放棄。家人に病気が発見されて、手術を行わねばならぬことを告げられ、これまで当たり前のようにあった日常が根本から揺るがれる事態に直面。自分がその日常の維持と家人の見舞、病院の手続一切を行う必要が生じた。為、精神的にも時間的にもそんな呑気なことをしている場合ではない、と判断。ゆえの中断、放棄でありました……。
 それはさておき。
 「一マカ」〈前夜〉、であります。
 時代背景はこれまでも散々書いてきたので省略。ただ、マケドニアのアレクサンドロス大王が東征中にバビロンで客死すると後継者戦争が起こり、最終的にプトレマイオス朝エジプトとセレコウス朝シリアが地中海世界とオリエントの覇権を握り、ユダヤはプトレマイオス朝に、ついでセレコウス朝の勢力下に置かれて、特にこのセレコウス朝との摩擦が日に日に増大して、遂にアンティオコス4世がエルサレムの聖所を犯したことで最高潮に達し、その末にマカバイ戦争という民族独立運動が始まる、その頃からマケドニアの西の方では共和政ローマが台頭し、周囲の国家を吸収して版図を広げつつあった、──という流れだけ把握しておれば問題ないように思います。そうして「マカバイ記 一」はアンティオコス4世による聖所侵犯から事実上開幕する。
 とはいえ、それはあくまでユダヤを外面から見た歴史であります。では、当時、ユダヤ国内ではどのようなことが起こっていたか。この点は「マカバイ記 一」では詳述されないので、本稿にて概略ではありますが述べておくことに致します。
 「マカバイ記 二」という書物があります。キレネ人ヤソンの全5巻から成る浩瀚な書物をダイジェストした、という名目の書物ですが、これは「マカバイ記 二」の時代を別の視点で見、別の著者の筆で語ったものであります。キレネはエジプトの西、キレナイカ地方の首都として栄えた町。多くの離散ユダヤ人が住み、後にゴルゴタの丘へ向かうイエスの背負う十字架をいっしょに担ぐことになるシモンも、この町の出身でした(マタ27:32他)。
 「二マカ」は、「一マカ」が慎重に避けていたユダヤ人の神への信仰について、踏みこんだ見解を提示していることで神学の面から非常に益となる部分があり、乱暴ないい方ではありますが、「一マカ」を信仰面から補強する性格も有しているようにわたくしには思えます。
 この「二マカ」はシリアのアンテォコス4世がエルサムの聖所を犯すよりも前の時代の様子を、われらに伝えてくれています。
 大祭司オニアがエルサレム神殿を統括し、律法も機能していた平穏の時代でありました。この当時は諸国もエルサレムの礼拝に敬意を持って接し、最上の贈り物を献上して、神殿の栄光に寄与していた、といいます。それはセレコウス4世(アンティオコス3世の息子で、アンティオコス4世の兄弟)も例外ではありません。
 そこへ神殿総務の長シモンが神殿運営を巡ってオニアと意見を対立させた。シモンはコイレ・シリアとフェニキアの総督アポロニオスに口添えして、シリア軍のエルサレム入城をお膳立てする。エルサレムに派遣されたシリア軍は宰相ヘリオドロスに率いられていた。
 ヘリオドロスは大祭司オニアに、神殿に貯えられた金の供出を要求する。が、大祭司オニアはこれをが突っぱねる。ヘリオドロスは激怒し、神殿の宝庫に足を踏み入れた。が、「霊とすべての権威を支配する者のすさまじい出現」(二マカ3:24)に遭って、腰を抜かした。そうしてかれは首都アンティオキアへ退散した。
 その後もオニアとシモンの諍いは続いた。セレコウス4世が崩御し、代わってアンティオコス4世がシリアの王位に就いた。時を同じくしてオニアの弟ヤソンが卑劣な手段で大祭司職を奪取、アンティオコス4世の後ろ盾で正式に大祭司へ就任した。そうしてヤソンはただちに、ユダヤのヘレニズム化を強行した。エルサレムに精錬所を建てることもこのとき、決められる。
 が、ヤソンの大祭司時代は<三日天下>であった。シモンの兄弟メネラオスがアンティオコス4世に取り入ってヤソンを退け、自分が大祭司職に就くことに成功した。「彼には大祭司に値するものなど一かけらもなく、むしろ彼は残忍な暴君の激情と野蛮な気持ちだけの男にすぎなかった」(二マカ3:25)と、キレネ人ヤソン、「二マカ」著者は伝えている。結構ケチョンケチョンに貶されておりますな。
 このメネラオスが、オニア暗殺を計画し、実行させた。オニア暗殺を知って憤慨したエルサレム市内のユダヤ人はアンティオコス4世に直訴した。王も心の底からオニアの死を嘆き、暗殺に憤り、暗殺者に刑罰を下した。
 メネラオスはエルサレム市内に混乱をもたらした事件の首謀者として裁かれるも、すぐに釈放され、ますます悪行を重ねてゆく。最大の悪行は、アンティオコス4世をエルサレムの聖所へ手引きしたことだろう。王は傲慢と暴虐の限りを尽くしてユダヤ人の信仰を地に堕とし、メネラオスはその権威を後ろ盾にますます傲慢になった。
 が、そのメネラオスもアンティオコス4世の怒りを買い、処刑されたのである。怒りの誘発は、王の王なる神がアンティオコスに働きかけてもたらされた、と、キレネ人ヤソンと「二マカ」の著者は記す。
 また、ヤソンも、アンティオコス4世のユダヤ人弾圧が本格的に始まる直前に逃亡し、エジプトで客死したという。
 そうして「二マカ」はユダ・マカバイとシリア軍の戦いに主軸を移します。
 まぁ、思い切って要約してしまえばエルサレム神殿を主な舞台に、大祭司職を巡る争いと殺し合いが繰り返され、敬虔なるオニア以外は皆、行状に応じた(ときには同情に値すらせぬ)最期を遂げた、ということであります。
 ──これが、「二マカ」に基づく「一マカ」開幕前夜のユダヤ、エルサレムの状況であります。
 これとほぼ同じ時代にエジプトのアレクサンドリアで、聖書(旧約聖書)のギリシア語訳が作られました。世にいう<七十人訳聖書>であります。名称の由来は、70人の翻訳者を動員して為されたため、といいます。プトレマイオス2世の御代に成立したといいますから、即ち前285-246年の間。
 七十人訳聖書は非ユダヤ語圏に住まってギリシア語しか解さないユダヤ人が、律法の朗読を聞いて理解できるように、という目的が翻訳作業の端緒であった。
 「一マカ」に登場するユダヤ人──ユダ・マカバイやシモン、その父と兄弟、かれらと共に戦い、またエルサレムとその周辺地域に住まう人々はヘブライ語で朗読される聖書(就中律法)、アラム語で書かれた聖書を聞いても理解できたろうけれど、かれらと同じ時代に、他の地域に住むユダヤ人のなかには既にそれらの言語を解さずその地の言葉つまりギリシア語に馴れ親しみ、その言語しか話せぬ人らも当然、いた。
 離散ユダヤ人、と一言でここでは括ってしまいますが、そうしたユダヤ人を念頭に、会堂での朗読や教育のために、いまの自分たちが用いている言語──ギリシア語──で書かれた聖書が必要になったのであります。作業はプトレマイオス朝の権威の下で行われました。
 「70人の翻訳家が70週を費やして、ギリシア語へ翻訳した」のが七十人訳聖書ですが、実は事情は殊程簡単ではない。このあたりのことは改めて、予定している聖書翻訳史のエッセイで七十人訳聖書を取りあげる際に述べたく思います。
 1つだけ、この「70」という数字についてお話しますと、ユダヤ教で縁起の良い、また権威ある数字ということで採用された数字である可能性が高い。旧約聖書外典の1つ、「アリステアス書簡」にはイスラエル12部族から6人ずつ、翻訳者を出した旨記載があります。これを信じれば、翻訳作業にかかわった翻訳者は72人となり、加藤隆に拠れば「(70と72は)相互に交換可能な数字と見なされていた」(P520 『旧約聖書の誕生』ちくま学芸文庫 2011/12)由。
 とまれここで大事なのは、マカバイ戦争の序盤から集結までを描いた「マカバイ記 一」の時代に、異邦の地で、今日われらが旧約聖書と呼ぶものが初めて外国語に翻訳されて既にそれが成立しており、ギリシア語圏に住んでヘブライ語やアラム語を解さないユダヤ人の社会に流布していたこと、であります。加えて、イエスが教えの典拠とした聖書は、この七十人訳聖書であったそうです。
 ──以上、やや煩雑になってしまいましたが、「マカバイ記 一」の時代をユダヤ国内の動静と、併せてその時期に行われた聖書翻訳のお話を致しました。ごった煮のような状態になってしまい、申し訳ありません。
 本書、「一マカ」の成立時期はおよそ前100年頃、著者はサドカイ派もしくはそれに近い立場にあって地中海世界やオリエント地方の地理や情勢に詳しい人、執筆地は不明ながらシリア国内或いはアレクサドリアなどが推定できる、と申しあげるに留めます。といいますのもこのあたりに関しては、過去2回の「一マカ」〈前夜〉で書いたことと、さしたる変化をしていないためであります。
 それでは明日から1日1章の原則で、「マカバイ記 一」を読んでゆきましょう。◆

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