第3606日目 〈みな去りしいま、最後に逢いたい人。〉【改】 [日々の思い・独り言]

 未だ現実を現実と見定めるのに抵抗を感じます。あれからもう2週間が経とうとし、現実的な事柄にも手を着け始めているのにね。
 ……平日はやることが山積で(=To Doリストが満載で)、それをこなしてゆけばあっという間に1日が過ぎて疲労でバタンキュー、となれるのですが、日曜日は考える時間がありすぎて、気持や思考がどんどん闇へ落ちこんでゆくのがよくわかる。もうホント、自分の精神状態が危険水域に達しているのを実感していますよ。
 昨日の日曜日も午後から、夕食の仕度にむりやり取り掛かるまでの数時間、電気も点けない家のなかで独りしじっと、外がだんだん暗くなって庭の電気がぼんやりとカーテンの向こうに灯る様を横目にしながら、過去の自分の行いを悔いて天罰というものや悪行の報いというものに思いを致したり、みなは天国にいるけれど自分はどう考えても地獄行きだな、とか、どうやったら死ねるかなぁ、この時期なら凍死か入水かなぁ、入水ならどこの海にしようか、その前にお墓をきちんと決めてあげておかないと……、なんてばかり考えていましたよ。
 ──ちゃんと食べているんだね、と友が云う。だって自分が食べなきゃ母の霊前にお供えできないじゃん、そうしたら母がお腹空かせるじゃん。食べるしか、ないのだよ。
 今回の件を契機に、20年近くにわたったクラブ通いにもピリオドを打つ気になりました。これからの人生を正しく生きるために、その理由は説明することなく、卒業したのであります。良いことである、と思おう。その旨知らせた子たちからはLINEの返事、一切ない。昨夏、馴染みが退店したときに思いきればよかったのですが……。
 斯様に如何なる思考や気持のループを辿ろうとも、過去との訣別そのしがらみからの脱出を果たそうとも、やはり最後は、もう一度、”おはらななか”さん(俗称NN)に逢っておきたいなぁ、という一点に返ってしまう。いまあの子がどのような境遇にあるかはともかくとして、母、婚約者、すべて亡くして生きている自分の心を見極めてゆくにつれ、あの子の存在はますます大きくなり、絶対的崇拝と敬慕と畏怖と情愛の対象になっている。当時の気持を取り戻した思いだ。感謝と謝罪と最期の挨拶を──これはわたくしがいま抱いている唯一の悔いなんですよ。
 無理と承知でいうと、再会できるならば再会して、一言二言話したあとで、わたくしもあの世への旅路につきたいですね。そうすれば、逢いたかった人たちに逢える。◆
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第3605日目 〈母が逝去しました。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日朝、最愛の母が逝去致しました。体調苦しくて辛いなか、頑張って生きました。
 本ブログ読者のなかに母を直接知る方はありませんが、わずかながら私を直接知る方へご連絡させていただきます。
 もうブログの更新はできそうにないです。◆
2023-01-19 03:24:58(ブログ直接入力)
2023年01月21日 22時53分(上記文字色ダークの為PCでは視認極めて困難を知り、訂正)



第3604日目 〈しばらくお休みのおしらせ。withなおの不在で心が折れそう。〉 [日々の思い・独り言]

 しばらく休みます。
 天罰だ。報いが来たのだ。

 なお、いまはあなたに逢えないことが、本当に淋しい。
 いま程あなたを必要とする時、事はなかった。
 全てを話して悔い、家族の事を話したいのだ。◆

第3603日目 〈こんな夢を見た(その12):雨の午前、春の夕暮れ。〉 [日々の思い・独り言]

 会いたい人、会いたくない人が多々登場した夢であった。

 第一景
 或る雨の午前。会社のレセプションが、28階ホールで行われた。ホールで行う程度のレセプションである。その内容、その規模、推して知るべし。
 そのなかにかつて世話になり、わたくしが裏切ったことになっているUがいた。正対する位置にいる。めざとくこちらを見附けたUは、傍らのMの耳許に口を寄せ、囁いた。2人の向ける眼差し、そこに現れたるは広義の悪意である。
 レセプションが終えて散会となった途端、何の意図あり何の云うことあるか不明ながらUとMはこちらへやって来る。床は、かれらが一歩足を運んで着地する毎に沈んで足跡を残す。人垣から失笑が洩れる。が、かれらは床が沈んで自分たちの足跡が残ってゆくのも、周囲から洩れ来る小さな笑いも、気が付かぬ様子だ。かれらはあと数歩のところまで来た。
 そのとき、ビルは雲に呑みこまれ、細長い影が幾つも窓の外を通っていった。誰もそれに気が付いていない、当然わたくし以外は。その細長い影が突然、こちらへ向いた。名状し難い窮極の恐怖の1つがわれらに気附き、禍々しい貌をこちらへ向けたのだ。一千万の虹色の泡を湛えた口腔は窓を突き破り、かれらを一呑みして窓の外へ消え去った。ふしぎとその間、世界から音はなくなっていた。誰もかの細長い影の咆吼も聞かなかったし、連衆の断末魔の叫びも耳にしていない。それは生き残った者にとってとても幸福なことであった。

 第二景ノ一
 春の夕暮れである。教室のような部屋で、衣服をはだけさせてIさんがいた。靴下をはいている途中だった。10年ぶりの再会である。あの人は往時と変わらぬ美しさを保ち、変わらぬ体型で、そこにいた。Iさんの髪は濡れていた。水滴が滴り落ちている。
 話した内容は夢のなかに消えて、記憶から拭われてしまった。
 視界の外から姿を見せたのは、誰も知らぬNである。刹那の後、Iさんは脇腹を押さえて、わが名を口の端から洩らして床へ倒れ伏した。
 だれもが息を呑んで、立ち尽くした。目の前で行われたことが現実だと、すぐには判断できなかったのだ。Nの手には鮮血滴り落ちるナイフが1本。返り血を浴びたNは笑い声をあげながら、その場で踊った。サロメのように。Iさんの両の眼は開かれたまま、そんなNを見あげている。

 第二景ノ二
 Nは逮捕された。警察署に連行されてゆくNはおとなしかった。アースカラーのセーターを着ている。署内の狭い通路を行くN、その前後に1名ずつ警察官。そうして目撃者の1人であり、Nの要望により立会人の如き立場で同席する、わたくしの計3名。
 ロッカーの並ぶ部屋からその階いちばん奥の小部屋へ行く途中、折りたたみ式の長テーブルが置かれた部屋が通った。そこには数多の補導されたと思しき高校生がいた。彼女らは連行されてゆくNに遠慮ない好奇の目を向け、聞こえるような声で嘲笑し、野次を飛ばした。Nは気丈にそれを無視して、わたくしの後ろから歩いて来る。
 警察官とNが取調室に入った。わたくしは隣の部屋から、Nを見ていた。黒い髪を後ろで1つに束ねたNは、素直に警察官の質問に答えている様子である。
 取調室に入る直前、警察官の1人が、「あなたがいれば彼女も素直に犯行動機など供述してくれるでしょう」といった。が、それは無用の手配であったようだ。
 春の日は暮れてゆく。Nは故郷へ帰ってゆく。建物の外、遠くの方で春雷が聞こえた。細長い影の咆吼が、それに混じっている。◆

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第3602日目 〈この世で一番大切なもの。〉 [日々の思い・独り言]

 椎名へきるのシングル曲にこんなタイトルがありました。この世でいちばん大切なもの──それは人によってまちまちでしょう。
 わたくし? 家族です。家族に次いで大切なのは、思い出と記録です。これがあれば、幸せな時代へ帰ることができる。これらがある限り、わたくしのなかで思い出は死なない、そこで息づく大切な人たちの記憶も消えない。本当の〈死〉は、誰の記憶からも思い出からも、その人の声や姿、行いが消滅し去ったとき訪れるのではないでしょうか。わたくしは、誰のことも忘れない。
 現実逃避とはじゅうぶん自覚しているので、悪意ある者らの茶々呵呵誹謗は通用しない。しかし、覚えておくといい。人は現実逃避によって自己を治癒して回復し、ふたたび世界へ出てゆくようにできているのです。◆

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第3601日目 〈朔太郎『恋愛名歌集』メモ書き写し終了に伴い浮上した懸念。〉 [日々の思い・独り言]

 存外とあっさり萩原朔太郎『恋愛名歌集』メモの書き写しが終わった。1月5日から14日まで、その過半を自宅リフォーム工事立会の要あり在宅して過ごし。為にこそ毎日1章ずつ、機械的に書き写せたのだろうけれど。
 ついさっき(30分程前)、「新古今集」選歌の章を終えた。書写了んぬと雖も心残り有り。「万葉集」、「古今集」、六代集、「新古今集」選歌の各章は朔太郎が『万葉集』と八代集から選んだ短歌と、朔太郎の評語で構成される。斜線を引いたのはわたくしが感銘を受けたり共鳴したりした歌である。幾首かはメモに引いたがそれ以外の歌……引用した何倍になるか……を、さてどうするか。心残りとは即ち是である。
 既にメモは羞恥心を克服して本ブログにてお披露目を決めているが、斜線を引いた歌をそれに続けて載せるは是なるや非なるや。……たぶんコレ、1日じゃあ終わらんと思うんだよな。ゆえの迷い、である。ざっと80首近くの斜線歌を載せるは果たして是なるか非なるか。
 迷い始めたら決着点見出せぬまま欠伸が出た。擱筆。◆

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第3600日目 〈念頭に置く読者、について。〉 [日々の思い・独り言]

 「読者の存在を忘れるな」、「読者を意識して書け」……まァ、よく聞かされる話です。「読者のことを考えないで書かれた文章は、絶対に読まれない」……いやいや、耳の痛い話です。
 物を書いてお金をもらう。これがプロの物書きの定義ならばわたくしも、長いことプロとして食ってきたことになる。専業でいた時期もあれば、副業で続けてきた時期もある。ああ、後者の方がずっと長いか。
 そんなわたくしの問題点は、あまり読者を意識していないこと。これに尽きる。
 よく四半世紀以上も物書きでいられた。仕事をくれる編集者には本当に感謝しきり。とはいえ、毎回毎回、読者を意識せずなわけでは無い。そんなことしてたら疾うのむかしに廃業、もしくは失業していますよ。呵呵。
 無報酬の本ブログに於いても、(正直なところ)あまり読者は意識していない。いいたいことをいい、書きたいことを書いているだけである。公開された日記、というのが実態に近いか。
 そんな風にあまり読者を意識していない本ブログであるが、それでもわたくしの脳裏にはいつも3人の人物がいる。その人たちを話し相手に想定して、趣旨が通じるか、選んだ言葉や表現にまだるっこしかったり引っ掛かりを感じさせるようなことがないか、などして書いている。気持ちよく会話が終わればこちらの勝ち、相手が納得したり「よくわかった」と返事してくれたらこちらの勝ち、時に論破を試み成功したらばこちらの勝ち、である。
 実話怪談を書いているHさん。しばらく一緒に仕事をした年少のNさん。これがいつだってわたくしが心に描いている読者だ。それはむかしもいまも変わらぬ愛だと思うていただきたい。むろん、話題によって念頭に置く読者は変わってゆくが、それを書き始めたらキリがない。
 かつて永野護は、『ファイブスター物語』の或るエピソードはたった1人をやっつけるために描いた旨『NewType』誌のインタビューで答えた。……わたくし? やっつけるつもりは勿論、誰に対してもないけれど、たった1人を念頭に置いて書き物をすることはある。そこに愛が息づいているならば、そんなやり方も1つの方法だろう。◆

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第3599日目 〈弘文荘と森銑三、弘文荘と池田亀鑑。確認のための読書。〉 [日々の思い・独り言]

 きのう森銑三の本のことを書いていたら、反町茂雄の著作の内容がなんども脳裏を過ぎった。戦後、森と偶会して弘文荘で働いてもらうようになった経緯のことである。と同時に、かつてリブロポートから出ていた『森銑三 書を読む”野武士”』(柳田守 1994/10)へ抱いた不満を思い出した。戦後の森の活動についてかなりあっさりと触れたのみで、弘文荘での働き、その内実については一言も触れていなかった(と記憶する)ためだ。
 あわせて、池田亀鑑の蒐書の徹底ぶりや桃園文庫の行方、戦前九条家蔵書売り立ての頃の池田の台詞など、やはり反町の著作にあったのをもう一度確認したくて、リフォーム工事の進捗する音を扉の向こうに聞きながら、『定本 天理図書館の善本稀書』と『一古書肆の思い出』第4巻を部屋から持ってきて読んだ。
 この件については後日、あらためてお話しするとして、今日はもうお休みさせていただく。眠くて眠くてたまらんのである。◆

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第3598日目 〈森銑三『落葉籠』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 中公文庫から出た森銑三の『落葉籠』上下2冊揃を見附けて、矢も楯もたまらず買いこんで連休の朝から読んでいる。まとまった時間を用いての読書というよりは、生活の諸事の合間にできた時間を使って、少しずつ読んでゆくのが良い書物。実際、炊事掃除洗濯の間に読んでいる。
 かつて『日本古書通信』に連載された随筆を著作集を底本にして、2009年5-6月に文庫化された。文芸史的には無名の作者たちが遺した作物から逸話を紹介するのみならず、書物に残された誤謬を正したり見向きもされない書物の紹介が専らで──要するにいつもの森銑三の作物なのだ。
 文庫裏表紙の惹句に云う、「中世から明治期にいたるまでの膨大な古書から、落葉を集めるかのごとく無造作に書きとめられた逸話、蓄積の数々」(上)、「市井の古書研究者として名高い森銑三が、有名・無名を問わず人物、書物に関する該博な知識を披瀝していく」(下)、と。
 まるで関係のない話であるが、いま「ぶんこうらびょうし」を変換したら、最初に「分校等病死」となったのは、いったいなぜだ? ──元に戻す。
 パラパラ読んでいるうち、これは衝動買いして然るべき良き買い物と思うた。ふむふむと頷いて得心したり、未知のことを知る愉しみを味わったり、ともすれば全ページから抜き書きするか付箋を付けまくるかという具合だ。
 殊下巻にある「噺本について」の一節には、思わず吹き出しそうになると共に学生時代の教師の言を思い出して首肯し、翻ってそれではいまのわたくしは……と考えさせられてしまった。森氏の曰く、「国文学専攻の人々は、どうして笑話という好題目に対して無関心なのか、訝しく思っていた」(P72)云々。ここでいう「笑話」とは江戸時代の諷刺や猥談、滑稽談などまとめたもので、中期から幕末明治にかけて読まれた。
 学生時代の教師の言を思い出した、というのは、近世文学の教師で3年以上芭蕉『おくのほそ道』しか講義しなかったのが、或るとき、こうした笑話に話題が及んだ際「庶民の生活や社会風潮など知るには便利で読んでおいて良いんでしょうが、ぼくは読む気はしませんね。なんといっても馬鹿らしい」と、しれっ、といったことである。
 一方で中古中世文学を講じられた恩師は、「あれは面白いよね。民衆の生活ぶりがわかるだけじゃなくって、当時の人たちがどんなことを笑って過ごしたのか、それを取っ掛かりにして何百年もむかしの人たちが急に親しみある人たちに感じるんだよ」と仰った。この方が狂言を専門とされていたことが、斯様なお話になったのだろうと思う。
 下巻「噺本について」や続く短文を読みながら、そんなむかしのことを思い出した。
 『落葉籠』の感想文を書くのはなかなか難しいが読了して、書けると思えるようになったら筆を執ってみたい。◆

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第3597日目 〈かわらぬ日々。〉 [日々の思い・独り言]

 読み進めねばならぬ本がある。が、そんな本に限ってなぜかいっこうに読書ははかどらない。
 確定申告の準備を進めている。が、Windows端末を立ちあげる気分にはどうしてかならない。
 かわりばえのない日々である。が、そんな日々のなかでも赤ちゃんはどんどん成長してゆく。
 かわりばえのない日々である。が、そんな日々の続くのがいちばんの幸せと噛みしめている。
 かわりばえのない日々である。そんな日々がずっと続きますようにと氏神様に祈っている。◆

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第3596日目 〈三好達治の、あの本が欲しい。〉 [日々の思い・独り言]

 三好達治は気になる詩人の1人である。野呂邦暢の小説に刷りこまれたためか、労働者のための詩人という影を払拭できずにいるせいもあるけれど。
 『測量船』をほるぷ出版の復刻版で持っているだけで気持の上ではじゅうぶん幸せだ。丸山薫の解説目当てで買った旺文社文庫版と、いまでも流通する新潮文庫版の他は特に望む詩集もない。全詩集とか愛蔵版とか、ましてや全集を欲す程でもないですしね。
 強いて挙げれば白凰社から出ていた「青春の詩集」シリーズの三好達治集、か。収録される詩は重複ばかりかもしれないけれど、こちらは高校生のときボードレールとゲーテの詩集を買ったことで詩への扉を開いてくれた、いわば恩あるシリーズゆえに愛着深く、ここに収まる詩集があるなら購入したい、という一種のノスタルジーに起因している。
 ただ、三好達治の本では1冊だけ、『詩を読む人のために』が欲しい。現行の岩波文庫版ではなく、昭和27(1952)年06月至文堂の学生教養新書で出た初版を。古書店のサイトを覗けば安価で売られているのでその気になればすぐ手に入れられる代物である。これはC.D.ルイス『詩をよむ若き人々のために』と並んで一時期よく読んだ、とてもわかりやすく含蓄に富んだ詩論である。
 重い腰をあげて至文堂版『詩を読む人のために』を購入したとき、三好達治は気になる詩人の域を超えて鍾愛する詩人の1人へと格上げされるのだろう。◆

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第3595日目 〈Twitterを離れて。〉 [日々の思い・独り言]

 イーロン・マスク氏の買収以後、Twitterは様々な問題を外へ露呈してきました。そんな報道を見るたび半ば真剣に、そろそろTwitterから完全撤退を検討しても良いかなぁ、と考えます。失うものを思えばあり得ぬ選択肢かもしれないけれど、そう思うことあっても仕方ないのがマスク氏買収以後のTwitterを利用する一個人の現実であります。
 とはいえ、完全撤退ではないながらも以前よりは利用を控えてきたのは事実であります。⎯⎯考えてみれこれまでの、Twitterの主たる利用はブログの更新通知であった。その他は、読了ツイートと後日すぐに削除するような文字通りの「つぶやき」が精々で(リツイート等は除く)。
 そのブログ更新通知をTwitterでしなくなって1ヶ月程になる。何年も(SSブログ新規作成ページでデフォルト選択されている)Twitter通知してきたので突然それを止めたらアクセス数がどうなるか、当初は不安でありました。不安になるのは仕方ないですよね。
 が、⎯⎯通知を止めたこの約1ヶ月間のアクセスを調べてみたら、まったくというていい肌その数字に変化はなかった。以前もやはり同じ報告をしたが、あのときはまだ不確定要素も多かった。けれど今度は間違いない確定されたこと。具体的な数字は恥ずかしいので控えますが総アクセス数に変化なく、但し読まれる記事は必ずしも最新のものがいちばん読まれているわけではない、という事実をここでいい添えたい。ホント、これ不思議なんだよなぁ。
 結論:今後もブログ更新通知はTwitterではしません。しかし、過去記事の改稿や修整等があった場合は常にTwitterでその旨通知してまいります。
 以上であります。◆

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第3594日目 〈あの女性は覚えているだろうか?〉 [日々の思い・独り言]

 粛々と『恋愛名歌集』メモの書き写しを行っていますが、まだまだ序盤。先は遠い……。
 斯様に「書写」という作業をしてると、自分の文章ではなくテキストを横に置いてその文章を書き写していると、あの人はどんな気持で書き写していたんだろう、途中でめげたりしなかったのかしら、最後まで書き写すことができたのであろうか、と思い起こすこと、しばしばである。──あの人? どこの誰かも覚えていない。そも面識のない人だ。雑誌の投書欄でしか知らない人である。
 1990年代、一旦休刊(か?)して復活した”本の情報誌”で『オーパス』という雑誌があった。新刊情報は勿論、著者インタビューや書評欄、その他読書、書籍にまつわる話題をライトな文章で埋めていた雑誌である。橋本治と清水ミチコが文豪のコスプレをして表紙を飾る、いま考えてみても、うむむ、と唸らざるを得ないカオス的な雑誌だった(そんなことを朧ろ気に覚えている)。
 復刊以前か以後か、覚えていないが、サンリオSF文庫で刊行されていたフィリップ・K・ディックの小説がようやく他社レーベルから再刊され始めた頃だったか。と或る号の投書欄に、一通の、たしか女性からの投稿が掲載された。正確な文面は流石に忘れているが、こんな内容であった。曰く、現在ディックの『ヴァリス』を図書館で借りて書き写している、創元推理文庫が版権を獲得したそうだけれどいつ出るのか不明、自分が最後まで書き写すのが先か再刊されるのが先かスリリングである、と。
 この人は途中でめげたりしなかったのかしら、最後まで書き写すことができたのだろうか。『恋愛名歌集』メモの書き写しをしていると、必ずというてよい程この女性の投書が頭を過ぎる。『ヴァリス』書写は本文だけだったのか、それとも、あの「釈義」も書き写したのか。もし後者であれば、わたくしは素直に脱帽する。直立不動の姿勢で敬礼をしたい気分だ。
 かの女性の時代ならばともかく、いまの時代に手で書き写しているなんて、レトロを通り越してアナログというか時間の壮大な浪費と蔑みの笑いを買っても不思議ではない。聖書読書ノートブログで本文を引用する際も然りであったが、ふと、「俺、なにやっているんだろう?」と小首を傾げてしまうときも多々あった。
 それでも、わたくしは自分の手を使って本のなかの或る一節を書き写し、それに対して自分が考えたことを書き加える作業が好きだ。あとで読み返そうとして、字が詰まりすぎていて判読に困難になったり、なぜか自分の字が読めなくて困ってしまうことも、まぁ偶にはあると雖も、そうやって手を動かして書いた方が、頭に残っているのだ。これは既に教育の現場などでも夙に指摘されていることだけれど、わたくしは自分の──30年以上文章を(いたずらに量だけは)書いてきた体験を以て、「手を動かして書いたことの方が長く記憶に残る(記憶に定着する)」と断言できる。為、萩原朔太郎『恋愛名歌集』も徳富蘇峰『近世日本国民史』〜「赤穂義士篇」も内容を、割と正確に覚えているのだ、と自負。
 ……ということは件の女性も、『ヴァリス』の粗筋は勿論その思想小説ともいえる内容や、訳者が付した「釈義」も覚えている部分がある(あった)ということか。咨、モナミ、これは頗る恐ろしいことですよ。
 ──粛々と『恋愛名歌集』メモの書き写しを行っている。まだまだ序盤で、先は遠い……。◆

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第3593日目 〈予定とは破綻するためにあるのか?〉 [日々の思い・独り言]

 昨年読み終えた萩原朔太郎『恋愛名歌集』、感想文は書かないよ、と決めていました。が、モレスキンに認めた各章メモをノートへ書き写しているうち、ちょっとだけ考えが変わったのです。
 感想文を書いたら長くなってしまいそう。ならば、このメモをお披露目すれば良いんじゃね? そんなことを企んだ。メモとは名ばかりで書きながら、心のどこかでブログに載せて読まれることを想定している自分がいる。
 書き写しを始めたのは一昨日から。終わるまであと……最低8日。難儀する箇所ありと雖も、10日後には書き写しを終わらせたい。今月後半から分載できれば万歳三唱したいものです。
 蘇峰のメモ、朔太郎のメモ書写、ブログ用エッセイの執筆。並行して、読書(と家庭内諸事と仕事)。──あれ、わたくしはこれだけのことを毎日そつなくこなしてゆける性格の主であったかな? 咨、早くも破綻の予感……。◆

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第3592日目 〈「昨年読んだ本のベスト……」を考える気持になった。〉 [日々の思い・独り言]

 正月の喧噪も落ち着いてきたが、わたくしは昨年とまるで変わらずである。ぼんやりと日を過ごしていたら、いつの間にか年が改まっていた、という感じ。
 若い頃はこうじゃあなかった。年が暮れる、年が改まる、ということに頗る敏感で、相応の行動をしていた、大掃除をしたり、おせち料理の支度をしたり年賀状を書いたりね。勿論、コミケに行って同人誌を買い漁ったりもした。
 ところが近頃は、そうしたあれこれからはすっかり御無沙汰である。単に腰が重くなっただけ、無精を決めこんだだけかもしれないけれど。まぁ、過日の話ではないが、「今日は昨日の続きでしかない」てふ考えに比重が置かれるようになっただけかもしれない。いずれにせよ……、なのである。
 斯様なことはありと雖も本を読むことだけは、どんな日だろうと失われることのない習慣だ。いったいいつ読み終えるんやろか、なる答えの出ない質問が頭を過ぎる本もあるが(就中寝る前ベッドのなかで読んでいる本)、それでも読書という罰せられざる悪癖を改めるなんて気持は起こらない。
 そうしたところでふと、去年はどんな本を読んだっけな、と倩回想して、〈昨年読んで良かった本ベスト……〉なんてものを考えて良い時期となりつつあるのに思い当たる。
 去年かぁ……藤沢周平に始まり片柳弘史で終わり、途中に吉川英治と徳富蘇峰があったのは覚えているけれど、他に読んだ本は……。
 ちょうど良い機会ですから、初読本ベスト、再読本ベスト、初読再読不問のワースト、など考えてみましょう、後日にはなりますが、内一部に簡単なコメントを付けたエッセイを書いてみましょう。◆

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第3591日目 〈【再掲】これから書いておきたい聖書・ユダヤ教・キリスト教関係のエッセイ。【一部加筆等あり】〉 [日々の思い・独り言]

 正月の喧噪も落ち着いてきました。昨年にあった諸々の整理も、確定申告関係と1つのことを除けば概ね終わりました。そろそろ、かねてから検討していた古典と聖書にまつわる種々のエッセイの筆を執る時が来たかな、と思うております。
 そこで今日は、第3230日目1/2でお披露目した、聖書やユダヤ教/キリスト教で今後書いておきたい(書いてみたい)エッセイの企みを、少しく手を加えた上で再掲することに致しました。別稿間に合わざるがゆえではありますが、どうかご寛恕願いたく思います(今後、聖書〈前夜〉で同じく再掲も多くなりましょうし)。
 その企み、すなわち、──

 静かな年末年始の時間の流れるなか、久しぶりに聖書を耽読した。すると、書いてみたい聖書・ユダヤ教・キリスト教関係のエッセイのネタが、幾つも浮かんできた。
 ──と思うて過去のエッセイを検めてみたら、まるで変わるところがないのには吃驚仰天。当時は、過去に列記したものと被る題材もあれば、此度新たに加わった題材もあったけれど、いまはまるでその頃からこちらの読書や思考は進んでいない事実を突きつけられたような気持だ。
 気を取り直して話を進めれば、──まず、懸念事項としてずっと心のどこかに引っ掛かっていた題材として、<ペテロの殉教>と<死海写本>がある。
 <ペテロの殉教>に関しては5,6年程前に書いたかれとパウロの殉教に触れたエッセイの、ペテロ部分の訂正と聖霊降臨後の活動をまとめ、殉教の様子の出典・典拠を可能な限り追及し、そこから出発して第5代皇帝ネロ治世下のローマ帝国に於けるキリスト教迫害史をスケッチしたい。
 <死海写本>に関してはまだまだ勉強が終わらないのでなんともいえぬが、たぶんナザレのイエスとエッセネ派/クムラン宗団の関わりを述べつつ、死海文書についてこれまで数多の解説書が取りあげてきた内容をわたくしなりにまとめ、管見を述べる、といった具合の文章になるだろう。
 また、上記死海写本についてのエッセイを書く過程でおそらく、エジプトで発見されたナグ・ハマディ文書(と『ユダの福音書』)とグノーシス思想に関しても同様なエッセイを書くだろう、と予想している。もっとも、こちらも以前から書こうとしている題材であるから、なんの目新しさもない。──ああ、そうか、新共同訳や聖書協会訳、フランシスコ会訳が収めない<旧約聖書外典>と<新約聖書外典>、<使徒教父文書>もあったか!!
 そうして此度「マカバイ記 一」の再々読をしてゆく過程で、やはり<聖書の翻訳史>と<古代オリエント・地中海世界の歴史>についてもまとめておくべきだ、と考えた。
 <古代オリエント・地中海世界の歴史>当たり前の話ではあるけれど「マカバイ記」はけっきょくのところ、ユダヤの側から見た前4-2世紀(アレクサンドロス大王の東征からシモンのハスモン朝成立まで)の歴史しか述べていない。
 セレコウス朝シリア側の歴史と事項──対プトレマイオス朝・対ローマ・対ユダヤ外交や軍事行動、時の国主と御代の出来事の一覧、王位を巡る内紛など──をまとめておくのは必要だ、と、痛感する場面は再々読の過程で幾度も感じた。このあたりがきちんと頭に入っていないと、大雑把でも流れを把握していないと、読んでいて「あれ?」と思うことが多々あったのだ。
 同じようにローマが共和政を経て帝政に移行し、併せて外交がどのように成されたのか、という点も、力のおよぶ限りでまとめて1つの文章に遺しておきたいのである。
 勿論、パレスティナの東方地域に勃興して栄華を極め、滅んでいった国家についても、なにかしらの形で触れ、かつ書く必要がある。メディアや、ペルシアのことである。
 <聖書の翻訳史>に関しては、これは完全に趣味と実益を兼ねたエッセイになる。或る特定の出版物の歴史や伝播の仕方を調べるのが好きなのだ。書誌学に興味を持って反町茂雄や森銑三、林望や中野三敏の著作を耽読したことでそのまま沼に嵌まったせいだろう。
 ヘブル語、アラム語、70人訳聖書を出発点にヒエロニムスのウルガタ訳が出来、ルターのドイツ語訳が出来、日本を含めて各国語がそれぞれの歴史のなかで然るべき人物によって作られてゆき、いまや聖書の翻訳は地球上で確認できる言語の過半を網して菜緒新たな翻訳が宣教師や学者たちによって作られようとしている。
 これまで日本語で読める聖書翻訳史とは上述したヘブル語、アラム語、70人訳からウルガタ訳、ドイツ語訳に至る歴史を語るか、日本語聖書の翻訳史の解明のいずれかであるのが専らでなかったか。
 が、わたくしが知りたいのは他言語による聖書翻訳史なのである。勿論、400字詰め原稿用紙10数枚のレジュメ程度で結構だ。さいわいとロシア語とスウェーデン語、ヴェトナム語については知る人の協力さえ得られれば自力でもなんとかなるような気がするけれど、他は、ねぇ。フランス語とかスペイン語とかスワヒリ語とか、中国語とか韓国語とかフィリピン語とか、もうお手上げだ。

──以上。
 このうち、2023年中にどれだけが実現できるか、或いは、どれ1つとして書けないかもしれない。斯様なことになったとしても、上記のあれこれについて考えを巡らし、本を読んだりメモを作ったりして、勉強している事実にはまるで変わりはない。
 最近は聖書や概説書、註釈書から進んで(?)、神学の本を囓ったり、日本人キリスト者の本もちょっとずつ読んだりしているのですよ……。それらについて、昨日一昨日のエッセイのように書けたら良いですね。◆

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第3590日目 〈分かち合う、ということ。分福、ということ。〉 [日々の思い・独り言]

 今年も箱根駅伝、往路と復路の沿道観衆に映りこんで良い気分でいたら、その夜、階段の踊り場で壁に激突して眼鏡を壊したみくらさんさんかです。Oh,good grief……. 随分と盛大な音がしたそうで、寝ていた家族が起き出し、ぐっすり眠っていた娘も途端に大泣きし始めた程。
 いやぁ、元日からなにをやっているんだっていうね……今年は気をつけなくっちゃ。
 さて、気を取り直して今日のお話だが、……



 寝る前に読んでいる本からの一節です。曰く、──

 マザー・テレサは、インドの街の貧しい民衆の中でわずかなお米をいただいて、うれしかったので貧しいヒンズー教徒の母親にそれを半分分け与えた。するとその女性も喜んだが、またその半分をイスラム教徒の貧しい母親に分けに行ったのです。その時マザーは「ここに神の国がある」と言いました。キリスト教教育の目標、イエス・キリストの福音の目的が、ここにあるのではないでしょうか。いと小さきものとの共生の視点、エリヤのまなざしです。神から人間に対する言葉を預かるエリヤ。悲しむ人間の側に立ち神に向かって祈るエリヤ。その姿勢から学ぶのです。(関田寛雄『目はかすまず気力は失せず』P29 新教出版社 2021/07 ※1)

──と。エリヤは旧約聖書に登場する預言者で、北王国イスラエルの最悪の王アハブに立ち向かった人です。
 マザー・テレサの与えたお米を、更に他の人に分かつ行為。共観福音書に載るイエスのパンと魚の奇蹟に端を発したエピソードなれどそれと較べて、ずっとわれらの心へ響いてくるエピソードではないでしょうか。
 「貧すれば鈍す」という諺があります。物質的に恵まれていても自分に与えられたものを独占して、他に分け与えることを惜しんで守銭奴の如くになれば、心はどんどん貧しくなるばかりでやがては人品を貶め、元からある筈の善良なる心や「善いことをしよう」という気持は蝕まれ、孤独と貧窮をのみ友として最期を迎える。
 わたくしは「貧すれば鈍す」をこのように解釈いたします。それはいい換えれば、自分で自分の世界を窮屈にし、誰からも顧みられない性格に作りかえられてゆく過程、もしくはその結果、なのかもしれません。
 「”分かち合う”ことができない」とは、「孤独」という言葉に付された様々な意味の1つ、否、窮極的な語義である、とも申せましょうか。いろいろ思いを巡らせていると、そんな考えに帰結するのであります。キリスト教徒がヒンズー教徒に、ヒンズー教徒がイスラム教徒に、お米を分け与えた(分け合った)という点に、その一端は窺えるように思うからです。
 この「分かち合い」、「分かち合う」こと。これは幸田露伴の説く「分福」の思想につながる教えでもあるように思えます。露伴翁、「分福」を語って曰く、──

 すべて自己の享受し得る幸福の幾分を割いて、これを他人に頒ち与え、他人をして自己と同様の幸福をば、少分にもせよ享受するを得せしむるのは分福というのである。(『努力論』P63-4 角川ソフィア文庫 2019/07)

──と(※2)。
 けっして牽強付会ではありますまい。分福とは、前述したようにキリスト教社会でいう「分かち合う」の東洋風な表現であり、意味するところもその目的も同じです。
 これのできる人が果たしてどれだけあるだろうか。幸福のお裾分けを実践して独占をしない人が、いったいどれだけあるだろう。咨、サウイウ人ニわたくしハナリタイ。◆


※1 余談になるが著者は昨2022年12月14日、94歳で逝去された由。本稿の筆を執るまでまったく知らなかった。『目はかすまず気力は失せず』は昨年の仲秋にみなとみらいの丸善で偶然求めた1冊であるが、元日になるまでずっと未読のままで過ごした。いまWeb上の訃報に接していわれなく嗟嘆している。
※2 事の序に、露伴の「幸福三説」で「分福」以外の「福」について、簡単に申し上げます。「惜福」──福を惜しむことも重要だが、惜しむとはケチになることでは無い。与えられたものの価値を知り、大切さを知って忘れず、むやみと浪費するのを避けよ、ということです。「植福」とは自分が持つ福を次の世代のために活かす術を知れ、然るに弛まずそれを実行せよ、というのです。□

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第3589日目 〈片柳弘史『何を信じて生きるのか』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 キリスト者には勿論であるが、非キリスト者にこそ手にしてほしい、読んでほしい1冊。「キリスト教がどうのというのではなく、もっと普遍的な所で、「生きる」事の意義を見出せる導きの1冊。そうわたくしは読んだ」、Twitterの読了ツイートのほぼ全文である。
 著者は山口県宇部市にあるカトリック教会の神父。幼稚園の先生や刑務所の教誨師も務める。大学在学中に家族の不幸に遭ったことがきっかけで洗礼を受け、インドのコルカタでボランティア活動中にマザー・テレサから神父になるよう助言された人である。
 全4章から成る本書は、神父と、Twitterをきっかけに教会へ通い始めた学生の対話で構成される。それぞれに核となる部分を、敢えてわたくしが摘出すれば以下のようになる。つまり、──
 「一、自分を信じる」の核は、秀でた能力を持ったり、良いものをたくさん持っている人間だから愛される価値があるのではなく、かりにそのようなものを自分が持っていなくても、あなたはあなたであるだけで愛される価値がある、という点にあろう(P33)。
 これは万人への福音ではあるまいか。非キリスト者であってもこのことは信じて良いと思う。
 「二、人を信じる」の核となる点は2つ。1つは、神が作り給うた命には等しく価値があり、意義がある、ということ(P60)。もう1つは、なにかを変えたいと思うならば相手のなかにある愛に働きかけ、愛を以て相手に接する以外にない、なんとなればどんな人のなかにも愛は存在するから、ということ(P76)。──これらはまさしく、イエスが弟子たちに繰り返し、事ある毎に伝えた「あなたの隣人を愛しなさい」につながる点といえるだろう。
 他にも本章には、神父がマザー・テレサと接して印象に残った4つのことも紹介されている。これは是非、神父の言葉で読んでいただき、考えていただきたいと思う(「3 愛することは大切にすること」)。
 「三、明日を信じる」の核とは、この2つの点に尽きるのではないか。即ち、「神に身をゆだねる」とは、不条理な時代、明日もいまと同じ世界が存在しているとは限らない時代だからこそ、見通すことの不可能な未来のこと(これからの頃)は神に任せて、いまの自分に与えられた使命を悔いなく果たすのが「神に身をゆだねる」ことである、という点(P96)。もう1つは、神は試練を与えるけれども同時に、試練を乗り越えるための力も与えてくれる、ということ(P108)だ。これについてはあとで述べることとし、いまは先を急ぐ。
 「四、信じる心を育てる」はすこぶる深い内容となり、信仰生活の根幹となる〈祈り〉についての対話が展開される。──祈りとは、自分自身の心に向き合い、自分自身の心の声に耳を傾けること(P130)であり、感じ取ることが心の世界へ入りこんでゆく第一歩であると同時に心の深い領域へ踏みこむ取っ掛かりである、そうやって心と向かい合っているうちに「心の深い部分が姿を現し始める」(P136)。またそのようにして祈り、心を静かにしてゆくなかで自分の声が聞こえるようになり、神の声に耳を傾ける準備も整う(P138)。
──と。
 ただ、どうしても素直に首肯しかねる部分も、ある。第2章6節「愛するとは信じること」の、相手を信じるきっかけについての対話だ。

 学生:どんなに迷っても、(相手を)最後は信じなければならないのでしょうね。
 神父:「信じなければならない」というか、「この人を信じずにはいられない」ということです。この人の笑顔、この人のまなざし、この人のやさしさに触れたなら、もうこの人を信じずにはいられない、この人を愛さずにはいられない。それが、本当の意味で信じるということであり、愛するということなのです。(P89 ()内引用者)

──と。
 書かれた内容について、分かる部分はある。が、それに首肯しかねている自分がいる。著者の生きる社会(それは教会を中心とした社会だろう)と、読者たるわたくしの生きる社会とでは、「相手を信じる」の実質が異なっているように感じるからだ。この点については時間をかけて再考してゆく必要がありそうだ。
 そうして最後に、わたくしが最も感銘を受けた箇所、前に「あとで述べる」というた2つ目の核、108ページである。第3章3節「過去と未来」から神父の言葉だ。曰く、──

 世間でよく「神は、乗り越えられない試練を与えない」といいますが、わたしはあの言葉は、「神は、試練を与えるときには、必ずそれを乗り越えるための力も与えてくださる」といった方がより正確ではないかと思っています。自分の力で乗り越えるというよりも、思いがけない出会いや、家族、友だち、みんなの助けなどによって乗り越えられることが多いからです。

──と。
 この本で唯一、文句なしに素直に首肯できた一節であった。頭で納得したのではなく、心で納得できたのである。
 「試練を与えるばかりでなく、それを乗り越える(克服する)力も与えてくれる」とは、なんと希望にあふれた教えではないか。これこそがキリスト教が──カトリックが、非キリスト者にもたらした普遍的な力を持つ真の〈福音〉だと、わたくしは確信して止まぬ。
 この一節、この教えに出会えただけでも充分に報われた……とは流石に言い過ぎか?
 最後に、本書からもう一節、引いて擱筆したい。こちらも、神父の言葉である。

 このような愛(無条件の愛)に出会ったとき、わたしたちの心は初めて本当の安らぎを得られる。わたしは、そう確信しています。家族や友だちのうちに宿った真実の愛に気づくとき、あるがままのわたしたちを無条件に受け入れてくれる本物の愛と出会うとき、わたしたちは初めて本当の幸せと出会うのです。(P34 ()内引用者)◆

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第3588日目 〈きょう読んだ怪談3冊。〉 [日々の思い・独り言]

 年末年始の読書が久しぶりに小説中心となったのは、脳味噌がふやけて蕩けた結果でありましょう。そんな頭を抱えて読むにノンフィクションや教養書の類は、どうも相応しくない。この時期くらい絵空事の物語に耽溺したいですよ。それが実話を元にした作物であったとしてもね。
 娘が遊び疲れて寝てしまったら、その傍らで炬燵に入って本を読む。母も、奥方様も、それぞれのことで忙しい。呼ばれぬ限りは炬燵に潜りこんでミカンかどら焼きを食べながら、部屋から運んできた文庫の小説を読む。──時間がゆったりと流れてゆくのを感じながら、不安や恐れは心の片隅に、この間だけでも追いやって、いま生きてあることの幸福を噛みしめながら。

 小説を読んでいるとはいえ、天板に積みあげたのは「なんだかなぁ」と呟きたくなるジャンルばかり。皆々、怪談、なのです。橘外男『蒲団』、赤川次郎『幽霊の径』、M.D.クック『図書室の怪』……どれもいずれ──遅かれ早かれ、Twitterで読了報告をすることになるであろう3冊。
 クックは、何年も前に(実は発売間もなく)買いこんでそのままなぜか放置していたのを、大掃除で発掘し、そのまま大晦日の朝から読んでいたのですが、いやぁ、こうしたクラシカルで端正な作風の怪談は大好きです。世界のホラー小説の風潮がどうなろうと、英国にはどんな時代でも礼儀正しく古典的な骨格を持った怪談が書かれ続けていることに、なにとはなし心強く思うのであります。
 恥ずかしながら橘外男は、20歳前後で図書館から借りた怪奇小説アンソロジーで「逗子物語」を知っているだけで、他の小説はただの1編も読んだことがなかったので、今回が事実上の初読の作家となる。どうしてアンソロジー・ピースとされる「蒲団」まで読んでなかったんやろ。うん、これはね、「蒲団」はね、凄惨ですよ。現代の目から見たら展開も因果も底がすぐ割れてしまうんですが、それを支えるのがやはり文章。怪談を語る一人称としては、堰を破って暴れる本流のような勢いがある。なにげない一文に〈おぞましさ〉が潜んでいる。増上寺の謎の失火と絡めたあたりは中々うまい筆さばきだな、と思いました。個人的に本集のベストは「棺前結婚」。他の日に感想文をお披露目しますが、そこではこの作品が中心になる筈なので、いまは語るを省きます。
 赤川次郎のこの長編は……何度読み返したことだろう。これまでも氏は怖い話を幾つも書いてきたが、正直にいうとやや「ぬるい」作物がかなり目立った。『怪談人恋坂』と、ちょっと目先を変えても『黒い森』くらいかしら、このジャンルの良作というべきは。と、ここに『幽霊の径』が入るわけだからこの3作を以て「赤川次郎の怖い話ベスト」と呼んで良いように思う。読み終えたあとに圧し掛かってくる「どうしようもない虚しさ」は、今回も健在であった、と書いて筆を擱きたいが、エピローグは蛇足だよなぁ、という感想はむかしもいまも変わらない。◆

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第3587日目 〈元日から気を取り直して本稿を書くこと。〉 [日々の思い・独り言]

  大過なく令和4年を迎えられました。去年に感謝、今年に幸を。

 正直に申せば、今日の日のための原稿をまったく準備していなかった。うっかりさんもここまで来たら、呆れると云うより讃仰の域に近附いた、と申すべきか。
 気を取り直そう。書こう。然れど、極めて短く……。

 蘇峰「赤穂義士篇」のメモを取りながら、必要あったり無かったりの用にかこつけて、他の史書やら小説に目を通していた。すると、ふと思うたのです。
 単に「そう思うた」だけで逐一検証等はしていないけれど、ふと思うてしまうたのです──三島由紀夫の「憂国」って、構造は紛うことなき『忠臣蔵』だよな、と。
 この前「憂国」を読み返したとき、ちらちら脳裏を過ぎっては霧消したデジャ・ヴに似た感覚は、たぶんこのことに起因するのではないか。
 でも確か、三島は『忠臣蔵』を批判した文章を書いていたような覚えがあるけれど……これも検証と同じく後日へ向けた宿題と致しましょう。

 今年もどうぞ宜しくお願い致します。◆

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