第3757日目 〈病床からのレポート──2024年01月11日篇。〉 [日々の思い・独り言]

 退院日がどんどん遠くなっている。個室に閉じこめられて窓の外を見ていると、ラプンツェルやクラリスは、或いはアナスタシアはどうやって日々の憂さをやり過ごしていたか、疑問が浮かぶ。見えぬ所に侍従や監視役を置かれている彼女たちは、視点を換えればいまのわたくしと同じでないか。
 入院して十日以上になる。症状は一進一退、痛む部位も痛みのレヴェルも、時々刻々と変化する。これから自分は、いったいどうなってしまうのか。不安は尽きぬ。
 とはいえ、悪いことばかりでもない。支えてくれる人たちにはこちらの都合が優先するゆえに甚だご迷惑をお掛けしている部分もあるが、これもまた視点を変えれば、これまで取り掛かることのできなかった積み残したあれやこれやを片附けていく機会にもなるのに気がついた。
 なにより喜ばしいのは、末端神経にまで喰いこんでなかなかその全部を払拭できなかった腫瘍……毒素を完全追放する好機が得られたことだ。
 本来ならばもっと以前に、この作業には取り掛かるべきだった。わたくしを壊し続けた諸悪の源を根絶できなかったのは、意志の弱さの表れだ。が、いまはもう違う。いろいろな要因が積み重なって、根絶の機会を得た。そうしてそれは殊の外簡単に片附いて、その効果を少しずつ実感している。これがなによりの慶事。

 いまは、痛みと闘いながらも懸念事項が一つ、取り払われた清々しさを味わいながら、シェイクスピア『ヘンリー六世』読書ノートに向けたメモを、乱れた字でモレスキンに書きこんでいる。きちんと読みこもう。歴史的背景についてもうすこし詳細な情報が欲しい。そうなると、途端に病室は書庫と化すから、むろんこれは避けるとしても、却って一冊の本からどこまで情報を引き出し、綜合させることができるか、考えを巡らすことも可能なのだ。
 ただ、勿論、こればかり読んでいるのではない。わたくしは研究者でもなんでもないのだ。キング『小説作法』を読んで感じるところあればそこだけ反復したり、ページの端を折ったりしている。
 その傍らで「ヨブ記」〈前夜〉を忘れているわけでもない。現在のわたくしを見舞う痛み、苦しみは、まさしくウツのヨブが経験したと大差ない。聖書の人物を自分へ限りなく引き寄せようとすると、ほんのわずかの(表面上の)共通点に縋り、そこから発想や思考を広げて深めるしかないのだ。エレミヤが、そうだった。烏滸がましくも、イエスがそうだった。
 このように持病の悪化であれ、理不尽に突然襲いかかった肉体への不幸であれ、人はほんのわずかでも己と共通する点を持った人物に希望を託し、また、その姿に慰めを見出すのである。
 とはいえ、日々のルーティン作業とするに如くはない。要するに、どこかで飽きてくるのだ。同じことをやっていると、体に負担がかかってしまう。寝っ転がって気儘に読書ができれば良いけれど、痛みが集中するのは背中から腰、両脇腹である。そんな格好で一定時間を読書に耽るのは、案外と苦行なのである。それにしても気分転換に、小説読みたいなぁ。◆

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