エズラ記(ラテン語)(再) ブログトップ

第3368日目 〈エズラ記(ラテン語)第16章;〈エズラの哀歌〉、〈終末への主の僕の準備〉with「エズ・ラ」読了のご挨拶。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第16章、「付録の諸預言」2/2です。

 「付録の諸預言」2/2
 エズ・ラ16:1-35〈エズラの哀歌〉
 おお、アジアばかりか、バビロンもエジプトもシリアも、総じて不幸だ。神なる主の怒りがお前たちに突きつけられる。それから逃れる術はない。この災いが取り消されることも、また。
 「見よ、飢えの打撃が襲って来る。その苦しみは鞭のようだ。それは戒めのための懲らしめ。それにもかかわらず、人々は不正を改めず、これらの懲らしめにもかかわらず、その懲らしめを永久に思い起こすことはない。」(エズ・ラ16:20-21)
 平穏が訪れたかのような時が来る。が、それこそ始まりなのだ。飢えが多くの人々を苦しめて死なせ、剣が残った人たちを狩って屠る。自分以外に誰か生き残った者はいないだろうか、と捜すのは無駄なこと。町は滅び、地は荒廃の一途を辿ってゆくばかり。

 エズ・ラ16:36-78〈終末への主の僕の準備〉
 主の僕たちよ。私エズラが告げる。主の言葉を信じよ。これを疑うな。
 善き人々よ。私エズラが告げる。あなた方の日々の労苦が不敬虔な者たちに掠め取られる覚悟をしておけ。
 だがやがて、正義が不正を告発する日が来る。為、あなた方は不正に手を染めることも真似ることも、思うこともしてはならない。「間もなく不正が地から取り去られ、わたしたちの間で正義が支配するからである。」(エズ・ラ16:53)
 不正をした者が神の御前でそれをごまかそうとしたら、怒りの火がその者に降る。
 主は、すべてを計画して、実行する。主は、人のすべての業と計画と思いと心を知っている。
 「主はすべてを造られ、隠れた所の隠れたものをくまなく調べられる。確かに主は、あなたたちの計画とあなたたちが心に思うことをすべて、ご存じである。罪を犯し罪を隠そうとする者は不幸である。確かに主は、彼らのすべての業をくまなくお調べになり、あなたたち皆を引き出されるからである。あなたたちの罪が人々の前に並べられるとき、あなたたちは、慌てふためくであろう。その日には不正の数々が告発者として立つであろう。主とその栄光の前に、あなたたちに何ができるというのか。どのように自分の罪を隠すことができるというのか。」(エズ・ラ16:63-67)
 神は裁き手。あなた方は罪と縁を切って、命ある限り不正を行わぬよう努めなさい。そうすれば神はあなた方を導いてくれる。すべての苦しみから救ってくれる。
 これからたくさんの試みが為される。その結果、神が選んだ人々が残り、かれらは正しい人である、と証明される。近附きつつある苦しみから、かれら──あなた方は救われる。
 恐れるな、疑うな。神が指導者である。神は、ではない。神の戒めと掟を守ったあなた方に罪が重くのしかかったり、不正が正義を凌ぐようなことがあってはならない。断じて、ならない。
 「自分の罪に圧倒され、自分の不正に覆われてしまう者は不幸である。」(エズ・ラ16:78)

 「第6エズラ記」の終わり。

 メインとなる〈終末への主の僕の準備〉は専ら「罪」の問題について説いております。力点が置かれたのは、罪から心身を遠ざけて不正に手を染めることなく暮らすこと、いい換えれば健やかに、正直に、憎まず恨まず妬まず裏切らず、神を畏れ敬いその教えと掟を守って暮らすこと、が即ち神の目に正しいと映る行いの重要事であり、選ばれるため、救われるための資格であるからでありましょう。
 〈終末への主の僕の準備〉、就中エズ・ラ16:66「その日には不正の数々が告発者として立つであろう」は殊更自分のなかへ突き刺さる言葉でありました。なにやら自分の行き着く最終場面のように思えたからです。わたくしも罪を犯した者なので。
 それがさておき。この罪の問題が敢えて現「エズ・ラ」の最後に置かれたのは、なにやら非常に象徴的なことのように思えます。先行した数々の預言書、黙示文学、或いは口伝されたなかでの課題を承けて考え抜かれた、3世紀後半から4世紀初頭を生きたキリスト者、信徒集団、教会からの(当時時点での)回答のように読めるのは独りわたくしだけでしょうか。
 前回本書を読んだときも感じたことですが、やけに唐突で知り切れトンボな、放り出された感満載な終わり方であるのはどうしてなのでしょう。「第4エズラ記」のように他言語へ訳された際続く部分があったのか、あってもそれは加筆の類でありますが、そうしたものがあったのか、ちょっと小首を傾げてしまうのであります。
 とはいえ、「エズ・ラ」第1章から通して読み読み、考えたりしておりますと、一点の疑問が揺るぎなく自分のなかへ根を張ってゆくのがわかります。それは、果たして人はこうまでして自分たちが神によって救われるに値する存在だと、本気で思うているのか、ということであります。これは幾ら悩んでみても解決の曙光だに見えそうにない問題でありますが、それゆえにこそウンウン唸ったり、仕事の手空きの偶さかにでも、想いを馳せてしばし黙考してみるにじゅうぶんな宿題であるのではないでしょうか。キリスト者であろうとそうでなかろうと、であります。果たして人は、救われるに値する生物なのか、と──。



 本日を以て「エズラ記(ラテン語)」の再読を終わります。いや、長かった! 再読を決めてから今日「読了」の言葉を書くまで、本当に長い時間を費やしてしまいました。検めれば今回の再読ノートも様々瑕疵があろうけれど、なによりも孤独に耐えながらちゃんと読んで、ここまで辿り着いたことを自画自賛しよう。
 取り敢えずこれで、約8年来の懸案事項は解消されました。年経る毎にじわじわと自らへ課した課題が重荷となってゆき、昨年「一マカ」再々読を済ませてからは更に重くのしかかってきた「エズラ記(ラテン語)」再読。それをどうにか今日、本文に関しては終わらせることができた。
 調べてみましたら前回、「エズラ記(ラテン語)」を読んだのは2014年12月13日から同月25日。途中で余りの手に負えなさから匙を投げて全文引用プラス簡単な感想、という方式を採ったことも含めて、〈前夜〉も含めて意に満たない部分は多々あった──というよりも、あり過ぎた。それを多少なりとも解決できた点でも、今回も多少強行スケジュールではあったが思い切って始めてしまった良かった、と胸を撫でおろして、ぼうっ、としている現在であります。
 ようやく本当の意味で、1回目の聖書読書は完了しました。2008年09月から2022年03月までですから、ずいぶんと時間が掛かりましたな。もっとも、それだけに拘っていたのでもありませんが、約14年という歳月を聖書と一緒に過ごしてきたのですねぇ。なんだか感慨深いです。
 さて、それでは予定している2回目の聖書読書に備えて、新しい聖書を用意しましょうか。新共同訳をそのまま使うか、聖書協会共同訳を新しく採用するか、まだ決めておりませんが。勿論、旧約聖書続編を含んだ聖書、とは譲れぬ条件であります。まぁ、いつから読み始めるか、でどちらの聖書を用いるか、決めるのでしょうね。
 おっと、2回目の聖書読書よりも先に、旧約聖書の幾つかの書物の〈前夜〉を書き直して(未だ作業継続中!)、順次「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで再掲するてふ約束がありましたな。一部の書物については再読を要す、ともいいましたが、こちらは2回目の読書に組みこめばいいか……。◆

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第3367日目 〈エズラ記(ラテン語)第15章:〈近づく災難〉、〈恐るべき幻〉&〈アジアに対して〉with悪党との縁切りなった歓喜の日に綴る希望と栄光の歌。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記第15章、「付録の諸預言」1/2、「第6エズラ記」の最初です。

 「付録の諸預言」1/2
 エズ・ラ15:1-28〈近づく災難〉
 主がいった。
 わたしが送りこんだ預言の言葉を民へ伝えなさい。その言葉を記録させなさい。預言の言葉は真実で、信頼できるものだから。
 これからあなたは多くの、あなたをよく思わぬ衆から嫌がらせをされ、誹謗中傷を受け、痛めつけられるだろう。が、恐れるな。揺らぐな。かれらは不敬虔ゆえに滅びる。盗人を赦さない。仲間外れを赦さない。嘘つきを赦さない。わたしは、断じて連衆を赦さない。ゆえに滅ぼす、かならず。
 わたしはかれらを赦さない。談じて、赦したりはしない。かれらの不正は既に行き着くところまで来ているから。「彼らが行う不敬虔に対して、わたしはもう黙ってはいない。わたしは、彼らの不正なふるまいを忍耐しないだろう。見よ、潔白で正しい者の血が、わたしに向かって叫んでいる。正しい人々の魂が、絶え間なく叫び続けている。」(エズ・ラ15:8)
 自分の民が捕囚の地、使役させられる地にいるのを、わたしはもう見ていられない。為に、「わたしは確かに不敬虔な者たちに報復しよう。そして彼らの中のすべての潔白な人々の血を、わたしのところに受け入れよう。」(エズ・ラ15:9)
 主がいった。
 「わたしの右手は、罪を行う者たちを赦さず、剣は、地上で罪なき人々の血を流した者たちを、見逃しはしない。(中略)わたしは彼らを赦さない。主に背いた者たちよ、立ち去れ。わたしの聖所を汚してはならない。」(エズ・ラ15:22, 25)
 ──神は自身に対して企てられる罪の行為を知っている。それを行う者のことも知っている。神はかれらを死と殺害に渡して、救うことはけっしてない。

 エズ・ラ15:29-45〈恐るべき幻〉
 主が、見よ世界のあちこちで動乱が始まろうとしている、といった。続けて、──
 見よ、怒りと嵐を孕んだ雲が東と北から起こり、南まで広がってゆく。雲は互いにぶつかり合い、地上は凄まじい嵐に見舞われる。剣によって流される血はおびただしい量になろう。地上は恐怖と不安に覆われる。
 見よ、南と北から大きな嵐が近附いてくる。嵐は西からもやって来る。が、東からの風が強くなり、嵐のなかの怒りを抑えつける。滅びをもたらさんとしていた嵐は、その東からの風に押されて、南と西に散る。
 そうして風はいまや地上を滅ぼす嵐と化した。嵐は地上で営まれる生きとし生けるものすべての暮らしと生命を呑みこみ、バビロンにまで達してこれも同じく壊滅させたのである。わずかな生き残りは、滅びの嵐の奴隷となる。

 エズ・ラ15:46-63〈アジアに対して〉
 バビロンの繁栄と権勢、暴利と退廃のおこぼれに与るアジアよ、やがてお前の上にも破滅と死がもたらされる。
 主がいった。
 「わたしが、これほどまでお前を憎むのは、お前が、わたしの選んだ人々をいつも殺害したからではないのか。お前は酔いしれて、手をたたいて喜び、彼らのしかばねをののしった。『お前の顔を美しく装うがよい』と。売春婦への報酬は、お前のふところにある。それゆえお前は報いを受ける。」(エズ・ラ15:52-55)
 アジアよ、しかしお前が被る災難はそれだけで終わらない。終わらせない。バビロンを滅ぼした者たちはその撤収の最中、残された、憎まれた町を見附けるやこれを討ち、お前の栄華と領土の一部を削ぎ取ってゆく。
 そこは草木一本生えず、人っ子一人住む者なき荒廃した、人跡途絶えた地となるだろう。

 引用が目立つのみならず、自分の解釈、思うことを反映させた文章になった。ご興味ある向きは新共同訳旧約聖書続編を開いて逐一確認されるがよろしいでしょう。オンライン読書会の方々も、どうぞ。
 本章は久しく感じてこなかった旧約聖書の神の怖さ、容赦無さ、呵責のなさ、意固地ぶりを欠片程度ながらも堪能させられたところとなりました。就中エズ・ラ15:26-27が、ですね。語り手による地文ではありますが、旧約の荒ぶる神、裁きの神、怒りの神の心境へ畏れ多くも触れた気分であります。そこにはこう書かれている、──
 「神は御自身に対して罪を犯す者を知っておられる。だからこそ、神は、彼らを死と殺害に渡されるのである。災いは既に地上に来ており、人々の中に居座るだろう。しかし神はお前たちを救われない。お前たちが神に対して罪を犯したからである。」(エズ・ラ15:26-27)
 煩雑になるてふ理由1点を以て故意にノートを省いた箇所がございました。アラビアの竜の民とカルモニア人の戦いのくだりであります(エズ・ラ15:29-33)。スタディ版脚注に従えばこれは3世紀中葉、現イラク北東部旧アッシリア領を出自とするカルモニア人と、シリアにあったパルミラ国のオダエナトゥスの間で勃発した戦争の描写である由。このオダエナトゥス──セプティミウス・オダエナトゥスは通商国家パルミラ国の武人で、皇帝ヴァレリアヌスによってローマ帝国正規司令官に任命された。
 軍人皇帝時代に帝位へ就いた1人、ヴァレリアヌスがササン朝ペルシア;シャプール1世によって捕虜になるという前代未聞の出来事が出来した260年当時のローマ帝国は、俗に〈3世紀の危機〉と称されることからも明らかなように、帝国存亡の危機の時代を迎えておりました。といいますのも余りに拡大した版図の維持を武力で行うことが継続できなくなり、北方からはゲルマン人やゴート族他諸部族が、東からはペルシアが侵入してきたのを防ぐための戦闘に明け暮れて国力は低下、財政面でも疲弊していた時代であったのです。日本に則していえば、卑弥呼が魏に、倭の女王が西晋にそれぞれ遣使した時代、前方後円墳が登場した時代であります。
 この時代に活躍した帝国の武人の1人がオダエナトゥスだったわけですが、帝国の主力が北方蛮族の食い止めに投入されていたせいで手薄になった東方守備の役を担った。そのかれとカルモニア人の戦闘をエズ・ラ15:29-33は記録しているのであります。カルモニア人は調べを尽くしてもいまのわたくしには判明しなかったけれど、おそらくアッシリア帝国を形成していた諸民族の一、その裔なのでありましょうか。
 また、それに伴ってのお話ですが、〈恐るべき幻〉で語られる風、嵐の描写はそのままローマ帝国が当時置かれていた状況を暗喩した箇所でもあります。帝国が外敵からの侵略を受けてだんだんと疲弊してゆく、まさしく「終わりの始まり」が示されたすこぶる重要な箇所である、と考えます。
 これらを以て「第6エズラ記」の成立時期を推察できるのですが、それについては既に〈前夜〉で述べておりますのでここでは繰り返しません。もっと詳しく知りたい方は、『興亡の世界史04 地中海世界とローマ帝国』(木村凌二 講談社 2007/08)や『世界の歴史05 ギリシアとローマ』(桜井万里子/木村凌二 中央公論社 1997/10)、塩野七生『ローマ人の物語 12 迷走する帝国』(新潮社 2003/12 ※新潮文庫[第32-34巻] 2008/09)、ギボン/中野好夫・訳『ローマ帝国衰亡史』第1巻(筑摩書房 1976/11 ※ちくま学芸文庫 1995/12)と第2巻(同 1978/05 ※同 1996/01)を繙き、それを取っ掛かりに詳細な研究書や紀要などにあたってみると良いと思います。
 最後に、ギボンから一節、引いて本章を擱筆したく思います。曰く、──
 「重要辺境は失われるし、忠実な盟邦は没落する。さらに日増しにつのるシャプール王の野心達成を見ては、さすがのローマも深い危機感と屈辱感を抱かざるを得なかった。」(衰亡史第1巻 P310)
──と。まぁ、要するにローマ帝国にしてみればこの時代、踏んだり蹴ったり、の時代だったわけですね。



 諸人よ、勝利の宴を開こう。われらを阻む闇は今宵の宵刻吹き払われた。前途に開けたるは輝かしき場所、輝かしき時間、そこにあるは栄光の玉座と愛と平穏で満たされた家。
 これはけっして裏切りではない。逃亡でもない。未来を摑むための代償なのだ。いまはただ、シラーのように歓喜を歌うのみとしよう。もう忘れてしまえ、悪党に心やるのは無益だ。
 諸人よ、支えてくれた人たちに感謝を捧ごう。呪縛は断ち切られて、われらは自由になったのだ。これからもあるだろう艱難辛苦は、これまでにくらべれば苦しいことではない。
 顔をあげて足を踏みしめ確かな足取りで大地を進み、いと大切な人たちと一緒に門の扉を開けよう。われらはいつの世も共にあるのだから。
 われらの前にあるのは輝かしき場所、輝かしき時間、輝かしき業。そこにあるは栄光不滅の玉座と愛と平穏と信仰と希望のみあふれた家。
 歌おう、感電する程の歓びを!◆

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第3366日目 〈エズラ記(ラテン語)第14章;〈序文〉、〈啓示の記録について〉with生前の誹り、死後の誉れはわが本懐。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第14章、「第七の幻」です。

 第七の幻
 エズ・ラ14:1-17〈序文〉
 3日が経った。灌木の茂みで炎が燃え盛っている。そのなかから私を呼ばわる声がした。はい、私はここにおります。そう返事した。
 主がいった。曰く、──
 私はかつてモーセに民のための戒めとふしぎな御業と、時の終わりと時の秘密を明かした。その際、公にして構わぬ言葉と秘匿しておくべき言葉を分けて与えた。モーセは民に別れを告げるとき、公にして構わぬ言葉(のみ)をかれらへ伝えた。
 あなたも、あなたが見た夢、幻とその説きあかしを心へ留めておくように。わたしが示すことを書き留め、或るものは公にし、或るものは限られた相手にのみ読ませるように。
 あなたは人々のなかからひときわ高くあげられる。時の終わりまで、あなたと同じように民のなかから一段高くあげられた人々と、わたしの子と、一緒に暮らす。
 「世は既に若さを失い、時は老年期に近づいている。この世は十二の時期に分かれ、既に九つの時期と、更に第十の時期の半分が過ぎている。残っているのは、第十の時期の半分と、あと二つの時期だけである。
 だから今、あなたの家を整え、あなたの民を戒めなさい。卑しめられている人々を慰め、既に腐り切った生活を返上しなさい。はかない考えを追い払い、人間的な重荷を捨て、弱い本性を脱ぎ捨てなさい。そして、あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。
 あなたは今、いろいろな災いが起こるのを見たが、これよりももっと悪いことが起こるだろう。この世が年老いて弱くなればなるほど、世に住む人々の上に悪が増し加わる。真理はますます遠ざかり、偽りが近づいている。」(エズ・ラ14:10-17)
 というのも、幻のなかに現れたあの鷲がものすごい速度と勢いで近附きつつあるからだ。
──と。

 エズ・ラ14:18-47〈啓示の記録について〉
 私は、民をかならずや諫めよう、と約束した。だが、しかし、──
 しかし、後の世に来る人々には誰がその諫め役を担うのでしょう。この世は暗闇のなかにあります。人々には光がありません。世の始まりから以後のことも、様々な機会に為されたあなたの御業のことも、律法が焼かれて灰となってしまった以上知る人は1人としていないのです。
 もし許されるならば、私のなかに聖なる霊を送りこんでください──世の始まりから以後に起きたすべてのことと、あなたの律法に記されていたすべてのことを書き留めますから。「そうすることによって、人々は道を見いだすことができ、生命を望む人は終わりの時に生きるのです。」(エズ・ラ14:22)
 主がいった。
 5人の筆記者(速記者)を募って再たここに来よ。そのときあなたに聖なる霊を与える。自分の語ることすべてをかれらに書き留めさせよ。そうやって成った記録は、或るものは公にして、或るものは限られた相手にのみ読ませるように。
 40日の間、何人と雖もここへ近附くことまかりならぬ。行って、かれらにそういえ。
 そう主がいったので、私はそれに従い、行って民に語りかけた。
 イスラエルよ、われらの祖先はエジプトを脱出して、モーセを介して律法を授けられた。が、祖先も、いまを生きるわれらもこれに背き、道を守ろうとしなかった。主なる神は公正な裁判官なるがゆえ、時が来るとイスラエルを敵の手に渡した。
 しかし、「あなたたちは今、ここにいる。そしてあなたたちの兄弟は、あなたたちの内にいる。」(エズ・ラ14:33)
 知性を制御して心を培うならば、生きている間は守られ、死して後には憐れみが与えられるだろう。裁きの時が来たらば、正しい人々の名が明らかとなり、不敬虔な連衆の行いが露わになる。
 イスラエルよ、あなた方にお願いする。これからの40日間、私を訪ねてくることも、私がいる所を覗うことも厳禁である。私が連れてゆくかれらの様子を見に来たり、言伝を渡しに来ることも同様である。
 そう、私はいった。
 5人の筆記者を連れて、私は野原へ戻った。翌る日、私を呼ばわる主の声がした。はい、主よ、私はここにおります。そう返事した、
 主がいった。
 口を開けて、わたしが飲ませるものを飲みなさい。
 私はそれを見た。水のようだが、色は炎に似る。飲むと、心に悟りが満ち、胸は知恵で漲った。世の始まりからの森羅万象の記憶が宿った。また、5人の筆記者たちの心にも悟りが満ちた。
 私の口は疲れることなく淀みなく、世の始まりからの森羅万象を途切れることなく語った。筆記者たちは疲れた様子を見せることなく、語る端からそれを書き留めてゆく。自分たちが知らない言葉で、それを書き留めたのである。
 かれらは、昼は書いて、夜は休んだ。私は昼も夜も語り通した。そうして94巻から成る記録が完成した。
 主がいった。内24巻を聖書として公にし、ふさわしい人にもふさわしくない者にも読んで聞かせなさい。が、残る70巻については隠しておいて、民のなかでも敬虔で知恵ある人にのみこれを開示し、回覧し、渡すように。
 「これらの書物の中には、悟りの源と知恵の泉と知識の川があるからである」(エズ・ラ14:47)と、主がいった。
 私はいわれた通りのことを実行した。
 ──
 エズ・ラ14:48-50 オリエント語諸訳
 「創造の五千年後第六週の第七年に、三月と十二日。それからエズラは、すべてこれらの事どもを書き終えた後、彼と同じような人々のもとへと取り去られ連れ上られた。彼はとこしえに、いと高き方の知識の書記と呼ばれている。」

 感想
 「幻」とはいいつつ実際は、語り手エズラ/サラティエルがこれまで視た幻の記録の指示、記録の閲覧制限の指示、の2つを柱とする。それは、聖書の構築、を意味しましょう。ではなぜ、ここで主なる神は──紀元1世紀前後のユダヤ教徒に対して、聖書の記録を命じるのか。
 そこには本書が執筆された時代の雰囲気を濃く反映している、と考えます。「第4エズラ記」が書かれたとされるのは、紀元1世紀前後のことでした。つまり、第一次ユダヤ戦争がユダヤ側の敗戦に終わってまだその余韻が、記憶が、人々のなかに残っていた時期であります。
 第二神殿は焼け落ちていました。エルサレムはローマ軍に占領されていました。ユダヤ人はエルサレムを離れて各地に離散していました。なぜ神は自分の民が苦しんでいるのになにもしようとしないのか、とユダヤ教徒の誰もが(なんなら原始キリスト教団の誰彼も)疑問を抱いていました。そういう時代だったのです。
 本章で主が、エズラ/サラティエルを聖なる霊で満たして世の始まりからの森羅万象を記録させたのか。いい換えれば、第一次ユダヤ戦争によってユダヤ人の遺産というべき聖書が、律法が消失して誰も、読みたくても読めない状況が生まれていたことを、本章は図らずも暗に語っているようであります。
 主に命じられた聖書/律法の再構築作業は、逆にいえば、(旧約)聖書の構成書物の制定に大きな一歩を刻んだ作業でもあったように思われてくるのです。
 この時点ではまだ(旧約)聖書の構成書物が決定したわけではない──最終的に94巻の書物が成り、内24巻は誰にでも公開可能、残り70巻には閲覧制限を設ける、とは収載書目の未決定状態をいい換えているに他ならないでしょう。
 では、24巻が聖書であるならば、残り70巻はどのような受け取られ方になるか。旧約聖書外典、偽典、として知られる書物がこれに相当する、と考えられます。「語られざるもの」という位置附けになりましょう。
 『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』P538のコラム「ユダヤ教の正典と非正典」もこれを、ユダヤ人が伝統的に受け継いできた正典以外の書物、即ち旧約聖書外典/偽典にカテゴライズされる書物が、この70巻には含まれるのでは、としております。
 ただ留意すべきは、語り手は昼も夜も語ったけれど、書き手は昼書いて夜休んだ、なる件。最初に読んだ際も疑問に感じたところではありますが、書き手は皆斯様なスケジュールで行動したのか、交代制で語り手の語ることを書き留めたのか。後者であれば、語り手が語ったことは94巻に収まったことになりますし、前者であれば最終的に94巻となったけれど実際はそれ以上の分量が語り手の口から語られたことになりましょう──つまり、書き漏らした内容が相当にあった可能性がある、ということであります。
 然様、主の与えた聖なる霊は、語り手のみならず筆記者5人のなかにも満ちた。それゆえにかれらは自分たちが知らない言葉で記録することができた。語り手の語ることを諸国の言葉に置き換えて書いたのか、まさかとは思いますが語り手が1つのことを複数の言語で書き留めたのか、それはともかくとして、筆記者たちはそれぞれ自分たちには未知の言語、精通していない言語でそれを書き取った。それが何語であったのか、いまの研究はそのあたりをどのように説明しているのか寡聞にして存じませんが、ただこの場面を読んでいて「使徒言行録」のペスタコンテ、聖霊降臨の場面(使2:1-4)を想起させられたことをお伝えしても、一笑に付されることはないと思うのであります。
 最後に脱落部分として紹介した引用について、お話をさせてください。脱落とは正解から離れた語でありますが……。
 今日まで読んできたラテン語で訳された「エズラ記」が所謂「エズラ記(ラテン語)」ですが、これにはシリア語やエチオピア語、アラビア語、アルメニア語など「オリエント語諸訳」と一括して称されるものがあります。
 どうしてそうなったかは不明ですがそのオリエント語諸訳は「エズラ記(ラテン語)」第14章にはない第48-50節が存在する。そのくだりは「エズラ記(ラテン語)」を〆括るに相応しいのみならず、エズ・ラ14:9「あなたは人々の中から挙げられて、わたしの子と、あなたのような人々と共に、時が終わるまで暮らす」や、主なる神に認められた存在であることを願い、そうしてそれが受け入れられたことの回答になっているように読めるのです(エズ・ラ6:31-32、12:9,14:22)。この3節の有無で「第4エズラ記」の読後感や印象は大きく変わるように思えます。
 なお、上述の引用は、榊原康夫『旧約聖書続編を読む』(P302 聖恵授産所出版部 1999/04)より行いました。
 本章を以て「第4エズラ記」は終わります。明日と明後日はキリスト教文書化の際の付加部分、「第6エズラ記」になります。



 さる事あり、覚悟を固めた。わたくしは悪漢に身をやつして裏切り者の汚名を着よう。ヒトデナシになり、ロクデナシを演じよう。それがすべてを守るためゆえに。宣戦布告。「生前の誹り、死後の誉れ」はわが本懐なり。◆

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第3365日目 〈エズラ記(ラテン語)第13章;〈海から昇る人〉、〈幻の説明〉他with夢野久作「悪魔祈祷書」が最初だった。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第13章、「第六の幻」です。

 「第六の幻」
 エズ・ラ13:1-13〈海から昇る人〉
 7日目の夜であった。私はこんな夢を見た、──
 嵐によって海は荒れている。その海のなかから、天の霊と共に人が現れた。かれに見つめられた者は皆、震えあがった。かれの声を聞いた者は皆、蠟のように熔けた。
 多くの者が習合してかれに戦いを挑んだ。かれは武器も武具も持たずにかれらを撃破した。口からは火の流れのようなものを、唇からは炎の息を、舌からは稲妻の嵐を発した。それは混じりあって、かれに戦いを挑んだ者は皆、焼き滅ぼされた。灰の粉と煙の匂いだけがあとに残った。
 そのあと、様々な表情を面に浮かべた人々が、かれの許へやって来た。山から降りてきたかれが、その人たち平和な群衆を招いたのである。
 私はそら恐ろしくなって、いと高き方に祈った。曰く、──

 エズ・ラ13:14-56〈幻の説明〉
 私が倩思うに、その日まで残された人々は不孝だが、残されなかった人々はもっと不孝なのではあるまいか、と。
 「残されなかった人々は、終わりの日に備えられているものを知りながら、それに達しえないと分かって悲しみを味わうからです。しかし残された人々も、不幸なのです。というのも、この夢が示しているように、大きな危険と多くの苦しみに遭うのですから。それでも、雲のようにこの世から去って行き、終わりの日に起こることを見ないよりは、危険に遭いながらも、終わりの日に至る方が、まだましです。」(エズ・ラ13:17-20)
 これを聞いて主が、幻の解き明かしの前に私の疑問に答えてくれた。曰く、「 その時に危険をもたらす方こそ、危険に陥る人々を守り、彼らは全能者のために働き、信仰を保つ者となるだろう。だから、死んだ人々より、残された人々の方が、はるかに幸せであることを知るがよい。」(エズ・ラ13:23-24)と。
 続けて主が幻の解き証しをしてくれた。
 海のなかから天の霊と共に現れた人とは即ち、<このとき>まで取っておかれたわたしの子である。かれは、メシア、と呼ばれる。わが子はシオンの山の頂に立つ。多くの、悪しき民が徒党を組んでわが子に立ち向かうが、却って不敬虔を立証され(口からの火の流れ)、邪な思いや企ては咎められ懲らしめを与えられ(唇からの炎の息)、律法によって難なく滅ぼされてしまう(舌からの稲妻の嵐)ばかりだ。
 そのあと、様々な表情を面に浮かべた人々が、わが子の許へやって来た。かれらはアッシリアによって散らされた9の部族と半部族である。かれらは捕囚の地から離れて(「多くの異邦の民を離れて」エズ・ラ13:41」)、「人がまだだれも住んだことのないほかの地方に行こうと決心した。彼らは、それまでいた地方では守ることのできなかった掟を、そこで守りたかったのである。」(エズ・ラ13:41-42)
 かれらがユーフラテス川の向こうへ渡るとき、また渡河してこちらの岸へ戻ってくるとき、川の流れは堰き止められた。平和な群衆とは即ち、かれらのことである。
 あなたの民のなかで残された者とこの平和な群衆はやがて1つの場所に集まり、わが子によって守られる。
 ……主は、そういった。
 私は主なる神に尋ねた。
 どうして私は、海のなかから登ってきたあなたの子を見ることができたのでしょう。
 主が答えた。
 海の深いところになにがあるのか、なにが隠されているのか、誰も知ることはできない。地上の誰であろうと、海のなかのわが子と、それに付き従う者たちの姿を見ることもできない。
 しかし、聞け。これはあなたにだけ示されたのである。というのも、──
 「あなたは、自分のことを捨てて、わたしのことに専念し、わたしの律法を追い求めたからである。あなたは、自分の人生を知恵に従って整え、あなたの知性を母と呼んだ。それゆえ、わたしは、いと高き方からの報いとしてこのことを示したのである。」(エズ・ラ13:54-56)
 3日後、わたしはあなたに大切な、驚くべきことを語ろう。それが最後の、第七の幻となる。ここに留まっていよ。

 エズ・ラ13:57-58〈結び〉
 ──私はそうした。時と、時のなかで起こることすべてを支配するいと高き方を誉め讃えながら3日間、そこに留まった。

 引っ掛かるところがございます。引用した、エズ・ラ13:17-20とエズ・ラ13:23-24であります。要約すれば、残された者は不孝、残されなかった者はもっと不孝、ということ。些かなりとも引っ掛かりを覚えてしまうのです。
 では、その時(終わりの火)に偶々生きていた人々にだけ、主のいう「守り」が為されるのか。ならば寿命が尽きて疾うのむかしにこの世を去り、<その時>に出合うことができなかった人々、或いは偶然にもその直前に世を去った人々は、<その時>に居合わせること叶わなかったがゆえに守られない、その恩恵に浴すことができない、救われない、招かれない、という意味になりはしないか。
 それともそうした人々──の魂──はすべて、「陰府の部屋の中」(エズ・ラ7:95)で待機しているから特に問題ありません、ちゃんと守られるので安心してくださいね、というのか?
 いと高き方の側からすれば至極当然な、良いことを語っている、道理に則った発言でもあるのだろうが、いま一つ納得できるものではありません。首肯できぬ、腑に落ちぬ、そんな思いを抱いて読み終わる。
 さて、メシアの許に、アッシリアによって散らされたイスラエルの9部族と半部族が、集まってきたとありました。スタディ版脚注に拠るとこの失われた9の部族と半部族の伝説は、「エズラ記(ラテン語)」のこの箇所でのみ触れられており、他にこれを伝えるものはない由。
 なお、旧北王国に住まっていた氏族名を、煩を厭わずあげれば、ルベン族、シメオン族、イサカル族、ゼブルン族、マナセ族(半)、エフライム族、ダン族、アシェル族、ガド族、ナフタリ族、以上10部族。ユダ族とベニヤミン族は南王国ユダを構成する氏族であります。レビ族がないのは、元々かれらは嗣業の地を与えられず、南北の各地に散って祭祀を司る役目を担ったためでありました。
 引用はしませんでしたが、エズ・ラ13:40にはこんな文章があります。曰く、「これはかの九つの部族のことである。彼らははかつてヨシヤ王の時代に、捕囚となって祖国から連れ去られた民である」と。
 古代オリエント史文献や旧約聖書「列王記・下」、「歴代誌・下」の当該箇所を開くと、史実から外れた文章であることがすぐに確認できる。南王国ヨシヤ王の御代、既に北王国は滅亡しているのです。そのため、どうして「第4エズラ記」の著者が斯様な書き方をしたのか、どんな思惑や企図があって「ヨシヤ王の時代に」云々なる文言を綴ったのか、まるで不明であります。
 ただ、この消えた北王国の部族は今日に至るまで追跡調査されている問題でありまして、民間の調査機関に籍を置いた人による調査報告も1冊の本となり、また翻訳もされて読めるようになっております(ラビ・エリヤフ・アビハイル/鵬一輝・訳『失われたイスラエル10部族 知られざるユダヤの特務機関「アミシャーブ」の調査報告』学研 2005/08)。
 搔い摘まんで申せば、過半はシリアやインド、エジプトなど周辺地域に散らばったようですが、一部はそのまま東に進んで当時はまだ民族混成国家であった日本や、或いは中国に土着した人もあったろう、ということであります。
 こちらの勉強はまったくというてよい程着手できておりませんので、聖書再読や日々の徒然を綴る合間を縫って該書を読んだりしてみる考えでおります。



 たまには聖書にまつわるエッセイを、ここに書こうと思う。が、例によってネタがない。マダイはあるがワダイがない、という奴だ。
 それはさておき(ムリヤリ!!)、そういえば夢野久作に「悪魔祈祷書」という短編がある。古書店主が語る、聖書に見せかけた悪魔崇拝書にまつわる因縁譚だ(ぷぷ)。夢野久作初体験がこれだったのは、椎名誠・編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫 1983/09)に収められていたから。
 ネタばらしは出来ないが、これが抜群の雰囲気を持った作品で、古書店主が語る祈祷書も描写が実に現実的で、もしかすると実物を手許に置いて書いているのでは、と疑うてしまう程なのだ。それに翻弄される客人の心理描写やオチも含めて、古書ミステリの雄編として、<書痴の楽園>物として、古今に比肩するもの極めて少なし、と担がれて宜しかろう一編というてよいと思う。
 だが、どうにも困ったことに、初めて読んだということも手伝ってか、どうも本作に限っては久作の作品集で読むよりも件のアンソロジーで読む方がしっくりするのである。そういえばこの文庫、見当たらないな。売っちゃったのかな……。◆

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第3364日目 〈エズラ記(ラテン語)第10章2/2-第12章;〈鷲の幻〉他with趣味の怪談読み。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第10章2/2、第11章、第12章、「第五の幻」です。

 エズ・ラ10:60-12:3 1/2〈鷲の幻〉
 2日目の夜である。こんな夢を見た、──
 1羽の荒鷲が海から昇ってきて、瞬く間に全地をその翼の支配下に置いた。鷲には頭が3つあって微動だにせず、うち真ん中の頭は他にくらべて一際大きかったのである。また、羽の生えた翼が12,あった。その鷲が翼の下に全地を支配したのである。
 「わたしは、天の下のものすべてが、鷲に従っている有様を見た。だれも、地上にある被造物のうち一つとしてこれに逆らうものがなかった。」(エズ・ラ11:6)
 見ていると、右側から順番に羽が起きあがってきて、それぞれ全地を支配していった。1つの羽が消え失せるとすぐに次の羽が起きあがり、次々に地上の主権を行使していった。12枚の羽が消えたらば、羽と羽の間に生えた小さな逆毛の、8枚の羽がそれに代わった。しかし、その主権は長くは続かなかった。
 真ん中の一際大きな頭が、そのとき動いた。この頭は全地を制圧し、地上の人々を蹂躙したのである。が、その頭もやがて消え失せてしまい、残った頭のうち左側は右側に喰われてしまったので、地上の支配は右側にあった頭が担った──。
 そのとき、私に話しかける声がした。目の前のものをよく見、見えるものについてよく考えよ。声はそういった。私はそうした。
 すると、森のなかから1頭の獅子が現れて、中空の鷲へ咆吼して、いった。曰く、──
 「いと高き方はお前にこう言われる。『お前は、わたしが世を支配させ、わたしの時の終わりを来させるために造った四つの獣の生き残りではないか』と。お前は四番目にやって来て、それまでの獣をすべて征服し、権力を振るって世を大いに震え上がらせ、全世界をひどく苦しめ、またこれほど長い間、世に住み着いて欺いた。お前は地を裁いたが、真理によってではなかった。お前は柔和な人を苦しめ、黙している人を傷つけ、真実を語る人を憎み、うそつきを愛し、栄える者の住居を壊し、お前に何の害も及ぼさなかった人の城壁を打ち倒した。お前の非道はいと高き方に、お前の傲慢は力ある者に達した。そこでいと高き方は、御自分の定めた時を顧みられた。すると、時は終わり、世は完了していた。それゆえ、鷲よ、お前は消えうせるのだ。」(エズ・ラ11:38-45)
 お前が消え失せたらば全地は解放されて力を取り戻し、裁きと憐れみを待つことができるようになるだろう。
──と。
 見ていると、残っていた頭は消え、2枚の翼が全地を支配した。短い期間ではあったものの争乱はその間も絶えなかった。しかしやがてその翼も消えた。鷲の体全体が燃え、地はその光景に恐れ戦いた。
──そんな夢を、見た。

 エズ・ラ12:4 2/2-12:40 1/2〈幻の説明〉
 私はいと高き方へ祈った。
 私の祈りを聞いて主が、いった。曰く、──
 いまあなたが見たのは、かつてダニエルの幻に現れた第4の帝国である。ダニエルのときよりもいまの方がよりはっきりと幻は具体化している。
 翼に生えた12枚の羽根と8枚の逆毛の羽根、3つの頭がそれぞれ代わって地上の支配者となって君臨する。併せていっておくと、あの3つの頭こそが「不敬虔を繰り返し、世の終末をもたらすものである。」(エズ・ラ12:25)
 森のなかから現れた獅子について話そう。「この獅子とは、いと高き方が王たちとその不敬虔のために、終わりまで取って置かれたメシアである。彼は、王たちの不正を論証し、王たちの前に、その侮辱に満ちた行いを指摘する。
 メシアはまず、彼らを生きたまま裁きの座に立たせ、彼らの非を論証してから滅ぼす。彼は、残ったわたしの民を憐れみをもって解放する。彼らはわたしの領土で救われた者であり、メシアは終末、すなわち、裁きの日が来るまで、彼らに喜びを味わわせるであろう。」(エズ・ラ12:32-34)
 この秘密を知るに相応しいものはあなたのみ、あなた独りだけ。為、あなたはいま見たことを本に書き留め、誰もわからない場所に隠しなさい。必要あらばそれを、求める人へ教えなさい。
 あなたはあと7日間、この野原へ留まるように。あなたに示そうと考えることをそのとき、あなたに示そう。
──と、主はいった。

 エズ・ラ12:12:40 2/2-12:51〈結び〉
 ……都に帰らぬのを心配した人々が野原へやって来た。かれらは、どうして都を離れたままでいるのか、われらを見棄てるおつもりか、あなたなしでわれらはどう生きてゆけばいいのか、と口々に嘆くのであった。あなたに見棄てられるぐらいなら、シオンの大火に巻きこまれて死んだ方がマシだった、という人までいた。
 私はかれらを諫めて、こういった。曰く、──
 「イスラエルよ、信頼しなさい。ヤコブの家よ、悲しんではならない。いと高き方はあなたたちのことを覚え、力ある方は戦いの中にあるあなたたちを忘れられることはないのだ。わたしは、あなたたちを見捨てたわけでもなく、あなたたちから離れたわけでもない。わたしがここに来たのは、シオンの荒廃の赦しを願い、また、あなたたちの聖所がさげすまれたことへの憐れみを求めるためなのです。」(エズ・ラ12:46-48)
──と。だからいまは都に帰りなさい、私もじきに帰るから。
 そうしてかれらは都へ帰った。私はなお7日間、そこに留まり、野の花を食べて過ごした。

 「鷲」は本文中にもあるように、既に「ダニエル書」で啓示された幻でもあります。当該箇所の冒頭に曰く、「この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった」(ダニ7:7)と。
 但し、その「鷲」が象徴する帝国が異なる。「ダニエル書」では啓示の最後に登場した第4の獣、即ちユダヤを脅かす第4の帝国は、シリア、とも考えられましたが、本書ではそれがローマに、正式に取って代わる。「ダニエル書」はセレコウス朝シリアの台頭、就中アンティオコス・エピファネスの登場を予期して終わった。一方、本書「エズラ記(ラテン語)」はその成立を西暦100年前後とし(エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目のこと、わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。」)、当然のことながらそこで槍玉にあがる、もとい、暗喩される帝国も、時代の推移に従って変化した。即ち、成立当時ユダヤを統治していた帝政ローマがそれだ。
 時代が移って列強国の興亡が明らかとなってシリアは滅び、これまで以上の脅威として帝政ローマがイスラエル(ローマと信仰を異にするユダヤ人共同体)の前に立ちはだかった、その脅威はこれまでのなににも優るものとイスラエルには映った、というのがシリアからローアヘ上書きされた経緯であったでありましょう。
 その鷲について、描写が細かくなされます。幻ですからその形は或る程度荒唐無稽でも構わないのですが、こんな描写を読んでいると、久しぶりに黙示文学を読んでいるなぁ、と実感もするところであります。まァ、読みながらふとした拍子に、「鷲」が「キングギドラ」に脳内映像変換されて困りもしましたが。
 この鷲の、翼も羽も頭も皆すべて、アウグストゥス以下のローマ皇帝12人を指しますが、どれが誰、と照らし合わせてゆく紙幅はありませんので割愛します。3つの頭と大きな翼……。
 ただ、エズ・ラ11:13b-17がアウグストゥス帝のことであり、この初代皇帝は前39-後14年まで、実に半世紀以上にわたって共和政から帝政へ移行したローマを指揮した人物でありました(※1)。そうしてエズ・ラ11:20-21はネロ皇帝自殺後のローマ内戦(事実上の後継者争い)を、同29「じっとしていた頭のうちの一つで、真ん中のものが目を覚ました。これは他の二つよりも大きかった」は66-70年、ユダヤとローマの間で勃発した第1次ユダヤ戦争の指揮官を務めて後に第9代皇帝となったウェスパシアヌスのことを語っている。これをまずは抑えておけばじゅうぶん、と考えます。第一次ユダヤ戦争については追々、筆を新しく執ることもあるでしょう。
 ただ1つだけ疑問なのは、此度のテキストに用い、かつ同時に参考ともした『スタディ版』P535皇帝一覧にユリウス・カエサルの名があり、これを初代皇帝の如くに記述している点でありました。これについてはなんの註釈も説明書きもありません。不審であります。なお、これに関して質問のメールを投げておりますが、現時点で何の回答もないことを書き添えておきます。
 本章で他、特記しておきたいのは、エズ・ラ12:8-9に於いてサラティエル(エズラ)がようやくここで、自分がいと高き方(イスラエルの神)により、その御前に立つことが許されている人物なのであることに納得し、それゆえなのでもありましょう、かれがこのあとで呼びかけるのはもはや天使ではなく主なる神となる(※2)。これを自覚、と申さずになんといいましょう。ずっと読書を続けていると、こうした些細な変化に一喜一憂するのであります。

※1 そして次の羽が起き上がって支配し、その時代は長く続いた。しかしこの羽も支配しているうちに終わりが来て、前の羽と同様に姿を消そうとしていた。すると、見よ、声が聞こえてきて、その羽に言った。「長い間地を支配していた羽よ、聞くがよい。お前が消えうせる前に、言っておくことがある。お前の後だれも、お前ほど長い間、いや、その半分すらも支配する者はいないだろう。」
※2 あなたの僕であるわたしに、この恐ろしい幻のはっきりとした解き明かしをして、わたしの魂を十分に慰めてください。あなたはわたしを、時の終わりと終末のことを示すのに、ふさわしい者と見なしてくださったからです。



 読書嗜好の針が右から左へ、左から右へ、極端に振り切れるときがある。集中して読むことに倦いたらまるで正反対の読み物へ手を出すのは自然であろうか。他人の、そのあたりの事情を知らないからなんともいえないけれど、少なくともわたくしにはそういうことがしばしばある。
 藤沢周平から忠臣蔵は自然な流れで、聖書から流れて遠藤周作の本を寝しなに読むのもゆめ不思議なことではない。そうした読書が続くと、浮気のように別ジャンルの作物へ手を伸ばしたくなるのだ……気分転換、といえば聞こえは良いけれど。
 最近は──そう、怪談ばかりですな。通勤時の吉川英治を除けば。遠藤は最後の数ページがなかなか読めない。腰を据えて読むべき部分であるからだ。その代わりのように寝しなの読書、隙間時間の読書には、むかしのように怪談ばかり読んでいる。実話、創作、どちらも拒まず。
 先達て『猫のまぼろし、猫のまどわし』に触れたけれど、これが奥方様の目に留まるところにあったのは最近書架の中身を(一部)入れ替えたせいである。隣には『屍衣の花嫁』と『亡者会』があったはず。『文豪怪談実話』や『ゴシック名作選』、綺堂の『世界怪談名作集』もあったはずだ。多くが書架の奥から引っ張り出してきたものである。
 怪談はね、わたくしにはホームだ。聖書を読んでいようがローマ帝国史に溺れていようが、時代小説へ熱中していようと柏木如亭はじめ江戸時代の漢詩人を摘まみ読みしていようと、怪談──こわい話、気味の悪い話、ゾッとする話はわが好物、嗜好のいちばん根っこにある。つまり、義務とか世過ぎの一助ではない、趣味で読む以外の何物でもないわけだ。
 むかし読んでずっと今日まで途切れることなく継続された趣味の読書の根幹を成すのが、怪談なのだった。◆

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第3363日目 〈エズラ記(ラテン語)第9章2/2&第10章1/2;〈エズラの祈り〉他猫は嫌いだ、あっち行け。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第9章2/2と第10章1/2、「第四の幻」です。

 第四の幻
 エズ・ラ9:26-9:37〈エズラの祈り〉
 天使に命じられた通り、私は、まだ人の手が入ったことのない野原へ行き、花を食べて7日を過ごした。7日目の夜、心がまた騒いだので、いと高き方へ祈って曰く、──
 われらが祖先がエジプトを出てカナン目指して荒れ野を彷徨っているとき、主よ、あなたはかれらの前に御姿を現しました。そうして律法をお授けになった。
 が、律法を受け取ったわれらの多くは滅びた。それを守ることがなかったからです。
 その一方で律法それ自体は滅びることなく今日まで伝えられてきました。なぜか。当たり前です。それはあなたの律法なのですから。
 「律法は滅びることなく、その栄光を保ち続けるのです。」(エズ・ラ9:37)
──と。

 エズ・ラ9:38-10:24〈泣く女の幻〉
 目をあげて右手の方を見やると、女が1人、うずくまって泣いていた。
 なぜ泣いているのか、と私は訊いた。
 女が答えた。
 わたしは結婚して30年間、子供を産めない体でした。しかし或るとき妊娠し、男の子を授かりました。息子は成長して嫁をもらう年齢となり、婚姻の仕度も調いました。なのに、いよいよ寝室に入ったとき息子は倒れて、そのまま息を引き取りました。町の人々が来て慰めてくれましたが、どうにも居たたまれなくなって遂に、家を抜け出してこの野原へ来たのです。この先一生わたしはなにも食べず、なにも飲まず、死ぬまでここで嘆き、祈り続けるつもりです。
 それを聞いて、私は怒った。
 この、すっとこどっこい奴が! あンたは女のなかでいちばんの愚か者だ。われらイスラエル皆の母、シオンの嘆きを聞け。彼女は自分の子供たちを全員失った。それゆえに嘆き、悲しみ、子供たちを想うて祈っている。なのにあなたは1人の子供を亡くしたぐらいでそうまで慟哭するか。
 「初めからすべての者は大地から生じ、これからも更に生ずるであろう。しかし、見よ、ほとんどすべての者は、滅びに向かって歩み、多くの者が滅びる。そうすると、どちらの方が深く悲しまねばならないのだろうか。一人のために嘆いているあなたよりも、このように多くの人々を失った大地ではないのか。」(エズ・ラ10:10-11)
 あンたは抗弁するだろう。しかしわたしは陣痛の苦しみを耐え、出産の痛みに耐えて、わが子をこの世へ送り出したのです。その子を失ったのです。これをどうして嘆き悲しまずにいられるのか、と。大地が多くの人々を失ったのは大地の法則に則ったまでではありませんか、と。
 私は答えた。
 そうだろうか? ならば私はこういおう。「あなたが苦しみながら子を産んだように、大地もそのようにして、初めからその実である人間を、大地の創造者のために産んだのだ。それゆえ今、あなたの嘆きを自分の中に納めて、あなたにふりかかった災いを力強く受け止めなさい。もしあなたが、神の定めを正しいと認めるなら、やがて時が来て再び子を与えられ、あなたは女の中でたたえられることになるだろう。」(エズ・ラ10:14-16)
 それでもあンたは、いいえわたしはここで死にます、と抗うに違いない。私はいおう。私の言葉を聞きなさい、私のいうことに耳を傾けなさい、と。シオンの失墜に思いを馳せ、エルサレムの痛みを思ってあンたの心の慰みとなさい。
 あンたも知っているだろう。エルサレムが如何に荒れ果てた都となったかを。至聖所は汚され、祭壇は打ち砕かれ、神殿は破壊された。神殿に満ちていた音楽、人の声、芳香、いずれも耐えてしまった。レビ人は捕虜となり、祭司は殺され、義人は連行されていった。幼子は捨てられ、若者は奴隷となり、強き者は弱き者となった。
 それ以上に最悪なのは、シオンに与えられていた証印のことである。神の栄光はシオンから取り除かれ、われらを憎む者の手に委ねられてしまった。
 こうした次第であるから、あンたは自分1人の悲しみをそれ程大きなものとは考えず、あンたの心からその悲しみを取り除くが良い。そうすれば神は再びあンたを顧みて、苦労をねぎらい、祝福をお授けくださることだろうよ。
 私は泣く女に、そういった。

 エズ・ラ10:25-10:59〈幻の説明〉
 すると、どうしたことか。うずくまって泣いていた女の顔が輝きはじめ、その姿は建設中の都の土台へ変貌した。私はすっかり怖くなって、天使ウリエルの名を呼んだ。
 すると、どうだろう。果たして天使ウリエルが私の前に現れて、いま見た光景の説き明かしをしてくれた。曰く、──
 お前が見て叱責して諭した女性こそがシオンである。女性は30年間子供を産めなかった、といったが、それはシオンに人が入植するまでの3,000年を意味するものである。ソロモン王が神殿を建設して奉献したことを以て子供が生まれたという。成長して子供が死んだ、とは、シオンが、エルサレムが、陥落したことを意味している。
 いと高き方はいま、お前にシオンの輝かしき姿を見せた。お前がシオンを想って泣き、祈ったからに他ならない。「いと高き方はあなたに多くの奥義を示されたのだ」(エズ・ラ10:38)
 お前はいま、幸いだ。他の多くの人々よりも、幸いである。お前は御許に呼ばれている人なのだから。
 ──明日の夜までここに留まっていなさい。そうすれば、いと高き方がこの世の終わりにしようと計画していることを、夢のなかの幻に見るだろう。

 信仰と律法は相対立する。〈エズラの祈り〉就中エズ・ラ9:32-37を読んでいると、そう強く感じます。
 主の律法なるがゆえにそれは不滅で、律法を与えられた人々の側に律法を守る心がなかったために却ってその人たちの方が滅びてしまった。それが「理」である。件の箇所が述べるのは、そういうことであります。
 では律法を守り、神の目に正しいと映る行いをして、生活をしてきた人みなが(終わりの時/裁きの日に)救われれるのか? 律法を守って義人とされる人でも救われない場合があるのなら、それに背を向けて現世の享楽、欲望充足に走る者が出てもふしぎではないのでは?
 ならば律法とは何物か。なぜ律法は神の定めたものであるのに、強制ともいえる立ち帰りの機能を有しないのか。
 このことは特にここでのみの問題提起ではなく、「創世記」の時代からイエスの処刑、その後の使徒やパウロたちの活動を経て、今日に至るまで教会や信徒たちの信仰の土壌に根ざして今後もゆめ解決することなき問題であろう、と思います。
 思い起こすべきは旧約聖書の神は<怒りの神>、<非情の神>である、ということであります。けっしてサラティエルがいうような憐れみの神、慈しみの神などではあるまいに……。



 猫嫌いの夫の蔵書に猫怪談アンソロジーがあるのを、奥方様がふしぎそうに見ている。東雅夫編『猫のまぼろし、猫のまどわし』(創元推理文庫 2018/08)、どうして買ったのか、わたくしもわからん。だって猫だぜ、猫。天敵じゃ。
 猫。鍋島の化猫騒動、TVドラマにも映画にも、アニメにもなった。彷徨いこんだ旅人が化猫にお湯をかけられて、かかった部分が猫になってしまうのは、なんというタイトルのものであったか。ちょっと思い出せない。耳まで裂けた口、つり上がったあの独特の目! 夜中に思い出したら眠れない。
 それが結構怖い作品だった記憶はしっかり残っている。猫嫌いの原因は他にもあるが、わが<アンチ・猫>のいちばんの根っこはおそらく、映像で観た化猫のおぞましさ、執念深さ、であったろう。否、猫は化けてあろうがなかろうが、執念深くておぞましい生き物だ。思い出しただけでも背筋が震える。若者よ、猫を苛めることなかれ。猫と遊ぶな、子供たち。
 まァ、いろいろな経緯があり、わたくしの猫嫌いは筋金入りである。道ですれ違うのも厭だ。ちょっとでも目が合ったら小さく叫んでしまう。夜中にどこからか猫の甘える声が聞こえても、卒倒しそうになる。猫をテーマにしたアンソロジーなど手にするのも怖い。いや、以ての外だ。
 それでいて、ポオも朔太郎も好みなんだから救い難い。上述のアンソロジーを柄にもなく購入したのは、朔太郎「猫町」に因んでブラックウッドと乱歩、珍しいところでつげ義春の作品が目次に並べ立てられていたことが、たぶん原因なのではないかな、と思う。池田蕉園「ああしんど」と上原虎重「佐賀の夜桜怪猫伝とその渡英」が初めての作家で、これらの作品も読んでいて面白かった。
 奥方様のご実家では猫を飼っている。で、この猫がわたくしに懐いたらしく覗うたびにすり寄ってくるのだ。膝のうえで丸くなって寝始められた日には、どうにかしてこれを遠島に追っ払いたくてソワソワしてしまう。が、奴は気持ちよさそうに眠っている。どうにかしてくれ、この生物。
 ボクハケッシテ猫ニ踊ラサレタリシナイ。猫ハ天敵ダ。犬の方がずっと好い。大型犬なら尚。◆


猫のまぼろし、猫のまどわし (創元推理文庫)

猫のまぼろし、猫のまどわし (創元推理文庫)

  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2018/08/10
  • メディア: 文庫




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第3362日目 〈エズラ記(ラテン語)第7章2/2-第9章1/2;〈代願の不可能なこと〉他withBrand new days, (つぶやき・なう)〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第7章2/2、第8章並びに第9章1/2、「第三の幻」2/2です。

 エズ・ラ7:102-115〈代願の不可能なこと〉
 私は問うた、代願は可能か、と。
 裁きの日、その日のために義人は、不敬虔な者たちのために執り成しをすることができるでしょか。かれらに代わって、かれらが救われる道が用意されるよう祈り、願うことはできるでしょうか。
 天使が答えてそれに曰く、否、と。
 誰かが誰かのために赦しを請うことは、けっしてできない。誰もが己の不正な行い、正しい行いの責任を持たねばならぬからだ。
 私は問うた。
 モーセ以来預言者や為政者は皆、自分のためではなく、他の者たちのために祈ってきました。「滅びる者がはびこり、不正が増し加わっている今、義人たちが不敬虔な人たちのため祈っているのに、どうしてあの裁きの日には、それができないのでしょうか。」(エズ・ラ7:111)
 天使が答えた。
 いまの世はいまを生きる人たちのためにあり、従って到達点に非ざるためである。神の栄光はいまの世にのみ留まるものではない。モーセ以来の預言者や為政者はいまの世を生きる弱き者らのために祈ったのである。
 「裁きの日はこの世の終わりであり、来るべき不死の時代の始まりとなる。その時には、腐敗はもはやなくなる。放縦は解消し、不信仰は断たれ、正義が成長し、真理が現れる。だからその時、だれも、裁きに敗れた者を憐れむことはないし、勝った者を滅ぼすこともできないのである。」(エズ・ラ7:113-115)

 エズ・ラ7:116-8:14〈救われる人は少ない〉
 私はいった。神よ、焉んぞアダムをば造り給ふや、と。
 アダムの堕落は即ちわれらの堕落。アダムが罪を犯したばかりにわれらも罪を纏う者となってしまった。われらが背負うのは、生きていれば悲しみ、死ねば刑罰。不死の世の約束がどれ程の慰めとなりましょう。われらは最も邪悪な道を歩み、楽園へ辿り着くことも叶わない。この世に生きて不正を働き不義に明け暮れているときは、死後に待ち構える苦しみのことなどなにも考えなかった……。
 天使がいった。
 地上に生きる人間は人生の戦いについてとく心を留めよ。戦いに負ける者は苦しみを受ける。戦いに勝つ者は神から恩寵を授けられる。
 私は訴えた。
 私は、神なる主が「裁き主」と呼ばれることを知っている。「もし、御言葉によって造られた人々を赦さず、多くの罪を消してくださらなかったら、恐らく、数えきれないほどの人の群れの中で、ごくわずかの人々しか生き残れないでしょう。」(エズ・ラ7:139)
 天使が答えた。
 いと高き方はこの世を多くの人々のために造った。しかし来たるべき世はわずかな人のために造られている。この世に生きるため造られた人は余りに多く、来たるべき世へ入るため造られた人は実に少ない。
 ──
 私は嘆願した。
 「どうか、わたしたちに心の種を与え、そしてわたしたちの知性を耕して実を結ばせてください。そうすれば、朽ちるべきすべての者が人としての場を得て、生きることができるでしょう。」(エズ・ラ8:6)
 神よ、あなたは母となる女の胎に人を与えて、これを守らせた。産声をあげて後は母の乳によって育てられる。「その後あなたは、その子に憐れみをかけ、あなたの正しさではぐくみ、あなたの律法で教育し、あなたの知恵で戒められました。
 それをあなたは、御自分が造られたものであるがゆえに死なせたり、御自分の作品であるがゆえに生かしたりされるのです。あなたの命令に従い、これほどの苦労によって形づくられたものを、簡単なひと言で滅ぼされるなら、何のためにそれをお造りになったのでしょうか。」(エズ・ラ8:11-14)
 私は自分のために、イスラエルのために、祈った。
 「主よ、この僕の祈りを聞き入れてください。あなたがお造りになった者の祈りに耳を傾け、わたしの言葉に御心を向けてください。わたしは生きるかぎりあなたに語り、わたしに分かるかぎりお答えします。」(エズ・ラ8:24-25)
 「わたしたちもわたしたちの父祖たちも死をもたらす生き方をしてきましたが、あなたは、罪人であるわたしたちのゆえに憐れみ深い方と呼ばれるのです。もし、あなたがわたしたちを憐れむことを望まれるのでしたら、正しい業を行わないわたしたちを憐れんでこそ、あなたは憐れみ深い方と呼ばれるでしょう。正しい人たちは、あなたのもとにたくさんの業を蓄えており、自分たちの業のゆえに報いを受けるからです。」(エズ・ラ8:31-33)
 「実際には、生まれてきた人の中で不敬虔なふるまいをしなかった者は一人もいません。信仰を告白する人の中にさえ、罪を犯さなかった人はいません。主よ、よい業を蓄えていない人々をあなたが憐れまれてこそ、あなたの正しさと善良さとが、宣べ伝えられるでしょう。」(エズ・ラ8:35-36)

 エズ・ラ8:37-9:13〈終末について〉
 天使がいった。
 わたしは義人あることを喜ぶとしよう。農夫が畑に蒔いた種のすべてが実を結ばないのと同じように、この世の人々すべてが救われるわけでもないのだからな。
 私はいった。
 農夫が畑に蒔く種と神が御自分の似姿として造った人間を一緒にしますか。あなたの民を惜しみ、あなたの世継ぎの民を憐れんだりはしないのですか。
 天使が答えた。
 いま在るものはいまの世の人のためにあり、将来のものは将来の人のために在る。お前は「私たち」というが、自分を不正不義を働く衆の一員と思うてはならない。
 「この世に住む人々は、おごり高ぶって歩んでいたので、終わりの時には、多くの悲惨な目に遭うであろう。しかしあなたは自分のことをよく考え、自分と同じような人々の受ける栄光について思い巡らしなさい。あなたたちには楽園が開かれており、生命の木が植えられ、来るべき時が備えられて、豊かな富が用意されており、都が建てられ、安らぎが保障されており、恵みが全きものとなり、完全な知恵が与えられる。
 悪の根は、あなたたちに近づかないように封じられ、病は消え去り、死は姿を隠し、地獄は遠ざかり、腐敗は忘れ去られる。悲しみは過ぎ去って、最後に不滅の宝が示される。
 それゆえ、滅びる者が多いことについて尋ねるのは、もうやめなさい。
 彼らは自由を与えられていながら、いと高き方を侮り、律法を軽蔑し、その道を捨てたのである。その上、彼らは義人を踏みにじった。そして心の中で、神はいないと言った。こんなことをすれば死ぬと知っていながらである。前もって話しておいたことがあなたたちを待ち受けているように、彼らには、用意された渇きと懲らしめが待ち構えている。いと高き方が人の滅びを望まれたのではなく、造られた人々自らが、自分たちをお造りになった方の名を汚し、今の命を与えてくださった方の恩を忘れたのである。それゆえ、わたしの裁きは間近い。
 わたしはこのことをすべての人に示すのではなく、あなたとあなたと同じようなわずかの人々にだけ示したのである。」(エズ・ラ8:50-62)
 ──
 私は尋ねた。
 終わりの時はいつ訪れるか。
 天使が答えた。
 いつも自分のまわりに目を向け、注意を払っていなさい。変化の兆しがあるのを見逃さないようにしていなさい。
 「この世の出来事はすべて、始まりは終わりによって明らかになり、終わりがすべてを明らかにするが、いと高き方の時もこれと同じであって、その始まりは前兆と力ある業において明らかにされ、終わりは行いとしるしにおいて明らかになる。」(エズ・ラ9:5-6)
 そのとき、救われた者、神の怒りから逃れ得た人々は皆、危難を免れて、「永遠の昔から聖別しておいたわたしの血と領域で救いを見るだろう」(エズ・ラ9:8)
 勿論、神を蔑ろにし、律法を蔑んだ者は懲らしめられ、救いに与ることも聖別された地を見ることもできない。

 エズ・ラ9:14-25〈結び〉
 私はいった。
 何度でも申しあげます。しかし、救われる人の方が滅びる者よりも遙かに少ないのだ、という明白な事実を。
 天使が答えた。
 この世界に人間が造られたとき、なにが不足するわけでもない食卓と究め難い法則が整えられていたが、人々は堕落した。いと高き方は嘆き悲しまれた;この世は滅び、イスラエルは危険に曝されていた。それゆえに正しい人たちが救われる策を講じた。神はブドウの房から1粒の実を救い、大きな森から1本の木を救うだけである。
 「だから、理由もなく生まれてきた多くの人々は滅びるがよい。わたしの一粒のぶどうの実とわたしの一本の木が救われればよいのだ。わたしが大変な苦労をしてこれを完成させたのであるから。」(エズ・ラ9:22)
 ──
 天使が私に、続けていった。
 これより後7日間、花咲き乱れる未開の野原で花を食べて過ごし、絶えずいと高き方へ祈れ。そのときわたしはまた、お前と語らおう。

 「第三の幻」はここで終わる。しかし、このあと、天使/いと高き方が視せる幻はだんだんと具体的な姿を想起させるそれになってゆきます。これは昔からいわれているように、至高の存在がサラティエルに段階を踏んでだんだんと幻の核心に迫って行ってみせている、と受け取ってよろしかろうと思います。
 ここで申しあげておきたいのは、もし読者諸兄が本ブログを契機に「エズラ記(ラテン語)」を読むことがあれば、その際は是非続けて「ダニエル書」にも(改めて)目を通してほしい、という願いであります。「エズラ記(ラテン語)」で至高の存在が視せる幻は「ダニエル書」でダニエルが視せられた幻と重なる部分があり、またそれが時代を下った「エズラ記(ラテン語)」とくらべるとまだ輪郭の模糊とした幻であることを知っていただきたい、確認していただきたい一念からに他なりません。再読を要することになった「一マカ」と「エズ・ラ」がいずれも「ダニエル書」と関わりを持つ書物であったことは、面白い暗合であるな、と感じ入る次第であります。
 さて、今日読んだ第7章2/2、第8章、第9章1/2で重視すべきであろう点は、やはり最初の〈代願の不可能なこと〉でしょうか。しかしわたくしはむしろ、そのあとに続くアダムの犯した罪について述べた箇所で立ち止まって、考えてしまう。
 正直なところ、〈代願の不可能なこと〉はきちんと読めばすぐに納得できよう部分でありましょう……。ただ1つだけ、お話すべきことあるとすれば、かつてカトリック教会が使っておりその後も10世紀の長きにわたって用いられた「エズラ記(ラテン語)」(9世紀のサンゲルマネンシス写本)には、〈代願の不可能なこと〉を含む第7章第36節から同106節までが脱落していたこと、でありましょうか。ここに欠落した部分があったことは1874年に、同じ9世紀に書き写されたアムビアネンシス写本が発見されるまで知られていなかったそうであります。どうしてサンゲルマネンシス写本に斯様な脱落があったか、といえば、脱落部分に中世のカトリック教会が認めていた「代願の肯定」がはっきりと否定されていたからだろう、とは榊原康夫『旧約聖書続編を読む』にある指摘であります(P305-306 聖恵授産所出版部 1999/04)。
 知恵の実を食べたことでアダムは罪人として裁かれ、エデンから追放されて地を彷徨った。額に汗して労働せねば生きられぬ身ともなった。ゆえにアダムの子孫である人間は皆、母の胎より産まれる前から罪を負った存在として生きることを運命附けられている──。「性悪説」とは古代中国は荀子の唱えた倫理思想の根幹であります。これをキリスト教で正確になんというのか、不勉強もあってわたくしは知りませんが、ユダヤ教、キリスト教が、人は皆アダムの罪を背負って生まれてくるのだ、と考えているならば、やはりこれも性悪説というべきでありましょう。
 となれば人は不正不義を働くことが飾り気のない、そのままの姿であり、却って律法に従って生きたり神の目に正しいと映ることに勤しんで生きることは<意思>の力を必要とする、けっして自然とは言い難い姿なのだ、ということもできようかと思います。為、繰り返し繰り返し、背くな、従え/守れ、と善き人は叫び続けたのでありましょう。性悪説はやはりアダムの罪に始まり、それは敬虔なるユダヤ教徒やキリスト者にしてみれば、われらには想像できない程の重荷として課せられた罪であったのだろう、と想像できます。この罪の意識が強固になってかれらの、メシアを期待する気持ち、思想へつながっていったのかもしれません。そんな風にわたくしは考えております。
 ただ、人間の側から罪の意識を伴って考えればそうなるのでしょうが、考え様によっては、神があのとき知恵の実あることをアダムに伝えなければ、このようなことにはならなかったのではないか。アダムが罪を犯したから人は罪の存在になったのだ、ではなく、神が知恵の実のことを語ってしまったからこんな事態が出来したのだ、という方が事実に余程近いと思うのですが……まぁ、それをいい始めたらキリがありませんね。
 引用もしたエズ・ラ9:22は一言でまとめれば、義人を残して他は滅ぼしますね、という意味です。もう少しミもフタもないいい方をすると、いと高き方、神がウリエルに託したのは、もはや世も世界も人も自分の手に負えなくなったから/自分でコントロールできなくなったから/自分が望む姿でなくなってきているから、イエス・マンの義人だけ残してそうでない人たちは滅ぼしてしまおう、という神の、神による、神のための強制リセット、然る後の再起動、であります。これを責任逃れ、一切合財をチャラにする、というても然程間違ってはいないでしょう。「創世記」でノアたちが経験した一斉粛正がもっと大きな規模で再び実行されるのが、ここでいう「理由もなく生まれてきた多くの人々は滅びるがよい。わたしの一粒のぶどうの実とわたしの一本の木が救われればよい」であります……。なんと、まぁ。言葉が過ぎたかもしれません。が、とどのつまりそういうことですよね、サラティエルの神様?
 本書は黙示文学でありますが、だからというて深刻にその幻に囚われて読む必要はない、寧ろ至高の存在が、要するになにをしようとしているのか、を摑むことの方が大事である、とわたくしは考えます。幻の内容について云々するのは、そのあとで良いと思います。むろん、これがユダヤ教徒、キリスト者であれば話は別の方向へ行くのでしょうが、わたくしはそうではありませんので。
 これで「第三の幻」は終わります。



 昨日のこと;おかえり、お姫さま。おかえり、奥方様。さぁ、新しい生活の始まりだ。◆

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第3361日目 〈エズラ記(ラテン語)第6章2/2、第7章1/2;〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉他withあなたといっしょに暮らす夢を見た。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第6章2/2と第7章1/2、「第三の幻」1/2です。

 第三の幻
 エズ・ラ6:35-59〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉
 7日の断食が終わって8日目の夜、私は問いかけた。
 神よ、あなたは7日にわたって天地を想像し、闇と光を分け、陸と海を分け、生物を造り、人間を創造した。いずれもあなたが選んだ民のため、という。
 ならばどうして取るに足りぬ存在であるはずの諸国民にあなたの民の命運を握らせたのか。われらはこの世を相続することはできないのでしょうか。こんな状況が果たしていつまで続くのでしょう。

 エズ・ラ7:1-44〈天使の答え──裁きと相応の報い〉
 以前と同じように天使ウリエルが現れて、こういった。
 この世の出入り口は狭く、険しく、悲しみにあふれ、労苦の満ちたものである。が、大いなる世の入口は広く、安全だ。生きている者はこの狭い門を通らないとあらかじめ備えられていたものを受け取ることができない。
 なぜお前は心を痛めるのか。なぜ動揺するのか。「なぜ、今あるものにだけ心を留めて将来のものに心を留めないのか。」(エズ・ラ7:16)
 私は答えた。
 律法では、不敬虔な者は滅びる、と定められています。敬虔な人、つまり正しい人は絶えず広い所を希望しながら、狭い場所で耐えています。一方で不敬虔な人は狭さに苦しみ、広い所を見ることはどんなに希望しても叶えられません。
 天使がいった。
 お前は主に優る裁き手でもなければ、賢くもない。そうして、──
 「人々に与えられた神の律法が軽んじられるくらいなら、今いる多くの人々が滅びる方がましである。主は、人々がこの世に生まれて来る度に、どうしたら生き永らえるか、何を守れば罰せられないで済むかを、諭された。しかし人々は言うことを聞かず、主に逆らい、自分勝手にむなしいことを考え出し、邪悪な欺きを企てた。そしていと高き方は存在しないと豪語し、その道を認めなかった。また、律法を軽んじ、契約を拒み、その戒めに忠実でなく、いと高き方の御業を行わなかった。このゆえに、エズラよ、むなしい者にはむなしいものが与えられ、豊かな人々には豊かなものが与えられるのである。」(エズ・ラ7:20-25)
 終わりの時が来たらそのとき、悪から救われた人々は新しい世界の訪れを見ることができる。
 「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ。そして世は、初めのときのように、七日間、太古の静寂に戻り、一人も生き残ってはいない。七日間が過ぎたとき、まだ目覚めていない世は揺り起こされて、朽ちるべき世界は滅びる。大地は地中に眠る人々を地上に返し、塵はその中に黙して住んでいる人々を戻し、陰府の部屋はそこに預けられていた魂を外に出す。そしていと高き方が、裁きの座に姿を現す。もはや憐れみはなく、寛大さは跡形もない。そこには裁きあるのみである。真理は立ち、信仰は力を得る。」(エズ・ラ7:28-34)
 「(裁きの日には)太陽も月も星もなく、雲も雷も稲妻もなく、風も水も大気もなく、闇も夕暮れも朝もない。また、夏も春も暑さもなく、冬も霜も寒さもなく、雹も雨も露もない。真昼も夜も夜明けもなく、きらめきも、明るさも、光もない。ただあるのはいと高き方の栄光の輝きのみであり、この輝きによって、人は皆、自分の目の前にあるものを見る。その期間は七年である。」(エズ・ラ7:39-43)
 これが神による裁きである。わたしはお前にだけこれを伝える。

 エズ・ラ7:45-61〈救われる人の多少について〉
 わたしは尋ねた。
 いったいどれだけの人が罪を犯さず、契約を守り通せるのでしょうか。来たるべき世に喜びを感じるのはごく一握りの人々だけで、その他大勢には懲らしめが用意されています。基本的にわれらの心のなかには悪の種子が芽吹き、成長し、いつしか腐敗してしまう。われらには死への旅路、滅びへの道が用意されています。これが圧倒多数の人の行く末です。
 天使が答えた。
 手に入れにくい価値あるものを持つ人は、いつでもすぐ手に入るものを持つ者よりも大きな喜びに与る。神は御自分の創造した世界に、たとい数は少なくとも救われる人のあることを喜ぶ。かれらは神の栄光を優先し、その御名を讃えるからである。神は滅びに至る多くの者のことを顧みたり、嘆いたりはしない。

 エズ・ラ7:62-77〈裁きの必然性〉
 私は嘆いた。
 もし他の被造物同様、知性が塵から生まれたのならば、塵が生まれぬ方が良かったのではないか。塵から生まれた知性が成長するにつれてわれらの苦しみも増し、やがて滅びることを定められたのだから。救いの約束がいったい、なにになるというのか。生まれた人々は皆、過ちを犯し、その重荷を背負って生きてゆくのだから。
 天使が答えた。
 神はアダムを造る前から裁きとそれにかかわる事柄を定めていた。人は懲らしめられる。戒めを守らず、律法を蔑ろにしたためではないか。神が長い時間、不義の人々の行いに耐えていたのは、あらかじめ定められた時が満ちるまで待つためなのだ。
 私は尋ねた。
 どんなタイミングであってもわれらが魂を返したらば、裁きの日までその魂は安らぎのなかで守られるのでしょうか。
 天使がいった。
 お前は自分が不義の人々であるかのように感じているが、そのようなことはない。お前の行いは天に蓄えられている。が、終末の時にならぬとお前は天に積んだその宝を見ることができない。

 エズ・ラ7:78-101〈死後の霊のたどる道〉
 死についての話をしよう、と天使がいった。
 死者の霊は造った方の許へ帰る。その霊がいと高き方の道を軽んじたか、守ったかで、辿る道は異なる。わかりやすく説明しよう。
 いと高き方の道を軽んじた者とは、律法を軽蔑し、神を畏れ敬う人を憎み、神の目に悪と映る行いに耽り、神の定めた道から外れて生きた者たちのことである。かれらは安らぎの場所を見附けることも、そこへ辿り着くこともできず、ただ苦しみのなかで嘆き悲しむことになる。かれらは7つの道を彷徨い歩くことになる。即ち、──
 第1の道;律法を軽視した者のために準備された道。
 第2の道;生きるための悔い改めが不可能な者のための道。
 第3の道;契約を善く守った人が報われる様子を見せつけられる道。
 第4の道;終わりの時に受ける懲らしめを想起させる道。
 第5の道;「他の人々の住まいが天使たちによって守られて深い静けさに包まれているのを見せつけられる」(エズ・ラ7:85)道。
 第6の道;自分たちのお仲間の誰かが奈落へ突き落とされる道。
 第7の道;神の栄光の前に衰え、萎えてしまう道。「彼らは生きていたときには、この方の前で罪を犯したのであり、終わりの時には、この方の前で裁かれるのである。」(エズ・ラ7:87)これはどの道よりも、不義者には辛い道となる。
──以上。
 では、いと高き方の契約を善く守った人とは、どのような人か。いうまでもない。神の目に正しいと映る振る舞いをし、生活を守り、神へ至る道を一歩も踏み外すことなく歩んだ人である。
 かれらの体からも、死んだ際は霊が離れる。生前のかれらは苦労して神に仕え、これを敬い、律法を守るためあらゆる危険を冒した(危険に見舞われた)。神はかれらを見ていた。かれらは7つの段階を経て安らぎを得る。
 第1段階;悪に抗い、悪に打ち克つための戦いの末、苦労して摑んだ勝利。
 第2段階;不敬虔な人の魂が行き処なく彷徨う様を見、用意された罰を眺める。
 第3段階;生前、律法を遵守したことが証言される。
 第4段階;「陰府の部屋の中で、天使たちに守られて、深い静けさの中に集まって味わう安らぎと、終わりの時に自分たちを待ち受けている栄光とを知る。」(エズ・ラ7:95)
 第5段階;不義の者、不敬虔な者らとは違って朽ちゆくものから逃れ、相続財産を受け継ぐことが決まったことを喜ぶ。また、窮屈で労苦に満ちた浮世から救い出され、いまや不死となったことを喜び、ゆとりを得る。
 第6段階;太陽の如く顔が輝き、星の光の如き存在となったことを知る。
 第7段階;これまでのどの段階にも優って偉大な段階、「ここでは、人は安心して喜び、信頼して迷うことなく、恐れることなく喜びを味わう。彼らは、生前に仕えた方、やがてその栄光にあずかり、報いをいただくその方の御顔を見に急ぐ。」(エズ・ラ7:98)
 ──
 これらのことを聞いて私は天使に、確認の意味を込めて尋ねた。
 では人の魂は体を離れたあと、いま仰ったような道を歩くなり段階を踏んでゆくなりするのですね?
 天使が答えた。
 然様、かれらには7日間の猶予が与えられる。先程の道もしくは段階をその7日の間に見て後、それぞれの住まいへ集められることになる。

 エズ・ラ6:35にふしぎな一説が出てまいります。曰く、「以前と同じように七日間の断食を行った。言われたとおり三週間続けるつもりだった」と。断食期間として設けられた7日間はまだわかるのです、エズ・ラ6:31で天使がそう命じておりますから。しかし、3週間続けるつもりであった、とは、はて面妖な。いったい誰に、そういわれたのか。「エズラ記(ラテン語)」本文をどう探しても、どう読んでも、該当する文言は見附けられません。
 では、なにか典拠があるのか。参考になりそうな本を何冊か開いてみましたが、解答はありませんでした。そもそれに触れた本すらなかった。既になにかしらの見解が出た一件であるのか、そんな重箱の隅を突くような件は取りあげる価値もないと捨て置かれているのか……。
 直前に脱落した文章があったのかもしれない、経緯はどうあれ当該部分は加筆されたのかもしれない、など考えてしまいますが、どうにも解決の糸口が見附けられない状態でこの問題は脇に押しやるより他なさそうです。
 ここでいちばん問題になるのは寧ろ、エズ・ラ7:28-29「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ」でありましょう。イエスとキリスト、という固有名詞がユダヤ教文書のなかにある点に疑問を感じるのです。いずれもキリスト教の呼び名であり、ユダヤ教文書である「エズラ記(ラテン語)」本文にそれがあるのは可笑しい、ということであります。
 〈前夜〉でわたくしは、本書の最初の2章と最後の2章は「エズラ記(ラテン語)」がキリスト教文書として取りこまれる際、キリスト教者が加えた部分とされている旨申しあげました。これは推測の域を出ませんが第7章の件の箇所もその折、斯く書き換えられたのではないか、といわれております。正直なところ、わたくしもその意見に異を唱えることなく与する者であります。おそらくそこには本来、「メシア」と書かれていたのではないでしょうか。ユダヤ教もメシア到来を信じる土壌がありましたから、それを記した文章が「エズラ記(ラテン語)」にあってもなんのふしぎはない。
 固有名詞がもし本当にキリスト者によって書き換えられたならば、他の本文にも多少なりとも加筆や書き換えがあった、と考えてしまうのは無理からぬところでありましょう。
 エズ・ラ7:12-14の「狭い門から」云々はその伝で行けば、マタ7:13とルカ13:24に載る有名な一節に辿り着きましょう(マタ「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としてそこから入る者が多い」、ルカ「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」)。
 ほかの部分でも本書と新約聖書文書の内容や思想が響き合うところは散見され、実際、パウロ神学との関係を見なくてはならぬ箇所も出てまいります(エズ・ラ5:41など)。改めて旧約聖書の名を冠する続編(外典、偽典)だからとて新約聖書に収まる文書よりも以前に成立しているわけではない、という最大の前提を忘れてはならない、と思います。
 「エズラ記(ラテン語)」──第4エズラ記の成立は第一次ユダヤ戦争が集結した70年から30年が経過した西暦100年前後とされます。この頃には共観福音書も完成が視野に入ってきた時分とされますから、両者の影響関係がこのような形で現れたとしても可笑しくはないでしょう。
 いずれにせよこの時代、既にどれだけローマ帝国内へキリスト教が浸透して、後の国教化を実現させる下準備が為されていたか、を考える切り口になる筈であります。



 昨夜、あなたの夢を見た。いっしょに暮らしている夢だ。
 そこにはもう1人、いた。誰なのかわからない。しかし、皆そこにいた。
 どうか現実の光景となりますように。未来をください。いつまでも一緒にいられる未来を。
 もう痛めつけられて苦しむのは終わりにしたい。独りぼっちは厭ですよ。◆

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第3360日目 〈エズラ記(ラテン語)第5章;〈終末のしるし〉、〈エズラの問い──選びと苦悩について〉他with140字で宇宙を作り出すのは難しい。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第5章と第6章1/2、「第一の幻」3/3及び「第二の幻」です。

 エズ・ラ5:1-13〈終末のしるし〉
 その日が来たら、と天使がいった。
 その日が来たら、人々の心は恐怖に囚われ、真実は隠され、不義が全地にはびこる。お前が見る国々はいまでこそ世界の覇者の地位にあるが、やがて乱れて町は廃墟となり、終いにはその国土は荒れ野となる。
 しかし、神がお許しになりお前が生き永らえられるならば、その3日後に天変地異が起こるのを見るだろう。誰も望まぬ者が支配者となり、口を開いた深淵から炎が湧きあがる。身重の女はこの世のものならざるを生み、人々はいがみあって殺しあう。星は軌道を外れてゆく。分別は隠れる、知性は姿をくらます。何人もそれを探し出せない。
 「人々は望んでも得られず、働いても道は整えられない。」(エズ・ラ5:12)
 いまのお前に見せられるのはここまでだ。もし7日間の断食をお前が実行したらばその暁には、もっと別の、もう一段進んだしるしを見せることもできるだろう。
 天使ウリエルは私にそういった。

 エズ・ラ5:14-20〈結び〉
 目覚めると、全身がすっかり萎えていた。魂もひどく怯えていた。私の魂はこれ程に怯懦であったろうか。それでも天使は私のところへ来て、私を励ましてくれたのである。
 2日目の夜。ファルティエル、という民のリーダーが来て、いった。どこに居られたのですか、なぜそんな悲しそうな顔をしているのですか、と。この強制移住の地でわれらイスラエルの民はあなたに委ねられているのですよ。そのことをお忘れか。
 私はかれにいった。これから7日間、私に近寄ってはならない、と。
 ファルティエルは去った。
 私は泣きながら、7日間の断食を実行した。

 第二の幻
 エズ・ラ5:21-30〈エズラの問い──選びと苦悩について〉
 7日が経った。私は再びひどく悩んでいた。わが魂は理解力を取り戻していたので、天使ウリエルに再度尋ねた。
 どうして主なる神は御自分が選んだ民を、御自分の約束に背を向けた蛮族どもに渡したのでしょうか。主はイスラエルを憎んでおられるのか、ならば御自分の民として、地上の数多の民から1つの民を選んだのはなぜなのか、それが私にはわからないのです。

 エズ・ラ5:31-40〈天使の答え〉
 天使がいった。
 お前が主よりもイスラエルを想い、来し方行く末に悩むのか。
 私は答えた。
 否、悲しみのあまり申しあげた次第です。主の道を想い、その裁きの一端なりとも究めようとするといつも、私の魂は痛み、怯懦になるのです。
 天使が問うた。
 未だこの世に生まれて来ぬ人の数を数え、枯れ野に緑を育て、陰府の扉を開けてみよ。お前はこれらのどれ1つとして成し遂げることができない。「同じように、わたしの裁きや、わたしが自分の民に約束した愛の目的をも究めることはできないのだ。」(エズラ5:40)

 エズ・ラ5:41-49〈被造物の継起性と終末の裁き〉
 私は尋ねた。
 私以前の人々は勿論、私や、私のすぐあとに生まれる人々は、時の終わりに居合わせることができません。どうしたらよいでしょう。
 天使がこう答えた。
 皆が時の終わりに居合わせることができる。最初の者が終わりの者となり、終わりの者が最初の者となるからだ。つまり、こういうことである、──
 「わたしの裁きを輪のようにしよう。後の者たちが遅れるわけでもなく、先頭の者たちが早くなるわけでもない。」(エズ・ラ5:42)
 わたしは尋ねた。
 過失に生きた人々、現在を生きる人々、未来に生きる人々;(神が)かれらを1度に、同じ時に作らなかったのはなぜですか。
 天使が答えた。
 女の胎は相応しい時に、相応しい種を宿して、子供をこの世に送り出す。神もそれと同じように人がそれぞれの時に従って生まれるように、生きるように、定めてこの世界を造ったからである。

 エズ・ラ5:50-55〈老年期を迎える被造世界〉
 わたしは尋ねた。
 人々の生まれる順番についてあなたはいま、女の胎に喩えてお答えになりました。教えてください。その女は、われらの母は、まだ若いのでしょうか、それとももう年老いているのでしょうか。
 天使が答えた。
 被造物は老いてゆき、若い時の力を失ってゆくのだ。

 エズ・ラ5:55-6:28〈被造世界に直接かかわる神〉
 わたしは尋ねた。
 あなたを誰を用いてわれらの前に姿を現すのか。
 天使が答えた。
 天地未だ固められざる頃、信仰ある者がまだしるしを受ける前に、すべては成った。他の者ではなく、わたしによって成ったのである。従って終わりの時もまたわたしによって来るのだ。
 時の区分について、わたしは尋ねた。
 前の時が終わるのはいつか。次の時はいつ始まるのか。
 天使が答えた。
 アブラハムに始まりアブラハムに終わる。前の時の終わりはエサク、次の時の始まりはヤコブが担う。人の終わりは踵であり、人の始まりは手である。踵と手の間に隔たりはない。

 エズ・ラ6:11-28〈終末のしるし〉
 天使がいった。
 しっかりと自分の足で立ち、響きわたる声を聞け。その声は終末についての言葉である。
 わたしは大地にしっかりと立ち、耳を澄ました。すると、大地が震えた。語りかける声が聞こえた。それは洪水の轟きのようだった。
 見よ、その日がやってくる。その声がいった。それは地に住む人々の許を訪ねようとしているわが足音である。
 「それは不義によって害を及ぼした者どもの追及を始める時であり、シオンの屈辱が終わる時である。そして、過ぎ去っていく世が封印されるとき、わたしは次のしるしを行おう。」(エズ・ラ6:19-20)
 「(わたしが予告したすべてのことを免れた人たちは)皆救われ、わたしの救いと、世の終わりとを見るだろう。そして地に住む人々の心は変えられて、新しい感覚を身に付ける。悪はぬぐい去られ、欺きは消え去るからである。そして信仰が花開き、腐敗は克服され、長い間実らなかった真理が明らかになるだろう。」(エズ・ラ6:25-28)

 エズ・ラ6:29-31〈結び〉
 その声が語りかけているとき、足許の大地が徐々に動き出した。私はおののいた。
 その姿を見て、天使がいった。
 わたしが今夜、お前に示そうとしていたのは、つまりこういうことである。このあと、7日間の断食を行ったらば、今度は日中に、更に大いなることを告げてあげよう。
 「(というのも)あなたの声がいと高き方に確かに達したからである。力ある神は、あなたの正しさを見て、あなたが若いときから守ってきた貞節を顧みられたからである。」(エズ・ラ6:32)
 神は天使に、私宛の言葉を託した。信頼せよ、恐れるな、焦って虚しいことを考えるな。そうすれば終末の時が訪れても慌てることはない。

 本章、というよりも「第二の幻」はユダヤ人のアイデンティティである「神に選ばれた民」について、根本的な疑問を投げかけてきます。そうしてこれは、おそらく聖書を読む者ならば誰しも一度は抱いた疑問でもありましょう。
 どうして神は自分の民が苦しみ、贖いを求める声を無視して傍観したままでいるのか。どうして神は自分の民を、自分の掟に背を向けた蛮族どもの手に渡したのか。どうして神は自分の民を蛮族の手に渡し、かれらの地で使役させ、見えない未来を前に絶望を味わわせるのか。──
 エズラ(サラティエル)もまた、同じ疑問に囚われて悩む1人でした。しかし、天使はそれを分不相応な行いだ、として一喝します。人智を越えた、神の領域を侵犯するなかれ、神の配慮、計画に疑問を呈するなかれ。簡単にまとめてしまえば、天使からの回答はそんな意味になります。エズラの問い、天使の答え、いずれも話題を変えて「第七の幻」まで続くのですが、基調低音を為すのは、「それはどうして、そうなったのか?」、「あらかじめ定められた計画に従ってのことである」とうことに尽きるような思いがいたします。
 このエズラの問い──自分たちの苦難になぜ神は沈黙を守ったままなのか──は、新約時代まで形を変えて持ち越されました。他ならぬイエスの死に接した使徒たちが抱いた疑問であります。
 使徒たちの疑問がやがてキリストについて深く考え、宣教へつながっていったのと同じように、エズラの疑問はそのままユダヤ人が幾世代にもわたって抱き続けた疑問の代弁でもありました。自分たちが<選民>であるてふ強烈なアイデンティティと常にべったり貼りついた疑問であり、それなるがゆえに却って自分たちの<選民>意識、自負を強固なものにする要因となった、とわたくしは考えております。
 正直なところ、読みながら、ノートしながら、時折立ち止まって考えてしまったことに、エズラの台詞/地文と天使の台詞に現れる「いと高き方」があります。
 なぜ、天使は自分の台詞として発するなかで、まるで第三者が存在するかのように「いと高き方」を連発するのか。エズラが「いと高き方」というとき、指しているのは天使ウリエルのはずなのになぜそれ以外の存在を示唆するようないい方をしているのか。ずっと考えこみながら、解決を時間に任せて読み進んで、ようやく、そうか、と気附き、納得することができました。
 そのきっかけはよう覚えておりませんが、要するに「いと高き方」とはかれらのいう「主なる神」であり、最上位におられる存在;つまりエズラが「いと高き方」というときかれは、天使を通してその向こうに坐す神に語りかけるのであり、また、天使が「いと高き方」というときそれは自分が神の言葉の代弁者であることを仄めかしているわけなのであります。
 抄が進むにつれて天使はいつしかエズラの前から姿を消し、かれは直接「いと高き方」と会話するようになる。それは神がエズラを認めたためでありました。既にエズ・ラ6:32にて神は、エズラを認めた旨ウリエルを通して述べております。
 いや、これがわかったら読むのが速くなったこと、早くなったこと。左は誤変換ではありません。
 ここで「創世記」のエピソードが出てまいりました。最後にそれを紹介して、感想の筆を擱きます。エサウとヤコブの話、であります。
 エサウとヤコブはイサクの双子の息子、アブラハムの孫にあたります。イサクの妻、〜から生まれてくるとき、エサウは先に生まれ出ようとするヤコブの踵を摑んで、生まれてまいりました。「踵」「手」とはこれを示すのであります。なお、創27にてヤコブは兄エサウに与えられる筈だった祝福を掠めとり、エサウはヤコブに復讐心を持ちながら、離れてゆきました。エサウはエドム人の祖。エドム人がその後、たびたびイスラエルに対して攻撃を加えるようになった根っこが、ここにありました。



 Twitterの文字数は理想的だ。140字でもじゅうぶん、奥行きと深みのある文章が書ける。そのためにはテクニックと語彙、構成力が必須だけれど。
 本ブログも140字で収まるよう意識して書くときがある。「簡素にして豊か」てふブラームスの音楽を評した言葉が脳裏を過ぎる。しかし、これがなかなか難しい。
 大岡信や竹内政明には敵わない。(139字)◆

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第3359日目 〈エズラ記(ラテン語)第4章:〈天使の答え〉、〈人の思いと神の計画〉with労働とはなおざりにするべからざる<義>である。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第4章、「第一の幻」2/3です。

 エズ・ラ4:1-21〈天使の答え〉
 この世の罪についてのわが問いに答えたのは、天使ウリエル(神の前に仕える4大天使の1人)であった。
 天使が曰く、これから3つの譬えを、お前の前に提示する。1つでも解き明かせたら、お前が見たい道を示そう。邪な心についても教えよう。これが譬えである、──
 炎の重さを量れ。
 風の大きさを測れ
 過ぎ去った歳月を取り戻せ。 
──どうだ、お前が解き明かせる譬えはあるか。
 頭を振るよりなかった。それは無理です、と私は答える。斯様なことが人間に出来ましょうか。 
 それを聞いて天使がいった。曰く、──
 「あなたは、生涯自分にかかわりをもつ事柄さえ知ることができないのだ。それなのにどうしてあなたの力量で、いと高き方の道を理解できよう。腐敗した世にさえ恐れおののく者が、どうして不滅なものを理解することができようか。」(エズ・ラ4:10-11)
 わたしはその言葉を聞いて、ひれ伏した。そうして、いった。即ち、──
 神を畏れぬ不信心な者たちのなかで、私は生きています。それが為に苦しんでいるのです。しかし、私にはわかりません、この苦しみがどこから来るのか、と。こうも答えなき悩みに苦しむならば、いっそのこと、生まれてこなければよかったのだ、と思うのです。(※)
──と、私は天使に嗟嘆した。
 天使が海と山が争う譬え話をした。その最後に、天使がこういった。曰く、地上に住む者は地上のことだけを理解し、天上のものは天上のことを理解する、と。咨、人智の及ばぬ領域に汝、立ち入るを欲する勿れ。

 エズ・ラ4:22-52〈人の思いと神の計画〉
 高遠な道について尋ねたわけではないのです、と私はいった。なぜ神はイスラエルを見捨てたのか、どうして自分を敬い畏れもしない民に御自分の民を渡されたのか、どうして先祖の律法は滅び、書き表された契約は失われたのか、それを知りたいだけなのです。われらへ与えられた御名のゆえに、神はなにをなさるおつもりなのでしょうか。
 天使がいった。曰く、──
 正しい者たちに約束されたことをこの世は実現できないだろう。既に悪の種は蒔かれている。刈り取りの時期はまだ訪れていない。悪の種は世々にあまたの不信仰を実らせた。しかし、まだ刈り取りの時期は訪れていない。脱穀の時が来るまで、悪の種は不信仰を実らせ続けるだろう。
 不安になって、わたしは尋ねた。地上の者たちの悪ゆえに、義人の収穫が妨げられているのでしょうか。
 これを聞くと、天使がこう答えた。曰く、──
 陰府の魂が住まう場所がある。そこは審判を受けた魂が、死に至るまでの間待たされる場所。義人もそこにいる。世の始まりから預けられていた人たちが返されるとき、お前が見たいと望んだことが示される。
 それはいつのことになりますか、と私は尋ねた。まだまだ先でしょうか、或いは間もなくでしょうか。その日まで私は生き永らえられるでしょうか。
 天使が答えた。それはまだ先のことである。その徴について答えることはできる。が、お前の寿命についてはなにも知らない。為に答えることができない。

 途端に黙示文学らしい内容へ入ってきました。
 「エズラ記(ラテン語)」は1つのテーマに関して行きつ戻りつする傾向を持ち、この天使とエズラの問答も以後、変奏曲となって論点をずらしたうえで繰り返されてゆく。だんだんと奥義に近附いてゆく興奮と伴って高まりゆく敬虔さが、本書にはあります。
 この点に関しては心の隅に留めて、今後しばらく続く「エズ・ラ」読書のなかで確認、更なる理解に努めたく存じます。
 なお、内輪話めきますが、本章のノートをお披露目できる状態(いまお読みいただいているものです)へ持ってゆくまでに、ずいぶんと時間を要してしまった。といいますのも、<読書百遍、意おのずから通ず>を、結果的には実践したが為です。
 というよりも、何度も何度も読まないと、「いったいなにを仰っているのか?」がわからんからです。ここが正念場と思い、聖書を読み返し、参考文献を開き(余り役立つものはなかった)、文章を細々弄って時間を過ごし、1日で片附く仕事を5日かけて、いまお読みいただいた本文を作成した次第であります。やれやれ。
 また、過去に何度もあったことですが、新共同訳で読んでてさっぱり文意の通じぬ箇所が本章にもあり、その理解のために、現時点で最新の翻訳となる聖書協会共同訳に頼ってようやっと合点がいった箇所があったことを、告白しておきます。文中、※の箇所がそうであります。



 人間よ、労働せよ。父よ、労働せよ。夫よ、労働せよ。労働によって血の回りは良くなり、隅々まで注意が行き届き、肉体と精神と知力が鍛えられ、人は豊かになれるのだ。労働は等しく与えられた<義>である。この賜物を等閑(なおざり)にすること勿れ。汗せぬ者に災いあれかし。◆

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第3358日目 〈エズラ記(ラテン語)第3章;〈第一の幻〉、〈エズラの問い──この世の罪について〉withはっきりいう、続編を──〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第3章、「第一の幻」1/3です。

 「第4エズラ記」
 エズ・ラ:1-2〈第一の幻〉
 都が陥落して30年が経った頃、エズラこと私サラティエルは独りしバビロンに在った。胸騒ぎに怯える夜、種々の思いが心のなかを通ってゆく。シオンは荒廃し、バビロンは繁栄している。

 エズ・ラ3:3-36〈エズラの問い──この世の罪について〉
 私はおそるおそる主なる神に問いかけた。曰く、──
 自らに形を擬してアダムを作り、それに命を吹きこみ、あなたは人間を作った。アダムはあなたの掟を破り、楽園を追放されて、人間は罪を負う者、罪を犯す存在となった。
 あなたは地上に増えすぎた人間を、義人ノアとかれの家族を残して他は洪水の犠牲とした。ノアの系譜から幾人かの義人現ると雖も人々は変わることなく罪を犯し、重ね、あなたを顧みることもなくなった。
 やがてあなたはアブラハムを選び、愛し、慈しんだ。永遠の契約を結び、かれにイサクを与え、イサクにヤコブを与え、これにイスラエルという名を与えた。そうしてヤコブ/イスラエルの子孫は全地に満ちた。海辺の真砂の如く、その数は増えた。
 1人の指導者に導かれてヤコブの子孫がエジプトからシナイ山へ逃れた。そこであなたは民と契約を結んだ。「あなたは天を傾け、地を固め、世界を揺り動かし、深淵をおののかせ、世を震え上がらせました。あなたの栄光は火と地震と風と氷の四つの門を通り過ぎ、ヤコブの子孫に律法を、イスラエルの子らに掟をお与えになりました。」(エズ・ラ3:18-19)
 さりとてあなたは民の心から悪を消し去ろうとはせず、律法によってかれらの行動が善となるよう計らった。どうしてですか?
 アダムの時代からこちら、人は掟に背き、心に根ざした悪に打ち負かされてきた。いつの世になろうとも、弱さは人々のなかへ留まったのです。律法も悪の根を持つ心と一緒に、人々のなかへ留まりました。善は滅び、邪が残ったのです。
 ダビデの時代、あなたはご自分の御名のためにエルサレムの都を建てた。賜り物のなかから献げ物を供えさせ、奉献はながく行われた。が、都では罪を犯す人があとを絶たなかった。それゆえにあなたは敵の手に都を渡した。
 「わたしはそのとき、心の中で言いました。『バビロンに住む人たちは、わたしたちよりも善いことをしているのだろうか、それゆえ、彼らがシオンを支配するのだろうか』と。
 しかし、わたしはここに来たとき、数知れない神に背く業を見、この三十年間わたしの魂は、多くの罪人を見てきました。わたしの心はめいりました。罪を犯す彼らをどれほどあなたが耐え忍び、神に背く者たちを放任し、御民を滅ぼして御自分の敵を守っておられるかを見たからです。どのようにしてこの道を捨て去るべきかを、あなたはだれにも何も示されませんでした。いったいバビロンはシオンよりも善いことをしているのでしょうか。」(エズ・ラ3:28-31)
 わたしの疑問は尤もではありませんか? 試しにわたしたちと他の民族の悪を秤に掛けてみてください。どちらに傾くか、明らかでしょう。御前で悪を犯さぬ地上の者がありますか。われら程あなたの戒めを守る民があったでしょうか。個人単位ではいるかもしれませんが、民族全体で見た場合、われら以上にあなたの戒めを破ることなく暮らす民はないはずです。

 エズラの疑問(3:28-31)は尤もでありましょう。自分たちを滅ぼすぐらいなのだから、相手は自分たち以上に善い行いをしているはずだ、だからこそ神は自分たちを滅ぼす相手にかれらを選んだに相違あるまい。
 誰しも、何人に責任を帰すことのできないような理不尽な不幸に直面したとき、そんな風に考えるのが当然と思います。そうすることで自分の気持ちをなだめ、むりやりにも自分を納得させようとする。
 が、捕囚となって連れて来られたバビロンは、シオン以上に悪がはびこる地であった。少なくとも、エズラの目にはそう映った。どうして主なる神は御自分の民を此奴らの手に渡すようなことをしたのだろうか──?
 黙示文学としての「エズラ記(ラテン語)」が本章から始まる(第4エズラ記)ことを考え合わせれば、このエズラの疑問がすべての出発点となり、以後の天使を交えた問答と合間合間で挿入される幻視は皆ここで提示された疑問のヴァリエーション(変奏曲)というてよかろう、と思います。
 それが為、この第3章でエズラは、どうして自分たちがこんな目に遭ったのか、果たしてわれらが犯した罪/悪と他民族の犯すそれのどこに違いがあるのか、あるとすればそれはいったいどのような理由で差異が生じたのか、等々に関してイスラエルの歴史を踏まえて、表現を換え、言葉を尽くして、問い掛けるのでありましょう。
 どうせならあの大洪水のときに、自分が選んだ人たちの心から悪の根を絶ってくれれば良かったジャンか。そうすれば律法に縛られて生きることもなかったろうし、敵の手に渡されて異邦での生活を強いられることもなかったのに。──そんな愚痴さえ、向こうから聞こえてきそうです。
 本章以後も続くエズラの、愚痴とも非難とも思われる件りは「ヨブ記」を想起させませんでしょうか。ヨブが3人の友、或いは神らを相手に、答えなき問答を延々繰り広げる一連の場面を連想させるのです。
 と同時に「ヨブ記」と「エズラ記(ラテン語)」が、旧約聖書に収まる正典と続編を俯瞰したとき、神学論争を記録した数少ない書物であることに気附かされるのであります。論争、というのが大袈裟ならば、問答、が相応しいかもしれません。ユダヤ教の教典のみが神(とそれに従う者たち)と人の論争で成り立つ書物を持ち、キリスト教の教典(外典・偽典含む)になるとそうした構図を持つ書物が少なくなることはちょっと面白い現象だと思います。
 エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目」、同「わたしサラティエル、すなわちエズラ」については既に〈前夜〉でお話済みなので、割愛いたします。



 個人的なメモになりますが、第2章を書いて次の日に本章のノートを書く予定でした。ちょっと耳の調子が悪く本を読む気力も削がれたため休んで、翌日にこれを書いている。予定がさっそくズレてしまったわけだが、今後は1日1章の再読とノート、という予定を可能な限り狂わせることなく、スケジュールを消化してゆきたいと思うています。

 はっきりいう。続編を成す書物のうちでいちばん読み応えあり、頭悩ませつつも読書という行為によってもたらされる知的悦楽を堪能できることこの上ないのは、本書「エズラ記(ラテン語)」である、と。贔屓の引き倒しに非ず。冷静な目で全巻を眺め渡したときの偽らぬ感想だ。
 はっきりいう。続編を蔑ろにしたり、これを等閑視するものは呪われろ。この部分あってこその聖書だろう。むろんあなたがカトリックに於ける第二正典も、いわゆる外典も認めぬ立場、認めぬ教会の牧者であるならば話は別だ。蔑ろにするも結構、等閑視するのも結構。人皆それぞれに立場や信条がある。が、わたくしはそうは思わぬ、ゆえに斯く申すのだ、というだけ。
 「エチオピア語/スラブ語エノク書」や「第4バルク書」、「第3/第4マカバイ記」があれば更に嬉しさは倍増。だが、書誌にも都合があろう;分厚くなる(≒重くなる)=高価になる、だから。新共同訳が「エズ・ラ」や「マナセの祈り」を収録してくれているのは幸い事に属するのだろう。
 他の外典はどうなのか? とあなたは訊くか。では、はっきりいう。併せて読め、と。──がんばって。◆

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第3357日目 〈エズラ記(ラテン語)第2章;〈エズラへの主の言葉〉2/2、〈ホレブの山のエズラ〉&〈シオンの山のエズラ〉with言葉は災いも招くのだから。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第2章です。

 エズ・ラ2:1-32〈エズラへの主の言葉〉2/2
 斯様な次第でわたしはわたしの民を捨てる。かれらを生んだ母の嘆きを聞け。喜び持てかれらを育てたにもかかわらずかれらを悲痛と悲嘆のなかに失う母の嘆きを聞け。
 お前エズラは証言せよ。かれらが父の契約に背き、母を悲痛の極みへ追いこんだことを。かれらはそれゆえ異邦人のなかに散らされる。
 エズラよ、わたしの民に告げなさい。わたしはイスラエルに与えた栄光を、イスラエルに与えるはずだった王国を、用意しておいた永遠の幕屋を、わが民から取りあげ、わたしの言葉に聞き従う者たちに与える、と。
 わたしの言葉に聞き従って生きる者はそのとき、命の木が薫らせる香油の香りに包まれ、労苦から切り離されて生きる。かれらのなかにはわたしの名が刻まれている。それゆえかれらは死して後よみがえる。
  捨てると決めたわが民よ、「お前たちは行って王国を受けよ。わずかな日々が、更に短縮されるように願え、王国は既に、お前たちのために用意されている。目覚めていよ、お前は天を呼び、地を呼んで証人とせよ、わたしは悪を消し去り、善なるものを作った。」(エズ・ラ2:13-14)
 ──母なるエルサレムよ。お前の許へわが助け手として、2人の預言者を遣わす。その者の名は、イザヤとエレミヤという。わたしはかれらの預言を成就させる。
 母なるエルサレムよ。お前を聖別して、たわわに実をつける12の木々と乳と蜜の流れる12の泉、バラとユリが咲き誇る7つの大きな山を、お前のために用意してある。お前の子供たちを喜びで満たすために。お前にもやがて休息の時が来る。
 「動揺してはならない。圧迫と苦難の日が来て、人々が嘆き悲しむとしても、お前は喜々として、豊かでいられる。異邦人がねたみを起こしても、お前に対しては何もできないだろう。」(エズ・ラ2:27-28)
 「永眠したお前の子供たちを思い出せ。わたしは地の隠れ家から彼らを連れ出して、かれらに憐れみの業を行おう。わたしは憐れみ深い神」(エズ・ラ2:31)であるから、お前は「わたしが来るまで、お前の子供たちを抱き、彼らに憐れみを告げよ。わたしの泉は絶えずわきいで、恵みは尽きることがないから」(エズ・ラ2:32)だ。

 エズ・ラ2:33-41〈ホレブの山のエズラ〉
 私エズラは主から命じられてホレブの山へ行った。が、イスラエルの民は私を拒み、主の言葉、主の言いつけを軽んじた。
 私は溜め息した。そうして異邦の民に向けてこう語らざるを得なかった。曰く、あなたたちの牧者を待ち望みなさい、夜の終わりに現れるその牧者はあなたたちに永遠の休息を与える。その牧者はすぐそこまで来ている、と。続けて、──
 「わたしは救い主を公に証しする。主が指名された者を受け入れなさい。あなたたちを天の国に招いてくださった方に感謝して喜びなさい。」(エズ・ラ2:36-37)
──と。
 あなたがたよ、主の御国の到来を願え。
 私エズラはホレブの山で、そういった。

 エズ・ラ2:42-48〈シオンの山のエズラ〉
 私エズラはシオンの山に集うおびただしい数の群衆を見た。よく見るとかれらは皆、主を讃える歌をうたっている。かれらの真ん中には背の高い若者がいた。群衆の1人1人の頭に冠をかうえ、棕櫚の葉を手渡していた。
 私は天使に問うた。かれらは誰か、と。
 天使は私に答えた。かれらは死すべき衣を脱ぎ捨て不死の衣に着替え、主の御名を告白した者たちである、と。
 私は天使に問うた。真ん中にいる若者は誰か、と。
 天使は私に答えた。真ん中にいる若者はかれらがこの世で告白した神の御子である、と。
 かれらは主の御名のために迫害に耐え、信仰に留まった人たちであった。
 天使が私にいった。エズラよ、行って、あなたが見た主の御業の素晴らしさをわたしの民に告げなさい、と。

 主なる神はアブラハムの末裔であるイスラエルを見捨て、そのなかから自分の言葉に聞き従う敬虔なる者たちを生別する。それが即ち、キリスト者でありました。主が王国を与えよう、と宣言する相手は、もはやイスラエル──本書が執筆された時代から見れば、ユダヤ教を信奉するユダヤ人をいいます──ではなくキリスト者だったのであります。
 既に〈前夜〉でお話したように、本書の第1章と第2章は、西暦100年前後に加えられたキリスト教文書(「第5エズラ記」)です。為、キリスト者が重んじられるのは当然のことでありまして、ユダヤ教の教典ではない新約聖書の外典、第二正典、と呼ばれる書物ならではの信徒の扱い方と申せるでしょう。
 〈シオンの山のエズラ〉の描写は、それを露骨に表現した部分と思います。群衆はキリスト者であり、若者はキリストその人に他なりません。
 余談ですが、神や天使のような次元の違うところにいる存在の一人称は「わたし」、この世の者であるエズラについてはそれを「私」、と表記しております。混乱を避けるための処置であることをご承知置きください。



 捨てると決めたわが民よ、と神なる主は呼びかける。怖い言葉ですね。社会人は口が裂けてもいえません。いいたいけれど、いった先の未来を想像すると、いわずに呑みこむが吉。ほんま、口は災いの元やで。喉元まででかかったその言葉、口に出してしまって問題ありませんか?◆

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第3356日目 〈エズラ記(ラテン語)第1章;〈エズラの略歴〉、〈エズラへの主の言葉〉1/2with吉川忠臣蔵、読書再開。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第1章です。

 「第5エズラ記」
 エズ・ラ1:1-3〈エズラの略歴〉
 預言者エズラはアロンの家系に列なる祭司である。ペルシア王アルタクセルクセス王の御代、エズラはメディア人の地で捕囚となっていた。

 エズ・ラ1:4-40
 わたしはイスラエルの民の主である。わたしはエズラを預言者に立てて、わたしの言葉を預ける。エズラよ、行って民に伝えよ。即ち、──
 お前たちは先祖よりも多くの罪を犯し、わたしを忘れた。異民族の神を崇め、献げ物をささげ、わたしの目に悪と映る行いにばかり耽ってわたしを顧みようとしなかった。エズラよ、行ってわが民に災いを投げつけよ。わたしに律法にかれらが従おうとしなかったからだ。
 わたしはお前たちに、エジプトを脱出する算段を授けた。割れた海を逃れて荒れ野に入り、飢えれば水と食べ物を与え、カナンへの途を示した。しかしお前たちはわたしの戒めを守らず、わたしの言葉に耳を傾けなくなった。
 「だから、わたしはほかの民のところへ移り、彼らがわたしの戒めを守るように、わたしの名を彼らに与えよう。お前たちがわたしを捨てたので、わたしもお前たちを捨てよう。」(エズ・ラ1:24-25)
 わたしはお前たちがわたしの民となり、わたしがお前たちの神となることを願った。それゆえにわたしはお前たちを集めた。しかしいまとなっては、もはやお前たちにわたしができることはない。献げ物からは目を背けよう。嘆願に耳を傾けるのを止めよう。祝祭日と新月と割礼を拒んだ民である、お前たちは。
 遣わした預言者たちをお前たちは殺めた。大地に血を流したわたしの預言者たちの血のゆえに、わたしはお前たちに復讐を果たそう。
 お前たちの家は荒れる。余所から来た民が、わたしに代わって復讐を果たす。かれらはわたしを知らずともわたしの意思を実現し、かれらは預言者を知らずとも預言者の言葉を心に留める。わたしは余所から来たかれらへの恵みを保障する。それゆえにかれらはわたしを知らず、見ずともわたしの語ったことを霊によって信じるであろう。
 エズラよ、誇りを持って目を挙げ、東から来る民を見るがよい。わたしはかれらに、歴代の預言者を指導者として与えよう。

 「東から来る民」とは、帰還する捕囚民を指す由。これによって神は新しく、自分の民を約束された地に集める、というのです。旧約「エズラ記」と絡めて読むと深い意味を持って迫ってくる、ふしぎな力のある一節といえるでしょう。
 むろん、「エズラ記(ラテン語)」のこのパートは、〈前夜〉でもお話したように「第4エズラ記」をキリスト教文書へ取りこむための後代の加筆でありますから(もっとも、最初から別文書として存在していたものを、加筆・修正のうえ合本化した可能性もあるわけですが)、絡めて読むというても若干なりとも引っ掛かりを感じてしまうのは事実でありますが。
 これまでイスラエル/ユダが繰り返し、飽きることなく犯してきた数々の罪、咎、不義に、神の怒りは爆発した。その頂点が北と南の王国の滅亡であり、ディアスポラであり、捕囚であった。それはおよそ民にとっては世界の終わりに等しかったに相違ありません。
 本章で神がエズラに託した怒りの言葉は、それを踏まえての言葉と思えます。つまり、過去形の怒り、であります。本稿では最後の2行がむしろ、希望というか、せめてもの慰み、といえるのでしょう。



 吉川英治『新編忠臣蔵』ですが、読書を再開できました。通勤時間が削られるのは喜ばしいことかもしれませんが、読書の面からいえばひとえに困りものでしかありません。加えてその通勤経路──利用駅にスタバがない、程良く空いた喫茶店の類もない、となれば尚更でしょう
 ともあれ、ずいぶんと離れていたはずなのに、すっ、と入りこんでゆける(戻ってゆける)のは、こちらがずっとその世界を意識に上していたせいか、或いは/もしくは物語の吸引力、語りの力なのか。判断に悩みます。
 先程、赤穂城明け渡しの朝を迎えた場面。ペースは上がってきた。一刻も早くこのまま下巻へ突入して、真山青果『元禄忠臣蔵』や旺文社文庫の忠臣蔵アンソロジーまで読み進たい。真山忠臣蔵を読むことで久しぶりに(シェイクスピア以外の)戯曲を読む愉しみを味わえそう。
 ……となると、今年前半は藤沢周平読書マラソンの再開は難しいか……。◆


新編忠臣蔵(一) (吉川英治歴史時代文庫)

新編忠臣蔵(一) (吉川英治歴史時代文庫)

  • 作者: 吉川 英治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1990/10/04
  • メディア: 文庫



新編忠臣蔵(二) (吉川英治歴史時代文庫)

新編忠臣蔵(二) (吉川英治歴史時代文庫)

  • 作者: 吉川 英治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1990/10/04
  • メディア: 文庫



元禄忠臣蔵 上 (岩波文庫)

元禄忠臣蔵 上 (岩波文庫)

  • 作者: 真山 青果
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1982/08/16
  • メディア: 文庫



元禄忠臣蔵 下 (岩波文庫 緑 101-2)

元禄忠臣蔵 下 (岩波文庫 緑 101-2)

  • 作者: 真山 青果
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1982/09/16
  • メディア: 文庫




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第3355日目 〈「エズラ記(ラテン語)」前夜〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 旧約聖書外典とされながらカトリックでは第二正典と扱われず、プロテスタントでも退けられている「エズラ記(ラテン語)」(以下、「エズ・ラ」)でありますが、ギリシア語訳からラテン語に重訳された本書は長く中世のカトリック教会では読まれてきた書物でありました。「正典とは認めていないけれどそれに準ずる書物」という受け取られ方だったようです。
 今日では新共同訳と聖書協会共同訳に「続編」の1冊として読むことのできる「エズ・ラ」ですが、これを取りあげた研究書や概説書は数多あれど所謂註解書の類を持たぬことが、余り読まれていない最大の理由なのかな、と思います。依拠するに足るのが此度の再読テキストに採用した『旧約聖書続編 新共同訳 スタディ版』(以下、『スタディ版』)だけとあっては読者層の広がりは到底望み得ぬことではあるまいか、などと心配になってしまいます。
 前置きはこのぐらいにして、それでは「エズ・ラ」とはどのような書物なのか? 誰が、いつ、どこで書いたものなのか、簡単ながらお話しようと思います。
 まずお伝えしておかねばならぬのは、「エズ・ラ」が3つの書物で構成されていることであります。第1-2章は「第5エズラ記」、第3-14章は「第4エズラ記」、第15-16章が「第6エズラ記」とそれぞれ呼ばれている。中核を成す「第4エズラ記」が最も古く成立して、「第5エズラ記」と「第6エズラ記」は後代に執筆、補われた部分とされます。
 誰が、いつ、どこで、という問題について私見も交えながら書きますと、以下の通り。まずは「第4エズラ記」から、──
 「第4エズラ記」は別に「第二エスドラス書」とも呼ばれますが、これの執筆時期は、エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目のこと」を根拠に、66-70年のローマ帝国とユダヤの間に勃発した<第一次ユダヤ戦争>から30年後、即ち100年前後の執筆と考えられております。
 エズ・ラ10:21-23はローマ軍がエルサレムに侵攻して神殿を破壊したり、住民が虐待、殺人、暴行、連行、略奪されたことを、かなり直接的に綴っていることから、本書の著者は当時、エルサレムの陥落、第二神殿への放火・焼失を目撃した人物であったろう、と秦剛平は『旧約聖書続編講義』で指摘する(P296 リトン 1999/11)。
 ではその著者とはいったいどのような人物(どこの誰、ではなく)であったか、ですが、律法に精通していることや、本書が律法にまつわる諸問題(律法と信仰のせめぎ合い、など)がかなりの比重を占めていることからファリサイ派、しかもディアスポラではなくエルサレム在住のラビであったろう、と考えるのがいちばん自然な結論であるように思えます(ファリサイ派についてもずっと予告しております手前、早く書かなくてはなりませんね)。
 ラビはユダヤ教の聖職者のこと。聖書と口伝律法の註解者であることから特に「学僧」の側面が強い存在といえましょう。ハリイ・ケメルマンにラビを主人公にした推理小説のシリーズがありました。
 「第4エズラ記」はこのラビが諸国のユダヤ人社会──ディアスポラのユダヤ人たちの共同体──を行脚して回り、同胞の信仰が神から離れてゆくばかりなのを嘆いた(エズ・ラ3:33「わたしは諸国を経巡り、あなたの戒めを心に留めていないのに繁栄している人々を見ました。」)ことが、本書執筆の根っこになったでありましょう。
 実際に「エズ・ラ」、「第4エズラ記」を読んでおりますとこのあたりの根っこが転じて、どうして神は自分の民を敵の手に渡したのか、不敬虔な者がなぜこの世を謳歌しているのか、どのような罪を背負ったがゆえにイスラエルは救われぬ存在となっているのか、という、「第4エズラ記」で頻出する疑問とその導き──エズラ/サラティエルと天使ウリエルもしくは主なる神との問答──につながっているようであります。
 わたくしは前段で、「エズラ(サラティエル)」と書きました。これを出発点にして本書が孕む問題点を洗い出してみましょう。問題点とは、後述の「第5エズラ記」と「第6エズラ記」を前後に補完して「エズ・ラ」がキリスト教文書化された際の加筆、もしくは書き直しと思われる箇所で、2点あります。即ち、──
 ①エズ・ラ3:1「わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた」
 ②エズ・ラ7:28-29「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、……その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ」
──であります。
 ①に関してはこのようなことがいえるのではないでしょうか。つまり、本来「第4エズラ記」はサラティエルなる人が書いた、もしくは執筆者に擬えた人の手に成る。そうして、キリスト教文書化の際その作業にあたった人──荒廃したエルサレム復興に尽力したエズラに憧憬を抱くか、或いはかれによって再度エルサレムが輝かしい都として壮麗な姿を取り戻すことを願った誰かの手によって、斯様な加筆(わたしエズラ)、が行われた、と。
 ②について作業を行ったのが「第5エズラ記」の著者なのか、「第6エズラ記」の著者なのか、或いはまったく別の人物なのか定かでありません。しかし、「イエス」も「キリスト」も皆さんご承知のようにキリスト教の重要単語であります。イエスは勿論キリストもユダヤ教の単語ではない。
 ユダヤ教に於いて「キリスト」に該当する単語は「メシア」であります。共に「救世主」、「救い主」の意味ですが、ユダヤ教では「キリスト」という単語ではなく「メシア」という単語がその役を担う。問題の箇所は本来2箇所とも、「メシア」と書かれていたのでありましょう。それがキリスト教文書化するにあたって件の箇所も斯く書き換えられた、それがそのまま今日に伝わっている──そう考えるのが最も可能性の高いところではないでしょうか。
 もう一点、「第4エズラ記」はその結末部分を欠くが同書のオリエント諸語訳にはそれがあることをお伝えしておきます(エズ・ラ14:48-50)。当該章の感想でそれを述べておきました。
 「第4エズラ記」については以上であります。次に「第5エズラ記」と「第6エズラ記」ですが、これはもうちょっと簡単にお話ができそうです。まず「第5エズラ記」(エズ・ラ1-2)から始めます。
 これの執筆時期ですが、(新約聖書に収まる)共観福音書や「ヨハネの黙示録」の引用が目立つので、それらが成立した時代から然程離れていない時期に書かれたのではないでしょうか。
 では共観福音書と「ヨハネの黙示録」の成立時期はいつなのか、ということですが、これはかつてわたくしがそれぞれの〈前夜〉にて述べたものがありますのでそれを踏まえて申しあげれば、「マルコ」は<第一次ユダヤ戦争>終結から数年後、「マタイ」は80年代初頭、「ルカ」は80年代から90年代に(「使徒言行録」よりも前に)、「黙示録」は90年代に、それぞれ執筆されたようであります。──ここから導き出される「第5エズラ記」の推定執筆時期は「第4エズラ記」と同じ時期(100年前後)、もしくはそれ以後、と考えるのが無難でありましょう。
 誰が書いたか、ですが、上記を踏まえれば2世紀キリスト教会の誰彼であったろか、ぐらいしか考えられないのが正直なところであります。
 といいますのも、「第5エズラ記」には共観福音書や「ヨハネの黙示録」を援用している部分が多いのですが、別々に存在していた「第4エズラ記」と「第6エズラ記」を合本してキリスト教文書へ仕立てあげるにあたり、その露払い的文書、序章のような役割を持って書かれたのが「第5エズラ記」かもしれないてふ疑いを、読み手としては拭えないからであります。
 ちなみに、共観福音書と「ヨハネの黙示録」の表現、論法を踏まえた箇所ですが、当該章の感想に反映させられなかったのでここで記しておきます。以下のようになります、──
 エズ・ラ1:30→マタ23:37
 エズ・ラ1:37→ヨハ20:29
 エズ・ラ2:35→黙21:23-25並びに同22:5、併せてイザ60:19-20
 エズ・ラ2:42→黙7:9
──と。他に「出エジプト記」や「申命記」、「詩篇」や上述の如く「イザヤ書」などを連想させる文章、表現もございます。
 最後に「第6エズラ記」。
 執筆時期を推定させる材料が本書には潜んでおります。ここから執筆時期が推測できましょう。つまりエズ・ラ15:29-33に「アラビアの竜の民」とカルモニア人の戦いの描写がある。「アラビアの竜の民」はパルティア国のオダエナトゥス率いるパルティア軍、カルモニア人は旧アッシリアの領民、アッシリア帝国を構成する一民族と考えられます。
 この戦いは3世紀中葉──既に「終わりの始まり」がゆるやかに進行していた〈危機の3世紀〉──、ローマ帝国の周縁領地が、東から北から、蛮族に攻めこまれて防御で明け暮れた時代の極地紛争の1つであります。ローマにとっては東の防衛戦を死守する意味で重要な戦いにもなりました。にもかかわらずローマ帝国は自国の主戦力を東方へ割くことが不可能だった。北から攻めこむゲルマン族との攻防に戦力を注入せねばならなかったためであります。
 この戦いを記録した「第6エズラ記」の成立はその紛争以後、即ち3世紀終盤から4世紀初頭と考えて良かろうと思います。
 これの執筆者ですが、上述の時代を生きたユダヤ教徒と考えるのが大勢のようであります。ん、ユダヤ教徒? キリスト教徒、ではなく? 然り、ユダヤ教徒、と考えるのが大勢の様子。というのも「第6エズラ記」は「第5エズラ記」程にはキリスト教、今日でいえばカトリック教会ですが、の教理が余り反映されていない点があげられる由(秦 P308)。
 従って「第6エズラ記」は「エズ・ラ」を構成する3つの文書のなかでいちばん遅く成立したことになりますので、必然的に「第4エズラ記」のキリスト教文書化も「第6エズラ記」成立と同時代かそれ以後となり、それは即ち「エズ・ラ」の成立は同じ時期か少し遅れての時代になる、ということでもあります。
 要するに、こういうことです。ユダヤ教の黙示文学として伝わった「第4エズラ記」とキリスト者による「第5エズラ記」が余り変わらぬ時期に書かれて別々に存在してきたが、3世紀後半から4世紀初頭に「第6エズラ記」が成立して先行する「第4エズラ記」をキリスト教文書として取りこむ際、「第5エズラ記」と「第6エズラ記」が前後に補完されて今日見る「エズ・ラ」になった、と。成立史を乱暴にまとめれば、こうなると思います。
 「エズ・ラ」を構成する3つの文書について書いていたら、例によって長くなってしまったことをお詫びいたします。最後に、本書が教会やキリスト者の間でどのように受け取られてきたか、述べておきます。
 キリスト教文書化された「エズ・ラ」はその後、カトリック教会では第二正典になれなかったけれど広く読まれました。その内容が終末の予告のみならず、原罪の在処とそれゆえの人間が背負う罪の重さや、救われる存在になるため信徒はどのように現世を生きれば良いか、など如何にも信徒を導くに格好の教えがそこに記されていたからでありましょう。ただ、当該章の感想でも触れますが、第7章の要となる「代願の不可能なこと」は教理を否定するせいか写本が作られる過程で削除され、長くその存在を知られることがありませんでした。
 個人的なことをお話すれば、わたくしは──かつて読書に難渋した経験があるから尚更なのかもしれませんが──この「エズ・ラ」が大好きです。2014年12月15日からクリスマスまでの間に読んだときは「一寸先は闇」の状態で読んでいたけれどその後、『スタディ版』が刊行された際真っ先に飛びついたのは他ならぬこの「エズ・ラ」通読のためでした。
 そうして此度の再読を終えて一言させていただくと、「エズ・ラ」はたしかに黙示文学というに相応しい書物ではあるけれど一方で、主なる神による裁きや終末の予告が倩並べ立てられたあとでもたらされる、ほのかに射す希望の曙光のあたたかさ、慈悲深さ、厳しさのなかの優しさ、を感じられる点にこそわたくしが本書を握玩する理由はある、ということであります。
 まだまだいい足りぬ部分もあるような気がいたしますが、このあたりで筆を擱きます。
 それでは明日から1日1章の原則で、「エズラ記(ラテン語)」を読んでゆきましょう。◆

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