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第1388日目 〈ゼカリヤ書第12章,第13章&第14章:〈エルサレムの救いと浄化〉with横浜市長選を終えて。〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第12章と第13章、第14章です。

ゼカ12:1-14:21〈エルサレムの救いと浄化〉
 これは託宣である。主の曰く、――
 エルサレムは周囲の国々を酔わせる杯となり、諸国はそれに群がり包囲の陣を敷く。都のみでなく、ユダもまた同様に。その日、エルサレムは重い石となり、持ちあげようとする者は全員深い傷を負う。都を落とすため、全地の国が集結する。
 わたしはユダの上に目を開いて諸国の軍を無力にする。それを見たユダの諸族は自分たちがエルサレム同様、主なる神に守られているのを思い起こす。わたしはユダの諸族を火のようにし、周囲に迫る敵を燃やし尽くす。エルサレムはなおそこに留まり、エルサレムで在り続ける。
 わたしはまずユダの天幕を救う。かれらの誉れはダビデの家、エルサレムの民の誉れと同等のものとなる。「その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのようになり、ダビデの家は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使いのようになる。」(ゼカ12:8)
 「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカ12:10)――その日、エルサレムに大きな嘆きが訪れる。それぞれの氏族は寄り集まって、悲しみに暮れるのだ。
――と。

 主の曰く、――
 その日、ダビデの家とエルサレムの住民の罪と汚れを洗い清めるために、一つの泉が開かれる。
 以てわたしは数々の偶像の名を取り除き、預言者と汚れた霊をかれらのなかから取り除く。以後、預言者たちは皆、預言をしても自分が見た幻ゆえに恥を搔き、自らを昔からの農夫である、と偽って暮らす。
 わたしは残りの者を試し、精錬する。わが名を呼ぶ者があればわたしはかれをわが民と呼び、わたしにわが民と呼ばれたかれは主こそわが神と答えるだろう。
――と。

 主の曰く、――
 見よ、主の日がくる。あなたたちの手に掠め盗られたものが戻る日だ。
 わたしは諸国の民を集めてエルサレムへ戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され、女たちは強姦され、住民の半分は捕囚となる。が、残りの者が都からすべて絶たれるわけではない。「戦いの日が来て、戦わねばならないとき/主は進み出て、これらの国々と戦われる。」(ゼカ14:3)
 その日、わたしはエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立つ。山は東西に裂け、それぞれ北と南に退く。谷に出来た道をお前たちは通って逃げるがよい。わたしは御使いを連れてお前たちの許へ行く。
 その日、光はなく、冷えて凍てつく日。「しかし、ただ一つの日がくる。/その日は、主にのみ知られている。/そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。/その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。/主は地上をすべて治める王となられる。/その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。」(ゼカ14:7-9)
 エルサレムを守るようにして四方を囲んでいた山地は低くされて平坦になり、エルサレムはそれが為に高い場所に留まる。人々はシオンに住まい、もはや破滅と無縁なるがゆえにかれらの安住の地となる。諸国の軍が攻めてきたならば、わたしは疫病を以てかれらの進軍を阻み、かれらの肉体を腐らせて消そう。その日、わたしの大いなる混乱がかれらに臨む。かれらは自らによって滅びる。
 エルサレムを攻めた国の残りの者――これは即ち悔い改めた者のことである――が毎年、エルサレムへ上洛してきて、万軍の主を礼拝して仮庵祭を祝う。仮庵祭のために上洛するのを怠った国はすべて疫病の罰を受ける。
 その日、すべてのものが聖別される。
 その日、万軍の主の神殿に商人(=カナン人)はいなくなる。

 神殿にて主を礼拝する者、仮庵祭に参加する者は皆神なる主の民である、というのが本書の〆括りである。
 ゼカ12:11「メギト平野におけるハダド・リモンの嘆きのように」とは南王国末期の善王ヨシヤの崩御と関わる。ヨシヤ王はメギト平野に於けるファラオ・ネコ率いるエジプト軍との戦いに敗れてかの地にて落命した(前609年)。その際、民はハダド・リモンの地にてそれを嘆いた、というのであります。王下23:29-30と代下35:20-24を参考箇所として挙げておきます。
 仮庵祭にエジプトが上ってこなかったら、同じように仮庵祭へ参加しなかった諸国も疫病に見舞われて罰を蒙る、とは、なにやら連帯責任を負わされているみたいで嫌ですね。 全体的に「ゼカリヤ書」とは途中で訳がわからなくなり、本文もやや錯簡を生じさせているようで、それゆえに読者をも混乱させてしまうことの多い書物と感じます。昨日の<悪い羊飼い>がそうでしたが、今日の第14章も例外ではありません。読むにあたって、書くにあたってわたくしが抱いた疑問と困惑が原稿に反映していないことを切に望みます。

 ちょっと急いだ感のある「ゼカリヤ書」は本日を以て終わります。いつもお読みいただきありがとうございます。
 次の「マラキ書」読書ノートはすぐに開始する予定でおります。またその際は宜しくお願いいたします。



 横浜市長選は最低の投票率を記録したらしい。要因は様々にあろう。あの暑さのなか、投票所へ行く気にはなれないよね。候補者3人が掲げるマニュフェストになんの魅力も関心も抱けなかったのも、(個人的には)棄権者の多かったことの大きな要因と思う。
 仕事帰りの期日前投票で現職者へ一票を投じたけれど、それは特に林市政を評価しての投票ではない。この人の過去の実績を買っての信任ではない。他に選択肢がなかっただけの話だ。現職者に較べて他が霞んで見えた、というわけではない。他に選択肢がない、というのは、最も消極的な意味でのそれだと知ってほしい。林も他の候補者も五十歩百歩、海のものとも山のものともつかぬ衆であることに違いはない。これで現職者が退いていたら棄権したことであろうなぁ。
 が、棄権=反対票ではないことを有権者は知るべきだ。加えていえば、投票率が30%を割った選挙結果を果たして民意の反映と受けとめる脳天気バカはおそらく林陣営、就中ご本人ぐらいであるまいか。呵々。
 正直、わたくしは林市政を評価する者ではない。<待機児童ゼロ>はなかなか全国的に好評なようだが、現市長の業績としてそれ以外にあがらぬは片腹痛いとしか申し上げようがない。これとて結局は現場無視の市長の自己満足で終わった感が強い。瞬間のデータだけ提示されても意味はない。継続されずしてなんの実績か。
 ミクロな視点で見ても、マクロな視点で見ても、しばらく横浜市は飛鳥田-細郷-高秀市政に並ぶ業績を成し遂げる首長を戴くことは出来なさそうだ。――どうだろう、二期目を以て女史にはご退任願わないか?◆

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第1387日目 〈ゼカリヤ書第11章2/2:〈悪い羊飼い〉with新たなる決意表明〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第11章2/2です。

 ゼカ11:4-17〈悪い羊飼い〉
 主は屠るための羊を飼った。それを買った商人は誰の憐れみを受けることもない。この地の民を主は憐れまない。どの人の運命も隣人とその王の手に委ねられる。主はかれらを救わない。
 主は2本の杖を持つ。「好意」という名の杖と「一致」という名の杖だ。主はそれを手にして羊を飼う。一ト月の間に3人の羊飼いが退けられた。互いが互いに我慢できなかったのだ。主はかれらにいった、わたしはもうお前たちを飼わない、と。死ぬべき者は死ね、消え去るべき者は消え去るがよい、残りの者はたがいの肉を食らうことだ。
 「好意」という名の杖が折られ、諸国民との間に結ばれた契約が棄てられた。主は羊を飼った商人たちにいった、お前たちの目にこれが良きこととして映るなら、わたしに賃金を支払え、と。かれらは主に賃金として銀30シェケルを支払い、主はこれを受け取った。かれらによって値附けされて支払われた銀30シェケルは鋳物師に渡される。そうして主は、「一致」という名の杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りの契約を棄てた。
 「見よ、わたしはこの地に羊飼いを起こす。彼は見失われたものを尋ねず、若いものを追い求めず、傷ついたものをいやさず、立っているものを支えもせず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを砕く。/災いだ、羊を見捨てる無用の羊飼いたちは。/剣が、その腕と右の目に向けられる。/その腕は力を失い、右の目はかすむ。」(ゼカ11:16-17)

 本章に於ける「羊飼い」は宗教的政治的指導者を指す。
 銀30シェケル云々はマタ26:15、同27:9-10も併読を願う。

 わたくしにとって「ゼカリヤ書」のなかでいちばん難しいところでした。読めば読む程、というのは大袈裟ですが、さっぱり意味がわからず、なにをいわんとしているのかわからず、すっかり途方に暮れていた、というのが正直なところであります。未だ暗雲は晴れていないが、ノートが執れるぐらいには見えてくるものがあるだけ喜ぶべきでしょうか。



 以前のように時間を割いて、腰を据えて取り組み、書くだけの余裕がない。作り出すことはできてもそれが質を約束できるものでないのなら、これ以上の継続と維持は徒労と労苦と<大いなる時間>の無駄遣いではないだろうか。ふと、そう思うて投げ遣りな気分になることもある。
 自分でも情けなく思うよ。何年も読み、書いてきて、未だこの程度なのだから。
 でも、斯様に軟弱で約束も満足に守れないこと度々な本ブログであっても、どうやら楽しみにしてくださっている方々は頗る付きで多いらしい。アクセス件数がそれを証明している。時折届けられる悪態と、ものみの塔やエホバの証人からの過分なお誉めのお言葉とそれに伴う勧誘、過ちの指摘という衣をまとった人格攻撃に愉悦を見出している節のあるコメントには、憐れみを伴った無関心と無視を貫いて対処しようと思う。
 更新が遅くなってごめんなさい。◆

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第1386日目 〈ゼカリヤ書第9章,第10&第11章1/2:〈諸国民の裁きとイスラエルの救い〉with『東海道四谷怪談』を観たのですが……。〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第9章と第10章、並びに第11章1/2です。

 ゼカ9:1-11:3〈諸国民の裁きとイスラエルの救い〉
 これは託宣である。諸国は裁かれる。主の言葉がペリシテ、レバノン、シリアの町々に臨む。主はかれらの驕り、高ぶりを絶つ。が、かれらの一部は生き残る。かれらはわれらの神に属し、ユダのなかの一族のようになり、エクロンはエブス人の如くになる、もはやかれらを圧迫する者が進んでくることはない。主がその目で見守っているからだ。
 やがて、あなたの王が来る、と主がいう。かれは神に従い、勝利を与えられている。かれは雌ろばに乗ってやって来る。「かれの支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」(ゼカ9:10)
 主はいう、あなたについてはわたしと結んだ契約の地のゆえに、わたしはあなたの囚われ人を水のない穴から解放する。さあ、希望を抱く囚われ人よ、砦に帰れ。
 主は現れて稲妻の如く飛ぶ。角笛を鳴り響かせて、南からの暴風と共に進む。主はわれらの盾となる。手に石持て地に倒し、その血を飲んで満たされる。主なる神はその日、かれらを救い、羊のように養う。かれらは主の土地にて高貴なる光を放つのだが、それはなんと美しく、輝かしいことか!

 春になって雨の季節になったら、主に雨を求めるがよい。主は雨雲を呼び稲妻を光らせ、地に豊かな雨を降らせて野に草を生えさせる。恵みと慈しみの雨。
 家の守り神テラフィムは空虚なことを語るようになった。占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語るようになった。それらがもたらす慰めは空しい。いまや人々は羊のように彷徨っている。かれらが苦しむのは羊飼いがいないからだ。不在ゆえに民を苦しめる羊飼いに主の怒りは燃えあがる。主は自分の羊の群れ、即ちユダの家を顧みて、かれらを輝かしい軍馬の如くにする。
 主の言葉。「わたしはユダの家に力を与え/ヨセフの家を救う。/わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す。/彼らはわたしが退けなかった者のようになる。/わたしは彼らの神なる主であり/彼らの祈りに答えるからだ。」(ゼカ10:6)
 遠い国に散らされたユダヤ人は、かの地に在っても主なる神へ心を留め、子供たちと共に生き続けている。主はかれらをエジプトやアッシリアから呼び集め、ギレアドとレバノンへ来させる。かれらは苦しみの海を通ってくる。
 再び、主の言葉。「わたしは主にあって彼らに力を与える/彼らは御名において歩み続ける。」(ゼカ10:12)

 レバノンよ、お前の門を開けよ。火を遣わしてお前の杉を燃やし尽くさせよう。
 バシャンの樫の木は泣き叫べ。永く人を拒み続けた森が、いま倒された。
 牧場は荒土となった。羊飼いたちの泣き叫ぶ声がする。かつては見事な牧場だったのに。
 若い獅子の咆吼が聞こえる。ヨルダンの密林も荒れ果てた。

 昨日の記事と併せて読んでいただくのがいちばん最良の読書となる〈諸国民の裁きとイスラエルの救い〉。ゆえにわたくしの発言も概ね昨日を以て尽きています。
 ゼカ10:2「テラフィム」は家の守り神であり、創世記に登場しましたが、時代が下るにつれて異教信仰と結びつき、ヨシヤ王の改革にて排除されたものであります。
 前夜でも触れましたが、ゼカ9:9はマタ21:5-7に載るイエスがろばに乗って云々の記述と合致し、続くゼカ9:10も上記の流れから併せてメシア預言と断じて良いでしょう。



 『東海道四谷怪談』を観ました。子供の頃は、毒によって顔を腫らせて髪が抜け落ちるお岩さまが、とても怖かった。おそらくお岩さまは貞子や伽椰子と並ぶ強烈なインパクトを残す存在であろう。
 が、今回久しぶりに観ていたら、<怖さ>は微塵も感じず、却ってお岩さまが背負った<悲しみ>を思わずにいられなかった。求められて伊右衛門の許に嫁ぎ、その後は少々の愚痴っぽさはあるけれど浮浪人の夫から去ることなく尽くして、挙げ句に捨てられ毒を盛られ、間男との密通の疑いを捏造されて殺されるなんて、悲しすぎる。
 いったいなにがどう気に食わなくてお岩さまを捨てたのだ、伊右衛門。……とはいえ、浮浪人の身で目の前に士官の道が開けたのを約束する女との出会いがあれば、糟糠の妻をかなぐり捨ててそちらへ走ることもあるのかなぁ……。おいらにはよくわからないや。如何せん、そんな幸運な出会いをしたことがないのでねぇ(多少ヤサグレ気味に)。えへ。でも南蛮渡来の毒薬って、いったいなんの目的で精製されて、江戸期の日本へ持ちこまれたのだ。トリスタンの媚薬と同じぐらいに積載目的不明・使途未詳の代物だよな。南蛮人は当時の日本で毒薬ブームが起こるのを企んでいたのか?
 ちょっとした信号の途切れゆえに画像が停止する箇所もあったけれど、幸いに今度改めて放送されるのを知って、録画予約した。その折にでもこの映画の感想は認めてみて、ここでお披露目できそうならお披露目させていただこうと思う。
 そういえば次の日に、『怪談海女幽霊』なる1時間程度の作品も放送されたのですね。こちらについても同様に。◆

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第1385日目 〈ゼカリヤ書第7章&第8章:〈断食と回復の約束〉with『テッド』続編、制作決定!〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第7章と第8章です。

 ゼカ7:1-8:23〈断食と回復の約束〉
 時は移ってダレイオス王の治世第4年(前518年)、主の言葉が預言者ゼカリヤに臨んだ。それはこういう謂われである。
 その年の9月(キスレウの月)の4日。ベテルに住むユダヤ人は同胞サル・エツェルとレゲム・ベレク、かれの従者たちをエルサレムへ派遣して、主の恵みを求めさせた。また、神殿の祭司たちと預言者たちに、長年行われてきた5月の断食を今後も行うべきであろうか、と質問した。節制して悲しみのときを持つべきだろうか?
 万軍の主の言葉がわたくしへ臨んだのは、このときである。主はいった、――
 あなたたちは70年もの間、5月と7月に断食を行い、嘆き悲しんできた。しかしその好意は本当にわたしのために行ったものであるのか。飲むも食べるも自分たちのためではなかった、と果たしていえるのか。往古エルサレムと都近郊の町に、ネゲブとシェフェラに人が住んでいた時分、わたしが往時の預言者たちへ呼び掛けた言葉を、果たして知らないか。おお、万軍の主はこういう、人々よ、互いに災いを心のなかで企むなかれ、と。
 が、民は主の言葉へ耳を傾けるのを拒んだ。主が往古の預言者たちを通して与えた律法と言葉に耳を塞いだ。主の怒りは激しく燃え盛った――かれらはわたしの呼び掛けに応えなかった。だからわたしもかれらの言葉を聞かない。
 「わたしは彼らを、彼らの知らなかったあらゆる国に散らした。その後に、地は荒れ果て、行き来する者もなくなった。彼らは喜びの地を荒廃に帰させた。」(ゼカ7:14)

 わたし主はシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りを以て熱情を注ぐ。わたしは再びシオンに来て、その中心に住まう。エルサレムは信頼される都となり、町の広場には長寿の人らが憩い、童子と処女が舞う。わたしは日が昇る国からも日が沈む国からもわが民を救い出してエルサレムへ連れてこよう。斯くしてかれらは(再び)わが民となり、わたしは真実と正義に基づいてかれらの神となる。
 勇気を出せ――あなたたちはこの言葉を近頃よく聞くはずだ。神殿の再建が始まったその日から、わたしが選んで任じた預言者の口からこの言葉を聞いているはずだ。
 以前はわたしが放置していたがゆえに報酬も食糧も得ることなく、敵に脅かされることなく安心して暮らすことのできなかったかれらだが、いまやわたしはわが民の残りの者らに対する扱いを改める。「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び/大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。/わたしは、この民の残りの者に/これらすべてのものを受け継がせる。」(ゼカ8:12)――恐れるな、勇気を出せ。
 わたしは再びエルサレムとユダの家に幸いをもたらすことに決めた。そのためにもあなたたちが為すべきことは以下の通りである、――
 ・互いに真実を語り合え。
 ・城門では真実と正義に基づいて、平和をもたらす裁判を行え。
 ・互いに心のなかで悪を企むな。
 ・偽りの誓いをするな。
 これらすべてをわたしは憎む。ゆえにこれらを為せ。

 断食について、主の言葉がわたくしゼカリヤに臨んだ。曰く、――
 4月の断食、5月の断食、7月の断食、10月の断食は、ユダの家にとって祝祭となる。あなたたちは真実と正義を愛さねばならない。

 万軍の主はいう、――
 更に多くの民、多くの町の住民がエルサレムへ到着する。
 或る町の住民が他の町へ行き、その町の住民に、一緒に都へ行って主の恵みを求めよう、エルサレムへ行って主を尋ね求めよう、と声掛けする。すると他の町の民は首肯して、喜んで行こう、と答える。
 更に多くの民、強い国の民もエルサレムへ来て、ここにいるわたしを尋ね求めてわが恵みを受ける。
 「その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』」(ゼカ8:23)

 わたくしたちはいま、これまで預言書のどれとも比較できないぐらい、確固とした回復のメッセージを読みました。押しつけがましい感もありますが、何度読み返してもその感想は引っこめる気になりません。斯くも主の恵みにあふれたメッセージは終ぞなかった。それを十全に伝えるためにはどうしても長くならざるを得ない。為にノートも長くなったことをお断りしておきますね。
 断食問答かと思えば、実はここは信仰の伝播を示唆する章であった。世界にユダヤ人が拡散する、即ち、主を尋ね求める想い、主に依り頼む想いが異邦の地の人々の間に干天の慈雨如く浸透してゆくのを望み、それが実現することを視野に入れた章であった。キリスト教という形でその野望(?)は達成された今日の目で見ると、頗る周到な章とも読めることは否めません。
 さて、ところで。
 ゼカ8:21「『さあ、共に行って、主の恵みを求め/万軍の主を尋ね求めよう。』/『わたしも喜んで行きます。』」ですが、かつて読んだ書物の一節を思い出させないでしょうか。わたくしはこれを読んで、「詩編」の一節――第122篇を思い出しました。冒頭の一節を思い出し、どこかにあった、と探してみたら第122篇だったわけです。また一方で、第126篇を連想もした。前者はエルサレムへ上る際の詩、後者は捕囚からの帰還を承けての詩であります。本ブログに於いては、第0824日目と第0828日目でお披露目してあります。宜しければ併せてお読みいただければ幸いです。
 最後に引用したゼカ8:23、これはやはりメシア預言なのでしょうか。

 ……思った程長くはならなかったですね。



 あのモコモコのテディ・ベアが帰ってくる。『テッド』続編の制作が決定した。
 主人公カップルは結婚して子供もいるだろうか? テッドがお守りだったらその子はどうなる? あの誘拐犯親子は再登場を果たすのか? テッドはどんな騒ぎを巻き起こしてくれるのか? ――様々な妄想と期待がわずかの不安を押し潰してわが胸中に広がってゆく。楽しみにしていよう。
 日本公開は2015年夏予定。◆

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第1384日目 〈ゼカリヤ書第6章:〈第八の幻〉&〈戴冠の宣言〉with汗かきには辛い季節がまだまだ続く……。〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第6章です。

 ゼカ6:1-8〈第八の幻〉
 再び目を留めて見ていると、2つの青銅の山の間から4両の戦車が出て来た。戦車にはそれぞれ赤毛の馬、黒い馬、白の馬、まだらの馬が数頭ずつ、繋がれている。
 御使いは、4両の戦車は天の四方から吹く風である、とゼカリヤに教えた。続けて、それは全地の主の御前に立ったあと、赤毛の馬は東の国に、黒い馬は北の国に、白い馬は西の国に、まだらの馬は南の国に、それぞれ向かう、といった。
 強い馬たちは御使いの号令に従って、地上を四方に行き巡った。――北の国へ出て行ったものがわが霊を北の国へ留まらせた、と、御使いは主の言葉を代弁した。

 ゼカ6:9-15〈戴冠の宣言〉
 主の言葉がわたくしゼカリヤに臨んだ。バビロンから帰ったばかりのヘルダイ(ヘレム)、トビヤ、エダヤの家族から、金と銀の贈り物を受け取りなさい。そのあと、ツェファンヤの子ヨシヤの家に入って金と銀で冠を作り、大祭司ヨシュアの頭に載せて宣言しなさい。
 「万軍の主はこう言われる。/見よ、これが『若枝』という名の人である。/その足もとから若枝が萌えいでる。/彼は主の神殿を建て直す。/彼こそ主の神殿を建て直し/威光をまとい、王座に座して治める。/その王座の傍らに祭司がいて/平和の計画が二人の間に生ずる。」(ゼカ6:12-13)
 冠はヘレム(ヘルダイ)、トビヤ、エダヤ、ツェファンヤの子の好意の記念品として神殿に安置される。遠方より来たる有志の者らの力を得て神殿は再建される。
 「こうして、あなたたちがひたすらあなたたちの神である主の声に聞き従うなら、万軍の主がわたしをあなたたちに遣わされたことを知るようになる。」(ゼカ6:15)

 最近にしては比較的引用が多くなってしまった感があります。地の文に溶けこませる努力をしてみても却って袋小路に迷いこむ始末で、こんなとき自分の文章の上手でないことに苛立たしい思いを抱きます。が、いずれも下手に弄くって、その強さ、その優しさ、その良さが失われてしまうのを恐れて、斯く対処したことだけは報告しておこうと思います。
 幾つかのことに言及すれば、まず馬に繋がれた戦車が向かう先の四方の国々は、国名こそ現れていないけれど、やはりユダを苦しめ続けた4つの列強国なのか。しかし、どうにも釈然とせず、考える程に違うような気がする。ふぅむ……。
 本章のノートを執っているうち脳裏を過ぎったことですが、ここでヨシュア戴冠の宣言がされたのは、かれにゼルバベルの横に在る資格を与える意味も込められていたのかもしれない。他ならぬダビデ王家の末裔と並び立って政教不可分の国家を運営してゆく証しを、本章に於いて主はヨシュアへ与えたのかもしれない。わたくしはそんな風に読みながら思うたことであります。
 予告;明日、第1385日目の記事はちょっと長くなるかもしれません。



 汗を流して出勤し、ようやく机の前に坐る。それだけで今日の仕事の8割は終わった、と思う。あとは机の前にいればなんとかなる。
 残暑らしく、少しは暑さが収まった気もするけれど、汗ッ搔きにはまだまだ辛くて肩身が狭い季節が続く。◆

 久しぶりにWordを使った――。旧約聖書続編からはWordを使うようにしようかな。□

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第1383日目 〈ゼカリヤ書第5章:〈第六の幻〉&〈第七の幻〉with誘惑を退ける意思と自己管理する能力が欲しい。〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第5章です。

 ゼカ5:1-4〈第六の幻〉
 長さ約20アンマ(9m)、幅約10アンマ(4.5m)の巻物が飛んでいる様子に、わたくしは目を留めた。御使いはその巻物が、全地へ向かう呪いである、と教えてくれた。巻物の両面に書かれた呪いの言葉に従って、すべての盗人、すべての偽者は一掃される。これについて主が、巻物はかれらの家に入って宿り、人も家も余さず滅ぼす、といった。

 ゼカ5:5-11〈第七の幻〉
 御使いが現れて、そこへ出てくるものをよく見よ、といった。そこにはエファ升が現れた。鉛の蓋を取ると、なかには1人の女が座っていた。蓋をすると、どこからかコウノトリのような翼を持った2人の女が風を受けてやって来て、エファ升を運んでゆこうとした。
 わたくしは、彼女たちはどこへ升を運ぼうとしているのか、と訊いた。御使いが答えて曰く、シンアルの地である、と。升のなかの女のための神殿をかの地へ築こうとしているのだ、それが完成されたらあの者はそこへ置かれるだろう。かの女は邪悪そのものである。

 シンアルとは地上最初の勇者ニムロドの王国があった地域です。創10:10にあります。また、シンアルはかのバベルの塔が築かれた地域でもある(創11:2)。ここでは偶像崇拝の中心地として名を挙げられております。
 「ゼカリヤ書」のなかにあっては比較的シンプルな章といえましょう。



 近頃はまだまだ暑いので仕事が終わると寄り道しないで帰宅する。偉いな、俺。でも、さっさとこの汗と匂いを消してしまいたいんだ。シャワーを浴びて、クーラー乃至は扇風機のある畳を敷いた部屋(敢えて和室と称さぬ点にご留意いただきたい)で、い草の上に寝転がってしばしの浅い眠りを貪ったり、雑誌を読んだりコミックへ目を通したりする。も、勿論、たまには原稿書いてみたりもする。
 が、家に在って原稿を書く、というのはわたくしのような人間にとっては至極難儀だ。結構これは重労働だぜ。自分で訝り、自分で納得していたら世話ないが、でもまさしくそうなんだ。なんといっても、部屋のあちこちにある誘惑の源から目を反らし、それのあることを意識に上らせまい、とする。それは<努力>と同義だ。
 誘惑を退ける意思と自己管理する能力が、自宅で原稿を書くときはシビアに求められる。だけれどこんなこと、10代後半から20代の終わりまでは当たり前のように、家の自分の部屋ですべてを完結させていたはずなのになぁ。そのとき、誘惑からはさほどの強い意志も必要としないで身も心も遠ざけていたはずなのに、いつの間にこうなってしまったのだろう。あれ不思議だね、あれ可笑しいね、オッペケペッポー、ペッポッポー。
 まずは部屋から誘惑の源である種々の荷物の一掃を!
 でも自己管理する能力ってどうすれば身に付くのだろう。数日保っただけじゃダメなんだ。それが当たり前な日常になってくれないと、ダメなんだ。誰か、自己管理能力をわたくしに教授しておくれ。◆

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第1382日目 〈ゼカリヤ書第4章:〈第五の幻〉with3人の作家の伝記を前にして。〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第4章です。

 ゼカ4:1-14〈第五の幻〉
 わたくしに最初に語りかけてきた御使いが戻ってきた。なにを見ていたのか、と尋ねられたので、金の燭台の幻(ゼカ4:2-3)の話をした。その燭台の左右には1本ずつ、オリーブの木がある。わたくしは御使いに、この幻はどんな意味なのか、と訊いた。御使いが、わからないのか、と返したのでわたくしは、わからない、と答えた。すると御使いはいった、――
 これが<ユダの総督>ゼルバベルに向けた主の言葉である。ただ、わが霊によって。大いなる山はかれの前で平らにされる。そこから親石を取り出したかれを喝采が包む。
 ゼルバベルがこの家の基を据えた――かれはこの仕事の完成を見届けるだろう。「誰が初めの日をさげすむのか。/ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て/喜び祝うべきである。」(ゼカ4:10)
 2本のオリーブについて。その枝先には2本の金の管が挿さっていて、そこから油が注ぎ出されている。これは全地の主の前に立つ、2人の油注がれた人たちだ。

 ゼルバベルがエルサレムに再建された第二神殿の基を据えた。いったいかれが神殿の完成を実際に見届けることができたのかわかりませんが、主にはその意思(というよりも、希望、か)があった。帰還した、そうして今後も遠近から帰還するであろうユダヤ人をまとめる役にゼルバベルは選ばれた。
 なぜならば、かれがダビデ王家の正統なる継承者であり、主の愛でたダビデの血を引く唯一の生き残りだからだ。いわばユダヤ人統一の象徴的存在がゼルバベルでした。それゆえに、ゼカ4:14ではヨシュアと共に「油を注がれた2人」と呼ばれるのです。それは第6章にてヨシュアが戴冠する際、暗に記して示されたことであります(ゼカ6:12-13)。
 ゼルバベルは神殿という<箱>を作り、ヨシュアが主の霊をそこへ収めた。大祭司は<箱>に<中身>を入れたのである。<中身>とは信仰のことでもある。むろんそう単純な話ではあるまいが、そんな図式が不完全ながら成り立つのも事実。御意見を賜りたい。



 今年の夏はなんなのか。――猛暑や熱中症ではなく、書店の一角に並ぶ書籍の話である。
 お気附きだろうか、海外文学のコーナーの前で足を停めると、アメリカ人作家の浩瀚な伝記が3種も新刊として並んでいることに? カート・ヴォネガット、J.D.サリンジャー、レイモンド・カーヴァー。今夏は暑さ極まり、厚さ極まる、か。
 正直なところ、買うのを逡巡するのは価格のゆえに他ならない。それ程お金を潤沢に使える時期にない(切り詰められるところは極限まで切り詰めたいと願っている)わたくしは、本屋に通ってはそれらを立ち読みする日々だが、財布の紐を緩めてでも買いたいと思わせるのは、畢竟レイモンド・カーヴァー伝のみだ。
 知己の人らによるエッセイや村上春樹の解説などで知るレイ・カーヴァーの人生は、なんだか他人とは思えぬ程覚えのある諸々に満ちていて、共感できること、重ね合わせられること著しいのである。わたくしがカーヴァーに惹かれるいちばんの理由はかれが等身大の作家であり、その作物に筋肉の動きを感じるからだ。翻訳されたすべての作品を愛でることのできる海外作家などそうあるものではない。ましてやその伝記までが再三再四の愛読に耐えるものである/あろうことも、滅多にあることではない。
 話題は帰って、カーヴァーとサリンジャーの伝記はどうしても欲しい一冊だけれど、諸般の事情により今月の購入は無理だなぁ……来月の給料まで待たなくっちゃ、だな。◆

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第1381日目 〈ゼカリヤ書第3章:〈第四の幻〉withみくらさんさんか、ぼやいてみる。〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第3章です。

 ゼカ3:1-10〈第四の幻〉
 続いて主がわたくしに見せた幻。――御使いの前に大祭司ヨシュアが立ち、ヨシュアの右に訴える者/敵対者、即ちサタンがいた。ヨシュアの身なりは汚かった。
 御使いがサタンに、エルサレムを選んだ主はお前を責める、と告げた。「ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」(ゼカ3:3)
 そうして自分に仕える者たちに、ヨシュアを晴れ着に着替えさせ、清い冠り物を頭へ載せるよう命じた。その間、御使いはずっとヨシュアの前にいて、立ち続けていた。
 御使いはヨシュアに証言していった。万軍の主はこういう、――
 あなたがわたしの道を歩み、わたしの務めを守るなら、あなたはわたしの家、即ちユダヤを治め、わたしの庭を守る者となる。「わたしはあなたがここで仕える者らの/間に歩むことを許す。」(ゼカ3:7)
 ヨシュアよ聞け(と、主がいう)、あなたの同僚と共に。あなたはわたしの印徴となる者である。見よ、あなたたちの前に一枚の石の板がある。そこには7つの目が刻まれている。わたしはそこに碑文を刻む。一日のうちにこの地の罪を取り除く。
 その日(と、主がいう)、ぶどうといちじくの木の陰であなたたちはたがいに抱き合う。

 本文のなかにも落としこんだように、サタンは訴える者/敵対者の意味。これが「サタン」という言葉の原義である、といいます。これを一つの根拠として今日われらが知るような「サタン=悪魔」となった由。然るに「ヨブ記」にて神を唆してヨブを破滅させようとしたサタン(ヨブ1:6-2:8)も、同様に神の敵対者という意味合いで登場した、と、いまなら判断が付くのであります。
 そういえば「ヨブ記」に於いてサタンは、神にどこから来たかと問われてこう答えました、地上を巡回していました、方々を歩きまわっていました、と。これはゼカ1:10でミルトスの林のなかで赤毛の馬に騎乗していた人が口にした台詞に近い。それがサタンである、というのではありませんが、つながりを求めていった先の書物に再び近しい文言を見出すと、思わず勘ぐってしまうのが素人聖書読みの悪い癖なのかもしれません。
 本章は明らかに、第6章でわれらが読んで出会うこととなるヨシュア戴冠の前触れであります。前奏曲というてよいかもしれません。当初戴冠を予告されていたのはゼルバベルでありましたが、そこでは代わってヨシュアの戴冠、そうして祝福が描かれる。どうしてだろう、と思うて本章を読めば、ここで布石が打たれているのに気附きましょう。
 ゼルバベルではなくヨシュアであった理由は語られませんが、思うに神殿再建を通してユダヤ人共同体のまとまりも付いてゼルバベルの仕事も一つの完成を見た、そのあとで必要とされるのは民の信仰の維持と変わらぬ主への畏怖と敬愛である、それゆえに主は敢えてダビデ王家の末裔たる「バビロンの若枝」の名を持つゼルバベルではなく、<大祭司>ヨシュアを選んで共同体の心的運営を図ったのではないだろうか。ゼカ6:13を読んでわたくしはそう思うたのであります(「彼こそ主の神殿を建て直し/威光をまとい、王座に座して治める。/その王座の傍らに祭司がいて/平和の計画がふたりの間に生ずる」)。



 一時的な創作意欲の減退は著しくわたくしを蝕む。本ブログだけで手一杯なのは仕方ないにしても、このままの状態がいついつまでも、無限地獄のように続くのだけは勘弁してほしいのだが……。◆

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第1380日目 〈ゼカリヤ書第2章:〈第二の幻〉&〈第三の幻〉with連鎖反応? 翌日付記;さんさんか、So-netへの不信感を募らせる。〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第2章です。

 ゼカ2:1-4〈第二の幻〉
 わたくしゼカリヤが目を留めた場所に4本の角があった。御使いはそれを、イスラエルとユダ、エルサレムを散らせた角である、と説明した。続けて4人の鉄工(職人)が目に留まった。御使いはかれらを、イスラエルとユダ、エルサレムを散らせた角を切り倒すために来た者である、と説明した。

 ゼカ2:5-17〈第三の幻〉
 わたくしゼカリヤが目を留めた場所に、人が一人いた。かれは手に測り縄をも持っていた。わたしはエルサレムを測量します、幅と長さを調べるためです、とその人はいった。
 それまでわたくしに語りかけていた御使いが出て行き、別の御使いが来て、かれを迎えた。御使いがその人へ語りかけていうには、――
 さあ、あの若者の許へ走り寄って告げよ。エルサレムの都は人と家畜にあふれて、城壁のない万人に開かれた場所となる。わたしが都を守る日の城壁となろう。わたしはそのなかにあって栄光となる。
 急いで北の国から逃れよ、シオンの娘よ、逃げろ、かつてバビロンにて捕囚であった者たちよ。あなたたちを略奪した国々へ、主が宣言する、わが民に触れることは即ちわが瞳に触れることである、と。主がその御手を振りあげるとき、ユダを苦しめ辱めた国々は己の僕の手にかかって倒れるだろう。
 シオンよ、喜び躍れ。わたしはあなたたちのなかに住まう。その日、多くの国がわたしに帰依して、わが民となる。わたしはあなたのなかに住まう。
 ――こうしてあなたは主がわたし(御使い)を遣わしたことを知るようになる。主は聖なる土地から自分のものとしてユダを取り、再びエルサレムを選ぶ。「すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」(ゼカ2:17)

 「ゼカリヤ書」に限らず聖書のノートを執っていて、或いは聖書を読んでいて悩まされるのは、人称の問題であります。以前にも書いた記憶がありますが、いまそこに於いて<わたし>というているのが、預言者なのか神なのか、或いは御使いなのか、と判別しづらいときがあるのです。
 こんなことで躓いて頭を悩ませるのはどうやらわたくし一人のようですが、文脈をきちんと、丹念に辿っていても途中で主語を見失うことがある。本来なら明快で筋道の通った文章であるはずなのに、読んでいる途中でそんな事態に陥るとだんだん他の部分の理解もできなくなってくるのですね。どういうわけか。それが近来稀に見る程著しかったのが、実は本章なのであります。
 いちおう何度か推敲して体裁を整えましたが、読めるレヴェルになっているか不安です。



 一つのことでつまづくと続く他のことも上手く行かなくなる。そうした日はなにをやっても外れくじばっかり引く。なんだか笑われているような、そんな気分の今日。
 明日になれば新しい風が吹くのかな……?◆
2013年08月17日 19時09分


 ただいま真剣にプロバイダの移行を検討中。もうここを信用することができない。
 定刻更新ができなかったことについて深くお詫びします(まあ、安息日と思うことにしましょう)。改善にはプロバイダの移行より他なし、と結論するまでSo-netのCSの対応を見極めて判断しようと思うています。□
2013年08月18日 22時18分


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第1379日目 〈ゼカリヤ書第1章:〈序〉&〈第一の幻〉withこの世でいちばん嫌いなもの〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第1章です。

 ゼカ1:1-6〈序:ダレイオスの第二年八月に、〉
 ペルシア王ダレイオス1世の治世第2年(前520年)8月のことである。預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ、――
 往古(そのかみ)、主はユダヤ人に対して激しい怒りを降した。ゼカリヤよ、廃都エルサレムへ帰還した同胞(ユダヤ人)へわが言葉を告げよ。
 わたしに立ち帰れ。さらばお前たちへ立ち帰らん。再三の呼び掛けにも応じなかった父祖の轍を踏むなかれ。かれらは皆いなくなってしまった。天寿を全うするよりも忌まわしい終わりを迎えて、いなくなってしまった。預言者たちへ預けたわが言葉、わが掟は、かれらの心に届かなかった。
 わたしはかれらを、かれらが歩んだ道とその行いの業によって扱う。そう決めて、斯く行った。

 ゼカ1:7-17〈第一の幻〉
 同年11月(シェバトの月)24日、ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。8つの幻のうちの、最初の幻である。
 一人の人が赤毛の馬に乗り、谷底のミルトスの林のなかにいた。その背後には赤毛の馬、栗毛の馬、白毛の馬がいる。
 これはなにか、てふわたくしの訊ねに、主の御使いが促し、馬上の人が答えた。これらは主により地上を巡回するため遣わされたものである。かれは主の御使いにいった。われらは地上を巡回してきましたが、人々は皆やすらかに暮らしております。
 それを聞いた主の御使いは、主よ、どうしてあなたは70年もの間イスラエルとユダの人々に対して怒り、憐れもうとしないのですか、と尋ねた。
 ――すると主が、御自分の御使いに優しい言葉、慰めの言葉で以て語りかけた、――
 わたしは憐れみの気持ちを持ってエルサレムへ帰る。わが家をそこに再び建てさせる、と。エルサレムには測り縄が張られる。
 ゼカリヤよ、再び呼び掛けて、いえ。即ち、「わたしの町々は再び恵みで溢れ/主はシオンを再び慰め/エルサレムを再び選ばれる」(ゼカ1:17)と。

 主に代わって地上を警らする“巡回者”がゼカリヤの前に姿を現した。その巡回者のそばに立つ御使いこそ、ジークフリート・ヘルマンいうところの「解釈天使」angelus interpresである(『聖書ガイドブック』P160 教文館)。
 御使いはこのあとも現れて、ゼカリヤに幻の意味を説いて与える。これまでは主ご自身が預言者に関与して幻や預言の意味を与えるのが専らだったが、本書ではそれに代わる役割の者があって預言者へ積極的に関与してゆく。そんな小さなところに、本書の新しさを見出します。捕囚前と捕囚後という意識の変化が預言書の記述や表現に影響を落としているのかもしれませんね。
 70年はバビロン捕囚から解放までの大地の安息の70年を連想させます。また、エルサレムを計る測り縄云々は次章に出ますが、「エゼキエル書」40:3を思い出させます……その頃の思い出も同時に甦るのは致し方ないのかも。



 こう暑いと動くのも考えるのも嫌になりますね。余計な手間をかけるのを厭い、普段ならどうとも思わぬ自身の過ちすら、無性に腹立たしくなって一気にヒートアップする。挙げ句に流さずともよい汗を垂れ流し、己への怒りと責めを持て余す。そんな自分が甚だしく嫌いだ。それ以上に、甚だしく夏が嫌いだ。この季節だけでもどこか涼しげな海のそばか寒冷地で過ごしたいのであります。◆

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第1378日目 〈「ゼカリヤ書」前夜〉 [ゼカリヤ書]

 12小預言書、十一番目の書物が「ゼカリヤ書」であります。本書は前の「ハガイ書」と時も所も同じうするものとして、そうした意味では旧約聖書のなかで珍しい位置附けといえるかもしれません。なお、書名についてはくれぐれも「ゼファニヤ書」と混同されぬようお願い申しあげます。
 ゼカリヤの出自は第1章冒頭に掲げられる通りです。が、そこに一つの齟齬が生まれている。「イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤ」が「ゼカリヤ書」の記述。一方、「エズラ記」はゼカリヤを「イドの子ゼカリヤ」(エズ5:1)と呼ぶのです。
 イドはおそらく、<ユダの総督>ゼルバベルに率いられた第一次帰還団の名簿に名を連ねる祭司イド(ネヘ12:4)でありましょう。また「ネヘミヤ書」に載る帰還団の祭司、レビ人のなかに「イドの子ゼカリヤ」(同12:16)とある。これを「ゼカリヤ書」が記すイドでありゼカリヤである、と同定するのは、時代的に考えても妥当でありましょう。
 ではベレクヤとは、ゼカリヤにとってどのような存在なのか? 或る人はベレクヤこそゼカリヤの実父であり、ベレクヤが早逝して後にイドが孫たるゼカリヤを息子として育てたのだ、といいます。どちらのスタンス――血か職か――に重きを置くかで「ネヘミヤ書」と「ゼカリヤ書」の間には表現の差異が生じた。イドとゼカリヤの関係、記述の相違は――もしそれが事実だとすれば――斯様にも単純なことなのかもしれません。
 このゼカリヤが活動したのは、ハガイと同じダレイオス1世の治世第2年(前520年)から第4年(前518年)までの2年間と確認できます。場所は当然、エルサレム。かれはハガイと共にゼルバベルとヨシュア、その他の帰ってきたユダヤ人たちの神殿再建を支援する者でした。預言の内容はともかく、ハガイとゼカリヤの活動の礎に廃墟となった神殿の再建工事があったのは、動かし難い事実であります。かれらの存在と言葉を励みに、工事に従事する人々は汗を流して新しい主の家を築いていったのでありましょうね。
 「ゼカリヤ書」全14章は大きく2つのパートに分けられます。前半はかれが見る8つの幻と大祭司ヨシュアの戴冠、後半は未来を語る種々の託宣の集成で、<第二ゼカリヤ>とも称される。この部分に預言者ゼカリヤ自身は直接関わっていない、とされますが、神殿再建を通して共同体と民族の回復が語られる点で、やはりゼカリヤ存命中の預言活動なくしては存在も危ういパートであろう、とわたくしなどは読んでおります。勿論、個々の章については明日以後取り挙げてゆきますので、話題とすべき事柄があれば都度触れてゆこう、と思うております。
 今日は後半にあたるゼカ9:9-10に関してだけ述べましょう。新約聖書「マタイによる福音書」に引用されました。マタ21:5-7、イエスがろばに乗って云々という場面です。「福音書」だけ、そればかり読んでいると小さな箇所ゆえ読み飛ばしがちですが、旧約聖書を併読することで、新約聖書の細部が浮き彫りになる場合もある。ゼカ9:9とマタ21:5-7はそんな聖書読書の楽しみを教えてくれます。
 本書にはイスカリオテのユダにまつわる文言も登場するのですが、これについては当日のお話しとしましょう。ユダはイエスを売り飛ばした12使徒の一人、そうして太宰治「駈けこみ訴え」で主役を張った人であります。
 それでは明日から8月のほぼ終わりまで、毎度のことながら1日1章ずつ「ゼカリヤ書」を読んでゆきましょう。◆

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