第3722日目 〈北村薫「続・二銭銅貨」を読む前に。〉 [日々の思い・独り言]

 その本をパタリ、と閉じた。
 なぜか。或る感覚を覚えたのだ。前にもこんなことが、確かにあった。
 横濱を舞台にした欠伸が止まらぬくらい退屈な連作小説を読み棄てて、今季二冊目の北村薫、『雪月花』のあと『遠い唇 北村薫自選 日常の謎作品集』(角川文庫 2003/09)を読んでいる最中に覚えた、その感覚。
 やがて、最近はすっかり働きの鈍くなった灰色の脳細胞が答えを出してくれた。すべては、その感覚を覚えたときに読んでいた、「続・二銭銅貨」に原因していた。
 江戸川乱歩の短編「二銭銅貨」に材を取ったのが、「続・二銭銅貨」。「続」とあっても実際のところ、後日談というべきか、真相解明篇と呼ぶのか、よくわからぬ。
 乱歩の来訪を「私」が受ける場面で覚えた、前にも抱いた感覚の正体に思い当たったのは、後半へさしかかろうとするあたり──それは、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』所収「D坂の殺人事件」(草稿版)を読むときのそれに、よく似ている。
 即ち──乱歩の書いた正篇を読んでから、取り掛かれ。正篇とは「D坂(草稿板)」の場合、人口に膾炙した決定稿である。北村の場合は、新潮文庫なり光文社文庫版全集──否、暗号の誤りが訂正された、著者が本文に採用している創元推理文庫の「二銭銅貨」(『日本探偵小説全集 2 江戸川乱歩』)を先に読め、だ。わたくしは素直な読者だからね。
 「二銭銅貨」を読んだのはずいぶんと前になる。筋らしい筋はもう覚えていない。ただ日本初の暗号小説てふ惹句のみだ、覚えているのは。ならば「D坂」同様、いまが再読の好機ではないか。
 以前あったことが、いま再び。その感覚に従う。だから。
 その本をパタリ、と閉じた。◆










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第3721日目 〈やっておきたいことは? って訊かれても。〉 [日々の思い・独り言]

 かつての同僚(先輩)とランチする約束をして、お店の予約もぶじ終えて気附いたこと──今週からもう12月なんだね。マジか、と口のなかで叫んでしまいました。
 そうか、そのせいか。先刻まで一緒にいた人から、今年中にしておきたいことってある? と訊かれたのは。そうか、成る程。合点した。
 なんと答えたか、覚えていない。ありきたりの返事だった気がする。未納の税金(4期分)を払っちゃいたい、とか、確定申告の準備を始めたい、とかね。咨、なんて芸がない……。
 それはともかく。
 改めてこの質問を考え答えるならば──シャープペン片手に(まだまだ)読書中で、例によって例の如くの杉原泰雄『憲法読本 第4版』の再読は終わらせておきたい。ノートは来年になろうとも、再読はなんとしても今年中に。
 (昨年のいま頃はなにを読んでいたんだっけ、とモレスキンのノートを繰ってみたら、萩原朔太郎『恋愛名歌集』であった)
 『憲法読本 第4版』再読了ンヌ以外であれば、家庭のこと不動産業のことを別にすると、いちばんに思い浮かぶのは積んである小説を一冊でも多く読み捨てることだがこれは、目標とするには値せぬ。となると、いま思いつくのは、絶讃棚上げ中の読書感想文二つ(日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』と、イケナイ・アダルティーな小説)の第一稿完成と、……あれ、それだけ? なんだか随分と慎ましい残り一ヶ月間の抱負だな。英語の多読もヨセフスの通読も、勿論行うけれど、敢えて「目標」と声高に宣言するものでもないし。
 今日(昨日ですか)、川崎の丸善で買ったジェレミー・ブレットの本と、劉慈欣『三体』三部作プラス前日譚は年末年始のお楽しみである。『推しの子』と『その着せ替え人形は恋をする』共に既刊分全巻一気読みは、年末になる前にしてしまいそうな予感がしている。
 一日、なにもしないでひたすらワーグナーに心ゆだねてどっぷり浸り法悦に耽りたいとも思うけれど……これはチョット実現が難しそうだ。なにしろ《ワルキューレの騎行》が流れた途端、積ん読山脈が轟音立てて崩落したからなあ(実話です)。
 ああ、いやいや、年末年始のことではなく、あと一ヶ月のうちになにをしておきたいか、であった。母の逝去に伴い服喪中のため、お正月とは無縁である。ゆえにこんなのんびりした話にもなるのだが──ホントにね、一;杉原『憲法読本』再読了、二;二つの読書感想文・第一稿の執筆と完成、くらいしか望むところがないのですよ。
 欲がないのか、現実的なのか、よくわかりません。good grief.◆

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第3720日目 〈フラウィウス、揃う。〉 [日々の思い・独り言]

 幾度も幾度も迷うた果てにフラウィウス・ヨセフスの著作が、想定していたよりも低い価格で揃うたことを報告し、祝い寿ぎ、後の戒めとしたい。
 既にちくま学芸文庫版『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』をネットで購入したことをお伝えしてある(第3702日目、第3707日目)。また、その後については第3713日目でさらりと触れた。本稿は、いわば後日談だ。
 文庫で読めるヨセフスの著作を、本文ならびに訳者の文章を流し読みしているうち、やっぱり……と考えを改める事態になった。エウセピオス『教会史』と同じく『戦記』も『古代誌』も固有名詞の表記をより一般的なものへ改めてあるのみならず、いろいろな点でやはり元版となる山本書店版『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』を手許に置いておく方がよい、と結論したのである。
 ちくま学芸文庫版と同じ時期に購入を迷った山本書店版『ヨセフス全集』全巻揃いはその時点で未だ誰に買われることなく残っていたけれど、送料を含めれば10万円近くとなれば今回もまた(早々に)諦めるにはじゅうぶんな理由となった。神の恩寵というてよいか、偶々同じ頃に全集諸作がバラ売りされていて、それらを個別に購うても件の全集揃いの半分の金額にもならぬのが判明したことも大きい。
 斯くして一時的な可処分所得増に恵まれて、然れど慎重に状態と金額(送料含む)を比較検討して、まずは『ユダヤ古代誌』全十一巻と『ヨセフス研究』全四巻を、次に『自伝』と『アピオーンへの反論』を、最後に──注文済みと思いこんでいて実際はそうでなかったと気附いた『ユダヤ戦記』全三巻を注文、振込を済ませて……二日と開けずにそれらが届けられたのは嬉しかったけれど、流石に置き場所の確保は困った!
 お断りしておくと、実は『自伝』と『反論』はそれぞれ独立した山本書店版ではなく、2020年05月に青土社から合本で復刊された一冊である。訳文に修正が施されており、訳者のあたらしい解説を付してある。これらに限って山本書店版を選ばなかったのは、既に図書館で青土社版を手にして読んでいたのと、こちらの要求を完全に満たす『自伝』と『反論』が売られていなかったからだ(帯附き書込みなし、濡れ皺やブレなし。経年劣化に伴うダメージは許容範囲、但しヤケは程度による)。後者の理由──条件をクリアしていない『自伝』と『反論』を除いていったら山本書店版はみな消えてなくなり、青土社版だけが残った、という次第──。
 床に積まれたハードカバーのヨセフス著作群を、鼻の下をだらしなく伸ばして眺めている。聖書やユダヤ教/キリスト教、古代オリエント史とローマ帝国史を勉強してゆく際の基本文献を、日を経ず揃えられた幸福(と奥方様の愛ある理解への感謝)のゆえに。
 今後勉強するのがどんな分野であろうとも、良質のテキストと基本的な参考文献──辞書をはじめとしたレファレンス・ブックは手を尽くして状態の良い、場合によっては能う限り最新の版を(が、常に新しく出版されたものがモア・ベターでない点に注意)、あまりお金をかけることなく自分のまわりへ侍らせるようにできれば良い。時に必要となろう息抜きのためにその分野の(軽い)読み物も用意できれば、なお好い。
 いまのわたくしにこれを当てはめて、聖書・ユダヤ教/キリスト教、古代オリエント史/ローマ帝国史に即していうならば、……次は死海文書となる。ディック『ヴァリス』に淫してそれを知って爾来三十年余の時を隔ててようやく、死海文書それ自体へのアプローチである。
 まずは日本語訳のテキストだがこちらについては既にアタリを付けてある。問題は参考文献なのだが……図書館で端からあたっていって、自分に合うものを見附けるより外にない。が、それも時間がかかりそうなので、取り敢えずは手持ちの三冊を徹底的に読みこむことに専念するのが吉であろう。
 勿論、並行してヨセフスもぽつぽつ読んでゆきますよ、ハイ。◆

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第3719日目 〈英語の多読について。4/4 単語調べ補足とステップラダー・シリーズ、読書ノートのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 前項でわたくしは、載っている単語でわからんものは片っ端から巻末のワードリストにあたって調べてしまえ、それくらいまで割り切っちゃえ、と述べた。暴言だなんて思っていない。基礎的単語は何度辞書やワードリストで調べたって過ぎることはないのだ。mustとかdecideとか、shouldとかcouldとか、be afraid ofとかbecause ofとかといった、動詞や助動詞、形容詞、前置詞、代名詞、副詞の類は(作っただけで満足する単語帳と違って)辞書やワードリストを何回も引いた方が確実に脳味噌へ定着する、というのが実体験から導き出した提言である。……leftの例もあるしね。
 いまでもボキャビルマラソンの本やコースってあるのかな。でも、ボキャビル(ボキャブラリー・ビルディング)だけやっても、多読にどれだけの効果があるのか、と疑問に思います。単語の蓄積に力を注ぐなら、同じくらいの力を文法にも注がなければならない──って話にまでなりませんか。そうなったら、中高で計六年間やって来た英語のつまらん授業の繰り返しである。ボキャビルが無意味なんていわないけれど、そちらへ注力して読書が疎かになったり、本末転倒の結果を招くのならば、そちらへは(いまは)手を出さず愚直にワードリストのお世話になり、いつかそこから離れるようにすれば良いだけだ。

 そうそう、言い忘れるところだった。ラダー・シリーズLV1を困難に感じたり、或いは買ったはいいが、二、三ページ開いただけでそのまま読むのを止めてしまう人も、なかにはあるだろう。
 そんな人の気持ちがよくわかる。正直にいえば、並行して読む本が多くて例の『ガンジー伝』も読むのを止めていた日がトータルで1週間ほど、わたくしにもあったから。
 そうした人のために、同じIBCパブリシングから出ている「ステップラダー・シリーズ」を紹介しておきたい。ページを開けばたっぷりとした余白に大きめの活字で組まれた本文に、挿絵が添えられるばかりでなく、そのページの粗筋やキーワードになる単語と熟語の意味が載り、キーセンテンスといってちょっと長かったり難しかったりする表現を改めた項目も用意されている。読みやすさ、とっつきやすさという意味では、LV1よりもこちらの方に軍配をあげたい。
 このステップラダー・シリーズもLV1からLV3まで、児童文学やミステリ、名作小説がラインナップされている。わたくしもLV1(使用語彙300語)から『ロミオとジュリエット』と『美女と野獣』(このセレクトに意味はある)、LV2(使用語彙600語)から『くまのプーさん』と『赤毛のアン』、LV3(使用語彙900語)から『シャーロック・ホームズの冒険』を読んで、気持の上で(あくまで気持の上、である)英語を英語のまま読む姿勢を取り戻して、『ガンジー伝』に戻ったクチである。
 IBCパブリシングHPの特設サイトから、引用する。曰く、「ステップラダー・シリーズは、やさしい英語で書かれた、英語初級〜初中級向けの英文リーダーです。初心者レベルの方でも無理なく読めて、段階的にステップアップできるようにつくられています」と。まだ英語を沢山読むことになれていない人、なにから手を着けていいかわからない人、に向けた、最適のテキストというてよいのではないか。

さて、世に読書ノートというのがある。本ブログでもたびたびワードだけは登場する、読んだ本の内容や感想を記録したノートだ。最後に短くこの話題に触れて擱筆したい。
 英語の多読でも、この読書ノートは役に立つ。内容や感想を後日振り返るだけではない。それ以上の役目を、多読に於ける読書ノートは発揮する。これまで何冊読んだのか、これまで何万語を読んで目標数値まであと何冊(何語)を読めばよいのか。具にそれが記録されたノートは自分の現在地の確認と将来の道程を示してくれる。自分が着実に英語読書の経験値を積み重ねてきていることが一目瞭然であり、モチベーションの維持・向上にもつながる。ノートの作成は今後の読書の指針になることでもあるから、是非の作成を勧めたい。
 ここでフト意識に上るのが、先日感想文をお披露目した横田順彌の読書ノートのこと。
 書肆盛林堂から刊行されたノートの解説に、原本のサイズは明記されてない(追悼展に行っていないから補足説明もできない)。おそらくポピュラーなB5、原寸ならA6だろう。形式は大学ノートに、書名・著者名(訳者名)・出版社・五行程度の感想、が記されたシンプルなものである。
 こんな感じでなら、多読用の読書ノートも飽きることなく続けるのではないか。負担は少なければ少ない程よい。エッセイや論文の土台になるわけでなし、備忘の域に留まるものでしかないのだ。ヨコジュン氏みたくシンプル極まりないスタイルがこの場合、ピッタリなように思える。
 読んだ本が増えれば増えるだけ、ノートは増える。個人差こそあれ英文を読むスキルは、そうした過程で貯えられてゆく。成長の確認、将来の目標、停滞期の再出発に、読書ノートはきっと励ましを与えてくれる。◆



ロミオとジュリエット (ステップラダー・シリーズ STEP 1)

ロミオとジュリエット (ステップラダー・シリーズ STEP 1)

  • 作者: ウィリアム・シェイクスピア
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2021/11/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



Beauty and the Beast ステップラダー・シリーズ 美女と野獣

Beauty and the Beast ステップラダー・シリーズ 美女と野獣

  • 作者: アイラ・ポールソン
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2022/09/16
  • メディア: Kindle版



くまのプーさん (ステップラダー STEP Ladder Step2)

くまのプーさん (ステップラダー STEP Ladder Step2)

  • 作者: A・A・ミルン
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2019/06/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



赤毛のアン (ステップラダー STEP Ladder Step2)

赤毛のアン (ステップラダー STEP Ladder Step2)

  • 作者: L・M・モンゴメリ
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2020/06/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



Adventures of Sherlock Holmes ステップラダー・シリーズ シャーロック・ホームズの冒険

Adventures of Sherlock Holmes ステップラダー・シリーズ シャーロック・ホームズの冒険

  • 作者: コナン・ドイル
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2022/09/16
  • メディア: Kindle版




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第3718日目 〈英語の多読について。3/4 いっそ開き直っちゃえ、ということ。〉 [日々の思い・独り言]

 ラダー・シリーズLV1やLV2を謳うと雖もじゅうぶん難しい作品はある、と聞く。わたくしの失敗を棚にあげるわけではないが、わからない箇所はすっ飛ばし、辞書をなるたけ引かずに一冊読み切るという行為、事情はどうあれ中学英語も怪しくなっている人にはLV1であっても気持の上で曰く言い難い困難・苦痛を伴うはずだ。よーくわかる。わが身を顧みて、これ程共感できる話もない。
 辞書をなるたけ引かない、が呪縛になって生じる「内容が理解できない、筋を把握できない」といった「(あらゆる意味での)つまらなさ」が理由で読書が中断されてしまうなら、いつまで経ったって一冊を読了する達成感とも、「どうにか内容がわかった」とか「面白かった・退屈だった」とかの感想とも無縁のまま、多読から離れてしまうのは必至。勿体ない話だ。一度は横の文章を縦に変換する労を要すことなく、横の文章を横のまま読めるようになりたいと望んで原書を手にしたのに。
 もう、開き直ってしうことだ。中学高校で習った授業のことは忘れて(極端な話、それを引きずっている限り、前に進むことは出来まい。むろん、すべてをかなぐり捨てる必要はない。そこまで極端な話ではないのだ。覚えているものを敢えて捨て去るのは愚行でしかない)、はじめの十数冊はレヴェルに関係なく巻末のワードリストに依存して──むしろ載る単語を全部引いてしまうと思い切り、英和辞典に載る文法や動詞の変化一覧などもコッソリ覗くことにすればよい。
 読んでゆくなかで徐々にワードリストや(辞書・参考書といった)外部ツールへ頼る回数を減らしてゆき、二十冊くらいに達する頃にはそれらを殆ど用いることなく読了できれば良いよね。最初の一冊から逃げ道を断って一冊読了を迫るのは、拷問という外ない。
 そんな意味では、多読に取り掛かった最初のうちは、辛抱強さとめげない気持が求められる段階でもある。なかなかページが進まなくてもこの一冊を読み通すぞ、っていう辛抱強さ(忍耐力)と、ワードリストや外部ツールに頼る回数がどれだけ多くても或いは同じ単語を何度となく調べてしまっても、めげることなく落胆することなく読み進めてる鋼のメンタルを──。
 話がだいぶ横道に外れた。
 ラダー・シリーズのLV1であろうとLV2であろうと、易しい本もあれば難しい本もある(仄聞)。どうやら内容や総単語数に拠るわけでもないようだ。
 たとえば、以前本ブログで触れたNina Wegner『Bible Stories』はLV4(総単語数は13,670語)だが、Alam Morse & Gill Tavner他『Three Religious Leaders:Jesus, Buddha, Muhammed』(総単語数19,390語)は所々引っかかる箇所があって、『Bible Stories』の方がずっと楽に読めた。『Three Religious Leaders』はJesusのパートのみながら、早くもこんな印象を持っている。難しいというよりは読み応えがあった、というべきなのだろうが……。
 なお、『Three Religious Leaders』はLV2である。LV2の使用単語数は1,300語、英検でいえば3級、TOEICなら400-500点、になる。ちなみに、LV4の使用単語数は2,000語で英検2級、TOEIC600-700点に相当する。
 多読用のテキスト、学習用読み物に付されたレヴェルは出版社個々の基準に則って定められる。統一基準はない。繰り返しになるけれど、A社のLV1とB社のLV1が同等とは限らないのだ。『英語多読入門』を読むまでまるで意識しなかったそのことは、今度、ラダー・シリーズばかりでなく当該書で紹介されるシリーズの本にも手を出してゆく過程で否応なく実感するだろう。これもまた将来の楽しみである。
 まずは100万語到達・突破を目指して数をこなしてゆくこと。本稿冒頭──書いたのは何日前だっけ? タイトルに「1/4」とある回なのだが──で述べた、英語の学び直し・多読によるリーディング・スキルの取り戻しと向上を、来年の(もう一つの)目標にしたい、とは即ちこのことなのである。□



旧約聖書と新約聖書の世界 Bible Stories (ラダーシリーズ Level 4)

旧約聖書と新約聖書の世界 Bible Stories (ラダーシリーズ Level 4)

  • 作者: ニーナ・ウェグナー
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2013/11/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




イエス/ブッダ/ムハンマド 世界三大宗教の開祖たち (ラダーシリーズ)

イエス/ブッダ/ムハンマド 世界三大宗教の開祖たち (ラダーシリーズ)

  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2021/10/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




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第3717日目 〈英語の多読について。2/4 SSS(Start with Simple Story)について。〉 [日々の思い・独り言]

 「レヴェル」というのが厄介なのだ。出版社それぞれで基準を設けているため、たとえば、A社のLV1は読めるがB社のLV1は歯が立たない、なんてことは間々あるらしい。
 その点を解消すべく、英米の出版社が出している英語初心者用の読み物──対象は、なんらかの理由で学習が遅れている人、移民の人たちなどである──を、「読みやすさレベル(YL)」という一定の基準で整理したのが、『英語多読入門』で紹介されている「SSS(Start with Simple Story)」だ。同書から、「YLとは?」「ステップアップの効用は?」を述べた箇所を引用する。
 YLとは? 曰く、──

 SSS英語多読研究会では、本の読みやすさを評価する共通の基準、読みやすさレベル(Yomiyasusa Level, 以下YL)という数値を決めています。実際に多読をしている人の声を集約して、「日本人にとっての本の読みやすさ」をYL0.0-9.9の数値で評価し、YLの数値が小さいほど読みやすいことを示します。
 YL0.0は、題名だけが英語で、なかには一切文字のない絵だけの絵本です。したがって、YL0.0の本はまったく英語を知らない人でも読む(=内容を理解する)ことができます。英語学習用で使う本のYLは、0.0から8.5までです。YL9.0以上は難しすぎて英語学習目的の多読には適さない本であることを示します。
 (中略)
 SSS多読では、YL0.0から0.9の本をレベル0、YL1.0から1.9の本をレベル1の本というように、まとめて呼んでいます。(P15)

──と。
 『英語多読入門』ではYLごとに本の特徴が五行くらいで紹介され、該当する本の書影と出版社が例として載る(P45-8 P49にGR[Graded Readers]のYL別一覧もある)。
 では次。YLをステップアップしてゆくとはどういうことか? 曰く、──

 英語が相当苦手な人でも、読みやすさレベル0の本を100冊単位で読むことによって、レベル1の本が確実に読めるようになります。そして、レベル1の本を何十冊も読めば、必ずレベル2の本が読めるようになるのです。レベル2の本が読めれば、英米の小学生向け児童書を楽しんで読めるようになります。小学生向け児童書といっても、普通に日本の学校教育を受けただけで多読をしていない大人がいきなり読むとほとんどの人が歯が立たないレベルの本なので、ここまで読めるようになれば相応の英語が使える実感を持つことができます。(P28)

──と。
 ちなみにレベル1はYL1.0-1.9、使用語彙は300-400語、総語数500-40,000。文法としては現在形、現在進行形、can、must、going toに加えて、過去形が登場する。
 同じくレベル2はYL2.0-2.9、使用語彙は600-1,000,総語数は3,000-6,000。ここで新しく登場する文法は、現在完了、過去進行形、比較、間接話法、will、have to、could、である。
 レベル2で、ほぼ中学英語を網羅するんじゃないかしら。□



英語多読入門(CD付) (めざせ! 100万語)

英語多読入門(CD付) (めざせ! 100万語)

  • 出版社/メーカー: コスモピア
  • 発売日: 2010/12/24
  • メディア: 単行本




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第3716日目 〈英語の多読について。1/4 「ガンジー伝」での恥ずかしい失敗と多読三原則について。〉 [日々の思い・独り言]

 アインシュタインかエジソンか。モーツァルトかアンネ・フランクか。
 迷った末に選んでレジへ運んだのは、ガンジーの伝記であった。どうせなら、世界史の用語事典に載る程度しか知らない人物の伝記を読んでみるか。そんな気持あっての選択だが、実はこれ、例のラダー・シリーズの一冊で、しかもレヴェル(LV)1なのである。
 来年は、秋からのシェイクスピア読書を大きな目標とするが、同時に、英語の学び直し・多読によるリーディング・スキルの取り戻しと向上をもう一つの目標にしよう、と思うのだ。そんな意味では理に適ったセレクトだろう。
 読む時間にして三十分くらい。寝る前に一章、長ければ途中まで。全単語の意味を網羅したワードリストが巻末にあるとはいえ、不明の単語あればエピソードや文脈から意味を推測して前に進むようにしている。その過程で、思いこみによる弊害も既に経験した。
 このガンジー伝、LV1でも総単語数8,190語。一緒に買ったOsamu Dazaiの『Run,Meros,Run』は4,700語だからほぼ倍である。厚さは若干、ガンジー伝の方が勝るかな。
 LV1とはいえ読み応えのある一冊だが、思いこみによる弊害とは”Introduction”、P4の「Because of Gandhi, the British left India」てふ一文。
 ガンジーがなんちゃらな理由で、英国がインドの左側でどうたら、とは? なんのことやらさっぱり、である。小首を傾げるより外なし。
 どうやら、御無沙汰していた十数年の間にわたくしの英語力は、深刻な問題を抱えていたようである。英文読解の根本をなす動詞の活用形をすっかり忘れていたのだから。──と、ここまで書けば腹を抱えて大笑いされる方が続出して跡を絶たぬだろう。つまり、なぜか「左(側)」と思いこんでいた”left”は、「立ち去る」とか「〜をあとに残す」という意味の動詞、”leave”の過去形、過去分詞だった。
 お恥ずかしい限りである。幸いなことにこの箇所で散々悩み、解決してからは特に立ち止まることもなく、ガンジーとカスツルバ(Kasturba ──共に十三歳!)が結婚する章まで進んだ。今宵から新しい章に取り掛かるつもりでいる。
 ガンジー伝、Osamu Dazaiとおなじく一昨日丸善で購入した、『やさしい本からどんどん読もう! 英語多読入門』(古川昭夫;監修・著/上田敦子;著/伊藤晶子;協力 コスモピア 2011/01初版第1刷・2015/03第3刷 以下『英語多読入門』)にも、ラダー・シリーズ同様に多読三原則が載る。いまここに引けば、──
 第一原則 辞書は引かない
 第二原則 わからないところは飛ばす
 第三原則 つまらなければやめる
──以上(P22)。
 辞書は引くな。わからなければすっ飛ばせ。ツマラナケレバ次の本に移れ。──わかっていても、それがなかなか出来ない日本人である。国民性? 否、学校教育の弊害でしょう。
 しかし、英語を読みこなせるようになりたい日本人は世にあふれ、斯様な希望をいだく日本人は絶えてなくなることがない。そこに需要はあった。突破口もあった。ラダー・シリーズにいまは代表させておく英語多読用のテキストが、洋書も扱う新刊書店に行けば必ず棚の一角を占めて並ぶのは、要するにニーズがあるために他なるまい。
 そこで『英語多読入門』が提示するSSS(Start with Simple Story)のご登場である。SSSは単語数が極めて限定された(0語〜5語程度)絵本から始めて、徐々に「英語を日本語に訳さず、英語のまま読めるようになる」のを目的としたシステムだ。
 第一原則「辞書は引かない」について、不明な単語は一冊につき三語くらいに留めたい旨述べる。が、巻末にワードリストがあるならば、読了後の参照は大いに推奨されている。読了後の参照、とは読書の流れを中断させないための方法である。
 でもわたくしは正直なところ、読んでいる最中にワードリストを覗いてもよい、と思うている。挿絵などの助けがないなかで読み進めることに不安が生じるのなら、読書中であってもそれは存分に活用されるべきだろう。「三語程度」とあるからとてそれに従う必要なんて、ない。絶望する必要も、ない。文字通りの意味ではなく、敷衍させて「調べる未知の単語は、なるべく少ない方がよいですよ」という程度の話である。無闇矢鱈に、片っ端からワードリストにあたってそれに馴れること勿れ、ってことです。
 第二原則と第三原則に関しては、現在のところ該当するようなアクシデントは生じていないから、話題にするのは止めておく。興味ある人物の伝記、という理由もあろうからね。□



The Gandhi Story ガンジー・ストーリー ラダーシリーズ

The Gandhi Story ガンジー・ストーリー ラダーシリーズ

  • 作者: ジェイク・ロナルドソン
  • 出版社/メーカー: IBCパブリッシング
  • 発売日: 2013/09/06
  • メディア: Kindle版




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第3715日目 〈横田順彌『ヨコジュンの読書ノート』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 まずお断りしておくと、正式な書名は『ヨコジュンの読書ノート 附:映画鑑賞ノート』である。厳密には「の」が丸で囲まれているのだけれど、そこまでの再現は無理なのでご了承願いたい。書肆盛林堂 2019年12月刊。
 北原尚彦の解説に拠れば本書のベースになった読書ノートは、1965(昭和39)年〜1967(昭和42年)、ヨコジュン氏高校三年生(の三学期)から大学在学中の時期に書かれている由。
 この時期の日本SF出版は(ミステリと然程変わらずで)黎明期というてしまえばそれまでであるが、とにかく読む選択肢は現在とは雲泥の差。所謂SF小説の古典が翻訳されてそのラインナップが揃い始めた時期でもあった──事実、ヨコジュン少年の読書ノートには、クラーク『幼年期の終わり』、アシモフ『われはロボット』、ハインライン『夏への扉』、シマック『中継ステーション』、シュート『渚にて』、などの書名が並ぶ。脚注の書誌(労作!)に頼れば、どうやら氏はこれらを熱々の新刊で手に入れ、片っ端から読み倒していった様子。むろん、なかには古本屋で購うたものもあっただろうが、出版事情を考えればこの充実ぶりはまさしくマニアの読書ノートの面目躍如といえるのではないか。
 ヨコジュン氏が読んでいたのは海外のSF小説ばかりでは勿論、ない。小松左京や筒井康隆、星新一、光瀬龍、海野十三、といった面子も並ぶ。なかには佐野洋、新田次郎、なんて名前も出て来て意外の感に打たれるが、氏は、SF小説と銘打たずともSFの要素を含む(と思われる)作品を見附けると読んでいた(P98 北原)、というからその一環か、と思うていたらこれがちゃんと「SF小説」として出版されていたのだから、二重に驚かざるを得ぬ。想像するにどの出版社も、時代の流れに取り残されぬようお抱えの作家にSF小説を書かせていた時期でもあったのだろう。「水準以上の作品だろうとは思う」(佐野『透明受胎』 P51)、「日本SF史の中では貴重な作品である」(新田『この子の父は宇宙線』 P52-3)というのが氏のコメントである。
 なかなか痛快なのが、佐野、新田と同じく一度しか言及されない山田風太郎。「SF」ではなく「奇想小説」と銘打たれているのが納得だが、『男性週期律』を読んだ若かりしヨコジュン氏の感想が、痛快というのである。曰く、「よくこんなくだらないものを書いたものだ 本を保存しておく必要もないので早速古本屋へ売った 150円也」(P20)と。でもこんな風にコメントされると却って読みたくなるのが人情です。エロとナンセンスが同居した同名短編は光文社文庫に入っているとのことなので、早速古本屋で捜してみましょう。150円じゃ手に入らんだろうけれどね。
 前述した国内外のSF小説家、勿論本稿では名を挙げていない作家もいるが、21世紀に於いてなお読み継がれている人の作物は、雑誌を含めて出た端から、見附けた端から読んでいたことから、本書は必然的に戦後高度経済成長期を背景にした日本に於けるSF小説の出版史&(読者側の)受容史の貴重な証言になっているわけだが、同時に、今日では(マニアならいざ知らず)すっかり忘れられてしまった作家の手になる(SF)小説の存在をいまに伝える記録にもなっている点に着眼したい。
 丘美丈二郎『鉛の小函』(P9)、泉政彦『改造人間』(P83)、山口裕一『キチガイ同盟』(P84)、海外作家に目を向ければこちらの浅い知識を露呈するばかりだが、ピーター・ブライアント『破滅への二時間』(P25)、エリック・F・ラッセル『宇宙の監視』(P71)、或いは大光社《ソビエトS・F選集》に入ったナターリャ・ソコローワ『怪獣17P』やZ・ユーリエフ『四つ足になった金融王』(いずれもP70)など、氏のコメントに従えば埋もれて忘れ去られても仕方のない作品もあれば、埋もれてそのまま忘れられているのが勿体ないと思える作品もある。殊に《ソビエトS・F選集》の二冊! 訳文は当時のままでまったく構わぬから(最低限の誤植誤訳を正し、欠損あらば補訳して)、ハヤカワ文庫SFか創元推理文庫で復活させてくれないものか。帯には当然ヨコジュン氏のコメントを抜粋して。地元の県立図書館にも市中央図書館にも収蔵されていないんだよ……読みたい、マジで!
 ああ、さて(小林完吾風に)。
 『SFマガジン』を読み、ハヤカワと創元の既刊新刊を読み倒すのに並行して、氏の足は自ずと古本屋へ向かい、古書市場に出回る戦前の科学小説の収集を始める。この過程で氏は最大の鉱脈を掘り当てることになる。日本古典SFの発見、である。そこを主軸にした近代文学史の書き換えと近代科学・文化史の新しい視座の獲得、である。本書は氏の、何人も及びがたい業績を遠くに予見するかのように押川春浪の作品の読書感想も載る(P53-4)。そんな意味でもヨコジュン氏の生涯の仕事の萌芽がここに見られる、というて過ぎはしないだろう。
 松本清張唯一のSF小説『神と野獣の日』(P16 案外と高評価)、ブラッドベリとシマックの作品に寄せた氏の感想について言及できなかったのが残念。これは機会があれば別の日に……といいたいが、本当にそんな日が来るのかは不明である。
 それにしても本書をもし、『バーナード嬢曰く』に登場するSF小説好きの女子高生、神林しおり嬢が読んだらどうなるか。海野十三「電気風呂の怪死事件」も載っている。そんなことを、本書を読みながら夢想したりもしたのである。◆
※2023年11月22日 03時47分公開□



!!! もうすぐ !!!
!!! 待っててね !!!
※上2行、2023年11月22日 02時49分に直接入力、つなぎとして公開。記念に残す。□

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第3714日目 〈いまになって法律が面白いということ。〉 [日々の思い・独り言]

 それにしても法律は面白い。馬齢を重ねたとか社会経験の蓄積、っていうのがいちばん大きいんだろうけれど、民法はともかく、刑法や商法なんて学生時代よりも余程よくわかる。不動産会社やコールセンターで仕事していなければ、株主総会・決算に伴うディスクロージャー・IRツールの進行管理やスタッフの労務管理をしていなければ、法律を面白いと感じたりしなかったろう。
 法律は、年齢と社会経験を重ねてからの方がずっと面白い。これは実感である。
 いまならば、25年前の慶応通信法学部生の平均年齢が他よりも高かった理由を、背景も含めてわかるような気がしている。公私問わず様々な法律に関わってきたためだろう。自分がいた文学部や経済学部は、もうちょっと若かったものなぁ。──木を隠すなら森、現在の自分であれば入りこんでも目立つことはあるまい。延期していた学士入学、本気で考えようかしらん。◆

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第3713日目 〈杉原『憲法読本 第4版』、再読の進捗具合。〉 [日々の思い・独り言]

 時刻は14時過ぎ、「魔の刻」というてよい頃。青土社から出版されたヨセフス『自伝/アピオーンへの反論』(秦剛平・訳 2020/05)が届いたその月曜日、みくらさんさんかは杉原泰雄『憲法読本 第4版』精読の続きをせんとて近所のカフェに出掛けた。ようやく買えた新しいリュックにモレスキンのノートと芦辺慶喜、本秀紀・編の憲法の本二冊を放りこんで。
 相も変わらずシャープペン片手に、時々巻末の憲法条文を参照しながらゆっくり、丹念に、傍線を引いたり余白に書込みもしながら、読み返す。扉への書き付けを見るとこの再読、今月11月07日から始めて、下旬に差しかかる今日の読了箇所を以て140ページ目に至った。二週間で140ページ、か。本書は、日本国憲法全文や参考文献のページを除いて本文約270ページ。残りが130ページ程だから、読了まで同じくらいの日数を要すると考えて間違いあるまい。前述の通り、毎日読んでいるわけではないから、実際は七日というところかもしれない。
 ただ今後の内容に目をやれば、今日、基本的人権のうち自由権の項目を読み終えた(本来は社会権、受益権まで進めたかったが、集中力が切れた)。基本的人権はまだ端緒についたばかり。このあと、国民主権/議会制民主主義、三権分立、国会・内閣・司法、地方自治、象徴天皇制、と続いて当該章が終わり、第九条を中心にした憲法運用の章、総括の章、となって巻は閉じられる。これからちょっと難しい項目に入ってゆくから、残りのページも二週間くらいで……というのはあまりに楽観的な計画かもしれない。それだけ内容が詰まったパートへ突入している、ということでもあろう。
 日本国憲法のことは、然れど来る日も来る日も考えている。書店へ行けば法学や憲法のコーナーで足は停まるし、家にいても岩波文庫や『ポケット六法』の日本国憲法や、枕辺にあって今日もリュックに詰めこんだ芦辺『憲法 第六版』と本・編『憲法講義 第3版』(日本評論社 2022/03 2203/04第3版第3刷)を興味ある条についてのページやぱらぱら目繰って目に留まった箇所を読んでいる。これとて毎日ではないが、法曹でも法学者でも学生でもないから、と弁解しておく。
 この本は読了後、多少の間を置いて読書ノートへいろいろ書き写される。傍線や書込みの多さに閉口して途方に暮れて、「やれやれ」と頭を振って独り黙々と作業に耽るだろう。内に燃え盛る知識欲の充足と獲得の喜びに打ち震えながら。◆

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第3712日目 〈あの世界への鍵をなくした男の話。〉 [日々の思い・独り言]

 ラヴクラフトが友人諸氏へ宛てた書簡から、ダンセイニ卿について触れた箇所を適宜訳出した自費出版本を今日、受け取った。巻末底本一覧に拠れば、アーカムハウス刊『Selected Letters』全5巻からではなく宛名人毎に編まれた書簡選から訳出したようだ。
 まだぱらぱら目繰った程度に過ぎないが、きちんと読む日の訪れがいまから楽しみである。これだけまとまった形で、ラヴクラフト・トーキング・ロード・ダンセイニが日本語で読める機会はないから、その意味ではとても貴重な一冊といえるはず。感想等は別に認めるが、まさか初っ端から校正ミスに出会うとはおもわなんだ。
 ちょうど部屋の片附けをしていて、ダンセイニ卿やラヴクラフト・スクールの作家たちの翻訳や原書、或いは研究書を詰めこんだ棚の整理へ取り掛かろうとしていた矢先これが届いたのは、一種の僥倖だと思うことにしたい。
 先日、何年も前に書いた(実際は、書きかけた)友人への手紙の下書きが出てきて、懐かしく読んだ。レポート用紙10枚以上に及ぶ、わたくしの幻想文学遍歴を綴った手紙である。読みながら嗟嘆せざるを得なかった。幻想文学への愛着と執着は当時から既に薄れかけていたのに、それを読んでいる〈いま〉は更なる拍車がかかり、近頃は省みることも甚だ少なくなった。だんだん、その世界、その雰囲気に入ってゆくのが難しくなっているのを感じる……『銀の鍵』のようだ。
 ゆえに夢中になって読んだ偏愛の群れもいまや事実上の場所塞ぎと成り果てている。それでも好きな作家の翻訳を見附けると、矢も楯もたまらず買いこんでしまうのだから、なんとも未練がましい自分である。最後に読んだのは……マンビーとオニオンズだったな。
 余命宣告されたわけでないし、終活に取り掛かっているわけでもない(あれ? 以前「終活始めました」みたいなものを書いた覚えがあるけれど……まぁいいか。時は流れる、のだ)。が、最近は、二十歳前後に書き継いで結局残り1/3という辺りで書くのを止めてしまったHPL論……恋文、というが相応しいようなエッセイの集まりである……や、未完の『世界幻想文学講話』を書き継ぎ推敲して遺してゆきたい、と夢想してもいる。やり残したことを仕上げる作業に、この分野に関しては取り掛かりたい。そう倩思うことが多くなったのだ。
 まずは前述した、友人に宛てて中途で止した件の手紙を完成させる。加除修正・推敲して、本ブログでお披露目する(許可は得ている)。それが、始末の最初になるかな。まったく、昨日の今日で忙しい話です。◆

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第3711日目 〈2024年はどんな一年になるんだろう?〉 [日々の思い・独り言]

 来年は──どんな一年になるんでしょうね? 色々あって苦労させられた、悲嘆の今年だったので、来年はその反動で喜ばしい事態が立て続けに出来する一年であってほしい。火事や盗難、事件や事故とは無縁で、お金に不安のない、好きな人が側にいる、健康で文化的な生活が送れれば、それ以外はなにも望まないのだけれど……。
 本ブログに関していえば、当初読むと決めていた本を読み、うち幾つかの読書ノートを作ったら、憲法の勉強からは一旦離れる。そのあとはシェイクスピア読書マラソンへ比重を移そう。これは最低でも三年を予定するが、実質的には一ヶ月半程度の作業だ。並行して英語の学び直しもある。従前通り、聖書とその周辺に関しても読書は続け、折に触れて文章も書く。むろん、近世怪談の訳筆も執る。
 こう話すと遅滞なく停滞なく順調に元日から大晦日まで進んでゆきそうだが、そんなことがぜったいにないのはブログ主たるわたくしが保証する。ブログ主のわたくしがいうのだ、間違いはない、信じてよい。呵々。ただ、身銭を切って購った本が多少なりとも斯様な事態の到来をわずかなりとも減らすことができるはずだ。
 昨日と今日買った/届いた本を列記して、筆を擱く。

 2023年11月17日
 ヨセフス ユダヤ古代誌 全11巻 山本書店
 ヨセフス研究 全4冊 山本書店
 大塚幸男 閑適抄 -ギッシングと共に- 第三書房
 荒木茂雄他編集 関口存男の生涯と業績 三修社
 新約聖書翻訳委員会 新約聖書 改訂新版 岩波書店
 並木浩一 ヨブ記注解 日本基督教段出版局
 本英紀編 憲法講義[第3版] 日本評論社
 P.D.ジェイムズ 女には向かない職業 ハヤカワ・ミステリ文庫

 2023年11月18日
 青空葵 星色のあしあと。 青空アクアリウム
 別冊SFイズム① まるまる新井素子 みき書房

 注文中・到着待
 ヨセフス ユダヤ戦記 全3巻 山本書店
 H.P.ラヴクラフト 怪奇小説家はダンセイニ卿を語る

 以上、である。たぶん。◆

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第3710日目 〈第4000日目を目指して。〉 [日々の思い・独り言]

 未来が具体的に描けてきたのでようやくこんなことを書けるわけでもあるのだが、来年令和06/2024年09月のどこかで本ブログは第4000日目に到達できそうである。
 平成20/2008年秋に開設して、更新を続けてゆくのが極めて困難な事態に幾度か直面し、その度いつ終止符を打つか不明の沈黙を余儀なくされたが、いま読者諸兄にお読みいただいている事実が証明するように、本ブログは16年目にして、いよいよ第4000日目を迎えられるメドが立った──。
 勿論、この予定もこれから先、ありとあらゆる可能性に起因する深甚な肉体的精神的ダメージを喰らうことなく、不注意等による「更新(予約投稿)うっかり忘れちゃった、えへ現象」、その他考え得るすべての更新停滞要素が現実にならなければ、という前提あってのことなのは、敢えてお断りする必要もあるまい。
 つまり、お前が怠けなければいいわけだな。どこかからそんな声が聞こえてくる。耳の痛い話だ。首を縦に振るしかない。
 とまれ、第4000日目だ。書くことはもう決まっている。いまはその日を目指して、ガムシャラに、馬車馬のようになって書き続けるに外なし。◆

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第3709日目 〈鹿島茂『成功する読書日記』を読みました。──読書日記/ノートの作り方。〉2/2 [日々の思い・独り言]

 フランスの学生の挿話を振り出しにした鹿島茂が次に筆を進めるのは、いよいよ具体的な読書日記(読書ノート)の作り方、いわば実践を前にした読者へのアドヴァイス、であります。が、これがまた一筋縄ではゆかぬ、誰もが即座に真似できるものではないのです、とはあらかじめお断りしておきたい。
 読者諸兄のためにアドヴァイスの見取り図を作ると、こうなります。①どこを引用したらよいか? ②引用だけから成るレジュメ(要約)を作る ③自分の言葉で要約するコント・ランデュに挑戦する ④批評に挑む 以上。核となるのは②と③で、④はむしろ添え物くらいに思うた方がよい。
 では、まず、①読んだ本のどこを引用したらよいのだろうか? です。
 これね、本当に迷うところがあると思うんです。ここを引用しようかな、と考えた途端にその前後も引いた方が分かりやすいかと思い始めたり、ここを引用しようと思うんだけどなんか主題や内容に即していないようか気がすると悩んでしまったり、かと思えば目に留まった箇所を片っ端から引用してみたくなったり、などなど。
 そんな疑問、そんな悩みに、鹿島が授ける唯一無二のアドヴァイスはこれ、「読み終わって本を閉じ、ついでに目も閉じたとき、一番記憶に残っている一節がいい、と答えましょう」
 ここで鹿島は読書日記の本義に立ち返って、「(それは)客観的な資料を残すためのものではありません。あくまで、自分個人のためのものです」と説く。まったく以てその通り。そう、あくまで自分のための読書日記なのです。それゆえに、「引用も極私的なもの」で構わない。「かならずしも、その本のエッセンスを示す箇所とはかぎりません。本筋とは関係なく、自分にとっては妙に気にかかる一節、心に触れる箇所というのがあるはずです。そこを引用すれば」良い。なんとなれば、「そのほうが、後々、はるかに役に立ちますし、力にもなります」から。その本のエッセンスとなる箇所を見附けるよりも、読んでいてピンと来た箇所を引用する方が余程理に適っている。エッセンスとなる箇所はあとから幾らでも捜すことができますけれど、読みながら自分の琴線に触れた箇所というのはまさしくそのとき限りの出会い、一期一会なわけですからあとで捜すのは到底不可能に近い。誰しも同じような出会い方をして、心に刻まれる箇所というのはあるのです。ただ、読みながらノートへ写すのは無理でしょうから、あとで追跡はできるよう、「読みながら端を折っておくといい」でしょう。そうして実際ノートへ写した際は「引用箇所のページくらいは書き留めておいたほうがよい」とは、経験者なら誰しも首肯するところだと思います。引用はいずれもP24から。
 次に、②引用だけからなるレジュメ(要約)を作る、ですが、どんな意味なのでしょう。文字通りの意味であります。自分の文章は使わず、その本からの引用だけで、その本のレジュメ(要約)を作るのです。
 誰ですか、簡単だぜっ! と鼻息荒くしていてるのは? 事はそう単純ではない。というのも、「これは、やってみると、案外、難易度の高いパフォーマンスだということがわかります」。「では、なぜ難しいのでしょうか? 本をしっかりと読んでおかないと的確な引用ができず、ちゃんとした要約にならないからです。本を要約するには、まず正確に理解することが大前提となります」。引用はいずれもP25から。
 そうですね、頷くよりありません。内容をきちんと咀嚼し、自分のものにしてしまっている本であればほぼ「正確に理解」しているだろうから(エッセンスとなる箇所もわかっているだろうから)、そうした本を、引用のみで要約するのは難しいことではないのかもしれません。
 鹿島は、特に引用から成るレジュメの実例は見せてくれていませんから、自分の考えるところを述べますと、この要約は、無理にその本の全編にわたって行う必要はない、各章事の要約は必要になりましょうが、それとて必死になって長いだけの要約はでっちあげなくてもよい。というよりも、むしろ、作ってくれるな。読まされる側は却ってその本のことが分からなくなるばかりだから。かというてむろん、短くしてしまえば良いというわけでもない。しっかり読んで正確に理解しているならレジュメは、必然的に適切な分量に収まるはずだ。程度の問題、というよりはどこまで理解が及んでいるか、どこまで内容をしっかりと把握しているかの問題、というのが相応しいかもしれませんね。
 本の内容、作者のメッセージ、思想等の理解が正確にできていないと、本からの引用は“レジュメ”から大きくズレて、一個人の感想レヴェルに留まります。もっともこの引用のみから成るレジュメが、日常的な読書日記に留まるのか、エッセイや論文のための土台になるのか、でそのあたりの様相はだいぶ変わってくることになるのかもしれません。
 わたくしが『成功する読書日記』を読んで(それこそ全編を通じて)心底唸ってしまったのは、③自分の言葉でその本を要約する、コント・ランデュ、の技術でありました。本書を読んだ少しあとに出版された本の一節に触れて、ああこれはコント・ランデュの技術につながることでもあるな、と合点した点でもありました。
 「引用だけからなるレジュメは、この正確な理解の試金石」(P25)とした上で、「引用だけのレジュメに習熟したら、次になすべきことは、物語や思想を自分の言葉で言い換えて、要約してみるということです。[改行]フランスの教育では、これをコント・ランデュ(compte-rendu)と呼び、引用を使ってするレジュメとは区別しています。これをやると、引用のなかにある言葉や句を使ってはいけないので、語彙を豊かにするのに役立ちます。また、言い換えが作者の言っていることと矛盾してはいけませんから、必然的に[言葉の:みくら補]正しい理解を心掛けるようになります」と述べる。この引用は、P25-6から。
 ボキャブラリーが貧しい人、言葉の誤用濫用に疑問を持たぬ人、その場に相応しい言葉かどうかを配慮できない人、には高い壁かもしれません。しかし、本を沢山読んでボキャブラリーを増やしても、それの正しい意味と使われ方に無頓着では仕方ない。そうした人はコント・ランデュに挑もうとしたらまず座右に侍らすべきは複数冊の国語辞典でありましょう(自戒も兼ねて、いう)。
 先程合点した、というたのはフランス在住の、現地学校で哲学を教える日本人が書いた本に、フランスの学生は論文など書く際そこで使用する言葉の定義を明らかにして(=読み手に伝えて)本題に入る、という件があったのです。曰く、「(フランス人は)アカデミックな世界や学校教育のなかで論文や論述を書くとき、導入となる部分にその文章のキーワードとなる言葉の定義を記します。[改行]これは「私はこの○○という言葉をこんな意味で使います」という前置きです。[改行]文章の初めから終わりまで登場するような重要な言葉であれば、なおさら最初に定義づけをしておく必要があります。そうでないと、読者が「あれ? 自分のイメージしているものと違うぞ」とモヤモヤを抱えながら読み続けることになります」と(平山美希『「自分の意見」ってどうつくるの?』P90 WAVE出版 2023/04)。
 論理的なフランス人、議論好きのフランス人、正しい言葉を正しい場面で正しく使うフランス人、というのが、わたくしのなかで初めに浮かぶフランス人のイメージであります。日本語の教え子のなかにいたフランス人を思うと、そんなことが初めに思い出される。セーヌ川の辺で愛を囁き交わすフランス人、みたいなのが逆に思い浮かんでこない。それはさておき、──
 言葉の定義を明らかにするとは、多義語(同じ言葉でも複数の意味を持つ単語)が多いフランスでは特に必要な作業なのでしょう。言葉は、使われる場面で意味が微妙に異なってくる。その場に相応しくない意味でその言葉を用いることは、時に発信者と受信者の間で相互理解の大きな障壁となる。これを避けるために、どんな意味でこの言葉を使うか、定義をはっきりさせる作業を行うのでしょう。これはそのまま、コント・ランデュに於ける、引用したなかで作者が用いた言葉は使わず、同じ意味を持つ言葉に置き換えて本なり論文なりを要約する作業に直結するはずです。
 ただ、──コント・ランデュはもはや読書日記の域を出てしまっている、というてよいかもしれません。さりながら、ボキャブラリーを増やす、言葉の正確な意味・用い方を獲得する、というばかりでなく本や論文の構造や思考の発展系を正しく把握しているか、の試金石に、これはなりますね。そう考えてみると、自分の語彙や文章力、思考、思想を鍛えることができる最良の方法といえます。
 自分に、②引用のみから成るレジュメ、と、③引用中の言葉に頼らず己の言葉で内容を要約するコント・ランデュ、のいずれであっても出来るかどうか、分かりませんが、そうですね、今後取り組む予定のシェイクスピアで、いっぺん試してみるのはいいかもしれません。
 さて、最後の、添え物程度というた④の批評ですが、読書ノートに写した箇所と、そこに記したわたくしのコメントを転写することで責を塞ぐと致します。鹿島曰く、──
 「(引用から成るレジュメとコント・ランデュを完全に習得したら)ようやく、ここに至って、「批評」という言葉が登場します。言い換えれば、一冊の本のいわんとしていることを的確に引用してレジュメしたり、コント・ランデュすることができぬ限りは、批評という大それた行為に踏み切ってはいけないのです。(中略)不正確な理解の上には、なにを築いても無意味なのです。[改行]また、批評をするには、それなりの修行が必要となります。(中略)批評が、断定的な言葉の羅列だと誤解されては困ります。[文芸批評家以外は:みくら補]批評を全面展開する必要はありません。引用によるレジュメかコント・ランデュ、それに感想かコメントを書き留めるだけで十分だと思います」(P26-7)
──と。
 みくら曰く、──
 「不正確な理解の上には、なにを築いても無意味」! 辛辣ではあるが、実に正しい。文章を書くばかりでなく、何事に於いても然り。肝に銘じよう。
 批評文は感想文の発展型ではない。その間に、レジュメやコント・ランデュという段階がある。批評は窮極系と捉える方がよい。内容を正確に把握していない独りよがりで断定的な言葉で綴られた批評文めいた代物を書くくらいなら、レジュメやコント・ランデュ、もしくは感想やコメントを読書日記に記している方がよい。それでじゅうぶんである。──この鹿島の言葉に安堵した読者も多かったのではないか。わたくし自身、正直、ホッとしている。
──と。◆

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第3708日目 〈鹿島茂『成功する読書日記』を読みました。──読書日記/ノートの作り方。〉1/2 [日々の思い・独り言]

 読書ノートや読書日記の作り方、みたいな記事を見附けると、つい手を伸ばして読んでしまいます。なにか自分にフィードバックできる技術はないか、そんなことを期待してであります。
 鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋 2002/10)を読んだのも、最初はそんな期待あってのことでした。読み始めてすぐに打ち砕かるとは、つゆとも思わず。

 最初に紹介されるのは、フランス留学中に知り合った学生です。この学生がわたくしには、南方熊楠のような人物と映ります。
 「その学生はたいへんなインテリで勉強家、おまけに博引傍証自由自在という恐るべき男」で、「一発でバカロレア(大学入学資格試験)にも合格できたし、エコール・ノルマルというグランド・ゼコール(大学以上の超エリート校)にも入学できた」。
 ──ここまではまぁ良しとしよう。外国の大学生の猛勉強ぶりは夙に知られたことでもありますから、これもその一例と捉えてよいのかもしれない。が、驚いたのは、この学生の勉強法。
 これだけの結果を残したのだから、さぞ本の沢山ある生活を送っているかと思えば、然に非ず。かれの「アパルトマンには蔵書というものがほとんどないのです」、「(鹿島が)なんで本が一冊もないんだと尋ねると、その学生は、自分は貧しい家庭に育ったので、リセにいたときから、本は図書館で借りて読むようにしていた。そのときの癖で、本を読んだら気になる箇所をノートに引用する習慣がついた」。「僕の蔵書は、リセの図書館や国立図書館で写したノート数十冊分の引用、これだけだ、と胸を張って」鹿島に語ったそう。引用はいずれもP23から。
 わたくしは最前、このフランスの学生を、南方熊楠みたいな人に映る、といいました。熊楠も相当数の文献を地元和歌山の素封家の蔵や大英博物館の図書室で読み漁り、ノートへ書き写した。そうして蓄えられた知識を基に多くの論文(エッセー)を日本語・英語で物して新聞雑誌に寄稿、新発見を含む粘菌の研究他に勤しみ、昭和天皇への御進講を行った、「博引傍証自由自在という恐るべき男」だったのです。この、熊楠が書き写したノートは一部が、和歌山県田辺市の南方熊楠顕彰館に収蔵されていると聞きます。ちなみに、熊楠を後年回想して昭和天皇は一首の短歌を詠まれました。和歌山県西牟婁郡白浜町にある南方熊楠記念館の敷地内にある歌碑に刻まれているという、その一首を引きましょう。

   雨にけぶる神島を見て紀伊の国 生みし南方熊楠を思う

 熊楠にしろフランスの学生にしろ、 東西の別なく学習の要諦(のひとつ)は”書き写す”ことにあり、と証明するような人物といえましょう。共に実績がそれを裏附けているだけに、否の声などあげられようはずもありません。
 が、鹿島はこのあとトドメを刺してくるのです。ひゃあ凄いなあ、と口をあんぐり開けているわれらに冷や水を浴びせかけてくるようなトドメの一文を、鹿島は書いているのです。「フランスではバカロレアやグランド・ゼコールの文系試験は、大作家の引用を散りばめた論文を書くことが要求されますので、こうした勉強法をしている学生は少なくないようです」(P23) ……もうびっくらぽんなんてふざけていっていられません。
 高等教育機関の学生になったからこそ、これまで以上に勉強に励まなくてはならない。単位を落とさぬ程度に講義へ顔を出しておれば、どうにか卒業できてしまう。時間があり余って仕方なく、その挙げ句犯罪に手を染めてしまう(知らず加担してしまう)。そんなケースが間々見られる日本の大学生とは雲泥の差と申せましょう。もはや両者は、別次元、別宇宙に存在している生命体に見えてきます。
 ここで思い出されるのは、以前本ブログでも話題にしたハーバード大学の学生たちの勉強量、読書量です。鹿島が紹介するフランスの学生と併せて見ると、超エリートにはそれだけの根拠といいますか、陰で積まれた努力とハードスタディがあったことに実感させられるのであります。
 ──鹿島は、このフランスの学生のエピソードを紹介したあと、具体的な読書日記(読書ノート)作成のアドヴァイスを述べてゆきます。
 が、残念ながらここでわたくしの、執筆に費やせる時間が尽きましたので、続きは明日とさせていただきます。また、本稿も疲れと集中力欠如と、昨日同様に時間に追われての流し書きになってしまったので、追々修正の筆など入れさせていただきます。◆

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第3707日目 〈スタバで、フラウィウスに目を通す。〉 [日々の思い・独り言]

 フラウィウスが来たんだぜ。日を置かずして、ちくま学芸文庫で読めるヨセフスの代表的著書二つが揃い、訳者によるヨセフス概説書も届いた(うち一つは店頭引取・支払)。タイミングよく、べらぼうでない価格でそれらすべてが出品されて運良く買うことができたのは、何年も購入を迷うてそのたび諦めた、それでも遂に勇を鼓して購うた男への、ささやかなる福音と思うことにしたい。
 なかなか時間の取れぬなかで試しに『ユダヤ古代誌』を、新共同訳聖書を傍らに置きながら開いてみる。ちくま学芸文庫版『ユダヤ古代誌』は前半三巻が旧約時代篇、後半三巻が新約時代篇という構成。時代区分を大まかにすれば、旧約時代篇は天地創造から族長時代・士師時代を経てイスラエル王国建設と王国分裂そうしてそれぞれの滅亡と旧約時代の終焉(列王記/歴代誌)まで、新約時代はセレコウス朝シリアのユダヤ支配とマカバイ戦争・ハスモン朝成立からヘロデ王の時代・「キリスト証言」・使徒時代を描いて第一次ユダヤ戦争前夜までを扱う。
 いま、外出中のわたくしの手許にあるのは、読書ノートブログでテキストとして持ち歩いていた新共同訳聖書と、『ユダヤ古代誌』第一巻から第三巻の計四冊だ。
 ざっと目を通しているに過ぎないが、『ユダヤ古代誌』は旧約聖書の語り直し(リトールド)に徹している。語り直し、というてもその記述は、たとえば、「創世記」を読み較べてみると、当たり前かもしれぬがヨセフスの方が描写はずっと細かい。それはアダムとエバのエデンの園の物語から顕著になり、モーセ曰く、という形でエデンの園の場所や周辺環境を説明し、またバベルの塔の物語についても、天頂へ届くかの如き塔を言語を同じうする一つの民族が築くに至ったその背景に、ノアのひ孫ニムロドの煽動があった、と語る。「創世記」でニムロドは、「クシュはまた、ニムロドをもうけた。ニムロドは地上で最初に勇士となった者である。彼は主の前において勇ましい狩人であった。それゆえこういうことわざがある。『主の前における勇ましい狩人ニムロドのようだ。』彼の王国の初めは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。」(創10:8-10)と紹介されている。こうした伝承が生まれる温床となったかもしれない。
 「創世記」後半のヤマ場となる「エジプトのヨセフ物語」も、原典同様にかなりの紙幅を用いて生彩豊かに描いている。もはや独立した短編小説と呼んでもよいような仕上がりだ。ヨセフが兄弟たちに自分の正体を明かす件など、ワーグナー《ローエングリン》第三幕の「ローエングリンの名乗り」を名ヘルデンテノールの美しく深みのある声で聴いたときのような感動さえ味わった──と書くと、笑われるだろうか? でも事実だから仕方ない。
 原典以上に詳細に語る、ドラマティックに語るのは、「申命記」の最後を飾る──というのは《モーセ五書》《律法》の最後を〆括ることでもある──モーセの死についても、ヨセフス時代の民衆の間で語られていたような民族伝承など取りこんで、報告している。曰く、「彼は比類のない有能な指揮艦であった。そして預言者としては文字通り古今独歩であり、人びとは彼の語ることのすべてを神の言葉を聞く思いで聞いたのである」(『ユダヤ古代誌』第一巻P430)と。ちなみに、「申命記」第34章は該当箇所をこう記す。曰く、「 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためであり、また、モーセがイスラエルのすべての人々の目の前で、力強い手と大いなる恐るべき業を行うためであった」(申34:10-12)と。
 わたくしが今日思い立って『ユダヤ古代誌』を持って家を出たのは、「レビ記」の内容をヨセフスはどう書いて処理しているか、に興味があったからだ。第一巻にそれは載っているが……原典よりわかりやすい! 15年前にこれを読んでいたら、難渋しなかっただろう。が、難渋したからこそ本ブログは始まったわけだから……なんというか、怪我の功名、ってやつ? まぁいいか。
 《モーセ五書》の再話に一巻を費やしたヨセフスは、続く第二巻で「ヨシュア記」から「サムエル記」を、第三巻で「列王記/歴代誌」を中心に「ダニエル書」と「エステル記」・「エズラ記」と「ネヘミヤ記」を再話する。こちらも第一巻とスタンスは同じで、ヨセフス時代の伝承や旧約聖書以外の史資料を採用しながら再話/再構成されたユダヤ民族史が読者に提示された。
 『ユダヤ古代誌』は聖書に次いでキリスト教社会では読まれた書物である、という。旧約聖書の理解を助ける、補うための側面資料としてのみならず、むしろ聖典同様かそれ以上の頻度で読み継がれてきた、という。中世のと或る修道院では受難節の間も読むことを許された唯一の書物であり、近代印刷術が発明されるとその黎明期にラテン語訳が印刷され、英米のピューリタン家庭では日曜午後に読書が許されるのが聖書とヨセフスの著作だった。訳者、秦剛平が自著『ヨセフス』の「はしがき」で述べている(P9 ちくま学芸文庫 2000/05)。
 ──本稿は、2023年11月14日20時58分から21時48分まで、殆どなにに頼ることもなく一気呵成に書きあげた物である。かなり走り書きとなったこともあり、これからちょくちょく折を見て加筆修正してゆくつもりだ。現時点で見出せるだろう多少の誤謬、瑕疵についてはお目こぼしいただきたく願う次第である。場所は、今日二軒目となったスタバである。◆

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第3706日目 〈書けない書評、読書感想文。〉 [日々の思い・独り言]

 官能小説の書評、感想文、って、どうやって書けばええんやろか? ここ一ヵ月ばかり、頭を悩ませている。「書くぜっ!」とSNSで、軽い気持で発信したのが徐々に重くのし掛かってきた(誰彼から催促されたわけでもないが)。自業自得? そんなつもりはないんだけどなあ。
 大概の書評には、最低限認知された一定のフォーマットが存在して──大なり小なり個人差あると雖も──、官能小説もその例に洩れるものではない。が、その難しさはやはり他に比して格段である。
 「この一冊」の感想文のために、(ジャンル、レーベル不問で)「官能小説」と括られる作物群の書評から、ネット上に間々見られる素人感想文まで、目に触れたものを読んでみたが……うぅん、これはわが手に余る作業であるなあ、と嗟嘆するばかりである。
 お手本にできるような人が見附かればよいが、残念ながらそうした書き手に出合えない。『ダ・カーポ』誌に連載されていた、見開き二ページの新刊レヴューみたく書ければ、と思うが、あれは濡れ場のキモになる箇所の紹介が専らと記憶するから、参考にはならなさそう。
 官能小説専門の書評家というのは居るのだろうか。前述『ダ・カーポ』誌の連載を担当し、官能小説を切り口にした戦後史や絶頂表現の用例をまとめた著書を持つ、永田守弘くらいしか、わたくしには思い浮かばない。その永田氏とて必ずしも専門の書評家、というわけではないのだ……。
 個人のブログや、ノクターン・ノベルのようなアダルト小説投稿サイトで読める書評、感想は検索して見つかっても、今日までコンスタントに──一ヵ月に一本以上のレヴュー投稿がある、と定義する──新しい書評が読めるのは一つもなかった。何年も更新が止まって放置されている。そんな有り様だ。「書評の書き方」みたいな本やWebサイトはあっても、官能小説の取扱いは絶無か添え物程度。
 手本になるような書き手も、少なくともいまのわたくしには、いない。となれば──咨、やっぱり自己流で書くしかないのか。……あれ、要するに、いままで通りってこと?◆

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第3705日目 〈クムラン宗団についての備忘録。〉 [日々の思い・独り言]

 最初にお断りしておかなくてはなりません。本日第3705日目はあくまで覚書の域を出ず、今後の執筆に向けたわが備忘録の役目しか持たない。従って引用が9割、自分の文章が残り1割という結果になるでしょう(結果は……以下本文参照──えへ)。読者諸兄はどうかその点を認識の上、本稿にお目通しいただければ幸いであります。



 死海写本は総称であり、クムラン写本はその一部を成す。クムラン写本とは、新約聖書に言及のないエッセネ派の信徒の集団が死海近くのクムランに移り、独自の教義と生活をした一派(クムラン宗団。クムラン教団とも)がパピルス紙に記した旧約聖書の写本である。クムラン宗団の根城たる修道院は死海の近くあった。
 エッセネ派は洗礼のヨハネ(バプテスマのヨハネ)が属したとされ、イエスも一時期同宗派の人々と生活を共にしたとされる。この宗派がどうして新約聖書のなかで一度も言及されないのか、理由は判然としない。種々の学説があるようであるが、ここではそれに触れない。
 カトリックの司祭で遠藤周作の盟友と謳われる片山洋治はその著『イエスに魅せられた男 ペトロの生涯』(日本基督教団出版局 1996/09)で、エッセネ派の起源についてこう述べている。曰く、──

 エッセネ派の起源については必ずしも明白ではないようであるが、紀元前二世紀にパレスチナをシリアのセレコウス朝の支配から独立させることに成功したマカベア家の指導者たちが王と大祭司を兼任したことに反発した一群の祭司たちが、エルサレムの神殿祭儀に反対し、荒野にひきこもったのがその起源であろうと考えられている。(P30)

──と。
 現時点でなお死海写本について最良の入門書であり、最善の解説書といえるのが、土岐健治『はじめての死海写本』(講談社現代新書 2003/11)だ。
 ここからエッセネ派とクムラン宗団の関係性について述べた箇所を引用する。曰く、──

 クムラン写本は、洞窟の近くの遺跡に住んでいた人々の所有していたものであり、前述のように、後六十八年にローマ軍がこの地域に侵攻した際、写本が敵の手に落ちるのを避けて近くの洞窟に隠されたもの、と一般に考えられる。
 この「クムラン宗団」と称される人々は、他の古代資料(巻末補遺参照)から「エッセネ派」という名前で知られる。ユダヤ教内の一グループに属しており(異論もある)、遺跡は、すでに述べたように、エッセネ派の「本部」とでもいうべき、一首の修道院的な施設であったと考えられてきた。(P90−1)

──と。
 上の文中にある「洞窟」は、死海北西部のクムランと呼ばれる一帯にある沢山の洞窟で、このうちの十一から1946−7年にかけて、三人のアラブ系遊牧民即ちベドウィンがクムラン写本を見附けた場所をいう。また、引用の際削るか迷った「(巻末補遺参照)」だが、エッセネ派に言及するヨセフス『ユダヤ戦記』やフィロン『自由論』等を指している。本書を読むときは、こちら巻末補遺も読み飛ばさぬようお願いしたい。
 クムラン写本に書き写された旧約聖書の文書とは、なにか。これは三系統に分かれるという。同じ土岐の著書からまとめれば、──
 一、「エステル記」を除く旧約聖書のヘブル語原典の写本と、「レビ記」と「ヨブ記」のアラム語訳、及びギリシア語訳。
 二、旧約聖書外典・偽典(一部)のアラム語訳、ヘブル語薬の本文。
 三、一にも二にも属さない、知られていなかった文書。クムラン宗団独自の文書が多い。
──となる。
 写本の執筆年代についてはまちまちであるが、概ね前一世紀前後であろう、と分析されている由。つまりハスモン朝もセレコウス朝シリアもローマの前に倒れて、パレスティナにローマ軍が駐留してかの地を版図に組み入れ、属州化していた時代だ。 
 ハスモン朝といえば、過去にも本ブログで読んだ「マカバイ記 一」と「マカバイ記 二」だ。ハスモン朝成立、ユダヤ人国家としてシリアから独立を果たすまでの通史は前者、「マカバイ記 一」が担う。クムラン宗団は、というかエッセネ派は、そのハスモン朝のやり方に抵抗して分離した宗派である(前掲片山引用文)。
 わたくしは未確認なので土岐の著書からの孫引きだが、クムラン写本のなかには(上の系統でいえば、三番目、になるか)ハスモン朝の或る人物を指して、「悪の祭司」と糾弾したものがあるそうだ。土岐はこの「悪の祭司」を、ハスモン朝の、殊に王と大祭司を兼ねたシモンである、と考える学説のあることを紹介する。
 シモンの事績は「マカバイ記 一」に載るが、エッセネ派のことは勿論、ここにも記載はない。ただ、エッセネ派の分離が事実シモンの指導者と大祭司職の兼任に対する「否」ならば、「一マカ」第14章にそのヒントは求められるかもしれない。
 ユダヤの民は、シモンの指導者、祭司としての活躍を耳にし、両方の職務遂行能力はじゅうぶんにあると判断した。それは「忠実な預言者の出現するまで」(一マカ14:41)という緩い条件附きではあったけれど、

 シモンが総司令官となって聖所の仕事に専念し、内政、外交、軍事および国防に従事する役人を任命する権限を与えられたこと、また彼が聖所の仕事に携わり、すべての民を掌握し、国内のすべての文書が彼の名において発行されるべきこと、また彼が紫の衣をまとい、黄金の飾りを身につけるのを許されたこと、などを耳にしたからである。
 民であれ祭司であれ、何人といえどもこれらのうちのいずれかを拒否したり、シモンの命令に反抗したり、彼の許可なしに国内で集会を催したり、紫の衣をまとったり、黄金の留め金をつけたりすることは、許されない。これらに違反したり、そのいずれかを拒否したりする者は罰せられる。」
 民全体は、これらの決議に従って、シモンに権限を与えることをよしとした。シモンはこれに同意し、大祭司職に就くこと、また総司令官となって、祭司たちを含むユダヤ民族の統治者となり、陣頭に立つことを快く承諾した。(一マカ14:42−47)

 こうした国内の熱狂と外国(ローマ)の後ろ盾に信仰の危機を覚えて、エッセネ派はユダヤ教のなかに留まりつつも距離を置くことを選び、死海北西部クムラン周辺地域に移って、独自のユダヤ教を突き詰めていこうとしたのではないか。──わたくしは、そう考える者である。むろん、学習の道を歩いている途中であるからこの考え、今後の知識の獲得と黙考により変わる可能性は否定できないことも、付け加えておく。
 中途半端、消化不良の側面は目を避けられぬ事実だが、悪まで備忘録であるのをもういちど強調して、擱筆する。◆


はじめての死海写本 (講談社現代新書)

はじめての死海写本 (講談社現代新書)

  • 作者: 土岐 健治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2023/11/13
  • メディア: 新書




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第3704日目 〈趣味の問題、生理の問題。──近松闘争について。〉 [日々の思い・独り言]

 近松闘争は既に幾度も起きている。迎えるか、拒絶か。その争点は、対立双方の生理に求められる。好むか否か、だ。是非にも迎えるを望む男と、断固それを拒んで視界に入れたくない女。
 数次にわたる近松闘争は、常に不毛な空気を孕んで、都度両者の表面上の和解で幕を閉じる。歩み寄っても双方の間に火種として燻る以上、闘争は終わらない。おそらくはよくわかっている。
 これまでお目にかかったことのないようなお値打ち価格でいま、『近松秋江全集』全十三巻(八木書店)が売られている。秋江にそこはかとない愛着を抱く男と、その作物に生理的嫌悪感を隠さぬ女の、今回で何度目になるかの闘争だ。
 置く場所ではなく、趣味の問題である。克服できぬ、妥協点すら見出せぬ、折り合い付くこと至難の生理の問題である。
 双方が完全合意する日は来るか。男がすっぱり諦めるにしても、女が三行半をチラつかせて翻意を迫るにしても。
 どうする、男? どうする、女?◆

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第3703日目 〈新たなる聖書読書マラソンに備えた、「ほしい本」の願望。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日ヨセフスのことを書いたあとで書架に詰まった本(溢れて棚前を塞ぐものを含む)と床から隆起した積ん読山脈を見渡して、さて、自分は聖書読書を今後も続けてゆくにあたって他にどんな本を必要とするか、どんな本を揃えておきたいか、考えてしまった。
 幸いなことに邦訳聖書は新共同訳と最新の日本語訳である聖書協会共同訳を始め、新改訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、口語訳、岩波訳、文語訳、バルバロ訳、幾つかの個人訳を手許に置くことができている。テキストは当面これで用が足りるはず。読書マラソンのテキストとして携行した新共同訳聖書旧約聖書続編付き(横組み)のように、使い倒してボロボロになれば同じ訳の新しいものを本屋さんで買ってくるだろうが。
 見渡して、神学や研究書の類が然程目立たないことに気附いた。考えるまでもない。わたくしは敬虔なるキリスト者ではない。聖職者でもない。ゆえに神学書を読んでも却ってチンプンカンプンで、豚に真珠も同然の代物である。宝の持ち腐れ、ともいうな。けれども買えばいちおう中身に目を通すから、よくわからんでも或るとき不意にそのなかの一冊、その内の一節がわたくしのなかへ入ってきて、それを突破口に親しむだろうことは否定できぬ未来といえる。神学書や研究書に関しては、本屋さんの棚の前で目に触れた本を取り出しては立ち読みして、また戻すを繰り返すうちに、ピン、と来るものを感じた一冊を懐と相談の上レジへ運ぶなり後日の買い物とすればよい。まぁ、これまでと同じだ、このあたりは。
 聖職者たちの数多ある著書のなかでは、井上洋治神父の著書は、未架蔵のものあらば能う限り積極的に購入してゆきたい(数冊しか所持していないが)。これまで国内外の聖職者たちの本を日本語で読んでみたが、非キリスト者のわたくしでも感銘を受けるような本は誠に少ない。海外ではウィリアム・バークレーとピーター・ミルワード、国内では井上神父、くらいなのである。新刊書店、古書店の別なくその著書を見掛けたらまずは手にして内容を検めて、その時点でほぼ購入が決定している本を書いている聖職者というのは。
 渡部昇一経由で岩下壮一神父の名を知り、ちくま学芸文庫と岩波文庫から再刊された著書を買ってみたが、ぼんやりとわかるような気のする部分もあるけれどそんなのは極々わずかで、他の文章は流し読みしかしていない。名前だけは既知だが著書を手にする機会ないままでいたところ、偶々読んだ本で紹介されていたのを契機に、名前だけは知っていた人の著書を手にしてレジへ運んで一晩で読みあげその後も短い期間で何度も読んだヘンリ・ナウエンのような場合もある。
 今後の読書に備えて揃えたいのは、クムラン教団、死海写本、グノーシス主義の本や、写本・翻訳の解説、聖人の伝記、良質で使い良い複数の註解書シリーズだ。
 旧約時代、新約時代の歴史書は、これまで意識して拾いあげてきた安本で事足りており、それでも埒があかなければ図書館に頼ればいい。歴史に関しては大抵の図書館で、お目当ての資料に辿り着けるから。いい方を換えればその程度の読み方しかしていないのかもしれぬが、それは非キリスト者の限界として笑ってほしい。
 贅沢をいえば註釈書は、これまでの読書マラソンで図書館から借り出して多大な恩恵に浴した註釈書のシリーズは是非にも手許に置きたいが、これを実行すると収蔵スペースばかりか生活エリアまで本の群れが我が物顔で迫ってくるから、これは夢物語で片附けておこう。
 英語の勉強をやり直したら、英訳のコメンタール・バイブルへ手を広げ、日がな一日それの読書に耽るのも悪くないと思うている。◆

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第3702日目 〈フラウィウスを待ちながら。〉 [日々の思い・独り言]

 遂に意を決してその本を買うことにした。その本、ではなく、文庫で出ているその人の著作と、その人について書かれた一冊、というた方が正確である。決断まで実に一年半を要した。
 「日本の古本屋」サイトに出品(登録)されるたびに間もなく売り切れ、しばらくするとまた登録/出品→時絶たず売り切れる、が繰り返される。状態など出品店舗によって異なるけれど、全巻揃が目に触れる機会はゆめ多くなく──。
 購入の覚悟を決めるまで一年半もかかったのは、迷っているうちに売り切れてしまったから、それが繰り返されたから、ばかりではない。こちらの求める状態の全巻揃がまったく現れなかったためでもない。お値段、なのである。
 具体的な金額は書きたくない。ただ文庫一冊で数千円、全三巻、全六巻の揃となれば必然的に数万円、の計算となる。実際過去にわたくしは、全六巻揃帯一部欠・状態並・書込み破れ濡れ皺等なし、が36,800円で売られているのを見附けて、早々に諦めたのを覚えている。
 とはいえ、その本は今後の読書生活、執筆に於いて必要な参考文献となるのがわかっている。図書館で都度借りればよい。そう自分を納得させてしばらくはその本のことを考えずに過ごしたけれど、やはり手許に置いて、折に触れて読む生活を思い描いているのだった。
 斯様に逡巡した末、遂に意を決してその本を買うことにした。その本の著者の名を、フラウィウス・ヨセフス、という。後一世紀のエルサレムに生まれて第一次ユダヤ戦争を生き延び、ローマ帝国に身を寄せた人物である。『ユダヤ古代誌』、『ユダヤ戦記』、『アピオーンへの反論』、『自伝』の著作を持つ。
 これを書きながら到着を待っているのは、『ユダヤ古代誌』全六巻と『ユダヤ戦記』全三巻、(前二書の訳者でもある)秦剛平『ヨセフス』の計十冊で、いずれもちくま学芸文庫から。
 内容を簡単に述べれば、『ユダヤ古代誌』は旧約聖書の天地創造から後66年までのユダヤ民族の歴史で、『ユダヤ戦記』は後66-70年の第一次ユダヤ戦争の記録である。秦剛平の著書はヨセフスの生涯や著作の執筆背景、どのようにしてその著書がキリスト教陣営に取りこまれていったか、近現代の翻訳や校訂本のことなどの話題に触れる。ヨセフス研究、ヨセフス自身やその著作についてなにかを書き、なにかを発言するにあたってかならず繙くことになるであろう。
 そうしたフラウィウス・ヨセフスの本の到着を待ちながら、本稿を書いている。
 過去にたびたび表明してきたようにわたくしは、キリスト者ではない。わたくしにそちらへの信仰は、ない。従って、就中『ユダヤ戦記』をキリスト者の如く「キリストの証し」の書として読むことも、ない。
 とはいえ、足掛け八年実質七年の聖書読書と、プロテスタントの亡き婚約者と奥方様を経由して、聖書の教えや物語、文言などは自分のなかへ(確実に)入ってきている。そうした意味では時として、キリスト者──キリスト教陣営と同じようなスタンスでヨセフスを読むこともあるだろう。それでも信仰を基にした読み方はしない──そも結局のところ、『ユダヤ古代誌』も『ユダヤ戦記』も、イエス時代に生きて第一次ユダヤ戦争に参加した経歴を持つ、文才あるユダヤ人の手に成る歴史書なのだ。
 わたくしは信仰ベースではなく、歴史ベースでヨセフスを読む。ローマを中心とした地中海世界について、キリスト教の発展過程について、クムラン教団やエッセネ派について、その他様々のことについて、考えたり書いたり発言する際の必携文献として読むだろう。
 いつか書架に備えたい。そう望んでいたヨセフスの主著二つと概説書が、思いの外安価で売られていたのが背中を後押しし、この一週間で入手するに至った。……それでも『ユダヤ古代誌』は全巻揃で一万円台後半でしたがね。
 イエス時代の地中海世界の歴史を学んだり、ユダヤ教とキリスト教について理解を深めてゆくにあたり、ヨセフスが手許に、書架にあるのは、とても心強いことではないか(個人の感想です)。
 清水の舞台から飛び降りる思いで買った。大げさかもしれないが、そんな気持ちで購入ボタンをクリックした。サイト内での古書店からの連絡によれば、いずれも既に発送済みとのことである。◆
──劉慈欣『三体』全巻が揃って、年末年始の愉しみを確保したのを喜ぶ日に□


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第3701日目 〈告知は早いに越したことはないでしょう。〉 [日々の思い・独り言]

 まだブレイクする前のスティーヴン・キングがラジオかなにかに呼ばれて答えた台詞が、その後しばらくの間、かれの執筆スタイルの一部として伝えられてきた。曰く、「誕生日と独立記念日とクリスマスは(書くのを)休む」と。
 21世紀になってアーティストハウスから邦訳が出た『小説作法』でキングは、「なにかをいわなくちゃいけない」からそう答えたのだと白状した(P175-6 池央耿・訳)。嘘っぱちさ、本当はそんなのに関係なく、毎日──365日──書いているよ。これが現実であるらしい。
 さて、翻って本ブログ。キングの小説とは雲泥の差どころかそれ以上の、比喩さえ思い着かぬ程異なる本ブログだ。心に浮かびゆくよしなしことをただそこはかとなく書きつけるばかりの文章の集まりである。キングとの共通点を無理矢理一つだけ見出すとすれば、読者諸兄の目に触れぬ日が仮にあったとしても、それは毎日書いている、という一点に過ぎない。
 が、その辛うじて見出せる共通点も、凡人にしてこれで稼ぎを得ているわけではないわたくしは、年に何度か堂々と、公然と、打ち捨てる日が出来する。長くお読み下さっている方は、「ああ……そういうことね」と薄々お察しか。最近になって読む機会を得たという方、もし居られるならばもしかするとあなたは初めての体験となるか。
 ここで表題にあるように、告知をさせていただく。
 来る11月23日はわが安息日となり、本ブログの更新はお休みとなる。「家族の日」なのである。それがゆえのお休みだ。
 どうか読者諸兄よ、あらかじめお伝えしたわたくしの良心に免じて、笑ってご理解くださいますよう──。◆

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第3700日目 〈杉原泰雄『憲法読本 第4版』再読、始め。〉 [日々の思い・独り言]

 杉原泰雄『憲法読本 第4版』の再読を始めた途端、これは腰を据える必要があるゾ、と覚悟した。再読の必要は、最初に読んでいるときから痛感している。シャープペン片手に、じっくり、読み直す。そう望み、今日(昨日ですか)から再読を始めたのだが、──
 「Ⅰ 現代社会と立憲主義」、40ページを三時間弱かけて読み返した。定規をあてて傍線と本文上の横線を引き、余白や行間にトピックや所感、疑問等書きこんでいたら、そんな時間が経っていた。前段階として、読みながら考えていた(考えながら読み進めていた)のは勿論である。
 そんな風に再読を進めながら、あれ、としばしば思うたのは──俺はずいぶん前にも同じことをやっていた覚えがある。一つの書物を、いつ終わるのかまったくわからぬまま読み進めていたことが、あったよな。
 程なく疑問は氷解した。いまなお本ブログの中核を成す、聖書読書ノートを粛々と進めていた頃の記憶が、脳裏を過ぎっていただけである。
 聖書のときも下線を引いたり書きこんだりしていた。何年も持ち歩いたせいもあり、ページの角っこが丸く潰れている。表面も小口も天も地も、手垢やコーヒーの染みで汚れている。ノドの部分が割れてページが剥がれ、修繕している。ボロボロとはいわぬまでも、読みこんだ形跡が外にも中にもしっかり刻印された一冊と化している。流石に『憲法読本 第4版』が同じになるとは思えぬが、似た外観にはなるかもしれない。中身に至っては……大同小異、か。
 ただね、シャープペンを片手にしての再読作業がしばらく続くと想像すると、思わず、加藤恵嬢みたく「なんだかなぁ」とぼやきたくなってしまう(あんなに可愛らしくないけれどね、当然。おはらななかなら話は別でしょうが)。
 しばらく自由な日──というか拘束の極めてユルい日──が続く。怠けることなく『憲法読本 第4版』を、シャープペンと消しゴムをお伴に読み進めておこう。ノートへの書き写し、自分のコメントなどは再読が終わったあと、一気に行う予定でいる。が……残ページ2/3で収まるか?◆

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第3699日目 〈「《シェイクスピア読書ノート》のためのメモ」のメモランダム。〉 [日々の思い・独り言]

 暇を見附けて耽っているのが、シェイクスピアの戯曲の版本、出版に関するメモ作りであります。何事もなければいまくらいの時季から、一ト月に一作程度の進みでシェイクスピアの戯曲を、ほぼ確定した執筆順に読んで、作品の背景や内容、感想、鑑賞ポイント、基にしたオペラや声楽曲の紹介など何回かに分けて書いていたのですが、障り事慶事などいろいろあって未だに取り掛かれていません。現時点では一年先延ばしての実施(なんだか消費税増税みたいですね)が、可能性としてはかなり濃厚……。
 ただ、これを好機と捉えなくてどうするか、という内心の声もある。計画破棄ではなく計画延期なのです。開始は来年の仲秋から晩秋にかけてかしら、ともぼんやり考えている。いずれにせよ、一年の猶予ができた。ならばこの猶予期間を、シェイクスピア作品を読むための準備に充てればよいではないか。そう考えての、暇を見附けてのメモ作りなのであります。
 具体例として、戯曲の版本、出版について触れました。シェイクスピアを読んでいると、たいていは、歴史物であれば作品の時代背景や舞台、人物相関等の話、シェイクスピアの生きた時代の点描・同時代の演劇事情などの話、版本や出版にまつわる話、が出てまいります。最後に挙げた、そうしていまメモを作っている版本に関してはいい換えれば、翻訳の底本や本文批評の話題にもなります。
 わたくしが最初にこの点に取り組んだのは勿論偶然でしかありませんが、一方で「書誌」というものに関心があり、日本のことではありますがそちら方面の知識が多少とはいえあり、西洋書誌については日本のそれ以上にズブの素人ながら三田時代に勉学でも仕事でもわずかばかりの関わりを持った高宮利行先生の著作を始めとして幾人かの専門家の著訳書を好んで読んでいた、まァ一種の親しみがありましたから──と、幾つもの要素が重なって為された必然の運動というてよいかもしれません。
 さりながら、この版本や出版に関しては、知識の獲得も咀嚼も定着も、ましてや自在なアウトプットも、そう簡単にはいきません。『ビブリア古書堂の事件手帖』最終巻はシェイクスピアのファースト・フォリオを巡る一巻でしたが、よくぞここまでわかりやすく説明して物語に落としこめたな、と感心せざるを得ない程に、わたくしは最初このあたりをどうメモにまとめてよいか、わからないでいました。
 が、読書百遍意自ずから通ず、とか、念力岩をも通す、と申しましょうか、数日とはいえ空き時間はずっと資料や文献に目を通したり落書きのような覚書を書いていたら、だんだんと疑問の焦点があきらかになり、回答となるような(信頼してよいであろう)記述に行き合うことができました。回答はずっと目の前にあったけれど他に埋もれて、目を暗まされていたのです。
 そんな立ち止まりこそあれ、シェイクスピア戯曲の版本──クウォートやフォリオの分類、出版エトセトラ──に関しては、わかる部分も増えてきた。定着して活用できるようになるまで時間はかかるでしょうけれど、取り敢えず最初の山は越えられたかな、と、まだ多少とっ散らかったメモを前にして胸を撫でおろしているところであります。
 研究者でも専門家でもないのだから、こうしたメモ作りは本来ならば不要なのかもしれません。が、こうした外堀的知識であっても、直接間接の別なく文章に反映しなくても、或る程度の知識があって書くのとそうでないのとでは、出来上がったそれを較べてみるとちょっと違うように思うのであります。それは正直なところ、聖書の読書ノートを書いていた際、ずっと付きまとい、考え続けた点でもありました。
 もうすこし版本や出版のメモに取り組んで一応のメドが付いたら次は、英国史のお復習いです。まったく抵抗ない分野と雖も、こちらもまたメモの作成には時間を要しそうです。◆

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第3698日目 〈トルストイはどこに行った?〉 [日々の思い・独り言]

 ついこの間、ようやく時間が取れたので新刊書店へ久しぶりに行って、長いこと買うを先延ばしにしていた海外小説の残りの巻を、がつっ、と摑んでレジへ運びました。それなりの重さが指先で感じられる。それは一冊出るたびに買うことせず、その時その時の事情で諦めていた(優先順位を下げていた)、気持の重さでもありましたでしょう。
 とまれ、光文社古典新訳文庫から出ていて無事完結したトルストイ『戦争と平和』第四〜六巻を購い、帰り道の途中で寄ったスタバでぱらぱら目繰って閉店まで過ごしたのでした。そう、そのときはね、先の三巻は自宅にあると信じて疑わなかったんですよ。だって、数日前に並んだ背表紙を部屋の一角で目にしたばかりだもの。
 全六巻が揃った。未読か既読かさておくとしても、せっかく揃ったんだから並べてあげたいじゃないですか。で、後半三巻を摑んで部屋に行き、さて最初の三巻を山の中腹から引っ張り出して並べてみよう……と先日目にした場所へ視線を向ければ──あれ、なんでないんだ?
 いや、マジで姿を消していたんですよ。本って夜中人目を避けて勝手に増殖するだけでなく、居心地が悪くなったら挨拶も無しに引越までしちゃうんですかね? そんなアホな疑問が、本当に脳裏を過ぎったんです。
 もう遅い時間になっていたし、疲れた体で第一〜三巻まで探して本の山を崩すのもイヤだったので(面倒臭かったので)、そのままベッドへ直行した。けれど、奥方様の寝息を聞きながら横になっても考えているんですよね。どこに行ったんだろうか、どこへ姿を消したんだろうか、と。
 休日。つまり今日(今日って、いつの”今日”なんでしょうか?)。夕食の仕度まで時間がある午後の一刻、思い切ってアタリを付けた場所から本の山を崩し、道草を喰う場面もあったとはいえ、捜索の手を休めたりサボったりすることはなかった。ダンボールに仕舞いこんだ覚えだけは全くないので、必然的に捜索範囲は積ん読本山脈と棚の一段、二段に絞られる。
 ──が! 見附からないのです。
 二時間は要したでしょう。これ以上の捜索は意味なしと判断して、切り上げました。後日の再開も、ない。最後にかれらの姿を見てから捜索開始までの間、ダンボール二箱分の文庫を処分しているから、間違ってそのなかに入りこんでしまったのかもしれない。その疑念は否定できない。が、有るか無いかのそれ一作のために売却を一旦中止、荷物を戻してもらうのも難儀だ。
 もうこうなったら、アレだな、「探すより買った方が早い」だ。
 正直にいうと、まだ解説くらいしか読んでおらず本文には、さーっ、と目を通したに過ぎない。読んだ本を誤って処分してしまったときのダメージは大きいけれど、未読もしくはほぼ未読状態の本であればそれも大したことではない。すぐに癒えて、忘れる。
 というわけで、光文社古典新訳文庫版トルストイ『戦争と平和』、第一巻と第二巻そうして第三巻を新刊書店で、明日にでも買ってきます。
 いやぁ、しかし、参った。あるはずのものをあると思いこんで捜し回るって、こんなに疲れるもんなんだね。◆

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第3697日目 〈三門優祐・小野純一編『アーカム・ハウスの本』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 アメリカ中部ウィスコンシン州ソーク市に、アーカムハウスという出版社がある。生前殆ど知られぬまま亡くなった怪奇小説作家、H.P.ラヴクラフトの著作を出版することを目的に、親しく文通していたうちの一人、オーガスト・ダーレスによって設立された出版社だ。
 少部数限定で、HPLの作品集以外は再版しない方針を貫いていたので、アーカムハウスの出版物は現在でも古書価が高く、その性質ゆえに時々ここの本を題材にした古書ミステリ、古書ホラーを見附けることができる。
 三門優祐・小野純一編『アーカム・ハウスの本』(盛林堂ミステリアス文庫 書肆盛林堂 2023/03)は書誌に特化して余計な説明を一切省いた潔い一冊である。購入想定読者にしてみれば、アーカムハウスとはどのような出版社であるか、百も承知のはずだからこの潔さも却って美点となる。
 が、もし本稿を目にして興味を持たれた(あまり怪奇幻想小説に関心を持ってこなかった)方があれば、図書館やwebサイト「日本の古本屋」で、那智史郎・宮壁定雄編『ウィアードテールズ 別巻』(国書刊行会 1988/02)を探してごらんなさい、とお伝えしたい。或いは、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』1973年7月号の仁賀克雄「アーカムハウスの住人たち ① オーガスト・ダーレス」をお読みになってみてください、とも。
 仁賀克雄氏といえば『アーカム・ハウスの本』小野純一「あとがきにかえて」に拠れば、本書刊行の萌芽はどうやら、生前の仁賀氏から依頼されて行った蔵書の査定にあったようである。
 前述の連載エッセイや著書の端々で言及されるところから窺えるように、氏の蔵書にはかなりの量のパルプマガジンやミステリ、怪奇幻想の洋書(なかには切り裂きジャックの資料となった書籍や資料もあったろう)があった。そのなかに、数十冊のアーカムハウスの刊行物がその一角を占めていた、というのである。ただそれらは、仁賀氏の希望に従って歿後、古書交換会で様々な古書店に落札された由。
 仁賀氏歿して5年後、というから、2022年のことであろう。古書店主でもある小野氏が買取りした本のなかにアーカムハウスの研究書があったことで、書誌刊行は具体的な計画となる。Re-ClaMの三門優祐に相談して協力を取り付け、万全を期すため新たに資料を取り寄せて成ったのが、本書『アーカム・ハウスの本』である。現時点ではおろか、少なくとも向こう15年くらいはこれに優るアーカムハウス書誌は現れまい。それくらいクオリティが高いのだ。
 ここまでアーカムハウス刊行物の書誌部分について、まるで触れずに来た。
 というのも、いったいどうやって、顔を合わせて膝突き合わせてワイワイやりながら語らうならともかく、こうして文章で、しかも特定分野に(いまは)特化していない本ブログで──つまり、関心ある人が感心ない/薄い読者が圧倒的に多いなかで、書誌の感想文をどうやって綴ってよいのか、未だに迷っているのが本音だ。
 書影や収録作品、刊年や出版部数、価格といったデータが、煩を厭わず細かく記述されている点は、とてもありがたい。よく作られた書誌は眺めているだけで何時間でも過ごせるのだ。こうした本の詳しいデータを眺めているだけでわたくしは蕩けるような幸福を感じる。と同時に、この200ページになんなんとする書誌の作成に打ちこんだ三門優祐氏の粘り強さと誠実さを思うて感謝と讃美を内心送って平伏する……。
 節目の年ごとに刊行されてきた社史や、ダーレス自著100冊到達を記念してこれまでの刊行物の情報を集めた『100 Book by August Derleth』(1962 P79)、同業作家・HPLスクールの作家たちによる『Lovecraft Remembered』(Peter Canon編 1998 P173-5)、Milt Thomas『Cave of a Thousand Tails』(2004 P181)あたりは、社史を除けば本書で初めてその存在を知った本で、非常に食指を動かされるものなので是非にも読んでみたいが、やはり入手は困難そうである。
 架蔵する本が載るのを見るのはマニヤックな性癖だろうが、むかしの北沢書店で購入したHPLのエッセイ集(初期習作も載る)『Miscellaneps Writings』(1995 P169-71)、アーカムハウス初期の刊行物であるJ.S.レ=ファニュの作品集『Green Tea and Other Ghost Stories』(1945 P29-30)などは幸運にもいまよりはまだ英語の読解力があった時分に手に入れて読んだ、幸せな想い出も存分に詰まった手放す気なんて毛頭無い一冊となっている。
 一方で、HPLの文業でいちばん好むのが書簡だったせいもあり、いつの日か全訳を──と執心していた時期に買い揃えた『Selected Letters』(全5巻 Vol,1;1965/P93, Vol,2;1968/P105, Vol,3;1971/P124, Vol,4&5;1976/P137)はもうすっかり読まなくなってしまったけれど、いまも架蔵するHPL関係の本と一緒に、和書洋書の別なく突っ込んだ棚の一段に納まっている。あのざらっとした手触りの、厚手の本文用紙の感触。なつかしいなぁ。
 巻頭の1939年から2010年までの年ごとの刊行リストと、巻末の著者別刊行リストが索引になっているのが嬉しい。地味ではあるが、このように配慮の行き届いた索引があるのとないのとでは、レファレンスブックとしての価値がまるで異なる──雲泥の差、なのである。『アーカム・ハウスの本』がどれだけ丁寧に、入念に作られたか、それはこの索引を見ればよくわかる。この利便性たるやなかなかに良し、という具合だ。索引を軽んずる或いは杜撰なレファレンスブックに生命力なし。商業出版であろうと自費出版であろうと、この原則は崩れまい。
 書誌は研究の要である。書誌は購書の礎である。書誌は研究や購書のサポート的存在ではない。書誌はそれ単独で一個の、独立した書物でなくてはならない。弘文荘のカタログが販売目録の域を超えていまなお書誌として一級品であり続けているのは、その記述に書誌作成者の見識と経験が裏打ちされているからに他ならない。『アーカム・ハウスの本』が底本としたLeon Nielsen『Arkham House Books A Collector’s Guide』と、資料としたS.T.Joshi『Eighty Years of Arkham House A History and Bibliography』は未見のため発言する資格はないが、『アーカム・ハウスの本』の仕上がり具合から判断して、上でわたくしが申し述べた書誌としての理念と資格はじゅうぶんに備えた本なのだと思う。
 叶うならば、これらの日本語訳と、大瀧啓裕がラヴクラフトの翻訳に取り掛かる際重宝したというダーレス著『アーカム・ハウスの三十年』(「これにはこの特異な出版社の沿革史だけではなく、同社及び姉妹社から刊行されたものすべての詳細なデータも記載されており、何を手に入れればよいかがはっきりわかった。」『翻訳家の蔵書』P160 東京創元社 2016/12)──『Thirty Years of Arkham House : 1939-1969』(1970 P111)──の日本語訳が実現したらと願わずにはおれない。勿論、海の物とも山の物とも知れない素人翻訳家ではなく、怪奇幻想の翻訳を手掛けたことのあるプロの翻訳家の手で。
 優れた書誌はどれだけ時代が進んで新たなものが生まれようとも、けっして古びたりはせず、いつのときでもスタンダード、ポラリスとしてあり続ける。かりに、新しいものが出てきたとしても、本書『アーカム・ハウスの本』はそんな位置を占める一冊であるだろう。◆

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第3696日目 〈上林暁『命の家』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 家族の前では、人目ある所では、読むこと憚られる短編集だった。
 上林暁『命の家』(山本善行・編 中公文庫 2023/10)である。
 著者の妻は戦前精神を患い戦後すぐに亡くなった。上林は空襲の激しくなる時期にも東京に留まり、入院生活を送る妻を見舞ってそばに居続けた。そんな日々の産物が、代表作「聖ヨハネ病院にて」をはじめとした〈病妻物語〉だ。本書はその病妻物語をまとめた一冊。然れどこのカテゴリーに入る作品はまだまだある、と編者はいう。
 いまでこそ伴侶を得、子宝にも恵まれたわたくしだが、十代の後半に婚約者を病気で亡くした。その傷が、その哀しみが、その喪失感が癒やされることも、他のなにか(だれか)によって埋められることはなかった。からっぽの心を抱えて生きていたのだ。
 そんなじきに、上林の小説を初めて読んだ。講談社文芸文庫の『聖ヨハネ病院にて・大懺悔』である。あのとき以上に病妻物語の諸編はわたくしの心を刺激する。突き刺さってくる。そうして、抉ってくる。血が流れて瘡蓋になるまで時間を要す。奥方様を得た代価のようにしてゆっくり慰撫された哀しみや傷が、その存在を忘れるな、と警告してくる如き痛みを覚える。
 忘却してゆくは咎か? 想い薄れることは罪か? 奥方様と結ばれ子を得たるは万死に値するとかや?
 ──『命の家』は、上林の妻が発症して病院に運びこまれる「林檎汁」で始まり、著者のうら寂しい生活や妻の容態をつぶさに描いた諸篇を経て、妻亡きあとを描いた「弔い鳥」や「聖ヨハネ病院再訪」で閉じられる。
 読み進めてゆくうちに、家族の目を避けて読むようになった。夜更けの片隅で、木枯らしの夕暮れに、鈍痛覚える足を引きずり外を逍遙したりして。──だんだんと追いつめられていったのだ。これまで封印したり、目を背けたり、弱まっていた亡き婚約者への気持ち、思い出、声や姿が、一篇読了するごとに徐々に生々しいものとなってゆき……闘病の末看取る人亡く逝った妻への慟哭に充ちた「嬬恋い」で、遂にこれまでこらえてきたものがみな爆ぜた。これを読んでいることに奥方様が気附いたのは、そのときである。
 ……わたくしには、私小説作家に惹かれる気質があるらしい。花袋も秋江も問答無用で好きになった(むろん、かれらの文業がそこに限定されたものでないことは百も承知)。ここに、上林暁が新しく加わった。文章に猥雑さのないのがよい。吟味された言葉で書かれた、磨き抜かれた文章である。それゆえに著者の思いがじっくりと、さらさらと、読み手の心に染み通ってゆくのだろう。時間がどれだけ経ったとしても、読者の心のどこかで静かに息づくのだろう。
 後年上林は、脳溢血(脳出血)に倒れた。が、様々障害を抱えながらも歿するまで筆を執り続け、幾冊もの作品集を世に送った。脳出血とは、脳梗塞と同じく脳卒中の一病名である。上林は二度目の脳出血で後遺症が残ったそうだ。脳梗塞の再発率は50%と聞く。二度目に怯えるわたくしの琴線に触れた点であるのは、もはや否応なし、である。そういえば小山清は脳血栓が原因で失語症を患った。脳血栓も脳梗塞の一種だ。かれらを好きなのは、まさか再発に備えてのこと? いや、まさか。
 「上林暁は、自分に向かってきた悲惨な出来事を、闘いはしないがそこから逃げないで、その正体を見つめ、できるだけ正直に書こうとした。このことが読むものにとって、大きな救いとなっている」(P380 「編者解説」)
 サウイフフウニ、ワタシモナリタイ。
 戯れ言はともかく、「闘いはしないがそこから逃げないで、その正体を見つめ、できるだけ正直に書こうとした」──この点こそが、上林暁と他の私小説作家を明らかに区分する一線であるかもしれない。この点こそが、編者を上林文学にのめり込ませて、近年は何冊もの上林作品集を編むに至る根源かもしれない。
 病妻物語は『命の家』に収まる以外にもまだある、という。「もしこの『命の家』が多数の読者に受け入れられたら、続篇でもう一冊出して病妻物語完全版を作りたい」(P374 同)とは編者の願い。
 山本さん、中公文庫編集部さん、もう一冊、出してください。買います。握玩・愛読します。◆


命の家-上林曉病妻小説集 (中公文庫 か 95-2)

命の家-上林曉病妻小説集 (中公文庫 か 95-2)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2023/10/24
  • メディア: 文庫




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第3695日目 〈こんな読書体験も、たまにはある。〉 [日々の思い・独り言]

 本文たかだか300ページにもならぬ連作短編集であっても、やっとの思いで読み終え疲労の溜め息吐き、まさしく時間の浪費に憤慨して、床に叩きつけてあまつさえ踏みにじりたい本って、あるんだよな……。
 秋以後に新しく読んだ単著の小説は、みな肩すかし、落胆させられるものばかりだ。どこの出版社からいつ出た、誰のなんという小説なのか、それは伏せよう。武士の情け? 否、諦め──倦厭だ。
 このあとは杉原泰雄『憲法読本 第4版』に戻るが、かねてからの予定通り並行して、積ん読山脈のいちばん上でこれ見よがしに待機している北村薫『雪月花 ──謎解き私小説──』(新潮文庫 2023/01)を読む。楽しみである。
 あれ、北村薫の小説は、『太宰治の辞書』(創元推理文庫 2017/10)以来? まさか!◆

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第3694日目 〈日本人のキリスト教文学・導入部。〉 [日々の思い・独り言]

 小山清の随筆「聖書について」にある。曰く、──

 聖書は晦渋な書物ではなく、キリストは難解な人物ではない。「赤と黒」を読めばジュリアン・ソレルが解るように、新約聖書を読めばキリストが解るのである。ジュリアン・ソレルは素晴しい。けれども、それよりもはるかにキリストは素晴しい。聖書をキリストを主人公とした小説として見るならば、古来のどんな小説のどんな劇の主人公も、キリストの前には色褪せてしまうであろう。四福音書の主人公ほど魅力に富んだ、私達の持続的な関心を繋ぐ対象はないのである。(『落穂拾い・雪の宿』P331 旺文社文庫 S50[1975]/12)

──と。
 首肯するよりない。四つの福音書と「使徒言行録」、パウロ書簡、公同書簡を読むと、著者の立場、キリストとの距離や関わりの深度、著者の思想等によって把握できるキリスト像に多少のブレはあっても、虚心に無垢に、されど能動的に新約聖書を読んでゆくと、読者の眼前には朧ろ気にでもナザレのイエスの姿が立ちあがってくることだろう。
 しかし、日本人にとってイエス・キリストは未だ異教の神扱いで得体の知れぬ、歪んだ捉え方をされているように映る。小山が力説するように、新約聖書(ここでは共観福音書と「ヨハネによる福音書」を指すが)はイエスの伝記小説として読むことはけっして邪道でもなんでもない。古典はあらゆる読まれ方を可能にする。信仰の書物としてよりも、歴史文書としてよりも、その方が一般的には親しみやすく、ハードルも低くなるだろう。
 が、あくまで(すくなくとも)四つの福音書を読むことに──それは取りも直さず「新約聖書」という書物を手にすることだ──抵抗のない人に限った話である。信心ある人、興味ある人、好奇心に素直な人、教会に行ったことある人。それくらいではないか。新約聖書を繙き福音書へ向かう人は。
 でも、そうでない人々──潜在的読者──の方が圧倒的に多かろう。そうした層をターゲットにした、福音書をベースにしたフィクションが世に幾らも存在するのは、なかなか一歩を踏み出せずにいる/手を伸ばせずにいる人々がある一証左に他ならぬ。ウォルター・ワンリンゲンやF.W.クロフツ(そうだよ、あのクロフツだよ)の小説が翻訳されて巷に出回っているのは、単に著者のネームバリューや題材の珍しさにばかりあるばかりではない。つまり、心の障壁を(取り除くことはできないまでも)低くするのに一役買っているのだ。
 とはいえ、先程も触れたように、日本人にとってキリスト教は、その本質は、その中核は、イエスについて諸共馴染み薄い外国発祥の宗教であり、捉え難い部分ある、知識の偏った異教でしかない。日本人のなかに染みついて離れぬそんなキリスト教感は、おそらく江戸時代からどれだけ進歩したか怪しいものである。
 うわべの祭事だけ取り入れて実態はネグレクトされてきた〈日本化されたキリスト教〉。非キリスト者が祭事を受容することで〈骨抜きにされたキリスト教〉。日本人とキリスト教の関係は、馴染み深くあるように見えてその実著しく懸け離れている。それはフィクションを例にしても、端的に理解できそうだ。
 日本の小説、戯曲、詩歌でキリスト教をベースにした……いわゆる「キリスト教文学」とカテゴライズされる作物は、果たしてどれだけあるだろうか。日本人の精神風土、魂の領域もあってか、その数はどうしても限られてしまう。まともな形で題材にした作品を探しても、そう多くはない。どうも日本の小説家は(就中1980年代以後にデビューした衆は)宗教的要素・教養を自然な形で作品に落としこみ、昇華させる能力に欠けるようだ。誰何してみて名を挙げられるのは一人としていない。それゆえか、それ以上前の世代の作家となる小川国夫と遠藤周作、高橋たか子、三浦綾子や曾野綾子の存在がやたらクローズアップされて、作品群を無視するのがおよそ不可能なのは。
 そのあたりの事情と背景を推理し、小川や遠藤、髙橋や三浦たちの作品について駆け足ながら述べること可能であればこんなに愉しいこともないのだが、いざ作業に取り掛かろうとして、とてもじゃないがいまの自分の手に余る作業であると気附かされた。
 為、これは後日の宿題とし、その間にかれらの作品やエッセイを改めて読み返したり、これを契機に新しく手にしたりして、メモを作り実際の筆を執りたい。本稿、尻切れトンボの感は否めぬが、無理をして箸にも引っ掛からぬ代物をでっちあげてお目汚しするよりはマシだと思っている。ハレルヤ。◆

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第3693日目 〈神保町の秋を愛す。〉 [日々の思い・独り言]

 つい数日前、〈東京には行かない。〉と仮にタイトルを付けた一稿を草してまだ内容が記憶に残っているうちから、多摩川を越えて中央線沿線の古本屋まで行ってきた。Webサイトから注文した、その古書店が自費出版及び委託の自費出版物穂を引き取りに、である。
 最近は(仕事以外で)滅多に東京へ行くことがないから、引き取りに行く、というのを口実に、帰ってくる途中神保町に寄り道しようかな、という魂胆が実はあった。もうこの十数年、ご無沙汰している神田古本まつりも会期真ん中のウィークデイとあれば人混みも緩和しているだろう、然程不快の目に遭うこともないだろう、と思いながら。
 そうして──於神保町。
 21世紀になろうとしている頃、三井不動産が神田一丁目南部地域の再開発組合と一緒に大規模造成を行い、現在その地に建つのが神保町三井ビルディングと東京パークタワー。当時販社にいた関係でわたくしも当時プロジェクトに参加し、M/S住戸引渡しまで携わったことがあった。
 そんな意味でわたくしも神保町一帯の再開発に関与した身だから、学生時代から神保町の古本屋街・中古レコード店・ご飯屋さん(含喫茶店)に出入りしてきた身であるゆえ、相半ばする感情を心の裡に飼うのだが、今日行ってみたら三省堂書店は勿論、さくら通りの角っこにあった巖南堂のビルも解体されて四囲は工事壁に囲まれて、これまでは自分の立っている場所からは見ることの不可能だった隣ビルの薄汚れた壁面や夕刻を迎える仕度を始めた東の空が眺められる。心が乾いてゆく。初めてここを訪れた高校二年生から時の流れが止まったかのようにずっとそこに在り続けた店舗が、建物ごとこの世から姿を消してしまった現実の光景には、ちょっと受け容れ難いものを感じる。
 街は変わってゆく。自明の理である。不動産会社の営業職を通して、自分も街の変化に手を貸した。生まれ故郷も20世紀最後の年に始まった大規模再開発によって往時の風景はほぼ一掃され、いまなおそれは微々と続いている。街は変わってゆく。厭になるくらい経験してきた。にもかかわらず、神保町はそうした時代の流れの要請からは無縁と思いこんでいた……。
 三省堂書店や巖南堂のビルばかりではない。白山通りとさくら通りがぶつかる角地にあったスーパーも、しばらく来ぬ間に取り壊されて、いまは時間貸しの駐車場である。すずらん通りに面した冨山房ビル(わたくしの学生時代にはここに冨山房書店という新刊書店があって、創土社のホフマン全集や冨山房百科文庫百科文庫など、よく拝ませてもらったことである)裏の路地にあった老舗タンゴ喫茶は書泉グランデと小宮山書店の間の道に面した洋装店の一階に移り、すずらん通りで長く営業している、店頭で売っていたピロシキが抜群に美味いロシア料理店は本日限りで閉店する。
 ──思えば靖国通り南側地域の街並みの変化は、神保町三井ビルディングと東京パークタワーの竣工から目に見えて始まった感がある。自分には勿論なんの責任もないんだろうけれど、この街に足繁く通って古本屋をハシゴして古書を購い様々勉強させてもらい、安くて美味いご飯をたらふく食べてお腹を満たすなど大きな恩恵を蒙った一方で、たとい仕事とは申せ不動産会社の社員としてこの街の景観や人の流れなど変貌するきっかけにかかわった後悔なのか罪悪感なのか、単なるセンチメンタルなのか、自分でもよく判断できないアンビバレントな気持を抱くのである。
 神田古本まつりの会場を去ろうとしたとき、歩道に並んだ古書店の平棚に懐かしい一冊を見附けて値札も検めることせず迷わず購入した。ありふれた文庫本だ。いまも新刊書店の棚にあるのではないか。
 ──ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』(福島正実・訳 ハヤカワ文庫FT 1980/11)である。◆

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