第3555日目 〈ただいま(がんばって)作業中!〉 [日々の思い・独り言]

 昨日、『恋愛名歌集』を読みながら自分と『万葉集』の相性の悪さを嘆いた。ここに選ばれてある好きな短歌をきっかけに、幾らかなりとも改善の兆しが芽生えれば良いな、と希望した。
 その流れで今日、個人史の “if” を考えた。“if” とは、もし自分が学生時代、『古事記』ではなく『万葉集』を習っていたら、自分は果たしてそれを好きになっていたか、八代集と同じように自分の肥やしにできたか、である。
 現在は第二稿の作業を進めているが、この段階で大きな欠陥を発見。講師の担当講義を誤って記憶し、それに基づいて論を展開、結論づけたのである。これは失態だった。第一稿は手持ち資料一切なし、記憶頼みでいつものスターバックスで書いていたからなぁ……と言い訳。イケナイ、イケナイ。記憶でものを書いちゃあ駄目だよ。
 予定では本日、ここに「個人史の “if”」をお披露目する予定でしたが斯様な次第で現在大規模改稿、その真っ只中である。”正直なところ、こんな文章を書いている暇なんて、ないんだよ。明日は明日の予定がある。このあとも作業はほっぽり出して一杯飲んで、寝る予定だ。えっへん。”
 忙中閑あり、ではない。単に戯れ言をいうてみたかっただけ。
 読者諸兄へお伝えすることがあるとすれば、ただ1つ。──明日こそっ! 明後日、か?
 それでは。ちゃお!◆

共通テーマ:日記・雑感

第3554日目 〈『万葉集』との相性の悪さが、この短歌で解消したら嬉しい。〉 [日々の思い・独り言]

 2日のブランクのあとでふたたび萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読み始めています。各集選歌のパートとなった途端に糸が切れたようになって2日の間、手を伸ばすことがなかったのだけれど病院への往復のお伴に、と再度リュックに詰めてお出掛け。
 各集選歌のパート、そのトップバッターは当然『万葉集』である。
 奈良時代に成立した日本最古の歌集である。本書の執筆にあたって朔太郎が拠り所とした『万葉集』が、いったいどこの出版社から出たものなのかは未詳である。全集を繙くなどすれば解決するのかな。
 朔太郎は本書総論「『万葉集』について」のなかで、現代人の感性にいちばん近いであろう古典歌集というた(P179)。同じ文章の別の箇所ではこんな風に述べる。曰く、──

 今日現代の吾人読者は、他のあらゆる歌集にまさって、「万葉集」に最高の興味を感ずるのである。……「万葉集」の方に魅力を感じ、肉感的に親しく惹き付けられる愛を持っている。第一に「万葉集」は、何よりも吾人にとって解り易い歌集であり、その点で特別の親しみを感じさせる。(P177)

──と。
 翻って朔太郎が本書を執筆した昭和6(1931)年とその前後は、まさに『万葉集』リヴァイヴァルの熱盛っていた時期である。今日の目で眺めるとそれは研究者サイドよりも実作者、即ち歌人や詩人たちの熱狂が学会に波及していったように映る。
 一例を挙げたい。『早稲田文学』昭和2(1927)年2月号は「第二萬葉研究」と題して、武田祐吉(「萬葉集の生命」)、西村眞次(「萬葉集の人類学的考察)、窪田空穂(平安朝の歌と実際生活との関係)などの論考を載せる。もっと唸らされるのは同号巻頭の広告ページで、『早稲田文学』新年号「萬葉集研究號」の再版(佐佐木信綱、土岐善麿、相馬御風、尾上紫舟ほか)、武田祐吉編『続萬葉集』再版、次田潤『改訂版 萬葉集進講』、土岐善麿編著『作者別萬葉全集』と『作者別萬葉以後』(解説;折口信夫)他、当時の『万葉集』研究の一翼を担った文献が並ぶ。はっきりいってその様は、壮観である。
 さて。
 正直なところわたくしは『万葉集』を学生のみぎりより好きになれぬまま今日まで過ごし、途中折口信夫の『口訳 万葉集』や折口学派の並み居る国文学者、民俗学者及びその周辺に位置する人物の著作や謦咳に接してきたり、近年では新海誠『言の葉の庭』の雪野先生の台詞がきっかけになったりで、『万葉集』とは無縁の歳月を過ごしてきたわけでは、けっしてない。
 そのせいもあって本書『万葉集』のパートはあまり乗り気せぬまま、機械的にページを繰っていたことは否定できぬ。歌詠みとしての出発点というよりも和歌へのめり込んでゆくその出発点にあったのが『新古今和歌集』であることが大きく影響していよう。いうまでもなくそれは、『万葉集』とは対極にある歌集だ。つまり「短歌を詠む/読む」のそもそもの始まりから『万葉集』から遠く離れたスタイルを持った短歌に惹かれ、嵌まっていったわけだ。
 顧みれば非常に勿体ないことであった、と自省している。いくら自分の好む歌のスタイルとは違う、自分の心情や想心を技巧や虚構の裏に塗りこめて本音を表面に出さぬ歌を好み、また詠んできた身にいわせれば、『万葉集』はあまりに明け透けだ。読んでいると時々、恥ずかしくて赤面してしまう歌と遭遇する。ストレートかつパッショネイトな古代の歌詠みたちに仄かな憧れを抱くことも刹那あったけれど、いずれも一過性のものでしかなく、その憧れの気持迸るのもなにか外的要因あってのことで、ゆめ自分の心が彷徨うた末にそこへ辿り着いたてふわけではない。
 まァ、要約すれば『万葉集』とわたくしはどうも相性が悪いようである、ということだ。かつてモーツァルトの音楽との相性が悪かったのと同じぐらいの意味で。
 朔太郎が選んだ『万葉集』の歌も、頬杖ついてページを目繰りながら流していた次第だけれど、むかしから好きだった短歌が2首、選ばれているところでようやく機械的に動いていた指が止まった──いずれも巻十一の相聞歌、殆ど隣接する詠人不知の歌である。

 朝寝髪われは梳らじ美[うるは]しき君が手枕触れてしものを
 (朝寝髪吾はけづらじ愛しき君が手枕触れてしものを)

 験[しるし]なき恋をもするか夕されば人の手巻きて寝なむ子ゆゑに
 (しるしなき恋をもするか夕されば人の手まきて寝なむ児ゆゑに)

 いずれも同書26ページ。引用歌下()は佐佐木信綱編『新訂 新訓万葉集』下巻の訓だ(P23-24 岩波文庫 1927/10初刷, 1955/05改版)。
 「朝寝髪われは梳らじ」は『万葉集』らしからぬ、やや王朝和歌を連想させるところがあるので朔太郎は選んでいまいな、と思うておったら、不意打ちである、ページを繰った途端に出てきた。朔太郎評して曰く、「田園的野趣に富んだ万葉の歌として例外であり、むしろ平安朝以後の女流作家を思わせる。濃艶無比である」と。
 ──濃艶無比! なんと相応しい標語であることか。エロスを漂わせる歌は『万葉集』には他にもあるが(なんというても「情熱は素朴で赤裸々に表出され」[P176]るのが『万葉集』の歌の特徴の1つである、と朔太郎は述べるのだ)、この歌はその点で群を抜くと共に、群を抜いて異質でもある。それは朔太郎がいうように、女性を詠人とした王朝和歌の濃艶の空気を充満させているからだ。いまにして思うとわたくしがこの歌に惹かれたのも、こんな理由だったのだろう。
 対して「験なき恋をもするか」はたとえそれぞれの言葉の意味がわからずとも感覚的に、報われることなき恋を詠んだ歌とわかる。朔太郎の評にもある如く、「苦しい恋の心境を歌って」いるのだ。
 面識はある、しかし、なにかしらの理由により結ばれることはない2人の男女の姿が、この歌の向こうにはっきり見える。むろん、2人は結ばれることを、心の底では望んでいる。それが本心だ。しかし、女の側か男の側か、それを許さぬ理由が、乗り越えることも打ち壊すこともできぬ障壁が、間にある。この歌の世界はずっと後代まで下って類縁を求めることができる。
 こうした歌が好きなのだ。どれだけ深く、真剣に想うても、どれだけ自分を偽り、気持を断とうとも、忘れ得ぬ、心に傷を残す程に愛した異性と結ばれることを祈る歌が。……わたくしの心が、そうした歌を呼んで、のめり込ませ、邪淫の妄執を生み、逆に成長したそれに呑みこまれて死ぬのだ。
 既に述べたようにわたくしは、『万葉集』を好きになれない。さまで自分の心を隠すことなく謳うことに抵抗を感じるからだ。そうしたなかに斯くも自分の好みに合う歌のあることはしあわせである。もしかしたら、好きになるきっかけになるやもしれぬ。かつてマーク=ロンドン響=ペイエのクラリネット協奏曲が突破口となってモーツァルトの音楽へ親近してゆくことができたと同じように。
 でも、岩波文庫の『新訂 新訓万葉集』や角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス『万葉集』、犬養孝の鑑賞本などを読んでも、いま一つピン、と来ないのですよね。どんな本を読んでも、それは同じ。従って朔太郎の『恋愛名歌集』が突破口になってくれるだろうなんてこと、実はあまり期待していないのですよ……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3553日目 〈トイレ読書のお伴は?〉 [日々の思い・独り言]

 時々ふと、あれは誰だったかな、と考える。
 その人物は自宅のトイレでカントの『純粋理性批判』を、何年も費やしてとうとう最後まで読んでしまった、という(『実践理性批判』だったかもしれないが)。驚きである。あのカントの代表的著作を、まさかトイレで読み通した人がいるとは!?
 気になりだしてから2年か3年になるが、未だそれが誰だったのか、なにで読んだのか、全く思い出せない。可能性のありそうな本を開いても、すべて空振りに終わっている。見落としているのか、探す本を間違えているのか、定かではない。
 とまれ、トイレでカントを、何年も掛けて読了した、というのが大事なのである。

 いやぁ、カントというのがまた良い。遠大な内容ながら或る程度こま切れで読めて、そうしてがっつり取り組む価値あり、読んだことを周囲に自慢もできる書物。こんなことを思い立ち、継続し、継続させられる強固な意思と、家族からもあっただろう苦情の類を馬耳東風でやり過ごせる無神経ぶりに、敬意を表す。
 ──わたくしはもうすこし砕けた内容、ジャンルを選んで読み通したい。カントが鎮座坐すWCなんて想像したくないよ(呵呵)。
 自分がトイレ読書をするなら。
 あらかじめそこに置いておくのは当然として、入ったついでに何ページかずつ読み進めるとしたら、……実話怪談かな。古今東西のね。隣接するジャンルとして柴田宵曲も柳田國男も佐々木喜善も、良い。
 いちばん大切なのは、読む時間もこま切れなら自ずと本も細かい単元に分かれていること。ショートショートみたいな感じでね。
 いろいろな場所でする読書がある。ただ、足が痺れて立とうとしたら転んだなどないよう気をつけよう。くれぐれも痔にはならぬよう注意しよう。トイレ読書に耽っていたら痔になりました、なんて、洒落にならない。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3552日目 〈義務と責任を果たしながら、1冊でも多くの読了本を!〉 [日々の思い・独り言]

 津野海太郎『最後の読書』(新潮文庫 2021/09)を読了。──今秋購った本を片っ端から読み倒してゆく企ての、何冊目かの読了本だ、たぶん次に読みあがるのはキリスト教信仰の面からリンカーンの人生を辿ったジョン・クゥアン『ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン』になるだろう。
 ここまでは順調な歩みである(と思いたい)。が、まだ何冊も、読まれる時の来るのを待つ本がある。……25冊ぐらい? 流し読み、興味ある部分のみ拾い読み、ゆっくり読む、すこしく精しく読む、を対象に応じて使い分け、あと2週間で何冊の本を「読了」として片附けられるか。
 もはやむかしのわたくしではない。のんびりと、自由気儘に暮らして、会社員としての職務を無難にこなしていさえすれば良しという時代は、とっくに過ぎている。義務と責任を負う立場になったのだ。ひねもす読書に耽ることのできる日なんて、1年に何日もあればじゅうぶんだろう。
 そうしたなかで読書を続けるのは、なかなか至難である。読もう、と準備を始めた矢先に何事か出来するのが、家庭というものだ。それは常のこと。もう馴れた。家のこと、家族のこと、これらを後回しにして、或いは蔑ろにして読書を優先する、もしくは耽ることのできる人には、わたくしはなれない。なりたくない。そんなの、ただの畜生じゃん。
 ──最後の最後で話を戻せば、
 残り2週間であと何冊を読了本と為果せるか。
 絵に描いた餅に終わるやもしれぬが、今秋の未読本20数冊の半分弱を占める心理学と医療のコーナーにあってレジへ運んだ本については、すべてを読了できるようにしたい。いまの時点では願望や妄想の域を出ない。が、今後の自分のためにも、まずはこれらに着手する必要があるのだ。理由は述べない、とてもパーソナルなことだから。
 ……今日より先、わたくしの読書傾向は大きく変わってゆくかもしれないな……。◆

 追記
 本編の第一稿はいつものスタバで、モレスキンに書かれたのですが、それから駅へ向かうまでにふらり、と立ち寄った古本屋で、角川ソフィア文庫から出た柳田国男コレクションと折口信夫『古代研究』全6巻を見附けて、40分ぐらい迷った挙げ句に買ってしまった。折口は別として、上述の未読冊数に此度の柳田を加えれば、これで未読本はプラス14冊となった。
 咨、敵は懐に余裕あるときに古本屋に入るてふ行為そのもの。迷いに迷ったとはいえ、またしても未読本は増え、本の山の標高は更に高くなる……いやはやなんとも。□

共通テーマ:日記・雑感

第3551日目 〈大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 残り3ページをなにに使うか迷っていた抜き書きノート、2冊目が先程終わった。新しく読んだ本からの抜き書きではなく、6年前の刊行時に読んで爾来何度となく読み返してきた大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』(東京創元社 2016/12)から、読解力を中心とした抜き書きになっていた。
 読解力を養い向上させるには昔からいう、読書百遍義自から見(あらは)る、にすべてが込められており、本を読み馴染んだ人なら誰しも何度か経験あるだろう繰り返し読み耽る行為が、読解力を養う土台になる。流し読みや速読に馴れた、それが常態となった人は意識してか無意識に読み飛ばしなどして折角の読書という行為を、量を消化するだけのものにしてしまっている。
 著者は翻訳家なので上記読解力の文章も翻訳に絡めての話になっているが、読解力の優れた人になるためには、頭のなかに蓄えられた正誤、判別不能の情報を精査して知識に昇華させる必要が、まずある。その知識を基にして、精確にその内容を理解すること、誤訳や翻訳もどきを看破することが読解力の発揮となり、総じて駄目なものは早々に見切りを付ける。
 一方で読解力に欠ける人が翻訳書を読むと、自分でもどうにかわかる内容の本が、自分に理解できるレヴェルの日本語で綴られた訳書を「優れた翻訳」と称揚し(ゆえに誤訳や解釈違いの訳語を見抜くことはおろか、疑問に感じる余地もなく素通りする)、理解できない内容と文章の訳書については「翻訳が悪い」と曰うて己の無知蒙昧を満天下に曝す羽目に。Amazonのレビュー覧に時折出没するのがこの類である。
 これは恐ろしい本だ。殊読解に絞って読むと、読み手を震えあがらせる。聖書読解の面からアプローチして感ずる箇所を抜き書きしているうち、次第次第にわが身を顧みて反省を促され、ふと読書感想文の執筆や聖書読書ノートブログの再開を躊躇わせる瞬間もあった。お前は本当にその本を読めているのか、咀嚼して十全に理解できたのか、と心の声が囁きかけてくる。
 「読み返すたびに新しい発見がある」──これは自らの読解力の欠如を告白したに等しい文言である。6年前に本書を読んで以来、自らに使うことを厳に禁じた文言である。しかし、書かずとも、いわずとも、自然と浮かんでくる気持でもある。
 否、すくなくとも古典に関してはそうではあるまい。そんな抵抗の言葉を残して筆を擱く。◆


翻訳家の蔵書 (キイ・ライブラリー)

翻訳家の蔵書 (キイ・ライブラリー)

  • 作者: 大瀧 啓裕
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2016/12/21
  • メディア: 単行本




共通テーマ:日記・雑感

第3550日目 〈新聞記事をスクラップしていて、前言撤回を決めたこと。〉 [日々の思い・独り言]

 約1週間分の新聞スクラップをしていたら、いつもの時間を疾うに過ぎてしまっていました。いや、お恥ずかしい限り。ただのスクラップだったら2時間以上も掛けないけれど、この約1週間、わが家は色々ありましたので落ち着いて新聞を読む時間もなかったのですよ、ゆえに……と言い訳しておいて、では本日の。
 以前はカッターマットを敷き、カッターと定規を使って綺麗に当該記事を切り抜いていたのが近頃はすっかり横着になって、というよりも積もれば時間の短縮になると気附いてからは、1メートルの物差し(むかし懐かしの竹の物差しですよ)をあてて威勢よく切り取る(破り取る?)ことが専らとなり、お陰で同じ時間を費やしてもスクラップできる新聞の量が格段に増えました。もっとも、スクラップできる新聞の量が格段に増えることは同時に、台紙に貼りつける記事の数も増えることを意味します。
 しかしそんな風に時間の短縮化を図っても、なかなかスクラップを待つ新聞の物量は減ってくれない。どうしてだろう? いまは平時に戻って購読する新聞も2紙で済んでいるが、8月から9月終盤にかけてはふだんの購読紙に加えてコンビニなどで他に4-5紙は購入していたからなぁ。実はその時期の新聞が殆ど手着かずでね。それが溜まってしまっているのであります。毎日でなくても1週間のうち日を決めてスクラップ作業に勤しんでいれば、部屋の片隅に新聞紙の山を築くこともなかったのに。
 ──薄々お察しの読者諸兄も居られるやもしれぬが、先達てここで表明した新聞についてのエッセイについて。はじめに予定していた内容を若干ですが変更して、既に書きあがっている新聞購読者数の減少についてのエッセイと、わたくし的新聞スクラップの流れと留意している点など倩書き連ねたエッセイ(箇条書き/メモあり)、どういう分野の記事を、どんなきっかけもしくは理由あってスクラップしているか、など個人的な内容を形にして、ここにお披露目するのを考えております。
 舌の根も乾かぬうちから前言撤回を繰り返して、まるでどこかの国の政治家のようですが、ここで正直に告白することで悔悛の姿勢を見せて、なにとぞ読者諸兄にはお許し乞う次第なのであります。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3549日目 〈近世怪談翻訳帖の作品選びをしながら。〉 [日々の思い・独り言]

 急に寒くなった。幸いと祝日である。家中に留守にできぬ障りありひねもす蟄居して、ぼんやりと朝から、空いている時間は読書に耽るてふ贅沢三昧の今日を過ごした。溜まりに溜まった未読本を消化するつもりだったのが、気附けば積みあげた岩波文庫黄帯の山を崩してカビの生えた文学にすっかり遊んでおったことである。
 とはいえこれはけっして目的なき読書ではない。近世怪談翻訳帖の作品探しを兼ねている。高田衛編・校注『江戸怪談集』上巻を巻頭から読み進めて、結局『宿直草』は終わらせられなかったけれど、そのなかに幾篇かの下心そそられるハナシのあったことが収穫だ。
 『宿直草』は「とのいぐさ」と読む。延宝5(1677)年開版。荻田安静編著。未だ全編に拝すの機会を得ぬが、岩波文庫所収の各編に目を通してみると、最後に荻田の感想や道義的解説が付されるハナシが散見する。これは後代の怪談集に於いても踏襲されるパターンなので、本筋にはいっかな関係なくとも当時の人々が件のハナシに対してどのような所感を抱いたか、時代風潮と併せて確認できる貴重な証言というて良いと思う。
 さて。
 いまのところ、これは……、と舌舐めずりしてどんな風に現代語訳してやろうか、と考えているのは、「淺草の堂にて人を引き裂きし事」、「三人しなじな勇ある事」、「たぬき薬の事」、「幽霊の方人の事」、「虱、人を食う事」と「狐、人の妻にかよふ事」あたりである。
 最初のハナシは近松浄瑠璃のような道行だが、翌る朝、男が見た者は……てふもの。どこかで『伊勢物語』の、盗み出した妃を鬼に喰われたエピソードを想起させる。「三人しなじな勇ある事」はなんとも飄々とした風合いのハナシで、翻訳次第で途轍もなく〈化けそうな〉ハナシである。生きたまま柱の穴に突っ込まれた虱の復讐譚「虱、人を食う事」、読んでいて思わず背筋の震えそうになった「幽霊の方人の事」など、手を掛けて現代日本語の衣を纏わせてやりたいものだ、と実力以上の大望を抱いてしまう。
 ところで古典の翻訳をする際、どう現代語に置き換えれば良いか、どう処理すれば良いか、迷うことに、掛詞や枕詞の件がある。
 いま一寸現物が手許にないので甚だ心許ないけれど、西鶴の『好色一代男』ね、これはむかしは吉井勇が現代語訳を手掛け、その後は吉行淳之介がやっている。古典の常套手段であるが冒頭は、掛詞、枕詞の羅列で、吉井勇はそれを現代日本語の文章の流れをぶった切ってでも、後代のそのあたりの知識薄い人が読んだら困惑する懸念も顧みず、ほぼそのまま自分の文章に落としこんでいる。対して吉行は流石に当代の文学者であることもあり、言葉は悪いが適当に省いたり他の表現に置き換えるなどして文章の流れ、スムーズに徹して進めている。
 見習うべきは、範とすべきは、どちらか。正直なところ、どっちの処理も正解なのである。作品や原文、場面による、という、なんとも脆弱な答えになってしまう。
 翻って上に候補を挙げた諸編のうち、例えば「淺草の堂にて人を引き裂きし事」は道行ものである以上、男か女、どちらかからそのきっかけになる手紙が届けられるわけです。届けられるとはこの場合、文章になっていることを意味する。今編では、まァ直前からその傾向があるのですが、「何時までとてか信夫山、忍ぶ甲斐なき爰にしもをればこそ聞け。憂き事をただ蛟の峒、鮫住む沖のなかなかに君もろともに出でなば」云々、ここをどう訳そうかな、と舌舐めずりして下心持ちながらも中空を睨んで、さて……、と考えこんでしまう。
 まだこれらを現代日本語へ移すのは先になるから、それまでとつおいつ思案に耽るとしよう。むろん、考える過程で読み返して候補から脱落するものもあるはずだから(その逆もまた然り)、「淺草の堂にて人を引き裂きし事」が読者諸兄の前にお披露目される日かならず来るとはお約束できない。あしからず。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3548日目 〈ただいま、音楽。〉 [日々の思い・独り言]

 病気が完癒したわけではない。未だ後遺症(?)はある。が、これを感謝したく思わずしてどうしようか。
 この3週間ぐらいのことかしら。流す程度ではあるが、iTunesやiPodに取りこんだ音楽を、聴いている。自殺行為に等しいゆえイヤフォンではなく、iMacに繋いだスピーカーもしくはBluetooth接続した別のスピーカーから。
 耳鳴りが耐え難い程大きいときもあれば、殆ど意識せずに過ごせる日もある。馴れのせい、あるやもしれぬ。否、無関係ではあるまい。為、音楽を聴くことのできる日もある。そうでない日もある。然れどもう諦めていた音楽を再び聴けるようになったことを、わたくしは喜ぶ。新しい主治医をまるで役に立たぬと切り棄てて自己療養にこれ努めた結果だ。ハレルヤ。
 が、流石に好んで耳を傾けるジャンルには変化が生じた。クラシックは元より愛好すれどオーケストラは無意識に遠ざけている。以前にも増して室内楽に、古楽に、声楽に惹かれ、沼に落ちてゆく自分を感じる。
 ジャズも、洋楽も、また然りで好んで聴く中心は変化してゆく。洋楽はひたすら過去に、オールディーズに、プロテストに。ジャズはひたすらリラクシングな、メディテーショナルなものへ。ウィンダム・ヒルのLPをまだ持っていたら、聴力の許す限り聴いているかも。
 何年か前、わたくしは『それを望む者に』という、本ブログでもお披露目した小説の続編を書いてその終盤、突発性難聴を患った主人公が再び音楽に──ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番──向き合う場面を書いた。この頃自分の難聴は改善の兆しがなかったので、せめて小説の主人公にその希望を託したのである。咨、何年も経ってそれが現実になろうとは! ハレルヤ。
 病気が完癒したわけではない。発症前の状態に戻れるなんて愚か者の発想だ。未だ耳鳴りはあって、それと永遠にお別れできるなんて夢のまた夢。
 が、わたくしの生活に再び──その割合は著しく減ったとはいえ──音楽が帰ってきた。これを喜ばずして、神に感謝をささげずして、医療に、家族に感謝せずしてどうするのか。
 ただいま、音楽。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3547日目 〈大いなる幸せに恵まれた人となり、喜びの声をあげよう。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日、本ブログも終活を始めたよん♪ と書いた。それへ追記した稿は既にお披露目済みと思うのですべてはそちらへ譲り、今日はそこから派生したお話をば。
 〈終わりの始まり〉はもうとっくに幕を上げているのかもしれない。ひょっとするとそれは錯覚で、まだ先のことなのかもしれぬ。「しかし人生は一々の事件にたいして覚悟ができているかどうかを、あらかじめわれわれに聞きあわせてはいない」(※)のだ──わざわざ、♪ジャジャジャジャ、ジャーン♪ って扉を叩いて知らせてくれやしないよね。
 ただそのような時来たる意識することで、却って書いておきたい、書いておくべきテーマはなにか、明らかになったところがある。それに従って今後は筆を執ってゆこう、というのだ──勿論、毎回毎回じゃあないけれど。
 わたくしだけが娘に、父の知ることを伝えられる。ずっと以前、本ブログの記事一々は毎日着実に増えてゆくわが墓誌である、と書いた。その気持に変わりはない。今日より後はそこに加えて、言い遺し、書き遺しの性質を帯びることになろう。
 もう、時間は残されていない。
 さりながら歳月経ていつかここで、これが、病癒えたる者の神への感謝の歌、となるのを願い、祈る。秋成みたく「嗟呼、天は何が為に我を生みしか」もしくは「噫、天何為生我世邪」(ああ天よ、なぜ私はこの世に生まれたのだ)てふ嗟嘆ではなく、感謝を──おお神よ、人生よ、両親よ、兄弟よ、妻よ子よ、汚れなき感謝をささげます!──歌えるように、生きる。◆

※ハンス・カロッサ『美しき惑いの年』「苦悩の世界」P324 手塚富雄・訳 河出書房新社『世界文学全集』第30巻 1961/08□

共通テーマ:日記・雑感

第3546日目 〈終わりの日が来る前に、挨拶を一言。〉 [日々の思い・独り言]

 熟慮の末、本ブログもそろそろ終活を始めることにしました。
 ティクルスの計画はすべてこれを放棄。新聞に関するエッセイは、まとめてお披露目を予定するも全編上がりのメドが立たぬため、永遠破棄に決めました。集めた資料は処分し、執筆の過程で作成したメモ(PC内アプリケーションにて作成も含む)と08月に完成していたエッセイはdock内のゴミ箱へ。さよなら。
 とはいえ、いつまで続けるか、概ねの目算はできているとはいうものの、こんな性格ですからいつ翻意するか不明ではありますが……。いつか本ブログに終わる日が来ることも、それに備えて終活せねばならぬことも、否定できぬ事実ではありましょう。
 最終日の作品は既に今世紀初頭に書きあがっており、それを当該日に初お披露目致します。流用という名の手抜きではなく、それが掉尾を飾るに相応しい〈別れの言葉〉に相応しいからであります。このような内容の詩を書く程に、当時のわたくしは四面楚歌を経験していたのでした。
 或る日ふっと更新が止まり、そのまま永久に更新されず終い、という無様かつ無責任な行動は避けたいの一心から、斯く決定、お伝えしたわけであります。
 見渡してみてください、始めたは良いものの途中で更新を、予告も告知もなしに止めてそのままになっているブログやHPがどれだけ電脳空間に惨めかつ無様な姿を曝しているか、よくおわかりになることでしょう。本ブログはそのような目には遭わせない。それだけの話であります。
 どうぞ、おわかりいただけますように。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3545日目 〈詩歌集は人生の友である。〉 [日々の思い・独り言]

 『恋愛名歌集』を読みながら、ふと或る疑問が脳裏をよぎりました。萩原朔太郎の詩集、まだ持っていたかな? 岩波文庫と新潮文庫の歌集、詩集は意識的に集めるようにしてかなりの数が集まっていたけれど、火事やら引越やら、スペース確保や換金目的やらで随分と手放してしまった。
 或るとき、必要になって岩波文庫の中原中也詩集を捜したが、どこにも見当たらなかった。諦めて翌日、新刊書店で購入したてふ経験もあったので、中也と同じく学生時代に読んだ朔太郎詩集はどうだったけな、と不安になったのです。──結果? いや、それが無かったんですよ。『郷愁の詩人 与謝蕪村』と『猫町 他二篇』はあるのにね。
 検めると結構な数を処分していた事実が、今更ながら発覚。詩歌集に限らず、かれらの随筆集や評論集のあることも。与謝野晶子の評論集や三好達治、斎藤茂吉の随筆集が、どこにもない。有るのに無いのではなく、無いものは無い、なのである。うわぁ……。
 正岡子規に至っては歌集と『歌よみに与ふる書』以外は軒並み、処分したようだ。捜しても捜しても『仰臥漫録』『墨汁一滴』『病牀六尺』はなかった。なにを考えて、こうしたものまで処分した、当時の俺?
 慌てて、では外国の詩人の詩集は、と検めると、これもまた過半を処分した様子。残っているのはアポリネールとヴェルレーヌ、ボードレール、ジブラーン、岩波文庫から出ていたイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの名詩選だけである。ベルトランやホイットマン、ブレイクの詩集も、気が触れたかして処分してしまうたらしい。溜め息も出ません。
 いますぐに読まずとも詩集は手許に置いておくべきであります。なにがあろうと、です。ひとは生きている限りかならず人生のどこかで、心が涸れたり、動揺が鎮まらなかったり、独りし沈思黙考すべき時期に巡りあいます。そうした折に開いた詩歌集──勿論そこには俳句や漢詩も含みます──の、偶々目についた詩歌の一節、一首、一句が、どうしようもなく揺れ動き、鎮まらぬ感情を一時でも宥め、そのまま心を平定させてくれることがある。
 これはわたくし自身も経験していることなので、もう少し論理的に解説することができれば良いのですが、あいにくとわたくしはそれだけの脳ミソを持ちませんので、斯様に普遍的なことだけ述べて失礼させていただきたく思います。
 ただ、紙に印刷された文庫や単行本の詩集には、電子書籍や青空文庫からのDL品からはけっして得られぬ、或る種の落ち着きや瞑想を与えてくれるところがあるのではないでしょうか。さながら人生の同伴者の如くに、友の如くに。
 思うところあって(書架の整理中に発掘した)窪田空穂の歌集、随筆集と自伝を、本稿の筆を執る前にしばらく読んでいましたが、ふしぎと自分のなかが静穏に満たされてゆくのを、単純ながら実感したのであります。

 命とはうるさきものかも 人中にまじればわびし 独あればさびし
(大岡信編『窪田空穂歌集』P320 「丘陵地」哀歓より 岩波文庫 2000/04)

 こんな歌がすぅっ、と自分のなかへ入ってくるとき、ひとは共感や同調から生まれ出た慰めや安寧を感じるのだと思います。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3544日目 〈慰めのカテキズム、『ハイデルベルク信仰問答』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『ハイデルベルク信仰問答』は良い本だ。非キリスト者であっても、しん、と胸打たれる瞬間が幾らもあるのだ。殊真夜中、人も草木も寝静まった一刻にこれを読んでいると、たまらなく切なくなり、異教徒ながらその〈慰め〉の恩恵にすがりたく思う。
 『ハイデルベルク信仰問答』はカテキズムの代表的書物で、多くの言語に翻訳されて用いられている。キリスト教関係の書物では、聖書と『キリストにならう』に次いで読まれているのは、内容が優れていることの証しだろう。
 「カテキズム」は「教理問答」と訳される。キリスト教の教理を平易な言葉で記した、信仰伝授の入門教育の書物を、今日では一般的に指す。
 宗教改革の頃に成立したこの信仰問答だが、世に出て間もない頃から幾多の苦難に直面した。その度『ハイデルベルク信仰問答』が非難と策謀を退けてきたのは、これを護る側にもこの信仰問答自体にも強くて深い信仰が備わっており、慈しみと慰めの言葉を恃みとする人たちの信念ゆえのことであったろう。
 『ハイデルベルク信仰問答』は良い本だ。非キリスト者であっても、その価値や趣旨、本質は充分わかる。頭で理解するのではなく、心で理解できる。〈「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない〉──レイチェル・カーソンの至言である(『センス・オブ・ワンダー』P24 新潮社 1996/07)。
 『ハイデルベルク信仰問答』を誉めそやし、握翫する非キリスト者を、もしキリスト者が信徒に非ざることを理由にその気持を咎めるようなことあらば、カーソンの言葉から話を起こして『ハイデルベルク信仰問答』が信じる宗教宗派に関わらず普遍の輝き持つ賜り物である旨腰を据えて説いてみると良いと思います。◆


ハイデルベルク信仰問答 (新教新書)

ハイデルベルク信仰問答 (新教新書)

  • 出版社/メーカー: 新教出版社
  • 発売日: 2022/11/19
  • メディア: 新書



共通テーマ:日記・雑感

第3543日目 〈萩原朔太郎の痛罵が心地よい1冊──『恋愛名歌集』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読んでいる。若き頃は短歌の実作を試みた、詩史に名を残す詩人が44歳のときに書き下ろしで発表した、万葉から新古今集までを対象に、書名通り恋歌を中心に据えてコメントを付し、また総論として歌風の変遷や特徴など簡潔明瞭に述べた1冊である。昭和6(1931)年05月、第一書房から刊行された。
 朔太郎は冒頭「解題一般」で、巻末にまとめられる総論を読んでから、各集選歌のパートを読んでほしい、と読者に向けている。
 素直なわたくしは作者のお願いに従い、昨日からそのようにしている。こちらも万葉集から新古今集まではみっちりと学び、独りし読書に励んで9つの歌集を1首の洩れもなく飛ばすことなく完読した者だ。ゆえに朔太郎が万葉集と八代集に対してどのような歌を選び、そのような評価を下しているか、とても興味深いのだが……、
 ……興味深いのだが、実際に読んでみるとこれがまた手厳しく、痛快無比である。時代風潮というのはけっして見逃すことできぬファクターであるが、それを考慮しても万葉讃美、古今痛罵の言葉は鋭く、或る意味で正岡子規の伝統和歌・旧派歌人への攻撃よりも胸の深いところまで突き刺さってくる。
 確かに古今集は、他の歌集を知ったらば尚更つまらぬ集で収める歌には凡庸極まりない一首は多々あると雖も、流石に「低脳歌」とか「駄歌」なんて言葉は捻り出せぬ。いわれてしまえばご尤もなので、その痛烈な切り捨てに唸らされても反論する気なんて全くないけれどね。
 なんとなく総論に関してはメモを取っているので、読了して抜き書きノートを併せて作成したら、ここで感想文をお披露目しよう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3542日目 〈黄金の1ヶ月、来たる。〉 [日々の思い・独り言]

 もはや死に体の岸田内閣がかつて夢見た〈黄金の3年〉とは異なり、〈黄金の1ヶ月〉がわが身に訪れること、これは既に確定事項であり、実はもう始まっている。
 いったんは着任したものの管理者不在を主たる理由として、正式赴任が1ヶ月先延ばしになったのだ。わたくしはこれを満喫する。購入した本の整理は当然として、家のこと、家族のこと、他諸々諸事雑事を、脇目も振らずに片附けてゆくつもりだ。時々バッテリー切れで半日ばかり糸が切れたように呆けて過ごす可能性は極めて濃厚なれど、そんな一刻がなくてはやっていられぬ。
 着手したのは新聞記事のスクラップ。視界の外には未整理の新聞が山を成しているが、先の目処はついているので1週間もあればすっかり片附くはず。……はず、というのがミソで、悩ましい不安材料なのだけれど、まぁ、なんとかなるだろう(と思う。と思う、ってのもミソで以下略)。
 現在は買いこんだクラシックやジャズのCDを聴きながら、ライナーノーツを読みながら、iTunesに片っ端から取りこんでいる。音楽といえば最近はちょっと嬉しいことがあったのだが、これはこの先の話題とする。
 慌ただしくも有意義な1ヶ月にしたいなぁ、しなくっちゃなぁ。そう独り言ちたら、年末の大掃除先取りですね、と隣の知人が返した。仰る通りである。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3541日目 〈必要な本(聖書)は、だいたい揃ったかなぁ、という話。〉 [日々の思い・独り言]

 まさに表題通りのお話でして。
 折に触れて、その気になったとき、まァ1年に1冊程度ではありますが、現在日本語で読めて、通常に流通している各種聖書を購入してきました。そう、ポツリ、ポツリ、とね。
 「塵も積もれば」なんとやらといいますが、今年の秋、これだけ揃えてあれば当座の用は為すだろう、というぐらいには聖書各訳を手許に置くことができました。これまで口語訳とバルバロ訳は架蔵していなかったけれど、昨日神田の本屋さんで購いまして、「うむ、だいたいこれでよろしかろう」と独り言ちているわけです。
 とはいえ酔っ払って帰宅深更となり、いつも通りに出社しているので、訳文の吟味などできていないのですが、購入直前にパラパラ店先で目繰っていて、文章に生硬な箇所や不自然な日本語の混ざっていない、そうして全体的にやわらかな印象を、口語訳にもバルバロ訳にも抱いたことは報告しておきたく思います。ただやはり馴染んだ表現、馴染んだ固有名詞というのはありますので、かりに2回目の聖書読書ノートブログを始めても、その際のテキストにこれらを採用することはないのではないでしょうか。
 取り敢えずいまわたくしのところには、現在、通常に流通している日本語訳聖書は、10種ある──初回読書時に用いた新共同訳と、その後に購うた新共同訳引証つきを含む──。ここ数日、時々名前の出る岩波書店刊旧新約聖書註解書全20冊は、10種のうちに数えていません。
 他に欲しい日本語訳された聖書、ですか? 何年も前に買い逃した(買い忘れた)共同訳聖書、実際は新約聖書のみだそうですが、元版と講談社学術文庫版、どちらでも構わぬから手許に置きたいですね。詳しい解説があった、と記憶しますから、後者の方が良いかな。こんなことを書いていると昨年のエウセビオスのように、年末あたり手に入るような気も致しますが。
 註解書は……図書館で借りること、岩波版に次いで多かったティンデルやケンブリッジ、DSB、バークリー牧師の新約など、あれば執筆や調べ事のとき便利でしょうが、しかし如何せん全巻揃いの美本が出ること滅多になく、或る日売りに出されて運良く買えても置く場所や無し。
 口語訳聖書を買ったお店で、来たる〈前夜〉執筆の役に立つか、用に足りるか、と思い、これまた図書館で借りたことのある「コンパクト聖書注解」シリーズの『ヨブ記』(A・ファン・セルムス/登家勝也・訳 教文館 2002/08)も購入しました。活字は大きく版面にゆとりあり、判型が中型聖書と同じなので、次はこのシリーズを揃えるかもしれません。
 ゆっくり、ゆっくり、急ぐことなく懐具合と相談しながらコツコツ買い溜めた各種日本語訳聖書や、必要に応じて買い揃える註解書、その他参考文献を繙きながら、やはり1日1章の原則で何年にもわたって、遅かれ早かれその時が来ると覚悟している2回目の聖書読書ノートブログを書くのでしょう。まだ実現のメド、まったく立たぬ夢想ではありますが、その日々の訪れが現実になったら──とワクワクした気分を覚えるのであります。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3540日目 〈バルバロ訳トマス・ア・ケンピス『キリストにならう』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』は講談社学術文庫版で持っています。『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』が正式な書名で、訳者は呉茂一と永野藤夫(2019/12)。
 岩波文庫にも『キリストにならいて』は収められて(大沢章・呉茂一訳 1960/05)、長く読み継がれていまも現役の書目ですが、活字の大きさと訳文の好み、今道友信の解説(序文)の密度、この3点を以て東京オアゾにある丸善丸の内本店にて講談社学術文庫版を購入したのです。
 あれはもう3年程前でしょうか。田舎の墓仕舞いのことで親戚と陰湿なバトルを繰り広げて、心身共に疲弊しきっていた時分でしたから。セネカを買ったのも同じ時だったと記憶します。
 ずっとそちらで読んできましたが、つい昨日(一昨日ですか)ぶらりと入ったブックオフでバルバロ訳『キリストにならう』を見附けて、三好達治と津野海太郎の文庫と一緒に買ってきた。酔いも充分覚めた日曜日、お昼寝中の奥方様と娘の隣で読んでいたんですが、講談社学術文庫版とはまた違う意味で平易かつ格調ある訳文で、気附いたら1章をすぐに読み終えていた。
 気のせいか、祈り、篤信、という面ではバルバロ訳の方に僅差で軍配が上がりそう。バルバロはサレジオ会司祭という肩書きと旧新約聖書の翻訳という業績から明らかなように、基から信仰の側に立って信者を教え導いてきた人物。斯様な人が手掛けるとあれば、その訳文に信仰の精神が自ずと塗りこまれるのは必然ではないでしょうか。
 較べてみよう。第1巻第23章「死を黙想する」(講談社学術文庫版「死の瞑想について」)第4節「健康と病気」から。ここはわたくしの好きな一節の1つであります。曰く、──

 つねに死への備えができている状態でありたいと、生きている間に努める人は、なんと幸せで賢明なのであろう。まったく世俗を軽蔑すること、徳に進もうと熱心に望むこと、規則を愛すること、苦行すること、すぐに従うこと、自分を捨てること、そして、キリストへの愛のためにあらゆる患難を忍ぶことは、よい死を迎えるという確かな根拠である。
 健康である間は、よいことをたくさんおこなえるが、病気になれば何ができるかわからない。病気のときに善に進む者は少ない。さまざまな地の巡礼をして聖徳に達する者が少ないのと同様である。(P89-90)

──と。こちらがバルバロ訳。ストレートな表現ゆえに却って非キリスト者の心にもストン、と落ちる文章といえます。
 では一方、講談社学術文庫の呉茂一・永野藤夫訳はどうか。同じ「死の瞑想について」から引いて曰く、──

 死の際にかくありたいと願うように、そのように生きていこうと、存命中から努力する人は、なんとしあわせであり、また賢明であることか(集会書四十一の一)。なぜならば、世間をまったく軽んじようという心(伝道一の一)が、いろんな徳に進もうとする熱望や規律への愛、悔悛の労やすみやかな服従への心構え、また自己否定や、キリストへの愛のためのあらゆる苦難を耐え忍ぼうとの覚悟、これらがかように努力する人にたいして、幸福な死への確信を与えるからである。
 健康であるあいだは、あなたはたくさん善いことを行ない得るが、病気になったら、何ができるかわからないのだ。病気のためにいっそうよくなるという人はすくない。同じように、あまり諸方に巡礼して歩いたからとて、聖者とされる人はまれである。(P74)

──と。バルバロ訳との対比のし易さを考えて、「健康であるあいだは、」で改行した。
 ラテン語の原文に則してこちらの日本語がどの程度のクオリティか、ラテン語を解さぬわたくしには不明ですが、バルバロ訳に比してより原文に誠実に、精確であろう、と努めた結果、斯様な訳文ができあがった、と考えます。
 比較引用した箇所のみならず全体を通じても、講談社学術文庫の呉茂一・永野藤夫訳は学術的な翻訳を目指したもので、バルバロ訳は信仰生活に寄り添った訳文であらんと努めたてふ印象が強い。バルバロ訳を読んでの平易かつストンと心に落ちる、という感想を持ったのは、このせいかもしれません。
 どちらを主体にしてこれから読んでゆくか。どちらか一方を、というのは難しい。そのときの気持や環境によって併読する、というのがいちばん正しく、素直な回答になりましょう。じっくりと読んで考える時間、或いは機会あるならば講談社学術文庫版になるだろう。気持を整えたり何事か落ちこんだり悲しみに暮れることがあればバルバロ訳が心に寄り添ってくれるだろう。
 講談社学術文庫版に序文を寄せた今道友信はそのなかで、『イミタチオ・クリスティ』(『キリストにならいて』)は慶長元(1596)年にローマ字版日本語訳が誕生、近代以後は今日に至るまで著名な訳本だけで十指に余る、と述べている。聖書同様、各種の版を集めてその時代、その時代の日本語を味わいつつ信仰の言葉の変遷を辿ってみたいものであります。
 バルバロは序論のなかで、本書について下のように述べ、説いている。最後にそれを引いて筆を擱きたい。曰く、──

 『キリストにならう』は、元来修道者のために修道者が書いたものであるが、しかし一般の修得書でもある。この本の作者の深い洞察力と学識は、いかなる人間にも、いかなる身分の者にも応用しうるのである。

 しかし『キリストにならう』の単純素朴な文章は、一種の神感を受けたもののようであり、もっぱら修辞を避けて、ごく自然な調子であり、さながら作者の前でその話を聞いている感がする。この作者は、長い修道生活から教えられたとしても、無限の生命の河から水を汲むべく、主の御心の上に休んだ聖ヨハネのように、神の霊に導かれていたのであろう。

──と。わが駄弁を重ねる必要がありましょうか?◆

共通テーマ:日記・雑感

第3539日目 〈旧約聖書〈前夜〉、再始動の狼煙。〉 [日々の思い・独り言]

 けっして岩波書店刊旧約聖書・新約聖書註解書を購うた為のみではあるまいが、昨日(一昨日ですか)「エステル記」〈前夜〉の第一稿を書くことができた。先達ての文化の日に中途半端になった稿をベースにしたとはいえ、殆ど参考資料を手許に置くことなく集中して約2時間程でとりあえずの第一稿を纏めることができたのは、幸先の良い〈前夜〉執筆再起動の兆しと考えたい。
 このあと推敲してお披露目できるレヴェルのものになったら、続けて「ヨブ記」「詩篇」にとりかかり、絵に描いた餅で終わるやも知れぬが今年中に柱となる部分だけでも書いておきたい。まァ、それに安心してまた1年近く執筆を放棄する可能性も皆無ではないけれど……なんというてもこの「エステル記」が、Pagesにメモを認めてから1年と数日越しに書かれていますからね。前例はある、それゆえに己を戒めつつ適度にゆるめつつ、〈前夜〉執筆を先に進めましょう、という次第。
 なにをきっかけに、〈前夜〉は預言書以後の書物群に見る如き内容に変化したのか。預言書以前は露払いというもおこがましく、各書物の読書ガイドにすらなっていなかったのに。否、明日から当該書物の読書に入りますね、という、数行程度の報告でしかなかったものが、いったいどうして? わたくしにもそれはわからない。
 読書という行為を除いてもまだ暫くは、わたくしと聖書の付き合いは継続されるようだ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3538日目 〈年子の捉え方は色々だけれど。〉 [日々の思い・独り言]

 奥方様の希望には添わねばならぬ。2人目を作る、ということである。
 年子になるとはいうけれど、長い目で見た場合メリットの方がデメリットを遙かに上回ると確認。出費が一度に重なることについてはパパ了承済み。体力的精神的にきついかもしれぬとは奥方様了承済み。授乳時期が重なる点については奥方様、重々承知の上のこと。
 であれば、母のためにも、娘のためにも、頑張らねばならん。既にご懐妊している可能性、否定はできぬけれど。
 赤ちゃん返りが少なくなるとか、姉が妹もしくは弟と一緒に遊ぶとか、そちらメリットについてわれらはウェイトを置く。幸いと幼稚園は目の前である。学年が一緒になる可能性は否定できないが、それはそれで良しと考える。何事もポジティヴに、自分に都合の良いように考えよう。
 年子育児はデメリットよりもメリットに目を向ける。ネガティヴ思考はいっさい切り離す。世人が労苦と思うことを楽しみに転換することを楽しむ。──それを理解したら、早く2人目を授かりたい気持でいっぱいなのである。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3537日目 〈秋の古本狂詩曲[結語];本棚にすべての本を並べたい。〉 [日々の思い・独り言]

 シリーズが一段落して気が抜けてしまいました。それにしても、ぎょうさん買いこんだものや。自分、アホちゃうか。討ち死にじゃあっ! と内心叫んで理性を抑えこみ、散財した結果がいま、わたくしの前で新たなる山脈を築く。
 奥方様が、あなたの部屋にはいるのイヤだ、と可愛らしくお冠なのも頷ける。正直なところを告白すれば、獣道を歩くのはわたくしも怖いのだ。縫うようにして歩く、ってこういうことをいうんだろうな。
 が、わたくしはまるで後悔していない。先日購うた本の雑誌編集部『絶景本棚』正続(2018/02,2020/08 更なる続刊予定もあるだろう)を覗いてみると、部屋のなかに本棚が何棹も林立して、その間に、人の身長よりも高いかほぼ変わらぬぐらいに山積みとなった本の山が奥から手前まで幾つも幾つも列なり、ピサの斜塔よろしく傾斜している写真がページをどれだけ目繰っても続くのだ。咨、これに較べればわたくしの部屋はまだマシである。そう思うて奥方様にその本を見せたら、ドン引きされた。そうして目の前の夫を見た。
 きっとこいつの部屋も近いうちにこれと同じような状況になるに違いない。
 不安に駆られたのだろう。途端に、鉄筋アパートの空室を書庫にするのを奨められた。部屋の広さゆえに却って借り手が付かないという部屋だ。ここに本棚を何棹も、向かい合わせに林立させて能う限りの本をそこへ詰めこめ、というのだ。ついでに仕事部屋も移す? と訊かれたが、流石にそれはなぁ……。家族の気配が感じられる場所、家族の声が聞こえる場所で仕事したい。
 とはいえ、空室を自分で借り上げるというのは極めて現実的な対処方法だ。幸いと1階なので、本を運びこむのも楽である。もっとも、その準備を想像した途端にゲンナリしてしまうのだが、それは致し方ないことで、他人任せにできない作業だからね──と自分にいい聞かせてみても、やはり腰は重い。あーあ、ドラえもんがいたらなぁ。
 本棚を設置して、能う限りの本をそこに並べて、背表紙が見える状態にするのは多量の蔵書を持つ人ならば共通の夢ではないか。きちんと棚に収まり、背表紙がこちらを向いて、いつでも手に取れるような状態になるのは、なんと素晴らしいことか。まさに夢のようだ。必要な本を必要なときに取り出せる便利さ。ふと目に付いた本を気軽に抜き出して読み耽る歓び。意外な本同士が化学融合して思いもしなかったアイデアが生まれる愉しさ。これが現実になったら、どんなに良いだろう……。あれ、そうするとやはり物を書く作業は(原則として)すべて書庫で行わねばならぬということか。んんん、悩ましい。
 自分の蔵書すべてがずらり、と本棚に収まり、背表紙をこちらへ見せている光景を夢想する。ジャンル毎、テーマ毎、作家毎に収まったその本棚を想像すると、やたら興奮してしまう。夜中に夢想しようものなら目が冴えて眠れなくなる。どれだけ睡眠誘導剤を服んでも無駄なことだ。そんなとき、奥方様はぐっすり眠りこんでいて、娘も平和な寝顔を見せていて、オマケに観たい映画もドラマもアニメも放送されていない(録画したものもない)。good grief.
 お陰様で今年はもう大きな買い物をすることは、金額はともかく量としてはない(はず)。時間を見附けて蔵書の点検を行い、処分するものがあれば潔く古本屋行きにして、すくなくとも今回買った揃い物の本が仕舞えるよう努めよう。……『近世日本国民史』はともかく旧新約聖書註解はどうにか他の聖書や、関連書物と同じ場所に納められるようにしたい。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3536日目2/2 〈週一更新の件、最新報。〉 [日々の思い・独り言]

 まるでどこかの国の政権与党、内閣のようで申し訳ないのですが、本日午前02時に更新した「第3536日目 〈家族と過ごすために、自分のために、しばらく週一更新に変更します。〉」での発言を一時的に撤回致します。
 というのもやや状況が変わり、あと何日かはこれまで通りの毎日定時更新を続けられる見込みが立ったからです。明日午前02時からお披露目の第3537日目からいったい、あと何日更新をこれまで通り続けてゆけるか、わかりません。
 しかし、こうして良くも悪くも前言を一時撤回し、先延ばしにすることができました。遅かれ早かれ週一更新に切り替わるのは決定事項なので、「一時撤回、先延ばし」というのです。
 まだしばらくの間、どうぞ宜しくお願い致します。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3536日目1/2 〈家族と過ごすために、自分のために、しばらく週一更新に変更します。〉 [日々の思い・独り言]

 標題通りのお知らせになります。
 当面本ブログは毎週火曜日、午前02時更新に変更します。
 アクセス数を中心とする過去3ヶ月の推移を検討、熟慮の結果、毎日定時更新ではなく週一ペースで更新することに変更しても支障なし、と判断致しました。
 家族と過ごす時間を大切にし、自分自身を守ることを優先するために、必要な判断になります。もう時間は余り残されていないのだ。
 みくらさんさんかを直接知る人にも間接的に知る人にも、まるで知らぬという人にも、何卒ご寛恕願いたく存じます。
 それでは失礼致します。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3535日目 〈秋の古本狂詩曲[総括篇];告白療法の実施と、理解ある配偶者を持つということ。〉 [日々の思い・独り言]

 熟慮と衝動が渾然としたわが秋の古本祭りは、ここにつつがなく終了する。注文した本は概ね届き、すべて開梱されて部屋へ運ばれ、廊下の一隅に積まれた。これをどう読み、どう仕舞うか、いよいよ現実的に考えねばならなくなった時期の訪れである。仕事がなければこのまま年末年始まで、読書三昧の日々を送れるのに。
 さて、〈秋の古本狂詩曲〉と戯れに題した本シリーズも、本編5編、番外編1編、総括編1編を以て本日完結する。今回の総括編は、いやあまり期待しないでくれ、ただの購入した本のリストに過ぎぬわけだから。しかも、これまで話題にした古本は省くのだから(無理でした)。
 顧みればそれは今年の夏、「日本の古書店」で徳富蘇峰『近世日本国民史』全巻揃いを見附けたことから始まった。本編全100巻を指して「全巻揃い」というのではない。時事通信社から戦後に復刊、刊行された『近世日本国民史』は第100巻で完結後、平泉の手に成る付録として全100巻の総索引と地図や各家系図など収めた付図、計2巻が別巻として刊行されている。その2巻を斯く全冊揃いは数々の店で売られているが、別巻をも備えた完全な全巻揃いはそう滅多に売りに出されることはなく。
 その滅多にない全102巻揃いが、関西の或る古書店にて10,000万円近い値で売られているのを見附けたときは、歓喜とか驚愕とかよりも、後悔と諦めの溜め息が思わず洩れた。そのとき、そんな大金は私的口座にプールされていない。様々金策を考えてもどれもこれも現実性に乏しく、おまけにわたくし自身の医療費も嵩んできたから、その店で2冊か3冊買って12月まで取り置き願えぬか交渉するよりない、とまで考えた。まぁ結局、臨時収入が出版社からあったのでそれの一部を『近世日本国民史』の購入に充てたのだが、それでもまだ軍資金に余裕はある。
 ──この根拠不明な自負が、〈秋の古本狂詩曲〉を加速させた。以前から購入を考えては諦めしていたもう1つの揃い本たる岩波書店版旧新約聖書註解書全20冊を購入。引き続き、20代の頃購入した端本が未だ書架の片隅にあるような気がしてならぬ『折口信夫対話』全3冊を、アニタ・ルース『殿方は金髪がお好き』を、山田朝一『荷風書誌』を、小川国夫『王都』と利沢行夫『光と翳りの季節 小川国夫の世界』を、ピエール・ルイス『紅殻絵』を、上坂冬子『愛と叛逆の娘たち』を、海老澤有道『日本の聖書 聖書和訳の歴史』を、ヤロスラフ・ペリカン『イエス像の二千年』を、みすず書房版小山清『小さな町』を、うん、神坂次郎描く南方熊楠ではないけれど、「討ち死にじゃあっ!」と内心叫びながら、購入ボタンを押したり、お店のレジへ運んだねぇ。
 言い訳するわけジャないけれど、僕は必要な本を買ったんだ、僕は読みたい本を買ったんだ。ただそれだけさ。誰からも白い眼向けられたり、怨嗟の言葉を聞かされる謂われはないさ。……(小声で)そうさ、ないのさ……。
 でも、1人だけ、それをする資格のある人がこの世には居るのだ。勿論、奥方様である。流石に出逢って22年が経過しているとあっては夫の性格もすべて掌握済みの人ゆえに、その態度、その言葉に険はない。そんな風に思うてもいないであろうことは、常の態度と言葉からじゅうぶん承知している。それがために、なにげなく放たれた一言に傷つくのだ。
 そう、彼女はこういったのだ、「あなたの部屋には入りたくない」と。
 夫婦仲が冷えこんだわけではない。先月までは掃除もしてくれていた。なのにいまは、部屋に入りたくない、という。即ち、獣道が出現したせいである。かつては掃除機を抱えて歩きまわるスペースの余裕が、そこにあった。現在、それだけのスペースをそこに見附けるのは事実上不可能に等しく、またそれだけのスペースを確保するための作業は容易でない。哀れである。滑稽である。空しいばかりである。コヘレトの言葉である。
 その獣道あるがゆえに入りたくない、と奥方様はいう。なんと正常な感覚であろう。わたくしは奥方様の均衡取れた常識人ぶりを愛する。今夕北関東を震源とする地震がこちら横浜にも及んだ際(2022年11月09日17時40分頃、震源茨城県南部)、部屋で物音がしたとて見にいってくれた点に、その報告を写真付きで送ってくれた点に、わたくしは奥方様の愛情を感じる。まこと、趣味の世界に散財する者は理解ある美しき奥方様を持つのがいちばんの幸せと、噛みしめたのである。
 さて、それにしてもあの多量に増殖した本、本、本、を、いったいどうやって(どこに)収納しようか。娘があちこち歩き始める前に、この根深き問題を解決しなくては。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3534日目 〈秋の古本狂詩曲[番外編];『奢灞都館 刊行全書籍目録』をお奨めします。〉 [日々の思い・独り言]

 『奢灞都館 刊行全書籍目録 コンプリート・コレクション』(エディション・イレーヌ 2022/10)と題された、夢のような本が届いた。1972年に初めて世に出た奢灞都館の刊行物、ジョルジュ・バタイユ『死者』に始まって、最後の刊行物となる2003年07月のアルフォンス・イノウエ銅版画集『ベル・フィーユ』まで全122点(同一書目の限定版・特装版などを含む)を、その過半に書影を付けて1巻の書とした、まこと珍重・握玩に値する目録である。
 ページを開くとゆったりとした版面に、美麗な書影が数点ずつ載る。わたくしはこれまで生きてきて、斯くもうっとりとした気分にさせられる書籍目録にお目にかかったことは、久しくない。しかもここに載るすべてが1人の人物の所蔵になるというのだから、羨ましく思うやら妬ましく思うやら、複雑な心境である。
 というのも、まだ生田先生ご存命の頃に奢灞都館の出版物に触れてその造本の贅沢さ、選び抜かれた文学のみを送り出す高踏派の精神、どこかから漂ってくる人の手のぬくもりに打たれてその刊行物すべてを蒐集したい、と意欲を燃やした頃が、確かにあったからだ。いつの間にやらその熱意は他に取って代わられて、いたずらに歳月を過ごしてきたが、人生も黄昏時を迎えようとしている現在、こうした継続する熱意とお金の使い方の上手さが凝縮した刊行目録に出会えた。慶事といわずになんという。
 編者松本完治と所蔵者鎌田大によるエッセイは、奢灞都館の出版物がどうしてここまで心ある愛書家を惹きつけてやまないか、その答えを一端なりとも説き明かしてくれるような内容だ。就中鎌田氏がドールヴィリー『真紅のカーテン』特装本を2部、特別に製本発注していただいたエピソードは白眉というてよい箇所だ。現にそれは書影として載り、奥付には朱筆鮮やかな「著者架蔵本」てふ生田先生の自筆がある。ファン冥利、という単純な一言では片附けられぬ、愛書家垂涎のエピソードなのだった。祇園で撮影された写真が、またニクイ。
 巻末には『彷書月刊』に載った生田かをるの談話が載る。既に掲載誌の入手は古書市場でも困難かと思われるので、それを踏まえても、現在になっては望むべくもない書肆と文学者と刊行者の熱情の結晶を語る貴重な証言が、ふたたび陽の目を見たことを喜びたい。
 1つだけ注文というか、無理と知っての希望になるが、各刊行物の欄に奢灞都館目録の、生田先生の筆になる紹介文を再録いただきたかった。権利関係の問題が生じるのは重々承知している。
 刊行に併せて明日まで(今日まで、ですか)「奢灞都館刊行 全書籍展」が開催されているという。知るが遅かったため秋の京都へ足を運ぶこと能わずが無念である。
 本書は一般書店やネット書店での流通はなく、奢灞都館の出版物を扱う古書店での取り扱いが中心になる由。お早めの入手をお奨めする次第だ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3533日目 〈秋の古本狂詩曲[終];『丸山薫詩集』の入手、そうして更なる──。〉 [日々の思い・独り言]

0

 今日もやっぱり長くなる。
 長いものはアクセス数が劇的に落ちる傾向あるこの4カ月であるが、どうやら読者層の変化が7月中旬から生じていると思しい。が、アクセス数稼ぎでエッセイなど書いたり、ブログを続けているわけではないから、そんな現実には目もくれずにこれからも、書きたいことを、書きたいように書いてゆくことにした。
 今日もやっぱり長くなる。読む人も減少する。そんなことは気にしない。定家卿の言葉である。「世上乱逆追悼耳に満と雖も之を注さず。紅旗征絨は吾が事に非ず」

1

 5回目の今日で「秋の古本狂詩曲」は終わりにする”つもり”。神田古本まつりの開催にあわせて購入ボタンをクリックしまくって注文した古本が、2冊を除いて概ね手元に届いたからである。
 ならば書くべきはむしろこれからではないか、と思うが、明日からチトそうもゆかなくなるのでね、終わりと銘打ってみたのだ。S1最終エピソード? ああ、それも良いかもな。

2

 昨日の『素敵な活字中毒者』で野呂邦暢「本盗人」に数行触れた。三好達治の『測量船』を購う労務者が登場した。これに触発されて新潮文庫の『三好達治詩集』を購入して愛読し、併せてヘッセとボードレールの3人に導かれて今日まで細く、すっごく細く、しぶとく長く続いている詩への惜愛の端緒となったてふことはたぶんいま初めて話すことだ。
 三好達治とヘッセとボードレール? この3人にいったいどんな共通項が? 3人が3人とも特定の傾向の詩を物したわけでもないしね。強いていうなら、パッ、と開いたページにわたくし好みの詩があったのだ。それだけのこと。和歌(短歌)と漢詩(唐宋日)へ何年後かに深く淫して鍾愛するのみならず実作にまで手を出すようになるのも至極道理である。it’s a simple as that.

3

 今日に至るまで詩を読んできて、とても好きな詩人が幾人もできた。そのなかで一頭地を抜くのが、丸山薫である。三好達治と堀辰雄と語らい雑誌『四季』を創刊し、中原中也や萩原朔太郎、立原道造、津原信夫らと親を結び、「汽車に乗つて/あいるらんどのやうな田舎へ行かう」で始まる詩「汽車に乗つて」が知られる人だ。
 新刊書店でこの人の詩集を買うのは難しい。他の誰かとのカップリングであったり、アンソロジーのなかでなら出会いの機会もあるけれど、単独の詩集となると──。
 勢い、この人の作品を読もうとすると、古書店を頼らねばならぬ。そうすると、雑誌から詩集、序文を寄せた本、全集他に至るまでずいぶんとたくさんの書物が現れることに唖然とし、うれしい悲鳴をあげることになる(個人差があります)。
 先日までわたくしが架蔵する丸山薫の詩集は、新潮社の日本詩人全集第28巻、『伊東静夫・立原道造・丸山薫』(1968/01)のみで、いつであったか、市中央か鶴見の図書館で見掛けた単独名義の詩選集、詩人歿後となる思潮社の現代詩文庫第Ⅱ期1036『丸山薫詩集』(1989/02)は余程縁が無いのか運が悪いのか、巡りあう機会は一度もなかった。初版本や旧新全集よりも先に思潮社版詩集を求める気持ちが強かったのは、偏に学生時分から続く現代詩文庫への愛着と信頼ゆえだ。詩のみならず小説やエッセイ、評論までが、諸家評といっしょにあまり厚くない1冊に収められているのもポイントだった。
 なぜかこの現代詩文庫に入る『丸山薫詩集』って古書価がけっして安くはないんだよな。総頁160ページ、当時の定価800円のが3,000円以下で売られている場面に出喰わしたことなんて、ただの一度もないもの。貧書生ゆえにお金ができても優先順位に従って本(古本)を購入していたから、なかなかおいそれと手を出すこと能わぬまま今日まで過ごした、というが限りなく実情に近い。
 にもかかわらず。先日の某古書店サイトを眺めていて見附けた売価4,800円の思潮社版『丸山薫詩集』を、わたくしは購ったのだ。勿論送料は別である。夜、時は丑三つ時──いちばん買い物をしてはならぬ時間帯である。刹那の後悔は期待と歓喜に塗り潰され……斯くして3日後、ぶじに『丸山薫詩集』は手許にやって来た。
 詩人生前に──69歳の年に──刊行された日本詩人全集には収録されていない詩や散文を読むのが、愉しい。ざっと目次を検めてみると、重複は半分前後というところか。処女地を踏破するような高揚感は最早感ぜられぬが淋しいとはいえ、日本詩人全集第28巻を最後に読んだのはもう2年近く前である。此度の思潮社版詩集は、重複した詩についてはその印象、多少なりと色褪せていても、同じくらい初めて読む作品が並ぶとあっては新鮮な気持ちを保つことができるのだ。
 『物象詩集』は丸山の第5詩集、河出書房から昭和16(1941)年02月に刊行された。思潮社版詩集にここからセレクトされたのは、11篇。こちらにのみ収まる作品のなかに、「自在なランプ」という散文詩があって、本書到着の夕刻ざっと目を通していて、ページを繰る指、活字を追う目がぴたり、と止まったのが、この「自在なランプ」であった。それは非道くわたくしの心を惹きつけた。

 ──少年の頃、私はしばしば水夫にならうと夢想した。
 爾来(このかた)幾年。人の世の風は生活の帆に吹き吹いて──しかも私の肋骨に回転(まは)るランプは、いまもなほ寂かな詩の灯を倒さずにゐる。
(『丸山薫詩集』P54)


 この一連が殊わたくしの心を奪ってゆく。感覚的に、咨、と詠嘆して共感することができる。「私の肋骨に回転るランプは」少年から大人になって世間を知り、社会システムに組みこまれ、そうして生活の営みを重ねるにつれて、だんだんと少年時代の夢想は後退していったけれど、詩心だけは──「いまもなほ寂かな詩の灯を倒さずにゐる」のだ。詩人の真情吐露、一種の宣言というて良い好篇だ。
 むろん、他にも惹かれ、魅せられた詩篇は幾つもあった。『物象詩集』から先の「自在なランプ」の他に「古い詩集」(P50)、『北国』から「独居」(P68)、『花の芯』から「灰燼」(P79)と「狼群」(P79-80)、『月渡る』から「S船長──旅のアルバムから──」(P89-91)、〈未完詩集〉から「十三年の話」(P97-99)、という風に。『幼年』に収まる例の詩、「汽車に乗つて」(P41-42)も忘れてはいない。
 己の好みでいえば、丸山薫は昭和16年以後の詩風に感ずるところ大である。詩人若かりし頃の、自由奔放で陰の少ない、ロマンティックとメルヘンが独特の風味を利かせていた詩も魅力的だが、『北国』(昭和16年)や『花の芯』(昭和23年)以後のエレジーとノスタルジーが忍びこんで陰翳のくっきりするようになった詩の方に、無性に惹かれて、ただならぬ愛着を抱くのだ。
 小説やエッセイなど収まるのが思潮社版『丸山薫詩集』の特徴だが、こちらにも小説「夢の話」やエッセイ「詩の生活」など一読、脳天をハンマーで叩かれたような衝撃を受けて、思わずノートへ書き写してしまった作品もあった。要するに、一読相当なお気に入りになったのだ。
 この人の散文をもっと読みたいなぁ、──

4

 ──と思ったからではないけれど、遂にわたくしは『丸山薫全集』へ手を出した。
 古書店のサイトを何気なしに眺めていたら、全5巻よりなる全集が揃で、帯も月報も完備した状態で売価は5,000円前後である。しかも何軒もの古書店が似たり寄ったりの価格で。
 ──数分の比較検討の時間を経て、おもむろに購入ボタンをクリック。時間は、──おお、此度も丑三つ時!!
 わたくしはもうすこし冷静になるべきだった。そうすれば『丸山薫全集』には21世紀になって新しく出た、全6巻のヴァージョンがあることを思い出せたはずだから。サイトの同じページの、ちょと上の方にそれが全6巻揃で売られているのが目に付いたはずだから(値段は25,000円を超えていたけれど)。
 わたくしが購ったのは旧版である。新版が出たから旧版は一気に値崩れを起こしたのだ。まァ過去に全集が出た程の人なら誰であれ、研究が進み新発見の作品や原稿など出てくれば遅かれ早かれ新しい版の全集が出ることは否めぬ事実だろう。それを「宿命」ともいう。
 が、しかし、モナミ、わたくしは旧版を殆ど衝動買いしたことに後悔していない。旧版には旧版の良さがある。旧版に付された月報や解説は、旧版でしか読めぬのだ(たぶん)。加えて旧版を新編集・増補された新版と引き比べてみたとき、思いがけぬ発見だってあるやもしれぬではないか。未練がましく、負け惜しみをいうのではない。ただの夢想である。
 というのも、本稿を書く手を休めてそれなりに悩んだ末、新しい『丸山薫全集』の購入ボタンを押下、注文手続きを完了させてしまったのだ。最早、嗟嘆する程の溜め息も、ない。

5

 最後に、わが身に染みついて治癒難しかろう収集癖と散財癖、強き物欲所有欲、その他諸々をわずかなりと調伏できたら、という思いをこめて、鹿島茂の著書から以下の一節を引く。曰く、──

 (告白療法とは)いかにして自分が依存症に陥ったのか、その過程を客観的に自分で分析してそれを医者や他の患者の前で告白することにより、逆に治癒への意志を強めるというものである。
 ならば、いっそ、この場を借りて、私もひとつこの告白療法とやらをやってみるのはどうだろうか。なぜなら、財政的にはもう一冊も買えないどころか、すべての本を売り払いでもしないかぎり現在の借金地獄から抜け出せそうもないことがわかっている状態なのに、フランスから古書店のカタログが届くと、すぐに手が条件反射的に動いてファックスのボタンを押そうとするほど症状が悪化しているのだから。
(鹿島茂『子供より古書が大事と思いたい 新・増補新版』P9 青土社 2019/07)

──と。
 咨!!!◆

共通テーマ:日記・雑感

第3532日目 〈秋の古本狂詩曲;素敵な活字中毒者たちによる、素敵な読書への讃歌。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の『折口信夫対話』と同じように、古書店の通販目録を眺めているとなつかしい本を見附けると、矢も楯もたまらず注文を出してしまう。特に珍しい本ではない。大量生産の文庫本だ。古書店とて見向きもしないような類の。でも〈なつかしさ〉とは却ってそうした本の方に多いように思う。
 一昨日の昼に届いた椎名誠選・日本ペンクラブ編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫 1983/09)はまさにそんな〈なつかしい〉文庫なのだった。
 文筆に携わる諸家による、書物に関する随筆、回想、評論、小説が全21編。収録作家でいちばん古いのは内田魯庵、他は夢野久作や植草甚一などわずかを除いて山口瞳や井上ひさし、開高健など出版当時の現役作家が並ぶ。アクの強い演技、文体で知られる殿山泰司のエッセイもある。
 わたくしがこの文庫を初めて手にした高校生時分は、『素敵な活字中毒者』のような読書にまつわる文章を集めたアンソロジーが幾つもあって、お小遣いの範囲内で買って読み耽ったという揺りかごのなかで微睡むように甘美な、あの時代の読書の思い出がある。
 当時はどんな同趣向の本があって、読んでいたか。文庫では『本とつきあう本』(光文社文庫)があり、新書では『読むことからの出発』(講談社現代新書)や『私の読書』(岩波新書)などがあって、いったい何10回読み返したか知らない。アンソロジーではないが同様の傾向を持つ新書に、笹川巌『趣味人の日曜日』や枝川公一『ペーパーバック入門』(いずれも講談社現代新書)があった。アルクからも藤田浩『PB(ペーパーバック)読快術:英語だって楽しく読みたい』という本が出ていた。『BOOKMAN』誌の特集・連載、就中荒俣宏の「ブックライフ自由自在」など(『マリ・クレール』誌に荒俣が「稀書自慢 紙の極楽」を連載するのはもう少し先の話だ)、日本語・英語の違いこそあれ、本──読書を巡るエッセイはアンソロジーでも単著でも雑誌でも多く新刊書店に流通しており、それらはみな、読書の水先案内人の役割を果たしていたのだ。
 翻って『素敵な活字中毒者』だが、これは上述したような〈読書〉本を読み漁るきっかけの1冊ではなかったか。記憶は曖昧というか錯綜しているが、高校の帰りに偶然寄った相鉄線の駅そばにあった古本屋でこれを、渡部昇一『知的風景の中の女性』(講談社文庫)とカバーのなくなったカットナー『ご先祖様はアトランティス人』(ソノラマ文庫)といっしょに買ったことだけは、鮮やかに覚えているのである──。
 今度こそ処分しない、と決意して購い、一昨日届いた『素敵な活字中毒者』のページをぺらぺら繰っていると、案外と内容や作中の記述でまだちゃんと覚えているものが目白押しだった。これは愉快な経験であった。記憶力は衰えていない、むかしの鮮明な印象・むかし受けた感銘は永遠である、それを追確認したからである。
 では、どんなところをよく覚えているか、例えば、──
 田辺聖子が女学生時代、お気に入りの文庫に千代紙などでお気に入りの装丁を施し、よく擦り切れてしまう本の角っこに薄いピンクのマニキュアを塗ったエピソード(「本をたべる」)。
 J.J.氏こと植草甚一が神保町の古書店めぐりをする際、最初に入った店で購入を迷う本があると思いきって買ってしまう、そうすると不思議とその日は収穫がある、というジンクスの披露(「J.J.氏と神田神保町を歩く」)。
 高田宏は若い頃、1日に3㎝分の本を読むてふノルマを自らに課していて、通勤電車や会社の昼休みに1㎝分しか読めないと、時に酔っ払った頭で下宿に帰ったあと2㎝分を読んだ(というか目を通した)、なんて厳しいのか緩いのかよくわからぬ読書法の紹介(「本の中 本の外」)。
 ──小説では、野呂邦暢の「本盗人」、野坂昭如の「万引千摺り百十番」、夢野久作の「悪魔祈祷書」が、後半に重みを加えている。どの作品も本書が初読で、そも作家の名もここで初めて知ったのだ。
 勿論、記憶違いもあった。若き高田宏は『富永太郎詩集』の家蔵版を持っていたが、人にあげてしまった旨上のエッセイでも触れている。「これ、あげます」と、恋した喫茶店のアルバイトの女の子に渡した、というエピソードはてっきり「本の中 本の外」にあると思うていたが、実際は『読むことからの出発』収録の「あげてしまった本」のなかにあった。殊更印象的だったので、斯様な間違いが起きたのかもしれない。
 夢野久作「悪魔祈祷書」については過去に触れたので省く。野坂昭如の小説は怠惰と猥雑がいっしょくたになっていて、高校生にはチト刺激が強かったっけ。
 野呂の小説は、主人公が営む古書店から盗まれた古書はなぜ数日後に棚に戻っていたのか、という謎を解く物語である一方、赤いブレザーコートの女子大生や三好達治の詩集を買ってゆく労務者の描き方に作者の優しさとあたたかさが覗き見えるように思うて、愛すべき一品と大切にしたく思うたことである。
 この「本盗人」は『愛についてのデッサン』という全6話から成る連作小説の第5話。全編はみすず書房とちくま文庫で読めるが、現在流通しているのはちくま文庫の方だ。
 咨、予想外に長くなってしまったね。とはいえ、昨日程ではないけれど。
 〈読書〉に絞って来し方を検めてみると、わたくしの読書生活の根っこには『素敵な活字中毒者』収録のエッセイや小説の存在があるようだ。この稿を進めるにあたって、記憶を基に本書を開いて、諸家の記したちょっとしたエピソードや本の買い方読み方、etc.、その断片が自分のなかで息を潜めて長く居坐り、その時その時に従って知らず影響を及ぼし、購い読む姿勢を作ってきたことを確認した。なんとなくでも自分のなかに残っているものは、その後の行動や考え方について無意識に作用する、ということなのかもしれない。ならばわたくし自身は、その格好のサンプルといえるのだろう。
 ところでわたくしは、この原稿のなかでただの一度も、自分を「活字中毒者」と呼ばなかった。──活字を読むことは好きだけれど……中毒者というにはなにか足りない気がするのである。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3531日目 〈秋の古本狂詩曲;池田彌三郎他『折口信夫対話』の旧蔵者を妄想して。〉 [日々の思い・独り言]

 〈狂詩曲〉は続く。お楽しみは、終わらない。
 ぼんやりと古書店のサイトを眺めていたら、なつかしい本を見附けた。学生時代とそれに続く数年間、憑かれたように購い、読み、時に然るべき人物に会って種々聞き取りした、折口信夫の本である。書題を『折口信夫対話』全3冊という。角川選書、1975年01月及び1978年08月刊。
 たしか端本で持っていたと思うが、捜してみてもどこにもない。折口信夫や折口学の本はただの1冊も手放したことはないのに、どうして架蔵するうちにはないのだろう。端本ということもあって、やっぱり処分したのかなあ。だとすると、あのころわたくしが持っていた(と記憶する)端本は、その後どんなルートを辿って、どんな人がいま所蔵しているのかな。資源ゴミとして廃棄された、という想像はしないこととする。
 話が遠回りしたけれど、古書店のサイトで見附けた『折口信夫対話』全3冊は刹那の躊躇いもなく購入ボタンをクリック、振込も早々に済ませて祝日の前日に届いたのである。
 なつかしさ半分でぺらぺらページを繰って流し読みしていたら、第2巻「この書物を愛する人たちに」という角川源義による発刊の言葉のページに、書込みのあるのを発見した。曰く、「昭和五十一年四月十日 第一書店」と。
 購った古書への書込みを見て、前の所有者へ思いを馳せるのは古書書好きであれば誰しも身に覚えがあること。小説やエッセイの題材にもなる。ジョージ・ギッシングの『ヘンリ・ライクラフトの私記』は最も人口に膾炙した例かもしれない。
 作者が自分を仮託した本編の主人公(語り手)ライクラフト氏は、ロンドンのグッヂ・ストリートにある古書店で、ハイネ校訂ティブルス詩集が売られているのを見附ける。売価は6ペンス。発見時のライクラフト氏の全財産も実に6ペンス、「それだけあれば、一皿の肉と野菜が食べられるはず」(P48 平井正穂・訳 岩波文庫 1961/01)だった。
 買うか買うまいか迷った末、かれはなけなしの6ペンスをはたいて、詩集を家に持って帰る。バターを塗ったパンを食べながら貪るように読み耽るライクラフト氏は、前所有者であろう人物による、こんな書込みを見出した。曰く、「一七九二年十月四日読了」と。

 ほぼ百年前、この本を持っていた本人はいったいだれなのであろうか。ほかになにも書き込みはなかった。いわば自分の血を流し、命をけずる思いでこの本を買い、私と同じくらいこれを愛読したある貧乏な、そうだ、私のように貧乏で熱心な研究者が想像したくなるのだ。どれくらい私が愛読したか、今ちょっとやそっといえそうにない。心優しきティブルス! (同)

 同じことを、『折口信夫対話』前所有者に対してわたくしも思う。いったい前所有者はどんな人物なのだろうか、と。それは興味尽きない想像である。
 書込みのある第2巻は昭和50(1975)年01月刊、第1巻にも同じ刊記がある。つまり、同時発売されたのだ。その第1巻に書込みはない。おそらく前所有者は別々の機会にではなく、同じ日に、同じ書店で購入ものと思われる。
 購入した昭和51(1976)年04月、その人は何歳だったのか。「古典と現代」(第1巻)、「日本の詩歌」(第2巻)とそれぞれ副題を持つ『対話』との出会いは、どのようにして成されたのか。
 その人は、國學院大學や慶應義塾大学、文化学院、魚津短期大学や東横女子短大あたりで国文学や民俗学を学ぶ学生(院生含む)だったのだろうか。04月購入というから、履修する講義やゼミのテキスト、参考文献だった可能性が高い。
 逆に購入したのが国文学や民俗学を専攻した学生ならば、そこにはノスタルジーが働いたかもしれない。社会人になっていれば、2冊を同時に購入するだけの懐の余裕もあっただろう。もし前所有者が、専攻や学び舎とはまるで関係なく、ただ己の向学心に従って購うていたらば──咨、その心ばえ、まこと敬服の至りといえよう。
 買った「第一書房」とは、どこにあった本屋さんだろう? 2022年現在調べてみると、函館市内に同じ屋号の書店があるが、ここ、と確定できる要素はなにもない。どこにでもある、ありふれた屋号、といってしまえばそれまでである。
 ところで此度わたくしが購うた『対話』全3冊は、全体の状態などから同じ所有者の蔵書であった、と推察できる。経年により染みや焼け、汚れなど殆ど見られぬ、保存状態のすこぶる良い美本なのだ。喫煙者か否かは不明だが、少なくとも読みながらタバコを噴かす人物ではなかったらしい。タバコ臭は微塵も匂わぬ。
 3冊すべて同じ人物の蔵本てふ判断の決め手は、第3巻「万葉集輪講」奥付の書込み、その筆蹟が同一であること。筆記具の違いこそあれ、「昭和」の筆運び、漢数字「五」の書きグセなど、科学的に鑑定すれば9割上の確率で一致するはずだ。
 「昭和五十七年十一月二十一日 / 浦和『須原屋』にて 文彦とともに。」が第3巻奥付の書込み。
 気になるのは、第2巻書込みと第3巻の年月日の筆蹟が、2行目「浦和『須原屋』にて」云々がやや走り書きのようで、下へ行くにつれて右寄りになっていることだ。──車や電車のなかで、前所有者はこの書込みをしたのか? まさか! ホームズじゃあるまいに。
 第2巻のそれがくっきりと、しっかりと書かれているのに対して第3巻は、筆記具がボールペンのせいもあってかその筆勢は若干弱めである。第2巻と第3巻の間に6年の歳月が流れていることと無関係には思えぬ。第2巻を購入したときと第3巻を購入したときとでは、前所有者が置かれた環境も、前所有者を巡る事情も、大きな変化を迎えていたのではないか。
 その端正な書体から、前所有者は女性ではあるまいか、とわたくしは推察する。蔵書一々に対して几帳面に購入記録を書いていたりする点や、発売から1年以上が経過して購入している点などから、そこに男性というよりも女性の朧な立ち姿を想像するのだ。第1巻と第2巻購入時が学生、しかも現役合格しており入学して間もない頃、或いは専攻が決まる3年生いずれかとすれば、年の頃18歳或いは20歳か。
 この前提に立って推理すると、では果たして「文彦」とは何者か──恋人か、婚約者か、夫か、息子か。
 否、恋人ではあるまい。名前を書くということは、その相手と前所有者には相応の関係性が築かれていなければならない。少なくとも社会的に関係が認められる人物である必要があろう。未来がどうなるか不確定な恋人の名前が書きこまれるとは考え難い。ならば、──
 わたくしは「文彦」なる人物は、前所収者の息子ではないか、と考える。精々が幼稚園に通う年齢ぐらいまでの。要するに、反抗期を迎えていてもまだ親の力の方が優る時期までの。
 6年の間に前所有者は大学で折口信夫の学問体系を学び、卒業して就職し、伴侶を得て、「文彦」と名附ける息子を授かった。前所有者の、斯様なライフヒストリーの断片が、件の書込みから作られる。
 浦和の書店、須原屋には息子を連れた病院の帰りか、絵本でも買ってあげようかと思うて立ち寄ったものかもしれぬ。更に想像を逞しうすると、病院帰りと仮定した場合、それは「文彦」が小児科等を受診したというよりは前所有者自身の受診──つまり懐妊であり、文字の弱さを思えば悪阻の激しい妊娠初期だったのではあるまいか。再びの新しい命を宿したその喜び、その幸せ、その気持ち悪さ、といった感情が、「文彦とともに」の書込みの背景を成す、と結論する。
 ──と、こんな風に、『折口信夫対話』第2巻と第3巻の書込みから、前所有者のことを斯く想像した。ケメルマンのように上手く推理のゆかぬことが残念である。
 なお、浦和の書店「須原屋」は現在もさいたま市浦和区に本店を置き、県下に幾つも支店を展開する、明治9(1876)年11月創業の老舗である由。神奈川県に於ける有隣堂のようなものか。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3530日目 〈秋の古本狂詩曲;岩波書店版『旧約聖書』と『新約聖書』を使って。〉 [日々の思い・独り言]

 あまり状態に期待していない東京都下の古本屋から、岩波書店版『旧約聖書』『新約聖書』全巻揃を売りに出していると知ったのは、蝉の鳴き声に悩まされて不眠症になりかけていた頃だ。
 なかなか決心がつかなかった。買ってもどこに置くんだ? 最早自宅内にそれだけのスペースを捻出できる余裕はない。書庫としてアパートの1室を借りるなりマンションの1室を買うなりするにしても、自宅周辺に空室・売住戸はなく。
 何だ彼だで2カ月が過ぎた。世は読書週間に突入した。神田古本祭りも開催された。誰も買う様子はない。が、油断はできない。明日買うつもりの古本が翌る日には売れてしまっていた、なんて経験、webサイトでも実店舗でも何度となく経験してきた。──この値段で旧新約聖書註解書が全冊揃で出る、なんてこの先、果たして有りや無しや。
 結論を述べれば、わたくしは遂に耐えられなくなり、購入ボタンをクリックして、支払い手続きを始めた。10月末日の午前2時過ぎである。プレッシャーに負けたのだ。数日後、ダンボール箱に詰められたそれが、到着した。
 状態確認とクリーニングが終わると、さっそく任意の巻を選んで読み耽った。最初は『パウロ書簡』、続いて『ヨハネ文書』と『ルカ文書』、今度は旧約に移って『ヨブ記・箴言』、『民数記・申命記』、いまは「エステル記」を含んだ第13巻である。

 これまで図書館で、必要になるたび書架から出したり借りたりしていた本が、いま自分の手許にある、というのは妙な自信と展望を与えてくれる。「エステル記」を収めた巻を外出先で読んでいるのは、かねてから懸案の聖書各巻の〈前夜〉執筆に備えてだ。
 「民数記」から預言書までの〈前夜〉は、まったく新しく稿を起こす必要あり。それ以後は補筆訂正の範囲で済みそうだ。──先年、そう判断して、執筆を進めた。が、性格が災いして、現在は「ネヘミヤ記」まで仕上げて作業は中断、「エステル記」のメモを作成した程度である。以来、聖書〈前夜〉はなにも書いていない。「ネヘミヤ記」は昨年2月頃の執筆だったか……。
 何度か腰をあげかけたが、都度すぐに棚上げした。出不精を決めこんだ報いであろう。急速に膨らんだ「やる気」という名の風船は、ちょっとの時間しか滞空に耐えられずすぐにしぼんで地面に落ちてしまったのである。
 渡部昇一の本に、必要な本は自腹を切って購い周囲に並べておけ、必要なときは図書館のお世話にならずとも済むようにせよ、そうすれば仕事はかなり始めやすくなる、てふ趣旨の文章があったと記憶する。外出先で本稿を書いているのでこんないい方をしているが、『知的生活の方法』ではなかったか。
 それがどれだけ真実であるか、渡部の活動領域の広範さと出版ペース、雑誌掲載ペースの速さを見れば明らかである。「本があることの自信」とは、そんな「無理をしてでも必要な本は自腹で買え、処分せずに自分の周囲に侍らせておけ」なる訓戒の同義語なのだろう。
 〈前夜〉を書き続けるには手許に、必要な資料、文献が不足している。自分のお金で必要な本はゆっくりとしたペースで、そのときそのときで多少無理をしたこともあったけれど、購入して、だいたいそれらの本がどこにあるかは把握している。が、必要な資料、不可欠の文献を欠いているという意識は、常にどこかに巣喰っていた。
 その資料、その文献こそ、岩波書店版旧新約聖書の註解書。なんとそれが、設定していた金額よりも下の値段で売りに出されている。最終的には買ったのであるが、こうして自分の手許にそれが揃ってみると、妙な自信と展望が湧きあがってくるのを感じる。いよいよわたくしは、「エステル記」以後の〈前夜〉執筆に取り掛かれそうだ。
 必要な資料は今後、都度出てこよう。が。それこそ必要なとき図書館から借りてくるか、古書店で探せばよい。欲をいえばティンデルの註解書シリーズなど、かつて参考文献として借り出していた本が手許にあればもっと良いけれど、それは流石に高望みというものだ。汝、自身を知れ。それは能力のみならず、空間確保とそれを支える経済力が自分にあるか、客観的に判断せよ、ということもである。うん、無理。
 わたくしを取り巻くあらゆる事情が許すならば、今年中に「エステル記」〈前夜〉は脱稿したい。そうして来年中には「ヨブ記」「詩篇」「箴言」「コヘレトの言葉」「雅歌」それぞれの〈前夜〉を新しく書き、また補訂のための作業を完了させたい。それを終わらせれば、かねてより念願する聖書各巻の〈前夜〉を連続で、お披露目してゆく具体的メドも立てられよう。「聖書について」「旧約聖書について」「旧約聖書続編について」「新約聖書について」というエッセイも然るべきタイミングで出してゆきたい。
 それが、岩波書店版旧新約聖書の註解書全巻揃いを入手したわたくしがいま抱いている展望と願望である。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3529日目 〈秋の古本狂詩曲;徳富蘇峰『近世日本国民史』が届いた。〉 [日々の思い・独り言]

 スターバックスでコーヒーを飲みながら考えるのは、一昨日昨日と到着した古本のことである。
 奥方様から、本に関してはお小遣いの縛りから解放する旨あらかじめ宣告されているとはいえ、それでも調子に乗ることなく慎ましく、慎ましく、爪先に火を灯すように買うていたのだが、咨、今年の秋は無理だった! 春先から目を着けていたものがどんどん売れてゆくのを目の当たりにして、本命が誰かにかっさらわれる恐怖に焦りを感じて、遂に先月末の夜中、ポチリ、ポチリ、ポチリしてしまったのである──いつかわが手に買われるべき書物たちだったのだ、わたくしはたまたま此度それらをお迎えするに過ぎぬ、と心のなかで言い訳しながら。
 その結果が、一昨日昨日と五月雨式に到着した古本たちなのである。計126冊。内訳;山田朝一『荷風書誌』、池田彌三郎・岡野弘彦・加藤守雄・角川源義編『折口信夫対話』全3巻、旧約聖書翻訳委員会『旧約聖書』全15巻と新約聖書翻訳委員会『新約聖書』全5巻、最後のトドメに蘇峰徳富猪一郎『近世日本国民史』全102巻、以上。困ったことに、というか当然、というのか、購入と到着のラッシュはようやっと最終コーナーを回ったところなのだ……。
 幸いとこちらの休日にあわせて届いたので、ダンボール箱を廊下へ積み重ねて家人の通行の邪魔になることは避けられた。それにしても、いそいそと開梱して中身を取り出して1階と2階を、重い本を幾冊も抱えて何度も昇降する夫の姿を廊下の突き当たりから見つめる奥方様の眼差しときたら……! その瞳に宿った感情を推理するなんて、怖くて出来るものではなかった。抱っこされていた娘は父を見て、なにやら愉しそうではあったけれど。

 いちおうその日のうちに、全冊の状態確認とクリーニングは済ませた。うむ、全126冊に問題なし。いちばん古く刊行された蘇峰が最も状態は良く、経年劣化という程のものは見受けられない。これで総索引と付図も付いているなんて、幸運である。他の古書店ではこの付録2冊を欠いた状態で購入額よりも価格が高いのだから、幸運、と大仰に喚いても許されるだろう。
 反対に相応の経年劣化が認められたのは旧新約聖書の註解書だが、本体天と小口に、カバー裏に、大小の茶斑点が浮かんでいるのは致し方ないこと。ここにまで清潔さを求めるならば、新古書店でバラ売りされているものを買い集めるより他にない。というか、清潔さを求める時点で古本を買うのは(新古書店の売り物を含めて)どうなのか、とも思う。出版社のオンデマンド版を注文すればよろしい話だ。
 聖書については書込みやタバコ臭、濡れシワ破れと無縁であれば、それで合格点。タバコ臭以下はともかく、書込みについては今後、新たなる所有者であるわたくしが実施してゆくので、本よ、覚悟してくれ給へ。呵呵。

 そういえば意外だったのは、蘇峰の本が思ったよりもコンパクトであったことだ。なにとはなし菊版(縦220㎜×横150㎜)を想像していたが、実際には四六版(縦188㎜×横128㎜)だったのだ。戦前の全50巻版の判型がどうであったか知らないけれど、こちら戦後に再刊/刊行されて完結した時事通信社版は持ち運びが楽で、読むときは持ちやすく、活字の組み方も好ましい。試しに講談社学術文庫版の赤穂義士の巻を開いてみたが(第18巻「元禄時代中編義士篇」)、漢文が白文であることを除けばなんの労なく読み進めることができた。
 開国前夜のあたりから最終第100巻までは外来語も入ってくることから、時事通信社版では当て字の使われている箇所が片仮名になっていたり、或いは一部の漢字はひらかれていたり、と必要最低限の変更を文庫は加えているが、年表と人物概覧、索引が付されている点を挙げて元版と文庫版は「両者引き分け」という仕儀が最も相応しいか。年表と索引はともかく、人物概覧は頑張って付けてほしかった、と学術文庫編集部への嗟嘆であるが、それによって一巻のページは増え、定価上昇をも招くわけだから、省いたのは勇断かもしれませんね。
 夜更けまで興味のある巻をパラパラ目繰って目を通したが、「戦前と戦後間もなくから活躍を始めた歴史/時代小説作家たちって、絶対に『近世日本国民史』を座右に置いて執筆しているよなぁ」と、幾足りかの作家の顔を思い浮かべることしばしばであった。プロットの構築や人物造形、ちょっとしたエピソードの描き方が、時にここで紹介された史資料や蘇峰の叙述を彷彿とさせるんだよ。その実際はともかく、佐藤順太が教え子渡部昇一に洩らした、「物を書く人はたいてい(『近世日本国民史』を)使っているに決まっている」は事実の一端を突いていると思う。
 さて、──2階の廊下の端っこに積んで新たな山脈を築いた(いったいどこに仕舞おうからしら? 本棚、買う? 作る?)、全100巻付録2巻より成る『近世日本国民史』のことは、その書誌的なところも含めて後日の話題に温存しよう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3528日目 〈生ける屍、休みを宣言する。〉 [日々の思い・独り言]

 二日酔いである。しゃっくりも出ている。そんな訳だから、今日はお休みをいただこうと思っている。どこまで読者諸兄に甘えるか、と叱責のお声が遠くから聞こえてくる。が、いまは本当に、苦しいのである。なにをするにも気力が追いつかず、病院への往復にもふらふら歩いて駅まで行き、電車のなかでは生ける屍のように、ぼうっ、としていた。
 なので今日は大事を取って、なんにも書かないでお休みしようというのである。本当は昨日に続いて旧約聖書のことでも書こうかと企んでいたのだが、ちょっと無理らしい。
 そういえば旧約聖書といえば、わたくしは、ようやっと岩波書店から出ていた旧新約聖書の註解書全20巻を手に入れることができた。勿論古本である。今日、届いた。起きていてもなにをする気にもなれないから、仕方ない、今日は古本の点検に勤しもう。そうして漫然と、状態確認を兼ねて中身に目を通すこととする。
 休むといいつつ、こんな風に書いているといつの間にやら1編の文章ができあがる。お喋り好きの効能だろう。呵呵。
 それにしてもどうして「二日酔い」って「宿酔い」とも書くんでしょうね。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3527日目 〈「ヨブ記」再読へ向けて。〉 [日々の思い・独り言]

 思いつくことがなにもないので、聖書を開いて、目に留まった一節から話を展開させてみようと思う。上手くいったら喝采の程を。滑ったりしたならば……読者諸兄の優しさに甘えたい。
 伴侶のように常にそばにあった新共同訳聖書を、適当なところで開いたら、「ヨブ記」第36章であった。引用する節に下線が引かれている。曰く、「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない」と。第19節である。前後関係がわからずとも、この文言の意味するところは薄々わかる。
 わたくしは、これを、「苦労するなかで得た様々な経験や知恵、教訓は、苦労したからこそ人生に役立てられるものとなり、苦労なくして歳月を過ごしてきた人の経験や知恵、教訓は、その前では塵芥に等しい」と解釈した。塵芥に等しい、とは言葉が過ぎようか。ならば、こういい換えよう、「同じ出来事を体験していても、そこから得られる様々な知恵や教訓や経験則は、人生で苦労をしたことのある人としたことのない人とでは、その質、その差は歴然としている」と。
 第36章のなかからどうしてこれを、引用して原稿を書いたのか、もう覚えていない。「ヨブ記」を読んでいたのは、2010年06月06日から同年08月04日のことだから12年以上も前である。「ヨブ記」は全42章、第36章といえばもう後半部にあたり、そろそろ3人の友人がヨブを諫めるのを諦めて、砂塵のなかに潜む〈主なる神〉とヨブが直接対話するクライマックスを迎える直前のあたりだ。そんな件りでこの文言が現れるその意味はなにか。どうして友人エリフはこのタイミングでヨブに、斯く語ったのか。
 白状すれば、偶然にもこのページが開かれたとき、頭を抱えてしまった。
 「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない。」
 この2行がいわんとすることは、上述のように解釈して幾許なりとも腑に落ちるところではある。が、理不尽な災難に見舞われたヨブの許を訪れて、〈反-神〉の立場に立った冒瀆の言葉を連ねるヨブを懸命に諫める友人エリフの、この例の台詞を全体のなかへ落としこんで読むとき、わたくしはハタ、と迷うのである。──エリフはどうしてこのタイミングで、斯様な台詞を口にしたのか、と。
 それは年来の疑問である。この12年、幾度か「ヨブ記」を繙いて目を通した。この書物は、「聖書について」という新共同訳聖書付録の解説に拠れば、「旧約聖書の最も劇的な書の一つであり、ヨブとその友人との対話形式による長い詩である。苦しむヨブが『利益もないのに、神を敬うだろうか』(1:9)ということが対話の主題であり、それはヨブ一人の問題ではなくて、苦しむ義人すべての問題でもある」(付2)である。
 然り、「ヨブ記」は最も劇的な書物の1つである、が、同時に最も頭を悩ませる書物の1つでもある──旧新約続編を通して、最も哲学的であり、最も読解に苦労する書物である。旧約聖書のなかではこの点、最右翼というてよかろう。全体を通して肩を並べ得るのは、「ヨハネの黙示録」であろうか。この難解さの前では「エズラ記(ラテン語)」なんて可愛いものです(初読のときはあれ程苦労して、匙を投げた状態で進めたのにね。この変わり様はなんだ。呵呵)。
 「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない。」
 これはエリフが、絶望して神をも呪う言葉を吐き散らすヨブに放った、諫めの言葉である。この観点からすれば、神からの試練を与えられてそれを克服した者だけが、鋼のように堅くて強い、どんな誘惑や迫害に対しても揺らいだりすることのない信仰を持てる、という意味になろうか。このエリフの言葉の真意を探ることが、また、この言葉が持つ、より普遍的な意味を求めることが、2度目の「ヨブ記」読書の取っ掛かりになりそうだ。
 ちなみに「聖書について」から引いた上記解説の「利益もないのに、神を敬うだろうか」は、まだヨブが災難に見舞われる前である、神がサタンを相手にヨブを讃えたとき、サタンが口にした疑問の台詞である。
 神はいった、「(地上をあまねく巡ったお前は知っているか、)地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ1:8)と。
 サタンが答えて曰く、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。……ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(ヨブ1:9)と。
 ヨブは神に試された男である。その試しは、サタンの挑発に神がうかうかと乗ったことから始まった。いい換えれば、それだけヨブは、神の目には正しく映る人物であり、サタンの目には逆にその信仰が本当の信仰であるか疑わしく思うに格好のサンプルと映った。
 「ヨブ記」はここを振り出しに、理不尽な災難に見舞われて瀆神の立場に一転するヨブの姿と、それを諫める3人の友とヨブの対話を描き、砂塵のなかに姿を隠した神とヨブの一騎打ちを経て、大団円に至る。
 「ヨブ記」全編を通してわれらの心に残るのは、古来よく本書を指していわれてきたような「なんの落ち度もない善人が、どうして謂われのない苦しみを受けなくてはならないのか」という疑問であるばかりでなく、「人の一生には常に理不尽な苦しみや悲しみが潜んでいて、それはいつ牙を剥いて襲いかかってくるかわからない」という、どうしようもなく避けがたい人生の真実ではあるまいか。
 エリフのかの台詞、「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない」はそんな物語のなかで、いったいどんな意味合いを持つのか。これを探ることが2度目の「ヨブ記」読書の取っ掛かりになる一方で、長らくわたくしの頭を悩ませてきた疑問へのアンサーにもなるはずだ。
 エリフは、苦しみを経験したあなたこそ、神を本当に敬い畏れることのできる人物だ、といいたかったのだろう。その確認を主な目的として、「ヨブ記」再読の準備を進めたく思う。◆

 補記
 先達て、岩波書店刊旧約聖書・新約聖書註解全20巻を購入した。いつも図書館で借りて、読書の参考にし続けたものである。遠からず到着するはずだ。此度の「ヨブ記」再読についても、強い励ましを与えてくれるだろう。

 更なる補記
 これを契機に、「エステル記」以後の〈前夜〉にも、そろそろ本格的に取り掛からなくてはなぁ。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。