第3749日目 〈山本芳久『キリスト教の核心をよむ』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 きょうばかりは暗い話はなるべくしたくないので、読んだ本のことを話そう。

 山本芳久『キリスト教の核心をよむ』(NHK出版 2021/10)を読み終わった。ずっと鈍く続く痛みをわずかの間でも忘れられたら……という思いから手にした一冊だったが、ゆっくり読み進めるうちジワジワと、旅する人々を束ねる同伴者イエスの優しさが染みこんできて、すこぶる感銘深い読書となったことをまずは報告したい。
 なにより心に残ったのは最後の第四章、「橋をつくる──キリスト教と現代」だった。教皇フランシスコとヘンリ・ナウエンの著書を紹介しながら、〈周縁の神学〉を踏み台にして自分と他者の間に「橋をつくる」、架橋することが、世界が断裂されているこんにちにこそ必要と説く。
 キモとなるのは、ナウエンの代表的著作『傷ついた癒し人』にある、自らの傷を(他人への)癒やしの源泉とする、という箇所。この発想は、「『十字架で苦しむイエス』というキリスト教の根本的なイメージを、現代的な文脈で活かし直したものと言うことができ」(P116)る、と山本は解説する。
 自分自身がわが身わが心にこうむった傷──悲しみや苦しみ、無理解、孤独や病気などを、同じように傷ついて、癒やしを求めずとも求めている人に用いる。ここでいう癒やしは「ヒーリング」の枠を飛びこえて、共感すること、寄り添うこと、手を重ねること、話に耳を傾けること、そうした行為をも含むと捉えてよい。
 これが、ひいては「同伴者イエス」のイメージへつながってゆくが、非キリスト者にもこれをイメージしやすくすれば、隣人愛、となるか。自分と相手の間に「橋をつくる」ことにもつながるそれが決して、施しをする、なんていう上から目線の行為を意味しないことは、自分の傷を他人への癒やしの源泉とする、というそもそもの出発点が明らかにしている。
 著者の言を借りれば、曰く、──

 自分が苦しみ、傷つくとき、それを単に偶然起こったことと受けとめるのではなく、私たちみなが共有している人間の条件の深みから生じてくるものと受けとめる。人間とはそもそも傷つき苦しみ存在なのだと気づくことが重要なのです。
 人間とは苦しむ存在だということに目を開かせ、また傷つき苦しむ人への共感の態度を持つことで、ほかの人の癒やしにもつながるような在り方が備わってくる。それは、安易な仕方で苦しみを取り去るということではなく、傷や苦しみを共に負いながら共に歩んでいけるようになる、ということです。これはまさに、これまで語ってきた「同伴者イエス」の在り方につながります。
(P117)

──と。

 山本の単著を読むのは、たぶんこれが初めてのこと。奥付に拠ればトマス・アクィナスに関する著作が中心らしいが、『キリスト教の核心をよむ』は深みと広がりを兼ね備えた、こんにちに於ける最良のキリスト教入門書のひとつといえる。宗教に固定観念(偏見──それはいちばん危険な思考である!!)を持った偏狭な非キリスト者にこそお奨めしたい。むろんそこに留まらず、江湖に推奨したいのである。
 わたくしは本書を取っ掛かりにして、巻末のブックガイドを参考にしながら、教皇やアウグスティヌス、或いは他の著者たちの本を読んでみようと考えている。◆






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