第3636日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉04/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←NOW!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)
 『万葉集』はわが国の青春時代の歌集である、と朔太郎はいう。飛鳥-藤原-奈良朝の日本が経験した興国の隆盛が、ここには封じこめられている。外国文化を取り入れて独自に発展・開花してゆく国風文化の誕生は、「人心益々刺激を求めて活気に充ち、興国新進の元気真に溌剌たるものがあった」(P175)のである。
 そんな気風もあってか、『万葉集』の歌風は八代集とは異なり、自然直截、力強く、詩感は放縦不羇、格調は荘重剛健、情熱は赤裸々そうして素朴である。八代集及びそれ以後の歌のように、技巧で自分自身を隠してしまうようなことはなく、いい方はアレだが奔放で、自分の想いや感じたことを飾ることなく詠いあげたのが、『万葉集』の歌うたである、といえよう。
 ただその『万葉集』のなかでも、(時代推移に伴う)歌風の変化は確実に起きていた。こんにちわれらが『万葉集』の代表歌人を訊かれて思い浮かべる人──これは朔太郎の活躍した近代でも、契沖や真淵、千景が研究に励んだ近世でも、定家や三条西実隆が校訂に着手した中世でも、等しく事情は変わるまいが──は、ことごとく初期の人々であって、後期になると一人、編纂者とされる大伴家持が即座に浮かび、他は『万葉集』や『百人一首』に親しむ人が1人、2人の歌人を加える程度だ。このあたりを朔太郎は述べて曰く、──

 特になかんずく、編纂の末期にあたる奈良朝後代の多くの歌は、既にほとんど原始万葉の興国精神を失って居る。名歌人大伴家持等によって代表される後期の歌は、一般に著しく理智的となり、観照本位的となり、繊鋭の神経と技巧とを発育させて、物心の静観を重んずるようになってきた。即ち情緒の解放を精神として、大胆不羇の情熱を高調した原始万葉集の浪漫主義は、後期に至って観照本位の歌風となり、情熱よりも静観の智慧を尊ぶ、客観的レアリズムに推移して来たのである。(P177)

──と。
 そうして──再三の話で申し訳ないが──朔太郎は日本の歌史に3つの峰あり、1つ目がこの『万葉集』、2つ目は『新古今集』、3つ目を近代明治以後、と呼ぶ(P209−211「六代集と歌道盛衰史概観」)。これもかれにいわせれば、偶然ながらも必然の感がある。
 曰く、『万葉集』がこんにち自分たちの時代にあって「魅力深く、かつ本質的に理解し易いのは」、──

 明治開国以来の新日本と、上古万葉時代の日本と、多くの点で国情が類似して居るからである。開国以来の新日本は、王権復古して上古に帰り、外国と交通して文化を輸入し、国民の意気大にあがって、興国新進の気運溌剌として居る。そして上古万葉時代の日本が、丁度またこの通りであったのである。それ故に明治以後の新歌壇は、当然『万葉集』への復帰を叫び、それの立脚する大精神から、一切新しき歌の出発すべきことを力説した。(引用いずれもP178)

──云々。
 本節末尾の補記に、上を踏まえた近代歌壇の潮流に触れた部分がある。万葉初期から後期編纂の頃までの約60年間、初期の興国精神の浪漫主義から後期の観照主義静観主義への歌風の変遷は、そのまま与謝野晶子を代表とする明星派(これも若き血潮あふれる浪漫的歌風であった)から斎藤茂吉を統領とする写実的、実相主義、生活密着の歌風へと推移した事実を以て、偶然にして必然の運動一致だというのだった(P181)。
 朔太郎の『万葉集』讚は、こうした時代の流れから生まれているものだが、かれの実作(短歌であれ詩であれ)からはその詩魂、『万葉集』を遠く離れて寧ろ『新古今集』に根っこを張り養分を吸いあげている、とわたくしには映るのである。□

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第3635日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉03/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←NOW!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。
 なぜ本書を『恋愛名歌集』と題したか。それは、日本の歌はその発生当初よりして恋歌の性質(機能)を持っていたからである。「歌垣」(※)がその性質、機能を有していた。
 歌が恋歌である以上、『万葉集』の7割が恋歌となり、八代集も実質は(叙景歌や羈旅歌などに見るべき、読むべき作物が少ない以上)恋歌集となるのは自明といえる。曰く、──

 けだし恋愛は感情中の感情であり、人間情緒の最も強い高熱であるからして、抒情詩における最も調子の高い者は、常に必ず恋愛詩に限られて居る。即ち恋愛詩は抒情詩のエスプリであり、いわば「抒情詩の中の抒情詩」である。しかるに日本の歌は純粋の短編抒情詩である故に、常にどの時代の歌集においても、恋愛歌が中枢機能となっているのは自然である。(P13)

──と。
 同じ「解題一般」で朔太郎は本書、就中総論で述べたることは、「歌壇識者間の平凡な常識にすぎないだろう」(P15)という。本音でそう思うているのか、かれなりの韜晦なのか、一寸判断はつかない。が、相応の自負は持っていたろう、と推測するに難くない。いずれにせよ、上引用したと同趣のことは(当時としては)なかなか新鮮に映るものだったのではないか。
 ここに続く『万葉集』と『古今和歌集』、六代集、『新古今和歌集』の選歌、評釈の比は、『万葉』最も少なく『古今』最も多い。意外の感に打たれるけれども理由は、こんにちの読者にとって『万葉集』が最も親しみやすく読みやすく、『古今集』はその反対であるから、という。このあたりにも後に述べたるこんにちの歌人が〈万葉回帰〉をしている理由と、背景がリンクしているように思う。
 序言でも総論でも再三(本稿もまた同じになるか?)触れる音韻、韻律について、幾首かについては音律を「例解し、韻律を分解して押韻図式を示し」(P14)た。たとえばP101,──

 浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき
(『後撰和歌集』巻九恋一 578 参議[源]等)

やP102,──

 名にしおはゞ逢坂山のさねかづら 人に知られて来るよしもがな
(『後撰和歌集』巻十一恋三 701 三条右大臣[藤原実方])

──などである。但し本稿では音韻、韻律、音律には触れないので、興味のある向きはこれを機として『恋愛名歌集』を繙いてみるとよい。
 「解題一般」にて朔太郎は一々の歌について作者等特に必要な場合を例外として省いた旨断っている。ここには注文をつけたい。当時の読者はこの点を不満と思わなかったのだろうか。文庫巻末に初句索引を付し、出典や作者を明記しているのは感謝するが、歌番号が『新編国歌大観』に拠っているのはどんなものなのだろう。岩波書店は唯一、『万葉集』と八代集の文庫と註解書を持つのだから、歌番号については『新編国歌大観』と新日本古典文学大系を並立するか、後者を基にするか、してほしかった。トンチキな希望であるとはじゅうぶん承知している。
 この件に関して一言述べれば、上の「名にしおはゞ」は『恋愛名歌集』索引の歌番号(つまり『新編国歌大観』の歌番号)は「700」、上の「701」は岩波文庫(底本;二条家本系統伝亀山天皇宸翰本)の歌番号である。

 ※歌垣
 古代、男女が集団で飲食歌舞しつつ、相互に歌いかけ歌い返す行事。本来は生涯の予祝行為であり、性の解放を伴っていた。春秋、特定の山や海浜、または市などで行われた。
 「よばひ」は性愛にかかわる言語活動であるが、個人的行為になっているのに対して、歌垣はひとしく等しく性愛にかかわる言語活動であっても、集団的行為になっている。
 時代が下がるにつれて、予祝行為としての意味は忘れられ、踏歌の影響を受けて都市における風流と化した。すなわち、天平六年(七三四)二月、宝亀元年(七七〇)三月に帝都で大規模な歌垣が催された。
〜『日本古典文学大辞典 簡約版』(岩波書店 1986/02)「歌垣」の項より抜粋 P160−161 臼田甚五郎;執筆。□

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第3634日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉02/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←NOW!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。
 朔太郎は本書を専ら自分のために編纂した、と述べる。しかもここに挙げる古歌はいずれも、日常愛吟の歌である、とも。
 こんにちでこそ『月に吠える』など詩人として文学史に名を留める朔太郎であるが、詩を──自由詩の書き手として世に出る前は、作歌に励む人だった。むしろ当時としては普通のことで、文学修行に短歌を詠んだ人は他に、たとえば田山花袋や柳田國男などがいた。
 作歌経験なき詩人は果たしてどれだけいただろうか。短歌を詠む/読むはかれらの時代にあって文学の入り口であり、教養であり、前段の如く文学修行になった。まぁ、人によっては短歌に代わって漢詩や俳句、翻訳などになろうが、いまそれは考慮せぬことにする。
 『恋愛名歌集』「序言」に話を戻す。
 短歌は──和歌は、日本独特の抒情詩である、とかれはいう。ギリシアを見よ。ローマを見よ。イギリスを見よ。ドイツを見よ。北欧スカンジナヴィアを見よ。西欧のポエムはいずれもみな、バラッド、長編物語詩より出でて形を成した。然るにわが国はといえば、長歌に付される反歌が独立して三十一文字の短歌になった、という事情はあれど、西欧に見るが如き母胎となる抒情詩を持たずして短歌という純粋抒情詩が生まれた。これを以て独特といわずになんという。
 更に朔太郎は、この独特は、日本語の音律、韻のやわらかさ、自由さ、に拠るものでもある、という。曰く、──

 古来の名歌と呼ばれる者が、いかに微妙な音楽を構成すべく、柔軟自由の不定則韻──それが日本語の特質である──を踏んでいるかを見よ。この点で過去の長歌、今様、及び明治の新体詩等の者は、この平調な同一律の反復から、いたずらに読者を退屈させるのみであって、何等複雑の神経を持たない韻文である。更に現時の所謂自由詩に至ってはほとんど詩としての音楽要素が絶無であり、正直に言って一種の「行わけ散文」にしか過ぎないのだろう。(P8)

──と。
 然るにこんにちの自由詩を場朔太郎はどう見ておるか。同じページで曰く、「今やその曖昧な韻文意識を放擲して、自ら散文に解体しようとして居る」と。かれにいわせるとそれも、韻律、音楽の調べをどこかへ忘れ置き来たったためである、という。令和のこんにちから見ればまるで実感は湧かない──時節と形式を得て然るべく発生したものに映るが、当時を生きてその潮流の只中におった朔太郎にしてみれば、そんな批判の目を向け言葉を吐く程に歌壇は、詩壇は、かつて韻文が持っていた〈調べ〉と、それが自ずと生み出す〈格調〉とは縁を切って、違う代物に化けようとしているように映ったのかもしれぬ。リアルタイムで体験するとは、そういうものである筈だ。リアルタイムを生きないと、見えてこないものもある。
 そんなかれ(ら)にとって『万葉集』や『新古今和歌集』あたりに代表される古典和歌は憧憬の対象であり、「美と芸術への恨めしき懐古」(P10)となるのは宜なる哉。
 ──萩原朔太郎は本書を、本メモ冒頭で述べたように自らのため編纂したのみならず、「歌の正統なる道」(P10)を踏み外したこんにちの歌壇に修整を促す一石としても著した。本書が世に出た昭和6(1931)年5月以後の短歌シーンに於いて、この『恋愛名歌集』が如何程の影響を及ぼし得たか、もしくは否定非難されたか、調べてみるのはけっして無為な作業ではあるまい。併せて、子規『歌よみに与ふる書』でも同じことを改めてやってみて、両者を対比してみれば、様々な事実が発見されて面白かろう。□

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第3633日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉01/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←NOW!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。
 萩原朔太郎の略歴と仕事については、かれの著書『郷愁の詩人 与謝蕪村』解説が簡潔にまとめているので、そちらを引用したい。曰く、──

 萩原朔太郎(明治十九〈一八八六〉〜昭和十七〈一九四二〉)は、大正・昭和にかけて活躍した。やわらかな口語表現の中に深い近代の憂悶をうたい、また激しい文語表現によって人生の孤独感を表白した。群馬県の前橋市に生まれ、中学生のころから短歌をよくし、与謝野晶子の『みだれ髪』の影響を強く受けた。一時音楽家をこころざしたが成らず、短歌をいくつかの短歌雑誌に投稿し、大正二年には抒情小曲(叙情的な小詩篇)を作った。やがて本格的な詩に移り、詩集『月に吠える』(大正六)、『青猫』(大正十二)、『抒情小曲集』(大正十四)、『氷島』(昭和九)などによって、詩人としての地歩を得た。
 また、朔太郎は、詩論家であり、詩的なエッセイストでもあって、『詩論と感想』(昭和三年刊)、『詩の原理』(昭和三年刊)、『純正詩論』(昭和十年刊)、『詩人の使命』(昭和十二年刊)、『無からの抗争』(昭和十二年刊)、『日本への回帰』(昭和十三年刊)などの著書がある。アフォリズムと呼ばれる短文の批評形式にも本領を発揮し、『新しき欲情』(大正十一年刊)、『虚妄の正義』(昭和四年刊)、『絶望の逃走』(昭和十年刊)、『港にて』(昭和十五年刊)などにまとめられた。(P125-6 山下一海 岩波文庫 1988/11)

──と。
 付け加えるところがあるとすれば……数ある詩作はいまでも複数の出版社から文庫本、単行本の別なく選集として編まれて読み継がれている。小説も物しており短編「猫町」と「ウォーソン夫人の猫」は日本の幻想文学に深甚な影響を与え、殊前者はその後多くのエピゴーネンを生み出した。英国の作家ブラックウッドの同名短編との相似も指摘される。また、詩論、詩的エッセイについてはそこに本書『恋愛名歌集』を加えれば、より完璧に近い紹介となる。
 わたくしが『恋愛名歌集』を知ったのは、朔太郎の著書の解説や、或いは研究書等によってではない。誰かのエッセイで知ったのである。こんな意味のことが書かれていた。戦後間もない時分に萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読んで短歌の魅力を知った云々。
 このフレーズがずっと心に引っ掛かっていた。古書店サイトで古本を買うのを覚えてから時々、『恋愛名歌集』を探したものだがその時々の事情によって買うを真面目に検討できず延ばし伸ばしになっていたところ、昨2022年、岩波文庫が生誕80年のアニヴァーサリー・イヤーの一環として刊行。すこしの間を置いて地元の大型書店で購入したのである。(2023/05/04 18:25)
 凡例めいたことも書いておく。
 以下、短歌の引用は原則として『恋愛名歌集』に基づくが、表記に関しては筆者の判断により『万葉集』は日本古典文学全集(小学館 旧版)に、『古今集』から『千載集』は岩波文庫に、『新古今集』は岩波文庫と新日本古典文学大系(岩波書店)に、それぞれ拠った。単にわたくしがそちらでずっと読んできたからである。他意はないし、あろう筈もない。但し一部私意によって漢字を開く、或いはその逆を行うた短歌もある旨お断りしておく。
 また、以下のメモ・感想は本書目次に従うものではない。「解題一般」で朔太郎が読者に望んだ読む順番──最初に「総論」を読み、次いで各週選歌の章を味読されよ──に、素直に従うたまでのことだ。
 長いメモ・感想の開幕には、ダレルの小説の、冒頭の一節が相応しい。それでは──それでは始めよう、幕間狂言(アゴーン)を。(2023/05/06 00:19)□

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第3632日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』からの書写が終わりました。〉 [日々の思い・独り言]

 産休・育休の延長申請をしようとしたら、イヤそれは延長ではなく新規取得の申請だよ、といわれて、それもそうだな、と合点しているみくらさんさんかです。
 本日やっと、萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読み終わりました。──ううん、読了とは正しくない。昨年12月には終わっていますから。ここでいう読了とは、モレスキンに綴った各章の感想・メモと、万葉古今六代新古今の各章でわたくしが斜線を引いた各歌を読書ノートに書き写す作業が終わったことを指す。母の逝去を挟んだ、3ヶ月と2週間に及ぶ作業でした。
 勿論、毎日毎夜ずっと書写していたわけではありません。各章の感想やメモの書き写しはその日以前に終えていましたが、各歌の書写はそれから3週間くらい経った頃から始めた。圧し潰されそうな孤独と不安を紛らわすために、予定になかった万葉古今六代新古今の歌をノートへ書き写すようになったのです。もとより斯様な和歌の書写は初めてのことではない。学生時代とその後の数年間、貧書生を名乗っていた頃は図書館から借りた勅撰和歌集や私家集の類を縦罫ノートへ書き写していましたからね。なんというか、その……むかし取った杵柄?
 機を見て腰をあげ、時間を割いて残りを書き写してしまおう……と考えて数日が経過。『恋愛名歌集』と大学ノート、新日本古典文学大系版『新古今和歌集』が炬燵の上にあって、視界の外へ置くのもそろそろ限界。最後となる「新古今」の章は残り16首を書き写すだけ。
 さて、いつ作業に取り掛かろうかな……気附けば今週、昼間の用事を済ませたらそのあとは予定なんてなんにもない日があった。金曜日である。上述した本2冊とノート1冊をカバンのなかに詰めこんで、出掛けよう。ちょっと荷物は重くなるけれど、その日で終わらせることを思えば、重量7キロ超なんて軽い、軽い……。
 斯くして今日、すこし汗ばむ陽気の今日の宵刻、萩原朔太郎『恋愛名歌集』の感想・メモと万葉古今六代新古今各章からの書き写しを終わらせたのであります。感慨無量、というのはこういう瞬間を味わうために作られた言葉かもしれない。いや、すこぶる真剣に斯く思うたことでありますよ。
 ──ここ最近の、本ブログでお披露目する読書感想文のなかには幾つか、この読書ノート(抜き書き帖)を基にしたものがありました。昨年だと、遠藤周作や片柳弘史なんかが該当する。
 『恋愛名歌集』の感想文もここでお披露目したい。クリアしなくてはならぬ問題点は、ただ1つ。即ち、ノートに従って1日1-2章のメモ・感想をPagesに転記するか、ウンウン悩みながら(なかば無理矢理)1日分の分量にまとめてみるか。
 これについて決着をつけた暁には、〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉てふタイトルの感想文が陽の目を見るのも近いことでありましょう。◆

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第3631日目 〈みんながきみを待っている。〉 [日々の思い・独り言]

 2人目を授かりました。3月のことです。出産は秋の予定。
 どちらでもいい、まずは元気に、丈夫に、生まれてきてほしい。
 ママもお姉ちゃんも、きみを待っている。
 さて、パパ、がんばらねば。◆

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第3630日目 〈本ブログが生まれるまで。〉 [日々の思い・独り言]

 そうね、それはこうして始まったんだ。……
 書いた作品を寄稿させてもらっていたweb文芸誌や音楽ライターが主催するSNS、レビューサイトが相次いで閉鎖されてから、もしくは自分の意思で脱退してから、書いたもの/書いているものを発表するアテがどこにもないまま、何年も過ごした。
 聖書を読み始めた頃だから、2008/平成20年のことだろう。読みながらメモを作る。そうしなければ内容理解が追いつかなくなるところまで、聖書読書が進んでいたのだ──「出エジプト記」の後半、神聖法典に踏みこんで間もない時分だ。いい方を変えれば、いつ読書を断念しても可笑しくない段階に差しかかってきた、と云うことである。
 或る日、作り終わったメモ数枚をぼんやり眺めているとき、ふと、思い付いたのである。これをネット上で発表することはできないかな。そうすれば、せっかく始めた聖書読書は挫折しないかもしれない。
 丁度、ダイエットレコーディングの本を読んだか、資格試験対策の本を読んだか、していた頃である。そこに書かれていたのは、FacebookなどSNSで、あらかじめ目標達成のための決意表明をしておき、毎日それについての報告を(偽りなく)欠かさず行ってゆく、と云う趣旨のことだった。そうすると、たとえば決意表明から外れたことをしてしまった場合、読んでくれている誰彼からその点についてツッコミというか疑問が提出されて、決意表明した側は兎にも角にも目標達成のための努力をしてゆくようになる、というのだ。
 或る意味で、限りなくプレッシャーを掛けられる話である。立場を変えれば無責任な発言の宝庫にもなりかねない。
 が、これは良いアイディアに思われた。最後まで読み通します、なんて宣言するのではないけれど(そんな気は毛頭なかった)、メモを不特定多数に公開してゆくことが聖書という難物を読み進める原動力になり、同時に自分の読み方の確認にもなるだろう。
 斯くして、ネット上での読書メモ公開が決まった。次は、舞台である。HP作成は手に余る。管理するのが面倒臭そう……。当時流行りつつあったWordPressは己の能力の外にある。では──?
 そうしたときだ、ブログ、と云う手段を思い付いたのは。WindowsからMacへの大胆な機種転換を検討して、Macユーザー(=リンゴ信者)のブログをあちこち閲読しているうちに、単に記事を載せるだけならHPよりも簡単で、写真やイラストの挿入もカスタマイズ次第、これはHPなんかよりもかなり自由が効きそうだ。……そんな風に思うて、これに飛びついたのを覚えている。
 新しい表現舞台を模索していた頃は、ブログなんて手段は思い浮かばなかった。ブログを「えいやっ」と始めた当座は、15年も続けることになろうとは想像もしなかった。途中長い空白期があったと雖も、今日まで続けてこられたのは、「書くのが好きだ」と云う形容し難い気持と、執念のゆえである。
 今年9月で本ブログは15年を迎える(たしか)。それまでには更新正常化を果たしていたい。
 ──読者諸兄は知ってほしい。過去にもブログ開始を回想したものを書きました。きっかけについて書きもしました。これもまた、事実の一面なのです。過去の歴史は様々な資料や証言によって立体的に構築されるのです。◆

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第3629日目 〈次に読む本を探す。〉 [日々の思い・独り言]

 「もうしばらく、本は買いません」
 夕食の席でそう宣言した。冗談ではない。売り言葉に買い言葉なわけでもない。本気なのだ。とはいっても、未読の本を消化してゆくだけのことである。
 事の発端は、書庫と化しつつある自分の部屋に、読む本を探しに行ったところから始まる。これまで読んでいた本が終わり、明日から読む本を物色する必要が生じたのだ。
 うぅん、まだ読んでいない本が随分とあるなぁ。
 買うときは読む気でいたのに、帰ってきた途端にその気がなくなるのはどうしてなんだろう。それが積もり積もって負のスパイラルを描いた結果が、この未読の本の山か……。こりゃあ、いままでと同じ感覚で買い物を続けていたら、ろくでもない事態が待ち構えているぞ。
 そう思うたら途端に、ぶるっ、と体が震えた。──架蔵する未読本を片附けるのが先だ。これまで読んできた本を思い出しながら、次に読む本を未読の山から探し出す。1時間近く格闘した後、2冊の本に決めた。愉しい作業だった。7日から10日での読了が目標である。◆

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第3628日目 〈官房長官の本を切り口に、政治史を過去へ遡ってみたい。〉 [日々の思い・独り言]

 間もなく大下英治『内閣官房長官秘録』を読み終わる。残り、30ページ。2023年04月14日20時09分時点の話だ。
 それが決定的なターニングポイントになったわけでは勿論ないが、1月のあの日以後、小説なるものを受け付けられぬ体になり、ノンフィクションへと完全に軸足を移したことは、あれから今日まで読んできた本を並べてみれば自ずと明らかになる。
 拾い読みや摘まみ読みができるのが、ノンフィクションの良いところと思う。全体像や流れを摑んだりするには初めから終わりまで読み通すのが必要だけれど、ひとたびそれができたら類書については拾い読みや摘まみ読みが可能になるのは、ノンフィクションならではの利点といえまいか。つまり、或るジャンルを踏破するには全体が把握できる基本書籍を数冊揃えて、それをとにもかくにも最初から最後まで読み倒してしまうのが入り口になる。
 ──バテちゃうよ? 当たり前だ。でも大丈夫、それがやがて快楽になって、ちょっとしたハイな気分を味わうようになる……そこまでイッテしまえばシメタもの。朧ろ記憶を総動員して類書を探し、どんな買い方集め方をするにせよ時間的にも気持的にも然程の負担なく1冊を読み終えることができるようになる。
 偉そうに書いているが、〈日本の、戦後政治〉というタグをつけたここ数ヶ月の読書履歴を顧みると、Twitterで読了報告した伊藤昌哉『自民党戦国史』上下(ちくま文庫)、いまはもうあの場所にはない八重洲ブックセンターで買った山川出版社の「もういちど読む」シリーズの『政治経済』と『日本戦後史』を昨秋から年末に掛けて読んだことで、上でいうた流れを大雑把ながら摑めるようになったと思うている……のだが……どうなんでしょうね(えへ)。
 戦後政治に関しては安倍さんや菅さんの著書、ジャーナリストたちが書いた本を一渉り読んで、だんだんと過去に遡ってゆこうとしている。というよりも、『内閣官房長官秘録』も前に読んだ松田賢弥『陰の権力者 内閣官房長官菅義偉』もそうだったが、官房長官時代の菅さんを取り挙げた本はたいがい、菅さんが恩師とした梶山静六や、野中広務や加藤紘一と云った人々を取り挙げる関係上、好むと好まざるとにかかわらず過去の官房長官たちの事績、翻っていえば過去の政権について触れることになる──それ即ち、読み手も過去の政権、政局へ目を向けるようになるわけだ。ふしぎと興味ある事柄に出喰わすと人は、底に沈んだかすかな記憶をいつまでも大事にし、なにかの拍子に浮上してきたとき巧くキャッチして、それに関連した本を見附けられるようにできている。向学心ある人、知識欲旺盛な人には、そのかすかな記憶が刺激剤となって、本屋さんに入ると棚の前をぶらついて関連書籍と出会うのだ。
 官房長官は総理の女房役であり、政権の要でありナンバー・ツーであり、内閣の取り纏め役であり、与野党の調整役である。かれらの事績を語ることはイコール、歴代内閣を語ることであり時の日本の情勢を確認することである。この数週間で読み終えた、或いは読んでいる本が官房長官という「陰の権力者」なる異名も頷ける役職についての本ばかりであるために、興味関心は〈戦後政治〉全般へ及ぶようになった。それは必然であった、とわたくしは考えている。
 取り敢えずいまのわたくしの、この方面での読書の目標は、一連の官房長官についての本を切り口に過去の歴代内閣と個々の政治史を辿って、この世の中に政治というものがある、と知った大平内閣の時代まで遡ることだ。これを、この方面に於ける当面の読書目標としよう。◆

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第3627日目 〈春の抱負──戦争について理解を深めること。〉 [日々の思い・独り言]

 いつも必ずではないけれど、と或る用事でと或る場所へ行くたび開く本がある。それを読んで、暇な時間を過ごす──のだが、理由あって〈そこ〉で読んでいる最中の本を昨日、別の場所に移動させた。当然、本はなくなる。新たに補充しなくては。未読本山脈の前で暫し立ち呆けて、これにするか、と〈そこ〉へ移したのは2冊。今更ながら、ロシア−ウクライナ戦争の本だ。
 1冊は昨年買って、何度か目を通したあと書架に仕舞いこんだ小山哲・藤原辰史『中学生から知りたいウクライナのこと』(ミシマ社)。もう1冊は開戦前からロシア軍の動向等についてメディアで発言していた小泉悠の『ウクライナ戦争』(ちくま新書)だ。ここに黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書 2002/08)が加われば申し分無しだけれど、あるはずなのに見附からないんだ。困ったもんだね、オッペケペッポーペッポッポー。
 戦争が始まって1年2ヶ月(2023年04月10日時点)。プーチン大統領の甘い見通しの下始まった戦争は収束の兆し未だなく、最高指揮官の態度の硬化によってだらだらと長期戦化している。
 新聞とNHKのニュース・ドキュメンタリーで追いかけているとはいえ、どうも自分はこの戦争のついて、根本の理解が欠けている気がしてならぬ。双方の根強い民族感情や歴史について、一知半解のまま戦争の推移を日々更新している状態。
 自分にはナニカガ決定的に足りない。報道される出来事そのものであったり、その背後にある事柄について、なにを本当に知っているのか。
 それをすこしでも補強したい思いから、上記2冊を選んだ。用事ができた時だけ行く場所の本ではあるが、じっくり読み進めてこの戦争について、その根本、その背景、について理解を深めて、知識を脳ミソに着床させたい。
 春の、抱負。◆

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第3626日目 〈心機一転、場所を変えての読書。〉 [日々の思い・独り言]

 持ち歩いている本が読み終わると、しばし内容を思い返したり、扉に一言二言の感想を書きつける。然る後に控えるは、大きなお愉しみだ。つまり。次に読む本を選ぶ、と云う悩ましくも悦ばしい作業。
 今日先刻、松田賢弥『陰の権力者 内閣官房長官菅義偉』(講談社α文庫 2016/01)を読了した。感想は、ツイート済み。そちらをご覧ください。読み始めて……1ヶ月程を要したのかな。覚えているのは、馬車道のスタバで読み始めた事、母の四十九日を途中に挟んだ事、くらい。
 読み終えて、読了日を記し、感想を綴った。巻を閉じる。両腕を組んで、むむむ、と沈思黙考。さて、次はなにを読もうか。
 政治にまつわる本、政治家に取材した本になるだろう。『陰の権力者』を読んでいる最中から感じている事だった。──法律の本へシフトするかな、と思うていたが、色々な意味で時期尚早と判断。いまはまだ見送る事にした。候補は、ある。幾つか、ある。
 そうして、1冊の本に絞った。用事があるたび向かう場所で、座を占めるも手持ち無沙汰を紛らわすため置いている数冊から、1冊。それは既に半分程読み進んでいる。今月末あたりに最後のページへ辿り着けるかな、と思うていたが、それは甘い見込みであった。現実はそう都合よく行かない。だらだらとページを繰るだけになって、中身はきっと頭のなかになんにも残らないんだろうな。そんな危惧を抱いた。そこへ行くたび読むのが億劫になってきた、という事情もある。
 心機一転の読書。場所が変われば、また新たな気持で残り半分を読み進められよう。そんな仄かな希望を抱く。
 さて、大下英治『内閣官房長官秘録』(イースト新書 2014/10)を厠から動かそう。◆

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第3625日目 〈5ヶ月ぶりに開いた本、今年はじめての本。〉 [日々の思い・独り言]

 今年2023/令和5年は幕開け早々から、生活を根底から引っ繰り返す事態が出来した。その影響で以後、普通に行っていた事ができなくなった。読書の中断、は或る面でその最たるものか。
 それまで、かりに断続的であっても読んでいた本を、手にする事もページを繰る気にもならぬまま何ヶ月となく過ごしたのは、初めてである。読もう、という気にもならなかったのだ。部屋の片隅で、カバーを掛けたまま放置されて、そのまま打ち棄てられても不思議でない、本。
 とはいえ、月日は流れる。視界の片隅を通り過ぎてゆくその本が再び気に掛かり始め、或る日外出の際リュックに詰めこんで、ちかごろ新たな行きつけとなった市内某所のスタバでそれを開いいたのは、つい数日前の事。
 過去の営みに自分を呼び戻すだけの歳月がいつしか流れて、その間に自分でも気附かず心は快癒に向かっていたようである。それを俗に、〈時が傷を癒やす〉という。……。うむ、あまり面白くないな。
 報告;蘇峰『近世日本国民史』、「赤穂義士篇」を再び読み始めました。中断していた第13章を始めから読み直すと同時に、まだメモを作っていなかった第12章を読み返した。流石にその日の午後は、これに費やされた。第12章とは、幕府その処断に迷うも義士へ処分が告げられ、かれらそれに従うたる章である。
 それにしても、嘆息嗟嘆しながらの読書であった。読んでいる本は同じなのに、読んでいる自分はかつての自分では最早ない。哀しい形で読み手の心は変わってしまったのである。春やあらぬ……。
 文庫で、残り四分の一。それでも130ページ以上ある。小説の残り130ページと比較するのは蘇峰の名誉のためにも止めておこう。この重量級の修史に於いて130ページを読むとは、同テーマで現代の歴史家、研究者が著した内容の詰まった新書、5冊か6冊分を読むに等しい。否、それ以上の行為、もしくは質量か。「歴史について書く者はみな、蘇峰を使っているに決まっている」、この至言が思い出される。
 先日、スカパー!のと或るチャンネルで女性を中心にした〈忠臣蔵〉物が2作、放送された。橋田壽賀子の脚本と記憶するが、これを観て蘇峰を再読しようと思い立ったのかもしれない。奇しくも中断していた第13章とは、義士たちを陰に表に支えた女性たちを扱った章なのだ。いや、勿論偶然なのだろうけれど──が、そう言って断固否定する事もできぬのである。
 中断期間、推定5ヶ月弱。昨年6月から読み始めたけれど、これだけの中断は流石に初めての事だったよ。上で書いたように、もうゆめ手にする事、読み進める事はないんじゃないか、と思うておったからね。廊下に積みあげた時事通信社版全102巻を目にする度にも思うておったなぁ。でも、わたくしは帰ってきた、すくなくとも、いまのところは。
 残り130ページ、第13章を含めれば6章36項。6月中には読了したい、とは夢を見すぎか。◆

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第3624日目 〈希望の同盟。──或る夫婦に。〉 [日々の思い・独り言]

 “a Combination of Hope.”
 夫婦間の信頼関係を、わたくしは「希望の同盟」と呼びましょう。

 ──2015年4月29日でした。訪米中の安倍元首相は、アメリカ議会上下両院合同会議にて、「希望の同盟」”an Alliance of Hope.”と別に称される、約46分にわたる演説を行いました。
 わたくしのこの原稿のタイトルはそれに倣うものですが、変更を加えた部分がございます。安倍元首相の演説は”an Alliance of Hope.”ですが、わたくしの方は"a Combination of Hope.”であります。
 ”Alliance”ではなく、”Combination”。
 日本語に訳せばどちらも「同盟」なのに、なぜ変えたのか。”Alliance”が「国家間の同盟」を専ら指すのに対して、”Combination”は「個人間の同盟」という意味合いを強く、濃く持つからであります。
 夫婦間の絆、連帯を同盟と呼ぶならば、それを英語にするならば、”a Combination of Hope.”とするのが最も相応しくあるのは、自ずと明らかでしょう。

 このお話を進めるにあたり、わたくしのよく知る一組の夫婦を挙げましょう。許可は頂いております。
 かれらの出逢いは、いまから23年前に遡ります。初めて顔を合わせた或る秋の日の昼下がり、当時まだ中学生だった夫人は、「この人とはまだ先がある、この先での関わり合いがある」と感じたそうであります。それがどのような形を取るにせよ、未来で関わることがある、と感じたというのであります。
 一方で夫はといえば、その可愛らしさに一目で心奪われた、と、そっぽを向いて話してくれましたが、未来についての予感はなかった、と言い張っています。まァ、われらがその場に立ち合っていないのですから、口では幾らでも言いつくろえますよね。
 以後かれらは、その3年後、そのまた4年後に再会します。2度目の再会は東京駅からも程近い、と或る文化施設でした。かれらの間に紐帯と呼ぶべきものが結ばれたのは、このときのことでありました。当事者たちの証言です、疑う必要もないでしょう。
 しかしながら次の証言は疑わざるを得ません。といいますのも、恋人なんて間柄じゃなかった、とかれらは口を揃えるのであります。──誰もこれを信じません。本人たちはどう思っているにせよ、傍目にはそのようにしか映らなかったからであります。
 ──そこでお二人が頭を振って否定していますが、その光景は視界の外に置いておきましょう。

 2度目の再会から入籍までの長い歳月は、幾つもの試練をかれらに浴びせました。夫人が外国勤務が多かったことから生じた、国境と海洋を隔てた遠距離恋愛ばかりではありません。
 赴任国の政争、内政悪化のために、無事の帰国がかなうかわからない事態に陥ったこともあったそうです。そんなとき未来の夫は、生命の危機にさらされた夫人を心配するあまり、単身日本海を渡りました。夜中に、東京から北陸まで、レンタカーを運転させられたわたくしは、助手席に坐るかれの狼狽を目の当たりにし、八つ当たりまでされております(笑)。
 夫は夫で、難聴や同時多発テロのPTSDに苦しめられながらも、会社の無理解に悩まされながらも、職務を、能う範囲で全うした。当然、そのような嘲笑や誹謗に耐えかねて心折れることもあったでしょう、その都度、未来の夫人が献身的に支えて、慰めたり、一緒に憤ったりする様子を目撃しております。
 また、かれは、途中、夫人から心を離してしまう痛ましい事件を自ら引き起こしたこともありました。が、相手の軽挙妄言が現実に引き戻した。そんなときでもそばに居続けた夫人の愛が、かれに正しい未来を選択させたのです。
 この二人が結ばれるべくして出逢い、即かず離れずの関係を20年以上も続けてきたのは、正しい未来をこのタイミングで、双方に自覚させる為だったのかもしれません。
 斯様なまでに、様々な問題が二人の前に立ちはだかりました。しかし共にこれらの多くに取り組み、解決してきました。困難を乗り越える毎にかれらの絆は強くなった。鋼のように堅く絹のように柔らかい絆を育んでいったのです。

 彼女が夫に与えたもの、それは、希望です。
 彼女はかれを、汚濁末法の世界とそこでの後遺症から救い出して、その後の人生を本当の光で照らしてくれた。かれ自身の言葉です──「失望に沈み、裏切りを後ろめたく思う自分に、妻が差し伸べてくれた手のあたたかさは忘れられない」
 ──繰り返します。かれに彼女が与えたもの、それは、希望に他なりませんでした。
 そうして今日、かれらは夫婦となり、みな様の前にいます。
 みな様は、かれらの間に結ばれた希望の同盟の立会人であります。健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、かれらの、相手を想い、慈しみ、信じる気持に偽りはないことの、立会人であります。

 わたくしは、今日ここに婚姻の誓いをなし、新しい人生をともに歩み出そうとしている、お二人に申し上げたい。
 歩み行く道を阻む障碍から、目を瞑ってはなりません。目を背けてはなりません。
 お二人の間に対立や不信、裏切りがあってはなりません。
 問題を解決する努力を惜しんではなりません。そのための対話を放棄してはいけません。
 希望の同盟は、それを許しません。

 “a Combination of Hope.”
 希望の同盟とは、互いの献身と信頼によってのみ成り立つ。愛と信仰によってのみ、と言い換えても良いでしょう。
 希望の同盟。未来はそこからしか生まれません。◆

 ※と或る夫婦の結婚披露宴に於ける、新郎友人代表某氏によるスピーチ原稿。□

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第3623日目 〈その読書は分断ではなく、連続であった。〉 [日々の思い・独り言]

 一人の人間の死は、遺された者の生活に大きな影響を及ぼす。一時的であれ、恒常的であれ。誰もこの弊からは逃れられない。その人が当事者として処断する立場であるならば。
 然り、わたくしも例外ではない。実務的なところで云えば、経済は停滞し、打撃を被り、緊縮財政を断行し、この2ヶ月を過ごした。おそらく秋まで、現在の状況は続くだろう。段階的緩和はされてゆくが、緊縮財政の解除宣言は秋まで待つことになる。
 人の死はこれまで漠とは知っていても、その実態や諸般の手続等について実は僅かも知らなかった事柄のあることを痛感させる。それを片附けなくては前に進めないこともあり、主体的に行う者は右往左往しつつも公的機関や人の手を借りて、どうにかこうにか作業を進めて、終わった時はグロッキー状態で呆とした時間をしばし、過ごすことになろう。
 が、誰しも1日中それに携わって過ごすわけではない。そんなこと、あってたまるか。かならず息抜きというか、死に遭遇する前の自分自身に刹那ながら還る時が、ある。具体的にいえば、趣味:読書の人は、事務手続や書類記入、それにまつわる電話やメール、チャット、SNSでの質疑応答で日中宵刻を過ごしたあと、食事や入浴を挟んで、僅かの時間ながら読書に耽る。そうすることで、どうにか精神の均衡を(無意識に)図るのだ。
 然り、わたくしも例外ではない。読む本の傾向は従前と異なるところありと雖もこの2ヶ月間の読書は濫読の極みである。昨日はその一端を、専ら、医療・医学・心理学の方面からご報告した。が、人間は新たなジャンルによつてのみ読書を行ふに非ざるなり。本道に戻る場合もあるのだ。
 では、これまでのなかで本道と云うべき読書はなんであったか。誰の、なんという本が該当するか。つらつら顧みて数えてみても、案外と数は少ない。記憶のみを頼って、文学と歴史(とその周辺)に的を絞って列記すれば、──

 村井康彦『藤原定家『明月記』の世界』(岩波新書 2020/10)
 杉本圭三郎全訳注『平家物語』全4巻(講談社学術文庫 )
 三鬼清一郎『大御所徳川家康 幕藩体制はいかに確立したか』(中公新書 2019/10)
 
──くらいしか思い浮かばぬ。いや、マジで。加藤恵嬢ではないが、「なんだかなぁ」である。
 が、数こそ少なく、時間も細切れとはいえ、前述の実務を終えて為すべき事を終えた後に襲い来たる──ひたひたと心を蝕んでくる悲しみや淋しさ、未来をしかと思い描けぬ孤独に呑みこまれぬようこれら従前よりの趣味に基づく読書を以てそれを知らず退けてこられたのは、望外の幸い事であった。すくなくとも当事者たるわたくしは斯様に確信しておる。
 いずれも以前に購入したまま棚差しして放っておいた本である。杉本『平家物語』はともかくとして、なにか読もう、と思うたときどうしてこれら(村井と三鬼)を取ったのか、己が行為ながら理由は定かでない。アニメ『平家物語』を観ていたからてふ理由はあっても、他に手にしてよさそうな本はあったはずだ。なのに……。わからない。自分を納得させられるじゅうぶんな理由が、どうしても思い浮かばない。これでは犯罪者自ら行う動機分析ではないか。咨!
 と云う戯れ言はさておき。
 唯ここで、村井『藤原定家『明月記』の世界』について理由を推測するとすれば、昨年末あたりに読んでいた萩原朔太郎『恋愛名歌集』が尾を引いているようには思うておる。そこでわたくしは、いまの自分が定家の歌にまったく心惹かれず、却って嫌悪感を著しくしていることを発見した。既にわたくしにとって家人藤原定家は「ないわぁ~」と嘆息するばかりの存在になっており、むしろこれまでは余り真面目に読むことのなかった『明月記』から浮かびあがる、人品やや問題ありな狷介公家・藤原定家に、片時も忘れること能わざる深い魅力を覚えてならぬのだ。
 まァ平たく云えば、組織の論理に振り回されて昇進もままならない不平を、上司の命令に逆らえず行幸に同行させられたりしての愚痴を、日記に書いて鬱憤晴らしする一方、巷間の噂話や事件、風俗、天変地異や天文事象をあくなき筆力と好奇心で書き留める藤原定家という稀有なる俗物に、おこがましくもまるで自分を見るが如き思いがするのですね。なんかこう、定家と秋成は遠い時間の向こう側にいて自分とは縁なき人に思えぬ程親近感を抱くのだ。こんな風に思う歴史上の人物、定家と秋成の他は、エミリ・ブロンテくらいである。
 村井『藤原定家『明月記』の世界』を読もうとしたのは、そうして来る日も来る日も夜は寝しなの一刻、これに読み耽って過ごしたのは本書が、類書のように和歌に拠ることは僅かの例を除いて殆どなく、ひたすら『明月記』のみを拠り所として定家の生きた時代と定家の動向を、その家族や主家を巻きこんで追ったところにある。ヴォリューム的に克明とは言い難いし、新書の内容ゆえに限界もあろうけれど、これをサブテキストの1冊として『明月記』本体に取り組むことも可能である。あの取っ付きにくく手に余る稀有の日記『明月記』へアプローチして深入りしてゆくにあたっては、本書のように「簡潔にして豊か」な1冊を初めの段階で読む幸運に恵まれるかどうかが、すこぶる重要になってくる。自分の経験も踏まえてこの点、特に云うておきたい。
 なお、三鬼『大御所徳川家康』は、大河ドラマに影響されての読書ではないこと、念の為お断りしておきます。もともと家康、好きなんですよ、小学生の頃から。静岡県に育って家康を好きにならんなんて……非県民だと思います(呵呵)。家康の大御所時代と云えばつまり、そのまま駿府城時代といい換えてよい。江戸時代最初期に於ける三大権力の一角である(残る2つは、江戸城と大阪城を指す)。本書を発売早々に購入したのは、家康の大御所時代がそのまま駿府城の時代であること、その駿府城が静岡市の中心を為して子供の頃静岡県民であったわたくしを刺激したこと、この2点を主たる理由とする。これまでコラム以外はまるで読んでいなかった理由については、まァ語るはご勘弁ください。
 この2ヶ月間、読書の主軸はこれまでと変化した。そんななかにあって文学や歴史にまつわる従前の興味に基づく読書が営まれたのは、あの日以前とあの日以後が分断されてしまったわけでなく、細い糸でつながっていたことの証左だ、とわたくしは捉える。即ち、あの日以前とあの日以後の読書は分断されることなく連続していたのだ。村井『藤原定家『明月記』の世界』や三鬼『大御所徳川家康』は、それを確認することができた読書でもあったのである。◆

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第3622日目 〈この2ヶ月間で読んだ本。〉 [日々の思い・独り言]

 葬儀以後、必要な手続というのはおおむね日中で終わり、夜の時間も書類記入や洗濯など済ませてしまえば、僅かながらも自由な時間というのが生まれる。時が経てばかつての習慣も復活する。顧みて余裕が生じ始めた──気持の余裕ではなく時間の余裕──頃から、生活のなかに読書という習慣が戻ってきたようだ。1ヶ月半程前、か。2ヶ月経ったかどうか、というくらいかな。
 ただ、読む本はだいぶ変わったな、という印象である。まず、小説というものが軒並みお払い箱になった。現代作家の小説、という意味だ。兆候はあった、昨秋あたりから。
 そうして現在、right now、遂に村上春樹さえどうでもいいか、と思えている。来月発売予告されている新作小説になんの興味も湧かないのだ。発売日に買いに行かなくっちゃ、なんて気持は微塵もない。蔵書のスリム化を実施中のいま、村上小説はわずかを除いて古本屋行きと決定している──当然、紀行、エッセイ、翻訳についてはその限りではない。
 「さようなら」する小説の過半は、国産ミステリだ。幾つか(幾人か)の例外を除けば、外はブックオフ行き。さらば、新本格。さらば、綾辻チルドレン。身分にあった売却先ではないか。とはいえ、これだけ詰めこんでもダンボール箱6箱分である。スリム化の理想には程遠い。
 話がそれた。戻そう。
 読む本がだいぶ変わった、のである。いままでも読んでいた傍流のジャンルがメインストリームに躍り出ただけ、というてしまえばそれまでか。
 小説を読んで至福の時間を過ごすことに疑問が生じたのだ。
 小説を脇に押し退けてその地位を奪ったのは、例えば医療・医学についての読み物。心理学にカテゴライズされる本は、ここに含めてよろしかろう。他には、例えば、政治と法律がある。
 さっき試しに直近1ヶ月半から2ヶ月くらいで読んだ本を列記してみたら、この2つのジャンルがツートップを張っていた。まァ数的には後者が前者を圧倒するが、再読も含めての話ゆえそうなるのも致し方ない。
 論より証拠。医療・医学・心理学と政治・法律の本のタイトルを列記しよう(文字数を稼ごう)。順不同である。以下、──

○医療・医学・心理学
 清水加奈子『死別後シンドローム』 時事通信社
 宮林幸江・関本昭治『はじめて学ぶグリーフケア 第2版』 日本看護協会出版会
 立花隆『死はこわくない』 文春文庫
 立花隆『臨死体験』 文春文庫
 柳田邦男『犠牲』 文春文庫
 久坂部羊『人はどう死ぬのか』 講談社現代新書
 『もっと知りたい白血病 第2版』
 森元陽子『[改訂版]訪問看護師という生き方』 幻冬舎新書
 渡部昇一『魂は、あるか?』 扶桑社新書

○政治・法律
 安倍晋三『安倍晋三回顧録』 中央公論新社
 山口敬之『総理』 幻冬舎
 八幡和郎『安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか』 ワニブックス
 青木理『安倍三代』 朝日文庫
 谷口智彦『安倍さんのスピーチ』 文春新書
 阿比留瑠比『総理の誕生』 文藝春秋
 石橋文登『安倍晋三秘録』 飛鳥新社
 安倍寬信『安倍家の素顔』 ワニブックス/オデッセー出版
 マーティン・ファクトラー『吠えない犬』 扶桑社
 橋本五郎『官房長官と幹事長』 青春新書
 蔵前勝久『自民党の魔力』 朝日新書
 大下英治『内閣官房長官秘録』 イースト新書
 池上彰・佐藤優『(真説・激動・漂流)日本左翼史』全3巻 講談社現代新書
 中北浩爾『日本共産党』 中公新書
 宇野重規『民主主義とは何か』 講談社現代新書
 文部省『民主主義』 角川ソフィア文庫
 高見勝利・編『あたらしい憲法のはなし 他二篇』 岩波現代文庫
 芦部信喜/高橋和之・補訂『憲法』第六版 岩波書店
 大石眞『日本憲法史』 講談社学術文庫

──以上。
 再読本に関しては必要あってページを繰っていたら熟読していた、というパターンが圧倒的のため、すべてを最初から最後まで読んだわけではないことをご承知置きいただかねばならない。殊に政治・法律。リストアップした19冊の過半は上記パターンの再読となる。民主主義と憲法の本すべて、そうして安倍元首相関係書籍の半分が該当しよう。それ以外は──いつ買ったのかは別にして──今回が初読だ。9冊、か。1日で終えた本もあり、数日かけた本もあり、様々である。

 医療・医学・心理学に中葉無理矢理カテゴライズした9冊も、いつ買ったかは別にして2冊を除けば外はいずれも初読。此度のことをきっかけに読む本のジャンルが著しく変化したわけだが、なかでも特筆すべきはこのジャンルの本ではないか(と自己分析っぽいことをする)。
 身近に〈人の死〉を経験して、関心は自ずとそちらへ向いた。初めての死別ではないのに、どうしてだろう。倩思うに、通院付添や自身の病気などを通して医療や医学というものに親近して、家族や自分の抱えた病気や地域医療のことを知りたい、誰もが避けられぬ〈死〉とはどのようなものか、脳死や臨死とはどういうものか、以前から心中燻っていた関心がそれらと実際にかかわりを持つことで具体的になったため、それにまつわる本が目に付くようになった、手にするようになった、というところだろう。
 或る種の体験があると、それに裏打ちされて多少は難しい本、これまで手が出なかった類の本でも読み進められることを、知った。
 たとえば宮林幸江・関本昭治『はじめて学ぶグリーフケア』は版元から想像できるように看護師向けの本で、医学書コーナーで見附けたのだが、清水加奈子『死別後シンドローム』を半分以上消化したところで読み始めたせいか、踏みこんだ内容になる時はあってもさしたる苦労はせずにいる。清水がどちらかというと心理学の方面から遷延性悲嘆症を扱うのに対して、宮林・関本は実際の医療──死別したばかりの遺族に直接関わる看護師たちの悩みや迷いに寄り添いながら遷延性悲嘆症との関わり方、対処の仕方を扱った内容となっている。
 自分がそうだったからというわけではないけれど、『死別後シンドローム』と『はじめて学ぶグリーフケア』は併読することを、これから読んでみようという人には強く奨めたい。心理学と医療現場の相互補完が、遷延性悲嘆症へ対処するには必要だ、と教えられた。この2冊を読んでいなかったらわたくし自身の遷延性悲嘆症は、かなり悪質な経過を辿っていたかもしれない……詳しくは語らないけれど。
 生きて最後に会った時のこと、看取り見送ったあとのこと。これを考えるとわたくしは、医学的に死ぬとはどういうことか、死ぬ間際に人はなにを想うかなにを見るか、という疑問に帰結する。これを知りたくて、立花隆、柳田邦男、久坂部羊の本を手に取った。前者については朧ろ気ながら一面的に分かってきた部分もあるけれど、後者についてはやはりサッパリ分からない。いちど(医学的に)死んで、生き返った人でないとこのあたりのことを書くことはできないのだ。
 臨死体験の本を書いたり訳したり立花隆はしているけれど、証言者の語る体験、内容にどこまで信憑性があるか、甚だ覚束ないというのが正直な感想である。裏づけのファクトが存在しないからだ。人間が想像力を駆使すればこの程度の体験は創作できよう……そんな疑いが、常に付き纏う。
 むろん、証言者は皆、ほんとうに自分はそういう臨死体験をしたのだ、と主張するのだろう。疑問を差し挟む余地こそあれ、否定して斬って棄てることは不可能だ。証言者を信じるよりない、信じる以外ない、という前提で成立するのが、死ぬ間際に人はなにを想うかなにを見るか、なのだ。
 ……それが親しい人であればある程、愛した人であればある程、そこに福音のような祈りをこめて考えを巡らせたくなるよね。というよりもこれが、生きている人間に考えられることの全て、根幹ではないのかな。そんな風に考える。
 1年前はこんなこと、考えなかった。自分にそんなことを考えられるなんて、思うたこともなかった。〈死別〉とは避け難き哀しいイヴェントだけれど、それを経て思考を新たにさせられることもあるんですね。そんな意味で、読む本のジャンルが変わったことは喜ばしいことといえるのだろう。◆

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第3621日目 〈安倍の復活、みくらの復活。──同列に語るなYO。〉【第三稿、決定稿】 [日々の思い・独り言]

 最悪の形で総理を辞任した安倍は、正に政治家として地獄に落ちた。安倍が経験したのは二つの地獄である。一つは、「総理の座を投げ出した敗残者」としての外部からの酷評。そしてもう一つは、「自信の喪失」という内面の崩壊である。(山口敬之『総理』P64 幻冬舎 2016/06)

 安倍元総理は第一次政権が不本意な結果に終わったあと、自民党総裁として返り咲くまで約5年、雌伏の期間を過ごす。この5年間という歳月が安倍晋三を変えた。しかしこの5年間は常人には想像しがたい試練の時期だった。決してなだらかでない再起への道を、よくぞ折れることなく歩んだと敬服するより他ない鍛錬の時期であった。
 山口のいう「外部からの酷評」とは体調悪化というやむなき事情ありと雖も就任から1年足らずで退陣、ゆえに政権放り出しと周囲から容赦ない侮蔑の言葉を浴び、これまでは引きも切らず訪れていた人たちが潮の引いたように寄りつかなくなったことを指す。加えてその跡を襲った2人の首相が約1年で退陣に追いこまれて、最終的に自民党が下野する遠因を作ったと誹謗されたこともあったという。
 安倍はもう終わった。それが世間の見方だった。本人のなかにもそうした思いはあったようだ。が、ご存知のように安倍晋三は復活した。雌伏の5年間を安倍は無為に過ごしたりしなかった。ではその間、安倍はなにをして過ごし、なにを行ったか。
 勿論、地元の山口県下関市に戻った。父晋太郎の代からの後援団体に頭をさげて回った。本気で、命を懸けて政治をやっていたのか。支持者からそう詰問されて返事に窮した場面もあったという。地元でミニ集会を何度も開催して、有権者の声を直接聴いた。有権者が──というよりは国民が、本当に政治に求めている課題・要望はなにか、聴くことができたのは貴重だった。こうして安倍は、次の衆院選での圧勝を視野に入れた地元での、地味な活動に全力を傾注して、足許を固めていった。脆弱に陥った地盤を今一度踏み固め、更に盤石なものにする改良工事にこれ務めたのである。
 そればかりではない。この間の安倍の行動として夙に知られるのが、夫人や第一次政権スタッフといっしょに高尾山へ登ったことだ。これは、第一次政権で内閣広報官を務めた長谷川榮一の提唱によるという(長谷川は第二次政権に於いて総理大臣補佐官兼内閣広報官を務めた)。Facebookで(ン、いまはメタか?)「安倍さんと一緒に高尾山登山をしませんか」と呼びかけると、山頂に到達する頃には300人程の支持者が安倍の周りに集まっていた由。かれらが掛けてくれる声は皆あたたかく、それは安倍をして、もう終わった、という声を自分のなかから払拭するには充分な効果があったようだ。それを契機に安倍はだんだんと、自信を取り戻していった。本人の言葉である。曰く、──

 それ(高尾登山での激励:みくら註)が自信を回復することにつながりました。厳しくマスコミに叩かれ、自信も誇りも砕け散った中から、だんだんともう一度挑戦しようという気分が湧いてきました。(安倍晋三『安倍晋三 回顧録』P91 中央公論新社 2023/02)

──と。
 が、それだけが安倍復活の機運だったのではない。前掲の山口『総理』は──また他著者による類書でも──もう2つ、大きなトピックとして中川昭一元財務相兼金融担当相の死と、東日本大震災被災地での邂逅を挙げる。
 中川昭一といえば当時メディアが途切れることなく流したローマでの酩酊会見が専ら思い出されるけれど、その実際は闘病の副産物であったらしい。
 2009年10月、中川は自宅のベッドで寝た状態で亡くなっているのが発見された。享年54。死因はいまに至るも不明というが行政解剖の結果、循環器系の臓器や血管に複数の異常があったことがわかり、体内からアルコール分が検出されたという。以前から中川は椎間板ヘルニアの「痛みに耐えきれず、鎮痛剤や精神安定剤、睡眠導入剤などを大量に薬を飲んでいた」(石橋文登『安倍晋三秘録』P232 飛鳥新社 2020/11 原文ママ)。
 ──睡眠導入剤を飲んだらアルコールは絶対に、一滴も体に入れるな。そうかかりつけ医から厳重訓告された経験が、わたくしにはある。なぜか、と問うと、医師はただ一言を以てわたくしから二の句を奪った。即ち、記憶障害を起こしたり一時的記憶欠落など起こしたりするよ、と。これを聴いて以来わたくしは、不眠で悩まされた時でもアルコールや睡眠導入剤どちらかに頼ることはあっても、両方を一緒に服用するなんて愚かな考えはきっぱりと捨てた。
 閑話休題。
 安倍の嘆きよう、落ちこみようは凄かったらしい。同じ保守系政治家として肝胆相照らす仲であり、第一次政権発足時は政調会長に迎えた程だ。安倍の追悼文はいまもネットで読めるけれど、読むたびに涙腺をゆるませられて、2人の間にあった絆の深さに思い致すのだ。
 とまれ志を同じうした中川の余りに早い逝去が、失意の底にあって未来を模索中だった安倍に再チャレンジへの意欲を掻き立たせたようである。
 もう1つ、挙げられるのは、東日本大震災直後に自らトラックを運転して現地入りし、救援物資を配って歩き、各地の避難所を訪ねて被災者たちに声を掛けて回ったことだ。平成23/2011年04月07日、木曜日である。最後の訪問先である宮城県亘理町の避難所で、安倍は忘れられない出会いをした。同行した山口敬之は、前掲書でこう書く。曰く、──

 ここでも安倍は一区画ずつ声を掛け、跪いて話を聞いていた。もう日が暮れかかっていた。私は腰が痛くなって、体育館の壁にもたれて安倍の様子を見守っていると、一人の少女が話しかけてきた。(P93)
 (中略)
 しばらくして、全区画を回り終わった安倍が近づいてきた。立ち上がって望美ちゃんを紹介し、彼女の置かれた状況を説明した。母を失った女の子を前に、安倍も無言で同様に立ちすくんだ。静寂のなかで進退窮まった我々を、望美ちゃんの明るい声が救った。
「ヒゲのおじさん、安倍さんと写真撮ってよ。総理大臣だったんでしょ?」(P94)

──と。
 このあと山口は、現地での少女と安倍の会話やその後も続いた交流、少女の希望通り小学校が再建されてあちこちに散り散りになった友だちと再び一緒に通えるようになったこと、第二次政権発足1ヶ月後の所信表明演説で被災地での出会いについて触れられたこと、就任して最初の被災地訪問に亘理町を選び少女と再会したこと、について触れる。
 盟友・中川昭一の死と被災地での出会い。「内面の修復」に筆を費やしてきた最後に山口は、こう書いて結んだ。曰く、「この二人が安倍の復活に向けて大きな力となったことは間違いない」(P96)と。
 ちなみに前掲『安倍晋三 回顧録』には中川の名前は登場しない。少女についても触れられない。遺族や本人への配慮の結果と思われる。敢えて語らなかった、語っても削られたのだろう。
 もともと読書をする方ではなかったらしい。正直なところ、余りイメージはない。が、追悼写真集に何枚か載り、追悼特集を組んだ言論誌各種でも一部寄稿者が明かすように、或いは国葬での菅前首相の追悼演説で具体的書名が引かれたように、安倍晋三は読書家ではあった。世間並みの読書好きというのではなくもっと大局を摑むための一助として読書をしていた、という方が実態なのかも知れないが、とまれ安倍晋三は読書家であった。チャーチルの伝記を愛読する一方でスティーヴン・キングの小説を読んで他人に奨めるような宰相がかつてあったか。
 岩田温と渡部玄一の証言、八幡和郎の文章を引く。曰く、──

 (会食の席でフェミニズムが話題に上った際。原点となるのはエンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』だと説明した。それがきっかけで安倍がエンゲルスを読んでいることを後日、人伝で聞いた──)安倍元総理は実に熱心な読書家、勉強家であったが、多くの国民はこの事実を知らないのではないか。……政治家で「なにか面白い本はないか?」と尋ねられると、いくつかの本を紹介することにしている。だが、実際に思想、哲学の著作に目を通される方は少ない。政治家は多忙な仕事であることを重々承知しているので、重要著作の概要を紹介することが自分の仕事であろうと考えていた。だからこそ、安倍元総理が共産主義、フェミニズムの著作を読み込んでおられることに衝撃を受けたのだ。胆識ある偉大な大宰相は、無類の読書家であった事実を伝えたい。(岩田温 『WiLL』2022年11月特集号 P225 ワック 2022/11)

 なかでも印象的だったのは、安倍先生がスティーブン・キングのSF小説『アンダー・ザ・ドーム』についてお話されたことです。……安倍先生は父[渡部昇一]の著作をはじめ、政治や歴史に関する本を読まれるイメージが強かったので、海外の小説もお好きであったのは意外でした。(渡部玄一 『WiLL』2022年11月特集号 P241-2 ワック 2022/11 []内引用者 原文ママ)

 安倍さんの素晴らしいことは、この浪人中の時間を無駄にせず、生まれ変わったことです。もともと、安倍さんは、学生時代から勉強が大好きというタイプではないし、映画とか映像系は幅広く見るし、本は読みますが、いわゆる読書家でもありませんでした。総理を辞めてから再登板するまでのあいだは、人が変わったように読書に励み、堅い本をアンダーラインを引きながら読んだり、各方面の専門家と会って知識を獲得したりしていました。(八幡和郎『』P129 ワニブックス 2022/09 原文ママ)

 なお谷口智彦『誰も書かなかった安倍晋三』(飛鳥新社 2020/11)に、自宅書庫の棚を背にはにかんだような表情の安倍が1冊の本を手にした写真が載る。その本、『NEVER DESPAIR 1945-1965』は、戦後のチャーチルを描いた、全8巻から成るチャーチルの公式伝記最終巻の由(これを入手した経緯は谷口の本に詳しいから省く)。ドイツから祖国を守り抜いて勝利に導いたチャーチルが戦後、途端に英国民からそっぽを向かれたのは聞く話だが、本書はその時期のチャーチルを描いた本で、書名を和訳すれば「絶望するな」になる。首相の座を退き全方位から叩かれていた時期の安倍にとって、ぴたり、と自分の心情に重なる部分があったのだろう、それゆえの愛読書になったのだろう。このような背景を知ってしまうと、途端に当該書を読みたくなってしまうのが悪いクセ。買ったか? さてね。
 ──心身は充実して気力を取り戻し、前進への力強い一歩を踏み出す準備は整った。とはいえそれは、あくまで内面の話。政治の表舞台へ戻るには、有権者のみならず自民党所属の地方議員、国会議員の協力がなければ叶うものではない。勿論個人の力でかれらを動かすことは出来ぬ。表舞台への復活を目指す安倍を信じてこれを支持し、心中覚悟で、覚悟を固めて未来を託すと腹を括った、歴戦の政治家たちが結束して〈応援団〉になる必要があった。
 その〈応援団〉のなかで最も重要な役回りを演じ、安倍復活の最大の立役者となったのが菅義偉であるのは、もはや語らずとも知られていることである。そうして、総裁選前はどちらかというと劣勢だった安倍を担いで最終的に勝利へ導いたのが、それぞれ派閥の領袖である麻生太郎と高村正彦であったことも、同じくいまでは語らずとも知られている。ゆえに、というわけではないが素描のように、この間の経緯を綴ってみたい、──
 第一次政権で総務相を務めた菅は、「必ず安倍を復活させる」といって官邸を去ったという。それからというもの菅は機会ある毎に安倍と会ってサシで説得を続け、総裁選勝利のシナリオを明示して背中を押し続け、諦めることがなかった。最初は消極的であった安倍もだんだんと、内面の充実と歩を一にするように再び総裁への挑戦意欲を強くしてゆく。
 が、総裁選に立候補を表明しているなかには、最有力候補である石原伸晃幹事長、地方議員からの得票率が圧倒的な石破茂前政調会長などがいた。これに勝つにはどうしたらいいか? 安倍は、麻生の支持がなければ勝てないし、また総裁選に出馬もしない、といった。麻生ははじめ、当時野党だった自民党総裁、谷垣禎一を支持する予定だったが、石原の立候補により谷垣が出馬を断念すると、「自分のボスの寝首を掻くような人を支持するのは、私の渡世の仁義ではない」と記者会見の場で言明、安倍支持を宣言した。その約30分後に高村も記者会見を開き、同じく安倍支持を明言する。総裁選の決着はついたも同然だった。
 しかし党員投票と国会議員票で、安倍の得票数は石破のそれを下回った。石破茂、199票。安倍晋三、141票。立候補者の誰1人過半数に届かなかったため、国会議員票だけを対象にする決選投票で、安倍は石破を破る。石破茂、89票。安倍晋三、108票。
 全ては菅のシナリオ通りに動いた。自民党が政権与党に返り咲くと安倍は、菅を内閣の要諦、官房長官に抜擢。麻生は副総理兼財務相、高村は副総裁のポストに、それぞれ配置した。これは決して論功行賞ばかりではない。それは第二次政権発足から憲政史上最長の7年8ヶ月の「安倍一強」時代を、かれらが一丸となって支え続けた事実が証明していよう。
 斯くして安倍晋三は、菅義偉(官房長官)や麻生太郎(副総理兼財務相)、甘利明(自民党政務調査会長)、高村正彦(自民党副総裁)といった第二次政権の要を成す議員たちの支援を受けて野党自民党の総裁として復活(括弧内は第二次政権誕生時のポスト)した。直後の衆院解散総選挙で政権奪還すると第96代内閣総理大臣に就任、7年8ヶ月にわたる第二次安倍政権がスタートした。第一次政権の失敗が第二次以後の憲政史上最長政権を実現させたことは、安倍元総理が回顧録で語るところだ。

 私は第1次内閣当時、首相の職を担うには未熟すぎました。……自分でやりたいようにやる、という考えで、党内に配慮や目配りができなかった。そうやって振り返ると、経験不足、準備不足は甚だしかったと思います。
 ……
 第1次内閣は、06年9月26日に高い支持率で華々しくスタートしたにもかかわらず、厳しい批判を浴び続け、わずか1年で退陣しました。この失敗は非常に大きかったと思います。あの1年間は、普通の政治家人生の15年分くらいに当たるんじゃないかな。
 その経験があったからこそ、第2次内閣以降、政権を安定させることができたのでしょう。第2次内閣が発足した12年12月26日、再び官邸に入った時には、同じ過ちは繰り返さないという思いを強く持っていました。(『安倍晋三 回顧録』P378-9)

 ──どうして安倍元総理の復活について延々と書いてきたかといえば、本稿タイトル通り、わが身わが事わが復活を(無理矢理)ここにこじつけてしまおうという魂胆からに他ならない。余りに不遜、余りに暴挙、余りに傲慢とは、百も承知だ。
 では、さて……。
 目下本ブログは事実上の半永久的更新停止中である。定時更新できた最終日に、もう更新は出来ないかも、と弱音を吐いたけれど、その時は本気でそう思うていたのである。自分の気持のなかでは本ブログ、もう「終わった」ものに映っていたからなぁ。そのあと何日か更新しているが、そんな風に眺めれば悪あがきの域を出るものではない。むろんその当座は、当該稿の執筆とお披露目は悲しみから抜け出せずにいる自分自身への叱咤激励、本格的な再起を視野に入れた鼓舞の意味を込めたのでもあったのだが……なかなかそう巧くはいかなかったようだ。
 わたくしには、ブログの更新再開を助けてくれる、気心知れた知己(スタッフ)はいない。復活に向けて様々動いて、道を示して懸命に後押ししてくれる盟友も、ない。わたくしは、安倍さんとは反対だ。いずれも身から出たサビ。狭い社会で抗争と裏切りを繰り返した結果だ。時に性格が災いしたのである。
 元々個人のブログの話なのだから、更新を再開して継続してゆくか、これを限りに13年か14年の歴史に幕を降ろすか、ブログ主たるわたくしの一存に委ねられて、誰彼を巻きこむようなことをする必要なんてまるでないと分かっちゃいるが正直なところを告白すれば、殊メンタル面で誰かにサポートしてもらえぬとそれについて深考して決断することさえ困難に困難に思えて仕方ない。いまはつくづく過去に築かれたあたたかで相応に堅固であった縁を自らぶち壊してきた己の浅薄短気を恨むばかりである。政治家に擬えればわたくし、安倍さんというよりは小沢だね。畜生め。咨、捲土重来を期す機会わが未来に有るや否や。
 もっとも、こんな風に縷々書いているなかで徐々に意思は固まってきている。そろそろ雌伏の時を終わらせよう。かつて誓ったように書き続けて前へ進むか、潔く終止符を打って新たな世界で前に進むか。どちらへ転ぶにしても、遅かれ早かれ結着はつく。
 死の向こう側にある世界を憧憬してそちらへ行く望みが、いまでもふとした拍子に湧き起こっていちどは鎮まった心をザワザワさせる。希望とは相反する情動ではあるが、それを否定してはあとできっと激しい揺り返しに見舞われる。……そんなことありと雖もゆっくりとながら内面に被った深甚なる傷は修復の方向へ向かっていると分かる。〈喪のプロセス〉を正常に歩んでこられたことの証左かも知れない。
 もし万一にも更新を再開するならば、はじめは、10日に1回、1週間に1回など無理ない範囲でお披露目してゆき、だんだんとそのスパンを短くして以前通り毎日定時更新に戻せばよい。逆に終止符を打つのであれば、そうと決めるなら、そろそろ最終日の挨拶原稿の想を練り、筆を執る必要が出て来る……。
 まこと、僭越ながら、不敬とか不遜とか揶揄されるを承知で本稿タイトルを「安倍の復活、みくらの復活」とした。なぜか? 安倍さんの復活劇に、自分の希望を重ねているからだ。◆

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第3620日目 〈告白。──病気が発覚したこと。自分の病気について調べてみた。〉 [日々の思い・独り言]

 ──6月1日(水)午後、内科2診にて宣告の時を迎えたみくらさんさんかである。
 担当医はMRで撮影された写真と骨髄検査の結果を見せて、まずは一言、すっぱりと病名を伝えてくれました。曰く、慢性リンパ性白血病です、と。地元の内科医と先日の担当医の話から覚悟していたが、「慢性リンパ性白血病」とな?
 それは一体どのよう病気なのか?
 先般水泳の池江璃香子が発症して話題になったアレと、よく似た病名だがどのような違いがあるのか?
 それを知りたい。実は先日初めてこの病院に来た日の帰り、いちばん近くにあるスタバの隅っこの席で若干絶望オーラを出しながら、スマホで「白血病」を検索していた。白血病とは要するに血液の癌だ。血液中の白血球(系細胞)が無限に増殖してしまうことから起こる。
 ここで高校生物のおさらい;白血球は単一の細胞に非ず。骨髄球系細胞やリンパ球系細胞、といった形態も役目も異なる細胞の総合体である。これらいずれかの細胞が癌に変化すると、「骨髄性白血病」と「リンパ性白血病」のいずれかになる。更にここからそれぞれ「急性」と「慢性」に分けられる。癌化した白血球の細胞の増殖が非常に早いのが、急性。増殖しているとはいえその速度が緩慢なのが、「慢性」。つまり、ひとえに「白血病」というても大きく分けて4種類あるのだ。
 先述の池江璃香子が公表したのは、急性リンパ性白血病でした。では今度は「リンパ性」とは?という話になるので、ちょっとそれについても書いてみる。
 リンパ球、という細胞が人間の体内にあるのは、高校の生物の授業で習っている。覚えている、いない、ではなく、習っているのだ──でもご安心を。こんな風に問答無用の表現を採用しているわたくしも、じゃあリンパ球ってなによ、と訊かれた場合答えることはできない。えっへん。でも、調べたのだ。知らないことを知る──とっても愉しい作業ではないか!
 というわけで、「リンパ球」とはなにか? そも「リンパ」とは?
 リンパ、という言葉にいちばん馴染みを持つのは、首のリンパ腺が腫れる経験した人かもしれない。わたくしの周りにもこれまで、何人かこういう人がいた。なかなか腫れが引かず痛みがひどく、かなり辛いらしい。
 同僚(というか同期)は研修期間中にこれにやられて、しばらく仕事に来れず、手術する旨会社に連絡をしてから結局そのまま退職されてしまった。上司がいうにはその声、非道く哀れを催させるものであったとか(それを契機にその会社は欠勤連絡についてはメールでも良し、と勤務規定を改めたが、それはさておき)。が、この場合経験者のいう「リンパ腺」とは「腺」ではなく「節」、きちんといえば「リンパ節腫脹(しゅちょう)」という病気である由。
 このリンパ節は体のあちこちにあって、リンパ液を集める部分。上述の「首のリンパが云々」という場合、「頸部リンパ節」の腫れを指す。リンパ液は細胞と細胞の間を通る液体から作られる液のことだ。毛細血管に吸収されて残りはリンパ管に流れこむ。リンパ管は文字通りリンパ液を運ぶ管で、リンパ液が固まってしまわぬよう特定の方向、つまり心臓の方向へ運ぶ働きを持つ。
 ここでようやく話を戻せる。「リンパ球」とはなにか、だ。
 それは白血球の成分の1つである。分類すれば、Bリンパ球、Tリンパ球、NK細胞、などあるそうだが、ここでは立ち入らない。一言述べるとすれば、これらのリンパ球がスクラムを組んでウィルスの病原体や癌細胞をやっつけるのだ。しかもコイツらは頭が良くて、一度攻撃した病原体や癌細胞を覚えており、再びこれらが体内で作られると再びスクラムを組んで攻撃、退治するのである。
 リンパ球とはなにか、以上。え? とかいわないで。文字数を同じうすれば良いわけではない。
 このリンパ球がどうした理由か不明ながら癌細胞化して、無限に増殖してゆくのが、「(急性/慢性)リンパ性白血病」である。
 どうしたときに、人は自分が白血病だと気附くのか。症状として幾つか挙げられる。倦怠感や発熱、息切れや動悸、鼻血や歯茎からの出血、体重減少、など。臓器に癌細胞化した細胞が入りこむと、関節が痛くなったりリンパ節が腫れたりする。脳や脊髄といった中枢神経に入りこむと頭痛や吐き気を引き起こす。これらがどうやら白血病の症状、兆候であるようだ。
 顧みて思い当たるフシは多々ある。或るときから急に倦怠感を覚えて起きるのが辛かったり、ちょっとしたことで動悸が激しくなったりしたものな……もっとも病名が判明したあと症状など調べて知ったことだから、後付け感たっぷりあるのは否めぬけれど。そうそう、体重減少は余りありませんでした(きりっ)。
 血液内科で告知されたわたくしの病気は、慢性リンパ性白血病、であった。慢性とはゆっくりと進行してゆくことだ。ゆえ緊急入院は免れたけれど、長期の療養は必要になった。投薬治療を続けながら定期的に通院するだけの話だが、正直なところ、終わりの時が来るのかはわからない。急性であればその点はっきりしやすい部分もあるらしいが、慢性はかなり長い期間の通院と投薬が必要になる、といわれた。
 が、それは急性も同じで、完治/病院通い終わり/投薬療養終わり、の時が訪れるのかどうかは同じである。池江璃香子も現役復帰したことで「病気が治った」と勘違いされているようだけれど、わたくしと同じように定期的に通院しては診察前の血液検査を欠かさず行い、予後の経過観察にこれ務めているはずである。
 さて、それでは、どんな人が白血病になるのか。宮崎仁『もっと知りたい白血病治療 患者・家族・ケアにかかわる人のために 第2版』(医学書院 2019/11)に拠れば、こうだ、──
 
 白血病は他のがんと同じくはっきりした原因をみつけることがむずかしい病気です。……特別に白血病の原因となるような化学物質(ベンゼン、トルエンなど)や放射線(原子爆弾被爆者、原子力発電所事故による被曝などに曝露したことがはっきりしているケース以外は、原因不明といっていいでしょう

──と。また、──

 なぜ白血病になるかという、くわしい仕組みについては、世界中の学者たちがしのぎをけずって研究しています。

──とも。いずれもP24から。
 白血病になるのに特定の原因はない。大部分の患者はここに該当する。それと自覚して病院に行ってみる人は、まずいない。前述したような症状が現れてようやく、ちょっと診てもらおうかな、と嫌な予感を覚えながら診察して突然病名を告げられるケースが圧倒的に多い、ということだ。
 左視野の一部が霞んで見えるとて受診した眼科の血液検査で白血球数の異常なる増殖によりこの病気を疑われたわたくしのケースは、けっして珍しくはなかったようである。ちょっと安堵、他の患者やその家族の気持ちを考えれば不謹慎であるとは承知しているけれど。
 そうか、原因不明で、世界中の研究者が解明に躍起になっているのか……今回自分が慢性リンパ性白血病であると告白したことを、研究者たちに知られてはならぬ。もし知られたら──生体サンプルにされないよう、夜道に気をつけなくちゃ(完全に医療機関研究機関による誘拐前提)。
 国内に於ける慢性リンパ性白血病の発症率は極めて低い、稀有なる疾患と仄聞する。欧米ではポピュラーな病気──どころか慶應義塾大学医学部に拠れば「最も頻度の高い白血病」という。その発症率、欧米が白血病全体の3割を占めるに対してわが国は十分の一。要するに10万人に1人の確率です。
 ……なんだ、この違いは。事実が報告されているとはいえ、それにしても……である。欧米と日本で発症率がこうも違うのは、どういうことなのだろう。なにに起因するや。食事を筆頭とした生活習慣や衛生面の違いからなのか、それとも或いは……。
 巷間いわれることだが、白血病の治療に終わりはない。症状が安定したから、血液検査の結果が正常値に戻ったから、という程度で完治というのではない。そも完治か否かの線引きが極めて困難という。わたくしも担当医からそのようにいわれている。自分の判断で薬を嚥むのを止めるな、とも。その薬──イムブルビカカプセル140mgも、わたくしの体に適合するか様子を見るため最初は1日1錠から始まり、2錠に増やして通常の3錠を毎朝嚥むようになってた。限度額適用認定がなかったらこの薬、20万円弱するんですよ。
 死ぬまで続くわけでは勿論ないが、終わりのない治療であることに相違はない。いうなれば、夜の果ての向こう側にある穏やかな朝を求めてあてのなき旅をしている気分である。
 自分の経験を伝えて誰かの役に立てるなら、誰かの気持を強くできるなら、わたくしはいつだって語ろう。◆

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第3619日目 〈告白。──病院で診察したこと。〉 [日々の思い・独り言]

 さて、翌る日のことです。すっかりだらけた生活に鞭打つように久しぶりの朝7時起き。いやぁ、辛い、辛い。地元の総合病院でもらった紹介状と保険証をリュックに仕舞い、コロナのお陰ですっかり乗客の減った通勤ラッシュ帯のJRに揺られて、みなとみらいの病院の最寄り駅に着。動く歩道をてくてく進んでむかしの通勤コースを辿り、おもわずランドマークタワーやクイーンズ棟へ行きかけるのを制して(ついでにいえば途中のスタバへ寄り道しそうになるのも制して)、母と一緒に病院への路を歩いて病院に。
 受付で「紹介されたんっすけど」と伝えるや「内科に行け」と返事がありました。ぼけっとエスカレーターで2階に上がり、外来受付で来意を告げて、紹介状を預ける。受付の女性、しばらく奥に引っこんだかと思うとうっかり八兵衛みたいによっこらよっこら戻ってきました。カウンター越しに彼女曰く、地下でMR撮ってきてください、診察はそれからです、終わったら戻って声掛けしてください、待っています、と云々。……待っています、っていわれてもなぁ……。
 「慢性と思われますが、白血病の可能性が高いです」
 昨日の内科の先生の言葉がよみがえる。紹介状があってもあくまで可能性濃厚だから紹介したよ、であって、症状(病名)が確定したわけじゃア無いからまずはMR撮ってその上で診察しましょう、ってことなんやな。そんな風に自分を納得させて、エレヴェーターで放射線科のある地下に。
 ここには母が入院する前や退院した後の経過観察で幾度か来た覚えがある(ような気がする)な。それにしても、だ。新横浜の病院もそうだったし、ドラマ『ラジエーションハウス』も然りなんだけれど(ごめん、原作マンガは読んだことがないのだよ)、どうして大きな病院の場合、放射線科って地下にあるんだろうか。機材や施設が広範であったり重量級であったりするせいかな?
 ……その日はMRで写真を撮り、血液内科の先生の問診を受けた他は、(例の)眼科で様々検査をされたあと診察を受けて、終わりました。数日後に骨髄注射して、その結果と今日のMR写真を総合して病名を下す、ということでした。眼科も血液内科の診察結果を待って治療方針を決めるとて、可能性の話に終始したのは止むなきことでありましょう。いいの、血液内科も眼科も良い先生に当たった、という幸運を実感したから。

 さて、骨髄検査の日です。ビクビクして病院に行きました。あらかじめどのようなことをされるか、聞いていてもやはり(何歳になっても)注射はイヤだ。おまけに診察に当たって結構な金額になるとも聞いていたのでね。
 内科診察室のベッドに寝かされ、麻酔を打たれて注射をブサリ。麻酔が効いているにも関わらず、なにやら当該部位の中心と周辺に鈍いなにかを感じるのは、どうしてか。旺盛で限界なき想像力が斯く感じさせているのか、或いは──本当に注射を刺されている痛みを感じているのか。まァ、でも、昨夏に奥歯4本を抜いたときに較べれば、想像でも現実であってもいまの痛みの方がマシか。
 どれだけの時間が経ったでしょう。看護師さんの「注射、抜きまーす」って声を遠くに聞きながら、長い安堵の溜め息を洩らしたのは覚えています。まるでアムロだ、と刹那思うてブフッ、と吹き出してしまったこともね。それからの約1時間は安静の時間でした。珍しく早起きしたことで、うつらうつらと舟を漕いで時間が経つのを待った。さっきの注射もそうでしたが、この約1時間もけっこう長く感じましたね。麻酔が効いている所為もあるのか、三次元の存在であるのを忘れてしまうようなフワフワした心地で過ごした。
 するうち、血液内科の先生がやって来て、お疲れ様、と。気分はどう? 大丈夫? どちらも「平気です」「大丈夫です」と答えたので先生も安心したのか、次の診察日なんだけれど、と話し始める。MRの写真を精査して、今日の骨髄検査の結果と照らして病状を判断するので、1週間くらいは空けなくてはならないらしい。それを踏まえて何日か候補を挙げてくださった中から、いちばん早い日をお願いしました。6月1日(水)、診察時間は午後。
 それまでの薬は、特に処方されなかったように記憶します。家に帰って領収証など見れば正確なところもわかるでしょうが、生憎といまは外で、例によってスタバに居るので、それは無理。間違っていたら訂正します。
 眼科? この日は診察、ありませんでした。残念ですが、いまの呆けた状態でこれ以上どこかの科を受診して……というのは正直つらい。後ろ髪引かれる思いですが、そも予約していないのでは不要の行動です。会計で精算を済ませると珍しく寄り道したりせず(駅ビルでお土産にお菓子を買いましたが、これは寄り道にカウントしない)帰宅したのです(偉いなぁ)。
 ──6月1日(水)午後、血液内科でどんな宣告が下されるのだろう?◆

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第3618日目 〈告白。──病気が発覚したこと。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年の初夏のことでした。左目の視野の一部が霞んでいるように思えました。具体的にいえば、視野の左上、です。日射しのちょっとキツい日に外へ出ると、どうも視界がぼやけているようで歩くのが怖くなったこともある。それゆえに足許がよろけるとか、それゆえに事故につながった或いは事故になりかけたとか、そんな災厄とは無縁でいられたのは幸いだったかもしれません。
 とはいえこれまで感じなかった違和感、経験しなかった怖さは拭いきれず、5月中葉の或る日、地元の総合病院眼科へ出掛けて検査を受けることに。視力の検査、眼底の写真撮影、光点を追いかけて反応を視る、などなどよくある眼科の検査を経て医師の診察。
 眼球表面、所謂水晶体って奴ですが、そこの表面に傷が多く付いていることは確認できるけれど是が視野のかすみの原因となっているかは不明とて、血液検査をして他の原因があるか否かを確かめてみることになった。中待合で看護師さんから左腕に注射をぶっ刺され(呵呵)、血液を採られる。分析等に1時間くらい掛かるので、それまで自由にしておれ、外に出るなら連絡先教えよ、とて我それに素直に首肯、対応して近隣を散歩に出た。スーパーの地下の生鮮品売り場をほっつき歩いているうち、そろそろ1時間が経とうかという頃ひょいとスマホを見たら病院から3度も電話が掛かっていました。
 いったいなんじゃ、何事か、と折電もせずそのまま眼科に戻れば受付の方と看護師、医師が待ち構えており、「来た!」と。かなり慌てた様子です。続けて、「すぐに内科に行ってください」と。なんでも血液を分析したところ、白血球数が異様に増えているのが判明。視野かすみの原因となっているか定かならずも、と或る病気の可能性高かりし為早々に内科へ参れ云々。
 この頃までは自分の体にどんな異変が起きているか理解していなかった、というのが本音です。精々が、「嗚呼、糖尿病になっちまったか……顧みれば思い当たるフシ、ないでもないな」くらいにしか思うておらなんだ。のこのこと向かった内科受付で、眼科から紹介されてきました、といえば早々に診察室に呼ばれて、男性医師に血液検査の結果を基に、症状が伝えられました。
 「慢性と思われますが、白血病の可能性が高いです」
 ──白血病? 誰が? お前が。
 「血液検査の結果なんですけれど、白血球の数が40,000を超えているんです。普通であれば2,000前後が平均なんですが」
 白血球の数が40,000超で、他にも著しく増減している細胞があることから、白血病の疑いありと診断された由。
 その医師は糖尿病が専門で、あとで調べたらその筋ではちょいとばかし有名な先生であるらしい。眼科で、糖尿病に詳しい医師が内科で待っている、といわれていたから、糖尿病になったのかぁ、と覚悟してきたのだが、伝えられた病名はこちらの予想を大きく外すどころか、まったく以て想定外の病名だったがために、却って落ち着いて受けとめることが出来たのかなぁ。まァ、事態の大きさを理解していなかっただけなんでしょうけれどね。えへ。
 医師曰く、こちらの病院では血液内科がないので他を紹介することになりますが、どこか知っている病院や行きつけの大きな病院はありますか、と訊かれてすぐに思いあたったのは、母がお世話になっているみなとみらいの病院でした。これまで自分も何度か通院付添や入院手続・お見舞い等で行っている、地元以外ではいちばん馴染みのある大きな病院です。
 その旨伝えると早速調べてくれて、その病院に血液内科があるとわかるや、看護師さんが早々に検査状況を確認する電話を入れていた。その看護師さん、電話を切って医師と我に曰く、「明日の朝08時30分に予約が取れました」と。医師、うんじゃあ紹介状書くから遅れないで行ってね、と申される。この間、わずか約2分。迅速じゃ。
 医師が紹介状を書く間、手持ち無沙汰をどうするかと思うていたら、眼科でも紹介状を書くから検査結果や写真データ等といっしょに件の病院眼科に持参せよと言われました。そうして再び(三度か)眼科に戻り、医師から「大変なことになっちゃったね」と言われて、はあ、としか答えようなし。漠とした不安を抱えて、紹介状が書き終わるのを待ったのです。(12:53)
 明日、朝、08時30分までに件の病院に行って受付を済ませる、か。会社に行くよりも早い時間に家を出るのが不安。起きられるかなぁ、っていう不安です。
 「かもしれない」病気については考え始めると不安と恐怖と怒りが綯い交ぜになってどう扱ってよいものやら分からんので、心の片隅に追いやっておく。でも不安で、けれど興味もあるんだよね、「かもしれない」病気がどんなものか。その晩であろう、Googleや架蔵の医学書で調べた痕跡があった。後日、それを見附けた。◆

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第3617日目 〈いま、ぼくがいるところ。〉 [日々の思い・独り言]

 喪の作業には、ショック期から立ち直り期まで5段階の〈喪のプロセス〉を辿る心理面の他、亡くなって葬儀に始まる一連の法要行事と役所や金融機関等々に対して行う各種事務手続を核とした実務面の、2つが包括される。
 実務面とはつまり、こういう事柄である……なにから手を着けるか。並行してせねばならぬ案件に於ける優先順位は。それはいつまでにされなくてはならないか。その過程で誰を頼り誰に専門的作業をお願いするか。……等々不馴れな作業がてんこ盛り。
 わたくしだって例外ではない。まさにこの真っ只中にある。わけもわからぬまま目に付いたときに、気附いたときに、指示されたときに、着手しては右往左往しているのが現状だ。
 手を着けねばならない案件は山積している。完結した案件はなに一つない。すべてが終わる日は訪れるのだろうか。

 「十分にお別れのできなかった場合では、一人で喪の作業をしなければならない中で、死別後シンドロームの芽が出てくることがある」(清水加奈子『死別後シンドローム』P148 時事通信社 2020/09)
 この一節に辿り着いたとき、ドキリ、とした。己を顧みて、すぐに自問──正常な〈喪のプロセス〉を辿っているのか?
 お別れがきちんとできなかったわけではない。最期の瞬間を見届けられなかったので、じゅうぶんなお別れができたとは言い難い。息を引き取る瞬間を見届け、その意味で看取ることができなかったのは確かだ。こちらも眠っている時間に逝ってしまったからね。
 じゅうぶんなお別れが言えなかった、と云う後悔はあまりないのだ。数日前から予感はあった。覚悟していた。冷たい言い方になるが、遺される心構えも、気持の片隅で用意していた。聞いておくべきを十全に聞けなかった、もっといろいろと話をしておきたかった、と云う心残り、無念、悔いはあるけれど、お別れに関しては特段これと云って……。
 さりながら、独り(意味するところを正確に汲んで表記すれば、独り、が相応しかろう)で喪の作業を進めるなか死別後シンドロームの芽が出る、というのは首肯できる。むしろ、独りであるからその芽が出やすくなる、死別後シンドロームに陥りやすくなる、と考えた方がよかろう。
 冒頭で〈喪のプロセス〉には5段階ある、と述べた。順を追えば、「ショック期」→「感情の暴走期」→「抑うつ期」→「受け入れ期」→「立ち直り期」、となる。
 亡くなった事実は受け容れているから、いまの自分は「受け入れ期」にある。──と思うが普通だけれど、そこは人の心である。その動きは複雑で、ベルトコンベア方式に前へと進むわけではない。常に行きつ戻りつの振幅運動だ。
 様々な感情が溢れ出すこともあるから──納得のゆく感情であったり理不尽或いは不可解な感情の混在、発露──「感情の暴走期」にあり、現実世界から切り離されている感覚があるので未だ「ショック期」に留まっている。間遠になっているが「抑うつ」を実感するときもある。
 行きつ戻りつの心の動き、なのだ。進んでは退き、留まりもすれば飛び越しもする〈喪のプロセス〉なるがゆえ、自分のいまいる場所がわからなくなる。まさに五里霧中とやいふべし。
 『死別後シンドローム』には、「すべての段階を終えるのに、おおむね1年はかかる」(P35 表1・注)とある。〈あのとき〉の自分が5段階のどこにいたのか、とは、すべてが終わって「立ち直り期」へ至り、それもしばらく経ってからでないとわからないことなのだろう。
 換言すれば、自分が〈喪のプロセス〉を正常に辿っているのか、拗らせてしまっているのか、現在進行形の状態では不明で当然、ということである。
 1年か……その頃わたくしは亡き母と、どのような新たな絆を結び、形成しているのだろう。◆

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第3616日目 〈亡くなったあとも、その人たちは生きている。──近江国の大人へ。〉 [日々の思い・独り言]

 おお、親愛なる近江国の大人よ。しばらくの無沙汰を致しました。第二信に触れて拙の思ふところをお話させていただきたい。──よろしいでしょうか?
 貴兄はそのなかで、自分が身罷ったあとは、として前置きして、こう仰った、「(家族や友人が)時々思い出してくれるだけでいい」と。
 同感であります。貴兄のお考えに異を唱えるところはございません。元よりわたくしも同じように考えるからであります。
 人が本当の意味で死ぬ(亡くなる)のは、この世からその人のことを覚えている人物がいなくなったときなのでしょう。
 生前の故人をずっと後までも覚えていて、なにかの折に懐かしく思い出したり、誰彼に/誰彼と話してくれている人物の在る間は、たとえ肉体的には死者であっても記憶や語り継ぎという形で生者たり得るのでしょう。故人に子供や孫といった血を継ぐ存在があれば、なおのこと故人はかれらがこの世に在る限り生者であり続けます(これがどれ程幸福なことか、いまのわたくしはつくづくと、痛みすら伴って感じております。悔いている、というてもよいでしょう)。
 貴兄にはバンド活動の音源やお書きになった作品が形として残っている。わたくしもたくさんの文章を残している。書かれたものは全部ではないが電脳空間にいまこの瞬間もあり、われらを知らぬ圧倒的多数の無関係な人たちに読まれている──つまり、われら亡きあとまでも存在は認識されてゆくわけです。
 が、そんなものを一切残さなかった普通の生活人、所謂市井の人々はどうか? 圧倒的多数の無関係な人たちに存在を認識されることなく、普通の家庭に生まれて普通の両親に育てられ、普通に学んで働いて結婚して家庭を持った、平凡な人生を送った平凡な人は? 或いは、様々な事情や理由や原因によって、人生に苦しみや悲しみ、痛みが伴った人々は? 要するに、生きた証を特に意識して残すことのなかった人々は、どうやって他者に存在を、人生を、認識されるのか?
 結論だけ申せば、記録と記憶がすべてなのです。故人の来し方や思い出を語る/綴る、語り継ぐ、とは結局、記録と記憶に基づくわけですから。
 だからこそ──というのは些か飛躍するようですが──わたくしは、時間という一方的で情け容赦の無い、全人類が等しく享受する〈暴力〉によって存在も人生も圧し潰されて忘れられてしまう無名の人々のことを考え、想いを寄せ、自分が生きている間だけでもかれらを忘れぬよう在り続けたい。
 わたくしは、苔生す大地の下で誰にも知られないまま眠る人々のことを記録し、記憶を薄れさせぬためにも語り続け、その人の魂がやすらかでありますよう祈っていたい。
 むろんそれは身内の人、身内になるはずだった人、一時的とはいえかかわりを持った極一部の他人、にしか向けられぬ営みとならざるを得ないでしょう。が、わたくしが斯く努める/務めることで、除籍謄本以外にその人が生きたことを伝えてゆけるなら、それがきっとわたくしの、これ以後残された人生で行うべき仕事、役目なのだろう、と思うのです。
 祈りとは鎮魂にとどまらず、命の連鎖への敬意に他なりません。与えられたこの人生に於いて縁あって結ばれ和を為した人々への愛情と感謝、畏怖と崇敬がわたくしのなかにはあって、それを支えているのです。◆

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第3615日目 〈「喪」の日常に古典和歌書写を組みこむこと。〉 [日々の思い・独り言]

 明るい事象を語りたい。建設的な話をしたい。──と思えどもそれは難しいこと。いまのわたくしにそんな胆力も気持を維持する力もないのだ。ただ伝えられるとすれば、わたくしには大事であっても読者諸兄にはどうでもよいこと、なのである。萩原朔太郎『恋愛名歌集』にまつわる話だ。即ち、──
 モレスキンの各章メモをノートに書き写して、それっきりだった。斜線を引いた歌をノートに書き写すか考えているとき、中断を余儀なくされたのだ。考えていたことさえ忘れ果てていた。やるべきことの洗い出しが済んで、翌日の予定を立てて、それをこなしてゆくことで日々の営みが前進するようになった頃に、ふと思い出したのである。
 邪な考えは、ふとした拍子に心のなかへ土足で上がりこみ、いつの間にかどっかと胡坐をかいて居坐っている。気がつかないうちにそれは居場所を広げて、健全な心を蝕んでゆく。自分のなかにいつ、それが忍びこんだのか、知る人はすくない。気附いて対峙できる術を知る人は、同じくらいにすくないかもしれぬ。
 あなたは、どう? わたくしのことか? イエス。
 邪な考えに支配されたりしなかった。負の感情に呑みこまれても、どうにか抜け出せてきた。それは、なにによってもたらされたか? ──むろん両親の愛情と育て方のお陰がいちばん大きいけれど、いまそれは脇に置くとして。
 ──本を読み、文章を書くことで、どうにか救われてきたように思う。過去にも同じ趣旨の文章は本ブログでお披露目したことあるけれど、いま程それを実感できるときはない。かつては理念であり観念だった。が、いまは違う。20年前と同じく、35年前と同じく、体も心もそれを知っている。実感している。実感と経験こそがすべてである。
 20年前も35年前も、悲しみが一つの区切りを迎えた頃、再び本を読み始め、小説を再び書き始めた。それが現実と折り合うための抵抗であり、自己治療方法だったのだろう。
 抵抗と自己治療。今回は、萩原朔太郎『恋愛名歌集』の斜線歌をノートへ書き写す作業が、その役を担う。正直にいえば、なんでも良かったんだよ。たまたま中断していた書き物が、これであったというだけで。
 『万葉集』に始まり、『古今集』から六代集へ、『新古今集』へ至る朔太郎選歌から、斜線を引いた計約80首を書き写す。
 ──その日やるべきことがなくなり(結果が「済み」であれ「未」であれ)手持ち無沙汰になって様々考えることができる時間帯、いい換えればいちばん危険な時間帯を、書写という単純作業に費やして一応の知的満足を味わった後に、くたっと寝る。このルーティンが、いまの自分には合っているようだ。と同時に、自分のなかで燠火のようにまだ残っていた古典への情熱が、ふつふつ甦ってくると感じているのも事実。
 2023年02月13日 18時26分
 かつての小説執筆のように想像力が羽を広げて自在に空を舞うことはないけれど、書写という作業を通じてあたかも往時、古典を書写して後世に残した人々の、或いは異本を博捜して本文校訂に従事した人々の、気持や使命感を想像もしくは追体験しているてふ気分を味わったのは偽りなき事実である。これを風狂というべきか。
 おそらくこの感覚を味わう一助となったのは歿する前後に購入して、いま並行して読んでいる前田雅之『古典と日本人』(光文社新書 2022/12)と村井康彦『藤原定家『明月記』の世界』(岩波新書 2020/10)であろう。この2冊の存在は無視できない。併せてかつて貧書生だった時分、図書館で借りた数々の私家集、勅撰集を縦書きノートに写した経験──これをも少し綺麗にいえば、ノスタルジーといふ──が思い出されていることもあろうか。
 閑話休題。
 いまはまだ……悲しみが一つの区切りを迎えた、とは言い難い。果たしてそんな時が訪れるかも疑問だ。けれど、遺された家族は生きなくてはならぬ。生きるためにわたくしが手段の一つとしたのが読書であり、文章を書くことである。
 報道されるような事件を起こすことなく、法に抵触する犯罪とも無縁で生きてこられたのは、読書と執筆が、壊れそうになる自分を都度正しい方向へ導いてくれたから。単純にいうてしまえば、自分がどんな状況にあり、どんな境遇にあろうとも、読書と執筆は、心と体を支える役を担うてきたのだ。
 そう考えると、いま、中断していた書き物があったことは、不幸中の幸いであったか。この状況で最初の一字から文章を書き始める;そもその構想というか、なにを書くかという段階から始めねばならぬのは、チト酷なことだ。それについていろいろ考えを巡らせたりしている間に、邪な考えに支配されたり、負の感情に呑みこまれているやもしれぬではないか。
 幾らメモ部分のノートへの書写が終わっていたとはいえ、斜線歌の書き写しを実行するか思案していたとはいえ、結果的には朔太郎の本があったことで気が紛れ、救われている部分はあったのだろうな、と思うている。そんな意味では、感謝の1冊さ。◆

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第3614日目 〈われ、死者を愛する者なり。〉 [日々の思い・独り言]

 優先すべき役所や金融機関での手続き、書類請求が一段落。いまは「小休止」の時期なのだろうが、本人としてはそんな気持にまったくなれない。先を思えば、まだまだ沢山やることはある。四十九日までは気の休まらない毎日だ。
 なんの予定もない日が週に1日くらいあるけれど(たいてい日曜日)、むりやりにでもやることを見附けないとそんな日は却って、悪しき思いに囚われて、喪のプロセスに異常を来すようなことばかり考えてしまう。先週はかなり、まずかった。
 作品名は忘れたが、故人の思い出を訪れた人と語り合う場面のある古典を読んだ。いまではその場面を、心の底から羨ましく思う。まぶしく映って仕方ない。そんな人、わたくしにはいないからだ、そんな人。故人の友なる方らにそれを求めることは出来ぬ。母の属した友らのいるコミュニティに、わたくしは属していないからだ。いや、まァ、そういうものだとは思うけれど。
 それゆえか、独りし摂る食事の時は遺影や骨壺のある部屋であったり、遺影を居間に持ってきて坐っていた椅子にそれを置いたり、そんな風にして一緒に摂ることがもっぱらだったりする。
 われながら、狂っている。さう思はぬでもない。が、四十九日が済むまで故人の魂は、だんだんと冥府への道を辿っているとはいえこの世に留まっているのだ。ならば故人を惜しんで、故人を愛おしんで、生前と同じような時間を過ごして果たして何の咎もあるまい。
 われ死者を愛す。顧みるまでもなくわたくしが愛した人たちは皆、もうこの世からいなくなってしまった。10代で婚約者が逝ったのを皮切りに、今世紀になるや途端に父が逝き、恩師が逝き、友らが逝き、こうしていま母が逝ってしまった。われ死者を愛す。このうつしよにいまや愛する生者は一人としていない。愛してはいけない人なら二人、いるけれどな。
 たとい冥府の人と完全になろうとも、愛する死者の魂は永遠にその人を想う者のそばにいて、慰め、助け、導き、包み、見守ってくれる。魂の永遠は信じて良いことだ。死者はいつもそこにいる。死者は心友である。
 われ死者を愛す。仍て件の如し。◆

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第3613日目 〈海より深い母の愛情、鉱石より強い父の愛情にくるまれて生きてきたのに、どこでぼくの根太は腐って傾いたのか?〉 [日々の思い・独り言]

 こんなことがあってから、一切無になって身の回り、その諸事について思いを致し、行く末に考えをこしらえました。外的要因によって一旦、心のなかを空っぽにして、自分自身を見通すことが、必要だったようです。でも、もっと別の外的要因だったら良かったのに。
 いま、わたくしの心を占めるのは、「正しく生きること」、この一点に尽きています。
 正しく生きること──父がそうだったように。母がそうだったように。心正しく、だれにも等しく、一瞬の情や損得に流されることなく、慎ましくあり、礼を尽くし、そうして「徳」を積めるように。「天に徳を積め」と聖書にあるが、それは無縁の人でも心掛けてよい言葉。正しく生きること──そのために、すべてを失ってでも真実を告白するのが必要。
 結ばれた〈縁〉に感謝し、大切にし、自ら損なう愚を犯さぬこと──子どもは親の背中を見て育つ、といいます。子を見れば親がどう育てたか、なんとなく推察できる。親なる人の人間性が或る程度推察できる。そんな意味に捉えております。
 どれだけ生活が乱れていても、性格に問題があっても、その心根の素直さや正直さ、といったいわゆる<人間の芯の部分>が親から引き継がれたものなのは、疑うべくもありませんでしょう。それゆえにこそ、どんな人に対しても、偏見や誤解、苦手意識等々に基づいて敬なく遠ざけたり、陰で誹謗の対象に祭りあげることは、厳に慎みたいですね。
 ひるがえって、自分はどうか? 親の背中を見てあのように正しく慈しみに満ちた生き方をしたいと願いつつも、果たしてその愛情を裏切ることなく生きてこられたのか? 正直なところ、「否」といわざるを得ないのです。海より深い母の愛情、鉱石より強い父の愛情。それに包まれて生きてきたはずなのに、どこでぼくの根太は腐って傾いてしまったのだろう?
 他人が見る自分は或る程度まで偏見と誤解に基づいてその人のなかで再創造された(その人にとって都合の良い解釈に収まる)一面に過ぎず、自分が見る自分はかなりの部分で自分を正しく見積もっていない。見誤り、過小評価もしくは過大評価をしている。要するに、自分がわかっていない。──汝、自身を知れ。これは人生のどんな局面にあっても、何歳になろうとも、つきまとう言葉のようであります。◆

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第3612日目 〈だれかの悲しみや喪失に寄り添いたい。〉 [日々の思い・独り言]

 これから意識して書き残したい物──だれかの悲しみや喪失に寄り添うような文章。
 それは平易な言葉と素朴な文章で綴られる。分量は長くなく、読んで誰もつっかえないような。当たり前を語っているようで実は、深い。
 辛さを経験した者だけが、人に優しくなれるのです。
 古典について、真言宗について、キリスト教について、こちらはこれまでと変わらぬスタンスで。◆

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第3611日目 〈たくさんの不安を抱えながら、もういちど歩き始める。〉 [日々の思い・独り言]

 今日から更新を再開します。従前通り、毎日定時更新です。
 何度となく通常運転に戻そうとしましたが、そのたびに思い留まった。なぜかといえば、毎日書き継いでゆけるだけの時間的精神的余裕を持ち得るか、不安だったから。取り敢えず1ヶ月分のストックは持たないと、毎日定時更新はすぐに挫折するだろう、と感じていたのです。
 まぁ、結果については読者諸兄お察しいただけていると存じます。更新再開を斯様に宣言しているということは、原稿のストックが溜まって、かつ時間的精神的余裕をどうにか(工夫して)生み出せる状態に復したことでもあるわけですからね。
 せっかく生まれた余裕がいつ、損なわれることになるかという不安はありますが、そんなことをいうていたら再開なんて夢のまた夢。見切り発車ではありませんが、原稿ストックを消化している内にそんな危難も切り抜けられるであろう、現時点でストックしている原稿をお披露目してゆくのと並行して新しく原稿が書かれているわけなんだから……と楽観しているのであります。
 これからお披露目されてゆく原稿には日時を示唆する文章を含んだものがあります。それらが更新/お披露目時点でないと、あらかじめお伝えして本稿の筆を擱きます。◆

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第3610日目 〈みくらさんさんかからの挨拶。〉 [日々の思い・独り言]

 そろそろ戻ります。
 倦怠と不安に呑みこまれる時はまだ有るけれど、どうにかわたくしは生きています。
 モナミ、待っていて。◆

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