第3656日目 〈抛り投げた物語のこと。〉 [日々の思い・独り言]

 なにを書くか定まらぬままなんのこともなしに擬古文の掌編を綴っていた。掌編というよりはプロット、アウトラインというほうが近い。あまり長いものはもとより書く気もなかったから、そんな風になるのは必然か。
 内容? どうということもないボーイ・ミーツ・ガール。まァなんというかね、田舎から出て来た女の子に懸想した都会の男子が告白して断られる話、です。
 拒む意味の古歌を男子が受け取ったところで筆を擱いた(抛り出した)が、続きの構想は勿論あった。どんな続きを考えていたか、それは語るに及ばぬ。自制じゃ、自制じゃ。
 ただこの一篇を完成させたい希望はある。望みとしては、中途半端に抛ったこれに加えて、学生時代に書いてルーズリーフに眠ったままな(やはり擬古文の)祝言談と、爵位ある地方領主を主人公にしたファンタジー、他数篇を集めた物語集を編んでおきたいな。とはいえ、さて、この企み、果たしてどうなりますことか。
 ちなみにこれらの作品、本ブログでお披露目されることはありませんから、あしからず。◆

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第3655日目 〈翻訳、翻案、再話のネタの捜し方。〉 [日々の思い・独り言]

 小説の題材にする話は、自分をよく出せるものを選ぶ。
 ──上田秋成が『雨月物語』を書く直前に訪ねた都賀庭鐘から受けたアドヴァイスである。真偽はさておき、大谷晃一『上田秋成』(P63 トレヴィル 1987/06)にある挿話だ。
 当時秋成は、いわばデビューして間もない新進気鋭の小説家だった。処女作『諸道聴耳世間猿』と続く『世間妾形気』は、井原西鶴によって交流を決定附けられた浮世草子に分類される。が、「和訳太郎」のペンネームで両作が上梓された頃既に浮世草子は、衰退の一途を辿っており、また両作とも浮世草子の枠から逸脱する部分がある、異形の小説だった。詳述はしないが端的にいうて、それらはなにかしらの原因によってわが身を滅ぼしてゆく人々の話なのだった──その面を以てのみして『諸道聴耳世間猿』と『世間妾形気』を〈滅びの文学〉と述べることはあながち誤りとはいえないと思う。
 幼き頃に生母と別れて後、大阪堂嶋の大店の養子になり何不自由なく育つも、養子の自分が跡取りとなることへの違和感を拭いきれずわざと放蕩無頼の生活に明け暮れるなかで、秋成は人間誰もが善悪二元論で括れるものではなく、ちょっとした出来事によって人生を棒に振ったり苦界に身を沈めたり悪に染まってしまうこともある、と肌で知った。それを小説という形で吐露してみせたのが、『諸道聴耳世間猿』と『世間妾形気』だった。
 しかし秋成は、これで満足できなかった。もっと深いところで人間の欲や情念というものへ迫るような小説を書きたい、と執した。
 時は既に、八文字屋に代表される浮世草子が終焉を迎えつつあり、一方で中国の小説を翻案した読本が代わって台頭してきた時代だった。
 そんな或るとき、秋成は都賀庭鐘を知る。同じ大阪に住まって医者を営む庭鐘と秋成の接触が、いつ如何にして行われたか定かではない。高田衛『定本 上田秋成年譜考説』に拠れば、「庭鐘、秋成の具体的交渉の始まった時期は、あきらかではない」(P66 ぺりかん社 2013/04)とのことである。
 庭鐘著す読本小説の代表は、『英草子』と『繁野話』だが、前者は「新編 日本古典文学全集 78」(小学館)で、『繁野話』は「新日本古典文学大系」(岩波書店)で、それぞれ読むことが可能だ。
 どのようにして、題材になる(中国の)小説を選ぶのか?
 庭鐘と面会した折、秋成はそう問うた。それに庭鐘が答えたのが、冒頭の一文である。大谷晃一の本から返答を引けば、「そらな、ようけ読んで、自分の思てることが出せるやつを選びまんのや」(P63)、である。
 この答えを敷衍すれば、目先の面白さに飛びつくことなくじっくりと腰を据えてたくさん読み、そのときの自分のなかにある思いや考えを無理なく表現できる原作に出会う労を惜しむな、ということであり、そのために広く読書するのは当然だとしても、自分の心の内や日頃抱いて表現したく思うている気持を客観的に見つめる努力を怠るな、ということでもあろうか。
 そうやって秋成は、庭鐘のこのアドヴァイスに導かれるようにして中国渡来の白話小説を読み漁り、日本の古典を渉猟して歩いた。やがて物語として結実する元ネタは、その過程で見出されてゆく。一方でかれは同時代の作物にも抜かりなく目を通して就中師加藤宇万伎と同じ賀茂真淵門下の国学者建部綾足が著した『西山物語』に触発され、また自身としても先行二作に続く新しい浮世草子のために用意していたエピソードのための腹案を流用して、いよいよ秋成はまったく新しい物語の筆を執った。「巷に跋扈する異界の者たちを呼び寄せる深い闇の世界」(角川ソフィア文庫版裏表紙より)を舞台にした『雨月物語』がそれである。
 ところでその『西山物語』だが刊行の前年明和四(1767)年、京都一乗寺村で起こった所謂〈源太騒動〉に取材した読み物。これを秋成は随分と批判している。後年の文化三(1806)年、知人を介して渡辺源太に紹介された秋成は同じ年に「ますらを物語」を書いた。それが人手に渡ったゆえか秋成は同事件を素材に舞台と人物を替えて新たに「死首の咲顔[ゑがほ]」を書き、『春雨物語』に収まる。写本によって載る載らないはあるが現在活字で読める版には載るものが過半だ。『西山物語』も先の『英草子』といっしょに「新編 日本古典文学全集 78」で読めるがこの一巻、実は他に『雨月物語』と『春雨物語』をも収録したお値打ちの書物なのだ(本文以外に頭注と現代語訳を備える)。
 ……庭鐘が秋成にしたと大谷晃一ゑがく面会の場面、与えたるアドヴァイス。かりにこれが一粒の想像であったにしても、ひるがえってみればこのアドヴァイス、そのまま近世から近現代に至る間の創作や翻訳、翻案、或いはラフカディオ・ハーンに代表されるような再話にまで、適用させられるのではあるまいか。
 ようけ読んで、自分の思てることが出せるやつを選びまんのや。
 たしか平井呈一もハーンの再話文学を述べたエッセイのなかで、同種のことを書いていたように記憶する(『小泉八雲入門』P75-6, 78など。古川書房 1976/07)。
 ──ここで自分のことを話すのはおこがましいけれど、ちょっとした事情あって中断しているわが「近世怪談翻訳帖」もその例に洩れるものでは断然なく……日頃自分のなかに去来し、或いはふとした拍子に生まれたり記憶する人々の事どもを思うて江戸時代の随筆や小説を読んでいると、これは、と膝を打つような代物に出喰わす。
 シドニィ・シェルダンの”超訳”に対抗して”創訳”なんて呼んでおるが(対抗云々はあくまで言葉の綾と受け止めてほしい)、セレクトして現代語訳する作品はどれも琴線に触れた、その時々で〈自分〉を表出するに打ってつけだった、という意味で一貫性はあると思うている。
 この「近世怪談翻訳帖」も最近新しいものをやろうと企んで、なにかないかな、どれにしようかな、と漁っているうちにまたしても『雨月物語』へ辿り着いた。選んだのは、「吉備津の釜」と「貧福論」。去る五月の連休の中日に遭遇して此方を睨みつける過去の同僚を心中に住まわせて女の情念執着嫉妬怨念を描ききった「吉備津の釜」を選び、ここ数ヶ月で深刻に想い巡らし痛打させられることしばしばであるお金についての管見から「貧福論」を選んだ。現時点に於いては至極真っ当なセレクトである、と思うている。
 「吉備津の釜」については正直、「蛇性の淫」と迷いましたがきっかけとなった女のことなど思うて較べた結果斯くの如くとなりにけり、である。
 菜緒「吉備津の釜」は、貞淑の妻を棄てて愛人に走った夫が妻の怨霊によって愛人もろとも取り殺される話で、「蛇性の淫」は蛇の化身と知らず美しき未亡人と契を結んだ男が執着されてしまう、〈道成寺縁起〉をベースにした話。そうして「貧福論」は蓄財に励む武士と黄金の精霊の間で交わされるお金のこと、貧福についての一問一答を記した話である。
 「吉備津の釜」と「貧福論」、二篇いずれも現代語訳の出来上がりがいつになるか、皆目見当がつかないけれど、散発的な肉体労働の合間合間でテキスト片手に参考文献を引っ繰り返して読み直し、「貧福論」に至っては冒頭部分のみながら既に試訳を始めているのは、こんな気持や経緯があってのことなのである。
 特にこの「貧福論」ね、『雨月物語』のなかじゃあ影の薄い〆の作物だが、商家の主人で常にお金や経済というものと無縁ではいられなかった秋成の胸のうちを窺い知れるような一篇で、わたくしはとても面白く読む。なかでもね、「恒の産なきは恒の心なし。百姓は勤めて、穀を出し、工匠等修めてこれを助け、商賈[しょうこ]務めて此を通はし、おのれおのれが産を治め家を富まして、祖を祭り子孫を謀る外、人たるもの何をか為さん」(角川ソフィア文庫版『雨月物語』P317 2006/07)という条に震えるような共鳴を覚えるんだ。◆

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第3654日目 〈夜更け、上に覆い被さってきたもの。〉 [日々の思い・独り言]

 金縛り、というてよいか迷うのだが、以前は時々、いまはごく稀に、夜更けの刻、寝ついてうつらうつらしている際にとつぜん、体全体が上からなにかにのしかかられているようになり、四肢の自由がなくなって動かせず、なにかがいるような感じがしてならない経験をする。そのとき自分のまわりの空間は重油を多量に含んだ液体を固めて作った壁みたくなっていて、ねっとりとした空気に支配されて、……息苦しくて、声も出ず。
 以前は時々、いまはごく稀に。
 ──昨晩、久しぶりにそんな経験をしたのである。解放されて時計を見ると、(午前)2時27分、だった。
 電気を消して、ぼんやりしてるうちに眠ってしまった。ありがたいことにちかごろは、寝つきが良い。オーディオブックやYouTubeの助けを借りずとも、十数分後には寝に落ちていることも当たり前となり。
 一時間半程の後。
 なにかがベッドのそばへ来て、腕に触れた。独り寝である、生あるもの、この屋内にあろうはずもないのだが。
 しかしその正体を、わたくしは知っている。なにものであるか、よくわかっている。──腕に触れたとき、そう思うたのだ。以前のような悪意あるもの、禍々しいもの、ではなかった。むしろ逢いとうて逢いとうてならんかった存在、そう直感したのだ。(マッケンの短編と同じアルファベットの者)
 それ、はベッドの脇につましく立ち、そっと、わが右腕を撫でさする。ゆっくり、やさしく、何度も何度も。過去の近似した現象、経験に異なるのは、そばにいるそのなにかは恐れるべき存在、厭うべき存在にあらざること。むしろそのなにかがいまこの瞬間そばにいて、わたくしに触れていることを、嬉しい、と思うていること。この二点に尽きる。
 わたくしは、その、なにか、が、誰、であるかを知っている。
 するうちそれは影となって姿を現し、身を乗り出して左腕をも同じように撫でさすってきた。不安な気持で夜を過ごす幼児を安心させんとこれ務めるかのように。
 影は跨がり、両のただむきを摑んだ。それをしあわせに感じた。
 影は前屈みになり、希望を囁く。涙が落ちるのを堪えられなかった。
 営みを終えて影は去り、徐々にこちらの意識も正常に戻ってくる。時計を見ると、(午前)2時27分だった。
 それから朝まで、アラームが鳴るまで、満ち足りた気持で、一方で想いを募らせながら、再び寝に就いたのである。
 影が誰であったか、よくわかっている。◆

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第3653日目 〈”はじめて”はすんなりゆくものにあらず。──仏教美術の読書の場合。〉 [日々の思い・独り言]

 やはり”はじめて”はむずかしい。はじめての分野の本は終わるまでに時間がかかる。その分野独特の専門用語や文章表現になかなか馴染めないからだ。立花隆や佐藤優のように、曲がりなりにも〈知の巨人〉と呼ばれる人たちならばそのあたり、なんの苦もなくクリアできるのだろうけれど、凡人の極みたるわたくしには到底できぬ芸当だ。
 殊、はじめての分野での最初の一冊が寝る前の、こま切れ時間を用いた読書であるならば菜緒更である。まったくの五里霧中状態からどうにか抜け出せるようになるのは、読書も中盤に差しかかる時分のことであろう。否、読書中にそんな状態になれれば万々歳というべきか。
 かつて岩波ジュニア新書から出ていた水野敬三郎『奈良・京都の古寺めぐり 仏像の見かた』(1985/02)をいま読んでいるのだけれど、これが存外にカロリーたっぷりの内容で、仏像の名称にまず難儀する。続けて細部の説明を、図版と見比べながら何遍も読み返す。そうやってようやく合点して(した、と思うて)、先へ進む。だから毎晩のページを繰る手も鈍重になりがちで、先へ進むスピードもあまり速くならない。
 とはいえ本書の舞台は、奈良の古寺、京都の古寺。そうして扱うのは、そこに祀られた仏像だ。目次を眺めていると、その多くが旅行で訪れたことのある古刹で、いちどはその前に立ってまじまじと見ている像なのだ(連れていってくれた両親に感謝!)。法隆寺の救世観音、中宮寺の弥勒菩薩、室生寺の十一面観音菩薩立像、東大寺の大仏、平等院の六丈阿弥陀如来座像……。どれも前面細部の造作は忘れているが、前に立ったとき抱いた気持は、やや色褪せつつもいまなおどうにか思い出すことができている。一方でわたくしは読みながら、その朧な記憶を補強する作業も並行している──だってお寺のなか、お堂のなかだとどれだけ目を凝らしても、仏像の細部なんて視認できないもん。況んや背後左右や光背をや。
 斯様なことはありと雖も、仏教美術について読む(たぶん)はじめての本がこれで良かった、とは思うている。
 図版の見にくさは、モノクロゆえの限界といえるだろう。さりながら文章を、うわべを撫でる読み方ではなく一文一文を丁寧に読んでゆけば、その不満は或る程度まで解消されるはずだ。その文章も平易な言葉遣いで丹念に綴られており、丁寧にその特徴や魅力、他との近しさ或いは違いを説き、読み進めるにあたって読者の興味をより専門的な──もうちょっと詳しい、という意味合いだけれど──書物へ導き、また実際に現地に足を運んでこの目で見てみたいという気持をかきたててくれる。かつて奈良に旅行する際に読んだ和辻哲郎『古寺巡礼』(改訂版/岩波文庫。初版/ちくま学芸文庫)や亀井勝一郎『大和古寺風物誌』(新潮文庫)と同じく、わたくしにはこの分野の標準的読み物と思える。
 ……いまの時点では(2023年06月12日 17時40分現在)絵に描いた餅でしかないが、『奈良・京都の古寺めぐり 仏像の見かた』を読み終えたらばその後しばらくの間、未読のまま架蔵している古寺巡礼や仏像めぐり、名刹の本を読んでみようか、なんて企んで、それが現実になるのを愉しみにしている。
 モ一つ、序に申せば、願望はありながら久しく訪れていない(コロナばかりでなく、まァいろいろありましたから)古都の客になって、本で紹介されていた仏像・お気に入りの仏像との対面、再会を望んでいる。あー、早くそんな日が来ないかなぁ。◆

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第3652日目 〈平井呈一怪談翻訳集成『迷いの谷』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 平井呈一怪談翻訳集成『迷いの谷』(創元推理文庫 2023/05)が出た。しまった、やられた。もっと早くにやはり手を打つべきだった。己の懶惰が招いたそんな後悔が、ページを繰る手を鈍らせる。
 M.R.ジェイムズとA.ブラックウッドの小説が主柱になる本書だが、こちらは既に原本を所持しているので「読む」というよりは「目を通した」というが正しい。翻訳小説については平井の初期訳書、A.E.コッパード「シルヴァ・サアカス」とE.T.A.ホフマン「古城物語」が読めるのがなによりの収穫。
 後者は奢灞都館版で馴染みがあるとはいえ、こうして文庫で読めるとなるとまたその価値は格別だ。誰もが読める状況が作り出されたことが、なにより嬉しい。ドイツ・ロマン派の雄ホフマンの名作が手軽に読めるようになったことを、やはり喜びたい。
 もう一方のコッパードだが、こちらも文庫で読める日が来ようとは、まさか思うておらなんだ。荒俣宏・編『怪奇文学大山脈』に収まるとはいえ、ホフマン同様、読んでみようと思うとチト手に入れるに難儀しそうなこの本、ふしぎと古書店で見掛けぬ大冊ゆえ図書館のお世話になるが賢明か。されどこのコッパードは平井が翻訳で初めて原稿料を稼いだ記念すべき作品──翻訳家・平井呈一(程一)のデビュー作だ。まずは必読、見逃すべからざる一品といえるだろう。
 この「シルヴァ・サアカス」と「古城物語」については、稿を改めて感想文を綴りたい。
 収録されたエッセイ群について個人的なところを述べれば、もはや新味はない、というてよい。というのも過半が先年出版された荒俣宏・編『平井呈一 生涯とその作品』に収められており、そちらで読んでしまっているからだ。逆にいえばそろそろ呈一名義で発表された各種エッセイ、書評の類は払底しつつある、ということだろうか。
 『迷いの谷』収録のエッセイ七編のうち、「教師としての小泉八雲」はこの人ならではの創見を示した一編として、とても興味深く読んだ。
 戦時中、平井は空襲を逃れて新潟県小千谷市に疎開して、その地の中学校で教鞭を執った経験を持つ。教え子たちは平井去りし後も師を敬慕し、絶えざる交流が持たれた由。平井の訳業として江湖に知られる恒文社版八雲全集は、当時平井の薫陶を受けた一人が創業した出版社から刊行されたものである。
 その学校生え抜きではない、つまり卒業生でもない、東京からやって来た文化人、というだけで教壇に立つことを、果たして平井は想像していたろうか。或る意味で(今日風にいうならば)アウェーに自分を置いてそこで身過ぎ世過ぎを余儀なくされたわけであるが、そのあたりの心境や経験というものが、このエッセイには影を落としているように感じるのだ。
 八雲が教えていた学生が亡くなった際の文章に触れて、「教育とは、ほんとうはこういうところにあるのだという感を深くする」(P580)と述べる。このとき、平井の脳裏には小千谷時代の教え子たちの姿が浮かんでいなかったろうか。また、「松江や熊本時代に、貴重な執筆時間を生徒の作文添削にそがれるのが辛い辛いといいながらも、克明にそれを楽しみつづけていたのも、『ことば』に対するかれの執念の一つのあらわれともいえるだろう。それにつけても、国語によらず外国語によらず、ものを教える今の人たちには、『ことば』を大切にするということを、もっと八雲から学んでよいと思う」(P581)という結びの文書には、国語を教えたり演劇指導に真摯に取り組んだ頃の平井の情熱の燠火を見ることはできないだろうか。
 とまれこの一編は、ながく八雲に関わり続けた平井の気魂が宿った集中屈指の文章と思う。
 ……さて、こちらの懶惰が招いた後悔、その源は、「秋成小見」にある。要するに初出誌『現代詩手帖』の秋成特集号を20代の極めて早い時期に神保町の古書店で入手して以来いったい幾度、この平井の文章を舌舐めずりしながら、或いは端座して耽読したかしれない。あの当時に書かれた秋成に関する文章としては、「研究」という面からは扱いかねるものの「鑑賞」としては抜群のクオリティを持った一編だ。
 創元推理文庫から出ている平井の翻訳集成や前述の荒俣の本でも、エッセイが収録されると聞くたび本屋さんで目次を開いて確認するのは、この小文が収録されているかどうか、だった。もちろん、収められていないとわかるや胸を撫でおろした。なんというか、あまり人に知られぬ宝物のように思うていたのだね。何年も前から、平井呈一名義の本に未収録のかれの文章を数編、まとめて解題しよう、それを本ブログに載せよう、と考えプランを作り書きかけたのが他に目移りしていったん棚上げし、そのまま己の懶惰と怠慢が祟って令和五年の先月五月末に遂に……咨! まぁでも、まだ〈タマ〉はあるさ、と反省の色なく先延ばし。

 平井呈一の怪奇小説の翻訳、どれもとても味とぬくもりがあって、年齢を重ねるにつれてこの人の文章や言葉遣いが馴染んでくる。10代の頃に『怪奇小説傑作集』と『恐怖の愉しみ』の洗礼を受けて、その後に書く自分の文章にもどれだけの影響を及ぼしてきたか知らない(他の怪奇党の方々もそうであろうが、こわい話・気味の悪い話・ぶきみな話・ふしぎな話を好むようになったのは『怪奇小説傑作集』と『恐怖の愉しみ』なくしてはあり得ぬ。要するに、これらとの邂逅によって人生がちょっと違う方向へねじ曲げられたのだ。就中前者第一巻の解説、その結びに……)。
 それは翻訳についてもエッセイについても然りなのだけれど、とはいえ、失礼ながらそろそろ食傷気味になってきたのも否めぬ事実だ。
 平井呈一という不世出の翻訳家の全貌を窺い知るための材料、その文章の妙味を味わうメニューとして今後、なるたけ間を置かずに復刊する必要ありと思うのは、クイーンやセイヤーズ、カーやヴァン・ダイン、デ・ラ・トア、ヘンリ・セシルらの推理小説と、「青春のまたとない思い出」として上梓したアーネスト・ダウスンの全小説集『ディレムマ』、『おけら紳士録』を始めとするW.M.サッカレーの諸作、オスカー・ワイルドの童話や小説、あたりなのだが如何であろう?
 それにしても、つくづく残念に思うのは、荒俣や紀田順一郎が一度は手にして読んでいた平井の回想記「明治の末っ子」がいま以てなお行方不明であることだ。これが出現すれば、これが出版されれば、どんなにか喜ばしいだろう。◆

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第3650日目 〈並列読書って、誰でもしてなくない?〉 [日々の思い・独り言]

 場所によって読む本を換えよ。その場所に本を置いておけ。
 ──成毛眞が著書『本は10冊同時に読め!』(三笠書房 2013/04)で主張するのは、この一点である。分量にしてわずか数ページ、他は壮大なる著者の読書論、購書論……しかも偏狭な。
 並列読書。著者はそう呼ぶ(但し命名者は別の由)。それはどのようなものか。曰く、──

 「超並列」読書術とは、1冊ずつ本を読み通す方法ではない。場所ごとに読む本を変え、1日の中で何冊もの本に眼を通す読書法である。(P12)

──と。
 数をこなす本読みであれば誰もが採用する結果になる読書術であり、家のあちこち、普段使いする荷物のなかに、本を置いておくのも同じだ。つまり、そうした人々にとってはなんら目新しいところのない手法なのである。でも、あまり読書しない人、1冊集中型の人には良くも悪くも新鮮な読書術かもしれない。hontoやブックメーターのレヴューを眺めていると、却ってそうした人たちの受け止め方に、成る程、と首肯して教えられるところもあるのだ。
 「本を読むのであれば、あらゆるジャンルの本をバランスよく大量に読むべきだ」(P68)と説く著者は、では何処で、どんなシーンで、どんな本を読んでいるか。105-6ページに、「『超並列』読書術で1ヶ月に読んだ本」(P105)として10冊が挙げられている。そのリストに続けて曰く、──

 このように、見事にバラバラである。
 ギャンブルに関する本もあれば、インドのIT産業についての本もあり、料理の本もある、という具合でそれぞれに関連性はない。仕事に直接関係があるともいえない。
 だが、これらの本は確実に私の血となり肉となっている。必要ではない本を読むのは一見ムダのように思えるが、意外なところで役に立つのだ。(P106)

──と。
 意外なところで役に立つ。それは佐藤優や出口治明など不断の読書を欠かさぬ知識人たちが異口同音に述べるところでもある。相手の人種国籍を問わず、読書によって蓄えられた知識はいつでも引出しから取り出して、相手にわかりやすく説明できるようにしておくこと。それは(超)並列読書術を用いる読書人ならではの、最大の武器でありコミュニケーション・ソースとなるだろう。──斯くいうわたくしも、読書で得た知識やトリビアを、馴染みのクラブで披瀝してその場の会話を盛りあげることもある(あった)。
 おっと、話が逸れた。
 成毛眞は、自宅のあちこちに本を置き、自宅のあちこちで本を読み、リビングでは置かれた50冊以上の本のどれかを読み、寝室には2冊か3冊が常置されて寝る前にそのどれかを読む。トイレのなかでも浴室でも、片時も本を手放すことはない。否、本のある場所にいつもいる。通勤用のカバンにも、会社の机の上にも、本はある。かれは本のある場所でしか生きていない。
 が、そんな風にして自宅のあちこちに、通勤用のカバン(リュック)のなかに、本を備えておいて、いつでもどこでも読める環境を整えておきさえすれば、著者のいうように、「あらゆる場面で『合間読み』と『ながら読み』をしていけば、月に数十冊読むこともわけないだろう」(P81)。
 とはいえわたくしは、本書を称賛する者に非ず。得るところ、首肯できるところはここに引用した箇所、触れた部分くらいで他は然程の内容とも思えない。むしろ仕事と読書にウツツを抜かして地に足着けた生活感覚や、他者の行動原理に想像力を馳せる能力を欠いた〈尊大の親玉〉の姿がページのそこかしこから浮かびあがってくる。
 85ページを例に挙げようか。ラーメンやアトラクションに行列する人がいたら、まるで理解できない、と切り棄てるのではなく、どうして行列をしてまで食べたいのだろう、その店やアトラクションのウリはなんなのだろう、メディアで取り挙げられたのならそれがターゲットにした層以外の人がもし並んでいたら、どうしてその人は行列に混じって並んでいるのだろう、……など情報と印象と想像力を組み合わせて考えてみるのが、経営者の視点なのではないのか。
 この件りが、己の読書術を際立たせる為に仕組んだ敢えてのフェイクであったらば、わたくしはまんまと著者の術中に嵌まったことになるが、まァ、そんなことはないだろう。こちらの過大評価でしかあるまい。
 ──それでは本来すべきの話に移る。本稿タイトルを見て、まさか『本は10冊同時に読め!』の感想だと思うていた人はあるまい。要するに、これにかこつけて、自分の話がしたかったのである。えへ。
 母を亡くして家に居る時間がより一層増えたためか、いままで本を置いていなかった場所にも本が置かれるようになった。置かれた場所にいるときは、そこにある本を読むようになった。とはいえ居間にあった本は一昨日、殆どすべてを撤去した。先程の成毛眞ではないが、撤去以前のリビングには10冊ばかしの本──文庫、新書、単行本、コミック、洋書、雑誌が置かれていたのだ。殆どすべてを、他の部屋へ動かした(残ったのは、『きょうの料理』最新号と前月号、ポケット六法、ニコラス・スパークス『Every Breath』[奥方様]、杉本圭三郎・全訳注『新版 平家物語』第二巻、以上5冊である)。娘が歩きまわるようになったので、危険要素はあらかじめ除くに如くはなし、と夫婦して判断したためだ。
 ついでに申せば、通勤時のリュックには、森功『菅義偉の正体』を入れてある。寝室のベッド脇(わたくしの側)には村上春樹『街とその不確かな壁』、山本博文『歴史をつかむ技法』がある(いずれも05月26日時点)。尾籠な話になるが階下の厠には、わたくしが読むものとして、読進中の小泉悠『ウクライナ戦争』の他、次に読むものとして待機中の小山哲・藤原辰史『中学生から知りたいウクライナのこと』、並木浩一・奥泉光『旧約聖書がわかる本』、佐藤宏之『気分はグルービー』、が積んである。そうして階段のニッチには立花隆の本が2冊(文藝春秋編『立花隆のすべて』と立花隆・談/會田純一・写真『立花隆の本棚』)といった具合だ。ただ、どうしてこんな所に本があるのかは不明。
 家のあちこちに本がある。そのメリットは、そこで読む本をあらかじめ物色する手間が省けることだろう。そのデメリットは、分散式読書ゆえになかなか読み終わらぬことだ。厠での読書なんて特に、ね。この場合は痔にならぬよう注意を払わねばならない(笑うなかれ、本気の注意喚起だ)。
 けれども、どこに置いてある本でも着実に前へ進んでいる。ほんの数ページであっても、そこにいる時はそこにある本を開くのが習慣になる。たといそこにいる時間が短くとも、何行かでも読めればシメタものではないか。本を読む人は、量ばかりではなく時間についても、「塵も積もれば山となる」てふ諺の誠なることを考えてみた方が良い。──但し、厠での読書にあたっては、くれぐれも痔にならぬよう重ねてご注意申し上げる。キリの悪い箇所でも中断する勇気を持て。
 「塵も積もれば山となる」、それが証拠に、厠での読書であった小泉悠『ウクライナ戦争』は(たしか)先月04月10日あたりから読み始めて、1ヶ月半程経った今月05月26日現在残りは27ページ。或いは、寝しなの相棒山本『歴史をつかむ技法』は05月15日から始めて上述日現在でほぼ半分。どれも毎回数ページしか進まない、進められない。読書は生活を支える杖に非ず。それでも細切れの時間を主に活用してここまで進んだのだから、「塵も積もれば山となる」式読書の好例というに支障はあるまい。
 森『菅義偉の正体』は、既読本では詳述されなかった横浜時代や、アプローチのやや異なる秋田時代と上京後のあたりがなかなか興味深い記述にあふれているためもあって、ちょっとゆっくりめの読書になっている。それでも藤木企業との関わりを深彫りした章「港のキングメーカー」を終えたそのあとは既読本でも散々触れられてきた国政に転じて後の話となる様子なので、或る程度の流し読みでも構わぬか……と思うていたが、そんなことはなかった! それは甘い見通しだったのだ。
 小此木彦三郎の秘書となったときを出発点とする〈影の横浜市長〉時代、初当選から総務相、官房長官を歴任した〈影の総理〉時代を、菅本人や関係者、ゆかりの人等へ取材した際の記録を折々交えているせいで、読み手のこちらは、特定の出来事についても既読本に較べてより立体的に捉えられることができる。かなりの読み応えがある証拠だろう。──ゆえにこちら(『菅義偉の正体』)は05月13日あたりから始めて2週間になる上述今日時点でようやっと半分超、238ページに達したところだ。残りは150ページである。
 ここまでを煎じ詰めれば、(ほぼ)毎日少しずつ、ゆっくりとだが着実に前に(読了に)向かって歩を進めている、ということ。痔になる前に、眠くなるまでに、目的地に着くまでに──タイムアップするまでに。亀の歩みでも欠かすことがなければ確実にゴールへ到達できるのだ。
 もうひとつ、肝要なのは、読書のための環境──読書せざるを得ない環境を無理矢理でも作り出して、そこに身を置くのを当たり前にしてしまうことだ。電車のなか、厠のなか、ベッドのなか──用事を済ませるまでは、目的を果たさぬ限りは、動くことのできぬ場所での読書程捗るものはない。
 ここでわたくしが思い起こすのは、バーナード嬢こと町田さわ子と佐藤優である。理想の読書環境としてド嬢が挙げたのは、独房(監獄)、であった。国策捜査によって偽計業務妨害等の疑いで逮捕された佐藤優は、留置場で数百冊の本を読み倒した(『獄中記』巻末を参照せよ)。甚だ無礼ではあるが、ド嬢の絵空事の域を出ぬ理想の読書環境はその真なることが佐藤優によって実証されたわけだ。……でも、誰でもこんな環境での読書だけはご免被りますよね。
 日々の生活や未来の計画を犠牲にした読書、家族を哀しませてまでする読書に、果たしてなんの価値がありましょうか。人生を損なってまで行う読書に、なんの愉悦がありましょうや。
 ──というわけで、母亡きあと自宅の幾つかの場所に本が置かれるようになった。そこに置かれた本を、そこにいる間は読むようになった(並列読書の実現)。結果として、読む本が多くなり、ますます知を渇望するようになった。知識欲に限界はない。ファウスト博士がそれを証明した。
 本稿は読書を重ねることで更に知を渇望する男の、予定外に長くなった〈独り言〉──毎度御馴染みの〈とはずがたり〉である。◆

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第3649日目 〈ちかごろ同じ話題ばかりでツマラン、というてきたと或る読者に。〉 [日々の思い・独り言]

 「最近は本の話ばっかでツマンネー、他の話題はないのかよ」と直接いってきた、と或る読者のご質問にお答えしたい。おそらくそれが、大多数の読者諸兄が思うていることでもあろうから。
 いやいやまったく、ツマラン気分にさせて申し訳ない。
 同じ話題が手を替え品を替えて続くのは、最近殆ど家に居て、外に出ることが余りないからなんだ。本の話以外に書きようがない、と開き直っているわけではない。
 わたくしも最近は、本の話ばっかりだな、と反省している。事態の改善にはかなり時間がかかりそう。為、咨モナミ、君よ、それまで他をぶらついて来なさいな。
 本以外の話題を頻出させられるようになったら、その時はまた君の名前を呼んでみるからさ。わたくしの声が聞こえたら、帰ってくるといい。
 アディオス!◆

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第3648日目 〈わたしの人生を決めた本──『文藝春秋』2023年5月号特集に倣う。〉 [日々の思い・独り言]

 本のない生活は想像できぬ。本を読まない生活は想像できぬ。──いったいどうして、こんなわたくしが作られたか。
 『文藝春秋』2023年5月号の特集は「私の人生を決めた本」だった。「読書家81人による史上最強のブックガイド」と銘打ち、池上彰や鈴木敏夫、矢部太郎、スピードワゴン小沢らが思い思いに、これまでの人生で出会い、その後の自分に影響を与えた、自分を変えた本を、語っている。たとえば、第二次岸田改造内閣で外務大臣を務める林芳正は、安岡正篤『百朝集』を挙げる。Aマッソ加納愛子は司馬遼太郎『龍馬がゆく』、宮崎美子はウィリアム・サロイヤン『人間喜劇』、角川春樹はナポレオン・ヒル『巨富を築く13の条件』を……と続いてゆく。
 翻って──僭越ながら筆者がいちばん勝手のわかっている某人物の場合は、といえば……
 人生を決めた本、なんてそうザラにあるものではない。某はそう語る。
 中高生の頃に読んだ本はどんなものでも(良きにつけ悪しきにつけ)血となり肉となり、今日でもふとした折に読んだり思い出すこともあるけれど、ではそのなかに果たして、人生を決めた本、っていうものがあったかどうか。
 両腕を組んで小首を傾げて「ふむ……」と思い出そうとしても、読書家81人が熱弁する如く強い思い入れを抱く本があったのか、人生の節目に出喰わして決定的な影響を被ったような本と出会っていたか、すこぶる疑問だ。
 「私の人生を決めた本」なんてあったっけ。あるとすればどの本がそれに該当するかな。半月ばかり、考えた。時に書架を眺めて、ダンボール箱を引っ繰り返して、考えてみた。
 結局のところ、これまでも本ブログで(何度となく)触れたことのある、10代20代の頃に読んだ本なんだよな、それって。
 筆頭は渡部昇一『続 知的生活の方法』だろう。『発想法』や『国語のイデオロギー』もそうだ。生田耕作『黒い文学館』と『紙魚巷談』、平井呈一『小泉八雲入門』と(30代になってすぐに出版された)『真夜中の檻』も逸することができない。
 小説となれば枚挙に暇がない。赤川次郎、久美沙織、氷室冴子、新井素子、辻真先。スティーヴン・キング、クライヴ・バーカー、H.P.ラヴクラフト、アーサー・マッケン、エミリ・ブロンテ、ゲーテ、ヘッセ。勿論、その他諸々。
 とはいえ、今更かれらの作品を、「私の人生を決めた本」と決めつけてしまうのは、疑問符を付けざるを得ない。
 ……そこで、記憶の根本まで潜ってみることにした。上に挙げた以外の人物による本があるかもしれない。そんな期待をかすかに抱いてのことだった、のだけれども……
 実は考えてみるまでもなかった。無意識に、上に挙げなかった書き手がいたことを、書名を挙げなかった本のあることを、思い出したからだ。つまり、──
 わたくしはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズによってミステリに、イギリスという国に魅了されたのだ──それは母方の祖父から贈られた『緋色の研究』で始まった。
 わたくしは和歌森太郎:考証・解説『学習漫画 日本の歴史』と樋口清之監修『日本の歴史を動かした人びと』によって歴史に関心を持つようになったのだ。
 わたくしは幼稚園の頃両親が毎夜読んでくれた『ママお話きかせて』で〈おはなし〉の愉しさを知り、この世界に物語なるものが星の数程もあると知り、一方で本を読む歓びを覚えたのだ。
 わたくしはドイル同様母方の祖父から贈られた北村泰一『カラフト犬物語』によって南極に憧れ、高校に進学すると極地や秘境探検物を好んで読むようになったのだ。
 わたくしは兄が持っていたゲルハルト・アイク『中世騎士物語』によって、世界の伝説に惹かれるようになったのだ。
 わたくしは旧ソ連のSF小説作家アレクサンドル・ベリャーエフ『宇宙たんけん隊』によって宇宙に憧れ、そこを舞台とした物語に心躍らせるようになったのだ。これも兄が読んでいた1冊だ。
 どれもこれも、幼稚園から小学校卒業までわたくしの周囲にあって、飽きることなく読み返してきた本だ。そうしてこれらいずれも歳月を経て、災禍を乗り越え、幾度もの蔵書処分をまぬがれて、現在も書架やダンボール箱のなかにある。うち刊年の最も新しい本でも既に35年以上が経過していることは、わたくしの年齢を考えれば敢えて申しあげるまでもない。……やれやれ。
 今後も大なり小なり影響を被る本と出会うだろうが、そのうちのどれも、人生を決めた本、にはならない。当たり前の話だ。
 けれども──行き当たりばったりで、特に「これ!」と一点執着することもなく雑多に読み漁ってきただけの本好き、趣味:読書の男であっても、すこしく記憶を探って「人生を決めた本」を探し当てられる(それも、幾つも!!)幸せは噛みしめられるのである。◆

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第3647日目 〈無味乾燥な政治家の本を書いたのは誰か。〉 [日々の思い・独り言]

 相も変わらず、性懲りもなく、本の話。
 政治家が書いた(とされる)本。政治家について書かれた本。政治について書かれた本。そんなのを、日中は読んで過ごしている。いつもじゃないが、外出した際に読むことが多い、という意味で。いまは前首相にして元官房長官名義で出版されている本だ。
 わたくしが声を大にするような話ではないし、そもそも冷静になって考えると自分に言う資格があるのか甚だ疑問であるが、要するに、政治家が書いた(とされる)本を読んでいると極めて退屈で、欠伸が出る。なぜならば、政治家名義で出版された本は数こそあれど、無味乾燥な文章がだらだら続き、読ませる技術が劣った本が、その圧倒多数を占めるからだ。
 これまで何人もの政治家の本──現役であれば政策や国益について熱弁したプロパガンダ文書、引退していればお決まりの自己擁護が跋扈する回顧録──を読んできた。好きでいろいろ読んできたのだ。それゆえ余計にかれらの著書を無味乾燥、平板稚拙、なんて思うのかもしれぬ。が、それも仕方のない話である。だって、これは……! と膝を打つような「読ませる文章」で書かれた本にお目に掛かったこと、今世紀に入って1冊もないんだから。
 文章のプロではない政治家が本当に自分でワープロなりパソコンなり万年筆やらなにやらで、つまり自分の手を動かして書いているなら、文章の稚拙や平板ヤマなしオチなし自慢と自己顕示がのんべんだらりと、果たしていつまで続くのか……と思うても仕方ないだろう。まぁそう考えると、元東京都知事で芥川賞作家でもあった某氏って凄いよな、と、その筆力に改めて頭を垂れる他ない。
 けれど、そんな政治家──実際に自分の手を動かして本を書いている政治家はいまの世にどれだけいるか。少数派であるのは間違いない。では、それ以外の人たちが自身名義で出した本は、誰によって本当は書かれたのか? むろん、ゴーストライター、である。
 政治家の周辺にいるスタッフなのか。フリーランスのジャーナリストなのか。長年その政治家を取材してきた報道機関の記者、或いは編集委員・解説委員の類なのか。まさか一般公募ではあるまい。いずれにせよ、第三者の手によって書かれて当該政治家の検閲を経て出版社に原稿が渡っていることは、たしかだろう。
 実際に書いたのが誰であるにしろ、その文章力には目を覆う。スタッフであればその情状、同情の余地は多分にあるが、その正体がジャーナリストであったり報道機関に所属する人物であったなら──なんでこんなに読ませる力の欠落した、生気の抜けた文章を書き殴ることができるのか。もし「如何にもその政治家が書いたように、文章はちょっと素人っぽく演出しました」なんて理由ならばそんなもの、トンチキの極みだ。その政治家の知力を愚弄しているように映る。
 政治家は自身名義の本を自分で書くべし、なんてことは言わない。言えないし、言う気もない。その時間を他の、自分の本業に費やしてほしい。が、政治家へのインタビューをまとめあげて1冊の本に仕立てる黒子役を担う人たちは、せめて自分が文章を書くプロである、文章を書くことでお金を稼いでいる、という矜恃を常に保ち、たとえ自分の名前が出ない本であっても文章を書くテクニックを存分に駆使して執筆に臨んでほしい。それは願いだ。
 人物インタビューを構成して読むに耐える本を仕上げる自由は、教科の参考書や資格取得のテキスト、住宅ローンや住宅購入の本などに較べれば、実はかなりあって融通も利くはずだから。せめて課せられた制限のなかで、自分自身を出すことなく、けれどそれまで自分が培ってきたテクニックや経験則を存分に叩きこんで、1冊の本を書きあげる時間を愉しんでほしい。◆

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第3646日目 〈塵も積もれば。──次に読む本を選ぶ楽しみ。〉 [日々の思い・独り言]

 まこと、至福の時は夜、床に入って電気を消すまでの時間。すぐには寝附けぬから、奥方様としばし話したあとでおもむろに、枕辺の本を開く。奥方様も同じだ。
 三鬼清一郎『大御所徳川家康』(中公新書)があともう少しで読み終わる。残すは第9章と第10章。大坂の陣も終わり、武家諸法度と、禁中並公家諸法度も発布し、幕府体制がこんにちわれらの知るような形となって、家康自身は駿府で文字通りの、人生初めての楽隠居の時間を持つ。
 ほぼ毎晩、ちょっとずつちょっとずつ、ページを舐めるようにして読み進め、あと40ページ程で読了となる。別稿で挙げた『ウクライナ戦争』同様、読めても精々が小見出し1個から2個分が限度。千里の道も一歩から、とはその稿に付けたタイトルでもあるが、こちらも同じで──それでも敢えて別のいい方を探せば、塵も積もれば山となる、か。この『大御所徳川家康』はTwitterで読了ツイートした後に感想文を認める予定でいる。
 そろそろ次の本を選ぼう。これもまた、至福の時。さっきまで自室に籠もって書架を倩眺めてあれこれ棚から出してぱらぱら目繰り、さてどうしようかなににしようか、と思案に暮れていた。日本史上の人物を描いた新書を3冊(村井康彦『藤原定家『明月記』の世界』と兵藤裕己『後醍醐天皇』、いずれも岩波新書)、寝しなに続けて読んできたから、次も日本史で、けれど人物中心ではなく特定の出来事や美術、或いは歴史全般にかかる本にしたいな、くらいしか考えず、選んで手にして目繰り、戻しては手にして目繰り、を繰り返し。
 あれやこれやを経て取り敢えず自室から持ってきた(=どうにか選べた)のが、山本博文『歴史をつかむ方法』(新潮新書)と水野敬三郎『奈良・京都の古寺めぐり 仏像の見かた』(岩波ジュニア新書)だ。
 どちらも買ってそのまま放置に等しい扱いをしていた。贖罪では勿論ないが、人物中心の本を読んできたから一旦ここでそれはリセットし、視点をすこし変えた日本史の本を読んでみようかな、と思うた次第。
 現行の、高校の日本史教科書(『改訂版 詳説 日本史B』山川出版社)も考えたけれど、今回は見送った。寝ながら読むには腕が耐えられそうにない、てふ消極的もやしっ子的理由による。そもそも寝転がって読むには難儀な判型、嵩だしね。寝落ちしたときの惨事を想像したら……咨!
 じゃあ蘇峰『近世日本国民史』でも良いじゃん、となりますが、こちらは引用史料の漢文が白文のままと云うこれまた消極的理由が手伝って、見送り。ちゃんと起きているときに読む本ですよ、このあたりは。
 ──『大御所徳川家康』読了にはまだ時間を要す。それまでにどちらを読むか、或いは他になるかもしれぬが、次の本を考えよう。──ちなみに奥方様はいま、赴任中にかの地で購入した、ロシア語の建築史の本を読んでいます。◆

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第3645日目 〈千里の道も一歩から。──小泉悠『ウクライナ戦争』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 あまり長くいると体に支障を来す場所で、小泉悠『ウクライナ戦争』を読み耽るようになって早1ヶ月。一度に読めるのは、精々2ページから3ページ、小見出し1個分くらい。それでもどうにか半分まで来た。正直、いつ読み終わるのかな、不安にならないでもないが、知らないことを知る愉しみには抗えない。だからそこへ行くときは手ぶらで、ふらり、扉を開けて座を占める。
 昨年2月に始まったウクライナ戦争についてはピンからキリまで、星の数程の本が出版されて新刊書店の棚の一大勢力となっている。新聞は日々、戦況や政治情勢について報道し、節目にはこれまでの流れを総括した記事を載せたりもする。テレヴィやSNSも同様だ。
 情報は膨大にあって、休む間もなくわれらの許へ押し寄せる。情報(ニュース)の真偽を見極めるどころか、この戦争について基礎的な知識や理解も定着しないまま新しい情報に呑みこまれていまに至っているのが、実情というべきだろう。
 それをすこしでも是正したくて読み始めたのが、上述の1冊。こういう本は無理矢理でも読む環境を作らないとページを繰り続けて最後まで到達しないから(わたくしの場合)、まァそういう場所に常置して半強制的に読むよう自分を縛りつけるのだ。
 著者は、2014年のロシアによるクリミア半島併合とドンバス地方での紛争を第一次ロシア・ウクライナ戦争、昨2022年2月24日のロシア侵攻に始まった今回の戦争を第二次ロシア・ウクライナ戦争と位置づける。なお著者には、第一次ロシア・ウクライナ戦争を取り挙げた『現代ロシアの軍事戦略』という本があって、併読必至の1冊だ。
 本書が一線を画した特徴を持つのは、他が専ら政治の面、もしくは人道的な面からこの戦争を取り挙げる(後者は大抵現地リポートの体裁を採る)のに対して、『ウクライナ戦争』は著者の専門であるロシアの軍事・安全保障の方面から、開戦に至るまでの経緯と背景を跡づけた点にある。
 これを読んでいると新聞やテレヴィで報道されるニュースの背景──各地での戦闘やロシア軍の侵攻撤退の事情、ウクライナ軍が善戦できる理由、NATO加盟国によるウクライナ支援の裏で蠢く思惑といったものが見えてくる。筋道立った話として眼前に立ちあがってくるのだ。すくなくとも類書よりはこの戦争に関して得る知見は多い。
 とはいえ、──
 1ヶ月ばかりを費やしてようやく半分とは、随分とゆっくりしたペースである。が、千里の道も一歩から、という。日々着実に、すこしの分量でも読み進めるのが、何だ彼だでいちばんの早道なのだ。通勤もそうだけれど、毎日なかば強制的に発生する時間には、こうした本(専門書と入門書の境界にあるような本)が最も相応しいかもしれない。◆

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第3644日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉12/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←FINISHED!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)←FINISHED!
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)←FINISHED!
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)←FINISHED!
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)←FINISHED!
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)←NOW!


 十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)
 『新古今集』全1979首(岩波文庫[佐佐木信綱校訂1929/07、1959/02改訂 底本;穂久爾文庫蔵鎌倉時代古写本]に拠る)から朔太郎が選歌したのは121首。1/16程度である。かつて自分が『新古今集』を読んで斜線を引いた歌と重複するのは、半分に満つか満たぬか、という感じ。
 それでも『古今集』や「六代集」以上に、『新古今集』の章には深く興味を覚えるところが少なくなかった。と或る歌人の遇し方について、朔太郎といまの自分の扱いは似ているな、と思うたのだ。その歌人を、藤原定家という。
 藤原定家は平安末期から鎌倉初期の公卿で、『千載集』選者藤原俊成の息子。歌人、歌学者として当代随一の存在として、後鳥羽上皇と並んで新古今歌壇の頂点にあり、新古今調と呼ばれる技巧と歌風を確立した。『新古今和歌集』選者の一人である。〈歌の家〉御子左家を俊成と共に興して、歿後も長く影響を後世まで与えた(呪縛し続けた)。御子左家は定家息為家の時代に二条・京極・冷泉の三家に分裂して前二家は早々に断絶したが、為家から先祖伝来の文書を相伝された冷泉家は近代になると入り婿を繰り返して今日まで定家の血脈を繋いでいる。代表的著作に歌集『拾遺愚草』と日記『明月記』がある。
 『新古今集』に載る定家の歌から朔太郎が選んだのは、わずかに3首。全121首中、たったの3首である。つまり、──

 年もへぬ祈る契りは初瀬山 尾上の鐘のよそのゆふぐれ
(P138 巻十二恋歌二 1142)

 春の夜の夢の浮橋と絶えして 峯にわかるゝ横雲の空
(P138 巻一春上 38 編外秀歌)

 帰るさのものとや人の眺むらむ 待つ夜ながらの有明の月
(P162 巻十三恋三 1206)

──である。
 いずれも有名な歌で、良くも悪くも定家らしい詠物。新古今調の典型である。いま本稿を書きながら岩波文庫の『新古今和歌集』を目繰っていたが、なんと、朔太郎が選んだこの3首のなかで当時のわたくしが斜線を引いたのは1首のみ、「春の夜の夢の浮橋途絶えして」だけだった(ちなみに今回『恋愛名歌集』ではただの1首にも斜線を引かなかった)。歌の下にはこんな書込みを、10代中葉のわたくしは残している。曰く、「全テニ優ル歌中ノ歌也。此ノ優艶詞情謌ノ極ミ也」云々。
 ──正直なところ、いまもその気持は変わらない。ただ「全テニ優ル歌中ノ歌」てふ箇所には疑問符が付く……要するに1990年代中葉に『新古今集』を丸ごかしに読んでいたこの貧書生は、自分が実際に──古典和歌を範とした──短歌を詠んでいたこと(『短歌研究』という雑誌に投稿歌が選ばれて掲載されたことが、こんにちに至るも殆ど唯一のささやかな自慢だ)、大学に残り古典学者としてどうにか身を立てようと奮闘していたこと、この2点に立脚して古典和歌を、就中勅撰和歌集を片っ端から読み倒していた時分だったから斯様な書込みを残したのであろうが……いまとなってはとてもじゃないが、そこまで賞揚する気にはなれない。
 この「夢の浮橋」は、高校の古典の教科書にも載っていた、と記憶する。俊成卿女、宮内卿の歌と共に印象深く心中に在り続けた一首だ。顧みるまでもなく根本的な好みに変化はないようだ。もっとも、高校生のときよりも、20代中葉〜後半のときよりも、然程の感銘を受けなくなっているのを発見してしまうたのは、すこぶる淋しいところではあるけれど……。
 さて。
 歌学者としては認められても、歌人となるとどうもなあ……というのが朔太郎の本音、基本的根本的な定家観といえるだろう。それは「春の夜の夢の浮橋途絶えして」に付した評言のなかでも明らかだ。引用すると、──

 定家の歌を読んでみると、その修辞の精巧にして彫琢の美を尽くしているのに驚嘆する。そうした彼の作歌態度は、時に数学者の緻密な係数方程式を聯想させる。彼はその美学を根拠として、歌を高等数学の函数計算表で割り出して居る。この意味で定家は正に構成主義の典型的歌人であり、……即ち一言にして言えば定家の態度は、美学によってポエジイを構成する所の純技巧主義であったのだ。(P139)

 実に新古今の技巧的構成主義を美学した者は定家であったが、それを真の詩歌に歌った者は、他の西行や式子内親王等の歌人であった。定家その人に至っては、彼の美学を歌の方程式で数学公理に示したのみ。それは単なる美の無機物にすぎないので、詩歌が呼吸する生きた有機体では無いのである。(P140)

──と。
 短歌をこき下ろす際に使われる常套句の1つに、こんなのがある。曰く、三十一文字(みそひともじ)の言葉並べに過ぎず心が入っていない、云々。早い話、朔太郎の定家詠物もこの域を出る歌ではない。朔太郎にいわせれば定家の短歌が宿すのは、〈詩情 ポエジイ〉とではなく〈高等数学のロジック〉なのだ。そんな観点から改めて定家の作物を、若いときから順番に読んでゆくと……成る程、朔太郎のこの評価に納得できる部分が多々あることに気附かされる。その歌風に変化が生じるのは、承久の乱が勃発して後鳥羽上皇等が配流された後の時代から。定家単独編纂の『新勅撰和歌集』や、岩波文庫やちくま学芸文庫の『藤原定家歌集』でそれを確認する事ができる。
 寄り道のお話になる。
 1990年代のいつであったか、NHKの番組で『百人一首』が取り挙げられた(番組名は勿論司会が誰か、ゲストが誰か、もう覚えていない)。むかしから疑問が呈されてきた、選ばれた作物や歌人、またその配列について新しい見解を示す内容だった。これまでも『百人一首』に選ばれた歌に含まれた固有の言葉を配列し直すと、かつて後鳥羽上皇が造営した水瀬離宮の建物や景観を彷彿とさせる、なんていう説などがあった(『百人秀歌』が破棄されて『百人一首』が再度選定されたのも同じ理由から)。
 この番組で示されたのは、『百人一首』を一定の法則で並べ直すと、デューラーを想起させる十乗魔方陣が浮かびあがる、という説であった。残念ながら詳細はすっかり忘却の彼方だが、魔方陣という高等数学を基にした遊戯の産物が事もあろうに『新古今集』を代表する定家の、これまた日本国民であれば知らぬ者のないかれの代表的業績たる『百人一首』と結びつくとは! いや、とんでもなく興奮しました。親しんできた『百人一首』にそんな仕掛けがある(と考える余地があった)とは。
 上に引いた朔太郎の定家詠物評を読んでわたくしがいちばんに思い出したのは、実はNHKの番組で提示された「『百人一首』=十乗魔方陣」という新説だったのだ。発言のフィールドこそ『新古今集』と『百人一首』という違いこそあれ、両者にかかわるは藤原定家その人である。ならば朔太郎の定家評──高等数学のロジックで読まれた(作られた)歌の作り手──と『百人一首』に於ける十乗魔方陣構築説の生まれる所以がふしぎな響き合いをしたとしても、なんら不自然ではないだろう。
 以上、寄り道終わり。
 さて、さて。
 朔太郎の定家評を読んでこれまでの、わが定家詠歌への没頭の浅深を顧みると、長じるにつれてそこから離れて行き(忌避、というてもよいか)、かつて程の瑞々しさを感じられなくなっていたことがわかる。
 仕方なしの側面はある。見てくれの美しさ、纏った衣装や施した化粧に目が眩んでいた若い頃と、年齢を重ねていろいろ経験し、ものを見る目を多少なりとも(望もうと望まざると)養われた現在だからこそ感じられる詠まれた心の深さ、誠へ想いを致すのとでは、受け止め方に歴然たる相違があるのは可笑しくない話だ。花よりも実、ということだ。
 ここで今一度われらは、朔太郎が総論にて新古今短歌へ与えた痛烈な一言を思い出して然るべきかもしれぬ。曰く、「化粧された屍骸の臭気」(P217)と。
 またまた寄り道というか脱線というかになるが、自分の経験を踏まえて提案すれば、『新古今集』と定家や良経、式子内親王、後鳥羽上皇等に代表される所謂新古今歌壇の人々の詠歌こそ、若いうちに読んでおけ、それも四の五のいわずに最初から最後まで、と云いたい。
 感性の瑞々しいうちに、感受性の豊かな年頃のうちに、なんでも消化できる咀嚼力の強いうちに、読んでおくべき文学は沢山あるが、わたくしにいわせれば『新古今集』と定家らの短歌はなかでもその最右翼を成す。ドストエフスキーもミッチェルも、プルーストもバルザックも、『源氏物語』も『三国志』も、そんな時代でないと読むこと能わざる文学であるよ。そこに『新古今集』も加えておけ、と云うかこれをイの一番に読んだ方がいい。詩、という代物、たいていの人は長じて読まなくなるジャンルの代表選手なのだから。
 英国の抒情詩人、ロバート・ヘリックは誠に良いことをその作品のなかでいうている、即ち、「薔薇のつぼみを摘むのならいま、/時の流れはいと速ければ/きょう咲き誇るこの薔薇も、/あすは枯れるものなれば」、と。……最近この詩句を指して、林修先生の「いつやるの? いまでしょ!」と同じですね、というた人が居ったけれど、なにも反論できませんでしたね。だってその通りだもの。
 またまた余談が過ぎた。
 『新古今集』の章を読み終えた直後、章扉にこんな感想を綴った。曰く、──

 元より式子内親王と西行の歌選ぶこと多しが/その儘朔太郎の古典和歌館を反映集成している。 / 万葉振りの歌風精神を持つ西行と / 恋歌に精微な技巧と濃艶なる情の綾を織りまぜた / 式子内親王とである / このあたり好み合うところ少なからずで、式子内親王 / と西行の歌は我も又多く選ぶところとなった。 / 令4師走10午前(ママ)

──と。
 実際の数字で示してみよう。新古今に載る西行法師の歌は全94首、その内朔太郎が選ぶは17首で、更にわたくしが斜線を引いたるは4首であった。同様に式子内親王は全49首の内17首を朔太郎は選び、そこから10首にわたくしは斜線を引いた。
 式子内親王の歌は、いずれも生涯のエヴァーグリーンだ。が、西行は──斜線を引いた歌が存外に少ないことに唖然とした。間違いかと思うて3度、数え直した程だ。が、この数に誤りはなかった。
 とはいえ、20代の頃、私家集『山家集』や『千載集』以下の勅撰入集歌を読んでも、ピン、と来るところ少なかった西行の歌を、朔太郎というフィルターを通してとはいえ、改めて賞味して、いまの自分の心境と重なったり共鳴するところが大きいな、と再発見できたのは喜ばしいことであった。もっとも、反比例するように定家の歌への共鳴や思慕の念著しく減って3首の内1首にのみ斜線という結果に落着した一抹の淋しさはあるけれど。どの世界、どんな行いにも代償は付き物のようである。人を呪わば……? いや、それは違うでしょう。
 『新古今集』選歌の章で斜線を引いたものを記して、擱筆へ向かいたい。その名、その数、即ち、──

 式子内親王  10首
 西行法師  4首
 藤原良経  3首
 和泉式部  2首
 藤原家隆
 法橋行通
 後徳大寺左大臣
 高内侍
 藤原保季
 宮内卿
 源通具
 藤原興風
 小侍従
 藤原顯輔
 藤原範永
 大伴家持
 柿本人麿
 藤原実方
 在原業平  以上1首

──以上、19人34首である。
 かつて自分のなかにたしかにあった『新古今和歌集』への愛着、憧憬は、気附かぬうちに色褪せ、いつしか八代集でも気持の入りこめない(没入しにくい)歌集の双璧を築いていた事実を、本書『恋愛名歌集』は突きつけた。すこぶるショックであるが、一方で嗟嘆気味に首肯したのも本当である。
 それは悲しく淋しい現実であったけれど、八代集初読から『恋愛名歌集』読書まで30年近い歳月が流れていることと、その間に此方がまァそれなりに──良いことも悪いことも、幸せなことも悲しいことも、喜ばしいことも憤ったこともいろいろあったことを加味すれば、就中理屈を三一文字に塗りこめた『古今集』と浪漫的香気を漂わせてむせ返りそうな『新古今集』に抵抗を覚えて気持が離れるのは、無理ないのかもしれない。間の6つの勅撰集に共通するのは、これらに較べてずっと地に足が着いて、人肌のぬくもりを感じさせる点であろう。
 総括すれば『恋愛名歌集』を読むことは、かつての自分といまの自分の好み、歌人や詠物への共鳴思慕等の相違や維持を確認するむごたらしくて残酷な読書であった。◆

 ※萩原朔太郎『恋愛名歌集』メモ感想書写、入力全了。□

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第3643日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉11/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←FINISHED!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)←FINISHED!
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)←FINISHED!
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)←FINISHED!
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)←NOW!
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
 いや、待って。六代集、六代歌集、ってなに?
 答;『古今集』と『新古今集』の間に成立した6つの勅撰和歌集である。成立順に、──
 2 『後撰和歌集』 天暦10/956年前後に成立か。
 3 『拾遺和歌集』 寛弘2-4/1005-7年頃成立か。
 4 『後拾遺和歌集』 応徳3/1086年成立。
 5 『金葉和歌集』 三奏本:大治2/1127年成立。
 6 『詞花和歌集』 久安6/1150-仁平2/1152年頃成立か。
 7 『千載和歌集』 文治4/1188年成立。
──となる。下命者と撰者は省いた。自分で調べてケロ。
 これら6つの歌集の前後に『古今集』と『新古今集』を置いて八代集、更に『古今集』『後撰集』『拾遺集』を特に三代集、と呼ぶ。但し一般的に『後撰集』から『千載集』までを指して朔太郎の如く六代歌集、六代集と称したりはしない。あくまで『恋愛名歌集』に於ける便宜的な称と考えた方がよい。
 ちなみに9番目の勅撰集たる『新勅撰和歌集』(文暦2/1235年成立)から21番目、即ち最後の『新続古今和歌集』(永享11/1430年成立)までを十三代集、『古今集』から『新続古今集』まで21の勅撰集を指して二十一代集、と呼ぶ。
 なお、勅撰和歌集は原則20巻構成だが、『金葉集』と『詞花集』は例外で10巻構成。編纂期が〈乱世〉に重なったなどの原因、理由が考えられる。
 その『金葉集』は複雑な成立過程を歩んだ勅撰集の1つで、初度本、二度本、三奏本、の3種類が存在、こんにちに伝わってそれぞれ翻刻されている。が、朔太郎が読んだ『金葉集』が、いずれであったかは未詳。わたくし個人は三奏本が最もまとまりが良く、二度本に較べても優れた点が幾つもある、と思うている。『金葉集』について語る際は三奏本を旨とするのは、岩波文庫本で三奏本を読んで斯く実感したこと、実際に下命者たる白河上皇が御嘉納せられたことでこれが勅撰集として数うべき本である史実と史的意義、加えて若かりし頃に読み耽った思い入れと愛着から、だ。
 いったい朔太郎は六代集をどう評価していただろうか? 既に読んだ「総論(六代集と歌道盛衰史概観)」に曰く、──

 したがって六代集の道程は、谷の低所から山の高所へ登る坂道であり、自然にまたその選集価値も、後期の者になるほど高まって来る。即ち「後撰集」最も平凡無価値で有り、「拾遺集」、「後拾遺集」等やや優り、「金葉集」、「詞花集」、「千載集」の順に生彩を発揮し来たって、最後に『新古今集』に至って絶頂に達する。(P210)

──と。
 『新古今集』についての言葉はまだ首肯できるが、果たして『後撰集』に関しては何事ぞ。『後撰集』の、前後の勅撰集と最も異彩を放つは、物語めいた長文の詞書だろう。『後撰集』はちょうど日記や随筆、物語/小説といった散文学が隆盛の頂点を目指し、迫ろうとしていた時期に編纂された。別のいい方をすれば、平仮名を用いた散文が自在に書かれ、その表現領域を拡大しつつある時期だった。それゆえもあって『後撰集』の詞書はそのすべてではないにしろ凝縮された物語の様相を呈し、また必然的にそうした詞書を持つ歌も、生活のなかで詠まれたというよりはあたかも物語のなかの一首、という趣を醸すようになった。
 なお一説でしかないが、『後撰集』には未定稿説がある。これについては別途用意している『後撰集』のエッセイで触れるつもりだ。
 ここでいうておかねばならぬは、ただ一つ。わたくしは朔太郎が「平凡無価値」と一刀両断する『後撰集』を偏愛して30年近くを過ごしてきたことだ。きっと未来もそれは変わらない。だから、上述のエッセイがある。
 朔太郎は「六代集」のパートで計40首を選歌した。それぞれでは、『後撰集』全1426首の内8首を、『拾遺集』全1351首の内11首を、『後拾遺集』全1220首の内5首を、『金葉集』(三奏本)全648首の内3首を、『詞花集』全411首の内8首を、『千載集』全1288首の内5首を、という具合だ。個々の歌には長短濃淡ありと雖も評語が付された。
 評語の長いものは大抵、音律の話、分析が主となっていて、逆に短いものはほぼ例外なく選者の感想に留まる。この時代は、朔太郎ばかりでなく、かれの後輩歌人三好達治の詩論書(『詩を読む人のために』)他を読んでいると時折、こうした韻律を読解する一文に行き当たる。それらを読んでいるとかれらの時代は、こうした日本語の調べ(韻律)を検証しながら、日本人の背中に張りついたゴーストたる伝統詩型を尊重しつつも古典時代の類型から脱却せんと新しい歌風、新しい詩風の創造を使命のように思うて活動していたように思われる。
 が、却ってその熱意が時として、秀歌に凡庸な解釈や感想を持たせたりなどして鑑賞眼を曇らせてしまったように見える。たとえば、──

 あらざらむこの世の外の思ひ出に 今一度の逢ふこともがな
(P108 和泉式部 後拾遺集 巻十三恋三 763)

 浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき
(P101 参議等 後撰集 巻九恋一 578)

──などである。朔太郎がなんというたか、紹介引用はしない、読んでほしい。
 ここから不遜な話になる。もしわたくしが各週からの選歌数を同じにして新たに選歌したとしたら、その選んだ歌、朔太郎との重複は殆どないだろう。選ぶ人が違えば……というのみではない、好みの問題と思い入れ、愛着の深さが斯く為さしめるのである。
 本稿(実はメモのつもりで書き始め、この段階に至るもこれはメモである、と思うておる)は市役所裏のスターバックスで書いている。つまり出先で書いているため、手持ちの本は『恋愛名歌集』だけで他に参照すべき本のない状況で書いているため、具体的に朔太郎セレクトの短歌とわたくしのそれとではどれだけ重複しているのかわかりかねるのだけれど、記憶だけを頼りにしていえば精々が1/5程度ではないか。上に挙げた和泉式部と参議等の他は、──

 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
(P103 蝉丸 後撰集 巻十五雑一 1090)

 今はたゞ思ひ絶えなむとばかりを 人伝てならで言ふよしもがな
(P107 左京大夫道雅 後拾遺集 巻十三恋三 750)

 長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝は物をこそ思へ
(P115 待賢門院堀河 千載集 巻十三恋三 802)

──が重複しているのは確かだ。『後拾遺集』から選ばれて『百人一首』に入る清原元輔「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ 末の松山浪こさじとは」(巻十四恋四770 百人42)の如くかつては良いと思うて愛撫した歌も『恋愛名歌集』には載るけれど、斜線を引くことはなかった。そうした歌々は、各勅撰和歌集から歳月を経た現在ではどれも次点でしかない。
 しかしまぁ、ここへ選ばれた歌と『百人一首』の重なりぶりよ。半分に迫る勢いだ。和歌、短歌が日本人の背中へ張りついたゴーストならばさしずめ『百人一首』は、日本人のDNAの奥深くへ刻みこまれた民族の魂といえる。呪縛、といい換えても良いか。
 六代集のパートには全部で40首を朔太郎は選んだ。そこから自分、わたくしが何首に斜線を引き、丸印や二重丸を付けたか、備忘目的で記す。──『後撰集』8首の内1首、『拾遺集』11首の内1首、『後拾遺集』5首の内1首、『詞花集』8首の内1首、『千載集』5首の内1首、以上計5首が、「六代歌集」の章からわたくしがなんらかの形で良しと思い共鳴などした歌である。おわかりのように『金葉集』3首からはゼロ、だ。斜線に加えて丸印、二重丸を付けたのは、上にも引いた待賢門院堀河の一首のみ。
 ──もっと若いときに朔太郎のこの本を読んでいたらばまた、様々な点で受け止め方など変わっていたのかもしれない。変わっていたといえば朔太郎についてもいえようか。というのも、本書『恋愛名歌集』が出版された昭和6(1931)年は朔太郎にとって早い晩年の始まりでもあったからだ。当時朔太郎44歳、明治19(1886)年11月1日生、昭和17(1942)年5月11日歿。かれが戦後まで生き長らえて本書の改訂など企むことあったならば、選載される歌の差し替えや評言の書き改めはじゅうぶんあり得ただろう。朔太郎も変わっていたか、とはその意味である。
 然れど早すぎる晩年の入り口の頃に、詩ではなく短歌という伝統詩についての入門書、評論書を残してくれた朔太郎にひたすら感謝、である。

 ※残すは『新古今集』選歌の章のみ。選歌されたるは計121首。63ページ(P118-171)に及ぶ。この週末で読了を目指す。
 でもわたくしがいちばん好きな歌の1つで、高校古典の教科書に載って古典に魅せられるきっかけとなった、俊成卿女「風かよふ寝覚めの袖の花の香に かをる枕の春の夜の夢」(巻二春下112)が選ばれていないのは一寸残念。これも、詩人とわたくしの感性の違いですね。□

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第3642日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉10/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←FINISHED!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)←FINISHED!
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)←FINISHED!
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)←NOW!
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
 愕然とした。ここに選ばれた『古今集』収集歌に然程心の動かなくなっていたからだ。他人がセレクトしたのだから、なんてのは理由にならない。色々書きこんだ佐伯梅友校訂『古今和歌集』を併読した末の実感である。念のために申せば朔太郎や子規の『古今集』批判に囚われてのことでもない。
 『恋愛名歌集』を読みながら、幾首もの懐かしい歌と再会した。三十一文字を完璧に覚えている歌もあれば、五句の一部が曖昧な歌もあった。そうした歌の多くは佐伯『古今集』で斜線を引いた──心に留まり、動かされ、共鳴した歌である。
 が、四半世紀以上の歳月のあと朔太郎というフィルターを通して『古今集』の歌を読んでみると……あれ、こんな味気なく、稚拙な歌が多くを占めていたかな。古典時代の人々に倣い、近代詩歌人の評へ反発したわけでもないけれど、当時の自分が短歌を詠み、古典学者を志していたてふ或る種の弊害だろう、『古今集』を絶対視化していた頃は、ここへ収められた歌を未来の自分がよもや味気ない、とか、稚拙、なんて思うようになるなんて想像もせなんだ。──歳月がわたくしを成長させた? 否、そんな単純な話ではあるまいに。
 朔太郎が選んだなかには、いまでも心を動かされ、共鳴せられる歌は勿論、ある。例によってそうした歌には斜線を引いた。換言すればそれらは、真の愛誦歌である。いつまでも心の底にあり、記憶の澱となって、ふとした拍子に思い出す、そんな短歌である。
 まァ、それはよい。むしろ古びぬ感性に天晴れと自讃すべきだろう。が、問題なのは、──冒頭で愕然とした、というのは、佐伯『古今集』で斜線を引いた歌が『恋愛名歌集』に選ばれてあっても、その過半が、いまのわたくしにはまったく響かず、惹かれるところもない(皆無)てふ動かし難き歴然たる事実なのだ。
 歳月がわたくしを成長させた、というよりは、歳月がわたくしの感性を鈍らせ、衰えさせた。そう考えるのが自然だろうか。
 数字で示そう。『恋愛名歌集』に選ばれたる『古今集』の歌は、全96首、斜線を引いたのは13首に過ぎぬ。約1割である。では、斜線を引かなかった──除外された88首の内、佐伯『古今集』に斜線を引かれてあるのは、31首を数う。ほぼ1/3、か。
 ──これは、咨、果たしてなにを意味するぞ。
 むろん、読み手たるわたくしが変わったのである。多く読めば読む程、目は肥え舌も肥え、心は磨かれる。わたくしの場合はそれを、勅撰集収載和歌と『恋愛名歌集』の併読によって眼前へ突きつけられた、というに過ぎぬだろう。菜緒恋を重ねての話ではない。
 本書『古今集』選歌の章を読んでいて、いやいやまったくその通り、と膝を叩き、また成る程と深く首肯させられた箇所が2つ、あった。紀貫之と小野小町、『古今集』代表歌人の一角を占める両人の歌への評言である。
 まず貫之。曰く、──

 彼の本質は、歌よりも歌学者の立場にあった。歌学者としての貫之は、相当立派な見識を把持して居り、歌の鑑賞においても批判においても、確かに時流を抜いた一人者だった。特にその有名な「古今集序文」を見ても詩論家として堂々たる態度であり、かなり深く詩の本質問題に理解を持って居たことが推察される。しかしその理解や見識やは、彼の認識に属する頭脳の問題に止まって居た。(P81)

──と。詠歌に才なく鑑賞評論に能あったのが紀貫之であった。後述する藤原定家への朔太郎評と併せると面白い部分がある。
 次に小町。曰く、──

 小町の歌は媚あまって情熱足らず、嫋々の姿勢があって、しかも冷たく理知的である。こうした性格の女であるから、生涯恋愛遊戯をして真の恋愛を知らなかった。歌に風情あって実感のない所以である。(P23)

──と。小町の歌は遊戯性に走ってそのなかで喜々としている言葉並べに過ぎぬ、ということか。瞬間の男旱を嫌うて絶える時なく恋愛していると自己欺瞞に陥っていたのが、彼女であり、現代に至るもこの同類は跋扈して己の陥弄に気附かずにいる。後代の和泉式部などとはまるで対極の老いたる女流だ、小町は。勅撰閨秀歌人のうちでもまったく顧みる価値も意義もない人と思う。
 この引用を踏まえて考えてみるべきは、①貫之と、時代の別はあっても同じ歌人/歌学者であった俊成定家父子を明らかに分かつものはなにか? ②たしかに小町の詠に心動かされること共鳴すること極めて少なしと我思い、それを恋愛遊戯と斬った朔太郎の言葉に大きく首肯させられたが、「遊戯」と「本物」の違いは、たとえば和泉式部と小町の恋歌を引き比べたとき如何なる差異が明白となるか? であろう。
 ──『古今集』選歌の本章で選ばれたる96首の内、斜線を付けたは13首。続く六代集(『後撰集』〜『千載集』)、『新古今集』を終えたとき、それぞれに於いてこの数字はどんな現実をわたくしへ突きつけるだろうか。怖い。でも、愉しみ。
 明日からは「六代集」選歌章である。□

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第3641日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉09/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←FINISHED!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)←FINISHED!
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)←NOW!
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
 わたくしは『万葉集』とけっして相性の良い読者ではない。むろん集中愛吟愛唱する歌はありと雖も、では八代集の如く一歌集として握玩鍾愛して止まぬかといえば然に非ず。どうした理由か、ふしぎと自分でもわからない。此度『恋愛名歌集』を読むことで期待したのは、これを契機にその態度がすこしでも改善されると嬉しいな、あわよくば『万葉集』愛なる者が自分の内に芽生えればいいな、ということだったが、さて結果は……。
 『万葉集』選歌の章で目立つのは、恋歌ばかりでなく叙景歌、羈旅歌も等しく抜き出されていること。人麿「玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の 野島の崎に船近づきぬ」(P21 巻三250 異「玉藻刈る処女を過ぎて夏草の 野島の崎にいほりす我は」)がその最初で、編外秀歌、と添書がある。その意は同歌の朔太郎註にある如く、「本書の編外に属す」歌。万葉八代から専ら自分のために恋歌を選んでみたが、『万葉集』についてはそのカテゴリーに属さぬ歌のなかにも好む歌、紹介せず無視して過ぎるには惜しい歌もある、そうしたものを「編外秀歌」としてここに載せる、というのである。いま数えてみたら、『万葉集』から選ばれたるは全180首、内編外秀歌は63首あった。わずかに上回るとはいえ、1/6強である。この編外秀歌は『万葉集』のみならず八代集選歌の各章でも散見される。
 朔太郎は「(総論「『万葉集』について)」で、万葉時代の言葉は恋愛の濃やかな機微を表現するには力強すぎる旨発言していた。
 が、却ってその力強さが功を奏した歌も存在するのだ。それは寝取り(NTR)/不倫の歌であり、別れを惜しむ歌であり、片恋の歌である。いい換えれば万葉時代の力強き言葉は、想い想われる男女間の既に成立した関係や、歌垣を想起させる恋愛遊戯には適さぬが、情愛のベクトルが一方通行的であったり、恋愛関係が成立する以前の段階、もしくはなんらかの動機で終焉を迎えたり、一時的別離の際の、そうした折の激しい感情が吐露された歌のときには破格の効果を現すのだ。たとえば、──

 君が行く道の長路を繰り畳ね 焼き亡ぼさむ天の火もがも
(P36 狭野弟上郎女 巻十三 3724 離別)

 験なき恋をもするか夕されば 人の手巻きて寝なむ子ゆゑに
(P26 詠人不知 巻十一 2578 NTR・不倫)

 うらうらと照れる春日に雲雀あがり 心かなしも一人し思へば
(P38 大伴家持 巻十九 4292 異「うらうらに」 片恋)

──など。
 最後に、海の歌について。
 『百人一首』にも採られた山部赤人「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける」(P44 編外秀歌 巻三 318)という一首がある。
 人麿詠と伝えられる海を題材にした歌があって、「さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦船 楫の音高し水脈早みかも」(P51 巻七 1143)など7首を引く(P51-2)。また人麿には、『古今集』収載歌であるが有名な、「ほのぼのと明石の浦の朝露に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ」(巻第九 羈旅歌 409 岩・文P111)という作物もある。
 これら海洋歌について朔太郎は、非常なる卓見を本書に残した。わたくしはここを読んだとき、思わず膝を叩き、内心「ハラショー!」と叫んだ者である。長いが引用して本章メモの擱筆へ向かう。曰く、──

 万葉以後、日本には海洋を歌う詩人が一人も居なくなったしまった。海洋詩は万葉歌人の特色であり、しかもそれがまた特に優れて居る。万葉の海洋詩には、いずれも茫洋たる海の遠音を聞かせるような、不思議な荘重の音楽があり、貝殻に耳をあて大洋の響きを聞く如き、ある種の縹渺たるノスタルジヤを感じさせる。
 この海洋詩における上古人の郷愁は、思うに彼等の近い先祖が、大陸の方から海を渡って移住して来た時の記憶であり、遠い母郷への未知の回想によるのだろう。なかんずく彼等の中で、海洋詩における郷愁の音楽を高く奏したのは、実に柿本人麿を以て第一とする。(P52)

──と。元は一つの段落であるが、引用にあたり適宜改行した。
 たしかに八代集、十三代集、私家集などこれまで読み得た古典和歌に、海洋詩と呼ぶべきものはなかったように記憶する。海、入江、沖、浦など詠みこんだ歌は幾等もあったが、主題は別にあって(圧倒多数が恋歌へカテゴライズされる)、海洋を主題に持ってきて広く強く巧く詠みあげた歌は、『古今集』以後の歌人には近代になるまで殆ど無縁の作物であったろう。然り、けっして海洋詩と呼ぶ程の代物は彼等には詠み得ぬ題材だった……。
 而して万葉時代の如き海洋詩が日本の詩歌史の表舞台へ現れるのは、上述したように、1,000年以上の空白期を間に置いた近代へ至るまで待つ必要があった。若山牧水や三好達治、丸山薫らの登場するまでは。
 古典和歌の時代に主体的な意味で海洋詩が詠まれなかったのはなぜか? 和歌で俳句であれ漢詩であれ、積極的に題材とされなかったのは、いったい……? このあたりは調べ甲斐のある題目と思える。どなたかお調べになってみてはどうだろう。

 ※『恋愛名歌集』〜「万葉」選歌ノ章、メモ書くを11月失念していたらしく、モレスキンからノートへ書写中に初めてそれに気附く。為、慌てて昨日今日と是を書き足す。以て此の日本当に『恋愛名歌集』メモ了んぬ。(メモ/’23,01,10、ノート/’23,01,12)□

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第3640日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉08/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←FINISHED!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)←NOW!
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


  七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
 歌史に3つの峰あり。1つは『万葉集』、1つはいま近代、残る1つは間の『新古今集』である。本章で朔太郎は、「詩が栄えるのは、時代の黎明期か転換期で、万物が正に流動変化して居る時刻である」(P220)と説明する。
 1つのジャンルに黎明期が2度訪れるのは滅多にないことだから、外国文化(とはつまり、支那の詩や思想である)を受容し、国体を明らかにしてゆく前進発展の気風を孕んだ万葉一書のみを以てそれにあて、『新古今』と近代期を以て峰とし、転換期というは即ち共に日本史上の一大政変を経験した時代を背景とし、それを経験した歌人たちが優れたる詩才を発揮したがゆえであった。
 正直なところ、絶讃という程ではないが、朔太郎の『新古今集』評価の高いことに少しびっくりしている。朔太郎以前の詩歌の実作者、その詠、その論に、『新古今集』を深心から評価し、その史的意義、歌風や特質を誤ることなく指摘した者あることは、折口信夫/釈迢空や北原白秋あたりを例外として他にあるを知らぬからだ。同時代に於いても状況はそれ程変わらぬのではないか。逆に学界は近世末までの新古今不遇の反動もあってか、ポツポツと、けっして『新古今集』の他より見劣りするなどなく否むしろ……という声も出始めていた。本章の最後の方で朔太郎が挙げた佐佐木信綱は、当時を代表する『新古今集』評価の国文学者である。
 朔太郎の『新古今集』評を抜き書きする。曰く、──

 実に「新古今集」の特色は、その繊麗なる技巧主義の内部において、純真な詩的精神を強く掲げて居る所にある。そして実にまた、これが「新古今集」の芸術的生命なのだ。(P215-6)

 一言にして言えば新古今の歌は、華やかにして悩ましく、技巧的であって哀傷深く、耽美的であって厭世の影が濃い。それは頽廃的の芸術であり、どこか化粧された屍骸の臭気を感じさせる。(P217)

──と。
 化粧された屍骸の臭気! 人工的なるがゆえに一皮剥げば露わになる生命力の欠如!! 『万葉集』や三代集あたりまでは無縁に等しかった、想像と技巧と婉曲をこらして詠まれたデカダンの空気濃厚な歌の数々……象徴主義、神秘主義を旨とした芸術詩派、朔太郎の目を通すと『新古今和歌集』は斯く映る歌集だったようである。──わたくしが朔太郎の詩にいい知れぬ愛着や憧憬を覚えるのは、こんな朔太郎の新古今感がかれの詩に影を落としているからかもしれない。
 〆に、かれの『万葉集』と新古今を対比しての言を引く。ただ、その前に発言の前提を。
 曰く、『万葉集』と『新古今集』は歌史を両断する2つの対蹠的芸術である。『万葉集』は荘重剛健な建築美を大成し、その詩風は直情主義で素朴自然、男性美の典型的完成であり、男性を以て代表的歌人とする、と。一方『新古今集』は、繊麗巧微な織物美を完成し、その詩風は技巧主義的で意匠婉曲、女性美の洗練した極致であり、女性を以て主題的歌人とする云々(P215)。
 上を踏まえて朔太郎の言を引いて曰く、──

 「万葉集」と「新古今集」とは、かくの如く二つの矛盾した対蹠であるが、共にその独自の道を行き尽くした、両極的「完成の歌集」として一致して居る。……のみならずまた二つの歌集は、芸術のある本質的な特色で符合して居る。
 即ち「万葉集」と「新古今集」とは、古典中での最も情熱的な歌集であり、共に緊張した詩情によって、ある調子の高い叙情詩を歌って居る。もちろんその詩操や情熱は万葉において甚だしく、男性的爆発性で、新古今において甚だしく女性的沈鬱性であるとは言え、その歌としての調子が高く、情熱の吐息が深いことは一なのである。(P215)

──と。元は一つの段落であるが、引用にあたり適宜改行した。
 この一文を以て『新古今集』を朔太郎が評価する所以である、と申しあげてよいだろう。

※総論メモ爰に了んぬ。朔太郎の詩人の眼を通した『新古今集』評(観)についてはマダ2つばかり云いたいことありと雖もまずは以上でよいか。次から各集選歌の章。□

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第3639日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉07/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←FINISHED!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)←NOW!
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
 『万葉集』が日本和歌第一の黄金期であり、『新古今集』がその第二、中近世を経て近代の〈いま〉がその第三の黄金期という。
 『万葉集』から『古今集』の間には、嵯峨天皇の御代に頂点を迎える国風暗黒時代/漢風(唐風)謳歌時代が横たわる。漢文で文書が記されて漢詩が貴族の嗜みとなった時代だった。文学史ではこの時代に『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』てふ3つの勅撰漢詩集が編纂されている。『古今集』はこうした時代への反駁のようにして生まれ来たった、史上初の勅撰和歌集だった。
 朔太郎にいわせれば、『万葉集』と『新古今集』という2つの峰に挟まって谷間の低地がある。即ち『後撰和歌集』から『千載和歌集』へ至る流れは、谷の最低値(=『古今集』)から2つ目の峰の最後部(=『新古今集』)を目指す傾斜面(部)である、と説く。朔太郎のこの説明はわかりやすい。しかも、六代集の出来は尻上がりによくなって『新古今集』へ至る云々。納得だ。
 『金葉集』を考える際、朔太郎の脳裏にあったのは、二度本だったか或いは三奏本か。調べてわかることだろうか。また、個人的には六代集のうち『後撰集』が最も低いとされて救済措置の欠片もないのが哀しい。なぜならわたくし、『後撰和歌集』が好きなのだ。八代集で好きな勅撰集を3つ挙げろ、と命じられたら迷うことなく、『後撰集』、『拾遺集』、三奏本『金葉集』を選ぶ者である。
 『古今集』の時代になると〈題詠〉や〈歌合〉が行われるようになった。それは自ずと歌人たちに技術の深化と音律の洗練を求める結果にもなる。これを踏まえて朔太郎は、技巧と想像と音楽が極言まで完成されて相互に破綻も瑕疵も軋みもなく調和した人工美の極北たる『新古今集』を、和歌史上第2の峰というたのだろう。『万葉集』の頃より見れば夢想だにできなかった未来の作物であり、『古今集』の頃より見れば驚愕の溜め息しか出ぬような作物だったのであろう、『新古今集』とは。
 朔太郎の六代集の全体評は、個々の歌集の良し悪しというよりも『古今集』と『新古今集』をつなぐブリッジの役割を担い、『新古今集』誕生(登場)の地均しをした、という面での評価に終始する。文学史の一場面の一現象としての評価というてよいか。曰く、「後撰以下の六代歌集は、個々の単本として欠陥の多い歌集である。かつ選集として時代を劃するほどの特色もなく、到底単独にして注目すべき価値を持たない」(P212)と。
 注意点として朔太郎が最後に述べるのは、女流歌人の存在だ。この六代集の時代に特色ある才媛歌人が多く出た、即ち、相模、和泉式部、馬内侍、赤染衛門などを暫時輩出した云々。──わたくしの好きな斎宮女御や藤原道綱母も、この時代の閨秀歌人である。□

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第3638日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉06/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←FINISHED!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)←NOW!
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
 「総論『奈良朝歌風と平安朝歌風』」で既に見、察すること可能であるように、朔太郎は『古今集』収載歌を、就中四季歌を一刀両断、一蹴する。その文章に曰く、──駄歌、低能歌、愚劣もしくは凡庸の歌の続出、倦怠して読むに耐えず、小学生が子供らしい趣向・機智をこらしてこしらえた自由詩にも劣る(P201-2)などなど、イヤ、手厳しい、手厳しい。
 ダメ押しは、この一節か。曰く、──

 もっと辛辣に批判すれば、万葉及び八代勅撰集の一切を含めた中で、『古今集』が一番駄目な歌集であるか知れない。駄目と言う意味は、詩歌の本質である尖端的の刺戟がなくして、却って散文の特色たる平明雅純を主脈にした、中庸的の生ぬるい似而非韻文であるからだ。……詩にしてその特色が無かったら取柄はない。刺戟のない歌集、中庸穏和の催眠的歌集と言う点で、『古今集』は確かに代表的の名歌集(?)であろう。(P204)

──と。
 斯様に季歌は切り棄てても翻って恋歌になると、かれの評価は一転する。曰く、「赤裸々の心緒を叫び、真の高調した人間的情熱を歌って居る」(P205)と。更に、「『古今集』は全体として見れば駄劣なれども恋歌はこの集の生命であり、(『万葉集』からは縁遠い)特殊で優美なスタイルも相俟って万葉以後の新しい詩的価値を創造した点を以て、この恋歌の部門のみで『万葉集』と相殺することができる」(P205)、という。
 『古今集』以後の勅撰集、私家集、歌合は、人工美と技巧の極北というてよい『新古今集』を例外として、駄劣低能凡庸の『古今集』を範とし、聖典と崇めて、ひたすらその模倣にこれ努めた所産である、と、言外に責めている。しつこいようだが、恋歌のみが『古今集』に生彩を与えており、特記さるべき点であろう、と朔太郎の主張である。
 章末補記中で、香川景樹の『古今集』讚を呵々した朔太郎。江戸時代後期を代表する歌人の1人、景樹は桂園派の頭目だが、この派の旨とする歌風は『古今集』に範を仰ぎ、平易を尊び声調を重んじた(調べの説)。
 香川景樹は自らの詠歌を以て平明穏雅の風を説いた。そうして己の作物ばかりかその歌風を慕う桂園派の門人や後続の歌人たちの詠も含めて、調子の低い散文的なレヴェルへ貶めた。それというのも、成る程、景樹が駄劣低能凡庸の『古今集』を崇めた結果である、と云々。景樹が『古今集』を讃えた「自然の花」なる言葉は、こんにちの常識より見れば寧ろ『万葉集』へ帰せられるべきだろう、とも。イヤ、此方もまた容赦がない。
 ──本章本文の結びである。曰く、──

 故に要するに『古今集』は、日本三大歌集の中で最も下位の歌集である。ただそれが奈良朝以来の新歌風を創造し、爾後の連綿たる亜流を率いて、長く千載の規範を垂れた一事でのみ、正に『万葉集』と相殺さるべき権威であろう。(P206)

──と。「でのみ」なのである。朔太郎の『古今集』観、『古今集』評、ここに極まれり、ここに尽きる、というてよい。つまり歴史的価値のみで生き残っている歌集であり、けっして文学的価値でそうなったのではない、と。
 さて、『古今集』について、ここに極まりここに尽きる表現を残したもう1人が、正岡子規であった。『歌よみに与ふる書』は明治31(1898)年2月11日から同年3月4日まで、新聞「日本」へ10回にわたって連載後、明治35(1902)年12月に吉川弘文館から刊行された『日本叢書 子規随筆続編』へ収められた。『古今集』を筆頭に伝統和歌、旧派歌人を攻撃して、『万葉集』に倣い、範とした鎌倉三代将軍実朝(『金槐和歌集』)を賞揚した。──念のため付け加えれば、萩原朔太郎『恋愛名歌集』は内容すべて書き下ろしで、昭和6(1931)年5月、第一書房より刊行された。
 果たして──朔太郎の『古今集』否定(除恋歌)は果たして、それを独り読み独り考えて導き出された独りの評か。その出発点或いはその途上子規に影響されたり支配されたり、即ち同調・歩を一にすること、なかったであろうか。
 子規の発言から30年以上を経ての上梓とはいえ、その頃子規の発言はどの程度にまで歌壇詩壇に影響を及ぼしていたか。或いは過去の遺物として忘れられていたか。が、『古今集』否定が時代の常識、風潮となって定着して人々の意識の襞の奥にまで染みこんでいたならば、朔太郎も時代の子として制限された視野しか持ち得なかった人である、と申せよう。
 子規以後、戦前までの『古今集』評の変遷を調査して集成してみたらば、案外と面白いものが出来上がりそうだ。なにか興味深い、裏の文学史が浮かびあがる予感もしている。
 菜緒、『古今集』恋歌を良しとする朔太郎の態度や理由はわかったけれど、例歌を何首か取り挙げて、どこがどういう様に良いのか、自分は好むのか、この総論で述べてくれたらよかったなぁ、と残念に思うている。もっとも、『古今集』選歌の章を別に設けてあるのでそちらを読め、ということであろうとは理解している。──のだが、ね。□

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第3637日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉05/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←FINISHED!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。←FINISHED!
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)←FINISHED!
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)←NOW!
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)
 1;音律
 そも『万葉集』と『古今集』(以後)では音律の切り方が違う。『万葉集』は「5-7・5-7・7」なのが『古今集』では「5・7-5・7-5・2」となる。
 『万葉集』の頃は「枕詞」があって、それは第一句か第三区、上の切り方に従えば5音の来る箇所に置かれ、枕詞の性質上続く7音と結びついて「5−7」のブロックを作った。対して『古今集』の頃になると枕詞がなくなって第一句が(なかば)独立する形になったので、上記の如く「5・7-5・7-5・2」という韻律を持つようになった。最後の「2」は詠嘆、感嘆の助動詞である。
 朔太郎は、この点を指して『万葉集』の五七調は「荘重で重々し」(P195)いといい、『古今集』の七五調は「繊細幽玄の情趣に富」(同)むという。更に続けて曰く、──

 そしてこの律格上の形式的相違は、それ自ら歌の内容たる情趣の変化に外ならない。即ち万葉時代の歌は内容的に雄健で力強く、平安朝以後の歌は主として繊細優雅である。故に一方から考えれば、各々の時代の情操が、各々の表現する必然の律格を作ったので、つまり内容が形式を生んだのであるが、これをまた逆に考えれば、形式の変化が内容を推移させたとも言えるだろう。所詮芸術における形式と内容とは、一枚の絵の裏表、鏡の実体と映像に外ならない。(P195-6)

──と。
 終いの2行(「所詮芸術における」云々)については、実作者としての経験、その蓄積がいわしめた自信と思い切りのある断言と思う。また、内容が形式を決めたとは、折口信夫博士が同趣のことを述べていたと記憶する。それが詩芸術に於ける発言であったか、祭事や祭司といった民俗学方面でのそれであったかまでは、覚えていないが。
 朔太郎は奈良朝歌風と平安朝歌風それぞれの個性、特徴を内容、形式によって自ずと成ったものであり、かりに優劣はつけられても、情操と音楽は交換できるようなものではない、という。長くなるが、引用すれば、曰く、──

 要するに万葉調はリズミカル(拍節的)で、平安朝はメロジアス(施律的)である。したがって前者は独逸音楽のように剛健であり、素朴な力に充ちて地を踏みつけるが、後者は南欧音楽のように優美であり、複雑繊麗な情趣に富んでいる。故にスイートという点では後者が優り、力という点では前者が優る。
 また別の比喩で言えば、万葉音楽は男性的の直線美で平安音楽は女性的の曲線美である。直線美と曲線美と、拍節美と施律美と、そのいずれを好むかは人々の随意であり、各自の趣味によって決定される。もし非難を言い合うならば、それは両方から持ち出せる非難であるから、価値の判決には採用されない。
 ただしかし言えることは、万葉の内容には万葉の音楽があり、古今の内容には古今の音楽が必要であり、この情操と音楽とを、相互に交換できないという一事である。(P197-8)

──と。元は一つの段落であるが、引用にあたり適宜改行した。
 要するに戦前からこんにちまで一貫していわれてきたような、万葉を「ますらをぶり」といい古今を「たをやめぶり」というといっさい変わるところはないのだ、朔太郎の長々しい発言は。

 2;恋歌への『万葉集』と『古今集』のスタンス
 『古今集』の時代(とそれ以後)になると歌人は禁裏に属する天皇、皇族、貴族(殿上人)、女房、その外にあっては僧侶あたりに限定されてくる。換言すれば歌人は過半が禁裏という閉鎖空間に閉じこもってしまったのである。
 斯様に狭い世界へ閉じこもってしまった弊害として、自然詠は(この時代ならではの産物である「題詠」によって)類想類歌の域に留まり、そこから抜け出すことは至難であった。自然を詠ずるにあたって先行詩歌によって培われた固定連想、イデオロギーに囚われて、万葉人のような実感的情趣は、中古歌人の持ち得ぬものとなった。即ち中古歌人は固定連想やイデオロギーまずありきで、歌を詠んだのである。
 自然詠が『万葉集』の方が優るのは、『古今集』歌人、及びかれらを取り巻く時代情勢が支那思想や漢語、漢文調の詞を退けて国粋主義に陥ったせいでもある。朔太郎曰く、──

 それ故に当時の歌壇は、意識的に拝外思想を高揚し、歌における一切の外来要素(漢語、感文脈、支那思想)を排斥した。そして純粋の大和言葉で、純粋の国粋情操のみを歌うところの真の典型的な「やまと歌」「敷島の道」を建てようとした。そしてその結果、歌の用語が著しく制限されて窮屈になり、漢語はもとより拗音や促音さえも除外され、かつ万葉風の剛健な力強さが無くされてしまった。のみならず歌の題材が限定され、単調一律の類型的反覆になってしまった。
 なんとなれば彼等は、純粋の国粋趣味のみを高調しようと意識したため、その歌材の範囲は常に花鳥風月の純日本情操に限定され、春と言えば梅に鶯、夏と言えば藤浪に時鳥、秋と言えば鹿に紅葉の類想のみを、百人一律に反覆するようになってしまった。(P185-6)

──と。元は一つの段落であるが、引用にあたり適宜改行した。
 が、却ってこのことが、中古歌人をして恋愛歌へ向かわせ、曲線的情緒的な大和言葉で男女の恋愛(含性愛)を詠う自在さを備えさせた。たとえ題詠によって詠まれた歌であっても殊それが恋愛歌である限り、かれらには蓄積された経験(値)と感情(よろこび、かなしみ、せつなさ、など)と機微があった。──万葉人にもそうしたものはあったが、直接的素朴な言葉はそれを表現するには強過ぎた。よりしっとりとしてなだらかな調子の大和言葉を得て歌は、恋愛を謳うに相応しいツールとなったわけである。

 3;その他
 「奈良朝歌風と平安朝歌風」末尾、補記となる箇所──アララギ派以後の歌壇が保守的となり、狭義の国粋主義に退嬰しようとしている云々について。
 そのなかに、社会主義歌人がこうした背景から興った、というが、それは具体的に誰を指すか、一派を成したか。要調査。

 本章を読んでいると処々に正岡子規の『古今集』批判を念頭に置いて(脳裏に過ぎらせながら)書いたのではないか、と訝しんでしまう部分がある。こちらの思い過ごしだろうか?

 「総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」に限らず『恋愛名歌集』全体を通じていえることだが、朔太郎の、実作者としての目利き、創作態度が古歌鑑賞(=自ずから生じる批判)へ反映している。□

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