第3405日目 〈荒俣さん、紀田さん、保土ヶ谷区尾上町、ってどこ!?〉 [日々の思い・独り言]

 荒俣宏『平井程一 その生涯と作品』感想は既に短いものを別に書いているのでそれに譲り、本稿はそこから切り出した疑問を、分量を拡大させて一稿と成すものである。たぶんわたくしが横浜市民でなければスルーしていたに相違ない疑問である──然り、読み始めて早々に引っ掛かりを感じてしまうた箇所が、本書にはあったのだ。その一節をまずは引用する。曰く、──

 慶應義塾維持会加入者の報告にも、明治三十五年の三月六日から四月五日の間に、預金一口加入者として、「神奈川県保土ヶ谷 谷口喜作君」の名がある。この「保土ヶ谷」という地名は現在の神奈川県横浜市の保土ヶ谷区尾上町を指す。横浜の中心部である尾上町は単に「横浜」と記している例が多い。(P24)

──と。
 谷口喜作は平井父、初代喜作をいう。「横浜の中心部である尾上町」とは中区尾上町だろう──まさか保土ヶ谷を指して「横浜の中心部」と曰う御仁もあるまい。
 あらかじめいうてしまうと、保土ヶ谷区に尾上町という地名は存在しない。他郷民の調査不足、史資料読み違えの域を出ぬ、といえばそれまでだが、監修者としてかかわる紀田順一郎は果たしてこの箇所になんの引っ掛かりも覚えなかったのか。横浜に生まれ育ち、横浜についての著述を持つのに、保土ヶ谷区に尾上町なんてあったっけ? と疑問を抱いたりしなかったのか。
 失態の根本は勿論、著者荒俣宏にある。いったい著者はどんな資料を典拠に、「現在の神奈川県横浜市の保土ヶ谷区尾上町を指す」と原稿に綴ったのか。本書にはこうした地方史にかかる参考文献を挙げる作業を一切怠っているため、如何な資料を用いたかは不明だ。いったい「保土ヶ谷区尾上町」の根拠はなんだ。まさか後に引く談話だけ?
 開港以来21世紀の今日に至るまで、旧保土ヶ谷区、現保土ヶ谷区と旭区に「尾上町」はいちどとして存在したことはない。“現”というのは昭和44(1969)年10月、人口増のため行政区再編成により保土ヶ谷区から旭区が分区、誕生したためだ。勿論件の町名の非存在は明治新政府による行政管轄が始まって以来のことでもある。
 そうして横浜市に「尾上町」といえばいまもむかしも、現在の中区尾上町ただ1つがあるのみだ。
 いったいどうして斯様な誤認誤記が罷り通ってしまったのか。同じ保土ヶ谷区の神戸町についてはまぁ、整合性の取れた記述がされているのに(P34)。
 実はそこにも小首を傾げざるを得ない一節がある。曰く、──

 〔編者注〕程一・彌之助の実際の出生地は、このとき初代喜作が商売を行っていた神奈川県程ヶ谷字神戸(『海紅』第三巻五号、大正六年七月一日刊に掲載された二代目喜作の自己紹介による)であった。……したがって、程一らが誕生したときの正確な地名は、「神奈川県橘樹郡程ヶ谷字神戸」となるだろう。……また、明治三十八年の横浜うさぎや開業前後から用いられる住所は、「横浜市尾上町三の三」であり、現在の住所表示では神奈川県横浜市保土ヶ谷区尾上町(二代喜作妻惠子氏による)に該当する。ただ、この住所が「程ヶ谷字神戸」と同じ地を指すかどうかまでは実地確定できなかった。(P33-34)

──と。二代喜作、は程一の兄彌之助として先に出た。「うさぎや」はいまは上野や日本橋等で開業する和菓子の老舗である。
 いやいや、待ってくれ。二代目喜作未亡人の談話を信じるのは構わないけれど、活字にするならせめて裏を取ろうよ。<これ>のエビデンスは<どこ>にあるのか、と。
 これは戦後、平井に対する荷風の筆誅の内容を疑うことなく信じて、文壇から村八分状態にした幸田露伴や出版社の編集者連の行動とまるで変わらぬ。平井呈一の弟子たる2人がどうして同じ轍を踏むか。悪意云々からではなく確認を取らず信じることの危険を、わたくしはいうておる。勿論、自戒をこめてだ。
 然るべき行政機関──保土ヶ谷区役所、旭区役所、横浜市役所、神奈川県庁──や公共施設──神奈川県立図書館、横浜中央図書館、神奈川県立歴史博物館、横浜歴史博物館、など──に問い合わせれば労せずして済む話ではないか。横浜市史、保土ヶ谷区史、旭区史を繙けば1時間と経たぬうちに解決するぞ。
 結論;幕末の宿場町時代からこの方、保土ヶ谷町/区の「神戸」は「神戸」であり続け、昭和戦前期に「神戸下町」と「神戸上町」に分かれたことはあったけれど、「尾上町」なる町名に取って代わった時期も事実も記録もない。重ねていう、現在も過去も保土ヶ谷区に尾上町は実在しない。横浜市に「尾上町」というは、いまもむかしも中区にあるのみだ。
 ──結局のところ、そもどうして斯様な誤りが生じてしまったのか、原因は定かでない。わたくしも此度、本書の感想文を書こうと再読してこの件に気附いたのだからなにをか況んや、であるけれど、本稿はちょっとした引っ掛かりが1つの大きな疑念に成長し、区や県の役所に勤める知己に訊ね、図書館の所蔵資料を繙いて調べた結果である──いや、源を辿れば吉川英治の少年時代の勤務先がいまのわたくしの職場と同じ場所にあった、という小さな驚きから始まってたか。
 著者も監修者も取材協力者も、担当編集者も校閲担当者も等しく陥った当事者の談話を鵜呑みにして信じこみ、簡単に片附いてしまう裏づけ調査を怠ってくれたことからこの小文は生まれた。
 正直な気持ちをいわせていただければ、わたくしはこれを、郷土史にまつわるエッセイとして書いた。なにげない疑問が斯くして解決したことにいささかの喜びを感じながら。◆

参考文献
01;保土ヶ谷区制五十周年記念誌『保土ヶ谷ものがたり』
   保土ヶ谷区制五十周年記念事業実行委員会
   昭和52(1977)年05月

02;保土ヶ谷区史編集部会『保土ヶ谷区史』
   保土ヶ谷区制七十周年記念事業実行委員会
   平成9(1997)年10月

03;横浜市史 Ⅱ 
   第3巻(上) 平成14(2002)年03月
   第3巻(下) 平成15(2003)年07月
   総目次・索引 平成16(2004)年03月
   編集;横浜市総務局市史編集室
   発行;横浜市

04;横浜市区分地図 6 保土ヶ谷区(エリアマップ) 別冊町名索引
   昭文社
   刊記なし□

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第3404日目 〈荒俣宏『平井呈一 その生涯と作品』を読みました。〉4/4 [日々の思い・独り言]

 「他郷に住みて」の吉田ふみは、平井と起居を共にした人である。短いものながら、「土地の文化人と付き合うより漁師や農家の人達の話を聞くほうがよっぽどたのしい」(P414)といい、「子供好きな平井のところへは、近所の子供たちがよく遊びに来て、にぎやかだった」(P413)など、仕事を離れた平井の等身大の日常を伝えて余りある。
 地にしっかりと足を着けて地域の人々との付き合いをとても大切にしていたわけだが、「よく遊びに来ていた子供たちは、それぞれ店の主になって、今一人暮らしの私に親しく声をかけてくれる」(P413)のはけっして平井1人の人柄などではなく、吉田自身の人柄にも起因するところであったろう。こうした縁が巡り巡って最終的に平井の遺品が原稿共々神奈川近代文学館に納められ、また、吉田の最晩年の生活を支えることになったのは至極当然、そうして極めて幸福なものであった、と感じるのである。
 それだからこそ、というべきか、結び近くで吐露される吉田の本音には余計に胸を突かれるのだ。即ち、人々との縁に恵まれた千葉県富津市での生活も、東京に生まれ育った彼女には心底より馴染めるものとはいい難く、生まれ故郷たる東京を懐かしんでいる、と。生まれ育った故郷を離れて他郷で暮らすことにやがてわたくしもなるけれど、どれだけ移った先を好ましく思うて長く住み、地域との縁を育むことができたとしても、かつまたそこを第二の故郷と称しても、所詮自分はその土地の産ではないから、陰で他所者と囁かれるのが関の山だろう。ゆえに吉田ふみの本音はこちらへ、殊更深く響くのである。人間は生まれ育った土地を離れるべきではないのかもしれない。
 「他郷に住みて」は『無花果』昭和60(1985)年9月30日号に掲載された。
 回想記のもう1篇は実兄、二代目谷口喜作の私小説『雲の往来』第5章(『三昧』昭和3・1928/11)である。
 作中、平井は「貞一」、<私>こと二代目喜作は「彌吉」と、程一養家平井は「濱中」、生家谷口は「樫村」と表記される。それを踏まえて第5章の粗筋を語れば、──
 彌吉弟貞一の縁談が具体化し、養母樫村某がその旨生家へ報告に来る。しかし生母たる濱中某はそれに反対した。身銭も稼げぬ貞一が所帯を持てば細君や生まれるだろう子供まで養家の世話になることとなりそんな迷惑はかけられない、というのだ。こうして両家の往来は途絶える。断絶は関東大震災を挟んで5年に及んだ。それを貞一兄彌吉が心苦しう思うて濱中家に出向いて談判、弟とも話し合い、両家はようやく和解した、という筋。
 私小説と呼ばれる小説を読めば読む程、作中描かれた出来事にどれだけ作者の実体験や現実が反映しているのか、知りたくなる。いまもむかしも同じだ、当然だろう。荒俣も『雲の往来』第5章がどれだけ事実を伝えているのか、検証に取りかかった。
 年譜の当該箇所(P57,59-60)だけでなく、『妖怪少年の日々──アラマタ自伝』(角川書店 2021/01)P284-5でも、谷口の作品に出る弟長女の名前が同じこと、断絶当時の心境を詠んだと思われる句「いさかひて雨夜へだつる葭戸かな」(『海紅』昭和3年10月号)が谷口の小説にも載ることを以て、平井が幼馴染みで相愛の仲だった女性と「所帯を持つことになった事情が、ほぼ正確に後世に伝えられた、と思いたい」(『妖怪少年の日々』P285)と検証の筆を擱いた。
 誰も異論はないであろう。「うさぎや」経営の多忙の傍ら、俳句に、随筆に、身辺雑記に、私小説に、と多量の作物を残した二代目谷口喜作に感謝してただ頭を垂れるのみである。
 『雲の往来』第5章が伝えるのは、なにも平井の動静ばかりではない。一方で「うさぎや」が文人墨客趣味人のサロンとして機能していたことを裏附ける場面もある。併せて当時の文壇、芸術界のニュース、ゴシップも刻印されている点、今日の読者が当時の様子を知り、深く分け入ってゆく足掛かりにもなろう。然り、島崎藤村の原稿料(一部)返却の件、川端龍子の院展脱退の件、いずれも昭和3年に本当にあったことなのだ。

 ──以上で長く、長くなってしまった感想文は終わるが、もうちょっとだけお付き合い願えないだろうか?
 2つの誤記誤認に気附いたためである。1つは初代谷口喜作が住まった「横浜市保土ケ谷区尾上町」とはどこなのか、もう1つは佐藤春夫の「故郷」である。前者については既に書いて本ブログに予約投稿済みなので(たぶん、明日お披露目)、後者のみここでは触れる。
 疑問の記述は本書70ページにある。曰く、「(猪場毅は)昭和五年に現在の和歌山市に落ち着いた。佐藤春夫の故郷である」云々。
 猪場は後年、荷風の春本『四畳半襖の下張』流出事件に平井と共にかかわった人。編集者であり随筆家であり、宇田川芥子として富田木歩の門下に連なった俳人でもある。伊庭心猿、という号を別に持つ。千葉県市川市は真間手児奈堂の近くに住まった。
 なお、松本哉『永井荷風の東京空間』(河出書房新社 1992/12)には猪場毅のプロフィールと遺著『繪入 墨東今昔』の紹介、猪場邸(此君亭)訪問記があり、その折未亡人と面談した記述がある(P67-83,126-142)。これは初めて「負の側面」から離れて、比較的中立の立場で書かれた猪場毅に触れた文章ではあるまいか。
 その猪場は昭和5(1930)年9月、東京から和歌山市へ居を移した。佐藤春夫の要請を受けてのことだったようである(P68)。その地で『南紀芸術』という雑誌を発刊した。地方にあってはかなりハイブラウなものであったらしい。
 さりながら佐藤春夫の「故郷」を和歌山市の文脈で斯く述べるとは何ぞ。和歌山県、ならばまだ頷けもしよう。和歌山「市」とは、はて面妖な。『妖怪少年の日々』ではちゃんと猪場は紀州に移り住んだ、佐藤の故郷である、と書いているのにね(P224)。これなら良いのですよ、紀州であるのは事実だから。
 わたくしは平井呈一ではなく文化学院を通して佐藤の著作に親しんで今日に至るけれど、在学中必要あって調べた佐藤略伝、著作にも和歌山市との縁は見出せなかった、と記憶する。それとも知らぬ新事実が近年発見されていたのか? まさか!
 佐藤春夫の「故郷」は和歌山県新宮市。南方熊楠や西村伊作と同郷である。東京関口台以外にも横浜市や兵庫県武庫郡(現:西宮市、宝塚市)に住んだことはあっても、和歌山市には住んだのか。仮に住んでも「故郷」と称す程か。──NO、である。佐藤と和歌山市にかかわりはないようである。
 斯様に書かれた理由は、記憶のままに書いたか、資料を読み間違えたか、なのだろうが、この程度の、略年譜と日本地図を開けば一目瞭然な事柄を間違えないでほしい。第一、佐藤春夫といえば中退者とはいえ、編者と監修者にしてみれば三田の大先輩じゃないですか(みくらにもそうである)。塾監局やメディアセンターに問い合わせれば済む話ではありませんか。
 そも校閲がこの点をろくに調査もせずスルーしたことがいちばんの原因。ご存知だろうか、和歌山市と新宮市は紀伊半島の端と端、和歌山市は大阪府に近く紀伊水道につながる和歌山湾に面し、新宮市は三重県に近く(というか県境)太平洋に面しているのだ。
 いずれにせよ編者がどのような意図で「故郷」という単語を用い、校閲がどう判断してそのままにしたのか、気になるところだ。なにか反応があるかもしれぬが、所詮「理屈と膏薬はどこにでも付く」を証明してみせるような内容だろう。

 斯くして荒俣宏・編/紀田順一郎・監修『平井呈一 生涯とその作品』(松籟社)感想はここに了んぬ。長文読破多謝、擱筆。◆


平井呈一生涯とその作品

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  • 出版社/メーカー: 松籟社
  • 発売日: 2021/06/01
  • メディア: 単行本




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第3403日目 〈荒俣宏『平井呈一 その生涯と作品』を読みました。〉3/4 [日々の思い・独り言]

 3篇のうちで完成度の高さで最も優れているのが、「顔のない男」である。英国怪奇小説の匠たちの作劇術を自家薬籠のもとし、更に換骨奪胎して昇華してみせた、そうした面で「真夜中の檻」に肩を並べる作品である。もっといえば、本篇は平井の創作小説のうちで、「エイプリル・フール」と相和すジェントル・ゴースト・ストーリーの佳品といえるだろう。
 ストーリーは、いまはもうない東京晴海は国際展示場での全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)の場面から始まる、敷地中央のプロムナードも含めてわたくしには懐かしい景色だ──同じ思いを抱かれる方もあろう──。子供時分の「宇宙博」が最初だが、その後はコミケ初参加(一般)まで晴海とは縁がなかった。
 そんなコミケ会場の雰囲気や光景──入場待ちの熱気や人いきれ、入場時と会場整理のてんやわんやぶり──を思い出してみると、昭和30年代に設定された「顔のない男」で描かれた自動車ショーの様子とあまり変わらないことを面白く思うた(ところで、「コミケ当日はかならず晴れ」のジンクスはもう過去のものになったようだが、屋内の会場待ち行列の上に自然発生する「コミケ雲」はいまでも見られるのだろうか?)。序でにもう1つ、思い出話をすれば有楽町の東京国際フォーラムにてかつて夏休み時分に行われていたキッズ・フェスタや、会場がフォーラム以外に置かれていなかった頃のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの改札整理、クローク受付、会場案内等々でスタッフが皆息つく間もない程バタバタしていた様子も、同時に思い出した。
 これが書かれた昭和30年代の日本は、ちょうどモータリゼーションの時代を迎えていた。平井と起居を共にした吉田ふみには自動車修理工場の経営者へ嫁いだいとこがいたそうだ。2人は疎開先の新潟県小千谷市から東京へ戻ってきて間もない当座、一時的ではあるが新宿区西大久保にあったこの自動車修理工場の一角に間借りしていたこともある由。おそらく平井はそちらから自動車が一般大衆の手に届くようになった時代への関心を持つようになったのだろう、とは荒俣の言である(P130, P439)。なんというても「国民大衆車」(P237)だもんな……。
 創作小説集『真夜中の檻』所収の2篇でも明らかだが、平井は小説を書く際じっくりと書きこんでゆくスタイルを旨とした。細部を疎かにしない、ということだ。躯体部分の工事や造作に手を抜かない、ということでもある。必然的に作品の分量は多くなる。そうした細部が描きこまれることで、作品は緻密かつ濃密な仕上がりを見せるのだ。
 この緻密さ、濃密さがなにに由来するか? ──英国怪奇小説の匠たちの翻訳を通して体得した筆法である。就中M.R.ジェイムズの作劇術と怪異の表し方を自家薬籠とし、本作にて昇華させたように思う。なにげない日常の描写を積み重ねて、その合間合間に怪異の予兆や日常から逸脱する不穏な描写を紛れこませ、じわじわと真綿で首を絞めるが如き息苦しさ、重苦しさ、そうして居心地の悪さを味わわせた頂点で、ほんのりさり気ない一行で怪異を登場させる、とはM.R.ジェイムズの諸作と「顔のない男」に共通する作劇術である。
 余談だが、平井は東京創元社〈世界恐怖小説全集〉第4巻『消えた心臓 M.R.ジェイムズ』解説でジェイムズ文学の特質・作劇術を克明に説き(『真夜中の檻』P294-300 創元推理文庫 2000/09)、紀田順一郎主宰の「THE HORROR」にジェイムズの怪談実作エッセイ「試作のこと」を訳し(『幽霊島』P480-483)、英米の怪奇小説作家の技術を分析解剖したピーター・ベンゾルト『小説に於ける超自然』を読んでいたりした(『小泉八雲入門』P67 古川書房 1976/07)。
 また、伊豆湯ヶ島への道すがら交通事故の現場に行き合ったトラック運転手たちの会話、この突き放した場面はなにやらアーサー・マッケンの傑作長編、『夢の丘』の最後を連想させるではないか。伊豆のあのあたりはむかしもいまも公衆電話は滅多になく(子供時分、時々車で通ることあった地域だから、そんな記憶がよく残っている)、勿論携帯電話なんてない時代なのでドライヴァーたちの対応も宜ないところなのだが、やはりこの対比のくっきりした様、転換の見事さは巧いな、と思うのだ。
 「顔のない男」は中菱一夫名義の原稿と平井呈一名義の原稿の2種があり、本書への翻刻には後者が採用された由。
 【小説】はここで止め、【俳句】に移ろう。

 平井呈一(程一)が文学に親しむ最初のきっかけとなり、生涯にわたってその情熱の捌け口としたのが【俳句】であった。双子の実兄二代目谷口喜作と連れ立って自由律俳句の推進者、河東碧梧桐の門に入り、新聞雑誌へ盛んに投句したことはいろいろなところで語られている。
 が、実際にその当時の俳句をまとめた1冊はなかった。平井も生前自身の句集は持たず歿後、「呈一の謦咳に接した同人(引用者補記:無花果会会員)が、翁を慕うの念止みがたく、その菩提のために出版に踏み切った」『平井呈一句集』があるのみ(無花果会 昭和61・1986/12 引用:高藤武馬「解説」P182)。同書は「自撰句集」、「無花果句集」、「平亭其水遺稿」の3部より成り、合計438句を収める。どれも定型俳句へ移行したあとの句作であり、「碧門の一俊足」であった碧梧桐門下時代──自由律俳句の時代から最晩年までの俳歴を俯瞰する目的に適うことは、残念ながらできなかった。
 今回荒俣が協力者の助けも借りて碧梧桐主幹の句誌『海紅』を始め『東京朝日新聞』や『文章世界』などから発掘、本書へ収め得た平井作句は全部で294句、うち『句會まごめ 四』掲載18句中9句が、前述『平井呈一句集』と重複する。未発掘の句はまだまだあると思われるが、「打笑つたが何となく空つぽな冬の野で」を始めとする大正から昭和戦前、戦後すぐまでの作物がこれだけの数見附かり、読めるようになったことをまずは喜びたい。
 わたくしは俳句というものとさしたる縁もないまま暮らしてきた一歌詠みでしかない。精々が遊びで数句詠んだ程度だ。しかも若い頃の歌会の余興である。俳句といちばん関わりを持ったのは、亡き婚約者の遺句集を整理したときと、学生時代に近世俳諧史をみっちり学ばされ芭蕉「奥のほそ道」を精読した3年間ぐらいだ。母方の祖父が俳句を詠む人だったけれど、残念ながらその感化は受けなかった。
 そんな俳句については感性貧弱なわたくしながら、本書掲載句と『平井呈一句集』を通読してみて、思うていた以上に平井の俳句はその始まりの頃から──師に従って自由律俳句を詠んでも──定型の縛りから自由になること能わず、句風は殊の外穏やかで、ともすると貞門や一茶の、俗語、漢語を取りこんだ心自在な風を想起させもした点にすこしく驚きを感じた。
 ただその一方で、青年らしく際どいところまで踏みこんだ表現を採用した句もある。たとえば、「女自らを知る淺草の池水が黒い」(P395 『海紅』大正9年8月号)や「去りぎはの赤い袖口も曼珠沙華も彼女も」(P406 『文章世界』大正8年12月号)などである。──〈艶隠者〉、平井呈一(程一)は若くしてそんな言葉を思わせる俳句の作り手でもあったのだ。こうした句の詠み手が老境へ至ると、「老いそめて夫婦事なしさくら餅」てふ句を生むのだから、個人の創作の歴史、作風の変化というものは面白い(句集P43)。ちなみにわたくしはこの「老いそめて」の句が大好きで、ちかごろ頓に共感著しいのだ。
 その平井にまとまった俳論、俳話はない。作品を以て全てを語らしめよ、ということかもしれないが、短いもの、談話の断片でも構わぬからそうしたものが、たとえば無花果会の句誌などに載ったりはしなかったのだろうか。また、前述句集の高藤の解説や平井『小泉八雲入門』「八雲と俳諧」、佐藤順一『私の旅日記・順一雑纂』に紹介される平井書簡等から、平井の俳論を構築・類推することは難しいだろうか。或る程度まで輪郭を捉えることは可能であるように思うのだが……。
 それでは【俳句】についてはここで筆を擱き、最後、【呈一縁者による回想記】へ移ろう。□

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第3402日目 〈荒俣宏『平井呈一 その生涯と作品』を読みました。〉2/4 [日々の思い・独り言]

 戦後すぐの翻訳活動で目を引くのはワイルドとサッカレーの作品集である。本書にはサッカレエ『歌姫物語』解説が再録された。
 平井のサッカレーといえば岩波文庫に入る『床屋コックスの日記・馬丁粋語録』(1951/04)が最もポピュラーだが、戦後間もない時分には森書房から『サッカレエ・諷刺・滑稽小説選』全6巻8冊の企画があった。『小説選』のラインナップは本書446ページに載るが、『歌姫物語』はこのうちの1巻で、唯一の刊行物らしい、とのこと。
 『歌姫物語』は未見未読ながら前述の岩波文庫や改造社から出た『おけら紳士録』(昭和24/1949年)を読むと、そのやや古風で軽みと意気が調和した訳文のせいもあるのか、サッカレーと平井の親和性は八雲に次いで高く感じられる(由良君美もそう感じた一人のようで「最後の江戸文人の面影」並びに「回想の平井呈一」に発言がある。誰しも感じるところは同じか。いずれも『風狂 虎の巻』[青土社 1983/12]所収)。それゆえにこそ、「訳者は一生かかってサッカレエの全作品とは言わぬまでも、その代表作だけでもいいから、何とかして邦語に和げ移したいという念願を持って」(P331)いたのが企画頓挫の憂き目に遭い、実現しなかったことを心の底から残念に、恨めしく思うのだ。
 また、文中サッカレーという人を捉えて「浮薄な、卑屈な、傲慢な人間の属性は徹頭徹尾これを憎み、事それに関しては人間のどんな些細な言動からも、これを見抜く浄玻璃のような慧眼を彼は持っているが、人間そのものは決して憎みもしなければ、愚弄もしていない」(P330)と評すが、蓋し卓見といえるだろう。
 わたくしにはウィリアム・メイクピース・サッカレーという人を評した上記引用文が、平井呈一という人間の為人を端的に表現したもののように読めてならない。のみならずどうしても、師事した荷風と似て非なる部分を同時に見、邂逅と訣別は必然であった、とさえ思うてしまうのである。志向は似ていても平井の生き方や人生への責任は到底荷風には理解できない次元のものだったのだ……。
 ──全生涯を俯瞰して平井の仕事で最初から最後までその名の見えるのが、ラフカディオ・ハーン/小泉八雲だ。八雲については各社刊行訳書の解説・あとがきのみならず、各種紙誌に読書の手引や概論が寄稿された。歿後刊行の単著『小泉八雲入門』(古川書房 昭和51・1976/07)もある。文庫・単行本未収録の文章は『幽霊島』(創元推理文庫 2019/08)に入ったが勿論、本書にも八雲にまつわるエッセイが2篇、収録されている。
 恒文社版『全訳小泉八雲作品集』内容紹介と(平井「訳者のことば」の他、池田恒雄「刊行のことば」、小林秀雄・山本健吉両名の「推薦のことば」を付す)、NHKの番組用に録音されたものの書き起こし「小泉八雲──NHK『人生読本』より──」である。どちらも八雲を語って雄なる作物である。就中内容紹介「訳者のことば」の結び近く、「わたしどものとかく忘れがちな、心していたあるべきものが、八雲の書いたものの随所に、じつに心こまかに保存されている」(P356)とは生涯を通して八雲に親しみ、骨の髄までしゃぶり尽くした平井にして初めて明言できることであり、またわれら今日の読者へも実感を伴って迫ってくる言葉である、といえまいか。
 前述の通り類似した八雲関連エッセイは他にもあるけれど、こちらはこちらでまた異なる魅力や味わいを含んだエッセイであった。
 エッセイのパート、少々長くなるがあともう少しお付き合い願いたく思う。どうしても取りあげておきたいのは「翻訳三昧」と、講談社版「世界推理小説大系」月報の「翻訳よもやま話」、殊クイーン「神の灯」に触れた一文である。順番に、──
 「翻訳三昧」(『時事新報』昭和28/1953年3月号)は数ある平井の翻訳エッセイの1つで、面白さという点では他に抜きん出たものを持つ。特に結びの一文は最高だ。曰く、「道楽は稼ぎにならぬものだし、風流は寒いものときまっているから、いつまでたってもお金はいっこうに儲からない」(P334)と。なんとも江戸前、イナセな〆括りではないか。同時に一抹のペーソス漂う様がなんとも味わい深く、その落語のオチめいた言い回しも込みでいつまでも余韻が残る1篇となっている。本書に収められたエッセイのなかではいちばん好きだな。
 平井は5人のミステリ作家の諸説を翻訳した。カー、ヴァン・ダイン、セイヤーズ、デ・ラ・トーレ、そうして、クイーン。クイーンでは『Yの悲劇』と「神の灯」を手掛けている。奇しくもクイーンが生み出した2人の名探偵の代表作を訳した形だ。
 講談社版「世界推理小説大系」クイーンの巻にその「神の灯」を訳し下ろした際、平井は月報に寄せた「翻訳よもやま話」のなかで該作へ触れて曰く、「あの奇想天外な大トリックには、正直いうとこっちが面くらってしまって、あの二軒の建物の距離感が最後までつかめなかった」(P378)と。
 うん、わかる。いわんとしていることはわかるのだが……自身の翻訳とはいえ、ミステリは門外漢だからとはいえ、こうもアケスケに白状してしまう翻訳家がどこにあるのか。顔が青ざめてしまう程のキップの良さである。自分に正直で、仮面を被ったまま文章を書くことを潔しとしない人だったんだな、とつくづく感じ入ると共に、月報用の文章とはいえ受け取り、かつ掲載してしまう編集部の懐の深さに感心し、編集部が平井に寄せる信頼の厚さ深さを想像して羨ましく思うたりもするのだ。
 屋敷消失の大トリックを中心に据えた「神の灯」をわたくしは最初、井上勇・訳『エラリー・クイーンの新冒険』(創元推理文庫 1961/07 大学の最寄りのJR田町駅構内の古本市で購入した)で読んですっかり魂消てしまい、高校時代の友人を相手にお茶の水のモスバーガーで一時間ばかしその凄さや魅力を熱心に語ったものだが、彼方も此方も海外ミステリの、しかも本格と呼ばれる時代の作物は片鱗ぐらいしか知らぬ時分であったから、果たしてどこまで伝わっていたものやら。
 ……【エッセイ】はここまでにして、では【小説】に話題を移そう。

 平井呈一には『真夜中の檻』と題す、1冊の創作小説集がある。初刊は昭和35(1960)年12月浪速書房から中菱一夫名義で、現在は平井呈一名義で創元推理文庫から(2000/09)。和製ゴシックホラーの極北たる表題作と、現代風俗を巧みに活写した中編「エイプリル・フール」の2篇を収める(どちらも初刊本を初出とし、その後雑誌や各種アンソロジーに再掲された)。
 『平井呈一 生涯とその作品』で初めて活字となった未発表小説3篇──「鍵」、「顔のない男」、「奇妙な墜死」──はいずれも「エイプリル・フール」の系譜に属す。いずれも執筆は昭和30年代。ちなみになぜ「真夜中の檻」系統のものが書かれなかったかについては、解題にある荒俣が聞いた平井の言葉が回答になっていよう。曰く、「ああいうものは、あれでおしまいだよ」と(P443)。
 それでは、順番を入れ換えて述べてゆこう。
 まず「鍵」だが、荒俣によれば平井が試みた最も初期の創作ではあるまいか、とのこと(P438)。中菱一夫名義で載る。
 新聞記者の曽木が女に誘われて行った先で出喰わすのは……オチなんぞ到底書けぬ掌編だけれど、曽木が女に従って砂町から小名木川を越えて現場となる2階建てバラックへ至る道行の場面は一幅の淡彩画を観る思いである。
 舞台が本所深川、砂町の火事現場を端としてそのまま荷風の随筆「元八まん」の舞台へと移り重なってゆくあたり、荷風や芥川たちと同様、平井も大川(隅田川)、江東地区の引力に魂を囚われた文人の1人だったのかもしれぬ──そういえば荷風の許に出入りする前、平井が最も親近した文人は芥川であった──。もっとも本篇はかれらが描かなかった、描こうとしなかった工場街の裏手にまで筆が進んでいるのが特徴である。
 本篇はこの情景描写がいちばんの読ませどころなのだ。佐伯一麦が徳田秋聲の「あらくれ」を指して「ストーリーはあるがプロットはない、という印象を受ける」(『あらくれ・新世帯』P364 岩波文庫 2021/11)と評しているが、「鍵」についても同じことがいえる。
 ただ本篇は完成せられた1作、というより未だ推敲途上の作、とわたくしは受け止める。プロットへ肉附けが為された段階であり、このあとも改稿の心づもりがあったのではないか。殊程然様に完成した小説というには、まだまだ足りぬ部分があるように読めてならぬのだ。もしかするとこれ以上の発展、磨きあげは望めぬ、と放棄された作品であるのかもしれない。
 「奇妙な墜死」は「鍵」同様最初期の創作とされる(P440)。出来映えは、3篇のうちで最も下だ。連続強姦の果てに殺された女性が幽霊となるが、犯人への処罰を下すことなく放置し、恋人をあの世への道連れにする、という筋だが、良いは不穏な雰囲気で幕開く冒頭、市川真間手児奈堂、雨夜の描写のみ。
 解題のなかで荒俣は、本篇に3種の原稿が残されていることから「最も苦心して仕立てた」、「自信作だったことを裏付ける」作品というが、話はむしろ逆であろう。なかなか意に満たぬがゆえ何度も書き直す羽目になった。その結果として3種類の原稿が残った、と考えるのが自然なのではないか。3種の原稿すべてを並べて検証したりするなどができぬ以上、これも憶測の域を出ないが、そんなように考えるのである。
 本篇は中菱一夫名義で本書に載る。□

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第3401日目 〈荒俣宏『平井呈一 その生涯と作品』を読みました。〉1/4 [日々の思い・独り言]

 小泉八雲を握翫鍾愛して代表的著作を個人訳したに留まらず、若いときは自由律俳句を提唱した俳人、河東碧梧桐の門に入り、また佐藤春夫や永井荷風に師事し、流転を経て迎えた戦後は怪奇小説の翻訳と研究の泰斗として斯界をリードした最後の江戸前文人、平井呈一(本名;程一)の、特に前半生はずっと暁闇のなかにあった。
 それを此度、最後の門弟たる荒俣宏が関係者への聞き取りや埋没した資料の発掘てふ地道な作業を通して、出生前から歿時までの事績を掘り起こし、のみならず歿後の顕彰に至るまでの計約120年をここに取り纏めた。労作、とはこのような1冊のために準備された言葉である、とつくづく思う。
 【年譜】というと基本的に2つの方向へ大別される。1つは丹念に地道に史的事実を諸史資料から拾って確定した年月日順に羅列してゆく方向へ。いちばんポピュラーなのは歴史の教科書の巻末に載る年表だろう。最もストレートかつ無味乾燥とした年譜である。
 もう1つは諸史資料から羅列してゆくまでは同じだが、そこへ編者による新事実の報告や疑義が盛りこまれたり、従来の認識、見解の修正が指摘されたりする、文字通り「読む」ことを第一とした年譜だ。こちらは史資料の蒐集にかかる時間に根気、出費、なにより運が必要とされ、作業量と検討の時間も前者の比ではない。
 が、その分読み物として歯応えある〈作品〉が読者へ供されることにもなり、斯様に地味で時間のかかる作業を経て成った「年譜」のみが、後の世まで読み継がれるのだ。わたくしの披見し得た範囲で申せば、この「読む年譜」の最高峰は高田衛『完本 上田秋成年譜考説』(ぺりかん社 2013/04)だが、こちら荒俣宏の労作はそれにじゅうぶん比肩する1冊と断言してよい。
 本書年譜パートの特徴というか功績は、5点ある、とわたくしは考える。つまり、──
 ①初代谷口喜作(平井実父)の経歴を、「オッペケペー節」で知られる興行師・川上音二郎とのかかわりも含めて明らかにしたこと。
 ②戦前の平井の人生を、小千谷疎開時代も含めてその動静を跡附けたこと(小千谷時代は特にP106-127を参照)。
 ③二代目谷口喜作(平井実兄)に多量の作品──俳句だけでなく身辺の出来事に材を取って綴ったエッセイ、私小説に分類されるべき数多の作品──があることを報告したこと。
 ④長く判明していなかった平井呈一と吉田ふみの墓所の捜索に成功したこと。
 ⑤「文学上の女神」吉田ふみの経歴を明らかにしたこと(P96-99)。
──以上5点である。
 ところで年譜で一ヶ所、どうしても腑に落ちぬ部分があり、その旨出版社へメールで問い合わせてしまった。即ち、どうして昭和40(1965)年条は時系列で記述されていないのか、と。
 12月14日:恒文社主池田恒雄宛平井書簡の内容に触れ、続いて、9月16日:岩波文庫『怪談』が第27刷を機に改版された記事が177ページで終わると次の178ページで記されるのは、4月29日:小泉八雲長男一雄逝去、7月:平井が編集顧問を務めた日本初ホラー専門同人誌『THE HORROR』休刊の記事なのだ。
 なぜこのような椿事が出来したのか。組版ミス等によるものか?
 数日後、担当編集者からの返信メールを受信した。曰く、組版ミスに非ず、その年の八雲関連記事を1ページにまとめるため斯く相成りし候云々。又云、読者の読みやすさを優先した、読者の便宜を図った、と。
 ……なんだ、それ? なぜそんな読者に媚びて混乱させる編集作業を諒としたか。年譜に恣意を混ぜるのはやめてほしい。
 それでは【年譜】についてはこのあたりで筆を擱き、【エッセイ】に話題を移そう。

 ここ20年強の間、機会あるごとに掘り起こされてきた平井のエッセイは、どうしても八雲と怪奇小説絡みのそれに偏りがちだった。が、本書で初めて単行本に収録されたエッセイ群には、近代文学にまつわる文章──平井の活動最初期の文芸評論も載る。目次の順番に従い、大正15年の作物から始めよう。
 「私小説流行の一考察──併せて私小説に望む」(『文藝行動』大正15/1926年6月号)は、荒俣に拠ればこれが初めての文芸評論だった由(P163,P445)。既に幼馴染みで相愛の女性と所帯を持ち、前年には長女が生まれていることもあり、収入の手立てを模索しなくてはならぬ時期である。
 自然主義から出発して日本独自の、ガラパゴス的進化を遂げていった日本の私小説が〈個〉──〈私〉──にこだわりすぎた、或いはそれを深めてゆくに熱中しすぎた余り、却ってどん詰まりの袋小路に嵌まりこみ、盛衰の分岐点にあったこの時代、平井の評論は自然主義から枝分かれした私小説が単なる身辺印象雑記の域を出ていない点を突き、恥部を自ら露わにして更にそこにしか発想の井戸を持つことのできなかった<現代の私小説作家たち>へ向けた痛烈な警鐘にもなった。毎日新しく生み出される近代文学の名作佳作埋没作をリアルタイムで鑑賞できた同時代人ならではの、皮膚感覚を大事にして書かれた1篇でもある。
 その皮膚感覚は論文の〆部分でもう1つの、私小説というジャンルの終焉を予期する一文へ結実することになる。曰く、「軈ては必然の自慰に陥入り、終には凋落の憂目を見るであろう」(P317)と。
 これはみごとな的中を見せた。大正末期から着実に層を広げてきたプロレタリア文学が、(時勢を背景にして)一躍時代のトップ・シーンに躍り出て、もはや青色吐息の私小説に代わって覇権ジャンルとなったのだ。平井の評論はまさしくそうした交替期の真っ只中で書かれた点、時代の息吹を伝えてもいて、なかなか妙味ある1篇といえよう。
 次に古い作物が「近松秋江氏とストーヴ」(『週刊朝日』昭和2/1927年10月9日号)という訪問記事である。秋江の知を得たきっかけは未詳だが共に早稲田の学生だったこと、けっして無関係ではあるまい。
 大正末期から昭和戦前までの間、平井は何篇かの作家論、作品論を物して諸紙誌へ寄稿している。が、どうもこの時分の平井に本格的な作家論、作品論は向かなかったようで、事実、同じ年の2月に『早稲田文学』へ発表された「近松秋江論」は、「論」とこそいえど実態は初期作品から最近作までを概観して私見を加えた、〈クリティックとしてのエッセイ〉というよりもむしろ〈コンフェッション・オブ・フェイスに傾いたエッセイ〉、または〈オマージュという名のクリティック〉というのが近い。戦前の平井の文芸評論としていちばん人口に膾炙する「永井荷風論──読「濹東綺譚」──」も例外ではないだろう(日本文学研究資料刊行会・編『日本文学研究資料叢書 永井荷風』 有精堂 昭和46・1971/05)。こんなところからこの頃の平井にはクリティックよりも「近松秋江氏とストーヴ」の如く、新聞の文化部記者のような仕事の方が性に合っていたのではないかな、と思う次第だ。
 そこで「近松秋江氏とストーヴ」なのだが──「別れた妻に与える手紙」連作や「黒髪」三部作の時分とは打って変わり、地に足着けて日常・自然の営みをしみじみと享楽し、再婚して得た家族に濃やかであたたかな配慮を怠らぬ〈生活者〉としての秋江を巧く捉えて、その姿を眼前に彷彿とさせる好編といえるだろう。
 本篇が発表された昭和2年秋といえば、秋江は数えで51歳。大正11(1923)年の「黒髪」三部作を最後に情痴文学からは離れてゆき、同年再婚して女児2人が相続いて誕生すると、平井も綴るように、「今や秋江氏の日常は益々落着を加えて行く」(P325)のであった。この訪問記は秋江が情痴文学から離れて、より澄明な身辺小説を志し、史劇や紀行が目立ってゆくその過程を期せずして記録している点、貴重といえるだろう(このあたりは前述の「近松秋江論」でも或る程度まで跡附けられる)。
 書店にて容易に購入可能な秋江文学といえば、いまもむかしも情痴文学が専らなのが残念だ。他にも読んでほしい作品が山程ある。『文壇無駄話』や『旅こそよけれ』、或いは史劇「水野越前守」、或いは愛娘との生活に材を取った「子の愛の為に」などだ。そんな風に埋もれてしまった名編逸品が、秋江には幾つもある。何冊か仕立ての選集でも構わぬ、モノによっては抄録でも妥協しよう。情痴文学以外の秋江作品が広く読まれる環境を整えてほしいのだ。その際は──数年前に出た、「なんだかなぁ」と溜め息吐きたくなってしまう半端な一巻の伝記の影を薄くしてしまうような、必然的に作者はその伝記の著者とは違う人を指名して、精確公正偏りなき小伝と簡にして要な年譜を付し、諸家諸評の1つとして平井の「近松秋江論」が併収されたらわが喜びは一入である。□

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第3400日目 〈捜すのをやめようとしたとき、見つかることはよくある話ですね。〉 [日々の思い・独り言]

 すごく良いタイミングで……と思う。またまた片附けの話、が、それも今日が最終日。
 発掘した、発見した。全身から力が抜けた、もうこれで捜索せずとも済むのだ。達成感を味わった、懐かしさに胸が熱くなった。
 然り、例の古典の文法書が、廊下に積まれた小山を崩しながら最後に開けたダンボール箱からひょっくら顔を出したのだ。永野護『PLASTIC STYLE』と『MAJESTIC STAND』にサンドウィッチされているとは、流石のわたくしにも想定外であった、と告白しておきたい。
 火事の片附けが間に合わなくなったのか。或いは気力が削がれていたためか。取るものも取りあえず片っ端からダンボール箱へ放りこみ、時間ができたらゆっくり(清掃も含めて)中身を確認しよう、とか考えていたのかもしれぬ。如何せん20年近く前の話だから、なんともいえぬが。
 斯様なことはあったと雖も捜し物は見附かった。いま、それは机上にある。
 そうして例によって意外なる印刷物も、同時にそこへ見出したのだ。どれだけ捜しても見附からなかったのでてっきり、火事の際処分したのだ、と思いこんでいたイギリスの画家、サー・ローレンス・アルマ・タデマの画集が、文法書よりも下の層に埋まっていた。横浜SIALの画材店の店頭にあったポストカード・ラックをくるくる回していた或る日、出会った画家である。
 当時はまだ画集を捜して買う程の財力も行動範囲もなかったのでポストカードだけで満足していた。というよりもたぶんその頃、画集は発売されていなかった気がする。母校の、所縁ない美術科の先生や学祭の準備で知りあった学生に訊いて回っても、知る人はいなかったと記憶するから。
 此度発掘した画集の奥付を検めると、1993年10月刊、とある。出版社は、いまはなきトレヴィル。卒業したのが同じ年の春なので、質問するタイミングが少々早かったのだろう。この年は内定取消に遭って就職浪人で社会へ放り出されて、肉体労働に精出していた時分だったな。そのせいでか、軍資金は相応にあった。ゆえに神保町の三省堂だったろうか、それとも美術書専門の古書店か、まったく違う書店である可能性も否定できないが、見附けるや刹那の逡巡を経て買うことができたのだろう、と思う。
 他にもダンボール箱からは、こんなの買っていたのか!? とわれながら吃驚するようなものも出てきた。弘文荘から出された『弘文荘敬愛書図録 Ⅱ』(1984/02)だ。神保町の三茶書房の値札半片がカバー裏袖に貼られているが、ここで購入した記憶はとんとない。むしろ薄ぼんやりとだが行きつけの伊勢佐木モールの古書店で見附けて、勉強目的で購入したような気がしてならない。
 1990年代の古書蒐集の柱の1つは古典籍の販売目録だった。東京古典会の『古典籍展観大入札会』目録が中心になったのは、長期戦さえ覚悟すれば1,000円程度で古書店の棚で見附けることができ、ジャンルも量もヴォリュームの点で他を圧するこの目録1冊を舐めるように読み、図版を仔細に眺めるのがいちばんの勉強になったから。
 火事のあと国文学(古典)関係の本はこの目録も含めて1冊たりとも処分することなく、煤を払い、拭き、を何度も繰り返していま部屋の書架の過半を占めているのは、まだ気持ちのどこかで研究者になる夢を捨てきれずにいたからだろう。ときどき本ブログに「誰が読むんだ」と思うような考証的なエッセイだったりが載るのは、夢の名残であるかもしれません──。
 名残序にいえば、これこそが処分したと思いこんでいたが実はちゃんと残していた、の最右翼はやはり20代、伊勢佐木モールと神保町の古書店の店頭で嬉々と漁っていた浮世絵の複製だった。サイズは、正確には大判錦絵よりも縦は約4センチ、横は約1センチ強ばかり小さなものだが、ほぼ原寸大ということで納得して少しずつ集めたものだ。集めていいたのは初代広重の作物ばかりで、A3ファイルに入った「名所江戸百景」の他、「大日本六十余州」と代表作「東海道五十三次」をバラで、しかしシリーズの過半が集まっている。いずれも揃いでないのは途中、仕事と家事とで蒐集の中断を余儀なくされたため。あの古本屋さんではいまでも、復刻浮世絵が然程変わらぬ値段で売られているだろうか? 残りをコツコツ集めてゆきたいのだが……。
 ただ、初代広重ばかり集めて、一緒に売られていたはずの写楽や北斎の複製へ手を出さなかったのは、勿体ないことをしたものである。未来がわかっていれば無理をしてでも、売り物をぜんぶ買い取る勢いで集めたのになぁ。
 藤沢周平の時代小説を好んで読むようになったいまなら尚更、そう思う。ちなみに藤沢周平に浮世絵作者を主人公にした小説が多いことはよく知られているが、藤沢は勤務の傍ら銀座などの画廊に時間があれば立ち寄って、作品を鑑賞していたそうである。また、藤沢周平名義での小説創作は、広重に始まり広重に終わった。即ち、画力の衰えてきた北斎が広重の登場に戦々恐々として最後は闇討ちさせようと企てるデビュー作「溟い海」から、広重の絵を題材にしてそこからインスピレーションを得、物語を紡いでいった「日暮れ竹河岸」である。尚更、というのはそういうことからである。
 ──色々お話ししてきたが今日の作業を終え、こうして発掘品の数々を思い出して頷くのは、まだ再興/再起そうして継続は可能だ、ということ。在野の研究者──とは烏滸がましいが紹介者、考証家として筆を執るための調査ツールはまだ1点も失っていなかった。これは、安心、であり、自信、だ。そうして話題も無尽蔵に掘り起こすことができる。井戸の底はまだ見えていなかったのだ。良かった。わたくしはまだ書くことができる。これを喜びといわずになんといおう?◆

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第3399日目 〈また見附けちゃった、また発掘しちゃった。〉 [日々の思い・独り言]

 諦めきれぬ古典文法書、飽きることなく捜索中。──今日は廊下のダンボール箱数箱を開梱、中身を徹底捜索したよ。
 そうしたらさ、また見附けちゃったんだ、また発掘しちゃったんだ。処分を免れ、そこにあることもわかっていたけれど、実際に手にしたのは何年振りか、って文庫の群れをね。うん、それは岡本綺堂と久生十蘭の文庫だったんだ。
 綺堂は高校時代から読み継ぎ読み継ぎしてきたが、いまは読むことを中断しているせいで買ってもさっと目を通したあとダンボール箱行きになったものが、ずいぶんと溜まってしまった。十蘭については岩波文庫の短編集2冊と河出文庫の数冊、現代教養文庫から出ていた『魔都』以外はどうしたわけか手着かずで、ダンボール箱の住人になってしまっている。
 なんだか悲しいね。なんだか虚しいね。なんだか苦しいね。中途半端な読書の形跡を見せつけられると。咨、もうマジでイヤんなっちゃう。
 とりあえず今年は赤穂義士関連の小説と記録を架蔵分だけ読み終えたら藤沢周平に戻り、秋あたりからはシェイクスピア──まずは処女作『ヘンリー6世』3部作から──に取り組みたい、と思うて、サブ・テキストを買いこんだり翻訳家たちのエッセイを繙いたり、ファースト・フォリオの研究書に目を通したりしている。
 綺堂と十蘭、どちらも自分好みの作家で、生涯握玩してゆくのだろうが、いつ、読み残しに取り掛かれるかはまだ不明である。
 人生なんてホント、一寸先はわからぬから赤穂義士を明日にでもほっぽり出して、綺堂を読み耽る可能性だって否定できないけれどさ、自分の性格や仕事のこと、家庭のことなど考慮して慎重に、現実的に考えてみても、まぁ、しばらくは無理かな、と。読書のときだけ体が分裂してくれたら良いんだけれど。あとで分裂した自分たちの考えや感想など集約できたら良いのだけれど。
 ──生きている間は見果てぬ夢ですね。◆

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第3398日目 〈”いま”必要な本を発掘しました。〉 [日々の思い・独り言]

 未だ文法書を捜索中。
 もうタイムリミットかもしれない。捜索打ち切り、見切りをつける、といい換えてもよかろう。どうして見附からない? 隔靴掻痒、とはこのようなときに使う言葉か。
 が、捜索の目的は達成できぬと雖もその途次、様々な、思うてもみなかったような発掘品に出合う体験を幾度もしたことで、わずかながら溜飲を下げることができているのも事実。
 きっかけは、隙間から筺の上端が覗いていた新潮日本古典集成『雨月物語・癇癖談』だった。折しも「浅茅が宿」現代語訳を進めているところだったから、これは一種の共鳴事案かも。その下にケネディ元米大統領暗殺レポートの翻訳書が埋まっているとは、流石に思わなかったけれど。
 既に所有しているとはつゆ思わず(=忘れていた)新たに古書店のサイトで購入検討していた本が、造り付け書棚のいちばん下の段から見附かったのは、幾らでもお話しできる数々の体験談の頂点を飾るもの。つまり、鵜月洋『雨月物語評釈』(日本古典評釈全注釈叢書 角川書店 1969/03)と『共同研究 秋成とその時代』(論集近世文学5 勉誠社 1994/11)の2冊である。
 前者は神保町の田村書店で購入したようだ。裏見返しに値札の半片がある。価格は不明、購入目録を繰れば、購入年月日も一緒に判明するかもしれない。繰り返しになるが先日から「浅茅が宿」現代語訳を1時間ばかり使って進めている関係で、どうしてもこれは必要だと感じていた。学生時代から勤労学生時代まで図書館で借りては読み、古書店の店頭でそっと覗いては溜め息吐いていたこの本があれば、もう『雨月物語』の評釈書の類を新たに買いこむ必要はない……どれだけ研究が進んだとしても、大系本と本書の水準を超える註釈書/評釈書が出てくるとは思えない。
 話が一瞬横道に逸れてしまった。仕切り直しをする。
 鵜月洋『雨月物語評釈』を購入していたとは、思ってもみなかった。危ない、危ない、発掘が遅かったらこの嵩のある書物(厚さ4.5センチ)をもう1冊、なんの必要もないのに買いこむところだった。……と思うていたら、この本には月報がない。古書店のサイトと昨日までにらめっこしていた際、本書の特記事項の1つに「月報あり」とあった記憶が。然るに此度発掘した、架蔵する本書にその月報はない。
 哀れ! みくらさんさんかは結局もう1冊、月報欲しさに注文を出すのである。余分の1冊は、さて、どうしましょうか。
 もう1つ、『共同研究 秋成とその時代』ですが、これがあることで(あることも忘れていたのですが)20代の時に書いてそのまま放ってあって、それでも続稿を書き継ぐ予定のあった「秋成交遊録」のようなシリーズ原稿を改めて書き続けてゆく自信がついた。欠けていたパズルの最後の1ピース、とは大袈裟に過ぎるかもしれないが、まさにそんな意味合いを持つ1冊を発掘したのである。
 さて、本当に肝心の文法書はどこにあるのだろうか……?◆

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第3397日目 〈物持ちがいい男の話。〉 [日々の思い・独り言]

 また片附けの話。
 かねて予告の通り、床からにょっきり生えて増殖する一方のダンボール山脈を引っ繰り返した。例によって例の如く、件の文法書はなかった。
 代わりにずいぶんとむかしに書いた履歴書の書き損じや面接を受けた企業のパンフレット、求人雑誌の広告ページなど、目も背けたくなる負の遺産があとからあとから出てきて、困った。
 娘がぐっすりお昼寝中だったこともあり、奥方様がすこしの時間、手伝ってくれた(しかしうちの子、よく寝るな……)。それを待っていたかのように上から3つ目のダンボール箱から出てきたものがある。有楽町の某催事場で行われていたイヴェント各種のスタッフ資料である。
 資料というても公演名の細目、公演情報、タイムテーブル、当日スタッフの配置など記載されたA4片面のプリントに過ぎぬが、スタッフ参加した日の資料はぜんぶ残っていた(序に申せば、2008年GWのLFJAJホールCで行われた全公演のパンフレットも)。基本的にはその日の催事が終われば各自で破棄されるのだが、わたくしの場合どうも棄てるに棄てられなかったのだね。
 なぜ? 奥方様と同じ質問だ。
 答えなんて決まっている、そこに自分と奥方様の名前があるからだ。
 当時はまだまだ絶讃片想い中でしたからね。これを棄てたら完全に縁が切れてしまう気がするな、と一途に思い詰めておったのだな。えへ。
 もっとも、単に棄てそびれて帰宅してしまった、そのままあとで棄てるつもりが忘れていつしか堆積した、というのが事実の半分であるけれど、それはあんまり気にせずにおこう。
 「物持ちがいいよね」とは奥方様の言。そう、だからいま、こんな風に1冊の薄っぺらい文法書を捜して溜め息吐いている。ある筈なのに、ある筈なんだ、と口のなかで呟きながら。◆

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第3396日目 〈ただいま捜索中!〉 [日々の思い・独り言]

 出掛けたいのに出掛けられない。家内のことゆえにではなく、捜し物が出て来ないためだ。昨日は造り付けの書架、今日はその反対にある本棚、どれだけ捜し回っても見附からぬ。
 では明日は──床からにょっきり生えていくつもの山を作っているダンボール山脈の攻略を試みよう。ここにもなければ……処分した、ということになるのだが、そんなことはあるまい。
 学生時代に先生から頂戴してその日からずっと机上にあり、その後も何度か見掛けた覚えのある本だからだ。要するに、思い出も思い入れも、序にいえば実績も、たっぷりある1冊なのである。
 代替品は幾らでもこの世に出回っているし、正直なところ、贅沢さえいわなければ辞書の付録でもなんとか間に合うのだが、手に馴染み目に馴染み使い勝手の良い捜索中の1冊があるに越したことはない。
 この1冊があれば、鬼に金棒なんだけれどなぁ。──とは、いま現物が手許にないことと、かつて翻訳の労苦を共に分かちあった相棒へ寄せる過分のオードであるのかも。でもホント、この1冊で大概の躓きは解消されたのですよ。
 古典文法の教科書を捜しているのです。かつて国語学の先生に文法の件で相談して、次の週の講義のあと講師控え室にお尋ねした折に手渡された1冊でした。出版社は忘れてしまいました。現在ではもっと優れたものがあるのだろうけれど、いまのわたくしの能力ではその1冊で必要じゅうぶんなのである。
 さて、明日は前述の通り、ダンボール山脈を崩して捜索を再開しよう。これで見附からなかったら? うーん、未練を残しこそすれ諦めた方がいいのかもしれない、と覚悟はしている。◆

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第3395日目 〈と或る人生への疑問。〉 [日々の思い・独り言]

 東京駅の改札でよく似た人に会った。その麗しき容に時間が刻まれた様子はなかった。
 傍らの、中学生ぐらいと見える男児は子供か。12歳と仮定すれば24歳で母となった。
 新卒入社した会社を2年ぐらいで退職したか。寿だったのか、出産を契機としたのか。
 とまれ、いまの生活に満足し、家庭円満で、幸せでいてくれるなら本望です。◆

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第3394日目 〈葛飾郡真間郷の夫婦の物語を現代語訳したい。〉 [日々の思い・独り言]

 春らしい日もないまま梅雨入りしそうな感のある5月であります。「片岡に露みちて、/揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、/神、そらに知ろしめす。/すべて世は事も無し。」とブラウニングが謳った春は、いずこに? それでも今日は朝、駅へ着く前に青空を見、虹を──彩雲を見た。思わず写真に撮った。
 大型有給を満喫中、と優雅にいえればいいけれど、実体は然に非ず。昨日から腹の調子が思わしくないのだ。むろん、飲み過ぎでも食べ過ぎでも、コロナ感染でもない。……否、食べ過ぎはあるかな。
 とまれ、具合が悪く、巣鴨詣から帰宅後は宵刻まで横になっていたのである。……ダチョウ倶楽部上島竜兵急逝のニュースを脇に聞きながらね。惜しい芸人を亡くしたなぁ。高校生の頃から見ていて年齢もそう離れていないと思うのに、こうやって若死にされてしまうとわが前途も不安になってしまう、というのが正直なところ。関係者の方々には失礼と承知しつつも、そう思うのである……。
 テレヴィを消して家人が食事の仕度にかかると、わたくしは書架を眺めて1冊の目についた本を手に取り、巻を開いて活字を追う。そうして、翻訳用ノート1ページにシャープペンを走らせ、時に歴史の参考書や用語集も開いて、舞台や登場人物の書き出し、その他の下調べなど。
 ──近世期の怪談の現代語訳と並行して、上田秋成の現代語訳もこちらの予定にはあった。手始めに『雨月物語』から、読み返した回数いちばん多いと思われる「浅茅が宿」を。これ、8代将軍義政の時代のお話なんですね。夫婦の愛と絆と信じる想いに胸打たれる名編ですね。
 もしかすると、次の近世怪談現代語訳よりも先に、こちらをお披露目できるようになるかもしれない。願望、というよりは現実的な観測、かしら。いや、……。◆


海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫)

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  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
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第3393日目 〈2つの報告。〉 [日々の思い・独り言]

 たびたび、書いていた、と報告している荒俣宏・編『平井呈一 生涯とその作品』(松籟社)の感想文を数日後にお披露目致しますが、諸般の事情あり4日に分けて投稿しております。予めお伝えしてご容赦とご理解を求める仕儀でございます。
 もう1つ報告したいのは、此度晴れて吉川英治『新編 忠臣蔵』上下巻を読了し、1日の間を置いて縄田一男・編『忠臣蔵傑作集』という旺文社文庫から出ていたアンソロジーに着手したことであります。
 赤穂義士の事件を、当代の実力ある作家たちの短編で松の廊下の刀傷沙汰から義士たちの切腹までを時系列で再現した1冊であります。はじめましての作家もあり、お馴染みの作家もあり、でまたそれぞれの切り口を楽しむ意味でも本書を読むことにワクワクを抑えきれぬのであります。
 それではみな様、お休みなさい。◆

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第3392日目 〈静夜思。〉 [日々の思い・独り言]

 〈眠られぬ夜〉は辛い。
 この世に不眠症の人のあることを思えば、事情・支障あり寝の浅く頻繁に目覚めてしまう人のあることを思えば、──辛い、というのは贅沢な愚痴であろう。
 されど〈眠られぬ夜〉は辛いもの。時間が異様に長く感じてならぬもの。さっき床に就いたと思い、夢を見るぐらいの時間は寝ていたろう、と時計へ目をやれば実際は30分ぐらいしか経っておらず、しかも実際は寝てもいなかった、とわかる瞬間程、嗟嘆したくなることもない。そんなときは余計に時間の流れるのが遅く感じられて、しかも睡魔の訪れは遠いもの。
 が、しかし、そんな眠られぬ夜にこそ己の来し方を思い、人生を整理し、己を見つめ直す時間に充てよう。夜更けゆえ堂々回りしてドツボに嵌まり却って寝られぬこともあろうけれど、普段気忙しく動いて自分を見つめる時間も割けぬ生活を送っているならば、この時間を静かに活用するに如くはない。
 眠られぬ夜の時間を無為に過ごさず、有為に過ごしておれば深い瞑想の時を持つと共に睡魔の訪れを小さな幸福の1つと数えられる心境にも至ろう。

 首を挙げて山月を望み   挙頭望山月
 首を低たれて故郷を思う  低頭思故郷

──中国盛唐の詩人、李白の「静夜思」から。◆

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第3391日目 〈眠れぬ夜、吉川忠臣蔵を読んで過ごすこと。〉 [日々の思い・独り言]

 5月の連休にあった独り時間を殆どすべて荒俣宏の労作の感想文に費やしたこともあり、この間は該書と参考文献以外に本を読むことが皆無というてよかった。感想文もどうにか仕上げたあとはひたすらグウタラして過ごし、録画していた映画を観たり、家族と同じ時間を過ごすことを楽しんだ。そのせいではないだろうが、日付が変わって時計の針が午前2時を優に越しても眠気が訪れない。
 やれやれ、である。様々な思い出や企みが千切れ千切れに脳裏をかすめてゆく。幸いとそれにより心騒ぐことはなかったけれど、とにもかくにも眠くならないその事実は変わらない。まさしく、いやはやなんとも、である。なんだかなぁ、である。
 眠られぬ夜のためにできることはなにか? 否、なにもない。
 ──いや、1つだけあったな、と、むくり、と起きあがって独り言ちた。この連休中、まるでページを進められなかった小説を読もう! そうだ、そうだ、この静寂に満ちた夜夜中、灯火の下に息をひそめて心たぎらせ史上最も有名な仇討ち譚の続きを読もう。つまり、吉川英治『新編 忠臣蔵』下巻を手に取りベッドから脱け、電気スタンドを点けて机の上に屈みこむようにして、巻を開いたのである……。
 高校1年生のときと記憶する、夜電気を消した部屋のなか、どうしても本が読みたくてならず布団をかぶって懐中電灯の明かりを頼りに1ページ、1ページめくった、あの心躍る経験は。それは赤川次郎や久美沙織の小説であったり、或いは友どちに借りた少女漫画雑誌であったりするが、どうやらそのときの悪癖が形を変えて断続的に、今日まで至っているようである。人間、根幹を成す部分はなかなか進歩もしくは改善されぬらしい。ゆえに悪癖は治らない、というのだ。この悪癖ゆえにいま目がどうかなっている、という懸念もあるのにね。
 斯くして愛飲する麦酒(名をバドワイザーという)を腹のなかへ流しこみながら、小説のページを満足げな顔で、満たされた心で目繰ってゆく。そうしてようやく午前3時18分、欠伸が立て続けに出、集中力も途切れて来、目もショボついてきた。ちょうどキリも良い場面だ(キリといえば桐乃は可愛いですね。でもわたくしは、あの作品ではあやせ推しです)。そろそろ本を閉じて寝に戻る頃のようである。
 吉良邸内の長屋の一部屋で三河生粋の吉良家臣、清水一学と、千坂兵部に仕える木村丈八が酒を酌み交わす場面に始まり、踏みこんだ赤穂義士たちの獅子奮迅の戦いから上野介の首を獲る場面で終わったのだ。これを「キリが良い」といわずになんとする──。
 それにしても、吉川忠臣蔵の誠よく物語の描かれていることよ。かなりの下調べを行い、それを消化しきった上で赤穂義士たちの行動を追い、吉良・上杉方の人物群像を編みあげた雄編と感じる。これまで読んでこなかった自分を恨めしく思い、然れどいまこのタイミングで読み得たことを天の配剤と感謝したい。
 この小説のいちばんの特徴は、上巻を読んでいるときにも書いたけれど、吉良方へ与する人々も等しく公正に描き、取りあげている点だ。どこまで史実か、というのではなく、歴史のうねるなかで人は自分の置かれた境遇や立場に恥ずかしくない行動をして命を散らせていった、その姿を捉えるのが時代小説の最も忘れてはならぬ【核】であろう。
 ゆえに吉良家中に人あり、就中一学と春斎、そうして義士たちを圧する程の丈八の立ち去り際の見事さに心動かされ、記憶に鮮やかな印象を残し、一方でイザという場面での上野介嫡子たる左兵衛佐のヘタレッぷりに呆れてしまうのだ。呆れてしまうといえば、炭部屋に潜伏していた吉良上野介をそれと確かめもしないうちに一太刀浴びせてしまった武林唯七には、〈吉川忠臣蔵版うっかり八兵衛〉の名を進呈したく思う。
 徳富蘇峰『近世日本国民史 赤穂義士』に拠れば、左兵衛佐が幕府に後日、報告した届のなかで自分は赤穂義士相手に奮闘したが遂に敗れた旨記してあるが実際は、「左兵衛義周は、長刀もて立ち上がったが、武林唯七のために、ただ一撃にしてやられ、たちまち却走し去った」(P251 「却走」は「逃げ去る」の意味 講談社学術文庫 1981/12)のだ。吉川英治は敢えてその場面で名前を出さないが、ちゃんと読んでいれば左兵衛佐とわかるよう書いてある(下 P286)。
 かつて金原ひとみは「上巻読むのに4カ月。一気に3日で中下巻!」と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫版中巻の帯で曰うた(朝日新聞書評の要約らしいが)。読みつけぬうちは難渋するが、ひとたび物語の持つ力に首根っこ摑まれたらたちまちである、とい同義だ。これまでわたくしも何度となく同じような経験を分冊の小説で経験してきた。そうしていま、この言葉を吉川忠臣蔵にささげたい気持ちなのである。斯様な、良心的暴力とでもいいたい強い力を内在した小説を多く物すことができたことが、吉川英治を「国民的作家」と呼ぶ要因の1つだったのかもしれない。
 間もなく本書を読み終えるけれど、うん、先に読んだ立川文庫の『大石内蔵助』とはずいぶん趣が違うね、やっぱり。
 さて、それでは寝に戻ろう。朝刊がポストへ落ちる音が聞こえた。◆

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第3390日目 〈喫茶店は知的生活/生産の良きパートナー。〉 [日々の思い・独り言]

 喫茶店での会話が知的生活の活性化に有効である、と説いたのは渡部昇一であった。外国から新しい雑誌が届くとそれを持って近所の喫茶店に出掛けてともかくも1冊を読了してしまう、ゆえに読み残しはない、といったのも、渡部昇一である。また、小田島雄志は喫茶店を主たる仕事場にして、シェイクスピア全戯曲の翻訳を完成させた。
 渡部、小田島の喫茶店のエピソードは、『知的生活の方法』正続(渡部 ※1)と『書斎の王様』(小田島 ※2)に載る。この3冊を10代後半から20歳ぐらいで読み、繰り返し繰り返し読んだ。その結果、喫茶店にこもって数時間を読書や執筆に費やす自分が出来上がる──常態化したのは30代からだけれど。
 しかしどうして喫茶店は、斯様な知的生活(生産)に欠くべからざるパートナーであるのだろう。イギリス発祥のカフェ文化の歴史にもかかわるところになろうから詳細は省くが、とどのつまり、適度なる非日常とそれがもたらす気分の変化がコーヒーに含まれるカフェイン作用と結びついたとき、なにかしらの刺激剤を人に与えて脳ミソを活性化させ想像力や考える力をフル回転させた挙げ句、読書や執筆がはかどることに、或いは、なにもせずとも一ツ事に不断に考えを巡らせていたことで思わぬアイデア、思わぬ解決の糸口を見出すことに、各々つながるのだろう。これまでの自分の体験を踏まえると、そう考えることができるのだ。
 喫茶店にこもって読みあげた本は、数不知。喫茶店にこもって書きあげたなかでいちばん大きなものは、本ブログの発端でありいま以てなお中核を為す聖書読書ノートだ。喫茶店という日常と非日常の境界にあってやや後者寄りと思う場所での読書と執筆がどれ程の成果をもたらすか、誰よりも──とはいいかねるが、わたくしは自分で体験しているがゆえによく知っている。
 もっとも、喫茶店とはいうてもスタバやドトールのようなチェーンのカフェをこの場合多く含んでいるのは、読者諸兄の過半はご存知かもしれないが念のため、お断り申しあげておく次第。
 いまの切実なるわが願いは、自宅から歩いてゆける距離、もしくは定期で通える範囲内で駅から然程離れていない場所に、美味いコーヒーを飲ませ美味しいワッフルを食べさせてくれる、店内は静かで客同士の会話も小さく低い声でなされ、マスターやスタッフの対応も実に気持ち良く、いつ行っても適度に空いていて、何時間いても嫌な顔されない、そんな喫茶店があったら嬉しいのになぁ、ということ。
 新しいスタッフが入ってきた途端接客クオリティが著しく落ち、店の雰囲気が悪くなってしまうような某神保町の喫茶店みたいなところは、元より論外。自分も経験があるが、悪性ウィルスは周囲の良好な環境を破壊して、すべてを自分の<色>に染める力を持っていますからね。
 徒し事はともかく、上述のような喫茶店を求めてしまうのはおそらく、元々横浜中心部って所が戦後は名だたる喫茶店不毛地帯と化したからこそか。いい方を換えれば、現在はほぼ玉砕、瀕死の状態、ということ。これも時代の流れかしらね。
 と、こんな風に倩書き並べていると、伊勢佐木モールにあった南蛮屋cafeは本当に理想的であり、オアシスのような場所であった。三上さんや真鍋さんの淹れるコーヒー、焼いたワッフルをふたたび食すことができるなら、その1杯、その1口のために、1年分の年収をささげたってよい。いや、マジで。◆

※1 渡部昇一『知的生活の方法』P203(講談社現代新書 1976/04)、『続・知的生活の方法』P69-72(講談社現代新書 1979/04)
※2 小田島雄志「書斎憧憬史」 『書斎の王様』P35-37 (岩波新書 1985/12)□

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第3389日目 〈弱音、本音。〉 [日々の思い・独り言]

 今日、というのは2022年05月06日ですがその夕刻、荒俣宏・編/紀田順一郎・監修〈松籟社〉の感想文への朱筆入れが終わりました。冗談でいうてたら、本当に連休を全部使っての作業になってしまった。しかし、なにはともあれ終わったのだ。
 然り、終わったのです。出来映えはどれだけ悪かろうが、100の未完成品よりも1つの完成品、なのです。これから第一稿を複製して、そこに朱筆を反映させて、お披露目できる状態にまで仕上げましょう。あと、Ⅰ週間ぐらいかかるかな。
 そろそろ図書館で借りた百物語怪談の本にも目を通したい。露伴や百閒の薄ら寒い話も読みたい。シェイクスピア読書の準備も始めたい。『ラブライブ!スーパースター!!』関係の文章も第2期開始前に片附けてしまいたい。なによりも、藤沢周平の時代小説を読めるようになりたい。──こんなささやかな希望さえ実現できぬ程、わたくしはいま生きづらさを感じているのです。
 一旦ブログの更新を停めようかな……。そうなれば事態は或る程度まで改善される気がするのだが。◆

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第3388日目 〈スマホを替え、メアドを変えたこと。〉 [日々の思い・独り言]

 一念発起して、という程のことではないかもしれないが懸念事項であったことを1つ、今日(昨日ですか)片附けてきました。約2年前の春、それまで使っていたiPhone6sが故障して(どうしたわけか或る朝突然、ディスプレイの照明が点かなくなったのだ)すぐに代替機が必要になったので、当座をしのげれば良かったこともありすぐさまAppleに電話して、iPhone8を購入した。
 キャリアでないとよぅ分からん設定もあったので、駅近のショップへ出掛けたものの店員の不手際で今度はキャリアメールが使えなくなり、フリーメールの設定をせざるを得なくなった。それがこの約2年間、公式告知していた当方の携帯アドレスだ。良き人にも悪しき者にも、晴の人にも褻の者にも、この2年でなにかしらの関わりを持った人には教えているアドレスである。
 以上、マクラ、というか、経緯の報告。
 懸念事項は2つ;1つはiPhone8の放棄=iPhone6sの復活、もう1つは携帯アドレスの変更。いずれもなぜもっと実行しなかったのか、という、その気になれば1日2日で解決する事柄なのだが、まぁ色々とありましてな。裏切りもあった、反目もあった、それらに悩まされ疲弊して、プライオリティの高くない作業は軒並み後回しにしていたのである。
 長くはないが、短くもない月日が流れた。その末にようやっと、優先順位の低い作業に取り掛かれるだけの時間的余裕が、こちらにも生まれた。表題の作業にいま頃取り掛かったのは、そんなこちら側の事情にすべて起因する。
 もっとも、携帯メールのアドレスが変わったことを始めとして、その他諸々の〈おしらせ〉を関係各位に伝える作業はまだ完了していない。このアドレスで登録しているすべてのサイトに対しても、登録情報の変更はまだ終了していない。
 ここでもふたたびプライオリティの問題になるが、優先度の高いところから伝える、或いは変更するのは止むなきことだろう。と同時に心悲しませるのは、此度の変更によって永遠に縁の切れる人もでてくることで、それがすこし淋しくて、切ない。本気にする人がいても、いなくても、どうでも構わない。
 正直なところ、いまわたくしは、なににも優る開放感と清々しさを味わっている。◆

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第3387日目 〈貯えがあって、よかった。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の荒俣宏の本の感想文に連休中はかかりっきりで、新しいブログ原稿を書く機会が殆どなかった。それでも毎日定時に更新できたのは、「エズラ記(ラテン語)」の原稿を大車輪で完成させ、そのまま約2週間分のエッセイを書き溜め、予約投稿することができたから。
 折節思うことではあるが、cloudに富を積むことの効用とは精神衛生上のみならず、こうした不測の事態に遭っても気を逸らすことなく、目前の作業に集中できることにあるのかもしれない。
 そうしてこの原稿を書いている現在、本稿を含めてまだ数日分の貯蓄があるので、あと3日は感想文の朱筆入れに集中できそうだ。それから第二稿の作成、更なる推敲になるけれど、まだ余裕はある。集中しよう。◆

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第3386日目 〈ブツブツぼやく。──読書感想文、進捗記録。〉 [日々の思い・独り言]

 【前口上】
 荒俣宏『平井呈一 生涯とその作品』(松籟社)の感想文をPagesに入力中。その進捗状況を記録してゆきます。進捗状況というより「ぼやき」とか「愚痴」かも。
 印刷した余白に書きこんだことも、記録、という名目で残しておきます。

 一、
【小説】のパートをPagesで入力しているが、われながら冗長と感じる。ここはかなり刈りこむ必要があるかもしれない。

 二、
 あのー、平井呈一の感想文ですが、Pagesでいま8ページ目。文字数にして10,000字を突破したんですけどぉ。あともうちょっとで終わるとはいえ、流石になんだか色々な意味で疲れてきた。
 第二稿完成後は印刷して赤ペン片手に溜め息吐きながら、推敲作業→第三稿の作成です。予定通りお披露目できるのかなぁ?
2022年04月30日 20時44分

 三、
 平井呈一の感想文は、書評でもなければ感想文でもない、というチト立ち位置微妙ながらもPagesでの第二稿は完成しました。刈りこむか、分載するか、ハムレットじゃあありませんが、悩んでおります。
 
 四、
 本書に正誤表はあるか? 少なくともHP上では公開されていない。

 五、
 全体を通しての希望。所詮は高望みの、製作コスト増、定価上昇は承知。でも、敢えて。
 本書には索引が欲しかった(人名索引、作品名索引)。調べる際に不便なこと、この上ない。
 平井事績と日本・世界の動きを対比した年表も欲しかった。各項目の掲載ページも記載して。

 六、
 近松秋江;タイトル失念、アレだ、アレ。長いヤツ。「水野越前守」だったか? 「三国干渉」ではない……。

 七、
 副本を作って、そちらで推敲作業を実施。
 これまで曖昧にしてきた「混ぜる」と「交ぜる」、「編」と「篇」の使い分けを徹底する。この機会に改めて、「残す」と「遺す」も。

 八、
 大場健治『シェイクスピアの翻訳』研究社 2009/07
 ピーター・W・M・ブレイニー/五十嵐博久・訳『シェイクスピアのファースト・フォリオ』水声社 2020/11
 ──平井は晩年、ディケンズ作品を翻訳する準備のため、大量のディケンズ研究書を購入した由(P183)。果たして手掛ける作品はなんであったのか? まさか『オリヴァ・ツイスト』だけ?

 九ノ一、
 「奇妙な墜死」、Ⅲ その夜──十一時 秋葉原駅、青果市場。

 九ノ二、
 「故郷」とは?

 十、
 俳句は生涯の情熱の捌け口。

 十一、
 第二稿のための推敲/2022/05/01 18:00〜

 十二、
 松籟社への質問メール、返信メールを印刷。(済み)

 十三、
 2022年5月3日現在、ようやく小説パート、朱筆入れ了。俳句と回想記、疑義Ⅰヶ所を残す。……終わるのかしら、この作業? お披露目できるのかしら、この感想文? 不安、不安。

 十四、
 逝去時遺されていた未発表の翻訳原稿が陽の目を見る(=活字に翻刻される)ことはあるのだろうか? ポリドリ『吸血鬼』第1章、サッカレー『黒髪珍譚(当世女房かたぎ)』、ポイス「左脚」……読みたい。自費出版物ではなく、商業出版された本で。

 十五、
 『ワイルド選集』購入。振込済み、到着待ち。

 十六、
 平井訳のミステリ(カー、ヴァン・ダイン、クイーン、デ・ラ・トーレ、セイヤーズ)も創元推理文庫や国書刊行会、論創社あたりからすべて復刊してもらえないだろうか。一部はKindleで読めるらしいが、紙の本で欲しいのだ、読みたいのだ、味わいたいのである。
 紙媒体で復刊の際はぜひとも中島河太郎の解説、乱歩の文章、付属の月報掲載文章(編集部からのお知らせ的なものも)、すべて欠けてはならぬ。現代の人の解説は、ミステリ評論家と、それぞれの作品を手掛けた経験のある翻訳者のものを。
2022年05月03日 21時49分

 十七、
 昨日はいちばん親しうするいとこ一家とその母、その姉が遊びに来たこともあり、感想文の推敲は一歩も進まず。初めての姪っ子、いとこを見せられて、良かった。
 今日は家事に専念、併せて感想文に補記する典拠捜しで1日、関係図書を創作。宿題残る。つまり、今日も感想文の推敲は一歩も進まず。
 予定通り、お披露目できるかしら?

 十八、
 著書も編書もある著名な文筆業者から誹謗と嘲笑と侮蔑のメールを受信する。
 うん、そうね、ジェイムズのことは指摘されている。ただわたくしは、小説を読んで想起したことをそのまま書いた。これのどこが剽窃等に値するというのだろう。
 読んでいようと読んでいまいと、その小説を読めば必然とジェイムズの作劇術を、ジェイムズを読んだたことのある人なら大概の人が思い浮かべるのではないだろうか?
 急ぎの原稿に忙殺されていると聞いたが、その作業を放り出してなにやってるんだろう、暇なんだろうか? 感想文とはまったく関係のないところで、私の仕事について物申されておられる部分もあったが、社会人経験のない人がよくいうよな、とつくづく呆れ、感心する。
 耳を傾ける必要、一切なし。とりあえず定型文で対応させてもらうたわ。

 十九、
 上記とは全く別の理由から、果たしてこの感想文をお披露目する価値はあるのだろうか、と疑問を抱く。中2日で朱筆入れの作業から遠退いたことで、幾分か冷静になれたかも。作業はとりあえず続けて完成させるし、第二稿の作成も行うが、そのまま破棄する可能性も出てきた。
2022年05月06日 02時29分

 二十、
 谷口の項を一部、情けにより削除。蒸し返しは誰も望まぬ。

 二十一、
 本夕(05/06 18:53)、感想文への朱筆入れ完了。明日から第二稿作成に取り掛かる。

 二十二、
 【削除した文章】
 生田耕作先生が粗相を働いた教え子、高藤冬武(「生田耕作先生のこと──思い出すままに」 『KOUSAKU IKUTA』P127-8  騎虎書房 1997/12)に、秋江でも読んで頭を冷やせ、てふ意味合いで『情話新集 第十篇 葛城大夫』を渡したというエピソードがある。
 『平井呈一句集』に解説を寄せた高藤武馬は、昭和8年春陽堂から平井の初訳書『メリメの手紙』とホフマン『古城物語』を編集した人で、後年昭和34年に無花果会で平井と再会した。
 この高藤武馬と、生田先生から秋江の初版本を頂戴した高藤冬武に血縁関係はあるか。webでしか調べていないけれど、誰か調査してくれていないだろうか。

 二十三、
 朱筆を反映させた第二稿、2022年05月07日 23時03分に擱筆。12,306語……400字詰め原稿用紙に換算して約31枚。
 このあと、どれだけ手を加えるか分からないけれど、数日に分載かなぁ。1日はさすがに躊躇われる。読む側に忍耐強いるよね。

 二十四、
 4回分載 案
 第1日目;オープニング〜エッセイ/近松秋江まで
 第2日目;エッセイ/サッカレー〜小説/「奇妙な墜死」まで
 第3日目;小説/「顔のない男」〜俳句まで
 第4日目;回想〜クロージングまで。
 ──3,100字程度をメドに。最終日は2,800字強。
 →第4日目翌日;尾上町の件。

 二十五、
 さっき手を加えたら、12,693語に増えてしまった。いったんは削除した段落をまるごと復活させたのだから、それも当たり前なのだけれど。
 このあたりで仕事納めにしようか。
 早く吉川忠臣蔵の続きに戻りたいし、偶にはウッドハウスで平安と駘蕩を満喫したいのだ。

 二十六、
 第二稿に手を加えて4分割した原稿を作成。お披露目日も決定。
 アゝ、ヲレハマウ自由ダツ!!◆

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第3385日目 〈鬼が腹を抱えて笑うだろう話。〉 [日々の思い・独り言]

 今年はもう予定が詰まっているから、うん、来年の話になるね。それも「できればそうしたい」だから、実際はさて、どうなることやら。
 そう、シェイクスピア読書の話なのだ。来年は先頃からぼんやり考えていた、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲を1-2カ月に1作のペースで読んでゆこうかな、と。
 主なるテキストを選ばねばならない。聖書のときは新共同訳一択で悩むこともなかったけれど、今度も白水uブックスの小田島雄志訳、一択である。手許に全作が揃って、過去にこれを読んできて馴染みがあるからだ。いろいろ翻訳に関していわれているようですが、わたくしにはやはりこれがいちばん肌に合うのです。
 但し他のシェイクスピアの翻訳にご退場願うわけではない。就中3人目の個人全訳者、松岡和子(ちくま文庫)は副テキストとして侍らせることになるだろう。シェイクスピアを読んだ最初である新潮文庫の福田有恒訳も同様に侍らせて、適宜開くことになる。安西徹雄訳(光文社古典新訳文庫)、河合祥一郎訳(角川文庫)、大場建治(対訳 研究社)、も作品によっては……。
 読む順番は『小田島雄志のシェイクスピア遊学』が紹介する、E.K.チェーンバーズの創作年代推定表に従って『ヘンリー6世』に始まり(1590-2年)、『ヘンリー8世』で終わろう(1612-3年)。これは本ブログでシェイクスピアを……と考え始めたときから決めていました。
 内容は、【成立年次】と【初演】、【内容】、【粉本】、【舞台・映画】、【感想】であります。粉本はわが手に余り、舞台・映画はその役でないができればやりたいな、という程度。どちらも大概の訳書には密度の差こそあれ紹介されていますしね……悩みどころです。
 聖書のような〈前夜〉は無し。1日で1作を取りあげるのか、数日に分けるのか、は流石にまだ決めていません。そのときになってみないと──。もっとも、これすべて願望でしかないのです。
 5月になったばかりの朝だというのに(01日07時29分!!)、そんな来年のことをぼんやり考えているのです。◆

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第3384日目 〈横浜に残る吉川英治の痕跡。〉 [日々の思い・独り言]

 20代中葉のいつであったか。当時、八王子市に住んで鮮魚店を営んでいた叔父夫婦の家に泊まり、奥多摩へ連れていってもらったことがある。そのとき訪れて記憶に鮮やかに残っているのが、多摩川向こう岸の吉川英治記念館であった。
 祖父の遺した蔵書のなかに『新・平家物語』があったとはいえ、わたくしが実際に吉川英治を読むようになったのは『新編 忠臣蔵』が最初である。つまり、いま。横浜ゆかりの作家と雖もどうしたわけか敬遠していたのだ。
 わたくしの前に新潮社の〈新潮日本文学アルバム〉の第29巻、『吉川英治』がある(1985/08)。図書館の5階でいま、この本を開いている。偶々目にして手にし、開いたページには、まだ再開発の始まっていない現在のみなとみらい地区を撮ったカラー写真が載っていた。
 中央に日本丸が浮揚係留されている。あたりにいまを彷彿させる建物は片鱗だになく、そも人影がない。地面には雨の跡が残り、現在の日本丸メモリアルパークにつながる通行路がフェンスで脇を仕切られて伸びているのが見えるけれど、その程度だ。
 『かんかん虫は唄う』巻末エッセイで作家の畑山博は、かつて吉川英治が働き、該作の舞台となった横浜ドック跡を訪れて、こう書いている。曰く、──

 が、何と、当の造船所は、時代の流れに押し切られてか廃工場。正門はがらんと開いたままだし、広大な敷地の中は人影もほとんどない。
 あたりには、塀にたたきつけられて割れたびんの破片が散らばっている。
 錆びた鎖や鋲が落ちている。
 発泡スチロールの箱が一つ、風に追われて、道路の真中を走ってゆく。
 目を上げると、鋸の歯形の倉庫やクレーンの向こうに横浜駅付近の賑やかなビル街も見えている都心部だというのに。
 それなのに異様に人影が少なく、ただ埃のたった道だけが広い。
(P369-70 「かんかん虫は唄うの旅」 吉川英治歴史時代文庫8 講談社 1990/09)

──と。畑山がここを訪れたであろう1990年とは、既にかつての横浜ドック、このときは三菱重工造船所であったが、大型船舶の建造・修理に設備が耐えられなくなり、機能を桜木町から本牧へ移し終えた5年後である。おそらく前述の本に載る日本丸を中心にした写真とあまり変わらぬ光景を、畑山は見たことであろう。
 かの写真ではまだ日本丸のいるドックの向こうは埋め立てられていない。海である。東京湾である。ランドマークタワーの建つあたりには樹木が植わっていて、白い小さなたぶん2階建てだろう建物があるだけ。つまり、いまの光景をぼんやりとでも想像できるのは既に日本丸が係留されているからなのだ。
 その写真のキャプションは、「横浜ドック会社跡」である。吉川が少年時代、年齢を偽って就職した会社だ。別のページの写真はモノクロだが、明治38(1905)年撮影の「横浜船渠株式会社全景」が載り、こちらは海上からの撮影。
 入渠した船舶相手に作業中の吉川少年が事故に見舞われしばしの入院生活を余儀なくされた野毛の十全病院の写真はないが、その代わり跡地に建つ横浜中央図書館の写真が載る。現在の建物ではなく、建替前の懐かしい旧館だ。中学時代おっかなびっくり、及び腰で入館した覚えのある木造の旧館。高秀市政の時代に現在の地上5階の建物となあり、現在わたくしがモレスキンの方眼ノートに本稿第一稿を書いているこの場所にあった病院へ、吉川少年は入院していた。
 後述する尾崎秀樹の伝記に拠れば、吉川少年は横浜ドック時代、掃部山にいまもある井伊直弼公銅像の除幕式の見物にも出掛けていた(尾崎P136)。ほら、ここで横浜と彦根がつながった。──井伊公の銅像を囲むように広がる広場で食べる崎陽軒のシウマイ弁当は、うん、とっても美味いですよ。冷めても美味い、横浜名物、崎陽軒のシウマイ弁当です。買ってけろ、食べてけろ。
 また、吉川の父が経営していた新聞広告の取次店、日新堂は、尾上町通りの角に建つプロテスタント系の横浜指路協会(映画『さらば あぶない刑事』で重要物保管所のロケ地になり、押収した武器を狙ってテロリストがここを襲撃した……)前の信号を渡った場所にあった由。余談だが、わたくしの母方の祖父が勤めていた会社はこの指路協会とは線路を挟んで反対側、大岡川を渡った所だけれどやはりこの近所にあったそうだ。
 地元出身なのだから当たり前、といわれるだろうけれど、こうした土地の縁で結ばれる作家はまた格別の存在だ。勤務先のある場所が同じであったり、いつも歩いている場所、いつも通っている場所、多少とも馴染みある場所が、自分とその作家を時間を越えて結びつける。
 外堀を知らぬ間に埋められていた感なきにしもあらずだが、そうして幾ら藤沢周平からの一時的横滑りの結果知ったこととはいえ、吉川英治を読むのはいつか辿り着く行為だったのかな、とも思う。──この人の本をやがて読み耽ることあるかもしれぬが、うん、いまは積みあげてある藤沢の未読本をやっつけよう。
 最後に、吉川少年が作業中事故に遭ったドックについて一言したい。
 尾崎秀樹『伝記 吉川英治』(講談社 1970/10)に拠れば、その事故は明治44(1911)年秋11月に発生した(※)。1号ドックに入渠中の欧州航路の大型客船、信濃丸の外壁塗装の作業中に足場から転落、10数メートル下のドック底へ叩きつけられて搬送された先が前述した野毛の十全病院だった。
 『伝記 吉川英治』はその1号ドックについてこう描写する、曰く、「一万トン級の外国航路用の船舶が入渠する第一ドックなどになると、ドックの底で働いている人影がごく小さく見える」(P133)と。
 数字で示せば総長約204メートル、上幅約34メートル、渠底幅約23メートル、渠内深さ約11メートル、という(HP「文化遺産オンライン 旧横浜船渠株式会社第一号船渠」を参考とさせていただきました。記して謝意を表します)。この馬鹿デカさの一端は、現在は「ドックヤード・ガーデン」として開放されている2号ドックで偲ぶことが可能だ。
 この1号ドックでは山下埠頭に係留されている氷川丸が建造された。
 なおその1号ドックをわれらは令和の現在も、みなとみらいを訪れたらば否応なく目にすることができる。そのドックには、日本丸が係留されているのだ。◆

※「自筆年譜」ではこの事故を明治43(1910)年11月としている。吉川英明『吉川英治の世界』(講談社文庫 昭和59/1984年02月)所収。□

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第3383日目 〈ホームシックを支えた鏡花の小説。〉 [日々の思い・独り言]

 すっかりタイトルを忘れていた鏡花の小説がある。伊豆半島を巡って江浦や沼津が登場する小説だ。
 偶々入ったブックオフで東雅夫編『妖怪文藝』全3巻(小学館文庫 2005/9-11)を見附けて懐かしさからすぐに手が伸び、順番に目次を開いていった。
 1冊なら2年に1回ぐらいは見掛けるが全3巻揃いとなると実店舗で見ること稀で、わたくし自身こう書きながら倩思い返して全巻揃いを見たのはおそらく15〜16年ぶりか、と唖然としてしまうている。旧東海道脇の如何にもな古本屋の棚にそこそこなお値段でひっそりと飾られていたが、翌日仕事帰りに立ち寄ったら誰かが買ったあとらしくもう置いていなかった。
 まぁ、そんな思い出もあっての懐かしさでね、と話を戻して。
 第3巻「魑魅魍魎列島」の目次を開いたら、鏡花の名前が真っ先に飛びこんできた。当該ページを開いて1ページ読んですぐに、「これだっ!」と内心叫び──次の瞬間には全3冊をカゴのなかに入れていた。小島政二郎『眼中の人』(岩波文庫)といっしょにレジへ運んだのは、それから10分と経たぬ頃である。
 その鏡花の小説、題を「半島一奇抄」という。始まりからしばらくは西伊豆周遊記のようになっていて、登場するのが子供の頃から親しんでいた場所ばかりとあって読みながら、次から次へと彼方此方の光景のみならず駿河湾に浮かぶ淡島や海彼に霞んで見える千本松原に霊峰富士、愛鷹連峰に沼津アルプス、清水港に田子の浦の工業地帯、陽光に輝き一閃放つ波頭に紺碧と濃緑の混じりあった湾の水面、カモメとトビの高くあとを引くいななき、道沿いの売り子呼びこみの声また声、漁船の鈍いエンジン音、魚市場に水揚げされた魚を競りにかけるせり人や仲卸業者らの声、声、声──。
 そうだ、わたくしが始めて本作を読んだのが全集だったのか、それともなにかのアンソロジーの類であったか忘れてしまったけれど、たしか沼津や伊豆の人、風物光景空気が無性に思い出されて一種のホームシックになっていた時分に読んだのだ。むろん「半島一奇抄」に出合うたのは偶然に過ぎぬ。しかしそこにはなにかしらのシンパシーが働いていた、と信じたい。それからしばらくの間、この短編はなにかにつけて子供時代を過ごした第二の故郷を思う縁となってくれた──。
 筋などは別の機会に感想といっしょに綴りたいが一つだけ。既に収録書名や作者名から薄々お察しのことと思うが、この「半島一奇抄」、江浦の沖で目撃された妖怪、鮟鱇坊主の話なのである。伊豆や箱根一帯にはこうした妖怪の伝承が幾つもあるので(箱根山を挟んで反対側の大雄山には、天狗様が居られるしな。箱根山中の金時山は金太郎伝説発祥の地である。駅を出たら目の前で金太郎とクマさんが出迎えてくれるよ)、公然と横浜と伊豆の二重生活ができるようになったら、こうした愛すべき魑魅魍魎たちの話を採集して歩きたいね。◆

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第3382日目 〈或る読書感想文の進捗状況について。〉 [日々の思い・独り言]

 もう4日程、荒俣宏『平井呈一 生涯とその作品』(松籟社 2021/05)の感想文を書くのに励んでいる。いま頃? とかいわないでほしい。何度も書き倦ねて放り出して、を繰り返してようやく端緒を摑み、現在執筆中なのであるから。──昨日から全体の下書きに取り掛かったけれど、それもやっと1/2になるかならぬかの地点に、いまはいる。
 これというのも途中、平井の創作集『真夜中の檻』に目を通したり、私家版『平井呈一句集』や河東碧梧桐の岩波文庫版句集を繙き、また雑誌掲載されたままの平井の文芸評論や近松秋江の作品を併読していたがゆえの手間取りである。まぁ、これをもっと具体的に、卑属にいえば、道草を食っていたのである。そうしてそれは御多分に洩れず、非常に楽しい時間でもあった……。
 然り、この道草はとても楽しかった。今日夕刻(04月26日17時35分)、外は、激しく横嬲りの雨が止むこと知らず降っており、突風のような風は大気を揺らし電線を踊らせ窓を荒々しく叩く。遠くに烏のいななきと電車の走行音が絶え絶えに聞こえる。
 そんな天気ではあるけれど、わたくしは部屋のなかで平井呈一関連の本や雑誌を開いて、感想文執筆のため、という大義名分の下愉悦としか言い様のない時間を過ごしておった。わたくしの心のなかではひたすら、知的興奮の炎が静かに、燃えている──今日お仕事でご出勤中の皆様、相済まぬ。
 本を探したり出したり、仕舞ったり動かしたり、時に娘をあやしたりで身体が痛むことありと雖も、然り、とても幸福なのである。モレスキンの方眼ノートにブルーブラックのペンを走らせて認めているこの下書き(=第一稿)も、あと2日か3日で筆を擱くことができるだろう──と思いたい。そのあとでPagesに入力する。うむ、先は長そうだな。◆

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第3381日目 〈H.P.ラヴクラフト「読書の指針」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 高校2年の冬休みであったか。いまはもうない伊勢佐木モールの古書店で人生初めての「全集」と名の付く揃い本を買った。お小遣いとお年玉を貯めての購入で、当時の売価は18,000円であった、と記憶する(竹下内閣による消費税3%導入前)。『定本 ラヴクラフト全集』全10巻11冊がそれだ。
 既にHPLの洗礼は受けており、創元推理文庫の全集は既刊分すべて読んでしまったか、最後の1冊を読み進めている時分であったろう。どれだけの影響を被ったか、ここでは語らぬとしても、そのHPLに全集がある、それがいま自分の前にある──店頭に並んだのは夏頃だったか、毎週日曜日にその古本屋へ行くたびまだ売れていないことを確かめて安堵し、焦燥に駆られもし、落ち着かぬ秋と年末を過ごしてようやっとそれを購ったときの感動と興奮! いまに至るもそのときの感情を上書きする全集との出会いを経験したことは、ない。
 いちばん夢中になって読み耽ったのは、一に書簡集であり、二にエッセイ集であり、三に評論の巻であった。小説と詩以外の巻、といえばそれまでである。いまそれぞれの巻を開くと付箋が目立って貼られている。執筆を意気込んでいたラヴクラフト論のためだ。そうしてわたくしの心を強く捉え、いまでも時々読み返す1つが、第7-Ⅰ巻に収められた評論、「読書の指針」である。
 ラヴクラフトの評論といえば「文学における超自然的恐怖」が有名でいまや文庫で読める程だけれど、わたくしの心は「読書の指針」に専ら向いていた。
 「文学における超自然的恐怖」がラヴクラフトが足に任せて恐怖小説の歴史を丹念に辿った力作であるのに対して、「読書の指針」は古今の文学(恐怖小説ではない)を紹介するに留まらず、人文科学や自然科学の分野に於ける〈読むべき本〉を取りあげた表題通りの、いってみれば青少年のための読書ガイド、なのである。冒頭に簡単な読書論と図書館利用の奨めを配し、末尾に購入した本の収蔵法や百科事典類の利用案内など、至れり尽くせりな読書ガイドが本篇だ。
 現在巷にあふれる読書ガイドは勿論、そのジャンルの読書に(のみ)勤しむ人には有益だろう。わたくしだってこの手のガイド本は好きで、「おっ!」と思う箇所ある本に関しては購入してしまうことがよくある。但し、継続して架蔵するか否か、は別問題だ。しかし眺めわたしてみると全ジャンル──人類の叡智の結晶全般に(多少の洩れあるは仕方ないとしても)目の行き届いた読書ガイドというのは、実はそう多くない。現在流通するなかでどれだけあるか、腕組みして小首を傾げてしばし黙考しても思いあたる代物はない。
 ただ、得てしてその種の読書ガイドは教導的であらんと物言いが厳格になったり、押し付けがましい部分を孕むが、残念ながらラヴクラフトの本篇もその轍を踏んでしまっている、といわざるを得ない。
 いちばん明瞭なのは、「べし」の濫用だろう。冒頭末尾の総論を除けばほぼ1ページに1回、読者はその言葉を目にすることとなる。「〜は読むべきである」──咨、広く浅く通り一遍の知識を身に付けるためには、最低限の教養を持つ人となるためにはどれだけたくさんの、「べし」と指定される〈必読書〉の多いことかっ!
 ただ、これは勿論、理想を謳った読書ガイドに過ぎないので、その点に関していえばあまり悲観的になる必要はない。原文にあたって自分で訳してみたら、案外とこの単語は別の、もっと心的負担の軽いそれに置き換えることができるかもしれないのだ……。
 それはさておき。「読書の指針」で文学のパートはともかく、わたくしがラヴクラフトらしさを感じてならぬのは、人類学と自然科学の分野に於ける力の入れようである。
 テオバルト翁(HPLは書簡のなかでしばしば己を老人めかしてこう自称した)の自然科学への傾倒は幼児の天文愛好に端を発するが、「読書の指針」では長じて後までもこの分野に親近し、自然科学の様々な分野の本を漁読したラヴクラフトの面目躍如というべき(あ……)項目となっている。全集で上下2段6ページに及ぶ分量が自然科学の分野に割かれた。
 夢中になってこれを読んだ自分自身を思い返してみると、色々きっかけはあったがわたくしが嗜好の範囲外にある自然科学の書物をよう分からんながらも読み続けてきた要因の一つは、ラヴクラフトが手取り足取りその分野の良書を紹介して、「読んでごらんなさい」と手ほどきする姿勢にあったような気がしてならない。そう、兄の持っていた講談社ブルーバックスの何冊かを借りて読み、東口ルミネの有隣堂で『怪談の科学』や『脳の冒険』を購いとりあえず最後までページを繰り続けたのは、ラヴクラフトの「読書の指針」を読んでからのことだったな──。
 その自然科学の項目が天文学から始まるのはHPLらしいといわざるを得ないが、地質学や生物学の分野を渉猟する筆遣いには、怪奇小説を書きながら最終的には〈宇宙的恐怖〉をモティーフとしたSFの領域へ足を踏み入れた学究の側面を持ったHPLの姿がその向こうに見え隠れしているようである。
 かれの小説の発想の源泉を探る際、「文学における超自然的恐怖」がよく引き合いに出されるけれど、わたくしはむしろ「読書の指針」で取りあげられた書物の内容やそれについてかれがどのような言葉を残したか(それと並行して書簡集も精読して)、真摯に検討するようした方が余程有益かつ新たに見出す点が多かろう。如何か?
 上段に関しては人類学の項目でもいえることで、殊その冒頭部分を成す次の件りはHPLが執筆した小説群にかれなりの見解が提示された部分ともいえる。曰く、──

 人間全体を考えるときに問題になるのは、人間はどのようにして下等霊長類から進化したのか、なぜこれほど多くの人種に分かれたのか、さまざまの未発達な類人猿の頭蓋骨や骨の化石が世界各地で発見されているが、人間はこの類人猿とどのような関係があるのか、どのような段階を経てまとまった思想や言語を身につけ加工品を使うようになったのか、今人間が持っているような信仰や風習や好き嫌いはなぜ生まれたのか、有史以前にどのような経路を辿って移住し衝突し混淆したのか、どのような原理に基づいて集団を組織するのか、どのような法則に従ってその集団の中で資源を分配するのか、どのように個人の欲望を集団の欲望と釣り合わせ、集団の多数の構成員のために規則正しい相互扶助の方針を立てているのか、などといったことである。
(全集7-Ⅰ P74上 佐藤嗣二・訳 国書刊行会 1985/09)


──と。
 これらはなにかしらの形で、他の問題と合わせて小説に昇華された。「アーサー・ジャーミン」や「狂気の山脈にて」、「インスマスの影」などはその代表といえるだろう。純然たる想像の産物というよりも科学的根拠を援用して書かれたり、日進月歩の自然科学と人類学の領域にあって解明されていない未だ謎な点に、読書や文通などによって得た知識を出発点にして自分なりの解釈を当て嵌めて書かれたのがラヴクラフトの小説である。自然科学と並んでこの人類学全般の読書ガイドの項目を読んでいると、そう再認識させられるのだ。
 視点を変えて申せば、ここで紹介される書物の数々はHPLが、この分野であればこれらの本は読んでおくと良いですよ、この分野であればこの本は必読必携ですよ、と教えると同時に、かれが創作にあたって発想の源泉としたり参照したりする際利用したアイテムの数々である、ともいえるはずだ。フレイザーの名著『金枝篇』などはその格好の例ではないか。
 ただ一点、差し引いて考えねばならぬのは本篇の執筆が1936年、という時代である点。
 それはラヴクラフト晩年の作物であると共にまだまだ科学が百的な進歩を遂げる黎明期でもあった。忘れてはならない、HPLが子供の頃から存在を主張していた冥王星が遂に発見され、南極大陸の地質学的生物学的調査が行われた1930年代とは、今日われらが常識と考える発見や事象は、その端緒に付いたばかりの時代だったのだ、ということを。
 「読書の指針」は当時の出版状況を伝えるだけでなく、どのような書物が出版されていたかを通して当時最新の発見や出来事が如何なるものであったか、を自ずと浮かびあがらせる役目を担ってもいる、といえないだろうか。
 文学を除けば、1930年代の執筆時点までに刊行された書物がそのまま今日に通用することはないけれど読者はここから、どんな時代に於いても最新の書物を読む必要のある分野と、そうではない分野があることを知り、複数冊の入門書をまずは熟読して興味をそそられたらばもう1ステップ上のちょっと専門的な本へ手を出せば良いことを嗅ぎ取るだろう。このあたりは佐藤優の開陳する読書術とも相通ずる部分があるが、見方を変えれば古今東西、多岐多様な出版物であふれかえる時代にあっては共通の、いちばん手っ取り早く確実な読書術といえるのだ。
 また、あふれかえった本を収納するための本箱の話。可能な限り辞書を揃えて使いこなせ、という話。いま程良書が安価で提供されている時代はない、という指摘。いずれも皆、今日なお有益なアドバイスだろう。縁なき話題ではないはずだ。
 ──告白すれば一時、ここに載る本をすべて片っ端から読んでやろう、と企んだ。これを自分の手で訳し直して、書名や著者一々に註釈を付けて自費出版しよう、と意気込んだことがある。勿論取り掛かる以前に挫折したが、これ程にわたくしの心を奪い続け、いまに至るもその強い吸引力を感じるラヴクラフトの著作は他にない。比肩し得るは書簡集と各種エッセイぐらいだ。
 わたくしの読書の根幹を成す、というか作りあげたのは赤川次郎『三毛猫ホームズの青春ノート』(岩波ブックレット 岩波書店 1984/11)と、このラヴクラフト「読書の指針」だった。いずれにも今日まで恩恵を受け続けている。これは胸を張って斯く断言できることだ。◆

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第3380日目 〈記憶力の減退に悩む。〉 [日々の思い・独り言]

 芥川龍之介に、そぼ降る時雨を避けて書店へ駆けこみ洋書を愛で……という短歌があった。いまの自分と同じだ。降り始めた雨を避けようと地下街へ駆けこみ、寒さに震える体を温めたく目に付いたカフェへ席を取った。湯気立ちのぼるコーヒーがとても美味い。
 すこしく落ち着いた後に、芥川の短歌を思い出しのである。が、内容は覚えていても肝心の三十一文字が思い出せない。時間を掛ければ可能だろうが、パッ、とすぐに口の端に上らぬようでは無意味じゃ。
 どうやら視力だけではなく記憶力まで低下したらしい。百人一首すべてや『論語』の一節など覚えるともなく覚えられて、必要あらば文献に頼ることなくほぼ正確に誦せもしたのが……。
 そこでゲームをしてみた。どれだけ覚えていて、それを引っ張り出せるか、のゲームである。いま飲んでいるコーヒー一杯の値段は? ストリート・ピアノで奏でられているピアノ曲の作曲者とタイトルは? 1年前の今日のいま頃、自分はどこでなにをしていた?
 ……答え合わせをするまでもなく、結果は玉砕である。現金で支払ったわけじゃないから、と言い訳しておいて、コーヒー(S)は300……何円だったかな。1円台であったのは間違いないのだけれど。いま男性が弾いているのは確かサティではなかったかしらん、と、かつて某レコード店でクラシック担当だったのに自信なく。1年前に至ってはまるで思い出せぬ。これは思い出すことを拒否していることも起因しているか。
 ──ゲームと、その結果に嘆息するのはもう止めよう。失われつつあるものを惜しむより、これから得られるだろう新しい諸々との出会いを楽しむことにする(きっぱり!)。
 そうしてわたくしは、本に手を伸ばす。吉川英治『新編 忠臣蔵』下巻、内蔵助妻が但馬豊岡の実家へ下がる場面。この小説のことも、どれだけ細かなところまで覚えていられることやら。
 ちなみに冒頭の芥川の詠歌とは、──

 時雨ふる街をかけそみここにしも 海彼の本を賞でにけるかも

──である。◆

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第3379日目 〈目薬を使い始めたこと、白内障かもしれないこと。〉 [日々の思い・独り言]

 今年に入ってから目薬を使うようになった。左目が妙に痛み、水で洗ってもなにをしてもその痛み、一向やわらがぬため意を決して目薬のお世話になることを決めた次第である。
 一昨年の春の頃だったか、地元の総合病院眼科にて目の痛みを訴えて目薬をいただいたことがあったけれど、当時の症状はもう覚えていない。覚えているのは目薬を差してもなかなか眼球に落ちてくれず困ったことぐらいだ。ついでにいえば今回もその「困ったこと」は解消できていない。
 とまれ、目薬を購入して日常的に使用するようになったのである。此度は処方されたそれではなく、ドラッグストアで購入したものだ。……いやしかし、どうして目薬なる医薬部外品がこうも棚にたくさん、並んでいるのか……。
 目が痛い、というのは角膜や水晶体がどうこうではなく、調べてみたらその外側にある外眼筋とかの痛みであるように感じられる。眼科の診療を受けたわけではないので所詮は憶測に過ぎぬが、痛む部位を冷静に点検してみると、目蓋の上や目尻の横の皮膚を上から強く押さえたらそこに痛みを感じているとわかるので、外眼筋が……というのも憶測とはいい難い。まァこれも素人判断に過ぎないから、「餅は餅屋」である、近日中に眼科できちんと診てもらうがよろしかろう。
 それは痛みの話である。これまた素人判断、憶測の域を出ぬ話だが、目を酷使するのを止めたら(=パソコンと睨めっこするのを止めたら)段々とではあるがその痛みも引いてゆき、そもそれを感じなくなるのだから、まだ対処策はあるのかもしれない。
 が、痛み以上に深刻に捉えているのが、目薬を差し始めた頃から感じ始めた左目の視界の白濁と、実はこれ何年も前に一度経験しているのだが視界に(これは右目だろうか?)黒い斑点があって動き回っていることだ。後者はいわゆる飛蚊症、という奴だろう。
 こればかりは目薬でどうにかなるものでもあるまい。視界の白濁は左目にあること前段でお話済みだが、目尻の方にそれはあるように感じられる。濁っているというよりも「かすんでいる」と表現する方が適切だ。
 母にも奥方様にもこの旨告白したら、白内障ではないのか、という。
 白内障とは如何なるものか。水晶体が白く濁ることであり、視界に映るものがぼやけて見えたりかすんで見えたりするのが症例。ものの輪郭がハッキリしなかったり、それゆえにすぐには文字が読み取れない場合があるのも、この白内障の症例の一つというべきなのかもしれない。手術すれば視力の低下等を抑えられるそうだが、一方で何年か後にはふたたび視力の低下やかすみを感じることがある由。
 加齢による支障なのか、積年の不良が噴出して来たったものなのか、自分でもそれはわからぬ。ただ願うは視力を失って誰彼とのコミュニケーションに支障を感じたり、本を読んだり文章が書けなくなることを避け、育ってゆく娘の顔や成長ぶりを命尽きるその瞬間までこの目で見てゆきたい、ということ。
 いまの症状が悪い方へひた走る前に、眼科に行こう。◆

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第3378日目 〈こんな夢を見た(その11):This is Mine,〉 [日々の思い・独り言]

 われらは操を立てたに過ぎぬ。他へ与することを潔しとしなかっただけのことだ。侵入者を力持て排除することになんの後ろめたさを感じ、また世人はなどてそれを非道の行いとせしや。
 かの日に記した夢には続きがある。正しく「続き」というてよいか迷うが、他の日に見た夢とはいえ舞台を同じうする点で「続き」というのは、ゆめ間違ってはいないだろう。
 重ねていうが、別の日の夢である。われらは薄暗く、空気の湿った、果て知らぬ上階まで吹き抜けがある廃業したショッピング・モールにいる。今度は広場に坐りこんでいるのではない。吹き抜けに面して各階にあつらえられた回廊を歩いている。後ろには、子ら。
 階上へ延びる棒状の、青白い灯が消えかけている。広場を見おろすと真ん中あたりに水溜まりができていた。ポツン、ポツン、と滴がしたたり落ちるたび、水面に波紋の広がるのが見える。
 階段らしきものを登った覚えはない。が、われらは確かに元いた階から上の階の回廊へ、登り来たっている。見おろすたびに水溜まりのある広場が眼下に遠くなってゆくからだ。上階へ、上階へ移ってゆくに従ってわかってきたことがある──吹き抜けのいちばん上には巨大な天窓があり、そこから星の瞬き、月の影が窺える。そうして天窓に黒い影があった。子らの歌う声が後ろから聞こえてくる。それは賛美歌だった。
 われらはいちばん上階の回廊に達した。そこで見た黒い影の正体を、わたくしは書くことができない。余りにおぞましい光景でもあったから。
 が、同時に、しかと理解してもいるのだ。そのおぞましいモノからしたたり落ちる滴が広場に溜まっていたことを。そのおぞましい光景を作り出したのは他ならぬ自分であることを。そのおぞましい光景を作らずして〈いま〉はなかったことを。
 通過儀礼だった。自分のなかに実はまだ巣喰っていたアレを処刑して──抹殺、駆逐、調伏、表現はなんでもいい──、このなににも代え難い〈いま〉を実現させたのだ。後悔はない。
 「あなた」と妻がいった。「還ってきてくれて、ありがとう」
 返事をして、かのおぞましきモノを見あげる。妻の台詞は本当は、ソレへの勝利宣言だったかもしれない。
 明け方の夢は正夢になる、という。これが予知夢であることを願う。◆

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第3377日目 〈咨、困ったことに次の本がありませんよ、モナミ。〉 [日々の思い・独り言]

 なんということか……休憩時間はたっぷり残っているのに、読み終わってしまったのです。まだページはあるから、と油断して控えの本も用意していない。これはモナミ、由々しきことですよ。
 咨、違いますよ、君。帰る前に本屋さんへ寄って新しいものを買えばいい、という単純な話ではないのです。だって読了した本というのは上下巻の小説で、しかも上巻だったのですからね。
 続きがどうなるのか、どのように展開してゆくのか、気になって気になってなりませんよ。なぜって読み終えた小説(上巻)というのは吉川英治『新編 忠臣蔵』だったんですからね。歴史の本や映画・ドラマで事件のタイムラインを承知しているとはいえ、吉川英治描く忠臣蔵はまた格別ですからね。不慮(?)の中断が殊に堪えるのですよ。
 亡君の一周忌を赤穂で済ませた内蔵助が伏見で旧臣と偶会し、花街へ連れ行かんとする場面で上巻は終わりました。向かった先でこの「昼行灯」と陰口叩かれる家老が口を開いてなにをかいうや──以下、次巻、なのです。
 偽りなく申しあげればですね、わが親愛なる友よ。会社にいる残りの時間、仕事がまったく手に着かなかったのですよ。ソワソワしながら壁時計とパソコンの時計を交互に見較べて、嘆息吐きつつ流れてくるチェック作業に勤しんでね。そんな風にして時間を過ごしました。
 ええ、勿論定時上がりなんてできるわけなく、残業をちょっぴりだけして、半分呆けてとはいえ電車に乗って(行く先も降車駅も間違えなかった!)エリーチカ、ではなくわたくしめはお家に帰る。車内では読み終えた文庫(上巻)をぱらぱら目繰ってね。そうして帰ったら帰ったで幾時間でもお姫さまの寝顔を眺めて過ごし、結局下巻を読み始めるのは床へ入ってからになるのですが。まァ、睦み事さえなければね。
 斯くして、本日の教訓、──
 残り50ページを斬ったら次の本をカバン(リュック)のなかへ入れておく。
 予定している赤穂義士の本を読み果せたらば早々に、横滑り読書の原因となった藤沢周平『用心棒日月抄』へ戻りましょう。まずは第1作の読み直しから……。
 咨、しかしモナミ、赤穂義士/忠臣蔵の世界へこんな長い時間、浸かるとはまったく以て想定外でありましたよ。わが灰色の脳細胞もいまはちょっと休んでおります。◆

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第3376日目 〈こんな夢を見た(その10):おぐゆーさんとの会話〜現実への帰還。〉 [日々の思い・独り言]

 こんな夢を明け方に見た。違う時間の世界のようだった。
 小糠雨が前夜から降り続いている。薄暗いビルのなかにある円形の広場にいた。頭上はどこまでも吹き抜けだ。青白い人工の灯が棒状になって、途切れ途切れに吹き抜けの上部まで続いていた。人影が蠢いている。皆なにやら忙しく立ち動いている様子だ。
 広場に店の看板と出入り口が面している。店内の照明が落とされているから、おそらく営業時間が終わっているのだろう。看板の電飾だけが辛うじて灯っている。そうしてわれらのいる広場は濡れている。空気も湿っていた。が、われらの体はどこも濡れていない。
 われら? 然り、他に彼女がそこにいる。かつて「おぐゆーさん」と呼んでいた女性だ。そのまま働きに行けるような服装であった。なぜか2人して広場にしゃがみこんでいる。わたくしは胡坐、彼女は脚を横に揃えて投げ出して。手を伸ばさずとも、互いの息が届くぐらい近かった。
 おぐゆーさんが先程から何事か、楽しそうに話している。やわらかくて、あたたかな笑顔だった。むかしは気を許した相手にしか見せたことのない、大概は仏頂面と称されることしばしばであったゆえ、その落差に一目惚れを禁じ得ぬ愛らしい笑顔。時々珠を転がすような笑い声があたりに響いて谺する。
 そのあとで交わされた、目覚めてメモ・アプリに記録した会話はこうである、──
 「海外赴任とかないの?」
 「ないのよ、それが。全然そんな話来ない」
 「行くつもりで入ったんだよね?」
 「そうなの。だから──」
 「一度も?」
 「うん」(トお腹を撫でるおぐゆーさん)
 「えー、勿体ない」
──以上。
 会話に補注を付せば、彼女は帰国子女である。英語のスキルを活かさんとて総合商社へ新卒入社した。海外赴任ありきの企業だったにもかかわらず……というのである。
 まわりの様子がすこし見えてきた。立ち働いている人々、というのはつまりわれらの同僚だ。そうしてここは閉店、廃業間もないショッピング・モールなのだ。どうやらテナントだった各店舗の撤収作業にわれらは駆り出され、おぐゆーさんとわたくしがコンビを組んで作業にあたっているようだ。彼女の容姿は、有楽町のホールで一緒にバイトしていた頃のそれである。
 咨、記録できた会話が上記だけなのが口惜しい。せっかく夢のなかで逢えたのに目覚めてしまったのが恨めしい。あのまま、夢のなかに留まることができたなら……。
 そんな夢を明け方に見た。違う時間の世界を覗き見た。
 わたくしは、うなされて起こされたらしい。目の前におぐゆーさんのいることが瞬時、理解できなかった。どうして──最後に逢ってから長く経って消息もわからぬ、そうして未だ想いが当時のまま残って宥め鎮めること能わず、生涯思慕して敬い畏れる唯一の女性がどうしていま、明け方のまだ薄暗い部屋にいて、あまつさえ床を同じうしているのだ。なぜ彼女はわたくしを心配そうに見、慰めの言葉をかけ、左手の薬指に光るものを嵌めているのか──。
 おぐゆーさんの息、髪、指、肌を感じながら、ああ……、と思った。現実への帰還。あるべき時間の流れへの帰還。そうだ、わたくしはようやくこの人と一緒になったのだ。安堵した。すこしく話をして、ふたたびしばしの寝に就いた。
 Do you love?
 Yes,I love.and true love, will never die.
 どうしてあんな夢を見たのか、わからない。正直なところ、〈いま〉が現実なのかどうかもわからない。そんな夢だったのである。◆

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