第3692日目 〈杉原泰雄『憲法読本 第4版』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 今年になって読んだ本で、こうも読み終えるのに手こずった一冊はなかった。内容的にも、時間的にも。杉原泰雄『憲法読本 第4版』である。岩波ジュニア新書、2014年03月刊。
 銀行の待ち時間に開いて、いつものスターバックスで閉じた。50ページ弱を、2時間ちょっとで読んだ。
 岩波ジュニア新書、侮るなかれ。思い知らされた。これはとても中身の詰まった、常に読者へ「考える」「思い出させる」ことを促す一冊だ。
 テーマがテーマだけに簡単に流すことを拒む点では、これまで読んだ憲法関連書と同じ。本書の場合、果たして想定ターゲットは、選挙権を持ち、社会に出て種々の条令や法律、社会制度にかかわって生きるようになった「成人」なのだろう。だからというて勿論、本来レーベルが想定する読者層を蔑ろにしているのではない。この年代で(最初に)読んだとしても年齢を重ねるにつれ、社会や法律との関わりを強めてゆくにつれ、幾度だって読み返して現状認識や問題意識を改め、また新たにしてゆくを可能とする一冊なのだ。
 わたくしは──偽らずにいえば、ちょっと息切れを覚えながらどうにか読了した。この前に何冊か憲法の本を読み、日本国憲法にも数度目を通していたこともあり、抵抗はなかった。が、中身はかなり詰まっており、その密度も相当に濃い。一日に読み進められるのは精々が10ページ程。立ち止まって考えこみ、思い出そうと前の方に戻ったり、或いは巻末の憲法条文を読み、……を繰り返したからである。
 ふだんであれば読みながらシャープペン(シャーペン、なの? いまって)で書き込みとかするんだけど今回は、読書最終日を除いてそうした作業は殆どしなかった。二、三箇所くらいかな。早々にその作業を放棄もしくは諦めていたからね。なぜといえば、割にはじめの段階で再読を要すとわかっていたから。読了から旬日経ぬ間に二度目の読書を実行し、そのとき書き込みとかしよう、と決めていたから。まずは読了すること、まずは本書の全体像を(最後まで読むことで)把握すること、この二点を最優先事項と定めたから。
 来月から再読、始めますよ。あと28.5時間で来月11月やけどな。でもその間に、ちょっと息抜き。小説を……願わくばそのまま憲法に戻ってこない、なんて事態に陥らぬことを。それは結構、厄介なことだからね。
 「〜`23.10.30 18:29了
  青色(息)吐息乍ら充実した、濃密なる読書の一刻を味はふ
  但未だ理解及ばざる点、考えたき点、多く有。喫近(緊)の再読とノートを要す」
──本書『憲法読本 第4版』扉に書き付けた、読後最初の感想である。「青息吐息」の用い方、間違ってますね。この場合は「罷弊」なんて語が、字面も含めて似つかわしいのだけれど、「ヘトヘト」とか「クタクタ」っていう方が感じが出て相応しいかもね。◆


憲法読本 第4版 (岩波ジュニア新書)

憲法読本 第4版 (岩波ジュニア新書)

  • 作者: 杉原 泰雄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/03/20
  • メディア: 新書




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第3691日目 〈江戸川乱歩「D坂の殺人事件」(草稿版)を読みました。併、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』読了。〉 [日々の思い・独り言]

 未完、という最大級の難点こそあれ、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』所収江戸川乱歩「D坂の殺人事件」(草稿版)は、如何に推敲して作品のクオリティを高めるか、を考え実行する格好の材料となる。
 あらかじめ新潮文庫『江戸川乱歩傑作選』で決定稿を読んで、両者の相違を目の当たりにして思わず唸ってしまった。名作の成長過程をわずかならが覗き見した気分である。成る程、ふだんわれらが親しむテキストの前段階はこうなっていたのか。草稿版と決定稿の間にある差異と不変の点……なにを改め(消し)、なにを活かした(残した)か。二つのヴァージョンを読み較べると、よくわかる。
 まず、構成が異なる。決定稿では名探偵の登場は数ページを繰ってのことなのだが、こちら草稿版だとのっけから登場しているのだ。しかも、書籍の谷底に埋もれて、崩れてきた本を体の上に乗っけたままよく寝られるな、と感心する寝相で。
 同時に、事件現場と死体の発見が向かいの喫茶店の客によってされるのは変わらないが、明智とその知人が決定稿ではその役を担うのに対して、草稿版では増野なる人物にその役があてがわれている。むろん、警察相手に供述するのも指紋を採られるのも、後者では増野である。
 D坂の古本屋で殺されたのはそこの店主の細君だが、殺害方法が異なる。一方は絞殺だが、一方は射殺なのだ。しかも銃撃音を耳にした者はない、とある。
 寝ている明智を叩き起こして事件について話するのは、決定稿は喫茶店で一緒になり共に殺害現場を発見した知人だが、草稿版は現場を見ている警視庁の、知己である小林刑事である。
 人称も、決定稿が知人の一人称であるのに対し、草稿版は三人称となっている。
 加えて、前述のように草稿版は未完、ミュンスターベルヒ『心理学と犯罪』を読ませたところで筆が擱かれている。
 いったい犯人は誰なんだ、とフラストレーションの溜まる場面だ。ちなみにいま、草稿版を読み返したけれど、決定稿で真犯人として挙がった人物は未登場である。
 ──乱歩が草稿版を、いよいよ……というところで破棄したのは、すこぶるプロットに無理があるのを感じていた折も折、相応しい位置に立つ犯人(それは犯人の性癖の痕跡の追加にも繋がる)を想像し得たことから必然的に為された中断ではなかったか。それをきっかけにプロットの練り直しが行われ、やがて決定稿に繋がっていったのではないか。
 わたくしは乱歩の熱の入った読者ではないし、研究文献なぞ殆ど持たぬ光文社文庫版全集のエッセイや評論の巻を所有するに過ぎないから、識者の発見や研究がどのようにこのあたり結論附けているか知らないけれど、アマチュアながらも自分が実作者の側に立ち、かつ作品を中途で破棄してそのままだったり再生させたりした経験を踏まえて、<乱歩先生草稿版中途で破棄>問題を斯く想像するのである。
 この草稿版は、可読性を優先して適宜編集が施されたヴァージョンだ、と昨日触れた。読み通すことのできるテキストが提供されたことを、喜びたい。冒頭に、判読不明や編者補足の凡例があるので、それが読書にどう影響するか危惧したけれど、該当する箇所はそれぞれ一箇所のみで、読書に際してまったく停滞失速をさせるようなものではなかった。
 《大衆文化》二号に載る翻刻も覗いてみたけれど、同じ箇所を較べたとき、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』で翻字を担当した落合教幸、構成を担当した新保博久の苦労と健闘を讃えたくなる程件の写真版とその翻刻は、可読性という一点に於いてかなり劣るのだ……。校訂テキストの作成、定本化の作業には、詳細な校異表があれば事足りるわけではない。読書を享受するばかりの人は案外気附けぬそんな単純な事実を、この草稿版が教えてくれる。
 「D坂の殺人事件」(草稿版)は乱歩の創作姿勢の一端を垣間見せる貴重な記録であると共に、より良いテキストを作成して読者に提供せんとする二人の従事者の努力と執念の賜物というてよい。今後、ちょっと深入りしたい乱歩読者は一遍でも、この草稿版に目を通してみるとよい。◆

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第3690日目 〈歳月の下に記憶は埋もれる ──ミステリ小説再読のタイミング。〉 [日々の思い・独り言]

 個人差があるのは分かっている。これは君、モナミ、あくまで ”わたくしの場合” なんだ。
 一遍読んだミステリ小説は、自分の愉しみとして読んだのなら再読するのは7年後が理想だ。自分を被検体として実証を試みた末の結論である。
 どうして7年後? ──うむ、7年、という具体的歳月に支障あるようなら、もっと短いスパンでもよい。要するに、一年単位で間を置け、ということだ。
 だから、どうして? って訊いてるんだけど? ──急かすな、モナミ。眉間に皺寄せて迫る程のことじゃあないだろう。じゃあ、さっさと答えなさいよ。
 ウィ、マドモアゼル。
 理由は単純だ。それだけの歳月が流れるうちに記憶は薄まり埋[ウズ]もれる。粗筋は勿論、真犯人や動機、アリバイ、トリック、ミスディレクション、ちょっとした台詞や表現の煌めき、そんなもの忘れ果てるにじゅうぶんな時間ではないか、7年とか一年単位の経過なんて。
 覚えていられる作品の方が却って稀少と思うんだ。個人差があるのは分かってる。が、いったい誰が、『そして誰もいなくなった』とか『アクロイド殺し』、『Yの悲劇』の衝撃を忘れられるっていうんだい? 忘れようとしても難しい。でも、そんな作品の方が珍しいんだ。大概は、すこしの間記憶に留まって、やがて消えゆく。
 乱歩の「D坂の殺人事件」(『江戸川乱歩傑作選』 新潮文庫)を先刻一時間ばかし再読したが、いやあ、密室に等しい古本屋で発生した殺人事件の真相を明智小五郎が突き止める話、くらいしか覚えていなかった。犯人、誰だっけ? どうやって殺したんだっけ? 犯人は如何に密室から姿を消したのか? 等々全体の三分の二あたりまで来て、薄々察してきた(思い出してきた)ことである。
 試しに他の作品──鮎川哲也「達也が嗤う」、栗本薫『鬼面の研究』、小森健太朗『コミケ殺人事件』を読み返してみたけれど、前回の読書からおそらく10年から5年近くの歳月を挟んでいることもあり、やはり乱歩同様の事態が生じた……というよりもこちらの作品については肝心の粗筋まで即座には思い出せなかった程なんである(この三作は意図したセレクションに非ず。書架に挿してあったもの、積まれていて偶々背表紙が目についたものを、テキトーに持ってきたのである)。
 歳月の流れに埋もれた記憶は、此度の再読によってようやく甦りけり。とはいえ、またしばらく経ったら、忘却のレイテ河を流れてゆくことになるのだろうなあ。
 おゝ、モナミ。ミステリ小説の再読は7年後が理想、というのは上述のような、わが身を被検体とした実証の結果なのですよ。
 ご理解、ご納得いただけましたでしょうか、わが君?
 ──ううん、全然。今夜、ゆっくり話しましょう。
 ウィ、マドモアゼル。◆

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第3689日目 〈ぼくは素直な読者。〉 [日々の思い・独り言]

 思うに、ぼく程素直な読者もいないのではないかしら?
 自讃ではなく、本心からの述懐だ。というのも、──
 しばらく中断を余儀なくされていた、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』(光文社文庫 2015/05)をふたたび読み始めた。読み挿しの期間がすこぶる長くなると、だんだん読書の意欲は失せてゆくのが、わたくしの常。とはいえ二篇を残すのみなんで、このまま中断して書架へ仕舞いこむのも後味が悪い。二篇は足しても70ページくらい。ならば、憲法やホームズの本を数時間我慢して、こちらに集中しよう……。
 そうして先刻、野村胡堂「紅唐紙」を了えた。愉快で気持の良いミステリ短編だった。胡堂の小説といえば《銭形平次シリーズ》しか思い浮かばぬくらい、その光芒は燦然と輝きそれ以外のフィクションの存在を影薄くしてしまっているが、「紅唐紙」もかの名作捕物帖に隠れて目立たずにあった一作。
 新保博久の解説に拠れば「紅唐紙」は、昭和2/1927年8月の報知新聞に《奇談クラブ》シリーズ第一話として掲載された由。現代を舞台にした連作ミステリというが、その後も書き継がれて新シリーズ《新奇談クラブ》もあるというから、当時の読者にはマダ野村胡堂イコール銭形平次という固定観念は生まれていなかった、或いは定着していなかったのかもしれない。
 「好事家の知識人(でなくてもよいのだが)が寄り集まり会員同士、ときにゲストを招いて珍談奇談を披露するデカメロン形式の連作だが、物語を荒唐無稽に堕とさせないための枠組みに留まらず、事態の解決に会員が乗り出す場合もある」(P390 解説)、胡堂のこのシリーズ、いつか全篇乃至数篇でも読んでみたい気にさせられることである。
 ところで、いつ須藤老小使はみんなにお茶を運んできたのだろう?
 ここで話は冒頭に戻って、自分程素直な読者もないのではあるまいか、の件。それは次の一篇、最後の一篇に起因する。
 〆を飾るは、江戸川乱歩の名編「D坂の殺人事件」。古書もしくは古書店をテーマにした国内作家のアンソロジーでは、夢野久作「悪魔祈祷書」、野呂邦暢「本盗人」と並ぶ定番である。とはいえ、作品のセレクトを担当する新保は、解説から察するに、「D坂の殺人事件」を収録するに際して、新潮文庫や創元推理文庫、光文社文庫他で簡単にアクセスできる決定稿を採用するのは忍びなく芸も無い、と考えていた様子。
 斯くして本書で最終的に採用されたのは、《大衆文化》2号(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター 2009/09)に写真版と翻字が載る草稿版を底本に、可読性を優先して適宜編集を施したヴァージン。以前程熱心に乱歩を読んでいるわけでもなく、舞台裏に関心を抱くのでもないから、まちがっていたら申し訳ないけれど、草稿版が通読に耐える形で一冊の本に入るのは初めてではないか。
 胡堂を読み終え、乱歩に行く。と、ここでわたくしは自宅にとんでもない忘れ物をしてきたのを思いだした。むろん、乱歩とかかわりのあることだ。即ち、──
 新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』を持ってくるのを忘れたのだ。これは、「D坂の殺人事件」決定稿を収める。
 この忘れ物に気附いてわたくしは、そのまま胡堂から乱歩へ読み進めるのをやめた。潔く、パタン、と文庫を閉じたのだ。
 え、どうしてか? って?
 草稿版冒頭に、「先に決定稿を読んでから、この草稿版を読んでね」と<良い子へのお知らせ>があるからだ。
 それに従う。どの道、筋らしい筋も覚えていないから、再読の好い機会である。が、決定稿の収まる文庫を、いっしょに持って出なかった。これでは<良い子へのお知らせ>が守れない。
 為、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』をパタン、と閉じた。草稿版は、決定稿を読んでからのお楽しみとしよう。
 ね、ぼくって素直な読者でしょう?◆

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第3688日目 〈松坂健『海外ミステリ作家スケッチノート』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 髪の毛を乾かしている間に、松坂健『海外ミステリ作家スケッチノート』(書肆盛林堂 2022/05)を拾い読みしている。
 昨日一瞬だけ話題に上したジョン・D・マクドナルドが項目立てされていて、嬉しかった。割に好意的に書かれているのが、余計に。
 「ペーパーバック・ライターという冠を卑下せず、コツコツやってきて、最後はメジャーライターになった努力の人、それがジョン・Dなのである」──松坂のジョン・D評である(P96)。
 なぜかこの結びの一文を読んだとき、無性に涙腺がゆるんで仕方なかった。訳者解説の類を除けば、あまりジョン・Dを温かい眼差しで語る文章に、お目にかかることがなかったから(わたくしの怠惰や見落とし等が原因かもしれない)。なぜだかペーパーバック・ライターという出発点が、最後まで殊日本の評者の目を曇らせてきたように思えるのだ。もっとも翻訳の関係もあるのだろうけれど……。
 ああ、この人にもっとジョン・Dを語ってほしかった、と願わずにはおられなかった「スケッチ」である。が、もう著者はこの世にない。
 本書は、松坂が生前企画していた101人のミステリ作家のガイドブック用に書かれた原稿を集めた一冊だそうだ。そのあたりの事情は、(著者歿後の出版であることもあり)編集方針も含めて小山正の解説に詳しいが、或る意味で圧巻は、執筆予定作家も交えた101人のリストである。
 松坂が、エラリー・クイーンやコリン・デクスター、スティーヴン・キングやジェイムズ・エルロイについてなにを、どう書いたか、とても興味深い。読んでみたかった。かれらについてのスケッチが遺されなかったのは、返す返すも残念でならない。◆

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第3687日目 〈『野呂邦暢ミステリ集成』から、「推理小説に関するアンケート」を俎上にして。〉 [日々の思い・独り言]

 べ、別にネタが尽きたから苦し紛れでこのような物を書くわけじゃあ、ないんだからね(汗)。前から書いてみよう、乗っかってみよう、と思ってのを実行しただけだもん!
 ──まァそんなツンデレ台詞はさておき。
 ふとした拍子に、新聞や雑誌に載るのと同じテーマでエッセイを書きたいな、と考えます。これまで何度となく、記事を読むうち自分の言葉、文章が浮かんで筆を執ろうとしたけれど、実行に移したのはたぶん、今年のいつだったか、『中央公論』誌の特集記事に便乗した一篇だけだったような気がします。
 今回同じことをしようと思い立ったのは勿論、ネタが尽きたからではありません。昨日話題に上した『野呂邦暢ミステリ集成』のエッセイ・パートの最後を飾るアンケートを読んでいて、ふむ自分であれば……とこれまでの読書歴を振り返り考えこんでしまった、その結果を書き残しておこうと思うたからに他ならない。設問三については暫定的な回答になるが、アンケートとは得てしてそうしたものでありましょう。



 「推理小説に関するアンケート」が、『野呂邦暢ミステリ集成』の最後を飾るかれの文章でもあります。設問は、以下の三点。述べれば、──

 ①あなたは推理小説に興味をお持ちですか?
 ②その理由は?
 ③興味をお持ちの方は、お好きな作品を国内。国外それぞれ三つずつ挙げてください。

──である。
 これに接してわたくしは、こう答えます。即ち、──

 ①あなたは推理小説に興味をお持ちですか?
 →大いに興味を持っている。

 ②その理由は?
 →憂い事イヤなことを刹那でも忘れられるから。気分転換にもなる。また、物事を論理的に、筋道立てて、傍証を用いながら結論附ける思考力を養うことができるから。

 ③興味をお持ちの方は、お好きな作品を国内。国外それぞれ三つずつ挙げてください。
 国内(順不同)
 1;岩木章太郎『新古今殺人草紙』
 2;若竹七海『古書アゼリアの殺人』
 3;宇神幸男『ヴァルハラ城の悪魔』
 国外(順不同)
 1;ジェームズ・アンダースン『血染めのエッグ・コージイ事件』
 2;ジョン・D・マクドナルド「死のクロスワード・パズル」
 3;ウィリアム・ヒョーツバーグ『堕ちる天使』

──というところでしょうか。どれも夢中になって読み耽り、そのあと何度も読み返した(広義の)推理小説です。国外はみんな、アメリカに偏ってしまいましたね。
 ちょっと分裂気味なセレクトですが、わたくしもそれなりに長い時間、ミステリ小説を読んできているから或る程度までジャンルのなかで好みが分かれてしまうのは、仕方ない話だと思って諦めています。
 なお、設問三からは、所謂「クラシック」となっている作品を省きました。「クラシック」の定義は人によって様々でしょうが、ここでわたくしがいうのは、「オールタイム・ベスト」を選出すると決まってランキング上位(10作から30作くらいですか)に食いこんでくる定番的作品、とご理解いただければ幸いです。時代ではなく位置に係る語である、とご承知ください。
 読者諸兄のなかに推理小説好きがどれだけいるか、わかりません。このアンケートもド定番の設問になっていますが、さて、あなたならどうお答えになりますか?



 ところで。
 上のアンケートに野呂邦暢がなんと答えたか。知りたい方は『野呂邦暢ミステリ集成』を読まれたし。
 他の作家がこのアンケートにどう答えたか。知りたい方はアンケート掲載誌(『中央公論夏季臨時増刊 大岡昇平監修・推理小説特集』1980年8月)を探して読まれたし。◆

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第3686日目 〈『野呂邦暢ミステリ集成』から、ミステリにまつわるエッセイに「ふむふむ」する。〉 [日々の思い・独り言]

 野呂邦暢のミステリ小説にまつわるエッセイが、『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫 2020/10)に幾つか載っている。
 申し訳ないが小説よりもエッセイの方を、ずっと面白く読んだ。一篇の作物としてもそうだけれど、そのなかの一節に惹かれた。時に首肯し、時に懐かしみ、時にクスクス笑いを抑えられなくなり。
 たとえば、──

 ミステリに機械仕掛のトリックは無用なのである。大ざっぱにいって、あちらのミステリには右翼の黒幕とか、不動産業者と結託した通産省の課長補佐は登場しない。犯人は内なる声に命じられて人を殺す。殺人は宿命なのである。彼があるいは彼女がみじめな境遇におちいったのは、他人のせいではなくて、当人の問題である。国産のミステリはごく少数の例外を除いて、犯行は社会が悪いからということになっている。みんな他人のせいということになる。すなわち女々しいのである。(P295-6 「南京豆なんかいらない」)

 これは、首肯、である。納得、と言葉を換えてもよい。機械仕掛のトリックは無用。わたくしもそう思う。事前に準備をこらすのは結構だけれど、被害者──ターゲット──が予測通りに動いてくれなかったら台無しになるトリックは、いただけない。犯罪は人間の手に為る。ゆえにトリックはシンプルであればシンプルである程、良い。機械仕掛に頼るトリック程、名探偵の頭脳に罹れば砂上の楼閣に等しいのだ。ホームズもいっている。曰く、「人間の発明したものなら、人間に解けないはずはありません」(「踊る人形」〜『シャーロック・ホーズの帰還』P70 延原謙・訳 新潮文庫 1953/04[1985/12 61刷])と。機械仕掛けに頼らぬトリックの方が、すこぶる難物である、ということにもなろうか。
 トリックをシンプルにするということは、必然的にそちらに関する描写の比重は少なくなり、差分は自ずと人物造形、人間関係の書込みに費やされる。人物描写と細部の描写が巧く書ける作家は、単純なトリックで素晴らしいミステリ小説が書けるはずだろう。

 また、──

 年に何回か上京するつど、神田や中央線沿線の古本屋街をうろつく。
 早川のポケットミステリそれも初期の発行ナンバーが百番台から三百番台の数字がついているものを探すためである。このシリーズを揃えている店が、神田に一軒、早稲田に二軒ある。中央線沿線にも一軒ある。店名はあえて書かない。(P293 「南京豆なんかいらない」)

 これは、懐かしさ、である。
 セピア色になりかけた記憶に早稲田はともかく、神田の一軒はしっかり残っている。学生時代から20代を通して、この古本屋にはずい分お世話になった。多量のペーパーバックをここで漁り、ポケミスや銀背、創元社の叢書の端本を発掘し、ハヤカワ・ミステリ・マガジンの(お目当ての)バックナンバーを揃えた、あの古本屋。訪れた文筆業者は星の数、かれらのエッセイにはしばしば登場する、あのお店。なつかしいなあ……。
 もう一丁、──

 推理小説とはいうものの、私が読みながら犯人を推理したことは一度もない。わずらわしい世事を忘却するために読む本である。そんな面倒なことに誰が頭を使うものか。すこぶるいい加減な読者なのである。推理なんかしなくても犯人の見当はつく。いちばん犯人らしくないのが犯人に決っている。そう思えば間違いない。(P291 「マザー・グースと推理小説」 ※)

 ──クスクス笑いが抑えられない。なんだ、あなたもですか。そんな気持になる。読みながら犯人を推理したりしない。わたくしのことではないか。犯人は普通の面構えをしているものなのだ。そんな面倒なことに誰が頭を使うものか。わたくしのことではないか。赤鉛筆片手に捻り鉢巻きで額に脂汗垂らして読むような代物ではないし、ミステリ小説はただの気分転換であり、浮き世の憂さを一時的にでも忘れるためにある。わたくしもいい加減な読者なのである。つまり、ここに同好の士を見附けたのだ。
 『愛についてのデッサン』(ちくま文庫)と本書だけが現在は、野呂の単独名義で出ている文庫である。いずれもミステリ小説集である。野呂の全文業を見渡したとき、かれのなかでミステリ小説の執筆がどれだけのウェイトを占め、また単純に「余技」以上の意識を持って筆を執っていたのかどうか、わたくしには分からない。
 が、ミステリ好きが高じて執筆に手を染めた者だからこそ、プロパー作家以上に自分好みのミステリ、<わがミステリ観>というべきものをストレートに表出した作品が書ける。逆説ではない。自然の理だ。坂口安吾、戸板康二、福永武彦、柴田錬三郎、大岡昇平、小沼丹、田中小実昌、小泉喜美子、先人の名を挙げ始めれば枚挙に暇がない。その系列に、野呂邦暢も属する。かれらの筆から生まれた作品が大概、ミステリ小説というジャンルへの一種の信条告白となるのは、同じく自明の理だろう。
 ここに載ったエッセイは、一愛好家としてのみでなく実作者としてミステリ小説の筆を執った野呂の、ミステリ愛、ミステリ観を過たず伝えてくれている。量はわずかであってもこうしてまとまってミステリ小説についてのエッセイが読めたことを、一人のちっぽけなミステリ好きとして幸福に思うている。
 これは、小沼丹『古い画の家』(中公文庫 2022/10)といっしょに今日、2023年10月20日(金)横浜そごう7階の紀伊國屋書店にて購入した。そうして本篇初稿は同じ日、市役所裏のスターバックスでモレスキンに書いた。これから知己が期間限定で開いているスナックへ、行く。◆

※ 実は丸谷才一にも、野呂と同趣向の発言がある。曰く、「むかしの人は探偵小説を犯人当てだと考えたわけね。あれは間違いで、あんなものは当たるに決まってるんですよ、真面目にやれば。あまり真面目にやりすぎると、またはずれるんだけれど。だからいい加減に考えて、それで遊ぶ。それが読み巧者の態度でしょう」と(『快楽としてのミステリー』P23 ちくま文庫 2012/11)。
 ミステリは知的遊戯である。が、それに真面目に取り組む必要はない。ただ気持ちよく騙されておればよいのである。□

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第3685日目 〈そういえば、そんな計画もあった。〉 [日々の思い・独り言]

 晩年の平井呈一にはディケンズの小説をまとめて訳す計画があったらしい。荒俣宏『平井呈一 生涯とその作品』(松籟社 2021/05)には、その準備のために、海外の古書店から大量のディケンズ研究書を購入した旨記述がある(P183)。
 この一節を胸に刻んでわたくしは、シェイクスピア研究書を、身の丈に合った範囲で購っている。こちらは専門の研究者でも、演じる側にもない、ただの芝居好きで、いまは一年に一度か二度、舞台を観に行ければ満足している風の者でしかない。それでも、ささやかながら自慢できることがあるとすれば、曲がりなりにもシェイクスピアの全戯曲を読み果せたことである。
 本ブログで以前に、シェイクスピアの37の戯曲の感想文じみたエッセイを書いてゆきたい、と述べた覚えがある。志は喪っていないが機を逃したのを感じている。当初はまさしくいまの時季に、その処女作『ヘンリー六世』全三部を読み、聖書のときと同じようなスタイルでノートを書いてお披露目しようとしていたのだ。
 機を逃した理由には口を閉ざすとして、志を喪っていないのは幸い事であるかもしれない机の脇に重ね置きした小田島雄志訳シェイクスピア全集(白水uブックス)から任意の一冊を開いて或る一幕でも或る一場でも読んだり、上演史や出版史、個々の作品論や(専ら)翻訳家のエッセイをぱらぱら繰っていると、埋み火になりかけの志が再燃してくるのが感じられる。
 前述したが、シェイクスピアの戯曲は全部で37篇。これを一ヵ月に一作ずつ読み、一週間弱のなかで折々徒然、気儘に暢気に、ノートとも感想文ともつかぬエッセイをお披露目する。テキストは手に馴染んだ小田島訳と決めている。並行して松岡和子(ちくま文庫)や河合祥一郎(角川文庫)、人生初沙翁となった新潮文庫(以前、口絵写真がいつの間にかなくなってんのな、と喚いたアレです)……まァ作品による。あとは史劇なら背景となる英国史、身の丈に合わせた必要に応じた研究書のお世話になって──。
 なにはともあれ、言っちまった以上はやるのが道理だ。このまま沙翁放置じゃ、死んでも死にきれないぜっ! だからって化けて出る気もないけどな。
 シェイクスピア、『ヘンリー六世』。来年前半には取り掛かりたいですな。憲法関連書の読書が終わったらすぐにこちらへ取り組む準備を始めよう。なにも起こらなければいいけれど。◆

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第3684日目 〈わが最嫌の愚者への悲歌。──For K.A.〉 [日々の思い・独り言]

 咨、プルータス、お前もか。今際の台詞だが我未だ臨終とは遠き身なり(たぶん)。ジュリアス終の台詞は、いまのわたくしにとって、嗟嘆の呟きである。
 貴方はダメになってしまいました。もういまの貴方からは、昔の自信も栄誉も人望も、失われてしまった、……跡形もなく!
 それを貴方は他人の所為ばかりにして嘆き、合間に呪詛の台詞を挿し挟む。だが君よ知れ。まわりの評価、まわりからの敬慕なぞ途轍もなく移ろいやすいものであることを。貴方の場合はそれに加えて、身から出た錆でもあるではないか。嘆き、呪う前に来し方を検めよ。
 仕事帰りに時々呑みに行くことがあったが、そのときの貴方といまの貴方はまるで違ふ。そんな風にあおるようにしてとめどなくアルコールを喉奥へ流しこむ人だったろうか、貴方は。
 それが己のなかで暴れる怒りや不満を宥めるための手段なら……わたくしは止められない。
 よしや君、望むのであれば、二度と這いあがること君にはできぬ奈落の底への扉を、わたくしが開けてあげよう。
 待つのは孤独、待つのは無理解、待つのは無視、待つのは社会的抹殺。すべてわたくしが己が身に蒙った、君が音頭を取って拡散された悪意の終着だ。──覚悟できているのなら。◆

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第3683日目 〈it’s new!〉 [日々の思い・独り言]

 相次ぐ原稿の差し替えで、落ち着く暇がない。たしか昨日もそうだったね。お披露目前の、まだSo-netブログに予約投稿していない原稿も差し替え対象になっている。
 実をいえば本日、第3683日目もその一つで、当初書いてPages入力した原稿はどうにも内容が迷走してしまっており、散漫かつ重複も甚だしいとなっては、流石のわたくしもそれは永久破棄せざるを得ぬ。拠って、他の原稿を急いで書く必要が生じ、その第一稿に取り掛かった。
 これが差し替え第一段階。第3683日目お披露目まで、あと五日……。
 されどあたらしい内容の第一稿も、ちょっと暗礁に乗りあげてしまった。既に全体のアウトラインはでき、スケッチも含めれば半分くらいは形になっている。白状すれば新稿は小説の感想文なのだが、忘れてしまっている部分もあるので確認も兼ねて読み返している次第。アニメとノヴェライズの記憶、印象がゴッチャになっていまっているせいで、ストーリー紹介の筆を執る筆が殊更慎重になってしまっているのだ。
 これが差し替え第二段階。第3683日目お披露目まで、あと三日……。
 が、これも間に合わぬ、と本能が判断。賢明というべきだろう。斯くして件の小説の再読と並行して、あらたなる第3683日目の原稿を書かねばならなくなった。話題は? 話題はあるのか? いわゆるハナシのタネだ。──あるにゃああるが、まだ自分のなかで固まるものがなにもない状態。お披露目の<時>はすぐそこまで迫っている。働け、わたくしの脳細胞!
 休みを要求して隙あらばサボろうとする脳細胞を叱咤し、鞭をビシビシ揮って過重労働させた結果が、殆ど一瀉千里に筆を走らせた本稿である。やっつけ仕事でも手抜きでも何でもない。それは他ならぬこのわたくしが保証する。それが証拠に、ここには特定の人物へ向けた時限メッセージを仕込んである。クロネコバントウノシヨセイヲカフ。読み解け、君。
 最後はいらん話になったが、これが差し替え第三段階すなわち最終段階だ。第3683日目お披露目まで、あと二日。むろんお披露目されるは、いま読者諸兄がお読みくださっている本稿、〈it’s new!〉である。
 これで当面は、お披露目する文章の不足を悩む必要はなくなった。不安は回避されたのだ。第3683日目以後も何日分かの原稿は、用意できている。
 さて、先延ばしにした感想文のための読書を、再開しよう……。◆

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第3682日目 〈意にそぐわぬままお披露目した「第3672日目」を差し替えること。〉 [日々の思い・独り言]

 みくらさんさんかから、お知らせです。

 第3672日目で労働について思うところを述べました。タイトルは、「〈なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。(ルカ9:41)──労働について独り語りする。〉」です。
 お披露目前に推敲を終わらせるつもりでしたが間に合わず、推敲前の原稿をお目に掛ける結果となりました。なんともダラダラした文章であった。反省している。
 ここ数日、プリントアウトしたA4用紙5枚を携行して、都度朱筆を入れておりました。それがどうにか終わった昨日モレスキンのノートへ書き写し、先程Pagesに入力して暫定決定稿が出来上がりました(いちばん最初にモレスキンのノートにずらずら書き綴った頃から数えれば、一ヶ月半もこの文章は、わたくしを悩ませた)。
 よって本稿お披露目と同じタイミングで、第3672日目を旧稿から新稿へ差替えます。タイトルは異なりますが、内容に大きな変化はありません。
 ちょっとだけでも、マシな読み物になった、と思うていただけると嬉しいです。◆

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第3681日目 〈ラダー・シリーズでやり直そう。〉 [日々の思い・独り言]

 先日、英語の勉強をやり直すことにした、と書いた。本稿執筆時点で件の原稿はまだ予約投稿していないので、たぶん一昨日なのだろうけれど、まったくもてそのあたり不明である。
 それはともかく、前稿のおさらいをすると、部屋の片附け中に出て来たLe Guinの原書を開いたら、当時みたくは読めなくて愕然とした、為に勉強し直すことにしました、てふ内容だった。今回はその続き、といおうか、付け足しというか、オマケっていえばいいのか……である。



 いま流行りのリスキリングには該当しないそうだ。スキル・アップというも的外れらしい。厳密なことをいえば両者に、「やり直し」の意味、「かつて持っていた力を取り戻す」意味は含まれないようなのである(知己の談)。なので、ここではその行為をこれまで通り、「勉強のやり直し」と表現させていただこう。
 では、本題、──。



 英語の本を再び読める様にする。手始めに取りかかるのは、Le GuinやDoyleが本来だろう。しかし、そこから始めるのはヤメにした。リヴェンジを果たすための能力──わずかながら残った英語力──が絶無に等しいのを思い出したからである。
 なにから始めようか。そんな思案を意識の片隅に留めて午前と午後、病院のハシゴをした帰りに丸善へ寄り、考えるともなく英語学習の棚を端から端まで眺めていたら、IBCパブリシングが本体価格1000円前後で刊行している「ラダー・シリーズ」が目に付いた。ジャケット袖に書かれたシリーズの特徴を引けば、──

 語学上達の秘訣はなんといっても多読です
 ラダーシリーズは、使用する単語を限定して段階別にやさしく書き改めた、多読・速読に最適な英文リーダーです。本文中の知りたい単語が全て載ったワードリストが巻末に付属、辞書なしでどこでも読書が楽しめます。

──と。
 原書を一冊最後まで読み通し、繰り返して英文読書を日常化させるコツは、「多読」あるのみ。ラダー・シリーズの「はじめに」にもあるが、「1.早く 2,訳さず英語のまま 3,なるべく辞書を使わず」読むのが、結局のところは王道なのだ。
 そういえば……16歳から20歳にかけて初めてその名を知り、著書(訳書)に触れた3人の外国文学者・言語学者も、「多読」という表現こそ使っていないが、若い頃多量の原書を浴びるようにして読んでその才を伸ばし、生涯の仕事の根幹としたのだった。本ブログの読者諸兄には既にお馴染みのお三方、出会った順に挙げれば──平井呈一、渡部昇一、生田耕作、がその面子だ。
 平井は中学のリーダーにあったハーン描く幽霊の人間性に惹かれ、また友人から借りたイギリスの雑誌に載ったマッケン作品の妖しい魅力に憑かれて、翻訳の世界に足を踏み入れた。渡部は紆余曲折の後アメリカに留学、各地の大学で教える傍ら英語で書かれた現代小説を片っ端から読み倒してゆくなかで遭遇した『マージョリー・モーニングスター』でようやく英語の小説を母語で書かれたそれの如くに面白く感じることができた。生田は京都・大阪・神戸の地の利を活かして古本屋に多量に放出された1920年代の現代アメリカ小説を漁っては読み耽り、を繰り返し、一方で雑誌が企画した原書100冊読破マラソンに挑んで達成、賞状をもらったなどの経験を振り出しに、長じてブルトンらシュルレアリスムや異端の文学の翻訳紹介に務めるようになった。
 長くなったが、共通するのは「多読」という経験である。焦らず急がず、じっくりと、一冊一冊と読み重ねてゆけば、原書を読む力は着実に蓄えられてゆく。その目的をかなえるならば、このラダー・シリーズは格好のシリーズ(の一つ)といえるだろう──。



 で、わたくしの場合だが。(←危うく忘れて本稿を閉じるところだった。その方が良い、という方もあろうが、わたくしは初稿に従って、まずは書く)
 丸善の棚の前で抜いて開いて戻して、を繰り返していたら、背の色が異なる一冊が目に付いた。ホームズ、プーさん、シェイクスピア、グリム童話、イギリス民話、ガンジーやアインシュタインの伝記……いずれも背表紙は青色だったのだが、その一冊だけが赤色だったのである。
 なんだろう? と手にしてみたら、なんと旧新約聖書のお話だった。天地創造やカインとアベル、ノアの方舟、モーセに率いられてのエジプト脱出、ダヴィデ王とペリシテ人ゴリアテ、イエスの誕生、良きサマリア人と放蕩息子の帰還、ラザロの復活、最後の晩餐、磔刑と復活、など計24話が載る。
 著者は、日本生まれのアメリカ人ジャーナリスト、Nina Wegner。ラダーのレヴェルは「4」で使用語数は2,000語。TOEICでは600〜700点に、英検では2級に相当する由。が、正直にいう! ラダーのレヴェル「3」のクリスティやドイル、ミルン(プーさん)、「2」の「シンデレラ」や「美女と野獣」なんかよりも、わたくしにはWegner ”Bible Stories”(『旧約聖書と新約聖書の物語』)の方がずっと読み易く、内容もよくわかったのである……当たり前といえば当たり前なんですけれどね。8年をかけて聖書にがっつり取り組んで、いまでも時々読んでいるんですから。
 使われている単語も文法も確かに「2」や「3」に較べて高度だ。英検2級レヴェルというのも頷ける。普通であれば歯が立たぬ代物だろう。聖書を読んでいなかったら、素直にレヴェル「1」から始めていたはず。
 にもかかわらず、レヴェル「4」の本書を選ぶのは、取り挙げられるエピソードに馴染みがあり、よお分からん単語が出て来ても、「こういう意味だろう」と類推できてしまうからだ(それが大概正解であったりする)。それで解決しなければ巻末のワードリストに頼ればいいだけの話。
 既に知っている作品を英語で読むことに、どこまでの意味があるか。そんな疑問は確かにある。が、敢えて申し上げれば、知っている作品があるからこそ多読が可能となる。シーンを思い浮かべられるならば、そこでどのようなことが語られているか、想像するのは容易い。然ればそこに書かれた単語が不明であっても憶測は容易だろう。文法はどうなるのか、という別角度からの疑問も出ようが、ラダー・シリーズに限っていえばそこまで複雑な構文は見当たらない……中学生レヴェルの文法書が手許に用意できれば(当時使っていた教科書でも参考書でもよい)、それを使い倒せばよいのではないか。
 「ラダー・シリーズを読む イコール 多量の英文リーダーを読む体力と免疫を付ける」なのだ、とわたくしは思うている。とはいえ、Wegnerを終えたらレヴェル「4」に留まるのではなく、イギリス民話とガンジー伝が読みたいこともあってレヴェル「1」から始めてゆくつもりだ。



 最後に。
 ついでにいえばもう一つ、”Bible Stories”を選んだ理由がある。企み、というてよいか。それは、各エピソードの和訳を作って、本ブログでお披露目すること(勿論、許可を得た上で)。
 本ブログの本来の姿はなんであったか? 格好のネタと思いにならないか? LeicesterのGhost Storiesは、そのあとだ。◆

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第3680日目 〈憂い事、イヤなことから逃れて、回復するための一手段。〉 [日々の思い・独り言]

 相変わらずリュックに忍ばせ、またベッド脇に積んで読むことしばしばなのは、憲法の本である。予定にない中断を挟んで読了までほぼ一ヵ月を要した高見勝利・編『あたらしい憲法のはなし 他二篇』(岩波現代文庫)だったが、途中芦部信喜や池上彰など拾い読みしたり、読書ノートを付けていたこともあってか、収録三篇を読み進め、読み終わる毎に憲法についての理解は深まり、自分の憲法観もすこしずつ固まっていった感を強う持っている。
 いま機を見て開くのは、杉原泰雄『憲法読本 第四版』(岩波ジュニア新書)である──09月19日に読み始めてけふ10月03日時点でようやく半分。今月中に読了したいと思うているが、さてどうなることか……。ジュニア新書の一書目ということで正直もうちょっと内容はライトかと思うていたら、とんでもない、舐めてかかると火傷する程の熱量と充実を誇る一冊であった。
 どこかで鬼の笑い声がするようだが、それは無視して先のお話を続ければこれを終えたら池上彰が書いた憲法の本二冊を読み上げ、流し読み程度で済ませていた背後に積み重ねた何冊かの憲法関連書(明治憲法と現行憲法いずれも含む。成立過程と両憲法の[当時]の解説書目が柱となる)を読み倒してゆく予定。これは流石に来年に終える作業となろうけれど、まぁわたくしの通常の読書ペースを思えば止むなし、か。
 されど、一つのジャンルを集中的に読みこみ、短期間の内に理解・知識を深めて血肉とし、自分の意見を表すのは自分には不向きである。同じような人は多いはずだ。読書して文書を書く者皆が皆、立花隆や小林よしのりのようではないのだ。そうなるだけの──継続的な粘り強さと探究心と根気を欠くわたくしなのである。
 そんな人物が斯様な一点集中型の読書に倦いたとき、採ってきた道は二つ。つまり、──
 パターン① 箸休めに手を伸ばしたジャンルに横滑りして、そのまま戻ってこなかった。
 パターン② 特に他を読むでもなくただ一息ついて休んでいたら、もう戻る意欲を失っていた。
──である。
 どちらかに分岐するのがほぼ常で、時間があいたにしても戻ってきて読書を再開、予定していた分を読破したというのは、実は、新潮文庫版太宰治作品集くらいしか思い出せない。いやはや、なんとも。
 そんな危険をいま、強く感じている。憲法の本を何冊か(杉原泰雄『憲法読本 第四版』が実質三冊目となる)読んでいて、ちょっと中弛みというか、惰性になってきてしまっているように感じているのだ。……これはアカン前兆やなぁ。ムカシの轍を、懲りずにまた踏みそうや……。
 そんな危険をいま、痛烈に感じているにもかかわらず、憲法の本を読む一方で愉しんでいるジャンルがある。それが、小説、なのだ。

 今年はいろいろなことがあって、そのせいでか、フィクションの世界に遊ぶのが空しく思えた。令和5/2023年に読んだ本は数あれど、つい先日(二週間くらい前)までは橘外男『蒲団』(中公文庫)だけだったのだ。読んだ小説というのは。しかも、元日!!
 二冊目の小説との出会い──先月9月中葉、新刊書店は文庫売り場にて──は偶然だった。特になにを買うでもなく、日課の新刊チェック及び立ち読み目的でふらり立ち寄った書店の平台に積まれてあったのを見附けて、購い求めたのである。裏表紙の粗筋(これって実際はナンていうんでしょうね)に目を通し、パラパラ目繰ってそのまま、殆ど躊躇いなく他と一緒にレジへ運んだのだ。原田ひ香『古本食堂』(ハルキ文庫)が件の小説である。
 ゆっくり、時間を忘れて読書を愉しんだ。一日一篇、惜しむようにしてページを繰った。帰りの通勤電車のなかでしか開けなかったけれど、却ってそれが良かったみたい。知らず肉体の内に溜まった疲れが慰撫されてゆくのを感じたのだ。『古本食堂』は当時に於けるわたくしの、一服の清涼剤となったのだ(紀田順一郎が『書斎生活術』[双葉社 FUTABA BOOKS]他でたびたび言及する、報知新聞の連載小説『富士に立つ影』[白井喬二]を帰宅するなり読み耽って会社での暗闘が引き起こすササクレだった気持ちを鎮めるサラリーマンの如く)。
 小説という代物は、【逃避】と【回復】をもたらす慰めのツールとなる。『古本食堂』を刺身のツマのような扱いでも敢えて持ち出したのは、それをお伝えしたかったからに他ならない。
 この数週間というもの、憂い事や悲嘆するようなことばかり続いて、クサクサしている。ヘトヘトになっている。それらすべて、原則独りで解決しなくてはならない。そんなときに読んだ『古本食堂』は、沈むばかりの荒ぶる気持を一刻と雖も宥めてくれたのだった。

 これがその後なにをもたらしたか、というと、買ったきり未読で積みあげられていた小説に食指を伸ばして、憲法の本と並行して読み始めたのである。偶々揃いを見附けたからとはいえ、ミステリー文学資料館編『古書ミステリー倶楽部』(全3巻 光文社文庫)を次に選んだのは、古本つながりのゆえもあったか。
 表題通り、古書を題材にしたミステリのアンソロジーなのだが、頗る付きで面白かった。なにしろ、──好きなジャンルながら著しく偏りのある者には──その過半が諸読の作品なのだ。これだけでもう、ワクワクドキドキしてくるではないか。
 第一集に収められた12人12作のうち、目次に、マル印──良かった/好かった印を付けたのは、戸板康二「はんにん」、早見裕司「終夜図書館」、石沢英太郎「献本」の三作。石沢と早見は(おそらく)完全に初読の作家、戸板は中村雅楽物以外のミステリ短編は初めて読む。後味の苦いもの、ホノボノした読後感のもの、しばらくは熱に浮かされた気分でいたもの、様々であるが、どれも存分に愉しめた、騙り/語りの上手さに唸ってしまった作品である。
 第二集は読み始めて間もないから、マル印を付けたのは坂口安吾「アンゴウ」一作だけ。このあと幾つのマル印が目次に付くか、いまから楽しみでならない。終えてみたら、安吾の小説にしかマル印が付いていませんでした、なんて事態にはなりませんように。
 とはいえ実は、そうであっても構わない、というのが相反する本音でもあるのだ。すくなくとも、鬱積してゆく憂い事、イヤなことを刹那忘れて、フィクションの、ミステリの世界に遊び、愉しむ日々を過ごせるのは事実だろうから。
 前述のように、本アンソロジーは全3巻より成る。最後の第三集を終えたらば、ではその次は……さて、なにを読みましょうかね。
 買ったままで未読の小説は、文庫、新書、単行本、幾らでもある。全作読破を目指したものの中途で読むのを止めているドストエフスキー(『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』、そうして新潮社版全集)と、同じく文庫された全作品の読破を志してポアロ物を過半済ませたところで中断したアガサ・クリスティが、視界の隅っこでこちらを窺っている。新しく翻訳が出るたび買いこむのだが読む時間が取れぬまま現在に至っているウッドハウスとスティーヴン・キングも、松本清張も藤沢周平も久生十蘭も、未読の状態で床に積まれたり、どこかに仕舞いこまれている。原田ひ香や原田マハ或いは江國香織のように単発で、作品が気に入って購入した作品も、ある。
 当分、新しく購入したりする必要はない。が、書店での出会いは一期一会だ。新聞の新刊広告には否応なく目が向く。翻訳すればこれは、未読の小説は今後もどんどん順調に増えてゆく、という意味である。だって、面白くて、愉しいのが小説だから。口直し、逃避、回復、気分転換。流石に憲法や政治の本からは斯様な効能、得られません。

 憲法関係の本と小説の読書が(いまのところ)両立しているのは、まったく性質の違うジャンルだからなのでしょうか。地続きではなく、或る程度の距離感があることで、ちょうどよい頭の切替ができているのかしれない、と思うのです……。◆

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第3679日目 〈義理と恩に報いて死ぬか。義理と恩に背いて生きるか。 選択すべき時、来たる。〉 [日々の思い・独り言]

 何度でもいう、わたくしは敗けたのだ。見通しが甘かった。始めるタイミングを読み誤った。責は自分にある。その咎、非難嘲笑は一身に引き受けねば。転嫁は、ズルだ。
 辛抱強く現在の状況に甘んじておればよかった。時が熟すまで、現在の状況に耐え忍ぶべきだった。目先のニンジンに飛びつく軽率を犯したために、怪我の完治を待つ余裕を失ったばかりに、墓穴を掘って敗残者に落ちぶれたのだ。
 完全なる四面楚歌に耐えること能わず。為、わたくしは自死を選ぶことにした。選ばざるを得ないところまで、追いつめられたのだ。誰の助けがあるのか。差し伸べてくれる手の持ち主など、この世にあるはずもない……。
 義理と恩に報いて死ぬか。義理と恩に背いて生きるか。
 選択すべき時のようである。◆

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第3678日目 〈衰えた力を取り戻す為に。──英語、を例にして〉 [日々の思い・独り言]

 英語の勉強をやり直したい。そう思うている。社会に放り出されて以後はご無沙汰な英語。使わぬ筋肉がやがて衰えるように、使わぬ知識も早晩衰える。わたくしの場合、その顕著なるものの一つが英語なのだった。
 この前書架の片附けをしていたら、棚の隅っこから薄っぺらいペーパーバッグが出てきた。Ursula K. Le Guinの”VERY FAR AWAY FROM ANYWERE ELSE”
 初めて挑んで青色吐息の末一年半がかりで読了したStephen King ”IT” (初体験の相手には余りに大物すぎた!!)のあとに読んだ、『ゲド戦記』の作者によるヤング・アダルト小説である。読了の直後にコバルト文庫から出ていた翻訳を古本屋で手に入れたが、自分の読解があながち間違っていないのを確認できて、ほっ、と胸を撫でおろした記憶がある。
 時は流れて、つい先日。Le Guinの、この、薄っぺらい(再々、失礼)ペーパーバッグを見附けて、懐かしさもあって読み耽ってしまった──
 ──といいたいが、然に非ず。初稿で書いた実例はここでは省くが、まぁ、基本的なレヴェル──中学英語のレヴェルで、怪しくなっていたのだ。愕然としましたよ。
 この冷酷な現実から目を背けることは、できなかった。使わぬ筋肉に喩えて読書の中断が招いた読解の低下を嘆いた。新しい世界を知る愉しみを自ら放棄したことを悔いた。そのささやかなる反省と反動に拠るのだ、英語の勉強をやり直したい。そう思うたのは。
 さしあたってなにを読むか、すぐには決められない。現時点で候補になる本は決まっていない。ただ、本稿の執筆の発端となったLe Guinは避けた方が賢明だろうな。Cambridgeの本屋で購入したSHERLOCK HOLMESのComplete Storiesも挫折したときのショックの深さを思うと、同じく避けるが吉か。つまり、候補作ではなく除外作を先に考えたのだ。──え、ネガティヴ・シンキング? うん、そうかもね。でも、まずは多読して足腰を鍛えることの方が先決でしょう。
 読む作品は追って検討するとして、──ラダー・シリーズのようなリトールド作品のシリーズや米国で使われている外国人向け英語学習テキストあたりが再学習の取っ掛かりには無難か──、自分の部屋へ戻って机上を眺めれば、これまで英文を読む際身辺にかならず侍らせていた英和辞典と文法書、読み物がある。これらがあれば極端に英文のレヴェルが高かったり、構文が複雑極まる代物を選ばぬ限り、♪どうにかなるんではなかろーか♪、と楽観している。
 衰えた筋肉の復活には、どうしても時間がかかる。焦らず急がず、根気よく、長丁場になるを覚悟せねばならぬ。衰えた「英語を読む力」についても、きっと同じだろう。焦らず急がず、ゆっくり、根気よく、──。◆

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第3677日目 〈自伝の一コマ。〉 [日々の思い・独り言]

 「一つの風景が次の眺めを誘う」──どこで知った文句であったか忘れたが、最初の小説(※)でそれを用いたのだけは覚えている。たしか推敲する前の、初稿の段階でそれはあったはずだから、かの文句を思い着いたかなにかで読んだかしたのは、17-8歳の頃であったろう。
 17-8歳! なんと夢見がちで、怖い物知らずで、可能性にあふれ、世間知らずだった年齢! 甘美な揺りかごのなかにいるのを許されるのは、あと数年ということも知らずに呑気に過ごしていられた頃……!
 わたくしにもそんな時代があったのだ。われながら信じられぬことではあるけれど、そうでなかったら「いま」生きてこうして文章を綴っていないからね。そんな時代があったことを信じてもらうより意外にない。
 しかし、なんと途方もない時間を過ごしてきたのだろう。年長者からは「自分より若いお前が、そんな達観したようなことをいうな!」と叱咤されるかもしれないが、半世紀超の人生を顧みて斯く感慨してしまうことを邪魔される謂われは一切、ない。
 途方もない時間を過ごした。どれだけ実りのある時間であったか──そうお訊ねになるか。実態を知ってのご質問か。そうなら、なんと意地悪で悪趣味か。答えは「否」だ。顧みて──長い目で見て、充実した人生であった、と満足できることはない。
 先輩たちと違って、長期的な人生設計図を描けなくなった世代が、われわれだ。しかもその原因は、われらにはどうすることもできない類のそれで……。中短期の仕事が世にあふれたお陰でどうにか今日まで生きてこられたけれど、もう限界のときが近附いている。わたくしは、敗けたのだ。時間の浪費と辛抱不足が、それを招いたのだ。
 歴史に「IF」なし。時間を遡ること能わず。いずれも承知している。が、もしやり直すことができるなら、17-8歳の頃へ戻りたい。その延長線上で会うべく人に会えなかったとしても、だ。その年齢ならば、まだ間に合う。まだ、生きている。正しい未来を選択できる。正しい道を外れることなく逸れることなく、歩いてゆける。
 だから──。

 彼[南王国ユダの王マナセ、連行先のバビロンで]は苦悩の中で、自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。(歴下33:12-13)◆



「初めて書いた小説」ではなく、自分の名前で世界へお披露目できる「最初の小説」の意味。
 これ(『六月の二週間』)に続くのは掌編「雪中桜」、『それを望む者に』、『ザ・ライジング』と『エンプティ・スカイ』、『人生は斯くの如し──ヘンリー・キングの詩より』、『美しき図書館司書の失踪』、くらいであろうか。□

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第3676日目 〈避難先のスタバにて、あれやこれやと綴ったあとで。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日は病院三昧であった。脳梗塞の後遺症の程度を確かめ、併せて今後の治療に役立てるためのエコー検査を、紹介先(=かかりつけ)の病院の生理検査室で行うことは既に決まっていたので、他の病院案件もその日にまとめたのだ、という背景、経緯はあったとしても。
 とはいえ、夕刻にはそれも終わってしまった。その日の支払総額から目を背け、寄り道しながら辿り着いた先がいつものスタバ。これは偶然の作用ではない。足の指先が痛み(擦過傷)、腰と脇腹が張ったように痛み(お通じが数日ないことから、わたくしも消化器系の癌なのか、と[正直にいうと]疑っている)、遂にそれに耐えかねて、直近に位置する勝手知ったる”ここ”を避難所とさせていただいた次第である……。
 でも、そうはいうてもやることはいつもとあまり変わらない。Macを忘れ、読書ノートと対象本を持ってきていないとは雖も、本を読み、なにかを書く、てふルーチンは維持されるのである。モレスキンとペンケースと、なにかしらの本を1冊か2冊。これはいつもリュックに入れてある。為、ルーチンの維持が可能だったのだ。
 杉原泰雄『憲法読本 第4版』とミステリー文学資料館編『古書ミステリー倶楽部』を決まった分量終えた後、おもむろにモレスキンのラージサイズ方眼ノート(ハードカバー)を開いて綴ったのは、今後書く(と決定はしていないが書いておきたい)文章の題材、テーマ、小説の極めて大雑把なアウトライン、ブログ用原稿のちょっと詳しめの設計図である。
 最後の場合は、岩波ジュニア新書についてのそれだ。
 人生で最初に買った4冊の新書を覚えている。買った順番でいえば、『マザー・グースの唄』(平野敬一 中公新書)、『続 知的生活の方法』(渡部昇一 講談社現代新書)、『青春をどう生きるか』(加藤泰三 カッパブックス)、『ナウなヤング』(水玉螢之丞/杉元怜一 岩波ジュニア新書)、となる。4冊と中途半端な数になったのは、同じ頃に買っているはずが順番に関してはよく覚えていないのが数冊あるためだ。一例を挙げれば、『書斎の王様』(岩波書店編集部 岩波新書)、『アドルフ・ヒトラー』(村瀬興雄 中公新書)、などだ。高校時代に開拓した古本屋で新書をあれこれ物色して漁るようになるのは、それからもうしばらく経ってからのこと。
 先述した如く、わたくしの新書歴の最初から、岩波ジュニア新書はあった。ちなみに件の一冊は未だ架蔵して、この前久しぶりに書架から出して読んでみたらいまもむかしもあまり若者の生態に変わりが無いことに面白さを感じて、ついそのまま夜中まで読み耽ってしまった。昨日は偶々『憲法読本 第4版』てふ岩波ジュニア新書の定番書目を携えており、またその読書に手こずっていたことからまずエッセイのタイトルが思い浮かび、その流れでアウトラインを作ったり細々した部分について覚書を綴ったりしていたのだった。
 ──さて、かの痛みはいちおう治まった様子だ。一時的とはわかっているが、歩いて駅まで戻るに支障はない。夜の歩道をゆっくり進む。この時期は野球の試合数がめっきり減っているのが、良い。ちかごろは試合あとのベイスターズ・ファンはお行儀がすっかり悪くなったからな。とまれ、体に負担を掛けずにてくてく歩いてゆけるのはヨの幸い事の一つと申せよう……。
 明日から意図せぬ望まぬ四連休に、わたくしは入る。仕方ない。体をいたわりつつ無聊をかこちつつ、PCは遠ざけて、読書に耽るとしよう。
 ……あれ、ひょっとしていま(09/21)って、シルヴァー・ウィーク?◆

第3675日目 〈腰の痛みに苦しめられた夜。〉 [日々の思い・独り言]

 入院から約2ヶ月、退院から約1.5ヶ月を数える。毎日、血液をさらさらにする薬と副作用を抑える胃薬を各1錠、白血病の薬といっしょに服んで欠かした日はまだない。脳梗塞の、退院後にした精密検査は結果がまだ出ていないので、希望に満ちたことも悲嘆に暮れることもできぬ現在[イマ]なれど、目にも明らかなな後遺症は窺えない。しばらくは脳天気にそれを喜んでおくとしよう。
 そんな風なこと、再発したときの不安や恐怖、諸々を考えながら予後を過ごすこと約1.5ヶ月。慣らし運転を兼ねた仕事復帰もどうやら軌道に乗ってきたな、そろそろ元々復職を望んでいる業界に履歴書・職務経歴書を送りまくるかor(実入りは不安定極まりない低給与ながら)このまま倉庫のバイトに汗水垂らして好きな人々といっしょに時間を過ごすか、決断せねばならんな、と倩思い始めた矢先の、昨日09月04日月曜日の夜、NHK=BSで再放送されて録画しておいた吉岡秀隆版『八つ墓村』を観ているとき、事件は起こった!
 左側のお尻の、横の上部がやたらに痛む。はじめのうちは、椅子に変な格好で坐っていたから左側へ負担が掛かり、そのせいで件の部分が痛むのかなぁ、と思うが精々。肘掛け付きの椅子だと、左右どちらかに体を傾かせた姿勢で長時間坐っていることが案外に多いから、実は斯様な痛みに遭うのは初めての体験ではない。が、この日は──
 痛みはどんどん激しくなってゆく。椅子に坐ったまま何度も何度も姿勢を変えた。痛む部分を伸ばしてみた方が良いかしら、と床に寝転がってもみた。これも何度となく姿勢を変えて、である。むろん、慎ましいこれらの努力はいずれもすべて、無駄に終わった。
 その時点で痛みは、顔を歪める程にまでなっていた。痛みは引かぬし、収まる気配もない。アンメルツを景気よく塗りたくってみたが、結局残量を減らすばかりのことじゃった。
 鈍痛に耐えながら『八つ墓村』を観終わった。HDDからは即効削除。時刻は大体23時頃。それからシャワーを浴びた。この行いが良かったのか、正しかったのか、いまでもわたくしには分からない。ただ日常のルーティンを変えたくないが為の、シャワーである。咨、これは天道、是か非か。とまれシャワーのあとは髪が乾くまで痛みに顔をしかめつつ椅子にゆっくり浅く背筋を伸ばして腰掛けて、麦茶を飲んだ。痛くても暇だった。時代劇専門チャンネルで放送中で、これまた録画しておいた加藤剛=山形勲版『剣客商売 ’73』第14話「三冬の女心」をぼんやりと観て過ごす(『剣客商売 ’73』の「’73」はその後の藤田まこと版『剣客商売』他と区別するための局側の都合だろうか)。
 その間のわたくしは、かなりの仏頂面だった様子。いやもうね、自分でそうと分かってしまうくらいだからその痛み具合は世人よ、推して知るべし、である。その間にわたくし思うに、痛みを覚える範囲(面積?)はほんのちょっぴり狭まった──が比例するように痛みは皮膚の下へ下へと潜って肉の内側から周囲に飛散してゆくが如く……である。
 まっすぐ立つこともままならなくなった状態で、普段よりも少しだけ早い時間だけれどベッドへ向かう。寝台に体を横たえる、というよりも投げ出すようにして、倒れるようにして横になり、荒い溜め息吐きながら呪詛と悪態の言葉を呟いて、母が亡くなって半年余を経てはじめて聖書を開くも視界がにじんでいたのですぐに閉じ、電気を消して目を瞑った──。
 が、左の脇腹から臀部(左)の真ん中あたりの痛みがひどくて心安まる瞬間だになく、仰向けになっても横向きになってもそれを忘れることができない。むしろ覚える痛みは更に強く、肉を抉ってくるようである。咨こん畜生、なんで自分ばかりがこんな目に。家のために骨身を削って働いている自分がどうしてこんな苦痛に遭わねばならぬのか。こんな目に遭うべきはあの生産性なき穀潰しの方であろうに。暗闇に向かって吐き出される言葉は、呪詛と悪態ばかりである。
 確かにあの日以後、わたくしは死を望んだ。もうじゅうぶん頑張ったがこれ以上は方々に不義理と迷惑を掛けるばかりだから、もういっそのこと、そちらへ連れていってくれまいか、と願った。が、けっしてこんな形で実現することを頼んではいない。
 遂に耐えかねて、湿布を貼った。じきに患部がとても温かくなったけれど、それは痛みを忘れさせるものでもやわらげるものでもなかった。枕許の時計は、午前03時12分。既に床に就いて2時間が経とうとしている。痛みは増してゆく。救急車を呼ぶことも考えた。この程度で呼んでよいものか、迷う。時間も時間だ。サイレンを鳴らして来られたら、ご近所の健やかなる眠りを妨げて迷惑だろう。好奇心を隠そうともせず外を覗い、わが家に目を凝らす衆の存在することには耐えられない。こんなとき、「あなた」がそばにいてくれたら良いのに。「あなた」がそばに住んでくれていたら良いのに。
 スマホで症状を入力して、検索してみた。筋肉痛(この推測ははじめからしていた)以外にも、仙腸関節障害とか、梨状筋症候群、股関節障害、腰椎間板ヘルニア、坐骨神経痛、などゾッとさせるにじゅうぶんな推定病名が羅列されていた。腹の痛みも伴っている。ちゃんとご飯を食べたのに空腹を覚えてしまう感覚だ。腹の痛みに関しては、お通じが出ないことにも起因しているだろうか。ならば、母が生前訴えていた腹の痛みとは、斯様なものであったろうか。わたくしも、大腸癌なのだろうか?
 以前、脳梗塞の本で読んだ、もうちょっと様子を観てみようと受診を先延ばしにしていたら却って深刻な症状になり、後遺症が残ってしまった、という記述が脳裏をかすめた。脳梗塞のときは早い段階で救急車を呼んで病院に担ぎこまれたから、いま後遺症と呼ぶべきものとは(一応)無縁で過ごすことができている。が、今度もそうだ、と楽観できない。やはり救急車を呼ぶか、しかしこんな時間に呼んだら……と逡巡、堂々巡りしているうち、あまりありがたくないタイミングでわたくし、眠りに落ちてしまったのだ。
 ──シャッターに当たる雨音で目が覚めた。07時56分だった。無意識に手が、湿布を貼ったあたりへ伸びる。まだ痛みは引いていない。が、治まってきているようだ。皮膚に広がる痛み、肉を抉るような痛み、いずれもまだ残っているが、昨夜よりはその範囲も縮小してしてきたようだ。
 とはいえ、やはり痛みで顔をしかめてしまうのは事実である。幸い夕方まで予定はないからそのままベッドに寝転がり、耐えられなくなったら適当に理由をくっつけて動き回るを繰り返して過ごした。いつの間にか、雨はあがっている。その代わり、千葉を震源とする地震が2回、あった。
 苦しくても立たなくてはならない。痛くても為すべきは為さなくてはならない。
 果たされるべき使命のためにわたくしは午後、家人の心配、制止の声を振り切って、家を出た。準備はその前からだらだら、だらだらとしていたが、ここ数年馴染みとなった怠惰と脱力と疲労を御しつつ御されつつしていたら、いつもであれば数十分で済む準備に何時間も費やしてしまった次第。勿論このなかには、新しく湿布を貼ったり、手許不如意ゆえの血液内科の受診当日CXの連絡も含んでいる。
 そうして出発、体を動かしているうちに、徐々に痛みが治まってきているのを感じた。少なくとも鈍痛を覚える間隔は延びてきている。いまは21時24分、まだ外出先なんだけれど、これが快癒に向かっている証しなのか、一時的なわが健忘なのかは不明である。気のせい、って可能性もあるだろう。ただ確かなのは、24時間前と同じような姿勢(椅子に坐っている)をしていても、覚える痛みは格段に軽くなっている、ということ。あゝ、どうかこのまま、痛みが引いて健やかなる眠りが我にもたらされ、前述のような病気とは無縁の一時的な筋肉痛でありますように。斯様な痛みと(原因についても)縁が切れて、明後日からまたいつものように仕事することができますように。切に、それを願う。生を全うして、あの世に逝きたい。
 昨年6月の白血病、7月の脳梗塞、2月と今月9月の擦過傷(左母趾)、昨夜の腰から臀部に掛けての激痛。ここ一年余のわたくしの体はいったいどうなってしまっているのか。これらを訓として健康な生活、健全な生活を送れ、営め、ということか。とまれ「健康」のありがたさ、大切さを、身を以て知った一年余であったことに変わりはない。
 まだ、わたくしは生きている。まだわたくしは、生きていたい。いま死んだら、これまで頑張ってきたことがすべて水疱に帰すではないか。病よ、もうわたくしを苦しめるな。退け、死よ、まだ来ないでくれ。◆

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第3674日目 〈とても大事な話をしよう。お金と生活の話だ。〉 [日々の思い・独り言]

 赤面を覚悟の上でいえば、昨年までのわたくしは、お金について無頓着だった。日々の収支をしっかりと記録するわけでなく、税金や年金、保険等について熟知するには至っておらず、加えて一ヵ月生活するにあたってどれだけのお金が必要なのか、ちゃんと把握していたわけでなく──。
 過月、世帯主であった母が逝去した。それに伴って主要金融機関の、母名義の口座は相続手続き完了まで凍結され。
 即ちこれは、生活してゆくに必要な各種支払、引落がされなくなったことを意味する。気附くと気附けぬと引落ができないまま日を経ると、手許へ届けられるのが「督促状」である。或いは、至急指定金融機関口座への振込もしくは振込用紙で支払うようにという催促の書面通知である。今年令和5年は、母みまかって数ヶ月後から今日までの間、この督促状や催促状が新たに届けられない週は、おそらくなかった、と記憶する(均せば、の話だ)。
 わたくしは、自分の恥部の一部を淡々と、満天下に宣べ伝えようとしている。自然主義私小説や無頼派を気取ってのことではない。事実を語るためには、羞恥や気取りを棄てなくてはならぬ。
 お金の話は、とても大事なのだ。
 実体験に基づくお金の話は、反省と教訓の材料として次の世代へ伝えるべき、大切・重要な話だ。また、読者諸兄にもこれを教訓として、お金全般についての意識を新たにしていただきたく希望する次第である。



 お金の話、といえば、税金、年金、保険を含めた、給与明細書をネタにしてトークするのが、社会人や学生諸君には最も受け入れられやすいか。
 ところで、果たしてそれだけの給与所得者が、明細書の各項目に記載される金額をチェックしているのだろう。また、その項目の意味を知っているか。
 あなたは毎月の、自分の額面所得が載る明細書のどの項目が天引対象で、どの項目が源泉徴収の対象なのか、ご存知ですか? ついでに訊くが、源泉徴収の「源泉」を答えられますか?
 そも、あなたはご自分の給与明細書を見たことがあるだろうか。見たとしても実際の支給額の記載覧しか見ていないのでは?
 ああ、実にわたくしがそうだった。稼いだお金は返済、浪費、乱費、消費に消えた。湯水の如く使っていた時分のこと。
 いつ頃からであったろう、給与明細をじっくり見て、残業代や交通費は当然、「所得税」や「住民税」、「厚生年金」、「雇用保険」、「介護保険」といったいわゆる「控除」欄にも目を配るようになったのは。そのきっかけがフィナンシャル・プランナーや証券外務員の資格の勉強をしていた4年前だったことだけは覚えているけれど、残念ながらそのときの興味や疑問が今日まで継続したわけではけっして、ない。というか、FPや証券外務の資格を取っておきながら自らのお金についてルーズであったのは、いったいどうしてなのか、わが事ながら小首を傾げて唸り声をあげつつ考えこむより他にない。



 やはり母の逝去に伴う相続の手続、世帯主変更が決定打だった。
 これによって家や土地にかかる税金(固定資産税・都市計画税)、収益物件建替による事業ローンの毎月の返済、公共料金や各種保険と年金、生活してゆくための支払(お買い物を含む)といったものがすべてわたくしの名前で請求され、支払うようになったからだ。
 お陰で毎月の収入は税金や各種料金の支払い、或いは医療費であっという間に消えて、手許に残るはいうも躊躇われる程の金額である。おまけに前述した督促状や催促の手紙も、当たり前のようにポストに入っているしね。やれやれ。
 貧すれば鈍す、とは生活レヴェルを主に指していうらしいが、給与明細の詳細やお金に対する感覚に関していえば、むしろ、貧するがゆえに鋭くなる、の思いが強い。
 これね、実際に自分一人の肩に掛かってきたから鋭敏になったわけでね。母生前の如く分担制の頃には覚えることのなかった感覚なのですよ。



 こんにち高校では、専門家を招いて「金融」の授業が行われるようになった。成人年齢が18歳に引き下げられたのが、背景の一つになっている様。
 『池上彰と林修が初タッグ! 日本の「今」を徹底解説! 学びコラボSP』(08月19日18時30分〜 テレビ朝日)の後半で、この話題が俎上に上された。出演者の一人、伊集院光の、その際の発言に殊更頷いてしまったわたくしだが、記憶に留める意味でもその発言を以下に引いておきたい。伊集院氏曰く、──
 「大人になって思ったのは、(学校や家庭でも)もっと税金のこと教えてほしかったな、って。どういうことを申告して、どういうものが必要経費で、ということを教わりたかったな、ってやっぱ思うんですよ。こうやってちゃんとお金のことを(学校で)教えるのはいいことだと思います」(2:09:16-30)
──と。聞いていた林修が何度も頷く姿が印象的だった。
 基礎知識があって初めて、金融についての正しい知識が得られる。フェイク情報やマルチ商法から身を守るための鎧をまとうことができる──平たくいえばあらゆる詐欺行為、悪徳商法、犯罪の危険から身を守れるようになる。
 できるならば、その知識を、自分で税金を支払う、確定申告や青色申告をする、など実際の場で活かしてほしい(勿論、授業でのシミュレーションでもよい)。知識は実践してこそ身に付くのである。
 また、その授業では投資や株式についても教えられている由。政府が積極的に国民に投資を呼び掛けている、ナンカちょっと違う、歪な方向に舵を切ってどこへ行くのかわからなくなっている、この妙ちくりんな時代を反映しているね……。
 でも、高校生相手にはそれと並行して、先刻の話ではないが、給与明細書の内訳についてもきちんと授業した方がよいのではないか。なんとなればかれらの過半は進学したらアルバイトで給与を得、就職したら自ずと給与取得者になって給与明細書を受け取る側になるのだから。明細書の見方、内訳の意味や計算方法など、いまから教えておいた方がいい。もっとも、既にそんな授業を行っている学校もあるだろうこと、重々承知……。
 伊集院光の発言は、リアルタイムで金融の授業を受けている高校生にこそ響くのではないか、と思うている。



 夜は、寝る前の一刻に本を読んでいる。
 いま巻を開いてページを繰っているのは(これまで縷々述べてきた反省も手伝って)、社会の仕組み、給与や年金、メディア・リテラシー等に関して、特に高校生に読まれることを想定した一冊である。著者は、川合龍介。書名は、『社会を生きるための教科書』。岩波ジュニア新書、2010年02月刊。
 目次を書き写すと、──
 1,就職する、働く
 2,税金を納める
 3,保険や年金を考える
 4,自分の住まいを探す
 5,家族を考える
 6,お金と正しく付き合う
 7,情報を使いこなす
──となる。「はじめに」と「おわりに」を前後に付す。
 先に高校生に読まれることを想定した云々と書いた。だからというて舐めてかかるととんでもないしっぺ返しを喰らうことになるのが、岩波ジュニア新書である。『社会を生きるための教科書』も例外ではない。
 これは大人が読んでもなかなか重宝する一冊だ。
 重宝、とは、これまでよくわからぬまま過ごしてきた、或いは知ったつもりで過ごしてきた事柄や言葉をわかりやすく教えてくれるからだ。と同時に、正しい知識、正しい概念を自ら知ることで、社会で生きてゆくために必要な備えを(あらかじめ)持っておくことができる、という意味も含んでいる。──前にも書いたし、本書の帯にもあるが、果たしてどれだけの人が「“源泉徴収”ってなに?」、「“源泉”ってどういうこと?」と訊かれて即座に、誤りなく、わかりやすく答えることができるだろうか。
 中高生、大学生、専門学校生、といった学生のみならず、社会人となり給料をもらい、家庭を持つようになった大人たちにも是非読んでいただきたい、お奨めの一冊である。わたくしも、読書にちょっとした間が空いてしまったので、検めて最初から読み直す予定だ。



 なんとも溜息が出てしまうことに、息を吸って吐いているだけで一ト月に均すと時に数十万も持ってゆかれる時代である。おまけに近年稀に見る物価上昇が、それに輪を掛け、追い打ちを掛けている。
 最早、「やれやれ」では済まぬ。わたくしもここ数ヶ月、折に触れて、「貧乏人は死ねということか!?」「低所得で税金や年金エトセトラの支払が滞る者は路頭に迷え、ってか!?」など口のなかで呟くことが多くなった。
 けれども、ふと冷静さを取り戻し、来し方を省みたとき、その雄叫び──喚き、というべきか──も己の無知と無恥、自制心の無さから生じた、正に「身から出た錆」なのだ、と気附くことになる。
 斯くしてみくらさんさんかは、斯様な結論を導くに至るのだ。即ち、──
 自分の不明が奈辺にあるかを(目をそらすことなく己を偽ることなく)客観的に見つめ、把握し、お金と生活の関わり様について見直すことが急務では?
──と。◆

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第3673日目 〈自分自身を顧みる作業、その一部。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくしは、不完全な人間です。どちらかといえば、虐げられてきた人間です。人生のどん底を経験し、他人の裏表を存分に見てきた人間です。
 このような人間が、どれだけ過去に経験があるからといって管理者を務めるのは、身に余る行為でしょうか。過ぎたる職業でしょうか。
 否、わたくしはそうは思いません。不完全であるからこそ、見えてくる光景があります。虐げられてきたからこそ、看過されやすい誰かの心の痛みや悩みに寄り添うことができます。どん底を経験し辛酸を舐め、裏表を嫌という程見てきたからこそ膝をつき合わせてその人のことを理解しようと努めます。
 わたくしは、たとえば誰かが欠勤の連絡を入れてきて、その人がどこかで目撃されたとしても、その人に事情を訊ねることなく思い込みと偏見で、サボリ、と決めつけて人事評価に影響するようなことは絶対にしません。それは「愚」としか申し上げようがない行為です。
 わたくしがそこで学んだのは、9116ではデマをいかに真実らしく装い、キーマンを捉えて拡散・定着させてターゲットを誹謗して追いつめてゆくか、4708では自分を安全圏に置く方法と不倫の隠蔽の手際の見事さ、等々でありました。……不倫なんてする気は毛頭無いけれど、ああ成る程……と思わされたんですよね。つまり、所謂反面教師になることまでも学ばせてもらったわけです。
 こんな実例がありました。[削除]
 とまれ、いずれも、忘れられなくても忘れられない、感慨深くとても貴重で有意義な思い出です。斯様に人は裏表を見せ、確認を怠る軽率な生物に成り下がれるのか、と。
 確認をしろ(裏を取れ)、事情聴取をしろ、然る後に判決を下せ、というわたくしの主張と信念は、こうして出来上がったのであります。
 斯様な出来事を通して学び、同時にわたくしが自分のいちばんの強みである、と確証したのは、「聴く力」を持っていることでした。
 上述の連衆のように、誰かを色目で見ることはありません。上述した連衆と違って、誰かの頑張りや努力を公正に評価する冷静さを持っています。これはいずれも、自分がこれまで受けてきたことの裏返しといえると思います。もちろんなかには申し開きのできないこともあるでしょうが、相手と会談して、相手の言い分に耳を傾け、誤解や偏見をなくし、正しくその人と物事を見ることができる。これがわたくしの強みであり、実経験に基づいた揺るぎなきわたくしの信念となります。
 岸田首相の「聞く力」ならぬ「聴く力」を、わたくしは持っています。これは管理者に最も求められるはずの能力(の1つ)ではないでしょうか。
 わたくしは、[削除]株式会社在籍中に、上述した以外にも様々誹謗を受けてきました。なかには事実もありましょう。が、まるで事情聴取されなかったがゆえの誤解と偏見に塗れた誹謗中傷もあるのです。今回はこれらについて、わたくしの方から弁明したりするつもりは毛頭ありません。ただこれらの経験によって、上記申し上げたようなわたくしの強みや信念、行動理念を構築してくれた点で、この会社には感謝するのみなのであります。◆

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第3672日目 〈贖罪と責任。──労働についての独り語り。〉 [日々の思い・独り言]

 ウチの会社としてはちょっぴり珍しい仕事を経験してきました。物流関連の仕事が多いウチですが、時期的なものもあるのか、一年のうち何度か発生する(依頼を受ける)珍しい仕事とは、官公庁や役所、病院や学校、企業で使うパソコンと周辺機器のキッティング作業であります。内容が内容ですし、数日だけの作業なので、それ程多くの人数が必要になるわけではない。一現場につき三人が相場だそうだ。
 従って希望者多数の場合は抽選となるが、今回、わたくしはそのメンバーの一人になることができた。過去にPCのキッティングを仕事の一環とすることがあり、それを入社時にプレゼン(?)していたためと思しい。
 とまれ、わたくしは選ばれ、横須賀線の某駅からバスに乗り継ぎ某高校で作業に従事して再び横須賀線の客となり、その仕事を倩思い出しながら、「自分は変わったな」とポツリ呟いたのだ。八月お盆過ぎの或る日の宵刻。心地よい疲労が体のなかに横たわっている……。
 自分は変わった。その日の仕事を通して、ようやく実感できた。
 そのレア案件では幸運にも三名の募集枠に入ることができた。それが後日、当時メインにしていた物流倉庫で一緒になる人たちの話題に上り、質問攻めに遭ったのだが。曰く、どんな作業内容だったのか。曰く、どうしてお前が作業担当者になれたのか。煎じ詰めればこの二点である。
 最初の質問には、きちんと答えられる。好奇心か今後の参考かはともかく、興味を抱くのは自然の理だ。誰だって行ったことも見たこともない世界の出来事には興味津々なのだから。
 返答に窮したのは、二番目の質問だ。どうしてお前なのか、どうして自分ではなかったのか。袖の下をたんまり贈ったのか。担当者の弱みを握って恫喝したのか。勿論、そんなはずはない。法を犯す度胸がこの小市民にあるものか。
 さあどうしてだろう、偶々じゃないかな。そう濁してその場は済ませた。が──口にこそしないけれど──こちらが本稿の話題に即した部分なのだが──かれらは、会社の信用を多少なりとも欠く連衆だった。どういうことか。勤怠や勤務態度に難あり、だったのだ。限られた時間のなか、少ない人数ですべての作業を完了させる最大のポイントはなにか?
 PCの設置や配線、操作に抵抗ないこと? 運搬作業に耐えられる程度の体力があること? 作業工程全体を見渡して一つ一つの作業を如何に効率的に行ってゆけるか改善策を考えられること? ──ううむ、どれも正解の一つではあるンだが、最大のポイントとはいい難い。「最大のポイントはなにか」という質問に対してここで求められる正解は、「勤怠に穴を開けないこと」である。
 少ない人数で、限られた時間・日程で作業を完了させるいちばんのポイントは、所定時間から仕事が始められるよう、遅刻することなく余裕を持って現地に到着/出勤していることだ。これに尽きる。
 過去のわたくしを表面でしか知らぬ人は、どの口がそんな偉そうな台詞を吐くか、と顔をしかめ、或いは陰で嘲笑するだろう。が、わたくしは気にしない。思考が過去で停まり、旧態依然とした人々の陰口を気に病む必要はないからだ。そんなヒマ、人生には存在しない。〈人は変わるのだ/変わることができるのだ〉という当たり前の事実が理解できない人たちなど、放り棄ててよい。
 徒し事はともかく、普段とは異なる仕事を経験したことが、自分は変わった、と思えるようになったきっかけなのは、紛れもない事実である。特筆大書しよう。



 上で触れたレア案件もそうだったが。交互に行っている二、三ヶ所の物流現場(ピッキング、仕分け、etc.)を含めて、いずれの仕事もみな、愉しい、と胸を張っていうことができる。
 では、仕事に於いて「愉しい」とは、如何なる意味合いを持つか。みくらさんさんか思いまするに、──これについてはナポレオン・ヒルがとても良いことをいうている。便乗するわけでも借用するわけでも、模倣するのでもないけれど、『思考は現実化する』を読んで大いに、深く、心から首肯できた点でもあるので、わずかにアレンジして述べてみると──あまり気乗りしない業務であっても熱意と意欲を持って取り組み、収入以上の仕事をしたという実感を抱いて一日を終えられるかどうか、という点に、概ね集約できそうだ。これは業界・職種の別なく共通していえることだろう。
 加えるべき要素があるとすれば、職場の人間関係に恵まれるかどうか、だ。
 この、人間関係に恵まれる、について、私情も交えてお話しておきたい。
 求人広告(フリーペーパー、webどちらでも)に「職場の人間関係良好」とか「和気あいあいとした賑やかな職場です」「風通しのよい、なんでも相談しやすいアットホームな環境です」なんて文言が躍っているのが、散見される。まさかこんな確信犯めいたダマシ文句につられて(鵜呑みにして)応募、入社してしまうようなオッチョコチョイはいないでしょうが、そんな方がいたら是非問うてみたい。──あなたは努力なしにその職場に溶けこみ、労せずして〈良好な人間関係〉の一部になれたのですか、と。答えがイエスならば、あなたはその職場を去ってはいけない。解雇を申し渡されたらプライドを棄て恥も外聞もかなぐり捨てて、泣いて喚いて雇用の継続を嘆願するがよい。それが賢明だ。
 が、上の設問の一つにでも、ノー、と首を横に振らざるを得ないのなら……はじめのうちは(或る程度まで)自分から行動を起こして周囲へ働きかける必要があることを忘れてはならない。相手の状況を慮りながらコミュニケーションを取れ、相手に煙たがられない程度に己をプレゼンしてみてはどうか、報告も相談も質問を怠るな(=報連相を怠るな)、ということである。首を横に振ったあなたはおそらく、あらかじめお膳立てされている……最適化されている職場環境も人間関係もないことを、肌で感じてきているはずだから。
 新しい職場(現場)の上司・先輩諸氏からの熱烈歓迎を期待するのは、筋違いと覚悟しておくのが賢明だ。期待して許されるのはたぶん、歓迎会の席くらいだ。そりゃあ入社当初、配属当初は歓迎されましょう。だってあなたは、海の物とも山の物とも知れぬ未知の存在なのだから。が、そこで働く以上、あなたはお客様ではない。当初の歓迎ムードはやがて消え去る。あなたがその後、その職場でポジションを獲得するのか、必要で信頼される存在となれるのか、そのスタート地点になるのは、上に述べたような、自分からの働きかけに他ならぬのではないか。そんなあなたの姿を見て、それを周囲が認めてはじめて、「仲間」として迎えられ、仕事を任されるようになってゆくのではないか。自分を評価するのは他人なのである。
 文字にするとやたら鹿爪らしく、仰々しく、お堅いハナシとなるが、皆さん多かれ少なかれこうしたパターンを踏襲しているように見える。わが来し方を顧みても、そう思う。けっして独り合点ではあるまい。
 人間関係に恵まれる、とは、受動的な恩恵ではなく、あくまで自分からのアクションを出発点とした、能動的な行動の結果である。──残酷かもしれぬが、事実だ。結局のところ、「仕事の愉しさ」とは日本社会の場合、人間関係に左右されてしまう部分が大きいのは、否めぬ現実、動かし難い事実と申せよう(欧米社会でも人間関係に起因する離職は多いそうだ)。
 自分自身のこれまでを振り返り、点検してみると、人間関係に恵まれた職場での仕事は、肉体的精神的にどんなに大変でも、どんなに辛くても、うん、とても愉しかった、という記憶しかないな。上司・同僚に恵まれた会社での仕事は、「愉しかった」の一言でしか言い表せない。どれだけ歳月が流れようとも、鮮やかな思い出ばかりが残っている。いっしょに働く人は、働く上でとてもたいせつな要素なのだ。まァ、とはいうても喜ばしい記憶としてあるのは、不動産の営業と印刷会社での進行管理、物流現場での労働に限られており、──
 では、キャリアのもうひとつの柱たるコールセンター業に就いていた頃も人に恵まれて楽しく仕事できたかといえば、全く以て然に非ず。むしろ人間関係についてはまるで恵まれなかった所が殆どだ。
 個々の仕事は面白く、それなりにやり甲斐もあったが、いっしょに働く人たちについては離れて何年十何年が経つ現在なお哀れみと侮蔑の思いしか持てずにいる。そこは(コールセンターは)潜在的問題児の集積場所でしかなかった。社会的なモラルが欠落した管理者(堂々たるコンプライアンス違反や不倫の隠蔽に巧みな人、etc.)、オペレーター(肉体的疾患を陰でコソコソ囁き合い笑い合う、業務中でありながら入電の待機時間中はヒマだからと机に突っ伏して熟睡して過ごすいちばんスキル不足知識不足の輩、等)、……書きながら思い出して、疲れがどっと出た。信じられぬかもしれないがこんな人たちが、広い夜空の星の数程もあったのだ。そうしてそんな人たちの常なのか、斯様な連衆に限って上のウケ良くいつの間にか(昇格はせぬまでも)幅を効かせていてね。困ったものではあるけれど、組織での生き残り方、という面では参考すべき点が多かった。人間観察・生態調査の点でもそこは格好のフィールドで、人物素描・小説の登場人物の造形に大きく貢献してくれた。こうした点では、われに益あり、というてよいか。
 このあたりは中葉呆れ気味ながらメモワールで既に(ほぼ実名で)録したから、詳細はそちらへ譲りたい。ただ一言申し上げるなら──あゝ、かれらに情状酌量の余地はないですね。にもかかわらず、「愉しかった」と嘯くところのあるのは、偏に記憶の風化がもたらした弊害であろう。水に流したるわ、という蔑みも、ある。
 嫌みをいうな? なにを仰る、情状酌量の余地はない、の意味をよく噛みしめてから君、詭弁を弄す準備をし給えよ。自分らがしでかした悪戯と巫山戯と犯罪を、よもやお忘れではあるまい?



 歩む道が曲がったりそれたりしていても / 清く正しい行いをする人がある。(箴21:8)



 わたくしの現在を最後に述べれば、──
 ──過去のわたくしを知る人は、現在のわたくしを見て驚かれるかもしれない。仕事への意欲と熱意と勤勉ぶりに、である。
 様々な要因から今年2023/令和5年を、自己変革の一年とするのを年始に誓った。何事もなければ尻すぼみに、習慣化する前に薄れて霧消する意欲となったろう。が、そうはならなかった。実行し始めた矢先に悲痛なる私事が生じたことで、その誓いは有言実行以外の途を絶たれた。斯くして体に鞭打ち心を叱咤して、……プロレタリア小説の題材を幾つも提供できそうな、然れど仲間や上長に恵まれて仕事場へ行くのが楽しみな、肉体を酷使し周囲に気を配る労働現場での日々を送っている。
 世帯主となり一切の責任を負う立場となり、その代わり手はいないこと。過去を悔い、罪を償うこと。信じていただけなくても構わない。この二点ゆえにわたくしは、変わらざるを得なかった。断言できる。図らずも年頭の誓いが外圧内省によって実現・継続する形となったわけだ。
 そうしていま、わたくしは、──邪念を育む暇[イトマ]なく偽りの仮面を被る必要もない、ひたすら体を動かしひたすら汗を流し、夏場は熱中症を恐れて摂取した水分でお腹をタポタポにし、冬は体の芯まで凍らせるような冷気と戦い着ぶくれし、如何に作業を効率化して工程を減らすか知恵を絞り、いつ降りかかるか知れぬ危険を避けるために注意を払うような物流業界の最前線で、朝から晩まで労働に勤しんでいる。生の充実感はかつてよりもいまの方が、より優る。疲弊疲労も比例して、いまの方がより優る。

 繰り返す。「過去の悔恨や後ろめたさへの贖罪」と、「〈家〉を守る責任」を全うすること。これこそが、体を極限まで痛めつけてでも、限界以上に酷使してまでも〈働く〉理由であり、その原動力である。
 「コリントの信徒への手紙 一」でパウロは、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。[神は]あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(10:13)と書く。引用は、新共同訳新約聖書より([]内引用者)。
 耐えられない試練、克服できない試練は与えられない。試練には逃れる道(方法)と克服する力が、セットで用意されている。なんと心強い励ましではないか。聖書の一節である。が、このような文言は、非キリスト者であっても胸のうちに留めてよい。

 時として、気乗りしなくても黙然と仕事に取り組む。それを後押しするのは、「家を守る責任」と「過去の贖罪」に他ならないことは、耳タコかもしれないが大事な部分なので、何度でも述べておく。そこに加えて前述した「コリントの信徒への手紙 一」のパウロの言葉と、ナポレオン・ヒルの本の一節が側面から、責任と贖罪という柱を支えている。
 朝目が覚めると、体の節々が悲鳴をあげて起きあがれない日がある。罹っている白血病の症状の一つに起因するか、全身に強い倦怠感や疲労を覚えて出勤拒否を考える日もある。それでも体に鞭打って気持ちを奮い立たせて、仕事に行く。
 当たり前の行為であるのに、病気を抱えながら出勤して仕事する、という単純な行動が難しい時はある(一年に一度は大きな病気をすると苦笑していた、未だ心に残るあの子も、きっと同じだったのだろう)。しかし、それを押して出勤し、一日の勤めを終えたあとの充実感、胸のうちを充たす喜びは一入だ。家のために流す汗と肉体に残る疲れの、なんと心地よいことか……。◆

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第3671日目 〈読書ノート、4冊目が終わり5冊目へ。〉 [日々の思い・独り言]

 たぶん4冊目の読書ノートが終わった。読了した本の感想や粗筋をそのたびに書いているわけではないでもなく、「これは……!」と思うたり必要ありと判断した本の抜き書きと自分のコメントを記しているだけだから、読書ノート、というてよいのか迷うのだが、それはともかく、たぶん4冊目のノートが昨日終わった。
 片柳弘史『何を信じて生きるのか』に始まって萩原朔太郎『恋愛名歌集』を経、六法から日本国憲法と芦辺信喜『憲法 第六版』から9条と96条に絞って抜き書き、或いは自分でまとめたところで、ノートは終わった。自2023年1月 日至同年8月10日。
 たった4冊? 一冊からの抜き書き量ってどれくらいなの? 疑問はご尤もだ。過去の3冊では平均して10冊程度の書名が簡易的な目次に列挙され、それぞれ数ページの抜き書きとコメントが記されているのに比較したら、4冊目のノートがわずか4冊の本で終わっているのは疑問でしかあるまい。
 タネ明かしをすれば、『恋愛名歌集』は抜き書きに非ず、読んでの感想と意見也。即ち過日本ブログで分載した感想文だかエッセイだか付かぬ代物の基になった文章が、4冊目の読書ノートの過半を占めているわけである。そのあとに、朔太郎が八代集から選歌したうちわたくしのお気に入り歌であるのを示す斜線を引いた一首一首を、専ら岩波書店の新日本古典文学大系に収まる八代集を底本にして書き写したページが続く。
 『恋愛名歌集』がノートに占める割合は、5割、というところだろう。それが原因で芦辺『憲法 第六版』96条についてのまとめや抜き書きが表3にまで及んでしまったのだのかもしれぬ、とは(流石に)考えすぎであろうか。
 とまれ、4冊目が終わった。憲法前文の抜粋と付箋に書き写して六法のページの余白へ貼りつけて(今し方のことだ)、さて、ノートは5冊目に突入する。
 部屋を片附けたりしている際に見附けた未使用もしくは殆ど使っていない大学ノートの山(という程の数ではないか)から適当に見繕って、それを5冊目にした。ついさっきまで、近所のワークマンとスーパーの帰りに立ち寄ったドトールでこの5冊目のノートを開いて、ページの左端の方へ30センチ定規をあてて2本の縦線をシャープペンで引く作業を、20ページ程進めてきた。これは抜き書き対象になる書物のページ数を記入する欄と、1行目1字アケを指示するガイドラインだ。これを怠ると、見た目が非常によろしくないのである……抜き書きやコメント書きが進むにつれて、各行がだんだんと右側へ右側へと寄ってしまってね。斜面の断面図を逆さにした格好になってしまうのだ。まァこんな地道な作業をあらかじめ済ませておかないと、新しくノートを始められない性分なのです。どうぞご遠慮なく笑っておくんなまし。
 さあ、5冊目の読書ノートの仕度はこれですっかり整うた。次は抜き書きとコメント、ときどきまとめ、だ。否、その前に対象書物の選定か。
 今度のノートはA罫、80枚というボリュームだ。いったい何冊の本の内容がこのノートに記録されるだろう。想像しているいまからもうワクワクしている。最後のページに至るまでの時間を思うと、なにもしていないいまから軽い疲労を覚えること無きにしも非ずだけれど。
 うーん、でもホント、なにを1冊目にしようかしら。現在読んでいる(含、目を通している)のが北岡伸一『自民党 政権党の38年』(中公文庫)と池上彰『池上彰の憲法入門』(ちくまプリマー新書)、川井龍介『社会を生きるための教科書』(岩波ジュニア新書)、中央公論新社ノンフィクション編集部『『安倍晋三回顧録』公式副読本 安倍元首相が語らなかった本当のこと』(中央公論新社)、渡辺秀樹『芦辺信喜 平和への憲法学』(岩波書店)、の5冊だから、このなかのどれかになる可能性が高いのだろうけれど……現実はどうなるかサッパリ分からぬ。案外と日本国憲法を全文、書き写していたりしてね。呵々。(※後日の報告)
 でも、手を動かしてノートへ抜き書きする、単純に書き写す、という作業を当たり前のようにやっていて思うのは、たしかに目ン玉動かして「読んだだけ」の時以上に内容は記憶に定着する、ということだ。ぼく、それらの本に関しては空で内容をいえたり、トピックを説明できたり、どのあたりにどんなことが書いてあったか、など「読んだだけ」の本に較べて鮮明に覚えていますもん。たしか、鹿島茂や佐藤優も同趣旨のことを書いていたなぁ。あ
 あらためて、知識の獲得の古典的手段にして王道なることを実感している。◆

 ※後日の報告
 上の本文初稿執筆から5日が経過した。初稿は8月11日17時26分稿、この報告は8月16日16時28分を以て棚上げした文章の冒頭部分に手を加えた上で転用している。
 さて、上で、5冊目の読書ノートは日本国憲法全文の書き写しに始まるかもしれない、と中葉冗談で書いた。結論から申せばそれは、冗談というか絵空事で終わった。が、件の戯れ言は或る意味で現実になったのだ。
 即ち、ノートの冒頭を飾ったのこそ鹿島茂『成功する読書日記』だったが、その次に書き抜いたのは日本国憲法前文となったからである。前文の抜粋は既に4冊目で行っていたが、最初から最後まで前文を全文書き写したのは初めてのことである(ややこしいな)。
 これを後日の報告とさせていただき、──擱筆。□

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第3670日目 〈みくらさんさんか、憲法について独習を始める──9条と96条を取っ掛かりにして。〉 [日々の思い・独り言]

 けっして唐突な流れではなかった。必然性を充分に伴うものだったのだ。6月に読み終えていた青木理『安倍三代』(朝日文庫)のノートを抜き書きしている最中、憲法九条と九六条について知りたいと思い立った。安倍晋三の章を読んでいれば必然であった、と思うている。
 その流れで『ポケット六法 令和四年版』(有斐閣)を繙いて九条と九六条をノートへ書き写し、芦辺信喜『憲法 第六版』(岩波書店)の当該章を読んで抜き書きした。その作業は今日、つい先程終了、いまから30分も経たぬ前。延べ四日にわたる作業で、ノート13ページに及ぶ(最後の1ページは裏表紙の内側、いわゆる表3でだ)。抜き書きというても純粋に引用した(丸々書き写した)箇所もあれば、文章は著者のそれに則りつつ自分なりにまとめた箇所もある。
 どこかに書いた記憶があるけれどたぶんブログではないので堂々と申しあげれば、一昨年あたりだ、大日本帝国憲法及び日本国憲法に関する本(殆ど文庫)をまとめて買い求め、折に触れて目を通すことがあったのは。ただその頃買い集めたものは過半が〈憲法の歴史〉に属しており、伊藤博文と美濃部達吉が解説した文庫と、新憲法公布時に時の内閣や文部省が発行したパンフレットをまとめた文庫が混じる程度(後者は当時、本ブログに感想めいた一文をお披露目した覚えがある)。
 つまり、これまでわたくしが、憲法に関して持っていた興味とは専らその成立にまつわる諸事であり、発議から公布までどのような人たちが関わり、如何なるドラマがあったのか、ということだったのだ。それがこのタイミングで六法を繙き、芦辺信喜の本やもう少し深く掘りさげた解説書に手を延ばしたのは、やはり安倍晋三の「芦辺信喜を知らない」発言が改めて意識の表層に上ってきて、無視できなくなったからである。
 それは2013年03月29日の参議院予算委員会でのことだった。民主党の小西洋之議員が、憲法改正を目指す安倍首相に「憲法学者の芦辺信喜という人を知っているか」と質問した。それに答えた安倍首相の発言が、大いに物議をかもしたのである。曰く、「私は憲法学の権威でもございませんし、学生だったこともございませんので、(芦辺信喜という人のことは)存じ上げておりません」と。
 その答弁を見た首相の母校成蹊大学の恩師が一様に嗟嘆し、難じる様子を、青木の著書は描いている。そのひとり、加藤節の言に曰く、「[芦辺『憲法』は安倍が卒業後に刊行されているが、]しかし[芦辺信喜は]圧倒的なオーソリティーですよ。しかも、憲法改正を訴えているんですから、(芦辺を)『知らない』なんて言うべきではない。まさに無知であることをまったく恥じていない。戦後の日本が、過去の世代が、営々と議論して築きあげてきた歴史を学ぼうともせず、敬意すら持たない。おそるべき政治の劣化です」(P258)と。
 いやしくも憲法改正を是とし綱領に掲げる党の総裁であり、たびたび憲法改正への熱意を見せて口にもしてきた人物の台詞とは到底思えぬ。では、その芦辺信喜の主著であり、こんにちに至るまでアップデートが繰り返されてきた、憲法を学ぶ/憲法について語る際必読必携とされてきた岩波書店刊『憲法』で、安倍が改憲の本丸とした九条と改憲への道均しとして最初に(改正に)着手しようとした九六条を、芦辺はどのように解説しているか。
 そんな好奇心が、『安倍三代』ノートを終えたわたくしを六法に向かわせ、芦辺『憲法』へ誘ったのだ。なお、わたくしが読書と抜き書きに用いた『憲法』は、2015年03月発行の第六版である。現在はまだ第七版が流通しているが、今月8月には第八版が刊行される由。
 既述のように今回は全体の読書ではなく、九条と九六条に絞った摘まみ読みであるから、要らぬ馬脚を現さぬよう務めて話すことにするが、芦辺信喜という人は非常に優れたバランス感覚の持ち主だ。対立する説を紹介するにあたってどちらへ肩入れすることは当然なく、それでも現在の学界の大勢を述べてその話題に(ページの上では)終止符を打つ。
 これによって学習者、或いはわたくしのような専門外の天邪鬼がどんな印象を著者に持つかというと、偏に、「信頼」である。これは信じるに足る本だ、この人の書くものは信用できる。そんな印象を抱くのだ。書き手と読み手の波長もあるだろうが、文章は明解で、誠実だ。学識に裏打ちされて、奥が深い。各種判例への目配りも効いている。まずは本書と、もう少し平易な解説書、もう少し詳細な解説書と、もちろん六法(というより憲法全文を載せたテキスト)があれば、憲法を学ぶ出発点には充分すぎるのではないか。──そんな風に、特定の条文しか読んでいないものでさえ感じてしまうのである。
 元は青木理『安倍三代』の感想文を書くにあたって、就中晋三の章へ触れる際、知識として知っておきたいな、という軽い気持から六法と芦辺『憲法』に手を延ばした。数日を費やして九条と九六条に絞った摘まみ読みと抜き書きを実施して胸にうかぶのは、どうしてこんなに気高く、理想と熱意に満ちた、平和を具現したような憲法(ここでは九条に特化しておりますが)を改正する必要があるのか、という素朴な疑問。
 ときどきの国際情勢や国内事情等によって、細かく点検してゆけば改正が必要とされる条文は確かにあろう。時代にそぐわなくなってきている、というのではない。本当に改正がいまのこの時代に必要なのか、必要であるならばそれはいったいどうしてなのか、改正以外の選択肢はすべて失われたのか、等々充分に、存分に、時間をたっぷり費やして論議を尽くしてからでも遅くはないのではないか、現行憲法の改正を国会で発議し、国民投票を実施して、天皇がそれを国民の名で公布するのは。
 たとえば九条について、少なくともわたくしは、目の前に迫った事態への対応案が合憲かどうかは都度国会で(閉会中であっても)論じ合ったり、必要なときは解散して国民に審判を仰ぐなど、これまで通りで良いのではないかな、と思うております。ガチガチに規定してしまうことは却って、事態への対処が鈍化して足許を掬われたり、手痛いしっぺ返しを喰らう危険性を増すばかりではないでしょうか。
 芦辺信喜は憲法改正の章の終わり近く、「憲法の変遷」の項目でこう書いている。曰く、──

 (憲法も「生ける法」ゆえに規範の意味に変化が生じ、趣旨・目的を拡充させる憲法現実が存在すること自体は問題ではない。むしろ)問題は、規範に真正面から反するような現実が生起し、それが、一定の段階に達したとき、規範を改正したのと同じような法的効果を生ずると解することができるかどうか、そういう意味の「憲法の変遷」が認められるかどうか、ということである。(P399)

──と。
 いまは憲法改正に賛成する人の割合が、反対する人のそれを上回っている時代だ。近年の北朝鮮のミサイル発射実験・核開発や中国の覇権拡大・領海侵犯、昨年2月に始まり現在も続くロシアのウクライナ侵攻(プーチンによる核兵器の使用示唆)が、改憲派のエビデンスとなっている。
 が、わたくしにはそれが、「事態解決(打開)の手段を考えること」、「粘り強く交渉を行ってゆくこと」、「双方合意の着地点を見附ける努力を惜しまないこと」を放棄した連衆の戯れ言に聞こえる。
 力には力を以て当たるべし、なんて武力行使以外の解決策の検討・模索は放棄するに如くはなし、とでもかれらは考えているのだろうか……それこそ戦前の、軍閥が政治の中枢を占めて戦争に突っ走っていったあの時代の再現ではないか。「戦争は人類の知性の敗北である」と誰がいったか忘れたが、現在の改憲派はこれを地でゆく人たちの集合体としかわたくしの目には映らない。
 独断や暴走を止めるための抑止力となっているのが、過去の行いへの反省から生まれた現在の日本国憲法のはずなのだが、それをどうして立憲主義、平和主義の原則をねじ曲げてまで改正にひた走ろうとしていたのか──。
 現行憲法がけっしてGHQからのお仕着せ憲法(押しつけ憲法)でないことは、成立過程を知れば瞭然だ。なのにどうしてそれに目を瞑るような真似をして自分たちに都合のいい改憲を実現させようとしたのか──。
 憲法の救いは、安倍政権がモリカケサクラ疑惑の直撃を受けて改憲のチャンスを自ら葬ってしまったことと、続く菅・岸田政権が改憲のタイミングを摑めなかった(見極められなかった)ことにあるかもしれない。
 むろん、予断は禁物。岸田政権はまだしばらく続きそうな勢いだし、それに続く政権がいつ何時都合のいい改憲を実現させようと目論むかもしれないから。われら日本国民は憲法の立憲主義に則って時の内閣と時の議員たちの言動に注意を払い続けなければならない。それが、日本国憲法を法典の頂点に戴くわれら国民の義務だろう。◆


憲法 第八版

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2023/09/28
  • メディア: Kindle版









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第3669日目 〈隔絶された空間で設計する、実現すべき未来 ──ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』を読んで。〉 [日々の思い・独り言]

 突然の出来事に混乱するなかで、荷物に入れた本のあったことは幸いであった。退屈な病室での午後をやり過ごすに本は最適のアイテムだったから。覚えておくといい、モバイル端末は時に回線速度の遅滞やデータ容量の制限によって要らぬストレスを生み出して症状に障りをもたらす代物に早変わりするが、紙の本に斯様な支障はなんら存在しないことを。Kindleについては一旦無視する。
 入院期間約2週間で読書に励むことのできたのは、内10日程であったか。高気圧酸素治療とリハビリ、MRI検査は大概午前中に集中したので昼食の済んだ午後はなんの予定もない時間だ。この長大なる空白の時間を前にして、わたくしは途方に暮れた。今日一日ばかりの話ではない、入院している間はこの状態がずっと続く。午睡も結構、但し夜寝られなくなるのでご注意を。病院で独り眠られぬ夜を過ごすことは普段以上の苦痛を感じさせる。場所が場所だけに思考はどんどんネガティヴな方へと落ちこんでゆきそうだ。
 『クージョ』というスティーヴン・キングの小説がある。狂犬病に罹ったセントバーナードの話だが、そのなかで不倫した人妻が夫相手にする「空しさ」についての会話があった。子供が幼稚園に行くようになってしまうと独り家に取り残された自分は、暇な時間をなにかで埋めていかなくてはならない。それがとても不安なのだ。続けて曰く、──

 あなたは空しさというものがどういうものか知らないのよ、ヴィク。(中略)人気のない部屋を掃除しながら、ときどき外の風の音を聞くことがある。でもそれが自分の心のなかを吹く風の音のように聞こえることがあるのよ。そんなときはボブ・シーガーやJ.J.ケイルかだれかのレコードを聞くんだけど、やっぱり風の音は聞こえるし、役にも立たないさまざまな考えがうかんでくるわ。(P143 永井淳・訳 新潮文庫 1983/09)

──と。
 この気持、病室に独りでいる間何度となく味わった。外の風はなにをしていても聞こえるし、無用な考え・不埒な考えがあとからあとから湧いて出る。そうしてふとした瞬間に訪れる、ぽっかりと穴が開いたような空虚な時間──。
 が、幸いとわたくしは火遊びに興じなくても済んだ。わたくしには本がある。救急車を待つ間にまとめていた荷物のなかに読みかけの、或いはこれから読むつもりでいた本が入れてある。おお、目の前に広がる茫漠とした時間を埋めるに、これ程格好なアイテムがあろうか。これ程健全な時間潰しの方法があるか。これぞ天の配剤。
 そうして勇躍読み始めたのがナポレオン・ヒル『思考は現実化する』と、アジア・パシフィック・イニシアティブ『検証 安倍政権』である(補記参照)。
 もとより広義の成功哲学については一文を草する予定があった。『思考は現実化する』はそのための読書の最初を担ったわけだが、結果的に非常に機を得た読書となった。これは病室という普段の生活から完全に切り離された環境で読むのに相応しい一冊だった。細切れ時間に読むようなものではない、ということである。
 持参したのは文庫版上巻のみだったから、お見舞い/面会の際頼んで下巻を持ってきてもらった。試みに入院中にメモ・アプリで書いていた日記を開くと、上巻は07月05日午後〜07月09日07時38分、下巻は07月09日午後〜07月12日16時09分、それぞれ始めて読了となっている。ベッドに寝転がったり胡坐をかいたりして、読み耽ったのだ。気になる箇所、共鳴した箇所あらばページの上端を折ってその日のうちにメモ・アプリへ打ちこんで。
 入院中にこれが読めたことは幸運であった。細切れ時間云々のみの話ではない。日常と隔絶された環境に在って、己の行く末を冷静に、真摯に、客観的に、現実的に、来し方の反省を存分に踏まえて思いを巡らし、設計するのみばかりでなく描いた未来を実現するため今後なにを強く願い、そのためにどう行動し、熱意持ってそれに取り組み、義務と約束を果たしながら財を築き蓄え育ててゆくか、という〈お金持ちのなるための方法とプロセス、及びその実現〉について具体的な案を練ることができたからである。お金はあるに越したことはない。あればあるだけ生活の不安は解消されてゆく。有事の際お金のあることは安心材料となる。これを否定したり呵々したりするのは、お金の強さと怖さを身をもって経験したことのないシアワセモノだけであります。わたくしは経験と実感に基づいてこれを断言する。
 さて、退院して驚くべきことに早くも3週間が経とうとしている。その間わたくしは、入院中に描いた〈お金持ちのなるための方法とプロセス、及びその実現〉の端緒に手を着けることができたか。──残念ながら、頭を振るより他ない。日々の肉体労働と諸々の支払に追われる日常が戻ってきただけである。
 が、望みの灯し火は消えていない。否、その輝きは増す一方である。稼いだお金は手にした途端、生活のために何処ともなく飛んでゆく。税金、公共料金、保険料、生活費、等々等。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースではないがそれは、簡単なこと(Simple as that)、なのだ。息を吸って吐いているだけで、いったい1ヶ月にウン万円以上はかかってしまう世知辛さ。が、望みの灯し火がその輝きを失わない限り、火勢が衰えても燠火として燻っている限り、残ったお金を(生活を圧迫させない程度に)貯蓄へ回す習慣と意思はわたくしのなかにあり続けるだろう。
 「望みだけで富を手にすることはできない」(下P39)とヒルはいう。然り。富を獲得するために必要なのは、成功する、富める者になる、という明確な願望と、不断の忍耐力に裏附けられたしっかりとした計画、である。「富は思考から出発する」(上P210)のだ。
 更にいい添えれば、心のなかに住まわせるべきは不安や恐れ、猜疑や嫉妬、怠惰といった負のメンタルではなく、富を得た自分の姿と願望成就させる燃えるような熱意、である。
 いみじくもナポレオン・ヒルはこう述べる。引いて擱筆としよう。曰く、──

 成功は成功を確信する人のもとに訪れる。少しでも失敗を意識すれば失敗する。(上P142)

──と。これ程明解な成功哲学は、そうそうあるものでない。◆

 補記
 『検証 安倍政権』についてこのような文章を書くことはないだろう。Twitterの読了ツイートがすべてだ。が、最後の改憲の章は青木理『安倍三代』を読んでの感想文に、芦辺信喜『憲法』共々絡められる部分あるのではないか、と思案している。□


検証 安倍政権 保守とリアリズムの政治 (文春新書 1346)

検証 安倍政権 保守とリアリズムの政治 (文春新書 1346)

  • 作者: アジア・パシフィック・イニシアティブ
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2022/01/20
  • メディア: 新書




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第3668日目 〈入院中に見た夢は、記録あるがゆえに残酷さを増す。〉 [日々の思い・独り言]

 入院の間はずっと夢を見ていた。現実ではないのが無念に思われる夢だった。
 スマホで入力し、PCで修正補訂をしていた日記を開くと、その折々に見た夢の内容が綴ってある。何日も経ついまでも場面場面を鮮やかに思い出せるのは、そのおかげだ。
 とはいえ、それゆえにこそ残酷である。なにもしなければそのまま忘却してゆくか、解像度の低い断片的な映像がしばらく残るのが精々なのに、日記の存在がそれを阻んでいるのだから。
 よみがえってくる夢は、生々しい。リアリティがある、を通り越して、現実そのものだ。
 皮膚に触れる空気の涼やかさ、肌を撫でてゆく風の感触、鼻腔をくすぐる匂い香り。記録はそんな細部までも精彩によみがえらせる、
 誰かとかわした言葉、触れ合い重ね合った肌のぬくもり、どこでなにをしていたのか。記録を媒介にしてあの夢を、書かれていないところまで再現して追体験することができる。
 いろいろな人が、夢に現れた。会ったこともない有名人や一般人、とてもよく知る人、亡くなった人々、逢うことは最早できない人。頻繁に現れた人がすなわち想いの深い人であるならば、おはらななかは生ある人のなかではその唯一となる。いつでも、どこでも一緒だった。互いの指に光るものがあった。
 咨、入院の間はずっと夢を見ていた。現実ではないのが無念に思われる夢だった。◆

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第3667日目 〈あの人も、脳梗塞だった。〉 [日々の思い・独り言]

 ちょうど2週間前の今日日曜日の今頃14時30分頃、異変に気附いて救急車を呼んだ。
 いまは2023年7月16日14時31分。家の裏の道路を、サイレンを鳴らして救急車が走ってゆく。午前中にも1台、いた。近附いてくるサイレンを聞くと、ビクッ、とする。心拍数を図ってみたら、急激な上昇値を示すだろう。家の裏を通り過ぎた途端、徐々に心拍が落ち着いてゆくのがわかる。呼んだ人には申し訳ないが、それが実際だ。もちろん、裏の路地へ入りこんだり、目と鼻の先で停まったら、そんなこともいうておられぬが……。

 今日も暑い。日本海側は豪雨で避難指示まで出されている自治体があるのに、太平洋側の此方は暑さでゆだっている。外では元気に蝉が鳴き、室内では汗が首筋を滴り落ちてゆく。
 横浜の現在気温は34度、真夏日で、風はそよとも吹かぬ。熱中症警戒アラートは暑さ指数31.3と33以下のせいもあってか発表されていない。ただ、NHKの防災アプリ経由で「厳重警戒/無用な外出は控えてましょう。激しい運動は禁止です」旨のメッセージは出されている。
 猛暑日と真夏日の違いを、気象庁と環境省のHPから引用しよう。曰く、──

 【気象庁】
最高気温が35℃以上の日を猛暑日、30℃以上の日を真夏日、25℃以上の日を夏日、0℃未満の日を真冬日といいます。最低気温が0℃未満の日を冬日といいます。

 【環境省】
暑さ指数と熱中症アラートの関係;熱中症リスクの極めて高い気象条件が予測された場合に、予防行動を促すための広く情報発信を行うため、 発表には熱中症との相関が高い「暑さ指数」を用います。
 暑さ指数の値が33以上と予測された場合、気象庁の府県予報区等を単位として発表します(発表単位の詳細についてはこちら)。また、発表内容には、暑さ指数の予測値や予想最高気温の値だけでなく、具体的に取るべき熱中症予防行動も含まれていることが特徴です。

──と。
 嗚呼、読者諸兄よ、皆さん、くれぐれも熱中症にならぬよう注意を払って行動しましょうね。それが引き起こす種々の病気で未来の可能性を萎めたりしないで。

 比較的早いタイミングで救急に通報したお陰で、脳梗塞は軽症で済み、高気圧酸素治療の終了を待って退院することができた。発症から4.5時間以内に病院へ搬送されて、優秀なスタッフの方々が適切に処置してくださったお陰だ(それも駆けつけた救急隊員の決断の結果である)。
 あの日曜日の昼下がり、すぐに救急に連絡していなかったら、入院期間はもっと延びていて、以後の人生はこれの後遺症に悩まされる羽目になっていただろう。いい方を変えようか、こんな文章をのんびりと綴っていられはしなかったろうな、と。
 勿論、油断はできない。こまめな水分補充と塩分の意識的摂取は当然として、近所への買い物であっても午後は夕方になるのを待って出掛けるようにしている。庭の水撒きとか周りを掃いたり、というのは午前の仕事だ。帽子を被ってペットボトルを持って、ついでに個包装の塩分タブレットも、ズボンのポケットへ忍ばせて。
 電車に乗って出掛ける、というのであれば最初から相応の準備はしっかり済ませて家を出るから、熱中症予防の仕度もそう面倒臭いものではないけれど、屋外の掃除や近所で買い物のときさえ同じような仕度が生じるのは、ちょっとなぁ……。でも、再び脳梗塞をやって再起不能になったりするよりはマシだ。逆にいえば、そこまでやらないと、ほんのわずかの時間の外出も怖くてたまらないのである。
 それを踏まえて話せば、外出時は帽子を被るか日傘を差すか、でいま悩んでいる。看護師や作業療法士の方、近所の知己の方の話をまとめれば、断然後者、日傘が優勢で、その利点は自分でもじゅうぶん納得できるのだが……んんん、やっぱり抵抗があるんだよなぁ。いや、そんなこというている場合じゃない、ってのは重々承知しているんですけれどね。

 入院中に溜まった新聞に目を通していると、夕刊に興味深い記事を発見した。
 コメディアンの萩本欽一氏、欽ちゃんね、脳梗塞を患った過去があるのですね。発症は昨年7月13日という。
 朝起きたら右手に痺れを感じて、目眩に襲われたそうだ。愛煙家ゆえあらかじめ医師から警告されていたため、脳梗塞の可能性を直感したという。マネージャーの車で大学病院に担ぎこまれて検査されると、脳梗塞で緊急入院となった由。
 脳梗塞には脳塞栓と脳血栓があるのだが、欽ちゃんは脳の血管に血が詰まり酸素が全体にいき巡りにくくなる脳血栓であった。わたくしと同じだ。
 7日で退院できた、と記事にはある。驚異的なスピードだ。わたくしは10回1セットの高気圧酸素治療が終わるのを待って退院したが、7日という日数を信じれば恐らく欽ちゃんは酸素治療をしないで他の治療を受けたのではないか。というのも酸素治療は、丸窓が幾つも開いているとはいえ人一人横たわって入るが精々の円筒カプセルで約1時間、100%の酸素を浴びる治療ゆえ、閉所恐怖症の方や高齢の方はカプセルに10回も入ることが、さまざまな理由で困難である場合があるからだ。
 子供の頃からテレビのブラウン管で親しんできた人物が、まさか自分と同じ季節に同じ病気を患い、自分と同じように早期退院を果たしていようとは、この連載記事を読むまで知らないことであった。
 この記事はあと1回、今週土曜日の夕刊に掲載されて完結する。そこに術後のことなど語られるのかもしれないが、退院後、欽ちゃんがどのように日々の生活に配慮するようになったのか、どのような薬を服んで、どれくらいの間隔で通院しているのか、通院の際どのような治療を行っているのか、等自分の今後の参照にできるようなことが書かれていれば良いな、と自分勝手な夢想をしている。
 やはり発症したら(自覚したら)すぐに、後回しにしたりせず、なにを躊躇うこともなく救急に電話して、然るべき病院に搬送してもらおう。1分1秒を争う事態であることを忘れてはいけない。◆

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第3666日目 〈Twitterで更新通知が流れないのは、なぜ?〉 [日々の思い・独り言]

 Q;Twitterでの更新通知がまるでされませんが、どうしてですか?
 A;わたくしにも分からない。新規投稿の際はTwitter連携されるよう設定してあるのですが。
 ──本当にこの程度しかいえないのです。質問しようにもどこへ訊けばいいのだろう。So-netブログの運営か、Twitterなのか。まァ、前者なんでしょうけれど、まともな回答が返ってくるのか疑問である(※)。“X”へ移行したことに伴う仕様変更であろうが……。
 Twitter騒動を巡る最新の報道は、閲覧制限の実施に関するもののようです。個人的なところを述べると、閲覧制限されてもあまり不自由は感じない。むしろ、いつもと同じような感触だ。数週間前にフォローの見直しを行い、徹底的に・厳密に、その人数をどんどん減らしていまや50台に落ち着かせたことで、不自由を感じることもなく閲覧制限と無縁でいられるのかもしれない。
 むしろわたくしに問題なのは、ブログの更新ツイートが或る日突然できなくなった点だ。6月に更新を再開してすぐだったと記憶する。再開して更新ツイートが一度でも流れたかどうか、記憶に定かではない。何回かはツイートされたような気がするんだけど……。
 ブログの「よくある質問」を参照して設定ページをいじくってみて、事態はまったく改善する気配がない。数日は様子見した。が、何日経ってもこちらのタイムラインにブログの更新ツイートは、流れてこぬ。その状態がさらにまた何日か続いて、──
 もう諦めた。
 日々のアクセス数は、四分の一くらい減った。Twitter頼みだった部分がそのままマイナスに転じた格好だ。正直なところ、それでも日々訪れてくれる読者諸兄はいてくださるので、数字についてはもう気にかけないことにした。
 が、いちばん(というか唯一)頭を悩ませて嗟嘆しているのは、最新記事へのアクセス数が著しく落ちこんだことにある。これには参った。最前の設定ページをいじくって云々はこれの打開が目的でもあったのだが……お察しのようにこちらの問題もまるで解決の兆しがない。
 解決したい問題とは解決しない問題でもある。
 Q;Twitterでの更新通知は、このままずっと行われないのでしょうか?
 A;分からない。わたくしにはなにも分からない。或る日突然前触れなしで、以前のように更新ツイートが流れるようになるといいのだが(※)。◆

※本稿執筆前にブログ運営に質問のメールを流したが、待てど暮らせど返信はなかった。そのため見切り発車で本稿を執筆したのであるが、5日程前にようやく返信があった。
 予想通り、Twitterが“X”と名称変更、各種仕様を変更したのに伴い、So-netブログもTwitter投稿の仕様を変更した由。
 既に告知と実作業は4月に為されていた様であるが、ブログトップページに記載なく、登録者への連絡もなく、よくある質問等にその旨記載まったくなかったのが、返信メールには明らかに日附を遡って作成された仕様変更に伴うTwitter投稿の中止が告知されていた。
 為、今後これまで同様のTwitterでの自動更新通知はできなくなってしまった。残念である。もっとわかりやすく告知していただきたかった。
2023年07月15日 11時48分

2023年10月04日 0時30分;※追記


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第3665日目 〈退院翌日、脳神経外科の本を買う。〉 [日々の思い・独り言]

 病気の再発や病院への逆戻りが怖くて、本音をいえば(夏の間は)外出したくない。が、そうもいうていられないのが現実だ。白血病の薬が入院最終日の朝に底を着いたので、退院の翌日からかかりつけの病院に来た。治療ではなく、処方箋をもらいに来たのである。
 その帰り道に立ち寄った書店で、脳神経外科看護の本を購入したのは、白血病と同様自分が罹っている病気について知りたい、という好奇心、探究心からのこと。ぱらぱら目繰って自分の理解がどうにか追いつき、知りたいことが載っている本は2冊あった。両方とも買えてしまえばなんの問題もないが、今後いろいろと支払も残っている身に専門書を複数冊一緒に買うというのは清水の舞台から飛び降りるよりも慎重を要する。
 為、今回は知りたいことがより多く載っている方を選んだ。入院中に受けていた点滴注射の溶解薬や、入院途中から服み始めた血液をさらさらにする薬が写真付きで紹介されている本である。初日と翌日に行った脳梗塞の判断チェックについても分かる文章で書かれた本でもある。途中、今回は幸いと無縁で済んだ開頭手術や脳血管内治療、ドレーン管理などわたくしよりも重い症状の場合に必要とされる治療各種についてもページが割かれているが、もしこのような手術や治療が必要になっていたら、いったい自分はこれから先どうやって生きて行くことになるのだろう……と暗然とさせられたことである。
 書店の帰り道、カフェに立ち寄った。病室で撮った写真を見ながら本稿を進め、その本にも目を通している。脳神経疾患の症状説明や症状の確認方法など、今回の入院と大いに関係ある章を読んでいると、看護師の方々が異口同音に仰った言葉が否応なく思い出される。曰く、本当に早い段階で判断して救急車を呼んで良かったねぇ、と。少しでも通報が遅れていたら重症化していたかもしれない、とも。
 症状の訪れは突然だった。庭の草むしりや家の周りを掃いて、その直前は過ごしていた。家に上がって会社に提出する書類を書いてしまおうとしたとき、右腕が固定されることなくすぐにだらりと落ちてしまった。はじめは右肩がなにかの拍子に脱臼したのか、と思うて様子見するつもりだった。しかし、脱臼であれば相当の痛みを感じているはずだ。それが、ない。書類に記入する際も、右手でペンは持てても指先に殆ど力が入らない。書かれた文字はかなり弱々しい。いつもの自分の字ではなかった。
 気附くと、だんだん正常な判断力が同時に失われてゆくような気もしてきた。書類を書いたあとは金融機関に出掛けて、お金を下ろしてくるつもりだった。が、本能がそれを取り止めるよう命じている。スマホで病気の診断サイトを複数検索して、そのどれもが脳梗塞(他)の疑いあり、と診断を下すのに身震いした。まさか!
 取り敢えず掛かり付けの病院に電話して症状を訴えた。その時点ではじめて、自分でも言葉の呂律が回っていないのに気がついた。ちゃんと喋ろうとすればする程、言葉はうまく出て来ない。すると、「電話越しでも脳梗塞の可能性を感じます。うちは脳外科がないので受け入れできないが、いますぐ救急車を呼んでくださいっ!!」と、かなり切迫した声で指示された。最早それくらい症状は明瞭なのか。
 暗澹とした気分で次にやったのは、まず会社への連絡である。脳梗塞の疑いあり救急車を呼ぶので、明日は休ませてほしい。電話に出た社員(所長)はかなり疑わしげで、相当投げやりな態度で渋々明日の欠勤に同意した。わたくしは所長の対応もその時の声調もけっして忘れない。
 無意味な怒りを感じつつ、ようやく119番に電話して、たどたどしくも必要事項を伝達した。15分くらいで救急車が到着する由。それまでに身の回りのものをリュックに放りこみ、玄関に坐りこんで救急車の到着を待った。自分の足で動けるのが唯一の幸い事だった。
 そうして到着した救急要員の先導で救急車に乗りこんで、お薬手帳を見せて症状の確認と意識の確認をされた後に搬送先が選ばれて──入院していた病院に担ぎこまれた。
 「第3657日目 〈脳梗塞の疑い有りで入院したわたくし。〉」で書いているため、これ以上の重複は避けよう……って読み直してみたら、これ以上は重複しようがないのね。あちらでは時間を交えて書いたことを、こちらでは時間表記を外しているだけに等しいから。ちなみに前者は入院した夜にスマホのメモアプリに入力、翌日補記した日記から一部転載したことをお断りしておく。
 入院生活12日、前半はとにかく点滴がお友達状態であった。どこへ行くにも点滴スタンドを押して歩き、落滴を調整できる装置が付いたスタンドになるとわずか数ミリの段差に反応してビー、ビー警報音を鳴り響かせる。日中ならともかく夜お手洗いに立ったときに鳴かれると、困った。それを止めて再び作動させる権限を持つ人が限られているので、看護師さんが来てくれるのを待つよりなく、時に真っ暗闇のなかぼんやり立ちすくんでいるわたくしの姿は、事情を知らない人が見たらまさしくホラー、病院の怪談、である。正直なところ、笑い話ではない。まァそのお陰で、段差がある所に差しかかるとスタンドをゆっくり、そっと、両手で持ちあげて、静かに床に下ろす動作が身についた。落滴調整装置が付かない普通の点滴スタンドになっても、自然とその動作になっていたことこそ笑い話というべきであろう。
 スタンドを両手で持ちあげられたことは、右腕の位置をキープできるようになり、右手の握力も戻ってきたことを意味する。これは翌日夜には分かっていたことだけれど(食事で汁物のお椀を引っ繰り返すことなく持ちあげ、口許まで運んで元に戻すことができた)、改めて点滴スタンドというそれなりに重量のある代物を持つことができたのは静かな喜びであった。これが看護師の方々が異口同音にわたくしにいうた、本当に早い段階で判断して救急車を呼んで良かったねぇ、少しでも通報が遅れていたら重症化していたかもしれない、という台詞の背景の一つだろう。
 入院中は4人部屋を最後まで1人で使っていたこともあり、血圧・血中酸素濃度・体温測定その他諸々の用事で部屋に出入りする看護師や回診されている医師、看護補助の方々、アメニティ会社の方々と比較的言葉を交わす機会は多かった。その内容はすべてではないけれど、メモアプリに記録した(先述の日記である)のだが、それらはいずれも実体験に基づいたヒアリング内容である。が、こちらに知識がないために聞き取って記録した内容には錯誤や誤解も相応にあろう。
 それを正す目的あることも含めて、脳神経外科の本を購入した。元々難聴気味だっただけでなく昨年は慢性ながら白血病を発症し、今回図らずも脳梗塞なんて病気まで体験した。癌によって闘病を余儀なくされた母のそばにいたことで、必然的に癌についても無関心ではなくなった。趣味:読書の範疇に医学書を含める人がどれだけいるか分からないけれど、特定の病気を患った過去を持つ人ならば誰しも容易に手を伸ばし得るジャンルでもあるだろう。わたくしが折節大きな書店へ行くたび毎に医学書コーナーに彷徨いこんであちらこちらと手にしているのは、自分が経験した病気について、治療について、医療従事者がどのような勉強をしているのか、単純に「知りたい」という好奇心からなのである。◆

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第3664日目 〈〝アフター・脳梗塞〟から〝ウィズ・脳梗塞〟へ──入院生活最終日の朝。〉 [日々の思い・独り言]

 2023年07月13日(木)06時39分。天候は曇り、いちおう空は明るい。鉛色ではないけれど、すっきりしない空の色だ。雨の降る兆しは認められないが、宵刻の頃に小雨という予報である。
 この天気は今週末まで続く様子。九州北部と中国地方西部にかかっていた線状降水帯はゆっくりと東に移動して、いまは北陸と東北の日本海側地方にかの大雨を降らせているという。太平洋側から日本海側へ一直線に突き抜けるようにして伸びている雨雲もあって、それは静岡から長野、群馬を経て新潟のあたりまで広がっている。こちらは梅雨前線だろうか。
 そうして本稿を書いているいまは──入院生活最終日の朝である。12日間をこの病院で過ごした。あと7時間程で退院となり、住み馴れたこの病室とも永遠にお別れとなる。
 入院翌日の朝、「第3657日目 〈脳梗塞の疑い有りで入院したわたくし。〉」を書いた。これは気持を落ち着かせるためにのみ書かれた一種の気晴らし──執筆療法とでも云うべき代物である。そのとき自分のなかに見出して確信したのは、「書くこと」は過去の出来事を冷静に順番に能う限り精彩に思い出すための手段であり、なにより最良最善の精神安定剤だった。
 これまでも様々な場面に於いて「書くこと」で過去の自分の言動を見直し、反省し分析する手段として用いたことはあった。直近で例をあげれば母の死と己の白血病に関する事柄が挙げられる。今回の入院中に書いた文章幾つかも変わるところはないが、リアルタイムで書かれている点が大きく異なる部分だ。
 白血病は既に一年以上の療養を経ているせいもあって、書いていて心乱すようなことはまるでなかった。むしろ改めて自分が患っている病気がどのような類のもので、発症起因等について調べて納得する点が多くあった。その理解に最も役立ったのは、一年以上にわたる治療生活を通して交わした担当医との会話や診察の都度渡されていた血液分析表である。具体的な数値の変化に関しては、この分析表なくして書くことのできない箇所だ。全3回のうちいちばん実の詰まっているのは、慢性リンパ性白血病についていろいろ調べて書いた第3回目となるのだろうが、医療機関のサイトや医学書、看護書籍を参考にして書いたが、経験が蓄積されていることもあって比較的書きあげるのに時間はかからなかった、と記憶している……。
 母の死にまつわる文章も入院中の文章同様リアルタイムの執筆と云えばその通りだが、ニュアンスはちょっと違うように思う。母の死の場合はゆっくりと現実を受け入れてゆく過程を綴ったものであり、入院中のそれは不安と恐怖と怠惰をどうにか抑えこむための手段という意識が強かったことが、違いと感じる要因かもしれない。そう自分では分析している。
 グリーフケア──〈喪のプロセス〉を取り挙げた本を偶然買っていて、それをたまたま読み出したことで心もそう乱れることなく、ひたすら自分の内面を見つめ、故人への想いを大切にしながら徐々に己を赦し癒やす過程を綴った文章が、2月から4月くらいまで断続的に執筆して、慰めていた思い出がある。これも入院中の文章同様リアルタイムの執筆と云えばその通りだが、ニュアンスはちょっと違うように思う。母の死の場合はゆっくりと現実を受け入れてゆく過程を綴ったものであり、入院中のそれは不安と恐怖と怠惰をどうにか抑えこむための手段という意識が強かったことが、違いと感じる要因かもしれない。そう自分では分析している。
 わたくしの場合検査とリハビリが午前中に集中して午後は消灯時間まで手持ち無沙汰だったことも手伝って、大抵は本を読んで過ごし、時にMacBookAirを立ちあげて、第3657日目以後の文章を綴った。
 入院期間の後半は、症状も軽い状態で済んでおり、介助なしで日常生活を営めるレヴェルであることから早期の退院を予告されていたこともあり、不安は付きまとっていたと雖も恐怖は薄らぎ、怠惰を克服するためにひたすら読書に耽ったわけだが、やはり最初の数日は不安と恐怖の方がずっと優っており、怠惰なんて感じもしなかったというのが正直なところである。それを抑えこむために、わたくしはひたすら文章を綴った。それも想像力を羽ばたかせるような無責任かつ現実逃避のそれではなく、いま自分が置かれた状況を観察する、思索(んん〜っ?)も交えた一種のレポートを。
 結果としてそれが良かった……功を奏したのだろう、わたくしの心からは徐々に、名前だけ知って実態は未知の病気への恐れはなくなり、それを受け容れて今後いかに共生してゆくか、を考えることに気持を切り換えられたのだから。〝アフター・脳梗塞〟ではなく〝ウィズ・脳梗塞〟、というわけだ。どっかで聞いたような文言だけれど、気にすんな。
 それでも今回緊急搬送されて斯く病名を診断されたことで、退院したあとまでも不安と恐怖がわたくしの心のなかから調伏される日は、けっして来ないだろう。ミスタイピングが目立ち、言葉がすぐに出て来ないときがある。出て来ない言葉は大概が名詞だ。幸いなことに本を読んでいても意味を汲み取ることに支障はなく(たぶん)、その出て来ない名詞も少し経てば思い出されるから気に病むことはないのかもしれない。リハビリを担当してくださった作業療法士の男性が仰ったように、病気に罹ったと云うことで自分の意識にバイアスを掛けてしまっているだけということもあり得よう。ただ述べたような症状が現実に存在する以上、いまから社会復帰への道程は思うた以上に困難で、これまでと同じ日常生活を営むのは簡単ではあるまい、と覚悟している。
 あらゆる苦難を克服して歓喜に至る、とは、高気圧酸素治療の最中ずっとカプセルで聴いていたベートーヴェンの第九交響曲の理念だ。これは今後の自分が生涯をかけて肝に銘じて忘れず過ごし、窮極の目標として心のなかに描き続ける己が理念となるのだろう。道は険しく、目的地は遠い。が、歩き続けるのを諦めなければ、〝ウィズ・脳梗塞〟の人生もいつか楽しいものにできるに違いない。◆


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第3663日目 〈無知ゆえに抛り出した本をふたたび読み始める。〉 [日々の思い・独り言]

 経済学部を出ていれば、愉しんで読めたのかもしれない。専門用語とテクニカルタームが次々襲いかかってきたこの章を途中で読み挿して、巻を閉じてリュックのなかへ仕舞いこんだのは、己の無知あるいは一知半解が原因だろう……。
 アジア・パシフィック・イニシアティブ『検証 安倍政権』(文春新書 2022/01)は題名通り、2020年9月を以て総辞職した第2次安倍晋三政権の政策や外交等を有識者の集団が、キーパーソンへの個別インタビューも時に行って書かれた論考集である。
 読書を再開したばかりゆえ流石に本書の感想など書ける者ではないが(でも、時々そういう御仁、おられますな。プロであれアマであれ)、その第1章は「アベノミクス 首相に支配された財務省と日本銀行」という。それまで新聞やニュース、書籍で触れてきた安倍政権の経済政策、つまりアベノミクスについての内容なのでそれ自体に抵抗はないのだが、いま一つ読書にのめり込めなかったのは冒頭で書いたように、自分に経済学の基礎的学力が無いせいだ。
 マロニエ通りの学校でも三田の丘の上でも一般教養として1年しか経済学は受講しなかった。それもいま振り返ってみるとあまりよい学生ではなかった、という自覚だけがある。学生時代の講義ノートや三田でのテキストを引っ張り出してみても、頭のなかにはクエスチョン・マークが乱舞するばかりである。
 このときに──基礎体力を付けるべきときに知的鍛錬を怠っていなかったら、たとい当時はまだ傍流或いは異端の説だったり、講師たちもまだその説・概念の存在を明確には知っていないことであったとしても、21世紀のこんにちの経済を語る上で常識となっている経済用語やテクニカルタームについて「ああ、こういうことなのかな」「あの概念(学説)がベースになっているのかな」などと想像を巡らすことができたのかもしれない。
 恥ずかしながら投資やらなにやらをやっていても、接する経済用語、概念は限られたものだ。為、「リフレ政策」とかいわれてもなんのことか、と小首を傾げるのが、本書を読み始めた頃の(そうしていまこの瞬間の)わたくしである。まァ入院中のことゆえ参考文献は当然手許になく、ネットで意味を調べようとしても却って迷宮に入りこむような思いがしてね。うん、頭がこんがらがってきて抛り出した、というのが実際だ。
 でもこれまで読んできたアベノミクスの本のなかで、こうも内容が凝縮されたレポートがあったかな。凝縮されたレポート、と表現すると呵々大笑する人も出てこようけれど、そう考えてしまう程わたくしがこれまで読んだアベノミクスを主題にした本というのは、経済学の基礎的学力を欠いていても読めたような代物だったのであろうか。けっして他を貶めるわけではない。
 ナポレオン・ヒルを読み終えるのが惜しくて、途中で投げ出した『検証 安倍政権』を続きから読み始めた。第2章以後は選挙・世論対策、外交政策、歴史問題、憲法改正など、馴染みのある話題が続く。ここから先は一瀉千里となろうが、最初の章で躓いたことが学び直しの好い機会となった。この検証報告(第一章 アベノミクス 首相に支配された財務省と日本銀行)がわたくしの弱点を白日の下に曝し、この分野についてもう一度学び直す気持ちにさせたことをお伝えしたかったのである。退院までに半分は読み進んでおきたいなぁ。◆

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