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第1052日目 〈イザヤ書第66章2/2:〈栄光の顕現〉2/2with新しい明日の自分を探しに行こう。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第66章2/2です。

 イザ66:18-24〈栄光の顕現〉2/2
 主は、主を畏れる人の業と謀のゆえに臨む。すべての国、すべての言葉の民のために、主は臨む。かれらは集められて、その場所で主の栄光が顕現する様を見る。
 主はかれらの間に一つの“しるし”を置く。かれらのなかから生き残った者が諸国へ派遣される。タルシシュやプル(※1)、ルド(※2)といった大海(地中海)の沿岸諸国、小アジアの諸国のみならず、遠い海の彼方の、主の御名を聞いたこともないような島々の民にまで、派遣されたかれらは主の栄光を伝える。
 彼方此方へ派遣された者らは、主の栄光を知って畏れる心を持つようになった異邦人を連れて、聖なる山エルサレムにやって来る(帰ってくる)。諸国へ派遣された者らが連れてきた、新しく主を畏れるようになったかれらは、イスラエルが清い献げ物をささげるのと同じである。主は、異邦人のなかからも祭司と、レビ人(に相当する役を担う者)を任命する。

 「わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くようにと/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。/新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。/外に出る人々は、わたしの背いた者らの死体を見る。/蛆は絶えず、かれらを焼く火は消えることがない。/すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。」(イザ66:22-24)

 ※1「プル」→北アフリカはリビア地方を指す。
 ※2「ルド」→小アジアのルデヤ地方を指すとされる。パウロ宣教によりキリスト教者へ改宗(ex;新約・使16:14)。

 「イザヤ書」の終わりです。そうして最後のメシヤ預言です。最後まで本書が主の信仰に立ち帰り、それを信じ、その果てにあるメシヤの到来を告げて、希望を失わなかった一書であることが確認できましょう。
 〈栄光の顕現〉2/2の前半は信仰の伝播(宣教)を、後半は聖地エルサレムへの巡礼を預言している。そんな時代が到来するとは、何人(なんぴと)も夢想だにしなかった時代の預言です。でも、(第三)イザヤは主の言葉を信じて、それを伝えた。それがやがて━━その後数世紀を経て━━実現した。即ち、イエスによる布教と使徒たちによる宣教活動です。一つのしるし、とは、勿論、イエスを指します。
 異邦人のなかからも、イスラエルの民同様の役を担う者を主は任命する、というところに、胸が圧し潰されるような喜びの感情を抱いたことをご報告して、二ヶ月半に渡った「イザヤ書」を終わりたいと思います。では、次の「エレミヤ書」でまたお会いしましょう。



 新しい明日の自分を探しに行こう。傷つくこともあるだろう。が、闇はかならず光に切り裂かれる。自分はかならずあたたかな陽光の下で、生を喜ぶことができる。だって、そう信じているからこそ、僕らは夜を過ごし、朝を迎えるのだもの。
 ♪笑顔抱きしめ 悲しみすべて
  街の中から消してしまえ
  晴れわたる空 昇ってゆこうよ
  世界中がしあわせになれ! ~SMAP「オリジナル スマイル」より◆

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第1051日目 〈イザヤ書第66章1/2:〈栄光の顕現〉1/2withいまいったい何冊並行して読んでいる?〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第66章1/2です。

 イザ66:1-17〈栄光の顕現〉1/2
 主の御手は僕たちと共にある。主の怒りは敵に臨む。
 わたしたちの主は苦しむ人、貧しい人、霊の砕かれた人、御言葉におののく人を顧みる。対して、主は偽りの献げ物をささげ、好かぬ人を打ち、忌むべき偶像を讃える人のことは顧みない。主はかれらを思うがままにさせ、放置する。かれらが危惧することを、主は実現させる━━恥を受けたかれらは、主により都で裁かれ、報いを受けて声をあげることだろう。
 母の胎から生まれたイスラエルの民は、エルサレムといっしょに喜び、歌い、躍り、祈れ。これについて、主は斯くいう、━━
 「見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。/あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。/母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。/エルサレムであなたたちは慰めを受ける。/これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。/主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。」(イザ66:12-14)
 主は火と共に来、主の戦車はつむじ風のように来る。主は火を以て裁きに臨み、剣を振るってすべての悪なる者を討つ。「園に入るために身を清め、自分を聖別し/その中にある一つの者に付き従い/豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者は/ことごとく絶たれる、と主は言われる。」(イザ66:17)

 明快なことこの上ない章であります。主の御手によって民は慰みを受け、すくすくと育ってゆく。が、反逆する者にはこの限りではない。……斯くして民の上に主の栄光は顕現し、注がれ、祝福となる。特に引用もした、「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める」や「主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨む」などという聖句は、すこぶる良いと思うのであります。これらを含めて、本章を、幸福な一章とわたくしは読みました。
 なお、「イザヤ書」は本章を以て終わりとなります。しかしながら、このまま終わらせるのがなんとなく惜しくって、この最終章は二日に分けてお届けいたします。いちど仕上がったノートを図書館で直していたら、なんとなくこんな流れになって、内容的にも分量的にもちょうどよさそうだったので、こんな処置を取ることにしました。御寛恕願います。



 ちょっと「エレミヤ書」の予習をしておこうと思って、図書館で木田献一著『エレミヤ書を読む』(筑摩書房)を借りてきました。明日からゆるゆる読み進めるつもり。「イザヤ書」の轍は踏むまい、と堅く誓っているのですが、どうなることやら……というところです。
 実は旧約聖書の内容を、歴史に絡めてわかりやすく説いた本はなかなか少ないのですが、それだけに樋口進著『よくわかる旧約聖書の歴史』(日本基督教団出版局)はその書名を偽ることのない一冊で、以前から某書店の棚にあるのを、買おうかどうしようか、と迷っていたところ、図書館の歴史書のコーナーにあるのを偶然見附け、勇んで借りてきた一冊であります。他に、大島末男著『カール・バルト』(清水書院)を借りました。
 しかし、わたくしはいま何冊の本を並行して読んでいるのだろう。あまり考えたくないが、それ程割くことのできない貴重な時間をやり繰りして、一冊ずつ片付けてゆく。倉田卓次氏いうところの<並行的読書法>ですね。氏の著作(『裁判官の書斎』シリーズ)も図書館で借りて、全冊ゆっくりと、一つ一つの文章を味わいながらゆっくり咀嚼しつつ、終日読み耽りたいのですが、そんな希望がかなうのはいつのことだろう。まこと、労働しながらの読書は意思の力が求められます。
 来月、亡き婚約者の墓参りに出掛けます。◆

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第1050日目 〈イザヤ書第65章:〈救いの約束〉with竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』を読み始めました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第65章です。

 イザ65:1-25〈救いの約束〉
 わたしに、と主がいう。わたしに反逆する者どもにもわたしは応え、手を差し伸べてきた。が、その罪ゆえにわたしは黙すことなく、かならず連衆へ怒りを降す。わたしはお前たちを剣に渡す。その剣の一閃にお前たちは倒れ、その剣の一突きにお前たちは屠られる。わたしの目に悪と映ることを行い、わたしの喜ばぬことを選んだからだ。
 お前たちの名は、わが嗣業の民━━わが名を呼び、わたしを心にも留め、わたしの道を歩く民の誓いの言葉となる。結束の言葉となる。一方で、この民は真実唯一の神によって祝福され、誓いによって<初めからの苦しみ>は忘れられる。わたしの目から、苦しみが隠されるからだ。わたしは斯くいう、━━
 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。/初めからのことを思い起こす者はない。/それはだれの心にも上ることはない。」(イザ65:17)
 シオン/エルサレムはわが喜び、イスラエルの民はわが楽しみ。悲しみの声が聞こえてきたりはしない。かれらはノアやアブラハム、イサクの如く長命となり、みまかって後は先祖の列に埋葬される。長寿を満たさぬ者はなく、百歳にならぬうちは若者と呼ばれる。
 かれらが植えて育てた作物や果樹が、他国人の手に、口に、渡ることはない。かれらが建てた家に他国人が住まうこともない。
 「わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。/彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。/彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。/彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。」(イザ65:22-24)

 ノアは950歳で(創9:29)、アブラハム/イスラエルは175歳で(創25:7)、イサクは180歳で(創35:28)、それぞれ没しました。
 本章をざわめくスターバックスの片隅に座を占めて黙して読んで感じたのは、これが、主がイスラエルに与える約束の言葉としては、最上の部類に入るものの一つではあるまいか、ということです。わたくしはここに、一種の清々しさを覚えます。
 一心に読んで感ずるところ多い章と、わたくしは考えます。


 竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』(電撃文庫)既刊3冊を購入した、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』(岩波現代文庫)といっしょに。新歓合宿に出掛けるあたりまでしか読めていませんが、既にして作者の力量をとくと拝見させていただいた、と感じている。
 言葉は今風でありながら、文章は毅然としていて、柔軟性がある。これは文体で読ませる数少ないライト・ノベルであろう。それに、描写が丁寧である。服の描写はさることながら、じっくりと読み進めていると、その服の皺の流れ方やまで目に浮かぶ。
 同レーベルから出ている『乃木坂春香の秘密』の如く、グダグダ感を演出したままいたずらに巻を重ねぬことを、切に祈ります。◆

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第1049日目 〈イザヤ書第64章:〈執り成しと嘆き〉2/2withいまが正念場。気を引き締めてゆこう。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第64章です。

 イザ64:1-11〈執り成しと嘆き〉2/2
 主の御名の前に諸国は震え、主の御業の前に山々は揺れ動く。われらはあなたを待つ存在(もの)。あなたは、あなたの道をはずれることなくまっすぐ歩み、あなたの目に正しいと映ることを行う人間を、心に留めてくださる。
 が、われらはあなたに背き、罪を犯した。われらはみな、汚れた者となった。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、その信仰は心のなかから消えた。ゆえにあなたは顔を隠し、力を奪った。斯くしてわれらは強い国の捕囚となった。
 しかし、主よ、あなたはわれらの父である方。われらはみな、あなたの御手の業なのです。われらはあなたの御業によって、とこしえに救われるのです。
 「どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように。」(イザ64:8)
 ……われらが犯した罪のために、自ら招いた災厄のために、主の聖なる(ユダの)町々は荒れ野となり、シオン/エルサレムは荒廃した。かつてわれらの先祖が祈りをささげ、あなたを讃美した場所/神殿は侵略者によって火を放たれ、灰燼に帰した。「それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え/黙して、わたしたちを苦しめられるのですか。」(イザ64:11)

 われらはじゅうぶんに苦しみ、じゅうぶんに悔い改めました。だから、(そろそろ)わたくしたちを救ってください、というているのです。煎じ詰めれば、そういうことであります。
 ユダとシオンの荒廃した景色、廃墟となった神殿の光景を心に思い描けば、自分たちの罪の大きさも痛感できる。言い換えればそれは捕囚の地にあって民が過去を反省し、未来に於いては健全であることを堅く誓ったことを意味しよう。それを主に陳情し、訴えるのが、本章のキモとなる部分です。これは(歴史書でも「詩編」でも、この「イザヤ書」でも)幾度も現れては、そのたびにわれらの胸奥へ響いた事柄でありました。それだけ<帰還>と<再建>が当時のユダにとって、切実な願い事であった、と、そう申しあげてよいと思います。
 章立てに従って二日に分けて読んだ〈執り成しと嘆き〉ですが、できれば、第63章と第64章はいっしょに、同じ日に、一ト息に続けて、何度も、読んでほしい、と、さんさんかは望む次第であります。



 丁寧に、正確に、迅速に、それでいて数を稼ぐこと━━それがわたくしの目標である。むろん、仕事の話。
 周囲は安定した数字を出していること専らなのに、こちらはムラのある性格が祟って、そのときの感情や体調で結果が著しく変化する。もはや山師としか言い様がない、とわれながら呆れている。いかんな、これは。ようやく2ヶ月目に入ったところで、いまが正念場。気を引き締めて、目の前のことを一つずつ確実に、片附けてゆこう。
 関係ないが、竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』シリーズ(電撃文庫)は面白そうですね。◆

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第1048日目 〈イザヤ書第63章:〈主の報復〉&〈執り成しと憤り〉1/2withサラバカン&花袋『温泉めぐり』を読むにあたって、〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第63章です。

 イザ63:1-6〈主の報復〉
 民がいう、エドムからのぼってくる姿がある、ボツラ(ペトラ)から来て赤い衣をひるがえす影がある、と。あれは誰ぞ。
 影が答える、自分は勝利を告げて大いなる救いをもたらす存在(もの)である、と。わたしがまとうこの衣が赤いのは、諸国民が一人としてわたしに従わなかったせいだ。だから、わたしは怒りを以てかれらを踏みにじったのだ。わたしの衣が赤いのは、かれらの流した血で染まったからである。━━そう主は説明した。
 「わたしが心に定めた報復の日/わたしの贖いの年が来たので/わたしは見回したが、助ける者はなく/驚くほど、支える者はいなかった。/わたしの救いはわたしの腕により/わたしを支えたのはわたしの憤りだ。」(イザ63:4-5)

 イザ63:7-19〈執り成しと憤り〉1/2
 民がいう、わたしは主を心に留める、と。主の慈しみと主の栄光を、主がイスラエルへ与えた多くの恵みと憐れみ、豊かなる慈しみを、わたしは心に留める。
 主は嗣業の民の救い主であった。愛と憐れみを以て贖ったが、民は主に背いて、その聖なる霊を苦しめた。ゆえに主は自分の民へ戦いを挑んだのである。かれらは斯くいう、あなたはわれらの父である、あなたはわれらの贖い主である、と。それが永遠のむかしからあなたの御名である。
 「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。/立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。
 あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。/間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。/あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。/どうか、天を裂いて降ってください。/御前に山々が揺れ動くように。」(イザ63:17-19)

 捕囚の地で迫害されていた民が、心底から悔い改めている祈りであります。前半の身がすくむような厳しさから一転して訪れる、後半の敬虔な祈りの調子のコントラストが、また良いと思います。わたくしは呼んでいて詩編第69篇をつらつら思い浮かべました。この祈りをささげるときの民が置かれた状況を思い合わせると、切々とした哀しみの情が込みあげてきます。



 ようやく待ちに待った日が訪れた。さらば菅。
 宰相としての評価は後世を待つまでもない、無能にして醜悪、貴君程リーダーとなるにふさわしくない人物は、どれだけ考えても名を挙げることさえ難しい。かのブッシュ前大統領さえあなた程非道くはなかろう(個人的にそう思う、というだけの話である)。
 われらが貴君に見習うべきはただ一つ。往生際の悪さを自画自賛で塗りつぶしてしまえる、呆れた厚顔無恥ッぷりだけだ。さらば菅、もう二度とあなたの顔を見たくないし、あなたの声も発言も聞きたくない。言い過ぎであろうか? が、本音である。
 さらば、永久にさらば。

 ところで、相変わらず花袋の『温泉めぐり』を読んでいます。そこで思うたのは、コンパクトな日本地図帳をいっしょに携行できればよかろうな、ということ。むろん、温泉の表記があるものでなくてはならぬ。
 東日本の温泉なら漠然と、あのあたりかな、と推測できるのですが、西日本の方はどうも弱くていけません。だから、文庫本よりちょっと大きいぐらいの日本地図帳をいっしょに持ち歩いて、持ち出せる状況、ページを開く時間ができた際に読書していたらば、これをも開いて確認しながら読むと、いっそう楽しめると思う。そもそも、地誌や案内書ってそういう性質のものでしょう。
 そうなってくると、文庫に地図がないのはすこぶる残念であります。が、むろん帰宅したあとに地図帳を開いて、場所の再確認をする楽しみもありましょうから、これ以上のことは、さんさんかは申し述べないことに致します。◆

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第1047日目 〈イザヤ書第62章:〈シオンの救い〉with『物語 エルサレムの歴史』という本を買いました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第62章です。

 イザ62:1-12〈シオンの救い〉
 シオンは主の御手のなかで輝かしい存在となる。諸国民は主の正しさを見、諸国の王たちは主の栄光を仰ぐ。シオンは主の口が定めた新しい名を以て呼ばれるようになる。主はあなた、即ちシオンを望み、花嫁とする。
 エルサレムの城壁の上に置かれた見張りはけっして黙してはならない。また、エルサレムの再建が終わり、かの都を全地の栄誉としてくださる日まで、主の沈黙を招いてもならない。主は自分の名誉にかけて、もう二度と、敵の手にエルサレムを渡し、異邦人を住まわせない、と誓ってくれた。穀物を育てて刈り入れた者はそれを食べて主を讃え、ぶどうを育てた者はそれでぶどう酒を造り、聖所の庭でそれを飲め。
 「見よ、主は地の果てにまで布告される。/娘シオンに言え。/見よ、あなたの救い主が進んで来る。/見よ、主のかち得られた者は御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。/彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。」(イザ62:11-12)

 新しいエルサレムの誕生を謳った章ですが、わたくしは当初、それが「ヨハネの黙示録」に記される<新しいエルサレム>(黙21:10)と思うていました。しかし、それはどうやら誤りであるかもしれない、とノート作成のために改めて本文を読み返しているうちに気が付いた。これはむしろ、ペルシアから荒廃した王都へ帰還したユダの民が、再びエルサレムを再建し、第二神殿を築くことを予告しているのではないか、と思うたのです。教会や聖書学者たちはどう教えているのでしょうか。ただわたくしとしては自分が最初に思うたことを捨て去るのは難しく、漠然とですが、両方の考えが併存するのもアリかもしれない、と考えておるところです。
 「第三イザヤ書」に入って一週間になりますが、殊ここに至って「第三」は「第一」、「第二」以上に慈愛(恵み)と救いの色合いが少しく濃くなりまさり、また、その情が細やかになってきているように思えます。気のせいでしょうか?



 午後から宵にかけての豪雨は凄まじかったですね。街の様子を観察するに、お葬式や法事の集中する日だったようで、喪服や黒のスーツの方々が目立つ日でした。あいにくのお天気で、というてよいものか迷います。さんさんかの母も田舎へ法事で出掛けました。
 わたくし? 送迎バス&折りたたみ傘の用意でそれ程非道くは濡れずに済みましたが、いちばん雨の勢いが激しかった午後四時頃に帰宅した同僚はずいぶんと大変な目にあったみたい。なにはともあれ、これをお読みの方々で今日(昨日ですか)の雨にあたって風邪を引いた、なんて方が出ないことを祈っております。
 帰り道、新幹線の駅で途中下車したさんさんかは本屋へ寄りました。かねてから手許に置いておきたいな、と考えていたイスラエル、乃至はエルサレムの歴史書もしくは地誌を探すため。けっきょく笈川博一著『物語 エルサレムの歴史』(中公新書)を━━有川浩『別冊 図書館戦争 2』(角川文庫)といっしょに━━購入し、帰宅してからつい先程までぱらぱらと目を通していたところです。これは読み応えがあり、かつ、本ブログ執筆に際して支えとなるところ大である。久々に本に関して、良い買い物をした、と思えたことであります。◆

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第1046日目 〈イザヤ書第61章:〈貧しい者への福音〉withまっとうな生活。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第61章です。

 イザ61:1-11〈貧しい者への福音〉
 主がわたくし(第三イザヤ)に油を注いだのは、嘆く人、貧しい人へ良い知らせを告げようと遣わすためであった。
 主が恵みを与える年、神が報復をする日を告げて、シオンのゆえに嘆いている人々は、イスラエルのために家畜の世話をし、農作業に従事する異邦の人々から、<正義の樫の木>と呼ばれ、<主の祭司>と呼ばれるようになる。かれらは廃墟を建て直し、興し、代々の荒廃の跡を新しくする。
 主はまことを以てシオンのゆえに嘆く人々の労苦に報い、かれらと永久の契約を結ぶ。かれらは諸国に、子孫の代まであまねく知られ、かれらを見る者はすべて、かれらが主の祝福を受けた一族である、と認めるだろう。
 「大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくれる。」(イザ61:11)

 来たるべき福音を語ってこの上ない喜びにあふれた章です。ただ、小見出しの〈貧しい者〉という語は、ちょっとニュアンスが違うように思う。それは<嘆く人>を意味する、とわたくしは考えます。仮に〈貧しい人〉とするならもう少し言葉を補うべきで、現行のままでは要らぬ誤解を招きかねないのではないか。それは、岩波版の註釈が指摘するように「宗教的・倫理的に貧しい人」を指すのである。
 それはさておき。本章に於いて“来たるべき福音”は永遠に続くことが示唆されます。この「第三イザヤ」自体が、未来のエルサレムを語って主の栄光を讃美する性格を持つ部分である以上、それはじつに首肯できる内容、メッセージといえるのではないでしょうか。
 その福音が訪れる日、諸国の民、異邦の民が主の民イスラエルを仰ぐ。有為転変を味わったイスラエル(シオンのゆえに嘆く人々)が受ける、永遠の喜びの具現(イザ61:7「あなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。」)がここでは示されます。
 身も心も引き締まるような、きりっ、とした章である、とわたくしは読みました。



 ブラームスの弦楽六重奏曲を聴きながら、お昼寝をむさぼっていたさんさんかです。
 今日は病院で順番待ちをしている間を除いて、本を読みませんでした。なんと奇妙な一日! 昨日日附が変わる頃に帰宅したせいで起床時間も遅くなったせいか、終日うつらうつらしていて頭も重く、怠さばかりを感じる……ぬるま湯に全身を浸して何時間もいるような感じ、とでもいえばいいのかな。
 本を手に取るときはあった。が、すぐに欠伸が出て目蓋が塞がり気味で、じわじわと眠気が襲ってくる。たいていは退けることができたが、負けた結果が前述の昼寝であったわけです。
 花袋の『温泉めぐり』の読了は予定よりずれ込みそうだ。聖書のノートもやっとの事で仕上げられた。キングの短編集は新しいのが既にカバーもつけて待機中(『いかしたバンドのいる街で』文春文庫)だが、開かれることはなかった。机に向かっても窓から外をぼんやりと眺めるばかり、おまけにその外は天気がぐずつき気味で心身の怠さに拍車をかけてくれそうな様子だ。
 こんな一日があってもいい、と以前なら嘆息するところだが、いまはもう“以前”ではない。やはりふだんと同じようにして(というのは、朝早くに起きてきちんと三食を摂り、日附けが変わった頃に床へ就く、という生活周期である)休みも過ごさないと、アカンのかな。ここまで生活周期がまっとうな生活というのは、よくよく考えてみたら、不動産会社に勤務していた時分以来ではなかろうか。
 これがまっとうな生活である、とわかっていても、心の底からその“まともさ”を実感し、体がそれに合わせて否応なく作り替えられて、あんがいそのパターンが清々しく、健康であることを喜ばしく思っていたなんて、こんな風に生活リズムが崩れてみて初めてわかることなのかもしれないな、などと思う。
 ああ、お天道様ってありがたいね!◆

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第1045日目 〈イザヤ書第60章:〈栄光と救いの到来〉with汗臭くて疲れた体を叱咤して、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第60章です。

 イザ60:1-22〈栄光と救いの到来〉
 主はいう。
 いま、全地は闇に閉ざされ、覆い尽くされている。が、わたしの民であるあなたの上に光は注ぐ。主の栄光があなたの上に現れる。みながそこへ集い、あなたは喜びに輝く。
あなたを苦しめ、虐げた者は、シオンの名を、エルサレムの名を呼び、足許へひれ伏すことになる。主はあなたをとこしえの誇りとし、代々の楽しみとする。
 あなたは知るだろう、━━
 「主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖う者/ヤコブの力ある者であることを。」(イザ60:16)
 そうして、「あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。/主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる」(イザ60:20)ことも。
 あなたたちはみな、主に従う人となり、とこしえに大地を継いで若木を育ててゆくことだろう、わたしの手の業として。

 「わたしがあなたに与える命令は平和/あなたを支配するものは恵みの業。/あなたの地は再び不法を耳にすることなく/破壊と崩壊は領土のうちから絶える。」(イザ60:17-18)

 救いを妨げていた存在が再び主の信仰へ立ち帰ったとき、本章で主が述べる栄光と救いが民の上に降り注ぐ。いろいろと修飾されていますが、核になる部分を取り出せばだいたい以上のようなものになろうか、と思います。いちど訪れた栄光は再び陰ることがなく、永久に民の手によって、主の嗣業の御業として次の世代へ、その次の世代へと順繰りに、バトンが渡されて継承されてゆくのであります。



 本章では少し大それたことをやってみました。ずいぶんと久しぶりな手段なのですが、たぶん「レビ記」あたりでやったきりでないか。即ち、原稿の直接入力であります。
 これまでずっとノートに原稿を認めた上でPCを立ちあげ、ワープロ・ソフトへ打ちこんで修正を加えていたのですが、久しぶりにやってみて、実感したことが2つある。緊張感があって流れが途切れることがない、ということと、原稿をスリム化できる、という2点。後者についていえば、ノートに書いているとつい力がこもってしまうのか、若干肥大化してしまうのだ。まるでキングの小説のように、アーヴィングの小説のように……。
 書かねばいられない、書きこまずにはいられない。言葉を費やさないと気が済まない。ここまで来るともはや病気であります。でも、贅肉を削ぎ落としてガリガリの骨しか残らないのであれば、肉を過剰なまでに付け加えたくなるのも道理でありましょう。言い訳めきますが、どうも申し訳ございません。これしか取り柄がないので……。
 それはさておき。
 おいらはいままでさんざんバカなことをしてきた。嘘もついた。裏切り、裏切られてきた。が、それも今日で(昨日ですか)お終い。気持ちの整理がついた。いまは悪夢を忘れて、この道の先に光が射していて永久に失われることがない、と信じて、一歩一歩汗臭くて疲れた体を叱咤して、前に進もう。GO AHEAD.◆

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第1044日目 〈イザヤ書第59章:〈救いを妨げるもの〉with心持ちの雑然とした日;Come on up for the rising.〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第59章です。

 イザ59:1-21〈救いを妨げるもの〉
 主による救いを妨げているのは、共同体のなかにいる、主の目に悪と映ることを企み、行う人々のゆえだ。かれらは偽りと災いを産み、その手には不法の業があり、その足は悪へとひた走る。かれらのゆえに主による救いはわたしたちを遠く離れる。背きの罪はわたしたちと共にあり、そうして重い。
 「彼ら(主の目に悪と映ることを行う者たち)の計画は災いの計画。/破壊と崩壊がその道にある。/彼らは平和の道を知らず/その歩む道には裁きがない。/彼らは自分の道を曲げ/その道を歩む者はだれも平和を知らない。/それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ/恵みの業はわたしたちに追いつかない。/わたしたちは先を望んだが、暗黒の中を歩いている。」(イザ59:7-9)
 「まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。」(イザ59:15)
 主は、主の目に正しいと映ることが、正義が、そこで行われていないことを知って、驚いた。主は恵みの御業と報復をその身にまとって、諸国に臨み、背く者、逆らう者を討つ。やがて諸国は主の御名と主の栄光を畏れるようになる。
 主は贖う者としてシオンに来、ヤコブのなかにいる罪を悔いる者の許へ来る。悔い改めた者の口に置かれた主の言葉は、子々孫々に至るまで、久遠に離れることがない。主はいう、これがわたしの契約である、と。

 救いを妨げる原因は共同体のなかにこそあり、それが改められて主の御業が顕現する。そのときに主の民の口に置かれた主の言葉は永遠であり、これこそが未来へ継承されてゆく契約である。
 ━━どうです、この明快さ。曇りも影もない言葉、塵芥にまみれることがない言葉とは、こういうものを指していうのです。さんさんかは今日のブログの原稿を書いていて、いつもと違った心の穏やかなることを切々と感じ、筆を擱いたあともしばらく法悦としかいまの自分には表現しようのない感覚に耽っていたことを告白しておきます。
 読者諸兄も是非本文へあたって一つ一つの言葉を噛みしめ、吐露される思いを汲み取っていただくことを願います。



 今日は心持ちの雑然とした日であった。鬱ぎ虫が久々に自分のなかで大きな顔をして居坐り、わが感情を支配せんと手ぐすね引いていたのがわかっているだけに始末に負えず、これと折り合いをつけるのに必死で周囲の様子にいま一つ神経が行き届かなかったのである。ダメですな、これでは。何十年社会人やっているんだか、と自嘲気味にもなろうというものだ。駄目押しに、帰宅途中で昔の同僚に出喰わすし、まったく以て最低である……。
 が、こんな感情はこの瞬間に封印して捨て去ってしまおう。明日は明日の風が吹く。今日の患いを明日に持ち越すなかれ、だ。明日は復活しますよ。ネガティヴな発言もこれで言い納めだ。Come on up for the rising.◆

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第1043日目 〈イザヤ書第58章:〈神に従う道〉with田山花袋『温泉めぐり』を明日から読もう。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第58章です。

 イザ58:1-14〈神に従う道〉
 神に従う道とは主の選ぶ正しい断食によって示される。あなたたちが<断食>と呼ぶ行為は本道から著しく逸れたもので、それがためにあなたたちの声が天で聞かれることはない。
 断食とは苦行ではない。主の選ぶ正しい断食とは、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること」(イザ58:6)であり、さらには、「飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」(イザ58:7)である。
 そうすれば、あなたたちの光は曙光のように射し初めて闇を裂き、あなたたちが抱く傷はたちどころに癒される。あなたたちが訴え、求めれば、主はそれに応える。主は常にあなたたちを導き、主の栄光があなたたちを守る。主により、あなたたちは潤された園、水の涸れることなき泉となり、焼けつく地で喉の渇きを癒し、肉体へ力を与えてくれる。
 安息日を守り、主の聖日を尊び、その日はしたいことをするのを慎むならば、あなたたちは主を喜びとするだろう。そのとき主は、あなたたちに父祖ヤコブの嗣業を享受させ、地の聖なる高台を支配させる、と宣言する。

 「あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。」(イザ58:10)

 <断食>とは特定の日、特定の期間は食事をするのを控えることですが、なぜそんなことをするのか、といえば、ここでいう<断食>が罪を贖うための行為であるためです。罪を自覚し、主に祈り、悔い改める行為が断食の本道であり、その名の下に苦行することが目的ではない、というのを本章ではいうているわけです。
 もっとも、断食という行為そのものと結びつかぬ暮らしを送っているわれらにしてみれば、正直なところ、理解がわずかながら及ばぬ部分を孕んだ章でもあるのですが、それは致し方ないところかもしれません。それがためか、今回が初めてではないけれど一日一章の日課を破って読むこと二日を費やしてみても中途半端な、漠然とした理解しかできなかったことを、正直に告白しておきます。むろん、だからというて、決してノートを疎かにしなかったことだけは小さな声でつぶやいておきたい、と思います。
 昨日のブログに続いて安息日を守ることが主の口からいわれていますが、本章では他に、「聖日」という言葉が出て来ます。両者は等しいと考えて差し支えありませんが(ex;出20:8「安息日を心に留め、これを聖別せよ」)、聖なる会合の行われる日を総称して「聖日」と呼んでもいた由。「ネヘミヤ記」では両者が別物として語られていました(ex;ネヘ10:32)。



 山村修『増補 遅読のすすめ』並びにS.キング『ドランのキャデラック』読了。漫然と明日から読む本はなににしようかな、と書架を探っていたら、田山花袋『温泉めぐり』(岩波文庫)に目が留まり、今朝CSで観た角館と夏瀬温泉の情景を思い出し、久々に棚から引き出して寝っ転がってページを繰り始めました。
 最初に出てくるのはわたくしにとっても馴染み深く、懐かしい場所でもある伊豆半島のさまざまな温泉である。初版は大正7(1918)年、文庫の底本となった改訂増補版は大正15(1926)年の刊行というから、かれこれ一世紀近く前の作物であるが、その当時とわたくしが知っている1970年代以後の温泉地とはずいぶんと隔たりがあるのを思い知らされるのですが、日本人にはどうやらDNAレヴェルで<温泉>というものに対する憧れと切望が刻印されているらしく、冒頭数十ページを読んだだけでも近郊の温泉地で構わぬから出掛けていきたい情に駆られたことであります。
 上の刊年からおわかりのように、初版と改訂増補版の間には関東大震災が発生、花袋もジャーナリストとして一冊を著していますが、本書の脚注に時折見られる「震災があって以後」云々という表現が、今日の読者にはひときわ身に迫る部分があろうかと思います。が、21世紀のわれら読者が味わうべきは、先にも述べたようなDNAレヴェルで刻みこまれた温泉への憧れと切望を改めて実感することなのかな、と考えたりもするのでした。
 仕事の行き帰りは勿論、自宅でもわずかながら時間を作るよう心掛けて、田山花袋『温泉めぐり』を明日から読むことに決めた。わたくしは読むのが遅いのでこれを読了するのにどれだけ時間がかかるかわかりませんが、もしかしたら、これがこの夏最後のアヴァンチュール的読書の最後になるかもしれません。気が早いかな?◆

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第1042日目 〈イザヤ書第57章:〈神を畏れぬ者〉2/2&〈へりくだる者の祝福〉withドストエフスキー読書の目算〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第57章です。

 イザ57:1-13〈神を畏れぬ者〉2/2
 わたし即ち神を畏れぬお前たちは、神を信じ敬う人が失われても、誰一人として心にかけなかった。かれは周囲の無理解と蔑みに苦しめられて死んだけれども、いまかれには平和が訪れ、横たわって真実に憩うている。
 神を畏れぬ者、神へ背く者どもよ。お前たちの身は骨の髄まで汚れている。偽りのぶどう酒、偽りの献げ物をわたしは許さない。お前たちは快楽に耽り、わたし以外の神をあがめ、ことごとくわたしを顧みようとしなかった。
 お前たちはいったい誰に怯えているのか。誰を恐れて、欺くことばかり考えているのか。どうしてお前たちはわたしを心に留めようとしなかったのか。わたしが永遠に沈黙しているとでも思うたから、わたしを畏れようとしないのか。お前たちが信じてあがめ、頼みとする偶像など、わたしの前には無力だ。
 「助けを求めて叫んでも/お前の偶像の一群はお前を救いはしない。/風がそれらすべてを巻き上げ/ひと息でそれらを吹き去るであろう。/わたしに身を寄せる者が、この地を嗣業とし/わたしの聖なる山を継ぐであろう。」(イザ57:13)

 イザ57:14-21〈へりくだる者の祝福〉
 わたしの民のために道を整えよ。わたしはかれらの罪ゆえに、かれらから顔を隠した。その間もかれらは背いて罪を重ね続けた。その結果として、かの地から切り離された。が、大地が休んでいた間に、かれらのなかにも嘆き悲しみ、へりくだる人々が出てきた。慰めを以てかれらを回復させよう。唇の実りを想像し、実りを与えよう。近くにいる者にも遠くにいる者にも、平和を与えよう。わたしはかれらを癒す。
 「わたしは高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザ57:15)

 好対照のメッセージが告げられた章であります。一方で神の前にへりくだる者を讃えて祝福し、一方で神を疎んじてないがしろにする輩を一蹴する心構えが語られる。これまでにも何度となく繰り返されてきたメッセージでありますが、こうして並べられてみると、イスラエルの神のまったくぶれることなき信念を改めて感じられ、その強さと慈悲深さ、恐ろしさに心身が震える思いをするのであります。



 いまはドストエフスキーを休んで他にいろいろ手を出しているが、だいじょうぶ、そのうちに戻りますから。『未成年』はストレートな構成と明快な語り口ゆえに読みあぐねることはないのだけれど、季節が夏になり集中力を削がれ、中途で読むのを止す羽目になったのはやはり残念であった。
 が、秋になりドストエフスキーに戻れば、そのまま次の夏を迎える前にこのロシアの文豪の作品は概ね読み終えることが出来よう。未読の長編は『未成年』を除けば『カラマーゾフの兄弟』と『虐げられた人々』のみ。これに続くのは2冊の短編集ぐらいだ(『作家の日記』は正直悩んでいるところである)。
 終着のその日が訪れたらば、たとえ本ブログが聖書の特定の書物を読んでいたとしても中断して、その旨そっとご報告し、ひとり快哉を叫び、祝いの酒宴を催すとしよう。おそらく……と、さんさんかは考えるのだが、おそらくその日は旧約聖書を読み終わる日が具体的に視野に入ってきた時分のことであろう。乞うご期待。◆

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第1041日目 〈イザヤ書第56章:〈異邦人の救い〉&〈神を畏れぬ者〉1/2with一日の読書時間を計算してみた。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第56章です。

 イザ56:1-8〈異邦人の救い〉
 「主はこう言われる。/正義を守り、恵みの業を行え。/わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。」(イザ56:1)
 ━━主の許へ集い来たった異邦人も宦官も、自分が主の民と区別されて扱われている、などと思うたりするな。あなたたちは枯れ木なんかではない。
 宦官よ、あなたがわたし主なる神の安息日を守り、わたしの契約を固く守るなら、あなたはわたしの民である。子供を持つ以上の記念の名を、わたしが与えるとこしえの名を、わたしの家、わたしの城壁へ刻もう。それは永遠に消し去られることがない。
 異邦人よ、あなたがわたし主なる神に仕え、その名を愛し、僕となり、安息日を守り、わたしとの契約を固く守るなら、あなたはわたしの民である。わたしはあなたを、わたしの聖なる山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。あなたが焼き尽くす献げ物といけにえをささげたならば、わたしは自分の祭壇でそれを受け入れよう。
 斯くしてわたしの家は、すべての民の祈りの家となる。
 「追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。」(イザ56:8)

 イザ56:9-12〈神を畏れぬ者〉1/2
 獣どもよ、こぞって食べに来るがよい。イスラエルの見張り人は惰眠をむさぼり、いまは夢のなか。獣どもは強欲で、自分たちの欲望に忠実で、自分たちの益になることばかりを考えている。
 彼らはいう、強い酒をたらふく飲もう、明日は今日よりすばらしい一日に違いないから、と。

 「第三イザヤ書」が本章より幕を開けます。
 主を信じる心があり、安息日を守れるならば、異邦人であろうと宦官であろうと、境遇や人種などはいっさい関係ない、と宣言された章。この隔てのなさこそ、聖書の神が普遍の存在として世界中で信仰される要因、いいかえれば懐の深さといえるのかもしれません。
 来たるべき<未来>を見据えた壮大なヴィジョンの、ほんの一欠片に過ぎぬ言葉ですが、これだけを以て幾許かの救いが感じ取れるように思うことであります。
 個人的にはね、イザ56:12にある主を畏れない者たちの台詞はけっこう好きなんです。「さあ、酒を手に入れよう。/強い酒を浴びるように飲もう。/明日も今日と同じこと。/いや、もっとすばらしいにちがいない。」……いやぁ、済みません、お酒が好きなので……。



 粛々、静々と『増補 遅読のすすめ』を読み進めています。あまりに悠然としたペースであることも手伝って、先日、ちょっと試しに一日の読書時間がどれぐらいあるのかな、と計ってみたら、働いている日は約一時間ちょっとであることが判明。
 往復の電車のなか(大抵はどちらか)と、タイミング悪くひとりで過ごす羽目になった昼休憩、あとは就寝直前に床中で漫然と開くことがある程度。休日はもう少し多い時間を取れるのですが……。
 翌日を考えると、なかなか自由に裁量できるわけでないのがちょっと辛い。でも、人生は読書を中心に廻っているわけではないのだ。そんな人生は不幸だと思う。◆

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第1039日目 〈イザヤ書第55章:〈御言葉の力〉withかつてフォーラムで出逢った可憐な花へ。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第55章です。

 イザ55:1-13〈御言葉の力〉
 わたしの言葉へ耳を傾け、従うことができるならば、価を払わずとも糧を得ることができる。そう主はいう。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむことだろう。わたしに聞き従って魂に命を得よ。
 いま、私はあなたたちと永遠(とわ)の契約を結ぶ。かつてダビデに約束した、まことの慈しみのゆえだ。わたしはダビデを立てて諸国の統治者とした。いま、あなたの許へあなたの知らなかった国々が馳せ参じる。あなたの神、イスラエルの聖なる神のゆえに。━━そう主はいう。
 主なる神の目に悪と映ることを企み、謀り、行った者であっても、主の信仰へ立ち帰るならば主は憐れんでくれるだろう。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。/呼び求めよ、近くにいますうちに。/(中略)/主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。/わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」(イザ55:6-7)
 わたしの思いとあなたたちの思いは異なり、わたしの道とあなたたちの道は異なる。そう主はいう。わたしの思い、わたしの道は、あなたたちの思い、あなたたちの道をはるかに超えている。いちど降った雨や雪は空の雲へ戻ることはなく、それどころか大地を潤し、作物を実らせる。わたしの言葉も同じだ。「それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命をかならず果たす。」(イザ55:11)篤(とく)と聞け、わが嗣業の民イスラエル。<御言葉の力>とはこういうことだ。
 やがてあなたたちは解放される。喜びのうちにいまの地を発ち、平和のうちにかの地へ導かれる。かつての都へ、ダビデの町シオンへ。エルサレムを擁し、囲む山と丘、そうして野の木々が、主の民の帰還を祝い、歓喜して迎える。その地には茨とオドロに代わって糸杉とミルトスが生えて、主に対する記念、しるしとなって残る。それは久遠に消し去られることがない。

 魂が打ち震える程の力を持った章です。さんさんかはワープロ稿を作成している間も、体中が震えるのがわかって、こんな言い方も変ですが、圧倒的な畏怖の念を感じたのであります。
 「第二イザヤ書」は希望と祝福のうちに、そのトーンを些かも失うことなく幕を閉じます。われらはこの箇所を幾度も読んで、絶望のなかに確固として存在する希望を捨てることがないように前を向いて生きてゆく心を、持ち続けているべきでありましょう。
 進むべき道はない。しかし、進まなくてはならない。――ルイジ・ノーノ
 歩き出した僕らの未来なら、これから先僕らで変えるから/どんなときも、ただ諦めずに進むよ。――SMAP「この瞬間(とき)、きっと夢じゃない」
 既に申したことの繰り返しになりますが、(旧約)聖書の神は言葉が先にあって行動する神、言葉によって事を為す神であった。本章は主御自らそれを宣言した章であります。
 「ダビデに約束した」云々については、サム下7:8-16をご参照いただければ幸いです。



 想いが届いたらいいな。フォーラムで出逢った可憐な花は、いまもあでやかな容(かんばせ)を誇って強く咲いているのだろうか。
 時に他の女性に見移りして忘れそうになったことも、正直なところをいえば、あるけれど、あなたの顔が、あなたと過ごしたほんのわずかな時間の思い出が、気持ちを本道に戻してくれた。だから、この想いが曲げられることなく届いてほしい。
 逢いたいよ、あなたに……
 ……帰りの送迎バスのなかから見た夕暮れの空は、とっても綺麗で、誰かと見あげたい空だったよ。
 いやぁ、それにしても、SMAPの「STAY」を聴いていると涙が出てきて困りますよ。◆

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第1038日目 〈イザヤ書第54章:〈新しい祝福〉with「上野黒門町のうさぎや」とは、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第54章です。

 イザ54:1-17〈新しい祝福〉
 子供を産むことのなかった女たちよ、子供を産むことのできなかった女たちよ、歓声をあげて喜び歌え。あなたの造り主が、あなたの夫となるから。だからもう若いときの恥辱は忘れ、思い出さなくともよい。あなたの夫となるのはあなたの造り主。その御名は万軍の主、あなたを贖う方、イスラエルの聖なる方。あなたは右に左に増えて広がってゆき、あなたの子孫は諸国の民のものであった土地を継ぎ、荒れ果てた町を再建して住むようになる。
 主は、あなたを呼ぶ。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。/ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ。」(イザ54:7-8)という。主にとってそれは、もう二度とノアの洪水を起こさない、と誓ったと同等の重みがある約束(ex;創9:11,15)。再びあなたを怒り、責めることはない、と主はあなたへ誓う。
 「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。/しかし、あなたの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の約束が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。」(イザ54:10)
 主の手により、あなたの都は鉱石で飾られ、再び堅固となる。あなたの子らはみな、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある。かつてのような虐げる者、破壊する者から遠く離れて、主によって与えられた平和のなかで過ごす。
 「どのような武器があなたに対して作られても/何一つ役に立つことはない。/裁きの座であなたに対立するすべての舌を/あなたは罪に定めることができる。/これが主の僕らの嗣業/わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。」(イザ54:17)

 「第二イザヤ書」は希望に満ちたメッセージや言葉が多い旨、開始当初に述べた通りでありますが(第1022日目/イザ40;1/2)、本章と続く第55章はそのうちでも頂点を極めている、と思います。もしかすると、第二イザヤ書がクライマックスを迎えているからかもしれません(それは次の第55章で終わるためです)。昨日のメシア預言を承けている章だけに、尚更そう感じる次第です。
 誰しもが読んだあと、清らかな気持ちになるであろうことを疑わぬのであります。辛苦を経験した者に対して救いの後に与えられる祝福が、どれだけ穏やかで久遠の恵みに彩られたものであるか、読めば読む程に胸の奥の方へ、奥の方へと染みこんでゆくのであります。



 送り火を焚いて田舎へ行った昨日(一昨日ですか)、行き帰りの電車のなかで山村修『増補 遅読のすすめ』を読みました。ゆっくりと、言葉を掘り起こすようにして読むのが自分には合っているのだが、まわりに比べてなんと自分は本を読んでいないことか、と言われなき肩身の狭さを味わったこともある。そんな自分を見かねて友人がこの本の存在を教えてくれたのでした。それ以来、ゆっくりと、丹念に読むことが当たり前となったのは、山村修の本と出会い、それを支えとしたからでもありました。
 そう、書評家<狐>こと山村修は本をすりつぶすようにして、噛み砕くようにして、一週間に一冊のペースで読み進めてゆく人であった。新刊の文庫も田舎への往復の途次、楽しみつつゆっくりと、陶酔しつつ読み進めたのでしたが、再読、三読すると以前は読み落としていたり気が付くことのできなかった箇所に注目するようになる、という著者の指摘に深く頷いた箇所が、今回ありました。
 詩人立原道造と作家杉浦明平が甘味処に入ってぜんざいを注文した、という件りを紹介したところである。引用文のなかにあったことだけれど、どうやらこの二人が入った上野の甘味処は、「上野黒門町のうさぎや」であったそうだ。
 ━━うさぎや! もしや、と思い、帰宅して永井荷風の日記やら他数冊を繙き、上野地区の地図を調べて裏付けした。元よりそこまでやる必要もないことだけれど、やってしまったのだ。立原と杉浦が暖簾をくぐった甘味処は、紛うことなき平井呈一ゆかりのうさぎやであろう。平井翁の実兄谷口喜作が養子となった上野の老舗和菓子店で、一時は文学者の交流の場ともなった、と聞く店である。立原と杉浦が訪れた遠因に、この双子の存在、殊に兄谷口喜作の存在があったのかもしれない、と考えるのはなかなか愉しいことである。
 歴史に埋もれたささやかな事実程、われらをワクワクさせ、和ませてくれるものも、なかなかないように思います。これだから、小さな歴史を探るのは楽しいのであります。たとえば、ホームズ研究の楽しさの一端も、こんなところに理由を求められるような気がします。◆

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第1037日目 〈イザヤ書第52章2/2&第53章:〈主の僕の苦難と死〉with山村修『増補 遅読のすすめ』を購入しました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第52章2/2と第53章です。

 イザ52:13-53:12〈主の僕の苦難と死〉
 主はいう、わが僕は栄える、と。この世に生きた誰よりも高く上げられ、その誰よりもあがめられる。なのに、かれの容姿は損なわれ、そこに人の子としての面影はない。この人は━━主の僕は主の前に育った。見るべき程の容姿は持たず、人々から侮蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
 が、その痛み、その病は、本来ならわれらが負うはずだったもの。すっかり思い違いをしていた。われらはかれが主の手にかかって打たれ、苦しんでいるものとばかり思うていたのだ。しかしそうではなかった。かれが刺し貫かれたのはわれらの犯した罪のゆえだった。われらが主に背き、罪を重ねたがために、かれはその身に咎を受けたのだった。それにより、却ってわれらには平和が与えられ、傷が癒されたのである……。
 「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方向に向かっていった。/そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザ53:6)
 ━━かれは苦役を課され、うずくまり、口を開かなかった。やがて捕らえられ、裁かれ、命を奪(と)られた。果たして、かれと同じ時代を生きたうちで誰が、自分たちの犯した罪ゆえに主の僕たるかれがこの地上から断たれることに、思いを巡らせたであろうか。かれは正しい人であったのに、その墓は神の目に悪と映ることを行い続けた者らと一緒にされ、あろう事か、かれは富める者の隣へ埋葬された。
 「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/かれは自らを償いの献げ物とした。/彼は、子孫が末永く続くのを見る。/主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。/わたしの僕は、多くの人が正しいものとされるために/彼らの罪を自ら負った。/それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。/かれが自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。/多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザ53:10-12)

 お読みになって推察できるように、これはメシア預言に他なりません。「第二イザヤ書」のなかでも最も崇高で感銘深い章。玩味しつつ幾度も繰り返して、じっくりゆっくりお読みいただければ、と、さんさんかは望みます。
 イエスの最後を予見したような内容であることもあり、できれば併せて福音書にも目を通していただけると幸いです。
 なお、この第53章(第4/最後の神の僕の歌)はジークフリート・ヘルマンに拠れば、初期の教会は聖金曜日の聖書朗読に本章をテキストとして読んでいた由。わたくしのまわりにはちょっとキリスト者がおりませんので確認できませんが、そうであってまったくおかしくない章であります。
 ヘルマン曰く、「先入見なしに本文を読む者は、とりわけ最後の神の僕の歌に、イエス・キリストの苦難と死が預言的な仕方で予見されていると信じる。エチオピアの宦官の物語(使8:26-40)に支えられて、初代教会はイザヤ書第53章をイエスの苦難と死に関係づけ、これを『わたしたちの罪のため』(53:5)という代理的苦難としてつかんだ。そこでイザヤ書53章は、聖金曜日の聖書朗読のテクストとなったのである」(『聖書ガイドブック』P128 教文館)と。
 いずれにせよ、美しい章です。



 これを、出勤前の時間にPCに向かってぱこぱこ打ちこんでいます。朝日が昇る様子を見ながら聖書のブログを作成、更新するのは、気持ちの良いものです。もっとも、時間に追われることは否めませんが……。ヤエル・ナイムの『ニュー・ソウル』がまたぴったり合うんだ。
 そういえば昨日、山村修の『増補 遅読のすすめ』を購入しました。ちくま文庫、今月の新刊。何度か図書館で借りてきては読み耽り、ブックオフや古書店で稀に見掛けるたび迷った本でしたが、こうして文庫となって手軽に、いつでも読めるようになったのはうれしいことです。増補、とあるように、元版の単行本に雑誌に掲載されたままだった書評なども加えられて楽しみが倍増した一冊になっていました。まぁ、図書館でコピーして既に読んだものも混ざっているのですが、これは個人的なことでありますからみなさんは無視してください。これから、じっくり読みます。◆

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第1036日目 〈イザヤ書第52章1/2:〈主は王となられる〉withびっくり仰天。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第52章1/2です。

 イザ52:1-12〈主は王となられる〉
 首に掛けられた縄の結び目をほどき、奮い立って力をまとい、輝く衣を身にまとえ、シオンよ、聖なる都エルサレムよ。主はいう、ただ同然で買われたあなたたちは銀によらずに買い戻される、と。あなたたちを買った支配者はわたしを罵るが、それによって却ってあなたたちはわたしを知るようになる。
 良き知らせを告げる者が、彼方此方をめぐって平和を告げ、救いを告げる。そうしてシオンに、あなたの神は王になられた、と告げ知らせる。それを聞いてあなたたちは歓喜し、わたし主なる神がシオンへ帰還するのを見る。
 「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。/主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。/主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。/地の果てまですべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。」(イザ52:9-10)
 わが民よ、捕囚の地バビロンを立ち去り、シオンへ帰ろう。なににも触れるな、汚れるから。身を清めよ、主の祭具を担う者。「あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」(イザ52:12)

 捕囚の地を急いで出る必要も、逃げ去る必要もない。王となった主が自らの民をシオンへ導いてゆくのだから。━━そのメッセージがどれだけ、バビロニア各地に散ったユダの民を慰め、心強くさせたことであろうか。これがずっと歳月を経て、いわゆるシオニズムの温床になったのか、と思うと、心の揺り動かされる強い力を感じます。
 いまの日本人がかれらと同じようなディアスポラ(離散)を強いられたとしたら、どうなるのであろう? 今日のわれらに、第二次大戦後にユダヤ人が達成させた新国家建設を希求する原動力となるもの、魂を突き動かすものが、果たしてあるのだろうか? そんなことを、この章のノートを作りながら、ふと、考えてしまいました。
 わたくしはこの章に、捕囚解放後、シオンへ帰る一団が<神と共にある喜び>を自然と吐露する形で歌った、いってみれば歌謡的なものを感じます。はち切れんばかりの喜びが、言葉を伴って口の端に上るとこうなる、という見本といえるのかもしれません。



 す、すまん! いつも通り予約更新をしたつもりが、「下書き」のまま保存されていました。気がついたのがたったいま……さて、<イザヤ書第52章2/2>を予約更新するか、とログインしたら終戦記念日のブログはさっぱり見当たらない。理由は、と探れば斯くも単純であった、という次第であります。
 いまお読みいただいているのが昨日分。随想は先送りとして、このお詫びの文章を急いで書きあげたところです。いや、本当に申し訳ない。こんなことなら昼休みに形態から確認すればよかった。そうすればもっと早い時間(それこそ8月15日中に)「イザ52:1-12〈主は王となられる〉」をお披露目できたであろうに……。
 まあ、過ぎたことは仕方ない。とはいえ、本当に、読者諸兄には申し訳ないことをしました。ここに謹んでお詫び申しあげます。◆

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第1035日目 〈イザヤ書第51章:〈シオンへの帰還〉&〈憤りの杯〉withS.キング-励みになる存在-関係ないけれど、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第51章です。

 イザ51:1-16〈シオンへの帰還〉
 シオンを慰め回復させた(イザ49:11-13,51:3)主は、自分の民と国に語りかけていった。わが正義は遠からぬ日に実現し、わが救いも現れなん、と。わが腕の裁きは諸国の民を裁き、島々はわたしへ望みを置く、とも。天が消えて地が朽ち、人が消えようとも、「わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。」(イザ51:6)
 主により贖われた民は、廃墟となったシオンへ、荒れ地となった父祖の地へと帰還する。━━、
 「主により贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。/頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと悲しみを得/嘆きと悲しみは消え去る。」(イザ51:11)
 主はいう、わたしはあなたの神である、と。わたしは、わたしの言葉をあなたの口へ入れ、わたしの手の影であなたを覆うことにしよう。シオンよ、あなたはわたしの民である。

 イザ51:17-23〈憤りの杯〉
 目覚めよ、エルサレム。立ちあがれ、シオン。わたしから憤りの杯を受け取って飲み干し、二度の災いに襲われたあなたよ。それゆえに聞くがよい。
 「見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。/わたしの憤りの大杯を/あなたは再び飲むことはない。/あなたを責める者の手にわたしはそれを置く。」(イザ51:22-23)

 本章でも、希望としてある主の正義と救いの預言がされています。つまりその預言は、来たるべき帰還を預言し、約束しているもの。勿論、これが「第二イザヤ書」の基調音であること、全体を支配する調子であることは、既に最初に述べた通りです。
 ノートには反映させませんでしたが、イザ51:2にアブラハムと並んで「あなたたちを産んだ母サラ」の名に、聖書は触れます。アブラハムは再三登場しているのでともかく、サラはずいぶんと久しぶりに目にする名前です。アブラハムといっしょに名が挙げられていることからお察しいただけましょうけれど、サラはアブラハムの妻となった女性でした。イサクの母であります。創12:5初出、17:15にてサライからサラへ改名し、特に17:15-19,18:1-15はイサク絡みの挿話となり、その後のイスラエル繁栄を考える際、忘れてはならない箇所でもあります。
 ノート中、「二度の災い」はアッシリアとバビロニアの襲撃をいいます。
 ノートには組みこめなかったが、非常に良い聖句があるのでご紹介します。曰く、━━
 「主はシオンを慰め/そのすべての廃墟を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。/そこには喜びと悲しみ、感謝の歌声が響く。」(イザ51:3)



 S.キングの短編「争いが終わるとき」と「幼子よ、われに来たれ」を続けて読んだのですが、やはり何度読んでもこれらは印象の薄い作品であるという過去の評価は変わることがなさそうです。前者は1980年代後半、日本版『オムニ』誌であったか、「ラプラタの水」というタイトルで翻訳が掲載されましたよね。余談でした。
 最近仕事がとても楽しく思えてきました。なによりも感謝すべきは<人>に恵まれたこと。まだ見えていない部分が多々あるため、暫定的な結論さえ出すのは慎重になるけれど、励みになる存在があるのはいいことだ。それに、着実に数をこなせば自ずと結果が付いてくることも、自ら立証しましたしね。これを支えにして、確実に、正確にやってゆこう。
 関係ないけれど……4,50年でいいから一緒にいてくれませんか? 駄目かなぁ。◆

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第1034日目 〈イザヤ書第50章:〈シオンの回復〉&〈主の僕の忍耐〉with“POSITIVE SMAP”〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第50章です。

 イザ50:1-3〈シオンの回復〉2/2
 主はいう、お前たちが犯した罪によってお前たちは売り渡され、お前たちがわたしに背いたためにお前たちの母親は追放されたのだ、と。
 「なぜ、わたしが来ても、だれもいないのか。/読んでも答えないのか。/わたしの手は短すぎて贖うことができず/わたしには救い出す力がないというのか。」(イザ50:2)

 イザ50:4-11〈主の僕の忍耐〉
 主は私を召して僕とし、目と耳を開いてくれた。私は逆らわず、退かなかった。人は私を蔑視し、暴行を加えるが、私はそれに耐えることができる。辱められることはない、と、知っているから。
 「わたしの正しさを認める方は近くいます。/誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。/誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。/見よ、主なる神が助けてくださる。/誰がわたしを罪に定めえよう。」(イザ50:8-9)
 果たして主を畏れ、主の僕の声に従う者が、お前たちのなかにいるだろうか。闇のなかを歩いたり光のないところを歩く際、主の御名に信頼し、それを魂の支えとし、道しるべの光とする者が、いったいお前たちのなかに?
 ━━成る程、お前たちは自分の手に松明を持っている。ならば、その炎を頼りとして、行け。お前たちは苦悩のなかに横たわるであろう。

 わたくしは昨日のブログで、捕囚の地に在るユダの民は第二イザヤの言葉をどんな思いで聞いたであろうか、と考えました。その解答の一端を照らしてくれそうなのが、イザ50:4-11であります。勿論、これを連行された地に元から暮らしていた住民、つまりバビロン人に対しての言葉と受け取れもしますが、読めばその分だけこれが第二イザヤの周辺にいた捕囚民を暗に示しているように思われてならないのであります。
 捕らわれたユダは、かの地に在って主なる神による救済を繰り返し預言するかれを、むなしい希望、実現する見込みもない希望と受け取った。ゆえにかれを、叱咤し、罵倒し、遂には暴力にまで及んだ。捕らわれのユダ人の心はそのとき、涙に暮れていた。いたずらに希望を持たせるな、この地で朽ちてゆくわれらになんの希望があろうか、と。そうして来し方行く末を顧みて、改めて忘れていた主への信仰を少しずつ取り戻していった。自分たちの罪のゆえに信じることを忘れていたイスラエルの主なる神、イスラエルを贖う聖なる方の存在を。……些かメロドラマ的ではありますが、バビロンの地で捕らわれていたユダの人々は、第二イザヤを叱咤し、罵倒し、遂には暴力にまで及んだ際、そんなことを重い、心のなかで涙を流していたのではないのかな、と想像するのであります。



 『SMAP AID』の発売を来週に控えて、4年程前に編集したCD、その名も“Original SMAP Vest”を聴きながらブログの原稿を書いています。
 いまとなってはさすがに再編集の必要があるけれど、コンサートのセット・リストを想定して編集した曲にはすべて思い入れがある。曲目を発表すれば「え~!?」という声もあがるようなものも含まれている(かも)しれないけれど、まぁ、それは或る意味、お約束だから。
 曲目の発表は障りがありそうだから諦めますが、いま聴いているのは「ぼくの太陽」である、とだけ申しあげておきます。この編集CDは、今回のアルバムの顰みでいえば、個人的な目的で相当気合いを入れて作りあげた、さんさんか個人に向けたAID的CDであります。これを聴くと、ポジティヴになるのだ。成る程、POSITIVE SMAPというところか。
 2003年はボスの『ザ・ライジング』と椎名へきるの『PROUD OF YOU』、そうしてSMAPの『MIJ』に救われたなぁ。
 どちらにせよ、現時点での最新オリジナル・アルバム『We are SMAP』、最新オリジナル曲「Not Arone ~しあわせになろうよ~」までを視野に入れて、新しい個人的編集CDを作る必要があるなぁ……。fine,peace!◆

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第1033日目 〈イザヤ書第49章2/2:〈シオンの回復〉withS.キング「ドランのキャデラック」を読みました&予定していた読書を実行できなかった休日にわたくしはいったいなにをしていたのか、を探る。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第49章です。

 イザ49:9(2/2)-26〈シオンの回復〉
 主の嗣業の民は捕らわれていた者も幽閉されていた者も、主の導きによって湧き出る水のほとりへ連れてゆかれる。すべての山に道が開かれ、遠くから主なる神の民、主により贖われた嗣業の民がシニムの地へと集い来たる。天よ、地よ、山々よ、喜び歌い、躍り、歓声をあげよ。「主は御自分の民を慰め/その貧しい人々を憐れんでくださった。」(イザ49:13)
 シオンはいった、わたしは主に見捨てられ、忘れられた。が、見よ、われらはいま主に立ち帰り、その御名を掌へ刻む。主の民は主の許へ集められる。遠くの地から、北から、南から。しかし廃墟となったあなた(主)の町はみなを住まわせるには狭い町。よってわたしは主に願い、頼む。どうか住む所を与えてください、と。
 主なる神はいう、わたしは諸国へ対して手を上げ、旗を掲げる。そうすると国々の王はあなたの養い手となり、王妃はあなたの乳母となり、あなたにひれ伏し、あなたの足許の塵を舐めるようになる。そのとき、あなたは知るだろう。主であるわたしへ望みを置く者は恥を受けることがない、と。
 主なる神はいう、あなたを連れ去った国からわたしはあなたを救い出す、と。かの国の勇士から、かの国の暴君から、捕らわれ人を救う、と。わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救う。「あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ/新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。/すべて肉なる者は知るようになる/わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う/ヤコブの力ある者であることを。」(イザ49:26)

 勿論これは捕囚解放を謳っていますが、エルサレムとユダの回復をも預言しています。民の救済と誉れが語られ、主の民であることの栄光が語られた章である。
 バビロン各地に散らされたユダの捕囚の民は、どんな思いで何十年も、何世代も、なにを思って異郷の空の下で捕らわれ人の立場に甘んじていたのだろう。むろん、かの地で商魂を発揮して財を成した者もあるとは聞きますが、それは別格として圧倒多数の捕囚民はなにを思って解放の宣言が出される日までを過ごしたのだろう、という点にわたくしは関心がある。
 そうして、かれらがどんな思いで第二イザヤの預言を受け止めていたか、にも。かれの言葉を、すぐに信じたであろうか。わたくしにはわかりません。希望としては持っていたかもしれない。でもそれが実現するかは疑わしい。バビロニアの栄華が翳り、国家が崩壊するとはまさしく想定外、予想外の出来事だから(既に自分たちが経験してるにもかかわらず)。夢物語にも等しい。が、そうであればいいな、と思う心はあったでしょう。
 この預言がどんな時代状況下で告げられたか、既にペルシアの襲来がたびたびあって危機としてあれば、捕囚の民がペルシア軍に一抹の希望を託していた、と想像するのは、けっして非現実的なそれではないと思います。
 シニムはどうやら聖書中で本章のみの言及であるようですが、日々繙いている『新エッセンシャル聖書辞典』に拠れば、エゼキエル書に出てくるシンやセベネという町のことではないか、と云々。70人訳聖書ではシニムをペルシアと訳している由。



 昨日今日の休みで村上春樹『1973年のピンボール』(講談社文庫)を読む予定であったのだが、あらかじめ予定していた読書というのはどうも現実に紛れて実現できた試しが殆どない。ぼくが初めて読んだのはご多分に洩れず『ノルウェイの森』でしたが(そういう時代だったんだ!)、この『1973年のピンボール』は3番目に読んだ村上作品。
 20年以上も読み返すことがなかった小説なだけに、今回の休日を楽しみにしていたのですが、……この2日間、いったいおいらはなにをやっていたんだろう。ウッドハウスが必要な心理状態になり、キングには手を伸ばせず、読んだ本は聖書を別とすれば吉田秋生の新刊ぐらいか。病院へ行って銀行へ行って区役所へ行って、スーパーで買い物して本屋へ行って……なんだ、至ってまっとうな休日ではないか。
 一昨日読んだスティーヴン・キング「ドランのキャデラック」の感想ですか。シノプシスは既に承知しているので、今回はそこからこぼれ落ちたエッセンスを楽しむことに絞って読み進めたのですが、けっして出来の良い方の短編ではない。主人公をああも尋常でない行為に掻き立てるのは、ひとえに殺された妻恋しの情念ゆえ。それがドランをキャデラックごと葬り去って誰の目にも触れさせない復讐手段を実行させた。正直、やり切れん思いで一杯にさせられる、良くも悪くもない短編でありました。別のいい方をすれば、さして印象に残る手合いではない、ということ。
 ━━今回の短編集には記載がないようだけれど、この短編の初出はキング・ファンのためのニューズ・レター『キャッスル・ロック』誌であった、と記憶します。そんな風に『コンプリート・スティーヴン・キング』に書いてありました。
 実をいえば、「ドランのキャデラック」を含むこの短編集『ナイトメア・アンド・ドリーム・スケープス』(全4冊)は、読んだ短編と読んでいない短編が入り混ざった本でもある。それだけに夏をやり過ごすための読書には打ってつけなのではないか、と、そう考えています。本格的な秋になったらドストエフスキーに戻りますよ。◆

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第1032日目 〈イザヤ書第49章1/2:〈主の僕の使命〉with燻されていた気持ちを慰撫する小説、たとえばウッドハウス。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第49章です。

 イザ49:1-9(1/2)〈主の僕の使命〉
 私は主により、その名を呼ばれた者。主は私にこういわれた、あなたはわたしの僕であり、あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
 私はこれまでの人生をむなしく、うつろに過ごしてきた。が、思い直せば、私の裁き手は主であり、私の働きに報いてくださるのも主なのである。こうして召命されたのだから、私は主の御目にかなった者なのだ。主の御目に私は重んじられているのだ。
 その主がこういわれた、━━主は私を僕としてヤコブの諸部族を立ちあがらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる、と。それだけではない。主は私を国々の光とし、救いを地の果てまでもたらす者とする、ともいわれた。
 主はこういわれる、曰く、━━
 「わたしは恵みの時にあなたに応え/救いの日にあなたを助けた。/わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。/捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。」(イザ49:8-9)

 「私」とは即ち、主の僕として召命された者、第二イザヤを指す。引用したなかにある「わたしは恵みの時にあなたに応え/救いの日にあなたを助けた」は捕囚解放をいいます。
 本章は珍しく(とさんさんかは思うのですが)語り手の感情が表に現れたところでもあります(イザ49:4)。その感情をベースにしてかれは<反省>から<使命の気附き>を経て、そうして<自覚>へと至るのであります。
 楽屋裏をお話しすれば、ノートの作成にちょっとばかし手こずらされた章でもあります。



 更新が11時間超もズレこんだことを深謝いたします。いろいろあって……。悲しみなんて感情が起こらない世界であったらいいのにね。それはともかく、今後はこんなことがないように自分を律するつもりであります。
 さて。こんなときは故エリザベス皇太后ではないが、ウッドハウスの小説を読むに限る。寝床に入って一、二冊を読み終わる頃には万事オールライト。━━勿論、そこまで単純ではないけれど、燻されていた気持ちは慰撫されていること間違いなし。そうであってほしい、と願う。それこそが物語の治癒力。それは<回復>と言い換えてもよいでしょう。
 その回復について、ウッドハウスと同じ英国の作家トールキンはいう、「回復とは(健康の回復と再生とを含めて)とりもどすこと━━曇りのない視野をとりもどすこと」である、と。かれの場合、回復を可能にするのは妖精物語でありますが、それは些細な事柄。
 真の治癒力を内包する小説はすべからく広義のファンタジーの要素を含んでいる。ウッドハウスはその一例であります。プロレタリア文学を読んで「曇りのない視野をとりもどすこと」を取り戻すことはできません。少なくともわたくしはそこから<回復>や<再生>を与えられたことは一度もないし、況や<治癒力>を期待することなど夢のまた夢であった。
 が、ウッドハウスにはそれが可能だ。贔屓の引き倒しめいた発言で申し訳ないけれど、事実、わたくしはウッドハウスを読んで慰撫されること大なのだから仕方ない。これは、たとえばキングの小説なんかでは(なかなか)得られぬ現象である。トールキンとフィッツジェラルド、シュルツ、クリスティ、ドイルぐらいか。悲しみに暮れたときに読んで、そのたびに心慰められる作品というのは。
 でも、そんな感情の時に読みたくなる小説なんて、本当はない方がいいのかもしれないな、とも思う。困ったものです。◆

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第1031日目 〈イザヤ書第48章:〈預言の成就〉withもう、二度とあの喫茶店には行きません。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第48章です。

 イザ48:1-11〈預言の成就〉
 イスラエルの名を以て呼ばれる者、わが創造せし嗣業の民よ。わたしはむかしからあなたたちへ襲いかかる災厄を告げてきた。そうしていま、突然わたしは事を起こし、人を介して告げてきた預言を成就させた。ずっと告げ続けてきたのだ、それらの言葉を検証すれば、いま自分たちを見舞っている災厄についても自ずと知ることができたはずだ。
 わたしはこれから新しいことを告げよう。お前たちの誰も聞いたことのない事柄を。お前たちの誰一人として、そんなのは前から知っていた、ということのできない事柄を。「わたし自身のために、わたし自身のために/わたしは事を起こす。/わたしの栄光が汚されてよいであろうか。/わたしはそれをほかの者には与えない。」(イザ48:11)
 ヤコブよ、わが嗣業の民よ、耳を傾けよ。わたしはかれを呼び、かれの為すべき仕事を達成させる。主の愛する者が主の御旨をバビロンに対して行い、主の御腕となる者が主の御旨をカルデア人に行う。事が起きるとき、常にわたしはそばにいる。
 イスラエルの聖なる神、あなたたちを贖う主は斯くいう。わたしは、あなたを教え導いて正しい道を生かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように悠然とし、あなたの子孫は海浜の真砂のように数えきれぬ程に増えてゆき、その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもない。イスラエルの聖なる神、あなたたちを贖う主はそういった。
 「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。/喜びの声をもって告げ知らせ/地の果てまで響かせ、届かせよ。/主は僕ヤコブを贖われた、と言え。/主が彼らを導いて地を行かせるときも/彼らは渇くことがない。/主は彼らのために岩から水を流れ出させる。/岩は裂け、水がほとばしる。/神に逆らう者に平和はない、と主はいわれる。」(イザ48:20-22)

 どれだけ裏切られても自分の民を絶滅させなかった主の心情が覗ける章。だからこそ主はそれでもなおかれらを祝福し、末の繁栄を約束してくれる。なんとなれば昔、ヤコブ/イスラエルと結んだ契約と愛のゆえに。どれだけ背きを(特に王国が南北に分裂したとき)重ねても、それがあったからこそ嗣業の民を生き存えさせてきた。考えようによっては主なる神の時間感覚を推し量ることもできそうな一章であります。
 また、自らの意志を汲ませた者を派遣し、バビロン/カルデアを滅ぼす、かれらは喜びの声をもって主の御力を讃え、主が自分の民に対して贖った旨を諸国に告げて廻る、と言う主の言葉に、幾許かと雖も戦慄を覚えたことを白状します。痛みを伴って礼讃する。その行為にふと、以前観たドキュメンタリー映画のなかの残虐な光景を想起してしまうのだ。
 引用したイザ48:20-22は出エジプトを踏まえていますが、これが第二の出エジプトと感じさせるのは、知る者には当然の連想であったことでありましょう。



 もう、二度とあの喫茶店には行きません。横浜線某駅近くにある、SKE48と同じ政令指定都市に本拠を持ち、喫茶店事業を展開している会社のFC店。
 ブレンドコーヒーの味は悪くない。さすがに拘っているだけある。初めて入る喫茶店ではブレンドを頼んでみよ、そうすればその店を判断することが可能だ。ここは悪くなかった。加えて、併せて注文したハンバーガーもぴりっ、とマスタードを効かせたソースがけっこう舌に合い、ハンバーグもなかなかの美味で、こりゃ悪くないな、嵐山歩鳥嬢の台詞を拝借すれば「ウンメ、これめっちゃウマ!」というところだ。
 店内も開放的で木の内装なんだか具合良く落ち着いて、天井が高くて無粋に天井板など張っていないところが好感を持てて、まあ要するに居心地が良かったのだけれど……帰り際、レジでの会計がとっても、マックスで非道かった。ここまで非道いと逆に言葉を失って感心する。
 つまり、880円の会計に対して財布から、畳まれた千円札を出してそれを広げてトレイに置こうとした、と、ユウザ○なる女性店員が広げている途中の千円札をむしり取るように摑み取って「千円札からで宜しいですか!?」と曰い、釣り銭も放り投げるように寄越したのだ。こんな店が繁盛する理由がまったくわかりません。広い店内には器の小さな店員がお似合いのようで……。まあ捨て台詞を残すこともなく立ち去ったのは、呆れて物も言えなかったから。
 今後、何年となくあの店の前を帰りに通るたびにこのときの光景を思い出し、誰彼にこの店の印象を聞かれたら、いま申したようなことを苦い思いと共につぶやくより他ないだろう。哀れな店である。潰れてしまえ、とはいわないけれど、カフェ本やグルメサイトのライターやグルメ関係の覆面調査員に頗る評判が宜しくない理由がよくわかった仕事帰りの一コマでした。こんな店と遭遇するたびに、ああ、グルメ関係のライター稼業から足を洗っていて正解であったな、と思うのであります。
 昨日(一昨日ですか)の『SMAP×SMAP』で発表された新譜《SMAP-AID》収録曲について書きたかったけれど、むくつけき一コマをどうしても忘れがたくてこんな内容になってしまった。読者諸兄には申し訳なく思っている。これは明日のお話しとしよう。でも、好きな曲がたくさん入っていてうれしかったな。8月17日はタワーレコードに行ってこれを買おう、と決めて手帳に予定を書きこんだ。◆

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第1030日目 〈イザヤ書第47章:〈バビロンの陥落〉withちょっと良いことがあったのさ。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第47章です。

 イザ47:1-15〈バビロンの陥落〉
 娘バビロンよ、身を低くして塵のなかに坐れ。女カルデアよ、王座を離れて地に坐れ。お前たちは身ぐるみ剥がされ、いっさいの恥が露わになる。あがめられることも敬われることも、そうして讃えられることもない。
 「わたしは報復し、ひとりも容赦しない。」(イザ47:3)
 娘バビロンよ、女カルデアよ、わたしはわたしへの罪ゆえに汚れたわが嗣業の民を罰するため、かれらをお前たちの手に渡した。が、お前たちはかれらに憐れみをかけることがなかった。それどころか、軛をいっそう重くした。
 お前たちは栄華のゆえに自らを永遠と錯覚した。なにごとも心に留めず、物事にはかならず終わりがあることを思わなかった。が、すべてが一度に、根こそぎ奪われる日が来る。覚悟せよ。
 娘バビロンよ、女カルデアよ。お前たちが終わる日にどれだけまじない師に祈らせても無駄だ。「災いがお前を襲うと/それに対するまじないを知らず/災難が降りかかっても、払いのけられない。/思いもかけない時、突然、破滅がお前を襲う。」(イザ47:11)もし、まじないでなんとか苦境を脱することができると思うているならば、さあ、試してみよ。
 多くの呪術師や占い師がお前のまわりにはいる。かれらを束ねて災いへ立ち向かわせて、お前を救わせてみよ。かれらは焼き尽くされて、その炎のなかから自分の命を救い出すことができない。若い時分から占いや呪い、まじないを学んで身に付けてきたかれらでさえこの有様だ。ならばお前を、━━娘バビロン、女カルデアを救い出せる者があるだろうか?

 栄華はいつまでも続きはしない、かならず惨状を伴う終わりがやってくる。有史以来の歴史を見ても明らかであります。これを経験していない文明国が、いったいどれだけあっただろうか?
 わが国の歴史を顧みれば、ずっと昔、王朝時代に御堂関白が自身の栄華と専横を誇ったが、その次の世代、その末はどうであったか? 近くを探ればかつての日本の栄光と誇りはどこへ消えた? それは平成の始まりと共にゆっくり崩壊し始め、愚にもつかぬ民主党政権がそれにとどめを刺した。醜き菅はその座に在っていつまで恥をさらし、生きるのか。
 歴史は繰り返す。そうして、誰も懲りることがない。一抹の真実がそこには込められています。<歴史に学べ>というのは簡単だが、学んだことを適用するのはけっこう難しい。嗚呼!
 なお、カルデアとはバビロンとペルシア湾の間に広がる湿地帯の地域を指し、アブラハムの故郷ウル(創11:28)を擁す。新バビロニア帝国の末期になると、カルデアが帝国の代名詞となり、帝国そのものを指す言葉となった由。



 ちょっと良いことが幾つもあった。結構うれしい。いつもこんなだと良いな。真剣に、そう思う。『ドランのキャデラック』を読み始めたその日に、思い出としてこんなことを簡単に書き置いておく。◆

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第1029日目 〈イザヤ書第46章:〈バビロンの偶像〉with明日から読む本を物色している日曜日。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第46章です。

 イザ46:1-13〈バビロンの偶像〉
 キュロスの襲来にバビロニア人は逃げ惑い、家畜の背にベルの像、ネボの像をくくりつけるが、その重荷は耐えられる者でなく、やがて疲れて動きは緩慢となり、屈みこむようになる。斯くして逃げようと必死であったバビロニア人もまた捕囚の身となる。
 イスラエルの残りの者よ、聞け、バビロニア人が自分たちの神の像を家畜の背に負わせたのと同じように、わたしもあなたたちを背負う━━たとえあなたたちが捕囚の地に在ったとしても。あなたたちが老いて頭に白いものが目立つようになるまで。わたしはあなたたちを造り、生まれたときから担ってきた。あなたたちが捕囚の身となってもわたしがあなたたちを担い、背負い、そうして救い出す。わたしはあなたたちの神、あなたたちはわたしの契約の民。
 偶像を作って、それを崇めて拝み、神に背く者よ、わたしを誰に似せようというのか。それの前にひれ伏して拝んで何になろうか。偶像は据え付けられれば、成る程、立ちはするがそこから動くことはできない。助けを求めてもその声は届かず、あなたを悩みから救ってくれはしない。
 ━━背く者よ、反省せよ。初めからのことを思い起こせ、思い出して力を得よ。わたしは神、唯一の神、わたしのような存在は他にはない。わたしは既に、これから起こることを告げ、この先成就することを約束しておいた。やがて東方から、わたしの計画に従う者を呼び寄せる。わたしの計画はかならず実行される。
 「わたしに聞け、心のかたくなな者よ/恵みの業から遠く離れている者よ。/わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。/もはや遠くはない。/わたしは遅れることなく救いをもたらす。/わたしはシオンに救いを/イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。」(イザ46:12-13)

 ベルはバビロニアの主神マルドゥク、ネボはその息子で複主神格の存在であります。キュロスがバビロニアを襲ったとき、バビロンの民はこれの像を担いだり家畜に背中に負わせて安全な場所へ逃げようとした。しかし、それが重いので疲労して却ってキュロスの兵に囚われる羽目となった、というのであります。
 即ちバビロン人にとって偶像崇拝は日常レヴェルにまで浸透していたわけです。が、偶像を作って拝む、という所作は他の宗教では当たり前に見聞する話でもある。われらの日常に於いても仏壇に御仏の像、阿弥陀如来の像、観音の像など普通に安置してありませんか? もっとも、国家宗教たる神道に於いて最高神の天照大御神や天孫、邇邇藝命の偶像がむやみに(民間レヴェルで)作られたりしなかったのは、あんがい旧約聖書の神の「偶像を作ってこれにひれ伏すな」なる戒めと同じ発想かもしれません。



 明日から読む本を物色している。楽しい一時━━それなりに。今日は全国的にお休みなのに、なんでおいら、家にいてこんなことをしているんだろう? おぐゆーさんと逢っていられたらいいのに。good grief.◆

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第1028日目 〈イザヤ書第45章:〈キュロスによる解放〉&〈諸国民の受ける恥〉withS.キング「どんづまりの窮地」を読みました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第45章です。

 イザ45:1-13〈キュロスによる解放〉
 主はキュロスへ油を注いだ。あらかじめ構想された歴史を実現させるため、かれの右の手を固く取って導き、かれの前に諸国をひれ伏させる。倒れた諸国の富や財宝はかれに与えられる。
 かれは自分がわたし、イスラエルの聖なる神によって呼ばれ、称号を授けられたことを知らない。むろん、かれに力を与えたのがわたしであることも知らない。
 わたしは正義によってかれキュロスを立たせ、その行く道をまっすぐ、平らにする。かれはわが都エルサレムを再建し、バビロニアによって連れて行かれた捕囚を解放する者。いっさいの代償を求めず、それを為す者。

 イザ45:14-25〈諸国民の受ける恥〉
 エチオピアとエジプトがあなたの許へ、鎖につながれたまま送り返されてくる。そうして、かれらは願うだろう。イスラエルの神の他はすべてむなしい神々であることを。イスラエルの神が救いを与えてくれる神であることを。
 「イスラエルは主によって救われる。/それはとこしえに続く救い/あなたたちは世々とこしえに/恥を受けることも、辱められることもない。」(イザ45:17)
 彼方此方の国から逃れ来たった者らよ、集って意見を交わし、結果を示せ。諸国を見舞った災禍をむかしから告げていたのが誰であるか、を。それは、わたし、イスラエルの神である、と。わたしの他に正しい神、救いを与える神はいない。
 「わたしは自分にかけて誓う。/わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。/わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て/恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。/主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。/イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。」(イザ45:23-25)

 捕囚となっているイスラエルに希望が与えられる。諸国の恥はイスラエルの神以外の神を信じ、その偶像をあがめていたこと。諸国とはバビロニアをも含む。否、むしろ矛先は専らバビロニアに向けられている、といえようか。なぜならば、むかし、イスラエルの神が契約を結んだ嗣業の民が、かの地に連行されて捕らえられているからだ。本章の前後にたびたび登場する「闇に住まう民」とは、捕囚の地に住まうユダを指す言葉であろう。
 ━━聖書を読んでいて時々混乱するのは、二人称<あなた>が誰を指すのか判然としなくなることです。この問題を解決してから原稿は作られる。結果に満足のゆくこともあれば、そうでないこともあるのは、文章を量産していれば自ずと経験することである。



 ご報告だけ。喫茶店は断念しました、近所で夏祭りをしていてその余波を食らっているとあっては……!
 けっきょくいつものスタバへ足を伸ばし、キングの「どんづまりの窮地」を読了。<密室からの脱出劇>といえば聞こえは良すぎるか。不快だけれどさすがの筆捌きに圧倒されて、最後まで巻を置く能わざる一気呵成の読書であった。或る意味でこの人の本領が遺憾なく発揮された一編といえなくもない。
 この不快感と眉を顰めさせられる感覚は、ブラム・ストーカーの「雌猫」と読んで以来の経験です。つまり、滅多にお目にかかれぬ類の作品である、ということ。えげつないけれど、面白い。現代屈指のストーリー・メーカーがお届けする、正真正銘、悪夢めいた、鼻がひん曲がり反吐がこみあげてくる比肩する物なかなか思い付かぬ短編でありました。
 でも、これは映像で観たくないなぁ……。どういうことか、知りたい方あれば、是非手にしてご一読くださいませ。◆

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第1027日目 〈イザヤ書第44章:〈イスラエルの贖い〉、〈無力な偶像〉&〈キュロスによる解放〉他withS.キング短編集『夜がはじまるとき』読進中……。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第44章です。

 イザ44:1-8〈イスラエルの贖い〉
 わが僕ヤコブへ。わが選びし民イスラエルへ。わたしは渇いた大地へ水を与え、流れを与え、潤す。わたしの霊をあなたの子孫へ注ぎ、わたしの祝福をあなたの末に与える。かれらは川のほとりの柳のように育ってゆく。そのうちの或る者はヤコブを名乗り、イスラエルをその名とする。
 イスラエルの王なる主、イスラエルを贖う万軍の主はいう、「わたしは初めであり、終わりである。/わたしをおいて神はない」(イザ44:6)と。
 わたしに並ぶ存在があるならば、わたしがとこしえの民即ちイスラエルと契約を結んだその日から、これから起きる出来事に至るまでを、さあ、わたしに語って聞かせてみよ。わが民よ、わたしが贖ったとこしえの民よ、恐れたり怯えたりするな。もうわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなた方はわたしの証人である。

 イザ44:9-20〈無力な偶像〉
 偶像を拵える者はみな愚かで、無力である。そんな者を慕うて何になろう。
 職人は木っ端から偶像を製作する。自分たちが生活するさまざまな場面で木材は遣われる。飲食や暖を取ったりするためだ。彼らはその残りを使って、神に似せて姿を美しくした偶像を作り、それにひれ伏して祈る。
 かれらはその愚かな行いに疑問を抱くことがない。反省することも、顧みて己を自戒することもない。むなしいことだ、愚かなことだ。かれは自分の右手の魂を救うことができず、また、そのことに些かの疑いも持たない。
 「彼は灰を食らい/惑わされた心は、その道を誤らせる。」(イザ44:20)

 イザ44:21-23〈イスラエルの贖い〉
 わが僕ヤコブよ。わが選びし民イスラエルよ。あなたを創造して僕としたわたしを忘れるな。このことを、━━
 「わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。/わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」(イザ44:22)
 主はヤコブを贖い、イスラエルによって輝きを現した。天よ、地の底よ、自然よ、主の行為を喜び、歌い、歓声をあげよ。

 イザ44:24-28〈キュロスによる解放〉1/2
 イスラエルの贖い主、万物の創造主は、斯くいう。主は、僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる。エルサレムは再び人の住む場所となり、神殿には基が置かれる。廃墟となったユダの町々は再び興される。
 イスラエルを贖う聖なる方にして万物の創造主は、キュロスに向かって斯くいう。わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と。

 これまでの贖いと戒めの集大成のように思えて読んだ章です。第1-23節に即していえば、キュロスの名が具体的に登場するに先立って、いわば交通整理を図った箇所のように感じられます。



 いろいろあるけれど、身を屈めていればいつか嵐は通り去る。でも、仕事上必要なこと以外は殆ど人と話さないで済むから、却って楽ちんなんだ。肝心なのはわたくしがここでずっと働いていたい、と思う気持ち。がんばって給料を上げてゆき、立場を上にしてゆき、ここで働くに必要なスキルと見通しを付けられるようにすること。同僚に恵まれたかわからないけれど、良い人もいればそうでない人もいる。会社だから仕方ないけれど、せめて同じチームなら挨拶ぐらいはしようぜ。きっとこの人たち、ここ以外では働けない。そんな風に心のなかでつぶやいてみる。むろん、そうでない人の方が圧倒的に多いけれど……。白地のなかにわずか数粒と雖も黒い点は目立つのだよ、わが相棒ドクター・ワトスン。
 それはともかく。
 キングの短編集(『夜がはじまるとき』)は無事に最後の一編に辿り着いた。「どんづまりの窮地」を今日の帰りから読み始めました。「ある意味これはキングが書いたものの中で最高に恐ろしい一篇と言っても過言ではないかもしれない」(P328)と、巻末解説でcocoが書いているような作品はどんな作品なのだろう。これは楽しみにしていた一編でもある。感想などその折にお話ししよう。たぶん、次の休み(明日!)かその翌日にはご報告できるだろう。
 昨日は「聾唖者」の感想を書こうとして疲れが招き寄せた睡魔に屈してそれはかなわなかった。簡単なものになるが、今日それを果たそうと思う。
 「聾唖者」は、地方まわりのセールスマンが妻の不貞と横領を、偶然乗せた聾唖のヒッチハイカーへ問わず語りに聞かせるというもの。正直なことを申せば、本筋の結末はたやすく予想できた。予定調和といえば聞こえは悪いが、最近のキングの短編を読んでいるとこんなケースが偶さかある。自分の読みを誇りたいわけでも、嘆きをぶちまけたいのでもない。予想した結末に連れてゆかれてもなおそれを払拭するような感銘を、わたくしは最近のキングの短編から受け取るのである。
 この感銘にどんな言葉を纏わせればよいのか悩むのだが、それはおそらく、物語の外側から、読み終えたあとにじわじわと襲いかかってきてわが身を心もろともすっぽりくるんでしまうような類のものである。ガッシ、と魂を摑まれていつまでも心のどこかにその残像が残り、なかなか印象の消え去らない作品にはときどき出会うことがある。世評に高いか否かにかかわりなく、だ。「聾唖者」はわたくしにとってそんな作品である。「ニューヨークタイムズを特別割引価格で」もそうであったし、「彼らが残したもの」もそうであった。今回たまたま最新の事例となったのがこの「聾唖者」であった、ということだ。
 前述したようにそのキングの短編集、現在は最後の一編を読んでいる。明日か明後日には読了できるはずだ。明日は秘かに送迎バスの停留所のそばにある喫茶店に立ち寄ってみよう、と企んでいる。蕁麻疹以後、初めて飲むコーヒーだ。本当はいつものスタバへ行って馴染みの人々の顔を見たいのだが、初めて送迎バスで帰ってきたときに窓のなかから見かけて以来、休みの前日に行ってみたい、と望んでいた喫茶店だ。ここが良い店なら週に二、三度ぐらい寄って本を読んだり聖書のノートを取る場所にしたい、と考えてもいるのだ。明日はここでコーヒーを飲みながら、このキングの短編集を読了できるようにしたい。それにふさわしい場所でありますように。それにふさわしい作品でありますように。わたくしは斯く願う者である。◆

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第1026日目 〈イザヤ書第43章:〈捕囚の解放〉2/2&〈イスラエルの贖い〉1/2withどうやら蕁麻疹は治ったらしい。だが、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第43章です。

イザ43:1-7〈捕囚の解放〉2/2
 ヤコブ/イスラエルを創造した主は、かれらに、恐れるな、という。わたしはあなたを贖うから、と。濁流のなかにあっても、猛る炎のなかにあっても、わたしはあなたと共にいて、これを守る。わたしはあなたの救い主。
 「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。/わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。」(イザ43:7)
 わたしはバビロニアからヤコブの末を連れ帰り、エジプトからも呼び戻す。北にも南にもかれらを引き止めさせはしない。

 イザ43:8-28〈イスラエルの贖い〉1/2
 わたしこそ主、とイスラエルの聖なる方はいう。わたしの他に神はなく、わたしの他に救い主はいない。「わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え/あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。」(イザ43:12)
 「今より後も、わたしこそ主。/わたしの手から救い出せる者はない。/わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。」(イザ43:13)
 わたしはこの荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。わたしの選んだ民のために━━。この民をわたしは自分のために造ったのである。かれらはわたしの栄誉を語らねばならなかったのに、逆にそれを重荷とした。ささげるべき献げ物もささげず、敬うこともせず、「むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。」(イザ43:24)
 が、主は自分自身のために、イスラエルの背きの罪を拭い、ヤコブの罪を思い出さないことにする。もし思い出させようとするならば、共に裁きの場へ出ることを覚悟し、裁きの場で申し立てをし、自分が正しいと主張してみせよ。
 「あなたの始祖は罪を犯し/あなたを導く者らもわたしに背いた。/それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し/ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。」(イザ43:27-28)

 自らの嗣業の民に、自分たちの父祖以来続く罪を自覚させた上で、かれらを贖うと約束する。これが旧約聖書の神のポリシーであり、揺らぐことなき信念であります。



 蕁麻疹はやはり治ったようだ。以前と同じ行動を取っても、特に何の反応もない。それでも与えられた薬は(最初にもらった少々効果の弱かった薬)朝夕の食後に服んでいる。
 節目の年齢で改めて経験した蕁麻疹。それ以前と以後には意識の変化がある。現在のような至極まっとうな生活リズムになったこともあるが、なによりも体によい生活を送ろう。食事と健康にはじゅうぶん気を配ろう。そう思った。そうして改めて家族の存在に、与えられたこの命に、五体満足で日々を過ごせていることに、つくづく感謝している。サンキャー。
 とは言っても、ビールと日本酒は断ち切れそうにない。毎晩呑んでいるわけでなし、偶さかにしか呑まぬものだ、たまたま家にあれば呑む(“嗜む”とも)というだけの話。まぁ、これだけは大目に見ておくんなまし。
 現在8月4日23時23分、雨が降ってきた。明日も早い、もう寝るね。◆

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第1025日目 〈イザヤ書第42章:〈主の僕の召命〉、〈神の勝利〉&〈捕囚の解放〉1/2with孤独な夜に、〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第42章です。

 イザ42:1-9〈主の僕の召命〉
 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。/わたしが選び、喜び迎える者を。/彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。/彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。/傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すこともなく/裁きを導き出して、確かなものとする。/暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。/島々は彼の教えを待ち望む。」(イザ42:1-4 ex;マタ12:(17)18-21)
 主なる神は天地を創造し、人に息と霊を与えた。主なる神は恵みを以て主の僕たる人を呼び、民の契約、諸国の光として主の僕たる人を立てた。見ることのできない目を開き、囚われた人の枷を解き、闇に住む人を牢獄から救い出すために。

 イザ4:10-17〈神の勝利〉
 地の果て、大海の島々に住む異邦人、海に面するフェニキアの人々、ケダルの遊牧民、エドムの都セラに住む人々。かれらはこぞってイスラエルの主なる神を讃えよ。主に向かって新しい歌を、主の栄誉を褒め讃えて歌え。
 「(主は)目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。/行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。/わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。」(イザ42:16)━━偶像に依り頼む者は甚だしく恥を受けて退く。

 イザ42:18-25〈捕囚の解放〉1/2
 主が信任を与えて遣わした僕程、目が見えず、耳が聞こえない者はいない。その目には多くのことが映る、しかし、その目はなにも見ていない。その耳には多くのことが聞こえている、しかし、その耳はなにも聞いていない。
 「主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。」(イザ42:21)
 主は重ねてこういう、曰く、━━
 「この民は略奪され、奪われ/皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。/略奪に遭っても、助け出す者はなく/奪われても、返せと言うものはない。/あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。/後の日のために注意して聞く者があるか。/奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡した者は誰か。/それは主ではないか。/この方にわたしたちも罪を犯した。/彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。/主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。/その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」(イザ42:22-25)

 昨日分と今日の分は、蕁麻疹の痛みがなんとか軽くなった日に書いたものです。引用が多くなっていたり、昨日のような<訳し直し>が発生したのはそのせいかな。
 正直なところ、<主の僕>がメシアを指すのか或いはキュロスを指すのか、判断しかねる部分があります。「捕らわれ人」や「闇に住む人」を素直に受け取れば<主の僕>はキュロスということになりましょうが、冒頭で引用したイザ42:1-4がマタ12:(17)18-21で援用されているのを考えれば、やはり<主の僕>とはメシアを指しているのか。否、もしかすると、第1-4節でいう<主の僕>と第5-7節でいう<主の僕>は別個の存在なのかもしれない。
 ━━どうなんだろう?



 ちかごろはあまりないことだが、家の誰もが寝静まった夜中、どれだけ耳をすませてみても町の音がしない夜中に、ふとした拍子に目が覚めて、いつまでこの汚濁末法の世を生き、出口の見えないトンネルを歩き続けてゆかねばならぬのかを想像して、突然恐怖に駆られ、目蓋を再び閉じることがそのまま生涯の終わりのように思えて身震いすることがある。幼きラキシスの言葉、「百年も千年も一万年もひとりぼっちだなんてさみしいと思うの。ラキシスがいればさみしくないわ。ひとりより2人の方がしあわせよ」が思い出されて、胸が、この世のものと思えぬ存在によって骨が軋むようぐらい強い力で圧迫されるのを感じる夜があった。むろん、いまも、これからもあるだろう。一人より二人の方が……、◆

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第1024日目 〈イザヤ書第41章:〈諸国民の審判〉with生活のペースを摑んだあとですることは、……〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第41章です。

 イザ41:1-29〈諸国民の審判〉
 ○召喚の詔;大海(地中海)の島々はわが許へ来て静まれ、諸国民は力を新たにするがよい。そうしてから、進み出て語るがよい、互いに近附いて裁きを行おうではないか。
 ○陳述;征服者バビロニアを倒すにふさわしい者を東から呼び起こすのは誰であるか。━━主なるわたしに他ならない。<かれ>が滞りなく行く手の諸国を駆逐してゆけるのは誰の意思であるか。━━主なるわたしの意思に他ならない。
 ○救済の言葉;わが僕イスラエルよ、わが選びしヤコブよ、わが友アブラハムの末よ。わたしはあなたを愛す、ゆえに地の果て、その隅々から呼び起こした。わたしはあなたを決して見捨てない。なにごとにも恐れるな、わたしはあなたと共にいる。救いの右の手であなたを支えていよう。
 あなたに対して怒りを燃やす者はみなかならず辱められ、恥を受け、争えば相滅び、無に帰してむなしくなる。なにごとも恐れるな、わたしはあなたと共にいる、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを打穀機とする。山々を砕き、丘を籾殻とする。粉塵は風にあおられ、嵐によって散らされる。あなたは主によって喜び躍り、イスラエルの聖なる方を誇る。
 水を求めても得られぬ苦しむ人々、貧しい人々のために、わたし主は不毛の高原に大河を開き、谷間の野に泉を湧き出させ、荒れ野を湖とし、乾燥した地を水源のある場所とする。荒れ野には葉の緑濃き喬木(アカシアやミルトス、オリーブの木など)や灌木(糸杉や樅(もみ)、黄楊(つげ)の木など)が茂るようになる。かれらはこれを目の当たりにして、イスラエルの聖なる神の創造の御業に目覚めることであろう。
 ○論争;イスラエルに対して怒りを燃やす者は訴え出て、イスラエルの聖なる神に論拠を示せ。原初の出来事と未来の出来事を示し、告げてみよ。わたしはそれを心に留めよう。将来に関わる徴しを示し、告げてみよ。わたしはお前たちが神であると悟ろう。なにごとをも良くも悪くも行ってみよ。われらは共に見させてもらおう。「しかし、お前たちは無に等しく、働きはむなしい。/お前たちを選ぶ者は忌むべきものだ。」(イザ41:24)
 ○判決の詔;征服者バビロニアを倒すにふさわしい者はわたしによって北から奮い立たされ、日の昇る方向の地からわたしの名を呼ぶ。誰一人としてこれの存在を前以て告げ、聞かせた者はいない。かれらのなかに助言ができる者などいない。かれらはすべて無に等しく、業もむなしいからだ。
 「見よ、シオンに初めから告げられていたことは/ここに実現した。/エルサレムに良い知らせを伝える者を/遣わそうとして。」(イザ41:27)

 ノートする前から何度となく読んでいたにも関わらず、如何にまとめればいいか判断がつきかねていた一章。そこへ光明を与えてくれたのが、岩波訳「イザヤ書」の註釈でした。合本版でP112註一に、ここは「法廷論争の文学類型で結び付いている」とある。今回はこれに拠ってノートを完成させることにし、いまご覧いただいているようなものが仕上がったわけであります。
 第二イザヤということもあって、固有名詞については捕囚の地であるバビロニアの地名しか出せないのが残念です。東と北から来る、主により呼び起こされた存在がペルシア王キュロスであるのは明々白々でありましょう。なお、ミルトスはネヘ8:15に登場した喬木であります。
 あともう一つだけ独りごちるのを許していただきたい。新共同訳聖書で一ト続きになっているイザ41:20と21ですけれど、内容から考えてここで一行開けておく方が、本文を正しく、迷うことなく読み進められるように思います。一ト続きにすべきはむしろ、イザ41:16と17であるように思えます。



 生活のペースが摑めてきたように思う。残業が基本的にないからなぁ……寄り道しないで帰ってくれば夜7時前には帰宅できる。このメリットを如何に生かすか。この恩恵を如何に自らへ還元するか。それが、鍵になる。
 鍵? そう、自分が使役されて終わるだけの存在になるか、会社から離れた場所で<勤め人>以外の自分を確立させるか、その鍵となるのが退社後の時間の使い方だ。取り敢えず現在は聖書のノートを認めるぐらいだけれど、それだけで終わる気は毛頭ないのである。わたくしには書かねばならぬ物語がある━━それがどれだけ稚拙なものであろうとも。物語を書き留めずに人生を終わる選択肢があるなんて、どう頭を捻ってみても信じられない。そんな人生がこの世に存在するのか?
 それはともかく。時間の配分や用い方については明日行われるテストを、入社して最初の昇給のテストをクリアしてから、なにが可能でなにが可能でないかも含めてじっくり検分してゆくとしよう。

 2連休の2日目、即ち昨日(ん、一昨日か)は村上春樹『風の歌を聴け』(講談社文庫)を夕方から読みました。今日(昨日ですか)はちゃんとキングに戻りましたよ。読んだ短編は「魔性の猫」。何度目だ、この作品を読むのは?◆

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第1023日目 〈イザヤ書第40章2/2:〈創造と贖いの神〉with同時多発テロにまつわる本を買いました。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第40章2/2です。

 イザ40:12-31〈創造と贖いの神〉
 果たして誰が、イスラエルの聖なる方の御業を量ったり、主に対して対等或いは上位にあることができようか。主に助言し、裁きの道を教え、知識を与えたりできる者が、果たしているだろうか。
 主の御前にあって、諸国はすべて無に等しく、諸侯はすべて無に等しい。いずれも無に等しく、むなしく、うつろな者と、主の目には映る。事実、その通りなのだ。肉なる者は草に等しく、草は大地に根附くよりも前に枯らされる。
 職人たちは技をこらして偶像を造り、人々はそれを家に置いたり身に付けたりする。が、かれらはいったい、誰に似せてその偶像を拵えるのだろうか。拵えた偶像を以ていったい誰と比べようというのか。━━さあ、目を高く上げよ、天の万象を数え、そうして天を創造した方へ思いをめぐらせよ。その方の力の強さ、激しい勢いから逃れる者は誰もいないし、どこにもいない。

 「お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか。/初めから告げられてはいなかったのか/理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。/主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。/地に住む者は虫けらに等しい。/主は天をベールのように広げ、天幕のように張り/その上に御座を置かれる。」(イザ40:21-22)

 「ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。/あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。/主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。/倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。/疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。/若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。/走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザ40:27-31)

 2回に分割した第40章ですが、浅学非才の身ゆえ、何度試みても本章の要点をうまくまとめることはできませんでした。となれば、残された手段は<語り直す>こと━━この場合は(誤解を恐れずにいえば)<訳し直し>を敢行した次第。ノートというのもおこがましい、妥協と諦めの産物ですが、結果として、この作業を行ってようやく本章を理解できた、という気持ちが強い。読みこむことで理解も深まった、というが正しいかもしれません。
 これは昨日の1回分同様、━━少々厳しいことがいわれようとも━━主のイスラエルに対する情愛と慈しみが感じられる箇所であります。今日まで読んだ部分で判断するならば、これが、「第二イザヤ書」の基調トーンとなっているように思えます。



 同時多発テロにまつわる本を買いました。10年前のこの事件については既にさまざま語られ、検証もされてきました。が、正直なところ、わたくしはそうした諸々に殆ど関心はないのです。否、そうではない、あなたが思われるような意味で関心がないのではない。
 歴史の過程、時間の流れとして、<同時多発テロに至るまで>と<同時多発テロが起こって以後>を知る必要はあるし、わたくしだってもっと知識を深めたい。が、それは過程さえ把握できれば、それ以上は突っこまなくて良い領域でもあるのです。
 わたくしがなによりも知りたいと思い、それを教えてくれる資料に出会えばなんとか手許に置いておきたいと願うのは、あの事件から生還した人々の声が詰まったものであり、あの事件で命を落とした人々について語られたものであり、あの事件の実行犯となった人々のパーソナル・ヒストリーである。そう、わたくしが欲しいのは、あの事件に関係した人々の<声>、それについて書かれたドキュメントなのであります。
 昨日某ブックオフで購ったのは、そんな類の本でした。書名を挙げれば、『9月11日の英雄たち』(R.ピッチョート&D.ペイズナー著/春日井晶子・訳 早川書房)と『マンハッタン、9月11日』(ディーン・E・マーフィー著/村上由見子・訳)がそれ。後者にはペンタゴンで事件に遭遇した人々の声も収められている。また、それぞれ副題を、「世界貿易センタービルに最後まで残った消防士の手記」と「生還者たちの証言」という。『マンハッタン、9月11日』を拾い読みして思うたのは、もしかしたらこのなかに、親しうしていた人を知っていた人がいるのかもしれないな、ということです。
 まだ買ったばかりでざっと目を通したにすぎないのですが、非常に読み応えのありそうな本です。じっくり目を通して、いつかこれの感想をここでお披露目できたらいいと思います。◆

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第1022日目 〈イザヤ書第40章1/2:〈帰還の約束〉with歌いたい、病癒えた者のささげる聖なる感謝の歌を。〉 [イザヤ書]

 イザヤ書第40章1/2です。

 これは〔南〕王国ユダが滅んでかろうじて剣を逃れ得た者らが侵略者バビロニアによってかの地へ強制移住させられて捕囚として過ごしていた時代に第二イザヤへ臨んだ預言とその成就を語った部分である。

 イザ40:1-11〈帰還の約束〉
 「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」(イザ40:1-2)
 私こと第二のイザヤに語りかける声がある。荒れ野に広い道を通し、高きものは身を屈め、沈むものは隆起して、全地は平らかになれ、と。主の栄光が現れる様を肉なる者たちがいっしょになって見られるように。
 私に、呼びかけよ、と促す声がした。こう呼びかけよ、と。その声は教えてくれた。肉なる者はみな草に等しい。かりに命永らえたとしてもそれは野に咲く花のようなものだ。草が枯れ、花がしぼむのは、主の風が吹きつけたせいである。民は草に等しい。だから「民草」とも「青人草」ともいうのだ。が、草が枯れても花がしぼんでも、われらが神の御言葉は久遠に立つ。
 シオンに、エルサレムに良き知らせを伝える者は、高き山に登って、力の限りに声をあげよ。国が滅びてもなおユダの旧領にある幾つもの町に住むユダの民へ、━━いまその地を監督するバビロニアの総督の存在を恐れず━━その良き知らせを声高らかに告げ知らせよ。
 「見よ、主なる神。/彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。/見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。
 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザ40:10-11)

 本章から第55章までが「第二イザヤ」と称される部分です。既に〈「イザヤ書」前夜〉で書いたことですが、ここでもう一度繰り返しておきます。
 即ち、本章から始まる<第二イザヤ書>は(第56章以下の<第三イザヤ書>同様)、思想をイザヤと同じうする、もしくは近しくする、いわば<イザヤ学派>とでもいうべきグループのなかにいた無名の預言者の筆に成る書物とされます。それは、まだユダが捕囚であった時代でありました。おそらくは東から新たにキュロス王率いるペルシアが台頭してくる直前の時代の作物でありましょうか。
 一昨日まで読んできた「イザヤ書」ではバビロニアのみならずエドムなど諸国への審判がたびたび語られましたが、「第二イザヤ書」では審判の矛先は専らバビロニアとなる。そうしてキュロス王の登場が、かれが主により油注がれた存在として預言される。こうした点から「第二イザヤ書」はバビロニア崩壊とそれに伴うキュロスによる捕囚解放、いうなれば捕囚民ユダにとっての希望が高らかに、明快に宣言された書物なのでもあります。そうした意味では、一種清々しいまでの明るさに彩られた部分といえるかもしれません。



 経過は順調である。今日は、どうしても済まさねばならぬ所用に迫られて外出したのですが、あの忌々しいピンク色の斑点に悩まされたり、人目を避けたりする必要も殆どなく、ちょっとした寄り道までしてみました。よかった。わたくしはまだだいじょうぶだ。このまま完治してくれればよい。今日、駅からの帰り道にセミの声を聞いた。再び夏らしい日が戻ってくるという。そうなる前に症状が悪化し、治癒にまで至ったことを<さいわい>と思うべきかもしれない。
 いまの会社に入ってまだ一口もアルコールを口にしていないんだ、実は。明後日に待ち構える最初の関門を無事くぐり抜けられたら、祝盃も兼ねて一口、二口、グビリ、といこうと思う。そうして、体がなんとか元に戻ったことを感謝しつつ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番イ短調Op.132を、就中第3楽章を聴けるようになったら良い。早くその日が訪れるのを、待っている。◆

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