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第1967日目 〈ルカによる福音書第24章:〈復活する〉、〈エオマで現れる〉他with「ルカによる福音書」読了のごあいさつ。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第24章です。

 ルカ24:1-12〈復活する〉
 斯くしてニサンの月の13日、金曜日の午後3時頃、十字架上の人イエスは死んだ。その遺骸はサマリア地方のユダヤ人の町アリマタヤ出身のヨセフに引き取られ、岩を掘り抜いて作られた、まだ使われていない墓の奥へ安置された。入り口は石で閉じられた。一方、ガリラヤ地方から一緒に来た婦人たちは遺体に塗る香料と香油の準備をその日のうちに済ませ、翌る安息日は掟に従い休んだ。
 ──そうして週の始めの日、即ち日曜日の未明、婦人たちは墓に行って驚いた。墓穴を閉じていた石が動かされていたからである。彼女たちが恐る恐るなかへ入ってゆくと、輝く衣を着た人が2人いて、語りかけてきた。曰く、なぜ生きている人を死者のなかに捜すのか、と。あの方は復活した、3度まで口にされた死と復活の予告をあなた方は聞かなかったのか。
 婦人たちは墓をあとにして、いま見聞きしたことを、いまや11人となった使徒とその他大勢に伝えた。人々はこれを戯言と思い、取り合わなかった。が、ペトロは違った。「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」(ルカ24:12)

 ルカ24:13-35〈エオマで現れる〉
 このあと、イエスの弟子たちは諸所へ赴いた。そのなかにエルサレム西北西、約11キロ(60スタディオン)離れたところにある町エオマに向かう2人がいた。1人の名はクレオパ、もう1人の名は伝わっていない。
 かれらが過越祭前日のエルサレムでの出来事を話し合いながら歩いているとき、2人と同行する者が現れて、エルサレムでなにが起こったのか、と訊ねられたことに驚いた。そこでかれらは、ナザレのイエスの死刑判決からゴルゴタの丘での磔刑と絶命、それから3日経った今日の復活の実現、しかし墓には亜麻布だけが残されていた不思議について、語って聞かせた。
 が、実はこの同行者こそ復活したイエスであった。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24:16)のである。かれイエスはクレオパたちの不信仰を嘆き、そうして「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」(ルカ24:27)、自分のことに触れている箇所を取り挙げて説明した。
 一行はやがてエオマの町の郊外にさしかかった。クレオパたちは、その先に行こうとするイエスを引き留めて同宿してくれるよう誘い、共に食事の席に着いた。イエスが祈りを唱えながらパンを裂き、クレオパたちに差し出した。かれらはそれを受け取った。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(ルカ24:31)
 ──かれらはエルサレムへ戻り、シモンに自分たちが見聞きしたことを報告した。他の弟子たちも同じように復活したイエスと会った旨、シモンに報告していた。

 ルカ24:36-49〈弟子たちに現れる〉
 すると、集まっている弟子たちの真ん中にイエスは現れた。皆、亡霊を見る思いでイエスを見た。弟子たちにイエスはいった。亡霊には肉も骨もないが、見なさい、わたしには肉も骨もある。
 「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:44-49)

 ルカ24:50-53〈天に上げられる〉
 然る後、イエスは弟子たちをオリーブ山の南東麓の町ベタニアの付近へまで連れてゆき、かれらを祝福した。
 「そして、祝福しながら彼らを憐れみ、天に上げられた。」(ルカ24:51)
 弟子たちはイエスを伏し拝み、神殿の境内で日夜神を讃仰した。

 1冊の福音書がここに終わる。が、「マタイ」や「マルコ」と読後の印象が随分と異なるのは、「ルカ」がオープン・エンディングの体を為しているせいだ。このあとに同じ著者の筆に成る「使徒言行録」が控えるからだろう。そうして今日の最終章は一部に「使徒」の並行箇所を持つ。誠、「ルカによる福音書」が1冊の書物の前半であり、「使徒言行録」が後半であるとされる所以である。
 まだ「ヨハネ」を読んでいないので意見は控えるが、わたくしは4つの福音書のなかでこの「ルカ」がいちばん好きかもしれぬ。「ヨハネ」と「使徒」を読んだら、再びこの話題を取り挙げて回答したい。
 本章について述べておきたい点は1つ。ルカ24:12にて唯ペトロ1人がイエスの墓所へ行き、亜麻布のみがある他はもぬけの殻であることを自分の目で確かめた。果たしてこれまでのペトロなら斯様な行動を取ったであろうか。
 わたくしは「否」であると思う。イエスの死に接して、ペトロのなかでなにかが変わったのである。もはや目の前の出来事に我を忘れて有頂天になったり、イエスの意図を汲み取り損ねてとんちんかんな発言をしてみせる、なんだか頼りない、ぬーぼーとした印象のペトロではない。エルサレムの人にイエスの仲間と見抜かれて苦しい言い逃れに終始するようなペトロでは、ない。
 内面に信念と尊敬と信仰、そうして愛を宿して揺るぎなきものとしてそれを信奉する、使徒団の頼りになるリーダーであり、イエスの福音に最も理解を示し、パウロ登場までは最も熱心に福音を説いて当時の全世界を回った人である。
 引用した箇所でいちばん重要なのは、「しかし」という接続詞、この一語。ペトロはイエスが生前口にしていた復活を、この瞬間に信じたのである。イエスの福音を、敬虔なる思い持って自分の内へ受け入れたのだ。いわばこれは<肉>から<霊>への信仰の転換だ。このとき、ペトロは真に非凡な存在となったのである。



 「ルカによる福音書」は本日で読み終わりました。気のせいか、なにやら右往左往した印象がありますが、たぶん気のせいでありましょう。奈良への旅行が途中で入ったせいかな。今日までゆるりゆるりとお読みいただきありがとうございました。
次の「ヨハネによる福音書」は準備でき次第の読書ノート開始となります。6月上旬から中旬にかけての聖書読書ノートブログの再開を予定しておりますが、さて、どうなることやら。◆

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第1962日目 〈ルカによる福音書第19章:〈徴税人ザアカイ〉、〈「ムナ」のたとえ〉他〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第19章です。

 ルカ19:1-10〈徴税人ザアカイ〉
 イエスはエリコの町に入った。そこには徴税人の頭ザアカイがいた。かれはイエスを一目見ようとしたが、群衆に阻まれて叶わなかった。かれは背が低かったのである。が、どうしてもイエスを一目見たかったかれは先回りして、いちじく桑の樹に登って一行が通りかかるのを待った。やがて一行は来た。
 イエスは件のいちじく桑の樹の上にいるザアカイに目を留めて、降りてきなさい、といった。今夜はあなたの家に是非泊まりたい。
 それを聞いたまわりの人々は、あの人は罪深い者の家に宿を取ったぞ、と囁き交わした。
 周囲のざわめきを知ってか知らずか、ザアカイはイエスに、財産の半分を貧しい人に施し、これまで騙し取ったものは皆4倍にして返します、といった。
 イエスはかれにいった。ザアカイの家に今夜救いが訪れた。かれもアブラハムの子だからだ。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)

 ルカ19:11-27〈「ムナ」のたとえ〉
 イエスは更に、エリコの人々はこんな喩え話をした──イエスがエルサレムに近附いたことで、神の国の訪れは間もなくである、と皆が思うていたからである──。
 或る家の立派な人が王の位を授かるために国を離れた。その折、10人の僕に10ムナ、つまり1人につき1ムナを与えて、自分が帰るまでの間にこのお金で商いをして利益を出せ、と言い置いた。
 その人は王になって帰国するや、かの僕たちを呼んで商いの成果を述べさせた。そうして1ムナを元手に10ムナを稼いだ者には10の町の支配権を与え、5ムナを稼いだ者には5つの町を治めさせたのだった。かれらが「ごく小さなことに忠実だったから」(ルカ19:17)である。
 が、なかには商いをして利益を出すどころか預かった1ムナを、主人の厳しさに恐怖して使わず大事にしまっていた者もあった。
 稼がなかった僕に主人はいった、──
 「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰ってきたとき、利息つきでそれを受け取れたのに。」(ルカ19:22-23)
 そうして他の者に命じて、件の僕の持つ1ムナを取りあげて10ムナを稼いだ僕に贈らせた。「だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」(ルカ19:26)

 ルカ19:28-44〈エルサレムに迎えられる〉
 エリコを発ったイエスはエルサレム近郊の村で調達させたロバに乗り、一路<ダビデの町>、かつての都エルサレムへ最後の行進を始めた。その途次、弟子たちはかれを讃美し、ファリサイ派の人々は眉をひそめた。
 「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。』」(ルカ19:41-44)

 ルカ19:45-48〈神殿から商人を追い出す〉
 エルサレムへ入城したイエスは神殿に向かい、そこで商いをしていた商人たちを片っ端から追い出していった。わたしの家は祈りの家であるべきなのに、お前たちは強盗の巣にしてしまった、といいながら。
 それから毎日、イエスは神殿の境内で教えた。その様子を祭司長や律法学者、民の指導者たちは快く思わなかった。かれらはイエス殺害を計画した。が、実行は難しかった。というのも民衆は皆夢中になってイエスの話にじっと耳を傾け、その言葉、その教え、その福音に感じ入っていたからである。

 10ムナを僕たちへ預けていった、王位に就いたその人は、ノートからは一切省いたが、到底国民の信を得られるような人ではなかった(ルカ19:14)。1ムナをしまっていた僕も王の気質、気性を知っていて、与えられたお金を使っても利益を出すような商売ができなかったらどうなるか、損害を出したりしたらどれだけの怒りを蒙るか、と、いろいろ計算してしまったのかも。
 が、王はむろん、そんなことは望まなかった。与えたお金を有効に活用することで、かれらの能力を見出そうとしたのだろう。それを端的に示す言葉が、「ごく小さなことに忠実」というものである。与えられた1ムナを元手に利益をあげた僕たちは、ごく小さなことにも注意を払い、気を回し、そうしたことについては忠実かつ誠実であった。自分の頭ですべてを考え、邪念などはなかったのである。1ムナをしまっていた僕にはそれができなかった。どんなに些細なことについても忠実ではあり得ぬ、と評価を下されたのである。
 「持っている者は更に与えられ、持っていない者は持っているものまで取りあげられる」とは不公平かもしれぬが、これこそまさしく人生の真理であり、世界が循環するための、窮極の<理>なのだ。
 なお、「ムナ」はギリシアの通貨単位である。ルカ19:13で僕たちへ渡された10ムナは1,000ドラクメ、つまり1ムナは1,000ドラクメの1/10=100ドラクメであり、1日分の賃金;100デナリオンと同価である。デナリオンと基準にして考えれば、1ムナとは実に100日分の賃金に相当する、ということだ。約3ヶ月分である。新卒社会人の平均月給が約20万円とされる今日の勘定でゆけば、だいたいそれは約60万円程度だ。僕たちを試す名目はあったかもしれぬけれど、王が1人1人へ与えた額面がそれなりに高いものであったことがわかる。
 さて、イエスとその弟子たちの、第9章第51節から始まったエルサレム行は本章第41節を以て終わった。もはやイエスは旅空の人ではない。エルサレムにあって福音を宣べ伝え、反対勢力と戦う人である。それは即ち、公生涯の最後の日々の幕開けである。今後紹介される挿話は、勿論多少の差異はあるといえども「マタイ」、「マルコ」と著しく変わるところはない。が、殊に捕縛から処刑、死、そうして復活へ至る一連の描写は力強く、狂ほしく、残酷なまでの美に彩られている。雄渾な筆致と相俟って受ける感銘は、ややもすると先の2つの福音書に優ろう。しかしこれはまだ明日以後にならねば実感できぬ。興奮が過ぎたようだ。ともかく本章は「ルカによる福音書」の、構成上の分岐点である、とだけいまは指摘しておく。

 本日の旧約聖書はルカ19:46とイザ56:7。◆

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第1961日目 〈ルカによる福音書第18章2/2:〈金持ちの議員〉、〈エリコの近くで盲人をいやす〉他with文章は書き主に似るのか、メタボ一歩手前で……〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第18章2/2です。

 ルカ18:18-30〈金持ちの議員〉
 どうすれば永遠の命を得られるでしょうか、と問うた議員がいた。
 イエスはその議員にいった。あなたは、姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、偽証するなかれ、父母を敬え、という教えを知っているか。
 議員は、それらのことはすべて子供の頃から行っています、と答えた。
 あなたに欠けているものが1つある。そうイエスはいった。自分の持ち物をすべて売り払い、得たお金で貧しい人に施しをせよ。
 それを聞いた議員は悲嘆に暮れた。というのも、かれはあまりに金持ちだったからである。
 その様子を目にしたイエスはいった。財産のある者が神の国に入るのは難しい、ラクダが針の穴を通る方が余程易しかろう。
 では先生、どのような人が救われるのでしょう、と弟子たちが聞いた。われらはすべてを捨ててあなたに従ってきました。
 イエスはいった。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は誰でも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(ルカ18:29-30)

 ルカ18:31-34〈イエス、三度自分の死と復活を予告する〉
 エルサレムへ上る途次、イエスは12弟子を集めて告げた、──
 人の子についてかつて預言者たちが書き記したことは、実現する。人の子は異邦人に手に引き渡され、かれらに侮辱され、暴行され、鞭打たれ、殺される。が、人の子は3日目に復活する。
 しかし12人の弟子たちはそれがなにを意味するのか、よくわからなかった。真意は言葉の陰に隠されたからである。

 ルカ18:35-43〈エリコの近くで盲人をいやす〉
 エリコ近郊、イエス一行は1人の盲人と行き会った。かれは道端で物乞いをしていたが、群衆からナザレのイエスの訪れを知り、イエスに向かって自分を憐れんでください、と何度も叫んだゆえだ。
 イエスは盲人をそばへ呼んで、なにが望みか、と訊いた。
 主よ、見えるようになりたいのです、と盲人は答えた。
 見えるようになれ。そうイエスはいった。あなたの信仰があなたを救った。
 実際、盲人はもはや盲人ではなくなった。かれの目には世界の光景が映り、イエスの姿が映ったのである。そうしてかつての盲人はイエスに従う群衆の1人となり、人々は神を讃えた。

 前にも述べたことだが、さすがに同じ挿話を3回も読んでいると、多少なりともわかってきたな、と自惚れることである。
 死と復活の予告は別にどうでもいいが(失礼! ←誰にいっているのか?)、お金持ちの議員の落胆と盲人が癒やされる話には胸を圧される気分だ。人は高い志を持っていても自分の持ち物への執着は容易に捨てられないし、将来自分の両耳が完全失調したときイエスのような者と出会ったらこの盲人への理解は誰にも優って深まることであろう。
 わたくしにはどのような信仰があるだろう。その信仰はどのようにわたくしを救うだろう。愛する死者を再びわが腕に抱くことができるのだろうか。そうして、わたくしは施しを授ける側となれるのか。

 本日の旧約聖書はルカ18:20と出20:12及び申5:16-20。いずれも<十戒>の条である。



 昨日今日とちょっと事情があって第18章を分割したが、すべてを書き終えて顧みるに、なんと1日分の記事の文字量の少ないことだろう。現時点でようやく400字詰め原稿用紙3枚分である。これは本ブログが始まったときよりは多少多いけれど、往時に比較すれば何分の1かの文字数だ。なにやら物足りぬと思う一方で、これぐらいがいちばんふさわしいと思う。
 むろん、相当の物足りなさも感じている。なんというてもわたくしは推敲すれば肥大化するのが常な性分だ。削っているつもりなのに、気附けば増量、増量、また増量。膨張してゆく宇宙空間のようだが、残念ながら、わが作物にブラックホールに相当するものはない。己の意思と行動で持ってのみ削減は現実となるのだ。なんというかね……巨大で空虚な大伽藍を築いているような気分。文章は書き主に似るのか、メタボ一歩手前で踏み留まっているのはせめてもの救い?
 「簡素なれど豊かに」、それがわが文章作法の理想だ。つまり、それはブラームスの音楽を範と仰ぐことであり、けっしてブルックナーやマーラーの音楽を範とした文章ではない、ということだ。──自分がそのような文章を物せるようになるまで、あとどれだけの文章をこの世に産み落とさねばならないのだろう。道は長い、が、歩かねばならない。文章は墓碑、よくいうたものである。
 そういえばブルックナーで思い出したが、今日は(昨日ですか)SONY CLASSICALのの発売日ですね。チェリビダッケのブルックナー交響曲第7番と第8番、1990年東京ライヴは結局BOXセットを買い逃したから、この機会に購入しておこうかな。じゃあ、これからタワーレコードに行ってくるので、本日はここまで。ちゃお!◆

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第1960日目 〈ルカによる福音書第18章1/2:〈「やもめと裁判官」のたとえ〉、〈「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ〉&〈子供を祝福する〉withマーフィー理論を信じるのはちょっとなぁ……。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第18章1/2です。

 ルカ18:1-8〈「やもめと裁判官」のたとえ〉
 なにがなくても気を落とすことなく、祈ることをやめてはならない。イエスはそのことを教えるため、弟子たちにこういった、──
 或る町に神を畏れず人を人と思わぬ裁判官がいた。一方、かれの許へ絶えず来ては、相手を裁いてわたしを守ってほしい、と訴えるやもめがいた。裁判官は始め取り合わなかったがあまりのしつこさに耐えかねて、そろそろ訴えを聞いたやるとするか、と考える。さもないと逆恨みして俺を悪い目に遭わせるかもしれない。
 さて、イエスはいった。この不正な裁判官の言い草をどう思うか。果たして神が呼び求める選ばれた人々の裁きを行わず、かれらを放置しておくなどということがいったいあるだろうか。否、神はすみやかに裁く。
 ではいったい……「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:8)

 ルカ18:9-14〈「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ〉
 自分は正しい人間である、と自惚れて、他人を見下す者へのイエスの言葉。
 ファリサイ派の人々と徴税人が神殿へ上った。ファリサイ派の人は立って、自分の、善いとされる行いの数々を心の裡に並べ立てた。一方、徴税人は遠くに立ち、目を伏せ胸を叩きながら、神よ、罪人であるわたしを憐れんでください、といった。義とされて家に帰ったのは徴税人の方である。
 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:14)

 ルカ18:15-17〈子供を祝福する〉
 イエス来たる。それを聞いた町や村の母親たちが乳飲み子を抱いて集まってきた。弟子たちは母親らを制したが、却ってイエスは弟子たちを制し、母親らに乳飲み子をそばへ連れて来させた。
 「神の国はこのような者たちのものである」(ルカ18:16)と、イエスはいった。子供のようになって受け入れる者でないと、神の国へは入れない。

 いつ如何なる世であっても慎ましく、謙虚に、人を愛し憐れみ敬い、へりくだる者であれ、ということか。そんな人間になれれば良いが、この世界はそうした人物を排斥するよう作られている。智に働けば角が立つのだ。

 本日の旧約聖書はルカ18:20と出20:12及び申5:16-20。いずれも<十戒>の条である。



 マーフィー博士は心に己の夢を描き続ければ、それはかならず実現する、と説く。これ即ち<マーフィー理論>。これはどんな人でも信じていいことだ。わたくしの場合、それはとても些細な事柄だが、考えをポジティヴな方向へ向けていれば、それは自ずと現実になることを仕事中につくづく実感。
 が、どんな夢を心に描いても、むくわれない夢はぜったいにある。実現を望んでもかなわない夢は、かならずある。マーフィー理論とて実現させられない願いはあるのだ。実現できぬ未来……それを夢見ることはなんと甘美で、残酷か。そこでは時間は、永遠に止まったまま。寝覚めるも地獄、眠るも地獄。おれはどこにも行けない。
 残りの人生をなにを縁に生きようか、とちかごろ真剣に考えている。家庭なんて望んでも得られぬし、筆一本で生活するのは愚かな行為だ。判で捺したようないまの生活を続けるのが、実はいちばん幸せかもしれない。あとはただひたぶるに、夢にしか現れてくれぬ人を偲んでおればよいか。
 ──今日は暗くなっちまったが、明日からまたこれまで通り脳天気に、ふにゃけた内容のエッセイを書いてゆくよっ!◆

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第1959日目 〈ルカによる福音書第17章:〈赦し、信仰、奉仕〉、〈重い皮膚病を患っている十人の人をいやす〉&〈神の国が来る〉withその朝、災いが降りかかったのだ!(3/3)〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第17章です。

 ルカ17:1-10〈赦し、信仰、奉仕〉
 赦しについて、イエスは弟子たちにこういった、──
 つまずきは避けられないが、それをもたらす者は不幸である。覚えておきなさい。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。」(ルカ17:3)
 1日に7回罪を犯したとしても、そのたび悔い改める旨告白したらば赦してやりなさい。
──と。
 使徒たちが、われらの信仰を増してください、と主即ちイエスに頼んだ。かれは弟子たちにこういった。あなたがたにからし種1粒程の信仰があれば、どんな困難事でもやってのけられる。
 奉仕について、イエスは弟子たちにこういった、──
 あなたがたのうち、労働から帰ってきた僕に、お帰り、早く食事の席に着きなさい、という者があるか。いないだろう。早く支度を調えて給仕せよ、われらが食べ終わってからお前は食事せよ、というであろう。命じられたことを果たした僕を主人が感謝するか。
 あなたがたも同じだ。命じられたことをすべて行ったらば、われらは取るに足らぬ僕、しなくてはならないことをしただけです、といいなさい。
──と。

 ルカ17:11-19〈重い皮膚病を患っている十人の人をいやす〉
 エルサレムへ向かうためガリラヤを出発したイエスは、ガリラヤ地方とサマリア地方の間の地域を通った。或る村に入ると、皮膚病を患った10人の者がイエスを迎え、癒やしてください、と頼んだ。イエスは諾い、10人が祭司たちのところへ行くまでの間に、かれらの体を清くした。
 それを発見した10人は喜んだが、実際にイエスの許へ戻ってきて感謝したのは1人だけだった。「この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」とイエスはいった。そうして戻ってきた者に、「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ17:19)といった。

 ルカ17:20-37〈神の国が来る〉
 ファリサイ派の人々の質問に答えてイエスはいった、──
 神の国の訪れは目に見える形で為されるものではない。それはあなたがたの間にあるのだ。
 そうしてイエスは自分の弟子たちにいった、──
 「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」(ルカ17:22-25)
 人の子が現れる日には、ノアの時代にあったようなこと、ロトの時代にあったようなことが起こるのである。即ち、天地を揺るがすかの如き災禍である。そのような時の訪れを目の当たりにしたならば、なにをさておいても自分の身が第一で行動しなさい。外出先から一旦帰宅しようと思うな。家財道具のために帰ったりするな。ゆめロトの妻の如くになるな。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:33)
 ──弟子たちはイエスに、それはどこで起こるのでしょうか、と訊ねた。イエスは、死体がある所には禿鷹も群れるのだ、といった。

 皮膚病患者とイエスが遭遇したのは、ヨルダン川西域に広がるデカポリス地方だろう。新約時代のパレスティナに於いて、ヨルダン川両域に跨がるのはこのデカポリス地方のみであった。

 本日の旧約聖書はルカ17:26-27と創6:5-6並びに同9-7:24(ノア;洪水),ルカ17:28-29と創13:13並びに19:1-29(ロト;ソドムとゴモラ)、ルカ17:32と創19:26(ロトの妻、塩の柱となる)。



 労災喜遊曲第3回目であります。そうして、暫定的な最終回。
 2日も欠勤して溜め息交じり、足重な水曜日の朝が来た。転倒した件の階段は、足取りは普段と代わらぬものの気持ちの上では慎重に、自ら事故を再現してみせぬよう慎重に降りる。加えていえば、携帯電話はリュックの、ファスナー付きのポケットのなか。あの事件/事故からもう48時間が経つのか……。
 舞台は職場のある港湾地区のタワービルへ移る。実に10日ぶりに出勤、姿を現したわたくしを、上司・同僚は<派遣>という一部の衆を除いてあたたかく出迎えてくれた。その声に応えながらもわが歩む先は事業所の上長、マネージャーの席である。昨日、病院と薬局でもらった領収書を握りしめ。
 2日続けての欠勤を詫び、事故の経緯と診断結果、携帯電話紛失事件の顛末を約50秒で述べた後、今度は労災申請についての説明を約1分。そうして業務終了後、上長からお呼びが掛かり、申請の書類と記入の手引きが渡された。その折、朝に提出した領収書も戻って来。わたくしは明日、書類の記入して持参することを約束した。未だ労災として申請できるか否か、認定されるか否か、水曜日のこの宵刻の時点はわからない……。
 みくらさんさんか、心の呟き;労災の申請ができれば、或いは認められれば、病院と薬局で支払った額の一部が(多少なりとも)戻ってくる。かりに労災にならなかったとしても、来月からわたくしの雇用契約の内容は変わり、社会保険にも再度(ここ、強調)加入となるのだから、病院と薬局に行けばやはり支払った額の一部は還付されるのだ。そうした意味では、実にタイミング良く事故に見舞われたものである。これも日頃の行いが良いせいか(あは!)。それにしても例の保険証、どこへ姿をくらましたんだろう?
 ところでわたくしは翌る木曜日から4連休となる。つまり、次の日は休みということだ。が、背に腹は代えられぬ。お金のためならエンヤコラ、である。翌日書類を持参する約束に、二言はないのだった。
 その日はさ、会社近くのスタバに寄っていつも通り原稿を書いたの。途中、店の前を通りかかった上司3人とガラス越しに「おつかれさま〜」「じゃあね〜」と、公衆注視のなかで手を振り合い。いつものことです、馴れました。もう恥ずかしくないだもん。──で、その日スタバをあとにしたのは、ああ、23時37分のことであった。日付が変わったあとに帰宅したのは当然なのだけれど、件の書類を記入したのは確か……午前1時少し前でなかったかな。
 空がちょっとずつ明るくなってきた頃に床へ就き、それ程熟睡したとも思えぬ時間に起床、リュックのなかに書類が入っているのを目視して会社へ。仕事が休みの日に会社へ行くって、なんだか新鮮だね! 呵々。労災申請の書類をマネージャーに手渡し、30分ばかりそちらの作業が終わるのを眺めの良い休憩室で待ったあと、自筆の書類と、その内容をパソコンで入力・印刷したものを見せられて相違がないことを確認。自筆の書類とパソコンで清書された書類、加えて2種の領収書を提出して以て労災の申請になるらしい。
 結局その日──木曜日はそれで終わった。まずは一段落というところだ。ふしぎな達成感に満たされたわたくしは、なにかに導かれるようにして会社周辺に6カ所あるスタバのうちの1店舗に赴き、そこで悠然と原稿を仕上げ……呆けた顔で同じビルにある書店の新刊文庫の棚の前で昼休み中の同僚に声をかけられ……なにも後ろめたいことはないのに妙に落ち着かぬ気分に陥ったことである。いつでもわたくしはこうなんだ。突然の出来事の到来に満足ゆく対応ができたことが、あまりない。
 ──斯くして人身事故が起こって<いつもと同じ行動>を見出された月曜日の朝、突然にわたくしを見舞った事件/事故を喜遊曲風に綴る3回分載エッセイは、今日ここに終わる。本稿を書いているのは同じ週の土曜日なのだが、その午前中、本社の人事部から書留が届き、今度は正式な労災の申請書類が届けられた。これを記入して返送すれば、あとは本当に待つだけである。幸いと病院と薬局は労災認定されて書類が発行され次第持参すれば、本来の期日が過ぎても構わない、という。
 ああ……これでひとまず終わりだ。大したことはしていないのに、ずいぶんと長く感じたなぁ……。
 さて、果たしてこの労災申請は受理されるか否か。待て、続報。◆

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第1957日目 〈ルカによる福音書第16章:〈「不正な管理人」のたとえ〉、〈律法と神の国〉&〈金持ちとラザロ〉withその朝、災いが降りかかったのだ!(2/3)〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第16章です。

 ルカ16:1-13〈「不正な管理人」のたとえ〉
 イエスは弟子たちにいった、──
 或る金持ちの家に財産を管理する者が1人いた。実はこの管理人には不正と横領の噂があって、それは事実だった。或る日、主人からその真偽を問われた管理人は、いよいよ言い逃れができなくなったことを悟り、考え、一計を案じた。管理人は主人に借りのある者を呼んで、1人1人に虚偽の証文を作らせたのだった。結果としてかれは、借りのあった者らの負債を多少なりとも減らしてやったのである。主人は、管理人のこの抜け目ないやり方を褒めた。自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っている、というて。
 そこでわたしはいうておく。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ16:9)と。
 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:10-13)

 ルカ16:14-18〈律法と神の国〉
 これを聞いてファリサイ派の人々がイエスを侮蔑して笑った。イエスはいった、──
 自分の正しさを他人に誇示するあなた方の心を、神は知っている。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:15)
 律法と預言者は洗礼者ヨハネの時代までである。それ以後の<いま>は神の国の福音が人の子によって語られている。誰もが神の国に入ろうと遮二無二なっているけれど、実は律法の文字の一画がなくなるよりも天地が消え失せる方が易しいのだ。
 妻を離縁した夫も、離縁された女を娶った男も、姦通の罪を犯したことになる。これを知れ。

 ルカ16:19-31〈金持ちとラザロ〉
 貧者と富者がいた。貧者の名はラザロ。贅沢三昧の金持ちの家の門の前に居り、体中にはでき物があって、金持ちの食卓から落ちたものを食べて露命をつないでいる。
 やがてラザロは死に、天使たちの導きによって宴席にいるアブラハムのそばに坐ることを許された。また金持ちも死に、こちらは黄泉で苦しみもがいたのだが、或るとき、アブラハムのそばに坐るラザロを見た。金持ちは宴席のアブラハムに、ラザロをこちらに寄越してください、わたしは陰府の炎のなかで苦しみもがいています、憐れんでください、といった。
 アブラハムは答えた。否。お前は生前、良いものをたくさんもらった。が、ラザロが得たのは悪いものばかりだったのだ。ゆえにラザロはこちらに、お前はそちらにいる。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方へ越えて来ることもできない。」(ルカ16:26)
 ならば、と金持ちはいった。わたしには兄弟が5人います、わたしと同じ目に遭わぬよう、死んだ者の誰かをかれらに遣わして悔い改めるよう諭してください。
 アブラハムは答えた。否。かれらにはモーセと預言者がある。その言葉すら聞かぬような者たちが、死から甦った者の言葉にどうして耳を傾けたりするか。

 なんとも理解の難しい挿話だ。不正な管理人の喩えである。「不正にまみれた富で友どちを作れ」とはどのようなことか。虚偽の証文を作らせた管理人を主人とイエスが褒めるのは、どうしたわけか。今日の通念では考えられないことだ。
 この挿話の要は、引用もしたルカ16:10-13にある。不正にまみれた富にでさえ忠実でなければ何人と雖も真に価値あるものの管理は委ねられないし、他人のものに忠実でなければ何人と雖も自分が持っているものは与えられない、というのだ。
 そうした点でこの管理人は、何事にも忠実であった。そうして自分が直面した危難について考え、他人の抱える負債を──意図してか否かは別として──減らしてやった。不正を働いたとはいえ管理人は己の職務を遂行した。こうしたところを認めたから主人もイエスも、本来なら糾弾されて然るべき管理人を褒めたのだろう。
 実に味のある挿話ではないか。

 本日の福音書はルカ16:18とマタ19:9及びマコ10:11-12。



 では、昨日の続き。
 なくしたと思うていた携帯電話が見附かり、交番へ受け取りに行って一息ついたのも束の間、これまで表立って意識するところのなかった右肩の痛みがわたくしを襲うたのである。ほっ、とまずは安堵して気持ちにゆとりが生まれたためかもしれぬ。とにかく右肩に痺れと痛みが走り、痛みが鎮座坐した右腕を、肘より高く上げるのさえ困難で。
 それは既に夕刻。病院は閉まっている。その日はなるべく右肩に負担をかけぬよう気を付け、静かに過ごした──でもパソコンのキーボードを叩くのはちょっと難儀したな。で、月曜日に施した処置は温感クリームの塗布と温湿布を張ること。映画を観るのにごろ寝しても完全な仰向け状態から動くことままならず、ソファへきちんと坐って背筋を伸ばす、というあまり経験のない姿勢での鑑賞と相成った。
 翌る日、会社には一旦午前休とし、以後の判断については改めて連絡する旨伝え、いつの間にやらファサード部分を改装していた総合病院へ赴く。整形外科の窓口で診察券を持って行くよういわれた。廊下は、週の始まりの日の午前中ということもあってか、どの課にも結構な数の待ち人がいる。わたくしは廊下の長椅子に空きを見附けてそこへ坐り、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』を読み、途中促されて問診票を記入して、より一層長く感じられる待ち時間を過ごした……。
 やがて名前が呼ばれて、簡単な診察。昨日よりはずっと自由が利くようになったのに驚きながら、医師の2,3の質問に答え、今度は放射線科に行ってレントゲン写真を撮ってこい、という。素直で有名、上の者には逆らわない、が信条のわたくしはそれに従い、わずかの転た寝をしている間に名前が呼ばれたのに気付かなかった、という記すに値せぬ出来事に出喰わすもレントゲン写真の撮影を済ませて、再びの整形外科へと戻った。
 それにしても、ちかごろは病院の待合で携帯電話を使っている人が、とても少なくなったなぁ。整形外科のまわりは内科と小児科、耳鼻科なのだが、診察を待つ人10数人のうち携帯電話を夢中になって操作しているのは、親の通院に付き添ってきた、わたくしと同年配と思しき、だらしない服装をした男性のみだった。それはちょうど小児科の前の長椅子。病院の誰彼が気附いて諭す前に、幼稚園年長か小学校低学年と見える女の子と、日本姓を持つ外国人男性が意図せずしてほぼ同じタイミングでかれを注意したことを、われら日本の成人は恥ずかしい、と思わねばならぬ。見て見ぬ振り、事勿れ主義なんて通用しないんだ。
 ──という風に長い長い待ち時間を過ごし、転た寝して一刻の夢に遊んだ後、わたくしは再び呼ばれて医師の前に坐り、レントゲン写真を見ながら骨にヒビは入っていないこと、ちょっと全治に時間がかかる(約4週間とのこと)筋違いである、と説明されて……診察は終わった。〆の医師の一言;あたためないでね。なんと!?
 会計で支払ったその日の診察料は、1万数百円である。健康保険証が如何なる理由でか見附からずに斯様な次第となったわけだが、全額自費という現実からは逃れられない。保険証のある幸せ、そのありがたみを実感した瞬間であった。なくしてそのありがたみを知る。必要なときにないよりも、あるのに必要ない方がいい。これは真実だね!
 たまたまそれはわたくしの雇用契約の内容が変更される頃だった。会社の方から保険証が発行されれば差額分は返却されるし、また、通勤途上の出来事ゆえに労災が認められれば書類の提出を以てやはり差額は返却される由。それは病院の隣にある薬局に於いても同じであった。しかし病院側は労災の書類は4営業日以内に、薬局側は今月中にそれが欲しい、という。わたくしがこれまでに労災を受けたのはもう約20年近く前で記憶は定かでないのだが、はて、労災の認定と書類の発行・受け取りはそんなに短期間でされたっけっかな。
 薬局での冷湿布の束の受け取りと支払いを済ませたら、もう午後2時近くだった。結局その日は連絡して会社を休み、次の日出勤した折に上長へ労災の申請を行うこととし。
 病院で過ごした時間について書いていたら、なにやら予想外に長くなってしまった。前述のようにこのあと労災申請に関しての出来事が残っているのだけれど、これはまた明日とし、以てそれを暫定的な最終回としよう。かの出来事、トータルすれば約30分程度、昨日よりも今日よりも分量を短くできるはず。
 では、また明日。to be Continued.◆

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第1956日目 〈ルカによる福音書第15章:〈「見失った羊」のたとえ〉、〈「放蕩息子」のたとえ〉他withその朝、災いが降りかかったのだ!(1/3)〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第15章です。

 ルカ15:1-7〈「見失った羊」のたとえ〉
 イエスの話が聞きたくて、徴税人や罪人がかれの許に集まってきた。これを見たファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエスを咎めた。この人は罪人を迎えて、食事まで一緒にしている、というて。
 イエスがいった。100頭の羊を持つ人がいる。そのうちの1頭が迷子になったので、羊飼いは必死になって捜した。幸いとそれは見附かった。捜し物が見附かったことを喜んだ羊飼いは、友人や近所の人たちを集めて、どうぞ一緒に喜んでください、ということだろう。
 「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びがある。」(ルカ15:7)

 ルカ15:8-10〈「無くした銀貨」のたとえ〉
 また、10枚のドラクメ銀貨を持つ人がそのうちの1枚をなくしたときも同様である。捜し回って見附けた銀貨1枚のために、友人や近所の女たちを集めて、どうぞ一緒に喜んでください、ということだろう。
 「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ15:10)

 ルカ15:11-32〈「放蕩息子」のたとえ〉
 また。
 或る人に2人の息子がいた。弟が父親に財産分与を求め、得たものをすべてお金に換えて国を出、行く先々で遊蕩三昧の日々を過ごした。やがて弟は素寒貧となり、食べる物にも困るようになった。そこでかれは、国へ帰って父の家で使用人に雇ってもらおう、と考えた。父の家では使用人にもたくさんのパンが与えられていたことを思い出し、父の家で働けばすくなくとも飢え死ぬ心配はないだろう、と考えたからである。そうして弟は国へ帰った。
 ──近附いてくる次男の姿を父は遠くから認めて歓待、使用人に命じて息子に上等の着物を着させ、上等の食事を与えさせた。天に対しても、父に対しても罪を犯したのだからもう息子と呼ばれる資格はありません、という次男の言葉を退けて、父親は息子にきちんとした格好をさせ、きちんとした食事をさせたのである。曰く、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったらからだ」(ルカ15:24)と。
 そうして、祝いの宴が張られた。
 と、その騒ぎを畑仕事中の長男が聞きつけた。長男は僕の1人を呼んで、これはなんの騒ぎか、と訊ねた。あなたの弟さまがお帰りになったので、それを祝う席が設けられているのです、と、その僕は答えた。これを不満に思うた兄は父の許へ行き、詰った。わたしはお父さんに何年も仕えてきましたし、いいつけに背いたこともありません、友との宴会にお父さんは小羊の1頭さえわたしにくれなかった、なのにどうして遊びで財産を使い果たして戻ってきた弟をこうまでして迎えるのですか、と兄はいった。
 納得ゆかぬ風の長男に、父は静かにこういった、──
 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。たが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ15:31-32)

 本章は3つの喩え話を用いて1つの主題について語る。即ち、もう失われたと諦めたものが思いがけず見附かったら、人を招いて一緒に喜んだり祝ったりするのは当然ではないか、ということ。かりにそれを不平不満に感じる者がいたとしても、である。
 これはよくわかる。つい先日、これを是と思うことを経験したからだ。携帯電話を紛失、交番に届けられていたことなのだが、これは本日から全3回のエッセイとしてお披露目させていただく。詳細(か?)はそちらをお読みいただくとして、捜し物が発見されたことを捜索者は喜び、この喜びを誰かと共有したいと思う。それを踏まえての本章の喩え話である。わからぬ人がいたら、経験されてみることを提案したい。なお、これはあくまで「提案」であって「推奨」ではない。
 「ルカによる福音書」としても、4つの福音書としても<放蕩息子の帰還>は知られた挿話と思う。すくなくとも、キリスト者でなくてもその名だけは知っている。が、実際に読んでみると、なくしたものが見附かったので祝おう、という筋書きよりも、わたくしはここに、良くできた息子とそうでない息子を持った父親の想い、その機微、心の綾を読み取りたく思う。引用したこの父の言葉、ご尤もなのである。



 京浜東北線が人身事故で大幅に遅延していた今週月曜日の朝、わたくし、みくらさんさんかは携帯電話を紛失した。
 遅延している、とあって、若干急ぎ気味であったのは否定できない。場合によっては振り替え輸送を利用するよりもタクシーを使った方がいいかなぁ、と考えていたことも否定はしない。が、周囲の様子、自分の足元について注意がおろそかになっていたとは思えない。そう、電車の件を別にすれば、概ね普段となにが変わるわけでもない月曜日の朝だったのである。
 通勤途中、最寄りの駅にいつも通り向かっていたわたくしは、オフィスビルと跨線橋を結ぶ階段を降りていた。その真ん中あたりで、なんの拍子にか足元がよろけ、アスリートも斯くやというぐらい派手に、大仰に、ダイナミックに、すっ転んだのである。とっさに右手をつき、が、肘が曲がって右肩を痛打した。1回転したね。世界がぐるり、と回ったよ。天地が引っくり返る光景を一瞬なりとも見るなんて経験、人生に於いて実はそう滅多にない(除アトラクション)。
 その際だ、ジーンズの尻ポケットに入れていたiPhone5が抜け落ち、それに気附かぬまま駅へと向かったのは。
 ホームに着いてからしばしの時間が持てれば、もっと早く紛失に気が付いたかもしれない。が、遅延しているとは申せ、ホームに到着して30秒と経たぬ間に──時間的にはいつも利用しているのと変わらぬ時刻に──電車が到着したとあっては、尻ポケットへ収まる(はずの)携帯電話について思い巡らすなどできようわけもなく、いつもなら乗る前にポケットを軽く叩いて、あるべき物がそこにきちんとあることを確認するのだが、それもその日に限ってはすることなく、開いたドアから割に空いた車内へ乗りこみ、偶然空いていた席へ体を落ち着けるまでは安堵しか自分のなかにはなかったんだ。
 違和感を覚えたのは、次の駅に到着する直前である。なにやら座席との接地面に違和感を覚えたのだ。さりげなく、あくまであさりげなく、尻ポケットを上から撫でてみる──携帯電話、ないじゃん!? もはやなりふり構っていられない、携帯電話を入れそうな場所を捜してみる。シャツの胸ポケット、ジーンズのポケット各所、そうしてリュックのなか、旅行のお土産が入った紙袋。いずれにも、わがiPhone5(黒、ごつい同色のバンパー付き)は、ない。キットドコカデオッコトシタンダ!!
 この人生初めての出来事に遭遇して、(月並みな表現ではあるが)頭のなかが真っ白になった。急いで次の駅で降り、人混みをかき分け、戻る電車が数駅離れたところにまだ停まっていることを構内アナウンスで聞くや、韋駄天の如くに改札を出て、ちょっと並んで京浜急行は各駅停車に乗り、地元へ戻る。歩いた道を、通行人のことは端から視界の外に置き、下にばかり視線を投げてキョロキョロしながら、転倒場所まで辿ってゆく。が、携帯電話はどこにもない。駅にも、オフィスビルの防災センターにも、早朝から開いているスーパーにも、そのような落とし物の届け出はない、という。
 万事休す。が、幸いと防災センターの人からその地域を管轄する交番の所在と、統括する警察署の電話番号を教えてもらった。……これが今回の携帯電話紛失事件の大きな転換点となる出来事になることを、まだこのときのわたくしは知る由もなかったのである!(BGM;川口浩探検隊のテーマ)
 どうしよう。焦り、不安になる心を抑えてまずは帰宅。会社に電話して、この理由にならないようで理由になる理由で休むこととした。myさん、感謝! そうして契約している携帯電話のキャリアと金融機関に連絡して、一切の電話機能や口座利用の停止の手続きを済ませる。それと並行して警察署へも電話。紛失を扱う窓口に回線は転送され、数回のやり取りと保留を経て、地域を管轄する交番にわが携帯電話の届け出がされていることを知る。オフィスビル内の会社へ勤める心ある女性の手によって! ありがとう、諸人よ、歌おう、感電する程の喜びを! ハイホー!
 日頃の行いが良いせいだろうが(えへ)、天はわたくしを見捨てなかった。見放しもしなかった。無くし物が見附かった安堵から全身虚脱状態ではあったが、かの交番へ赴くわたくし。しっかり調書は取られたけれど、受け取り手続きを済ませ、帰り道には防災センターでわたくしの対応をしてくださり、交番への連絡を示唆してくれた方にお礼を申しあげた後、仏壇に合掌してすべての計らいに感謝した後、ご飯を食べて畳の上で大の字になって引っくり返り……昼寝して……夕刻、目が覚めたら右肩が痛かった……。
 おそらく、携帯電話が無事に戻ってきたことで気持ちに余裕が生まれたのだろう。それはそれで良いことだ。が、この痛みはどうにかならぬものか。腕が上がらないのだ、ワトスン。どうにかしてくれ。いまの気分、まさしく「オーマイガーッ(oh,my god!)」て感じ?
 この翌日、わたくしは地元の総合病院へ行くことになるのだが、これについては今日と同じぐらいの分量で続編をご用意してあるの。というわけで、しばらく使っていなかったこの言葉を本稿の最後に掲げよう。
 to be Continued.◆

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第1955日目 〈ルカによる福音書第14章:〈客を招待する者への教訓〉、〈「大宴会」のたとえ〉他with バッハのフルート・ソナタを聴いています。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第14章です。

 ルカ14:1-6〈安息日に水腫の人をいやす〉
 安息日、イエスは食事の招きを承けてファリサイ派の議員の家に行った。そこにはイエスの言動を監視する人々が大勢いた。家のなかに水腫を患う人がいた。
 その人を前に、イエスは一同にいった。安息日に人を癒やすのは是か非か、律法はどのようにいうか。
 議員の家に集まった人々は皆、一様に押し黙ってしまったのである。
 イエスは水腫の人の手を取り、癒やして、帰らせた。
 かれは人々の方へ向き、訊ねた。あなた方の愛する者が事故に遭ったとしよう。その日はちょうど安息日だった。では安息日だからという理由で、あなた方は、自分の愛する者を助けないのか。
 議員の家に集まった人々は皆、これに答えることができなかったのである。

 ルカ14:7-14〈客を招待する者への教訓〉
 イエスは招待客が自ら進んで上席へ行く様子を見て、こういった、──
 宴席に招かれたらば上席を選んで坐ってはならない。あとからそこへ坐るべき人が来た場合、その者は席を譲らなくてはならず、いらぬ恥をかいて末席へ移る羽目になる。
 宴席に招かれたらば、寧ろ末席を選んで坐りなさい。そうすれば招待主が来て、さあもっと上座へ坐ってください、と促すだろう。そうすれば、その者は面目を施すことになる。
 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:11)
 またイエスは自分を招いた人に対しても、こういった、──
 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14:13-14)

 ルカ14:15-24〈「大宴会」のたとえ〉
 と、食事をしていた招待客の1人が、神の国で食事する人はなんと幸いだろう、といった。これに応じてイエスの曰く、──
 或る人が盛大な宴会を企画して、大勢の人を招待した。支度も調い、時間になったので、そのひとは招待客各位の許へ僕を派遣して招いたのである。が、あらかじめ招待されていた人々は口々に理由を並べ立てて、出席できない旨伝えた。これを聞いた招待主は憤り、僕に命じていった。曰く、──
 「『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」(ルカ14:21-24)

 ルカ14:25-33〈弟子の条件〉
 ファリサイ派の議員の家を辞したイエス。かれは自分に従いて来る群衆へ向かって、いった、──
 自分の両親や配偶者、子供或いは兄弟姉妹、更に申せば自分の命を憎まぬ者は、わたしの弟子になり得ない。自分の持ち物一切を捨てられないなら、あなた方の誰1人としてわたしの弟子ではあり得ない。

 ルカ14:34-35〈塩気のなくなった塩〉
 塩気のなくなった塩に味付けをする方法があるだろうか。塩気のなくなった塩はもはや顧みられることがない。畑に蒔くことも肥料とすることもできず、ただ役立たずとして外へ捨てられるだけだ。
 聞く耳のある者は俺を聞きなさい。

 イエスの喩え話にはときどき「はてな?」と思わせられる箇所がある。たいていは時間を置けば、ああそうかそういうことか、と合点がゆくのだけれど、一読すぐにわかるものは、実はけっして多くない。そんななかで本章は少数派ながら例外ということのできる喩え話である。もっとも、それを喩え話というてよいものか、迷うところではあるけれど。
 宴席に招かれたら末席(下座)に坐れ。上席には然るべき立場、肩書きの者が坐るのだから。末席に座を占めるべき者が、たとい不注意や不案内ゆえであっても上席についた場合、その者は恥をかき、時には非難を浴びることもあろう。斯様な事態を防ぐためにも最初から末席に坐っているのがよくて、その後幹事から奨められればそれに従い、もっと上の方の席へ移ればよい。そうすれば却って面目施しになるし、自尊心も傷附かずに済む。まわりから丁重に扱われる場合も、「瓢箪から駒」式にあるかもしれぬ。とにかく下座に坐る方が無難な者が最初から上座へつくのだけはいけない、というのだ。
 新社会人向けのビジネス・マナーの本に、上座・下座のことが能く書かれている理由も、これに近い。恥をかかぬため──ではあるが、この場合はむしろ社会人としての常識を問われるのであり、即ち礼儀作法の域に入る。とはいえ、自分を守るための知識、自分の評価を上げるための知識、という点では、新約聖書で語ることも社会人向けビジネス・マナーの本で教えることも、同じだ。
 そうして、──
 宴席の招待客は、むしろいわゆる<社会的弱者>を専らとせよ。なぜならば、お礼される心配がないからだ。自分と同等の者らを招待するのは、心のどこかで相手に同じような行為を求めることだ。勿論、お返しを求める気持ちなどさらさらなく、なにも期待するところなしに宴席を設け、人を招けばそれで良いのだが、それはなかなか難しいことであるのかもしれない。繰り返しになるが、どこかの時点で必ずお礼返しというものが発生するからだ。
 ならば、最初からお礼される心配のない<社会的弱者>を招いて食事を供せばよい。これは貧しき者に施せ、というのと同じ趣旨なのかもしれないな。引用したルカ14:21-24は無私であれかし、と説き、またその行いゆえに正しい者が復活する際にはきっと報われる、というのだ。
 最後に。
 <弟子の条件>はマタ10:37-39を並行箇所とする。わたくし自身の一人勝手な読み方をしての判断だが、ここは「ルカ」よりも「マタイ」を基にして読んだり考えたりするのがよいと思う。単にそちらの方が整然としていてわかりやすい、というだけのことだが、余計な喩えが「マタイ」にはない分そちらの方が良いと思うのだ。



 旅先で聴こうと思ってiTunesに取りこみ、iPhoneに移したなかにバッハのフルート・ソナタ全集がある。ペトリ・アランコのフルート、アンシ・マッティラのハープシコード他のNAXOS盤で、これを書きながら(iMacに入力しながら)聴いているのはBWV1020、ヴァイオリン・ソナタのフルート編曲版の第2楽章である。
 これは10年以上前には実によく聴いたもので、だがそれ以後はまったく耳を傾けることのなかった音盤であった。今回旅行のために、という名目で手持ちのバッハのCDは1/3程iPhoneに入れたのだが、いまのところはこのフルート・ソナタをいちばん聴いている。
 しばらく音楽について書いていないのでどう表現したものか悩むけれど、耳に優しく、丸みのある音色で、心のおだやかさを誘うような演奏なのだ。それは即ち、自分にとっては執筆するにあたっては願ってもない作業用BGMになっている、ということ。むろん、これは最大限に顕彰した表現である。
 もっとも、聖書読書ノートの場合は第一稿を書くに際して集中したいため、その間は音楽なしで取り組む必要がある。バッハを聴くのはそれ以後の作業の際ということになる。受難曲や教会カンタータならいいのではないか、という声が聞こえてきそうだが、却ってそちらはいけない。意識が引き裂かれて停滞を生むばかりだ。実証済みなのである。やはり器楽曲か室内楽の作品が執筆にあたってはいちばん落ち着いて集中できる。
 正直なところをいえば、もっと大容量のポータブル・プレーヤーを手に入れて、そこに架蔵するバッハの音盤すべてを入れてしまいたいのだけれど……。ああ、iPod Classic復活しないかなぁ。◆

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第1954日目 〈ルカによる福音書第13章:〈悔い改めなければ滅びる〉、〈エルサレムのために嘆く〉他〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第13章です。

 ルカ13:1-5〈悔い改めなければ滅びる〉
 イエスの説教は突然の来訪者によって中断された。その来訪者たちは総督ポンティオ・ピラトがガリラヤ人の血をかれらのいけにえに混ぜて神殿へささげた旨伝えた。それについてイエスの曰く、──
 そのガリラヤ人たちがそんな目に遭ったのは、かれらが他のガリラヤ人たちよりも罪深かったからだと思うか。或いは、シロアムの塔が倒された際、犠牲になった18人は、他のエルサレム住民の誰彼よりも深い罪を犯していたのか。
 否、そうではない。かれらが運が悪い時に運の悪い場所へ居合わせたに過ぎない。だがしかし、悔い改めなければあなた方は同じ目に遭う。

 ルカ13:6-9〈「実のならないいちじくの木」のたとえ〉
 そうしてイエスは群衆にこんな喩え話をした、──
 或る人がぶどう園にいちじくの木を植えた。が、3年経っても実をつける様子がない。主人は園丁に、こんな木はさっさと切り倒してしまえ、空いた土地は他のことに仕え、と命じた。園丁は主人に、どうか今年はこのままにしておいてください、と頼んだ。肥料をやってみます、それでも来年は実が生らないようなら、子の木を切り倒してください。

 ルカ13:10-17〈安息日に腰のまがった夫人をいやす〉
 安息日、イエスは会堂にいて、18年も病を患い腰を伸ばすことのできない女を癒やした。その様子を見ていた会堂長は、安息日なのに、とイエスの所業を憤った。「働くべき日は6日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」(ルカ13:14)
 それにイエスが否を唱えて曰く、「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(ルカ13:16)と。
 この答えに会堂長やそれに賛意を表した人びとは皆恥じた。その他の人々はこぞってイエスが行う数々の善き業を見て喜んだ。

 ルカ13:18-21〈「からし種」と「パン種」のたとえ〉
 神の国をなにに喩えよう。それはからし種に似る。庭に蒔かれたからし種は芽を出して材木となり、葉をつけた枝を広げて鳥を憩わせ、巣を作らせる。
 神の国をなにに喩えよう。それはパン種に似る。これを3サトンの粉に混ぜるとやがて全体が膨らんで、大きくなる。

 ルカ13:22-30〈狭い戸口〉
 途中、幾つもの町や村を巡り来たってなお、イエスの足は停まることなく惑うことなくエルサレムへ向けられていた。
 その途次、或る人がイエスに、主よ救われる者は少ないのでしょうか、と訊いた。
 イエスは答えた。「狭い戸口から入るように努めなさい」(ルカ13:24)と。家の主人が戸を閉めたあとで、開けてください、というても遅い。家の主人はいうだろう、わたしはお前が何者か知らない、と。どれだけ誠意を尽くして自分が何者か、家の主人とどのような関わりがあったか、説いても無駄だ。家の主人はいうだろう、わたしはお前が何者か知らない、不義を働く者よ、わたしの前から去れ、と。
 「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(ルカ13:28-30)

 ルカ13:31-35〈エルサレムのために嘆く〉
 ちょうどそのとき、イエスの許に、ファリサイ派のうちで心ある人々が来て、告げた。早くここを発ってください、ヘロデがあなたを殺す準備を進めています。
 イエスは返して曰く、あの狐に伝えよ、わたしは今日も明日も人から悪霊を追い出し、人の病気を癒やし、3日目にすべてを終える、と。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」(ルカ13:33)
 エルサレム。預言者を殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者。エルサレム。わたしはお前の子を何度も集めようとしたけれど、お前は一度もそれに応えようとしなかった。ゆえにお前たちの家は見捨てられる。
 エルサレムよ、「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」(ルカ13:35)

 本日の読書でわれらは実に久しぶりに「シロアム」という語に接した。王下20:20と代下32:30、即ち南王国ユダのヒゼキヤ王の事績として、水道の施設にまつわる箇所にシロアムの語が出る。また、これらか読むヨハ9:7と同11にも。
 シロアムはエルサレム南東の地区で、その城壁の内側には<シロアムの池>があった。また、城壁の外側には<シロアムの塔>があった。聖書はイエスの台詞のなかで報告するばかりだが、当時、この塔が崩落する事件があったのだろう。それが自然倒壊なのか、補修など作業中の事故なのか、判然としない。が、確かにそのような事件はあったのだろう。それは比較的大きなニュースとなってエルサレム界隈に伝播した。本章に於けるイエスの台詞がこの出来事を踏まえての発言であるのは否めぬ。そうして18人が犠牲になった。
 また、総督ピラトがガリラヤ人の(おそらくは殺めて)血をかれらが持参した献げ物に混ぜて神殿に供えさせた、という。イエスの言い分では、かれらは運悪くその場に居合わせただけなのだ。続けてイエスはいう、悔い改めない者たちよ、このままではいつかあなた方も同様な目に遭う、と。イエスは現状維持ならやがて確実に訪れる生の終着について語るため、これらの出来事を説教に盛りこんだのだろう。たぶんそれは抽象的な内容に終始するよりずっとずっと聴衆に訴えかける力、説得力にあふれていたに違いない。
 ファリサイ派の全員が反イエスでないことが、ルカ13:31でわかった。ここでかれらが話題に上すヘロデは、洗礼者ヨハネを処刑させたヘロデ・アンティバスである。かつてヘロデはイエスの噂を聞いたとき、一度イエスに会ってみたい、と思うた(ルカ9:9)。それは純粋な興味などでは断じてなく、ともすれば捕らえて殺害を辞さぬ心持ちから出たものだっただろう。イエス誕生時、東方の3博士にヘロデ大王がいった台詞(マタ1:8)を彷彿とさせる。まったく以て、この親にしてこの子あり、か。
 ルカ13:20「(3)サトン」──1サトンは約12.8リトルの容量を指す。

 本日の旧約聖書はルカ13:35と詩118:26。◆

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第1953日目 〈ルカによる福音書第12章:〈思い悩むな〉、〈目を覚ましている者〉他withドストエフスキーは推敲したか。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第12章です。

 ルカ12:1-3〈偽善に気をつけさせる〉
 群衆の数はますます多くなる。イエスの説教、継続中……。
 弟子たちよ、とイエスはいった。ファリサイ派の人々のパン種に気を付けよ。それは偽善だ。秘めたつもりでもいつかは露わとなる。暗がりで囁いたことは明るみで聞かれる。密談は世間の知るところとなる。

 ルカ12:4-7〈恐るべき者〉
 人を殺めたが最後、それ以上はなにもできぬ者を恐れるな。あなた方が真に恐れるべきは、殺したあとで地獄へ投げこむ権利と権威を持つ方だ。あなた方はこの方をこそ恐れよ。

 ルカ12:8-12〈イエスの仲間であると言い表す〉
 誰でも人前でわたしを自分の仲間であるという者をわたしもな自分のなかまであるといおう。逆もまた然り。
 「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。」(ルカ12:10)
 会堂や役人、権力者の前に連れて行かれるとき、相手の前でなにをいおうか、と算段してはならぬ。そのときには聖霊がなにをいうべきかを教えてくれるからだ。

 ルカ12:13-21〈「愚かな金持ち」のたとえ〉
 遺産分配の調停を求めた者がいた。イエスはかれにいった。どのような貪欲にも注意を払って用心せよ。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)
 自分のために富を積んでも神の前に豊かにはならぬ、と知れ。

 ルカ12:22-34〈思い悩むな〉
 命のことでなにを食べるか、体のことでなにを着るか、そうしたことで思い煩い、悩むな。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(ルカ12:25)
 栄華を極めたソロモン王でさえ、野に咲く花程着飾ってはいなかった。今日は野にあっても明日になれば炉に投げこまれる草でさえ、神はこのように装ってくださった。況んやあなたがたをや。
 あなた方の父は、あなた方に必要なものを知っている。あなた方はただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものはあなた方に与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を与えてくれる。
 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。(中略)あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:33-34)

 ルカ12:35-48〈目を覚ましている者〉
 衣服を調え、灯し火を点して主人の帰りを待つようにしなさい。その時、目を覚まして主人を迎える者は幸いである。主人は食事のとき、かれの給仕役を務めることだろう。
 「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:40)
 ペトロがイエスに訊ねた。主よ、この話をするのは、われらのためですか、それとも皆のためですか。
 イエスはいった。主人が召使いたちの上に立てる、忠実で、賢い管理人とは果たして誰か。主人が帰宅したとき、命令に従って働く姿を見られるかれは幸いである。が、主人に隠れて他の召使いたちに乱暴したり、主人の不在をいいことに酒を飲んだくれたりするならば、かれは不幸だ。主人はかれにとって思いがけぬ時に帰宅して、厳しい罰を降して不忠実な者と同じ目に遭わせることだろう。
 「 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。
 すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:47-48)

 ルカ12:49-53〈分裂をもたらす〉
 わたしは地上に平和をもたらしに来たのではない。そうだ、寧ろ分裂させるために来たのである。
 「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(ルカ12:50)

 ルカ12:54-56〈時を見分ける〉
 「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(ルカ12:56)

 ルカ12:57-59〈訴える人と仲直りする〉
 なにが正しくて、なにが正しくないか。あなた方はそれを自分で判断せよ。
 あなたを訴えようとしている人とは、能う限りの力と心を尽くしてその者と和解せよ。さもなくばあなた方は牢に投げこまれ、最後の1レプトンを支払うまで釈放されぬだろう。

 イエスはエルサレムへの途上、3度に渡って自分の死と復活を予告する。その言葉は厳粛な響きを伴って、既に決定された未来を語った。が、本章で読むルカ12:35-48〈目を覚ましている者〉、ルカ12:49-53〈分裂をもたらす〉でもイエスは自分の復活を弟子たちにそれとなく伝えた。12弟子たちにとってはまださっぱり意味するところはわからないかもしれない。主人が召使いたちの上に立てる忠実で賢い管理人とは、即ちペトロである。ゆえ、専らシモン・ペトロに向けて語ったと考えてよいこの言葉は、自分の復活に備えて正しく行動し、ちゃんと目を開いて復活した自分を見るように、という促しだ。
 だが実際は、……ペトロはすぐにはイエスの復活を信じなかったし、また福音書の記事を読んでゆく限りでは必ずしも賢い弟子とはいえなかった様子である。しかしながらペトロはイエスの復活を目の当たりにして以後は弟弟子たちを統率して使徒による伝道を牽引、そうして一度は去ったローマに戻ってその地で殉教した。自分の生前はいろいろ手のかかる子であったけれど、処刑後は教えを全地に広めてゆく原動力となる人物となるに違いない──イエスはそれを見越してかれをガリラヤ湖畔で召命したのだろうか。

 本日の旧約聖書は、ルカ12:27と王上10:4-7並びに代下9:3-6、ルカ12:53とミカ7:6。



 中断するときはあってもなおドストエフスキー読進中。『虐げられた人びと』であるが、登場人物の、まるで本能の赴くままに、とでもいうのがぴったりな長台詞や、行き当たりばったりな風に見えなくもないかれらの行動を追うにつけ、果たしてド氏は推敲なんて作業にまじめに取り組んだことがあるのかな、と思うのだ。たしか『白痴』を読んでいるときも同じような感想を綴ったことがある。
 アンリ・トロワイヤなのか小林秀雄なのか中村健之介なのか、或いは他の本で読んだのか。よく覚えていないけれど、ドストエフスキーは借金の返済に追われていたので、作品の多くは書きあげた先から書肆へ渡され、推敲する暇は殆どなかった由。もしこれが事実なら、作中のあまりに冗長な部分や一人芝居かと見紛う長々しい台詞があることにも納得だ。となれば、ド氏の長編が放つ圧倒的な力は、初稿とほぼ変わらぬ状態で世に出たゆえの産物か。
 むろん、実際のところをわたくしは正しく知る者ではない。ただド氏が債鬼に悩まさせられ、増殖する勢いの方が早い借入額に苦しめられていたのは、事実のようである。それを出発点に本稿があるわけだが、推敲の過程や自筆原稿と初出誌/初刊本の間にある異同を記したような本はないのだろうか。すべての作品を対象にせずとも構わぬ。たとえば、いわゆる<5大長編>もしくはそのうちの1作でもよい。そのあたりについて精しくリポートしてくれる本はないものか、と思うのだ。既に海外でそうした本は出ていてもまだ邦訳されていないなら、どなたか日本語で読めるようにしてくださらぬものか。引用は新潮文庫と角川文庫(『白夜』)、岩波文庫(『二重人格』;これの新訳こそいちばん待ち焦がれているのだが、どうして光文社古典新訳文庫は新潮文庫に収まる作品群の新訳にばかり手を出すのだろう?)から行うものとして。もしそうした本が出版されるなら、わたくしは喜んでそれを読み耽りたい。
 ド氏がすべての作品に於いて十全な推敲を行っていたのなら……それ以前の原稿はいったいどのようなものであったのだろう。どれだけ猥雑で混沌としたものであったろう。推敲に頭を悩ます物書きの端くれ中の端くれの身なるがため、そんなところに興味が湧く。
 なお、自身の備忘のために書いておけば、現在『虐げられた人びと』は第4部に入っており、残りは約140ページ。旅行が控えているせいもあり、おそらくゴールデン・ウィーク前の読了は難しかろう。6月かなぁ。◆

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第1952日目 〈ルカによる福音書第11章:〈祈るときには〉、〈ベルゼブル論争〉他with七月隆文『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』を読みました。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第11章です。

 ルカ11:1-13〈祈るときには〉
 イエスは弟子たちの求めに応じて、かれらへ祈りについて教えた。即ち、──
 「父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。/わたしたちの罪を赦してください。/わたしたちも自分の負い目のある人を・皆赦しますから。/わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」(ルカによる福音書11:2-4)
 また、弟子たちにこうもいった。曰く──、
 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:9-10)

 ルカ11:14-23〈ベルゼブル論争〉
 或るとき、イエスは悪霊を追い出して、それに取り憑かれていた男を癒やした。その悪霊は口を利けなくする悪霊だったので、癒やされた男は途端に喋り出した。この様子を見た一部の心ない人々がイエスは悪霊の親玉ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ、と中傷した。それに答えてイエスの曰く、──
 内輪で争えば、どのような国であっても乱れ荒れ果て、どのような家でも重なり合って倒れてしまうものだ。もしわたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すならば、あなた方はどんな力で以て人からそれを追い出すのか。
 わたしが神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなた方のところに来ている。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者はそれゆえに散らしているのだ。

 ルカ11:24-26〈汚れた霊が戻ってくる〉
 人の体から追い出された汚れた霊は砂漠を彷徨うが、居場所が見附からぬので前の体に戻ろうとする。しかしかつて憑いていた体は既に綺麗に掃除されて整えられていた。そこで件の霊は自分よりも悪い7つの霊を連れて来て、前の体に入る。するとその体の主は以前よりもずっとずっと悪くなる。

 ルカ11:27-28〈真の幸い〉
 ──これを聞いた群衆のなかの或る女が叫んだ。
 然り、然り。なんと幸いか、あなたを宿した胎、あなたに吸われた乳房は!
 否。イエスは答えた。真に幸いなるは、神の言葉を聞いて守る者なり。

 ルカ11:29-32〈人々はしるしを欲しがる〉
 イエスは、ますます数の増える群衆を前にして、いった、──
 いまの時代のなんと邪か。人々はしるしを欲しがるが、未だ預言者ヨナに与えられたしるしの他にしるしは与えられていない。ヨナがニネベの人々にとってしるしとなったように、人の子がこの時代の人々のしるしになろう。裁きの時が訪れたらば、ニネベの人々はいまの時代の者たちと一緒に立ちあがり、しるしを欲しがる人々を罪に定めよう。というのも、ニネベの人々はヨナの言葉によって悔い改めたからだ。

 ルカ11:33-36〈体のともし火は目〉
 あなたの体の灯し火は目である。目が澄んでいれば全身が明るく、目が濁っていれば体は暗い。だから、あなたのなかの光が消えたりしていないか調べなさい。

 ルカ11:37-54〈ファリサイ派の人々と律法の専門家を非難する〉
 このような話をしたあと、イエスはファリサイ派の人の招待を受けて、その人の家に行って食事の席に着いた。イエスが食事の前に身を清めなかったのを見て、ファリサイ派の人々は不審に思った。
 それを察して、イエスの曰く、──
 ファリサイ派に人々よ、あなた方は不幸だ。食器の外側は綺麗にするのに、自分の内側は憎悪と強欲に満ちている。
 あなた方ファリサイ派の人々は不幸だ。献げ物を規定通りにささげていても、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからである。これこそがあなた方が行うべきことなのに。
 あなた方は人目につかぬ墓のようなものだ。誰かがその上を歩いたとしても、そこが墓とは知らぬことだろう。
 ──食事に同席していた1人の律法学者がイエスに、そんなことを仰ればわれらをも侮辱することになりませんか、といった。
 イエスはその律法学者に向かって、いった、──
 「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」(ルカ11:47-51)
 ──イエスのこれらの言葉を聞いたファリサイ派の人々と律法学者達は憤った。激しい敵意をイエスに対して抱いたかれらは「いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、なにか言葉じりをとらえようとねらっていた。」(ルカ11:53-54)

 ヘブライ語による旧約聖書は「創世記」から「歴代誌」までを指す、とフランシスコ会訳聖書の註にいう。
 ルカ11:51「アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ」はそれを踏まえての表現であるらしく、カインの弟アベルは「創世記」に於いて最初の殉教者であり、ヨアシュ王の命令によって石で打ち殺された祭司ゼカルヤは「歴代誌」下で最後に名の出る殉教者であった。神のため犠牲になった2人の名を挙げて旧約聖書全体を統括している、と捉えてよいのだろう。ゆえに、──

 ──本日の旧約聖書はルカ11:51と創4:8,代下24:20-23。



 七月隆文『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(宝島社文庫)を昨日05月05日午前に読了しました。
 タイムトラベルを扱った変種の純愛小説といえばいいのか、SF小説を読み慣れた人には目新しくない題材だし、正直、正攻法でこの種の小説を書くには難しい時代だと思う。<この設定なくしてこの物語は成り立たない>という説得力を読者に与えるだけの力がないと、四方八方から非難と瑕疵を指摘する声が止まぬのではないか。
 ネタバレになるので未読の方は覚悟していただきたい乃至は注意していただきたいが、時間の流れがこちらとは逆な隣り合った世界からの来訪者である愛美とこちら側の世界で美大に通う主人公高寿のわずか40日間の恋を描いた作品として、確かに本書は涙を誘うものである。一気読みしていたら、まるで韓流ドラマのような直球勝負ッぷりで恥ずかしくなりつつも涙腺を抑えがたく気附けば滂沱となりかねぬが、冷静に作品設定や展開を分析してゆけば、小首を傾げる点も累出しよう。
 だがしかし、純愛小説とはどこまで読者の胸を熱くし、紅涙を絞らせられるかが求められる類の小説である。そのためには或る程度までなりふり構わぬ描写や展開も必要であろう。それに『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』は真正面から挑み、読み終えた物の心へ切なさと暖かさを残した。
 高寿と愛美の激アマな描写が絨毯爆撃的に繰り返され、読者の心を蕩けさせてきたからこそ、愛美の正体と高寿の前に現れた理由が明らかとなり、確実に終わりを告げる恋を全うしようとする2人の姿に、われらは紅涙を絞らされるのだ。ああ、この小説を読めて良かったなぁ。
 昨今の流れから推察すれば、おそらく本書も実写化される可能性がある。それは構わぬが、代わりにキャスティングにはじゅうぶんに配慮していただきたいと望む。◆

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第1950日目 〈ルカによる福音書第10章:〈七十二人を派遣する〉、〈善いサマリア人〉withカフカの小説、旅行ガイドに化ける。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第10章です。

 ルカ10:1-12〈七十二人を派遣する〉
 その後、イエスは他に72人を選び、2人1組にして自分が行くつもりだった村や町に派遣した。
 収穫は多いが、とイエスはかれらにいった。収穫は多いが働き手は少ない。収穫のために働き手を送ってくれるよう収穫の主に祈れ。町に入って迎え入れられたら家から家に渡り歩くことなく、その村や町の人々のために癒やしの業を行いなさい。迎え入れられなかったら、足の裏の埃を払い落としていいなさい、神の国が近附いたことを知れ、と。「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」(ルカ10:12)

 ルカ10:13-16〈悔い改めない町を叱る〉
 コラジン。ベトサイダ。不幸な町よ。裁きの時にはティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
 カファルナウム。喜ぶな。お前は天に引き上げられたりしない、陰府の底へ落とされるのだ。
 ──
 イエスは新たに遣わす72人にいった、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」(ルカ10:16)

 ルカ10:17-20〈七十二人、帰って来る〉
 72人は行って仕事を成し遂げ、帰ってきて報告した。そんなかれらにイエスはいった、──「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)

 ルカ1:21-24〈喜びにあふれる〉
 聖霊に満たされ、喜びにあふれたイエスは天の父を讃えた。
 「すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、人の子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」(ルカ10:22)
 そうして、弟子たちにいった、──
 「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(ルカ10:23-24)

 ルカ10:25-37〈善いサマリア人〉
 どのようにしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか、と質問した1人の律法学者がいた。イエスと律法学者は斯く対話した、──
 イエス:律法にはどのように書いてあるか、あなたはそれをどう読むか。
 律法学者:律法にはこう書いてあります、「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)と。
 イエス:あなたの答えは正しい。それを実行すれば、命が得られる。
 律法学者:では、わたしの隣人とはだれですか。
 イエス:或る人がエルサレムからエリコへ行く折、追い剥ぎに襲われてしまった。服も着物も奪われ、怪我を負わされたかれは、道の真ん中で倒れた。そのあと、3人の人物が底を通り掛かった。1人目の祭司と2人目のレビ人は関わり合いになるのが嫌で、知らんぷりしてその場を行き過ぎた。
 3人目のサマリア人は見過ごすことができず、またその旅人に憐れを感じて、傷の手当てをした。そうして街道沿いの宿屋へその怪我人を預けると、そこの宿の主人にこういった。デナリオン硬貨2枚を治療費として渡します、旅の帰りにまた寄りますから、足りない分があったらそのとき支払います。
 では律法の専門家よ、訊こう。祭司、レビ人、サマリア人、この3人のうちで誰が襲われた人の隣人たり得るか。
 律法学者:3人目のサマリア人です、先生。
 イエス:そうだ。では行って、あなたも善きサマリア人と同じようになさい。

 ルカ10:38-42〈マルタとマリア〉
 或る家にマルタとマリアという姉妹がいた。マリアが主イエスの足許に坐って話しを聞いている様子に、マリアは憤慨した。というのも、彼女だけが歓迎の宴の準備に忙しくしていて、マリアは手伝う様子もなかったからである。
 マルタがイエスに、これを見てあなたはなんとも思わないのですか、早くマリアに手伝うよういってください、と請うた。イエスは答えて曰く、──
 「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41-42)

 本章の第一稿を書いた日からMBAにて浄書した今日まで、10日の間隔が開いている。最初は意味のわからなかったことでもこれだけ間が開けば、どうしてこんなことに気が付かなかったのか、と小首を傾げてしまう事態に遭遇することはなにも今回が初めてのことではない。
 収穫とか働き手とか、収穫の主とか、いったいそれはなんのことだ。読んでモレスキンにノートしていたときはそこまで考えを巡らすことができなかった。ほら、春は怠惰の季節だからさ、灰色の脳細胞へ新鮮な空気が送りこまれていなかったのですよ、わが親愛なるヘイスティングス大尉。では、いまはどうなんです?
 ばっちりだ。
 要するに、「収穫が多い」とは「教えを受け入れて悔い改める者が増える(信徒が増加する)」ことであり、「働き手」とは「宣教者」即ちイエスにとっては弟子たちであった。そうして「収穫のために働き手を送ってくれるよう収穫の主に祈れ」とは、「イエスの教えに帰依して宣教に務める者が増えること(=神の国の福音を宣べ伝える者が全土に散ってそれが浸透すること)を神に祈れ」というのだ。小さな気附きである。キリスト者や、読書しながらダイレクトにすべての理解が進められる者には苦笑されてしまうだろう。だが、読書を繰り返すことによって、歩みは遅々としながらも着実に理解を深めてゆけることの方が、わたくしには大事だ。どうかこのような者がいることを知り、受容できる読者諸兄であることを祈りたい。
 本章は<善きサマリア人>を含むが、わたくしにはこれよりもその直前に置かれたルカ10:21-24〈喜びにあふれる〉の方が心に残る。殊、引用もしたルカ10:23-24ゆえに。
 自分が見ているものを見たくても見られなかった者がいる、自分の聞いていることを聞きたくても聞けなかった者がいる。こんな明快な事実に、わたくしは泣いたのである。比喩や誇張ではない。
 悔恨の情がある。わたくしは家族を守って死んだ父に、嫁を見せることも孫を見せることもできなかった。父に孫を抱かせることもできなかった。いまこうして仕事をがんばっている姿を見せることもできなかった。いろいろ思い悩んで躓いたり、未来と現在に迷いを持つこともあるけれど、こうして生きている姿を見せることができなかった。悲しませることもあり、嘆かせたこともあり、苦労をかけさせてしまったこともある。たくさん、たくさん。それを謝り、以前より少しでも憂いのない生活をしてもらう手助けをしたかった。でも、それはもうできないのだ。自分がこれから旅先や日常で見る風景を一緒に見たり、それを教えることもできない。聞いたことを教えたり、それによって世界をわずかでも広げてもらうこともできない。──そんな悔恨が「ルカによる福音書」の件の文章に接して浮上したのであった。
 ルカ10:38-42に出るマルタとマリア姉妹。彼女たちの住む村がベタニアであれば、ヨハ11:1に基づき彼女たちはラザロの姉妹ということになる。ラザロとはイエスによって土の下から復活した者である。が、それはまだ先のお話であるからいまはともかくとして、宴会の準備に1人大わらわになっているマルタにしてみれば、イエスのマリアをかばう言葉には「なにをいってるんだ、こいつ」状態であったことは想像に難くない。釈然としなかったであろう、それはそれ、これはこれだろう、と。
 どうにもイエスは神の国の福音を宣べ伝え、それを人々に浸透させてゆくことに気を奪われて、実生活については極めてアウトサイダー、人々の思いや社会が社会として動いてゆくために存在して営まれてきた<常識>や<礼儀>というものに極めて無頓着、悪くいえば社会規範の破壊者であるように、わが目には映ってならぬ。こんなこと、婚約者が生きていたらいえたかどうかわからないが、すくなくとも福音書を読むいまの自分にイエスはそのように映るのだ。ああ、傍にいてほしくないなぁ、こうした輩。

 本日の旧約聖書はルカ10:27と申6:4-5,レビ19:18。



 引き延ばして、<カフカ・コレクション>の話の続き、そうして、オチ。
 スターバックスの川縁に面したテラス席で原稿を書きあげた後、てくてくと川向こうの本屋へ行って欠けた巻を捜してみたが1冊しかなかった。もう1冊は、出版社のHPに拠れば品切れになっている様子。この事態に直面して、すくなくとも今回は<カフカ・コレクション>の欠巻を揃える気がなくなった。あーあ。
 でも、久しぶりに立ち寄った書店でもあることだから、と棚をゆっくり見て歩く。この時点では、特に欲しい本はなかった。否、欲しい本がないのではなく、あっても購入を検討する段階で「まぁ、いまは買わなくてもいいか」という気になってしまう。
 ……なのに、唐突に「これ買おう!」と思うてそのままレジへ運んだ本があったのだ。次の旅行でわたくしは奈良に行くのだが、それのガイドブックを買うことにしたのである。ガイドブックも一長一短でなかなか自分好みの1冊を見附けるのは難しいけれど、運が良かったのか或いはたまたま双方のベクトルが交差しただけなのか、ぴったりなものを見付けることができた。そのままレジへ持ってゆくことに、なんの躊躇いも迷いもなかった……。
 帰宅後、付箋をぺたぺた付けて、まだ情報の取捨選択はできていないけれど、以前よりも少しだけでも充実した奈良旅行にはできそうだ。現実から乖離した趣のカフカがまさか旅行ガイドに化けるとは思わなかったけれど、まぁこれもあらかじめ決められていた買い物なのだろう。ならば、よい。◆

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第1949日目 〈ルカによる福音書第9章:〈十二人を派遣する〉、〈サマリア人から歓迎されない〉他with欠けた「カフカ・コレクション」を買いに行く。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第9章です。

 ルカ9:1-6〈十二人を派遣する〉
 或るとき、イエスは12弟子を呼び集め、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす権能を」(ルカ9:1)かれらに与えた。その際、イエスは弟子たちにいった、──
 旅の荷物を携えてはならない。食糧もお金も衣類もなにも持たずに旅をせよ。町や村に到着して誰かの家に入ったらそこに留まり、その家から次の目的地へ向かいなさい。どの家もあなた方を迎え入れなかったら、その町や村を出るとき足の裏の埃を払い落としなさい。
 「十二人は出かけてゆき、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」(ルカ9:6)

 ルカ9:7-9〈ヘロデ、戸惑う〉
 ヘロデ・アンティバスはイエスの業、教えのことを伝え聞いて、戸惑った。自分が処刑を命じた洗礼者ヨハネのよみがえりのように思えたからである。それでもなお、ヘロデはイエスに一度会ってみたい、と願うのだった。

 ルカ9:10-17〈五千人に食べ物を与える〉
 各地へ派遣した12弟子が戻って来、イエスに活動報告を済ませた。イエスはかれらを伴ってベトサイダの町へ退いた。が、群衆がそのあとに続いたので、イエスはかれらに神の国の福音について語り、治療の必要な人を癒やしたのだった。
 時間が経って、弟子たちが群衆を解散させようとイエスを促した。いまならまだ近隣の村でかれらが食事できるからである。イエスは否を唱え、あなた方がかれらに食事を与えなさい、といった。弟子たちはそれを拒んだ。
 イエスは5切れのパンと2尾の魚を持ってこさせ、天に祈りをささげて人々へ分け与えさせた。人々はそれを満腹になるまで食べた。パン屑を集めると籠12杯分になった。

 ルカ9:18-20〈ペトロ、信仰を言い表す〉
 イエスは祈りの傍ら、侍る弟子たちに訊ねた。世間の人々はわたしのことをなんといっているか。
 洗礼ヨハネと呼ぶ者もあれば、先生こそエリヤであるという者もおります、と弟子たちはいった。
 ではあなたがたはわたしを何者と思うか。そうイエスは訊ねた。
 ペトロが、神からのメシアです、と信仰告白した。

 ルカ9:21-27〈イエス、死と復活を予告する〉
 ──イエスは弟子たちを戒め、誰にもこのことをいわないよう厳しく命じた。そのあとでイエスは自分の未来についてこう予告した。曰く、人の子は多くの苦しみを受け、敵対者の手に渡され、そうして処刑される。が、3日後に復活する。続けて、──
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(中略)わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。26-27」(ルカ9:23-24,26-27)

 ルカ9:28-36〈イエスの姿が変わる〉
 自分の死と復活を予告してから8日程経った頃。イエスはペトロとヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために或る山へ登った。するとイエスの顔の様子が変わり、服は真白く輝いた。ペトロたちが見ると、「二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:30-31)
 モーセとエリヤがイエスから離れかけたとき、ペトロが、先生、ここに3つの仮小屋を建てましょう、1つは先生、1つはモーセ、1つはエリヤのために、といった。ペトロはこのとき感極まっており、自分でもなにをいっているのかわからない状態であった。
 イエスとモーセとエリヤを雲が覆った。そのなかから声がした。「これはわたしの子、選ばれた者。これを聞け。」(ルカ9:35)──やがて雲が晴れ、イエスだけがそこにいた。
 ──ペトロとヨハネ、ヤコブはこのことを後の時代になるまで、誰にも語ることがなかったのだった。

 ルカ9:37-43a〈悪霊に取りつかれた子をいやす〉
 翌日、4人が山を下りてくると、男がイエスの前に出て、悪霊に取り憑かれたわが子を助けてください、と頼んだ。あなたのお弟子さんたちでも歯が立たなかったのです。
 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」(ルカ9:41)そうイエスは嘆いた。わたしはいつまであなた方と共にいなくてはならないのか、我慢しなくてはならないのか。
 イエスは件の男に、子供を連れてくるよう命じた。イエスは子供に憑いていた悪霊を叱って追い出し、癒やした子供を父親へ返した。

 ルカ9:43b-45〈再び自分の死を予告する〉
 イエスは再び自分の死を予告して、それを弟子たちに伝えた。が、かれらにイエスの言葉はうよくわからなかった。すぐには理解できないよう、真実が隠されていたからだ。

 ルカ9:46-48〈いちばん偉い者〉
 自分たちのなかで誰がいちばん偉いか、と議論する弟子たちを前に、イエスは子供の手を取ってからこういった、──
 わが名のためにこの子を受け入れる者はわたしを受け入れる。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)

 ルカ9:49-50〈逆らわない者は味方〉
 イエスの名を騙って悪霊を追い出している者がいる、とヨハネがイエスに告げた。
 実はヨハネはそれを止めさせようとしていたが、イエスはそれに反対した。その者はわたしの名によって悪霊を追い払う奇跡を行ったのだから、よもやそのすぐあとでわたしの悪口はいえまい。わたしに逆らわない者はわたしの味方である。

 ルカ9:51-56〈サマリア人から歓迎されない〉
 自分の天に上げられる時期が近附いた、と感じたイエスはガリラヤを去ってエルサレムへ赴くことを決めた。
 ガリラヤからユダヤへ。そのためには、間に横たわるサマリア地方を縦断しなくてはならない。そうしてサマリア人はエルサレムへ向かうイエスたちを歓迎しなかった。
 弟子ヤコブとヨハネの兄弟が、天から火を降らせて焼き滅ぼしましょうか、と提案したが、イエスはこれを退け、かれらを戒めた。そうして一行は別の村へ向かった。

 ルカ9:57-62〈弟子の覚悟〉
 イエスは自分に付き従う大勢の人たちに、ガリラヤ湖の向こう側を指差して、あちらへ渡れ、といった。群衆のなかから1人の律法学者が歩み出て、イエスに曰く、どこへでも付き従います、と。それに答えてイエスの曰く、──
 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカ9:58)
 また、弟子の1人が曰く、その前にまず亡き父の埋葬を済まさせてください、と。それに答えてイエスの曰く、──
 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(ルカ9:60)
 また家族に暇乞いをしたいと願い出る弟子には、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)といった。

 サマリア人はどうしてイエスたちを歓迎しなかったのか。次に読む「ヨハネによる福音書」第4章第9節には、ユダヤ人とサマリア人は不仲であり、交流が殆どなかった旨記されている。
 これはおそらく<サマリア人>が混血だったせいであろう。アッシリア帝国の侵攻によって北王国イスラエルは滅亡した。サマリア地方はかつて北王国イスラエルがあった土地である。王国滅亡の際、王国の民はアッシリア乃至はその領内に捕囚となって連行され、かの地で散らされた。代わってイスラエルの土地にはアッシリアによる異民族の移住が進められ、かれらと、残ったわずかのユダヤ人との雑婚が繰り返された結果、新約聖書の時代にはユダヤ地方やガリラヤ地方でいうところの<ユダヤ人>はサマリアから姿を消していた。
 「(イエスたちは)サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」(ルカ9:52-53)
 ユダヤ人であるイエスをそのDNAに刻みこまれた先祖の記憶ゆえに歓迎しなかったサマリア人。かれらにとってユダヤ人とは、またエルサレムとはどのような位置づけで語られるものだったのだろう。これについては<るさんちまん>という単語一つで片附けられるものではないだろう。そもユダヤ人とサマリア人との間にあった不和の種は、今日のパレスティナ問題とも根っこの部分で繋がるところがありそうだ。──ユダヤ人とサマリア人の不和については今後も資料を漁って勉強してみるつもり。
 偶然ではあろうけれど、イエスたちを歓迎しなかった<良くないサマリア人>の描写は次章で語られる<良きサマリア人>を際立たせる意図があってここに置かれたような気さえするのは、著者が知識階級にある文筆を得手とする者なるがゆえの邪推であろうか。
 いや、それにしても、このサマリア人たちに対するヤコブとヨハネ兄弟の台詞はふるっていますね。「ボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』」(マコ3:17)とあだ名されるだけのことはある。



 昨日のエッセイの続き。先刻、唐突に思い出したのだが、わたくしはまだ白水uブックスの<カフカ・コレクション>を全巻揃えていない。つまり、未読の巻があるということだ。
 これはどうにも気持ち良くない。気に入った作家の作品は1作でも多く読みたいのだ。ゆえに、書架から欠ける巻が2つあるのは、どうにも落ち着かないし、皮膚と肉の間を虫が這っているような気持ち悪ささえ覚える。
 だから、というわけではないのだが、これから本屋に行って欠けている2巻を購入してくる。『城』と『万里の長城』が、欠けた巻。棚にあると良いのだけれど……。◆

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第1948日目 〈ルカによる福音書第8章:〈婦人たち、奉仕する〉、〈悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす〉他with実は、カフカを読みたくなったのだ!〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第8章です。

 ルカ8:1-3〈婦人たち、奉仕する〉
 ファリサイ派の人の前で罪深き女を赦した後、イエスは野や山を巡って神の国の福音を宣べ伝えた。それには12人の弟子が同行した。
 また、群衆の他に悪霊を追い出してもらった婦人たち、即ちマグダラのマリア、ヘロデ・アンティバスの家令グザの妻ヨハナ、スサンナ、その他多くの女性たちが従いて歩いた。彼女らはイエスとその弟子たちの身の回りの世話をした。

 ルカ8:4-8〈「種を蒔く人」のたとえ〉
 於カファルナウム。ここにいるイエスを慕って諸処の町から人が集ってきた。そんなかれらを前にイエスが喩え話をした。種を蒔く人が種を蒔きに行ったところ、──
 或る種は道端に落ちて、人に踏まれ、鳥に食べられた。
 或る種は石ころばかりの場所に落ち、水気がないので枯れてしまった。
 或る種は茨のなかに落ちたが育った茨に上を塞がれ、伸びなかった。
 或る種は肥沃な土地に落ちてよく育って実を結び、それは元の100倍になった。
 聞く耳がある者は、これを聞きなさい。

 ルカ8:9-10〈たとえを用いて話す理由〉
 弟子たちにこの喩え話の意味を問われてイエスの曰く、──
 あなた方には神の国の秘密がそのまま語られるが、他の人々には喩えを用いてそれが示される。預言者イザヤの言葉にあるように、見ても認めず、聞いても理解できず、立ち帰って赦されることがないようにするためである。

 ルカ8:11-15〈「種を蒔く人」のたとえ〉
 種を蒔く人とは即ち神の言葉を蒔く人のことだ。
 道端に落ちた種とは、御言葉を聞いてもすぐにサタンによってそれが奪われてしまう人々のことである。
 石ころだらけの土地に落ちて根附かぬまま枯れた種とは、三日坊主で、後々御言葉ゆえに困難と遭うとすぐつまずく人のことをいう。
 茨のなかに落ちて実を結ばなかった種とは、御言葉を聞くには聞くけれど、実生活の憂いや悩み、富の誘惑、様々な欲望によって心が惑い、それらによって聞いた御言葉を忘れたり、失ってしまうような人々を指す。
 よく育って実を結んだ種とは、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8:15)

 ルカ8:16-18〈「ともし火」のたとえ〉
 灯し火とは即ち神の言葉である。
 それは燭台の上に置かれる。すると隠れているもので露わにならないものはなく、秘められたものであっても人に知られず公にならぬものはない。
 ゆえ、「どう聞くべきか注意しなさい。」(ルカ8:18a)
 そうして、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8:18b)

 ルカ8:19-21〈イエスの母、兄弟〉
 或るとき、イエスの母親とかれの兄弟が訪ねてきたが、そのときエイスは説教中だった。
 気を利かせた者がそれを伝えたが、応じたイエスの曰く、わたしの母、兄弟とは神の言葉を聞いて行う人々のことだ、と。

 ルカ8:22-25〈突風を静める〉
 ガリラヤ湖の対岸へ渡るときである。湖上に突風が吹き、水面は大いに荒れた。乗船する弟子たちはイエスに、どうにかしてください、溺れそうです、と訴えた。これにイエスは応じて風と荒波に一喝、湖面は凪いだ。
 イエスは弟子たちに問うた。あなた方の信仰はどこにあるのか。
 が、弟子たちはイエスのこの行為を目撃しても、いったいこの人は何者だろう、と訝るばかりだった。

 ルカ8:26-39〈悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす〉
 ガリラヤ湖を渡って対岸、即ちデカポリス地方のゲラサ人の土地へ到着した。イエスが舟から下りると、すぐに汚れた霊に取り憑かれたゲラサ人が来た。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
 神の子イエスよ俺に構うな、後生だから苦しめてくれるな。わが名を訊くか、イエス。わが名はレギオン、大勢だから。
 レギオンは、どうかわれらを底なしの淵へ行け、などと命じてくれぬようイエスに乞うた。そうして周囲の山で餌を漁る豚の群れを指して、われらをあの豚どものなかへ入れてくれ、と願った。イエスはそうさせた。汚れた霊に取り憑かれた豚の群れは次々と湖目がけて走り出し、そうして終いには溺死した。
 この様子を見ていた豚飼いたちは、恐ろしさのあまりその場を逃げ出し、村にこの出来事を知らせた。村人たちは、どうにも信じられぬ、といった風で、豚飼いたちと一緒にイエスのところへ行った。すると、それまで悪霊に取り憑かれていた男が身なりを整え、端座して正気に戻っているのを見て、びっくりしてしまったのである。事の次第を説明されると人々はいよいよ気味悪がり、イエスに向かって、さっさとこの土地から出ていってくれ、と要求した。イエスたち一行はそうした。
 と、かれらのあとから件の男が追ってきて、自分も一緒に連れて行ってほしい、と頼んだ。イエスはそれを拒み、自分の家に帰るよう諭した。「神が自分に行ったことを皆に、ことごとく話して聞かせなさい。」(ルカ8:39)
 ──その人は帰って、家族や近隣の人々へ、イエスが自分に対して行ったことを語り聞かせた。

 ルカ8:40-56〈ヤイロの娘とイエスの服に触れる女〉
 再びガリラヤ湖を渡ってカファルナウムの町へ戻ったイエスの許に、ヤイロという名の会堂長が来て娘の重態を告げ、助けてほしい、と頼んだ。イエスは諾い、弟子たちを連れてヤイロの家に向かった。当然、かれにくっ付いて回る群衆もぞろぞろと。
 その途中のこと。12年間も出血の止まらない女がいた。彼女はイエスが来ていることを知り、その人の服にでも触れれば病は癒えるかもしれない、と一縷の希望を抱いて群衆のなかへ紛れこみ、ようやっとイエスの服の裾に触れたのである。と、たちまち彼女の病は治り、出血もすぐに止まった。これまでは全財産を処分して治療に臨んでも治らなかったのが、イエスの服の衣に触れた途端、完治したのだった。
 ところでイエスは、自分の体から力が、すうっ、と抜けてゆくのをふしぎに感じて、あたりを見廻した。誰がわたしの服に触れたのか。弟子たちは、これだけの人が周囲にいるのですから、誰が先生の服に触れたかなんてわかりません、と答えた。
 このやり取りを聞いていた件の女は恐ろしくなり、それは自分です、と名乗り出た。そうして事情を打ち明けた。イエスは病の癒えた女にいった。あなたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい。
 ──イエスと女がまだ話しているとき、ヤイロの家から人が来て、かれの娘が息を引き取ったことを知らせた。
 イエスは娘の父であるヤイロとその妻、弟子のペトロ、ヤコブとヨハネ兄弟だけを連れて、会堂長の家に入った。そうして娘の死を嘆き悲しむ人たちにこういった。その子は死んでいるのではない、眠っているだけである。嘲笑する人たちを無視してイエスは娘の手を取り、そうしていった。少女よ、起きなさい。
 すると娘は目を覚まし、起きあがって歩き出した。人々はこの様子を見て腰を抜かすほどに驚いた。すっかり我を忘れて口も聞けないぐらいだった。
 イエスはこのことを誰にも知らせぬよう厳しく言い置き、また彼女になにか食べさせるよう命じた。

 イエスの女弟子のなかで、すくなくとも名前だけでも最も有名なのは、ルカ8:2で言及されるマグダラのマリア(マリア・マグダレネ)だろう。先の2福音書でも彼女の名前は出るが、イエス処刑を見守り、また復活に立ち合った/目撃した場面に於いてであり、おそらくそれ以前の挿話での登場は本章が初出ではあるまいか。
 「七つの悪霊を追い出していただいた」というのが、「ルカ」本文にあるマグダラのマリアの説明である。この件は正典では触れるものがない様子なのが残念だが、外典・偽典の類ではどうなのだろう。かりに短くとも断章であっても構わぬから、あるなら一遍読んでみたい。
 ガリラヤ湖東南のデカポリス地方はゲラサ人の地で、イエスは何度も悪霊に取り憑かれた男を解放した。その男はカファルナウムに戻ろうとするイエスを追って、自分も連れて行ってほしい、供にしてほしい、と願った。果たしてこの男が斯く行動したのは、単純にイエスを敬ってのことであったろうか。むろん、それもかれなりの動機であったろう。
 が、わたくしにはどうもそれだけとは思えぬ。そこにはなにかもう1つの理由、もしかするとそれこそ本心だったのではないか、と思えてならぬ理由があるように読めるのだ。わたくしはこう読む、かれは自分の居場所をイエスの弟子、群衆のなかに得ようとしたのは、もはやかれがデカポリスのその地に留まることが出来なくなったからではあるまいか、と。
 村人はかれの体から悪霊を追い出したイエスを恐れた。そうして村から出て行ってくれるよう頼んだ。同様に、悪霊から解放された男も村人から怖がられたのではないか。正常に戻った自分を嫌悪し、未だ汚らわしいものを見るような眼差しを向け、陰で中傷と嘲笑、悪口を囁いているかのような素振りを見せ、どんどんと精神的に袋小路へ追いつめられて急き立てられるかのような焦燥感を、短時間の間にかれは抱いた。
 かれがイエスに従いてゆくのを望んだ真意は、悪霊憑依以前の健常な生活に戻ることを阻む村人たちからの逃亡にあったのではないだろうか。斯様な環境から逃げ出したい、という一念がかれをイエス追従に駆りたてた。その原因……かれ自身にまるで非はないのに!!
 もしもこれが真実であったとしたら、わたくしにはゲラサ人のかれをとてもよく理解できる。わたくしの場合は、身に覚えなき社内恋愛劇に巻きこまれたヨーゼフ・K(仮名)の身の上話だったが。
 さよう、身に覚えなき社内恋愛!!! 相手とその<親友>によって捏造された事実。相手と上司によって巧みに練りあげられたストーリーと、その意を汲んだ者らが拵えた状況証拠。大分女が蜘蛛の巣の中心となって上演された、ヨーゼフ・K(仮名)が被告人役を務める裁判劇と、その後の解雇劇。証言は、相手の置き土産たる根拠皆無の誹謗中傷。冤罪は斯くして生まれるのである。
 このわずか半日足らずの囲いこみ、尋問は実に凄まじかった。そうして、3月の或る日、ヨーゼフ・K(仮名)はガラス張りの会議室に呼び出され、事実確認も事情聴取もされないまま即時退職を勧告された。そうしてろくな説明もないまま、無理矢理に退職届の筆を執らされ、拇印を捺させられ、ご丁寧にビルのセキュリティゲートまで上司2名に付き添われ(それが監視だったのはいうまでもない!)、年度末の日中に放り出されたのだった……。一言添えればこの会社、その年の源泉徴収票の発行を拒否してきた由。
 なお、相手はヨーゼフ・K(仮名)の解雇が実行されるまでの約2週間、一時避難が真実な退職をして雲隠れしておった。実家の親が脳梗塞で倒れたなんていう偽りを名目に、。
 精神的に袋小路へ追いつめられて、急き立てられるかのような焦燥感──まさにその数時間のヨーゼフ・K(仮名)が経験したのと同じことだ。わたくしが思うにヨーゼフ・K(仮名)もゲラサ人のかれと同じなのだろう。まあ、貴重な経験ではあったが、当時は失望させられたね。
 閑話休題(そんなどうでもいいことはさておき)。
 ──本日からこれまではしたことがない、ちょっとしたズルをしよう。並行箇所については今後、積極的に先行する「マタイ」、「マルコ」の該当部分のノートを一部修正、改筆の上転用したい。以前からずっと考えていたのだけれど、このたび諸々の事情を鑑みて斯く処置させていただく。ご寛恕願う次第。

 本日の旧約聖書はルカ8:10とイザ6:9-10。



 ヨーゼフ・K(仮名)なんてしてみたら、途端にカフカが読みたくなった。
 この時節に昼間の公園で読み耽った『変身』。風呂場で読んだ『田舎医者』。理由なく中央線に飛び乗り井の頭公園のベンチでページをめくった『流刑地にて』。いずれも忘れられぬ読書体験だ。白水uブックスの<カフカ・コレクション>にて。
 未読のカフカは『失踪者』と『城』。偶然にも長編が残った。が、勘違いされないでほしいのは、まったくの未読ではないということ。学生時代にはこの2作、文庫で読んでいるのだ。が、ドイツ文学のリポートだったせいか、残念なことに読後感や印象など一欠片も残っていない。
 カフカを読むに適した季節は、春。自分のなかのそんなイメージが、この時期、未読のカフカ作品を思い出させ、手を伸ばさせる。いまのド氏が終わったら、一旦カフカかなぁ、なんて2度目の中断を実現させかねない企みを、刹那抱いたことをお伝えしておこう。◆

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第1947日目 〈ルカによる福音書第7章:〈百人隊長の僕をいやす〉、〈罪深い女を赦す〉他with竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』を読了しました。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第7章です。

 ルカ7:1-10〈百人隊長の僕をいやす〉
 カファルナウムの町に入ったイエスの許へ、ユダヤ人の長老たちがやって来た。かれらは百人隊長の部下が床に就いて死に瀕しているのをイエスへ知らせに来たのだった。長老たちが件の百人隊長を評していうに、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(ルカ7:4-5)と。
 イエスは長老たちと一緒に百人隊長のところへ赴いた。すると向こうから百人隊長が来て、イエスにいった。主よ、わたしはあなたを迎えられるような者ではありません、それゆえ人を遣わしてあなたをお迎えにあがらせたのです、どうか一言仰り、わが僕を救ってください。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(ルカ7:8)
 イエスはこれに感心して百人隊長を誉め讃え、そうしてかれの僕を癒やして元気にした。

 ルカ7:11-17〈やもめの息子を生き返らせる〉
 ガリラヤ地方の南部にナインという町がある。イエスはそこを訪れた。ちょうど或るやもめの一人息子が死んでその棺が担ぎ出されるところだった。
 町の人々が大勢その母親に寄り添っているのを見て、主イエスは憐れに思い、そばに行って、泣かなくてもよい、と声を掛けた。そうして棺に手を掛け、なかの息子に語りかけた。起きて出てきなさい。
 すると、降ろされた棺から息子が起きあがって話し出し、母親の許へ帰った。また、この光景を見たナインの町の人々は驚き、恐れ、神を讃美した。「神はその民を心にかけてくださった。」(ルカ7:16)
 このことはたちまちユダヤの全土と周囲一帯に広まったのである。

 ルカ7:18-35〈洗礼者ヨハネとイエス〉
 イエスの行う数々の奇跡の報告が、獄中のヨハネへ弟子の口から伝えられた。ヨハネは弟子たちに、イエスのところへ行ってこう訊ねなさい、と告げた──来たるべき方はあなたですか、それとも他の方を待たねばなりませんか。
 弟子たちはイエスの許へ行って、師ヨハネの言葉を伝えた。それにイエスが答えて曰く、あなたたちが見聞きしたことをそのまま伝えなさい、と。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:22-23)
 ヨハネの弟子たちはイエスの言葉を胸に、洗礼者ヨハネのところへ帰った。
 かれらが帰ったあと、イエスは群衆に向かって語りかけた。あなたたちは荒野でなにを見たのか。そうだ、預言者以上の者をあなた方は見たのである。あなたの前に使者を遣わし、道を整える準備をさせよう、と或る預言書に書いてあるのは、かれ、洗礼者ヨハネのことだ。かつて女の胎から生まれたなかでヨハネ以上の者はない、が、神の国で最も小さい者でもかれに優って偉大である。
 「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」(ルカ7:29-30)
 イエスは続けて、いった。「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。/葬式の歌をうたったのに、/泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
 しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」(ルカ7:31-35)

 ルカ7:36-50〈罪深い女を赦す〉
 或るファリサイ派の人がイエスと一緒に食事をした。その町には、「一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7:37-38)──ファリサイ派の人はその光景を見て、イエスが本当に預言者ならば、この女がどれだけ罪深い者であるか、すぐにわかるはずだ、と考えた。
 イエスは弟子シモン・ペトロを呼んで、訊ねた。500デナリオンの負債を抱える人と50デナリオンの負債を抱える人がいる。貸し主は或るとき、2人の借金を帳消しにしてやった。ではかれらのどちらが貸し主の厚意に感謝して愛するだろう。
 シモンが、当然負債の大きかった人の方です、と答えた。イエスはその返事に頷いた。その通りだ、といって。
 では、とイエスは罪深き女に目を転じてシモンに訊ねた。この女は、わたしがあなたの家に入ったときあなたがしてくれなかったことをすべてしてくれている。自分の涙で足を洗い、何度となく接吻の挨拶をし、足に香油を塗ってくれた。はっきりといっておくが、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)
 イエスはかの女に、あなたの罪は赦された、といった。「あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ7:50)
 食事の席に居合わせた人たちは、人の罪を赦すことの出来るこの人はいったい何者なのだろう、と不思議に思い、囁き交わした。

 〈罪深い女を赦す〉は「ルカによる福音書」にのみ載る記事である。この罪ある女を一部ではマグダラのマリアである、という。その根拠が如何なるものかわたくしには不明だが、これが誰であってもイエスの愛の深さを垣間見させ、道を踏み外してそこに立ち帰ろうとする者についてイエスは公平であることを伝える挿話なのは事実。それを端的に示したルカ7:47(赦されることの少ない者は、愛することも少ない。)は、信徒でなくても胸に刻んで反芻する機会あってよい言葉だと思う。



 竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』(電撃文庫)全11冊(本編8巻、別巻3)を読了しました。が、感想の言葉なんて破片すら思い浮かばないというのが現在の状況。自分のなかで今一つ、本作についての判断が付きかねているのだ。
 作品としては良作と思う。おそらくこの先、『ゴールデン・タイム』は処分しないだろう。本作は良い雰囲気、世界観、描写に満ちた作品であった。この思いに偽りはない。
 が、物語世界を生きる登場人物はどうか。単刀直入に申して、巻を重ねるに従って皆、多少なりとも生彩を失ってゆき、どの人物に思い入れをすることも難しくなってしまった。
 殊に主人公、多田万里。果たして本当に記憶喪失者なんて設定は必要だったのかな。本当に記憶喪失という設定が必要だったなら、もう少し説得力のある書き方ができなかったものか、と思う。きちんと取材しました、文献も調べました、とかりに反駁されても、あまり納得できるものではない。作品を読んでいる限りでは主人公を特徴附けるために<記憶喪失>という設定にしました、それっぽく描きました、としかこちらには受け止められない。
 殊田万里について申せば、自分が追い詰められると誰彼に対して半ギレ、逆ギレし、相手構わず噛みついてゆくところなぞ、正直読めたものではなかった。こうした場面については勢いを失ってはならぬが、いったい作者は当該場面について推敲をきちんとしたのであろうか。勢いに呑まれて作者も冷静を失い、然るべき推敲が為されなかったのではないか。そんな邪推さえできてしまう程だ。
 『わたしたちの田村くん』や『とらドラ!』(共に電撃文庫)もこの機会に読んだが、共通して感じたのは、この作者は男性を描くのがあまり上手くないなぁ、ということ。その造形を指して、ステレオ・タイプというのも憚られる。非難を承知で申せば、ハリボテ、か。主人公とその友人、柳澤光央と佐藤隆哉(二次元くん)のやりとりは血もなければ肉もない人形劇を見ているような気分にさせられる。
 翻って女性の描き方の巧みさは、こちらが参考にさせていただきたいぐらいだ。やや服飾の描写でごまかされている部分もないではないが、主要男性陣と対になる女性たちについては、さすが、と思わせられてしまう。なんだろう、妙に生々しく思えてならぬ瞬間が、読書中に何度もあったのだ。もっと年若い頃にこの物語と出会っていたらば、わたくしは必ずや加賀香子に心奪われて女性の好みを狂わされ(=理想の基準が高くなり)、また岡千波や別巻でしか登場していないはずの愛可など愛くるしいことこの上ない。
 『ゴールデン・タイム』に続く最新作として刊行された『知らない映画のサントラを聴く』(新潮文庫nex)も読んだが、そこにどのような事情が働いているか知るべくもないが、竹宮ゆゆこは前者のようなシリーズ物よりも後者のような単発作品でこそ、自身の特性を遺憾なく発揮できるのではないか。そんな意味では『わたしたちの田村くん』はとてもよくまとまった、しかも唸らされる程優れた作品であった。たぶん、この作者は、1年なら1年というタイム・スパンのなかで繰り広げられる物語を細分化して描いてゆくようなスタイルを得手とする人ではない。プロットを作成して緻密に練りあげてゆくよりも、物語の展開に身を任せて疾走感あふれた作劇を醍醐味とするタイプなのだろう。
 本書(と『知らない映画のサントラを聴く』)を読んで、竹宮ゆゆこは自分にとっていましばらくは新作を心待ちにしていたい作家となった。だがしかし、おそらく『ゴールデン・タイム』がわたくしにとって、読書に没入できた最後のライトノベルのシリーズ物となる。◆

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第1946日目 〈ルカによる福音書第6章:〈安息日に麦の穂を摘む〉、〈手の萎えた人をいやす〉他withR.チャンドラー『ロング・グッドバイ』に手を伸ばしたのは、……〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第6章です。

 ルカ6:1-5〈安息日に麦の穂を摘む〉
 イエスと弟子たちが或る安息日に麦の穂畑を歩いている。お腹を空かせた弟子たちが、麦の穂を摘み手で揉んで、食べた。それを見たファリサイ派の人々が、安息日なのに禁じられたことをするのはなぜか、と、かれらに問うた。イエスは答えて曰く、──
 サウル王に追われてエルサレムを逃れたダビデが、空腹のときに自分の家来を連れて、祭司以外は食べてはならぬとされる供え物のパンを食べたことを、あなた方は知らないのか。あなた方にいうておく、「人の子は安息日の主である」(ルカ6:5)と。

 ルカ6:6-11〈手の萎えた人をいやす〉
 別の安息日のことである。イエスは会堂で教えていた。そこに1人の右手が萎えた男が来て、聴衆のなかに混じった。男の姿を見たファリサイ派と律法学者たちは、この男に対してイエスがどう振る舞うかに注目した。
 イエスはかれらの考えを見抜き、手の萎えた人に、立ちなさい、と呼びかけた。そうしてファリサイ派と律法学者たちに訊ねた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(ルカ6:9)
 その後、イエスは手の萎えた人の側により、相手の手を取って癒やし、元通りにした。
 ファリサイ派と律法学者たちはこれを見て怒り狂い、どうにかしてイエスを排除しようと企んだ。

 ルカ6:12-16〈十二人を選ぶ〉
 イエスは山に行って神に祈り、夜を明かした。朝になってかれは降りてきて、弟子たちを呼んだ。イエスはそのなかから12人の弟子を特に選び、かれらを<使徒>と呼んだ。
 12弟子は以下のとおりである、──
 ・シモン・ペトロ
 ・その弟アンデレ
 ・ヤコブ
 ・その兄弟ヨハネ
 ・フィリポ
 ・バルトロマイ
 ・マタイ
 ・トマス
 ・アルファイの子ヤコブ
 ・熱心党のシモン
 ・ヤコブの子ユダ
 ・裏切り者イスカリオテのユダ

 ルカ6:17-19〈おびただしい病人をいやす〉
 山から下りてきたイエスをおびただしい数の群衆が取り囲んで、癒やしの業を求め、汚れた霊を追い払うことを求めた。かれらはユダヤ全土とエルサレムから、また地中海に程近い町ティルスやシドンといった沿岸地域から、皆、イエスを求めてやって来た。というのも、イエスの体から力が出て、すべての人の病気を癒やしたからである。

 ルカ6:20-26〈幸いと不幸〉
 イエスは目を挙げ、弟子たちに説いた。曰く、──
 貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである。
 いま飢えている人々は幸いである、あなた方は満たされる。
 いま泣いている人々は幸いである、あなた方は笑うようになる。
 「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」(ルカ6:22-23)この人たちの先祖も預言者に対して同じようにしたのである。
 だが一方で、
 富んでいるあなた方は不幸である、もう慰めを受けているから。
 いま満腹の人々とあなた方は不幸である、あなた方は飢えるようになる。
 いま笑っている人々は不幸である、あなた方は悲しみ泣くことになる。
 「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。」(ルカ6:26)この人たちの先祖も預言者に対して同じようにしたのである。

 ルカ6:27-36〈敵を愛しなさい〉
 わたしの言葉を聞くあなた方にいう。
 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:27-28)
 あなた方は敵を愛せ。自分を愛する者を愛したところで恵みがあろうか。自分に善くしてくれる人に善くしたところでどんな恵みがあるか。返してもらうことをあてにして貸したところでどんな恵みがあるだろう。
 「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6:35-36)

 ルカ6:37-42〈人を裁くな〉
 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:37-38)
 「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」(ルカ6:42)然る後、兄弟の目のなかのおが屑を取り除け。

 ルカ6:43-45〈実によって木を知る〉
 良い木は悪い実を結ばない。悪い木が良い実を結ぶことはない。
 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出す。悪い人は悪いものを入れた心の倉から悪いものを出す。それは口から出る言葉である。
 「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:45)

 ルカ6:46-49〈家と土台〉
 わたしを「主」と呼ぶ者たちよ。ならばどうしてわたしの言葉を聞き入れ、それを行おうとしないのか。あなた方は軟弱な地盤の上に家を建てた者に似ている。その者の家は洪水によって容易く押し流される。
 が、わたしの言葉を聞き、それを行う人は、堅固な地盤の上に家を建てた人に等しい。かれらの家は洪水によって押し流されることなく、いつまでもそこに在り続ける。

 福音書に記録される、数々のイエスの教えのうちでいちばん有名なものは<山上の垂訓>であろう。マタ5:1-12で語られるそれは、一部の表現を変え、教えの一部を省き(どうして?)、またそれと対になる教え(ルカ6:24-26)を伴って本章で語り直される。「マタイ」で語られて「ルカ」でも語られる、削られずに残った教えは謂わばそのエッセンスといえようか。人の生活に密にかかわる教えだけが残されて、他の抽象的なものは語るに足らず。その代わり、それと対になる教えが省かれた教えの欠損を埋め、かつ残された教えの真意を浮かびあがらせているようだ。「マタイ」の<山上の垂訓>よりもわたくし個人は「ルカ」での<平地の垂訓>(こんな表現はないのでしょうが)を好む者である。
 なお、ルカ6:26「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」という言葉をわたくしは、「ルカによる福音書」ではなくチャールズ・M・シュルツの作品で知った。その作品を『チャーリー・ブラウン』といい、そのシュルツ伝でリタ・グリムズリー・ジョンスン『スヌーピーと生きる』(P100 朝日文庫)で、わたくしは知ったのである。
 本章にて12弟子が選ばれるが、なにかお気附きであろうか。実は1人、「マタイ」と「マルコ」に名前の載らない人物がいるのである。即ち、先の2福音書にはあった名前がここにはなく、それと入れ替わるように新たな人物が登場している、ということ。それはヤコブの子ユダである。これは勿論、イスカリオテのユダとは別人で、果たしてこのヤコブがヨハネの兄弟でゼベダイの子ヤコブを指すのかは不詳だ。ちなみに、ヤコブの子ユダの箇所は「マタイ」と「マルコ」ではアルファイの子タダイとなる。
 ──それにしても、と思う。本章はイエスの教えが混じり気無しの状態で抽出された極めて良い一章である、と。このあとも様々な喩え話や教えが「ルカによる福音書」を彩る。そのなかには正典のうちでは本福音書のみが留める「良きサマリア人」(ルカ10:25-37)や「放蕩息子の喩え」(ルカ15:11-32)も含まれる。また、三浦綾子が『泉への招待』(光文社文庫)で紹介する宴席に招かれた客への教訓と宴会の喩え(ルカ14:7-24)もある。が、これらを別にすれば「ルカによる福音書」で虚心にその言葉へ心を傾けるべき章、何度も繰り返して読むに値する章である、といえよう。

 本日の旧約聖書はルカ6:4とレビ24:5-9、ルカ6:4とサム上21:2-7。



 理由はともかく昨夜の帰宅後、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』に手を伸ばしたのです。本棚にあってすぐ出せるのは村上春樹の新訳版。これは村上訳チャンドラーの第一弾として話題になった。単行本は流石にチャンドラーっぽくないな、と思うたので買うのを敬遠。が、旬日経ぬうちに新装版としてちょっと厚めのペーパーバックが発売されたので、古書店経由で購入、耽読しました。
 ですが、感想を述べるために筆を執っているのではありません。その判型の話なのです。なぜ早川書房は『ロング・グッドバイ』を単行本・新装版・文庫の3形態で出し、続く『さよなら、愛しい人』、『リトル・シスター』、『大いなる眠り』は単行本と文庫だけにしたのか。昨年末に刊行された『高い窓』もほぼ間違いなく文庫化のみで、新装版の刊行はないのだろう。個人的にはペーパーバックと同じ判型の新装版が、3種のうちでいちばん読みやすかったのですが。
 これだけの厚み(710ページ超!)となれば寝転がって読むには時に額を強打する凶器となり、満員電車のなかでは周囲の非難に満ちた眼差しを浴びることだってあり得よう。序でにいえば、吊革にぶら下がって片手で読むには、指も手首も痛くなる……。
 ところで、わたくしはどこで、この新装版を読んだか? 白状すれば殆どを、電車のなかで坐って読んだ。井の頭恩賜公園の池のほとりのベンチで読んだ。新宿の喫茶店で読んだ。そうして自宅のベッドの上で読んだ。
 つまり、坐るか横になるかしてしか読んでいないのです。たしかにこの厚さとなればどんな姿勢で読んでも手が疲れてくるけれど、それを差し引いても村上訳チャンドラーはこの新装版で揃えて読みたかったですね。
 実をいえばこれまでは、この判型の問題あるがゆえに村上訳チャンドラーは『ロング・グッドバイ』以後、図書館からの借り出しで済ませていました。が、このところ頓にそれ以後の訳本を手元に置いておきたくて仕方なくないのであります。『ロング・グッドバイ』については新装版のみ架蔵のため、単行本か文庫か、どちらかを買い直す必要があるけれど、そういえば活字の詰まった文庫には二の足を踏んだことがあった。となれば既刊の4作は単行本で、ということになるのだが、今度はスペースの問題が生じてね。嗚呼、と我知らず天を仰ぎたくなる。滑稽ですな。
 訳者を真似るわけではないけれど、わたくしがこの『ロング・グッドバイ』を読み通したのは2度だけだ。その他の場合は、気になり出して確かめずにはいられなくなった細部のチェックだったり、なんとなく手にして開いたページにしばし目を落とすのが専らだった。今回は前者の例で、第21章にあるマーロウの朝食(コーヒーとカナディアン・ベーコン!!)とオフィスの掃除の場面が読みたかったのです(P258)。
 昨夜の帰宅後、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』に手を伸ばしたのは、そんな理由だ。でも、どうしてドストエフスキー(『虐げられた人びと』)を読んでいたら唐突にマーロウの朝の場面を脳裏に思い浮かべたのだろう?◆(28)

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第1945日目 〈ルカによる福音書第5章:〈漁師を弟子にする〉、〈レビを弟子にする〉他withちかごろの悩みの1つは、エッセイが書けないということです。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第5章です。

 ルカ5:1-11〈漁師を弟子にする〉
 ガリラヤ湖(ゲネサレト湖)の畔に立つイエス。かれのまわりに、神の言葉を聞こうと人が集まってきた。そのときイエスは2艘の舟を見附けた。持ち主である漁師たちは湖で網を洗っているところだった。イエスはそのうちの1艘、シモンの舟に乗って岸にいる人々相手に説教した。
 それが終わるとイエスはシモンに、網を打って魚を捕りなさい、といった。シモンたちは朝から量をしていたのに魚が捕れなかったので、イエスの言葉を訝しみながらも網を打った。すると、おびただしい量の魚が掛かり、網はいまにも破れんばかりとなったのである。シモンはもう1艘の舟を持つ仲間に声を掛けて手を借り、どうにか魚を揚げて2艘の舟をいっぱいにしたのだった。
 シモン・ペトロがイエスの足許に跪いて、いった。主よ、わたしから離れてください、わたしは罪深き者なのです。これに答えてイエスの曰く、恐れるな、シモンよあなたはいまから人を漁る漁師となる、と。
 シモン・ペトロと弟アンデレ、仲間のヤコブとヨハネ兄弟はその場にすべてを抛ち、イエスに従った。

 ルカ5:12-16〈重い皮膚病を患っている人をいやす〉
 或る町にイエスがいたときである。かれは全身重い皮膚病にかかった人と行き会った。その人はイエスを見ると、御心ならばわたしを清くしてください、と願った。イエスは諾って曰く、清くなれ、と。すると、その人の病はたちまち癒やされたのである。
 イエスはその人に、このことを誰かに話してはならない、ときつく言い置いた。ただ祭司のところに行って病癒えた体を見せ、モーセの規定に従って清めの献げ物をささげなさい。
 が、イエスのふしぎな業のことは噂になって広まっていたので、たくさんの人がイエスの言葉/教えや癒やしを求めて、あちこちから集まってきた。「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」(ルカ5:16)

 ルカ5:17-26〈中風の人をいやす〉
 イエスが教えている群衆のなかに、ファリサイ派の者と律法学者が混じっていた。かれらはガリラヤとユダヤのすべての町、またエルサレムから来たのである。ちょうどそのとき、イエスは主の力が働いて、病人を癒やしていたところだった。
 外から男たちが、重い中風の人を床に乗せて運んできた。が、人が多すぎてイエスのそばに行くことができない。そこでかれらはイエスのいる家の屋根を剥がし、そこから病人を床ごと吊り降ろしたのだった。イエスはかれらの信仰に感じ入り、床に寝こんでいる人へ優しくいった。あなたの罪は赦された。
 これを聞いたのが、件のファリサイ派と律法学者である。神を冒瀆するあの男は何者だ、神以外の誰が人の罪を赦すことができるのか──かれらは心のなかでそう考えた。霊の力が働いてイエスはかれらの考えを知り、そうしていった。あなたの罪は赦された、というのと、起きて歩け、というのと、どちらが易しいと思うのか。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(ルカ5:24)
 そうして中風の人にいった。起きて床を担いで家に帰りなさい。するとその人は皆の前で起きあがり、寝台を担ぎ、神を讃美して帰宅した。これを見ていた人々は驚き、また、「恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った。」(ルカ5:26)

 ルカ5:27-32〈レビを弟子にする〉
 収税所に坐るレビという徴税人を弟子にしたイエス。レビの主催でかれの家を会場としたイエスのための宴会が催された。その場には徴税人ばかりでなく、賤なる職の者らが多く集まった。
 ファリサイ派や律法学者たちはその光景をふしぎに思い、手近にいたイエスの弟子に、どうしてあなた方の先生はあのような者と一緒に食事をするのか、と問うた。これを聞いたイエスは、かれらにいった。曰く、──
 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)

 ルカ5:33-39〈断食についての問答〉
 或る人々がイエスに、ファリサイ派やヨハネの弟子たちはこの時期断食しているのにどうしてあなた方はそれをしないのですか、と訊いた。これにイエスが答えて曰く、──
 花婿のいる所で断食をする者が果たしてあるだろうか。しかしやがて花婿が奪われる時が来る。それが断食の時だ。
 また、このような喩えをして曰く、──
 新しい服から取った継ぎを古い服に当てるな。新しい服はそこから破け、古い服も継ぎを当てた場所から痛んですぐに破けてしまう。新しいぶどう酒を古い革袋に入れるのも同じことだ。古い革袋の弱くなった所から新しいぶどう酒は零れ出る。当然、革袋も駄目になる。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』というのである。」(ルカ5:38-39)

 「ルカによる福音書」を読み始めてまだ5日。1週間にも満たない日数で既にわれらは「ルカ」が先行する「マタイ」とも「マルコ」とも異なって描写の具体的なることを知っている。本章に於いてはシモンたちの弟子入りが相当しよう。
 先の2つの福音書では、シモンたちは別々の機会ではあるけれど、行き会ったばかりのイエスにすぐさま従って12弟子の先鋒となったが、「ルカ」ではまず岸辺の人たちに向けた説教への協力があり、そうして大漁をもたらされたことでイエスを信じる素地が出来、かれの言葉に従ってその後は行動を共にし、時に各地へ派遣されて師の教えを宣べ伝え、奇跡を行うようになった。シモンの場合はその前(ルカ4:38-39)に姑の病をイエスが癒やす現場を目撃していよう。アンデレも居合わせたかもしれない。やや唐突かつ不自然に映ったシモンたち4人の弟子入りが、「ルカ」では自然な流れを作って語られている。こんな細かな点にも「ルカによる福音書」著者の巧みさを感じさせることである。
 「マタイ」で最初に読んだときはそのまま読み流した感のある言葉が、本章にもある──「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)──これもまた時を経て読むとつくづく良い言葉だ。深く、深く首肯する。新約聖書は名言の宝庫であるけれど、これなども古代から読み継がれて大事にされてきた言葉だ。
 信徒でなくても良い言葉は良い。信じたい言葉、教えを繰り返される読書によって、体のなかへ徐々に染みこませてゆく。得も言われぬ歓び! もしかすると、あの子が生きていたら同じようなことをも少し早くに経験していたのかな。



 ちかごろ、思うようにエッセイが書けないのです。以前のようにどんどんと話題のタネが生まれるわけでなく、なにかを書こうとしても一編の作品としてまとまる様子もなく、筆を執ってもなんだか支離滅裂、とてもではないがそれに手を加えて体裁を整えることができない程。われながら世に残すに値せず、と断じてゴミ箱へ放り捨てたくなるぐらいに恥ずかしい出来映えの代物が、ちかごろ多くなってきているのであります。
 たくさん読んでたくさん書く。小説の書き方、上達についてS.キングはそういう。が、どうやらそれは小説に限っての話で、エッセイはそれだけでは事足りないらしい。むろん、小説だって読んで書くだけでは到底書くことも上達することもできぬわけだけれど、同じ文章を書くという作業であってもエッセイはそれと次元の異なる分野らしく、「たくさん読んでたくさん書く」のと殆ど同じ比率で、なにを見てどう捉えるか、どのように料理するのか、が小説以上に鋭く問われるものであるらしい。
 日本でエッセイは随筆、欧米では(小)論文である。前者に傾けば<感性を磨け>となり、後者に比重を置けば<構成をしっかりさせよ>となろう。即ち、なにを見てどう捉えるか、どのように料理するのか、に帰結する話だ。
 自分のなかでエッセイ執筆の意欲が衰えたのは、どうしてなのだろう。どれだけ考えてみても、理由や原因がまるでわからない。自分の身辺でいろいろ事態が巻き起こっているのは事実だが、それだけが要因とはどうしても思えない。七転八倒した挙げ句、どうにか一編を物すことができたなら、それまでの労苦も報われようが、書きあげられなかったときは<悲惨>の一言以外になんの言葉もない。これが一時的な衰退であれば良いのだけれど……。
 ああ、やっぱりエッセイはいったんタネが尽きて執筆意欲が減退すると、再び以前のようなモチベーションを回復させるのは難しいな、とぼやきつつ、さて、それでは明日の話題を探しに行くか。◆

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第1944日目 〈ルカによる福音書第4章:〈誘惑を受ける〉、〈ナザレで受け入れられない〉他with僕の居場所はどこかにあるの?〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第4章です。

 ルカ4:1-13〈誘惑を受ける〉
 洗礼を受けて川からあがったイエスは聖霊に満たされた体で荒れ野をまわり、40日間にわたって悪魔から誘惑を受けた。
 悪魔が空腹のイエスを唆す。が、イエスはこれを退けた。人はパンだけで生きるのではない、と聖書に書いてある。
 悪魔がイエスを空高く上げて全地の国という国を見せ、俺を崇めればば地上のすべての国を支配させよう、と試す。が、イエスはこれを退けた。神である主を飲み崇め、これにのみ仕えよ、と聖書に書いてある。
 悪魔がイエスを神殿の端に立たせ、神の子ならここから飛び降りても無事だろう、と挑発する。が、イエスはこれを退けた。あなたの神である主を試してはならない、と聖書に書いてある。
 ──悪魔は誘惑の種が尽きるとイエスから離れた。

 ルカ4:14-15〈ガリラヤで伝道を始める〉
 霊の力に満ちたイエスはガリラヤ地方に帰って、諸所の会堂で教えを垂れ、皆の尊敬を集めた。

 ルカ14:16-30〈ナザレで受け入れられない〉
 その後イエスはナザレに帰り、安息日に会堂で聖書の朗読を行った。そのときかれが手にしたのは預言者イザヤの名で伝わる巻物だった。それに曰く、──
 「主の霊がわたしの上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。/主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19,イザ61-12)
──朗読を終えたイエスは続けて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)といった。
 ……ナザレの会堂に集まっていた人々は、その恵み深き言葉に驚嘆し、あの男は大工ナザレの子ではなかったのか、と囁き合った。
 そうしてイエスは会堂の人々に向かって、いった。わたしがカファルナウムで行った奇跡や治癒の業を知るあなたがたは、郷里でも同じようにしてくれるだろう、と期待している。皆さんにはっきりいっておこう、預言者が故郷で受け入れられることはない、と。かつて北王国イスラエルに現れたエリヤとエリシャもそうだった。
 このイエスの言葉を聞いたナザレの人々は憤慨し、かれを村の外まで追い立て、再びの出入りを禁止した。

 ルカ4:31-37〈汚れた霊に取りつかれた男をいやす〉
 イエスはガリラヤ湖北端の町カファルナウムに入り、安息日に人々へ教えを宣べ伝えた。「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」(ルカ4:32)
 会堂に、悪霊に取り憑かれた男が来ていた。悪霊が、神の子イエスよ、われらを滅ぼしに来たのか、お前の正体はわかっている、神の聖者だ、と叫んだ。
 男に向かってイエスが一喝すると、その悪霊は出て行った。会堂にいてこの様子を見ていた人々は、このイエスという男はいったい何者か、権威と力を以て汚れた霊を人から追い払うとは、と再び驚嘆したのだった。

 ルカ4:38-41〈多くの病人をいやす〉
 会堂を去ったイエスは、高熱に苦しむシモンの姑を癒やし、他の病に苦しみ悩む人々を治し、人に取り憑いた悪霊どもを追い払った。

 ルカ4:42-44〈巡回して宣教する〉
 朝になるとイエスは人里離れた場所へ行き、カファルナウムに留まってくれるよう頼みこむ人々にこういった。曰く、──
 「ほかの町にも神の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(ルカ4:43)
 そうしてかれはユダヤ各地の会堂で教えるようになった。

 本章を読んで気附かされる「マタイ」、「マルコ」といちばん趣を異にするのは、やはりナザレでの挿話だろう。細部が書きこまれてより内容が豊かになったのは勿論だが、イエスが故郷の人々から拒絶されるに至った原因もここには記されている。即ち、自分が他の地で行ったことをここでも行うなんて期待するな、ということ。
 おそらく村人たちにそれを望む気持ちはあったろう。が、先制攻撃を喰らい、釘を刺されて(!)しまった。これではたしかに村人たちが気分を害して、かつ裏切られたような気持ちになったとしても、仕方ない。かれらの心情は十分に理解できる。
 が、イエスは人情に流されてはならぬ立場だ。それとこれとは話は別である。かれは信念を貫かねばならぬのだ。人間関係のしがらみ、地縁が強いる要求などから一切自由でなくては教えを宣べ伝えることはできない。──そう判断したがゆえのイエスの言動であったかもしれない。
 もっとも、それが旧約聖書で語られたエリヤとエリシャの挿話をわが身の上に実現させる意図があって、それがむしろ専らな動機だったかもしれないけれど。
 ──エリヤとエリシャの復習は必要だろうか。いずれも北王国イスラエルに現れた預言者であることは本文に落としこみ済み。旧約聖書に先に登場したのは当然エリヤだが、それ以外の情報を記すとすれば、2人とも前9世紀に相次いで現れ、エリヤは時の王アハブと王妃イゼベルを非難してアハブ王朝の滅亡を預言、王の追跡を受けてホレブ山に逃れて神の顕現を目撃した。またエリシャはオムリ王朝の終焉を預言してそれの実現を見届け、またイエス同様弱き個人の側に立って癒やしの業を行った。かれらには師弟関係ともいうべき結びつきがあり、エリシャはエリヤが天に上げられる場面の目撃者となった。
 エリヤとエリシャの事績は「列王記」上下に記されている。ルカ4でイエスがいうかれらの挿話は、エリヤが干ばつに苦しむイスラエルではなく異邦人であるシドン地方サブレタの町のやもめを癒やし、エリシャはシリアの敵将ナアマンを癒やしたというそれぞれの挿話に由来する。本章該当箇所と典拠となる箇所を以下に挙げれば、エリヤ;ルカ4:25-26と王上17-18、エリシャ;ルカ4:27と王下5:1-14である。
 読者諸兄には可能であれば、実際に旧約聖書を繙いて歴史書と呼ばれる「列王記」を、この2人の預言者が登場する箇所だけでもお読みいただきたく願うておる。
 ……ところで、母マリアはこのときナザレにいたのだろうか。もしいたなら、イエス追放後に村人たちから何や彼やといわれたりしなかったであろうか。もしいわれたなら、そのときのマリアはなんと答え、その実心の内ではなにを思うたのだろう。千反田えるではないが、わたし気になります、なのだ。

 本日の旧約聖書はルカ4:4と申8:3、ルカ4:8と申6:13、ルカ4:10-11と詩91:11-12、ルカ4:12と申6:16、ルカ4:18-19とイザ61:1-2、ルカ4:25-26と王上17-18、ルカ4:27と王下5:1-14。



 信じていた者に裏切られた気がします。<エデン>がいまや<ソドム>と化したことはかつて述べたけれど、まさかわずかに残っていた<エデンの民>が陰で裏切りを画策し、連帯を組み、徐々に表面化させてくるとは。紅旗征絨は吾が事に非ずというて唯我孤高を演じるにも心身の限界というのがある。ここはいったいどこなのだろう?◆(65)

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第1943日目 〈ルカによる福音書第3章:〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉、〈イエス、洗礼を受ける〉&〈イエスの系図〉with今年も、LFJAJの季節になった。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第3章です。

 ルカ3:1-20〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉
 ローマ帝国第2代皇帝ティベリウスの御代第15年。この年のユダヤ総督はポンティオ・ピラト。ガリラヤ地方の領主はヘロデ・アンティバス、大祭司はアンナスとカイアファであった。
 その頃、神の言葉が荒れ野のヨハネに降り、ヨルダン川地方一帯で罪の赦しを得るための悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めた。預言者イザヤの言葉の実現である。
 ヨハネは洗礼を受けようとやって来る人々に向かって悔い改めに相応しい実を結ぶよう説いた。良い実を結ばぬ木は例外なく切り倒されて、火にくべられるからだ。
 ではわたしたちはどうすればよいか、と人々が訊いた。ヨハネの曰く、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」(ルカ3:11)
 徴税人も同じように訊いた。ヨハネの曰く、「規定以上のものは取り立てるな。」(ルカ3:13)
 兵士も同じように訊いた。ヨハネの曰く、「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」(ルカ3:14)
 そうしてヨハネは、メシアの訪れを待ち望んで秘かにかれこそメシアではないか、と期待する人々に向けて、いった、──
 「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履き物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)云々と。
 その他にも、人々へ様々な勧めをし、福音を告げて知らせたヨハネであったが、或る日ヘロデ・アンティバスの手の者によって拉致され、投獄された。かねてからヨハネがヘロデの結婚とその新妻ヘロディアについて非難、糾弾していたからだ。このようにして、ヘロデは自らの悪事の経歴にまた1つ、新たな悪事を自身で付け加えたのである。

 ルカ3:21-22〈イエス、洗礼を受ける〉
 (ヨハネによって)洗礼を受けたイエスが祈っていると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える形でかれの上に降ってきた。天から、あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、との声が聞こえた。

 ルカ3:23-38〈イエスの系図〉
 30歳から宣教を始めたイエスの父はナザレの大工ヨセフと伝えられる。
 その家系をさかのぼればゼルバベル、ナタン、ダビデ、ボアズ。ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム。セム、ノア、エノク、セト、アダム。そうして創造主である神に至る。

 ティベリウス帝の御代第15年とは後29年乃至は28年となり、帝位に在ったのは14-37年。その本名はティベリウス・ユリウス・カエサルといった。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」というイエスの言葉に出る皇帝とはこのティベリウスである。
 第5代ユダヤ総督ポンティオ・ピラトの在位は26-36年。ヘロデ・アンティバスがガリラヤ/ペレヤ地方領主であったのは4-39年。アンナスが大祭司であったのは6-15年、娘婿カイアファがその地位に在ったのは18-36年であった。第3章当時、アンナスは既に大祭司の地位を罷免されていたが、未だ同様の権威を持っていたとされる。
 ……歴史的記述が要所に散りばめられた「ルカによる福音書」がイエス伝の構築のみならず、当時のシリア・パレスティナ地方、延いてはオリエント地方史を繙く際に典拠となる理由が、こうした読書を通じてわかってゆくことである。
 さて。
 かつてわたくしが、「マタイ」第1章にてやはりイエスの系図について愚痴ったことを覚えていらっしゃるだろうか。「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」(マタ1:17)……計算が合わない、という愚痴である。
 これは「マタイ」に留まらず、同じ系図を(今度は逆向きに)掲げる「ルカ」についても事情は変わらない。否、もはや人名さえ異なっている時点で(ヨセフの父)わたくしなどは頭を抱えてしまう。イエスを出発点として過去へ遡上してゆく系譜の辿り方には「ルカによる福音書」著者の独自性と才覚、そうしてなかば意地さえ窺える。が、家系図が孕む人数の齟齬という厄介事はまったく以て解消されたとは言い難い。正直なところを告白すれば、同じ系図の記述であっても代上1-9の方がよほど親しみやすいのではないか。
 系図に関して「マタイ」と「ルカ」は典拠とした史料が異なっているのかもしれない。それが単一の史料を基に記述したものであれ、複数の史料を組み合わせて綴られたものであれ、まったく同じ史料のみを典拠としたとは考えられない。人名の齟齬にしても経る歳月のどこかの段階で正しい名前が曖昧になってしまうことだって、ある。原因は幾らも推測できようが、それにしても系図とは古今東西、読み手を混乱させる厄介な代物であることに異論を呈する者、有りや無しや。
 一度、「マタイ」と「ルカ」それぞれの系図に記載される人名を代毎に列挙する必要がある。

 本日の旧約聖書はルカ3:4-6とイザ40:3-5。



 もういつの間にやら世間はGWに突入し、有楽町では今年も<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>が始まっているのですね。
 今年のテーマは「PASSION」。なんだ、そりゃ? なタイトルである。察するところ、集客できるだけの作曲家は出尽くしたようだ。辛うじて集客が可能なテーマも種が尽きたらしい。為に、よりキャパシティの広いテーマを掲げることで縛りなき作曲家と分野の選択を可能とする方向へ転換したのだろうか。
 まぁ、それはともかく通常よりは低価格で高水準の演奏を楽しめる、敷居の低いクラシック音楽祭と位置付けられた<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>は今年も盛況なようである。個人のブログやSNSを見ていると、参加者の種々の声が聞こえてくる(が、そのなかにスタッフについて触れたものは1つもない)。
 今年の前半はひたすら怠惰に過ごしたから、初日になってようやく(偶然に)<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>のことを思い出したわけだが、もっと早くに気付いていればわたくしはこのイヴェントに1人であっても出掛けていただろうか。──否、とはっきり申しあげられる。LFJAJには、いや、東京国際フォーラムには心をちくりとさせられる甘酸っぱい(呵々)思い出が、未だ生々しく残っている。
 フォーラムに咲いていた可憐な花はいまも色鮮やかに、どこかで咲き誇っているのだろうか。悠久の希望を与えてくれたであろう花、だが触れることも近附くことも気後れさせられた花。ジュルネやホールCやシビックホールの思い出は、どんな道を辿っても必ずこの花の思い出に辿り着く。後半生最大級の呪縛。◆

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第1942日目 〈ルカによる福音書第2章:〈イエスの誕生〉、〈羊飼いと天使〉他withちかごろデジカメを持ち歩いています。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第2章です。

 ルカ2:1-7〈イエスの誕生〉
 初代ローマ帝国皇帝アウグスティヌスの勅命により、帝国領内の全員が住民登録を行うことになった。時のシリア州総督はキリニウス。件の住民登録はかれの代になって最初のものである。人々は住民登録を行うため、それぞれ自分の町へ移動を始めた。
 さて。ナザレのヨセフも例外ではなく、住民登録を済ませるため、妊娠中の許嫁マリアを伴って、ナザレのあるガリラヤ地方から一路南のユダヤ地方へ、祖ダビデの町ベツレヘムへ向かった。が、到着したベツレヘムの町は、かれら同様住民登録を済ませに来た人々でごった返しており、宿屋に空き部屋はない状態である。
 一夜を家畜小屋で過ごすことになったヨセフとマリアであったが……まさにその晩、まさにその時、月が満ちてマリアは初子を出産したのである。赤子は布にくるまれて、飼い葉桶に寝かされた。

 ルカ2:8-21〈羊飼いと天使〉
 その晩、ベツレヘム近郊で羊飼いをしている男たちの前に天使が現れて、いった。曰く、──
 わたしはすべてのユダヤの民へ与えられる大きな喜びをあなた方に告げる。今宵ダビデの町で一人の幼子が生まれた。この子こそメシアとして待ち望まれていた方である。いって、飼い葉桶で眠るこの方を、汝らは見よ。これがあなた方へのしるしである。
 また天の大軍が現れて、神を讃美した後に去った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)
 羊飼いたちは、ベツレヘムへ行こう! と口々にいった。メシアとされる幼子を見に行こうではないか。──かれらは行き、と或る宿屋の家畜小屋で休むヨセフとマリアを見附け、飼い葉桶で眠る幼子を見た。羊飼いたちはマリアたちへ、自分たちが見た主の栄光と天使の言葉を伝えた。そうして羊飼いたちは神を崇め、讃美しながら帰って行った。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)
 ──誕生から8日後(それは割礼の日でもあった)、幼子はイエスと命名された。これはマリアの胎内にこの命が宿る前から天使ガブリエルによって決められていた名である。

 ルカ2:22-38〈神殿で献げられる〉
 初子の男子はすべて主なる神の前で聖別される。その律法の定めるところに従ってヨセフとマリアは、同じく律法によって定められた清めの期間が終わった後、エルサレムへ上った。
 この頃、エルサレムの神殿にはシメオンという男がいた。主の目に正しいと映ることを行い、道を外れることなく歩んでイスラエルの慰めを待ち望む、聖霊に満たされた男だった。加えて、主が遣わすメシアに会うまで死ぬことはない、と聖霊によって告げられている男であった。
 そのかれが霊に導かれて、神殿の境内に来た。ちょうどヨセフとマリアが律法の規定通り、いけにえをささげようとしているところであった。これを目撃したシメオンはかれらに駆け寄り、涙ながらにイエスを抱きあげて、この幼子を祝福した。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。(中略)多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:34-35)
 ──シメオンと同じようにエルサレムの第二神殿にいた者に、女預言者アンナがいる。彼女は若いときに7年間の結婚生活を営んで後は未亡人となり、84歳になる今日までここで暮らしていた。彼女はシメオンがイエスを祝福する光景を目撃して随喜し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々にイエスのことを教えて聞かせたのであった。

 ルカ2:39-40〈ナザレに帰る〉
 エルサレムで初子奉献を終わらせた一家はナザレに帰った。その地でイエスは健康に育ち、知恵に満ちて神の恵みに包まれて成長していった。

 ルカ2:41-52〈神殿でのイエス〉
 ヨセフとマリア、イエスは毎年、過越祭の頃になるとエルサレムへ上った。イエスが12歳のときである。例年のようにエルサレムへ来たかれらは務めを済ますと、ナザレへの帰途に就いた。
 都を出発して1日分の道程を来たときである。ヨセフとマリアはイエスがいないことに気が付いた。かれらは息子を捜しながら3日後にエルサレムへ戻り着いた。町中を捜しているうちに神殿へ至ったかれらは、そこで学者たちの話に耳を傾け、時に意に適った質問をして人々を驚かせる息子イエスを見出した。
 どうして残ったりしたのか、と問う両親に、イエスは答えて曰く、どうしてわたしを捜したりしたのですか、と。わたしが父の家にいるのは当たり前だと、なぜ知らないのですか。
 ヨセフとマリアはこの答えを聞いて不審に思ったが、その意味を理解することはできなかった。3人は一緒にナザレに帰ってイエスは両親によく仕えて暮らした。母はこの年のエルサレムでの出来事を心に納めた。──イエスは神と人に愛された。

 どうして、と思う。あらかじめ神の子と予告されて生まれたイエスを授かったヨセフとマリアなのに、どうしてエルサレムの神殿に残ったイエスの返事をそれと察することができなかったのであろう。生まれたときこそ過剰なまでの祝福を受けた息子なれども両親の目には斯くも大仰な役割を果たす者とは映らなかったことの証しであろう。
 かれらにとってイエスはメシアでなく自分たちの息子以外の何者でもなく、すこぶる賢く育ち、一角の人物になるだろう程度には期待したかもしれないが、歴史に名を残したり、その後の人類の歴史を転換させるだけの大きな力を持ち、イスラエル/ユダヤの救い手、やがては人類の救い手として讃えられ、渇望され、愛されるなどとは考えもしなかったし、おそらく望みもしなかったのではないか。きっと両親には「神童も20歳過ぎればただの人」ぐらいの感覚しかなかったのではないか、と思う。それならば、エルサレム神殿での息子の言葉を理解できなかったのも道理である。
 本章に於いてマリアは2度、これらのことを心に留めて想いを巡らした旨記述がある(ルカ2:19,51)。この一文は良くも悪くも受け取れるけれど、母マリアはイエスの宣教に随伴していろいろ世話をした婦人たちの1人である、という。かりにイエス幼少時はメシアであることを疑問に思うたかもしれぬが、成人して公生涯とされる時期には天使ガブリエルや羊飼い、神殿のシメオンの言葉や祝福を改めて思い出し、イエスの活動を支えたことであろう。そうしてイエスの死後は聖母と崇められ、弟子の1人(12使徒の1人ヨハネとされる)によって後半生を養われた由。
 洗礼を受けて霊に満たされる前のイエスは、かつてメシアと祝福されたことがある普通の男児、と親の目に映るのも仕方ない。この頃にはイエスがメシアと信じられる奇跡や癒やしも行っていなかっただろうから──。
 ヨセフとマリアが一夜を過ごし、マリアが出産した家畜小屋だが、当時これは母屋と別棟でなく一続きのものであったそうだ。今日の捉え方でこの箇所を読むと思い違いが生じるには必死である。
 なお、アウグスティヌス帝による住民登録が実施されたのは前6年のことであった。時のシリア州総督はキリニウスである、と伝える。資料に拠れば、キリニウスがシリア州の総督になったのは後6年のことであり、かれの時代の住民登録は「使徒言行録」第5章第37節が伝える後6-7年のそれであった。即ち、イエス成長後の話である。
 が、キリニウスが総督になる以前のシリア・パレスティナ地方でも住民登録は実施されており、そのとき所用でかれもシリアに滞在していたことが確認できる、という。このあたりが混在してルカ2:2の記述かもしれない。その際、当然ながらキリニウスの名は他に置き換えられるべきで、そこの本来あるべき名は「サンチュルヌス」である云々。

 本日の旧約聖書はルカ2:23と出13:2及び12,民3:12-13及び40-41,ルカ2:24とレビ12:8。



 最近リュックの中身にデジカメが加わりました。ただでさえ7キロ程ある荷物が余計重くなった、ということですね。でも、いいんです。これまでも折に触れてiPhoneのカメラで景色など撮影していましたが、パソコンで改めて見てみると、やはり機能的にカメラは添え物の域を出ないのかなぁ、と溜め息していましたから。
 以前Windows PCを購入した際、セット品として届けられたコンパクトなデジカメですが、機能的には同じサイズでもっと良い物があるとわかっていても、取り敢えずいまの自分にはこれでじゅうぶんだ、と思うている。あまりたくさん機能があっても使いこなせないし、自分の求める色味や質感が再現できていれば、まずは良いのであります。iPhoneのようにちょっとPC上で拡大しただけで粒子が粗くなったりしないのであれば、そこそこ満足。多くは求めないから手許にあるこのコンパクトなデジカメで良い、と思うているのだ。
 デジタル一眼レフは勿論欲しい。フィルム時代は一眼レフカメラを使っていたこともありますからね。でも、いまはこれに手を出すことはできません。というのも、これ以上荷物が重くなることは避けなくてはなりませんし、そちらへ手を出す前に現在持っているデジカメを使いこなして、失敗作をたくさん撮影したり、奇跡的に撮影できた上質の1枚を大事に保管したり、SNSにアップするなど、日常的に写真を撮影する愉しみと感覚を取り戻したいのであります。
 ──なお、撮影した写真は別ブログにて公開中。自慢できるような代物ではありませんが、もし宜しければお立ち寄りください。おっと、結果的に宣伝になっちゃいましたね。えへ。◆(60)

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第1941日目 〈ルカによる福音書第1章:〈献呈の言葉〉、〈洗礼者ヨハネの誕生、予告される〉他with小稿「わがライトノベル史」はしがき(っぽいもの)〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第1章です。

 ルカ1:1-4〈献呈の言葉〉
 テオフィロさま、申しあげます。むかしイエスが起こした数々の奇跡や癒やしの業を目撃した人々、イエスの言葉を直接聞いた人々によって伝承せられた話を基にして、いまやイエスの物語は多くの者によって書かれております。
 そこでわたしもイエスの生涯、言行について資料を広く渉猟、調べあげて、それらについて筆を執り、正しい順番に語り直した上でテオフィロさまへ著作を献上しようと思います。
 といいますのも、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」(ルカ1:4)一念からであります。

 ルカ1:5-25〈洗礼者ヨハネの誕生、予告される〉
 於エルサレム、大王ヘロデの御代。かつてダビデにより制定された24組の1つ、アビヤ組にザカリヤという祭司がいた。妻の名はエリザベト。神の前に正しく、主の掟と定めをよく守る敬虔な夫婦であった。
 或る日、くじ引きによってザカリヤは主の聖所に入って香を焚く役に決まった。他の祭司たちは皆、聖所の外で祈りをささげていた。総したときである、聖所のなかのザカリヤのそばに大天使ガブリエルが現れて、香壇の右に立った。その様子にびっくりし、不安になっているザカリヤにガブリエルがいった、──
 やがてあなたとエリザベトの間に男の子が生まれる。「その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:13-17)
 しかしわたしも妻も高齢です、とザカリヤはいった。どうして子供を授かるなどということがありましょうか、なにによってわたしはそのことを知るでしょう。
 不信のザカリヤにガブリエルはいった。わたしは神の前に立って、この喜ばしい言葉をあなたへ伝えるよう遣わされた者。あなたはわたしの言葉を信じなかった。ゆえにわたしはあなたの口を利けないようにし、時が来てこのことが実現するまで話すこともできないようにする。
 天使ガブリエルが語り終えるとその姿は消え、ザカリヤは聖所の外へ出た。聖所の外でザカリヤを待っていた人々は、かれが口が利けなくなっていることに驚いた。
 ──やがて奉職の時期が終わってザカリヤは家に帰った。やがてエリザベトは妊娠した。彼女は喜んだ。

 ルカ1:26-38〈イエスの誕生が予告される〉
 エリザベトが妊娠して6ヶ月、天使ガブリエルがガリラヤ地方の小村ナザレへ神によって遣わされ、ダビデの家の末裔大工のヨセフの婚約者マリアの前に現れて、いった、──
 喜びなさい、恵まれた方。主はあなたと一緒にいます。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:31-33)
 マリアは、包み隠さず白状した。しかしわたしはまだ男性を知りません。すると天使は、聖霊があなたに降っていと高き方の力があなたを包む、と答えた。それゆえに男の子は聖なる者、神の子と呼ばれる。そのあと、天使はマリアの親類祭司アロンの家の娘エリザベトも男の子を身ごもっている旨伝えた。
 わたしは主の辱め女です、お言葉通りこの身に命を授かりますように、とマリアがいうと、天使ガブリエルは去って行った。

 ルカ1:39-45〈マリア、エリザベトを訪ねる〉
 こうしたことがあった後、マリアは急いでナザレを出発、南へ向かい、ユダの山中に暮らす親類エリザベトを訪ねた。マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、彼女の胎内の子が踊った。エリザベトはマリアを祝福して、いった、──
 「わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」(ルカ1:43)お腹のなかの子もあなたを祝福しています。ああ主の言葉の実現を信じた人はどんなに幸いなのでしょう。

 ルカ1:46-56〈マリアの賛歌〉
 マリアは主を讃える歌をうたったあと、3ヶ月ばかりエリザベトの許に滞在してからナザレに帰った。
 「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者というでしょう、/力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。」(ルカ1:48-49)

 ルカ1:57-66〈洗礼者ヨハネの誕生〉
 やがて月が満ちて、エリザベトはかねてから予告されていたとおり、男の子を産んだ。これまで子供の授からぬ身であったエリザベトが妊娠し、ぶじに出産を終えたことを知った町の人々は、主がマリアを憐れみ慈しんだのだ、といって喜び合った。
 8日目。人々が割礼を施すために来て、生まれた男児に父親と同じ名を与えようとしたところ、エリザベトは一人抗弁してヨハネと命名することを主張した。人々は戸惑った。というのも、ヨハネという名を持つ者が、エリザベトの血縁者にもザカリヤの血縁者にもいなかったからである。
 困惑した人々は未だ喋ることかなわぬザカリヤに、息子の名をどうするか、と手振りで訊ねた。ザカリヤは板を手にすると、わが子の名はヨハネとする、と書き付けて皆に見せた。するとザカリヤは再び口が利けるようになり、主を讃美する歌をうたったのであった。
 ──このことはユダヤの山中でたいそう評判になり、皆が心に留め、ザカリヤとエリザベトの息子の行く末について思いを巡らせたのだった。

 ルカ1:67-80〈ザカリヤの預言〉
 「主はその民を訪れて解放し、/我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。/昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。」(ルカ1:70)
 「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。/主に先立っていき、その道を整え、/主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。」(ルカ1:76-77)
 ──こうしてヨハネと名附けられた幼な子は、身も心も健やかに正しく育ち、イスラエルの人々の前に登場するまでは荒れ野で過ごした。

 <前夜>でも触れたように「ルカ」はイエス誕生の前史を語り、時代背景と活動舞台を提示することで、イエスという不世出の人の登場が必然であったことを指摘して、これが旧約聖書の時代から伝えられてきたメシア預言の成就であることを伝える。
 福音書は勿論イエスの公生涯を語ることをの目的とする、かれの説いた福音と愛を伝え、かれの行った奇跡とふしぎな業を記録する書物であるが、「マタイ」、「マルコ」共にイエスの生きた時代がどのようなものであったのか、歴史的背景を語ることは殆どせず、またそれについてまるで関心がないと疑われても仕方のない書物であった。それと様相を異にするのがこの「ルカ」である。専らイエスの公生涯が始まるまでの期間に限定されてしまうきらいはあるが、「ルカ」は要所で時代背景について説明を加える。第2章、第3章それぞれの冒頭部分はその好例であろう。この点を以て「ルカ」の著者が教養ある知識層に属すると考えるのは早計だが、このような歴史感覚を細部で発揮する筆致と構成には、やはり相応の能力がなくては務まらないのではないか。
 わたくしはこれまで、聖書の概説書など読んでいて1つ気になってならぬことがあった。イエスの生涯を語る際、「マルコ」と並んでこの「ルカ」が目立つのはどうしたわけだろうか、と。いまだって結論を得られたわけでは、むろん、ない。もしかするとこれは正典として認められた福音書のうちでほぼ唯一幼少期のイエスの姿を描いて、それが生彩であることや、歴史的文脈にイエスの人生を取りこんだことで活動の背景を推定しやすく、かつ典拠とするに信を置くに値するだけの正確性と伝記性を備えた書物であることが、大いに関係しているかもしれない。「ルカ」の読書を実際に初めて約10日、そう思うことしばしばなのである。
 洗礼者ヨハネとイエスの母が親類である、と述べるのも本福音書のみである。歴史と預言成就を両立させることに腐心した結果なのか、或いは現実にそうであったのか、定かでないけれど、かれらの誕生がそもそもの始めから計画されていたことであり、避けようなき宿命、揺るぎなき神の決定事項であったことを推測させる記述ではある。当時のイスラエルの民、イエス亡きあと地道に宣教した使徒とその弟子立ち、そうして今日に至るまでに現れた数多の熱心かつ敬虔なキリスト者らにとっては、ヨハネとイエスが血縁にあることは、そんな風に映るのかもしれない。
 「ルカによる福音書」と「使徒言行録」をルカから献呈されたテオフィロなる人物がどのような素性の者なのか、どのような地位にあって著者とどのような関係性を持っていたのか。実際のところはわかりかねるが、おそらくはローマ帝国の高官であっただろう、と考えられている。執筆場所がアンティオキアやカイサリア、或いはローマとされることからテオフィロもいずれかの地に在ってその任にあたっていたのかもしれない。「ルカ」や「使徒言行録」から推測できるのは、先に述べたようにかれがローマ帝国の高官であり、また、キリスト者であった、ということである。ただキリスト者というても献呈の序文からは未だ信徒というわけでなく、キリスト教をルカその他の人物から教授され、その教えについて多少は知るところがある程度の新参者、或いはその一歩手前にいる人物であろう、と想像できるが精々だ。実際のテオフィロはどのような人物だったのだろう。

 本日の旧約聖書はルカ1:33とサム下12:12-13及び16,ルカ1:69-70とエゼ29:21。



 先月の終わりだったかな、馴染みのクラブにいる読書家の女の子と小説の話をしていると、なんの拍子か、話題がライトノベルに至ったのである。
 話をしていてつくづくと、自分の小説読みの歴史は、今日ライトノベルというジャンルに括られる作品群から始まったのだなぁ、と実感。コバルト文庫と朝日ソノラマ文庫を町の本屋で立ち読みし、高校生になったら新刊書店と古本屋を渡り歩き、好きそうな作品をお小遣いの許す限りで買い漁り、<小説を読む面白さ>を知ったのだ。
 赤川次郎とか笹本祐一とか高千穂遙とか、久美沙織とか氷室冴子とか新井素子とか、王道というか定番というか、見方を変えればなんの捻りもないセレクトだけれど、その他にも勿論、面白いと思うて読み耽った小説は幾らだってある。ただわたくしが覚えていないだけの話だ。えっへん。
 徒事はともかく、その晩の楽しい会話に触発されて、「ルカによる福音書」の読書ノートを執り始める直前まで「わがライトノベル史」みたいな文章を書いていた。が、なんだか締まりのない、まるでダイエットに失敗してリバウンドしたみたいな趣の文章となってしまい、それは大規模な整形手術を施さない限り、とてもではないが他人様の目には触れさせられないような代物である。フランケンシュタインの怪物もかくや、といわんばかりの、それ。
 しかしながら、わたくしにはこの文章を完成させる意思がある。なかばそれを義務とも思う。お披露目がいつになるのか、皆目見当が付かないけれど、約束ゆえにかならず陽の目を見させることを誓おう。
 ──わたくしはいま、なんの因果か、某新古書店の近くにいる。では、諸君、小説の棚を漁って児玉清いうところの<面白本>を渉猟しに行こう。ターゲットは勿論、ライトノベルである。◆(59)

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第1940日目2/2 〈「ルカによる福音書」前夜〉 [ルカによる福音書]

 <共観福音書>の名称が示すとおり、「ルカによる福音書」を読んでいると、「マタイによる福音書」や「マルコによる福音書」で既に読んだことのある挿話、喩え話と再会すること多々であります。シモン・ペトロの弟子入りと姑の病気を癒やす話のように先の2つの福音書と順番が逆になっていたり、ナザレでのイエス拒絶のような描写がより詳しくなっている、或いは逆にヘロデによる洗礼者ヨハネ処刑の如く簡素化されているなど、様相は個々に異なると雖も、ああこの話は前に読んだことがあるな、と思い、無意識に「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」の並行箇所と比較してしまうのです。
 しかし、なによりも「ルカによる福音書」について思うのは、<共観福音書>のうちでいちばん構成がしっかりしている点でありました。これは畢竟、最も物語としての結構が整っていることを意味し、イエスの公生涯を最も彩り豊かに伝えている点にも結びつきましょう。そうして本福音書は唯一、洗礼者ヨハネの誕生が語られ、イエスの幼少時代を語られる書物であります。12歳のときのエルサレム巡礼は「ルカ」のみが記録するものでした。
 この福音書の優れたる文学性については諸家が述べるところでありますが、それは著者に擬せられるルカが医者という知識階層に属す者であったことに由来する見方であるかもしれません。
 ではこのルカとは何者か。かれを「医者」と報告するのは「コロサイの信徒への手紙」第4章第14節であります。またかれは、マニ教からの改宗者にして初期キリスト教最大の伝道者、後に読む書簡の多くを書いたパウロの宣教旅行に随伴した人。一方で初期キリスト教の宣教活動を記した「使徒言行録」の著者でありました。なお、ルカは「ローマの信徒への手紙」第16章第21節にある「同胞のルキオ」と同一人物とされる由。
 ルカの生涯はパウロのそれと密に関係するがためか、パウロ書簡にはルカの名前が散見されます。それらの記述を綜合させるとルカは、パウロの最初のローマ投獄のときには既に随伴者として侍っており、晩年に至るまで身辺を世話してパウロを助けました。
 以上のようなことを述べてきたとはいえ、ルカが「ルカによる福音書」と「使徒言行録」の著者である、と研究の末に断定せられたわけではありません。わたくしにはわかりませんが、「ルカによる福音書」はなかなか練られたギリシア語で書かれているそうであります。教養ある階層の人物によって書かれた、という点では変わりありませんが、すくなくともそれはローマ帝国領内の都市部に住む、ギリシア語に堪能なキリスト者でなくてはならないでしょう。加えてルカ1:1-4にあるようにローマの高官としか推測できぬ人物に親近して著者が献呈する程の立場と地位になることも、著者を特定するための条件としなくてはならないでしょう。
 「使徒言行録」については後日改めて述べますが、「ルカによる福音書」の執筆場所として挙げられるのは、シリアのアンティオキアとガリラヤ地方北部の(フィリポ・)カイサリアの2箇所であります。一節によれば、ローマで書かれた、ともいいます。アンティオキア説の根拠となるのは、ルカがアンティオキア教会の会員であり、殊「使徒言行録」第13章第1節でアンティオキア教会に属する預言者や教師の名を挙げている点などに由来する。カイサリアとローマに関しては、それぞれパウロが2年の間投獄されていた地であり、その間にルカは福音書と記録の執筆を行ったのであろう、といわれます。
 実際の執筆場所がアンティオキアなのか、カイサリアなのか、或いはローマなのか。それに明確な正解を出すことは不可能ですが、パウロの足跡やルカへの言及、ルカが読者対象とした知識層に属する異邦人の存在などを考えた場合、執筆地が上記のようなローマ帝国領内にある発展した都市部である、と考えることに無理はないようであります。
 執筆年代については、本福音書の記述が第一次ユダヤ戦争によってエルサレムが陥落した70年から、81年から96年までローマ皇帝の地位に在ったドミティアヌス帝によるキリスト教迫害までの、最大約25年とする考えがあります。一方で、執筆地をカイサリアとするならば58-60年の間に、ローマとするならば60-63年の間に書かれた、とされます。W.クライバーは単純に80年頃とします(『聖書ガイドブック』P235 教文館)。──福音書の執筆年代を特定するのはいつでも困難で、不可能事に近いのですが、それでも「ルカによる福音書」程の開きはなかったように記憶します。そうした点では最も厄介な書物と申せましょう。
 ──「マルコによる福音書」のときにはわたくし自身の健康上の理由から2週間近くも中断してしまいましたが、今後はそのようなことがないよう留意しながら本ブログの更新をしてゆきたく思います。
 それでは明日から1日1章の原則で、「ルカによる福音書」を読み進めてゆきましょう。◆(71)

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