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第1360日目 〈ナホム書第3章:〈ニネベの陥落〉2/2with落ち着いて話をしよう、君とぼくとで大事な話をしよう。〉 [ナホム書]

 ナホム書第3章です。

 ナホ3:1-19〈ニネベの陥落〉2/2
 ニネベの都に血が流れる。町のあちこちで戦時の音が響く。破壊と殺戮と略奪の音があちこちから聞こえてくる。屍の山が築かれ、人々はそれに躓く。
 「ナホ3:6」
 ――ニネベよ、お前はテーベの都に優っていると思うのか。難攻不落の自然の要塞であったテーベに? クシュもエジプトも、プト人もリビア人も、かつてはテーベを支援する力があった。しかしいまやかれらは敗れて捕囚となり、十把一絡げに鎖につながれて行った。
 ニネベよ、お前もまた同じ道を辿る。敵を避けて逃げ場を探すが、そんなものはどこにもありはしない。揺さぶれば簡単に実の落ちる、初生りのいちじくを実らせた木だ。――
 さあ、滅びの都、ニネベよ。守りを固めて、敵の襲来を警戒せよ。籠城に備えて水を貯え、補修のためのレンガを造れ。「ナホ3:15-17」
 アッシリアの王よ、お前を護る者はどこにもいない。お前の牧者たちはまどろみ、兵士たちは山々へ散らされてしまったからだ。王よ、お前の傷を和らげる者はなく、打たれた傷は重い。お前を知る者は皆、手を叩くことだろう。お前の謀る悪には誰もが悩まされてきたからだ。

 ニネベ陥落の預言の後半部分であります。昨日に読んだ預言がどれだけ穏やかであったか、比較するまでもないのではないでしょうか。先入観に囚われているわけではありませんが、サマリアやエルサレムはともかく、他国の都、或いは国の滅亡/陥落がこれ程無常に、取り付く島もないぐらい頑なにされている例は、他に精々エジプトを思い出すのみ。
 そのエジプトが支援したテーベが陥落する、という預言が割りこんできた。計ってか計らずかはわからないけれど、前663年のこの出来事が既に起こったこととして語られる点が、実は「ナホム書」成立の鍵を握っている。即ち前663年から(ニネベ陥落の)前612年までの約半世紀の間の成立が濃厚で、それは同時にナホムその人が生きた時代をも推定させるのです。ちなみにテーベは現在のルクソール近郊に広がる古代都市。そうして勿論、世界遺産であります。

 「ナホム書」は今日で終わり、明後日からは次の「ハバクク書」であります。お読みいただきありがとうございました。引き続きご愛読の程をお願い申し上げます。



 提案したい。どうだろう、落ち着いて話をしてみないか? 今度は互いに素面で、感情的にならず。間違いは正されなくてはならないのだから。
 あなたが残していった悪質なデマを正すよう、わたくしはあなたに要求したい。いまでも非常に迷惑を蒙っています。これ以上あなたの人格を疑わせないでほしい。どうあっても同期であった事実は変わりないのだから。
 だから、落ち着いて、素面で、公正なる第三者を同席させて、われらは互いに顔を合わせて話をしよう。これがわたくしの提案です。――どうだろう?◆

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第1359日目 〈ナホム書第2章:〈ニネベの陥落〉1/2with映画『ミッドナイト・イン・パリ』を観ました。〉 [ナホム書]

 ナホム書第2章です。

 ナホ2:1-14〈ニネベの陥落〉1/2
 敵がお前に襲いかかる。砦の守りを堅くし、道という道を監視しろ。武具を携え、甲冑をまとい、戦に備えよ。
 その日が来た。戦車が街中を狂うたように走る。将軍たちは慌てふためき、都の民は右往左往する。ユーフラテス川に面した城門が敵によってこじ開けられ、ニネベの宮殿は阿鼻叫喚に包まれる。宝物は奪われ、男は殺され、女は犯される。
 ――獅子は住み処を去ってどこへ行ったのか。牧場にいるのが雌獅子と子獅子だけだとしても、これまでそこを脅かすものはなにもなかった。そこは食べ物に満ちた安逸の場所であった。
 わたし主はお前をこの地から断ち、お前の使者たちの声が聞かれることはなくなる。
 斯くしてヤコブの誇り、イスラエルの誇りは回復する。一度は略奪されて荒らされもした、わが民の誇りが、斯くしてここに回復する。
 「見よ、良い知らせを伝え/平和を告げる者の足は山の上を行く。/ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。/二度と、よこしまな者が/お前の土地を侵すことはない。/彼らはすべて滅ぼされた。」(ナホ2:1)

 「ユダよ、お前の祭りを祝い」とはなにか。それはアッシリアの軛からユダが逃れられたことを祝う祭りであろう。
 アッシリアがメデイア・バビロニア・スキタイ人の連合軍によって滅ぼされたことは、かの国の影が重くのし掛かっていた当時のユダには慶事であった――たとえそれが、ユダにとって滅びの始まりであったとしても。そうしてそれが、これまで経験したことのないような悲劇的屈辱的な歴史の始まりであるとしても。
 とはいえ、いまこの瞬間に於いての憂い事は拭い去られた。歓ぼう、祝おう、歌おう、感謝しよう。ニネベは陥落し、アッシリアは滅びた。歌おう、雷に打たれた程の歓びを!
 しかし、ナホムによるニネベ陥落の預言はまだ終わらない。そこではニネベ/アッシリアへの容赦ない裁きの言葉が並べ立てられる。本章はまずユダの歓びを第一に伝える露払い的意味合いを持つ、と考えて宜しかろう。
 いや、それにしても、引用したナホ2:1は美しい文章ですね。強さと優しさが巧みに調和した文章、というてよいのではないでしょうか。



 『ミッドナイト・イン・パリ』の主人公は「生まれた時代を間違えた」が口癖な脚本家。そんなかれが彷徨いこんだのは、生きるのに理想的な1920年代のパリであった。主人公は<失われた世代>の作家たちと知り合い、自分が本来求めていた恋の相手と出会う。別れの場面は残酷であるが、<時>を旅するかれにとってそれはきっと必然。
 現実に馴染めぬ<なにか>を弄んでいるマイノリティには圧倒的にお奨めの映画です。◆

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第1358日目 〈ナホム書第1章:〈主の怒り〉with大分県には鬼のミイラがあると仄聞する。〉 [ナホム書]

 ナホム書第1章です。

 ナホ1:1-14〈主の怒り〉
 エルコシュの人ナホムがニネベ陥落を預言する、――

 主は報復する、ヤコブの誇りを汚すお前たちに。その憤りに、その怒りに、いったい誰が立ち向かえようか。
 お前たちはなにを企むのか。力と数を頼りに悪いことを謀るお前たちを、主は必ず切り倒して、立つ。
 アッシリアよ、お前の未来は定められた。もはやお前に名を継ぐ子孫はなく、お前の国の神殿から彫像と鋳像を断ち、わたしへの罪ゆえに辱められたお前のために、わたしは墓を掘る。
「わたしはお前を苦しめたが/二度と苦しめはしない。/今、わたしは彼の軛を砕いてお前から除き/お前をつないでいた鎖を断ち切る。」(ナホ1:12-13)

 「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり/主に身を寄せる者を御心に留められる。/みなぎる洪水で逆らう者を滅ぼし/仇を闇に追いやられる。」(ナホ1:7-8)

 「ナホム書」はバビロニア・メディア・スキタイ人の連合軍によるニネベ陥落(前612年)を預言する。ここは本題へ入る前の枕、主によるアッシリア滅亡が宣告されます。
 開巻いきなり主を<怒りの神、報復の神>と讃え、その果てなき激情の前に敵、即ちアッシリアが根こそぎ絶たれることを預言するのは、国家国民が仄かに見る希望なのだろうか。――ふとそう思うことであります。引用もした「わたしはお前を苦しめたが/二度と苦しめはしない」とは、相当に恨み辛みが溜まっていなければそうそう出ない表現ではないでしょうか。
 もしかれの言葉が地方の住民へ向けたものであるとすれば、(ミカも然りでしたが)逆にこれぐらいの表現でないと、聴衆の胸に届いてくれないのかもしれないな、とは、先の参議院選挙の折、街角、路上にて様々な候補者、応援者の演説を聞いていて、はた、と思い至ったことでもあります。聴く側にとってはまだわからぬ将来のことを握り拳あげて、口角泡飛ばして熱弁を振るう様は、21世紀日本の政治家も、そうしてかの時代の預言者たちもあまり変わるところはないのかな、と、そう考えたのであります。
 ナホムの生誕地とされるエルコシュがどこにあったのか、答えを与えてくれる本はありません。ユダ南西部とも北王国ガリラヤ地方のどこかとも、様々にいいます。しかしながら諸々の要因をさらって、いちばん可能性として高いのは、ユダの南西部であろう、とするものです。
 たびたび書名を出す『新エッセンシャル聖書辞典』「ナホム書」の項で、執筆者は「本書の文体は簡潔で、韻律は短く、表現は生き生きとしており、写実的な表現をもっては、ナホムほどの詩人を旧約聖書中他に見出すことができない」(P709)と書きます。ヘブライ語やギリシア語ではそうなのかもしれない。が、新共同訳ではそのあたりにどうしても不満が残る。新しい訳が出るなら是非、その辺の改善を求めたいところであります。



 大分県には鬼のミイラがあるという。超自然奇譚を愛する者としては一見してみたい。ブラッドベリの小説みたく、ミイラを見たあとで体に変調を来してすっかりこの世から消えちゃった、なんてことにはならないようにしなくっちゃね。呵々。◆

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第1357日目 〈「ナホム書」前夜withいつまで続くのか、この邪淫の妄執は?〉 [ナホム書]

 12小預言書の後半が「ナホム書」から始まります。
 本書はアッシリア帝国最後の首都ニネベの陥落にまつわる預言です。その昔、ニネベにはヨナが行っていましたね。ナホムがいつの時代を生きた人なのか判然としませんが、前612年のニネベ陥落をあらかじめ預言した点から、南王国ユダがヨシヤ王を戴き、エレミヤが預言活動を行った時代に生きた、とされます(岩波10 P371)。ナホ1:1にナホムはエルコシュの人と紹介されるが、このエルコシュがどこなのかもわからない。ユダ王国のどこかであろう、という程度しか。
 エレミヤ、イザヤ、エゼキエルを除いては旧約聖書に登場する預言者は出自の詳らかでない者が多い。むしろそれが当たり前なのだろうが、やはりナホムも例外ではない。かれがどんな理由あって主により召命され、ニネベ陥落の預言をあずかる役を担ったのか。当時ユダを脅かしたアッシリアが敵国の攻撃によって倒れる。それ自体はユダにとっても幸い事であったでしょう。
 ──ではなぜ、イスラエルの神なる主はナホムを預言者に選んだのか。同時代にエレミヤがあれば、尚更この疑問は大きくなります。
 同時代に、同じ国で活動して名を残した預言者は一人とは限らない。直近で例を挙げれば、イザヤとミカがおりました。<哀しみの預言者>エレミヤを自分の生きる時代に持ったナホムについても然りであります。片方が王都に在るなら、もう片方は地方に。こうやって主は自分の言葉──未来についての幻を、預言者を通じて国民にあまねく知らせた。
 どうしてか。たとえかつてより衰えたと雖も未だ主の民であったユダの家の人々を、一人でも多く救おうとしたかったからかもしれない。可能性の芽を少しでも多く残そうとした主の計らいかもしれない。そうして人々に対して、主の威光、栄光をわずかでも人の心に強く与え、むかしのような畏怖と崇敬をかれらの心のうちに育もうとしたからかもしれない。
 そんな風に、わたくしは妄想する。独善的かつ蒙昧な言葉をいつも並べて申し訳ないけれど、わたくしが読んでは思い、読んでは書けることなんてその程度だから、どうか詳しい人、信徒の方々は目をつぶってここを通り過ぎてほしい。
 「見よ、良い知らせを伝え/平和を告げる者の足は山の上を行く。/ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。/二度と、よこしまな者が/お前の土地を侵すことはない。/彼らはすべて滅ぼされた。」(ナホ2:1)
 それでは明日から、これまで同様一日一章の原則で、12小預言書の後半の開幕を担う書物、「ナホム書」を読んでゆきましょう。

          


 邪淫の妄執は死して後まで吾を拷問するか。
 あなた、救ってほしい、抱きしめてほしい。◆

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