近世怪談翻訳帖 ブログトップ

第3585日目 〈近世怪談試訳 「女房、女の孕みたる腹を焼き破る事」。〉 [近世怪談翻訳帖]

 摂州大阪に、富裕で知られる男があった。妻ある身でありながら別の女を深く想い、体を重ねること幾度もあったので、女が子を宿すのは当然の帰結といえた。
 それを知って黙っていられぬのが、男の妻だ。夫が家を空けた時、妻はかねてからの計略を実行に移した。不倫相手を呼び寄せて、狭い部屋に押しこめたのである。然る後、下僕数人を使って不倫相手の大きくなった腹に真っ赤になって湯気を立てる焼き鏝をあてて、肉をただれさせ、肉を溶かし、腸が見える程になった。不倫相手はもはや虫の息である。そんな不倫相手を母親のところへ返すため、男の妻は駕籠を呼んで追い返した。実家に到着して駕籠を降りると不倫相手はそのまま息絶えた。
 母親は嘆いた。大いに嘆いた。自分でもそれとわからぬまま遠近を彷徨い歩き、諸々の神社に詣で、喚き泣き叫んだ。物の怪が憑いたかのようにあちこち飛び跳ね回った。そうして、「わが子の仇を取ってください」と祈願した。或いは境内の樹木に釘を打ちつけて、残酷な手段で以て娘を死に至らしめた輩を呪った。そうやって様々な方法で相手を呪っているうちに、母も絶命した。
 その日以後、かの妻の許へ、不倫相手のその母の亡霊が毎日現れるようになった。やがて妻なる人は病気になって床に伏すようになり、譫言を口走り、だんだんと衰弱していった。終には、剃刀で自分の腹を裂き(切り破り)、絶命した。それからというもの、その家には不倫相手とその母の亡霊が取り憑いて、どんな祈祷をしても離れようとしないのだという。
 その家は然るべき身分の家でもあるので、詳細をここに書くことはできぬ。読者も、詳しくは知らない身であれば霊障を被ることもあるまい。ただ、因果の道理というものを世人に知らしめんとするだけである。かの男の妻が犯した咎を記して、その家への筆誅とするのではない。



 本稿は、『善悪報ばなし』巻三ノ三「女房、女の孕みたる腹を焼き破る事」の試訳であります。本来ならば決定稿をお披露目すべきですが、ちょっと訳があって、急遽お披露目とした次第です。
 昼間読んでいたときは思わずゾッとしたり、その因果応報の深さに寒気を覚えたものですが、こうして訳してみると……原典の空恐ろしさを毫も伝えられていないようで反省頻りであります。
 なお、最後の「されば人を損ずるは、我身を損ずる事をしらずして、自他の分別かたく、愛執の念慮深き習ひは、かへすがへす愚かに迷へる心なるべし」という一文は上の試訳では省いてあります。といいますのも、どうにもうまい訳文を捻り出せなかったからであります。ご寛恕下さい。
 『善悪報ばなし』は編著者不明、元禄年間開版の因果談集。翻訳の底本とした高田衛編『江戸怪談集 上』(岩波文庫 1989/01)解説に拠れば、「当時流行していた『御伽物語』などの、亜流を意図した出版とも考えられる。近世期の怪談が内容的に因果、因縁ばなしの傾向をつよめてゆく過程を観察できる怪談集だが、ハナシの精彩はかえって先行怪談集には及んでいない」(P397)とのこと。とはいえ、因果応報、人を呪わば穴二つを説いて聞かせるには打ってつけの教本に思えて、その点については楽しく読める作品ではないでしょうか。
 まだわたくしの心が怪談に向けられているうちに、本稿を推敲してお披露目したく思います。◆

第3457日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;訳者あとがき(って程のものでもない)。〉 [近世怪談翻訳帖]

 5月終わり頃から翻訳作業を始めて、8月5日に全稿が仕上がった「浅茅が宿」現代語訳。
 この間、もう本当に色々ありましたわ。大袈裟な物言いになるけれど、この約2ヶ月ちょっとはこの翻訳だけが生きる縁になっていた。享徳の乱を背景にした夫婦の物語へ耽溺した時間は、現実から逃れることができていたものね。
 笑わば笑え。これが事実なることを知る人のみが首肯してくだされば、良い。
 次に現代語訳する近世怪談がなにか、まるで決めていない。風邪が治ったらあちこち本を引っ繰り返して、3つ4つの目星を付けてみるつもりでいる。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3456日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。9/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 寝ようとしてもなかなか2人共寝附けぬ晩だった。そんな晩、翁が問はず語りに聞かせた話に曰く、──
 「儂の祖父も、そのまた祖父も生まれていない、ずっと古のことだよ。この真間に1人の、それはそれは美しい娘御がおったそうだ。手児奈、というてな。身装(みなり)は質素で髪も梳らず、素足のまま野を歩き土を踏む、まぁ、田舎娘といえばそれまでだが、美貌で鳴らした人らしくその顔は望月のように冴え冴えと輝き、花がパッと咲いたような笑顔の持ち主だったそうだ。朝廷に出仕する女御更衣がどれだけ豪奢に着飾り、化粧に精出し、着物に香を焚きしめてみたところで手児奈の美しさに敵うものではなかった、という。
 そんな女であったから、里の男衆は勿論のこと、隣国や遠く都にまでその名は届き、評判を聞いた男は誰もが関心を抱き、なかには直接口説いてくる輩もあったらしい。が、手児奈はそんな男衆の浮ついた好意に靡くような女じゃなかった。いい寄ってくる男は1人の例外もなく退けたそうだよ。
 だがな、誰にも靡かなかったとはいえ、何人(なんぴと)も気附かぬところで深く憂いていたようじゃ。どうかして皆を傷附けることなく丸く収める方法を模索しておったのだろう。が、彼女の出した結論は、あまりに無残なものだった。つまりな、この先の入江に寄せて砕ける波間へ身を投げたのじゃ。むろん、助かろうはずはないな。
 古の人は手児奈の苦悶と最期を非道く哀れに感じて、その哀れの最たる例という意味も含めて歌に詠み、いまの世へ至るまで絶えず語り継いできたのだ。
 儂も子供の頃、手児奈の話は母から何度となく聞いたものだ。そのときの母の口ぶりときたら、お前、湿っぽくならぬよう淡々とした調子であったが、そんな風に話していても、手児奈の物語の悲しさというか、切なさやそういった感じは伝わってくるのじゃな。子供心にも哀れを誘われたものだったよ。
 手児奈のことを詠った歌か? たしか、こういうものじゃったな、──
  かつしかの 真間の入江に うちなびく 玉藻苅りけむ 手児奈し思ほゆ[29]
……もっと長いものらしいが、儂が子供の頃に聞かされていまでも覚えておるのは、この一首だけじゃ。
 それにしても、のう、勝四郎。お前を死して後まで想い続けた宮木殿の御心は、この手児奈のいじらしさ、真正直さにいっそう優って美しくありはせんかの?」
 ──漆間の翁の話はそうして終わった。翁は涙声である。仕方がない、話題が話題なのだから。加えて老齢になるにつれて人は涙脆くなってしまうものだから。
 いまや男やもめが確定した勝四郎の悲しみは、翁の比ではなかった。悲しみも極まるとその気持ちに言葉を与えて表現するのは困難なのである。
 翁の話を聞いて、真間の手児奈と妻なる宮木とを心のなかで重ね合わせていた勝四郎。およそ洗練とは無縁の、ゴツゴツした風合いながら、苦心して一首の短歌を詠んだ。無骨なるがゆえに却って思うことを正直に、飾ることも衒うこともなく、素朴な一首を読んだのである。曰く、──
  いにしへの 真間の手児奈を かくばかり 恋ひてしあらん 真間の手児奈を[30]
──と。
 故人への想いを十全に詠み得たとはいえないけれど、普段から歌を詠じることのある人のそれよりも、余程哀切の伝わってくる歌ではないだろうか。
 ……これは、仕事でしばしば下総国へ通う商人がかの地で聞いて、帰国後に誰彼となく伝えていた話をここに記録したものである[31]。□



[29]かつしかの 真間の入江に うちなびく 玉藻苅りけむ 手児奈し思ほゆ
 →出典;『万葉集』巻三「挽歌」433・山部赤人/長歌1反歌2の反歌-2。詞書「勝鹿の真間娘子の墓を過ぎし時、山辺宿禰赤人の作れる歌一首並に短歌」
[30]いにしへの 真間の手児奈を かくばかり 恋ひてしあらん 真間の手児奈を
 →出典/典拠:なし。秋成詠か。或いは周囲の歌人の作か。
[31]伝えていた話をここに記録したものである。
 →原文「かたりけるなりき。」は説話文学のスタイルを踏襲した〆括り方である。鵜月洋云「聞き伝えた話、語り伝えた話という意味で作品を結ぼうとするつもりで、こういう結語をとったのであろう」(P265 『雨月物語評釈』角川書店 1969/03)
 たとえば、『宇治拾遺物語』を任意に繙くと、次のような結語で〆括られる挿話が幾つもある。曰く、──
 「〜いひけるとか」 巻第十一・十一「丹後守保昌下向ノ時致経父ニ逢フ事」
 「〜とかたり侍けり」 巻第十・十「海賊発心出家ノ事」
 「〜となん人のかたりし」 巻第十・九「小槻当平ノ事」
──などである。秋成もこうしたスタイルに倣って、過去を舞台にした「浅茅が宿」を結んだのだろう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3455日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。8/9〉) [近世怪談翻訳帖]

 よくよく見ればその老翁は、勝四郎も知っている昔からの住人、漆間の翁である。勝四郎は翁の長命を寿ぎ、長の無沙汰をわびた。そうしてこの7年間の顛末を語り、昨夜の妻との一件を語った。
 「なんでも家内の塚を拵えてくだすったり、水を替えるなどいただいているそうで、ありがたい限りです」
 そんなことを話しているうちにも自然と涙が零れてくるのだった。
 勝四郎の話を聞き、泣くのが収まるのを待って、漆間の翁は、勝四郎不在の間のこと、独り家に籠もってどこへも避難しようとしなかった宮木のことを語った(なんでも翁がここへ残ることになったのは、足が不自由で戦火を避けて逃げること困難だったため、という)。
 「そう、避難だ徴兵だ何だ、で、宮木殿と儂以外、この里に住む人間はいなくなった。当然、里はどこもかしこも荒れ放題となる。そうした場所には樹神(こだま)なんぞという妖怪の類が棲みつく、という。こんな風に変わり果てた里に、宮木殿のような美しきたをやめが独りして住まい、気丈に振る舞っている様子は、これまでの人生で見てきたもののうちでも、なんとも気の毒なものであったな」
 そこまでいって翁は一旦、口を閉ざして、ちらり、と勝四郎を見やった。勝四郎は俯いたまま、身じろぎもしない。翁は話を続けた。
 「宮木殿がお亡くなりになったのは、お前さんが都へ出発した次の年だったよ。夏で──8月10日だったな、あれは。亡骸をそのままにはしておけまいて。悲しみに暮れながら儂が自分で土を掘って棺に納め埋め、塚を拵えた。今際の際にでもお書きになったのだろうか、歌を書き留めた紙があったので、それを板切れ1枚に貼り付けて、墓石代わりにしてな。
 でも儂は字が書けんでの。亡くなった年月を書き添えてやることはできなんだ。おまけに寺は遠く、この足でもあるものじゃから、宮木殿に戒名を授けてもらうことも叶わんでな。そのことは本当に済まなく思うておる[28]。
 ──そうか、あれからもう5年も経ってしまったのだな。
 強気なところもあった宮木殿が、長年待たされたことへの恨み言の1つでもいいたくなって、お前さんの帰りに合わせて逢いに来たんじゃろう。一途でもあり、健気でもあり、可愛くもあるな。のう、勝四郎。そう思わぬかの?
 さあ、帰ってあげなさい。そうして奥様の霊を弔ってあげなさい」
 漆間の翁はそういって、勝四郎に帰宅を促した。が、かれの足はなかなか動こうとしない。そこで翁は促すだけでなく前に立って、勝四郎の家目指して歩き出した。「どれ、儂も行って、宮木殿の霊前に手を合わせるとしようか」といいながら。ようやく勝四郎も歩き始めた。
 ──葎が庭を埋め、蔦葛が壁を這い、屋根は?がれて床は落ち、梁も根太も丸見えになった家に着くと、2人は、宮木の塚の前に臥した。それから声をあげて、宮木の死や果敢無い生涯、夫へ寄せ続けた情愛の深さ、などを思って、嘆き悲しみ、彼女の霊を弔ったのである。
 その晩は翁もそこに泊まり、霊前で合掌して念仏を唱えるなどして過ごした。□



[28]「そのことは本当に済まなく思うておる」
 →これは亡き宮木に対する悔恨の台詞であろうか、それとも勝四郎への詫びであろうか。わたくしにはどうも前者のように受け取れる。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3454日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。7/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 里の人で知る者はないか──そう思い立つと勝四郎は涙を拭き拭きして腰をあげ、ふらり、と家の外へ出て四囲を眺め渡した。既に太陽は中天近くにまで昇っている刻だった。外を往来する里の者らしき人は何人も目に付いたが、どれも昔からの住人ではなかった。いちばん近い家を訪ねても、それは同じだった。というよりも、むしろ勝四郎の方が里人から、何者、と怪しまれる始末。そこで勝四郎は、この見知らぬ隣人に丁重に挨拶を述べると腰を低うして、いった。
 「突然で申し訳ありませぬ。わたしは昔、あの──」と、自分の家を指さした。「あの家に住んでいた者でございます。この7年の間、仕事でここを離れて京都におりまして、昨夜ようやく帰ってまいりましたら、あの有様です。留守の間は妻が独りで暮らしていましたが、どうやら亡くなったらしく、どなたかの手で塚が拵えてありました。家や妻のことでなにか御存知ではあるまいか、と思い、こうしてお訪ね申した次第です」
 対応した隣家の主人は、勝四郎の話を聞いて、大層不憫がった。が、その人はここに住むようになって、まだ1年ばかりなのだという。それ以前の里のことはなにも知らないらしい。いま真間郷で生活している者は皆、戦いが他の場所に移ったあとで住み着くようになったのだ、と教えてくれた。
 そういえば、とその男が、思い出したようにいった。「ここが戦場になる前から暮らしている方がお一人、おられます。時々あの家に入っていって、お水を替えたりして菩提を弔われている様子なので、なにか御存知のことがあるかもしれません。訪ねて訊いてみては如何でしょう」
 「そのような方がまだこの里におられたとは。早速に伺ってみます。その方のお住居はおわかりですか?」
 勿論、と男はいった。なんでもここから浜(江戸湾)の方向に百歩(ぶ)──約180メートル──ばかり行った土地(ところ)に麻畑があり、そこが件の人物の所有せる所ゆえ、近くに庵を結んで住まっている由。
 「ありがとうございます。では、これから行ってみます」
 勝四郎は頭をさげて礼を述べると、踵を返して、浜の方へとてくてく歩き始めた。しばらく行くと、麻畑[27]が広がる場所に出た。そばには隣家の主人がいった通り、小さな庵もあった。
 土間に造り付けられた竈の前で、腰の非道く曲がった70歳ぐらいの老翁が1人、藁で編んだ円い敷物に坐って、お茶を啜っている。その老翁、こちらへやって来る若者が勝四郎とわかるや途端に、
 「お前、どうしていま頃ノコノコ帰ってきた!?」
と、立ちあがって一喝した。□



[27]麻畑
 →下総国はむかしから麻の産地として知られていた。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3453日目1/2 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。6/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 夏夜にもかかわらず過ごしやすい晩だった。障子紙の破れ目から松風が途絶えることなくそよそよと吹きこんできていたせいかもしれない。勝四郎は寝苦しさを覚えることなく明け方まで、旅の疲れと帰宅した安心感からぐっすりと、寝入ったのである。
 ──五更、というから、現代でいえば午前4時から6時の間。夏であるから空が白んで太陽が昇る頃だった。
 幾ら涼しい夜だったとはいえ、流石に寒さを感じた。勝四郎は寝ぼけ眼のまま、そこにあるはずの夜着を被ろうと、手を伸ばして探った。なにやら、さやさやいう音が耳朶をくすぐるのに気附き、今度は本当に目を覚ました。
 顔にひんやりとしたなにかが触れた。触れた、というよりは、零れてきた、という方が正しいか。おや、雨漏りでもしているのかな。勝四郎はぼんやりした頭でそんな風に考えた。が、それはすぐに新たな疑問に打ち消された──昨夜、雨なんて降ったっけ? 勝四郎はその瞬間、がばっ、と起きあがって、あたりを──懐かしきわが家を見回した。
 果たして、なんとしたことか──家はわずか一晩のうちに荒れ朽ちていた。
 風にまくられて屋根は剥げ、梁と梁の間から白んだ空が見えた。有明の月、中天の星がその空にはまだあった。扉は外れ、床板は剥がれ根太が覗いている。床下の地面からは荻やら薄やらが好き放題に、背を競うように伸びていた。
 先程勝四郎の顔に零れたものの正体は、この荻や薄の穂に付いた朝露が偶々夜着の上に落ちて濡らし、それを被ったがゆえにかれの顔へその滴が零れたのである。
 更に顔を巡らすと、壁には蔦葛が這い、庭は葎で覆い尽くされていた。
 その印象を一言でいえば、まさしくボロ家、である。
 狐狸の見せる幻か。否、現実だ。どれだけ荒れ朽ちて草生す廃屋となり果てても、ここは住み馴れたかつてのわが家である。好みや要に合わせてしっかりと造作のされたわが家だ。
 呆然とした表情で勝四郎は、床が崩れて足の置き場もない家のなかを改めて見渡してみて、ああそうか、と殆ど直感のようにして悟ったのである。宮木は──いつのことかわからないが既に身罷っており、住む人をなくしたこの家には代わって狐狸が棲みつくようになったのだな。であれば、妖しの存在が幻を見せたとしても、いっかな不思議じゃあない。もしかすると俺の帰りを察して黄泉の国から戻ってきた妻の魂が、あんな風に繰り言をいったのかもしれないな。だとしたら、俺があいつのことをずっと想っていたのと同じように、あいつも夫の俺を終生想ってくれていたのかなぁ……[25]。
 そう考え至った途端、勝四郎は目が熱くなった。が、滂沱と滴り落ちてもよさそうな程の涙は、流れてこない──あまりの慟哭の深さに却って涙の一粒すら零れてくれないのだ。まァ、そんなものであろう。あまりに深い哀しみに直面したとき人は、得てしてそうなるものなのである。
 妻は逝き、家は廃れ、あたりの様子も含めてなにもかもが変わってしまった。なのに自分だけが昔と変わらず、ここにこうしてある。
 そう独り言ちながら勝四郎は家内をあちこち歩いて回り、最後に、夫婦がむかし寝室として使っていた奥の部屋に辿り着いた。ここも床板が外れていた。床の裂け目に目をやると、露わになった黒い地面の一部が、他よりすこし高く盛りあがっている。それは、塚、なのだった。それを守るようにして三方は板切れで囲まれ、雨露を防げるよう屋根が、やはり板切れで設(しつら)えてある。
 昨晩の妻の霊はここから出てきたのか、と嘆息した。怖い、というよりも、懐かしい、とか、愛おしい、という感情の方が、かれのなかで湧き起こって優った。昨晩の宮木の言葉や表情や肢体が勝四郎の心のなかに浮かんでは消えてゆく。
 ふと視線を動かすと、塚の前には手向けの水が注がれた器がある他、一片の木片が刺さっていた。古びた那須野紙が貼ってある。なにか、書いてあった。所々は薄れて判読もすぐにはできない程だが、そこにあるのは確かに宮木の筆跡である。
 よくよく読むと、書かれているのは法名や月日ではない。短歌が一首、書きつけられている。曰く、──
  さりともと 思ふ心に はかられて 世にもけふまで 生ける命か[26]
──と。
 事ここに至ってようやっとかれは、妻の死を確認することができた。途端、大いにむせび泣いて、泣いて、泣いて、膝から崩折れて、妻の名を呼び、泣き叫んだ。
 ……。
 ……息も絶え絶えの勝四郎は、木片に手を伸ばして、那須野紙の隅にまで目を凝らしてみた。が、妻の命日となった月日は、手掛かりだに残されていない。大切な人がいつ身罷ったのか詳らかにならぬとは、なんと情けなく、また惨めであろうか。□



[25]「あんな風に繰り言をいったのかもしれないな。だとしたら、俺があいつのことをずっと想っていたのと同じように、あいつも夫の俺を終生想ってくれていたのかなぁ……」
 →勝四郎は本当に脳天気かつ自分本位かつお目出度い人物である。昨晩の宮木の台詞が繰り言とわかっているなら、想い想われだけで出てきたわけじゃあるまい、とわかりそうなものだが。もっとも、想うているからこそ繰り言の一つも出るのだ、ということは理解しているようだが、……。少なくとも勝四郎の如き人を知己には持ちたくですな。
[26]さりともと 思ふ心に はかられて 世にもけふまで 生ける命か
 →典拠;『敦忠集』(権中納言敦忠卿集)並びに『続後撰和歌集』巻十三恋三「さりともと おもふこころに なくさみて けふまてよにも いけるいのちか」(857)◆

共通テーマ:日記・雑感

第3452日目1/2 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。5/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 女の声が返ってきた。1日とて忘れたことのない、──記憶にある、若々しく溌溂とした声ではなかったけれど。随分とねびたれた(年齢を感じさせる)声ではあったけれど──たしかに妻の声である。夢ではないか? 否、現実だ。そうすぐに信じた。
 勝四郎は震える声で、家のなかの女性──妻宮木にいった。
 「俺だよ、宮木。勝四郎だ。随分と待たせてしまったが、いま京都から着いたところだ」われながら喉の奥から絞り出したみたいな声だった。「まさか、まだここにお前が住んでいるなんて……知る人のいなくなった浅茅が原に、まさかお前が独りで……」
 刹那の後、扉の向こうで閂を外す重い音がした。それから、そっと静かに、扉が開かれてゆく。燈火の灯るのを背にして顔を覗かせた女人は、咨、幾分やつれこそしたものの、かつての面影を面に残した宮木である。
 屋内からの明かりが、暗がりのなかを進んできた勝四郎の目には眩しく感じられた。が、目がそれに馴れてきて、改めて宮木の顔をまじまじと見ると──どれだけ面影を宿しているとはいえ、やはり流れた歳月と世情の艱難が、容(かんばせ)の上にしっかりと刻印されているのがわかる。肌色は垢づきのためもあって黒ずんでおり、張りは失われていた。目は、疲労が蓄積されていたり、もしかすると病気を患っているのかもしれない、ひどい落ち窪みようであった。以前はきちんと結っていた髪もいまはサンバラ髪になって梳っていない様子で、艶はなくなっている。手入れをしていないその髪は、背中へ流れて腰まで落ちていた。
 7年ぶりの再会に、さめざめと涙を流す妻。彼女を前に勝四郎はその変わり様にしばし言葉を失っていたが、気を取り直すと、こういった。
 「てっきり戦に巻きこまれて死んだものだとばかり……生きているとわかっていたら、無駄な時間を過ごさず、無理を押して帰ってきたのに……」
 そうして7年前の夏の朝[21]、真間を発って今日帰ってくるまでのことを、あれこれ話して聞かせたのである。「ずっと淋しい思いをさせてしまって、済まなかった」と結んで、勝四郎は自分の話を〆括った。
 身じろぎもせず、ただ涙を流しながら聞いていた宮木が、今度はこの7年間のことを問はず語りした。
 「秋には帰る、というあなた様を信じて待っているうち、世は戦乱となり、ここも戦場になりました。どんどん人が消えてゆき、野良者がうろつくようになると、夜は勿論、昼間も安全とはいえなくなったのでございます。そんな連衆から何度となく脅されたり襲われそうになりました。けれど、わたしはあなた様の妻でございます。あたらそのような輩に手籠めにされて貞節を汚すよりは、と思い、堅く戸を閉ざして退けてまいりました[22]。
 でも、約束した秋になってもあなた様は帰らない。秋の間、待てど暮らせどあなた様の姿はない。様子を知らせる文もない。ならばいっそのこと、わたしが京都へ参ろうか、そうしてあなたを捜そうか──本気でそんな風に考えたのですよ。
 でも、京都への道は至る所に関所が設けられた、というではありませんか。ますらをにさえ固く閉ざされた扉が、どうしてたをやめの前に開かれましょう。泣く泣く諦めてわたしは、あなた様もご覧になったはずの、あの(といって、宮木は勝四郎の背後の松の木を指さした)、雷に砕けた松を話し相手に、狸梟を孤独を紛らす友にして、今日まで暮らしてきたのです。
 そりゃあ、ちょっぴりは恨みもしましたよ[23]。帰ってくる、といった季節に、事情は先程の話でわかりましたが、帰ってこなかったのは事実なのですから。文の1つもお寄越しになりませんでしたものね。
 でも、もう良いのです。なにはともあれ、あなた様は無事に、こうして帰ってきてくださった。なんの思い残しもありません。わたしはただ、再びお逢いできたことが嬉しいのです[24]。
 お帰りなさい。あなた……」
 話し終えるや泣き崩れた妻を勝四郎はすぐに抱きとめ、肉が落ちてすっかり細くなってしまった体をかき抱いた。宮木も夫の背中へ腕をやり、胸元へ更に深く顔を埋めた。
 「夏の夜は短い。つもる話は明日にして、もう寝(やす)もう」
 勝四郎はそういうと、家の扉を閉め、宮木を伴って布団へ横になった。□



[21]「そうして7年前の夏の朝?勝四郎はそういうと、家の扉を閉め、……」
 →コイツら、家の扉口でなに長語りしてるんだ? 一旦家に入れや、といいたい。そんな風に思うのである。隣近所の人が訪ねてきて立ち話してるんじゃないんだからさ。
[22]「けれど、わたしはあなた様の妻でございます。あたらそのような輩に手籠めにされて貞節を汚すよりは、と思い、堅く戸を閉ざして退けてまいりました」
 →ここから宮木の死因について考えることはできないか。この台詞や後の漆間の翁の台詞、或いは真間に独り残った宮木を手籠めにしようとしていた人のある描写などを総合すると、彼女の死因は病気とか餓死とか、そうした自然死の類ではない、と思える。
 野良者たちが遂に家に押し入って、宮木を手籠めにして挙げ句殺したのではないか。いわゆる強姦殺人、押し入り殺人である。深読みすると、そんな結論を導き出してしまう。
[23]ちょっぴりは恨みもしましたよ
 →女が、「ちょっぴり」といったときは、「かなり」のいい換えでもあることに留意せよ。
[24]なんの思い残しもありません。わたしはただ、再びお逢いできたことが嬉しいのです。
 →霊が、この台詞を想い人にいっているかと思うと、自然と涙が出て来るな……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3451日目1/2 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。4/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 世の動乱は箱根山の向こうの関八州のみに留まらず、次第次第に全国へ飛び火してゆく。飛び火した先では新たな動乱が生まれた。京都も例外でない。
 まず、隣接する河内国で畠山家[18]の家督争いが勃発した。同族相食む争いは解決の糸口の見えぬまま泥沼化していった。3代将軍義満によって南北朝が統一[19]されて以後──少なくとも外見上は──泰平を謳歌していた都を、キナ臭い空気が覆った。人心も落ち着きを欠いていった。
 その京都も災いに見舞われた。春のことだ。疫病が蔓延して、多くの人が命を落とした。往来には屍が棄てられ、積みあげられ、死臭が漂った。その光景は、あたかも人の世の終わりが現出したようだ。──罹患を免れて次の日を迎えられた人は、屍が無造作に打ち棄てられた町の様子を目にして、心の限りに悲しく、痛ましく思い、同時に、無情、ということを思わずにいられなかったのである……。
 勝四郎も、件の光景に接して、心中思うところのある1人だ。武佐に長く住んでいるとはいえ、特段、所縁ある地でもなければ、ここに定まった仕事があるわけでもない。児玉も所詮は他人で、好意に甘えて然るべき身内ではない。──果たしてこのままで良いのだろうか? 否、良いわけがない。
 浮浪者(ふらもの)同然の生活を続けるぐらいならいっそ、命の危険を賭してでも故郷へ帰り、妻の跡を訪ね、もし本当に亡くなっているなら塚を建てて、弔ってやるべきではないのか。
 そう倩思い悩みしていた勝四郎だが、ようやく決心すると、梅雨の晴れ間の1日を選んで武佐を発ち、真間を目指した。10日ぐらいの旅であった。勝四郎がこのとき、どんなルートを辿ったか、詳らかにしない。
 ──。
 なつかしい真間郷へ着くと、既に宵刻。陽は西に沈み、雨雲を敷きつめたように空は暗い。地を照らす明かりはなにもなかった。足許がおぼつかない。が、久しく帰っていなかったとはいえ、祖父の代から暮らす里である。迷うこともあるまい──勝四郎はそう思い思いして、夏野をかき分けて、家があると思しき方角へ進み、古歌に詠まれた継橋の落ちた川を越えた。馬のいななき、足音もしない宵の真間[20]。田畑は手入れする人もなく、荒れ放題、放ったらかしにされたまま。旧の道もいまはどこやら定かでない。かつてそこにあったはずの人家もそこで生活していた人々の姿も、ない。偶さか行き交う人ありと雖もむかしからの里人には非ず。同じく時々人家を見るもむかしからの家にや非ず。
 そんな風に変わり果ててしまった故郷を歩きながら勝四郎は、段々と不安になってきた。自分の家はどこだろうか、と。いまいる場所で立ち惑うてから、更に20歩ばかり歩いてみると、──
 折良く雲の間から星影が覗き、地はやさしく照らされた。そのなかに、落雷で幹が割れた松の老樹のシルエットが浮かびあがる。勝四郎は、はっ、と息を呑んで、その松を凝視した。自分の家に昔からあった松に相違ない──あれぞわが家を知らす導!
 あふれんばかりの喜びを胸に歩を進めながら目を凝らして行く手を見やると、その松の向こうに一軒の家が、闇のなかでうずくまるように、しかし昔と変わらぬまま建っていた。誰かが住んでいるらしく、戸のすき間から燈火が細く洩れている。──ここに住む人もまた、むかしと同じ人ではないのだろうな。諦め半分の勝四郎だったが、宮木がいて、あれからずっと自分を想い慕い夫たる自分を待ってくれているのかも……という身勝手かつさもしい期待も半分、持っていた。
 家への路の窪みや石ころ、勝手気儘に生え伸びた草に足を奪られて転ばぬよう、はやる気持ちを抑えて、勝四郎は、松の傍らを過ぎて家の前に立った。閉ざされた扉の前で、コホン、とわざとらしく、なかの人にわかるぐらい大きく咳払いをする。
 と、それを聞きつけて、家のなかから、
 「どちら様ですか?」□



[18]畠山家
 →畠山政長と畠山義就兄弟(同根)による家督争い。既に兄弟の間には享徳の頃より不和の種蒔かれ、度々衝突を繰り返した。寛正2/1461年6月、山名是豊・毛利豊元の後援を得た政長が義就を破って、家督を継いだ。が、これに黙っている義就でもなく、応仁元/1467年、政長を京都に攻めた。ここに斯波家や将軍家の家督争いが絡んで、応仁・文明の乱が勃発した。
 家督争いが度々各家で発生し、時に国を揺るがす大事に発展するのは、南北朝時代この方、嫡子単独相続が行われるようになっていたためである。かつてのような分割相続ではなく、家督はただ1人が嗣ぐ、となれば、皆々同根相争う事態が出来するのは必然だろう。
[19]「3代将軍義満によって南北朝が統一……」
 →南朝元中9・北朝明徳3/1392年の出来事。南朝の後亀山天皇が京都入りして、所有する三種の神器を、自身の譲位という形で北朝の後小松天皇に授けたことで、南北朝合一が為された。
 義満が南朝に出した合一の条件は、①三種の神器を北朝へ渡すこと、②北条氏の時代と同じように天皇は両統から交互に出して即位させること(両統迭立)、③南朝が皇室領地(公領)を管理・相続すること、であった。
 が、③は実施されず南朝側は困窮を極め、②は当初から義満(というか幕府)にその意思なく、以後は北朝からのみ天皇が出た。南朝の断絶、である。
 斯様に北朝正統が立証されたようなものだが、江戸時代になるといわゆる〈南北朝正閏問題〉が起き、南朝正統論が出るようになった。明治時代の国定教科書問題もその延長線上にある。
[20]「古歌に詠まれた継橋の落ちた川を越えた。馬のいななき、足音もしない宵の真間」
 →典拠;『万葉集』巻十四「東歌」 「足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 止まず通はむ」詠人不知(歌番3387)
 「右の四首、下総国の歌」てふ詞書あり。4首(歌番3384-3387)中3首が真間を詠み、その内2首が手児奈を詠う。(『万葉集 三』日本古典文学全集4 小学館 1973/12)◆

共通テーマ:日記・雑感

第3450日目1/2 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。3/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 さて、こちらは西国の勝四郎である。関東で多くの命が失われ、貧窮の一途を辿っていたのに対し、〈禅の精神に基づく簡素さと、幽玄・侘びを基調とした〉当時の京都文化[09]は華美を好む傾向がな装いが流行りだった。そのせいで勝四郎が持参した足利染めの絹は飛ぶように売れ[10]、思わぬ財産を築くことができた。
 勝四郎はホクホク顔で売り上げを数え、その一方で帰郷の準備を始めもした。そんなかれのまわりでいろいろな人が様々な、東国にまつわる噂話を囁いている。その内容は気持ちを重くし、不安にさせ、帰郷準備の手を休ませるにじゅうぶんであった。
 京都の人の口の端に上り、勝四郎の心をザワザワさせた噂話とは、大体次のようなものであった。曰く、──
 上杉の軍勢が鎌倉攻めしてこれを陥落(オト)し、遠近へ四散した鎌倉の残党を追討している。勝四郎の故郷のあたりも戦渦に巻きこまれて、いまや住む人もいない荒れ地となったらしい。などなど。
 宮木──。勝四郎は、故郷へ置いてきてしまった妻の姿を心に浮かべた。真間も戦場になったのか、ならば宮木はもしかしたら……。
 あづま路のなお奥つ方の国のことである。実際にその場の様子を見てきた者があるわけではない。あくまで、噂だ。
 そう勝四郎は自分にいい聞かせて、はやる気持ちを懸命に抑えて、日を過ごした。──が、京都に留まって安全に暮らすよりも、残してきた妻の身を案じる気持ちの方が優る瞬間(トキ)が、来た。
 8月初旬。勝四郎は京都を発って下総国を目指した。鎌倉を通過する東海道[11]は避けて、近江国と陸奥国を結ぶ東山道[12]を選んだのは、時勢を考えれば自然な選択であったろう。が、その東山道も、真坂、という場所あたりまで来て災難が降りかかった。真坂は、美濃国と信濃国の境近くにある[13]。
 日暮れ刻だった。勝四郎の行く手を阻むように山賊の集団が現れて、身ぐるみ引っ剥がしてしまったのである。加えて真坂の人がいうには、ここより東の各所には関所が新しく設けられ[14]、人の往来を厳しく取り締まるようになった、と。それは即ち勝四郎にとって、故郷への帰途の手段が絶たれたことを意味する。同時に、妻宮木の消息を知る手段が失われたことも。
 帰国を断腸の思いで諦めた勝四郎は、京都への道を戻り始めた。が、悪いときは悪いことが重なるものである。近江国へ入ったあたりで体の不調を感じた。段々と気分が悪くなり、高熱で足許がふらつき、意識朦朧となることが多くなった。
 幸いだったのは、いま勝四郎のいる場所が、件の雀部の曾次の妻の実家のある、武佐[15]、という村に程近いことだった。気力と体力を振り絞ってその家を尋ね当てた勝四郎は、涙ながらに事情を説明した。
 雀部の妻の実家は近隣でも名うての素封家で、当主の児玉嘉兵衛は、体調不良を押してようやく家の門を潜ってきた勝四郎を丁寧に迎え入れて、医者を呼び薬を服ませるなどして、予期せぬ客人の介抱にこれ努めた。
 どれだけの月日が経ったか。布団から起きあがれるぐらいには回復した勝四郎は、この家の当主が自ら付きっきりで介抱してくれたことに感謝し、篤い恩を抱かずにはおれなかった[16]。そうして勝四郎は翌る年の春まで、児玉の家の世話になったのだった。
 武佐滞在が1日1日と長引くにつれて、親しう交わるぐらいの知己もできてきた。元々正直者で心根の素直な勝四郎であるから、土地の人々からも気に入られたのである。
 やがてすこしばかり遠くまで歩いてゆけるようになると勝四郎は、京都へ上って雀部を訪ね、武佐へ戻っては児玉の家に身を寄せる、という生活を続けた[17]。そんな生活を続けるうちに、7年という歳月が流れていた。
 年改まって、寛正2(1461)年。□



[09]「〈禅の精神に基づく簡素さと、幽玄・侘びを基調とした〉当時の京都文化」
 →〈〉内は『【詳解】日本史用語事典』P151コラム「東山文化」より引用(三省堂編修所 三省堂 2003/09)。東山文化とは概ね上記のように説明され、今日の日本文化や生活様式の温床となったものであるけれど、それゆえもあってその特質、俯瞰して物言いするのは難しい。侘び寂び幽玄の文化が確立した一方で、義政自身の好みも反映して華美であったのは事実だが、その双方に幾許かの対立と矛盾を孕んでいるような違和感を、わたくしは覚える。むろん、当方の勉強不足は否めぬところであるが──。
[10]「足利染めの絹は飛ぶように売れ」
 →第二稿「足利染めの絹は世の求めに合致して飛ぶように売れ、」から「世の求めに合致して」を削除〔覚書〕。
[11]東海道
 →いまでは江戸時代初頭に幕府が定めた「五街道」としての東海道がポピュラーだが、奈良時代の律令制下で整備された「五畿七道」の一、東海道をここでは指す。「五畿」は大和・山城・摂津・河内・和泉(現在の奈良県・京都府・大阪府に相当)、「七道」は東海道の他、北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道そうして次で註釈する東山道である。
 東海道の通過国は以下の通り。即ち、──伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・(武蔵;宝亀2/771年に編入・)安房・上総・下総・常陸、である。京都を起点に現在の三重県・愛知県・静岡県・山梨県・神奈川県・(東京都/埼玉県・)千葉県・茨城県、である。
 七道時代の東海道紀行文として菅原孝標女『更級日記』と阿仏尼『十六夜日記』が有名。
[12]東山道
 →東山道を始め古代律令制下で制定された七道は、広域地方行政区画でありそこを通る幹線道路である。
 東山道の通過国は以下のようになる。即ち、──近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・武蔵・出羽・陸奥で、現在の都府県でいえば、滋賀県・岐阜県・長野県・群馬県・栃木県・東京都/埼玉県・福島県/宮城県/岩手県(陸奥国)・山形県/秋田県(出羽国)、である。
 先述のように武蔵国は宝亀2/771年に東海道に所属変更されたが、それまでは上総国新田から東山道の枝道たる東山道武蔵路を南下して武蔵国国府つまり府中を巡って同路を北上、下野国足利ヘ出るルートであった。
 『続日本紀』巻第二文武天皇大宝2年12月10日条云、「壬寅、始めて美濃国に岐蘇の山道を開く」(『続日本紀 一』P63 新日本古典文学大系12 岩波書店 1989/03)と。東山道は美濃国恵那郡坂本駅(岐阜県中津川市)から御坂峠(神坂峠)を越えて信濃国伊那郡阿智駅へ至る。Wikipediaは東山道の歴史でこの一文に触れて「東山道の建設について〔の;みくら補記〕……断片的な記録」とする。
 が、この条文と和銅6年7月7日条「戊辰、美濃・信濃の二国の堺、径道険隘にして、往還艱難なり。仍て吉蘇路を通す」(前掲書P203)を重ね合わせると、『続日本紀』が記録するのは東山道開削ではなく、新しく開削された吉蘇路の工事の始まりと終わりの記録なのではないか。この新しい吉蘇路は、前掲書補注に従えば、「(美濃国)坂本駅からさらに木曽川沿いに恵那郡を北上、県坂(長野県木曽郡木祖村と楢川村との境の鳥井峠)を越えて信濃国筑摩郡に達する」と云々(P428)。
[13]「真坂は、美濃国と信濃国の境近くにある」
 →長野県西筑摩郡山口村(→同県木曽郡山口村)、現在の岐阜県中津川市の馬籠峠が「岐曾の真坂」だ(2005年2月、長野県木曽郡から岐阜県中津川市に編入合併)。美濃国(岐阜県)と信濃国(長野県)の県境で木曾街道の要衝。
[14]「ここより東の各所には関所が新しく設けられ」
 →東国乱れるの報を承けてか、既存のみでは対処しきれず、入国制限・渡航禁止措置を名目にこの時代、関所が各地に新しく設けられたのは事実である。東国からの入国者、西国からの出国者の前に、関所は頑としてその重い扉を開かなかった。
[15]武佐
 →近江国蒲生郡武佐、現在の滋賀県近江八幡市武佐町。江戸時代は中山道66番目の宿場町であった。いまは近江鉄道万葉あかね線の駅がある辺り。安土城址から南へ約2.5キロ弱。先の真坂で山賊に荷物を奪われ、東国へ戻ることを断念した勝四郎は、来た道を引き返して武佐まで来た。行きと同じ東山道を戻ってきたのだ。坂本駅から各務、不破を経て彦根、近江八幡(武佐)へ。岐阜を過ぎたあたりから東山道と中山道はほぼ重なっているようだ。
[16]「感謝し、篤い恩を抱かずにはおれなかった」
 →その割には勝四郎、児玉の家で一宿一飯の恩を返すような描写はない。実際しなかっただろう、ただ寄食して無駄飯を喰らい、日を過ごしただけであるまいか。勝四郎、寄生虫ライフ満喫中、というところか。
[17]「京都へ上って雀部を訪ね、武佐へ戻っては児玉の家に身を寄せる、という生活を続けた」
 →勝四郎って厚顔無恥だな!
 人の世話になり、京都まで歩けるようになってもまだ、自分で生活をどうかしようということもなく、ただただ児玉の家の好意に甘えているばかり。
 宮木はこんな男をよくもまァ、待ったものである。たぶん、漆間の翁がいうように、繰り言の一つもいわねば気が済まぬ、ということであったのだろう。
 宮木が夫の帰りを待ってその晩、〈浅茅が宿〉に現れたのは、ゆめ想いが募っての話ではない。
 「浅茅が宿」はゆめ夫婦の愛の、幽冥の境を隔てた恋物語ではなく、田畑を全部売り払って残る者の生活の糧をすべて奪い、事情ありと雖も約束を破った夫への「この恨み、晴らさでおくべきか」という怨念の物語でもあるように、わたくしには読める。
 どうしようもない夫に対する、妻の報復、これが「浅茅が宿」の本当の顔ではないか?◆

共通テーマ:日記・雑感

第3449日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。2/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 その年、享徳4(1455)年夏6月。遂に、関東で大きな戦いが始まった。後に、享徳の乱、と呼ばれる戦である。当時、関東支配の中枢を担う鎌倉には鎌倉公方という、たとえていえば地方長官がおり、その補佐役として、関東管領、という役職が設けられていた。
 勝四郎が京都へ出発したその年、鎌倉公方には足利成氏が、関東管領には上杉憲忠が、それぞれ就いていた。
 以前から折り合いの悪かった2人だが、享徳4年6月、それは決定的な局面を迎えた。即ち、鎌倉公方による関東管領の謀殺、である。これをきっかけに足利成氏は、鎌倉から上杉氏とそれに味方する勢力を一掃しようと企てた。
 それを知るや幕府はただちに、殺された憲忠の弟、房顕を後任の関東管領に任命し、それを頭とする軍勢を差し向けた。幕府軍は鎌倉に到着すると、公方の館を跡形もなく焼き払った。足利成氏は自分の所領がある下総国古河へ逃れたが、幕府軍との戦闘は続けられた。これが、関東一帯を大乱の舞台としたのである[05]。
 ──関東を戦乱が覆った。老人は山へ逃げ隠れ、若者は徴兵されていった。明日は何処其処が焼かれるぞ、次に戦場になるのは某所のあたりらしい、など、流言蜚語が飛び交った。それを聞いて、女子供は怯え、恐怖した。なにが正しく、なにがデマなのか、もはや誰にもわからなくなっていた。
 里の人が次々と真間を離れていった。それを見る宮木も、一時はどこかへ避難するのを考えたけれど、「この秋にはきっと帰ってくる」といい残して行った夫を信じて、里へ留まることを選んだのだった。
 その折に、宮木が詠んだ歌、──
  身の憂さは 人しも告げじ あふ坂の 夕づけ鳥よ 秋も暮れぬと[06]
──と。これは、約束の秋になっても帰る様子のない夫を恨めしく、淋しく、悲しく思うて詠まれた歌である。
 しかし、多くの国が下総と京都の間にあって、しかも、こんな御時世であるのも手伝って、この一首を想い人の許へ届けることは適わぬのだった。
 世のなかが乱れてゆくに従って、人心も卑しく、野蛮になる。──世に「好事魔多し」という。美貌で巷間に名を馳せる宮木であったから、夫子ある身なれどいまは独りしてそこに住むと噂が流れれば、近郷の男どもがいい寄ってくることは必至。実際、そうなった。それはしつこく、キモかった。ゆえに宮木は家の門戸を固く閉ざしてそれを拒み、遠国の空の下にいる夫を想い、帰りをひたぶるに待つのである。
 やがて宮木に仕えていた婢女(はしため)が去り、彼女は本当に独りぼっちになった。僅かばかりの貯えも底をついた。文字通り、明日をも知れぬ生活の始まりである。
 享徳4年が暮れて新年になったが、戦乱の収まる様子はまるでない。否、それどころではなかった。むしろ戦局は拡大してゆくばかりである。
 享徳4年秋には将軍義政の命令で、美濃国郡上に居を構える武将、東常縁が軍勢を率いて関東へ東下していた。
 その東常縁[07]、千葉氏の出自で、所領は下総国香取郡にある。常縁はここを本拠にして同族の千葉実胤と組んで、古河公方とそれに味方或いは加勢する者たちを攻めた。古河公方とは前の鎌倉公方、足利成氏を指し、かれの所領が下総国古河にあり、そこへ引っこんで戦いの足掛かりとしたので、「古河公方」の名がある。
 東常縁と千葉実胤の連合軍はよく戦った。が、古河公方もさるもの。善戦して件の連合軍を撃破することたびたびであった。斯様な次第で両者の戦いの結着は、なかなか着かなかったのである。
 庶民を不安にさせ、恐怖させたのは、なにも侍たちばかりではない。あちこちに山賊が出没して自分たちの砦を築き、近隣諸方の村々を焼き討ちにしては略奪するを繰り返した。
 もはや関八州に安寧の場所はない。なんとも嘆かわしく愚かな世となったものである。まさに戦争とは、世の営み全般に損失ばかりを与える行為といえよう[08]。□



[05]「足利成氏は自分の所領がある……」
 →関東一円を戦場とした、享徳の乱の勃発である。発端については本文で説明した。
 幕府は、成氏後任の鎌倉公方として将軍義政の弟正知を下向させた(長禄元/1457年 ※この年、扇谷上杉氏の執事太田道灌が江戸城築城)。が、抵抗に遭い鎌倉に入ることはできず、伊豆国田方郡堀越を拠点に成氏方と交戦した。正知歿後は息茶々丸が跡を継いだが北条早雲に滅ぼされた(明応2/1493年)。
 では、永享の乱(永享10/1438年?永享11/1439年)と並んで応仁・文明の乱の序幕と捉えてよいこの乱はどのようにして収束したか? 和睦したのである。まず文明9/1477年時の関東管領上杉顕定が古河公方足利成氏と和睦したのに続いて文明14/1482年、幕府と古河公方の和睦が成立して享徳の乱は終結した。
[06]「身の憂さは 人しも告げじ あふ坂の 夕づけ鳥よ 秋も暮れぬと」
 →典拠;『古今和歌集』巻十一 恋歌一 「相坂(あふさか)の木綿(ゆふ)つけ鳥もわがごとく人やこひしき音のみなく覧(らむ)」詠み人知らず(536)
[07]東常縁
 →応永8/1401年〜明応3/1494年頃? 本文に補記した如く、下総国の守護大名千葉氏の流れで、美濃国郡上郡にあった篠脇城の城主である。「浅茅が宿」では関東平定の武将として登場。この留守中、居城たる篠脇城を美濃守斎藤妙椿に奪われるが、落城を嘆く常縁の歌に感じ入って妙椿が城を返還した、という逸話がある。
 このことからもわかるように、常縁は武将であると共に、二条派の歌人でもあった(私家集『常縁集』、歌学書『東野州聞書』が今日まで伝わる)。が、今日常縁の名は専ら古今伝授の祖として、歴史に記される。
 古今伝授は「『古今和歌集』の解釈を師匠から弟子に秘伝すること」と『【詳解】日本史用語事典』(P153 三省堂 2003/09)あるが、生温い解説だ。も少し話せば、古今伝授は『古今和歌集』講釈と三木三鳥の切紙伝授を中心とする、二条家発祥の秘伝をいう。
 古今伝授は2つの流派からなった。1つは頓阿から伝わる二条流説を頓阿の曾孫堯孝(ぎょうこう)が養子堯恵(ぎょうえ)に伝え、堯恵が後柏原院や鳥居小路経厚らに伝授した<二条堯恵流>と、もう1つは堯孝から藤原為家(定家息。二条・京極・冷泉家は為家息をそれぞれ祖とする)から東家に伝えられ、東常縁から連歌師・宗祇へ、宗祇から三条西実隆や牡丹花肖柏らへ伝授され、そこから様々に分派した<二条宗祇流>の古今伝授だ。
 うち、三条西家伝授は実隆孫実澄(実枝)で一旦途絶えるが、実澄から伝授された丹後国田辺城主・細川幽斎が実澄孫実条(さねえだ)と八条宮(桂宮)智仁親王へ伝授したことで命脈を保った。智仁親王は後水尾院へ古今伝授したことで御所伝授が成立、これを中核として近衛家や飛鳥井家といった堂上貴族や有栖川宮家や閑院宮家へ伝わった。一方でこれまた細川幽斎が松永貞徳や北村季吟に古今伝授を行ったことで地下伝授も成立、諸派様々に全国へ伝えられた。もはやここまで来たら、飯の種、である。
 なお細川幽斎は関ヶ原の合戦の直前、居城たる田辺城を石田三成側の軍勢に囲まれ、籠城戦を余儀なくされたが、古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王の勅命で双方の間に講和が結ばれた。このエピソードは、古今伝授の歴史・逸話を語る際よく引き合いに出される。
 『雨月物語』執筆当時既に、古典や歴史に関心を寄せていた秋成が、「浅茅が宿」にて東常縁を登場させたのは、けっして史実に基づいてこの時代の様子を描いているばかりではあるまい。『古今和歌集』の秘伝古今伝授の祖としてその存在を知ることで、時代と文学の交差点を作中に留めおいた、という側面も考えられないか?
[08]「もはや関八州に安寧の場所はない。なんとも嘆かわしく愚かな世となったものである。まさに戦争とは、世の営み全般に損失ばかりを与える行為といえよう」
 →原文「八州すべて安き所もなく、浅ましき世の費なりけり」
 原文のままには現代語訳できないので、少々の補足と意訳を加えた。「浅ましき世の費」の中身を限りなく深刻に、民の悲しみや憤り、憎苦を濃縮すればそのまま、ロシアのウクライナ侵略戦争に重ね合わせられないだろうか。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3448日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。1/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 足利幕府が8代将軍、義政[01]の時代である。あづま路の道の果てよりもなお奥つ方、下総国は真間と呼ばれる里に勝四郎という男がいた。
 祖父の代からこの里に住んでいて、田畑を多く所有している。そのためもあって家はだいぶ裕福であった。
 そうした家に3代目として生まれた勝四郎は、優しいというてしまえばそれまでだが、生まれながらにしてざっくばらんな性格で、物事をあまり深く考えぬ人であった。それが災いして家業にあまり身を入れることなかったため、家はかれの代になるとたちまち傾き、親族郎党の鼻つまみ者、厄介者となってしまったのである。
 が、そんな勝四郎にもそれを気に病み、失地回復を図りたい、というつもりはあったらしい。どうにかして落ちぶれたわが家を再興する手段はないものか、とあれこれ思案に暮れていた。
 その頃、足利染め[02]の絹の取引で京都から関東へ毎年来ている、雀部の曾次、という人がいた。かれは関東へ下ってくるたび、一族の者が住まうこの真間の里へ顔を出している。その関係で曾次はいつしか、勝四郎とも面識を持つようになっていた。或る日、勝四郎は里へ来た雀部に向かって、
 「私もあなたのように商人になり、都へ行こうと考えているのですが、どうでしょうか?」
と、相談した。雀部は二つ返事で頷き、
 「いつ頃出発できそうか。早い方が良いのだが」
と、せっついた。
 雀部は商いの心得や、京都で商売するメリット、デメリット、等々それは熱心に、懇切に説明して、勝四郎を段々とその気にさせてゆく。
 雀部の話を聞いているうちに、だんだんとその気になってきた勝四郎。家に戻ると、さっそく上京の仕度を始めたのである。まず、人手に渡らずまだ残っている田畑をすべて売り払って、お金に換えた[03]。今度はそのお金で足利染めの絹を可能な限り買い付ける。勝四郎の、上京の準備は着々と進んでいった。
 ──ところで、勝四郎は独り身であったか? 否、である。宮木、という、誰もが美人と認める妻がいた。人目を惹く程の美貌の持ち主で、気遣いのよく行き届く、所謂〈できた〉嫁だったのだ。
 とはいえ、さすがに宮木も、今度の夫の京都行きの話には、開いた口が塞がらなかった。呆れ果てた、の域を超えていた。夫が商売に向いた性格でないことを、誰よりもよく知っていたからである。どれだけ言葉を尽くして諫めてみても、為すべきことを蔑ろにして考えの足りぬ勝四郎を翻意させることはできなかった。夫を心変わりさせるのを諦めた宮木は、不本意ながらも上京の支度を手伝い始めた。
 いよいよ明日が出発、という日の夜。一抹の淋しさを覚える宮木は明日からの、夫とのしばしの別れを惜しんでいた。
 「明日は早いのですよね」
 「ああ、そうだな」と勝四郎はいった。「当分、1人になるが、大丈夫か」[04]
 宮木は頭を振って、こういった。
 「そんなこと……。あなたの他に頼れる方などおりません。縋(すが)る方なき女の心には、憂い事ばかりが浮かんできます。あなたは男だからそんなこと思いもしないでしょうけれど、あなたの帰りを待つ女がこの真間にいることだけは、どうか忘れないでくださいまし」
 忘れるはずがない、と勝四郎はそっと妻を抱き寄せて、艶のあるその黒髪のひと筋ひと筋を指でかきやりながら、いった。
 「住んだことも知った人もない国で、お前を忘れる程長く過ごしたりするはずがないではないか。安心をし。この秋には、きっと帰ってくるよ」
 いよいよ実感されてきた別れを思い、頬を濡らす涙を拭いながら、宮木は、
 「命が思い通りになるならばともかく、明日のことなど誰にもわからぬのですから、どうぞ、この待つ女を心に留めて哀れとお思いくださいませ」
 夫婦は残された時間のなかで互いの想いを言葉にして伝え、そうしたあと勝四郎と宮木は時間を惜しんで相手を求め、荒い息の収まりと共に眠ったのである。
 そうして明け方、勝四郎は宮木に見送られながら雀部の曾次と連れだって、真間を発ち、京都への道を足早に進んでいった。
 ──なぜ、早く道を進んでゆく必要があったのか? 途中の鎌倉を中心に関東で戦乱の兆しがあったからだ。□



[01]8代将軍、義政
 →永享8/1436?延徳2/1490年1月(享年55) 足利幕府第8代将軍(在位;宝徳元/1449年4月?文明5/1473年)。父6代足利義教、母日野重子。次男。妻日野富子、息足利義尚(9代)。
 富子に子供が生まれなかったため弟義視を養嗣子とするも、富子には前述の如く義尚が生まれた。義視を支持する細川勝元と義政から義尚の後見を頼まれた山名持豊の対立が、その後10年に渡る応仁・文明の乱(応仁元/1467年?文明9/1477年)を引き起こし、1世紀超に及ぶ戦国時代(応仁元/1467年?永禄11/1568年)の幕開けともなった。永禄11年は織田信長が足利義昭を奉じて入京した年である。
 義政自身は文芸に秀でて後の東山文化を創出、東山に慈照寺(銀閣)を造営した。
[02]足利染め
 →下野国足利産の染絹。足利は現在の栃木県足利市一帯。「武家時代には、旗指物・陣幕・陣羽織等に、この足利染の絹や平絹の足利絹が用いられた」という(鵜月洋『有家物語評釈』P190 角川書店 1969/03)。『徒然草』第216段に「足利の染物」とある。
[03]人手に渡らず……
 →あとに残された宮木の生活の糧をすべて奪った、の意味にもなる。勝四郎の計画性のなさ、無意識の薄情さ、無計画な性格を表している。
[04]「当分、1人になるが、……」
 →お前の台詞じゃない!! と思うのはわたくしのみであろうか? 大丈夫か、と訊かれて、大丈夫ではありません、と率直に真情吐露できる宮木では、この頃はなかったであろう。ゆえに「気丈夫」と描かれ、また勝四郎帰国後はその胸で淋しかった、と訴える姿が余計にいじましく映るのではないか?◆

共通テーマ:日記・雑感

第3375日目 〈橘崑崙『北越奇談』から、幽霊船に遭った船頭の話を紹介します。〉 [近世怪談翻訳帖]

 わたくしにはいま、本ブログにてシリーズと云うべきものがあるそうです。
 1つはヒルティに代表される「〜の言葉」、1つは「こんな夢を見た」
 1つは「モルチャックが行く!」、もう1つは「YouTubeで懐かしの洋楽を視聴しよう!」
 そうしてもう1つが、「近世怪談翻訳録」(仮題)であります。
 むろんここに読書感想文などは含めない。あくまで折に触れ、気の向くままに筆を執るものであります。
 話を戻して上掲、いずれも断続的に、本当に書くネタなくしては書き得ぬ類のもの。ゆえに何年も間があいて或る日唐突に1篇がお披露目と相成ることが専らなので。
 今日(いつの”今日”じゃら)図書館で、分厚い本にはさまれて最下段へ仕舞われていた、200ページちょっとの新書版の1冊を見附けて読み耽り、借りてきました。著者は崑崙橘茂世(モヨ、と種彦の序文にフリガナがある)、書題云『北越奇談』。──鈴木牧之『北越雪譜』と並んで、越後の二大奇書、と呼ばれる越後に散在する奇談の数々や越後由来の人物素描などを綴った本であります。
 これの巻四と巻五が「怪談」と銘打たれていて、総計28の話を集めております。うち巻四ノ七に、わたくしの世代にはむしろアニメの『日本昔ばなし』でお馴染みの「船幽霊」の挿話が載ってございます。もっともこの国は四方を海に囲まれた国ですから、海にまつわる怪談奇談は山に劣らず数多ある。為、ここに載る船幽霊の話もアニメが原作に仰いだ昔話とはちょっと趣を異にしたものであります。
 後日(とは何年か経ったらば、と同義ですが)、『近世怪談翻訳録』で現代語訳に臨むつもりでおりますので、本稿ではかんたんな粗筋と作者の紹介のみさせていただきましょう、──
 【粗筋】
 頃は宝暦、と或る年の秋。五ヶ浜の船頭孫助以下7人の水夫が蝦夷松前から佐渡島の沖まで至ったとき、突然強い逆風にあって舟が転覆、1人孫助のみが命助かり、海上を漂流した。しかし波が、風が鎮まったわけでは勿論、ない。海の上を漂う孫助の目に、こちらへ近附いてくる舟の灯が映った。
 が、近くで見るその船は難破船も同様の状態である。甲板に10人程の人影が動いているが、生きているとも思えぬ。船は孫助のそばを過ぎ行く──甲板の亡者たちの泣き叫ぶ声が聞こえる。孫助はこの幽霊船に目を付けられぬよう、一心に仏神を唱えた。やがて件の船は姿を消した。
 こうして一夜が明けたが助けてくれるような舟は見えぬ。海上は小雨である。孫助は相変わらず波間に漂っていた。だんだん岸から離れて二日と二夜を海の上で過ごした。時々、かの幽霊船の乗組員の声が聞こえてくる。飲まず食わずで過ごして命絶えつつあるのを自覚したその折も折、波間に漂う藁苞1つ。なかを検めれば赤唐辛子が2つ。孫助はそれを食べ継ぎ食べ継ぎして数日を過ごした。
 或る朝、佐渡島の方から一隻の舟が来た。孫助は喉が涸れて声が出ないので、一計を案じてかの藁苞を手にして振り、手にして振り、ようやっと気附いて近寄ってきたその舟に救助された。そうして養生の後、新潟へ帰ったのである。
 さて、寛政丑の春即ちその5年(1793)春、わたしこと橘崑崙はかの地に逗留中、70歳ぐらいと思しい翁の訪問を受けた。宿の主人曰く、この人こそ孫助なり、と。翁はあの夜を回想して、話自体は安っぽいものだが、実際それを話して聞かせると身の毛もよだつ思いがして、まるで毒が自分のなかへ染みこんでゆくようでな、もうこの話をするのはあンたが最後だ、と語ってくれた。このとき孫助翁は73歳、寿命とは誠、天の定めたものであるようだ。
──以上。かんたんに、というのがそうでもなくなっちまった。ご勘弁願います。
 作者、崑崙橘茂世については以下の通り、──
 【略伝】
 生没年、生没地、係累の有無、他著の有無、いずれも詳らかではない。判明していることといえば──一時、新潟三条や寺泊などに住んでいたこと。兄がいて、その名は彦山(ゲンザン)といい、漢学者大森子陽の塾に通いかの良寛と同窓であったこと(但し崑崙と良寛の間に直接の面識はなかったらしい)。崑崙自身も広い教養を持ち、中国の書物を読みこなし医学の心得あり、絵も能くして如何なる縁あってか『北越奇談』の殆どの挿絵は葛飾北斎が担当、序文と校合は幕臣にして戯作者の柳亭種彦が請け負った。──要するに模糊とした人物なのであります。そうした意味では、伊那の井月を思わしむるところ、無きにしも非ず、と申せましょうか。
 『北越奇談』は前述しましたように、20以上のかの地の怪談を収めますが、海にまつわるものはざっと一読したところ、上の1篇のみのようであります。牧之の『北越雪譜』に載る怪談は<雪国>に深く根ざして時に薄ら寒ささえ感じさせますが、『北越奇談』はそうした重苦しさや孤絶感、などというものとどうやら縁は薄いように感じられることであります。
 此度ご紹介した1篇のお披露目がいつになるか、また本書から最終的にどれだけのお話を手掛けることになるか、いまはまだまだ不明でございます。けれど、ゆっくりゆっくり、寿命が尽きるまでなんとか数を重ねてゆきたい、と思いますのでどうぞよろしく。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3208日目 〈菓子屋の奉公人、怪異に遭う。〉【改訂版】 [近世怪談翻訳帖]

 今日は、江戸時代のエッセイ集に載るぶきみな話をお届けします。

 ──文化年間、というから、江戸文化が最盛を極め、また、そろそろ異国の脅威も迫りつつあった頃のこと。
 時の天皇は119台光格帝と120代仁孝帝、将軍職には11代徳川家斉、12代家慶。松平定信の寛政の改革が暗礁に乗りあげ、水野忠邦の天保の改革が破綻して幕府が弱体化してゆく時代の狭間にあった、徳川時代最後の平安期というてよい時代、江戸の町の片隅であった怪異譚である。
 文化9年8月、下町から数寄屋橋外へ【房斎】という菓子屋が移ってきた。珍しい趣向を凝らした菓子が評判の店だった。
 或る日の朝、奉公人が2階の雨戸を開けようとした。が、建付けが悪いのか、戸は半分しか戸袋に収まらない。押しても引いても、どれだけ強く動かそうとしても、同じこと。
 そのうるさいのを聞きつけた主人があがってきて叱り、代わって雨戸を動かしてみると、すーっ、と戸袋に収まった。雨戸が溝から外れたりして、収まりようがなかったのだろう。
 同じ日の夕刻、朝とは別の奉公人が2階にあがってきて、雨戸を閉めようとした。が、戸袋から戸が出てこない。そこで、力任せに引いてみる。すると戸は戸袋から、さーっ、と滑り出てきた。奉公人はそのあと、雨戸をすべてきっちりと閉めて階下へさがった。
 翌朝、雨戸は──すんなり開いたと思うかい? 勿論、そんなことはなかった。開くはずがないのだ。
 今度の奉公人はかなり腕に力をこめ、腰を落とし、ふんむ、と鼻息荒く戸を引いた。どうにかして雨戸を開け、戸袋へ押しこまねばならない。そのときである、──
 うすぐらい戸袋の陰から女の顔が覗いていた。こちらを見ている。だけでなく、その奉公人を組み敷いてきた。
 驚いた。悲鳴をあげた。肝が潰れた。その奉公人は火事場のなんとやらで雨戸を動かし、戸袋へ叩きこみ、けたたましい音を立てて階下へ駆けおりてゆき。
 女は戸袋の奥へでも引っこんだか、どこにも見えなくなっていた。
 夜が明けると主人があがってきて、先日から奉公人たちを驚かせている件の物の怪女を戸袋から軒の下へ引きずり出した。すると、その女の物の怪は、ぱっ、と消えてしまたのだった……。
 なんでもこの家の前の住人もこれに悩まされて引き払うことを決め、その際【房斎】へ紹介、譲ったのだそうだ──私にこの話を聞かせてくれた人は、そういった。

 これは江戸時代中期から後期を生きた根岸鎮衛(ねぎししずもり、または、やすもり、と読みます)が著した『耳囊』という随筆集に載る1つの怪談、奇談であります。
 全10巻で構成されますが当時の版元の都合などでもっと少ない巻数で巷間に流布し、完全揃いは現在、カリフォルニア大学バークレー校に収蔵される旧三井文庫本のみといいます。今回翻訳のテキストに用いた岩波文庫は、この旧三井文庫本を底本としたものであります。
 原題は「房斎新宅怪談の事」といい、巻之九に収まる。岩波文庫では全3巻の内下巻、P228-9に載る。1991年06月刊(上;同年01月、中;03月)。
 この、薄暗い戸袋からじっ、とこちらを見ている女の顔を想像すると、背筋にゾワリ、と寒いものが走りませんか。ねっとりとしたその眼差し、色のない瞳を持った顔は、ぶきみで取り憑かれそうな、それであります。わたくしは白状すると、まぁのめり込んでいたからでもありましょうが、ガタガタ体がふるえ、いまからでもコメディタッチの翻訳に変えようかな、と刹那と雖も真剣に考えた程……。
 しかし天晴れなるは【房斎】の主人であります。かなりの豪ですね。
 『耳囊』は根岸鎮衛がさまざまな人から仕入れたり、或いは風聞であったりを書き留めた奇談雑談の集であります。然程難しい文章で書かれているわけではないので、手持ち無沙汰なときなど以前取りあげた『江戸怪談集』と同様に開いて漫然と時を過ごすことの多い書物であります。
 『耳囊』についてはまた後日、紹介の筆を執る予定です。
 この本にはわたくしには子供の頃から馴染み深い分福茶釜のハナシや、酒で命を落とした人の話など面白いエピソードがたっぷり詰まっておりますので、また機会を見てこのなかからこわい話・ぶきみな話・奇妙な話・ふしぎな話を翻訳して、お披露目したいと考えています。◆


耳嚢〈上〉 (岩波文庫)

耳嚢〈上〉 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/01/16
  • メディア: 文庫



耳嚢〈中〉 (岩波文庫)

耳嚢〈中〉 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/03/18
  • メディア: 文庫



耳嚢〈下〉 (岩波文庫)

耳嚢〈下〉 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/06/17
  • メディア: 文庫



共通テーマ:日記・雑感

第3193日目 〈箱根関を越えた男、借金の取り立てに遭う。〉【改訂版】 [近世怪談翻訳帖]

 今日はちょっと趣向を変えて、むかしばなしをします。むかしばなしというても勿論、わたくしのではない。ずっと前の時代、江戸時代初めの頃に出版された『善悪報ばなし』という本から、「箱根にて死したる者に逢ふこと」という1話を、いまの言葉に訳してみました。

 寛永年間から元禄年間、3代家光・4代家綱・5代吉宗の御代。1人の男が若狭から武蔵国へ向かっていた。いまかれは(旧)東海道を、箱根関をぶじに越え、一の難所と言われる樫木坂へさしかかっている。
 道のかたわらが燃えていた。畳4畳か5畳ぐらいの広さで、燃え盛っている。なにごとか、と足を止めると、炎のなかに黒い影が1つ、うごめいていた。
 うわっ、マジか〜、と男は思った。なにやら嫌な予感がする。この世のものならざることは一目瞭然、そうしたものとかかわり持つ者にろくな最期はない。為、かかわるのは止めておこう、とも考えたのである。若狭の男は黒い影については観なかったことにして、その場を立ち去った。
 すこし行くと、後ろから名前を呼ばれた。振り返っても人の姿はない。あるのは黒い影のみである。しつこいな、と男は思った。はやく山を降りて、小田原の旅籠に休もう、とも思った。
 歩き出した男を、ふたたび黒い影が呼び止めた。
 溜め息ひとつ、男はして、黒い影に問うた。あんた、誰? なんの用?
 ──おれ、急いでるんだけど。そんな含みを持たせていったのだが、さて、目の前の魑魅魍魎の仲間らしき輩に通じているかどうか──
 すると、黒い影がいった。むかしお前とかかわりあった者で、名前を越前の次郎作という。(若狭の男はわずかに眉をしかめた) 自己紹介に続けて次郎作とやらの曰く、知っているだろうが俺は3年前に死んだ。しかし心残りが1つ、この世にあってこうして出てきた。お前に貸した銭100文(現在のレートで、2,500円前後?)のことだ。ここで会えたのはラッキーである。さ、いまここで100文、返してくれ。
 ──なにがラッキーだ。こっちにゃアン・ラッキーだよ。若狭の男はそう独り言ちた。最後の関所を越えたとはいえ、まだまだ旅は長い。渡してもいいが、この先必要なときに必要な額が工面できないってことにもなりかねない。そいつはちょっと困る。いまここで返せ? ごめん、ムリ。
 若狭の男は瞬時にそれだけを考えて結論を下すと、黒い影の督促には耳も貸さず、その場を歩み去った。
 が、ふしぎなことに一町(約109メートル)ばかし行ったところで、一歩も歩けなくなってしまった。疲れたのではない。その場に突っ立って、前にも後ろにも動けなくなってしまったのである。どれだけ力んでみても、履いていた草わらじの裏は地面にぴったり貼りついて、離れてくれそうにない。
 いったいどうしたことか、と小首を傾げているところへやって来たのが、例の黒い影である。またお前かよ、と若狭の男は思ったが、いまはそいつに構っている暇がない。どうしたら、また歩けるようになるのか、それが問題だ……。
 試行錯誤している男へ、あのさ、と黒い影が話しかける。
 あのさ、無視ってどうかと思うぞ? 無視は褒められたことじゃないが、借金の踏み倒しはもっと褒められたことじゃあない。幾らこっちが死んだ身とはいえな。100文返さないなら、この場で取り殺すけど、それでもいいか?
 越前の、3年前に死んだという男はそういって、若狭の男の前に立ち塞がり、借金精算か取り殺されるかの二者択一を迫った。
 咨、どちらに転んでもロクなことではない。そう若狭の男は内心、溜め息を吐いた。まだ旅は長い。道中のみならず、向こうへ着いたあとも、どれだけのお金が必要になるか、てんでわからない。とはいえ、100文のために命を失うのもなぁ。返さなかったら、命はない、と黒い影はいった……。
 はあ、と若狭の男は何度目かの溜め息を吐いた。所詮は命あっての物ダネってか。
 ふと前を見ると、黒い影と目が合った(ような気がした)。気のせいか、いまの独り言を聞いて、そうそう、と頷いているようだった。男は早道(財布)をさぐり、100文を摑むと次郎作と名乗った黒い影に手渡した。触れたとき、温かいとも冷たいとも感じなかった。
 黒い影はしばらく勘定して額面通りあるのを確かめると、道中気をつけてな、というや、すうっ、と消えてしまった。と、途端に若狭の男の足は軽くなり、ちゃんと歩けるようになったのである。
 んんん、倩思うにだな。この世でお金や物を借りても返すアテがないとかそのつもりがないとかの場合、「すまんね、来世で返すからサ」とでもいっておくのもアリなのかしらん。要するに、この世に於いてその貸し借りは帳消し、チャラになるってこと? なんだかなぁ、だよね。
 妖しのモノに借金返済を迫られるこの話は、つまりこの手合いのそれでもあるのだ。このハナシは、一片の偽りもなし、と、天地神妙に誓って語られた──。(おわり)

 『善悪報ばなし』は元禄年間に成立、板行。編著者は不明です。「箱根にて死したる者に逢ふこと」は巻4の7に載り、今回の翻訳の底本には『江戸怪談集 上』(高田衛・校注 岩波文庫 1989/01)を用いました。文庫の底本には『近世怪異小説』(吉田幸一・編 古典文庫 1955/09)が用いられている由。
 借金の取り立てに来る幽霊、受け取ったらパッと、潔く消えてくれる。なんだか元禄以後の草双紙にさもありそうなお話であります。西鶴らの小説に出て来る幽霊は大概腰砕けだけれど、ここに見た幽霊らしきものも人間臭くて、キップも良くて、なんだかとっても好ましい存在に映ります。
 現在では旧東海道も整備されたりしており、旅行会社では旧東海道を歩く、なんていうツアーが大盛況の様子でありますが、この話の舞台になった樫木坂は今日でも歩いてみるとなかなかの難所で、むかしの人はよくこんな所を往来したたなぁ、と、他に路がないとはいえほとほと感心したくなる程にキツイ場所でありました。これからこのあたりを歩いてみようと思われている方々、どうか履き慣れたスニーカーと汚れても構わないズボンを用意して、歩いてください。傷や怪我の手当てもできるよう準備されていた方がよろしいか、と存じます。
 燃え盛る炎のなかから黒い影が現れて、目的の人に呼び掛ける場面では、旧約聖書「出エジプト記」に載るモーセ召命の場面を思い出してしまいました。かたや借金返済の要求、かたやイスラエルの民を連れてエジプトを脱出し、<乳と蜜の流れる地>カナンへ連れ出せ(出3)。まるでスケールも目的も違いますが、なんだかこの落差が面白いな、と。
 ──わたくしは以前から、近世期の怪談を自分で訳して、本ブログにお披露目したいと思い思いしてきました(いつだったか、ここでそんな希望があることを書いたことがあります)。これからもときどき、こうして江戸時代の怪談(こわい話、ぶきみな話、ふしぎな話、へんな話、など)を、物の本をつれづれに漁ってお届けしてゆきますので、その節はどうぞよろしく……。◆

共通テーマ:日記・雑感
近世怪談翻訳帖 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。