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第1284日目 〈ダニエル書第12章:〈終わりの時の幻〉3/3with「ダニエル書」読了の報告と次回予告〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第12章です。

 ダニ12:1-13〈終わりの時の幻〉
 かれの時が満ちたとき、大天使ミカエルが現れて、ユダヤの民の側に立つ。ゆえにあなた方は救われる。それまであなた方は、かつて経験したこともないような苦難を経験するだろう。しかしそのあとに待望久しい悠久の希望が訪れる。
 後、塵のなかで眠る多くの人々が目覚め、蘇る。或る者は永遠の命に抱かれ、或る者は永遠の恥辱と憎悪の的となる。目覚めた人々は輝き、多くの者の救いとなった人々は久遠に星と輝く。
 ダニエルよ、これらの幻については終わりの時が来るまで秘密にし、この書物については封印しておきなさい。
――と、大天使長ガブリエルがいった。
 わたくしダニエルはその後なお、チグリス川の岸に立って、水の流れゆく様を眺めていた。すると、両岸に一人ずつ、人の姿が見えた。その片方は、麻の衣を着た、かの天使の幻と同じであった。
 これらのことがいつまで続くのか、と一人が訊ねた。麻の衣を着た人が答えた。一時期、二時期、半時期にわたって続く。聖なる民の力がすべて打ち砕かれたとき、これらのことのすべてが成就する。
 わたくしは思わず、それについて訊ねた。しかし、麻の衣を着た人に諫められた。かれがいった、ダニエルよもう行きなさい、と。終わりの時までこれらのことは秘密とされ、封印される。多くの者は清められる。目覚めた人は悟る。憎むべき者が立てられて除かれるまで1,290日が定められているが、それを過ぎて1,335日目を迎えられた者は幸いである。
 ダニエルよ、「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ちあがるであろう。」(ダニ12:13)

 ダニ12:2に塵のなかに眠る者が蘇る、という文言があります。これは旧約聖書で初めて、死者の復活が語られた箇所です。黙示文学の面目躍如というべきでしょうが、事はそう単純ではないようです。が、いまは贅言は慎み、「ヨハネの黙示録」など他の黙示文学に本ブログが辿り着いたとき、その点についてはもう一度考察しましょう。忘れません、ちゃんとノートにも聖書の余白にもその旨、書きこんでありますから。
 ノートを取ったときはわからずとも、ブログ原稿を入力している際になって、あっそういうことか、と納得する瞬間がたびたびあります。今回もそうでした。ガブリエルがチグリス川の岸でいう、聖なる民の力が全く打ち砕かれたとき云々(ダニ12:7)とはなんぞや? 真剣に考えこみました。ちょっと冷静になって前を読み返せば合点できるのにね。「ダニエル書」読了の喜びと興奮で脳みそ沸騰していたからなぁ……。
 即ち、アンティオコス4世によるユダヤ人弾圧に聖なる民が苦しめられて、もはや民族の命運も尽きたか、そう諦めかけたときに、イスラエルの主なる神の救済が実現する、というのであります。ホロコースト寸前でユダヤは滅びを免れた――。
 「マカバイ記」と重なる部分もあるため、余力があるようでしたら、そちらも読書してみてください。
 結局、引用を一度もしないで原稿を物すのは不可能でした。自分の力不足を感じます。



 早起きした休日の朝(雨降ってるよ……)、カルミナ四重奏団演奏するシューベルトの弦楽四重奏曲《死と乙女》/《ロザムンデ》を聴きながら、本稿を仕上げられました。なんとか無事にここまで来られたことを感謝します。
 続く十二預言書をどう書いてゆくか、結論はまだ出ません。が、近日中に再開して結論をお目に掛けることが出来るでしょう。いずれにせよ、次は第一イザヤと同じ時代を過ごした預言者ホセアが主人公となる「ホセア書」であります。
 では、『ONE PIECE』読んで『CSI:NY』S8を観て、怠惰に過ごすとしますか。明日は母の日、明後日は脳梗塞で倒れてリハビリ中の伯父のお見舞い。◆

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第1283日目 〈ダニエル書第11章2/2:〈終わりの時の幻〉2/3withLFJAJ2007公式ガイドブック奇譚&某新古書店チェーンには呆れました。〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第11章2/2です。

 ダニ11:2-45〈終わりの時の幻〉2/3
 大天使長の一、ガブリエルが続けて曰く、――
 ペルシアに4人の王が立った後、ギリシアに勇壮なる王が起こる。かれは破竹の勢いで世界を支配する。が、かれ亡きあとのギリシアは揺らぎ、4つに分裂する。以後は北即ちシリアと南即ちエジプトが、何代にもわたって戦争と和睦と政略結婚を繰り返す。その最中、アンティオコス3世はエルサレムに支配権を確立させる。かれの進撃は続くが、ローマの武官によって阻まれ、シリアへ戻ってそこで倒れる。
 代わって最も卑劣な男がシリアの王となる。かれは先王の遺児を擁立して傀儡政権を樹立し、実権を握る。世界が束の間の静穏のなかにある間も、かれは軍隊を整えて領内の豊かな地方を掌中とする。そうして時宜を定めて意思を決め、エジプトへ侵攻する。遠征は繰り返される。しかし、キティム即ちローマの艦隊の横槍にあって、かれは撤退を余儀なくされる。
 かれはユダヤ人とイスラエルの神の間にある聖なる契約を踏みにじろうとする。棄教するユダ人を囲い入れ、自分の軍隊を以てエルサレム神殿を冒瀆し、汚濁に塗れさせる。そこにかれはギリシアの最高神を立てる。それは憎むべき荒廃をもたらすものである。かれの権勢は衰えない。怒りの時が訪れる瞬間まで、かれは栄える。定められたことは実現されなくてはならないからだ。
 怒りの時、終わりの時が来る。エジプトの王がシリアへ戦いを挑む。シリアは軍隊を進め、行く先々の国や町、地方を呑みこんでゆく。この勢いから逃れ得る者は殆どない。エジプトを制したかれはその後、小さな抵抗勢力の討伐に力を注ぐが、出征先で客死する。

 本書の前半を一つ一つ掘り起こしてゆくと、固有名詞と史実の羅列になります。ノートやブログ原稿もそれに伴って煩雑になります。それは避けたいので、ご覧のようにやや強引に圧縮致しました(「以後は~繰り返す」が前半部分に該当します)。これでどうにか読みやすくなったのではないか、と思います。
 本章の主眼はアンティオコス4世エピファネスの擡頭とエルサレムの汚濁にあります。それを踏まえると、だいたい以上のようなノート/原稿がまず無難ではないか、と思う次第であります。
 もしこのあたりのことをもっと詳しく知りたい、という方には、聖書の隣に岩波やティンデル、DSBといった注釈書や研究書を置くことをお奨めします。わたくしもこれらの助けなくして本章を斯様にまとめることは出来なかったはずであります。
 他は、まぁ、読んだままで特に難しく考える必要もない内容であります。
 「ダニエル書」は明日で終わります。



 仕事帰りに某新古書店へ寄りました。雑誌の棚でLFJAJ2007公式ガイドブックを発見、迷わず購入してスターバックスへ。漫然と目を通していると、一枚の写真が、はらり、と落ちた。手にして眺めて、椅子からずり落ちた。このガイドブック、どうやら当時のスタッフが処分したらしい。最終日に撮影したと覚しき写真には、知った人たちの顔が並んでいた。……。なにもかも皆、なつかしい。

 誰と誰と誰が写っていたか言葉を濁すが(名前を覚えていない人が他にもちらほら)、件の新古書店は商品の状態や付属品チェックを徹底しなさいよ。個人情報の見落としは確か社内基準で厳重に処罰されるんじゃなかったっけ? 少なくともオンラインでは相当搾られて、その後のキャリパスや給与にも響いたんだけれど。
 成程、店舗の方がお店ゴッコ指数は遥かに高い、と。馴れ合い、お遊戯会レヴェルの仕事(?)でお給料もらえて良いですねぇ。
 やれやれ。◆

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第1282日目 〈ダニエル書第10章&第11章1/2:〈終わりの時の幻〉1/3withグリモー独奏ベートーヴェン《合唱幻想曲》を聴きました。〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第10章と第11章1/2です。

 ダニ10:1-11:1〈終わりの時の幻〉1/3
 ペルシアのキュロス王の御代の3年目のこと。わたくしダニエルは3週間にわたって断食して、祈りをささげていた。
 1月24日、チグリス川の畔にいると、麻の衣を着た天使の幻が現れて、わたくしはそれを見た。見ることのできない、一緒にいて祈りをささげていた人々は、それでも強い恐怖を感じて皆一様に逃げ出してしまった。
 残ってそれを見ていたが、力が抜けて気力も失せてふらつき、倒れてしまった。そんなわたくしを天使が引き起こした。かれがいった、愛されている者ダニエルよ、わたしの言葉をよく聞いて理解しなさい、そうして、立ちあがりなさい、と。
 天使が続けた。あなたの祈りは、その始めの日から届いている。21日間にわたって、わたしはペルシアの天使長の抵抗を受けていた。そこにわたくしと同じ第天使長の一人ミカエルが来てくれた。為、わたしはここに来て、将来起こることをあなたへ知らせに来たのだ。この幻はそのときに関するものである。
 わたくしダニエルは嗟嘆した。すると天使がわたくしの唇に、わたくしの体に触れて、力附けてくれた。
 天使がいった。わたしはペルシアの天使長と闘うために帰るが、そのあとすぐにギリシアの天使長が現れるだろう。大天使長ミカエルを除いてわたしを助けられる者はないのだ。真理の書にそれは記されている。

 「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」(ダニ10:19)

 キュロス王による捕囚の解放宣言、第一次帰還団がエルサレムへ発った翌々年の幻視。
 天使が旧約聖書の登場人物と、斯様な形で関わってくるのはダニエルが最初ではなかったか。接触を持つガブリエルは聖なる事態の告知や幻を解くために現れる存在である由。本章冒頭でダニエルが見る天使の幻もガブリエルといいます。



 長くテルデックで活躍したエレーヌ・グリモ-が移籍先、ドイツ・グラモフォンからリリースした最初のCD、題して『クレド』(rec2003)を、久しぶりに聴いた。<信条>という意味で現代エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの作品名だが、これは他で語っているので省き、ベートーヴェンの《合唱幻想曲》に本稿は注目したい。
 これは《第九》の先行作品としてよく触れられるけれど、録音には恵まれていない。数こそあるが、聴くに堪えるものはほとんどないのだ。好きな曲だけにいろいろ聴いた。ほぼすべてを処分した。
 そんな状況で聴いたグリモーの《合唱幻想曲》。初めて聴いて感動に打ち震え涙したコーツ独奏のコンヴィチュニー盤、この曲の演奏では間違いなく最高峰、空前絶後なキーシン独奏のアバド盤を帳消しにして余りあるとは到底なり得なかった点、残念であるが、それらへ肉薄する凄まじさを内包する唯一の盤と思うた。
 共演のオーケストラ、合唱団(スウェーデン放送合唱団)に北欧のトップレベルの団体が名を連ね、指揮がやはり北欧出身の若き巨匠サロネンとなれば、成功はほぼ約束されたようなもの。とはいえ、かれらの、北国ならではのリリカルさと、グリモーのきらめくピアニズムがかくも見事に調和し、妙なるハーモニーを奏でようとは信じられなんだっ! 銅メダル授与、の一枚である。
 これを聴くにつけ、グリモーとサロネン、スウェーデン放送響によるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を望むのは、おそらくわたくしばかりではないだろう。
 個人的には今後10年、否、生きている間、《合唱幻想曲》の新しい録音はいらない。◆

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第1281日目 〈ダニエル書第9章:〈定めの七十週〉with映画『画家と庭師とカンパーニュ』を観ました。〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第9章です。

 ダニ9:1-27〈定めの七十週〉
 メディア・ペルシアのダレイオス1世の御代の初年のこと。
 わたくしダニエルは或る日、エルサレムの荒廃の時が終わるまで70年の歳月が要される、と文書で読んで知った。そこでわたくしは神なる主を讃仰して、ユダヤが犯し続けた罪と過ちを告白して、祈り、嘆願して訴えた。
 「主よ、常と変わらぬ恵みの御業をもってあなたの都、聖なる山エルサレムからあなたの怒りと憤りを翻してください。わたしたちの罪と父祖の悪行のために、エルサレムもあなたの民も、近隣の民から嘲られています。」(ダニ9:16)
 われらの主よ、聞いてください。赦してください。あなた自身のゆえに救いを遅らせないでください。

 わたくしダニエルは神なる主への、ユダヤが犯した罪と過ちを告白し、嘆願し、祈るのを続けた。すると、以前の幻に見た天使ガブリエルが飛んできて、いった。
 お前を目覚めさせるためにわたしは来た、主の言葉が出されたのでそれを告げにわたしは来たのだ、この言葉のことを悟り、この幻を理解せよ。
 「お前の民と聖なる都に対して/七十週が定められている。/それが過ぎると逆らいは終わり/罪は封じられ、不義は償われる。/とこしえの正義が到来し/幻と預言は封じられ/最も聖なる者に油が注がれる。
 これを知り、目覚めよ。/エルサレム復興と再建についての/御言葉が出されてから/油注がれた君の到来まで/七週あり、また、六十二週あって/危機のうちに広場と堀は再建される。
 その六十二週のあと油注がれた者は/不当に断たれ/都と聖所は/次に来る指導者の民によって荒らされる。/その終わりには洪水があり/終わりまで戦いが続き/荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め/半週でいけにえと献げ物を廃止する。
 憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」(ダニ9:24-27)――天使ガブリエル斯く伝へり。

 おそらくエレミヤが預言し(エレ25:11,29:10)、また代下で触れられた「70年の時が満ちれば」云々の時期が、そろそろ終わりに近附きつつあった頃の挿話でしょうか。
 天使ガブリエルのいう「70週」とは490年を指します。<1日=1年;1週間=7年>を踏まえれば、<70週×7年=490年>という計算がすぐに出るわけであります。
 では、490年とはなにか? これはむろん正確な数字であろうはずがありませんので、だいたい4世紀後になにが起こったか、を述べるに留めますが、エレミヤが預言した前605年から441年後、ガブリエルの言葉に登場するアンティオコス4世エピファネスによるエルサレム侵略がありました。前164年の出来事です。
 ガブリエルの言葉のなかにある70週の内、69週目に起こる出来事とは即ちこれであります――「都と聖所は/次に来る指導者の民によって荒らされる。/その終わりには洪水があり/終わりまで戦いが続き/荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め/半週でいけにえと献げ物を廃止する。」(ダニ9:26)
 ……というのが、大半の見方であり、「ダニエル書」の内容・性質からしてもこれがいちばん妥当であろう、と思うのでありますけれど、やはりここにメシア預言を読み取ることは容易で、実はわたくしなども最初はこれに搦め捕られてしまったのですが、たとえばハーレイは『新聖書ハンドブック』の当該章に於いてそうした記述をしております。岩波14の脚注やラッセルなどは史実に基づいた冷静な判断を下しております。

 手こずりながらもなんとかノートを終わらせたいま、むなしき敗北感に打ちのめされています。ガブリエルの言葉も含めて、一旦出来上がったノートを殆どすべて消し、夕食の準備を挟んで悶々と悩み、結果、天使の言葉に比重を置いたノートを作ることになった。
 でもね、と弁解させていただく。でもね、ガブリエルの言葉はどう弄くってもわたくしの言葉よりも引用の方が雄弁で、前半のダニエルの祈りも締まりがないため、最初はだらだらまとめていたが散漫になるだけと判断して半分ぐらいの量に縮めた。そうしてようやっと、こうしてなんとか読めるようなものになった。
 つまり、なにがいいたいか、というと、わたくしなりに頑張りました、ということです。昨日の第8章程ではないけれどさ。



 映画『画家と庭師とカンパーニュ』を観ました。カンパーニュは仏語で「田舎」。
 ああ、人生の素朴なることがいちばんのしあわせ事かなぁ。生きることの喜びと哀しみが詰まった、ぬくもりに満ちた小さな傑作。偶然の導きによって本作と出会えた幸運に感謝します。
 画家アンリ・クエコによる原作は未訳である由、何方か翻訳してください。
 監督;ジャン・ベッケル、脚本;ジャン・ベッケル、ジャン・コスモ、ジャック・モネ、撮影;ジャン=マリー・ドルージュ、出演;ダニエル・オートゥイユ、ジャン=ピエール・ダルッサン他。2007年フランス映画。◆

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第1280日目 〈ダニエル書第8章:〈雄羊と雄山羊の幻〉withいま再びギリシア神話その他が読みたくなった!〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第8章です。

 ダニ8:1-27〈雄羊と雄山羊の幻〉
 ベルシャツァル王の御代第3年にわたくしダニエルが見た幻、――
 エラム州の都スサを流れるウライ川の畔にいると、川岸に1頭の雄羊が現れた。2本の長い角を持っていた。内、1本はもう1本よりも長く、後ろに生えていた。雄羊は北に、南に、西に暴れて、行く先々の獣を踏み倒した。雄羊に虐げられる獣を救い出させる者はない。雄羊はますます暴れ、傲慢に振る舞った。
 その雄羊に、西に現れて全地の上を凄い勢いで進んできた雄山羊が迫って、衝突した。雄山羊は相手の角を折ってこれを倒し、抛ち、踏みにじった。雄山羊の勢いは更に増した。かれは尊大の親玉となった。
 が、力が絶頂にあったとき、額の1本の角は折れた。その跡から4本の小さな角が生えて、天の四方へ伸びた。その内の1本には、小さな角がもう1本生えた。それは四方へ伸びた角のなかでいちばん強く、南へ、東へと勢いを伸ばした。
 そうしてその勢いは遂に<麗しの地>へまで至った。天に坐す万軍の主にまで及んだ。日々の供え物は捨てられ、聖所は破壊された。<麗しの地>からは真理が失われ、代わって罪が蔓延(はびこ)った。暴虐の大風は収まらなかった。
 聖所と万軍とが踏みにじられる、この幻の出来事は果たしていつまで続くのか。そう訊ねる声があった。それに答える声があって、日が暮れ夜が明けること2,300回に及んで、ようやく聖所はあるべき姿に回復する、といった。
 わたくしはこの幻を見ながら、これの意味を知りたい、と願った。すると、まるで勇士のような姿が前に現れた。どこからか人の声がして、その姿に向かって、ガブリエルよこの幻の意味をかれに説明せよ、といった。ガブリエルと呼ばれたその姿が近附いてきたので、わたくしは恐れてひれ伏した。
 ガブリエルがいった、この幻は終末にまつわるものである、と、気を失いかけて倒れそうになったわたくしを助け起こして、ガブリエルは続けた。
 この怒りの時の終わりになにが起こるか、あなたに見せよう。幻に現れた雄羊はメディアとペルシアの王である。雄山羊はギリシアの王である。その額の角は第一の王である。その跡に生えて<麗しの地>を蹂躙した角は最悪の王、4つに分裂したギリシアの内で最も狡猾で高慢な王である。かれは聖なる民とその信仰、その神を駆逐せんとする。が、遂に最も高き者、最も大いなる君と相対して、人の手によることなく倒される。
 この、夜と朝の幻は真実である。しかしあなたはまだこれを誰に語ってもいけない。あなた一人の秘密とせよ。
 ――わたくしはこの幻のあと、病気になって何日間も宮廷への出仕を休んでしまった。わたくしはこの幻に呆然となり、理解できずにいる。

 幻のなかでダニエルがいるのは、エラムであってエドムではありません。似た名詞が出て来て時々頭がこんがらがっちゃうとき、ありますよね。でもだいじょうぶ、間違いにはいつか気が付くから。
 エラムはイラン南西部にあった国家で、ラピスラズリなどの宝石の産地として、都市スサ(スーサ)を中心に発展した。後、ダレイオス1世によってアケメネス朝ペルシア帝国の首都となった。ウライ川はスサのなかを流れていた川(運河)であります。
 「第一の王」はアレクサンドロス3世ことアレキサンダー大王を示しますが、では、「4つに分裂したギリシア」とはなにを指すか。
 アレクサンダー大王がバビロンで熱病のため急逝したのは前323年のことでありました。版図拡大を辿る一方で支配機構が確立していなかったギリシア帝国は、かれの急逝を承けて瞬く間に瓦解します。
 崩御後のギリシアは大王の遺言もあって(「最強の者が王国を継承せよ」)、ラミア戦争を皮切りとする数次に渡ったディアドコイ戦争が勃発します。ディアドコイとは、後継者、の意味であります。この戦争によってギリシアは4つに分裂しました。「4つに分裂したギリシア」とはこれのことです。即ち、――
 ・カッサンドロス朝マケドニア;マケドニア本国
 ・セレコウス朝シリア;シリア、バビロニア、イラン高原、小アジア東部
 ・プレトマイオス朝エジプト;エジプト、キプロス
 ・リュシマコス朝トラキア;トラキア(現:ブルガリア)、小アジア西部
――であります。が、このなかでカッサンドロス朝マケドニアはすぐに弱体化し、代わってアンティオコス2世によるアンティオコス朝がマケドニアの覇権を掌握することになります。そうして最終的にはリュシマコス朝を除く3つの王朝にまとまってゆきました。
 紛らわしいなかを恐縮ですが、「最悪の王」とした王は、既に何度か名前の出て来たセレコウス朝アンティオコス4世エピファネスであります。
 雄羊はメディア・ペルシアの王、と、ダニ8:20にあります。この王はダレイオス1世。雄山羊はギリシアの王、と、ダニ8:21にありますが、これはアルゲアデス朝マケドニア帝国の君主、アレクサンドロス3世ことアレキサンダー大王のことです。前331年、チグリス川上流のアルベラ・ガウガメラにて両者はぶつかりますが、ペルシア軍の敗走を以てこの合戦は幕を降ろしました。
 この一件を契機にして、アケメネス朝ペルシアは歴史の表舞台から姿を消しました。言い換えれば、ギリシアがオリエント地方をもその勢力下に置いた、その地域に覇権を確立した、ということであります(ギリシアが東方へ勢力を拡大したこの時代はヘレニズム時代と呼ばれました)。しかし、勢力圏に置いたものの支配機構がきちんと機能しないままアレクサンダー大王の急逝を迎えたのは、前述の通りであります。このあとに、ディアドコイ戦争が起こったのであります。
 ちょっと煩雑になりましたが、本章は、或いは本書は、われらが中学・高校時代に習った世界史とリンクしてきた大事な部分でもありますので、長々とこんな風に(自分の覚え書きも兼ねて)記してみました。ご理解いただければ幸いです。もし興味や関心を覚えた方がいらっしゃれば、大手出版社から出ている歴史叢書や、或いは山川出版社から出ている『詳説 世界史研究』をお読みになってみると良いと思います。「山川世界史」はわたくしもいま横に置いて開いていました。読みやすくて、わかりやすい。これ以上の基礎文献はないように思います。

 贅言をお許しいただきたい。意に反して2日間の休みを必要としたのは、本章のノートがなかなか仕上がらなかったからでした。特に難しくもない章ですが、満足する形でまとめることがなぜか出来なかった。
 イタリアの港町っぽい名前のカフェやポオの短編小説のフランス語読みのカフェとかではミューズは降りてこないのかな、やっぱり自宅や図書館やスターバックスで読んでノート取って、でないと駄目なのかな、とか、そんなジンクスめいたことも考えたりしましたよ。えへ。
 いちおうそれなりに四苦八苦した結果がお読みいただいた上掲のものですが、果たして出来映えは如何でしょうか?



 旧約聖書の内容にギリシアの影が侵入してきました。だから、というわけではないと思うけれど、いま再びギリシア神話が読みたくなった! 序に、学生時代に読んで以来この方ご無沙汰であった古代ギリシア文学も読みたくなった。
 ――というわけで、GWのセールも終わって棚がいつも以上に殺風景になったままなブックオフで、呉茂一『ギリシア神話』上下(新潮文庫)と同じく呉茂一編訳『ギリシア・ローマ抒情詩集』(岩波文庫)を105円コーナーから救出してきましたよ。これは手始め。じきにホメロスやソフォクレスも読み直したいですね。
 さて、仕事が休みな明日の朝は、パンケーキ焼きながらこれを読むとしますか。◆

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第1279日目 〈ダニエル書第7章:〈四頭の獣の幻〉withこの間の夜のこと。〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第7章です。

 ダニ7:1-28〈四頭の獣の幻〉
 ベルシャツァル王第3年、ダニエルは夢を見た。それはこういうものであった、――
 風に荒れる大海のなかから4頭の獣が現れた。1頭目は獅子の如く、2頭目は熊の如く、3頭目は豹の如くで、いずれも凶暴であったが、4頭目は抜きん出ていた。
 それは鉄の牙で噛み砕き、強靱な足で踏みにじった。10本の角を持っていたが3本が抜けてそこから人間の目と口をもつ小さな角が生えてきた。その口は、裁き主たる<日の老いたる者>が王座に就く、その裁き主は王座に就くと巻物を繰り広げる、と語った。角に生じた口は他にも尊大なことを語ったが、その間に殺され、死体は裂かれて焼かれた。
 天の雲に乗った<人の子>が<日の老いたる者>の前に立つと、かれは<人の子>に威光や王権を譲り渡した。<人の子>の前に全地の民は仕え、その支配、その統治は永遠に続く。
――わたくしはこの夢を書き留めた。が、不安は消えない。
 そこで、或る人にこの夢の意味を訊ねてみた。かれの曰く、4頭の獣は4人の人間の王、かれらは地上に起こるが倒れてゆき、いと高き者の王国による永遠統治が始まる、と。
 わたくしは更に、4頭目の獣について訊ねた。かれの曰く、それは4頭のなかでいちばん強く凶暴で、それゆえその口は尊大なことを語り、聖者たちと戦うも<日の老いたる者>の裁きによって破れ、時が来たことで己のものであった威光や王権をいと高き者に仕える聖者たちへ譲るのである、と。
 かれはいった、――第4の獣は地上に興る第4の国、これは全地を蹂躙する。10人の王のあとに1人の王が立ち、それにより3人の王が倒れる、かれはいと高きものに反逆して聖者たちを捕らえるが、然るべき時に裁かれる、そうしてかれはすべてを奪われて滅びて終わる、と。「天下の全王国の王権、権威、支配の力/いと高き方の聖なる民に与えられ/その国は永久に続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」(ダニ7:27)
 わたくしはこの言葉に恐れ、悩み、顔色を失うぐらいに不安になった。が、わたくしはこの言葉を心に留め置いた。

 「ダニエル書」第2部の開幕です。ここでは専ら、ギリシアの王によるユダヤの蹂躙と、かれらが君臨する邪知暴虐の時代のあとはユダヤの神による永遠統治の時代が訪れる、そうしてそれは不滅である、ということが語られます。
 本書後半は同じ話題が前半と後半で語り直されることもままあり、それゆえ退屈と混乱を生じかねませんけれど、これが黙示文学であり、象徴的な物言いがされるのは黙示文学の特徴だけれど中心を貫く主旨は一本でそれはけっして揺るぎなきものであることだけ、胸に留めておけばよいと思います。



 数年前のGW、イヴェントのバイトで知った人と初めて二人きりのご飯をした。なにを話したか、よく覚えていない。今年もその人はわれらが出会ったイヴェントにて改札のバイトをする由。来年は二人で、と約束したが、どうなるか神のみぞ知る、だ。でも、次のご飯の約束は無事に果たされるだろう。そのときは翻訳の相談もしないとな。才能がある人って魅力的ですよね。◆

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第1277日目 〈ダニエル書第7章お休みのお知らせwith映画『シルビアのいる街で』を観ました。〉 [ダニエル書]

 非常に無礼な話をする。
 本来であれば、今日は「ダニエル書」第7章を読むはずであった。が、おわかりのようにそれは果たせない。理由は、納得できる原稿が書けない、という一点に尽きる。それは内容についての納得であり、文章についての納得でもある。これを他人様にお見せできるのか? そんな小さな声が、自分の内で響いて谺する。
 ほぼ自転車操業であるのはいつもの常なれど、今回このような失態を招いたのは、ダニエル書が今日から後半戦、即ち黙示文学の領域に入ることにある。これまでは疑問に思う点こそあれど、歴史に組みこまれた個人の物語、挿話、逸話集であり、比較的容易に読み進むことができた。が、第7章に至って事態は一変した。
 わたくしの聖書力では到底太刀打ちできない。これまでも黙示文学の性質を持った章は幾つも読んできた。それらは確かに頭を捻る部分もあり、また、あまり理解が及ばず見切り発車的にノートをし、ブログ用原稿をPC入力したこともある。そういう意味ではダニエル書もまったく変わりはないけれど、読んでいて、これはもしかすると他の書物にあった黙示文学に属する、或いは性質の近しい章とは、なにかが決定的に異なっているのではないか。そう思えてならなくなってきたのだ。
 わたくしはダニエル書を面白く読んだ。その黙示的な挿話群についても、背景を知ってしまえば、成る程、と合点できる点だらけである。それは既に「ダニエル書・前夜」で申し上げた通り。
 それでも実際にノートを取るため改めて読み直し、そうして原稿へ仕立てあげる過程になると、どうもなにかが違う。なにをどう書いても、指の隙間から砂がこぼれ落ちてゆくような、或いは、(これはS.キングの言葉であったはずだが)濡れたティッシュ・ペーパーを掬いあげたときのような気持ち悪さを覚えるのだ。
 が、もはや立ち止まることはできない。進め。既に「ダニエル書」のノートは第9章まで仕上がっている。これを納得ゆくように推敲を重ねれば良いだけの話だ。しかし、時間は容赦なく過ぎ去ってゆく。しかし、そのなかでわたくしはやるのだ。
 明後日には、それがたとえ暫定になろうとも――それでも現在のノートよりは幾らかましなものにはなっているであろう――今日お披露目する予定であった第7章の原稿を読者諸兄の許へお届けしよう。わたくしは物書きなんていう結構高度な嘘つきの一人だから、いままで沢山の嘘をついてきた(そうでなくて物語なぞ紡げようか?)。が、これは確かだ。
 「ダニエル書」第7章、ダニエル書第2部の始まりは、5月7日(火)である。それまではくれぐれも本ブログのことを忘れないでほしい。作者から読者諸兄への、たった一つのお願いである。



 映画『シルビアのいる街で』は不思議な映画でした。台詞らしき台詞は必要最小限に抑えられ、むしろ舞台となる古都ストラスブールの街角にあふれる<音>に注目(?)したくなる映画でした。背景であるはずの音が人々の会話を遮り、かといってそれは邪魔をしている、という意味ではけっしてなく。むしろこちらの想像力、日頃自分のまわりにどれだけ関心を払っているか、を問われる気分になります。
 自分の前から去った女性に似た人を見掛けて思わずあとを追い、古都の入り組んだ街路をひたすらに彷徨い歩く様に、恐怖を感じるか蔑みを抱くか、或いは仄かな共感を抱くかは鑑賞者次第。そんな意味では鑑賞するわれらの器を試されるような作品です。わたくしはこれを<究極>とまではいわないけれど、個人の褪せない思い出を最大限に昇華させた、極めて上質かつストイックな恋愛映画、と思いました。これ以上は言葉を控えます。
 あなたがこの映画を観終えたあと、いつまでも残る風景はどんなものですか?
 監督・脚本;ホセ・ルイス・ゲリン、撮影;ナターシャ・ブレイア、出演;グサヴィエ・ラフィット、ピラール・ロペス・デ・アジャラ他。2007年スペイン=フランス映画。◆

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第1276日目 〈ダニエル書第6章:〈獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル〉withLFJAJ開幕&予定変更の報告〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第6章です。

 ダニ6:1-29〈獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル〉
 バビロニアに代わってメディア・ペルシアが立った。ダレイオスは62才で即位した。王は全国を120四の行政区に分け(ex;エス1:1)、それぞれに総督を置いた。また、政務を円滑にするため、総督の上に3人の大臣を置いた。ダニエルはその内で最も有能であった。ダレイオス王はかれに王国全体を治めさせよう、と考えた。それもあって、ダニエルは他人の妬みを買うことになる。
 官僚たちはダニエルを陥れようと粗探しをしたが、無駄だった。政務に関してかれは非の打ち所がなかったからである。そこで官僚たちは相談して、一つの結論を出した。ダニエルを陥れるためには、もはやかれの信じる神の法について言い掛かりをつける他ない。
 王の御前で官僚たちはいった。向こう30日間、陛下以外の人間やメディアの神以外の神を信じたり、祈ったり願ったりした者は、ただちに獅子のいる洞窟へ投げこまれる、という禁令を勅令として出していただこう、ということになりました。どうぞ書面に署名いただき、王国内へ公布してください。そうすればその定め事は、メディア・ペルシアの、変更も廃止も不可能な法律として機能するようになります。――王は承諾してこれに署名した。
 このような勅令が出されたのをダニエルは知っていたが、かれは日に3度の祈りと讃美をユダヤの神にささげた。ダニエルの家に来てそれを見届けた官僚たちは、ダレイオス王へ報告して、獅子のいる洞窟へかのユダヤ人を投げこむよう迫った。
 王は苦悩した。ダニエルを救う手立てを様々思案した。というのも、王はこのメディア・ペルシアをダニエルに治めさせよう、と望むぐらい、かれを評価し、信頼していたからである。が、どう思案してもダニエルを救う手立ては見附からなかった。定められた法に則ってダニエルは獅子のいる洞窟へ投げこまれた。その前にダレイオスはダニエルにいっった、あなたの信じる神があなたを守ってくれるように、と。
 その晩、王は一睡もできなかった。朝になるや、王は件の洞窟へ行き、不安げな声で呼ばわった。ダニエル、ダニエル、生きているか、神はあなたを守ったか。すると、暗闇のなかから返事があった。はい王様、神はわたしを守ってくださいました、天使を送って獅子の口を閉ざしてくださったのです、わたしは無傷です、わたしの無実と王様に二心のないことが召命されました。
 ダレイオス王は随喜してダニエルを洞窟から出させた。代わってダニエルを陥れようと画策した官僚たちを、その家族諸共洞窟へ投げこませた。かれらはたちまち獅子に喰われた。
 ――ダレイオス王は全地の諸国、諸族、諸言語の人々へ書き送った。曰く、わがメディア・ペルシア領内に在っては何人もダニエルが信奉する神を畏れ、かれらユダヤ人の信仰に敬意を表すように、と。その主権は不滅、その支配は永遠、その神は救い主、天地にわたって不思議な御業を示す。
 ダニエルはこのダレイオス王とキュロス王の元年まで仕えた。

 昨日の芸術つながりで言い添えますと、ダニエル投獄の場面を描いた有名な画家にルーベンスがいます。岩波14「ダニエル書」に図版が載る他、少し大きなルーベンス画集でもこの作品は見ることができると思います。
 さて。
 本章に於いてダニエルに信を置き、親身に接するダレイオス王とは誰でしょうか。メディアにこの名を持つ王はなく、ペルシアに於いては捕囚解放を行ったキュロス2世の後にダレイオス1世が登場します。
 岩波14「ダニエル書」脚注では、本文書(ダニエル書)は史実に関しては正確さを欠く、と前置きした上で、「その治世下にバビロン捕囚からの解放が行われたペルシア王ダレイオス一世のこととは考えられないが、ここでは彼のイメージが重ねられているのだろう。実際にはペルシア滅亡はバビロニア滅亡に先立つが、ここでは順序が逆であり、ヘレニズム期ユダヤ人に流布した通説に従っている」(P25)と述べています。
 メディア王国の滅亡は前550年、新バビロニア帝国の滅亡は前539年のことであります。オリエントの覇権がペルシアに移り、キュロス2世が即位した元年に捕囚は解放されました。それは前538年のことです。ダレイオス1世の治世は前521-486年。いずれにせよ、計算は合いませんし、史実との齟齬が見られます。
 しかし、それでもここにダレイオスが登場する必然的な理由が、「ダニエル書」編纂当時はあったはずであります。この点は聖書学者や教会の人たちに訊ねてみたいものであります。けれども、わたくし共のような非キリスト者がこれについて考えてみるのも、悪いものではありませんし、また、とても面白いと思います。



 シューベルト《ミサ曲》第6番を聴きながら、ヘミングウェイ『移動祝祭日』を読み返す。世間はGW後半戦に突入、有楽町の東京国際フォーラムではLFJAJが開幕した。
 それはさておき。
 この度、さんさんかは重大な事実を思い出してしまったのである。それゆえに、旧約聖書の終了後も、そのまま、呑気に休み呆けるわけに行かなくなったのだ……! そう、本ブログは――「創世記」を欠き、「出エジプト記」は前半部分が欠落している。
 そも本ブログは、だんだん煩雑になってきた祭儀や服装、規定などのメモ代わりに始めた、という経緯(いきさつ)があった。その後は過去を振り返ることも、一旦停まって始めに戻ることもせず、ひたすら前に進むが使命とばかりに各書物を消化してきた。それが裏目に出たわけである。
 従って、初夏に「マラキ書」が終了(予定)次第、本ブログはそのまま「創世記」と「出エジプト記」前半へ戻って旧約聖書を完了させることになる。その後は予告通り、小企画〈特集;9.11〉と長編小説の連載を挟み、旧約聖書続編へ、新約聖書へ雪崩れ込むことに、大きな変更はない。
 予定変更になるのは事実なので、この場を借りてご報告させていただきます。けっして今日のエッセイが書けず七転八倒した挙げ句、このような急場凌ぎを思い付いたわけではございません……よ?◆

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第1275日目 〈ダニエル書第5章:〈壁に字を書く指の幻〉with観たい映画は沢山あるけれど、……。〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第5章です。

 ダニ5:1-30〈壁に字を書く指の幻〉
 ネブカドネツァルの子ベルシャツァルが王位に就いた(※1)。かれは1,000人の貴族を招いて饗宴を催し、酒色に耽った。或るとき、王は家来に命じて、エルサレム神殿から略奪してきた祭具を運び出させた。かれらは祭具を杯代わりに酒を飲んだ。そうして自分たちの神、金や銀、青銅や鉄、木や石で造った神を讃えた。
 すると、空中に指が現れて、灯火で仄かに照らされる白い壁に、文字を書いた。メネ、メネ、テケル、バルシン。ベルシャツァルはそれを見て恐怖した。言い知れぬ不安を覚えた。国中の賢者たちが呼び集められたが、誰もそれを読むことはできなかった。
 そこへ王妃がやって来て、夫にいった。ネブカドネツァル王がユダから連れてきた捕囚に、ダニエル、この国での名をベルテシャツァルという者がおります。かれはバビロニアのすべての占い師や賢者たちの長を務めておりました。ベルテシャツァルは聖なる神の霊を宿した者です。どうかこの者を呼び、あの文字の解読をさせてみては如何でしょうか。
 やがてダニエルが呼ばれて来た。王はダニエルに、あの壁の文字を読み解いてほしい、といった。あれを読み、意味を説明してくれたら、紫の衣と褒美を与えよう、また、国を治める者の第三番目の席次も授けよう。が、ダニエルはそれを固持した。しかし求められるに応じて壁の文字については説明した。曰く、――
 ベルシャツァル王よ、あれは<メネ、メネ、テケル、バルシン>と書いてあります。メネは「数える」、即ち、王の治世は終わった、ということです。テケルは「量る」、即ち、神はおあなたが国主として役不足と判断した、ということです。バルシンは「分ける」、即ち、バビロニアはメディアとペルシアによって二つに分断される、ということです。
――と、ダニエル/ベルテシャツァルは説明した(※2)。
 王は紫の衣と褒美を与え、かれを国を治める者の第三の席次に就ける旨、布告した。
 斯様なことがあった晩、カルデア人の王ベルシャツァルは暗殺された。

 ※1「ネブカドネツァルの子ベルシャツァルが王位に就いた」;ベルシャツァルは新バビロニア帝国最後の王ナポニドスの皇太子である。なぜかような錯誤、或いは擬えがされたのか。有名な〈ベルシャツァルの饗宴〉、または<ベルシャザールの饗宴> を挿話の舞台とすれば、エルサレム神殿から奪ってきた祭具を杯代わりにした、という、一種の冒瀆行為を自然な形で描写できるからだろうか。改竄と創作は紙一重である。
 どんな説が巷間あふれているのか、不勉強だから知らぬけれども、少なくともわたくしはそんな風に考えて、解釈している。
 ※2「ダニエル/ベルテシャツァルは説明した」;かつてネブカドネツァルは傲慢ゆえに人心を失って野を彷徨い、悔悛して国も威光も取り戻した。あなた(ベルシャツァル)はそれを知っていながら、主の前にへりくだらなかった。偶像を讃えて、あなた自身の命と行動のすべてを手中にしている神を崇めようとはしなかった。だから、神はあの指を遣わして壁に文字を書かせたのだ(ダニ5:22-24)。
 ――文字解読の前には以上のような諫めの言葉がある。本文へ組みこまなかったことに、特別な理由はない。

 芸術は旧約聖書のさまざまな場面、挿話を、題材に仰いできました。天地創造やノアの方舟がそうですし、ソドムとゴモラ、出エジプト/十戒、サムソンとデリラ、サウルとダビデ、シェバ(シバ)の女王、エルサレムの陥落、バビロンの空中庭園、その他です。「エレミヤ記・前夜」ではシステーィナ礼拝堂にミケランジェロ描くエレミヤ像がある旨、触れました。この「ダニエル記」も多くの芸術作品で題材とされてきました。
 本章での〈ベルシャツァル(ベルシャザール)の饗宴>はその一つです。この1,000人規模の宴会は実際に催されていたらしいのですが、これはたくさんの芸術家にインスピレーションを与えたようです。
 代表的なものとしてたとえば、美術ではジョン・マーティンやレンブラントの絵画が、文学ではハインリヒ・ハイネやジョン・バイロンの詩が、音楽ではシューマンの歌曲やウォルトンのオラトリオがあります。
 ウォルトン作曲のオラトリオ《ベルシャザールの饗宴》では、アンドルー・デイヴィス=BBS交響楽団他がプロムスのラストナイトで披露した演奏(テルデック)が、わたくしはいちばん好きで、iPodにも入れております。また、この作品はカラヤンが、20世紀最高の合唱曲、と評価したことでも有名です。シューマンではDFDが中心となった全集(DG)にしかあるのを知りませんが、最近では他の歌手も歌っているのでしょうか。



 最近映画観てないなぁ……、と思う。貧乏暇なし、とは、よくいったものだ。映画館に出掛けていない、というだけでなく、DVDを借りることすら殆どない。末期症状かな? 先日書いた『吉祥寺の朝比奈くん』がどれだけ例外中の例外であったか、推して知るべし。
 観たい映画はあるけれど観に行く時間がない。観る時間はあるけれど観たい映画がない。お金と同じですね、まさに負のデフレ・スパイラル。成る程。ということは、需要と供給が一致したら好景気到来、それがいつ終わるともなく続くとバブル景気というわけか。そんな風に観たい映画が毎月供給されれば、いうことなしなのですがね……。勿論、古典や名作のリヴァイバル上映(「(新・)午前10時の映画祭」とかね)は別ですぞ?
 まったくさ。TSUTAYAもDVD4枚とか5枚で1,000円、とかいうの完全にやめて、以前通り一枚100円に固定してくれないかな。新作だけ従来通りの料金取ればいいじゃん。他の店舗がどうかは知らぬが、さんさんか利用のTSUTAYAはそうだ、というお話し。
 過去のブログ原稿を読み直していた。すると、書こうとして書かなかった映画の感想文がそこそこあるのに気附いて、冷や汗が出た。『少年メリケンサック』も『罪とか罰とか』も『のだめカンタービレ 最終楽章・後編』も書かなかった。『グスコーブドリの伝記』や『コクリコ坂から』や『タイタンの逆襲』や、観に行ったのに、結局筆を執ることもなくそのままにしてしまったものもある。ブログ休載中の鑑賞だったから、とは言い訳だが、そうか、そんな事情もそういえばあったっけ。そうか、そうか。思い出したわ。うむ。
 今月は『図書館戦争』と『県庁おもてなし課』、『くちづけ』、『ビル・カミンガム&ニューヨーク』を絶対に観に行く。さて、感想文(っぽいもの)は書けるかな? ←微妙に投げ遣り。◆

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第1274日目 〈ダニエル書第3章2/2&第4章:〈大きな木の夢〉withSMAP/2013年上半期いちばんの「JOY」!!〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第3章2/2と第4章です。

 ダニ3:31-4:34〈大きな木の夢〉
 わたしネブカドネツァルは全国民へ、いと高き神がわたしに示した御業について知らせる。この不思議な御業のなんと偉大であることか。この神の国は永遠であり、その支配は代々に及ぶ。
 バビロニアに住まうすべての民よ、わたしが語らんとするいと高き神の示した御業とは、このようなものである。即ち、――
 或る夜、夢のなかに恐ろしい光景が現れ、わたしは不安に苛まされた。勅命により国中の占い師や賢者たちを集めて夢の意味を問うたが、駄目だった。最後にダニエル/ベルテシャツァルが来た。聖なる神の霊を宿すかれに、わたしは夢の解釈を頼んだ。こういう夢であった、……
 大地の真ん中に生えた木は大きく成長し、地平線からも見える程高くなった。葉は美しく鮮やかに茂り、すべてを養うに足るぐらい豊かに実は実った。枝に、梢に、根本に、動物は寄り集まった。しかし、天から聖なる見張りの天使が降りてきたことで状況は一変した。天使はいった、この木を切り倒して葉も実もすべて落として寄り集まっていた動物もすべて追い散らせ、切り株と根は残すがそれには鉄と青銅の鎖を掛けて野晒しにする、やがて人の心を失って獣の心を持つようになる、そうして7つの時が過ぎる。
 「この宣告は見張りの天使らにより/この命令は聖なる者らの決議によるものである。/
 すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、もっとも卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。」(ダニ4:14)
……こういう夢である。ベルテシャツァルよ、如何か。
 これにダニエルは呆然とするばかりであった。わたしは、躊躇せずにいうがよい、と促した。そうしてようやくかれは夢の解釈を話し始めた。
 バビロニア王ネブカドネツァルよ、とかれはいった。王よ、あなたがご覧になった夢ですが、それは王ご自身の身に降りかかることでございます。傲れば打たれ、悟れば返される、ということでございます。どうか王よ、この忠言を胸に留め、罪を悔いたら施しを行い、悪を改めたら貧者へ恵みを与えるようにしてください。そうすれば、王の許で国は繁栄を続けるでしょう。
 ダニエルはそういった。
 が、忠言へ耳を傾けたにもかかわらず、それらはすべてわたしの身の上に起こってしまったのである。それから12ヶ月後、わたしは宮殿の屋上から都を、国を見晴るかして、わが権力の偉大なること、わが威光の尊きことを誇った。そのとき、天から声がした。王国はお前を離れた、と、その声はいった。追放されて野に住み、露に濡れ、風に打たれ、草を食べ、獣と共に暮らせ、とも。そうやって7つの時を過ごせ。神が人間の王国を支配し、御旨のまま誰にでも王国を与えるのだ、ということを悟れ。――天の声はそういった。
 わたしは7つの時、即ち7年を過ごした。天を仰ぐと理性が戻り、いと高き天の神を讃えた。国も官僚も民も戻り、栄光と輝きが再び与えられた。
 わたしネブカドネツァルは天の王、いと高き神を誉め称える。崇め、讃美する。その御業はまことである。その道はいつも正しく、傲る者を倒す。

 引用はなるべくしない、と申しましたが、せざるを得ないこともあるのだ、と弁明致します。当たり前ではありますが、でも、聖書の文言の方がずうっと雄弁ですよね? えへ。
 ネブカドネツァルは(晩年に?)発狂した、と伝えられてきました。生涯のどの時点で、というのは不勉強ゆえ知りませんが、それは本章にある「野に迷うて人心を喪失する」、という挿話に基づくものでありましょうか(ダニ4:30)。
 ヴェルディのオペラ《ナブッコ》でも有名な逸話です。〈行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って〉はこのオペラの第3幕で歌われる雄渾な合唱曲であります。優れた合唱能力が問われる、或る意味その合唱団の実力が露骨になるこの曲を手掛かりに、《ナブッコ》を観たり聴いたりしてみるのも良いと思います。ちなみに、これの台本を書いたテミストークレ・ソレーラという二流詩人、ヴェルディのデヴュー作から台本を提供し続けましたけれど、第9作目《アッティラ》を完成させず女房ともどもミラノから失踪(夜逃げ?)した。これをヴェルディは終生、根に持ち続けたそうです。面白いですね。
 でも、ネブカドネツァルの「人心を喪失して野に迷う」様子は、なんとなくではあるけれど、中島敦「山月記」を想起させませんか? それとも、わたくしだけでしょうか? 一言余談ながら、さんさんかは教科書でもお馴染みのこの短編が大好きでした。ちくま文庫の『中島敦全集』全3巻は宝物です。

 「ダニエル書」は読んでいて楽しい。ゆえに長くなってしまうのも仕方がない。
 原稿を短くする努力は惜しまないが、そんな諦めというか開き直りをしつつある、スターバックスでの宵刻でありました。
 帰りに黒ビールでも飲んでいこうかな……。



 SMAPの新曲「Joy!」は良いね!!
 今週の『SMAP×SMAP』が初お披露目。むろん、録画した。今日までのわずかな日数のなかで、いったい何度再生;観て聴いて、を繰り返したことであろうか。
 6月5日がいまから楽しみだ! 2013年上半期いちばんの「JOY」に決定!◆

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第1273日目 〈ダニエル書第3章1/2:〈燃え盛る炉に投げ込まれた三人〉withDVD『吉祥寺の朝比奈くん』を買おうと思います。〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第3章1/2です。

 ダニ3:1-30〈燃え盛る炉に投げ込まれた三人〉
 某年のことである。ネブカドネツァルはバビロン州のドラ平野に、自分を象った金製の大きな像を造らせた。除幕式にて州内の諸国民、諸民族、諸言語を話す人々へ、一つの勅命が出された。――笛や琴などあらゆる楽器によって音楽が奏でられたら、この王の像の前に伏して拝め。これに背いた者は燃え盛る炉へ、ただちに投げこまれる。人々はこの勅命に従った。
 が、ここに囚われのユダヤ人を良く思わない衆がいた。このカルデア人たちは王に進言した。現在バビロン州の行政官を務めているシャドラク、メシャク、アベド・ネゴはかの像の前に伏して拝んでいない、かれらは炉のなかへ投げこまれるべきなのではないか、と。
 これを聞いて王は激怒した。そうして3人のユダヤ人を呼び、事の真偽を問うた。かれらは確かに王の像の前に伏して拝んでいなかった。曰く、われらが燃え盛る炉のなかへ投げこまれようともわれらの仕える唯一の神は必ず救ってくれる、またそうでなくてもわれらは王を象った金の像には伏して拝まない。
 怒りに満ちたネブカドネツァルは3人のユダヤ人を、着の身着のままで炉に投げこませた。その役を担った男たちはたちまちその火に焼かれて死んだ。
 やがて、王は目を瞠った。縛られたまま炉のなかへ落ちていったユダヤ人たちがまだ生きている。更にあろうことか、かれらと共に4人目の姿がそこにあり、火のなかを自由に歩きまわっている。それは王の目に、神の子のように映った。
 王はすぐに3人のユダヤ人を出した。かれらはどこにも傷を負っていない。体も服も焼けたり焦げたりしていなかった。驚愕し、畏怖した王はいった、――
 かれらはわたしの命令に背き、ただ自分たちの神をのみ信じ、依り頼んだ。それゆえにかれらの神は使いを遣わしてかれらを守った。諸人よ、かれらの神を罵るなかれ、罵った者は八つ裂きにされ、その者の家は破壊される。まこと、人間をこのように救える神は他にない。
 ネブカドネツァル王はこのあと、3人のユダヤ人をより高き位に就けた。

 なぜ力によって高位に就いた人は、自分を象った無様な像なんて造ったりするのだろう。――かねがね疑問に思っていました。そんなに権勢を後の世にまで伝えたいのかな。それとも、心が成り上がると形あるものはいつか滅びる、という単純明快なことも忘れてしまうのかな。
 歴史が消滅するはずもあるまいし、かれが行った事績はなんらかの形で後世に(望むと望まざるとに関わらず)残るというのに。それとも、これって現代的な考えでしかなくて、当時の人々には未来なんて存在しないに等しく、自分の業績や権力を形あるものとしなくては不安だったのかしら。
 確かに、敗残国の捕囚が自分の権勢に跪かなかったら、むっ、とするかもしれないけれど、そうした者を発見次第、炉に投げこんで処刑してしまうのは古代世界らしい明快さですね。法律というものはシンプルであればシンプルである程、社会は潤滑に、しかも概ね悪い方向へ運用されるのかもしれない。3人のユダヤ人のこの挿話を読んで、ふと、そう考えたことであります。



 何度かレンタルした映画のDVDを自分用に購入することがありますか? わたくしはあります。ロビン・ウィリアムス主演『いまをいきる』と、オーソン・ウェルズ主演『市民ケーン』と『第三の男』、などがそうですけれど、どれも洋画ばかり。
 でも、今回邦画でそうした嬉しい作品が現れました。それを初めてレンタルして観たのは昨年だし、今年になってもう2回借りています。原作も読んで、ああっ、と嘆息した。握玩の一編となった。この映画ソフトはずっと持っていたい。そう思えた邦画は、この作品が初めてかも。
 映画の題名は『吉祥寺の朝比奈くん』。以前に一度だけ、少しだけ本ブログにて名を出しました。原作;中田永一(祥伝社文庫)、監督;加藤章一、脚本;日向朝子、主演;桐山漣&星野真里、主題歌;斉藤和義〈空に星が綺麗~悲しい吉祥寺~〉、2011年作品。
 これがねぇ……切なすぎるんですよ、わたくしにとってはね。だからこそ、ラストの未来を予感させる台詞のやり取り、二人の表情、流れるさわやかで密な空気、透明な井の頭公園の雑木林の光景、すべてが喜ばしいのだ。このシーンが観たいから何度も借りてしまっていたのかもしれないな……。こんな幕切れだったら良かったのに。
 これ程愛おしく思える映画と出会えることなんて、人生にそうそうないと思います。
 「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリ一13:13 新共同訳新約聖書に拠る)◆

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第1272日目 〈ダニエル書第2章:〈巨大な像の夢〉with素朴かつ答えの出ない疑問を弄ぶ。〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第2章です。

 ダニ2:1-49〈巨大な像の夢〉
 バビロニア王ネブカドネツァルは夜毎同じ夢を見て、却って不安になった。即位して2年目、前604年のことであり、アッシリアが完全に命脈を絶たれてバビロニアがオリエントの覇者となった時期である。王は勅命を出して、国中の占い師や賢者たちを集めた。
 かれらを前にして王はいった。わたしの見る夢の解釈をせよ。しかし賢者たちは一人として、王の求めに応じられなかった。というのも王は、自分の見た夢についてなにもかれらへ知らせなかったからである。
 夢解きができるならば、見た夢がどんなものであったか教えずともわかるはずだ。王の言葉に賢者たち皆は押し黙った。ネブカドネツァル王は、国中の賢者たちを処刑せよ、と勅命を出した。むろん、ダニエルたちも例外ではなかった。
 侍従長アヨルクにダニエルは勅命の理由を訊いた。アヨルクは答えて、事情を説明した。思慮深きダニエルはしばしの猶予をもらうと、3人の友どちに事の次第を打ち明けて、自分は天の神、即ちイスラエルの神なる主へ憐れみを願った。すると、その晩、幻によって秘密が明かされた。
 ダニエルは神に感謝した。然る後、侍従長アヨルクの許へ赴き、王の御前に召してくれるよう頼んだ。アヨルクはそうした。夢の解釈を求めるばかりの王に向かってダニエルはいった、──
 バビロニア王ネブカドネツァルよ、あなたがご覧になった夢には、圧倒的な輝きを放つ巨大な像が出ていました。それは王のおん前に立っておられる。その像は頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿は青銅、脛(すね)と足の一部が鉄、足の他の部分が陶土で出来ています。人力によらず切り出された一塊の石が、その像の足を砕きました。体の残りは大地に倒れ、欠片となり、風に散りました。石はやがて大きな山となり、それは全地へ広がってゆきました。
 では、この夢の意味についてお話しします。これは列強諸国が興っては滅び、その後に神による永遠統治が始まる、ということでございます。純金は陛下の国即ちこのバビロニア、銀はこの国より劣り、青銅は全地を支配し、鉄はすべてを破壊しますが、陶土が混ざっているからやがては分裂します。鉄と陶土の国は婚姻によって交じり合いますが、一つになることはありません。
 王よ、この夢はたしかに実現します。いまわたくしが申し上げました通りに。
──と、ダニエルはいった。
 これにネブカドネツァルはたじろぎ、頽(くずお)れ、嗟嘆し、ダニエルの神を尊んだ。
 この功績によってダニエルはバビロン全州を治めることになり、賢者たちの上に立つ長官となった。また、かれの計らいによって、かれの3人の友どちもバビロン州の行政官になった。

 ネブカドネツァル王の夢に登場した像の各部について補えば、──
 純金;新バニロニア帝国、
 銀;ペルシア帝国、
 青銅;メディア王国、
 鉄;ギリシア王国、
 陶土;(ギリシア王国分裂後の)プトレマイオス朝とセレコウス朝、
を、それぞれ示す由。そうして山から切り出されて像を砕いた一塊の石は、即ち神の御力である、と。
 余談ですが、本書に於いては可能な限り、聖書からの引用はなくして、なるべく本文のみですべてを語ることを目標にしています。それが完全に可能となったとき、本ブログ原稿はこれまでよりずっと良いものになるような気がしています。



 両親の結婚記念日であるのを昼頃まで忘れていたさんさんかです。昨日に続いて夕食を作ったのは、なんというか、せめてもの感謝と罪滅ぼしですかね。
 ここ数日、おぐゆーさんとショスタコーヴィチ絡みの古い記事が、軒並みアクセス数を上げている。なぜなのだろう。村上春樹はわかるのだが……。誰が読んでいるのだろう? ご本人方? まさかぁ。
 そんな素朴かつ答えの出ない疑問を弄びもした、<昭和の日>てふ休日でありました。◆

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第1271日目 〈ダニエル書第1章:〈バビロンの宮廷でのダニエル〉withサメ肉でムニエルを作りました。〉 [ダニエル書]

 ダニエル書第1章です。

 ダニ1:1-20〈バビロンの宮廷でのダニエル〉
 エジプトのファラオ・ネコによってエホヤキム改めヨヤキムが南王国ユダの王となった。その御代3年目に東方より一つの大国が迫った。ネブカドネツァルを王とする新バビロニア帝国である。かれらは瞬く間に王都エルサレムを攻略した。
 多くの宝物が奪われ、貴族や官僚が捕虜となった。バビロニア軍は戦利品を携え、捕虜を連れて、自分たちの都バビロンへ帰った。前606年のことである。捕虜は後の時代に<第一次バビロン捕囚>と呼ばれた。本書の主人公ダニエルがエルサレムからバビロンへ移ったのはこの時である。

 故郷を遠く離れて敵地へ連れてこられたダニエル少年は、およそ何事にも有職に、心うるわしくある一人に選ばれ、ネブカドネツァル王の命令に従ってカルデア人の言葉と文書を学び、宮廷にて飲食される肉類と酒が与えられた。3年の養成機関が明けたら王に仕えるのである。
 が、ダニエルは3人の友どちと共に、供される食事を拒んだ。異郷の民が口にする物で自分を汚すまい、としたからである。かれはその旨、侍従長アシュベナズへ訴えた。神の計らいによって恵みと慈しみを得たダニエルを侍従長は好ましく思い、親しうしていた。
 訴えるダニエルに侍従長がいった、食事は王ご自身が決められたことである、従わなければ儂の首が飛ぶ、と。
 そこでダニエルは、自分たちの世話をしてくれている人に頼んだ。試しに、と、ダニエルはいった。試しに10日間、ぼくたちには肉と酒ではなく、野菜と水だけを与えてください、それを続けて10日後にぼくたちと他の人たちの顔色を較べてみてください、どうかその上で判断してお気に召すままにしてください、と。
 世話人がダニエルの申し出通りにしてみたところ、果たしてかれらの顔色は、10日にわたって酒と肉を摂った人々よりも却って良かった。そこでダニエルたちには野菜と水が与えられ続けた。
 ――こうして3年の養成機関が明けた。選ばれた人皆がネブカドネツァル王の前に召された。特にダニエルと3人の友どちは優れており、王の頼みとなった。なかでもダニエルは夢や幻を説く能力に長けていた。かれは新バビロニア帝国滅びて後もメディア王国、アケメネス朝ペルシア帝国で重用され、キュロス王の元年まで仕えた。

 なお、ダニエルの3人の友どちの名は、それぞれ、ハナンヤ(シャドラク)、ミシャエル(メシャク)、アザルヤ(アベド・ネゴ)といった。()内はバビロニアでの名前である。ダニエルはベルテシャツァルといった。「王の命を守り給え」という意味である。かれら4人はみなユダ族の出身であった。
 ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ、ダニエルは王の抱える占い師や賢者たちより10倍も優れていた。

 誰某の何年目、という記述がこれからも出てきます。前606年に第一次バビロン捕囚があったのは事実ですが、この年、まだネブカドネツァルは即位していませんでした。かれが新バビロニアの帝位に就くのはこの翌年、或いは翌々年であります。
 「ダニエル書」にはこんな年代表記の錯綜が見られます。本ブログに於いてもその都度、可能な限りで指摘してゆく予定でいます。
 背景となる歴史情報を込みで書いていたら、こんな文章になりました。久々に一巻の書物全体が歴史と直接リンクしてゆく内容なので、どうかその点はご理解いただきたく存じます。今後もこんな風な原稿になってゆくはずです。



 サメが手に入ったので、今日(昨日ですか)の夕食は久々のムニエル。バターとオリーブオイルで、弱火でじっくり焼きました。付け合わせはジャガイモとキノコとタマネギ。
 うむ、サメの肉って美味いですね。思うたよりさっぱりしておる。結構量もあったはずなのに、全然もたれない。初めて食べたけれど、この美味さは病みつきになりますね。
 今度またサメ肉が手に入ったら、煮付けかフライですな。刺身がいちばんだけれど、素人だから臭いが残りそうで……(他の魚で刺身を作ったら残ってしまったんだよね)。◆

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第1270日目 〈「ダニエル書」前夜〉 [ダニエル書]

 ダニエルは第1回バビロン捕囚のとき、バビロンへ連行されてきたユダヤ人の一人です。当時はまだ少年であった、と推測されます。捕囚として連行されてきたバビロニアでかれはその優秀さ、明晰ぶりを買われて宮廷に仕え、帝国滅びて後もメディア王国、アケメネス朝ペルシア帝国の官僚として活動しました。第6,9章に名の出るメディア人ダレイオスは、キュロス2世の血統から王位を簒奪したダレイオス1世である、といいます。記述に齟齬がでるのは承知で、本ブログもそれにいちおう従おうと思います。これについては、第6章で改めて取り挙げるつもりです。
 ダニエルは旧約聖書の各書物に固有名詞を冠せられた人物のなかでも長命が確認できる人の一人。お気附きの方もあるかもしれませんが、ダニエルはエレミヤ、エゼキエル、エズラ、ネヘミヤ、エステルたちと重なる時代を生き、エレミヤを除く4人とはとても近しい地域(場所)で生きていた人物であります。
 「ダニエル書」はかれが示した数々の夢や不思議の解読と殉教、かれが見た幻について語られる。われらが読んできた預言書の主人公、即ちイザヤ、エレミヤ、エゼキエルのような預言者とは同列に扱い難いダニエル。というのも、全12章より成る本書を通読してみても、かれが前の3人のような預言者としての活動も言行も認められないからであります。通読程度ながら「ダニエル書」を読み終えたいま、顧みて考えれば、幻視者という表現も間違っているように思います。夢占い師の側面を持った賢者、とも考えましたが、どこまで実像に迫れているか、心許ない限りであります。「聖なる神の霊を宿している」、「特別な霊の力があって、知識と才能に富み、夢の解釈、謎解き、難問の説明などがよくできる人」(ダニ5:11,12)というベルシャツァル王妃の台詞をそのまま引用するのが、いちばん無難なようであります。
 「ダニエル書」は2つのパートに分けられます。第1部が第1-6章、第2部が第7-12章であります。まず、バビロニア王ネブカドネツァルの見た夢の解釈とベルシャツァル王の御前にて壁に書かれた文字の解釈と解読が語られ(第2,4,5章)、メディア人ダレイオスの御代に官僚の奸計によって獅子の洞窟へ投獄されたダニエルが如何にして生還し得たか(第6章)、また、ダニエルと共にバビロニアへ任官した3人のユダヤ人が火焔の燃え盛る炉から如何にして生還し得たか(第3章)、を語る前半が第1部。後半はかれが仕えた諸王の御代に見た幻とイスラエルが罪から真に回復する期間、その終焉について語られる。ここはいわば黙示文学に属し、ちょっと先走って申しあげてしまうと、4つの世界帝国(バビロニア、メディア、ペルシア、ギリシア)の支配のあとに神の国による永遠統治の時代が訪れる、という啓示が塗りこめられております。
 なお、第12章にはセレコウス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスによる、エルサレムのヘレニズム化とユダヤ人弾圧をきっかけとするマカバイ戦争の勃発が暗に語られております。マカバイ戦争については旧約聖書続編「マカバイ記」2巻で述べられています。本ブログもそこへ辿り着いたときにこの戦争のことを考えてみたいと思います。
 本書の成立年代については、わたくしが四の五のいうよりも、お馴染みジークフリート・ヘルマンの言をそっくり引いた方が話は早い。曰く、――
 「(『ダニエル書』は)アンティオコス4世が支配する時の事件に近づくにつれ、記述はいっそう具体的となる。それゆえ、この書の年代は比較的正確に言うことができる。著者は前167年に、エルサレム神殿にギリシアの祭儀が導入されたことを知っている。そのときゼウス・オリュンポスのための祭壇が築かれた。しかし彼はアンティオコスの死(前164年)について何も知っていない。
 それゆえ、ダニエル書は早ければ前2世紀の60年代の半ばに、おそらく168年と164年の間に成立したと考えられる。もちろん後代の加筆なり補充なりがある。個々の物語と年代記載の由来は、場合によってはもっと古く、あるいは古い前例にならっていることがあろう。これは特に、ペルシア時代に伝承が遡りうる1-6章についてあてはまる。だがこれ以上確実なことは何も言えない。」(『聖書ガイドブック』P143 泉治典・訳 教文館)
 ――では、明日から「ダニエル書」を読んでゆきましょう。◆

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