第3609日目 〈〈喪のプロセス〉に異常を来さぬように──清水加奈子『死別後シンドローム』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 正直なところをいえば、またこうしてブログを書く日が、ううん、ちがうな、文章を書けるようになる日が自分に訪れるとは、思いもしなかった。こんな日が来た、そんな気になった、と云うことは、すこしは自分のなかで悲しみが癒えて、日常に立ち帰る準備が出来てきた、ということかしらん。──その一助となっているに相違ない、一冊の本がある。
 ちかごろ寝しなに、精神を安定させるためという目的あって、清水加奈子『死別後シンドローム』(2020/08 時事通信社)を読んでいます。大切な人をなくして残された人たちが如何にして喪のプロセスを経験してゆくか、それがどのように終わるのか、著者が治療現場で経験したケースも紹介しながら解説した良書。母が亡くなる2ヶ月くらい前かな、その頃に買って、全然読めずに(手を伸ばすことが出来ずに)その日まで机上にあった本でした。
 人の死は悲しい出来事で、それが親しい人、大切な人、であればなかなかその現実を受け入れられず、時として〈喪のプロセス〉に異常を来してしまうこともある……。自分はどうかな、と母の遺影ある部屋で読みながら考えると、著者いうところの「遷延性悲嘆症」(死別後シンドローム)に見事該当することを発見して、咨……と嗟嘆、嘆息、そうして共鳴。
 清水の本を横に置いて、〈喪のプロセス〉を段階別に記したい。研究者によって段階の分類はまちまちであるが、概ね下記のような5段階を辿るのが通例。即ち、

 1;ショック期
 2;感情の暴走期
 3;抑うつ期
 4;受け入れ期
 5;立ち直り期

 「ショック期」は突然の出来事に事態を受け入れられず、亡くなったことを「事実」として認められなかったり、感情が湧いてこない(涙が出ないなど)、時に記憶の一時的喪失を生んだり、現実世界を生きているという実感を損なう。「感情の麻痺状態であり、生物が危機的状況から身を守る最も初歩の防衛手段」(P36)である。
 「感情の暴走期」はショック期と異なりあらゆる感情(悲しみ、怒り、不安や心細さ、淋しい、やるせなさ、など)が自分のなかに湧き起こり、亡くなったのは自分のせいではあるまいか、もっとなにかをしてあげられなかったのか、という自責の念が生まれる。故人の夢を見て慰められたり、逆に悪夢を見ることもある。「信頼できる誰かに思いを打ち明けたいという気持ちと同時に、どうせ誰にもこの思いは理解されないだろうし、大切な思いを逆なでされたくもないから、誰にも会わず引きこもっていたいという気持ちとの間を揺れ動く」(P37)のも、この時期の特徴。
 「抑うつ期」は感情の暴走が一段落もしくは同時並行している頃、また葬儀など社会的喪の作業が一段落した頃に襲ってくる。いい換えれば亡くなったあとの告別式や火葬、親類縁者や近所の方々との付き合いが一段落して自分一人になったとき、故人を思い出して、改めてその人がいないことの現実を突きつけられる。様々な感情の燻りを感じつつ、絶望や空虚感、誰にも会いたくない、なにをする気にもなれない、といった心境になる時期。但し、これは次の「受け入れ期」「立ち直り期」に至るための大切なプロセス、土壌均しの時期でもある。
 「受け入れ期」は感情の暴走にも抑うつにも疲れ、仕方なしに(否応なく)その人が亡くなったことを受け入れてゆく時期である。「何度も何度も同じことを考え、同じ感情にもう十分だというほど苦しみ、もがき続けていると、ふとしたことがきっかけで心に日が差すときがやってくる。たくさんの感情、息の詰まるような鬱屈した覆いの充満していた心の中に、わずかに隙間が生まれてきて、受け入れの準備ができるのだ」(P38-9)という。心の回復を促す時期もである、と著者は述べる。
 「立ち直り期」は文字通りの時期であるが、亡くなった人との新たな関係の構築が完了する時期をも指す。自分が「立ち直り期」に至ったか、一つの指標として、感情に揺さぶられず激情に流されることもなく亡くなった人の抱えていた想いや共に過ごした日々を回想できる、その人の写った写真や大切にしていた品物に触れることができる、といったことを著者は挙げる。死者となった大切な人との世界を心中新たに作るのが、「立ち直り」といえるか。「適切な距離を取りながらも、死者とともに生きているのだという感覚を覚えることとも言えるかもしれない。同時に、新たな現実世界を生きる意欲や希望が湧いてくる時期でもある」(P40)

 ここで、そういえば……と思うたことがある。思い出したことがある。以前読んで、母逝去後に再び、今度は真剣に読み始めた立花隆『死はこわくない』(文春文庫 2018/07)に、〈死に至る過程〉を図式化したページがあったのを、思い出したのだ。
 典拠は、エリザベス・キューブラー・ロスという人の著書『死ぬ瞬間』。このキューブラー・ロスが〈死に至る過程〉を、やはり5段階に分けている。内容には立ち入らぬが、第1段階では「衝撃」と「否認」があり、第2段階へ差しかかる頃に「怒り」が生まれ、「取引」が併存して第3段階に至り、第4段階に入る時期には「抑鬱」を経験してそれが進行するに伴い「受容」が己のなかに生じて、第5段階では「虚脱」を抱き、死の時を迎える、というのだ。「取引」とは、「(死という)『避けられない結果』を先に延ばすべくなんとか交渉しようとする段階」(P140)だ。
 不謹慎ながら、面白い、と思うた。遺族が経験する死別後シンドローム(遷延性悲嘆症)のプロセスと、死にゆく当人が体験するという死への抗いと許容のプロセスが近似しているのは、どうしたわけか。やはり〈死〉という誰もが避けられぬ宿命を媒介として、死者と生者は同じように拒絶で始まり許容で終わるというのは、どうも偶然とかでは片附けられないように思える。
 今日、病院の帰りに本屋さんへ寄って、キューブラー・ロスの著書を買ってきた(『死ぬ瞬間 死とその過程について』鈴木晶・訳 中公文庫 2001/01初版・2020/01改版)。まだこれに取り組む程の知見はないけれど、いつかがっつり取り組んで、自分なりに考えたことを文章にできたら良い。

 それでは話を「遷延性悲嘆症」(死別後シンドローム)に戻して、──
 ──顧みていまの自分が、どの段階にいるのか、定かでない。というのも、〈喪のプロセス〉はかならずしも上記のように、ベルトコンベア式に流れてゆくわけではなく、それぞれの時期を行ったり来たりして過程を踏んで進むからだ。
 というよりも自分の体験を元にしていうならば、ショック期の最初期と立ち直り期の最後期は別にして、すべての時期のすべての感情の揺れ動きは常に坩堝のようにして、その人のなかに湧き起こり渦巻いて、渾然一体となりつつ前に進んでいっているように思う。……それでも敢えて自らの立ち位置を考察すれば、まァ、「感情の暴走期」と「抑うつ期」の間で揺れ続けているのかな、という自覚はなんとなくある。思い当たるフシも、幾つだってある。
 なにをする気にもなれず、誰と会う気も起きず(会わねばならぬ人、出掛けなくてはならぬ場所は別として、それ以外の人と会うために出掛けるのは極力避けたい)、それでもなにかをしていないと負の想いに搦め捕られて奈落の底まで突き落とされてしまうので、むりやり体を動かしている。けれど、常に空虚感や喪失感は、自分のすぐ隣にある。
 正直なところ、わたくしは心をなくしてしまったように思う。誰であっても会話は表面上のものでしかなく、必要に応じて作る笑顔はあくまで演技に過ぎず、パフォーマンスの一環のようにしか(わがこと乍ら)思えない。

 読みながら、確信した。本書は救いの書であり、支えの1冊であり、遷延性悲嘆症から立ち直ったあとまでも繰り返し読むだろう回復のための書である、と。世のなかにあるどんな書物にも、それだけの役割を求めることはできません。
 自分の抱えている問題、知らず体験している症候について、感じるのではなく理解することでいま自分がいる場所を把握し、立ち直る力を獲得するきっかけを与えてくれる本を読むことが、死別後シンドロームに囚われていつまでも立ち止まったままな生き地獄状態から抜け出す、健全なる第一歩であるようにも思い、また、斯く信じる部分もある。
 まだまだ哀しみは続き、ともすればそれに囚われて正気を失いかけることもあるのでしょうが、それでも「前を向く」ために本書が与えてくれた/投げかけてくれた、ヒントや気づきを心のなかで反芻して生きてゆくことはできると思うのです。◆


死別後シンドローム ー大切な人を亡くしたあとの心と体の病いー

死別後シンドローム ー大切な人を亡くしたあとの心と体の病いー

  • 作者: 清水 加奈子
  • 出版社/メーカー: 時事通信社
  • 発売日: 2020/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)





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