第1083日目 〈『失われた時を求めて』の続刊が刊行される日を、首を長くして待っていることについて。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくし自身の考えにより、田山花袋『温泉めぐり』を読了後にドストエフスキーへ戻る予定であったが、それは10日ばかりずらすこととして代わりに同じ花袋の代表作『田舎教師』(新潮文庫)を片附けてしまうことにしました。
 文庫がそこにあって、読むことを欲しているのにそれへ顧みないのは精神衛生上、良くないことだ。ならばいっそのこと、あと2週間弱予定をずらして、花袋を読んでしまい、後ろ髪引くものがない状態でドストエフスキーに戻るべきだ、と判断したのであります。
 これってアリ?(新垣結衣風に)



 さて、ところで。プルーストの『失われた時を求めて』が岩波文庫と光文社古典新訳文庫の両方から同じ時期に刊行され始めましたが、現時点で続刊が出ているのは岩波文庫版のみ。すこぶる不安な気持ちにさせられます。訳文を書店の店頭で、図書館の蔵書で検分し、断を下して光文社の方を購入し、続刊を鶴首して待つ者でありましたが、この判断が果たして正しかったのか、と、不安にさせられるのであります。
 むろん、まだ手を着けていないので、そういう意味で実害はないのだが、完結はいつになるのか、岩波文庫版より何年も遅れて光文社の方が完結、などという目も当てられない事態に遭遇するのだけは、なんとしても避けたいだけの話である。こう考えると、既に完結しているものを大枚叩いて大人買いするのも賢い選択肢であろう。が、それらの訳文はわたくしの好みではない。大人買いする価値はない、という意味でもある。あくまで個人の意見であるのをご了承願いたい。
 が、古典としての地位を確立した海外文学なんて、けっきょくはそんなものではないか。邦訳が複数あってそれらが入手可能な状況であるならば、迷って迷って迷い抜くのが当然だ。『嵐が丘』とシャーロック・ホームズ・シリーズを除けば、わたくしの手許に複数の翻訳がある海外小説がどれだけあるだろうか、と小首を傾げてみても、すぐにそれとこれとあれと……、という風には思い付くことができない。訳者買いの部分も多少はある『グレート・ギャツビー』と『ライ麦畑でつかまえて』の新訳を別として、好む幻想文学の翻訳が複数ある程度だ。これを当然と頷くべきか、愛が足りないとの叱咤を待つべきか、正直自分にはわかりかねている。
 ドストエフスキーの『白痴』を再読するにあたって河出文庫の新訳で仕切り直すか、しばらく迷ったけれど、生まれたばかりで経年による試練も経ていない訳文で全編を読むことに不安を感じたがために、それに手を出すことは断念した。しかし、『白痴』に限らず今世紀になって出されたドストエフスキー作品の新訳を読んだ人の感想を、ネット書店のコメントや掲示板であたる限りでいえば、新潮文庫やちくま書房の小沼文彦訳を持っているならば急いで手を出す必要はなく、また日本語としてもぎこちない部分が目立つ箇所が散見される、という。わたくしは最初からそれらへ手を出すつもりがなかったから、結果的に散財を防いで、新潮文庫に自分の匂いを移して読んだ。岩波文庫や角川文庫に重なる作品はあると雖も、ロシア文学の翻訳は一部の例外を除いて新潮文庫に頼るのが、もっとも賢明なように思える。
 プルーストの場合でいえば第一巻、殊に件のマドレーヌの描写を中心に幾度も読み比べてようやく光文社古典新訳文庫に軍配を上げたのですが、嗚呼、これがどうか焦りと不安から生み出された杞憂であることを切に祈りたい。とはいえ、このプルーストを読むタイミングをどうしようか、と、続刊が出たら出たで新たな悩みが生じることを、わたくしは自身のことゆえよく知っている。全14巻を一気読み? そんなことはしたくない。これだけの長編を一時(いちどき)に読むことが嫌だ、というのではなく、いつになったら完結するかわからないものを待ってあたら時間を無駄にしたくないだけの話である。確かに、<狐>はこれを「時間をゆっくり失いながら」読む作品だ、と評したけれど、それはあくまで完結した大長編小説に対する言である。
 さっき、仕事の帰りに『ダ・ヴィンチ』誌を立ち読みしてきたが、『失われた時を求めて』第2巻がわれらの手に届く日は、まだまだしばらく先のことであるようだ。まあ、新しい巻が出るまで、気長に待つより他はなさそうである。sigh.
 ……それとも、岩波文庫版も買っちゃおうかな……?◆

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