第1752日目1/2 〈シラ書第33章2/2:〈財産〉&〈召し使い〉with中間作業は省略されるか?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第33章2/2です。

 シラ33:20-24〈財産〉
 たとい相手が親しい人であったり、また妻や息子であったとしても、あなたの上に権力を振りかざすような真似を許すな。
 同じように、かれらに対して自分の財産を元気なうちに譲ったり、奪われるようなことを許すな。健康なうちに財産を譲ると、あとでかならず悔やまれて、それを取り戻したくなるからだ。
 財産を譲るべき時、それはあなたが臨終を迎えて息を引き取る時である。
 「お前の内に命があり、息があるかぎり、/だれに対しても、自分の生き方を変えるな。」(シラ33:21)

 シラ33:25-33〈召し使い〉
 人には相応の役割がある。召使いにはパンと躾と仕事を与えよ。厳しく躾けて働かせろ。
 召使いの手を休めさせると、かれらは自由を要求してくる。身の程をわきまえよ、というのはかれらの立場を知らしめることでもある。怠けたりしないようにたっぷりと仕事を与えよ。怠惰は悪行に染まる最初の一歩だ。
 が、かといって召使いを奴隷のように扱ってはならない。かれらに代わりの者はなく、あなたがかれらを躾けて仕事を与えているから、かれらは自分の仕事をこなすことができる。かれらが日々の仕事を粛々とこなしているから、あなたはなにに煩わされることなく日々を送り、自分の仕事や役割を果たすことができているのだ。
 「彼にふさわしい仕事を受け持たせよ。/命じたとおりにしないなら、足枷を重くせよ。/しかし、だれに対しても厳しくしすぎてはならない。/不当な仕打ちは決してするな。」(シラ33:30)
 あなたに召使いがいるなら、兄弟のように扱え。あなたにはかれらが必要なのだから。あなたがかれらを奴隷のように扱い、かれらが逃げ出してしまったら、あなたはいったいどこを歩いてかれらを探すつもりなのか。

 息あるうちは自分で、自分の財産を管理せよ。召使いを雇うなら飴と鞭を使い分けよ。──財産については、ふむ、と思いこそすれ、召使いについてあまり感慨を持たぬはウッドハウス他のお陰かもしれぬ。
 残念ながらわたくしは執事やメイドに傅かれて生活したことがない。執事やメイド、いわゆる召使いと称される人々の具体的な像はフィクションを通して醸造され、どうしてもそうした実態からは懸け離れた様子の<物語の登場人物>が先に思い出されてしまうのだ。もっと困るのは、かれらがとてもアクの強い人たちであること。そのイメージを拭う作業はとても困難で、はたしていつになったらそうした人たちの実像に迫ることができるのやら、と溜め息を吐いてしまう。
 が、そうしたイメージはミステリやコミック、映画で築かれたものゆえ、いま書きながら念頭にあったのも必然的に19世紀末から20世紀初頭の大英帝国のそれである。そうしていまここで話題に上すべきは紀元前、ユダヤ人社会での召使いと主人の関係性であり、かれらの間にあった契約や日々の労働である。
 聖書を読んできて、家の主人が召使いに命じて食事を用意させたとか酒宴の準備をさせたとか、そんな類の記述は多く見てきた。断片的ながら主従の関係に触れた箇所はあったかもしれない。が、それについて本章のように具体的に、実際的に説いた箇所はなかったのではないか。これは、機会を見て聖書を読み直してゆく際のポイントの一つとなりそうだ。
 ──しかし、主従の関係について説く本章を読んでいて、ウッドハウス創始するところのジーヴスを、セイヤーズ女史描くところのバンターを、或いは東山篤哉生み出すところの影山を思うて仕方なかったのは、果たして世界にわたくし一人ではない、と思うのだが……。そうして、かれらの主人たるウースターとピーター卿、宝生麗子のあまりのずっこけぶりを思い出して、くすくす笑い出してしまったのは?



 何年ぶりかでノートを作る作業を経ずに直接パソコンで原稿を作成した。要するに、Macでは初めてのこと、というわけですね。これが日常的にできれば良いのだけれど、それができれば苦労はしないさ。中身の詰まった缶詰を投げるな、これが本音なのだ。
 が、終日家にいるようなとき、このやり方は最適である。そんな日は原稿を書くのが億劫になることがある。読まねば書かねばMacせねば、と思うてもなかなか重い腰があがらない。けっして面倒臭い、というわけではないが……正直、そんな日は休みが続けば、1日や2日はある。
 ノートを執るというのはかならず必要な作業ではない。必ずしも自分はアナクロな作業を経ないとパソコンに向かえない、というわけでもない。第一、そんなことをしていたら仕事に差し支えるではないか。いったい会社にいては1日何万字を入力していると思うておるのだ。
 では、どうしてこれまでノートを執る、という中間作業を行っていたのか。そうして今後も続くと朧に思うておるのか。──一言でいうてしまえば、それは習慣でしかない。習慣とはだらだらと継続されてゆくものである。改めるべき習慣があっても、簡単に改められはしない。それができたら、この世から<悪習>と呼ばれるものは疾うに一掃されていますよ。
 まぁ、今後は必要と判断したら躊躇せずに中間作業を省略してゆくことも行ってゆきましょう。それを、前向きに検討してみましょう。……なんだか他人事みたいな言い方ですね。えへ。◆

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