第2016日目 〈ヨハネによる福音書第9章:〈生まれつきの盲人をいやす〉、〈ファリサイ派の人々、事情を調べる〉&〈ファリサイ派の人々の罪〉〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第9章です。

 ヨハ9:1-12〈生まれつきの盲人をいやす〉
 神殿をあとにしたイエスは1人の盲人と行き会った。弟子たちがかれを指して、この人の目が見えないのはかれか両親かが罪を犯したからでしょうか、と訊いたのでイエスは答えた。誰の罪によるものではない、神の業がこの人に現れるためだ。イエスは続けた、──
 「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(ヨハ9:4-5)
 そうしてイエスはその場にしゃがみこむと、地面に唾し、唾した土をこねるとそれを盲人の目に塗った。シロアムの池に行って目を洗いなさい。そうイエスがいったので、かれはその通りにした。すると、目が見えるようになった。
 ──かれの目が見えないことを知っている人々が、どうして目が見えるようになったのか、と訊いたので、かれはイエスが自分に行い、いったことを教えた。人々はイエスの居場所を知りたがったが、かれは知らなかった。

 ヨハ9:13-34〈ファリサイ派の人々、事情を調べる〉
 このことを聞いたファリサイ派の人々は、さっそくその人を連れて来させて事情を調べた。
 ──イエスがこのことを行ったのは安息日であった──
 ファリサイ派の人々がかれに、お前はその者を何物と思うか、と問うた。かつての盲人はイエスを指して、預言者です、と答えた。
 一方でファリサイ派の人々はかれの両親をも呼び出して、お前の息子は生まれつき目が見えなかったのか、どうしていまは見えるようになっているのか事情を知っているか、と問うた。両親は目が見えないのは生まれつきだが、どうしていま目が見えているのかまでは知りません、息子もいい大人なのですから本人に訊いてみてください、と答えた。というのも、この頃既にユダヤ人たちは、イエスはメシアだ、と公言する者は会堂から追放する(共同体からの除名/排除と同義)ことを決めていたからだ。両親はそれゆえ息子に訊いてほしい、というたのだった。
 そこでファリサイ派の人々はもう一度、かれらの息子を呼び出して、神の前で正直に答えよ、われらはあの者が罪人だと知っている、といった。かつての盲人は答えた、──
 「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(ヨハ9:25)
 ファリサイ派の人々がイエスについて再び問うと、かれは、それについては既に答えました、どうしてそんなに知りたがるのです、あなた方もあの方の弟子になりたいのですか、と逆に訊ねた。ファリサイ派の人々が憤り、われらはモーセの弟子だ、われらはあの者がどこから来たのか知らない、というと、このかつての盲人は答えて曰く、──
 「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(ヨハ9:30-33)
 ……ファリサイ派の人々は呆れ、かつ更に憤って、かれを罪ある者と呼んで外へ追い出した。

 ヨハ9:35-41〈ファリサイ派の人々の罪〉
 ──かつての盲人とイエスは再び会った。その折、イエスは訊いた。あなたは人の子を信じるか。
 かつての盲人は首肯し、主よ、その人はどういう人でしょう、わたしはその人を信じたいのです、といった。
 イエスは答えた。あなたはもう人の子を見ている。わたしである。
 主よ、わたしはあなたを信じます、とかつての盲人は跪いた。
 イエスはいった。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハ9:39)
 ──ファリサイ派の人々がそれを聞いて、ではわれらも見えないのか、とイエスに問うた。
 イエスはいった、──
 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハ9:41)

 イエスについての問答の主役は、結局はイエスを信じぬ、単なるトリック・スタートしか見ぬユダヤ人とイエス本人から、ファリサイ派とイエスの癒やしの業を経験してかれを信じるようになった一ユダヤ人に移った。
 やはり揺らがぬ想いの強さを感じる。どれ程相手が高圧的になろうとも信心と信念のある者はそこから一歩も退かない。本章は通読する限り、十字架の場面を除けば最も緊迫感のあるところと思う。両者の信じるところが一歩も退くことなくぶつかり合ったためであろう。
 ヨハ9:30、あなた方(ファリサイ派)があの方を知らないとはふしぎです、とかつての盲人がいうのは、勿論皮肉である。あれだけ聖書を読んでいるにもかかわらず、メシアとして預言されてきて、いま現実にこの世にいるあの方の存在を知らないのですか、あなた方ファリサイ派はいったい聖書のなにを読んでいるのですか、という皮肉と揶揄。
 いや、厳しい、厳しい。イエス以外の者がここまでファリサイ派を嘲笑した場面があるというだけでも、本章は記憶し、語るに値する章だ。

 本日の旧約聖書続編はヨハ9:6とトビ11:12-13。◆

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